もしもし、そこの加蓮さん。 (307)



むかし、むかし。
ある病室に、一人の女の子が寝込んでいました。


SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1587809543


御伽噺の主人公こと北条加蓮ちゃんのSSです


http://i.imgur.com/BN4lYgx.jpg
http://i.imgur.com/Red2Prh.jpg

過去作とか
神崎蘭子「大好きっ!!」 ( 神崎蘭子「大好きっ!!」 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1472300122/) )
北条加蓮「正座」 ( http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1409924975 )
モバP「加蓮、ちょっと今いいか?」 ( http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1557581366 )


以前頒布した本の内容へ加筆修正を施したものです
若干の宗教的な要素を含みます



 【Ⅰ】パステルクリーム


クリーム色の中を行き交う、薄いブルーとピンク。
それが彼女――北条加蓮の世界でした。


少し前までは入院する度に眉をひそめていた、
つんと鼻を突くような薬品の混じり合った匂いも、
いつからかすっかりと慣れてしまいました。

同室の患者達の家族がお見舞いに来たり、看護師の巡回だったりを除けば、
病室というのはなかなか静かなもので。
加蓮はこの居場所を、彼女の家族が慮る程には嫌っていません。

いえ。むしろ、小学校の同級生の中には、
悪戯ばかり繰り返す男子や、口さが無く噂を騙り続ける女子も混じっていましたから、
気分によっては病室の方が落ち着ける日まであったくらいです。
ベッドの上でいいこにしている限りは、同室の患者達も、看護師さんも、
もちろん家族も優しくしてくれます。


第一、加蓮はひとり遊びの奥深さをよく心得ていたのです。

入院の度にカードを買い直すのも大変だからと、
サイドテーブルには持ち込みを認めてもらった携帯型テレビがイヤホン付きで置いてあります。
作り付けのキャビネットの中には、ローティーン向けのファッション雑誌に、
母から譲ってもらったヘアブラシ。
お小遣いを貯めてようやく買えた、小学生が使うにしては驚くほど上等なネイル用品一式。

それから――大量の本。


今日の加蓮は爪をお手入れしたい気分のようでした。
エタノールを吸わせたガーゼでささくれや甘皮を取り除いた後、
一本ずつ丁寧にヤスリで爪を整えていきます。

何せ時間ならたっぷりと有りますから、それはもう丁寧な仕事そのものです。
再び爪を綺麗に拭き上げ、ベースコートをぺたり、ぺたり。


さて、ここからが本番です。
一つ深呼吸をして、縁取りを意識しながらカラーを。
しっかりと、しかし素早く真っ直ぐに。

右手の親指まで全て塗り終えたら、最後の仕上げのトップコート。
ちょっときらきらし過ぎかな、と加蓮自身思ったりしないでもない、薄いラメ入りのものです。

再び丁寧な仕事を繰り返して、小さなネイリストは鼻を鳴らします。
まだしばらく乾燥させなければいけませんが、ひとまずの完成を誇るように、
彼女は両手をまっすぐ前へ伸ばしました。


白く小さな両手を彩る、ミントグリーンの指先。
病室を包むパステルクリームの壁紙に、十本の宝物はとても映えていて。


 「うん。よくできた」


彼女の満足気な呟きに、相槌を打つ人は居ませんでした。


 ◇ ◇ ◆


 『じゃあ、自己紹介から』

 『ひゃいっ』

 『うーん緊張の塊だねぇ』


日高舞が表舞台から姿を消して、五年と少し。

いっときは冷凍庫の隅っこみたいに冷え切っていたアイドル業界も、
ようやく春の兆しが見え始めた頃でした。
長い長い冬の時代を経て、丹念な手入れを怠らなかった土から、
幾つもの輝きが芽吹こうとしていた、新緑の季節。

小さな画面の中でマイクを手に並び立つ三人の少女達は、
たぶん実際の背丈以上に小さく見えてしまいます。
繋いだイヤホンの具合を確かめ直し、加蓮は携帯テレビのボリュームをほんの少し上げました。


夕食から消灯までの時間、世間一般で呼ぶ所のゴールデンタイムを、
加蓮は日課のテレビ鑑賞に充てていました。
昼下がりに流れる、どこかの国の誰かが出演する何かの映画もそれはそれで好きでしたが、
やはりこの時間の番組の方が多少なりとも華やかです。

今夜視聴するのも毎週お馴染みの音楽番組。
時たまアイドルが出演する度に、加蓮はボリュームのツマミをほんの少しだけ捻るのでした。


 『いってみましょう。曲紹介を』

 『はいっ! 聴いてください。私達のデビューシングル――』

少女達が位置に付くとスタジオの照明が絞られます。
続けて鮮やかな色彩のライトがこれでもかと浴びせられて、ポップなメロディが流れ出しました。
実に健康的な、長い手脚をいっぱいに振り回して、少女達は唄います。

加蓮はふと、陽も落ちてすっかりと暮れた窓の外を眺め、
そこに映っていたベッドの上の自分を目にし、首を振ってから小さな画面へと視線を戻しました。


 『――ありがとうございましたっ!』

三人が声を揃えてお辞儀をします。
上げた額に流れる汗が鮮烈な照明に輝いて、加蓮はびくりと身体を震わせました。
司会者から振られる話に、肩で息を繰り返しながら辿々しく相槌を打つ姿が、
加蓮には何だか急に底知れぬもののように感じられたのです。


出番を終えた少女達がスタジオの中央を譲るのを見届けて、
加蓮は携帯テレビの電源をかちりと切りました。
その瞬間に賑やかな音は途絶え、ちょうど吹いていった秋風が窓ガラスをかたかたと鳴らします。

そこに映っているだろう姿を見たくなくて、加蓮は頭から布団を被りました。
ふわり膨らんだ空間から空気が抜けていって、やがて布団が心地良くのし掛かってきます。


いいな。


そう呟こうとして、実際に口は動いて、けれど言葉にはなりませんでした。


 ◇ ◇ ◆


 「どうして身体、弱いのかな」


零れ落ちたような言葉に、両親は動きを止めました。
これまで問われる事の無かった、
おそらくは娘自身の優しさでずっと押し込められていた痛みに、
父も母も今、向き合わなければなりませんでした。

 「俺のせいだよ」

すぐに父がそう言って、母は何か言いたげな瞳を彼に向けるだけしか出来ませんでした。
はっとしたように加蓮は短く息を吐き、何度も首を振りました。

 「嘘だよ」


二人は、何も言えません。


 「お父さんも、お母さんも、悪くないもん。悪く、ないよ」

両親は顔を見合わせてから、少しだけ困ったように、笑いました。


加蓮は今よりもずっと小さな昔から、負けず嫌いで、頑固な所がありました。
道端でごてんと転んでも痛くないと嘯いて、
涙をぼろぼろと零しながらしゃくり上げるような子供だったのです。
一度決めたら、加蓮は譲りませんでした。


負い目と、親としての立場と、尊重と、ある種の残酷さと、それから優しさと。
幾つもの感情が二人の中で混ざり合い。


母は、きっと伝えるべきではない言葉を選んでしまいました。



 「――神様の悪戯、かもしれないわね」


 「…………かみさま」


テンノカミサマの言う通り。


加蓮の脳裏で、ある種の決まり文句が踊ります。
咀嚼するように加蓮がもう一度、カミサマ、と呟きました。

 「……ふぅん」

少し首を傾げてから、差し入れのフィナンシェをもふり。
満足気に顔を綻ばせる娘を見て、二人はようやく肩の力を抜きました。


ですが加蓮は、やはり負けず嫌いでした。


何度目かの退院を果たすと、加蓮は足繁く図書館へと通うようになりました。
以前から読書に費やす時間は多かった彼女ですが、今回はそれに輪を掛けて。
学校のお勉強よりもよっぽど熱が入っています。


要するに、その神様って奴をやっつけてやればいいんだ。


出発点となるその発想から既に彼女らしさの塊でした。
うっすらとではありますが、孫子の兵法をも学んでいた加蓮は、
まず神様の弱点について調べてやる事にしたのです。


小学生とって、いえ、そもそも大人にとっても、
『神』の概念を理解するのは決して容易ではありません。

しかしそこは日頃より書に慣れ親しんできた彼女の事。
図書館で棚を引っ繰り返し始めたその日の内に、
神とは宗教なる概念に根ざす存在である事実を突き止めてしまいます。

尻尾を踏んづけてしまえばもう彼女のもの。
続け様に彼女は三大宗教―
―合わせて四十億人以上の信徒を数える、キリスト教、イスラーム教、ヒンドゥー教―
―の存在を知りました。
そして、それぞれの宗教には教典と呼ばれる教科書があるらしいという情報も。


ここからは一筋縄ではいきません。
バイブルもコーランもヴェーダも、
原典に近付こうとすればするほど、その解釈は困難になってゆきます。

幾ら何でも原典を読み下すのは無理がありますから、
大人向けに分かりやすく抽出された解説書を読んではみたものの、
やはり小学生の加蓮に完全な理解は出来ませんでした。


それでも彼女は神様に一泡吹かせてやる為に、
塩の柱になってしまった女性の話や、
私財を擲つ行為の尊さ、
生まれ変わったとて拭いきれぬ業。
それらを一つ一つ丁寧に読み解き続けたのです。


とは言え、小学生は小学生。集中力が続く時間にも限度があります。
コラムとして紹介されていたハノイの塔のスケールに目を回すと、
インド風俗の解説書を閉じ、今度は勉強机の上に山と積んでいた文庫本をめくりました。

以前から折を見ては読み耽っていた星新一の作品群。
手に取ったのはその中でも評価の高い一冊、『ようこそ地球さん』でした。


読書慣れさえしていれば幼い子供にも親しめる星新一の書を、加蓮もまた楽しんでいました。
彼の作品にはとにかく博士や泥棒や天使や悪魔や宇宙人や未来人などなどが登場するので有名ですが、
今回は神様と天使達の出番でした。

 「っふ、ふふ……」

天使などという清らかな響きとは裏腹に、
彼らは過酷な競争社会へと放り込まれてしまったようです。


せっせと魂を天へ導くため、
殺し屋を見繕ったり、
夢の中で効果の見込まれぬコマーシャルを打ったり、
はたまた住宅街を営業マンのごとく巡回したり。

おおよそ一般の天使像とはかけ離れた彼ら彼女らに、加蓮も思わず失笑を零してしまいます。


短い物語でしたから、読了までには五分と掛かりませんでした。
最後に再び登場した神様の二枚舌に鼻を鳴らし、加蓮は閉じた本を山の上に積み戻します。
学習椅子を背で軋ませつつ、踏んづけられた猫みたいな声を出しながら大きく伸びをして、
それからぱたりと机に顔を伏せました。
緩やかに横へ向けた視線の先には、宗教や民俗学の本が山と積まれていて。


加蓮は聡い娘でしたから、もうとっくに分かってはいたのです。
ただの少女である加蓮に神へ挑む術など無く、弱点がどうこうの話なんかではないのだと。
生来の負けず嫌いが顔を出して、結論を先に先に延ばしていただけなのだと。

細い溜息を吐き、加蓮はようやく負けを認めました。
そして同時に、一つの結論を良く晴れた青空へと放り投げてやったのです。


神様というのは、実にイケ好かない奴だと。

続きはまた明日の夜に


 【Ⅱ】クランク・イン


夕礼を終えたその瞬間に教室内の騒音は最高潮へと達しました。
椅子を勢い良く引く音と友人を呼ぶ声と鞄を引っ掴む音が重なり合い、
無秩序な自由が教室を満たしていきます。

 「かれーん」



 「んー?」

 「カラオケ行かない? ごっちとナベさんもいっしょー」

 「んー……ん……今日はいいや。なんかノらないんでパス」

 「うぃ。あそこのハニトーおいしいのに」

 「ポテトはしなっしなだけどね」

 「やっぱそこかい……あ、もう来たごめん。いてくる」

 「いてらー。また誘って」

駆けてゆく友人の背にひらひらと手を振り、
加蓮はしばらく携帯電話をいじっていました。


室内から人の波が消え、
残るのがどこからか持って来た将棋盤を囲む三人の男子生徒だけになった頃にようやく、
加蓮はよっこらしょと腰を上げます。


 ◇ ◇ ◆


実際、加蓮は上手くやっていました。


高校に入って一ヶ月と少し。
ゴールデンウィークを終え、級友達がそれぞれのコミュニティを築きつつある中、
加蓮もまた馬の合う友を得て、ようやく人心地の付いた頃。

幸いにしてと言うべきか、クラス内に中学校の同級生―
―つまり、加蓮のこれまでについて知る者―
―は居ません。

最も、彼女はそういう学校をわざわざ選んで受験したのですが。


ひとつ、級友達に彼女の印象を尋ねたとしましょう。

多くは口を揃えて「けっこーノリの良いやつ」と答えるでしょうし、
何人かの女子は「よく体育サボってるやつ」と答えるでしょうし、
ほとんどの男子は「付き合いたい」という本音をそっと胸の内へ隠すに違いありません。

加蓮は、加蓮自らの努力によって、今の居場所を手に入れたのです。


今日の彼女は何だか薄ぼんやりとしていて、
いつもなら校門を出て十秒後には耳へ差し込んでいるイヤホンを取り出す様子もありません。
しばらく駅へ向かって歩いた所でようやくその存在を思い出すと、
鞄の中に手を突っ込んで、それから小さく溜息をつきました。

 「……よし」

こんな気分の日は映画に限ります。
以前に何かの記念で貰った割引券の期限を確かめてみれば、
ちょうど本日、この日限りでした。

これはもう観るしかないなと頷き、彼女の足取りは少しだけ軽やかさを取り戻しました。
駅へ向けていたつま先をくるり九十度曲げ、手慣れた様子で渋谷の街を抜けていきます。

薄汚れた裏通りの坂道を何度か曲がり、辿り着いたのはコンクリートの塊。
打ちっぱなしとはこの建物の為にある言葉だと称賛したくなるような、
いっそ潔いほど無骨な外観を誇るミニシアターでした。


加蓮に映画の好き嫌いはありません。
魔法ファンタジーだって、ミステリアニメだって、SFアクションだって観ます。
ただ、彼女にとって、
劇場まで足を運び鑑賞する『映画』は少しだけ違う意味合いを持っていました。

 「学生一枚。割引で」


気まぐれで足を運んだに過ぎませんが、到着したのは上映開始時刻の十五分前。
なかなか良いタイミングじゃん、と少し気分を良くした加蓮は、
カフェで買ういつものアイスコーヒーをSサイズからMサイズに代えて、
ふかふかの青い椅子にぽんと腰掛けました。
まだ映画も始まってすらいないのに、思わず上機嫌な吐息まで漏れてしまいます。


映画は加蓮お気に入りの娯楽であり、またリラクゼーションでもありました。
読書も映画も空想への没入を楽しむという点では似通っていますが、
最大の違いは能動的であるか否か。

自身の指で頁を手繰り、何かあれば栞を挟む事も可能な読書。
椅子に座ればブザーと共に問答無用で流し込まれる映画。

ある意味で一方的とも言える体験が、加蓮はときどき無性に恋しくなってしまうのです。


映画は加蓮に自由を与えてくれました。
だって上映中は、自分が主人公になる必要も、ヒロインになる必要もありませんから。
それらはスクリーンに映る役者達が肩代わりしてくれますし、
自分はただただ、傍観者であればよいのです。


まばらな客は誰も加蓮の事など見ていませんでした。
大手のシネコンであればどうしたって紛れ込んでしまう無粋な客も、
夕暮れ前のミニシアターにまでは忍び込んで来られません。
心地良い孤独がアイスコーヒーを少し美味しくしてくれます。

開始時刻の三分前になり、
ぐんと絞られた照明が北条加蓮を何処かの誰かに限り無く近付けてくれます。
三分の一くらいしか減らせなかったアイスコーヒーを肘掛けのホルダーに収めると、
彼女は入れっぱなしだった携帯電話の電源を切りました。


さぁ、今日の映画はどんなのだろう。


映画を観ようと思い立ってからこのミニシアターに到着するまで、
どんな作品が上映中なのか、彼女は調べてなどいませんでした。
チケット売り場の前に立ち、二つあるスクリーンのどちらにしようか十数秒だけ逡巡して。
それで何となく選んだ方に、今こうして座っているという訳です。

映画好きが聞いたら呆れ返ってしまうような選び方かもしれません。
でもこれは、あくまで彼女のリラクゼーションですから。


注意喚起の映像が途切れ、絞られていた照明も完全に落ちました。
加蓮は背筋を少しだけ正して、流れ始めたフィルムに意識を傾け始めます。

今日の映画はどうやらサスペンスの様子。
悪くない、と心の中でだけ呟いて、
加蓮はゆっくりと暗闇に意識を溶かし込んでゆきました。


 ◇ ◇ ◆

もう百二十分も経ったのか。

思わず腕時計を確認してしまいそうなくらい良質な、息詰まるサスペンスでした。
エンドロールの一行目が浮き上がってきて、加蓮は知らず肩に入っていた力を抜きました。
そしていつものように目を閉じ、密やかな物音や会話に耳を澄ませます。


映画を観る人は二種類に分けられます。
即ち、エンドロールを見届けるか、否か。

彼女は後者でした。
いえ、目は閉じていますから、見届けてはいないのかもしれませんが、ともかく。

エンドロールの流れるこの時間は加蓮のお気に入りでした。
日常に帰るまでのほんの刹那。
名も顔も知れぬ同好の士に語らずとも別れを告げ、
ゆっくりと北条加蓮を取り戻していく時間が。

薄く目を開けるとエグゼクティブプロデューサーの文字が踊っていて、
どうやらあと数十秒で幕切れのようです。



 「……分からん」


加蓮の椅子から右へ二、三席ほど離れているでしょうか。
若い男性の声が呻くように零れ落ち、加蓮の耳朶を微かに震わせました。

 「あら、何が?」

 「最後。主人公の友達、何で泣いてたんだ? 泣く場面じゃないだろ」

 「居眠りしてた?」

 「いや」

 「中盤でシャワールーム、入ってたでしょ」

 「入ってたけど……あ、あれか。ひょっとして――」

続けてもう一人、若い女性の呟きが重なるように漏れ聞こえてきます。
少し芝居掛かった匂いのする、けれどもひどく耳触りの良い声音でした。
何とは無しに視線を向けた瞬間、橙色の照明が再び灯されて。


男性の肩越しに、少女と目が合いました。


余裕を湛えつつも確かな意思の宿る瞳に、
決して明るくはない照明を妖しく照らし返す唇。
ブレザーさえ着ていなければ舞台女優だと名乗っても通用してしまいそうな、
実に線の整った顔立ちです。

数秒、そのまま視線をぶつけ合い、
金の瞳が瞬いた途端、加蓮は立ち上がってしまいました。


 「……ねぇ、プロデューサーさん――」


椅子の下から掴み出した通学鞄を肩に掛ける余裕すら無いまま、出口へ向けて踵を返します。
ばくん、ばくんと胸がうるさくて堪らなくて、
運動なんてしていない筈なのに、気付けば息は上がっていて。


まだ中身の残っていたアイスコーヒーをゴミ箱の中へ叩き付けてミニシアターを飛び出すと、
ちょうど街灯たちも目覚め始めるところでした。
熱を持った脚はまだ止まる気配も無く、そのまま一ブロック、二ブロック。
風俗街を抜け出してようやく、加蓮はその場にへたり込みました。


 「は、ぁっ……はぁ、っ……」

頭が冷えてきたところで、
なぜ自分が逃げ出してしまったのか、加蓮には分かりませんでした。

気まずかったから?
眩し過ぎたから?
急過ぎたから?
みじめになったから?

それらしい理由を頭の中に思い浮かぶまま並べ立ててみれば、
案外どれも正しいような気がしてきてしまいます。


――主人公みたいだったから?


ふと浮かんだ一言に、これまでの仮説は音も無く崩れ去っていきました。


あぁ、そうだ。彼女はきっと、主人公だったのだ。


何の根拠も無い決め付けに、
加蓮は自分でもびっくりしてしまうほど自然に、納得してしまうのでした。


彼女は主人公で、アタシはただの北条加蓮だから。
彼女の物語に、アタシが紛れ込んでもいい道理なんて無いんだ。


自分勝手なシナリオが、次々と積み上がってゆきます。

 「……帰ろ」

ようやく整ってきた息を確かめる、
ブロック塀を擦るようにして、加蓮はゆっくりと立ち上がりました。
微かに震えていた膝をぺちんと叩くと、
ちょうど傍を通りかかったビジネスマンが怪訝そうな視線を向けてきて、はっと目を逸らします。

肩の鞄を背負い直し、しばらく切っていた携帯電話の電源をオンにします。
友人から楽しげなカラオケ大会の写真が送られてきていました。


何か返信をしようと構えた指がそのまま固まってしまって、
加蓮は携帯電話をポケットにしまい込むのでした。


 ◇ ◇ ◆


ポテト全サイズ百五十円。


終業の挨拶とほぼ同時に携帯電話の画面上にポップアップしたその広告は、
稲妻と化して加蓮の脳天へ勢い良く突き刺さりました。

奇しくも帰りにポテろうかなとぼんやり考えていた矢先の出来事です。
もはや加蓮の歩みを止める事など誰にも叶いません。
友人からの言葉に自分でも何だかよく分かっていない生返事を投げ返しつつ、
机の中身を物凄く無造作に鞄へ放り込んでいきます。


加蓮はアイスとポテトと甘いココアを愛する女の子でした。
健康に悪い物ほど美味しい。彼女はそう信じて止みません。
女の子として最低限のラインを―
―この場合はもっぱらウェストラインを指しますが―
―守りつつも、楽しむ時はとことん楽しんでやろうと、
そう割り切れる女の子だったのです、彼女は。

もちろん、彼女は高校生になったばかりですから、
お小遣いにはどうしたって限りがあります。

ただ、最近は映画の方も何となくご無沙汰でしたし、
財布は夏の陽射しへ張り合うかのように熱を溜め込んでいます。


ポケットの中の小さなエンジンに釣られるかの如く。
上機嫌な加蓮の足取りは、
愚直なほどまっすぐにハンバーガーチェーン店へと吸い込まれてゆくのでした。


 「いらっしゃいませー」

 「ポテトのL……と……コーラのS一つ、で」

 「かしこまりました」

一瞬。
ほんの一瞬だけ、Lサイズを二つ頼んじゃおうかなと、些細な冒険心がぷくりと膨らみました。
もちろん、お母さんには「夕ごはん少なめでお願い」と事前のメールを送ってはあります。
心置き無くポテトを堪能するための一工夫です。

しかし、Lサイズ二つは加蓮にとっても未踏の領域。
探検隊に他のメンバーも名を連ねているならばともかくとして、
隊長ただ一人の現状では蛮勇でしかありません。


 「お待たせしましたー」

先ほど聞こえてきた電子音で期待はしていました。
予想は見事に的中し、ポテトは揚げたてホヤホヤのサックサクのようです。
これには加蓮もホクホクの表情を知らず浮かべてしまいます。


トレイを持ち上げて二階席へ上がろうとすると、
ビジネスマンらしきスーツ姿の男性が勢い良く店内に転がり込んで来ました。


 「ん?」

 「未だに会えないんだけど、速水さん。避けられてる?」

 「たまたまだと思うけど。アポ取ってみようか?」

 「別に、そこまではいいけどさ」

 「気になるの?」

 「ま、ね。色々と話してみたい事もあるし」


辿り着く先も知れぬ階段、その一歩目を踏み出させた主犯格。

加蓮の中で速水奏はそんな立ち位置に収まっていました。
あの日交わした視線の意味を、加蓮は未だ飲み込めずにいます。

 「そのうち捕まえる」

 「そうか」


考えるべき事は山積していました。
ライブに、中間考査に、ご贔屓メーカーの新作コスメ。

疲労の詰まった頭の隅へと追いやられていたそれらを引っ張り出しながら、
彼女は心地良い揺れに身を委ねるのでした。


 ◇ ◇ ◆


 「……よし」

残心を切り上げ、スポーツウェアの裾で汗を拭うと、
三脚に据え付けたビデオカメラを操作する父の所へと戻ります。

既に陽も暮れ、街灯だけが頼りとなる公園でしたが、
父は今の時代に珍しいホームビデオ愛好家でしたから、
高精度のセンサーを積んだフラッグシップモデルは、
暗夜の闇の中でも愛娘の姿をバッチリと捉えていました。

 「ご希望通り、脇から角度を付けて撮ってあるよ」

 「ありがと。へぇ……けっこう印象違うなー」


レッスンも無く面倒な宿題も課されていない夜、
加蓮は自宅から三分ほど歩いた所にある公園で自主レッスンを重ねています。
こっそり家を抜け出そうとしたその初日にあっさりと露見し咎められてから、
父はこうして毎回ビデオカメラを携えて同行してくれるようになりました。


拍子抜けする程すぐにアイドル活動を認めてくれた両親の事ですので、
初めから頼めば全面的にバックアップしてくれた事でしょう。
ただ、父もお仕事で疲れているでしょうから、
そんな時に更に負担を掛けるような真似は気が引けて。


なんて理屈はもちろん建前でした。
加蓮もやはり年頃の女の子ですから、幾ら良好な関係を築いているとはいえども、
親に隠れてやりたい事の一つや九つはありますし、
何より秘密の特訓という古式ゆかしい響きに、加蓮はずっとずっと憧れを懐き続けてきたのです。

もっとも、一人娘の親心がそれを許してくれる筈もありませんでしたが。

 「もう一回通す?」

 「んー……」

地べたに座って腿の外側広筋を伸ばしながら、加蓮は考えを巡らせました。

 「お父さんはさ」

 「うん?」

 「どうしてアイドル、やらせてくれるの?」


今度は父が思案する番でした。
彼方を見つめながら口元に手をやる癖は、妻が身籠ったのを機に煙を断ってからも、
どうやら染み付いて剥がれないようです。

 「父親としては、本音を言うならやらせたくないよ」

 「だろうね」

 「ただ、親としての気持ちが勝った」

 「親の……?」

 「なぁ、加蓮。加蓮は、何かを調べ回って……いや。何かをずっと、探し続けてただろう」


あまりにびっくりしたものですから、
加蓮は筋肉を伸ばし過ぎてしまって、慌てて逆方向に力を逃しました。


親というのは実に不思議なもので、
本人すら知らないような答えを、いつの間にか懐にしまい込んでいたりするのです。

加蓮が見つめる前で、
かつてはキャスターを放り込んでいた胸ポケットから短い言葉を取り出して、
弄ぶように掌を揉み合わせました。

 「見つかるといいなって、思っただけさ」


自分の全てを暴かれてしまったようで、加蓮の頭に血が昇ってきます。
訳も分からないまま込み上がってきた言葉をぶつけようとして、
声帯が震える直前でどうにか唇を引き結びました。

秋の夜風が汗に湿った肌を撫でていきます。
赤熱していた感情が冷水へ突っ込まれたみたいにすうっと冷えて、
それから父と視線をぶつけ合いました。

恐らくはこの夜が、娘ではなく、北条加蓮として父と向き合った初めての瞬間でした。


 「ライブ、来てよ」

 「ああ。もう有給取ったよ。当日と翌日で二日分」

 「はしゃぎ倒す気満々じゃん」

 「だって文字通りの晴れ舞台だし」


親というのは実に不思議なもので、時として本人以上に胸を弾ませたりもするのです。
張り切った様子でカメラをセットし直す父に、愛娘は小さく苦笑を零すしかありませんでした。


 ◇ ◇ ◆


 「久しぶり」

 「……あら」


一夜城でした。

ステージ上に組まれたお城のセットも、
今は電源の繋がれていない大型モニターも、
ただ開演の刻を待ちながら眠りこけているかのようです。

ホールのそこかしこでは音響や照明担当のスタッフが忙しなく行き交っていて、
それが舞踏会の開幕を告げるカウントダウンのように感じられて。
きっとこうした業界に興味の無い誰かが紛れ込んだとしても、少しは心を踊らせるに違いありません。

メインステージの一段下、フロア席の最前列に当たる一角で、
加蓮は探し求めていた背中にようやく追いつきました。


 「逢いたかった。恋い焦がれてたわ」

 「ほんとにー?」

 「ええ。嘘は苦手なの」


奏の悪戯っぽく崩した表情へ、加蓮は確かにアイドルを感じ取りました。
相も変わらず、薄暗闇の中でも舞台女優のように映える綺麗な顔が、
寝息を立てるお城を優しく見守っています。

 「加蓮、って呼んでも?」

 「かの字同士ご自由に、奏」



 「……?」

 「ん? 何?」

 「加蓮。あなた、変な娘ね」

 「えー……?」

二人が見守る前で次々とステージ照明が灯ってゆきます。
スタッフの掛け声に合わせて端から端まで順にチェックを終えると、
今度はスポットライトのテストが始まりました。
奏が視線を振り、形の良い唇をきゅっと曲げます。


 「それで、何か私に言いたい事があるんじゃないかしら」

 「それそれ」

ぽん、と音を立てるように、加蓮がわざとらしく拳で掌を叩きます。

 「色々考えてきたんだよね。
  自己紹介とか、いちおー感謝とか、好きな映画ジャンル談義とか、アドレス教えてとか」

 「盛り沢山ね」

 「でも、多分さ、必ずしもそういうのは必要じゃないって思うんだ。アタシ達って」

小首を傾げて続きを促す彼女の所作。
ただそれだけでイヤになるほど決まっていて、けれど加蓮は臆しませんでした。
真っ直ぐに、奏の胸を指差します。


 「ライブで語るから」


余裕を湛えていた奏の眉が、半月を描くように丸みを帯びました。


 「……どう? どうっ? 今のアタシ、すっごい格好良くなかった?」

不敵な笑みは見る間に得意気なそれへとすり替わっていました。
はしゃぐ加蓮を目の当たりにして小さく口を開けると、
奏は微笑みながら自身へと差し出された右手を取りました。


キスを一つ。


伸ばされた人差し指をフルートみたいに啄まれて、
加蓮は一瞬何が起こったのか把握しきれませんでした。
ようやく脳が事態を処理し終える頃にはもう、奏は踵を返していて。


 「――ええ。惚れちゃいそうなくらい」


それだけ呟くと、彼女は何処かへと姿を消しました。
一方の加蓮はそのままの姿勢で十秒たっぷり固まって、
それからおそるおそる伸ばした指を確かめます。

まだ温度の残っているような気がしてならないそこには、メイクさんによるものではない、
恐らくは自前のルージュが薄く爪痕を刻み付けているのでした。

 「……変な娘」

加蓮が呟きました。


残念ながら、この事務所は変な娘たちが大半を占めていました。


 ◇ ◇ ◆

これまで開催されてきたライブの一曲目は、
例外無く出演者全員参加の『お願い! シンデレラ』でした。

今回もその慣例に倣う事にはなりましたが、
今宵開催されるのは盛大な、盛大な舞踏会。
出演者全員を一度に踊らせるのは物理的限界により不可能です。


途中入れ替えを行うA案と、選抜メンバーに託すB案。

二つの案が検討された結果、B案が採用されたのは加蓮にとって僥倖でした。
センターである愛梨の脇を加蓮などライブ初出演組が固め、
両端の中堅アイドルが全体をサポート。
初陣にしては破格の待遇と言えるでしょう。


人数が人数ですから、加蓮がソロで唄えるのはただの一節だけ。
それでもソロパートを唄える事の意味を彼女は正しく理解していました。
僅か三秒足らずのアピールポイントを確保する為に、
プロデューサーが手を尽くしてくれただろう事も。


 「五分前です。皆さん、衣装のチェックはしっかりと」

 『はいっ!』

 「良いお返事です。担当さん方、後は任せますよ」


ステージ袖に通じるドア。
その前の通路に集った選抜メンバー達が、それぞれの担当プロデューサーと最終チェックを行います。

今回のアニバーサリーライブの為に用意された新たな衣装、”スターリースカイ・ブライト”。
新たなる舞台へ立つ少女達を祝福するように輝くドレスです。


加蓮が前に立つと、彼は指先で宙をくるりと二度、かき回しました。
衣装を纏った加蓮がゆっくりと左右にターンを繰り返し、彼は小さく頷きました。

 「なんか上手い事言おうと思ったが、思い付かなかった」



 「それいま言う?」

 「ギリギリまで粘ったんだぞ」

力の入れ所を完全に間違えてるような気がして、加蓮は小さく鼻を鳴らしました。


 「ともかく」

 「はいはい」

 「一段目だ。転んだって膝を擦り剥くぐらいで済む」

 「二分前です。舞踏会、楽しんできてくださいね」

ちひろが丁寧にドアを開きました。


 「駆け上がれ」


真っ直ぐに突き出された握り拳を、加蓮はじっと見つめます。
順にドアへ吸い込まれていくみんなを横目で見送ると、加蓮は突き出された拳にパーを返して。


呆気に取られる彼へ軽く手を振りながら、加蓮はドアの向こうへ踏み出しました。


 ◇ ◇ ◆


暗い。


ドア一枚を隔てると、
あれだけ明るかった通路の照明が嘘のように沈んだ空間が待ち構えていました。
僅かに使われている照明も、辛うじて足元や手元を照らすためのものだけです。

次いで、空調でも吹き飛ばせない熱気が肌を撫で、
暑くて堪らない筈なのに、加蓮は身体を震わせてしまいます。


 「楽しみましょう」

誰かが呟くと同時、かちり、と時計の音が聞こえました。
十回続き、二十回続き、三十回目が刻まれた瞬間、メロディが流れ始めます。


何百回と聴いた旋律を、また身体へと馴染ませるように。


ヘッドセットの位置を確かめて、長く長く息を吸いました。



 『――お願い! シンデレラ』

 『夢は夢で終われない』

 『動き始めてる――』



 『――輝く日の為に!』



 『お願い!シンデレラ』
 http://www.youtube.com/watch?v=gMYXKtE9Kwg


踏み出した脚があんまりにも軽過ぎたものですから、
加蓮は思わず笑い出してしまいました。

お腹の奥から声を響かせ、
袖から飛び出した勢いのままに手を振り。


そして、一面に広がる三色の海を目の当たりにしたのです。


加蓮は一度も海を泳いだ経験がありませんでした。
安全なプールでぱちゃぱちゃと戯れるのが関の山で、
時たま連れて行ってもらう旅行先で目にする大海原にも、
何だか人の手には余るような途方も無さを感じてしまって、
泳いでみたいという衝動が湧いてきません。


でも、初めて目にする輝きの海には、いっそ溺れてしまいたいとさえ思いました。


 『エヴリデイ、どんなときもキュートハート、持ってたい』


手も脚もしっかり伸びています。
表情は自然に笑みが浮かんでしまいます。
振り付けだって練習通りのバッチリ満点です。

でも加蓮は、自分がいま何をしているのか、よく分かりませんでした。
みんなが一節ずつ唄い上げる度、胸の鼓動が一段と早鐘を打って。


 『お願い! シンデレラ――』


あぁ。
わざわざ鐘を打つなんて、シンデレラらしくもない。


胸の内の呟きへ、加蓮はその上から手を当てました。


 「――夢は夢で終われない!」


 ◇ ◇ ◆

愛梨のMCが一段落すると、トップバッターを務める茜を残し、
他のメンバーはステージの左右へとハケてゆきます。
お姫様のようにみんなお揃いで裾をつまむと、客席から小さく笑いが漏れました。

短い階段を降り、全員が客席から見えなくなると、みんなは手を叩き合いました。
決して大きな音が鳴らないように。

 「フフン! 滑り出しはまずまず順調といったところでしょう!」

 「やー、ソロ歌詞飛びそうやったわ。一言だけなのにねぇ?」

 「あっはは★ 大成功だし結果オーライ、オーライっ!
  あ、加蓮も初ステージおつ……加蓮?」


階段を降りてからも彼女の浮ついた足取りは止まりません。

荒い息のままとことこと歩き続けて、
いつの間にか目の前に迫っていたドアを押し開け、眩い廊下の照明に目を細め、
手元のクリップボードに何かを書き付けていたプロデューサーを確認すると、
壁に背を投げ、ずるずるとその場にへたり込みました。


 「すいません、インカム調子悪かったみたいで。
  何かありましたかね? あぁ、了解です。もう大丈夫です」

涙が涸れ、汗も退き、後は暴れる横隔膜が落ち着くのを待つだけになりました。
膝を抱え込む加蓮の横で、彼は立て掛けておいたクリップボードを再び手に取って、
やっぱり何もしませんでした。

 「加蓮」



 「……ん」

 「キライなものが多いって、前に言ってたよな」

 「ま、ね」

 「昔の自分がキライだったか?」

いざ尋ねられると、果たしてどうなんだろうか、と加蓮は考え込んでしまいます。

>>66
ミス


 「っ! 加蓮っ!」

 「……ぅ……ぁ、ひぐ…………っ」

駆け寄り、肩を揺すろうとした彼の動きが止まります。


加蓮は泣いていました。
今まで堰き止めていた分を一息で吐き出すみたいに、
涙と汗でメイクを台無しにしていました。
白い肌を真っ赤に染め上げながら、年端もゆかぬ子供のように。

苛立ちでも悔しさでもなく、歓喜に涙を流す経験は、
彼女の十六年の生で初めての事でした。


傍で膝をついていた彼は、インカムマイクを外すと加蓮の隣へと座り込みます。
そして、何もしませんでした。

いつだってアイドルの傍に居られるのは、担当プロデューサーの特権でした。


 「すいません、インカム調子悪かったみたいで。
  何かありましたかね? あぁ、了解です。もう大丈夫です」

涙が涸れ、汗も退き、後は暴れる横隔膜が落ち着くのを待つだけになりました。
膝を抱え込む加蓮の横で、彼は立て掛けておいたクリップボードを再び手に取って、
やっぱり何もしませんでした。

 「加蓮」



 「……ん」

 「キライなものが多いって、前に言ってたよな」

 「ま、ね」

 「昔の自分がキライだったか?」

いざ尋ねられると、果たしてどうなんだろうか、と加蓮は考え込んでしまいます。


昔の自分はいつもパジャマを着ていて、
だいたい食欲が無くて、ほとんどじっとしてばかりいました。

でも、ネイルを練習してくれて、髪をアレンジしてくれて、
本を読んでくれて、テレビを見てくれていたのです。
決して悪い事ばかりではありませんでした。

 「ううん」

 「なら、今の自分は?」


しばらく考え込んでから、伏せていた顔を久しぶりに上げました。

試しに隣を見てみればそこにはプロデューサーが居て、
耳を澄ませば歓声が聞こえて、衣装のスカートはふんわりしています。

どうしてか口が動かなかったので、首を左右に振りました。

 「充分。自分を認められる奴は、強いよ」

 「……そ」


 「……どう?」

 「え?」

 「今の俺、めっちゃ格好良い感じの事言えてなかったか?」

びしりと親指を立て、アイドルだったらファンに怒られそうなくらい決まりきっていないウィンク。
目の前にいたアイドルは口を丸く開けると、
怒る気力も絞り出せないまま、徐々に肩を震わせます。


横隔膜は、まだ暴れ足りないようでした。


 「うん。すっごく良い感じに馬鹿だった」

 「馬……おま、言うに事欠いて」

 「まーまー。馬鹿同士仲良くやろーよ。ね?」

 「……何が?」


今度こそ、正真正銘の大笑いで、馬鹿笑いでした。
ばしばしと肩を叩かれ、彼に出来るのは訝しむような視線を返すだけ。


訳も分からぬまま加蓮の抱腹に付き合ってやると、
彼女のツボもようやく満足してくれたようです。

 「はー……ふふっ……ね、プロデューサー」

 「はいはい」

 「ライブ、楽しいね」

 「ああ。馬鹿みたいに楽しいだろ?」

 「根に持っちゃって」

不貞くされたような彼に、加蓮は三度笑みを零しました。

 「アイドルのライブって、こんな感じなんだね」



 「……ん? 加蓮、ちょっと待て」

 「へ?」

 「一応訊くけど、アイドルのライブに来た事はあるんだよな」

 「そりゃそうでしょ。デビューライブなんだから」

 「いやそうじゃなくて……今まで、誰かのライブに、ファンとして、一般参加した事が」

 「無いけど」


今度はプロデューサーが口を丸くする番でした。
腕時計の文字盤を数秒だけ睨み付け、加蓮の手を引いて立ち上がらせます。

 「確かに馬鹿だった! 観た事あると思い込んでた!」

 「ちょ……ちょっと? プロデューサー?」

 「行くぞ! 次の出番までまだある」

 「行くって、何処に?」

 「ライブを観るんだ」

ポケットから彼女の分のIDカードを取り出し、加蓮へと放りました。
事態を把握できないまま関係者席へ急ごうとし、慌てて呼び止められます。

 「加蓮、『そっち』じゃない! 『こっち』だ!」

 「え? だって、向こうは」

困惑する彼女の手を捕まえて、プロデューサーは長い廊下を走り出しました。
ピンヒールを履いたままの加蓮をこれでもかと急かし、
そのまま階段を駆け上がって、スタッフ用の通用口へと辿り着きます。


分厚いドアを開いた途端に大音量が鼓膜を打ちました。
同時に始まった前奏は加蓮にとっても、かなり耳馴染みのあるメロディで。

機材席のスタッフに頭を下げつつ、彼は加蓮を手招きします。
衣装のままやって来た加蓮へ、近くのお客さん達が驚きに目を剥きました。
プロデューサーはそんな彼らに大げさなジェスチャーを返し、
始まるぞ、と告げます。


そのジェスチャーも、慌てて前を向く彼ら彼女らも、加蓮の視界には入っていませんでした。


 『――憧れてた場所を、ただ遠くから見ていた』


ステージの中央に、アイドルが立っていました。



 『S(mile)ING!』
 http://www.youtube.com/watch?v=SKhIL0QyJI8


サイドポニーを揺らし、ふわふわのスカートを翻して。
両手でマイクを握りながら、こちらを見ていました。


錯覚です。
目立つ衣装を着ているとは言え、
薄暗い客席、その後列部に立つ一人を見つけ出すなど出来る訳がありません。
そんな事は数十分前まであの場所に立っていた彼女自身が一番よく理解しています。

けれど、何故だかそう思えてしまうばかりだったのです。


 『スポットライトに』 『Dive!』


周りが一斉にピンクの光を掲げ、加蓮はびくりと身体を震わせました。
興奮と熱気の入り混じった歓声。
一拍遅れてから、コールだ、と気付きました。

気付いたところでどうしようもありませんでした。
続くコールをおろおろと手を泳がせながら見送って、
こうなったらいっそ別に手筒でもいいかと思い切った時、手元が仄かに明るくなりました。
差し出されたピンクのサイリウムに隣を向けば、
彼は自身の分をひらひらと振りつつ、加蓮の掌にそれを握らせてきます。


業務中に何を持ち歩いてるんだとか、
ひょっとして三色とも持ってたりしないだろうなとか、
色々と言ってやりたい事はありました。

それらをぐっと堪え、受け取ったコンサートライトを思いの限り振り上げて。


 「Go!」『もうくじけない!』


卯月は輝いていました。
同時に、彼女をキラキラさせる為の、
この舞台の一部になれた事が、何となく誇らしくも感じられたのです。


それからは会場のうねりへ任せるようにピンクの輝きを振り上げて、
一番では控え目だった声も、二番の途中からは随分と様になっていました。


唄い終えた卯月に喝采が降り注ぎます。

コンサートライトを振りつつ大きな拍手をするのは難しいなと思いながら、
まぁいいかと気にせずライトのグリップをべちべちと叩いている途中でした。
水を差すように彼が加蓮の肩を叩き、
先ほど入ってきたばかりのスタッフ用通用口を掲げた親指で指し示します。

それまでとは打って変わったような蒼の光で照らし出されるステージに後ろ髪を思い切り引かれつつ、
彼女は渋々ながら頷きました。


再び分厚いドアを潜ると、体の芯まで揺らすかのような熱は姿を消し、
静けさが鼓膜を痛めつけます。

 「もう終わり?」

 「この後、城ヶ崎さんのバックダンスあるだろ」

 「そりゃ……そうだけどさ」

 「楽しんでもらえたようで何より。さて……どうだ? 連れ出した意味、分かったか?」

気付けば握りっぱなしだったコンサートライトを見つめました。
グリップ側を彼へと差し出し、頷きます。


 「推しを見つけろって事でしょ」

 「全然違う」

 「冗談だって」

控室へと踵を返し、加蓮はおどけてみせました。

 「卯月、すっごいちっちゃかった」

 「ああ」

 「でも、アイドルだったね」

 「……そこまで感じ取れたなら、もう言う事は無いさ」

小さなライブハウスならともかく、
今夜のような規模の会場ともなれば、必然アイドルとの距離は遠くなります。

事実、ステージ上の卯月を見て、加蓮はその小ささにひどく驚きました。
広大なホールと、その空間を満たす一万の観客達と、ゴテゴテと組み上げられた舞台装置。
彼女とそれらを見比べてしまうと、
圧し潰されてしまいそうなくらいに小さく見えてしまったのです。


けれど、そんなのは最初だけでした。

卯月が手を振る度、卯月が跳ねる度、卯月が笑みを浮かべる度、
彼女の存在感はどんどんと膨らんでいって、
会場を支配しているのはすっかり彼女になっていました。

それが錯覚だったのか魔法だったのか、
まだ胸に渦を巻いている熱が邪魔して、加蓮は答えが出せません。


 「プロデューサー」

 「ん」

 「アタシの曲、早めにお願いね?」

 「ああ。俺も頑張らなくちゃな」


二人はしばらく歩幅を合わせて、微かに響く歓声に耳を澄ませていました。


 ◇ ◇ ◆

 「……ごめん。一箇所トチった」

 「そなの? んー、後で録画観たら分かるかな」

 「ほんと、ごめん」

 「いいって! 初ライブなんだし、ちょっとしたミスなんてかわいいもんでしょ」

 「でも……」

実際、大したミスではありませんでした。
直後にカバーだって出来ていましたし、その後のダンスにも響いてはいません。

ただ、最初の一歩目があまりに上手く行き過ぎたものですから、
必要以上に気に病んでしまうのも致し方無い事でしたが。


 「あー、もうっ! き・り・か・え!
  ほら。後はフィナーレだけなんだし、ゆっくりみんなのライブ観てなって★」

 「美嘉……あの、ありがと」

 「わ。加蓮がアタシにきちんとお礼言うなんて初じゃない?」

 「シツレイな」

 「へへ。そっちのカオのがいーよ★ アタシはもう一曲演るからさ、ちゃーんと観ててよね?」


そのまま次の準備へ向かおうとして、美嘉はぴたりと立ち止まります。

 「そだ。担当さんが終わったら来てくれって言ってたよ」

 「どこに?」

 「あり? 言えば分かるって話だったけど」

 「……ふぅん」

 「っと、時間ヤバ。お先っ!」

美嘉の背中を見送ると、加蓮はステージ袖から再び通路へと舞い戻ります。


彼の居そうな場所は、何となく分かっていました。



 「お疲れ」

 「仕事しなくていいの?」

 「俺のとりあえずの分は終わり。何なら他の手伝いだってしたさ」


関係者席に居たのは彼だけではありませんでした。
何組かのアイドルとプロデューサー達が、
セットリストを確認したり、演出について検討を重ねたり、
ただ単純にはしゃぎ合ったりしています。

ちょうど一曲終えた所だったようで、
ステージ上のフレデリカが客席に向かってキスを飛ばしていました。
黄色い声を上げるファン達を見下ろし、
みんな自分に飛んで来たと思っちゃうんだろうなと、加蓮は何度か深く頷くのでした。

 「加蓮」

 「なに?」

 「もう、こっちが『こっち』だからな」

事も無げに呟いて、彼は加蓮を見つめました。
じっと彼を見つめ返し、またこくりと頷きます。


 「ほら。ここ、ここ。よく見ておいた方がいい」

 「えーと、フレデリカの次は……誰だっけ」

 「すぐ分かる。あの娘は――凄いよ」

言い終わらない内に、ステージを煌々と照らし付けていた照明が極限まで絞られました。
かつん、かつんと、わざとらしい程に緩やかな足音が暗闇の中に響いて、止まります。

ようやく次のナンバーを思い出し、加蓮はそのまま転げ落ちていきそうな勢いで手すりを掴むと、
乗り出すようにしてステージへと視線を注ぎました。


響き出したのは、ともすれば場違いなサウンド。
これまで続いてきたポップスを午睡の夢に変えてしまう、目の醒めるような電子音。
幾筋もの照明が悶えるかの如く明滅し、
主犯格のシルエットを乱雑に切り取っては撒き散らします。

あちこちで揺れていた光は息絶え、
不意に凪いだ海は沈黙を守り、雑音が消えました。


それから照明が正気を取り戻し、慌ててステージを照らし出す中。



 『One, Two, X, X』


速水奏は、微笑を浮かべていました。



 『Hotel Moonside』
 http://www.youtube.com/watch?v=kU5ii7DAyxU

また明日更新します


 ◇ ◇ ◆


 「はい♪ 事故だけはくれぐれも気を付けてくださいね?」

 「すみません。ほんと助かりました」

 「いえいえ。ご飯、忘れないでくださいね? それではごゆっくりー♪」


キーを彼へと託すと、
洒脱な服に身を包んだちひろはご機嫌な様子で市街へと消えて行きました。

もう一度ぐるりと一周しながら装備を確認するプロデューサーのそばで、
加蓮は欧風の街並みをきょろきょろと見渡します。

 「よしオッケー。乗ってくれ」

 「はーい。というか右ハンドルなんだ」

 「左は昔一回乗ってみた事あるが、怖過ぎる」

 「よく見つけたね、右ハンドルのオープンカーなんて」

加蓮が助手席へと乗り込み、
シートベルトをしっかり閉めたのを確認してからサイドブレーキを戻します。
レンタカー屋のガレージに軽快なエンジン音を響き渡らせて、
四人乗りのオープンカーは青空の下へと繰り出しました。


 「ちひろさんが見つけてくれたんだよ。というか、手配まで含めて全部」

 「相変わらず何でも出来るね、ちひろさん」

 「なかなか高くつくけどな……」

 「今回は?」

 「さっき言ってたろ。何か有名らしいレストランでディナー奢り」


市街地には信号が少なく、飛ばす車も見えません。
ローマではローマ人のようにせよ。
路上駐車の陰に気を配りつつ、ゆったりと安全運転で流していきます。

慣れない右側通行に慎重なハンドル捌きで対応し、
ようやく太い道へ出られた彼が強張っていた肩を緩めました。
と、同時に、急に静かになっていた加蓮に気付きます。


助手席で、加蓮は何とも形容し難い笑みを浮かべていました。


 「やるじゃん」

 「は?」

 「いいんじゃない? 南の島でひと夏のアヴァンチュールなんてさ」

 「ああ、ちひろさんはそういうの一切無いぞ。マジで。砂粒ほども」



 「え?」

 「めでたくステーキとロブスターをガッツリ奢らされる予定だ」

 「……良かったね」

 「おう、涙が出るくらいな」


交差点を曲がった先の道は、まっすぐに海へと伸びていました。
彼はどこからか取り出したサングラスを無言のまま着用すると、
もう一本を助手席の加蓮へと差し出します。
加蓮もサングラスをそっと掛け、無言のまま行く先の大海原を見つめました。


しょっぱい。


そんな小さな呟きが、海風にさらわれていきます。


 ◇ ◇ ◆

念のため、髪をアップに纏めておきましたし、上着だって一枚羽織ってあります。
ですが彼は飛ばす訳でもなく、海岸沿いの道を法定速度で流すだけ。

加蓮にとって、窓も屋根も無いドライブは、やはり生まれて初めての体験でした。
運転席の彼ほどではありませんが、それなりの上機嫌が顔を覗かせ始めます。

 「それで?」

 「うん?」

 「随分と楽しそうだけど、何でアタシを連れ出したの」

 「あー、そりゃ両方同じ答えになるな」

 「?」

 「ずっと叶えたかったからな」

夫婦らしき男女を乗せたスポーツカーとすれ違う間際、軽くクラクションを鳴らされます。
応えるようにこちらも鳴らし、軽く手を振りました。

 「夢だったんだよ。外国の海岸沿いを、
  助手席に可愛い女の子乗せたオープンカーで走るのがさ」

 「奏でも乗せたらよかったじゃん」

 「悪かったって……アレは……男なら仕方無いんだよ」

 「そうだね。男の子だもんね」

 「ぐぬ……」


彼を言い負かし、加蓮はひとしきり満足しました。
窓枠へ軽く肘を掛け、纏め損ねた毛先を風の妖精に遊ばせてやります。

 「夢だったんだ」


出し抜けに呟いた加蓮へ、彼の視線が続きを促します。

 「水着で、海で泳ぐの」

 「ささやか過ぎやしないか」

 「昔の、ね。ちっちゃな私には、おっきな夢だったの」

サングラスに隠れて、彼の表情はよく伺えませんでした。

 「さっきの質問だけど」

 「ん」

 「答え、もう一つあるな」

 「うん」

 「加蓮とゆっくり、話してみたかったんだ」


唇を結び、加蓮は彼の顔を見つめます。
そして、にっと笑ってみせました。

 「話したかったんだ? 可愛い女の子と」

 「そう言われるとガールズバーみたいだな……」

 「行ったんだ」

 「行ってない……行ったっていいだろ別に」

 「お話くらい幾らでもしてあげるよ? 三十分につきアイスかポテトいっこね」

 「そりゃ財布に優しくて助かるよ……」

加蓮に比べればやや苦味の混じった彼の笑み。
それが彼女お気に入りの表情なのを、当の本人は知る由もありません。

 「俺はまだ、加蓮の事をほとんど知らないんだ。
  誕生日と、趣味と、好きな食べ物と、スリーサイズくらいしか」

 「割と充分じゃない……? いいけどさ」

ハンドルを握り直し、今度は彼から口を開きました。

 「イヤだったら、話さなくてもいい」

 「うん」

 「身体が弱かった、ってのは前に聞いたけど……相当だったのか?」


 「ま、ね。幼稚園とか小学校の頃は病院を行ったり来たりだったし。
  生まれたばっかの頃とか、何か赤ちゃん用の機械に入れられてたらしいし」

 「それは……相当だな」

 「遺伝性の呼吸器系でさ。お母さんが抱えてたみたい」

 「親御さんもか」

 「大人になってから発症したお陰で、お母さんは結構すぐ治ったんだって。
  でもアタシ、小さかったからさ。強い薬もなかなか使えなくて……結構長引いちゃったんだよね」


語る内に、鋭い痛みが胸を刺しました。

忘れられたくとも忘れられない、人生で最悪の一言。
子供ながらに言い放つべきではなかったとすぐに理解して、
けれどもう取り戻す事の叶わなかった呪いの言葉。

幻痛に上着の胸元をぎゅうっと握り締めます。
隣のプロデューサーは迷うように目線を送り、けれどどうする事も出来ません。

 「……すまない」

 「ううん。いつかは知る事だったし」

加蓮が軽く答える一方で、彼は沈痛の面持ちを浮かべていました。
頬を軽く掻きながら、彼女は努めて明るい声音を出します。


 「だからホラ、ウチの親ってアタシにダダ甘なんだよね。
  昔から欲しいって言ったものは大体何でも買ってもらえたし」

 「……可愛い一人娘だから?」

 「そうそう」

その甲斐あってか、彼の表情も少しは晴れてくれました。
これはもうひと押しが必要だなと、加蓮はわざとらしく咳払いを一つ。

 「で、今度はこっちの番」

 「あー、俺の話か? スリーサイズは内緒な」

 「切れた輪ゴムよりどうでもいいから大丈夫」

 「ひどい」

 「彼女いるの?」

悲哀の呻き声をおろしポン酢のようにさっぱりと無視して質問を投げました。


 「あ、それはどうでもよくないのか」

 「破けたレジ袋よりは」

 「お願いもっと興味もって」


可能な限り女子高生らしい話を振ってあげたつもりでした。
何がお気に召さなかったのだろうと加蓮は口を尖らせます。


 「いないよ」

 「そうなんだ」



 「……」

 「……え、いや、そこから話広げてくれたりしないの」

 「もう、注文が多いなぁ」

 「えぇ……?」


絵画のようにくっきりと塗り潰された自然を背景に、真っ赤なオープンカーは走ります。
何故か『事務所のアイドルでお付き合いするなら誰か』という話題へと発展し、
最終的に『顔で選ぶな』と結論付けられたところで、彼が長く大きく溜息を吐きました。

 「あ、そうだ音楽流すの忘れてた……なに聴く?」

 「どんなの用意してきたの?」

 「やっぱこういうドライブには洋楽だろ」

片手でサイドポケットを探り、用意しておいた音楽プレーヤーを取り出します。
ケーブルを繋ぎ、カーステレオへの接続ジャックへと差し込みました。


 「ご贔屓のグループは? あれば掛けるぞ」

 「贔屓って程でもないけど……カーペンターズは入ってる?」


プロデューサーが口を開けて加蓮を見つめました。
ハチドリが巣を作るのなんかににちょうど良さそうな開き具合です。

 「ちょいと。前見て前」

 「……っと。すまん」

幸い、海岸線沿いの一本道に正面衝突するような障害物はありません。
ほんの少しハンドルを切れば車はすぐに舵を取り戻しました。

 「何? 洋楽の一つくらい聴いてちゃ変?」

 「変というか……カーペンターズ、聴くのか」

 「両親が好きでね。旅行先の車なんかでよく聴いてたの、思い出してさ」

 「……そうか」

滑らかに喋っていたプロデューサーが再び黙り込んでしまいました。
どこか逡巡するように、握ったハンドルを指先でとんとんと叩いて。
訝るような視線を加蓮から向けられつつ、手元のプレーヤーをタップします。


 「何だ。入ってたんじゃん」

流れ始めたのは耳馴染みのあるメロディ。
穏やかで落ち着いた、どこか懐かしい曲調は加蓮の眉を少しだけ緩ませます。

 「このボーカルの女性、なんて人だか知ってるか」

 「え? さぁ……メンバーの名前までは」

 「カレン・カーペンター」


緩んだばかりの眉がきゅっと上がりました。

 「カーペンター、って本名だったんだ……というか、カレン?」

 「ああ。ご両親は多分、彼女から加蓮の名前を取ったんじゃないかな」

 「……なのかな」

 「あれだ。小学校の頃、名前の由来を両親に聞いてみようって作文があったろ」

 「何で知ってんの」

 「一昔前の指導書に載ってたからな。みんな書くんだよ」

 「……指導書?」

 「教師用の教科書みたいなもん。俺は教育学部の出身だ」

 「へ」


加蓮がじろじろと彼の全身を眺め回します。
この人が、まかり間違ったら教師に。


 「そこ、笑わない」

 「っふふ……あは。ごめん、笑っちゃってた? っふ」

 「笑い過ぎだ……まぁ、俺も生徒じゃなくてアイドルを育てるとは思わなかった」

 「人生って大変だね」

 「全くだ……で? 両親は何て言ってたんだ」

 「んー……」

燦々たる太陽に煌めいて仕方が無いエメラルドブルーを眺めながら、
加蓮は再び記憶の海へと潜ります。

確かあれは、小学校の中学年。
中には自身の名に用いられている漢字を習い始める子も居る、そんな頃でした。

 「蓮の花みたいに綺麗で、可憐に育つように……だったかな」

 「うん。小学生にはそのくらいが限度だろうな」

 「限度、って」

 「ここからは……だいぶ勝手な想像になる」

彼の声が少しだけ密やかになります。
加蓮が小さく首肯だけを返しました。


 「カレンって読みは多分、もともと二人の間で決まってたんだろう。
  それから加蓮が生まれて……疾患を抱えているのを知ってしまった」

 「……」

 「カレン・カーペンターは最後、摂食障害って病気で亡くなったんだ」

 「続けて」

 「彼女と同じ結末は辿らせたくない。
  だからご両親は、その字を贈ったんじゃないかな」


加蓮。
数ある両親からの贈り物の中で、最も大切なたった二文字。


 「加は、プラス。伸びる、育つ、重なるって意味だ」

 「蓮は?」

 「生命力の象徴。『泥より出でて泥に染まらず』、って詠んだのは誰だったか」

 「……」

 「良い名前と、良いご両親だ……全部俺の勝手な想像だけど」


思い出を数え上げれば、楽しい記憶はそれほど多い訳ではありません。

ですが苦しい時や、辛い日には、常に母か父が傍に居てくれました。
震える手を握ってくれたり、退屈しのぎの話を聞かせてくれたり。
きっと、ただひとりのままだったら、
いずれどこかで消えてなくなってしまっていたかもしれません。


掛けっぱなしだったサングラスをずらしました。
途端、遮られていた風と陽光が目を襲い、加蓮は目を細めます。

ニューカレドニアは眩しかった。
日本へ帰ったら二人にそう伝えようと、加蓮は遥か彼方の故郷に思いを馳せました。


 「カーペンターズなら……この曲は知ってるか?」

プロデューサーがプレーヤーを操作すると、
耳馴染みはある、けれども聴いた事の無い旋律が響き始めます。

 「知らない。なんて曲?」

 「邦訳は……忘れたけど、『古き良き日々よ』ってところかな」

 「ふぅん……何でまた?」

 「何となく、な」


真っ赤なオープンカーに乗って。
南の島の海岸沿いを走り抜けて。


昔の自分が想像もしていなかった未来を、加蓮は今、歩いていました。

以前、文香の読んでいた小説のように、
タイムマシンで過去の自分へと会いに行ったら。
昔の自分はどんな顔をしてくれるだろうと、ふと考えてしまいます。


 「プロデューサー」

 「ん」

 「何か食べたい。どっか寄ろ」

 「えー……俺、フランス語喋れないぞ」

 「サバ。何事も挑戦だよ」

 「鯖……って、この国でも食べんの……?」

 「いや、違うって」


ひょっとしたら、死ぬほど驚いてしまうかもしれません。


 ◇ ◇ ◆

 「やー、バスタブでシャワーって慣れないねー……って加蓮、なに聴いてんの?」

シャワーを終え、下ろした髪も艶やかな美嘉がベッドルームへ戻って来ます。
ふかふかのベッドに寝転びながらイヤホンを耳へと差し込む加蓮に気付き、
大きくも小さくもないお尻をその脇へ沈めました。

 「カーペンターズ」

 「へー! そういうの聴くんだ」

 「さっき配信されてるの買ったばっかだけどね」

加蓮が片耳から抜いたイヤホンを拭って差し出します。
美嘉は携帯電話を挟むように隣へと寝転びました。

 「カーペンターズってあれでしょ、シャラララー……ってやつ★」

 「うん。それが一番有名かな」

 「お。これは聴いた事ないかも。どんな歌?」

 「えっとね――」


少女達の未来を彩るように、文字通り満天の星が夜空を輝かせています。
まだまだ眠る様子も無い二人の頭上で、ゆっくりと夜は更けていきました。



 『――幾つもの古き良き夢たちが舞い戻って』


 『一つ一つ叶っては、正夢に変わっていくよう』


 『あの頃ずっと見つめ続けていた、夜明けの兆しが』


 『今朝も変わらず差し込んでくるみたいに――』



 『Those Good Old Dreams』
 http://www.youtube.com/watch?v=7N32bjoyNOw


 【Ⅵ】パズルピース


人は、人生の約三分の一をベッドの上で過ごすと言われています。


だからこそ加蓮は、今までベッドの上で過ごしてきた時間を埋め合わせるように、
遊び、学び、はしゃぎ回るように努めてきたのです。
北条加蓮、遅寝早起きが信条のアイドルでした。


彼女ほど時間の価値をよく理解しているアイドルは他に居ません。
レッスンルームは借りた時間いっぱいまで、
許された外出は門限いっぱいまで使い切るような生き方を心掛けています。

もちろんライブもその範疇です。
ツアーの最終日ともなれば余力を残しておく意味などありません。
加蓮は持てる力の限りを尽くして最高のパフォーマンスを叩き出し、
今はこうしてベッドの上で奈緒からいいように頬を突っつかれているという訳です。


紛う事無き自業自得でした。


 「なー、かれーん……そろそろ機嫌直してくれって」

 「……別に、上機嫌だけど」

 「口調が超不機嫌なんだよなー……」

 「桃、剥いたよ」


北条家、加蓮の部屋。
セカンドアニバーサリーツアー千秋楽の翌日、
凛と奈緒は、はしゃぎ過ぎたお蔭で体調を崩した加蓮のお見舞いにやって来ていました。

身体が崩れれば往々にして心も崩れやすいもの。
病に臥せった際の見舞というのは、本当に嬉しくなるものです。

加蓮は心根の優しい娘ですから、友人達のお見舞いに機嫌を損ねる道理もありません。


例えば、大切な時間を削られたのでもない限り。


 「邪魔したのはほんと悪かったけどさぁ……わざとじゃないんだって」

 「別に……Pさんは関係無いし」

 「あ、加蓮。それなんだけどさ、前は『プロデューサー』って呼んでなかった?」

 「……プロデューサーは関係無いし」

 「いやもう遅いから。はい桃」

ぷりぷりと膨んだ頬に瑞々しい白桃を押し込んでやると、
しばらく加蓮がおとなしくなります。
あのね、子供じゃないんだよと言おうとした鼻先に二切れ目を差し出すと、
また加蓮が静かになりました。

 「あのさ、加蓮」

 「ふぁに」

 「お行儀悪いのは置いといて、ここに私達の写真があるでしょ」

自ら頬張らせておいてマナー指導とは何様なんだと言いたくなる気持ちをぐっと堪え、
キャビネットの上に視線を送ります。


ネイルケア用品と並ぶ緑のフォトフレームには、
加蓮と奈緒と凛、トライアドプリムスのスリーショットが収まっていました。
二切れ目の桃を嚥下すると、既に目の前には三切れ目がスタンバイしていたので、
加蓮は丁寧に手で差し戻します。


 「ん。あるね」

 「我ながらよく映ってるよなー」

 「その隣」

左手の指先だけがぴくりと動きました。
しかし緊張の表面化を加蓮はその僅かな動作だけに抑え込み、
素知らぬ顔で話の続きを待ってやります。


凛にはその様子がよく見えていました。


 「同じサイズの写真立てがもう一つ、ちょうど置けそうなくらいのスペースが空いてるね」

 「そうかな?」

 「担当さんと入れ替わりで入ってきた以上、
  他の部屋に移す時間は無かった筈。奈緒。部屋内にあるよ」

 「応」

 「ごめんなさい素直に渡すから勘弁してください」

 「うん。素直で大変よろしい」


ぐぬぬと屈辱に身を震わせつつ、
ベッドフレームとマットレスの隙間に放り込んでおいたそれを明け渡します。
凛と奈緒はへぇ、ほぉ、ふぅん、なるほどね、ははぁ、
と好き放題に呟きながら笑みを浮かべました。

破門の取り消しを請うた皇帝はこんな心持ちだったのかなと、
加蓮は遠く中世に思いを馳せました。

 「違うから」

 「何も言ってないぞ」

 「丸くなったね加蓮」

 「違う」

 「へへへ……こちとら卯月とか美嘉に訊いて知ってるんだからな。尖ってた加蓮」

 「ぐぬぬ」

病につけ込んでからに、と加蓮は自身の無力さを嘆き、
同時に奈緒いじりネタ貯蔵庫の具合を確かめます。

まぁまぁストックはあったので、少し気分は晴れました。


奈緒がくしゃみをして、
やべ、移ったかな、などとのん気にティッシュを拝借していると、
控え目なノックが響きました。

 「お邪魔しまーす。良かったら甘いもの、いかが?」

 「わー! いいんですか? やったぁ!」

 「こちらこそお邪魔してます。すみません、お気遣いを」

 「お母さん! こいつら猫! 猫被ってる! 特大の!」

 「もう。友達を悪く言うものじゃないのよ、加蓮」

 「いやいや加蓮には世話になってるんで。な、凛」

 「ね、奈緒」

 「あら……素晴らしいお友達じゃない。大事にするのよ?」

 「猫ですらない……狸ぃ……」

レッスンの成果が遺憾無く、偏りを伴って発揮された瞬間でした。
ドアが閉められるのを見届けると、奈緒は加蓮へ振り返ってウィンクをぱちり。
凛は、まだドアを眺めていました。

 「女狐め……」

 「猫なのか狸なのか狐なのかはっきりしてくれよ」

 「はぁ……まぁいいや。ケーキ食べよ」

 「それもそうだ。おーい凛」

 「加蓮」


凛の口調には全く遊びがありませんでした。
びくりと震えた奈緒を尻目に、加蓮の瞳をじっと見つめます。

 「私達、帰った方がいいかな」



 「……は、え? 急に何言って」

 「部屋を出るとき、泣いてた。加蓮のお母さん」

最後まで言葉を紡げずに、奈緒が息を飲みました。
加蓮の眉が綺麗な半月を描き、それから徐々に緩んでいきます。

 「あー……かもね」

 「かもね、って……加蓮」

 「あ、ううん。違うよ、凛。たぶん……嬉しかったんじゃない?
  最近はともかく、小さい頃、私ってほんっと友達居なかったからさ」

 「はっ?」

固まっていた奈緒が口だけ動かしました。

 「私の部屋に来てくれた友達も、二人が初めて。
  だから……まぁ、親不孝じゃなくて安心したんじゃないかな」

 「へぇ……奏とか美嘉ともよくつるんでた気がするけど」

 「最近の話じゃなくて、ずっと。生まれてから」


凛の表情は、加蓮も初めて見るものでした。
困ったように言葉を探しているような、どうしたらいいか迷っているような。
そんな彼女を前に、加蓮はあれ、まだ話してなかったんだっけ、と首を捻ります。


決して身の上話を名刺代わりにしている訳ではありません。
ですから加蓮自身、友人達のうち誰にどこまで話し、
誰にどこまで話していないのか、はっきりとは覚えていません。

なにぶんユニットのメンバーですから、
体力無いんだ、くらいの話はしたかとばかり思っていたのですが。


ぱん、ぱん。


加蓮が手を二回、叩きました。

 「はい、トラプリのみんな集まってー」

 「なに、急に」

 「名作劇場、加蓮ちゃんデレラが間もなく開幕しまーす」

 「ホントに何なんだ。語呂悪いし」

 「まぁまぁ。むかーしむかし、ある病室に――」


 ◇ ◇ ◆


割と、加蓮は寝具にこだわる方で、両親はそれに輪を掛けていました。
マットレスはシーリー上位のラインナップ品を買い与えていましたし、
枕は何年か前にお店までオーダーで作りに行ったものです。


なので、パジャマもなかなか上等なものを愛用しているのですが、
現在進行形で台無しになりつつありました。

 「まもっ……守るからぁ……!
  ぜったいぜったい、ぜったいっ、大丈夫だからなぁっ……!」

 「はいはい。お姫様をしーっかり守ってねーよしよし」

 「撮るよ」

 「あ、待って凛。動画、動画」

 「オッケー」

トライアドプリムス最年長のお姉さんが、
加蓮の胸でぐずぐずのぼろぼろに泣きじゃくっていました。
この様子だとあと一時間は意地でも剥がれそうになく。

加蓮はここぞとばかりにもっふもふの感触を堪能し、
凛はここぞとばかりにネタのストックへ余念がありません。


トライアドプリムスの結束感がより強固なものへと成長を遂げた瞬間でした。


 「生きてぇ……」

 「うん。そりゃもう生きるよ。すっごいよきっと」

 「加蓮んん……」

 「はいはい。北条加蓮ですよー」


そのままだと本当に一時間は粘りそうだったため、
美味しそうなケーキが乾ききってしまわない内にと、
加蓮と凛はいっせーので奈緒を引き剥がしました。
べりっと音が聞こえそうなくらい、しっかりとくっついていました。

 「おいしい?」

 「うん……」

 「うんうん。たーんとお食べ」

まだしゃくり上げている最年長のお姉さんの口に二人がかりでケーキを放り込みます。

甘いものには魔法が掛かっていますから、
三人仲良くケーキを食べ終える頃にはもう、奈緒も何とか平静を取り戻していました。


そしてベタベタになったパジャマを指で指し示します。
奈緒がごめんと呟いて、加蓮は貸し一つねと返しました。

基本的に、加蓮の貸しは高くつきます。


 「体力が、って最初の頃に言ってたの、そういう事だったんだ」

 「ん。まぁ、我ながら成長したとは思うんだけどね。
  トラプリでおっきいライブって初めてだったし、はしゃぎ過ぎちゃった」

 「無理はダメだからな」

 「はいはい」

 「はいは一回」

 「はーい」

会話が途切れ、加蓮は再びベッドへ身を預けました。
心地良い時間が流れてゆきます。

 「こうやって寝てると、やっぱり思い出しちゃうんだ」


誰に向けるでもない呟きが、部屋に溶けていきます。
目の赤らんだ母が差し入れてくれたアールグレイに、
凛は砂糖を溶かして、こくり。

一方の奈緒はずっと腕を組んで何事か考えています。
むむむと唸ったかと思えば、得心したように一度、頷きました。


 「加蓮、凛。今週……は無理か。再来週の土曜、空いてる?」

 「ちょっと待って……私は空いてる。加蓮は?」

 「んー……私も大丈夫」

 「なぁ加蓮。遠足って行った事あるか?」


遠足。

随分と懐かしい単語でした。
頭の中で秘密の加蓮ちゃんアルバムを取り出してめくります。

 「あー……社会科見学ならあるけど、遠足らしい遠足は……
  確かに無いかな。小学校の低学年とか、家と病院行ったり来たりだったし」

 「なら行こう。遠足」



 「……へ?」

 「いいね」

凛がノッて、加蓮は死ぬほど驚きました。
ついさっきの生きるよ宣言が危ぶまれるくらいびっくりしてしまいました。


凛ってそんなキャラだったっけと零す暇も無く、
話が目の前でトントン拍子に転がっていきます。

 「おやつはどうする? 税込み?」

 「加蓮は初心者だし、今回は税別三百円ルールで」

 「よし。しおりはあたしが作ってくる」

 「バナナはどうする?」

 「そこ毎回解釈に悩むんだよなぁ……」

よく分からない取り決めを交わす凛と奈緒を前に、
完全に置いてけぼりにされてしまいます。


加蓮は何を言ってやろうか少しだけ迷って、
とりあえずパジャマを替えようとベッドから這い出すのでした。


 ◇ ◇ ◆

 「お母さん」

 「あら、着替えたの?」

 「ん。これ、洗濯機でいい?」

 「手洗いするから別にして頂戴」

 「はーい」

 「お菓子でも持って行こうか?」

 「大丈夫。そろそろ帰るって」

 「そう。いつでも連れて来ていいのよ」


母は一階のリビングに居ました。
父のシャツへ丁寧にアイロンを掛けながらにこやかに笑っています。


言われた通り、脱衣所の洗濯かごに脱いだパジャマを放り込むと、
加蓮はまた居間へと舞い戻ります。
自室ではなく居間へ顔を出した娘に、母は少し首を傾げました。


 「あら? かご、いっぱいだった?」

 「いや、空いてた……けど」

 「……加蓮?」

何か言い淀むような様子に、母はアイロンのスイッチを切ります。
視線を泳がせ、口を開いては閉じる加蓮を、何も言わずにじっと待ってあげています。

 「あのさ、お母さん」

 「なに? 加蓮」

 「……今度、再来週の土曜……遊びに」

尻切れトンボが飛んで行きました。
鼻先にちょこんと留まって、それでも母は待ちます。

いつの間にか俯いていた視線。
何度も深呼吸を繰り返し、加蓮は勢いを付けて顔を上げ、
頬を真っ赤にしながら言いました。


 「遠足っ! 凛と奈緒と行ってくるから……お弁当、作って!」


トンボはまたどこかへ飛んで行ってしまったようです。
二人から強引に背負わされた任務を終えた解放感と、訳も分からぬ羞恥心に挟まれ、
加蓮はすっかり息を荒げていました。

目の前で震える娘の姿と、先ほどの言葉とを、ゆっくりと噛みしめて。


母は、やっぱり笑うのです。


 「卵焼きにほうれん草、入れる?」

 「……入れるっ」


それだけ絞り出すと、加蓮は逃げるように二階へ駆け上がって行きました。
それから勢い良くドアが開閉する音と、姦しく何やら言い合う声。


また湿ってしまった父のシャツへ、母はもう一度アイロンを掛けました。


 ◇ ◇ ◆


 「しおり配るぞー」


お尻から伝わるバス特有の重たいエンジン音。
行楽の秋と呼ぶに相応しい陽光を車窓の外に眺めながら、
奈緒は二人に一枚ずつ紙を手渡しました。


『遠足のしおり・北条加蓮スペシャル』と題された、
もはや手作り感以外は伝わってこないその旅程表には、
本日のスケジュールがそれはもう大雑把に記載されています。

午前と午後に何かをするよという頼りない情報と、
おやつは三百円までと太字で記された注意事項と、
後はところどころに辛うじてフライドポテトだと分かるイラストが散りばめられているだけでした。


一瞬。一瞬だけ、ともかく何か言ってやろうとしました。
しおりから視線を上げると、にこにこ笑顔の奈緒がこちらを見つめていて、
それで加蓮は何も言えなくなってしまいました。
隣の凛が苦笑を零します。

ブザーと共に乗降扉が閉まり、路線バスが走り出しました。


遠足と言えば、バス。

凛と奈緒の共通認識は有り得ないほど強固で、
電車でもいいよという加蓮の案は敢えなく却下されたのです。
観光バスを利用する手もありましたが、
小回りが利かないだろうという奈緒の提案で路線バスにお世話になる事となりました。


三人は最後部の座席に陣取って、
景色のよく見える窓際を加蓮へ譲りつつ、東京観光を楽しんでいます。

 「案外、こうやって都内巡る機会って無いよね」

 「確かに」

 「え、そうなのか? あっちこっち行ったりするもんだと」

 「いつでも行けるって思うと逆に、ね」

 「奈緒も意外に夢の国、行かないんじゃない?」

 「……なるほど」


路線バスですから、小刻みに停車を繰り返します。
その度にアナウンスされる名前に感心したりしていると、急に奈緒が声を潜めました。

 「凛、加蓮」

 「ん?」

 「ちょっと耳貸して」

言われるがまま、加蓮と凛は奈緒に耳を寄せます。
奈緒はきょろきょろと周りを確認してから、水筒のキャップを捻りました。


 「へへ……水筒にジュース入れてきちゃった」

 「っふ」


あまりの下らなさに凛が吹き出しました。
凛の反応に気を良くした奈緒がフタに注いだジュースを加蓮に勧めます。

オレンジの香りが鼻孔を抜けて、
なるほどこれが遠足の味かと、加蓮はひとり納得するのでした。


 ◇ ◇ ◆


 「あ、見た事ある」

 「だろ?」

 「コートジボワール的な」

 「サッカー強い所でしょそれ。コルビジェね」


美術の教科書にも載っている有名な外観。
国立西洋美術館を前に、加蓮はへぇと感心していました。

常設展が無料の第二土曜日という理由もあるのでしょう。
加蓮たちのような年代の少女は少なく、親子連れを中心に賑わっていました。

 「と言うか、小学校の遠足で美術館って、『ぽい』の?」

 「『ぽい』と思うよ。私も三年生か四年生で行った記憶あるしね。奈緒は?」

 「あたしもある。ほら、美術館っておとなしくしなきゃいけないだろ?
  団体行動とかを学ばせようとするんじゃないかな」

 「へー」

目の前を小さな女の子が駆けて行き、
父親らしき男性にやんわりと注意されていました。

凛と奈緒は何となく加蓮の方を見て、
なに、と呟く加蓮に揃って首を振るのでした。


 「うおー。この果物籠の絵、すごいな」

 「凄いね……さっきもぎって来たのを盛ったみたい」

 「三百五十年前の絵だって。食べるのはやめといた方がいいかもね」


前説となる歴史展示を抜けると、
最初のコーナーは中世から近世にかけての絵画がメインとなっていました。

大きさも額縁の意匠も様々な作品の数々を、
三人はマナーモードで鑑賞していきます。


ふと、凛が気付きました。

 「……何かさ、宗教の絵が多くない?」

 「あ。あたしもソレ思った。ほとんどそうだよな」

 「この頃のヨーロッパは教会が生活の中心だったからね。
  文字の読めない人も多かったし、絵は大衆ウケが良かったんじゃない?」


 「……」

 「……」

 「……何? 黙り込んで」

 「いや……なんか、加蓮が真面目な事言ってると、な」

 「ね」

 「ねじゃない。凛はともかく奈緒は世界史で習ったでしょ」

呆れるように加蓮が首を振ります。
凛と奈緒は視線を交わし合って、小さく首を傾げました。


順路に沿って進み、通路の先を曲がった所でした。
気付いたように加蓮が立ち止まります。

 「あれ?」

 「ん。どうかした?」

 「いや、ここだけ一つの部屋みたいになってるなって」

 「お、ホントだ」

加蓮の言葉通り、これまでの展示されていたのは通路といった趣でしたが、
この一角だけは少し違っていました。


 「ここが目玉展示みたいだね」

凛が呟き、何人かのお客さんが集まっている一角を指し示します。
二人も凛の背中について行って、その作品の前で立ち止まりました。


クロード・モネの代表作の一つ、『睡蓮』。
池に浮かびながら描き上げたかのような傑作です。

 「お仲間さんだ」

 「仲間?」

 「蓮仲間でしょ」

 「あー、なるほど」

奈緒が苦笑を零す隣で、加蓮は睡蓮をじっと見つめていました。


青い池へ静かに浮かぶ、筆致も鮮やかな葉と花。
晩年の彼が妄執とも呼べる程こだわった景色。

 「綺麗だね」

 「私に似てね」

 「自信凄いな」


三人は肩を並べて、しばし名画の鑑賞に勤しみます。


 「あ、これも知ってる」

 「ロダン……あれ、ダンテさんだっけ?」

 「ロダンで合ってるっぽい。地獄の門……物騒だね」

内部展示の見学を終え、三人は再び外へと戻って来ました。
前庭に幾つか並ぶ彫刻のうち、ひときわ目を引く門の前で立ち止まります。


オーギュスト・ロダン作、『地獄の門』。
ギベルティの手による通称『天国の門』を参考に作られたとされる、
世界でも一、二の知名度を争う扉です。

 「で、あの上の方に座ってるのが『考える人』だと」

 「へぇ……意外にちっちゃいんだね」

 「でっかいのもあるみたいだし、行ってみるか?」

 「いいね。加蓮、向こうに……加蓮?」

凛の呼び掛けも届いているのか、いないのか。
加蓮は自分の背丈を遥かに超える巨大な扉を、何も言わずに見上げていました。


凛は何故だかもう一度声を掛けようとするのが躊躇われて、
加蓮の細っこい背中を見つめるだけでした。


やがて、細く長い息と共に加蓮の肩が緩みました。
くるりと振り向いて、こちらを眺めていた二人に笑みを浮かべます。

 「で、『考える人』だっけ? 行こいこ!
  あ、三人でおそろの写真撮ろうよ。あのポーズで」

 「あ、あぁ……」

加蓮が戸惑う奈緒の腕を引っ張ります。
引き摺られるように歩き出す二人の背を見守って、凛はちらりと振り返りました。


そこには見る者を圧倒するような、異界への門が一つ。


 「……考える人、か」

 「りーん! 早くー!」

 「ごめん。いま行く」


小さく呟いて、凛も二人の後を追いました。


 ◇ ◇ ◆

代々木公園や新宿御苑と並び、都内でも有数の規模を誇る上野恩賜公園。
その芝生広場の一角に、三人の女の子がレジャーシートを広げています。

芝生にレジャーシートを広げてやる事と言えば二つに一つ。
お昼寝か――お弁当です。


 「いっせーの」

 「ん」

 「ほい」

加蓮たちは一斉にお弁当箱を開けました。
現れた宝物は三者三様。
お互いのお弁当箱を覗き合い、感心したように頷きます。


 「加蓮の、気合入ってるな」

 「凄いね。素直に」

加蓮のものは、まさにお弁当と呼ぶに相応しい出来栄えでした。

タコに化けたウィンナーにはつぶらな瞳。
ご飯の上には鶏そぼろと解し鮭が綺麗に散らされていて、
ほうれん草入りの卵焼きと、
器用にカプレーゼされたプチトマトが華を添えています。


 「凛のはきっちりしてるね」

 「健康になりそうだな」

凛のお弁当は加蓮のものほど彩り鮮やかではありませんが、
筍の煮物や豆腐のチャンプルーなど、
栄養バランスのしっかり整えられた品目が詰められています。

アイドルたるもの身体が資本。
しっかり食べて、真っ直ぐに育てそうな、良いお弁当でした。


 「奈緒のは……」

 「……どしたの?」

二人が遠慮がちに首を傾げたように、
奈緒のお弁当はお世辞にも良い出来とは言えませんでした。


少し焦げ付いているミニハンバーグに、
米を詰めすぎたお蔭でひしゃげてしまった日の丸。
おかずのスペースは揺れで寄ってしまったのか、
小松菜の胡麻和えが申し訳無さそうに縮こまっています。

 「へー。頑張ってるなぁ」

 「頑張ってる……?」

 「あぁ。実はウチのお母さん、ちょっと実家に寄っててさ。
  お弁当作ってくれ、って頼んだら、試しにお父さんに作ってもらったら? って」

 「じゃ、これ、お父さん作?」

 「へへ、たぶん力作だな」

父の四苦八苦する姿を想像し、奈緒が表情を崩しました。


 「仲良しだねー、神谷家」

 「普通だろ」

 「あれ……奈緒、このタッパーは?」

 「ん? まだあったのか」

凛が片手で拾い上げたタッパーを振ります。
奈緒が開けるよう手で示すと、二人にもよく見えるよう、ぱかりと蓋を開けました。


 『あ』


鎮座していたのはスライスされたバナナ。
三人は顔を見合わせてから、声を上げて笑うのでした。


 ◇ ◇ ◆


 「え、すご。たかっ」

 「おおー……」


都民が行かない東京名所の代表格、日本電波塔――通称、東京タワー。
地上三百メートルを超える威容の足元で、三人は呆けたように天を仰いでいました。

 「なぁ、本当に来た事無いのか?」

 「無いね」

 「うん」

 「それでも都民か……? 大人三枚で」

 「そう言われてもね」

 「うん」

実りに乏しい会話を繰り広げつつ、奈緒が二人に展望チケットを手渡しました。


残念ながら、本日は風の影響でトップデッキには立ち入れないようです。
観光客でいっぱいの、凝った照明のシャトルエレベーターにしばし揺られているうち、
気圧差に耳が詰まってきます。

到着したタイミングで隅を向いて耳抜きをしてから、
加蓮は展望デッキへと足を踏み出しました。


 「すげー……」


文字通りの一望。
無秩序に広がるスプロールはもちろん、
南方面は午後の陽にさざめく東京湾が眩しいくらいでした。

子供たちは我先にと窓へ貼り付き、
もっと小さな子は父母に抱えられて呆然としています。


 「見ろよー加蓮! 人が米粒よりちっちゃい!」

もふもふの奈緒も貼り付いていました。
凛と苦笑しながら駆け寄って行き、三人並んで東京の街を眺めます。


どこまでも広がる灰色は、人類の偉大さと愚かさを同時に見せつけてくるようでした。

所々に見える緑色を見つけては、加蓮がほっと胸を撫で下ろします。
北条加蓮の公式カラーになってからも、なる前も、彼女は緑がお気に入りでしたから。

 「私の家、見えるかな?」

 「あっちだと思う」

 「とすると、凛の家はあの辺かな」

 「じゃあウサミン星は向こうだね」

 「言っとくけどあたしは普通に千葉に住んでるからな」


ぐるりと展望台を一周する途中、ふと見ると床がありませんでした。
慌てて飛び退ろうとして、
四角い強化ガラスがしっかりと填め殺されているのだと気付きます。

 「うわー……何だこれ。下見えてるじゃん……凛、乗れるか?」

 「いいよ。はい」

 「躊躇とか可愛げとか無いのかよ……」

 「奈緒が乗れって言ったんでしょ」


ひょいと乗ってみせた凛に奈緒は軽く引いていました。
譲るように凛が場所を開け、不敵な視線で加蓮を挑発します。

 「どうぞ」

 「……どうも」

首を伸ばしてガラスの下を覗き込みます。
ほとんど胡麻粒にしか見えない点が、あちこちへ行き交っていました。
落ちれば命は無い高さですが、落ちる事はありません。


そう、落ちる事は無いのです。
強化硬質耐熱ガラスは一トンを超える荷重にも余裕を保って耐え得る計算ですから。

ただ、そこは人の性。
もしかしたらという可能性がコンマ一パーセントでも残っている限り、判断には鈍りが生じます。


ですが、臆する事もありません。
加蓮たちシンデレラにとって、ガラスはいつだって味方です。

加蓮は自分に六回ほどそう言い聞かせ、
エナメルシューズに包まれた右足をそっとガラスに乗せました。
続いて一歩、もう一歩。

 「……ふふん」

 「おー」

勝ち誇った顔でガラスの上に立つ加蓮へ、二人は小さく拍手を贈りました。

ピースを作りながら写真を要求され、
ポケットから携帯電話を取り出したところで奈緒が気付きます。


 「あ」

 「ん、何?」

 「スカート……」

 「え?」

指差しされたのは下ろし立てのフレアスカート。
きっと、百五十メートル下からはガラス越しの素敵な景色が見えるでしょう。

鮮やかなオレンジ色を何度か手でひらひらとさせてから、
加蓮は腕で身体を隠しました。


 「奈緒のえっちー」

 「はぁー? えっちじゃないしー? えっちって言う方が――」

 「加蓮、奈緒」


イチャつき始めた二人の肩を叩き、凛は背後を指差しました。

 「アイドル」

じゃれ合いに気付いた皆さんが、携帯電話やカメラを手に三人を取り巻いていました。

加蓮と奈緒はひどく魅力的な愛想笑いを浮かべつつ、
手を振る凛を引き摺って、やって来たエレベーターに急いで飛び乗るのでした。



 「幸せってクリームの事だったんだね」

 「違うと思う」


秋の日暮れは早いものです。

おやつのクリーム山盛りパンケーキを平らげ、
店を出た時には空も真っ赤に燃え始めていました。
昼間は空いていた路線バスにも他の乗客が目立ち始め、
三人は後部座席で声のボリュームを絞ります。


エンジンの鼓動が加蓮の身体を揺らします。
たっぷりと甘い後味が眠気を誘い、加蓮の頭から重力を奪っていきます。
こてんと肩にへ預けられた重みに、凛が柔らかく笑みを浮かべました。

 「……遠足、楽しかった」


加蓮の呟きに、二人は目を丸くしました。そして揃って、くすりと笑いを零します。

 「何言ってんだよ、加蓮」

 「……え?」

ほとんど閉じられそうになっていたまぶたがゆっくりと開いて、二人の姿を捉えます。
何故か揃って得意気に笑うと、声まで揃えてこう宣言するのです。


 『帰るまでが遠足だよ』


加蓮は結局、遠足の流儀をまるで知りませんでした。
自身の無知がおかしくなって、バスの揺れが心地良くて、また目を閉じてしまいます。

 「はいはい……」


それきり、三人は静かになりました。


 ◇ ◇ ◆


 「ただいまー」

 「おかえり。夕ご飯、本当にいいの?」

 「んー。お腹いっぱいー」

 「おかえり。先食べてるぞ」


加蓮はしっかりした娘ですから、食事の不要な日は母へのメールを欠かしません。
遠足最後の行程を文字通り消化しに掛かった際、
加蓮はいつものように一通、メールを送っておいたのです。


鞄からすっかり軽くなった弁当箱の包みを取り出し、母に振って見せます。

 「おべんと、ありがとね」

 「出して水に浸けておいて頂戴」

 「はーい」

弁当箱を軽くすすぎ、水を張った洗い桶に浸け、
加蓮は二人が夕食を囲むテーブルに腰を下ろします。
そこで疲れがどっと吹き出て、ぐにゃりと身体を机上に預けました。


 「あれ? 今日レッスンだったのか?
  渋谷さん達と遠足だって聞いてたような気が」

 「遠足だったよー……でも疲れたぁ……」

 「楽しい事は疲れるもんね。それで? どんな所に遊びに行ってたの?」

 「まぁ、まぁ。加蓮くらいの頃は詮索されたくないもんさ」

 「……ん、いや……話すよ」

むくりと加蓮が身体を起こしました。
肘で頭を支えつつ、多少ボサついていた毛先を整えます。


 「えっとね、地獄の門とか見てきた」

 「あらまぁ」


手伝うと申し出た洗い物を受け流され、
同じく申し出た父もあら珍しいですねと軽くあしらわれ、
加蓮は結局やる事も無く、父と一緒に母の背中を眺めていました。

昔よりも少しだけ小さく見えるような、見えないような、
そんな背中をただじっと眺めてばかりでした。


蛇口を閉め、弁当箱の水滴を払い、水切りラックにそっと載せると、
母は手慣れた様子でエプロンを解きに掛かります。


 「ねぇ」


どちらに向けた訳でもなく、加蓮は呟きます。

今日は本当に楽しい一日でした。
凛も奈緒も、父も母も、加蓮の好きなようにさせてくれて、
だからこそ全力で楽しんでやりました。


遠足、と、四人はそう言ってくれました。
ずっと昔から組み立てていたジグソーパズルの、ずっと欠けていた部分の一つに、
今日というピースがぴったりと填まり込むようで。


だからこそ、中央にぽっかりと広がる、
大きな空白と向き合わなければ駄目だと、加蓮はそう思ったのです。


 「すっごい、昔の話なんだけどさ」

 「ああ」

 「うん」

父と母が、頷きます。

 「どうして身体、弱いのかな……って、そう訊いたけど」


パズルのピースを、中央に填め込みました。


 「馬鹿なこと訊いて、ヤな気分にさせて、ごめんなさい」


気付けば頭を下げていました。
両親に謝るのは、随分と久しぶりのような気がしました。

二人は何も言いませんでした。
加蓮は面を上げるタイミングを失ってしまい、そのまましばらく頭を下げ続けます。


首と背中が痛くなってきた頃、おそるおそる顔を上げてみると、
エプロンを抱えたままの母は唇を引き結んでいました。

 「……覚えてたの?」

 「え、あの……うん」

 「……そうか」

隣に座っていた父が呟き、顔を両手で覆いました。

その手が、腕が徐々に震え出すのを眺めている内に、
父が泣いているのだと、加蓮は気が付きました。

父だけではありませんでした。
抱えていたエプロンが破けそうなほど強く握り締め、俯き、母が嗚咽を繰り返します。
慌てた加蓮が椅子を蹴倒して立ち上がると、
母はエプロンを目に押し付けてフローリングに崩れ落ちました。


 「なんで……っ! なんで、加蓮が、加蓮がっ、ごめんなんて、言うの……!」

 「ご……ごめんなさい……」

 「ごめんは、っ、ごめんなんて……
  要らないのに、っ! 加蓮が……ごはん、たべて……」

 「あ……ぅ」

 「……遊んで、笑ってくれ、れば……いいのに、っ」


そこから先は言葉の形を成しませんでした。
何も言えずに震える父と、何事かを請い続ける母の間で、
加蓮はただおろおろと揺れ動く事しか出来ません。


口に出してしまった言葉の恐ろしさを、加蓮はよく分かっているつもりでした。
つもりだけで、何一つとして分かってはいなかったのに。

十年前のたった一言。
たった一言で、二つの生をこの棘だらけの娘に縛り付けてしまったのだと、
加蓮は今ここに至って、ようやく気付く事が出来ました。
気付いてしまうと、すぐに足元が歪み始めます。


透明だった筈の何かが影を伴って現れ、両肩を痛烈に押し付けてきます。
そして加蓮もまた、フローリングへとへたり込んでしまいました。


 「……ごめんなさい」


絞り出せた言葉は、溶けて消えてしまいそうなほど弱々しく。



最初に取り戻した感覚は二つの暑苦しい熱でした。
何か声を絞り出そうとして思い切り咳き込みます。

何時間も続けたボーカルレッスンの後みたいに喉の奥がヒリついて、
上半身から水分が全て飛んでいったように視界がチリチリと霞みます。


あ、ああと、ようやく声らしきものが出始めて、最初に言う言葉は決まっていました。


 「……ご」

 「加蓮」

 「いいんだ」


二つの熱から声が響いて、どうも両親のものによく似ていました。
前から、後ろから挟むように抱き締められ、
ただでさえ細い身体が押し延ばされてしまいそうです。

 「な……ん」

 「ありがとうね、加蓮」

 「ゆっくりでいいんだ。少しずつ、取り戻そう」


紡ぎたい筈の言葉が。
紡げる筈の言葉が。
二つの熱でどろどろに溶かされていきます。


溶け残りへ隠れるように蹲っていた昔の自分を見つけて、
加蓮はその小さなお尻を蹴っ飛ばしてやりました。



 ――ねぇ、神様。


呪詛とも祈りともつかない感情を、
加蓮は生まれて初めて『そいつ』に叩き付けました。


私のせいで、アンタのせいにしちゃったのは、謝るよ。
幾らだって謝ったげる。

本当に、ごめんなさい。
全部、ぜんぶ大馬鹿なアタシのせいでした。

だから……これで、チャラ。
アンタが、もしアンタに力があるんなら。


ちっぽけな人間の一人や二人くらい――救ってみせてよ。


いつ返ってくるかも分からない返事を待っている間に、
加蓮の意識は再び溶け出してゆきました。


 【Ⅶ】イージー・ライダー


何せ広いものですから、入ってくる所が違えば途中の道順も全く異なります。

結局、目的地に辿り着くまでの時間は前回とさして変わりませんでした。
スーツ姿で代々木公園のベンチに座る彼は、
やはりサボリーマンに見えてしまいます。

 「やっぱ待ち合わせ場所に向いてなくない?」

 「それは分かる」


譲られた隣に腰を下ろし、加蓮は眼鏡を外しました。
伊達とは言えなかなか可愛らしいデザインで、
最近はプライベートでも愛用しつつあるお気に入りの一品です。

 「良い天気だね」

 「三寒四温の四の方に当たったな」

プロデューサーが封筒の紐を解こうとして、止めました。
そっと封筒を置き直し、弥生の太陽に照らされる広場を二人並んで眺めます。
三つ子の噴水が今日も今日とて立ち昇っていました。


 「今日って大安だっけ?」

 「ああ」

 「結婚日和だね」

 「吉日じゃないけどな」

 「え? 私と居る日はぜんぶ吉日でしょ? Pさん」

 「……言うようになったなぁ」

 「茄子さんの受け売りだけどね」

加蓮が拳二つだけ間を詰めて、彼は拳一つ半だけ間を空けました。
力関係の縮図です。


加蓮がもう一度だけ間を詰めようとしたところで、
彼が封筒をがさがさとやり始めました。
お仕事の時間が始まり、加蓮は鼻を鳴らしながら彼の手元に視線を注ぎます。

 「三周年と、この前の定例ライブ。調子の良いのが続いてるな」

 「でしょ?」

 「デビューしてからしばらく、
  どうも加蓮には踏ん切りの付かないきらいがあったが……憑き物が落ちたみたいだ」


憑き物。

改めて他人の口からそう表現されると、
何だか小気味好い気分がして、加蓮は小さく笑いました。
怪訝そうに首を傾げる彼へ、加蓮は掌を見せて話の続きをせがみます。
封筒の中から出てきたのは、見覚えのある表紙でした。


 「上もそう評価してる。バースデーライブだ、加蓮」


手渡された企画書をめくるでもなく、加蓮は両手で抱えたそれをじっと見つめます。
彼女が黙り込むのは色々と思案を巡らせている時間だと、彼はもう知っていました。

 「昔はさ、誕生日が嫌いだったんだ」


そして一言だけで話を区切るのは、続きを促せという合図。

 「どうして」

 「病室で迎える事の方が多かったから。
  あぁ、また来年もここに居るのかなって、そう思っちゃうんだよね。どうしても」

 「……そう、思うかもな」

 「それに、せっかくプレゼントを貰っても、病室にはなかなか置いとけなかったし。
  携帯テレビだって、電波とかの関係で病院の許可を貰うくらいだったから」

 「じゃあ、今は?」


分かりきった質問を投げ掛けるのも、プロデューサーの重要な役目でした。
両手に持っていた企画書を胸にそっと抱きしめて、
加蓮は抑えきれないと言わんばかりの笑みを零します。

 「楽しいよ。いつも、いつだって、次の誕生日が一番楽しい」

 「違いない」


ようやく中を確かめ始めた彼女を横目に、彼は続けます。

 「休憩三十分含めて百二十分。
  ユニット曲合わせて全十二曲。MCを抜いたって最低六十分は唄いっぱなしの計算だ」

 「いいね」

 「……渋谷さんの口癖、移ってきてるぞ」

 「可愛いとか言うなー」

 「言ってない。それ神谷さんのだろ」

 「バレた?」

隠す気ゼロの演技がバレて、加蓮は小さく舌を出しました。
わざとらしいその仕草は、しかしひどく魅力的で、
至近距離で喰らってしまうとなかなかの威力を誇ります。

ですがその程度でいちいち吹き飛んでいては、
北条加蓮のプロデューサーなど務まりません。
上手に目線を泳がせて、
全部分かっている彼女にニヤつかれるまでが一セットなのです。


 「……順番は逆だけどな。実を言うと、
  そこに載ってるメンバーと担当には先に話をしてある。
  みんな二つ返事どころか一つ返事だったぞ」

 「愛されてるね、私」

 「そうだな」

 「その『そうだな』って、勘違いしてもいいやつ?」

 「話は変わるが」


話が途切れて、戻って来ませんでした。
子供たちのはしゃぐ声がよく聞こえて、元気良く噴水が噴き上がります。

 「変えないの? 話」

 「急に良い感じの話を思いつかなかったんだ」

 「Pさんの正直なところ、好きだよ」

 「……どうも」

 「これは勘違いしていいやつね」

 「……言うようになったなぁ」


そこでまた会話が途切れます。
お仕事の時間は一旦の終わりを告げて、ここからまた、別の時間が始まるのです。


 ◇ ◇ ◆


 「やほ★ 元気してる?」

 「なんとかね」


自主レッスン中に顔を見せたのは美嘉でした。
買って来てくれたばかりらしいスポーツドリンクを勧める彼女に、
加蓮は笑って首を横に振ります。

 「ブレとか見てくれない?」

 「オッケー。任せて」


壁際で美嘉が見守る中、加蓮は意識を集中させました。
何度も繰り返したステップとターンを、それでもなお磨き上げます。

ガラスの靴を履いたって踊れるくらい、つま先の神経まで尖らせながら。


鋭さすら感じさせるブレーキをかけ、加蓮の動きが止まります。
忙しなく駆け巡っていた血液が息をつき、
代わりにやって来た疲労がそこかしこの筋肉を震わせました。


 「どう?」

 「全体的に右回転が遅い。右足首、かばってるでしょ」


醒め切った声でした。観念したように両手を上げ、手招きに応じる形で出頭します。
普段は快活な美嘉の瞳がじとりと細められ、
加蓮は誤魔化すような笑みを浮かべるしかありません。


 「かーれーんー……? 何度言ったら分かんの!
  オーバーワークはケガのもと! はい復唱っ!」

 「オーバーワークはケガのもとっ!」

 「よし。マッサージしてあげるから、こっち来て脚伸ばして」

 「美嘉お姉ちゃん……!」

 「こんなでっかい妹は知らないよ」


口では色々と言いつつも、結局、面倒見は良いのが美嘉お姉ちゃんです。
丁寧なマッサージを施すと、改めて加蓮にスポーツドリンクを差し出します。

二人並んで壁に背を預け、束の間の静かな時間が続きました。
時折、美嘉が加蓮の方へ視線を送り、けれど何も言いません。


加蓮がペットボトルの中身を半分ほど減らしたところで、
美嘉が口を開きました。

 「昔さ、話したよね」

 「何を?」

 「アイドルになった理由。卯月とアタシ達で」

 「あー」

ほんの二、三年前の出来事を、まるで遥か昔の思い出のように感じられる事実こそが、
加蓮の過ごしてきたアイドル生活の濃さを物語っていました。

さてあの時はなんと話しただろう、と記憶を検索しますが、いまいちよく思い出せません。
何となくお茶を濁したような記憶だけが朧気に残っていて。


 「……ぼた餅」

 「それ。よく覚えてんね」


お茶からの連想ゲームだよとは言えませんでした。


 「ホントの所、どーなの?」

 「何が」

 「だーかーら、アイドルになったワケ★
  ぼた餅食べる為だけにここまでやんないでしょ、フツー」

 「やん」

腿をぺちんと叩かれました。

あの日は細く頼りなかった腿も、今ではごく健康的に膨らんで、
中にはステージを跳ねるために必要な全てが詰め込まれています。

男の人はどっちが好きなんだろうと思わないでもないですが、
それはそれとして、です。


加蓮は体育座りをして、しばし思案に耽りました。
隣で座る美嘉は、やっぱり何も言いません。

 「美嘉、口固い?」

 「莉嘉と仲良しの加蓮くらい固いよ」

 「じゃあ言わない」

 「コラ」


頬を突っつかれて、加蓮はまた両手を挙げました。

 「私ね、卯月になりたかったんだと思う」



 「……卯月?」

 「卯月みたいな娘、かな。正確には」

 「意外。加蓮が卯月推してるのは知ってたけど」

 「昔から漠然とアイドルには憧れててさ。
  最初は、ほら、アイドルってだいたい健康そうじゃない?
  私にとっての『元気』の象徴がアイドルで、だからなりたかったんだと思う」


加蓮は理詰めで物事を俯瞰できる娘でした。
その能力こそがアイドル北条加蓮の武器なのだと、彼女はまだ気付いてはいませんが。

 「でも違った。卯月ってさ、ほら、練習量すごいでしょ」

 「ま、ね。加蓮とはまた別の意味で、純粋に量こなすよね」


少し目を離した隙に、この前替えたばかりのシューズをボロボロにしている。
それが加蓮と美嘉、二人のよく知るアイドル島村卯月でした。



 「あの娘を見て、分かった。
  私……好きだからとか、やりたいからとか……
  そんな理由だけで頑張れる人に、ただ憧れてただけだった」


そこまで話すと、加蓮は言葉を切りました。
少し喋り過ぎたと、微かに頬を赤らめます。

 「……そっか」

美嘉は肯定も否定もせず、加蓮の瞳を覗き込んで柔らかく笑いました。


一緒に居ると気を許してしまって、ついつい話し過ぎてしまう。
加蓮にとって美嘉はそんなアイドルで、
帰宅してからベッドの上で転げ回った経験も一度や二度ではありません。


猫みたいに気持ちの良い伸びをして、美嘉が帰り支度を始めます。
すっかり存在を失念していた時計を見れば、
針はまもなく二十一時を回ろうとしていました。


 「ぜったい内緒だからね、卯月には」

 「加蓮が莉嘉にアタシの秘密とか訊き出そうとしなければね」

 「それは無理」

 「ちょっと」

心地良い疲労感を抱え、加蓮は立ち上がりました。
荷物を纏めて美嘉の後を追おうとし、つま先が何かに蹴躓きます。
足元を見てみても、トレーニングシューズに包まれたつま先以外は見当たりません。


 「加蓮ー? 置いてくよー」

 「あ……うん。いま行くー」

 「どうかしたの?」

 「いや、クラゲが居てさ」

 「……何の話?」

思い出話を語り合い、二人は更衣室へと向かいます。
あの日、床にへばりついていた液体生物は、
無事伸びてきた二本の脚で元気に歩いてゆくのでした。


 ◇ ◇ ◆


何かの拍子に窓ガラスが鳴って、加蓮はゆっくりと目を開きます。


薄手のシーツに包まれていた身を起こすと、
そこに待ち構えていたのは薄闇の広がる病室。
またこれかと、加蓮は誰に遠慮するでもなく、大きな大きな欠伸を決めました。


すっかり病院と縁遠くなって久しい頃、
加蓮は時折こういった夢を見るようになりました。

目覚めるのはいつもベッドの上。
階や場所は違うものの、いずれも加蓮が寝転んだ覚えのあるベッドでした。
時間はいつも深夜で、加蓮の他に人影はありません。


最初こそ恐ろしくて泣き出しそうになりましたが、
今ではすっかりルーティンワークです。
パジャマとスリッパのまま病室を出て、夢遊病ってこんな感じなのかな、
だとか下らない事を考えつつ、眠くなるまでぺたぺたと病院内を歩き回ります。



他の病室。
受付。
診察室。
手術室。


錠も何も掛かっていない病院内はどこでも入り放題で、
勝手が分かってきた頃はむしろ若干楽しくすらありました。
もっとも、今ではそれもすっかり飽きてしまって、
ただぼんやりと徘徊するだけになってしまいましたが。


今日は比較的疲労の回りが早いようです。
そろそろ頃合いだろうと幽霊病院ツアーを切り上げ、
四階の病室まで踵を返します。

スライド式のドアを開け、さぁ一眠りして起きようとベッドに向かい、
何かが光っているのに気付きました。


サイドボードへ置かれていた携帯テレビ。
いつの間にかその電源が入っていて、小さな液晶に何かの映像が映し出されています。

 「……あ」

事務所主催のライブ映像のようでした。

いつのものかは判別が付きませんが、
奏や奈緒など、どのアイドルにも見覚えがあります。
なかなか盛大なライブらしく、思いつく限りの顔ぶれは全員が出演しているようでした。




 加蓮ただ一人を除いて。



 「――っ!」


声にならない叫びを上げながら手を振り回しました。

床に叩き付けられたスマートフォンが震え続け、
表示された画面は午前七時を知らせてくれています。

肩で息を繰り返していると指先に軽い痛みが走ります。
スマートフォンを力の限り払い除けた衝撃か、
小指の爪の端はひび割れたように欠けていました。


加蓮の部屋の、加蓮のベッドの上。
壊れるまで使って捨てた携帯テレビなどある筈も無く、
そろそろ起きてくれと言わんばかりにアラームが鳴り響いているだけでした。

 「は……ぁ……」


小刻みに震える手を、もう片方の手で強く抑え込みます。
そうしていないと身体どころか、すぐに心まで震えてしまいそうでした。


 ◇ ◇ ◆

現代の理論では、夢について判明している事実は多くありません。

人によってフルカラーかモノクロームか違っているらしいだとか、
そもそも一切見ない人も居るだとか、
得た記憶の整理作業中の副産物なんじゃないかとか、
せいぜいがその程度です。


今回の夢について、加蓮は防衛機制の一種ではないかと推測していました。

バースデーライブという大一番。
その高揚と不安を察知した加蓮の心が、
安定の象徴たる過去の記憶を追体験させる事で解決を図ろうとしているのではないかと。

夢は所詮、どこまでいっても夢。
夢の中で何が起きようが、現実の自分に何ら影響はありません。


幾ら自分にそう言い聞かせても、
暗い病室で目覚める度、加蓮は細い体を震わせずには居られませんでした。


バースデーライブの長丁場をこなすため、
今の加蓮に必要とされているのは一にも二にも体力です。


とは言え、体力など一朝一夕につくものではありません。
地道な反復運動こそが一番の近道です。
加蓮の今の体力とて、三年間のアイドルを経てようやく身につけた成果なのですから。

そうなれば後はもう、いかに体力を使わずに演じられるかの勝負になってきます。
そのために必要なのは効率化。
喉へ負担を掛けないブレスの方法や、最小限の動作で綺麗に見せる為のステップ。
どれも結局は地道な反復練習で、
けれど加蓮は他のメンバーが居ようと居まいと、泣き言一つ零しませんでした。


――もっと、体力を。


事務所でのレッスンが無い日にも、加蓮は近所で走り込みを繰り返します。
泣き言を言う暇があったら走れと、
いつだったかの凛の言葉を思い出して加蓮はひとり笑いました。

確かに泣いている暇などありません。
涙なんか流している暇があるなら、一滴でも多くの汗を。


文字通り寝る間を惜しみ、加蓮は体力作りに励みました。
ライブ本番が近付くにつれて、
その分、他のメンバーとの合同レッスンも必要になってきます。

削られた基礎動作の反復をプライベートの時間に無理やり捩じ込みます。

最初は二ヶ月に一度くらい。
けれど、レッスンが密度を増す度に、その頻度は増えていきました。


一ヶ月に一度。
二週間に一度。
一週間に二度。


消えて無くなる筈の不安感が、戻る必要の無い筈の場所が、得体の知れぬ質量をもって。



 「加蓮ちゃん」



 「……ん。どうしたの、卯月?」

 「え、っと……最近、頑張ってますね!」

 「うん。私一番の大舞台だからね。ボケっとしてる暇は無いよ」

 「……ねぇ、加蓮ちゃん」

 「なに、卯月?」

 「少し、私と……お話を、しませんか?」


震える手が、加蓮の汗ばんだ手を握りました。
伝わってくる温度を感じて、俯くようにして頷きます。


 ◇ ◇ ◆

プロデューサーから差し入れられた、紙コップのアイスココア。
両手で抱え、小刻みに揺れる水面を、加蓮はただじっと見つめていました。

 「ネイル」


卯月が呟きます。

 「加蓮ちゃんのネイル。
  綺麗で、凄いなぁって見てたんです。でも、最近、してないなーって」

指先を伸ばしました。
いつだったか欠けてしまった小指の爪も、今では跡一つも残っていません。
綺麗に整えられた、ごく普通の爪です。


何だか、塗る気が起きなかったのです。

明日は塗ろうかな。
週末に塗ろうかな。

小さな先延ばしが積み重なって、今日がその最後尾でした。


 「ごめん」


加蓮の呟きに、プロデューサーは一瞬だけ、ほとんど泣きそうな顔になって。
それから何度も首を振りました。

 「そうじゃない。叱りたい訳じゃないんだ、加蓮」

 「……何で?」

 「だって……逆だろう。加蓮が……どうしてそんなに、辛そうなのか。
  担当プロデューサーの癖して分かってない、俺が叱られる側だ」

 「ちょっと、レッスン……し過ぎたからだよ」

 「そのくらいなら、俺も分かるんだ。加蓮は自分の体力を考えて、
  多分、俺の知らない所でも何かをこなして、上手いことレッスンを重ねてる。
  確かに普段よりもハードだけど、加蓮が苦しんでるのは……そこじゃない気がする」

 「……」

 「まるで……何かから、追い掛けられてるみたいだ」


揺れ続ける茶色の水面は、自分が今どんな顔をしているのか、加蓮に教えてくれません。


 「…………笑わない?」


届く前に消えてしまいそうな言葉へ、二人は深く頷きました。

 「笑いません」

 「……ほんと?」

 「笑わない。笑ったら渋谷さん呼んで、ぶん殴ってもらう」

 「こわい夢を、みるんだ」


二人が静かになって、加蓮が話しやすくなりました。


 「暗くて、戻って、ぜんぶ失くす夢。
  あんまり寝たくなくて……走ってただけ」


もっと何かを話そうとして、話せませんでした。
口に出してしまえば、それが形となって襲い掛かってくるんじゃないかと、
そんな想像をしてしまったから。


加蓮が話し終えると、二人はじっと考え込んでいました。
やがてプロデューサーが一度頷いて、卯月に視線を移します。


 「島村さん」

 「はい」

 「どうか、力を貸してほしい」

 「もちろんですっ!」


待ってましたと言わんばかりに、卯月が勢い良く立ち上がりました。


 ◇ ◇ ◆

 「……」



 「ふぁー……! このマリネ、とっても美味しいです!」

 「あら! 良かったわー。遠慮せずにどんどん食べてね?」

 「はいっ!」

 「どうしましょうお父さん。楽しくて仕方が無いわ。娘がもう一人出来たみたい」

 「全くだ。でも加蓮の方が可愛い」

 「それもそうね」

 「え……えぇ~っ? ふ、二人ともひどいですよ~!」

 「うふふ……ごめんなさい」



 「……」


北条家の食卓に新たな家族が加わりました。
母が張り切って用意した夕飯を堪能しつつ、父にからかわれて目を白黒させています。

 「お母さん、お料理上手なんですねー」

 「そうなの。この人も胃袋から掴んだのよ」

 「おいおいやめてくれよ」

 「あははっ。加蓮ちゃん、お父さんもお母さんも、とっても面白い方ですね!」

 「……まぁ、浮かれてるのは否定しない、かな」


鶏の香草焼きに齧り付きながら、加蓮は苦笑を返します。



――ウチでライブ前の強化合宿したい。泊まり込みの。


そう両親に告げる前、具体的には「合宿」の辺りまで喋ったところで、
両親は来なさい来なさいと満面の笑顔で首肯を繰り返しました。

拍子抜けする程あっさりとした承諾に彼女は毒気を抜かれ、
居間とか使うようならテーブルをどけようか等と逆に提案してきた二人に、
加蓮は改めてダダ甘な親だと感じ入るばかりでした。


初日の今夜は卯月の番。
育ちの良さなら誰もが認める所の彼女は、加蓮の両親から案の定大歓迎を受けました
島村さんと呼ばれていたのも最初の一度だけ。
後は卯月ちゃん、卯月ちゃんと呼ばれる度に、とびきりの笑顔を零します。


明日以降の凛や奏を両親がどう構い倒すのか、ちょっぴりだけ楽しみでした。



 「ウチの娘になっちゃう?」

 「あはは。魅力的ですけど、パパとママが泣いちゃいそうで」

 「泣いちゃいそうって言うか、泣くね絶対。島村家の場合」


夕食から少し時間を開けて。
並んでジョギングをしながら、二人は家族談義を交わしていました。

 「本当に、加蓮ちゃんの事が大切なんですね」

 「そうかな? まぁ……そうかも」

 「昨日の今日で泊めてもらえて、
  あんなに歓迎してもらって……何だか、私まで嬉しくなっちゃって」

 「卯月ってさ、けっこう平気で言うよね。恥ずかしい事」

 「え、えぇ? そうでしょうか……?」

 「ふふ……あー、あっつい。もうむーりぃー」


おどけた声真似を披露しつつ、加蓮はゆっくりと歩調を緩めます。
夏の湿気にすっかり汗みずくとなったトレシャツのジッパーを下ろし、
ぱたぱたと仰いで、さして涼しくもない外気を取り込みます。

お外ではしたないのはダメです、と卯月にジッパーを上げ直され、
加蓮は情けない声で呻きました。

 「うぇえー……谷間は私のアイデンティティなのに……」

 「みくちゃんみたいですね」

温い風から逃れるように天を仰ぎます。
冬場に比べれば随分と濁っている夜空には、それでも、幾つもの星が微かに煌めいています。


空を見上げるのは久しぶりでした。
思えば、最近は前しか見ていなかったような気がします。


静かに夜空を見つめる背中を、卯月は微笑みながら見守っていました。



 「さ、女子会……の前に、どっちで寝るか決めよっか」

 「え? 加蓮ちゃんがベッドじゃないんですか?」

 「いやいや、ゲストに決めてもらわないと」


お風呂でしっかりと身を清め、
パジャマ姿の二人は加蓮の自室で女子会の準備に取り掛かりました。
ベッドのすぐ脇に予備のお布団を敷き、その上でちょこんと向かい合います。

 「私、お布団で大丈夫ですよ?」

 「あ……ごめんね? 私の匂い、くさいよね……」

 「く、くさくないですっ! とってもいい匂いがしますっ!」

 「いや力説されても困るけど」

軽口に卯月が拳を握りました。
そういうのは凛とか響子辺りにやってほしいと、
加蓮は掌を見せ、どうどうと卯月を宥めます。


 「でもいいの? このマットレス、
  けっこう良いやつなんだよね。卯月ん家も良いの使ってるんだろうけど」

 「へぇ……そうなんですか?」

 「そうそう。ちょっと一回だけ、お試しで寝転がってみたら?」

 「う~ん……じゃあ、お言葉に甘えて……あ」

 「どう?」

 「確かに、すごくふかふかで……良いですね」

 「目を閉じるともっとよく分かるよ」

 「ふむふむ……」

 「はい、そのまま深呼吸してー」

 「すー……」

 「いいこいいこ。じゃ、頭の中で呼吸を百までカウントしてみよっか」

 「すー……すー……」


加蓮のカウントが六十回を超えた辺りで、卯月の吐息が寝息へと変わります。

そっとタオルケットを掛けてやりつつ、
親御さんは子供卯月を寝かしつけやすくて助かってたんだろうなぁと、
柔らかなほっぺたの感触を指先で味わっては頷きました。



卯月が完全におやすみモードへ突入したのを見届けると、
加蓮は冷房の設定温度を少しだけ上げました。
部屋の明かりを消して、自分も久々のお布団の中へ潜り込みます。


誰かを部屋に泊めるのは初めてでした。
いつもより天井が高くて、友達の寝息が聞こえて。
それだけで何だか秘密の冒険でもしているような、妙な気分に眉が緩んでしまいます。


 「ありがと」

 「……ふぇゆぅ」


耳に届いたのか定かではありません。
たまたまかもしれません。

卯月の夢心地な返事に小さく笑って、加蓮は目を閉じるのでした。


 ◇ ◇ ◆


何かの拍子に窓ガラスが音を立てました。
ゆっくりと目を開け、シーツをめくりながら身体を起こします。

 「あら、おはよう」



 「……おはよ。たぶん夜だけどね」

 「残念。もう少し寝てたらキスで起こしてあげたのに」


奏が隣のベッドに腰掛けていました。
女子会の時に着ていたネグリジェのまま、病室の中を感心したように見渡しています。

正直その格好は目の遣り場に困るので何とかしてほしいのですが、
言って素直に聞くような女ではない事を、加蓮は十二分に承知していました。

 「えっと、ここ、私の夢なんだけど……なんで居るの?」

 「さぁ。きっと、私の夢でもあるのよ」

 「……」

 「それで……やっぱり、ここが貴女の言ってた?」

 「うん」

 「暗いのね。それに、静か」


スリッパを履き、奏と共に病室を後にします。


今回も病院内は息を潜めるかのように静謐を湛えていて、
唯一違うのは一人分増えたスリッパの音だけでした。

いつものようにあちこちを歩き回る加蓮。
奏はそんな彼女の隣を静かに付き従います。


レントゲン室を出て、階段の所まで戻って来ました。
目を覚ました病室のある三階へと一歩を踏み出した時、奏が初めて口を開きます。

 「どうして戻るの?」



 「……え?」

どうしてと言われても、戻る場所は結局そこしか無いのです。
無いのですから、そこに戻るしかありません。

 「だって」

 「加蓮は、加蓮よ。貴女はもう、シンデレラなのに」


憫笑。

昔、何かの小説で知ったそんな言葉を、加蓮は思い出していました。
きっと、奏のこの笑みを表す為に作り出された表現なのだろうと、
何故だか加蓮は、自分の中にほとんど確信めいたものを持っていました。


病室へと続く一段目。
そこに載せていた足をそっと戻して、加蓮は再び歩き始めます。


これまでの夢で一度も近寄った事も無い玄関の自動ドアは、無機質に口を噤んでいました。
すぐ目の前に立っても、何度か手をかざしてみても、うんともすんとも言いません。

 「開かない」

 「開くわ。鍵は、掛かってないもの」

ガラスとガラスとの僅かな隙間に、奏が細い指先を差し込みました。
寝る前に塗ってやった夜色のネイルが剥がれ落ち、粉となって消えてゆきます。


 「んっ……」

整った顔を少しだけ歪め、奏は指先に力を籠めます。
ざりざりという悲鳴にも似た耳障りな音を立ててドアが開け放たれると、
強く吹き込んだ風が少女達の髪を弄んでいきました。

 「さぁ。往きましょう」

 「何処へ?」

 「何処へだって往けるわ。夜は、私達の時間だもの」


差し出された手に華を添える筈の夜色は、すっかり見る影もなくなっていました。
乱れた指先を見つめ、加蓮はゆっくりとその手を握ります。


お揃いのスリッパを履いて、シンデレラ達は静かなお城を抜け出しました。



 「――ねぇ!」


風切り音とヘルメットに阻まれて自信はありませんでしたが、
背後の奏がそう叫んだように聞こえました。

 「なに!」

 「まるでロード・ムービーみたいじゃない? 本当に……痛快だわ!」

 「イージーじゃないよこれぇ! ハンドルおっもい!」

車一台も通っておらず、信号の一つも灯っていない山の手通りを、
病院の駐輪場から失敬してきた二人乗りのオートバイが駆け抜けて行きます。

パジャマにヘルメットで叫び散らす少女達は、
百人が見れば百人が指を差して嘲る滑稽な姿でした。

ですが今、二人を見つめているのは物静かなお月様だけです。


 「寄り道していいーっ?」

 「加蓮、何か言ったー?」

 「寄り道していいかってー!」

 「何処へでもー!」


加蓮が急ハンドルを切ると、
二人分の悲鳴を生贄にして、奇跡的なドリフトが決まりました。


奇跡的に何とか停車する事が出来ました。
しかし、何故だかエンジンまで鼓動を止めてしまい、
どれだけいじり回してもうんともすんとも言ってくれません。

スタンドの立て方が分からず、
とりあえずその辺の街灯にオートバイを立て掛けて頷き合った二人は、
ヘルメットを脱いでパサつく髪を靡かせます。


久しく顔を見ていなかったコンクリートの塊は、
真っ暗闇の町中で煌々とライトアップされていました。
入口すぐ上の大看板に写っているのは、在りし日のデニス・ホッパー達。

 「あら。ちょうどいいわね」

 「ご都合主義だなぁ」

 「嫌い?」

 「別に。夢だしね」


 「ふふっ……レイトショーなんて初めて」

 「ごゆっくり」

 「貴女は?」

 「ん、ちょっと食べたいものがあってさ」

 「……そ」


手を振ってミニシアターへ消えようとした奏の背に、
加蓮は伝え忘れていた約束を思い出しました。

 「かなでー」

 「……?」

 「いつか、ツーリング行こ!」

加蓮が親指を立ててウィンクを飛ばします。


ハリウッド映画も真っ青なハンドル捌きを思い返すと、
奏は苦笑だけを返して劇場へと入って行きました。



百貨店の向かい、細長いビルの一階と二階に掲げられた顔馴染みのアルファベット。
やっぱりこのお店は照明が煌々と灯っていて、加蓮は店内へ続く扉を押し開けました。

明るい店内には誰も居ません。
でも、それでいいのです。

窓から通りを見渡せる二階のカウンター席へ腰掛け、静かに目を閉じます。


加蓮はアイスとポテトと甘いココアを愛する女の子でした。
健康に悪いものほど美味しい。
今でもそう信じて止まないのは、もしかしたらある種の反動だったのかもしれません。


それでも加蓮は、これからだってポテトをつまみ続けます。
たまには小言の多い隊員にLサイズを託して。
時にはケチャップ色のネイルを塗って。


揚げたてを知らせる電子音と、扉を押し開ける小さな音と。
どちらが早かったのか、加蓮には分かりませんでした。


 ◇ ◇ ◆


目の覚めるほど綺麗な顔が眠りこけていました。

枕元で振動を繰り返すスマートフォンを見もせずに黙らせ、
むくりとベッドから身を起こします。


 「……夜這いだぁ」


奏が埋もれていた筈のお布団はもぬけの殻。
ちょうど薄目を開け始めた彼女は相変わらず目の遣り場に困るネグリジェ姿です。

緩慢な動作で上半身を起こすと、若干ボサついている髪にくしゃっと雑な手櫛を通し、
ぼんやりと周りを見渡して、隣の加蓮を認めたのは一番最後。


 「……加蓮……何で、私のおふとんで寝てるの……?」

 「ぜんぶ逆」


奏は、見た夢の内容を寝起き三秒で忘れるタイプでした。



 「おはようございます。お父様、お母様」

 「あらおはよう。挨拶がしっかりしてるわねぇ」

 「奏ちゃん。ジャムは苺とブルーベリー、どっちがいい?」

 「そうですね、ブルーベリーをお願いできますか?」

 「よしきた」


奏らしきものをどうにかこうにか速水奏まで仕立て上げると、
加蓮は引き摺るようにして彼女を食卓へと連れてきました。
下りで一段踏み外したのが効いたのか、
今やどこに出しても恥ずかしくない人気アイドル速水奏です。

加蓮がもの言いたげな眼を向け、首を傾げた奏に何でもないとだけ呟きました。


 「美嘉ちゃん達もそうだったけど、加蓮のお友達はみんなしっかりしてるね」

 「恐縮です。幻滅させなければよいのですが」


加蓮が口を開き、何も言わずにトーストを齧ります。


 「幻滅なんてとんでもないわ! 次に泊まりに来るのは来週だったかしら?」

 「ええ。その予定です」

 「……それなんだけど」

トーストを持っていない方の手を挙げ、加蓮が三人の耳を集めました。
牛乳で口の中を綺麗にし、短く一息。

 「もう大丈夫。強化合宿は今日でおしまい」


奏が心得たように薄く微笑んで、両親は目を丸くしました。

それだけでは収まらず、
それぞれの手にしていたスプーンとフォークを皿の上へ取り落して、
指先をわなわなと震わせます。

 「そんな……嘘だろう、加蓮……」

 「……えっと、何が?」

 「ま、まだ奈緒ちゃんが泊まりに来てないじゃない!
  晩御飯の材料だってもう買ってあるのよ……?」

 「…………えぇー……?」


伏せた顔を震わせ続ける奏の前で、
両親による必死の説得が繰り広げられました。

最初こそ適当にあしらっていた加蓮でしたが、
熱の籠もった二人と言葉を交わすのがだんだん面倒になってきて、
結局最後は首を縦に振らされます。


手を握り合って喜ぶ両親を眺め、奏が加蓮へ視線を流しました。

 「愛娘は大変ね」

 「代わってあげよっか?」

 「遠慮しておくわ。胸焼けしちゃいそう」


加蓮が隠すように溜息をつきます。
とっくに焼けている胸の中へ、冷たい牛乳を流し込みました。


 【Ⅷ】ミントグリーン


 「……キャンドルの炎がゆらめく時、そこに必ず影は寄り添う」



 「……急にどしたの、加蓮」

 「ん? いや、言ってたのはジェダイだったか、
  それともシスか……さっきから頑張ってるんだけど全然思い出せなくって」

そのままそっくり返すように、凛が首を傾げました。

 「意味分かんないけど、そういうのは奏の専門じゃないの」

 「ノベライズ版のモノローグよね、確か」

 「あ、そうだったっけ?」

 「おー、さすが」

 「誰の語りだったかは……私も覚えてないけど」

奏の苦笑に、奈緒が素直な称賛を贈ります。


 「いいよ。舞台裏って暗いよねって、何となく思っただけだから」


照明の落とされたステージの上、ベニヤとFRPで組み上げられたお城の裏。
僅かなフットライトだけが頼りの薄闇に立ち、
少女達は密やかに声を交わし合います。

 「リラックスし過ぎでしょ、アンタ達」

 「いいんじゃない? カッチコチになるよりはさ」

 「まぁね。あ、そだ」

茶目っ気たっぷりのウィンクを飛ばし、美嘉が笑いました。
それから思い出したようにぴんと指を伸ばして、加蓮の肩を抱き寄せます。

 「ウチの可愛い妹から伝言。
  センターなんだから、とびっきりカッコよくキメてよね☆ ……だってさ★」

挑むような瞳に軽口を叩こうと唇を尖らせました。
次の瞬間に辺りが一段と暗くなって、客席の照明も絞られたのだと分かります。
そばで控えていた卯月が握った拳へ、加蓮はこくりと頷きます。


五人の少女達はアイドルへと変わりました。
揃いの衣装、”アクロス・ザ・スターズ”に身を包んだ四人が、
騎士のようにお姫様へと寄り添います。


目を閉じるともう、真っ暗闇でした。
ホールはすっかり静かになって、自分の鼓動がよく聴こえます。

少しずつ呼吸をずらし、鼓動とぴったり重なった瞬間、
メロディが流れ出しました。


 『――誰よりも、光れ!』


そしてお城を飛び出して。


 『この世界、ただ一つのMY STAR――』


今日この日を精一杯輝くために編み出された衣装。
”スパークリング・モーメント”を華麗に翻し、加蓮は跳ねました。


 「――3、2、1、Fight!」



 『BEYOND THE STARLIGHT』
 http://www.youtube.com/watch?v=eDzsLG4EZM8


 ◇ ◇ ◆

今の加蓮にとって、三千というのは決して小さなハコではありません。
それでも、他の五人の力を借りたのは確かでも、彼女は埋めてみせました。
埋めるどころか勢い良く零れて、
抽選率に加蓮のファン達が悲痛な叫びを上げていたくらいです。


もっと大きな会場を知っています。
もっと有名なアイドルだって知っています。

でも、客席を埋めるこの人数が、漏れ無く北条加蓮を求めて遊びに来たのだと、
その事実を噛み締めるだけで珠の汗が流れました。


 『――愛をこめてずっと、歌うよ!』


卯月とのデュエットを終えて前半戦が終了しました。
歓声と拍手を最後まで受け取ってから、加蓮がハンドマイクをしっかりと握り直します。

 『やー、嬉しいね。こんなに嬉しい事があと半分も残ってるんだってさ』

 『えぇっ……? もう半分しか残ってないんですかっ?』

卯月のMCへ合わせるように、会場が似たような声を上げました。


 『お。コップ半分の水? 私以外そっち派かー』

 『コップ……えっと、何ですかそれ?』

 『あ、ううん、気にしないで。卯月はみんなに可愛がられてればそれでいいから』

 『何ですかそれー!』

 『せーのっ、卯月かわいーっ!』

投げた声が三千倍になって帰ってきました。
爆笑する加蓮の隣で卯月がわたわたと頭を下げ、
盛大な拍手と笑い声が巻き起こります。


頬を膨らませてじとりと視線を向けてくる卯月を爽やかに無視して、
加蓮が再び会場へ語りかけました。

 『さてさて。ここで三十分の休憩だよ。みんな騒ぎ疲れちゃったでしょ?
  でも、後半はもっとブチ上がってもらうから、覚悟しておいてね?』

 『会場の温度も上がってます! しっかりと水分補給をしてくださいね!』

 『それじゃあまた三十分後。
  もし加蓮ちゃんが恋しかったら、泣いちゃってもいいからね? 分かったひとー』


はーいっ!


ほとんど怒号のような返事が響いて、加蓮はまた笑ってしまいました。


 ◇ ◇ ◆

卯月と共にハケると、彼が待ち構えていました。

 「バッチリだ。ナイスパフォーマンス」

 「とーぜん。私を誰だと思ってるの?」

 「世界一のアイドルだよ」

 「言うようになったね」

 「どうも」

軽口を叩き合う二人のそばで、卯月は何か言いたげに手を泳がせるばかりで。


 「だから言わなくちゃいけない。加蓮」

 「お願い。無茶、させて」


 「……加蓮ちゃん」

泣き出しそうな卯月の呟き。
二人分の視線が加蓮の右足へと注がれました。
アドレナリンの分泌が落ち着きを見せ、震えが顔を出し始めます。

 「……アクセル、踏み過ぎだ」

 「あはは。私の方がアガっちゃってさ」

衣装の裾を握り締めそうになった手を、そっと離しました。

 「休めば、イケる。最後までだって、保たせるよ」



 「……分かった。何かあったらすぐに言ってくれ。
  島村さん、加蓮を控室まで連れて行ってもらえるかな」

 「はいっ」


じっとりと重たくなった手を引かれ、加蓮はステージを後にしました。


 「……お。加蓮、」

ひとまずの出番を終えたみんなは一足先に控室へと戻っていました。
休憩に戻ってきた加蓮と卯月を見て、奈緒がすぐに椅子から立ち上がります。
細い肩を叩こうとし、紡ぎかけた言葉が途切れました。

 「……加蓮?」

 「みんなありがと。えっへへ、
  会場かなりボルテージ上がってるよ。後半も凄いよ、きっと」

 「ねぇ、加蓮」

 「ただ、うっかりはしゃぎ過ぎてさー……
  疲れちゃって。少し休めばまた元通りだから」

 「……出ようか?」

 「……うん。ごめん」

問い掛けにも顔を上げない加蓮を、凛はじっと見つめていました。
所在無く立ち尽くしていた奈緒を手招きし、入口の扉へと背を押します。
他の三人にも視線だけで扉を示し、
みんなが出たのを確認してから最後にそっと扉を閉めました。


美嘉が叱ってくれて、
卯月が話してくれて、
プロデューサーが聞いてくれて。

みんなを頼り、自分を信じて積み重ねてきた筈のものが、今にも崩れかけている。
嘲るように目の前で震える脚が、
「助けて」とまた叫ぶだけの小さな勇気を、加蓮の中から奪っていきました。

みんなを失望させてしまう事が、加蓮は何よりも怖かったのです。
きっと、全てを失ってしまうから。


健全な精神は健全な肉体に宿る。
裏を返せば、満足でない身体には弱い心が宿ってしまうという事。

震える脚を前に、とうとう心まで震え出してしまいます。
悪循環が悪循環を呼び寄せて、
彼女の優れた武器である分析力を奪い取っていきます。




……。




…………うん。




ちょっと、深呼吸してみましょうか。



 「…………ぁ、え?」


深呼吸。


 「な……なに? 奈緒? 誰……プロデューサー?」


まぁ、いいじゃありませんか。はい、吸ってー。


 「……す――」


吐いてー。


 「――は……っ」


少し、落ち着きましたか?


 「……まぁ、ね」


人は誰しも、自分がただの端役なんじゃないか、
数居る演者の一人に過ぎないんじゃないかと、そう思えてならない時期があります。

貴女にも、少しは心当たりがあるとは思いますが。


 「……」


もし、今の自分を悲劇のヒロインとでも考えているなら、それは違います。
貴女はいつも、いつだって、戦ってきました。



貴女は、貴女の物語の、主人公ですよ。


 「……買い被り過ぎ。私は、
  卯月や、奏や……みんなみたいな主人公なんかじゃ、ないよ」


ふむ、なるほど。
そんな主人公たちに囲まれて、貴女ただ一人だけが、決して主人公などではないと。


 「…………アンタは」


そうそう。
物語の主人公というのは、往々にして魅力的な仲間に慕われているものです。


そして仲間達と共に――幸福な結末をその手に掴み取るのですよ。



それきり、男とも女とも、子供とも大人ともつかない、
妙な声は聞こえなくなりました。

 「ねぇ……ねぇ?」

加蓮は慌てたように辺りを見渡します。
壁も床も天井も、どこからも声は聞こえてきません。
しばらくうろうろと歩き回って、再び膝を折りました。

 「……言いたい放題言って、ドロンか」


イケ好かない奴。


そう小さく呟いた時、ノックの音が響きました。

ごくごく静かにドアが半分開かれて、
ぎゅうぎゅうに詰まって心配そうにこちらを伺う美嘉たちを背に、
彼が加蓮の傍でしゃがみ込みました。

 「加蓮……大丈夫か?」



――大丈夫。あなたが育てたアイドルだよ。


一流のアイドルなら、きっとそんな風に答えて彼を微笑ませるのでしょう。

でも、怯えて、泣いて、もがいて、これからだって戦い続ける加蓮に、
そんな綺麗な台詞は言えませんでした。


だから彼女は、また考えを巡らせました。
今まで数々の困難をやっつけてきた、その優れた武器を以て、返すべき言葉を探し当てます。


 「神様の声って、誰にでも一度だけ聞こえるんだって」



 「……加蓮?」

 「聞こえた事。Pさんは、ある?」

 「……いや――」

反射的に首を横に振ろうとして、彼はこちらを見つめる瞳に気が付きました。
先ほどまでの弱さの色が消え、知性の光を再び灯し始めた瞳に。


即席の言葉を打ち捨てて、彼もまた考えを巡らせます。
今、加蓮のこの言葉へ答える為にプロデューサーで在り続けたのだと、
彼はそう確信していました。


 「――思い出した」


そして、彼が口を開きます。

 「……思い出したよ。何で、今まで忘れてたんだろうな」

開いた口元を手で抑え、確かめるようにもう一度、零しました。

 「……あるの?」

 「……どうなんだろうな。
  正直、加蓮の言うそれなのかは分からない。でも、一度だけ、不思議な経験があるんだ」

プロデューサーが重ねた両手をぎゅっと握り合わせました。
捕まえた感覚を、もう二度と逃さないかのように。

 「加蓮と逢った日だよ」



 「私と……?」

 「ああ」

言われて加蓮も思い出します。
ポテトを待っていたら、何故か物凄い勢いで入店してきたスーツ男。
少し霞みかけた景色に、記憶の絵筆でもう一度色を付けました。

 「ポテト全サイズ百五十円」




 「……え、何? 急にどしたの、Pさん」

 「だから、ポテト全サイズ百五十円」


彼にはあまり見せないよう努めていた間抜け面を久々に浮かべてしまいました。
ぽかんと口を丸く開けて、真意を問うように首を傾げます。

 「あの日の朝な。目覚める寸前だったと思うんだが……誰かが俺の耳元でな、
  どデカい声で『ポテト全サイズ百五十円!』って叫んだんだよ。一人暮らしなんだけどなぁ」



 「……はっ?」

 「そんでまぁ、なんか全然頭から離れなくてさ。急いで買いに行ったんだよ。
  朝は起きたら何故か遅刻寸前だったから、買ったのは結局外回り中だったけど」

 「……」

 「……加蓮? おーい」

加蓮が完全に固まってしまいました。
固まってなお柔らかい頬を何度かつついてみましたが、一向に反応がありません。

これは答えをだいぶマズったかな、と彼が若干後悔し出す頃。


 「…………ぷっ」


加蓮がお腹を抱えて笑い転げました。


 「あっはははは! ひぃっ、ひぃー……っ! あはははっ!」

 「わ! 馬鹿、こら加蓮っ! 衣装にシワが……!」

 「……好きにさせてあげたら? なんか楽しそうだし」


気付けばみんな、加蓮とプロデューサーを囲んでいました。
ころころと転げ回る加蓮を見下ろして、凛が柔らかく笑みを浮かべていて、
それは他のみんなも同じでした。

 「あははっ! だ、誰か止めてぇ……っふふ!」

 「止めてと言われても……ねぇ?」

 「あはは……よく分かりませんけど、加蓮ちゃんが元気になって良かったです!」

 「莉嘉に動画送っとこ。はい加蓮、笑ってー……って笑ってるか、もう」

 「おーい、かれーん……結局脚は……聞こえてないな、これ」


加蓮の馬鹿笑いが収まるまでには、二分たっぷり必要でした。


 「はー……ばっかみたい」

目元に浮かんだ涙を拭い、加蓮が嘆息します。

 「散々私に偉そうな事言っといて……お節介が雑過ぎ」

 「え、俺そんな偉そうな事言ったっけ……?」

 「Pさんの事じゃないよ」

 「……じゃあ、誰?」

 「さぁ。誰なんだろうね?」

思い出したように加蓮がまた笑います。
疑問符を浮かべっぱなしの彼は背後を振り返りましたが、
同じように五つの疑問符が浮かんでいるだけでした。

 「ね、Pさん」

加蓮がよく見えるように右脚を伸ばしました。
震えはほとんど治まって、白い肌に血管が透けていました。

 「こういうの好き?」


 「本題」

 「はいはい……あんまり大丈夫じゃないんだ。
  痺れも痛みもないけど、結構ムリさせちゃってる。
  後半戦十回やったら、一回か二回は途中ですっ転んじゃうと思う」

あんなに言いたくなかった言葉が、驚くほど素直に滑り出しました。


出ていってしまった言葉の恐ろしさも、送り出した言葉の頼もしさも、
加蓮はもう知っていました。
また一つ新たな武器を手に入れて、今日これからだって彼女は戦うのです。

 「……それは、賭けだな」

 「でも私、分の悪い賭けってキライだからさ。ちょっとお願い、聞いてほしいの」

 「任せろ。得意だ」

 「魔法使いだから――でしょ? 全く、何回言うんだか」


勝手に代弁されて、勝手に呆れられて、彼はひどく嬉しそうに笑います。


 「それと……」

 「アタシ達も――でしょ? 加蓮の考える事くらい、みーんなお見通しなんだからね★」


美嘉の言葉に、奏が、卯月が、奈緒が、凛が、頷きます。
物語の主人公達は、それはそれは頼もしい笑みを浮かべてみせました。


 ◇ ◇ ◆


 『お待たせー。それじゃあ吹っ飛ばすから、掴まっててね?』


挑発は短く、激しく。

加蓮がそれだけで口上を打ち切って、頂点の一つになりました。
三人の呼吸音が、そのまま開幕の合図です。



 『Trinity Field』
 http://www.youtube.com/watch?v=kV_XgNUdULA



 『光る螺旋を描いて行く――眩しい空へ飛び立った想いが…』


遠慮は要らない。


加蓮が凛と奈緒へそう告げると、二人は不思議そうに首を傾げました。
しないけど、と口を揃えて答えた彼女達は、まさしく加蓮が並び立つのに相応しい頂点でした。


 『溢れ出す…”Mind”――』


三つの頂点、トライアドプリムス。

ユニット名を噛み締めながら、
加蓮はあんなに大事に撫でていたリミッターを遥か彼方へ投げ飛ばしました。

このトリオの持ち味は激しいボーカルとダンス。
腐心していた魅せ方すらついでに投げ捨てて、加蓮は馬鹿になってやりました。



 『もっと』

 『もっと』

 『もっと』


 『――燃えたい!』


余分なものなんて、全部構わず燃やしてしまえ!
このおっぱいだって割とあるんだから、ちょっとくらい燃やしたっていいでしょ。
奈緒の髪も燃やしちゃって、さっぱりショートヘアを拝むのもいいな。
そうだ、ついでに凛の身長も燃やしちゃおうっと!


脳内麻薬がだくだくと分泌されているのが分かりました。
支離滅裂の塊みたいな思考がファン達にバレないよう、
持てる力を全てパフォーマンスに注ぎます。

明らかなオーバーペースですが、
後の事は後の加蓮ちゃんがきっと何とかしてくれるだろうと、
加蓮は半ば思考を放棄していました。


 ◇ ◇ ◆


 「はぁ……はぁっ……は……っ」


十一曲目。

美嘉とのデュエットを唄い上げ、加蓮は荒い息を繰り返します。
マイクが拾う温度と、肩で息をする姿に、観客達が静かにざわめき出しました。

汗でぬめるのも構わずに、美嘉がそっと彼女の肩へ手を置いて。
じんわりと広がる熱に引っ張られるみたいに、
ゆっくり、ゆっくりと、俯いていた視線を上げます。


ファンが居ました。


 『次、ラスト……新曲』

半ば予期していただろうとは言えど、それでも会場はどよめきます。
もつれそうになる舌で何とか言葉を吐き出しました。


美嘉に今度は背を撫でられて、
絶え絶えだった呼吸のリズムが少しずつ取り戻されていきます。
細く長く息を吐いて、加蓮は背筋をぴんと伸ばしました。

 『最後に……最後に、新曲、唄うよ!』

どよめきは、歓声に。

 『でも、その前に一つ……お願いが、あるんだ』


隣へ視線を送りました。
カリスマギャルがバチリと音の出そうなウィンクを返してくれて、加蓮は笑ってしまいます。


信頼を失うのは一番恐ろしい事だと思っていました。

仲間の信頼を、
プロデューサーの信頼を、
それからもちろん、ファン達の信頼を。


これから送り出す一言は、
これまでに積み上げてきた北条加蓮のイメージを粉々に砕いてしまうのかもしれません。


それでも加蓮は、分の悪い賭けだとは思っていませんでした。


 『実は結構、疲れちゃってさ……休憩しても……いい、かな?』


会場は静まり返って。
再びざわめき始めるまでの数十秒間を、
加蓮はマイクが壊れるほど強く握り締めながら待ちました。


――もちろん!


後部中央に居たファンの誰かが、力の限り叫びました。
それから少し間を置いて、彼ら彼女らが次々に声を張り上げます。


――休んでー!

――明日でもいいよー!

――明日は仕事ぉーっ!

――俺もー!

――めちゃくちゃ休憩してー!

――待ってるからーっ!


そのうち、重なり合った声はほとんど聞き取れなくなってしまいます。
滝のように汗を流しながら、それでも彼女は三千の声にじっと耳を澄ませました。


がたっ、かたん。

背後で幾つもの音が聞こえました。
袖から出てきた奈緒が、凛が、卯月が、奏が椅子を持ち寄って、
美嘉と加蓮にも勧めてくれています。

 『ありがとう』

椅子に体重を預け、加蓮が再び細く吐息を流しました。
ステージの中央に六人が身を寄せて、これから秘密の演奏会でも開きそうな雰囲気です。


 『……ライブってさ。たっ……くさんの人に支えられて出来てるんだよね』

 『うん。私達以外にも、事務所の人、スポンサーさん。
  メイクさんに衣装さん。会場を運営してる会社さんに、設営スタッフさんに……
  それからもちろん、集まってくれたみんなも』

言葉を継ぐように、凛が会場を見渡しました。


 『こうやって終演時刻を延ばしちゃうと、
  きっとみんな困っちゃうと思うんだ。
  お金だって掛かるし、スタッフさんも帰り辛いだろうし』

 『ひょっとしたら、
  交通機関の都合で本当に帰れない人も居るかもね。みんな、大丈夫かしら?』

奏がファン達に問い掛けます。


――明日の仕事、仮病使うから大丈夫ー!


誰かがそう叫んで、どっと笑いが零れました。


 『ふふっ……大丈夫じゃないわね、ソレ』

束の間の笑いが収まると、再び会場が静まり返ります。

 『……んー……待たせちゃうお詫びに、ちょっと、私の話でもしよっか』

 『……いいのか?』

ステージ上である事も忘れ、奈緒がそっと訊ねました。

 『うん。みんなはどう? 聞いてくれる?』


返ってきた言葉はてんでバラバラでした。
それでも不思議と、何となく肯定してくれるのが分かってしまいます。
ちょっと感傷的過ぎるかなと、加蓮は頬の汗を拭いました。


話し出す前に、ついと足先を確かめました。
ふわり膨らんだ裾の向こうで見え隠れする両足には、
確かに立派な靴が填め込まれています。



 『実は私ね、昔はけっこう身体が弱かったんだ。
  確か一回だけラジオで喋った覚えがあるから、中には知ってる人も居るのかな』

 『知ってる方はかなりのファンですね』

 『ふふ。確かに……それで、何回も入退院を繰り返してね。
  持ち込んだ携帯テレビでアイドル達を見るのが、数ある日課の一つだったんだよ』


今はもう、彼女達の名を思い出せません。


 『あ。だからさ……薄荷。アレ唄うの、けっこうフクザツだったんだよ?
  事務所の人もみんなも死にそう、死にそうって言うんだもん』

 『だってなぁ……なぁ?』

 『ね』

頷き合う凛と奈緒。
加蓮が口を尖らせると、二人は両手を挙げておどけました。


 『そんな感じで、けっこう人生諦め入ってたんだよね、私って。
  体調は少しずつ良くなってったけど、ボーっと生きて、ポテトとかアイスばっか食べてた』

 『……アタシが見る限り、加蓮今でもそればっか食べてない?』

 『シツレイな。ちゃんとバーガーとコーラも頼むよ』

 『そこ?』

 『まぁいいや。えっと……何の話だったっけ?』

 『アイドル』

 『そうだそうだ。んーと、
  色々あってスカウトされて……私はアイドルになりました。めでたしめでたし』

 『……え、えぇ~っ? 急にそんな、大雑把に?』

慌てる卯月に、会場が含み笑いを零します。

 『や、なんか、よく考えたら恥ずかしくない? 昔の自分の思い出話とか』

 『言い出したの加蓮だろうが』

奈緒が呆れたように苦笑しました。


 『やっぱ、アレだね。台本無いとグダるね』

 『加蓮。MCに台本は無い事になってるのよ』

 『おっと、そうだった』


凛が頬を掻きながら訊ねます。

 『それで? 後は何を話すの?』

 『んー、じゃあ、もう三つ』

 『うん』

 『一つ。今の私は、すっごい健康』


人差し指を、まっすぐに伸ばします。


 『二つ。私の目標は、忘れられないアイドルになる事』


ゆっくりと椅子から立ち上がり、つま先の感触を確かめます。


 『三つ――もう、バッチリ。ありがとね、みんな』


得意気な笑みを浮かべ、ステージを振り返りました。
五人は加蓮の視線に頷くと、椅子を抱えて袖へと戻って行きます。
最後の美嘉がキスを投げ残して見えなくなると、加蓮は再び客席へ向き直ります。


海は凪いでいました。
波も風も息を潜めて、加蓮の事をじっと見つめています。
加蓮の次の言葉を、今か今かと待ち侘びています。


でも、もう、加蓮が伝えるべき言葉はほとんど残されていないのです。
足取りもしっかり、気分も爽快。

散々待たせてしまったファン達に向けて、加蓮は必要な言葉だけを紡ぎました。


 『北条加蓮』


きっと――忘れられないアイドルになります。



 『Frozen Tears』



 『Frozen Tears』
 http://www.youtube.com/watch?v=gBFgHLC-9S4



揺れ動くようなイントロが弾けました。
合わせるように加蓮の身体もふわふわと揺れて、次々と緑の光が灯ってゆきます。


本当は、冬まで取っておく筈の曲でした。
けれど彼女自慢のワガママが、とうとう彼の首を縦に振らせてしまったのです。


 『きらきら輝く、この世界はまるで――何度もめくった、お伽話みたい』


古今東西の書物とにらめっこした日々は、彼女にとって楽しい記憶の一つです。

きっかけこそ勘違いと頑固さの組み合わせでしたが、
物語の後に続く未来、学術書に収まりきらなかった一頁。
無限に広がる余白に想像の翼を羽ばたかせて、
加蓮は知識と力を少しずつ蓄えていきました。



 『憧れをつかむのなら、思い切りが”らしい”でしょ?』


最初の一歩を踏み出してから、彼女の『らしさ』はだんだん薄まっていきました。

大の苦手だった運動はジョギングを日課に出来る程になり、
暇さえあれば読み耽っていた本も、近頃は表紙をめくる暇さえ無いくらいで。

モノクロームの日々を過ごしていた自分が、
しっちゃかめっちゃかに色付いていく日々を、悪くないとさえ感じるなんて。


 『ひとりきりじゃない――だから、かりそめの時間でいい』


奈緒にお小言を言われて、
凛に呆れ気味に笑われて、
美嘉に気安く絡まれて、
卯月にたびたびツッコまれて、
奏に上手くからかわれて。


何者でもなかった自分、傍観者でいいと気取っていた自分が。
主人公達の眩しさに当てられて、
ヒロインどころか、主人公になりたいと願うようになるなんて。



 『明日を想いながら、指先まで綺麗に――』


客席に向け、掌を伸ばします。
そして息を呑みました。


あの日、パステルクリームの壁紙に、あれほど映えていた筈の宝物。
大切な大切な今日も指先を彩ってくれる、ラメ入りのミントグリーン。



伸ばした指先は、眩しく煌めく緑の海に、すっかり溶け込んでしまいました。



揺れるようなメロディだけが流れて、加蓮はまだ何も言えずにいます。

思わず歌詞を飛ばしてしまった未熟さと、過ぎ去ってしまった日々の遠さを、
彼女はどこまでも美しい笑顔と言葉で埋め合わせてみせました。



 『…ありがとう』


 【Ⅸ】プロローグ


 「ひゅむぅ」


加蓮の一日はよく分からない何かを呟きつつもぞもぞする事から始まります。


いえ。きっかけはほんの些細な出来心だったのです。
お泊り会の度に卯月が繰り出してくる、踏み潰されたアルパカみたいな謎の寝言。
それが毎度あんまりにも加蓮のツボを抑えてきたもので、
いつからか面白がって真似するようになってしまいました。


習慣というのは恐ろしいもの。
今では卯月が泊まっていようがいまいが関係無く出てくるようになってしまいました。

加蓮と卯月のお泊り会にウキウキ顔で参加した奈緒が、
朝日が昇るなり謎の譫言を繰り返し始める二人に挟まれ、
半泣きになりながら凛に連絡したのは未だ記憶に新しい事件です。


冤罪ですと、その際に卯月は繰り返し、繰り返し主張していました。



 「は……ふっ……」

軽くストレッチをこなしたら、トレーニングウェアに着替えて近所をジョギング。

現在のルートは第五まで開拓されており、
加蓮は毎回ストップウォッチでタイムを計っています。

少しずつ縮まっていくタイムを見てガッツポーズを決めるのは、
加蓮の大切な日課の一つです。


 「おはよー」

 「おはよう。今日は?」

 「更新ならず」

 「残念。さ、食べちゃいなさいな」

 「はーい」

軽くシャワーを浴びたら朝ご飯です。
父がまだ居れば三人で、もう出かけて行った後なら母と二人で朝食を囲みます。


ちなみにお泊りした誰かがここに加わると、
二人は人が変わったみたいに大はしゃぎして、特に父は遅刻寸前まで粘ります。

美嘉の家にお泊りした際も似たような感じだったので、
もしかしたら親というのはそういう生き物なのかもしれないと、
加蓮は密かに考察していました。


 「納豆要る?」

 「んー……午後だけど、お仕事あるからいーや」

 「あぁ……そうだったわね」

中学生くらいまでは抜きがちだった朝食も、
今では食べないとお昼まで保たないくらいです。

昨晩の残り物やベーコンエッグなど、メニューはごくごくシンプルですが、
加蓮はしっかりゆっくりお腹へ収めます。
最近は納豆がマイブームでしたが、
今日は大事な仕事があるため、泣く泣くキャンセルするしかありませんでした。

 「いつ頃出るの?」

 「十時過ぎくらい。お昼はいいや」

 「はいはい」

 「そういえば奈緒がさ、はいは一回だって言ってたよ」

 「はい」

 「うーん素直」


そろそろ出なければ一限に間に合わなくなる時間でしたが、
そもそも今日は講義自体がありません。

部屋に戻った加蓮は最近買い替えたばかりの机に座ります。
ノートと教科書を広げ、通学用の鞄から図書館で借りてきた本を取り出しました。


加蓮は試験よりもレポートを好む学生でした。
時間のごく限られたペーパーテストとは違い、その気になれば幾らだって悩めますし、
何より知識を結び付けていく過程で新たな発見に出会ったりするのを、
彼女は楽しむ事が出来るのでした。


小一時間も進めるとおおよそのアウトラインが見えてきました。
凝り固まっていた身体を小さな伸びで解すと、
とうっ、と小さく叫んでベッドへのダイブを敢行します。

しばらくそのまま動かなくなったと思えば、二分後にようやくの再起動。
枕の下に手を突っ込み、古びた文庫本を引っ張り出します。


星新一著、『ようこそ地球さん』。
ふと読み直したくなって、今週に入ってから少しずつ栞を進めている一冊です。


三編も読むとちょうどいい時間でした。
窓を開けて春の陽気を確かめると、薄手のカーディガンを選んで羽織ります。

上機嫌そうに鼻歌を口ずさみながら、
加蓮は目をつぶったって辿り着ける事務所へと向かいました。


 ◇ ◇ ◆


 「おはよ。しんどそう」

 「おはようしんどい」

 「文を区切るのもしんどいんだ」

 「うん」

 「今日のミニライブ、大丈夫?」

 「まかせろ」

 「Pさんそっちは植木鉢だよ」


事務所に顔を出すと、彼はちょっと傾きながら仕事をしているところでした。
角度がだいぶ甘いので、どうやらまだ余裕はあるようです。


 「後は機材だの運んで先生方と設営するだけ」

 「お疲れ様。ご褒美あげよっか?」

 「何をくれるんだ?」

 「何が欲しいの?」

 「俺が決めるのか」

 「今日はえっちなのは控え目にね」



 「なぁ、その言い方だと俺が普段からそういうのをねだっていや違います。
  はい。ないです。ちひろさん。ないです」

傾きながら謝りつつタイピングする姿は、なかなかどうして器用でした。


 「忙しい?」

 「うん」

 「ふぅん。じゃあ送迎いいや。お昼がてら先に行ってる」

 「悪いな」

 「テキトーにブラついてるから、二人連れて合流してね」

 「ああ」

ひらひらと片手を振るだけで見送りを済まされるのはやや不満ですが、
彼の多忙は自分の為だと、彼女はいつだって知っています。


名残惜しそうに一度だけ振り返ってから、
褒めてもらえなかった下ろし立てのカーディガンを翻して、
加蓮は事務所を後にするのでした。


 ◇ ◇ ◆

加蓮の言う『良い日』には幾つかの判断基準があります。

暑過ぎない。
寒過ぎない。
彼が付き添ってくれる。
映画が面白かった。
ポテトが全サイズ百五十円。などなど。


今日は暑過ぎなくて、お昼を食べに行ったらポテトも全サイズ百五十円でした。
機嫌を良くした彼女は先ほどよりも気合の入った鼻歌と共に歩いてゆきます。
そして、今回のライブ会場にやって来ました。

 「……変わってないなぁ」


四角く白い、大きな建物。
感覚的には半年ぶり。
物理的にはほとんど五年ぶりに目にする、かつての彼女のお城でした。


本日の午後に講堂で開かれる予定のミニライブは、
加蓮たっての希望で実現したものです。

宣伝と言えば院内の掲示板に貼られた簡素なチラシぐらいではありましたが、
加蓮に美嘉に卯月にと、
取ろうとすればなかなかの額が動きそうなメンバーが揃っています。
もちろんロハですが。


 「ちょっち早かったかなー」

腕時計を確認すると、待ち合わせの約束まではまだ時間がありました。
前庭に揺れる木陰の下にベンチを見つけ、加蓮はのんびりと腰を落ち着けます。
葉擦れの音が眠気を誘うような、気持ちの良い春の午後でした。

目を閉じて、彼女はしばらく風の音色を楽しみました。
背中の半ばまで伸ばした髪が気ままに揺れます。


ふと、彼女が何かを思い出したように目を開けます。
すぐ隣に向けて、柔らかく微笑みかけました。


 「ありがと」


ただのひとり言か、それとも詩的に風へ語り掛けたのか。
彼女はそう礼を述べると、また心地良さそうに目を細めながら前を向きます。
応える者のない言葉は、ただ風に乗って溶けてゆくだけでした。




 でも、どういたしまして。



 「――あ! 加蓮ちゃーんっ!」

駐車場の方から、卯月が手を振ってやって来ました。
その後ろには傾いたまま機材を肩から提げたプロデューサーが続いて、
見かねたらしき隣の美嘉が小さなケースを一つ持ってあげているようです。

 「えへへ。探しちゃいました」

 「あー、まぁ、広いからねこの病院」

 「割とまだしんどい」

 「まだしんどいんだ……」

 「うん」


卯月と加蓮がもう一つずつケースを持ってあげると、
彼の背はだいぶまっすぐになってきました。
賑やかに雑談を交わしながら、四人は病院の入口へと向かいます。




……。




…………。

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