生活のために描いた絵に、命が芽生えた (14)




ここは、埃にまみれたアトリエ部屋


クモの巣の張り巡らされたひとつの天窓

そこから落ちる薄日に照らされた縦長のキャンバスの中に、私は本当の奇跡を見た





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今しがた、私が完成させたばかりの色鮮やかな絵画『眠りにつく赤ん坊』

そこに描かれた赤ん坊の目が、ゆっくりと開かれた


これは比喩ではない──私の絵が、本当に動きだしたのだ






突然の不可解な出来事に私は驚き、はじめはそれが幻覚か何かだと思った

しかし、絵の中の赤ん坊はゆりかごに包まれて、白く短い手と足をもぞもぞと動かしている最中だった

一切の音が聞こえないことが、その光景の異様さに一層の拍車をかけている


私は自らの手を、おそるおそるキャンバスに添えてみる

すると……中の赤ん坊はそれに反応して、私の手をじっと見つめてきた

どうやらこれは、現実の出来事に違いないようだ


……
…………
………………





あれから1日が経った

絵の中にいる赤ん坊の活動は、依然として続いていた

彼女はゆりかごをハイハイで抜け出して、キャンバスの縁という“壁”をぺたぺたと触っている


私の頭脳が次第に冷静さを取り戻していくにつれ、絵描きで生計を立てている人間としての思考が芽生えてゆく

この世にふたつとない“動く絵”を、どうするべきか考える必要があったのだ






私の生活はもともと、必要最低限のものがあればそれで事足りた

だが、世界恐慌の真っ只中にある今、それすら許されないほどに実入りのない状態が続いている

そうなると、私が取るべき選択肢は一つだ


この不思議な絵を売りに出そう

そうすれば、物好きな収集家がきっと良い値をつけるに違いない

思い立った私は、絵を持ち出すために保護布を被せようとした







だが、ここであるひとつの問題が起こった

布を被せようとすると、絵の中の赤ん坊が怖がって泣きだしてしまうのだ







無論、泣き声そのものが聞こえたわけではない

しかし彼女は顔をくしゃくしゃに、かつ真っ赤にして、現実の赤ん坊がそうするかのように振る舞っている


男一人で暮らしてきた私に、子を抱いた経験などあるはずもない

だが、絵の赤ん坊が他でもない──私を見て泣いていることだけは分かる


ひとまず絵を売りに出すことは諦め、布をそっと机に戻す

そして明日の身銭のために、ひとまず新たな絵を描く


こんな繰り返しを、この先しばらくのあいだ続けていった


……
…………
………………





私を困らせていたのは、生活と良心を秤にかけた苦悩だけではない

絵の赤ん坊は時間の経過とともに泣く回数が増え、同時に少しずつ痩せ細ってきているのが分かった

どうやら絵の中の世界にも、時間と空腹の概念があるらしい


しかし……キャンバスの向こうの出来事に、どうやって干渉すればいいのかなど、知るよしもなく

目の前の赤ん坊が衰弱していく様子を、私はただ見ていることしかできなかった






……そうだ

ここで私に、ある閃きが浮かんだ

私はさっそく筆とパレットを手に、赤ん坊の描かれたキャンバスの余白に、顔料をぺたぺたと塗りつけてゆく


数分足らずで出来上がったのは、ミルク入りの哺乳瓶の絵

描いたばかりでまだ乾ききっていないそれの存在に、赤ん坊が気づいたらしい


彼女は宙に浮く哺乳瓶に何度も手をあて、やがてニップルに口をつけ、ついにはミルクにありつくことができた

イチかバチかの試みが、功を奏したようだ


その様子を見ていた私の顔には、長らく失っていた微笑みが浮かび上がっていた






いつしか、キャンバスの中にはものが増えていた

この子が必要としたものは、なんでも描き与えたためだ

おしゃぶり、オムツ、玩具などが、絵の中でふわふわと浮いている


哺乳瓶が空になったり、おもちゃが壊れたときも、問題はなかった

近年出回り始めたチタニウムホワイトの顔料を塗り重ねることで、普通の油絵と同じようにそれらを消し

その上に新たな絵を描くことができたからだ



やがて、赤ん坊が二本の足で立ち上がるようになった頃には……

この絵を売り払うという考えは、すでになくなっていた


……
…………
………………


今日はここまでです

読んでくださっている方、ありがとうございます

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