【ミリマス】あなたの温度、幸せの温度 (24)

北上麗花さん誕生日おめでとうのss(遅刻)

がっつり地の文・恋愛・Pドルなので注意

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chapter 1. 90℃ / tea


 「プロデューサーさん、だいたい90℃なんですよ」

 語尾に音符が付きそうな声で麗花は言った。麗花はいつも楽しそうで、それは本当にいいことだと思う。けれど会話を続けるためには1つ、どうしても聞かなければならないことがあった。

 「90℃って、何が?」

 「お茶が美味しくなるお湯の温度です。ちなみに、プロデューサーさんが1番美味しくなるのは何℃ですか?」

 「え? うーん……まあ何℃でもあんまり美味しくないと思うけど」

 「そうなんですか? プロデューサーさん、美味しそうなのに……」

 「……それは、例えばどの辺りが?」

 「むむむ……」

 「いや、真剣に考えなくていいぞ。どうせ美味しくないから」

 「じゃあ、美味しくなったら言ってくださいね!」

 麗花と話していて目眩を起こしそうになったのは久しぶりだ。慣れたと思えば軽々とそのラインを飛び越えてくる。流石としか言いようがない。
 彼女が「美味しそう」と言うのは、本当に美味しそうだと思ったときだ。まさかこのタイミングでカニバリズムに目覚めたのだろうか。だとするとちょっとマズい。カーニバルならともかく、カニバリズムアイドルのプロデュース方針なんて思い付かない。
 あるいは、太ったことを遠回しに伝えたいのかもしれない。そうだとしても、彼女なら「デブデューサーさん」くらいは言いそう……流石に言わないか。そもそも体重は近頃右肩下がりだ。

 これ以上は泥沼になりそうだったので思考を打ち切った。麗花の突拍子もない発言には深い意味がある場合となんの意味もない場合がある。今回はおそらく後者なので、速やかに本題に戻ってもらおう。

 「で、お茶がどうしたんだ?」

 「あ、そうですお茶なんです」

 曰く、「90℃のお湯だとお茶が1番美味しい」と大学の講義で教わったそうだ。今日はそれが本当なのか試そうと思っているらしい。

 「温度計もちゃんと持ってきました!」

 「麗花、それは体温計だ」

 「これじゃだめなんですか?」

 「体温計じゃそんなに高い温度は測れないんだ。体温が90℃だってわかったところで、もうどうしようもないからな」

 「そうなんですね、残念……」

 「ていうか、わざわざ買ったのか? それ」

 「家から持ってきました!」

 「……じゃあお茶には入れない方がいいんじゃないかな」

 「ちゃんと拭きましたよ?」

 「そういうことじゃないの!」

 麗花はお湯の温度以外の情報を持っていなかった。講義を聞いていなかったのではなく、単に教授が話さなかっただけだと思いたい。麗花はちゃんと勉強してるんだろうか。そういえば、最近は忙しさにかまけてアイドルを学業面でサポートできていない。

 結局、お茶の淹れ方はネットで調べることにした。お湯の温度のこともきちんと書いてある。

 「湯気の立ち方で温度がわかるんですね〜」

 画面を覗き込む麗花が興味深そうに呟く。首に息と髪の毛が当たってくすぐったい。

 「れ、麗花。少し離れてくれ」

 「でもでも、こうしないと画面が見えませんよ?」

 「いや、自分のスマホで見ればいいじゃないか」

 「むぅ……はーい」

 渋々といった様子だったが、麗花は少し距離を取ってくれた。彼女の体温が離れていくのと同時に顔の熱も収まっていく。離れてくれてよかった。別に、近付かれるのが嫌というわけでもないけれど。
 さて、今はそれよりお茶の淹れ方だ。サイトには、最適な温度はお茶の種類によって変わると書いてある。麗花が言った「だいたい90℃」は、お求めやすい普通の煎茶の場合だ。劇場に常備してある茶葉はなんだったか。ちょっと思い出せない。

 というわけで麗花と一緒に給湯室に向かった。カップ麺を作るときしか来ないので、どこに何があるかは全くわからない。麗花も普段入ることはないそうなので、茶葉を見つけるのに思いのほか時間がかかった。

 「2つありますね」

 「たぶん、こっちは来客用かな。雪歩が持ってきてくれた高いやつ」

 もう1つは買い置きしてある安い茶葉だ。成分表には煎茶だと書いてある。

 「じゃあ、淹れてみましょう!」

 さっきのサイトを見ながら作業を始める。淹れるのは2人分だ。
 使う水は200ミリリットル。電気ケトルに入れてスイッチを押す。水道水でもいいけど硬水は駄目らしい。

 「硬水って、どのくらい硬いんでしょう? 落としたら割れますか?」 

 「割れないと思うぞ。液体だからな」

 「でもでも、モーゼさんは海を割ってましたよ?」

 「…………じゃあ、海は柔らかいんだろうな」

 お湯が沸いたらいったん湯呑みに移し、湯気の立ち方が変わるまで待つ。

 「あっ、変わりました!」

 「え、変わったか?」

 「ほら、さっきまでは“ぼわわわ〜ん”だったのに、今は“もわんもわ〜ん”です」

 「うーん……? まあ、待ちすぎて90℃より低くなっても困るし、いいか」

 急須には、ティースプーン2杯分の茶葉を入れておく。温度を調整したお湯を湯呑みから移したら、成分が溶け出すのを待つ。だいたい30秒だ。

 「よし、あとはお茶を湯呑みに注ぐだけだな」

 なんと注ぎ方にもちゃんとしたやり方がある。湯呑みが2つあるなら、まず片方の湯呑みに少し注ぎ、次は別の方に同じだけ注ぐ。これを何度も繰り返し、最後の1滴まで出し切らなければならない。麗花の提案で、2人で交代しながら注ぐことになった。

 「プロデューサーさん、お願いします」

 「よし……こんなものかな? はい、麗花」

 「任せてください!」

 「……これ、2人でやる意味あるのか?」

 「私は、プロデューサーさんと一緒がいいですよ? ……あっ、最後の1滴が出ました!」

 「よし、完成だ」

 麗花とハイタッチを交わし、いざ実飲。せっかく調整した90℃は少し熱いので、ふーふー冷ましてから口に含む。口の中に熱がじんわりと広がっていき、うまみと渋みを残していった。ホッとする味だ。いつもの茶葉だから、当然と言えば当然か。
 うん、まあ。なんか、こう……。

 「普通……」

 「ふふっ。そうですね、普通です」

 麗花は嬉しそうだった。
 もちろんお茶は決して不味くないけど、個人的には期待外れだ。何か手順を間違えたのか、それとも参考にするサイトを間違えたのか。もしかすると、いつもお茶を淹れてくれる青羽さんや雪歩が同じようにやっているおかげで変化を感じ取れなかったのかもしれない。

 「ごちそうさまでした。楽しかったですね、お茶デューサーさん!」

 今回の検証は普通な結果に終わってしまった。けれど麗花が幸せそうにしているので、まあこれはこれでよかったのだろう。

chapter 2. 24℃ / me


 人間は、歳を重ねるとあちこち衰えてくるものだ。個人差はあるものの、身体能力や視力、聴力、そして記憶力といった力を維持するのは簡単なことではないし、弛まぬ努力をしても衰える速度を遅くするのが関の山である。
 そして年月とともに能力を失ってしまうのは人間だけではない。言うまでもなく他の動物もそうだし、経年劣化によって故障するのだから機械も老化すると言えるだろう。そして前述の通り、老化には能力の衰退──つまりは“ボケ”がつきものだ。
 ところで、地球が誕生してからおよそ46億年が経つという。46億年。途方もない数字だ。人間の寿命では100万回生きても確実に届かない。医学の発展によってはいつか到達できるのかもしれないけれど、今はそんなことを言いたいんじゃない。

 「……暑い」

 地球、ボケてるんじゃないか? まだ4月も半ばだぞ。夏どころか初夏にもなってないんだぞ。
 今日の暑さは少し前から天気予報でも話題になっていたけれど、何も本当に暑くなることはないじゃないか。

 「暑い……」

 今日の最高気温は28℃まで上がるらしい。もちろん真夏に比べれば低い気温だけれど、熱いお茶なんて飲んでいられない程度には暑い。そういえば、麗花と一緒にお茶を飲んでからずいぶん経っている。だからといってこの暑さを許せるわけではないけれど。
 加えて、今いる劇場の事務室はエアコンが稼働していない。経費削減のため、エアコンの使用は6月まで固く禁止されているからだ。それまでは各々薄着になるなどの対策で暑さを耐えなければならない。もし掟を破ろうものなら、経費の鬼──秋月律子に雷を落とされてしまうのは疑いようもなかった。

 「暑い……!」

 「ふふっ。プロデューサーさん、今ので16回目ですよ」

 窓もドアも全開にしている事務室にはもう1人、麗花がいる。仕事もレッスンもない彼女はこの暑い空間でずっと楽しそうに絵を描いていて、しかも他人が“暑い”と言った回数を覚えている余裕もあるらしい。薄手のポロシャツを着ているとはいえ、まったく汗をかいていないのは驚異的だ。

 「でも、確かに今日は暑いですね」

 「とてもそう思っているようには見えないな……」

 「きっと、プロデューサーさんがいるからだと思います!」

 なんと。どうやら自分でも気付かない内に冷気を発していたらしい。けれどそれがなんだというのだろう。周りを涼しくできても自分が熱くなっていては無意味だ。古くなった扇風機じゃあるまいし。
 試しに手を頬に当ててみるが、熱いものに熱いものが触れただけだった。

 「プロデューサーさん、暑いなら一緒に登山に行きませんか? 山の上は涼しいですよ」

 「山か……遠慮しておくよ」

 一瞬だけ“いいな”と思ってしまった。冷静になろう。その涼しい場所にたどり着くまでに、いったいどれほどの汗を流せばいいんだ? そして山に登ったからには、暑い暑い平地へ戻らなければならない。やっぱり登山はなしだ。

 「……もう我慢できない。エアコンを点けよう」

 予報では、今日をピークに気温は平年並みに戻るらしい。けれどこのままでは今日を乗り切れない。だから今日だけ。それも、ここで仕事をする間、つまりあと1時間程度だ。電気代にさほど影響はないだろう。
 とはいえそれだけだと禁忌を犯す理由としては弱い。恐ろしさにおいて、暑さと律子の説教とでは後者に軍配が上がる。安全が保証されていなければ、エアコンをオンにする行為は非常にリスクが高い。

 「あれ? いいんですか?」

 「本当は駄目だよ。律子にバレたら怒られる。……バレたら、な」

 そして、今日はその安全が保証されている日だった。今日は劇場の休日だ。律子も、それどころか他のみんなも劇場に来るはずがない。麗花さえ秘密にしていてくれれば、このことが絶対に露見することはない。

 「麗花、律子には言わないでおいてくれるか?」

 その言葉を聞いて、麗花は心底楽しそうな笑みを浮かべた。

 「わかりました。律子ちゃんにはナイショにしておきますね」

 「よし。頼むぞ」

 「はいっ。……あ。プロデューサーさん、私からもお願いしていいですか?」

 「ああ、もちろん。麗花にもこっちの頼みを聞いてもらうわけだからな。それで、どんなお願いなんだ?」

 「それは……思い付いたら言いますね!」

 「具体的な何かがあって言ったわけではなかったのか……」

 まあ何はともあれ取引成立だ。これで後の憂いなくエアコンを楽しめる。普段の設定温度は28℃厳守なのだが、せっかくだし今日は24℃にしよう。これも律子にバレたら大目玉を喰らうが、麗花が言わなければなんの問題もない。

 「涼しいですね」

 「ああ、涼しい。幸せだ……」

 冷風を全身で堪能しながら、麗花のお願いは絶対に聞いてあげようと心に誓った。それこそ登山でもなんでもドンと来いだ。

 ちなみに、なぜ休みのはずの麗花がいたのかというと昨日メールでこんなやり取りをしたからだ。

 『劇場がお休みだから、明日もプロデューサーさんに会えませんね(´・ω・`)』

 『何か用でもあるのか? 一応、明日なら話は聞ける。仕事をするために事務室にいるから』

 『! 本当ですか??』

 『ああ。あんまり長い時間いるわけじゃないけど』

 『じゃあ、明日劇場で会いましょう!』

 『わかった。来るなら14時から16時の間に来てくれ』

 『はーい! ヽ(=´▽`=)ノ』

 そういえば、麗花とは結局他愛のない話しかしなかった。用事は大丈夫だったのだろうか。

chapter 3. 90℃ / coffee


 「プロデューサーさん、だいたい90℃なんですよ」

 「天丼か?」

 「もうっ。天丼じゃなくてコーヒーの話です」

 「ああ、なるほど。今度はコーヒーか」

 「でも、天丼もいいですね! プロデューサーさん、天丼が1番美味しいのは何℃ですか?」

 「うーん……どうなんだろうな。90℃じゃないのは確かだと思うけど」

 「でもでも、温かい方が美味しいですよ?」

 「90℃はもう“熱い”だな」

 ジャブを打ち合うような会話もそこそこに(お互いに戦う意思はないが)、本題に入ってもらおう。
 ずいぶん前、麗花と一緒に一番美味しくなるやり方でお茶を淹れた。それに味を占めたのか、麗花は他の飲み物にもそういう感じのやつがあるかどうか調べたそうだ。今日はコーヒーを試すつもりでいるらしい。

 別にそれはいいのだけれど、1つだけ疑問がある。

 「麗花ってコーヒー飲むのか?」

 「実は、この前初めて飲んだんです。ジュースを買おうと思ったら、プロデューサーさんがいつも飲んでるコーヒーがあって、つい買っちゃいました!」

 その銘柄は自販機には大体売っているから目についてもおかしくない。しかし、麗花は本当に同じものを買って飲んだのだろうか。アレはブラックコーヒーなのに。

 「苦くなかったか?」

 と聞くと麗花は顔を歪ませた。味を思い出したようだ。

 「今日は我慢します」

 「コーヒーなんて無理して飲むものでもないのに」なんて、意気込む麗花に水を差すようなことは言わなかった。

 茶葉のときに散々探し回ったので給湯室のことは大体頭に入っていた。茶葉を探したのはしばらく前だったこともあり、忘れてしまっていたので、過去形だ。麗花が覚えていてくれなければまた苦労する羽目になっただろう。

 劇場に常備してあるコーヒー豆は浅煎りのようだ。パッケージにそう書いてある。

 「ということは……やっぱりお湯は90℃くらいがいいみたいです」

 と、麗花がスマホを見ながら言った。ディスプレイにはコーヒーの淹れ方についてまとめたサイトが表示されている。

 「よし、じゃあ淹れるか」

 「淹れましょう!」

 とは言っても、お茶のときとは違ってこちらから何かすることはない。劇場には豆を挽くところからドリップまで全自動でやってくれるコーヒーメーカーが設置されているのだ。おそらくあるはずの難しい手順を踏む必要はない。ただ豆を入れて、水を入れて、そしてカップを2つ置けば後は待つだけでいい。手順について麗花とあれこれ話すこともない。
 豆が挽かれ、抽出され、コーヒーとして出てくるまではあまり待たなかった。

 「いただきます」

 麗花と乾杯をして、カップを口に運ぶ。香りを楽しんでから飲むと、苦味というよりはすっきりとした酸味が口の中に広がる。眠気覚ましに飲むようなとびきり濃いものではないので、麗花も飲みやすいのではないだろうか。

 「どうだ?」

 「……美味しい、かもしれません」

 麗花は首をかしげながらちびちび飲んでいる。その姿に昔の自分が思い起こされて、少し笑ってしまった。最初はそうだった。「どうしてこんなものを」なんて思いながら、どうにか飲めるように試行錯誤を重ねる。砂糖を入れたり、牛乳を入れたり、コーヒーフレッシュを入れたり、あるいは単に味に慣れたりして、いつの間にかコーヒーをよく飲むようになっていく。あんなに必死になっていた理由は、コーヒーを飲むドラマの主人公に憧れたから、だったような気がする。

 ……麗花の理由はなんだろう。今まで飲んでこなかったコーヒーを、どうして今になって飲もうと思ったんだろう。気になったけど、結局聞かなかった。麗花の行動には深い意味がある場合となんの意味もない場合がある。今回はきっと後者だ。
 だから、実際に口にしたのは他愛もないことだった。

 「お湯の温度、調整できなかったな。機械が全部やってくれたもんな」

 「ふふっ。そうですね」

 「楽しそうだな、麗花。ちゃんと試せなかったのに」

 「……プロデューサーさん」

 麗花は笑顔のままカップを机においた。コーヒーからは、まだ少しだけ湯気が立っている。

 「こうやって2人でお話するの、久しぶりですよね?」

 言われて、確かにそうだと思い出す。麗花と2人になったのは、それどころか顔を合わせたのはあのやけに暑かった日が最後だ。5月に入ってからは会っていない。ここのところ仕事が立て込んでいて、あまり劇場に顔を出せていないせいだ。そしてこの忙しさはまだ続く。明日からまた出張だ。

 「ああ、そうだな。出張に行く前に麗花と話せてよかったよ」

 「はい、私もよかったです!」

 さて、これを飲み干したら出張の準備をしよう。名残惜しいが、仕事は仕事だ。

 そういえば、あれほどコーヒーを飲みたがっていた麗花は途中からずっとカップを置いたままだった。やはり、コーヒーが苦すぎたんだろう。


chapter 4. Body Temperature / me:get lonely easily


 今週は、出張の間滞っていた業務の後処理に奔走した週だった。
 帰路の途中、疲れに耐えかねたのでコンビニで休憩することにした。いつものブラックコーヒーを車の中で飲むと、モヤがかかった頭の中が徐々に晴れていくような気がした。
 深いため息が漏れる。
 本当は、今すぐ家に帰って休むべきなんだろう。シャワーを浴びて、寝たい。ここしばらく続いた忙しさは今日で一段落ついたとはいえ、明日が休みというわけでもない。ただ、ここから家まで数kmほどの道のりを運転する気力が湧いてこない。
 時間を確認しようと腕時計を見る。8時を回ったところだったけれど、本来の目的ではない別のものに目を奪われた。日付だ。

 「5月17日……」

 何度見ようとも時間が遡ることはない。
今日は麗花の誕生日だった。パーティーに参加できないのは前からわかっていて、せめてプレゼントは手渡ししたいとスケジュールを調整しようとしたけれど、個人の裁量には限界がある。結局、メールでのお祝いと劇場の机にプレゼントを置いておくことしかできなかった。
 パーティーの様子は、劇場のみんなから写真として送られてきた。他のアイドルの例に漏れず麗花のパーティーも盛大に行われ、誰もが笑顔になる素晴らしい会だったようだ。最近会えていなかった麗花も満開の笑みを咲かせていた。パーティーに行けないとを伝えたメールに返信がなかったので心配していたけれど、一安心だ。

 ……本当に、そうだろうか。ここ最近──と言っても最後に会ったのはしばらく前だ──の麗花の様子を思い出してみると、今になって色々と引っかかる。
 わざわざ2人で交代しながらお茶を注いだのは。
 あの暑い日、休みだったのに劇場に来たのは。
 自分で飲むと言い出したのにコーヒーを飲み干そうとしなかったのは。
 麗花は、会いたがっているんじゃないか。今日だって、ずっと待っていたんじゃないか。
 あるいは、今も待っているんじゃないか。
 いったん浮かんだその考えは、湯気のようにすぐ消えてはくれなかった。
 劇場に行こう。帰るには遠回りになるけれど、今はそんなことどうだっていい。ただ麗花のことだけが気がかりだ。




 事務室の蛍光灯は窓側だけ点いていた。部屋中のどこを探してもバースデーパーティーの面影はない。光っている一部の蛍光灯がまるでスポットライトのように、ソファーに座っている誰かの後ろ姿を照らしている。
 麗花だ。
 照明をすべて点灯させると、来訪者の存在に気付いた彼女は振り返った。

 「あ……!」

 麗花は一拍だけ呆気にとられたような顔を見せたが、すぐに笑みへと表情を変えた。

 「プロデューサーさん! お帰りなさい!」

 「……ただいま、麗花」

 「プレゼント、ありがとうございました!」

 「ああ、誕生日おめでとう。……ごめんな、直接渡せなくて」

 麗花の様子には特に変わったところがないように思える。心配しすぎただろうか。……いや、こんな時間まで帰らず劇場に残っているなんて普通じゃない。麗花の笑顔をよく見てみると、いつもの笑みと違って何かが混ざっているような気がした。喜びや楽しさとは違う何かが。

 「プロデューサーさん、後ろを向いてくれませんか?」

 「後ろ?」

 その何かの正体がわからなくて言葉を続けられずにいると、麗花にそう言われた。逆らう理由もないので、言われるがままに振り向く。何かあるのかと思ったけれど、壁と棚、そしてドアが見えるいつもの光景だった。

 「麗花、いったい──」

 言い切る前に、背中に何かがぶつかってきた。振り向き直そうにも、体に手を回されて動くことができない。
 麗花が抱きついてきたのだ。

 「私、寂しかったんです」

 くぐもって聞こえることを差し引いても、聞いたことのない声音だった。もしかすると、今の麗花は見たことのない顔をしているのかもしれない。けれど振り返れない以上それを見ることはできない。

 「プロデューサーさんと全然お話できなくて、全然会えなくて、寂しかったんです。プロデューサーさんがいつも飲んでるコーヒーを飲んでも、ただ苦いだけでした」

 ぎゅっ。と、麗花の腕の力が強くなる。麗花の体温がより強く伝わってくる。

 「プロデューサーさん。エアコンのときのお願い、今してもいいですか?」

 「……ああ、もちろん」

 思い出すのに少し時間がかかった。そうか、あれからもう1ヶ月は経ってるのか。

 「プロデューサーさんと、もっと一緒にいたいです」

 「麗花……」

 「私、プロデューサーさんと一緒ならお茶がぬるくてもいいです。暑い部屋でも平気です。苦いコーヒーだって、一緒に飲んでみたいんです」

 俺は。俺は麗花に何をしただろうか。違う。何もしなかったのだ。麗花の行動に意味はないと勝手に決めつけて、態度の変化も「そういうこともあるだろう」と見過ごして、向き合うことすらしなかった。身近な人と会えなければ寂しくなる。普通のことなのに、麗花はそうじゃないなんて思い込んでいた。

 「お願いします、プロデューサーさん。普通に一緒にいて、普通のお話ができればいいんです。……一緒にいるのが特別になるのは、イヤなんです」

 最後の方はほとんど消え入るような声で、こうして密着していなければ聞き取ることはできなかっただろう。

 「麗花、離れてくれ」

 「……はい」

 けれど、このままではいられない。

 だって、後ろを向いたままでは麗花を抱きしめられないから。

 「ぷ、プロデューサーさん……?」

 麗花は驚いている。思えば麗花に抱きつかれることはあっても自分から抱きしめることはなかった。本当は、もっと早くこうするべきだったのかもしれない。

 「大丈夫だ、麗花。もう大丈夫。ここ最近は、ちょっとタイミングが合わなかっただけなんだ。もう仕事の山は越えたから、明日からは普通に会える」

 「本当、ですか……?」

 「ああ、本当だ。お茶もコーヒーも一緒に飲める。今度は紅茶を試したっていい。そういう口実がなくても、ただ話すだけでもいい。明日からは、普通に戻れる」

 「プロデューサーさん……!」

 麗花が背中に手を回してきて、正面から抱き合う形になった。今感じられるのは麗花の体温だけだ。
 自分がかなり大胆なことをしている自覚はある。恥ずかしさもあり、どんどん顔は熱くなって、体温も上がっていく。でも、離さない。この温度が麗花の幸せになるのなら、いつまでだってこうしていてもいい。

 「私、プロデューサーさんと一緒にご飯を食べたいです」

 「ああ」

 「一緒に、ドライブしたいです」

 「いいじゃないか。2人で交代しながら運転しよう」

 「……いいんですか? お願いは、もうしちゃったのに……」

 「いいんだよ。言ったじゃないか、“明日からは普通に会える”って」

 「プロデューサーさん」

 「ああ」

 「……私、幸せです」

 その言葉には、より強く抱きしめることで返事をした。麗花からも同じ答えが返ってきた。
 やがてお互いの間に言葉はなくなって、ただ時計の秒針だけが鳴り響いている。熱は際限なく高まっていって、いつの間にか、この熱がどちらのものなのかわからなくなっていた。

おしまい
これを完成させるにあたってたくさんの方にご協力いただきました。この場でお礼申し上げます
あとで渋にも上げます

お茶とかコーヒーの淹れ方は諸説あるよ

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