黒埼ちとせ「メメント・ウィッシュ」 (37)

・モバマスSSです
・地の文があります
・多少の独自設定があります

 なにぶん投下するのが二回目で数年ぶりなので細かいところはお目こぼし願います……

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 担当アイドルがぶっ倒れた。
 寝耳に水、青天の霹靂。辞書でも引けば、いくらでも現状を表す言葉は出力されそうなものだが、生憎それ自体はあまり珍しいことではなかった。

 担当アイドルが倒れることが珍しくない、というのも考えてみれば妙な話だが、俺が担当している彼女――黒埼ちとせは、極端に身体が弱い。
 どこまで本当かはわからないが、時に自分が、まるで余命幾ばくもないかのように振る舞うことも珍しくなかった。だからこそ、専用にレッスンのメニューを考えたり、スケジュールを調整したりとあれこれ奔走して、何とか彼女がステージに立てるぐらいには体力を付けるように取りはからっていたはずなのだが。
 走馬燈のように浮かんでくる景色をぬぐい取るように頭を振って、走る。走る。
 人でごった返す真夏の雑踏を駆け抜けて、連絡があった病院へと俺はただ足を動かしていた。

 ちとせが救急車で搬送された。その連絡が飛び込んできたのは、丁度、彼女に関わる企画の打ち合わせで事務所を留守にしていたときの話だ。
 正直なところ、何の冗談だと、そう思った。
 頭の処理が追いついていない。電話口から聞こえる彼女の従者であり、アイドル――白雪千夜の声が、いつになく必死だったのも、現実感のなさに拍車をかけていた。あの千夜が。まるで子供のように、助けを求めるかのように、電話口で金切り声を上げている。
 そんなこと、信じられるはずもないだろう。まるで、明日が来るのが当たり前であるかのようにあいつは冷静で、いつ何時も揺らぐことなく、淡々と喋っていて。
 だから、ちとせだってそうなんだ。いつも通り意味ありげなことを、どこか挑発的に唇に乗せて、最後には小さく笑っている。

 息を切らして病院の受付に飛び込んだ今だって、そんな御伽噺を信じてみたくなってしまう。壮大な冗談か、何かの間違いであってほしいと願ってしまう。
 現実逃避をしようとしていたのだろう。そんな俺の甘さを粉々に打ち砕くかのように、面会した医者から告げられた事実は、千夜から貰う小言よりも鋭利で、冷たく、そして煮えたぎるような絶望を含んでいた。

「意識不明……ですか?」

 意識不明。オウムが覚えたての言葉を繰り返すように、たった今、目の前で白衣に身を包んだ医者が告げた事実を諳んじる。

「はい、残念ながら原因は不明ですが」

 申し訳なさげに少し肩を落として、彼は告げられた言葉と事実が紛れもない現実であることを首肯する。

 地球の重力が、ここだけおかしくなっているんじゃないかと、そう思った。
 両肩にのしかかる重みに、持っていた鞄を取り落としてしまう。

 医者の説明によればちとせの容態は重篤で、そして意識が戻る見込みがない。それが彼女の抱えていた原因不明の病に関わるものかどうかもわからない、症例がないと、あるものを探した方が早いぐらいに不明で埋め尽くされていたが、正直なところ、わからないことの数なんてどうでも良かった。

 ちとせは、このまま死ぬかもしれない。
 春の桜をふわりと散らすそよ風に乗せて翻った金髪と、一瞬だけ交錯した視線の中で儚く、だけど力強く輝いていた紅い瞳が記憶の引き出しからこぼれ落ちて、削れていく。
 縁起でもない錯覚だった。それを否定しようにも、記憶の中にある思い出を掬い上げる度に、その全てがさらさらと静かに崩れて、指の隙間をすり抜けていくような感覚が拭えない。
 それなのに、俺の身体は鞄を取り落としたこと以外は、自分でも嘘みたいに、普段通りに動けていた。
 冗談じゃないと、激昂すればよかったのだろうか。それとも、金切り声を上げて涙を流せば良かったのだろうか。医者に社交辞令で頭を下げて病室を後にする足取りは信じられないぐらいに重いと感じるのに、踏み出す一歩も、そして、病院を出るなり、鞄からノータイムでスマートフォンを取り出して上層部に連絡を仰ぐのも、まるでいつもと変わらないようで。

 ――遊離している。

 通話を切って、大きく溜息をつく。
 こんな時でもいつも、トラブルが起きたときと同じように動けるのはきっと染みついたサラリーマンとしての習慣がそうさせるのだろう。それ自体に問題はないし、組織にとっては好ましいことだ。ここで悲嘆に暮れて連絡が遅れれば、関係各所への通達や諸々を含めてその後の対応も遅れる。
 そうすれば、最悪俺一人の感傷で会社一つが傾くという最悪の事態だってあり得るのだ。

 だけど。
 だけど、それがどうだっていうんだ。
 会社が一つ潰れてなくなることより、きっと、何の罪もない女の子一人が死に瀕していることのほうが、そしてそこから想起される結末の方が最悪なはずなのに。
 俺の身体は、まだ涙一つ流せていない。何よりも、そのことがただ最悪だった。
 悲しんでいるはずなのに、気が動転しているはずなのに、足を動かすのだって億劫なのに、歩調だけがいつもと変わらずに人混みの中へと戻っていく。

何かを落としてきたような、そんな心地がした。
 それについて、俺はきっともっと悲しんで、涙を流して、探さなければいけないはずなのに。
 胸の内側を鈍器でぶん殴られているような痛みが走るのに、今も、あの桜の下で微笑んでいたちとせの姿がさらさらと摩耗しているのに。
 なのに、歩けている。目的地はそこじゃないはずなのに、事務所に、仕事に、いつも通り戻れている。それがただ、不甲斐なくて仕方なかった。

『捜し物は見つかった?』

 今でも、たまに夢に見ることがある。

 手持ち無沙汰になった企画書のページをめくりながら、俺はただ、上層部に命じられた通り、割り当てられたオフィスで待機していた。

 ああ、そうだ。ちとせと出会ったときのことだ。
 この話を同僚にすると、決まって冗談だと言われるが、あの時、俺はきっと何かに、それこそちとせの持つ魔力とでもいうべきものに魅入られていたんだと思う。

 ちとせの容姿は人並み外れて美しい。それは、担当している人間の贔屓ではなく、恐らく客観的な事実だといっていいはずだ。
 例えば彼女の宣材写真を持って、街中を歩いている人間にこの人物をどう思うかと尋ねれば、十中八九美しいだとか綺麗だとか、そういう言葉が返ってくるだろう。それほどまでに、ちとせは人目を引く容姿をしている。
 だが、それ自体は別にアイドルとしての決定打になり得る要素ではない。
 言い方こそ悪いが、ちとせと比べて容姿で見劣りしていても、彼女より遙かに高い領域で今も活動を続けているアイドルはいる。そして、彼女に比肩する容姿の持ち主だってそうだ。
 見目麗しいことはいつだってアイドルに、偶像に求められてきたことの一つだが、それだけでアイドルは務まらない。じゃあ何が必要なのかと訊かれれば、こっちが知りたいと思いきり吐き捨てたい程度に、大衆の好みは計り知れない。

 だったら、俺はどうしてあれほどまでにちとせに執着していたのか。
 三日三晩、営業回りに優先して、街角で見付けた彼女を探していた。これは冗談でも何でもない。新宿で、池袋で、渋谷のスクランブル交差点で。砂漠の中に一粒だけ落とされたダイヤモンドを探すかのように、俺はちとせをスカウトしようと必死になっていた。

『会いたかった?』

 そうして、出会った。まるで、俺の方が探されていたように、初めから三日三晩かけてそこに来させたかのように、初めて彼女を見付けた場所で、俺はちとせをスカウトしたのだ。
 これを、魅入られているという以外なんといえばいいのだろう。熱病にでも浮かされていたように、思考がちとせのことだけで埋め尽くされて、そうして。
 
 『じゃあ、契約しよっか』
 
 まるで、夜の城主であるかのように、跪いての口づけを求めるように、丈の余った袖に包まれた右手を差しだしてきたことを覚えている。その時はまだ知らなかったが、十九歳の、法律上はそう定義されていてもまだ大人という二文字からは距離が空いた年頃に似つかわしくない風格を漂わせて、ちとせはそう言ったのだ。
 そこからの記憶は判然としない。おかしな話だ。それまでのことははっきりと、夢に見るまでに覚えているのに、ただ彼女がその後に呟いた言葉だけが思い出せない。

 だから、魅入られている。
 そして、それこそが俺が、ちとせに見出したアイドルの、アイドルたり得る条件だった。

「……魅入られている、か」

 あれだけ文字を詰め込んだのに、今や白紙へと戻ろうとしている企画書をぱらぱらとめくって、溜息と共に浮かんだ言葉を口に出す。
 言葉にするには少し気恥ずかしい単語な気もするが、どうせ誰も訊いちゃいないのだと開き直って、そっと最後の一ページを閉じる。

 待機といっても、牢屋の中で過ごすようにずっとこのオフィスに座っていろという話ではない。凝り固まった両肩をほぐすように背中を伸ばせば、ばきばきと不健康な音が人気のない部屋に鳴り響いた。
 魅入られている。別部署のアイドル、神崎蘭子や二宮飛鳥が好きそうな言葉だが、それを自覚するに至ったきっかけは俺自身にはなかったはずだ。
 企画書のタイトルに視線を落とせば、そこには「定期LIVEバトル・黒埼ちとせ対十時愛梨企画草案」と明朝体で記された無機質な文字が並んでいる。

 ああ、そうだ。
 初めにそう言い出したのは、確か。
 廊下に置かれている自販機に百円玉を二枚投じて、上段を彩るエナジードリンクのボタンを押す。その動作に十秒もかからないのも、一種の職業病というやつなのだろう。

「あっ、ちとせさんのプロデューサーさん。お疲れ様ですっ」

 砂糖菓子の鈴を鳴らしたような声が耳朶を打ったのは、がこん、と音を立てて自販機から吐き出されたエナジードリンクを取り出そうとした、その時だった。

「十時さん」
「はいっ」

 何の因果なのだろう。エナジードリンクをポケットにねじ込みながら向き直れば、そこにはLIVEバトル――平たくいえば、いわゆる対バンをアイドル同士のそれに置き換えた企画で、ちとせの戦いの相手に指名した、十時愛梨本人がにこにこと、いつも通りに人好きのする笑みを浮かべながら立っている姿がある。
 
 アイドルだな、と、変な話だが、直感的にそう感じさせた。
 十時さんは何もしていない。ただ、そこに立っているだけだ。
 初代シンデレラガール。そんな肩書きが、少し遅れて脳裏をよぎる。

 うちの事務所はメディア、とりわけ芸能関係に関しては業界最大手といって差し支えはない。実際、今も芸能の三大巨頭として、何となくめでたそうな名前をした同業他社や子供の頃によく映画を見ていた会社と張り合っている。
 だが、それ故にアイドル部門への参入は極めて遅かったといってもいい。
 元々、大正時代に華族が道楽で始めた歌劇団をルーツにする事務所なだけあって、うちはほんの数年前まで、ホームページを開いて所属タレントの項を漁ればリストアップされているのは大体がベテランの顔ぶれで、音楽部門のそれも大体同じな有様だった。
 フォークソングが悪いとは言わない。ロックンロールとポップスのどっちが優れているとかでもない。ジャズや演歌、歌謡曲だって同じだし、何なら俺がプライベートで使っているスマートフォンのプレーヤーにはそういう曲も入っている。

 だが、巷を行き交う流行り廃りとは別の話だ。
 数年前に業界の中でも全く無名といって差し支えのない事務所が起こした奇跡があった。
 765プロダクション。今ではその存在とそこに所属しているアイドルの顔と名前を知らない人間は、この国でもきっと少数派だろうが、数年前はそうじゃなかった。
 天海春香をセンターに据えた765プロオールスターズの十三人は瞬く間にスターダムを駆け上がって、第三次アイドル戦国時代の嚆矢となった。これがもし、うちやライバルの最大手が仕掛けたことであったのなら、人々はそれほどの関心を持たず、彼女たちが日高舞の再来と噂されることもなかっただろう。
 そして、うちがアイドル部門を設立することも。

 それほどまでに、無名の事務所から国民的なアイドルが生まれるというのは異例の事態なのだ。ましてやそれが十三人だ。幸か不幸かその時はまだ学生だったが、そんな事態になればお偉いさんが顔を青ざめさせていたのは想像するに難くない。
 だからこそ、資本家は何の躊躇いもなくそれまでノウハウがほとんどなかったアイドル部門に多額の金を投入した。百人以上のアイドルを売り文句にして内部で競い合わせる、プロジェクト・シンデレラガールズの発足だった。
 俺がここに勤めるようになったのはプロジェクトが動いてしばらく経ってからのことだったが、十時さんはそのプロジェクトにおける最高のアイドル――百人以上との戦いを勝ち抜いた女王を指す、シンデレラガールの称号を初めて受勲するに至った、紛れもないトップアイドルの一人なのだ。
 まあ、だからこそちとせとのマッチアップを組むことにも、企画を通すことにあれこれと奔走しなければいけなかったのだが――それはともかくとして、こうして立ち居振る舞いを見るだけでも、彼女が初代の称号に恥じない存在なのだと理解させられる辺り、やはり本物は格が違う。

「覚えていてくれたんだ」
「はいっ、皆同じ事務所の仲間ですから」

 驚くほどあっけらかんと彼女はそう答える。こっちは、少し背筋が震えていたというのに。

 正直なところ、歯牙にもかけられていないと、そう思っていた。
 黒埼ちとせはトップアイドルになれる。俺はそう信じて疑っていないし、実際、着実に彼女のファンは加速度的に増え続けているが、まだ、そう呼ばれるに相応しい実績は積み上げていないのが実情だ。
 トップアイドルとなれば、しがらみも多いし関わる人間の数だってそうだ。十時さんは仲間だといったが、プロジェクト・シンデレラガールズの性質上、この事務所にいるアイドルたちは皆ライバル同士ということになる。
 勿論、765プロダクションの彼女たちだって当人同士はきっとそう思っているのだろうが、「敵」とまではいかなくとも、兄弟家族と呼ぶには遠い戦いの相手だというのに違いはない。

「ちとせさんのこと、聞いたんですけど……早く良くなってほしいです」

 まるで自分のことのように目を伏せて、細い眉を八の字に歪めながら十時さんはそっと俯いた。

「……本当にね」

 ああ、本当に。何もかも嘘だったかのようにちとせが明日に目覚めて、また、意味ありげなことを呟いて、冗談めかして笑ってくれればどれだけいいか。
 現状で命に別状はない、というのが不幸中の幸いだった。それでも、心拍と呼吸が今は安定しているだけで、それもいつ乱れて、最悪止まってしまうかわからない、綱渡りを続けているのには変わりない。

 ちとせの言葉には、いつもどこかに嘘が含まれている。
 別に、彼女を嘘つきだと詰るつもりはない。それでも事実として、彼女は言葉の端々に冗談を交ぜて、まるでそこにある本当を薄めるかのような癖があった。

 俺を見て魅入られている、といったのは、他でもない十時さんを担当しているプロデューサーだった。
 彼は優秀だ。まだ駆け出しに毛が生えた程度の俺なんかより、遙かに。
 それは彼が積み上げてきた功績が、磨き上げた宝石である十時さん自身がそれを証明している。なんなら立場だって上だし肩書きだって俺より上だ。それでも、個人的な感情としては、なんでか気に食わない人だった。
 俺はよく楽観的だといわれるし、自分でもそう思う。今日が良くないことばかりでも、明日にいいことがあればいいなと思って生きているし、なんなら期待を込めて宝くじだってジャンボの時期が訪れる度に買っている。残念なことに当たったことは一度もないが。
 ただ、彼は俺と正反対だった。いつも、最悪が起こることを前提に動いているような、世の中が明日に滅びるかもしれないと思って生きているような、そういう人だ。そんな彼がわざわざ俺を評して、魅入られていると言った、その真意は今でも理解できずにいる。

「ちとせさん、大丈夫なんですか?」
「幸い、今は命に別状はないんだってさ」
「でも、意識が戻らないんですよね」

 そう。十時さんの言葉を首肯して、真っ白な病室に身を横たえたちとせの姿を脳裏に描く。

 多少の申し訳なさを感じながら覗き込んだ顔は、昼寝をしているように穏やかだった。そこに苦痛はないようにさえ見えた。

 それでも、さらさらと、今も少しずつ透明な何かが彼女から剥離しているのだろう。
 そして、その原因はわからない。倒れた理由も、いつまで無事でいられるのかも、何が剥離しているのかも、意識が戻るかどうかも、全部が全部不透明で宙ぶらりんなまま、ちとせは病室の中でたゆたっている。

 優しい子だ。言葉に詰まって、手持ち無沙汰になった右手でエナジードリンクのプルタブを起こしながら、十時さんを一瞥すれば、彼女は祈りでも捧げるように悲しげな顔をして何事かを考えているようだった。
 人間は、知らない人間のことに関心が持てない生き物だ。例えばソーシャルネットワーキングサービスの類いでそんなことを呟けば、正気を疑われるか、主語がでかいだとかいわれそうなものだが、事実として俺がエナジードリンクを開けて口に運ぶ間にも、地球の表と裏、北と南に東と西を問わず、どこかで誰かが死んでいる。

 そのことについて何か思うところがないのかと問われて、即座にはい、と答えるのは良心が咎めるけれど、結局のところ知りようがないし、知ったところで、自分と関わりのない人間の生き死にを悲しんでくれなんて、難しい話だ。
 それでも、十時さんならきっと食事を辞めて、名前も知らない誰かのために祈ったりするのだろう。
 彼女は聖女でも何でもない。ちとせのことを悲しんでくれているのだって、この事務所という縁あってのことだろう。
 それでも、彼女はそういう風に消えていくことについて、さらさらとこぼれ落ちていく透明な何かについて祈りを捧げることができる。
 きっとこの世界で、多くの人がどこかに落っことしたか、自分で踏み砕いてしまった優しさがあるのだと、ゆっくりと持ち上げられていく瞼と、その眦に滲んだ一滴の涙が物語っていた。

「ちとせさん、どうしたら目が覚めるんでしょう」
「……わからない」

 医者というスペシャリストが事実上匙を投げたのだ。彼女には悪いが、そんなことを素人の俺たちがわかるはずもない。
 持て余した右手に持ったエナジードリンクを流し込んで、喉元まで出かかった溜息を押し戻す。
 十時さんの言葉にあるものは混じりけのない善意だ。悪意でも皮肉でもない。だけどその優しさを受け止めきれないでいる自分が情けなかった。

「いっそ、キスしてみるとか?」
「ごほっ!?」

 恐らくそれは大まじめな提案だったのだろう。ただ、あまりにも突拍子がなくて、危うく飲んでいたものを盛大に噴き出しそうになってしまった。
 予想もつかないところから殴られた心地だ。鼻に入り込んだ炭酸の痛みに悶えながら、俺は十時さんに向き直った。

「わ、ごめんなさいっ、そういうつもりじゃなくて」
「……それは、どういう」
「ええと、昔話なんですけど。シンデレラって、王子様のキスで目覚めるじゃないですか」

 だったら、そういう可能性もあるんじゃないかなって。
 十時さんは釈明も早々に慌てた様子でハンカチを取り出して、フローリングの床に散らばったエナジードリンクの残滓を拭い始める。

「……それは白雪姫だよ」

 俺がやるからいいよ、と答えるより先に出てきたのは、そんな言葉だった。
 白雪姫。お姫様がその美貌を王妃に妬まれて、森の奥で静かに暮らしていたにもかかわらず、悪い魔女に毒林檎を食わされて覚めない眠りに就いてしまう物語。
 十時さんは母親と仲が良かったと、そう聞いたことがある。きっと幼い頃に枕元で何度もその物語を聞かされたのだろう。そうじゃなくたって、桃太郎や金太郎の読み聞かせをせがんでいた俺ですら覚えている程度には、有名な童話だ。
 彼女は素で間違えたのかもしれない。だけど、不幸な目に遭った女の子が奇跡を体験して最後にハッピーエンドを迎えたところでピリオドを打つ物語を括ってシンデレラ・ストーリーと人が呼ぶなら、王子様のキスで目覚めた白雪姫も、シンデレラガールに違いはない。

 空想。それらをまとめて括る言葉。十時さんと一緒にハンカチで床を拭きながら、俺は十時さんのプロデューサーが彼女を迎えに来るまで、白雪姫について、シンデレラについてずっと考えていた。
 全部、空想の文学に記されたことだ。毒の治療には解毒剤が必要で、カボチャに向けて何事かを唱えてみたって、この世界を支配している質量保存の法則を破れはしない。だから、問題はそこじゃない。

『……あなたの望みは、なぁに?』

 思い出す。何を。誰を。謡うように問いかけられたこと。ちとせのこと。
 いつだって彼女の言葉は、何かを物語るようだった。
 いや、多分それも、正確じゃない。

 ゲームマスタ-。頭の片隅からこぼれ落ちた言葉が、脳裏に砕けて食い込んでいく。
 テーブルゲームの進行を恙なく行うために、描いたシナリオを遂行するために配置された役割。多分そっちが近いんじゃないかと、そう思った。
 魅入られている。呆れているのかそうでないのか、いつも通りの三白眼と仏頂面で十時さんを迎えに来た彼女のプロデューサーを、その背中を見送りながら、考える。
 俺の望みのことを、今も不透明の海の中で透明になって漂い続ける、ちとせのことを。
 そして、キスで目覚めるような、陳腐でありふれた物語のことを。

 幸いなことに、企画そのものは潰れなかった。
 上層部からの通達と事後処理を終わらせて、すっかり日の暮れた中庭でベンチに体重を預けながら、大きく溜息を吐き出す。
 まだ夜になりきれていない、夕焼けのオレンジが混ざった藍色のグラデーションはこうやって汚れていくんだろうか。煙草を吸うのは随分前にやめてしまったが、排気ガスとか、俺じゃない誰かが吐き出した副流煙とか、苦労か、絶望とか。
 そういうものを吸い込んで、街は夕方から夜に変わっていく。なんてこともない。ただ、現実逃避のように捻り出した、他愛も益体もない御伽噺だった。
 元々、LIVEバトルはこの事務所が定期的に行っている興業で、ノウハウ自体はマニュアル化されているし、何よりも出演者に十時愛梨がいるとなれば、それだけで金になる。

 上層部の考えを代弁するなら、そんなところだろう。別に相手が誰であっても構わない。ひとたび初代シンデレラガールがステージに立てば、そこが彼女の王城に、下品な言い方をあえてするのなら、会社にとってのドル箱になる。
 そこに憤りを感じるところがないとはいわない。ただ、おかげで調整がやりやすかったのは、多分不幸中の幸いなのだろう。
 ぎりぎりまで黒埼ちとせの出演を保留する。もしLIVEバトル当日までに彼女が目覚め、復帰できなければ代役は白雪千夜を指名する。

 俺の要望はこの二つだった。
 勿論、管理不行き届きというペナルティを負った人間があれこれと偉そうに口を挟めるものではない。だからこそまあ、そこはそれ、蛇の道は蛇というやつで、あれやこれやと手管を尽くした結果なわけだが、正直なところ、その最大の功労者は俺じゃない。

『……以上のことから、今回のマッチアップはぎりぎりまで保留しておくのが妥当と考えられます。メディアへのかく乱と情報操作、及び興業の進行、事後処理については全て私の一任で行わせていただく所存であります』

 何一つ怯むことなく、海千山千の古狸が揃った上層部を相手に言い放った、十時さんのプロデューサーの姿を思い返す。
 それはつまり興行が失敗に終わったり、情報がどこかに漏れたりすれば自分が腹を切るという宣言に他ならなかった。
 正直、意外だった。理由はわからない。ただ、彼も今回のマッチアップには積極的で、そしてその働きがなければ俺の要望はいかに手管を尽くしたって通らなかったといっても過言ではない。
 上層部にとって彼の存在は無視できないものだ。何せ老舗事務所の資本力によるバックアップがあったとはいえ、立ち上げたばかりのアイドル部門とそのプロジェクト全体を背負って一大コンテンツに、それこそプロジェクト・シンデレラガールズを765プロオールスターズに匹敵する存在に育て上げた人間なのだから、その功績は計り知れない。
 感謝はしている。彼に足を向けて寝られないとも思っている。ただ、それでも。

「わからないなあ」
「お前がですか」

 彼がどうして、仏頂面で「魅入られている」と俺に警告じみた言葉を残したのだ、恐らく嫌っているだろうちとせと十時さんのLIVEバトルに協力的なのか。それとも俺がそう思い込んでるだけで、真実は違うところにあるのか。
 背後から千夜の声が聞こえたのは、そんなことを考えてああでもない、こうでもないと唸り声を上げていたときだった。

「ああ、千夜か……そっちは大丈夫?」
「……これほど時間が経ったのです、多少は落ち着きました。お前に心配されるほどではありません」
「ならよかった」

 嘘だろう。鉄面皮と仏頂面を保ってこそいるが、缶コーヒーを包み込む、黒いタイツに覆われた千夜の指先は微かに震えていた。
 白雪千夜。黒埼ちとせの従者であって、俺が担当しているもう一人のアイドル。
 きっちりと一人分の間隔を開けてベンチに腰掛けた彼女のいつもと変わらないような横顔を一瞥して、声には出さずにその名前を喉元まで諳んじる。
 今でも思い出すことができる。彼女はその名が示すように夜のような、そして雪のような女の子だった。
 出会ったばかりの頃なら多分ベンチに腰掛けすらしなかったし、話しかけることもしなかったのだろう。そう思えば、随分と打ち解けられたものだが。

「……私の顔に何か?」
「いいや、何も。ただ常備薬が一つ減ったなって」
「そうですか、私は増えましたが」

 胃薬。皮肉を察して皮肉で返す辺り、本当に聡明な子だ。そこは彼女の美点だと、素直にそう思う。
 ただきっと、そう生きなければいけなかったのだろう。そう生きるしかなかったのだろう。
 彼女の過去について訊かされたのはちとせからだったし、俺はそこにあえて多くを問うことはしなかった。
 千夜はそれを望まないだろうし、本人からそれを訊いたところで、俺は青ダヌキもとい未来から来た猫型ロボットじゃない。だから、そこにあった過去を塗り替えることなんてできはしない。
 正直なところ、俺は彼女のプロデューサーとしてはあまりよくできていないのだと、今でもそう思う。

『悪い子じゃないのよ? ふふ、私の可愛い僕ちゃんをよろしくね、魔法使いさん』

 ちとせからそう紹介されるまでただの一言も喋らなかったことを覚えている。重ね合わせた年月の中で、千夜の口から紡がれた言葉に含まれた虚無と、砕けて使い物にならなくなってしまった何かのことを覚えている。

『お嬢さまは、価値のなかった私に意味をくれた』

 どこかで読んだ本に書いてあった。人生とは今まで積み重ねた過去の総和であると。
 だとすれば積み重ねた過去が全て無価値になる、無に帰することがあったのなら、そして更にそこから引き算が成されたら、人間はどうなるのか。
 大学時代にキルケゴールの本を読んで、レポートを書けという課題が出たのを思い出す。死に至る病だったか、宗教観が強くて大分癖のある本だったが、それでも多くの人間がタイトルから想起する通りに、絶望は人を死に至らしめるのだと、そういうことが書いてあったはずだ。

「大丈夫じゃないだろう、千夜」
「…………」
「俺は……君が評する通り、あまり期待に添えているような人間じゃない。それでもずっと見てきたんだ、それぐらいはわかる」

 絶望の淵から彼女を掬い上げて、今日までその命を繋ぎ止めてきた主が今このときに真でもおかしくはない。それがどれほどの絶望になるのか、俺にはただ推し量ることしかできないが、きっと千夜の地球は今より遙かに回るのが遅く、両肩には砕けそうなほどの重力がのしかかっているのだろうと、それぐらいは理解できる。
 沈黙。千夜の地球と俺のそれが重なり合ったかのように、時間の進みがおかしくなって、時計の針が一秒を刻むのにも天文学的な数字を要求しているような、そういう感覚が先にあって、中庭からベンチと、俺たち以外の全てが削り取られていくような錯覚に、脳みそが支配されていく。

「……私は」

 永遠にも似たその重力を先に振り切ったのは、果たして千夜の言葉だった。
 震える唇が微かに紡ぎ出した、たった一言。それは知らない人間が聞いたのなら、いつもと変わらないように怜悧で鋭い響きを持っているようにも聞こえるのだろう。
 ただ、そこには絶望があった。きっと過去に戻って彼女の口からもう一度その名前を聞いたときにも同じ事を感じるのであろう、果てのない虚無。

 ちとせは俺を魔法使いと、そう呼んだ。だけど、俺はきっとそう呼ばれるに値しない人間だ。
 奇跡も魔法もない世界で、きっと何か一縷の望みを託してそんな言葉を口にしたのだろう。そして、自分をスカウトするために交わす契約の条件に、千夜も担当する、という事柄を唇で書き加えた。
 ――あなたの望みは、なぁに?
 いつか問いかけられた言葉がリフレインする。俺の望み。ちとせの望み。そして、そこに必ずあるはずの。

「……正直に言いましょう。怖いのです」

 だろうな、とは、言えなかった。
 懺悔を聞く聖職者のように、俺はひとりぼっちになった重力の井戸の底で、千夜の唇が紡ぐ言葉を、ただ静かに目を伏せて待ち続ける。

「……私は、ただ静かに、お嬢さまと暮らしてゆければ、それでよかったのです。価値の無い私に、生きる意味を与えてくれたお嬢さまと、最期の時まで寄り添い、そこで人生を終わらせるのであろうと、そう思い描いていた」
「…………」
「それでも、お前はそれを許さなかった。きっとそんなつもりはないのでしょうね。ただ、私に別な価値を与えて、いつしかこの場所で過ごすことが日常になって、興味など欠片もなかった他者と必然的に関わりを持たざるを得なくなって」

 それだけでは、大いなるマイナスだ。そう自嘲するように千夜はふっ、と短く息を吐いて、唇に微かな笑みを乗せようとして。
 失敗した。代わりに、彼女の薄い唇はきつく真一文字を結んで、それから緩く、綻ぶように、崩れていくように、弓なりの形を、笑みの反対にあるものを形作っていく。

「悪くなかった。従者としてお嬢さまと共にある自分以外の自分ができることも、偏屈で、他人が嫌うような私にわざわざ関わりを持とうとした変わり者に囲まれることも。いつしかそう思うようになって……私の中にはもう一つの価値が生まれてしまった」

 舞台の上では主人であるちとせと対等の存在として肩を並べる、ヴェルベット・ローズとしての白雪千夜。年少組に囲まれて、困惑しながらも小さな彼女たちの面倒を見る白雪千夜。この事務所に来てから彼女の中に生まれたものを、彼女が価値と言い換えていたそれを数えていけば、枚挙に暇がないだろう。
 価値。定量化できるもの。換算できるもの。

 俺は、この言葉がどうにも苦手だった。特に、人間に対してそれを使うのは。
 例えばパンを一個だけ焼ける人間がいる。そして、その隣にそいつがパンを一個焼くだけの時間で、三個焼き上げられる人間がいる。
 価値を生産性として定量化してしまえば、パンを一個しか焼けない人間は、三個焼ける人間と比べて劣っている。無価値である。そんな風に定められてしまう。

 こんな業界に身を置いていれば、嫌でもそういう言葉を聞くことになる。アイドルには賞味期限があって、それを過ぎれば価値を失って消えていく。そしてそれ以前に、アイドルになる価値がないと判断された人間は舞台に登るまでもなく無価値の烙印を押されて、この業界から消えていく。
 これがもし、御伽噺であるのなら、そこでピリオドが打たれて終わりなのだろう。バッドエンドとして締めくくられて、次の別な物語へと続いていく。
 だけど、消えたといわれる人間は、今も生きているかもしれないんだ。そこに、無価値という烙印を押すことがどれだけ重いかわからないまま金勘定で動かされ、価値という言葉を使うことが憚られるなら生産性でも何でもいい、欺瞞のラベルを貼って、ピリオドが打たれたことにして、今もこの星は回っている。

「……私は。生きたい。私として、お嬢さまと生きたいんだ。少しでも長く、お嬢さまと……舞台に立って、共にありたいと、その為の価値を、自分に求めている。おかしいだろう、お前を散々夢想家だなんだと笑ってきた私がこの有様だ、何よりもそれを最上位に置いているんだ。ここでの日々は悪くない。変わり者だと今でも思う時はあるけれど、私に接してくれた人間を無碍にすることはできない。ただ……そこにお嬢さまがいなければ、私は」

 笑ってくれ。自嘲する千夜の瞳からは、絶え間なく涙が注いでいた。
 注ぐ。空には満天の星々が輝いているのに、ここだけが地球から切り離されて、雨が降り注いでいる。

「千夜」
「……お前」
「それは多分、願いだよ」

 笑ってほしいのはこっちの方だ。盾とか騎士とか魔法使いとか、そんな聞こえのいい言葉で飾られたって、俺は結局、そんな雨を最低限だけ受け止める、安物のビニール傘にすらなることができないでいるのだから。
 震える両肩にそっと置いた右手に、何の意味があるだろう。きっと彼女に未来を、新しい過去の総和を与えたのは俺じゃなくて、それぞれの事情を抱えてこの事務所に集まったアイドルたちなのに、まるでその代表者みたいな顔をすることの、なんて滑稽なことか。
 ただ、それでも。それが価値で換算することのできない願いだということだけは、伝えたかった。その一心だった。
 願い。叶うかどうかもわからない、未来に託す期待とか祈りとか、そういうもの。
 大丈夫だよ、と、簡単に言えたなら、そして本当にその通り全部が全部大丈夫になったらと、そう思わずにはいられない。それでも、そうはならないと知っている。
 俺は悲観主義者じゃないけれど、願いの全部が明日に通じていたらきっとこの世界は平和で、億万長者や天才で溢れているはずだ。だからそうはなっていないし、買った宝くじだって外れ続けている。
 そして、叶わない確率の方が圧倒的に高い願いを、それでも願わずにいられないなら、明日に託して、いや、その明日がいつも通りに訪れることにすら祈りが必要なら。
 千夜が噛み締めた薄い唇から、紅い雫が重力に引かれて落ちる。ちとせの瞳とよく似た紅。そして今もちとせからこぼれ落ち続けているのと同じ透明な血液が、両眼から止めどなくあふれ出している。

 それでも、俺は。
 俺の身体はまだ、涙を流せてはいなかった。できることなんて、ただ三十六度の熱を持った壁になることぐらいだった。
 神様に祈ったことは何度もある。だけど、今回は特別だ。
 もしも。もしもだ。定量化されることを、価値と無価値に分けられることをあんたが否定するのなら、俺がこうしていることにも、何かの願いや祈りが、そこに込められた意味があってくれるのだろうか。
 巷に雨が降るように、と、昔の詩人がどこかで言った。その通りだと、そう思う。なら、俺の心に溢れているものは、どうやったら外に出てくれるのだろうか。
 大丈夫。わからないまま、何の気休めにもならないとわかっていながら俺は、俺たちは繰り返す。かくあれかしと、そうでありますようにと、祈るように何度も、何度でも。

 月明かりに照らされた病室は、ドラマで見るよりもずっと静かで、背筋に粟立つような怖さがあった。

『……私は祈りました。願いました。お前も……お嬢さまに仕える者であるなら、そうしてはいかがですか』

 一頻り泣いた千夜を見送るときに聞いた言葉を思い返す。そういえば仕事の事後処理やら何やらで、まだ一度しかちとせには面会していなかったし、その時間だって短いものだった。
 芸能人や政治家が利用する病院なだけあって審査は厳格だったが、それでもちとせの病室に入る許可は下ろしてくれた辺り、ここにも何か根回しがあったのだろうかと勘ぐってしまう自分に苦笑しながら訪れた部屋は、前に来たときと変わらず、真っ白で、透明だった。
 女の子の寝顔を覗き込むのは道義的にどうなんだろうと、自分でもそう思ったけれど、それでも心配が先に立って見てしまったちとせの顔は、日が昇れば自然に目を開けるんじゃないかと思ってしまうほどに安らかだ。
 それでも今、ちとせが意識不明で、容態こそ安定していても、いつまた生死の淵を彷徨うことになるのかわからないという事実に変わりはない。点滴からぽたり、と雫がこぼれ落ちていく様を見送りながら、俺はただそこに思いを馳せる。

 誰かの死に目に立ち会うという経験は何度かあった。
 縁起でもない話なのはわかっている。それでも今、死という場所に一番近いちとせを見て、それを思うなというのも難しい。
 死、という言葉を聞いたとき、人が考えるのは多分ありったけの苦しみとか痛みとか、そういうものであるはずだ。

 初めて誰かの死を見送ったのは、飼っていた猫の時だった。
 俺が生まれると同時に両親がペットショップから買ってきたらしいあいつは、家族というより兄弟みたいなもので、記憶にこそないが幼い頃の俺は母親の膝の上を取り合ってあいつと喧嘩していたこともあったらしい。
 それほどまでに縁深い猫が死んだとき、俺は確かに涙を流していた。当たり前だ。だってあいつは、種族こそ違っても、俺のたった一人の兄弟だったのだ。
 だけどその違いが、何よりも深くて大きい断絶であることもわかっていた。あいつが死の淵に遭った時、そこにどれだけの痛みや苦しみを伴っていたのか、猫の言葉ではわからなかったから。

 二度目は、祖父と祖母の時だった。猫ほど一緒に長い時間を過ごしたわけではない。だけど、年末年始やお盆にお彼岸の時は決まって家を訪れて一緒に過ごしていた家族なのだから、その時だって深く悲しんで、一日中泣いていたことを覚えている。
 祖父母が死んだときのことは、まだ子供だった俺に配慮してか両親にも医者にも詳しく聞かせてはもらえなかったけれど、最期に苦しんではいなかったらしい。
 もっとも、終末医療で大量の痛み止めを必要とするような病に冒されていたのだから、痛く、苦しいはずはないのだろうが――それでもその瞬間は、棺に収められた死に顔は、それこそ今のちとせと変わらない、眠っているように安らかなものだった。

 正直、今のちとせの側にいて、俺ができることが何なのかなんて、病室にいる今でも見当がつかない。
 ただ、千夜の言葉を聞いたとき、俺は弾かれたように飛び出していた。そうしなければいけないという確信が、思考回路の演算を振り切って、両足を動かしていたのだ。

 今の俺に、できること。
 考える。このまま朝なんて一生来ないんじゃないかと疑いたくなるような沈黙の中で、ただひたすらに思考の海をかき分けて、記憶の引き出しを、おもちゃ箱でもひっくり返すように乱雑に開け放って、答えを探し続ける。
 喉元まででかかっているはずなんだ。全てのことに意味があるなら、俺がまだ涙を流していないことにも、弾かれたようにここを訪れたことにも、全部が全部、意味があるはずなんだ。だから。
 祈るように、記憶を一つずつ手繰り寄せる。ちとせと出会った春のこと。満開の桜の下で彼女が浮かべた笑顔のこと。そして。

「なあ、ちとせ」

 呼びかける。それに対して返ってくる言葉はない。当たり前だ。

「ちとせは俺を魔法使いって呼んでるけどさ、御伽噺とかって、信じてるのか?」

 構わない。ただぶちまけたおもちゃ箱の中からああでもないこうでもないと、そぎ落とすように、答え以外の言葉が全てなくなっていくように、ただ俺は浮かんだことを声に出し続ける。
 御伽噺。十時さんが言っていた、例えば王子様のキスで目覚めるような陳腐な物語。子供の頃はそれが本当に会った話なのだと、自分もその一部になれるのだと信じて疑わなくて、大人になるにつれて段々に馬鹿馬鹿しいと吐き捨てて、笑い話の言い換えにされるような、そんな物語だ。

 それでも。
 それでも、そんな夢みたいな奇跡がこの世界にも転がっていることを俺たちは知っている。

 天海春香がアイドル・アルティメイトの舞台に立った時、観衆の反応は明らかに冷ややかなものだった。テレビの前で見ていた奴らの中にも、無名の事務所の売り出し中とはいえよくわからないアイドルが画面に映ったとき、チャンネルを変えようとしたのはきっと少なくないはずだ。
 それでも、天海春香は奇跡を手繰り寄せた。彼女が話す言葉が、歌い上げた歌詞が、私を見ろと、天海春香はここにいると、そっぽを向いた人間の首根っこをひっつかんで、無理矢理彼女の方へと振り向かせたのだ。
 そして、彼女の両手には優勝トロフィーが収められ、メディアはそれを奇跡だと、日高舞の再来だと呼んで、昨日まで目もかけていなかったくせに無責任にはやし立てた。
 だけどそれは、本当に何もない場所から湧いたものなのだろうか。そうじゃなければ突然、天から降ってきたものなのだろうか。
 答えは否だ。天海春香がトップアイドルと呼ばれるまでに、きっと彼女はいくつもの挫折を繰り返し、歯を食いしばって、突き立てた爪から血が滲んでも、この世界の壁を登り切ることをやめなかった。それが、奇跡を手繰り寄せたのだろう。
 勿論、全部が全部そうなるなんて思っちゃいない。天海春香と同じだけの努力をすれば、人は天海春香になれるのか。その答えも、同様に否だ。

「俺は……正直に言おう、君が本当に明日にでも死んでしまうかもしれないなんて、思ってなかったんだ」

 いつもの冗談で、本当を薄めた軽口だと、そう思っていたんだ。
 勿論、ちとせの体が常人よりも弱いということは理解していた。だけど、眼前に迫った死を冗談めかしてでも口に出せるだろうかと考えたとき、俺はできないと決めつけてしまっていた。

 言い訳をするつもりはない。だけど、死というのはそれほどまでに重いものなのだ。
 俺は神頼みこそよくするが、敬虔な信徒じゃない。それも特定の神様じゃなくて、八百万もいるんだから一人ぐらい叶えてくれと、そういう軽い気持ちでのものだ。
 だから、死んだら人は天国に行くなんて、とてもじゃないが信じられない。人だけじゃない。ありとあらゆるこの世を去ったもの全て、空の上で幸せに暮らしていますなんてことがあり得るだろうか。
 もしあり得たとしても、地上に遺された俺たちにはそれを確かめる術がない。だったらそんなのは、ないのと同じじゃないか。死んだら人は、猫は、物は、ありとあらゆる全ては、消えてなくなってしまうんだ。

「……初めて宣材写真を撮ったとき、君はカメラマンを焚き付けるようなことを言っていた。それも、覚えてるよ」

 正直なところ、新人アイドルの宣材写真を撮れ、というのはカメラマンにとってあまり興が乗らないことである、というのは現場にいる誰もが何となくわかっていた。
 ただ、わざわざ誰もそれを口に出したりはしない。とうのカメラマンでさえもだ。

 それもそうだろう。そんな何の益体もない事をわざわざ口に出したって、現場の士気が下がるだけだし、撮影を担当している人間がそんなことを言った日には、次の日からスケジュール帳が真っ白になってしまうことが確定しているのだから。
 それでも、あえてちとせは挑発するようにカメラマンを務めていた青年に言い放った。興が乗らない仕事なのではないか、本当はもっと、歴史に、他の誰でもない自分の名を残すような一枚を撮りたいのではないかと。
 普通なら逆上しそうな物言いだ。なぜなら、それは今お前のやっている仕事は取るに足らない、つまらないものなのだとわざわざ突きつけているのに等しい。世が世ならその場で白い手袋を投げつけられても文句は言えないだろう。

 それでも、彼は逆上しなかった。ちとせの言葉が、何か心火の炉に薪をくべたかのように撮影は異例の延長という措置を執られて、結果として彼女の宣材写真は非常に挑発的で蠱惑的、しかしまだあどけない少女の面影を残した笑顔を見事に映した一枚に仕上がったのだ。
 まるで、ちとせの言葉によって、初めからそう仕向けられていたかのように。
 魅入られている。十時さんのプロデューサーが俺に放った言葉が脳裏をよぎる。

 ちとせのルーツがルーマニアのブカレストにあると聞いたのは、あの桜の下でのことだった。
 吸血鬼の末裔。ちとせはどこか冗談めかして自分の出自をそう要約したが、残念なことにそれが本当か嘘かは確かめようがない。ドラキュラの烙印を押されて後の吸血鬼のモデルになったヴラド・ツェペシュはもう死んでいるし、彼の、直系の末裔がどうなったかについては、残念ながら断絶したとの見方が強い。
 それでも彼の末裔を名乗る人間は世界に何人かいるし、ひょっとすればそれが真実で、ちとせの言葉も本当なのかもしれない。ただ。
 重要なのはちとせの先祖が誰で何かという話じゃない。問題は。

「君には不思議な力があるのかもしれない。現に俺は君に魅入られていたとしか言い様がないし、カメラマンは君の言葉に焚き付けられて逆上するんじゃなくて、最高の一枚を仕上げてくれた」

 言葉には力がある。オカルトかもしれない。ただ、人が言霊と呼ぶそれが呼び起こしたとしか思えない偶然というのはこの世を探せばきっと、どこにでも転がっている。

「もしかしたら君はいつも、そうあれかしと願って、喋ってるんじゃないかと、そう思うんだ」

 妙な話だ。仮にも神に仇なすものとして定義づけられた吸血鬼の末裔が神に祈りを捧げながら言葉を喋っているなんて、ライオンが趣味で家庭菜園を作っていますというぐらいには荒唐無稽で、多分ちとせが起きていたら、腹を抱えてけらけらと笑っていたことだろう。
 無論、そうなって欲しいと思っていた。俺のくだらない言葉で長い眠りから覚めて、いつものようにまた悪戯っぽくちとせがけらけらと笑い続ける。
 だが、ここに言霊はいなかったようだ。それでも、構うものかとばかりに、俺は二人いるはずなのに一人きりの病室で淡々と言葉を紡ぎ続けた。

「君には多分大きな借りがある。千夜のことだ。彼女と打ち解けるのは色々と苦労したけど、多分ちとせがいなかったら俺は匙を投げてたんじゃないかって思うよ」

 正直にいうと、俺は白雪千夜が苦手だった。
 初対面の印象が互いに険悪なものだったことを引きずっている節がないとはいわない。ただ、やっぱり決定的なのは、彼女がいつも自分の存在について「価値」という換算可能な概念で語っていることだろう。それは俺にとって、どうしても許しがたいことだったからだ。
 だが、蓋を開けてみれば千夜のそれは価値観じゃなくて呪いだった。そして、解かれなければいけないものだった。
 ――ちとせ。
 君がそれを知らないはずはないだろう。そっと、穏やかな寝顔に伸ばしかけた手を止めて、唇を硬く引き結ぶ。

「だけど、君について、一つだけ許せないことがある」

 言うべきか、言うべきじゃないか。結論より先に、言葉が走っていた。散らかった頭の中は、もう随分クリアになっている。あと少しで何かに辿り着きそうな、喉元まで答えが出かかっているような引っかかりが、渦を巻いて言葉に変わっていく。

「君は、自分の余命が幾ばくもないことを知っていた……だから、俺と千夜を引き合わせた。そうだろう。果たして目論見は上手くいった。千夜は、あいつは変わってきている。確実に、今でも苦手な部分がないとはいわない。だが、俺もあいつについての考えを改めている」

 まるで、初めからそうなることが決まっていたかのように。そして。

「君は……千夜に、君が生きるはずだった幸せな時間を、代わりに生きてもらおうとしていたんじゃないか? そしてその後見人として俺を選んで、お人好しが一つ屋根の下に集まった事務所を新しい家にするつもりだった。違うか?」

 ああ、そうだ。仮に今ちとせが目覚めたって、答え合わせはできないかもしれない。だが、何かがかちりと音を立てて結びついた、そういう確信が脳裏を閃いて弾ける感覚があった。

「この世界には、きっと奇跡が溢れている」

 十時愛梨が初めて灰の冠をその頭上に戴いたように、天海春香がそのきっかけになる時代を作ったように、そこから更に遡れば日高舞が、歴史の教科書に名前を残すような偉人たちが、歴史を転換させるような偉業を、奇跡と呼んで差し支えのないようなことを起こしてきた。
 俺はその存在を信じて疑わない。きっと奇跡は誰にだって訪れる。本の受け売りをまともに信じるのなら、人間には三回奇跡が起きるはずなんだ。それでも。

「それでも、誰かの人生を誰かが代わりに生きることなんて、できないんだ。できないんだよ、ちとせ」

 もしも今からアイドルを志す人間が天海春香に徹底的な取材をして、彼女と同じトレーニングや食生活、交友関係の全てに至るまでをなぞったとしても、そいつは天海春香になることは出来ない。十時愛梨にも、白雪千夜にも、俺にもなれない。
 昔、百時間以上夢中になっていたゲームがあった。人は誰かになれると、そう謳った物語だった。

 それは、半分本当かもしれないけど、半分は嘘だ。人は確かに、誰かにとっての特別な誰かになることはできるかもしれない。例えば、縁もゆかりもなかったはずの人間同士が友達になったり、或いは険悪な出会いから始まったアイドルとプロデューサーが、今ではそれなりに信頼し合って仕事をしていたり。
 だけど、人はどう頑張ったって自分以上の何かにはなれないのだ。世界の数割に匹敵する財産を築いたって、過去の人々が描いた未来予測を超える機械を発明したって、何百年も解くことが出来なかった数学の問題を証明してみせたって、そこにあるのは偉業を成し遂げた自分であって、他の誰かでも超越的な存在でもない。
 それなのに、他人が自分の人生を、生きるはずだった未来を代わりに生きることなんてできるだろうか。いいや、できるはずがないんだ。ちとせ。

「君は……俺にこう訊いたな。望みは何だと」

 忘れるはずもない出来事。かけられた言霊。それはきっと、俺の望みと、ちとせの未来予測を重ね合わせるための魔法だったんじゃないかと思う。俺の望みは、貴女の望む全てと同じですと、そう答えさせるための誘導。
 馬鹿げているとは思う。だけど、そうとしか思えない。ならば。

「答えるよ、ちとせ。俺の望みは……君に、君として、他の誰でもない黒埼ちとせとして明日を迎えてほしいんだ」

 ぱたり、と、何かが落ちる音が聞こえた。何が。熱が。どこから?
 どこから。俺の、内側から。滲んでいる。心の奥底でもつれていたものが解けて、願いに乗って、いつのまにか握りしめていた小さな掌と、それを包み込む骨張った手の甲にぱたり、ぱたりと降り積もっていく。

「俺は答えたよ、だから訊かせてくれ、ちとせ。君の願いは何だ? 君の望みは何だ? 誰かに託したものじゃない、諦めているものじゃない」

 答えはない。それでも言葉は走り続ける。胸の奥底で雁字搦めになっていた願いは解けて溶けた。そうして不透明の海を泳いで、透明な彼女に向けて辿り着こうと、言葉になって藻掻き続けている。

「……答えられないなら、推測するよ。君は……君は、誰よりも生きたいと、そう願っているんじゃないか! 明日を迎えたいと、そう思っていたんじゃないか……!」

 答えてくれ。強く、だけど壊してしまわないように小さな掌を包みながら、俺はそう叫んでいた。

 きっとちとせは、自分の未来に絶望しながらも、絶望の中で、千夜に未来を仮託すること以外の保険を残していた。勿論これは勝手な推測に過ぎない。それでも、そうとしか思えないようなことが数々あった。

 例えば、宣材写真の時だってそうだ。自分がもしこれから死ぬとして、その運命に絶望して千夜を人生の代理人に選んだというだけなら、わざわざ写真写りについてこだわる必要はない。
 だが、写真は消えないとはいわなくとも、残り続ける。それこそ、本人の命が失われたって、百年単位で、今ならきっと千年ぐらいはデータを移し替え続けることで存在を残し続けることが出来るはずだ。
 俺の兄弟だった猫は死んだ。だけど彼の生前の姿はアルバムに収められていて、それを読み返せば、今でもあいつと過ごした日々が昨日のことのように思い出せる。祖父も、祖母も。例え命が尽きたって、そうして誰かの記憶の中に生き続ける。
 だから、アイドルを選んだんじゃないのか。そして、写真に拘ったんじゃないのか。それは皆の記憶に残るから。例え黒埼ちとせが死んだって、存在を覚えている人の中で思い出としていき続けられるから。
 それだけじゃない。

「君が……君が、いつも自分の余命について冗談めかして言ってたのは、それが冗談であってほしかったからじゃないのか」

 言霊。自分の余命を茶化し続けることでいつしかそれが本当に冗談になるという奇跡を待ちわびて、いつもちとせは笑っていたんじゃないかと、そう思うのだ。
 だけど、目覚めてくれなければ確かめようもない。言葉は交わさなければ確かめられない。自分の中で幾ら訊いたって、返ってくるのは誰かの答えじゃなくて自分の答えだ。
 だから。
 一体どれほどの時間が経ったのだろう。一秒が永遠に引き延ばされていくような沈黙の中で、こいねがうようにちとせの右手を握りしめて、歯を食いしばりながら神に祈っていた、その時だった。

「……白雪姫の話、私も小さい頃に聞かせてもらったな……」

 あは、と、少し掠れた笑い声が耳朶に触れる。

「ちとせ……!」
「キスで目覚める御伽噺……陳腐でありふれた物語だけど、でも、効果はあったみたいよ? 魔法使いさん」

 この場合は王子様と呼ばなきゃいけないのかな。いつものように冗談めかして、ベッドに身を横たえていたちとせがゆっくりと身を起こす姿が、月の薄明かりに照らされて、網膜に焼き付いていく。
 奇跡。きっと世の中に転がっていて、だからこそ陳腐になって、いつしか御伽噺と同じように、何かを笑い飛ばす言葉になってしまったもの。
 それでも、今目の前にある光景をそう呼ばずして何と呼ぶというのか。

「ちとせ、ああ……っ!」
「ふふ、私はここにいるよ。ちゃあんと生きてる。わかるでしょ? 私の心臓が動いてる音」

 いつの間にか握りしめていた掌からは、確かにちとせの鼓動が伝わってくる。さっきまで止まっていたわけでもないのに、それが急に温かな熱を帯びて、少しずつこぼれ落ちた透明なものを心臓へと戻していくような感覚が、指先へと確かに刻まれていく。

「……奇跡、っていうのかな。これもあなたが起こしてくれたんでしょう? 魔法使いさん」
「……俺は何もしてないよ、きっと、ちとせがそう願ったから」

 紡ぐ言葉を遮るように、細い、左の人差し指が唇に押しつけられる。

「あんなの、誓いのベーゼと変わらないでしょ? だからこの奇跡は貴方のもので……そして、私のもの」
「ちとせ」
「だから、ありがとう。私の魔法使いさん。もう少しだけ……頑張ってみるから」

 だから、私を見ていてね。そして、忘れないでね。
 言葉に代えて、包み込む右手にちとせがそっと鋭く尖った犬歯を突き立てる。鋭い痛みが先に走って、鈍く、鼓動と同期するようなそれが遅れて刻まれる。それはきっと誓いだった。天邪鬼な彼女の、精一杯の正直を包み隠した、本当だった。

 もしも、奇跡と偶然に何か違いがあるとすればそれは何になるのだろうと思ったことがある。奇跡の全ては必然じゃないし、偶然のどこかに必然が含まれていることだってあり得ない話じゃない。
 そうしてちとせが意識を取り戻したことで、会社の内部的にはつつがなくとは行かずとも、興業としては問題なく開催されたLIVEバトルの勝敗は、事前の予想を覆すことなく、十時愛梨の勝利で終わった。
 正直なところ、どれだけ勝利を祈っても勝てる気がしなかった。十時さんがステージに立った瞬間に、そっと指先でマイクをなぞった瞬間に、初めにあった言葉のように舞台は彼女の色に染め上げられて、そこから先は忘れろといわれても忘れることの出来ない独擅場だったのだから。
 生まれながらのアイドル。十時さんを特集した雑誌に記されたキャッチコピーに、違うところはない。技能だけを見れば、十時さんより上手く歌えるアイドルはいるかもしれない。上手く踊れるアイドルはいるかもしれない、万が一にも、彼女よりも美しいアイドルだっているかもしれない。
 だけど、きっとその誰もが十時愛梨にはなり得ない。そして。
 敗北こそしたけれど、ちとせのパフォーマンスは今までで最高のものだったと、確信を持って断言できる。そうだ。ちとせにだって代わりはいない。人間としても、アイドルとしても。

「お疲れ、ちとせ。最高のステージだった」

 吸血鬼を模した衣装に身を包み、舞台袖へと引き返してきた彼女にスポーツドリンクを手渡しながら、俺は何一つ偽りのない賞賛を口にする。

「あは……ありがと、魔法使いさん。生憎負けちゃったけどね」
「いいんだ……とはならないか」
「ねえ、魔法使いさん」
「なんだ、ちとせ?」
「……最初からこうなるように仕組んでたんでしょ」

 ちとせはいつかの意趣返しとばかりに悪戯な笑みを湛えて、そして。

 いつだって余裕に溢れていた笑顔が、涙に彩られて崩れていく。だけどそれは、あの時病室で見たものとは違う。熱が、魂か、そうじゃなければ生気とでも呼ぶべきものに満ちあふれた、温かなものだった。

「……私、いつかどこかでこのまま終わってもいいって、そう言ったでしょう」
「ああ、覚えている」

 取るに足らないかもしれない、小さな失敗。駆け出しのアイドルには珍しくない、ステージ上での転倒。苦い思い出ではあったけれど、それも紛れなくちとせと過ごした時間の中に刻まれた記憶なのだ。忘れられるはずがない。
 そして、ちとせは舞台裏に引き返したときそう言ったのだ。十割が冗談だったのかもしれない。或いはいつも通り、少しだけ本当が含まれていたのかもしれない。
 そこにあったものは、諦めだった。本当なら怒って然るべきだったのかもしれないが、残念なことに俺の方も面食らって何も出来なかったことを、覚えている。

「でも、今はすっごく悔しい。ここで終わりたくないって、そう思うの……!」

 真実を覆い隠すことなく、ちとせは涙と共にそう言った。
 その言葉が聞きたかった。それを見付けてほしかった。あの時、病室で俺が願ったことはそれが全てで、だからこそ初代シンデレラガールを、トップアイドルを相手に戦ってもらいたかったのだ。
 そこがきっと、俺が与えられるかもしれない景色だから。そして、それはきっと、自分の人生を生きていたいと願わなければ抱き得ない感情で、人生を懸けるに値する望みだから。

「終わらないさ」

 大丈夫だよ、なんて簡単に言えることじゃない。いつもいつでも上手くいって、二十四時間経てば当たり前に明日が来るなんて、誰にも保証できない。俺だって、何か不慮の事故にでも遭って、明日にはいなくなっているのかもしれないのだから。

 それでも今は、どうしてか、それこそ俺の命を担保にしろといわれても、そう断言できた。終わらないと、黒埼ちとせはアイドルとしても、人間としても、これからもずっと、終わらない明日に向かっていける。
 多分、今日ここから。泣き暮れるちとせを抱き留めながら、祈るようにそう呟いた。

 すれ違う十時さんと彼女のプロデューサーは、何も言わなかった。ただ、勝者として驕ることなく、そして、哀れむことなく堂々と、地鳴りのように響くアンコールに応えて、彼女たちの舞台へと凱旋していく。
 だけど、ちとせを見る二人の目は、どこか温かで、きっと俺と同じ事を考えていたんじゃないかと、そう思った。

 大丈夫。確信を持って言葉にする。きっと奇跡はこの世界に溢れていて、一人に三回訪れるなら、黒埼ちとせの明日は終わらない。
 ちとせの分で足りないのなら、俺のそれまで使えばいい。それがきっと、俺に出来る精一杯で、大丈夫だから。
 捜し物は見つかった。もう、見失うことはない。だから、こうして願うのだ。ありったけの、全身全霊を込めて、思うのだ。そうして、願いをこの手に手繰り寄せるために、俺たちは今を生きていく。それが、途切れて、消えてしまわないように。

終わりです。長々と失礼しました、HTML化依頼出してきます

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