【ミリマス】馬場このみ『衣手にふる』 (321)

「んん……っ。」

彼女は読んでいた資料の束から顔を上げ、静かに集中を解いた。
ここ、劇場の事務室には談話スペースが置かれており、誰も使っていないときにはローテーブルを挟んだ奥側のソファーでこうした読み物をするのが彼女の習慣となっていた。
彼女が意識を外に向けたとき、開かれた窓から木々が揺れる音を連れた爽やかな風が吹き込んで、そっと彼女の髪を揺らした。
梅雨入りして以来雨が続いていたが今日のような晴れ間は季節柄ありがたく、事務室のどの窓も大きく開かれ、自然の風を取り込むようになっていた。

馬場このみは読んでいた資料をテーブルに置き、談話スペースから出た。
彼女のプロデューサーも事務員である青羽美咲も出払っているため、いま事務室にいるのは彼女だけである。
部屋の端にある冷蔵庫から、作って冷やしておいた麦茶を取り出して、氷を入れた透明なグラスに注いでから、また談話スペースへと戻る。


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風にのって微かに香る潮の匂いが鼻腔をくすぐるなか、彼女はまた資料を読み進めていく。

「…………。」

彼女が一週間ほど前から向き合っているこの資料は、近々行われる演劇の公演のオーディションに関するものだ。
765プロライブ劇場でも公演の一つとして演劇を行うことがあるが、これは完全に外部のもので演者もすべてオーディションで選ばれる。
765プロがアイドル事務所ということもあり、この手の話は必ずしも事務所に通知が来るとは限らず、今回のオーディションも本来はそうなるはずだったようだ。
ところが、企画の立ち上げに関わったスタッフの中に、馬場このみが元大女優シンシア役を演じた「屋根裏の道化師」を観たものがいて、そこから偶然彼女個人にオーディションの話が回ってきたのだった。

資料の枚数は50ページほどにものぼり、演劇のあらすじや世界観はもちろん、それぞれの役の詳細な設定、人間関係、そして劇中から抜粋されたオーディション用の短い台本も含まれていた。
すなわち、選考の過程で役そのものへの理解が不可欠であり、オーディションではまさに劇中の人物自身であることが要求されることは想像に難くない。


演劇のモチーフは「鶴の恩返し」である。

鶴を助けた青年のもとに、道に迷い雪に降られた娘が泊めてほしいと訪れる。
吹雪で外へ出られない日が続くが、やがて青年は娘の人となりに密かに好意を抱くようになる。
ある日娘が「布を織る間部屋を覗かないでほしい」と言い部屋にこもり、数日かけて一反の美しい布を織りあげた。
青年が詳しい話を聞いても、娘は「言えない」というばかり。
やがて娘が布を織るために頻繁に部屋にこもるようになり、それゆえ次第に二人が顔を合わせて話せる機会が少なくなっていった。

娘は青年に恩を返すため、自身の羽を抜いて糸とより合わせることで美しい布を織るが、それゆえに青年の近くにいることができない。
彼への想い、彼から伝わる好意と優しさ、そしてそれらと相反する正体を知られてはならないという自身の秘密の間に、娘は苦しんでいた。

青年は徐々に痩せ細っていく娘が心配だったが、娘は「大丈夫」と答えるばかり。
彼女がひとりで抱える秘密と、それゆえ表に出せない彼女に対する想い。
戸を開けて声を聴きたい、会いたい。しかしそれは約束を破るだけにとどまらず彼女の秘密を侵すことになってしまう。
彼もまたひとり二律背反を抱えていた。

物語の終盤で娘は自身の秘密を青年に打ち明け、その代償として青年のもとを去っていくことになる。
鶴の選択が正しかったのかどうか、といった解釈は受け手側に委ねられる。

このように、民話で伝えられるような内容から着想を得た、「互いが想い合うゆえのすれ違い」を描いた作品になっている。
演技をするにあたって、そういった感情のやり取りが重要となることは明白だった。

馬場このみが再び意識を外に向けた頃には、すっかり氷も解け、グラスの汗はローテーブルを濡らしてしまっていた。
資料が濡れてしまわぬように台拭きで拭ってから、彼女は息を吐いた。

「悲しいお話ね……。二人は、どうして別れなくちゃいけなかったのかしら……。」

彼女がアイドルとして活動する中で、最近はドラマ「セレブレーション!」や先述の「屋根裏の道化師」をはじめとした演技の仕事も増えてきた。
自身の二十余年の経験も助け、「想い合う二人のすれ違い」そのものについては、いまではある程度具体的なイメージを持てている。
しかしその一方で、物語の幕引きにどこか彼女の中で役に落とし込めない部分があった。

なにも誰もが救われる話であってほしい、ということではない。
最後に娘が自身が決めた道を向かうとき、それはどんな心境であったものだろうか?
青年に心配を掛けまいと作り笑いをするものなのか、それとも後ろ髪を引かれる思いを断ち切り、涙を見せないよう振り返らず進むものなのか。
馬場このみが生きてきた中で、もちろん出会いの数だけの別れがあった。
その中で前者の別れもあったし、後者の別れも確かに経験している。
しかしながら、どちらを軸に解釈をしても娘の心の動きとかみ合わないような、そんな気がしてならなかった。

「どうしたものかしらね……。」

資料の中身は擦り切れるほどに読み返している。
二人を取り巻く環境、生活、価値観、心の動き──物語とその背景への理解を深めようと試みるたびに、その感覚は薄れるどころか、鮮明になっていくようだった。

「はいほー!なのです。」

事務室のドアが開く音がしたと思えば、直後に特徴的な声が聞こえてきた。
談話スペースの奥側に座るこのみにはパーテーションが死角となり直接見ることはできないのだが、声の主が誰であるかは特段迷うこともなかった。

「まつりちゃんね、おはよう。」

このみは当人を確認するために腰を浮かし背中を伸ばした。
……のだが、思いのほか死角が大きいようだった。
ローテーブルに軽く手をつくようにして前のめりになり、それでも姿が確認できなかったため、さらにもう少しもう少しと。
体重を前に移すたび存外つらい体勢となっていく。

ふくらはぎから嫌な音が聞こえてくる前に、その場から数歩動いて死角から脱出したほうが建設的だと判断したのだが、
自身の身体を無理なく定位置に戻す方法がすぐに思い当たらず、結局その不思議な体勢のまま声の主と目が合うことになってしまった。

「このみちゃん。……えっと。それはエクササイズか何か、なのです?」

このみは何事もなかったかのようにソファーに座り直したかったのだが、その前に至極全うな疑問が飛んできたので諦めてしばらくの間弁明をした。

まつりは撮影の仕事を終え、劇場へ今しがた戻ってきたとのことだった。
小脇に抱えた小さな荷物を置き、慣れた手つきで自分の飲み物を準備して談話スペースに戻ってきた。

先ほどのこともあり、まつりが戻ってきたころにはこのみの集中は完全に途切れ、反動でローテーブルに突っ伏すような状態になっていた。

「その体勢は、レディとしてどうなのです?」

「レディにも色々あるのよ……。色々と……。」

このみは、はぁ……、とため息とも返事ともつかない微妙な声を上げつつ、
ちょうど目の前の位置にあった件の資料の束を、まるで紙の感触を確かめるようにそっと指先で転がした。

「『鶴の恩返し』って、悲しいお話よね……。」

このみはテーブルに体を預けたまま、そう声を漏らした。
彼女の目は相変わらず資料に向けられたままであったが、どこか別の場所を見ているようにもみえた。

「ほ?どうしたのです?」

そのこのみの様子を見かねて、まつりはそう尋ねた。

「ええ、実はね……。」

このみはそう言って身体を起こした。
まつりといえば765プロでも演技に定評のあるうちのひとりだ。
自身のプロフィールにも特技として記載するほどであるし、「屋根裏の道化師」でも共演している。
このみの言葉は口をついて出たというのが本当のところだが、実際相談する相手としても申し分ないだろう。


静かに降りゆく冷たい雪の中で、青年が白い息を吐き指を赤く腫らして、それでも助けてくれたこと。
鶴が青年の家を訪れたとき、初対面である「娘」も温かく迎えてくれたこと。
たった戸一枚分の距離でさえ、遠く離れているように感じてしまっていたこと。
そして、娘が青年に最後に伝えたことも。
自身でも一つ一つ咀嚼しながら、このみは劇中の物語をつぶさに伝えた。

物語を深く知れば知るほどに、このみはやりきれない切なさを感じてしまっていた。
娘にとって、自身が秘密を抱えたままでいること、そして大事な人に自身の本当の姿を知ってもらえないということは、なにより辛いことだったのだろう。
この選択が正しかったのかなんて、鶴自身もわかっていないのかもしれない。
別れを選んだ鶴は、雪の積もった山の奥で、人知れず涙を流すのだろうか。
それでも辛い選択をしたのは、きっとそれを選ぶほかなかったのだろう。

「お互いに思いあっていても、離れなきゃいけないなんて……。でも、仕方ないことなのよね……。」

グラスの中の氷が、からんと音を立て、結露の粒が下へ流れていった。

少しだけ間が空いて、それからまつりはゆっくりと口を開いた。

「……鶴さんはまじめで、人のことを大切にできて、それでちょっぴり臆病さんなんだって、姫は思うのです。」

「姫だったら。その大切な人と逃げちゃうのです。雪が降る道をふたり、えすけーぷ!なのです。」

まつりは、真っ直ぐにそう答えた。
普段のふわふわとしたまつりと変わらない口調だが、その目には芯の強さのようなものが垣間見えた。

一方のこのみは、その言葉を受け入れるまでに幾らかの時間を要していた。
確かに、まつりの言う通りである。
もしも娘が竹から生まれていたのなら、青年と離れたくなかったとしても、迎えに来た月の都の使いには従わざるを得なかっただろう。
しかし、娘はそうではないのだ。
たとえ鶴の世界へ戻れなくなったとしても、眩しいヒトの世界で生きる道もあるかもしれない。
しかし───。

「で、でも。それだと、迷惑になっちゃわないかしら……。」

このみはまるで自身のことのように思考を思い巡らせ、そう尋ねた。

娘にとって青年は、運命的な出会いを忘れられずに、もう一度手を伸ばした相手である。
一方で、青年にとって自身は、吹雪の夜で道に迷ったために訪れた娘でしかない。
想いを隠し布を織る娘にとって、その差は何よりも重くのしかかった。
だからこそ娘は想いを隠し布を織るのに、また負担を掛けてしまうことにならないだろうか?

まつりは自分のグラスの縁を指でそっと撫でながら、静かに口を開いた。

「きっと、大丈夫なのです。」

「好きなひとがひとりで悩んでいたら、力になりたい、と思うものなのですよ。」

あっ……、とこのみの声が漏れた。
本当は、娘は青年からの好意には薄々気がついていたのだ。
ただ、抱えた秘密ゆえ、気づかぬうちに自分から遠ざけてしまっていたのだ。
もし「受け止めてほしい」と、言えたのなら…………。

娘が最後に打ち明けるまで、結局青年は部屋の戸を開けて秘密を覗くことはしなかった。
青年も、彼女の抱えた秘密を大事にしたかった。

「私が青年だったなら……。」

「一人で抱えてほしくない。頼ってほしい。やっぱりそう思うと思う。けど……。」

娘が自分に言えない隠し事をしていたから、きっと青年も言えなかったんだろう。
結局二人とも、相手に余計な荷物、負担をかけさせたくなかっただけなのだ。

「二人とも、似た者同士、だったのかもね……。」

それからしばらくの間、このみは物語を読み返した。
二人の出会いも、二人のすれ違いも、そして二人の別れも。

今ならば、以前より娘に近づけるように感じられた。

「ありがとう、まつりちゃん。少しずつこの子のことが分かってきた気がするの。」

「姫は、ただ思ったことを言ってみただけなのです。このみちゃんの演技、とっても楽しみにしてるのですよ?」

***

午後2時を回った頃、このみはレッスン室にいた。
主にダンスレッスンで使われたりする部屋だが、それに限らず空いている時には多目的に使えるようになっている。
部屋の窓に面したある壁面には、板張りの床から白い天井まで、部屋の全体が映るほど大きな鏡が据え付けられている。
ただし、このみ一人で使うには少々持て余すだろう。
このみは端にいくつか寄せられていたキャスター式の鏡を持ち出し、台本を片手にその鏡の前に立っていた。


『もう行かなくちゃ。……本当の姿を知られてしまったら、私はもう此処には居られないの……。』

『ずっと言えなくて、ごめんなさい。……今まで、ありがとう。』

外へと続く引き戸を開けた娘が、青年に背を向けたまま言葉を紡ぐ場面。
降りしきる雪と鋭く差す冷たい風に冷えてしまわぬようにと、身体の前で腕を抱えたまま、娘は雪の上へと歩いていく──。

普段なら十分上出来だと自分に言えそうなのに、今はまだどこか大事なものが抜けているような気がしてならなかった。
幾度も試してみるものの、結局自身が満足する結果には辿り着けなかった。

二人の関係性については理解が進んだが、当初引っかかっていた部分が解消されたわけではないのだ。
あともう少しで掴めるかもしれない、という感覚はあるのだが、一向にその先が見えてこなかった。

「……こういうときは、原点に立ち返って考えろ、よね。」

これはこのみが前職に就いていた頃に特に身についた思考法のひとつで、環境が変わってもしばしばこの考え方に助けられてきた。
何しろ単調で代わり映えのしない事務処理を行っていると、どうしても計算が合わないような箇所が出てくることもあった。
もちろんそれより前の段階のどこかで間違いをしているのが原因なのだが、それを膨大な情報量から探し出すのは相当骨が折れるものだ。
焦って闇雲に問題の箇所を探してもたいていいい結果はでない上、たとえそれが特定できたとしても間違いを減らすこと自体には繋がらない。
そんなときはまず落ち着いて、そもそも「始めに何をしたかったのか」を頭の中で整理してから事を始める、というアプローチが非常に有用であった。

「……私は、……。」

上手く言葉が出てこなかった。
わかっているつもりではあった。しかしそれを言葉の形にできるかは別なのだ。

であるならばさらに前へとさかのぼる必要があるだろうとこのみは考え、開いていた資料を閉じて少しずつ因果の糸をたどっていく。
そして最後に行きついた場所はあの「屋根裏の道化師」の「シンシア」であった。
仕事の幅という意味だけでなく、このみ自身の経験としても大きく変化があった作品だと言えるだろう。
あの時は、どういう風に役と向き合っていただろうか?

思えば、この「娘」の話も「屋根裏の道化師」がきっかけで声を掛けてもらったんだった。
自身の本業はアイドルであり、演技を専門とするような女優には単純な技術や表現力では遠く及ばない。
ならきっと他に理由があるはずだ。
「娘」の役は、「シンシア」と特段共通点があるわけではない、ようには思うけれど……。

事務室の中でも目を引くほど大きなガラス戸のついた書棚には、劇場のアイドル一人一人の営業用の資料をはじめとして、劇場内外の活動を納めた書類や写真、映像資料などが納められている。
劇場ができたばかりの時はまだ殆どものが納められていなかったが、劇場のアイドルたちが活躍して少しずつ棚が埋まっていくたびに、頻繁に部屋に出入りするこのみとして、嬉しく感じていた。

このみはそんな書棚から慣れた手つきで、棚の最下段にあったケースを取り出した。
ケースは透明で、ディスクの表面は真っ白で、黒の油性ペンでタイトルだけが記されていた。

青羽美咲もプロデューサーも戻ってくるのは16時以降になると聞いていたため、特段気がねすることはないだろう。
事務室内にはテレビを見るためのスペースもあり、そこでみることにした。
ここはアイドルが番組に出演するたびにソファが埋まるほどの盛況となったりもする。
まあ、アイドルだけで52人もいるのだから、溢れてしまうのも仕方のないことではあるのだが。
このみはテレビ台をあけ、再生機兼レコーダーの電源を入れた。


「えっと、イジェクトは……っと。」

実のところこのみがこの再生機を使うのは初めてなのだ。
と言っても、このみがこの手の機器に疎いというわけではない。
元々使っていたものが前々から怪しい挙動をしていたのだが、つい先日とうとう完全に動かなくなってしまったのだった。
仕事上映像ディスクが読めないというのは大問題だ、ということで新しくやってきたのがいまの再生機というわけである。

実は高木社長が「撮りためていたアイドル諸君の録画が……。」と数日間嘆いていたが、実は日頃からバックアップを欠かさなかった小鳥や美咲、律子たちのおかげで事なきを得ていたり。
あるいは、自前で劇場を持てたといってもやはり765プロは765プロということで、財政面的な兼ね合いから、
棚の目立たないところに置かれているゲーム機の再生機能でしばらく代用する手もあるという話が出て765プロゲーム部のアイドル達とひと悶着あったとかなかったとか。


少しだけ手間取りながら、このみは再生の準備を終えた。
再生ボタンを押しそうになるが、少しだけ踏みとどまって目的を確認する。

シンシアを演じたとき、どういう気持ちで演じていたのだったか?
そして、この役を経た馬場このみの演技として、何を求められているのか?

このみは、自身の心の中で繰り返した。
言葉にするとなにやら改まった心持ちで、これから見る物語もまるで初めてみるもののような気がした。
このみは不思議な緊張を感じながら、リモコンのボタンを押した。

>>23>>24の間

一般にはまだ未発売だが、特典部分の事務所チェック用のサンプルが以前届いていたはずだ。
このまま考えていても、何か大きなものが得られるとは考えにくい。
このみは「屋根裏の道化師」の映像を見返すことを決め、事務室へと戻ることにした。

由緒ある劇場で、ある作品が発端となり起こった凄惨な殺人事件。
そして、事件により浮き上がる、登場人物たちの息遣い。
「屋根裏の道化師」は、とりわけ繊細な表現を要求される作品であった。

『コレット!良かった……。大丈夫だった?……ひどいこと言われたりしなかったわよね?』

『大丈夫です、シンシアさん。お気遣いありがとうございます。でも、すみません。少し、気分が……。』

『……無理もないわ。あんなことがあった上に、犯人だって疑われたんだもの……。』

物語の幕開けとなった殺人事件の関与を疑われた、劇場の新人女優コレットが取り調べから戻ってきた場面。
この場面含め、シンシアは比較的他の女優たちよりもコレットを気にかけることが多かったはずだ。
複雑で入り乱れた人間関係の中には劇中で明かされていない過去も多くあり、それらを経た登場人物たちの微妙な感情の機微を演じることの難しさは相当のものだった。

一方で、このみは当時を振り返って、それほど演技に悩んだりすることはなかったように感じた。
今の「娘」役ほど役の理解に時間を充てていたわけではなかった、というのはあるが、
その時間分だけ、共演する他の子の様子をみていたように思う。

役に対する向き合い方・関わり合いはその子それぞれで、
比較的ドライに出来てしまう子もいれば、側から見てすこし心配になる程に深く深く自身を落とし込む子もいた。
演技に関してはそれほど経験がある訳ではないために、それらが望ましい関わり合い方なのかは分からなかった。
ただ、少しでもみんなの力になりたいと思った。
全体練習の時間はもちろん、それは他の仕事であったり、あるいはアイドルとしてのレッスンでも。
できることは多くはなかったけれど、それでも出来る限りいろいろな事をしてきたと思う。

このみは当時の自分を分析して、気が付いたことがある。
「自身が意識しないところで、自然と元大女優の立ち位置入り込めていたのかもしれない」、と。

きっとそれはコレットとモニカの関係性から刺激を受け、「演技」における関係性が深化した田中琴葉と周防桃子がそうであったように。
それがこのみが演じたシンシアにおいて思いがけず比重の大きい要素になったのかもしれない。

それからこのみは画面越しに繰り広げられる登場人物たちの心模様に想いを馳せた。
その中にはこのみ自身が演じた当時には気付かなかったような発見もあり、ある種の新鮮さをも感じていた。

>>32
×「自身が意識しないところで、自然と元大女優の立ち位置入り込めていたのかもしれない」、と。
○「自身が意識しないところで、自然と元大女優の立ち位置に入り込めていたのかもしれない」、と。


しばらく経った頃、ドアが開く音がして、このみはそこで意識を物語から離した。

「お兄ちゃんちょっと……って、あれ。」

事務室へ姿を見せたのは周防桃子だった。
プロデューサーどころか青羽美咲まで出払っているのは珍しく、
ましてや現在進行形で自分の出演作品が流れているのだ。それは面食らったことだろう。
このみはリモコンで映像を止めながら答えた。

「桃子ちゃん。プロデューサーならいま外に出てるわよ。4時は過ぎるって聞いてるけど……。」

「うーん、そっか……。」

このみは桃子が手帳を小脇に抱えているのを見つけた。
黒の落ち着いたフォーマルなデザインだが、桃子自身のものだ。

「スケジュールの確認か何かだった?」

「うん、そうだよ。まあ急ぎじゃないし、また後ででいいかな。それより……。」

桃子はテレビに映るコレット達の姿に目を向けた。

「『屋根裏の道化師』?」

「ええ。そうだ、桃子ちゃん。時間があったら、一緒に見ない?」

「えっと……。」

桃子はしばらくどうしようか考えた様子であった。
その視界の端には劇場の女優達が相対したまま止まっているテレビと、
普段そうであるように種々の物が雑然と置かれたローテーブルが映っていた。

「……うん。じゃあ、そうしようかな。」


んしょ、と可愛らしい声とともに桃子はソファーに腰掛けた。

「巻き戻そっか?」

「いいよ。ストーリーもなにも、全部知ってるんだもん。このみさんもそうでしょ?」

このみは桃子の右隣に座りながら何の気なしに尋ねたが、
その桃子の返答に、このみははっとさせられた。

桃子はそんなこのみをよそにテーブルの上のリモコンを手に取り、このみに差し出した。
このみは、桃子の見る体制が整ったという合図を受け取り、再生ボタンを押した。

このみは桃子の言葉を聞いて、改めていま自分がこうしているのが不思議だな、と感じていた。
学生時代の頃からドラマなどの映像作品を見ることはしばしばあったが、まさか自分が出演する側になるとは思ってもみなかった。
それどころか、見知った仲とはいえその共演者とこうしてその作品を見返しているというのは、人生何があるかわからないものだ。
当時の自分であれば色紙とペンを持ってサインを頼むような状況だろうな、と。

このみが隣に目をやり、真剣な表情で画面を見つめる桃子を見るたびに、そうした感覚を実感した。

二人とも静かに鑑賞していたが、時折いくらか言葉を交わした。
それは制作側だからこそ知っている裏設定的な部分のことであったり、撮影当時の思い出話、公開までの期間の話、演技の技術的な話など様々だった。
演じることに長く身を置いてきた桃子の話は、その中でもこのみにとって参考になる部分が多かった。


幾度もみた映画であったが、映画の最後、その凄惨な幕引きは、二人をその場から動けなくさせるには十分すぎた。

「演じること」。
劇場の女優たちはただひたすらにそれを追い求め、それぞれが持つ矜持に従い生きている。
コレットも、マドリーンも。そして、モニカも。
彼女らを形作ってきたひとつひとつが今の彼女たちを動かしている。

改めて見返すたびにこのみは不安に飲まれそうになる。
「シンシア」がそうであったのかは、自分では皆目見当がつかない。

タイトル画面へ遷移して再び音が帰ってきたところで、このみは答えのない問いを遠くへ追いやり、代わりに小さく息を吐いた。

「……ねえ、桃子ちゃん。すこしいいかしら……?」

「鶴の恩返し、かあ。」

桃子はこのみから資料の束を受け取り、何枚かに目を通しながら呟いた。

「ええ。鶴……、娘の役はどうか、ってお話をもらっててね。」

「上手く言えないんだけど、役がまだつかめてなくて。」

桃子の手があるページで止まった。
書きこみは台本のどのページにも見られたが、そのページは他のそれと明らかに様子が異なっていた。
台詞部分には何か所も線が引かれ、それら一つ一つに矢印が伸びていた。
しかし、その矢印の根本にあるはずの文──当人による注釈がないのだ。

「最後のところで、青年との別れがあるの。離れたくないのに、それは許されなくて。」

「初めから人間の姿をして会っていなければ、こんな悲しい思いをしなくてよかったのかな、って。」

大切な人と別れたくない。
いつか来ると知っていた別れでも、実際にその時が来れば胸が張り裂けそうになるだろう。

例えば姿を隠して家の前に何か物を置いていくとか、あるいは鶴のまま恩を返す方法だって。
いくらでもやりようはあったはずなのだ。
それなのに──。

「……。桃子は、……あんまりそういう風に考えたこと、なかったかな。」

「でも。やっぱり、役を掴めるまで、何回でもやるしかないと思う。」

桃子は自身の経験を踏まえたうえでそう答えた。
喜びも、怒りも、そして哀しみの演技も。
ずっと昔から、様々な舞台を経た今でも、変わらず桃子はそうしてきた。


このみはしばらくその言葉を反芻したのち口を開いた。

「……うん、そうよね。ありがとう、やってみる。」

そう言って、このみは立ち上がろうとした。
……のだが、そのときその左手に柔らかく暖かなものが触れた。

「……桃子ちゃん?」

このみは、握られた左手を見て、それを辿るようにして桃子と顔を合わせた。
このみの目を見据えていたその目は、寂しさのようなものを含んでいるようだった。
桃子はそれからすぐ目線を逸らした。

「その……。」

少しの間口ごもっていた桃子だったが、意を決したように前を向いた。

「その、桃子、応援するからね。」

「えっ……?」

思わぬ言葉に、このみは驚きを隠せなかった。
どう返すべきか言葉に詰まったこのみを察してか、あるいはそうではないのか、
桃子はこのみの目をまっすぐに見て続けた。

「『屋根裏の道化師』のとき、このみさんを見て、負けてられないな、って思ったの。」


桃子はシンシアの、なんでもない場面のある台詞を思い返していた。
『もし復帰するとしたら?もちろん──負けなくてよ?』
その言葉とは裏腹に、その目の奥底からは今もなお衰えることのない鋭さが垣間見えた。
シンシアの語られることのない過去、元「大女優」たる所以の──。

「あの子は……。モニカは、『いまの桃子だから』演じられたと思ってる。」

「シンシアさんも、きっとそうなんだ、って。あのとき見てて思った。」

「桃子ちゃん……。」

「だから……。『このみさん』だからできる『娘』が。きっとあると思うの。」

「子役」から「アイドル」になって、桃子は色々なものを知った。
楽しいことも、悔しいことも、本気で叱られたことだってあった。
桃子自身も言葉にできないような変化であったが、それらが自身の演技に大きな影響を与えていることに、あるとき桃子は気がついた。
自身の過去、経験、そのひとつひとつが、いまの周防桃子に繋がっているんだ、と。
そう胸を張って言える日がいつか来るような、桃子はそんな予感めいたものを今では感じていた。

桃子は自身の両の手が、このみの手を包んでいることに気づいた。
自身の顔が少しずつ熱くなっていくのを感じて、あわてて手を離した。

「な、なんか恥ずかしくなってきちゃった……。と、とにかく。桃子はこのみさんとは違うから……。」

このみは、緩んでしまいそうになる頬と抑えられないほどに胸に込み上げる気持ちを感じて、
溢れるものをそのまま、言葉に詰め込んだ。

「ええ。……ありがとう、桃子ちゃん。」

「……うん。」

***

桃子と別れたこのみは、例の書類の束を持って、レッスン室へ向かっていた。
とはいえ、昼のような調子で張り詰め過ぎるようなことをするつもりはもうなかった。
役作りに充てられる時間はまだ十分あるし、視野が狭まっている状態ではいいものは当然できない。
そして何よりも、大切なものに気づけたのだから。

「『私だからできるあの子』、か。」

シンシア役のときは言葉にして考えられていた訳ではなかったが、それは確かにそこにあった。
今はまだ分からないけれど、『あの子』のそれも、きっと今の自分の中にきちんとあるものなんだ、と今ではこのみは自然にそう思えた。

レッスン室までの途中、窓越しに廊下に落とされた新緑の木々の影を見て、このみは太陽が傾き始めていることを知った。
木々の葉が海風で揺れる音に気がつき、しばらくの間このみは目を閉じて、それが心地よく耳を撫でるのを感じていた。
……のであったが、それも束の間だった。
なにやら聞こえてきた騒がしい声と、がらがらと何かが倒れるような物音に、その小さな音色はすぐさま掻き消されてしまった。
それらを少し聞いただけでも、曲がり角の向こう側の惨状が目に浮かんでくるようだった。

「双海真美選手、振りかぶって第1投目を──」

……それは有難いことに、実況まで付いていた。


このみは息を吐いたあと、角を曲がりながら、いつものように何度目か分からない言葉を言う。

「こーら、そこのわんぱく娘たち!」

「わっ!」

廊下の先にいたのは765プロわんぱくシスターズこと双海亜美、真美、大神環、永吉昴の4人だった。
真っ直ぐ伸びた長い廊下で繰り広げられていたのはお手製ボウリング。
バレーボールを転がして、ボウリングのピンに見立てた500mlのペットボトルを倒すのだが、
本来のボウリングとはかけ離れた圧倒的なコンディションの悪さに起因する特有のゲーム性と戦略がある……らしい。
この4人──主に亜美真美の2人であるが──の手にかかれば、なんの変哲も無い廊下と段ボール箱が、
実況席のついた全長18.29mのボウリングレーンに大変身してしまうのだ。


真美が今まさに投じたバレーボールは、4番と10番ピンだけを綺麗に残して、
向こう側で待機していた昴の手の中に吸い込まれていった。

「よっ、と。あ、このみもやらない?結構盛り上がるんだぜ、これ。」

「やりませんっ。」

「えーっ、すっごく楽しいぞ、このボウリング。」

「確かに楽しそうではあるわね……。って、そういう話じゃなくてね……。」

「なんだ、このみんか……。……セーフ。」

「いや、アウトよ、アウト!」

「おーっと、双海真美選手!スプリットを出してしまった!」

「ああ、もう。亜美ちゃんも実況ストップ!」

一度ペースに飲まれたら、もう収集が付かなくなりそうだった。
このみは早々に話を切り上げて、本題に入ることにした。


「……別に、やるなーって話じゃなくてね。ただ廊下は人が通って危ないから、やるなら別の場所でやりましょ、ってこと。」

「このみん。別の場所って……。例えば、どこ?」

「中だと……。大道具部屋の横の使ってない部屋とか、かしら?あそこなら多少だったら騒いでも大丈夫だし……。って、前もそこでやってたじゃない。」

「えー。真美たちはもっと思い切り投げたいんだよ~。」

話を聞いた限り、どうやら今までの小さな規模のボウリングでは我慢できなくなってしまったらしい。
そんなときに、どうぞ思い切りやって下さいと言わんばかりに真っ直ぐ伸びた廊下を見つけて今に至る、と。

「亜美、真美。仕方ないって。続きはあっちの部屋でやろうぜ。」

「すばるん……。」

「さ、取り敢えずみんなで片付けちゃいましょう。」

ぱんぱんと手を鳴らしながら、このみはそう呼びかけた。

片付ける、と言ってもペットボトルとボールだけで、そんなに物が散らかっているわけでもない。

「あら、環ちゃん。一回で全部持ってきてくれたの。」

「くふふ、これくらいへっちゃらだぞ!」

先ほどまで亜美が実況席として使っていた段ボール箱をひっくり返して、その中にペットボトルとボールを流し込む。
小走りで環が両手でペットボトルを全部抱えて持ってきたおかげで、ものの10秒で片付けは終了した。


「遊ぶなら、あまり騒がしくしないで、危なくないようにね。」

「むむ……騒がしくなくて……。」

「危なくもない……。」

亜美と真美は元の小規模ボウリングに戻るのは気が進まないようだった。
少しの間二人はそうしてあれやこれやと思考を巡らしていたが、とうとう何か思いついた様子で、二人して顔を見合わせた。


「ど、どうしたの、二人とも……。」

「……このみん君。真美たちは気づいてしまったのだよ……。たった一つの真実に……!」

「んっふっふ~。すばるん、たまきち。ということで、ちょっと耳貸して?」

昴と環にごしょごしょと耳打ちを始めた亜美と真美。
うん、うん、と相槌を打つ昴と環の様子から、このみはその内容が気になって仕方がないのだが、
双子の表情からして、なにやら良からぬことを考えているのはすぐにわかった。
聞き耳を立てても仕方がないので、いったい何が始まるのやら、とこのみはしばらくその様子を傍観していた。

作戦会議が終わったところで、たくらみ顔をした真美がこのみのもとへぴょんぴょんと飛んできた。

「……このみん、ちょっと目をつむって?」

「目を?別にいいけど……。」

このみは何が起きるか警戒しながら、言われたとおりにゆっくりと目を閉じた。
視界を封じたせいか、このみの耳には双子の声を抑えた笑い声がよく聞こえてきたが、
上手く乗せられていることが出来ているらしいと思うことにした。



「手はこうして、こうだぞ!」

手の大きさからも、自身の手をつかんだのは環だとすぐにわかった。
そのままこのみの腕は上へともちあげられ、自身の顔を覆う位置に誘導された。

「それにしても、亜美も真美も、好きだよなあ。」

「すばるん、まだしゃべっちゃダメだかんね?」


自分の見ていない間にいったい何をしでかすつもりなのだろう。
例えばあれやこれだろうか、と想像していたこのみであったが、続く亜美からの指示は意外なものだった。

「そこから、数を数えてくの。いーち、にーい、さーん、って!」

どうも既視感のようなものは感じているのだが、このみはそれがなんであるかがすぐには思い当たらない。
問の答えは浮かばないまま、とりあえずその通りに読み上げていった。

「いーち、にーい、さーん、しい、……」


このみがカウントを始めたところで、4人分の足音が左右へ遠ざかっていくのが聞こえてきた。
遠ざかっていく、というよりは小走りで、それも逃げているような……?
そこでようやくこのみは疑問の答えを見つけた。

「って、みんな、ちょっと!」

このみは自身の手のひらから顔を起こして、あわてて目を開けた。

「ああっ、このみん。かくれんぼなんだから、ちゃんと数えないとダメだかんね!」

「たまきたち、ちゃんと探しに来てね!」

「このみ、3分だからなー!」

「なんで私が巻き込まれてるのよ!……っていうか、廊下は走らないっ!」


……いつの間にやらこのみはかくれんぼの鬼になっていたらしい。
遊びに付き合う、と言った覚えはなかったのだが、
このみのツッコミには目もくれずに、全員すぐ見えなくなってしまった。
この場合の言葉は、ちょっと待って、という意味であり、
早歩きで逃げるのならオーケーという意味ではないということをきちんと後で伝えなければならない。
置き去りにされたままの段ボール箱の隣で、一人このみはそう誓うのだった。



曲がりなりにも鬼に任命されてしまった以上、何も聞かなかったことにはできないだろう。
壁に目を伏せていたこのみは、きちんと心の中で3分数えてから、体を起こしゆっくりと目を開けた。
実は4人とも忍び足で戻ってきていて、自身を驚かせるためにスタンバイしていたりするかもしれない、
と思ったこのみは少しばかり心の準備をしていたのだが、空振りだったようだ。
つまりは、純粋にかくれんぼをしよう、という事なのだろう。


「……ふ、ふふふ。かつてかくれんぼマスターと名を馳せた私に勝負をしかけるなんて、いい度胸ね……。」

野山を駆け回る、というほどではないが、周囲の同年代がそうであったように、小さい頃のこのみは活発に遊ぶ方であった。
走ることは嫌いではなかったが、今と同じで運動神経が特段秀でてたりしているわけではなかったこのみは、
どちらかといえば鬼ごっこよりも隠れんぼをして遊んだものだった。

この子だったらこの辺りに隠れていそうだな、なんてことはよく分かったし、昔から隠れてる子を見つけるのは得意だった。
隠れる側になっても、全然鬼から見つけてもらえずに、最後に自分から出てくるなんてこともしばしばあった。


このみは、そんな昔のことを思い出しつつ、持ち主を失った段ボール箱を先に倉庫へと運んでいた。
階段の横にある劇場の倉庫には、ステージの大道具や各種音響機材、ケーブル類をはじめとして、
過去の公演のグッズやポスター類、また劇場の控室等の消耗品など、あらゆるものが収められている。
衣装やアクセサリ以外のものは大体なんでもここにある、と言ってしまえばその混沌ぶりがわかるだろうか。
挙句の果てにその倉庫が未踏のジャングルに繋がっている、なんて噂話もあったりしたものだ。

このみも、どこかできちんと整理しなくては、とは思っているのだが、
ステージ機材があるだけに勝手にあれこれ始めるわけにもいかないのだ。
結局のところ、整理する機会を得られないまま今の状態に至る、というわけである。


このみは倉庫の扉を開けたが、案の定いつもと変わらずごちゃっとした印象を受けた。
あまり奥に置いておくと何処にあるか分からなくなりそうだったので、
入ってすぐ近くの床の端に段ボール箱を置いておくことにした。

倉庫をでたところで、このみは腕を目いっぱい前へ伸ばして、息を吐きながら背中を伸ばした。
くぅ、と声が漏れそうになるが、周りに誰もいないことを確認していたので、特に意識して抑えたりはしなかった。

──さて、自主レッスンに戻らなくちゃいけないし、さっさと全員をとっ捕まえて、少し懲らしめてあげなくちゃ。
『準備運動』を終えたこのみは笑みを浮かべながら、少々大人の本気というものを出すことを決めたのだった。


……のであるが。

「……ぜんっぜん居ないわね……。」

3分で全員見つけるくらいのつもりでいたが、誰も見つからないままかれこれ数十分はたってしまっただろうか。
十余年の歳月がこのみのかくれんぼマスターとしての感覚を鈍らせてしまったのかもしれない。
数百年以上もの間常に研ぎ澄ませ続けられてきた将棋や囲碁のような世界でも、
新しい手法が常に考えられ続けており、それは時に過去のそれを凌駕することもある。
このみが「子どもの遊び」から離れている間にも、そのかくれんぼ技術が過去の遺物になっていたとしたら──。

「……なんて、ね。」

いや、案外亜美ちゃんや真美ちゃんならあり得なくもないのかも、とこのみは恐怖するが、その頬はどこか緩んでいた。
ともあれ、最近の子どものパワーを改めて実感している間に、このみは目ぼしい箇所は粗方探し終えてしまった。
ここまで見つからないと、かくれんぼというよりもむしろ捜索をしているような気さえ感じていた。
この調子が続くなら、手に抱えたままの資料を一旦鞄に置いてきた方が賢明だろう、と判断したこのみは、一旦事務室へ引き返す事にした。


しかしその道中の、ある扉の前でこのみの足が止まった。
他のそれと明らかに異なり、その観音開きの扉は無骨で金属的な灰色をしていて、
全て扉を開ければ小さなトラックくらいなら入ってしまいそうなほどの大きさがある。

「まさか、この中……じゃないわよね……?」

このみの前にあるのは、劇場のステージの舞台袖につながる扉である。
扉が特別大きいのも、大道具や機材の出入りがスムーズに行えるように、という理由からである。
劇場の定期公演が始まる以前は、鍵がかかっていることがほとんどだったが、
頻繁に公演が行われるようになった頃から、アイドルやスタッフたちの出入りの回数も多くなり、それゆえに鍵はかけないようになっていた。


舞台袖は普段薄暗くて、人が隠れられるほどのものがたくさんある。
たしかに隠れるとしたら絶好の場所ではあるのだろう。
万が一隠れている子がいたら、その時はきっちり言ってあげないと。
少なくとも確認だけは一応しておかないといけないだろう。

公演の時は当然出入りすることはあるが、普段過ごす上でこの扉を開けることはまずなかった。
それゆえ、このみはどこか自身の身が引き締まるのを感じていた。
扉のドアノブに触れた時、その金属の冷たさに思わずこのみの手が止まったが、
ノブを握り直し、体重を掛けながらゆっくりとその重たい扉を開けた。


ステージ上手側の舞台袖は、ステージセットの搬入が行われる関係もあって、大道具が数多く置かれていた。
このみは、誰か陰に隠れてたりはしないか、と大道具を一つ一つ見て回ることにした。

劇場では、以前の公演のステージセットの一部を、新しい公演で使うことがしばしばある。
これは、劇場が定期公演という形を取る以上、毎回全部新しくステージセットを作ったりすることが難しい、という事情によるものである。
とはいえ、同じステージセットでも、照明の当て方や組み合わせ次第でがらりと印象が変わったりするものである。
このみは、これまで一緒にステージに立ってきたそんなセットたちに、不思議な愛着を感じていた。
一つ一つを見るたびに、あれはこの時の、これはあの時の、と今までのステージが思い起こされるようだった。


結局、上手側にも、下手側にも、舞台袖に誰かが隠れているようなことはなかった。
このみは息を撫で下ろしたが、それならば本当に何処に隠れているんだろう、と謎が深まるばかりだった。
やはり一旦出直して一から探し直そうと、もとの扉へ向かったこのみであったが、
もう一度辺りを見回して、そこであるものに目が止まった。

それは、ステージライトであった。
劇場の舞台とそこに立つアイドルを照らすべく、直上に据え付けられたステージライトたちを、このみは見上げていた。
アイドルとして舞台に立つ以上、じりじりと身を焼くほどの光を背中で受けることはあっても、
明かりのついてない状態の照明をまじまじと見ることは存外少ないものであった。

「なんだか、あの時を思い出すわね……。」


ずっと以前にもこうしてステージライトを見上げたことがあった。
765プロへとやってきて、本当にすぐの頃。

アイドルをやっていける自信がなくて、いっそ断ってしまおうかと考えたこともあった。
でも劇場の公演を舞台袖から見学させてもらった時に感じた、あの言いようもない眩しさは、今でも鮮明に心に焼き付いている。
虹色の光が溢れるステージに背中を押されて、あの舞台からの景色を夢みたんだ。

不安なのは変わらなかったけれど、いつか、一面の桃色の光に包まれた、暖かな景色を。
その公演が終わって、誰もいない舞台の上で、ステージライトを見上げていた。
そして、そこでたった一つの大きな決心をした。
それが今のこのみの始まりだった。


それから、まるで走馬灯のようにいままでの出来事が思い起こされていった。
このみは左手に添えようとした右手が、持っていた資料の束にあたり、かさりと音を立てるのを聞いた。


私が初めて公演のステージで歌うことが決まったとき、実のところ怖さの方が大きかった。
夢や憧れだけで願いは叶わないなんてことは、昔からよく知っているつもりだったし、
この世界へと飛び込んだ選択が正しかったのかなんて、いくら考えても分かりそうになかった。
ただ、一度後ろを振り向いてしまったら、何かに肩を掴まれて、そのまま引き摺り込まれてしまいそうな気がした。
振り向いてしまいそうになるたびに自分に言い聞かせて、
こうでなくちゃ、ああしなきゃ、って必死に前だけを向いていた。
折れそうになるたびにあの時の景色がちらついて、頑張らなきゃって思ったんだ。


当の公演の直前も、そうだった。
足は震えていたし、声も上擦っていた。
他のアイドルやスタッフ、プロデューサーと話をしたりしてようやく落ち着くことができたけれど、
心の底に張り付いた不安まではどうしても拭いきれなかった。
そうこうしているうちに開演の時間が来て、それからすぐ自分の曲目になって、
考える間もなくスタンバイ位置から飛び出した。


このみは薄明るく照らされた舞台の上を、ゆっくりと半歩だけ足を動かした。
静けさの中で、小さな足音が響いた。


踏み出した先の世界は、ひたすらに熱かった。
仰け反りそうになる程にじりじりと身を焦がすスポットライト。
体温が上がっていくのを感じて、だんだんと頭が回らなくなっていった。


ステージが終わっても、自分がきちんと出来ていたかはよく覚えていなかった。
ただ、どれだけ熱に浮かされても、その時見えた景色だけは消えなかった。
はじめての『自分だけの景色』。
白飛びした視界から見えた光は、鮮やかなほどカラフルで、まるで虹の橋を見ているようだった。
『私の色』はまだ誰も知らないけれど、それでも思い思いの色の光を振ってくれたことが何より嬉しかった。


舞台袖へ戻ってきたときには、汗は滝みたいに顔を流れていて、これ以上動けないほど息が上がってしまっていた。
それでも、マイクを胸に抱き寄せたまま、離すことができなかった。
まぶたの裏に焼き付いて消えないあの景色は、私の知らなかった、心の奥底にあった夢に触れてしまったのだ。
ペンライトの光の一つ一つに、あなたはあなたのままでいいんだよ、と励まされたような気がした。
気がつけばまぶたの裏の光はこれほどかというほどに滲んでいて、もう顔だってぐしゃぐしゃになってしまっていただろう。
こんな気持ちで流す涙なんて、初めてだった。
メイクはすっかり崩れて落ちてしまって、それでも溜まっていたものが全て流れていくまで、涙が止まらなかった。


あの後アイドルのみんなにも、プロデューサーにも心配されちゃって大変だったわね、とその時の記憶を思い出していた。
そして同時に、自身が自然と気恥ずかしさと嬉しさがない交ぜになった表情になってしまっていることを感じていた。
ところが、わずかな照明に照らされたがらんとした客席たちが見えたとき、ずき、と胸の奥が痛んだ。
この痛みは何なのだろう、とあちこち辺りを見回してみたが、
見えたステージセットや舞台、照明も、どれもその原因ではなさそうだった。
そうであるならば、やはりずっと気にかけていた『あの子』のことなのだろう。


扉を開ける前から微かに感じていた予感も、そうであると告げていた。
このみは息を呑み、左手に持っていた資料の束を見つめ、ゆっくりとめくっていった。

あの子もまた、自分の住む世界とは違う世界に出会ってしまったんだった。
……もしも。もしあの子が私で、私があの子だったら。私はどうしていたのかな。


『あの子は、深い雪が降り積もる山の奥深くで暮らしてた。もともと人間と出会うことさえなかったはずだった。』

それでも、あの時舞台裏から見た景色が暖かくて、背中を押されて。私はアイドルの世界へ飛び込んだのよね。

『迷い、雪の中で動けなくなっていたところを、あの子は助けられて。出会ったんだ。』


初めて舞台に立ったときはまだ、お客さんたちは誰も新人の私のことを知らなくて。

『本当の姿を隠して、言えない言葉を抱えて押し掛けたあの子を、それでも青年は受け入れてくれた。』

だから、何度も何度も、私の気持ちを伝えたくて。届いてほしくて。

『明くる日も娘は青年の一番近くで、出来る限りの事を尽くした。』

いつからか私のことを覚えて、応援してくれて、それが暖かくて……。

『そして、青年と過ごすうちに、あの子は人間に恋をした。』


このみは手に持っていた資料を、ぎゅっと、胸に抱き寄せた。

「……この子は、私、なんだ……。」

溢れ出しそうになる涙を堪えながら、自分だけが聞こえる声でそう呟いた。


気づいてほしいけど、見つけてもらえているかなんて分からなくて。
誰かに届かないことは、消えてしまうよりも辛いことだ。
もしそうであるならば、例えもう会えなくなってしまうとしても、本当の自分を知ってほしい。見てほしい。
2度と会えなくなってしまったとしても、繋がりが消えてしまう訳ではないのだから。そう、信じたいから。


何よりも愛しくて、大切にしたくて、でもその気持ちを伝えられなくて。
どうしたらいいのかわからなくなって、それで心配をかけてしまうこと、何度もあったもの。
色々なものを抱えてしまいそうになるたびに、大丈夫だよ、って、大切な人に助けられて。
何回でも、何回でも。


資料が濡れてしまわないようにと、このみは目尻を指で拭った。
このみがしばらくしてゆっくりと目を開けた時には、その瞳は真っ直ぐ前を向いていた。

あの時出会わなければ、誰かを好きになる、こんな気持ちを貰うこともなかったんだ。
この子が青年の家に押しかけたのも、自分の想いを伝えたかったからなんだ。
あの人と初めから会っていなかったならこんなに悲しい思いをしないで済んだのに、だなんて、そんなこと思ったりするはずがない。
だって。だってこの子は──。

胸の前に抱えたものを、このみはぎゅっと抱きしめた。
手放してしまわないように強く、そして消えてしまわぬように何よりも優しく。


「……私は、この子の願いを叶えてあげられるのかな。」

このみは、ひとり舞台の上でぽつりと呟いた。
しばらくの間腕の中に抱いた資料の表紙を見ていたこのみであったが、それからゆっくりと目の前の客席を見た。
気がつけば薄暗がりにはすっかり目が慣れてしまっていたらしく、いまは一番奥の客席まで見えるようであった。
一階席はずっと奥まで座席が設けられているし、二階席だって何列あるのかすぐ数えられないほどある。
実際のライブでは、その座席の数だけの大勢のお客さんが劇場に足を運んで歌やダンスを見に来てくれる、ということだ。
劇場の公演は1公演あたり数時間であるが、その中でこのみがステージに立っている時間はそれよりもずっと短い。
ましてや、自身の想いを乗せて伝える『大切な歌』は高々5分程度の時間しかない。
「その中で、そんなことが本当に私にできるのか?」
「もしも曲が終わり照明が落とされたとき、『ただ、それだけで終わってしまったら』?」


目の前の誰もいない客席たちは、残酷なほどに静まり返っていた。
このみの抱えた腕はいつの間にか震えていて、触れる手のひらは自然と腕を抱き寄せていた。
気が付けばこのみは図らずも目線を切っていて、自身のその縮こまる腕に目を向けてしまっていた。
はたと我に返った時には、その不甲斐なさに溜息さえ出てしまいそうだった。


ところが、その時下を向いた目線の先、
舞台の床面に付けられた小さな印がこのみの目に映ったとき、このみの鼓動が確かに音を立てた。
それは、ステージ上で立ち位置を確認する為にT字に貼られた、なんの変哲も無いテープによる印でしかないはずだった。
裏腹に少しずつ早くなっていく鼓動は、緊張でも、焦りによるものでもないと、このみにははっきりと分かった。


このみは、その鼓動に導かれるようにして、一歩、また一歩と、舞台上の段を登り、等間隔に並べられた印を辿っていった。
そして、ある一つの印の前でこのみの足が止まった。
先程より少し上手側の、一番後ろの列。

このみはこの印がなんであるかを知っている。
一つ一つの色は違っていても、形はみんな揃っている。
それは、劇場のアイドルの数と同じだけの印。


このみは鳴り止まない鼓動を左手で感じながら、その印に自身の足を合わせた。
その場所は、何時でも背中を支えていてくれるような、不思議な心地良さがあった。
このみは目を閉じてゆっくりと深呼吸をした。
物音一つ聞こえないほどの静けさの中で、このみの身体には自身の呼吸音と鼓動だけが響いていた。
落ち着く様子のない高鳴る鼓動に、其処にある景色を早く見たいと突き動かされ、このみは目を開けた。


刹那、音のなかったこの世界は、耳を貫き肌を震わるほどの音と歓声とが飛び交うステージへと姿を変えた。
焦がれるほどに眩しいステージライトに包まれて、このみも、劇場の仲間たちも、ステージに立っていた。
たった一瞬、瞬きほどの間にこのみが垣間見た景色は、劇場の仲間たち越しに見えた虹色の光たちだった。
熱気は渦を巻いて、また新たな熱になってステージから飛び出していく。
このみの目には、ステージからの光に照らされたペンライトの波間が、きらきらと光るのが見えた。


気がつくと、世界は元の姿に戻っていた。
先ほどと変わらず、ステージライトは今は点いていないし、客席には誰もいない。
この舞台に立っているのはやはりこのみだけであった。


しかし、そうであったとしても、見えた景色は本物だったと、このみは確信していた。
あのダンスも、あのライティングも、あの歓声も。
あの景色は、数えきれないほど歌い続けてきた、『Thank You!』の景色なんだ、と。

いつでも、何があっても、決まって公演の最後には出演者の全員でこの曲を歌ってきた。
私が初めてこの劇場のステージに立ったときもそうだった。
『ミックスナッツ』としてステージに立ったときも、武道館でライブをしたときだって、この曲とずっと一緒だった。
公演までの日々の中で、笑っていたときも、泣いてしまったときも、震えが止まらなくなったときだってあった。
だけど、公演当日になって舞台に上がったら、例え何があっても、いつもこの曲のこの景色にみんなで戻ってきたんだ。
あの日からここまで、重ねた日々の数だけ色んな事があったけれど、今までずっとみんなで歌い続けてきた曲。


『ミリオンスターズ』の私も、『アイドル馬場このみ』の私も、始まりは虹色の景色からだった。
虹色から始まって、その中にあった『私の色』が、アイドル馬場このみの、暖かな桃色の景色なんだ。

「そっか……。」

この場所は、私が『私』であるための、かけがえのない場所だったんだ。
いつも変わらずそこにあって、帰ってきたときにみんながいてくれる、そんな大切な場所。


このみは胸が熱くなるのを感じながら、誰もいない客席を見ていた。
物音一つさえない、息を飲むような静けさの中で、一階席も二階席も、一番前から後ろまでを見回した。

公演では、前の曲が終わって舞台が暗転した後、その歓声がまだ残るうちから次曲の歌い手は立ち位置にスタンバイする。
前の曲の余韻からまだ知らぬ次の曲への期待へと、まるでそのスタンバイが完了したタイミングを知っているかのように会場の意識が切り替わり、
そのとき劇場は緊張感を持った静けさに包まれる。
今のこの静けさは、そんな暗転した舞台の上でイヤモニからのカウントを待っている時のようだ、とこのみは感じた。
張り詰めた空気の中、それとは裏腹に高鳴る鼓動。
伝えたい言葉が胸に溢れてくる。


『きっと、この場所なら大丈夫。』
このみは、もう一度両腕を胸に抱き寄せた。
折れそうになった数だけ出会えた『これまで』を。
何よりも愛おしい、かけがえのない『今』を。

>>53 >>56 >>58
×すばるん
○昴くん


それから少しして、スポットライトを見上げていたこのみの耳に、
突然何かがぶつかった様な大きな物音が舞台袖の奥から聞こえてきた。
このみは咄嗟にその音のした方を向いたが、そこにいた人影を見つけて、
ようやくそれが出入口の扉が勢いよく開いた音だと気がついた。

「あー!このみん!!」

「ま、真美ちゃん!そ、それにみんなも……。」


そこには、亜美、真美、昴、環の4人がいた。
慌ててこのみは時間を確認したが、もう既にあれから随分と時間が経ってしまっていた。
このみは、ああ、しまった、と頭を抱えた。
成り行きで始まったとはいえ、隠れんぼの鬼を任されていたはずなのだ。
ずっと待たせてしまった挙句に、探しにきてもらうなんて、
どちらが隠れんぼしてるのだか分からない。


「え、えっと……。」

駆け寄ってくる4人に何を言うべきなのか分からず、このみは言葉が詰まってでてこなかった。
しかしそんなこのみの様子をよそにして、真美は大きな足音とともに舞台を駆け、このみの前に飛び込んできた。

「もう、このみん、どっか行っちゃったのかと思ったんだよ~。」

なんでどうしてと当然問い詰められるものだろうと思っていたこのみにとって、その言葉は予想外のものだった。
一瞬だけ止まったこのみの思考はすぐに動き出したが、それでも聞き返すような簡単で短い言葉しか浮かんでこなかった。
ぐるぐると堂々巡りする思考の中で、このみは真美の肩越しに亜美たち3人がゆっくりとこちらに歩いて来ているのが見えた。


「そうそう。亜美たち、メッチャ探したもんね。」

「全然探しに来てくれないから、たまき達心配だったんだぞ。」

「亜美ちゃん、環ちゃん……。」

4人の表情からは、気持ちが痛いほどに伝わってきた。
それは方便などではなくて、本当に心配してくれて、あちこちを探し回ってくれたのだろう。

「……ごめんなさい、心配かけちゃって。」


「……ごめんなさい、心配かけちゃって。」

環と昴はこのみを静かに見つめていた。
亜美と真美はその様子を伺ってか、あるいは単に空気がむず痒くなりそうだったからか、
うむうむ、まったくだよ、と言ったような調子で相槌を打っていた。


それから少し間が空いた後、昴は少し笑みを浮かべながらこう言った。

「でもまあ、このみのこと見つけられて本当に良かったよ。こんな所に居るんだもんなあ。」

このみ自身も、この場所に他の誰かが入ってくるなんて、まったく考えていなかった。
集中して周りに注意が向かなくなっていたということもあるが、
そもそも公演のないときには、普段誰も入らないような場所だった筈だ。


「ねえねえ、このみん。ここが怪しい、って言ったの、昴くんなんだよ。」

「あら、そうなの?昴ちゃん、私がここにいるって、どうして分かったの?」

昴は、首を傾げて少しの間考えて、それからこう言った。

「んー……。やっぱり、なんとなく、かなあ。ただ、ここにいるんじゃないかー、って。そんな気がしたんだよ。」

それを聞いたこのみは、頬が緩んでしまいそうになるのを感じながら、昴たちの目を見ていた。
その表情、その視線に、昴は照れ隠しに頬を一度指でかいたが、その間もこのみをずっと見ていた。
このみは何を伝えるか少しだけ考えたが、出てきたものは一番自身の底から出てきた、飾らないありのままの言葉だった。

「昴ちゃん……。みんなも……。見つけてくれて、ありがとう。」


このみたちは舞台袖から外へ出て、夕日が差し込む廊下を歩いていた。
ほんのりと赤く染まる景色に、このみは不思議と温かな懐かしさのようなものを感じていた。

「今度お詫びにじゃないけど、みんなで何か甘いもの食べに行きましょ。好きなもの、何でもいいわよ。」

「ええ、ホントに!?……このみん、太っ腹ですなぁ~。」

「じゃあ、たまき、クレープ食べたい!」

「はいはい!亜美は駅前に新しくできたあそこがいい!でっかいパフェのとこ!」


あっちのお店は、こっちのお店は、といった調子で、あっという間にスイーツの話で盛り上がっていった。
最終的に候補はいくらか絞れたがそこから先はなかなか決められず、結局じゃんけんで決めることになった。

「昴くん、亜美はグーだすかんね?」

「そう言って、違うの出すんだろ?もう何を言われても引っかからないからな。」

「それじゃあ……、たまきはパーにする!」

「亜美がグーで、たまきちがパー……。それなら真美は、チョキだすしかないっしょ!」

「いや、それあいこになるだけだから!」

次々に広がる平和なやり取りになんとも微笑ましさを感じていたこのみであったが、唐突に表れた的確な昴のツッコミに思わず吹き出してしまった。
そして、それにつられるようにして当の本人の昴たちもだんだん可笑しくなって、とうとう最後には5人で声を出して笑った。


じゃんけんが終わった後も、賑やかさが落ち着くことはなかった。
むしろ今度の遊びの方針の話が始まった今が一番わいわいと盛り上がっているようにも思える。
このみはそんな4人の様子を見ながら、頬を緩ませ息を吐いた。
ふと絶えない騒がしさにどこかほっとして、胸が暖かくなるのを感じていた。

「隠れんぼ、次こそは絶対全員とっ捕まえたげるわよ。」

このままだと隠れんぼマスターの名が泣くってものよね。
昔を少しだけ思い出しながら、このみは笑って言った。


「……このみんってさ、なんだかんだノリいいよね。」

「えっ?そ、そうかしら?」

真美の言った言葉にこのみは少しだけ驚いた。
言われてみれば、今回だって無茶振りに乗っかってしまった訳だし、
今までもこの双子に色々と振り回される度に、若干ヤケクソ気味に開き直ったりもしていたような気がする。
というか、大体いつもオモチャにされていたような……?


「うんうん。亜美、このみんのそういうとこ好きだよ。だって、そっちの方が絶対楽しいもんね!」

「たまきも!このみといると、いつもたのしいぞ!」

……まあ、そうやって振り回されるのもたまにはいいかな。
このみは自分でも驚くほど素直に、心からそう思えた。

「ええ、私もよ。みんなといると毎日楽しいもの!」


それから他愛のない話をしながら、5人は控え室の前にきた。
特段誰かが用事があったわけでもなかっただろうが、気が付けば自然とこの場所へやってきていた。
扉についた磨りガラス越しに電気がついているらしく、誰かの話し声や笑い声も聞こえる。
何でもない話をしながらこのみたちは扉を開けた。

控え室と呼ばれているこの部屋は、文字通り公演時のアイドルたちの待機場所として使われている場所である。
そうでない普通の日でもこの場所は、仕事やレッスンの合間などにアイドルのみんなが何気なく集まったりできるような、
いわば「溜まり場」になっている。
そんな訳で、普段からアイドルたちの一番集まるような場所であるのだが、
いつにも増して今はどたばたとしていて騒がしい様子だった。
と、いうのも……。

「うぎゃー、ハム蔵、待ってってばー!」


このみたちが扉を開けた途端に聞こえてきたのは、我那覇響の声であった。
響がいま追いかけているのは、響といつも一緒に行動しているハムスター、ハム蔵である。
響にとっては相棒とも言えるなんとも不思議な存在なのだが、
今日はどうやら様子が違うらしくハム蔵は響の手から離れて、控え室の床を駆け回っている。


「──で、ここはこう……、って、な、なんや!?」

自身の足の間を駆け抜けていったハム蔵に驚いてよろけそうになったのは、横山奈緒。
千早、可奈、歌織とボーカルレッスンを受けた後、その振り返りと確認をしていたのだが、
突然のハム蔵の襲来に手に持っていた楽譜を落としそうになる。

「きゃっ!ハ、ハム蔵ちゃん……!」

「ああ、びっくりした……。」

奈緒に続いて、驚いてよろけそうになる歌織と可奈。
転ばずに済んで少し安堵する二人を尻目に、
ハム蔵はその足元を縫うようにしてあっという間に走り抜けていく。


扉が開いたのを見計らってか、ハム蔵はこのみたちが開けた扉に向かって真っ直ぐと向かってくる。
それに気がついたこのみは、そうはさせまいと扉を急いで閉め、
その一方で亜美たち四人は捕獲の臨戦態勢を取って待ち構えた。
脱出ルートが無くなった上に、流石に相手が悪いと判断したのか、
ハム蔵は四人の前で90度方向転換。
部屋の奥の方へと走っていく。

「ふっふっふ。さあさあ、ハム蔵くん、シンミョーにお縄につくのじゃ!」

「キミ達はホーイされている!」

亜美と真美は、何処かで聞いたことがありそうな台詞とともに、ハム蔵の後を追っていく。
待ってましたと言わんばかりにこの二人がどたばた騒ぎに首を突っ込んでいくのも、
劇場のアイドル達にとってはもはや慣れたことである。
環もその二人に乗っかるような形でハム蔵の後を追いかけていく。


「我那覇さん、ハム蔵と何があったの?」

千早がレッスン用のファイルを抱えたまま、響に聞いた。
昴とこのみは、とりあえず状況を把握するためにも千早とともに響に事情を聞くことにした。

「うん、それが……。さっきまでハム蔵とちょっと話してたんだけど、それで自分が言い過ぎちゃって……。」

「ん、そうだったんだな。……オレ、てっきりまたハム蔵のご飯つまみ食いしたのかと思ったよ。」

ハムスターのご飯をつまみ食い、というのはいささか不自然に聞こえるかもしれないが、何もおかしな話ではない。
というのも、響が飼っている動物たちはイヌやネコに始まり、
ウサギやヘビ、果てはワニに至るまで数多くいるが、
ハム蔵に限らず全ての動物たちのご飯を自分で作っている。
個々の動物たちの好き嫌いを把握しているのは当然で、加えて体調に合わせて食材やその切り方、
そして盛り付けや彩りまで細かく気を配っている。
それ故に、味見の延長線上としてつまみ食いが多々発生して、
動物たちが飛び出していってしまうことが何度かあったりもしたものだった。


「た、確かに前はそれもあったけど……。い、今は気を付けるようにしてるさ。」

「それにしても、こう部屋が大きいとどうにも手がつけられないわね……。どうやってハム蔵ちゃんを捕まえればいいのかしら……。」

このみは床を所狭しと駆け回るハム蔵の姿を目で追っていた。
765プロの事務所の方でも何回か似たことがあったが、それより今の方がもっと手がつけられなさそうだ、とこのみは感じていた。
ただ、心なしかこのみの目には、ハム蔵自身もこの広い部屋をどこか楽しんでいるようにも見えた。
今回もまた大変なことになりそうだとこのみは息を吐いたが、この逃走劇がどうなっていくのか密かに暖かく見守ることにした。


今もなおひた走るハム蔵の真正面では美也と恵美が机に向かって何やら真剣な表情で各々思考を繰り広げていた。
そして、その机の上の様子を伺うようにしてエレナ、琴葉、海美の三人が机の左右に立っていた。
そんな彼女たちの目線の先にあったのは、碁盤であった。
恵美が時間をかけてからそっと石を置き、対して美也は慣れた様子で返していく。
対局を見守る琴葉は無意識のうちに自身の顎に手を当てていて、美也と恵美の2人が打つ石の動向を見つめていた。
エレナも琴葉同様に落ち着いて対局の様子を伺っていたが、その一方で海美は時折首を傾げたり、あるいは体ごと傾げてうんうん唸っていた。
そもそも765プロ囲碁サークルとも言えるこの集まりは、もともとユニット『灼熱少女』の活動を切っ掛けに生まれたものだった。
美也と琴葉の一声で始まった集まりだが、『Cleasky』の活動以降エレナも美也が打つ囲碁に興味を持つようになり、今ではすっかり常連になっていた。
とはいえ、美也以外の5人はまだまだ始めたばかりで、美也との対局では置き碁が常であった。


「うみみん!そっち行ったよ!」

「……え?な、なに?なにが!?」

真美は、ハム蔵の行く先を塞ぐべく、五人の中で一番手前側にいた海美を呼びとめた。
それに対して海美は目の前の碁盤で繰り広げられる応酬に集中していたために、
それから数秒遅れてようやく自分が呼ばれたことに気がついた。
海美は声のした方向へ振り向いたのだが、そのときには既に目の前までハム蔵が走ってきていた。


てりゃ、という掛け声とともに海美は目の前を走るハム蔵を両手で捉えに行く。
ところが、海美自身咄嗟のことだったのでハム蔵を捕まえるには至らない。
迫りくる海美の手を避けるように、ハム蔵はその場で大きくジャンプ。
結果、海美の両手は空を切り、その上を飛び越えてハム蔵は更に走っていく。


「え?……って、ハム蔵ちゃん!?」

机を挟んだ海美の反対側にいた琴葉が、驚いて言う。
彼女にしては少し珍しく、一瞬どうすべきか分からずわたわたと慌てた様子だったが、
その後ハム蔵をいつでも捕まえられるようにすぐ手に持っていた手帳とペンを机の上に置いて身をかがめた。

そうこうしている間にも、海美を突破したハム蔵は美也の座る椅子の下を駆け抜けようとしていた。

「お~、ハム蔵ちゃんですか~。こっちですよ~。」

対する美也は椅子に座ったまま体を屈めて、床を駆けるハム蔵を受けるように両手を組んだ状態で迎えにいった。
しかし、美也の手が床の高さまで到達した時は、既にハム蔵は美也の足元を駆け抜けた後だった。


そんな美也の言葉を尻目に、ハム蔵は机の陰から抜け出した。
しかし、そこでハム蔵は、準備を万全に整えて待ち構えていた田中琴葉と遭遇した。
琴葉はハム蔵のちょうど真正面で、膝を揃えてしゃがんでいる。
ハム蔵が左右どちらへ避けようにも、すぐに捕まえられるような、まさに絶妙な位置関係だった。
流石のハム蔵も、そのように構えられてはこれ以上迂闊に進めないと感じたようで、
急ブレーキをかけ、とうとうその場で脚を止めた。
その瞬間を見逃さず、琴葉はゆっくりと両手をハム蔵の方へ近づけていく。
ハム蔵はすぐさまその場でどうすべきかと辺りをきょろきょろと見回したが、結局そこから動くことができなかった。


張り詰めたような緊張が走る中、ついに琴葉は両の手のひらでハム蔵を捕らえることに成功した。
周囲からおお、と感嘆の声が上がる。
琴葉は、息を整えながら自身の手のひらに収まっているハム蔵を見た。
捕まえた瞬間は今ひとつ実感がわかなかったが、ハム蔵の肌触りや温もりを手のひらで感じて、
本当に捕まえられたんだ、とようやくほっと安堵した。

「よかった……。」


どたばたと騒がしい瞬間はこれでおしまい。
亜美真美や環は、もう終わっちゃったのか、なんてすこし残念そうな顔をしていた。
机に開いたままの教科書類そっちのけで、目の前の戦いに目を奪われていた百合子たち中学生組も、
また少しすれば宿題との格闘に戻っていくのだろう。
これでようやくまた静かで落ち着いた控え室に戻りそうだ、とこのみは思った。


涙の再会と言わんばかりの表情をした響に、しゃがんだままの琴葉がそっとハム蔵をのせた手を差し出す。

「はい、響ちゃん。二人とも仲良く、ね。」

「うう……。ハム蔵……。」

響がハム蔵を受け取るために両手を差し出したその時だった。
ハム蔵は、そこで生じた一瞬の隙を見逃さなかった。
いまこそがチャンスと言うかのように、ハム蔵が琴葉の手のひらの上から脱出を試みたのである。

「きゃっ!」

琴葉がそんな声を上げている間にハム蔵は琴葉の腕の上を肩まであっという間に走り抜け、
さらにそこから背中側を一気に駆け下りていく。

「あっ、こら、ハム蔵!」


次の瞬間には、一度は捕まえられたはずのハム蔵が、先ほどのように床の上を自由に駆け回っていた。
琴葉はしりもちをついたまま、走り去っていくハム蔵をただ見ることしかできなかった。
ハム蔵は先生役として百合子たちの宿題を見ていた紗代子と瑞希の足元を縫うように走っていき、
宿題に向きかけていた百合子、杏奈、未来の3人の目は、またもやハム蔵の逃走劇にくぎ付けになる。
どたばた騒ぎの時間は、もう少しだけ続いていくらしい。


あるときは物陰に隠れてみたり、そうでないときは大胆に部屋を横断してみたり。
そんなハム蔵の逃走劇が終わりを迎えたのは、それから五分ほどしてからだった。

流石に疲れたのか、ハム蔵は先ほどの空間から離れて衝立を挟んだ向こう側の区画にやってきた。
そこでは莉緒と桃子がソファーに座り一冊の雑誌を二人で見ていて、
その近くの椅子にはロコがスケッチブックを片手に腰かけていた。
もともとロコは二人の様子をスケッチするつもりだったのだが、
自身が描く絵に対し何かが足りないような気が拭えず、
鉛筆を動かす指を止めてぶつぶつとひとり言を呟いていた。


莉緒たちは衝立の向こうの騒ぎからハム蔵が追われる身であることを知ってはいたが、
特段ハム蔵を捕まえようとする気はないようだ。
ハム蔵ちゃんも一緒に見る?といった調子でハム蔵に手を振ってみたり、手招きなんかをした。
それを見たハム蔵は莉緒が純粋な意図でそうしてるのだと察したのか、
特に気にすることなく莉緒たちが座るソファーへと上がった。
それからハム蔵は桃子のすぐ隣にやってきて、そこに置かれたクッションで仰向けで寝転がった。


莉緒は再びファッション雑誌に目を戻して、夏に向けたトレンドの特集を追う。
白いカーディガンが目に留まり、桃子にこれなんてどうかしら、と声を掛けようと莉緒は桃子の方を向くが、
そこで、桃子がハム蔵の様子を興味ありげにちらちらと見ていたことに莉緒は気づく。
莉緒は微笑まし気に笑って、それから、ほら、チャンスよ、といった調子で桃子に促した。

「桃子ちゃん、ハム蔵ちゃんも触ってほしそうにしてるわよ?」

「り、莉緒さん。桃子は、別に……。」


そんな返事をする桃子は、莉緒の言葉に押される形で、ハム蔵におずおずと人差し指を差し出した。
対するハム蔵は仰向けのまま桃子の指を受け入れた。
ふかふかクッションに包まれたハム蔵は、小さな手足で人差し指と遊んでみたり、
身体を預けてお腹を撫でさせたりとどこか心地よさそうにも見えた。
桃子の方もハム蔵の柔らかさに知らず知らず声が漏れていて、すっかり夢中になってしまっていた。

莉緒が桃子のそんな様子を横から優しく見ていると、突然が大きな音を立ててロコが椅子から立ち上がった。

「……コ、コレです!!!!!」


「と、いう訳なのよ……。」

このみは、響たちハム蔵捜索チームとともに莉緒の元へやってきていた。
そこには、両手を器のようにして小さな手の上にハム蔵を乗せている桃子と、
桃子とハム蔵を描くべく、ものすごいスピードでスケッチブックに鉛筆を走らせているロコの姿があった。
ハム蔵は先ほどまで自分を探していた響たちを見つけたが、そこから動く様子がない。

「ロコが『ストップです!!』なんて言うものだから、ハム蔵ちゃんすっかり動けなくなっちゃったの。」

ハム蔵自身も、まさかこうなるとは思っていなかっただろう。
事態がどこへ繋がってどう結末を迎えるかは、当事者たちでさえ予想のつかないものである。
拍子抜けして力の抜けるのを感じながら、このみは身をもってそれを理解した。


ともあれ、ようやく控室に平穏な時間が戻ってきた。
先ほどまでハム蔵の捜索班だった大神環は、美也に誘われて囲碁の対局の観戦に加わっていた。
海美と並んで、しばしば二人してうんうんと唸ったりしていて、
そのたびに、美也たちが「ここは……」と考え方を説明していた。

「……それにしても。いつの間にか、こんなにみんな戻ってきてたのね。」


このみは部屋を見回してそう呟いた。
亜美たちを探しにこの部屋に来たときには、百合子や紗代子といった、
ちょうどいま宿題に奮闘しているグループしか部屋にいなかったはずである。
それがいまでは、騒がしさには絶え間がなく、部屋も前より狭くなったんじゃないかと感じるほどになっていた。
このみがためしに人数でも数えてみようかと思っていたところで、そこで隣に居た琴葉が答える。

「昼の仕事組はもう大体みんな帰ってきてるみたいです。
私も、少し前に戻ってきたばかりなんですよ。」

そう言ってから琴葉はこのみと同じようにまわりを見渡した。


「琴葉ちゃん。……そういえば、さっきは大丈夫だった?」

「さっき……?………あっ!」

琴葉は先ほどのことを思い出して、思わず赤面する。
ぺたんと尻もちをついていた琴葉の姿は、普段と違って新鮮でお人形さんのようにも見えたが、
本人はどうやら表情に現れるほど恥ずかしかったようだ。
顔が火照るのを感じたのか、両手で頬を隠すように押さえながら、琴葉は小さな声で言う。

「先程はお恥ずかしいところを……。うう。」



そんな琴葉の様子が可愛らしくて、このみはもっとつつきたくなってしまいそうになる。
そうこうしていると、そばにいた昴が頬を染める琴葉を見て、思い返すように言う。

「琴葉がそんなに恥ずかしがってるの、オレ、初めてみたかも。」

琴葉はそれを聞いて、はっと驚いた様子で、顔に手を当てたまま昴の方を見た。
隣で見ていたこのみは、琴葉自身、昴からそう言われるのは少し意外だったのかも、と感じた。
昴はそんな琴葉の様子に気付いてか気付かずか、そのまま言葉を続けた。



「琴葉っていつだってビシッとしてるからさ。
オレなんてさ、ヒラヒラした衣装を着る、ってなったときとか、
まだ恥ずかしくって顔に出ちゃうときがあるんだよな。」

昴は自身のステージや撮影のときを思い出しながら、そう言った。

「昴ちゃん……。」

「まあ単に、オレが琴葉によく怒られてるからってのもあるかもな。琴葉が本当に怒ると、すっごく怖いもんなあ……。」

「そ、それは昴ちゃんが部屋の中で野球してたりしたときだけでしょ!」

珍しく琴葉が少し声を張って昴に言う。
そんなやりとりを見ていたこのみは、やっぱりなんだかんだ二人は仲がいいなあと思う。
それがなんだかおかしくて、つい堪えきれず笑い声が出てしまう。



「このみさん?」

「ふ、ふふ。ごめんなさいね。なんだか面白くって。」

このみは一呼吸置いてから昴の方を向いた。

「昴ちゃん。琴葉ちゃんもね、怒ろうと思ってやってるんじゃなくて……。」
部屋の中だとたくさん物があって危ないでしょう?みんなに怪我とかをしてほしくないってだけなのよ。」
やっぱり誰かが怪我しちゃったりすると、私たちも悲しくなっちゃうもの。」


このみが琴葉の方を向くと、そこで二人は目が合った。
琴葉は、また少しだけ驚いた様子で、このみをじっと見ていた。

「そうよね、琴葉ちゃん。」

「は、はい。その……。」

琴葉は一度声を詰まらせたが、ゆっくりと言葉を続ける。

「……もしかしたらみんなからは、琴葉は厳しい、って思われてるのかもしれないけど……。
昴ちゃんも、このみさんも。劇場のみんなが楽しそうにしてるのをみると、私もなんだか嬉しくなるの。
だから、みんなに危ないことはしてほしくないな、って。そう思うの。」


自身の胸に手を当てながら、琴葉は昴の目を見て言う。
大切なものを抱えるように優しくて、それでいて真っ直ぐにそれを見つめる琴葉の横顔に、このみは目が離せず、惹きつけられるようだった。

「……琴葉がオレたちのことを思って注意してくれてるのは、分かってたつもりだったけど……。」

ぽつりとそう溢した後、昴はぎゅっと目を瞑った。
それから心を決めるようにして目を見開いて、琴葉を見た。

「ゴメン、琴葉。……オレ分かったよ。」

「昴ちゃん……。」

琴葉は胸を撫で下ろすように息を吐いた。
その表情は少しだけ緩んでいるように見え、
それは先ほどハム蔵を捕まえた時の、あの柔らかな笑顔を思い起こさせた。


そんな琴葉を見て、昴は何かに気がついたようだった。
昴は、ずい、とそのまま一歩近づいて、何か言う訳でもなく琴葉の顔をすぐそこで見つめていた。

「す、昴ちゃん……?」

数センチの身長差をも意識するほどの距離だった。
思いがけず顔をまじまじと見られた琴葉は、不思議な緊張で声が揺れているのを自覚しながら昴に呼びかけた。
対する昴は、どう答えるべきか少し逡巡したあとで口を開いた。


「……なんていうかさ、その……。ちょっと恥ずかしいけどさ。
琴葉はそうやって笑ってた方が、やっぱりかわいいよなー、って。」

「かっ、かわ……!」

全く予想していなかった昴の返答に、
琴葉の顔がまただんだんと赤く染まっていく。
顔の火照りを感じた琴葉は、思わず手で顔を覆ってしまいそうになる。
ただ、手を伸ばせばすぐ触れるほどの距離の昴に対してそれをするのは、気持ちを伝えてくれた昴との間に壁を作ってしまうように思えて、そこで琴葉の手が止まる。


「も、もう、昴ちゃん!」

琴葉はせめてもの抵抗として、もう知りません、と言った感じで、昴と逆の方向に顔を向けた。
そんな二人の様子を一歩離れた距離から暖かく見守っているこのみには、
昴は気がついていないようだったが、琴葉の揺れる長い髪の間から、赤くなった耳たぶがちらりと見える。
ぷいと顔をそむけたのも、きっと赤くなっているであろう顔色を見られたくなかったのかもしれない。
表情こそ直接は見えずとも、彼女の心中がこうして垣間見えるのがなんとも愛おしい。
この子は普段は気を張ってるけど、こうふとしたときに自分の気持ちが素直に外に出てくるのよね、とこのみは思う。


このみはそんな琴葉を見て、彼女がハム蔵を捕まえた瞬間のことを思い出していた。
あのときふと見せた彼女のやわらかな笑顔は、
混じり気がなく、繊細で澄み切った彼女自身の心を映し出したかのようで、それはある種の美しささえあった。

ときに「美しさ」はそれを見る者との間に壁をつくり、近寄り難くなっていく。
周囲にとって「自分たちとはかけ離れた存在だ」とされ、果てには偶像としてただの「人間」であることさえ剥奪される。
届くはずだった声も、きっと届かなくなってしまうだろう。


しかし、彼女の「美しさ」はそうではないのだと、このみは知っていた。
まだ何色にも染まっていない澄み渡るような透明さは、いつの間に誰かの心を自然と惹きつけていて、愛おしささえ感じさせる。
そんな飾らないありのままの彼女が、このみには少し羨ましくもあった。
そして、このみもまた、彼女には笑っていてほしいなと感じていた。

昴が琴葉の顔を覗こうとするたびに、琴葉は悪戯っぽく他所の方を見て顔を合わせないようにする。
暖かい目でそんな二人を眺めているこのみに気が付いた昴が、戸惑った様子でこのみに尋ねた。

「このみ。オレ、そんな変なこと言ったのかな……。」

にわかに心配そうに昴からそう言われ、このみは少し驚いた。
何を言うべきか迷ったが、このみはまず一番に、打算や計算なしに何気無く相手に踏み込んでものを言えてしまう昴がなんだかずるいなあ、と思わされた。
このみは、ふふ、と少し笑って、呟くように答えた。

「……そういうところよね。きっと。」



それから暫くして、昴は765プロ囲碁サークルのグループに混じって、琴葉に囲碁のルールを教えてもらっていた。
このみも特段用事があった訳ではなかったので、椅子に座って碁盤を見つめる昴の後ろで何となく一緒に話を聞いていた。

すると、部屋の入り口の方から、悲鳴にも似た声が聞こえてきた。
このみ達が何事かと慌ててそちらを向くと、そこには恐れ慄いた様子で脚のふらつかせる亜美と真美がいた。
そして、その二人の視線の先に居たのは、扉を背にして腕を組んで仁王立ちする秋月律子であった。
律子は手で眼鏡のブリッジを上げながら不敵に笑って、一歩、二歩と亜美真美にゆっくりと近づいていく。
対する亜美真美は、律子から逃れんとばかりに、後退りしながらもきょろきょろと辺りを見回している。


このみは、またいつもの奴が始まったのね、といった感じで眺めていた。
すると、亜美と真美の先ほどまで泳いでいたはずの目線の動きが、あるところを見て止まった。
このみはすぐに二人の意図を理解して、軽く頭を抱えそうになった。
というのも、その二人は、このみの方をじっと見ていたのだ。
詰まるところ、目が合ってしまった、というのが一番近かっただろう。
このみがあっと思った瞬間には、もう二人は動き出していた。

「あっ、こら、待ちなさい!!」

「このみん、助けて~!!」

律子が二人を逃すまいと手を伸ばすが、その手は空を切る。
そのまま亜美と真美の二人はこのみの方へと走ってきていた。

「ちょ、二人とも待って──。」


そのまま二人は勢いそのままに、両サイドからこのみのもとへ飛び込んでいく。
それはあっという間の出来事で、このみが避ける間さえもなかった。
結局、嫌な予感は見事に的中して、このみは二人に巻き込まれてしまったのであった。

可愛いアイドル二人から抱きつかれるという状況は、世の男性諸君ならば泣いて羨ましがることだろう。
ところが、このみの場合にはそれどころではなく、二人の突撃は圧倒的脅威になり得るのだ。
歳こそ一回りほど下とはいえ、このみからすれば十五センチ程も大きな相手が戯れで飛び込んでくるのである。
それが二人同時にやってくるのだから堪ったものではない。


ボロボロになりながらも、このみはなんとか無事に二人の突撃から生き残ることができた。
流石に注意の一つや二つしようとするが、
亜美と真美はそれより先にこのみの小さな背中へ回り込み、隠れるようにして身を屈めた。
このみが二人の目線の先を追うと、ちょうど正面からお叱りモードの律子がこちらへ向かってゆっくりと歩いてきていた。

「ちょっと、二人とも……。今度は何をしたのよ。」

このみが背中に隠れる二人に尋ねると、律子に聞こえないくらいの声で亜美が答えた。

「このみんこのみん。亜美たち、今回は何もしてないよ。」

「……じゃあ、真美ちゃん?」

「真美も、何もしてないよ。」

真美も同じく、小声でそう答えた。
何もしてないのにこうはならないでしょう、とこのみはツッコミたくなるが、それは心の中に留めておくことにした。


「秋月さん、ナイスタイミングでした。」

律子に声を掛けたのは、部屋の少し奥の机で先程まで百合子たちの宿題をみていた瑞希だった。

「瑞希もありがとうね。なにせ急な案件だったものだから。」

少しずつ状況が分かりかけてきたこのみであったが、それでも念のため、何があったのかを瑞希に聞くことにした。
瑞希いわく、もともと律子が中学生組の宿題をみていたのだが、急用ができて少しの間離れなければならず、
近くにいた瑞希と紗代子に未来たちを任せたのだそう。
その時に、律子から「亜美と真美の二人は遊びまわってて宿題終わらせてないだろうから、
見つけたら首根っこ捕まえておいて」と言われていたのだという。


「なるほどね……。それで真美ちゃんたちが逃げようとしたところに、律子ちゃんがちょうど戻ってきたわけ。」

「はい、馬場さん。その通りです。」

それはこのみが想像していた内容そのもので、案の定、普段から繰り広げられているのと同じ流れだった。
ここまでくると、もはやいわゆる様式美と呼ばれるもの範疇なのかもしれない、とこのみは思う。

このみは、先ほどの亜美真美との会話をふと思い出した。
二人は「何もしてない」と言っていたはずだったけど……?


「……って、それは何もしてなかったから追っかけられてるんじゃないの!」

このみは、とうとう口をついてツッコんでしまう。
それを聞いた亜美と真美は途端に元気になって、このみを囃し立てる。

「おお、このみんのナイスなツッコミ頂きました!」

「うんうん、その調子だよ。このみん!」

それを見た律子は、半分呆れたような様子で、ため息をつきながら言う。

「まったく……。あんたたち夜に取材入ってたでしょ?今のうちに済ませといた方が楽なのよ。」

対して、このみの背中に隠れたままの二人はうぐ、と声を漏らした。

「そ、それはそうかもだけど……。」

「うう、助けてこのみ~ん!」


遊びたい盛りの中学生としては、宿題を後回しにしたくなるのはまあ当然だろう。
このみ自身も亜美真美と同じ歳のころはまだ、自分から進んで勉強する方ではなかったので、その気持ちも分かった。

「はあ、仕方ないわね。……いいわよ。このみお姉さんが人肌脱いであげるわ。」

「うう、このみん……!」

二人とも、地獄で仏を見たような顔をしていた。
成り行きではあったけれど、一緒に隠れんぼして遊んでた引け目も少しだけ感じていたこともあり、このみはそうすることにした。
とうとう本当に二人から手を合わせて拝まれてはじめたこのみは、そこで一回だけ、こほんと咳ばらいをした。

「そう、宿題の一つや二つ。このこのみお姉さんがばっちり教えたげる!」

「ええー!このみん、そうじゃないんだってば~!」

控え室じゅうに二人の悲鳴が響き渡った。


もうすっかり日は落ちてしまっていた。
日が沈んで辺りが暗くなる頃には、大勢いたアイドルたちも殆どが帰途についていて、また静かな劇場に戻っていた。

このみは、宿題を終えた亜美真美と別れたあと、事務室に戻ってきていた。
765プロの事務所の事務処理まわりの応援に行っていた青葉美咲は、夕方には帰ってきていたようだった。
劇場側でしかできない処理がいくつか残っているらしく、それだけ済ましておきたいとのことだった。
とはいえ、それほど時間のかかるものではないようで、このみは自分のことをすることにした。


暫くして、このみが明日のスケジュールの確認をしていると、美咲は大きく伸びをした。
美咲のPCがシャットダウン中であるところを見るに、今ちょうど仕事が片付いたところだとすぐ分かった。

「美咲ちゃん。今日はお疲れさま。戸締りとか、後は私がやっとくわよ?」

「ありがとうございます。このみさんはまだ残っていくんですか?」

「そうね……。何となく、もう少しここに居ようかな、って。気にしないで。」

「それじゃあ、お言葉に甘えて。お先に失礼しますね。」

お疲れさまでした!といつものように明るく言って、美咲は部屋を出ていく。
もしかしたら疲れて元気が無くなっちゃったりしてないかな、とこのみは思ったが、杞憂だったようでほっと安心した。


ばたん、と扉が閉まる音を聞いて、このみは辺りを見回した。
PCファンの回る音が普段より大きく感じられた。

本当は、特段何かする用事がある訳ではなかった。
ただ、何となくここを離れたくなかっただけだった。
部屋の電気を消して、鍵を閉めて。
ただそれだけのことが、このみにとっては言いようもなく切なく感じられて、それがきゅうと胸を締め付けた。


このみは、机の奥側にあるブラインドを開けて、窓の外を覗いてみた。
そこからは、並木道に植えられた木々越しに、黒く染まる海が広がっているのが見えた。
静寂が覆う海と光が飛び交う街。
二つの世界を分かつ境界線であるかのように、岸沿いに街灯の明かりがずっと向こうまで伸びていた。
窓の端に添えた指先が、少し冷たかった。

このみの指が窓の桟に触れたとき、ざらっとした感覚があった。
よく見ると、そこに埃が少しだけ溜まり始めているように感じられた。
普段なら気にするほども無い程度だったので放っておこうとも考えたが、
どうにも気になってしまい、少しだけ掃除をする事にした。


始めの窓を拭き終えたら、今度は隣の窓が気になって。
窓を全部拭き終えたついでに、机も別で拭いておこうかな、と。
そんな事をして、気がつけばそれなりに時間が経っていた。

「……これで大体は、終わったかしら。」

ふと時計を見ると、その針は20時に差し掛かろうとしていた。
このみは腰に手を当てながら、深く息を吐いた。


最後に、目についたテレビの前のローテーブルも拭いておくことにした。
テーブルの上の、未整理のままになった書類やチラシ類を一旦移してから、このみは台拭きに手をかけた。
腰を下ろしてテーブルを端から拭いていたこのみだったが、そのとき、部屋の外から足音が微かに聞こえた気がした。

このみはそれが気のせいだと思わなかった。
思わず台拭きを持つ右手が止まった。
このみはテーブルから目を上げて、部屋の扉の方を向いた。
すると、磨りガラス越しに部屋の前の廊下の電気がぱっとついたのが分かり、それが確信へと変わった。

本当はもう必要なかったが、扉の外の様子に気がつかなかった振りをして、
このみはテーブルを拭く手をもう一度動かした。
足音が扉の前で止まり、ドアノブを回す音がした。
ゆっくりと扉が開く。


このみは、彼が此処に戻ってくることを知っていた。
このみは腰を下ろしたままで、扉を開けた彼を見上げていた。
そのとき、自然と二人は目があった。
スーツを着た男性は、優しい目をしていて、このみを見つめていた。

「このみさん。ただいま、です。」

子供みたいに笑って、彼はそう言った。

このみは何でもない返事を口にするのが、少しだけ不思議なように感じた。
ありふれた言葉ではあるけれど、言葉にするのが少しだけ照れくさくて、そして嬉しかった。
このみは立ち上がって、もう一度目線を合わせてから、答えた。

「──おかえりなさい、プロデューサー。」


彼は、自身の机に持っていた鞄を置いて、少しだけネクタイを緩めた。

「プロデューサーはまだこの後残ってくの?」

台拭きを流しで洗い終えたこのみは、彼の方を見て聞く。

「いや、今日中に終わらせなきゃいけないものは、もう無いですね。」

彼は、クリアファイルに入った営業用の資料を、鞄から取り出しながら答えた。

「直帰でも良かったんですけど……。まあ、なんとなく、ですかね?」

部屋の奥にある書棚の戸を開け、彼は同じようなファイルが収められた段へ資料を入れた。

「ウフフ、そうなの。」


このみは麦茶の入ったグラスを2つ用意して、ローテーブルに向かいながら彼にアイコンタクトをした。
彼の方も、すぐ行きますよ、といったように手で合図をした。
鞄を置いてから、彼は事務机が並んだスペースから抜け出して、このみの元へ向かった。

「プロデューサー、今日はありがとうね。無理言っちゃったとは思うけど……。」

このみは、そう言って彼にグラスを手渡した。
無理を言った、というのも、実はこのみは今日の分のスケジュールを、数日前に調整してもらっていたのだ。

最近の765プロライブ劇場のアイドルたちは、重ねてきた結果が少しずつ評価されてきたらしく、徐々に仕事が増えつつあった。
それはこのみも例外ではなく、テレビ番組の単発の仕事が入ったりすることも段々と多くなっていた。


このみが件のオーディション資料を受け取ったのは、丁度一週間前のことだった。
それから、このみは仕事の合間の時間を縫うようにして、今回の役を理解するために資料を読み込んでいった。
普段のこのみであれば、それでも十二分に準備をしてオーディションに臨むことができただろう。
しかし、今回の役だけは、このままでは後から後悔するかもしれない、とこのみは思った。
それならば、出来る限りのことは試したいと思い、
どこか一日予定を空けられないか、とプロデューサーに声をかけたのだった。

「いえ、雑誌の取材が1つあっただけで、あとはレッスンだけでしたから。全然手間じゃなかったですよ。」

むしろ向こうの記者さんも、予定をずらした後の方がむしろ都合が良かったらしくて、と彼は続けて言う。
このみはそれを聞いて、ほっと息を吐いた。


彼はこのみの向かいに腰掛けてから、グラスの中身を一口含んだ。
少しだけ間を開けて、表情を引き締めてから、このみに尋ねた。

「それで……なにか収穫はありましたか?」

このみの答えはもう決まっていたが、自分の中でそれらを今一度反芻していた。
改めて考えると、少し気恥ずかしさを感じるが、これが『あの子』と『私』なんだ、と今では胸を張って言える気がした。

「ええ、おかげさまで。ちょっと難しかったけど……。これでやっと、満足のいくものができそう、って感じかしら。」

「……それなら、よかったです。」

彼は胸を撫で下ろしたようで、その表情はまた穏やかなものに戻った。


「あ、念のためオーディションのことについて確認なんですが……。」

彼はスーツの内側から手帳を取り出して、しおり紐の挟まれたページからぱらぱらと何枚かめくる。
目的のページを見つけたところで、彼は顔を上げた。

「本番が、2週間後の金曜日、ですね。選考はこの一回だけで、このオーディションに通過すれば、それで本番公演の出演が決まります。」

昨日までだったなら、オーディションやその先の話なんてとても意識できなかっただろう、とこのみは思う。
役とその方向性が具体的にイメージできたこともあり、このみは本番の舞台に立つ自分を想像した。

ドラマの撮影と違って、一度の失敗も許されない。
劇場の公演と違って、その舞台は私が知らない『劇場』なんだ。

全く新しい場所で、まっさらな自分で挑戦できることは、このみの心を強く惹きつけた。
『今の私で何処まで行けるんだろう』。『何ができるんだろう』。
このみ自身も意外に思ったが、そんな無邪気な好奇心にも似た気持ちを抱いていた。

一方で、このみの胸の中で、ささくれだって離れないものがあった。
このみは、それ自身が何であるかを、正確に言い表すことはまだできなかった。
ただ、それが手放してはいけないものだということだけはなんとなく分かっていた。


「プロデューサー。その……。」

このみは、自分の中にある気持ちを言い表す言葉を探すようにして、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「もし、私がそのオーディションに合格したとして……。そのときのスケジュールって、どんな感じになるのかしら。」

おそらく、このみ自身が引っかかっていたことは、それなのだ。
これだけは確かめておかなくてはならない、そんな気がした。

「そうですね……。公演時期は今年の冬で、公演の期間はまだ正式決定ではないですが、だいたい2週間くらいになるそうです。
本番の2ヶ月前くらいから少しずつ演技面での練習が入り始めて……。」

「おそらく、公演直前の1週間くらいは殆ど毎日が集中稽古になりますね。朝から晩まで、一日中出ずっぱり、と言った感じのものです。」

彼は手帳を広げながらそう答えた。


「そう、なのね。」

自身の意識の中へ潜りながら、このみはそう返事した。
それは、暗闇の中手探りで失せ物を探すかのようだった。

「役に選ばれたら全体稽古の予定も正式に通知されるはずですが、やはり本番の2か月前くらいからだと思っていてください。」

彼はそう言った後、持っていた手帳をしまって、このみの方へと向き直した。
対するこのみは顔に手を当てたまま、漠然としたままの感情を一つ一つ切り分けて、その原因を探していた。
自分の気持ちに訊ねては、ああでもない、こうでもないと繰り返す。
彼の言葉から少しだけ間が空いて、ようやくこのみはいまの自身の心を説明するための、たった一つの結論を得た。
このみの口がゆっくりと開いた。

「もし、私がそのオーディションに合格したら……。公演期間を入れて、1ヶ月くらいかしら。ううん、それよりもっとかもしれないけど……。」


このみは、彼が自身の声をいつだって受け止めてくれることを知っていた。
殆ど呟くような声だったが、それは未だに不安も迷いも抱えたままであることを物語っていた。
そしてこのみは一呼吸ほどの間の後、彼に尋ねた。

「そうなったら、当分の間アイドルはお休み……ってことよね。」

その問いの答えは、このみ自身も分かっていることだった。
しかし、このみにとってそれが何より大切なことであると、彼は知っていた。
だからこそ、彼はその言葉を伝えることを少しだけ躊躇った。

生まれた静寂の中で、二人は夜の空気の冷たさを感じた。
彼はその冷たさから逃れるように、右手を握りしめた。
それでも伝えなければならない、と。
彼はそっと口を開いた。

「……ええ、そうするつもりです。」


このみはその言葉を聞いても、表情は変わらないままだった。
彼は手に持ったままのグラスに目を向け、続けて言う。

「もちろんギリギリまで並行してアイドルの仕事もする、ということが出来ないわけではないですが……。」

彼の手がわずかに揺れた。
手の中にあったグラスの中身は波を立て、溶けて一回り小さくなった氷がからんと音をたてた。
グラスの周りについた冷たい水の滴が、つうと表面を伝って、ひとつふたつと底の方へ流れていった。
彼はグラスから目線を切って、もう一度このみを見た。

「それでも、やっぱり俺は、このみさんに無茶はしてほしくないですから。」

その目は、ただ真っ直ぐに彼女の瞳を見つめていた。
このみと彼は、もうそれなりには長い付き合いになっていた。
だから、本気でそう言ってくれているんだ、とこのみにははっきりと分かった。

「そうよね。……ありがとう、プロデューサー。」


かつて、このみは彼が言うところの「無茶」をしたことがあった。
大変だとは分かっていたが、自分にとってそれができないとは思わなかったし、
最後まで責任を持って結論を出すことが、自立した大人としてあるべき姿なのだと思っていた。
実際、いまもその考えは変わっていない。
ただ、ときにそれが、知らない間に周りの誰かを心配させてしまうことがあるのだと、このみは知った。

もし大切な人が荷物を一人で抱え込んでいたのなら、
手を伸ばしてその人の力になりたい、頼ってほしい、このみは思うだろう。
辛そうな顔は見たくないし、笑っていてほしい。
このみが劇場の大切な仲間たちにそう思っているのと同じように、
頼ってほしいと思ってくれる大切な人がたくさんいる。


だからこそこのみは、自身のいまの素直な気持ちを彼に伝えたかった。
それを届けることが、互いの願いだと知っているのだから。

「ねえ、プロデューサー。」

このみは彼の名を呼んだ。
普段より少しだけ、甘えるような声だった。

「その……。私ね、この劇場のことが、自分で思ってたよりもずっと大好きだったんだ、って。そう気づいたの。」


胸に手を当てながら、このみは自分の中から出てきた気持ちをそのまま言葉にした。
それが自分の中でこんなにも育っていたなんてと、このみ自身も驚いていた。
このみは自身のグラスに目を移して、そっと左手で触れた。
思いを綴るたびにこのみの胸の中にまた言葉が浮き上がっていく。
胸がいっぱいになって、それでも溢れだす気持ちがそのまま言葉になって、このみ自身にも止まらなかった。

「プロデューサーに見つけてもらって、気が付けばアイドルになってて……。まさか、自分がアイドルになるだなんて、考えたこともなかったわ。」

左手の中のグラスに目を向けたまま、このみは思い出すようにして言った。
グラスの表面の結露の冷たさを指先で感じて、親指で拭った。
そして、このみはそっとグラスを置いてから、彼へと視線を向けた。
彼がそうしたように、ただまっすぐに瞳を見つめて。

「でも、アイドルになって良かったって思う。ずっとこのままみんなとアイドルしていたい、って思ってる。」


互いが互いの眼を見ていた。
しかし、先に目線を切ったのはこのみだった。

「けど……。」

指先の濡れた左手に目を向けて、このみは押し黙った。
その静寂の中で、時計の秒針の音だけが聞こえていた。
少しの間のあと、ぽつりと溢すように、このみはその先の言葉を続けた。

「……多分気づいちゃったんだと思う。私も、アイドルじゃなくなる時が、いつか来るんだ、って。」


その声は、微かに震えていた。
言葉にした途端に、それが決して遠い誰かの話でなく、紛れもなく現実の自分の話なのだと、このみは思い知らされた。

このみは彼の方を見た。
彼は、静かにこのみの話を聞いていた。
拳数個分ほど開いた膝の上で腕を抱えるようにして、その体勢のままほとんど身動きさえしなかった。
彼のその様子からは、繊細で、容易く揺れ動いてしまいそうなこのみの話を妨げないように、という彼の思いが見てとれた。

しかし、このみには分かっていた。
彼の抱えた手が、陰で握られていることも。
時折強く目を瞑っていることも。
決して声を漏らすまいと、ぎゅっと口を噤んでいることも。


それを知っているからこそ、このみは先を続ける。

「きっと、それはまだ、ずっと先のことだけど……。」

そうであったとしても。

「……もし私が鶴の役に決まったら。私が『あの子』でいる間、私は『アイドル馬場このみ』でいられない。」

それはこのみにとって、決定的なものだった。
たとえそれが一時的なものであったとしても、この劇場を離れて、全く別の舞台で、全く別の世界を生きるのだ。
このみ自身、それが自分の人生において何を意味するのかは分からなかった。
ただ、今はまだ離れたくない、手放したくない、と。
それは、このみの一番深いところから出てきたものだった。

彼の顔は陰に隠れてしまっていて、このみはその表情を正確に窺い知ることはできなかった。
けれど、堰を切ったように溢れ出したこのみの感情はもう止まらなかった。


このみの中で、走馬灯のように様々な景色が浮かんでは消えていった。
そして、最後に現れた劇場の定期公演の情景だけが、このみの胸の内から離れなかった。
幕が上がる瞬間。
下手から上手まで、いっぱいに広がった仲間たち。
溢れだす光と歓声。

長期間劇場から離れるということは、月に一度の定期公演にも参加できなくなることを意味する。
このみにもそれは分かっているつもりだった。
今までにも、他の仕事と重なって定期公演に出られなくなったときだって、何度もあった。
それは、今までと同じはずなのに。


「私一人いなくなったって、何か問題が起きるわけじゃない。ううん、最近のみんな、すごく頑張ってるもの。だから……。」

幾重に広がる光たちの上で、劇場の仲間たちが舞い踊る。
願いは歌になって、ステージからファンのみんなへと飛び立って。
それはペンライトの光になって、ステージへと届けられる。

そんな夢のような世界を。
このみは、ただ遠くから見ていた。
手を伸ばしても届かないほど、遠く暗い場所から。

それでも、このみはある『色』を縋るように探した。
どんなに小さくても、どんなに微かな光であったとしても、と。
それこそが、『アイドル馬場このみ』の存在証明なのだから。


ステージは完璧だった。
たった一つ、その世界に、馬場このみがいないことを除いては。

そのまま手放せてしまったのなら、どれほど楽なのだろうか。

何も知らないままでいられたのなら、こんな胸の痛みに気づくこともなかったのに。

もしも。
あのステージから見える景色と、初めから出会っていなかったのなら──。


伸ばした手に、何かが触れた。
このみがはっとして意識を戻すと、そこは劇場の事務室だった。

左手の感覚は、思い違いではなかった。
このみが目線を上げて辿ると、その手は彼の両手でぎゅっと握られていた。
このみの小さな手は、すっかり覆われてしまっていた。
このみは驚いて、彼の顔を見た。
彼は、いろんな感情がない混ぜになったような、複雑な顔をしていた。
不安も迷いも抱えて、それでもじっとこのみの顔を見つめていた。
彼のその表情をみたとき、自分がどんなにひどい表情をしていたのか、このみは分かってしまった。
このみは、彼の手に力が入るのを、握られた手越しに感じた。
突然のことだったが、自分が大切にされているんだと、このみにははっきり分かった。


「このみさん。」

彼は、手を握ったままこのみを見つめて、一言、そう言った。
このみは、ただそれだけで、冷えきった左手が暖かくなるのを感じた。
少しの間が空いて、それからこのみは口を開いた。
ぽつりぽつりと、言葉を溢すように。

「……ステージにみんながいるのに。私一人だけが何処にもいないなんて、苦しくて。」

本当ならば、劇場のみんなが活躍していることを喜ぶべきなのに。
このみは、それを心から素直に受け止めることができそうになかった。


自分の居なくなった世界が、それまでと同じように、淀みなく回り続けるのが嫌だ。

それは嫉妬にも独占欲にも似た感情だった。
自身の中にこんな下卑た気持ちがあったのかと、このみは心底思わされた。

「……おかしいわよね、こんなの。子供のわがままみたいだって、自分でも思うもの……。」

分かっていても、もうどうにもならなかった。
これが何かを好きになってしまったことの代償ならば、世界は残酷だ。
どれほど身を焦がしても、それが届かなかったのなら、それは──。


もう一度だけ、手がぎゅっと強く握られた。
このみがそれに気がついて目を向けようとしたとき、また顔が下を向いてしまっていたのだと自覚した。
このみが顔を上げると、彼と目が合った。

「このみさんに、伝えたいことがあります。」

彼は、このみに気取られぬよう、震えそうな声を押し殺してそう言った。
芯の通った声だった。

束の間の静寂があった。
このみは、自身の鼓動が少しずつ早く、そして大きくなっていくのを感じていた。
それは、握られた左手越しに、彼に伝わってしまいそうなほどだった。


彼は小さく深呼吸してから、このみの目をじっと見つめたままで、口を開いた。

「……俺は、あなたのプロデューサーです。
 あなたをトップアイドルにすることが、俺の夢です。
 だから、あなたには幸せになってもらわないといけないんです。」

彼は真っ直ぐにそう言った。

「幸せ……?」

「ええ。『あなたの幸せ』です。
いまのこのみさんがなりたい姿、出会いたいもの、大切にしたいもの……。
きっと、叶えたい夢があるはずです。」

彼は真っ直ぐにそう言った。

>>180 訂正

彼は小さく深呼吸してから、このみの目をじっと見つめたままで、口を開いた。

「……俺は、あなたのプロデューサーです。
 あなたをトップアイドルにすることが、俺の夢です。
 だから、あなたには幸せになってもらわないといけないんです。」

彼は真っ直ぐにそう言った。

「幸せ……?」

「ええ。『あなたの幸せ』です。
いまのこのみさんがなりたい姿、出会いたいもの、大切にしたいもの……。
きっと、叶えたい夢があるはずです。」


夢──。
子どもだった頃は、たくさん夢があった。
テレビを見て影響されて、その度に何々になりたい、だなんて。
そうやって、いつも母に言いに行ったりしていたらしい。
今はもう覚えていないけれど、やっぱり子どもらしくて、たわいのない夢だったのだと思う。


周りのみんなが大人になっていくように、私も大人になった。
普通の人生のなかで、ささやかな幸せを見つけて。
そうやって生きていくものだと思っていた。
だから、大人になった私は、きっとあの日まで夢を見てこなかったんだと思う。

『私みたいな大人が今からアイドルを目指すなんて、おかしいと思ってる?』

24歳という年齢は、決して若いとは言えない。
最年長、といえば聞こえは良かったけれど、
アイドルとして夢を見ていられる時間が少ないんだと、ずっと分かっていた。
だから、はじめの頃は焦ってばかりいたように今では思う。
上手くいかないことだらけで、戸惑うことも多かった。
それでも一つ一つ身につけて、必死に一歩ずつ前へと進んできた。


今振り返れば、アイドルになってから本当に色々なことがあった。
スパイのエージェントとして、迫りくる罠たちを、力を合わせて突破したこともあった。
「屋根裏の道化師」のときみたいに、演技で表現するような仕事も、最近は少しずつ増えてきた。

時には変な仕事もあるけれど、劇場に戻ればいつだって、なんてことのない、騒がしい日常がそこにある。
公演の日には、いつもと変わらない仲間たちと一緒に、大好きなこの場所でファンのみんなと過ごすことだってできる。


以前の自分では気づかなかったことが沢山あって、今の自分だから分かったことがある。

『私はひとりじゃない』。

思いを共にする仲間たちがいる。
背中を任せられる戦友がいる。
そして今の自分には、かけがえのない大切な人がいる。
それは、私の道をずっと近くで応援してくれた人たち。


不安を抱えたままこの世界に飛び込んで、たった一筋の光に出会えた日のことを今でも鮮明に覚えている。
輝いた舞台に立てるのならば、あの景色をもう一度見れるのならばと、どれだけ苦しくても諦めずにいられた。
少しずつでも進んでこられたのは、あの抱いた憧れが胸の中にあったからだった。

でも、今の私の中にあるのは、もうそれだけなんかじゃない。

あの日見た光の波のその向こう側には、私たちを応援してくれた人たちがいたんだ、って。
私に夢を見せてくれた人たちがそこにいるんだって、胸の中からいつだって勇気をくれる。

だから、私は──。


「──私に色んなものをくれた、大切な人たちに。
 あなたに出会えて良かった、って伝えたい。」

「私が、『アイドル』馬場このみとして最高に輝く姿を見てほしい。
 出会ったのが間違いなんかじゃないって、
 心から思ってもらえるような、そんな最高の私を──。」

言葉にしたのは、きっと初めてだった。
抱えたこの気持ちは、言葉で伝えるにはあまりに足りないから。
だから全部抱えて、届いてほしいと願っていた。


彼は、このみの手を握っていた両手を、そっと離した。
その表情は、先ほどよりもずっと落ち着いていた。

「……俺なんかよりも、このみさんの方が人生経験はずっと多いと思います。
 色々なものが見える分、不安も迷いも、余分に抱えてしまうかもしれません。」


彼の言葉を咀嚼しながら、このみは考えていた。
このみは経験から分かっていた。
自身のそういう性質、この『悪い癖』は、一生付き合っていかなければならないものだと。
ある程度は変わることはできても、それ自体を無くすことは出来ないだろう、と。
それでも──。

「俺は、『アイドル』はわがままでいいと思います。
 いろんな願いを叶えて、幸せになって。
 あなたの幸せを願って、応援してくれる大切な人たちが、いつだってたくさんあなたにはいます。」

──それでも、自分のそんな所さえも愛してくれる人がいるのなら。
自分の好きな所も、そうでない所も。
歩いてきた全てが『馬場このみ』の軌跡なのだと、胸を張って言えそうな気がした。


「だから、このみさんがアイドルを辞めるときは、
 きっとここじゃ叶えられない願いを見つけたときなんだと思います。
 でも、その願いもきっと、みんな応援してくれます。
 それは、大切な人の──あなたの夢だから。」

アイドルの先にある、夢。
このみは目を瞑って深呼吸して、想いを巡らした。
『アイドル』で願った夢を全部叶えた後の自分が、その先に何を見つけるのだろう?

しばらくして、このみは息を吐いてから目を開けた。

「……ダメね。私には、まだ想像だってできないみたい。」

そこまで言って、このみは笑った。


「──でも、いいの。」

アイドルを辞めた先を想像出来ないのは、
きっと『アイドル』として叶えたい夢が目の前にあるからなんだ、とこのみは思った。
それは、今の自分が『アイドル』であることの、確かな証拠だった。

「だって、今の私は『アイドル』だから。先のことは分からないけど……。
私は、大切な人たちと一緒に、大切な今を歩いていきたい。」

「このみさん……!」

このみは、眉間のあたりがきゅうと熱くなるのを感じた。
目をぎゅっと瞑ったり、瞬きをしたりして、それからそっと深呼吸をした。


息を吐いてから、このみはゆっくりと口を開いた。

「やっぱり、ファンのみんなに会えなくなっちゃう、っていうのは寂しいけど……。」

そこまで言って、このみは彼の顔を見た。
このみには、彼が自分のために胸を痛めてくれているのが伝わってきて、
そうやって心配をかけてくれるのが、何より嬉しかった。


だからこのみは、笑ってこう言った。

「プロデューサー。けど、心配しないでね。
 この演劇のお仕事は、私が自分でやると決めたことだから。
 今の私に必要なことなんだって、今ではそう思えるの。
 心配してくれてありがとう。私はもう大丈夫よ。」

それを聞いて、彼は少し安心した様子を見せた。

「……俺はこのみさんのことを信じています。だから、俺はあなたが歩む道を応援します。
なのでこれは、『アイドル』馬場このみの、いちファンとしての意見なんですが……。」


彼は、少しだけ逡巡した様子だった。
深く息をしてから、彼はつぶやくように言った。

「……やっぱりファン側も、寂しいんです。このみさんと会えなくなるのは。」

このみは、彼のその言葉を聞いて、胸が締め付けられるようだった。
つい先ほど自分で決めたことでさえ、揺らいでしまいそうな気がした。
この仕事に挑戦するということは、劇場から、大切な人たちのもとから離れるということなのだ。
選んだその選択に、本当に間違いはないのだろうか?
答えのない問いにこのみは苛まれそうになった。
このみは胸が詰まって、何も言葉が出てこなかった。


「……でも。」

張りつめそうになった空気のなか、彼はそう言った。
その声を聞いて、このみは顔を上げた。
彼はこのみの顔を見て、その言葉の先を続けた。

「でも、大丈夫です。……だって、このみさんは劇場のアイドルですから。
またこの場所で、あなたに会えるって、みんな信じてますから。」

思わず、このみは息が止まった。
たった一言。それだけで、不思議と胸のわだかまりが解けていくような気がした。

このみは、自分の中でたった一つだけ、足りなかったピースが埋まるような感覚があった。
それはきっと心の内で、ずっと欲しいと願っていた言葉だ。


このみはもう、彼のその言葉の先に何があるかを知っていた。
逸る気持ちに胸が高鳴ることを自覚しながら、このみは彼を見て、確かめるように呟いた。

「そ、それって……。」

彼はただ頷いて、言葉を続けた。

「確かに、このみさんがしばらくアイドル活動できなくなることで、
ファンの人たちには、寂しく感じさせてしまうかもしれません。
……それでも、またこの劇場の舞台であなたに会える日が来る、って分かっているから。
それだけできっと大丈夫です。」


「例え大切な人と会えない日が続いても、
 次会える日まであと何日だろう、って数えてみたり、
 どういう服を着ていこうかな、って考えてみたりするのも楽しくて。
 しばらく会えなかったとしても、その会えなかった日の分だけ、会えたときにほっとして嬉しくなる。
 ……『誰かを好きになる』って、きっとそういうことなんだと、俺は思います。」

胸の中にあった気持ちが線で繋がって、胸いっぱいに広がっていくのを、このみは感じていた。


このみには、あの心地良い歓声が聞こえてくるようだった。
気が付けば劇場のみんなと舞台の上に立っていて、大勢の観客たちの前で歌を歌っていた。
ふと前を見れば、色とりどりの光の向こう側に、特別な人たちがいた。
一人、また一人と、ステージからの光に照らされるようにして、大切な人たちの顔が見えた。
まるで出会う前から出会うことが決まっていたみたいな気がして、いつも伝えたい言葉の先にいてくれた。
そして、このみとの間──二人の間には、いつだって桃色の光があった。

このみが歌声とともに手を伸ばせば、その先に柔らかな笑顔が見えた。
それを見たこのみは、思わず自分の頬も緩んでいくのが分かった。
まるで桃色の光を伝って気持ちが互いに伝播していくみたいで、
ステージの上の自分からひとりひとりに、心の奥底で繋がったような感覚があった。


胸の中にずっとしまい込んでいたものがあった。
本当はそう信じていたかった。
でも、もし違ったら。そうでなかったのなら。
……傷つくのが怖くて、ずっと見て見ぬふりをしてきたのかもしれない。
でも、今ならきっと信じられる。
『私の大切な人たちも、きっと私と同じなんだ』と。

自分の進む道が、初めから決められている人なんていない。
私がそうだったように、みんな進む道に悩んだり迷ったりもする。
ときには先に何があるか分からないまま、進む道を決めなくてはならないことだってあった。
それでも、二つの道が交差するように、人と関わり合いながら、誰もが自分の道を歩いていく。
その中で。偶然素敵な場所に巡り合って、色々な人と共に過ごして──。
──そして、『誰かを好きになる』。


劇場のステージで、大切な人たちへ想いを届けようとしたはずなのに、いつだってそれよりもっと大きなものを貰っていた。
私は、自分の気持ちをいつも伝えられずにいて、受け取ってばかりだ、と。ずっと、そう思っていた。
だけど、今はもう分かる。
私がずっと伝えたかった想いは、きちんと私の大切な人たちに届いていたんだ。
私の大切な人たちが、こんなにも素敵なものを私にくれること。
それは、私がみんなに想いを届けたいと思うことと、きっと一緒で。
想いを寄せてくれる大切なひとに、自分の気持ちを届けたいという想いは、何も変わらないんだ。

気が付けば、このみの目元は雫で濡れていた。
堪えられずこのみが瞬きをしたとき、それは堰を切ったように頬を流れていった。
一粒、二粒と溢れた涙はやがて落ち、このみの手の甲を濡らした。

「ああ、もう。どうして……。」

このみは、左手の親指で目元を拭った。
いくら指でなぞっても涙は止まらなくて、溢れてくるばかりだった。
このみは目元を手で隠したままで、彼から見えないように、顔をそっと伏せた。

「……どうして、こんなに涙もろくなっちゃったのかしらね……。」


声を詰まらせながら、このみは自問するようにそう呟いた。
ただ、このみはその答えが何であるかを既に知っていた。
知っていたから、涙が溢れて止まらなかった。

「その、このみさん……っ。良かったら、これを……。」

このみは、伏せた頭越しに彼の声を聞いた。
自分の滲んだ視界にあてられたのか、このみにはその声は、どこかくぐもって聞こえた。


指で涙を拭いながら、このみはゆっくり顔を上げた。
差し出されたハンカチを受け取りながら、このみは声をもらした。

「……ごめんなさいね、プロデューサー。私……。」

そこまで言って、彼の顔を見たところで、このみの声が止まった。
彼の顔もまた、涙で濡れていた。
このみが見たときには、彼はもう顔中ぐしゃぐしゃになっていた。

「このみ、さん……。俺……。」

途中、ぐすぐすと鼻の音を鳴らしながら、彼は言う。
このみは、二人して泣いてる状況がなんだかおかしくて、つい頬がゆるんだ。
その頬に沿って、雫が一筋、弧を描いて流れていった。

「……もう。なんでプロデューサーが泣いてるのよ……。」

このみは、受け取ったハンカチを当て涙を拭いながら、笑ってそう言った。


「そ、それは……。」

彼は右手で、ぐしぐしと自分の涙を払った。
それから、彼は指先を頭に当てて小さく呼吸をした。
しばらくして、彼は震える声でゆっくりと言葉を続けた。

「……だって、あなたと……。
 もし、このみさんと出会えてなかったら……。
 こんなふうに誰かに自分の気持ちを伝えようって、思ったりしなかった、って。」

このみは、胸の奥がきゅうとなるのを感じて、目頭に熱が上っていくのがわかった。
思わずこのみは両手を顔に当てた。
溢れ出る涙はこのみの指先を濡らして、どんどん頬を伝い流れていく。
このみは、涙を拭くのさえ忘れてしまっていた。
ただ、胸の中の暖かさが、じんわりと体に広がっていくのを感じて、
そこから動くことができなかった。

彼は、溢れる感情に促されるように、前へと体を預けた。
脚に肘をついて体を支えるような体勢のままで、それでも零れ落ちた想いが顔を伝って流れていく。

「そう思ったら、なんだかもうっ……。」


ぽたり、ぽたりと雫が落ちた。
シャツの袖口は、一つ二つと、どんどん濡れて色が変わっていく。
えぐえぐという声を漏らす彼に、このみの涙がまた頬を伝っていった。

「私より、プロデューサーの方が泣いてるじゃない……。私にハンカチ渡してる場合じゃ、ないわよ……っ。」

「で、でも……。それだとこのみさんが……。」


彼がいくら手で拭っても、涙は止まらなかった。
このみは、自分の手の中にあった彼のハンカチを見た。
しかし、そのハンカチはもうこのみの涙で濡れてしまっていた。
このみは、横に置いてあった自分の鞄に手を差し入れて、そこから一枚のタオル地のハンカチを取り出した。

「……はい、プロデューサー。私のを使って。」

「うう、すみません、このみさん……。」

彼は左手でハンカチを受け取って、そのまま涙を拭いた。
そんな彼の様子を見て、なんだか子どもみたい、とこのみは顔を綻ばせた。

静かな夜、二人の潤んだ声だけが部屋の中を包んでいた。
少し気恥ずかしくもあり、そして不思議と心地が良い、そんなひととき。
いつまでもこの時が続いたのなら──このみは湧き上がる気持ちを胸にひそめて、そっと微笑んだ。


それから、幾ばくかの時間が過ぎた。
彼は時折、深く息を吸ってみたり、目をぎゅっと瞑ったりしていた。
しばらくしてから、彼は顔を上げ、ゆっくりした調子で言った。

「すみません……たぶんもう、大丈夫です。」

「落ち着いた?」

「ええ、おかげさまで……。」

「まだ目が少し赤いわよ。」

「……それは、このみさんもですよ。」


二人が気が付けば、時計の針は21時を過ぎていた。
グラスの中の氷も、すっかり全部溶けてしまっていた。
あまり遅くなると、翌日の仕事にも響くかもしれないと、二人は帰り支度を始めることにした。
彼は台拭きを取ってきて、テーブルを拭き始めた。
このみは、テーブルの上に乗ったままのグラスを二つ持ち上げて、その間テーブルを拭く彼を何気なくじっと見ていた。
彼がテーブルを拭き終えたことを確認してから、彼女は二つのグラスを重ねて、片手に持ち替えた。

「これも、もう片付けちゃうわね。」

「ええ、助かります。」


二人分のグラスを持って、扉の横にある給湯スペースに向かった。
ところが、少しだけ歩いたところでこのみはそっと足を止めた。
少しの間が空いてから、その場で振り返って、このみは訊く。

「……ねえ、プロデューサー。」

このみは、グラスを後ろ手に抱えたままで、彼を見た。

「その……。もしも、私が役を貰えたとして……。
 それで、私がこの劇場にいない間に、私が演技に目覚めちゃったら、どうする?
 もうアイドルを辞めて、女優の道に進みたいって、思ったとしたら?」


本心を隠すようにイジワルっぽく笑って、このみはそう言った。
その問いに、彼はすぐには答えなかった。
こめかみのあたりを指で掻いて、少しの間考えて。
それから、このみを優しく見つめて、答えた。

「今までも、演技の仕事は何回もありましたけど……。やっぱり、きっと素敵な女優さんになるんでしょうね。
 このみさんがそう願うのなら……。いつかきっと、大勢の人の胸の中にいつまでも残るような、そんなお芝居ができると俺は思っています。ただ……。」

彼はそこまで言ったところで、言葉を飲み込んだ。
どこか、その表情はもの悲しげにも見えた。
しかし次の瞬間には、彼の顔からその色は消えていた。
彼はもう一度このみの方を見て、言葉を続けた。

「……ただ、もしこのみさんが女優の道を進むことになっても。
 例えこの劇場から離れて、本格的に演技のお仕事ができる他の事務所へ移ることになったとしても……。
 ……この場所は、変わらず此処にありますから。
 だから、気が向いたときにいつでも遊びに来て、それでまたみんなと色んなお話をしましょう。」


このみは、いつか来るかもしれない、そんな何年後かの未来を思い浮かべた。
今より歳を重ねた自分が、仮に女優の道を歩んでいたとして──あるいはそうでなかったとしても。
やっぱり、私はこの場所に来てしまうんだと思う。
そこには今より大きく、大人になった仲間たちが居て。
今と同じように、何でもない話をして、みんなと笑って過ごしてる。
そんな、素敵な未来を。

「うふふ、ありがとう。プロデューサー。」

この先何と出会い、アイドルの先に何を見つけるのか──。
このみは、まだその答えを知らない。
でも、一つだけ確かなことがある。

「でも、大丈夫よ。……だって今の私は『アイドル』だもの。叶えたいこと、まだまだ沢山あるんだから!」


「着きましたよ、このみさん。」

彼は、ハンドブレーキをかけながら、助手席に座るこのみに声をかけた。

「ええ、ありがとう。プロデューサー。」

このみは、シートベルトを外して、持ってきていた小さな鞄を手に取った。
車を下りたこのみは、日差しを遮るように目の上に手を当てた。
雲が恋しくなるほどに空は晴れ晴れとしていた。
普段朝方はあまり調子がでないこのみだが、こうして陽の光の下にいると目の奥まですっと晴れていくような気がして、案外悪くない気分だった。
このみが腕時計を確認すると、針は午前9時ちょうどを指していた。


二人は、オーディションが行われる会場近くのコインパーキングにいた。
彼が運転席側のドアノブに触れると、電子音と共に鍵が閉まる音がした。
それを確認して、二人は歩き出した。

「今さらだけど、別に送ってもらわなくても大丈夫だったのよ?」

「いえ、俺がしたくてしてることですから。あと、できれば監督に挨拶をしておきたいというのもありましたし。」

「挨拶?」

このみがそう聞くと、彼は少し答えにくそうな様子だった。

「ええと、今回はたまたま向こうから声をかけてもらえたんですけど、あんまりうちの事務所とコネクションがある訳じゃないんですよ。まあ、それが理由ですね。」

「なるほどね。……そういえば、前に言ってたわね。
スタッフさんの中に『屋根裏の道化師』を見てくれた人がいて、それで偶然声を掛けてもらった、って。」

「ええ。なので、他のアイドルも含めて、今後同じようにオーディションの話を貰えるかは分からなくて。
次回以降も声を掛けてもらえるように、事務所としても、さりげなく765プロをアピールしておきたいんですよ。」


二人は車を止めたパーキングから通りへ出た。
そこには背の高いビルがいくつもと並んでいて、通りには車がひっきりなしに走っていた。
そのままこのみが彼についていくと、しばらく通り沿いを歩いたところで、灰色っぽい建物が見えてきた。
その建物こそが、今回の舞台の企画・制作会社の本社の入るビルであり、オーディションの会場なのだ。
まもなくビルのそばに二人は到着したが、間近で見てこのみは改めてその高さに圧倒された。

二人がエントランスに入ると、そこには各階に入っている企業や団体が書かれた案内板が貼られていた。
案内板によると、このビルの9階から11階、ちょうど3フロア分を使っているらしかった。
芸能業界だけでなく一般の企業も入っているビルなのだが、そのどれもが名の知れた企業だった。


二人が9階で受付を済ませたあと、会場として指定されていた11階にエレベーターで向かった。
このみたちがエレベーターから降りると、ちょうど廊下の方からスーツ姿の男二人が話をしながらこちらに向かってきていた。
一人は50代ごろのやや落ち着いた老練そうな雰囲気のある男で、眼鏡をかけていた。
下顎から頬にかけて伸びる髭は綺麗に整えられていて、男の几帳面さが伺えた。
一方、もう一人は30代前半くらいの、背の高い男だった。
このみのプロデューサーも平均より背が高い方だが、その男は彼よりさらに大きく、185cmはあるだろうと感じた。
筋肉質でがっしりとした体格をしていて、ステレオタイプな体育教師のような雰囲気を持っていた。
スーツを着ることにそれほど慣れていないのか、首回りの窮屈さを気にするように、襟元に手をやっていた。

このみのプロデューサーも続いてその二人に気が付いたようだったが、それと同時に背の高い男の方もこのみ達に気が付いたらしかった。

「あれ……確かあなたは765プロの……。」

背の高い男は、このみのプロデューサーを見てそう言った。
このみのプロデューサーは、ご無沙汰しております、と返事をした。


今までに面識こそなかったものの、このみはこの二人のことをよく知っている。
二人の名前は、今回の演劇のオーディション資料の中で、何度も見た。
この二人こそが、『鶴』の物語を手掛ける舞台監督と演出家だ。
髭を生やした男は舞台監督として、過去多くの舞台に関わって来た、いわば大ベテランだ。
特に、冷静な判断力と大胆な行動力とを併せ持っていると、スタッフや演者たちからは評判らしい。。
一方で、背の高い男は演出家としてはまだ若手ではあるものの、ここ数年で頭角を現してきたと評されているらしかった。
裏方の仕事の中でも、演出家は舞台の出来そのものを大きく左右する重要な役割を担っているが、
彼は特に求める演技にストイックで、一切妥協をしない性格であると、このみは聞いている。
二人はこの後始まるオーディションの審査員でもあった。


演出家の男は、このみ達がオーディション参加者であると舞台監督の男に紹介した。
それに合わせるようにして、このみは自己紹介をした。

「765プロの馬場このみと申します。本日はよろしくお願いいたします。」

「馬場さん、こちらこそよろしくお願いします。」

このみが頭を下げてそう言うと、舞台監督の男もこのみと同じくらい頭を下げ丁寧に答えた。

「あちらの方に控え室を用意してますので、オーディションの時間までもうしばらくお待ちください。」

彼が手で指し示した部屋には、控室と書かれた紙が貼ってあった。
舞台監督の男はこのみのプロデューサーと名刺を交換して、その後演出家の男と階段で下の階へ降りていった。


このみのプロデューサーは、交換した名刺をしまってからこのみの方を見た。
このみは、彼越しに控室に貼られた張り紙をじっと見ていた。

「……このみさん、緊張してますか?」

「してないわけじゃないわ。でも……丁度いい緊張、かしら。」

このみは笑って、そう言った。
今までずっとこのみの近くにいた彼には、その表情からこのみがオーディションに集中できていることが読み取れた。

「それじゃあ、俺は昼頃また迎えに来ます。応援してますからね。」

彼はおもむろに、このみに手のひらを向けるように手をかざした。

「ええ、プロデューサー。行ってくるわね。」

このみはそう言って、脚を動かした。
すれ違いざま、彼と目を合わせた後、このみは彼の手に自身の手のひらを打ち当てた。
いつもオーディション前にしている、おまじないだった。
乾いた音が辺りに響いた。
このみの手には、しばらくその感覚が残っていた。


このみは、控え室の前までやってきた。
扉の前で立ち止まって、深く深呼吸してから扉に手をかけた。
部屋の中には、既に3人の女性がいた。
このみにとって、この部屋に集まった彼女達は、たった一つの役を競い合うライバルになるわけである。
3人はそれぞれ離れた場所の椅子に座っていて、各々が台本に目を通すなどして静かに集中している様子だった。
そのうち一人は、このみがテレビドラマでも見かけたことのある女優だった。

このみは他の3人と同じように、離れた場所に座り、台本を開いた。
物語の流れを追いながら、今まで演じた経験を思い出して、台詞ごとに引かれたメモ書きを一つ一つ読んでいた。
そのどれもが、自分が悩み時間をかけ考え、結論を出してきたもので、今のこのみ自身を励ましてくれるようだった。


このみが気づけば、数十分あったはずの待機時間も、既に経ってしまっていたらしかった。
扉をノックする音がして、直後部屋に入って来た女性スタッフが、参加者たちに準備が整った旨を伝えた。
このみは他の参加者たちと一緒に返事をして、手に持っていた台本を鞄の中にしまった。
台本を含め荷物は持ち込めないことになっている。
このみ達は荷物を置いたまま、部屋を出た。

スタッフの案内に付いていくように、このみ達は廊下を歩いていた。
このみは自分の心臓が音を立てるのが分かった。
悔いの残らないように──。
それだけを噛みしめて、このみはオーディション会場の扉を見据えた。

>>119 >>120の間に抜けがありました。

「行ってしまいました……。」

>>210>>211の間に13レス分抜けがありました。
順番に投稿していきます。


それからの日々も、このみは仕事の合間を縫って、オーディション用の台本に目を通していた。
ある時は事務所の控室で、またある時は移動中の車内で。
掴んだ感覚を途切れさせることのないようにと、このみが台本に触れない日は無かった。

オーディション前日の夜、このみは劇場のレッスン室にいた。
演技を行う場面一つ一つを順番に確認していた。


ふう、と息を吐いて、このみは端に置いておいたペットボトルを拾い上げた。
喉を冷ますようにこのみが水を飲んでいると、扉の方から声がした。
このみが振り返ると、少しだけ開いた扉の間から、二人の顔がのぞいていた。

「姉さん、お疲れさま。頑張りすぎは体に毒よ。」

「お疲れ様です、このみさん。明日が本番って莉緒さんに聞いたから、応援に来ちゃいました。」

「あら、莉緒ちゃん。それに、春香ちゃんも。」

このみはペットボトルを近くの台に置いて、二人のそばへ駆け寄った。
春香は、手に小さな紙袋を持っていた。

「今日の仕事先で、お菓子をもらったんです。良かったら、一緒に食べませんか?」

「そうね……。ちょうど一段落着いたところだし、せっかくだから頂いちゃおうかしら。」


このみは持ってきていたタオルなどを小さな手提げ鞄に纏めてから、二人のもとへ戻って来た。
部屋を出た3人は、レッスン室のそばにあるミーティングスペースに来た。

「ここの椅子、ふかふかで好きなのよね~。」

我先にと、莉緒が壁際にあった革張りの椅子に駆け寄って、腰掛けた。
それに続くように、このみは莉緒の向かいに、春香は莉緒の隣に腰を下ろした。

「確かにこの椅子、一つうちにも欲しいわね。お風呂上がりにこの椅子座ったら、絶対気持ちいいもの。」

「なんだかそれ、そのまま眠っちゃいそうですね……。」

春香が紙袋の中から箱を二つ取り出して、そのまま包装を剥がしていく。

「クッキーと、こっちはラスクです。このみさんも、莉緒さんも。気にしないで食べちゃってくださいね。」

「あら。じゃあ、早速、貰っちゃうわね。」


莉緒に続いて、このみもクッキーを手に取って、口に運んだ。
ココアのほんのりと甘い香りが広がって、疲れた体を癒してくれるような気がした。

「ん~。美味しい!」

「本当ね。でも、ココアだけじゃなくて……何かしら?」

ココアの裏で、微かに香ってくる風味があった。
このみはその正体が何かを特定できずにいたが、春香がクッキーを食べたあとこう答えた。

「これは多分……メープルですね。普通のバタークッキーとかにはよく入れたりするんですけど、これは隠し味っぽく、ちょっとだけ入れてあるんだと思います。」

「なるほど……。さすが春香ちゃんね。」


莉緒がそう言うと、春香はちょっぴり照れた様子を見せた。
春香は話題を変えるように、このみに聞いた。

「このみさん。今このみさんがやっているのって、どんなお話なんですか?実は私、まだ聞いてなくって……。」

「鶴の恩返しがモチーフのお話なの。鶴が青年と出会って……、二人は恋をするの。」

「恋……ですか。」

「私は鶴の役なんだけど……。うーん、直接見てもらった方が伝わるかもしれないわね。」

そう言ってこのみは台本を取り出して、春香に手渡した。
春香は、題が書かれた表紙をまじまじと見つめた。
それから、一枚ずつページをめくって、文字を追っていった。


「最初の方は、本当に鶴の恩返しと同じなんですね。」

「ええ。青年の前では、本当の自分を隠して振る舞わないといけなくて。……扉の向こうで機を織るときしか、鶴は本当の姿になれないの。」

「難しい役なんですね……。」

呟くように、春香はそう零した。
春香の手の中にある台本は、幾つかのページに付箋が貼ってあるほか、紙の端の方もすっかりよれてしまっている。
このみがどれだけ役と向き合ってきたか、春香には台本を持つ手越しに伝わってきた。
莉緒は、それを横から静かに見ていた。

「……ねえ、このみ姉さん。明日は、上手くいきそう?」

このみは、すぐには答えられなかった。


「……正直、本当に通用するのかは分からないけど……。出来ることは全部やってきたつもりよ。」

このみは、今までの日々を思い返すように、そう言った。
はじめは役の気持ちを掴む事もままならなかった。
役に近づこうとするたびに、霧の中に隠れてしまって、伸ばした手が空を切るような、そんな感覚があった。

「……でも、この子と私、なんだか似てるかも、って思ったことがあったの。それで、気づいたの。この子も物語の世界で『生きている』んだ、って。」

きっとこの子は、幸せになりたくて……。でも、それだけじゃなくて、胸を張って前を向いていたいって思う、そんな子なんだ。
このみは、胸の中だけで、そう言葉を続けた。
まるで古くから知る友人だったような、そんな確信めいたものがあった。

「だから……。今はこの子のこと、もっと分かってあげられるようになれたのかな、って思ってる。」

「……なんだか、すごく素敵ですね。」

「フフ、ありがと、春香ちゃん。」


このみがふと莉緒の方を向くと、そこで莉緒と目が合った。
莉緒は、なにやらニヤニヤと微笑んでいた。

「な、なによ。莉緒ちゃん。」

「なーんか、その子が羨ましいな、って。……私、姉さんのこと心配してたのよ。今週ほとんど話できてなかったから……。」

「そ、それは仕事なんだから、仕方ないじゃない……。そういう時もあるわよ。……心配してくれてありがとうね、莉緒ちゃん。」

そんな二人のやり取りを見て、春香がくすりと笑う。

「なんだか私もまた、こういう本格的な舞台のお仕事やりたくなっちゃいました。」

「そういえば春香ちゃんも、結構前に舞台のお仕事をしてたことがあったわよね。確か、名前が……。」

「『春の嵐』ですか?」

「そうそう。確か、私がアイドルやる前だったけど、よくテレビでその名前を見かけたわよ。すっごく評判だったって。」


『春の嵐』。
春香がかつて主演を務めた舞台の名前だ。
この舞台は、その頃の春香が世間から注目を集めたきっかけの一つで、後のアイドルアワードの受賞にも繋がったとも言われている。
アイドル天海春香が持つ可能性を女優という新たな領域で示した、と当時評されていたのを、このみは覚えている。

「へえ、そうなの。じゃあ、今後のために春香ちゃんに教えてもらおうかしら。演技の極意、みたいなの。」

「あはは。莉緒さん、私なんて全然で、そんなのじゃないですよ。」

春香は、二人の前でぶんぶんと手を振って否定した。

「ほら、でも経験者じゃない。舞台に出て思ったこととか、何かあったりするんじゃないの?」


莉緒の言葉に、春香は、何かあったかな……といった様子で考え込んだ。
しかし、少し経ってから、何かを思い出したように、ゆっくり話し始めた。

「ええと、上手く言えないんですけど……。私が舞台に立ったとき、『演技って本当に人それぞれなんだ』って。……そう、感じたんです。」

静かに、春香はそう言った。
その言葉からは、春香自身の経験を感じさせる説得力があり、このみと莉緒は思わず息を飲んだ。

「あのとき美希も一緒だったんですけど、全然私と違ってて。……演技ってやっぱり難しいなあ、って思っちゃいました。」

「『演技は人それぞれ』……。うーん……。私はあんまり考えたこと、なかったかしら。」

「私は、少しだけ分かる気がする、かな。……正解なんてもしかしたら無いのかも、って。そういう事なのかしら。」

「えっ?姉さん、それって……どういうこと?」


莉緒は首を傾げながら、このみに聞く。
このみは一瞬言葉に詰まり、少しの間考えを纏めるような素振りを見せた。

「莉緒ちゃん、前に雪女の役をやった事があったでしょ?……私、鶴を演じるのに、最初の頃は莉緒ちゃんの雪女をイメージしながらやってたの。」

「えっ、そうだったの?」

「雰囲気が近い役だから、何か掴めるかも、と思ってたんだけど……。全然上手くいかなくて。それで、なんでだろう、って思ってたの。」

このみは、思い出すようにそう言った。
当時のこのみは、そんな自身の演技にどうしても納得がいかなかった。
今までも演技の仕事は何回もあったが、このみがこのような感覚を感じたのは初めてだった。
だから、その正体が何であるかを知るために、納得のいく演技ができるように、このみは今まで役に向き合い続けてきたのだった。

「……でも、今はなんとなくわかる気がする。上手く言えないんだけど……。私はこの子を、『今の私』で演じたい、って思ってる。」


このみは莉緒と春香を見つめて、そう言った。
その声は、まるで誓いを立てるかのように真っ直ぐで、芯が通っていた。

「莉緒ちゃんの雪女は、普段の莉緒ちゃんとは全然違う子だけど、すごく莉緒ちゃんらしくって。
……だから、私は私らしく、私のやり方でやるべきなんだなって。今はそう思ってるの。」

『私は私らしく』。
それがこのみの結論だった。
なにも、役に自分を重ねて演技をする、と言うわけではない。
これまで歩いてきた道のりを誇れるように、胸を張って前に進むために、自分だけの道を進んでいく。
そのために、今の自分の全てで、物語に生きる人間を演じよう。

憧れや理想が、途轍もなく眩しく見えることがある。
私にとってその眩しさは、焦がれるほど追い求めたものだった。
だから手を伸ばして、一歩ずつ歩いてきた。
けれど、その眩しさを求め追いかけても、きっとその先にあるのは『私じゃない』。
私が胸を張っていられるように、私は私だけの道を進もう。
その姿が、いつかきっと、誰かに伝わると信じているから。


このみは、前を見た。
そこには変わらず、莉緒と春香がいて、いつもと同じ高さで目と目を交わした。
二人は何だか嬉しそうだった。

「ウフフ、姉さんのそういうところ、とっても素敵よ。ね、春香ちゃん」

「はい、それはもうっ。」

少しだけ開いた窓から、顔の熱を冷ますように風が差し込んだ。
潮のにおいが鼻をくすぐって、耳をすませば微かに波の音がした。
窓の向こうの景色は今日も変わらない。
海と星空はどこまでも澄んだ濃紺に染まっていて、遥か向こうで陸と融けるように交わっている。
海岸線に沿って伸びた街灯の明かりが、まるで星空と繋がっているように瞬いた。

***

あのオーディションまでの日々から何か月かが経ち、季節も移ろいでいた。
年は明け、1月も後半に差し掛かった頃で、劇場のまわりには乾いた寒風がぴゅうと音を立てて吹いていた。

このみは、着替えたばかりの衣装を揺らしながら、劇場の廊下を一人歩いていた。
見上げるほど大きな灰色の扉の前で立ち止まり、このみはそこで深呼吸をした。
厚く重い扉だったが、このみが耳を澄ますと、その奥からは心を刺激する心地の良い音色たちが確かに聞こえてきた。
このみは、どきどきと胸の奥が逸るのを感じながら、ゆっくりと扉を開けた。


扉を開けると、ピアノの音に支えられた、透き通った歌声たちがこのみの元に飛び込んできた。
舞台袖からは、まつりたちがステージ上に投げかけられた一筋のライトに照らされ、歌っているのが見えた。
 瞳の中のシリウス──貴音、まつり、美也、海美の4人が織りなす透明な世界には、
風吹く冬の夜の冷たさだけではなくて、心が融けだしていくような、そんな暖かな輝きがあった。
壁際に据え付けられたモニタには、客席後方から見たステージの様子が映し出されていた。
そこでは、会場を包み込むバラードに合わせてサイリウムの波がさざめいていた。

楽曲が終わると、会場中から拍手と歓声が溢れだした。
ステージが暗転して、それから辺りはまた静かになる。
観客たちの息をのむ音が聞こえてきそうだった。
しばらくして、次の楽曲の旋律が静かに始まって、波間はその色を変えた。


舞台袖は、劇場のアイドルたちや、公演を支えてくれるスタッフたちで一杯だった。
アイドルたちは、何人かで集まって自撮りしていたりする子たちもいれば、進行表をチェックしに来た子や、次の出番に向けてダンスのステップを確認している子もいて、様々だった。
このみがなんとなしに辺りを見回すと、スーツを着たプロデューサーと目が合った。

「あ、このみさん。衣装の着替え、もう終わったんですね。」

「ええ。もう大丈夫よ。」


このみの着ている衣装は、しんしんと野に降り積もる雪のような、まっさらな白を基調とした和服だった。
袖には白地に赤と黒の模様があつらわれていて、それは白い翼を携えて雪の上で佇む鶴を思わせた。
胸の帯には、椿の花が凛と咲いていた。
衣装の名前は、『鶴翼紅華衣』。
初日を2週間後に控える、『鶴』の舞台をイメージして作られた衣装だった。

馬場このみセンター公演。
この公演は、このみが主演を務める舞台と連携した、特別な公演だ。
このみはこの公演の後、3週間にわたって行われるこの舞台に向けた、最終稽古に入ることになっている。
このみ自身も事前に覚悟していたことであるが、この公演を境に、馬場このみのアイドル活動は一時的に休止されることが決まっている。
そういう意味で、この公演は、舞台女優馬場このみになるための──アイドル馬場このみ最後のライブでもあった。


この公演は、「最後の公演は、舞台の演劇とリンクさせるようなものにしたい」というこのみ自身の希望からだった。
しかし、公演が実現できたのは、舞台の制作側の好意によるところも大きかった。
舞台の脚本・演出との綿密な擦り合わせをした上で、舞台の制作チームの要求する水準を担保する、という条件の下で、ようやく公演の許可が下りたのであった。

公演はもう終盤に差し掛かっていた。
それでもこのみが衣装を着替えたのは、たった一曲のためだった。
公演の最後を飾る、このみのソロ曲。
それはこの公演の──このみが選んだ選択の集大成でもあった。


この衣装は、このみのアイドルとしてのステージを通して舞台の世界観を表現するために作られた、特別なものだ。
舞台本番の衣装とは異なるものの、舞台の制作チームからデザイン等の監修を受け、アイドル衣装として製作されている。
そのため、ダンスなどで身体を動かしても、動きが制限されることのないようになっていた。
このみは試しに軽く動いてみるが、特段どこか動きにくさを感じることもなく、むしろ心地よいくらいだった。

「プロデューサー、どうかしら。何か、変なところあったりしない?」

このみはそう言いながら、体をひねるようにして、彼に背中を見せた。
彼は、じいっとこのみの衣装を見て、それからうなづいた。

「……うん、ばっちりです。このみさんによく似合っていて、とても素敵ですよ。」

「ウフフ、ありがと。美咲ちゃんにも、舞台の美術さんにも、お礼を言わないとよね。こんなに素敵な衣装を作ってもらったんだもの。」


衣装をひらひらと揺らすように、このみは小さくステップを踏んだ。
その足取りはかろやかで、動くたびに羽が舞うようだった。

「調子の方も、なんだか良さそうですね。」

「ええ。今日は晴れ舞台だもの。なんだか、いつもより体が軽いみたいよ。」

「それならよかったです。緊張して身体が全然動かない、ってなってたら大変でしたからね。」

彼は冗談めかすように、大げさに言ってみせた。
そんな彼を見て、このみはふと、自分がアイドルを始めたばかりの頃のことを思い出した。
ステージの前はいつだって不安で、どうすればいいのか分からなることだって少なくなかった。
でも、そんな時だって、プロデューサーはずっと一緒に居てくれた。
だからこそ、彼と今こうしてその頃のことを笑い話に出来ることが、ちょっぴり嬉しかった。
嬉しくて──少しだけ、それが寂しくもあった。
だからたまに、その気持ちに、気づいてほしくなる。


「……でも、今だって緊張してない訳じゃないのよ?」

このみは、身長差をもどかしく感じながら、意味ありげに見えるよう、そう言って微笑んだ。

「そうなんですか?」

「ええ。どれだけ練習しても、絶対に上手くいく保証なんて無いもの。不安な気持ちが全く無い、なんて言えば、嘘になるわ。」

それを言葉にした途端、じわりと実感がにじり寄ってきた。
もしも上手くいかなかったら。もしも失敗してしまったら。
やっぱり、不安な気持ちを全部無くすことなんて、できないのかもしれない。

「……でもね、プロデューサー。」


このみは、幕の隙間からステージの様子をちらりと見た。
劇場の仲間たちが堂々と歌を歌う様子を見て、胸の奥が逸るように音を立てた。
胸に手を当てて、このみはゆっくりと息をした。

「今はそれだけじゃなくて、早くみんなに今の私を見てもらいたいって思ってる。
 胸がどきどきして……。ステージに上がるのが、楽しみで仕方ないのかも。」

そう言ってこのみは、にっと笑った。
その笑顔は、ステージの上でないのが勿体ないくらい、眩しい素敵な笑顔だった。

「このみさんは今日の主役です。だから目一杯、このみさんのステージを見届けてもらいましょうね。」

「ええ!」


それから、二人は資料で本番のステージでの動きや立ち位置を確認していた。
二人が長い時間をかけて準備をしてきた、このみの大事なステージが、少しずつ近づいていた。

「もうそろそろ時間ね。……プロデューサー、行ってくるわね。」

次のこのみの直前待機の場所は、反対側の下手側だ。
大した距離はないものの、上手側の舞台袖を一旦出て、下手側の舞台袖に移動しなければならなかった。

「このみさん。」
彼はこのみの名を呼んだ。静かで、それでいて芯のある声だった。
このみの目を見つめて、彼は真っすぐに言う。

「このみさんが今日のこのソロのためにずっと努力してきたこと、俺は知ってます。……だから、大丈夫です。」

「……うん。ありがと、プロデューサー。」


手を伸ばして自分の資料を持った後、彼に「また後でね」と目で合図した。
彼が静かに返事をするのを見てから、このみは先ほどの扉の方へ歩き出した。

「……あ、そうそう。」

このみは数歩だけ歩いたところで立ち止まった。
それから、このみは後ろに手を回したまま体全体で振り返って、彼を見た。
このみの衣装の、鶴の尾を模した飾り布が、ふわりと舞った。

「プロデューサー。私のステージ、ここからちゃんと見ててね。」

このみはそう言って、小さくはにかんだ。

「ええ。もちろんです。目を離したりしませんよ。」

「ウフフ。よろしくね。」

それから、このみは駆け出していく。
彼女が扉をくぐるまでずっと、彼はその後ろ姿を見守っていた。



「プロデューサーさん。」

彼に声をかけたのは、徳川まつりだった。
まつりは先ほどステージを終えたばかりで、丁度彼のいる上手側の舞台袖に戻ってきていた。
水分補給をして休憩を取った後のようで、息もすっかり整っていた。

「さっきのこのみちゃん、とってもいい表情をしていたのです。」

まつりは彼のそばに来て、にこりと笑って言う。
彼は息を吐いて、ああ、そうだなと答えた。
それから少し間をおいて、彼はまつりに訊いた。

「もしかして、心配してくれてたのか?」

まつりは、彼の言葉に表情を変えなかった。

「ほ?このみちゃんは、とってもわんだほー!なステージを見せてくれるって、ずっとまつりは思ってたのです。
 ……心配なんて、してないのですよ?」

「……そっか、ありがとうな。」


彼がそう言ったところで、ステージが暗転した。
『待ちぼうけのLacrima』のステージが終わり、薄暗がりの中、麗花、ジュリア、紗代子の3人が戻ってきた。
舞台袖からステージを見ていた琴葉が、今にも泣き出してしまいそうな顔で、3人を出迎えた。

「……みんなのステージ、凄かったよ。歌声が重なって、融けていくみたいで……。私、なんだか涙が……。」

言葉を紡ぐたびに、ひとつ、ふたつと、琴葉の目から涙が零れていった。
3人は琴葉の様子に驚いて言葉を詰まらせたが、すぐに紗代子が琴葉に駆け寄った。

「琴葉さん、大丈夫ですか?……あの、私、タオル貰ってきますね!」

「あっ、紗代子。気にしないで、自分で行けるから……。」

琴葉が言い終える前に、紗代子は小走りで行ってしまった。
ジュリアは困ったように声を漏らして、頭をかいた。

「ええと、その、なんだ。……とにかく、どこか座ろうぜ。すぐサヨは戻ってくるだろうからさ。」

すぐ横にあった休憩スペースには、5脚ほどパイプ椅子が並んでいた。
ジュリアは、ああ疲れた、と零しながら、そこにどかっと腰を下ろした。

「うん、……そうだね。ありがとう。」


琴葉は、ジュリアの横にある椅子に向かおうとした。
しかし、その前に麗花に呼び止められた。

「ねえねえ、琴葉ちゃん。」

琴葉が麗花の声に振り向くと、すぐ目の前に、麗花が立っていた。

「……ぎゅーっ!」

「わっ、れ、麗花さん……?」

振り向いた途端に、麗花が琴葉に、ぎゅっと抱きついた。


「れ、レイ……。いや、あのな……。」

「あれ、琴葉ちゃん。もしかして、イヤだった?」

「い、いえ。全然、そんな事はないです!……ただ、ちょっとびっくりしちゃいました。」

「それなら良かった♪もう一回、ぎゅーっ!」

そんな麗花の無垢な声は、ステージが終わった直後の今も変わらず、あたりによく響いた。
彼と話していたまつりも、麗花たち3人を見て、そっと微笑んだ。

「なんだか、向こうが賑やかなのです。」

「んん、あれは賑やかというか、なんというか……。」

彼はそう言って、こめかみを指で掻いた。


このみの次のステージでは、演出の都合上、ハンドマイクではなく小さなピンマイクを用いることになっていた。
スタッフからピンマイクを着けてもらった後、このみは袖幕のすぐ裏側に来ていた。
舞台のすぐ脇に据え付けられたこの場所は、衝立と幕で他の区画と区切られていて、出番を直前に控えたアイドルの待機所として使われている。
舞台側の衝立には人が通れる程度の隙間が設けられていて、ここを通って舞台に出て行くことができるようになっている。

この場所は、ステージ本番に向け集中するのに丁度良い場所だった。
舞台袖は大勢のアイドルやスタッフが忙しなく行きかうが、この場所は程よく静かで落ち着いていた。
衝立の間から舞台上の様子を直接伺えることも、出番直前の気持ちを整えるのに都合が良かった。


待機所の中は数メートル四方程度の広さしかなく、詰めるようにしてパイプ椅子3脚と長机1脚が置かれている。
机の上には、アクセサリなどを入れておくための収納棚と小さな鏡が設けられていて、その横には公演で使うハンドマイクを置くためのケースが置かれていた。
マイクケースの内側には、マイクの形を象るようにウレタンが敷き詰められていて、マイクが10本程度収納できるようになっている。
マイクは上手側の舞台袖で全て管理しているのだが、下手側で出番が連続する場合などのために、下手側にもこのようなマイクの仮置き場が設けられている。
公演の終盤であることもあって、今はケースが空になっている。
対して,その隣に置かれた収納棚の中には、非常に多くのアクセサリ類が所狭しと収められている。
もちろん、この棚に劇場が所有するアクセサリ全てが入っている、という訳ではない。
普段の定期公演でよく用いるものだけ分けて、このように可搬式の棚で保管しているのだが、
所属するアイドルが多いため、それでもかなりの数になってしまうのである。


このみは、持ち込んだ資料で自分のステージの段取りを確認した後、机の上にある棚をそっと開けた。
そして、たった一つ、ブレスレットを取り出して、それを左手の上に乗せた。
何の変哲もない透明なガラス玉がついた、シンプルなものだった。
決して高価なものではないし、むしろアイドルがステージで付けるアクセサリとしては、いささか粗末なものだった。
しかしこのみにとっては、アイドルを始めた頃からずっと大事な日に着けてきた、大切なブレスレットだった。

今ではじりじりと照り付けるステージライトにすっかり焼けてしまったらしく、留め具の色は少し白っぽく変わってしまっていた。
長く使ってきたからなのか、ガラス玉の部分も指で押すとぐらぐらと揺れて、ともすれば外れてしまいそうになる。
このみはいつも、このブレスレットから勇気をもらってきた。
初めてアイドルとしてステージに立った時も、765プロの代表の一人として劇場の外で何万人の前で歌った時も──。


このみはしばらくブレスレットを眺めていた。
今日この日まで、本当にいろんなことがあった。
泣いたことも、笑ったことも。
──でも、その全部がいま、胸の中で宝石みたいにキラキラと光ってる。
そう思うと、胸の中のこの気持ちが愛おしくてたまらなかった。

イヤモニから、出番の1分前を知らせる声が聞こえてくる。
このみは、ブレスレットを戻そうとそっと棚を開けた。
しかし、ブレスレットを持つ手が、どうしても動かなかった。
手に取ったこの気持ちに蓋をして、また閉じ込めてしまうように思えて、胸の中がざわついた。


もう少しの間だけでも触れていたかったが、差し迫る時間は待ってはくれない。
仕方ないと割り切って、もともと入っていた場所に戻そうと、このみは手を動かした。
けれど、その手を引きとめるみたいに、このみの胸の中で声がした。

『私のステージ、ここからちゃんと見ててね。』

聞こえてきたのは、少し前に自分が言ったばかりの言葉だった。
きっとあの言葉は、彼だけに伝えたかった言葉ではなかったのだ。
『私の道を、ずっと近くで応援してくれた人』。
それは、劇場の仲間たちや、ファンの子たち、そして……。

「そうよね、あなたも……。」

胸の前に引き寄せて、このみはブレスレットを見つめて、呟いた。
そっと微笑んで、マイクケースのクッションの上に、優しくそっと置いた。

「ここから、私のこと見ててくれる?」


ケースの置かれた机のすぐ脇は、ステージへと出ていくための通路になっていて、そこから光溢れるステージへと袖幕の道が伸びていた。
光に導かれるように、このみは歩き出す。
5秒前のカウントが始まった。
このみは前を向いて、この道の上に立っていた。

ステージが暗転する直前──。
光に照らされたステージ越しに、上手の舞台袖の様子が見えた。
そこには、このみのプロデューサーが立っていた。
そしてその隣には、まつりや莉緒、春香たち──すぐには数えられないほどたくさんの劇場の仲間たちが居て、ステージ越しにこのみのことを見つめていた。


先程まで舞台に立っていたばかりのアクアリウスの3人も、そこにはいた。
どういう訳か、麗花は体の前で琴葉を抱えている。
麗花は、後ろからひょっこり顔を出して、このみに手を振っていた。

一方で、麗花の腕の中にいる琴葉は、タオルを顔の前でぎゅっと抱いていた。
反対側で距離があることもあって、このみからは目元まではっきりとは見えなかったが、どうやら大丈夫そうだった。
琴葉は、顔を上げて、このみをじっと見ていた。

このみは、大勢の仲間たちが自分のステージを待ってくれていたなんて、想像だってしていなかった。
驚いて、思わずこのみはプロデューサーを見た。
それに気づいた彼は、ただ笑って、ぐっと親指を立てた。

「もうっ……。」

仲間たちが私のことを見守ってくれている。
それだけで、胸が暖かくなった。


これから歌うのは、鶴の物語。
深く雪降る世界で、鶴が人間として青年と共に過ごした日々。
そして、最後に鶴が決めた、一つの選択。

大切な人との別れは誰だって寂しくて、辛くなってしまうもの。
……だけど、そんな寂しい気持ちも、不安な気持ちも、全部吹き飛ばしてしまうくらいに。
堂々と胸を張って、最高の私を届けよう。

それが、私の選んだ道だから。
それこそが『アイドル』馬場このみの夢だから。

舞い上がる歓声とともに、ステージの照明が一斉に暗転する。
このみは、舞台の上へと、歩き出した。


びゅうびゅうと風が雪を叩きつける音が、響いていた。
白いピンスポットが暗転したステージの下手端に投げかけられて、このみを照らしだした。
このみの膝くらいの高さまでスモークが焚かれていて、舞台はまるで雪で埋め尽くされたように染まってしまっていた。
凍えてしまわぬようにと、このみはぎゅうと腕を抱えた。
身を小さくしながら、このみは一歩、一歩と歩いて行く。
足取りはどこかおぼつかず、深く降り積もった雪に足を取られているように見えた。
このみが脚を動かすたびに、小さく雪を踏みしめる音がした。

歩みを進めるごとに、足元に積もった雪の量は多くなっていくようだった。
中央近くまで歩いたところで、このみの膝ががくんと折れて、白いスモークが舞い上がった。
白い衣を身にまとったこのみは、スモークに隠れてしまいそうだった。
このみは膝をついたまま、雪の冷たさで赤くなった手をいたわるように、手のひらを重ねて白く染まる息を吹きかけた。


そのとき、このみの目の前に薄桃色の光が照らし出された。
このみはその光を見てゆっくりと顔を上げた。
桃色の光はスモークで散乱して、まるでこのみの目の前に誰か立っているように見えた。

「あなたは──。」

このみは、震える手をゆっくりと伸ばした。
その指先が桃色の光に近づいていく。
このみがその光に触れたとき、ばつん、と音を立てて世界は暗転した。
辺りは静寂に包まれた。


光が戻ったとき、このみは白い光に照らされてステージの中央に立っていた。
このみが目を開けると、その先にはこのみをじっと見つめる眼差しがあった。
ペンライトを胸の前で抱えて、祈り見守るような、そんな人たちをこのみは見た。

胸がどきどきと音を鳴らす。
あの時触れた気持ちも、あの日から抱えてきた想いも、これまで過ごしてきた日々も。
きっと全部、今日この日に繋がっていた。

背中越しに、熱を感じる。
劇場の仲間たちが、今も舞台袖から見ていてくれる。
暖かくて、眩しくて。


目の前には、ファンのみんなが居てくれる。
ずっと近くに居てくれた大切な貴方へ、届けたい言葉があるの。
新しい場所へ向かう私を、安心して送り出してもらえるように。
貴方が見つけてくれた私が、最高のアイドルだったと、胸を張って言ってもらえるように。
出会えてよかったと、心から思ってもらえるように。
私は、今の私で、目一杯胸を張るから。
──だから、私の『晴れ舞台』を、見守っていてね。

耳元から、秒読みが聞こえる。

この歌は、アイドルになった私が初めて出会った歌だから。
貴方に届けたいと、初めて願った歌だから。
今の私の全部で、この歌を。

カウントに合わせて、このみは息を吸い込んだ。


『love song のようにきらめき
 love song のようにときめき』

雪のように真っ白な、無垢の光の中でこのみは歌う。
鶴が青年に初めて出会ったときのように、大切な場所を照らし出してくれた、暖かな光だった。
この子が恋をした、眩しさも、胸の高鳴りも、全部を歌に乗せて──。

『想えば想うほど恋しいよ』

ロングトーンに合わせるように、小指を立てて、身体の前でゆっくりと掲げた。

このみの目の前には、桃色の景色が広がっていた。
このみの伸ばした指先に応えるみたいに、サイリウムの光たちも、真っ直ぐ上を向いていた。
その先に、みんなの顔が見えた。
みんなの声が聞こえてくる。
涙が出そうになって、そっと微笑んだ。


この歌『dear...』は、大切な人とすれ違ってしまって、自分の気持ちを伝えられずにいる……切なくて、とても悲しい歌。
自分の気持ちに気が付かなかった頃と違って、もうこの気持ちに出逢ってしまったから。
貴方に気持ちを伝えて、叶わぬ恋だと突きつけられてしまうのが怖くて。
──伸ばした手が、相手に届かなかったのなら。
そんな事ばかり考えてしまって、この子は、大切な人に本当のことを言えなかった。

『きっと明日にはまた きっと笑っていられる』

だからそうやって、自分に言い聞かせて、強がっていた。
傷つくのが怖くて、本当の自分を隠して、自分じゃない誰かの気持ちで塗り固めて、自分の身を守ってた。


『夢でもいい 叶えてよ』

でも、きっと本当は分かっていた。
このままの自分だと、大切な人が見つけてくれた自分を、誇りに思えない。
胸を張って、大好きな貴方に、思いを伝えられない、って。

悩んで、迷って、苦しくて……。
何が自分の気持ちか分からなくなることもあったよね。

でも、胸の奥底にあった、たった一つの言葉だけは、本当の自分の気持ちだった。
それは、ずっと変わらない、貴方へ届けたい想い。

『誰よりも好きみたい──。』


このみの歌声だけを残して、すべての音が消えた。
舞台を彩る照明も、気づけばたった一つだけになっていた。
舞台の真上にある、スポットライトだけがこのみを照らしていた。

辺りに降り積もった雪に吸い込まれてしまったみたいに、静かだった。
誰もが、舞台上のこのみと自分の二人だけを残して、時間が止まったように感じた。

「……ねぇ、聞いてくれる?」

音のない世界の中で、このみは大切な人に語り掛けるように言った。
その瞳は微かに潤んでいて、慈しみと優しさに溢れていた。
このみは、両手を胸に当てた。

「あの雪の日──。あなたと最初に出逢った日のこと、私は今でも昨日のことみたいに覚えてる。」


劇場の客席から、このみを見つめる目線が、いくつもあった。

20代後半くらいの、リストバンドを手首に一つだけ付けた、若い男がいた。
男はペンライトを胸の前で握ったままで、舞台に立つこのみをじっと見ていた。
高校生くらいの、眼鏡をかけた少年がいた。
少年は、ペンライトを小さく揺らしたままで、動けなかった。
このみと丁度同じ年代くらいの、首に小さな首飾りを付けた、女性がいた。
彼女は、鼻と口のあたりを手で押さえながら、赤く腫らした目を必死に開けて、前を見ていた。

年齢も性別も、様々だった。
それだけでなく、きっと彼らがそれまで過ごしてきた環境、日々だって、一人一人で全然違うだろう。
しかし彼らは、今こうしてこの場所に居た。
数えきれないものの中から、この小さな劇場を見つけて。
何十億人の中から、たった一人を見つけて。
──彼らは、舞台の上の、このみだけを見つめていた。


このみは、ゆっくりと目を閉じた。
胸に置いた手のひらを通じて、どきどきと鼓動が高鳴るのがわかった。
そして、このみはそっと目を開いて、前を見た。

「本当は私……。あの日からずっと、貴方に伝えたいことがあったの。」

サイリウムの光が、かすかに揺れた。

「私、貴方のことが──。」


ある時、息を吸う音がした。
止まっていた時間が、もう一度動き出した。

『love song のようにきらめき
 love song のようにときめき』

心の中を吐露するように、静かで繊細なピアノの音に乗せてこのみは歌う。
このみが声を紡ぐたびに、少しずつ音と光は増えていった。
音はこのみの鼓動を乗せて、ステージから客席へと伝わっていく。
溢れた光は暖かくて、この空間を優しく包み込んでいくみたいだった。

『──想えば想うほど恋しいよ』

桃色の光たちの向こう側には、大切な人がいてくれる。
ねえ、貴方の声は届いていたんだよ。
このみは、そっと微笑んだ。


これが、最後のサビ。
この暖かな世界も、もうすぐ終わってしまう。
……でも、大丈夫。
貴方にこの想いを伝えられたから。
だから今は、貴方が誇れる私で、目一杯この瞬間を大切な貴方と。

『love song 感じていたいの
 ずっと見つめていたいの』

『想えば想うほど恋しいよ』

暖かくて、優しい光の海が、目の前に広がっている。
ありがとう、私をここまで連れてきてくれて。
私は、大切な貴方が愛してくれた私で、これからも歩いていく。
……ねえ、貴方と出逢えたから、今の私は此処に居るんだよ。

『想えば想うほど愛しいよ──。』


「──もう行かなくちゃ。本当の姿を知られてしまったら、私はもう此処には居られないの。」

暗がりの舞台の上で、たった一つのスポットライトに照らされて、このみは呟くように言った。
あの音と光の溢れた世界は、もうここにはなかった。
このみは目を瞑って、胸に手を当てた。
それから、手をぎゅっと握って、前を向いた。
このみの目の先には、大切な人たちが居た。

「でも。この気持ちを貴方に伝えられて……本当に良かった。」

その目は、優しかった。
愛しさも、寂しさも、切なさも……全部湛えて、その瞳は濡れていた。

「ずっと言えなくて、ごめんなさい。……今まで、ありがとう。」


吹いていた冷たい風は、もう止んでいた。
このみは上手側へ、ゆっくりと歩き出した。
白く染まった地面を歩くたびに、雪を踏む音が響いた。

いくつものスポットライトが舞台の上に投げかけられて、このみの進む先を照らしだした。
このみは、ただ前を向いて、足跡を残しながらその道の上を歩いていく。

このみがふと後ろを振りむくと、舞台の中央は桃色の光で溢れていた。
そして、その桃色の光から自分の足元まで、ずっと足跡が続いていた。
このみは、再び歩き出した。

翼を凍えさせるほど冷たかった風も、もう止んでいた。
このみは胸の前に手をやって、顔を上げて、一歩ずつ進んでいく。


気が付けば、音が、声が聞こえていた。
割れそうなほど大きな、たくさんの声が、客席から聞こえてきた。
このみは、前を向いたままだった。
しかし、それが自分を見守ってくれた人たちの声だと、確かに分かった。

たくさんの声が溢れるなかで、舞台の照明がすべて落とされた。
それでも、客席から届く声は止まなかった。


照明の落ちた舞台の上で振り向いたまま、動けなかった。
このみには、名前を呼ぶ声が、確かに聞こえた。
あの子の名前を呼んでくれる声も、私の名前を呼んでくれる声も。
それが一番嬉しくて、頬に涙が伝うのが分かった。



ステージの上に照明が一斉に灯るのを、このみは薄暗がりの舞台袖からただ見ていた。
そこには、このみ以外の、大勢の劇場のアイドルたちが立っていた。

このみのソロ──最終ブロックの最後の曲──を終え、この公演も終わりが近づいていた。
ステージ上ではMCが行われていて、このブロックで披露された曲を、順に振り返っていた。
ソロを終えたこのみは、MC組と入れ替わるように、上手側の舞台袖に戻っていた。

このみは、今は衣装スタッフと合流していて、衣装の下に取り付けたピンマイクと無線の送信機を取り外してもらっている。
今も先程のステージの余韻が残っていて、鼓動がずっと高まったままだった。
胸に手を当てゆっくり息をしながら、このみは仲間たちが立つステージを優しく見つめていた。


スタッフからマイクの取り外しが終わった旨の報告を受けて、このみの意識は舞台袖に戻ってきた。
このみはお礼を言い、彼女と別れた。
その場でふと辺りを見回すと、このみのプロデューサーがすぐそばにいた。
顔を見れば、彼は敢えて声をかけないでいてくれたんだと、このみには分かった。

「このみさん。……お疲れ様でした。」

「プロデューサー。」

薄暗がりの舞台袖でも、彼の目元が赤くなっているのがわかった。
今の自分も、彼のように赤くなってしまっているかもしれない。
そう思ってこのみは、目をぎゅっと瞑って、瞬きをした。


このみは、ゆっくり目を開けた。
目の前の彼に、そっと訊いた。

「その……。私のステージ、どうだったかしら?」

その答えは、彼の表情を見れば明らかだった。
それでもこのみは、あえて言葉にして、彼に尋ねた。

彼はまた、今にも涙を流してしまいそうだった。

「いい、ステージでした。今日見た『dear...』の景色を、歓声を……このみさんの姿を。俺は、絶対に忘れません……っ。」

彼は言葉を詰まらせながら、声を潤ませて答えた。
このみは、そんな彼の返事に、目元に熱が上っていくのを感じた。


「でも、まだ……。今日の公演は、終わってません。……そうですよね?」

彼は、言葉を飲み込んで、溢れる気持ちを抑えるようにして、そう続けた。
彼は涙を拭きながら、このみにあるものを差し出した。
それは、ハンドマイクだった。
イメージカラーである桃色のシールが小さく張られた、このみのハンドマイク。
このみは右手を伸ばして、そっと受け取った。
マイクを握って、このみは小さく笑った。

「……ええ、もちろんよ。仲間のみんなにも、ファンのみんなにも。みんなに、会いに行かなくちゃよね!」

このみはそこから、ステージを見た。
ぱあっと、視界が明るくなる。
ステージライトが眩しかった。


「あれあれ?誰かひとり、足りませんなあ?」

「お。もう、準備もできてるみたいだな。じゃあ、せーので呼んでみようぜ!」

ステージから、声が聞こえてくる。

「真美ちゃん……。昴ちゃん……。」

真美の隣の亜美は、こちらに手まで振ってしまっている。
まったくもう、とこのみは思いつつも、亜美に手を振って返した。

このみは、プロデューサーを見た。
彼は、大きくうなづいた。


「皆さん、準備はいいですよね?みんなでいきますよー!」

客席のみんなを指さして、未来が大きな声で言う。
歓声が上がって、サイリウムが揺れた。

「せーのっ!」

未来のかけ声に合わせて、客席がぱあっと明るく照らされた。
ステージから、客席から、このみの名前を呼ぶ大きな声が聞こえてきた。
声を届けてくれる一人一人の顔が、舞台袖にいたこのみにも、はっきりと見えた。
声に応えるように、薄暗がりの舞台袖から光あるステージの上へと、このみは飛び出していく。

「みんな、ありがとう!このみお姉さんよー!!」

客席のみんなから、歓声が上がる。
自分を待ってくれたみんなのもとへと、このみは駆けていく。
このみが袖を揺らして目一杯に手を振ると、それに合わせてサイリウムの一つ一つが大きく揺れた。
その景色は、このみが思い描いてたものよりも、ずっと綺麗で、ずっと暖かかった。


このみは、大勢の仲間たちとともににステージの真ん中に立っていた。
このみがちらりと後ろを見れば、そこにはまつりや莉緒が居て、二人と目が合った。
そして、両隣を見れば歩と星梨花たちが居て、ステージの上のアイドルたちみんなが、マイクを持つこのみを見つめていた。
このみは目の前の客席に居る人たちを見て、胸が音を鳴らすのを感じながら、それからそっと口を開いた。

「改めまして、私のソロ曲『dear...』を聞いていただきました。……どうだったかしら?」

客席から溢れたたくさんの音が集まって一つになって、歓声と拍手の音が劇場中に響いた。
目の前には桃色のサイリウムの波が、優しく揺れていた。
歓声はしばらく止まなかった。
このみの目の前に広がる光景が、『dear...』の最後に見た景色と重なって、このみは胸の奥が熱くなるのを感じた。
このみは胸に手を当てて、ゆっくり息をした。
少しの間のあと、このみは前を向いて、静かに話し始めた。


「事前に知ってくれていた人もいるけれど、さっき聞いてもらった『dear...』の演出は、
 私が出演する舞台の物語を表現したものなの。
 凍える雪の中で『鶴』が青年と出会って、そして『鶴』が人間として過ごした日々……。
 それを、感じてもらえたのなら、本当にうれしいわ。」

客席にはライトが照らされていて、ステージの上からでも一人一人の顔がよく見えた。
このみが言葉を紡ぐたびに、客席のところどころでサイリウムの光が揺れるのが分かった。


このみは、自分の中の気持ちを切り替えるように、深く息を吸い込んだ。
息を吐いて、ゆっくり目を開けた。

「……私、この舞台のお話を貰ったとき、色々なことを考えたの。
 私にとって『アイドル』って何だろう、って。
 自分なりに悩んで、考えて……それで、この役を演じることを決めたの。」

このみは思い返すようにそう言った。
『自分を見つけてくれた大切なひとたちに、胸を張って前に進んでいく姿を見てほしい』。
それこそが、今のこのみが選んだ道だ。
このみにとって、『鶴』の舞台の仕事は、挑戦だった。
何もかもが手探りで、悩むことだって多かった。
それでも前を向いていられたのは、大切な人が居たからだった。


「……私がしばらくの間アイドル活動をお休みすることは、もう、みんな聞いてるのよね。」

その問いには、客席の誰も答えられなかった。
最終ブロックが終わった今、これが最後のときなんだと、誰もが気づいていた。

「今回の公演は、アイドル馬場このみにとって大きな節目……そんな、特別な公演。
 だから、いろんなことを考えて、今こうしてこの場所に立っています。」

このみは、目の前の景色を見ながら、アイドルを始めたばかりの頃を思い返していた。
アイドル活動の中で、楽しい事や嬉しい事がたくさんあった。
そして、それ以上に、悲しかった事、悔しかった事、折れそうになった事もあった。
そんなとき勇気をくれたのは、『憧れ』だった。

でも、今の私の胸にあるのはもう、それだけじゃない。
アイドルになる以前も、アイドルになってからも……本当にたくさんのものと出逢ってきた。
今さっき歌った『dear...』もその一つ──アイドルになって初めて貰った、アイドル馬場このみの初めての曲。
その後『水中キャンディ』と出逢って、今の私には『To...』だってある。
それだけでなくて、初めてのライブの日の事も、武道館でライブした事も。
『屋根裏の道化師』も、『鶴』の舞台も……そして今のこの公演も。
出逢った全てが、今の私に繋がっている。


『そんな私が今まで出逢ってきた全てを表現したい』
今回の公演は、それを胸に臨んだ公演だった。
だから、今この場所で伝えたい言葉はもう、決まっていた。
ずっと胸の中にひそめていた、一番大切な、かけがえのない出逢い。
それは──。

「私、この劇場が私にとって凄く大切な場所なんだって、気づいたの。
 こうして大切な仲間たちが、隣に居てくれて。
 そしていつだって、こうして大切なファンのみんなに会える。
 こんなに暖かくて、今までずっとみんなに勇気をもらってきたんだ、って。」

サイリウムの景色が力をくれたんじゃなかった。
その光の先に、応援してくれた人がいたから、今の自分がここに居るんだ。
このみは、明るく照らされた客席を抱いていた。


「だから、今は……。」

このみは、目線が下がったのが、自分でも分かった。
このみの胸の中は、溢れる出逢いの愛しさと、それでも少しずつにじり寄ってくる別れの切なさとが、ない交ぜになったようだった。
その気持ちは、相手を大切に想っているからこそなんだと、このみは思った。

「正直、みんなと会えなくなる事が……、本当に、寂しい。」

客席の人々が、ざわついた。
その中で、このみは大切な人を探した。
若い男も、首飾りをつけた女性も、眼鏡をかけた少年も──。
彼らが、桃色の光を胸の前で抱えたままで、声を出せずにいるのを、このみはステージの上から見つけた。
その表情は、今にも泣き出してしまいそうだった。
そんな彼らを見て、丁度今の自分も彼らと同じような顔をしているんだと、このみは分かった。


この気持ちを口にする事は、少しだけ怖かった。
今までだったら、きっとこんな言葉を言えなかった。
言葉にする事で、この先本当にずっと会えなくなってしまうような気がして、ずっと飲み込んでいたんだと思う。

「──だけど!」

だけど、もう大丈夫。
今の私は、本当に伝えたい言葉を声にする事ができるから。

「私はこの劇場の……765プロの、『アイドル』だから!」

このみは、劇場にいる全員に届くように、目一杯声を上げてそう誓った。
届けたい大切な人が、笑っていられるように。
大切な人に、自分のことを安心して送り出してもらえるように──このみは前を向いた。


「今日よりもっとステキになった私で、いつだってこのステージに戻ってくる。」

桃色の光越しに、大切な人の顔が見える。
貴方の声は、私に届いてるよ。
これからもずっと、貴方と一緒に、歩いていくから。
胸を張って、貴方が誇れるそんな私でいるから。
だから──。

「……だから、私がまたこのステージの上に帰って来たときに……。『おかえりなさい』って、言ってくれる?」


直後、劇場全体が揺れてしまいそうなほど、大きな歓声がこのみの耳に飛び込んできた。
桃色の光が大きく揺れて、ぱあっと目の前が明るくなった。

声が、届いた気がした。
この場所から見える景色は、何度見ても眩しくて、綺麗だった。
もしも離れたって、絶対にこの場所でまた逢えるって信じてる。
想うほどに愛しくて、この場所があるからこそ、いつだって自分がこの場所に戻ってこれるんだ、と心の底からそう思った。

「ありがとう、みんな! 今日よりステキな、最高の私を見せるから、また劇場で会いましょうね! 約束よ♪」

溢れる歓声の中で、このみはその小さな体で、目一杯大きく手を振った。
衣装の袖が揺れて、そのたびにサイリウムの波間が光った。


また涙が零れそうになるのをこらえて、このみは笑ってみせた。
最後だからこそ、みんなで、笑って。
このみはステージの上で並び立つ、仲間たちを見た。
仲間たちと目が合って、準備はできているよと、みんなうなづいて返してくれた。

「みんなで楽しく! 最後の曲も、目一杯盛り上がりましょうね!」

このみの掛け声に合わせて、みんな一斉に声をそろえた。
劇場のアイドルたち全員で──そして、ファンのみんなも、一緒に!

『Brand New Theater!』

***

公演を終えたアイドルたちはいま、劇場の控え室に集まっていた。
このみは一番前に立って、他のアイドルたちと向き合っていた。
今のこのみの手の中にはグラスがあって、その中には白い泡の立ったビールがなみなみと注がれていた。

「──みんながいてくれたから、こんなに素敵な公演に出来たと思ってるわ。本当にありがとう。」

このみはぐるっと部屋を見渡した。
いつもの控え室だけど、部屋いっぱいで、ぎゅうぎゅうになるくらいに、みんなが集まっている。
そんな不思議な状況を見て、さっきまでの公演は夢じゃないんだと、このみは改めて実感した。

「みんな、飲み物の準備はいいかしら? それじゃあ、かんぱーい!」

かんぱーい!というみんなの声とともに、沢山のグラスが重なる音が部屋中に響いた。


机には簡単な食事や飲み物、菓子類が並んでいる。
定期公演の後の打ち上げは毎回恒例になっていて、今日も控え室にはこうして公演に参加した大勢のアイドルたちが集まっていた。
毎回のことではあるが、人数が人数だけに今日も控え室は満杯で、移動ですれ違うのも一苦労なほどだった。

やはり何と言っても、話題は公演のことが多かった。
特にこのみは今回センターを務めたこともあって、声をかけられっぱなしだった。

「このみちゃん、お疲れーっ! すっごく良かったよ!」

「馬場さん。センター公演、お疲れさまでした。とても素敵なステージでした。」

「海美ちゃんに、紬ちゃん。ウフフ、二人とも、ありがとう。」

落ち着いた様子の紬に対して、海美は公演のときの気持ちの高まりが今も残っていて、まだまだ元気が有り余っているようだった。
対照的な二人だが、二人ともこうして、素直な言葉で気持ちを伝えてくれる。
それが、このみにはちょっとだけ照れくさくて、嬉しかった。


気が付けば三人の話は、『dear...』のステージの話になっていた。

「あの和服の衣装のこのみちゃん、すっごく綺麗だった! うう~っ、私もああいう衣装、着てみたいなあ。」

海美が羨ましそうな声で、言った。

「あら、海美ちゃんならきっと似合うと思うわよ? 海美ちゃん、いつも姿勢が綺麗だもの。」

こうして立ち話をしていても、彼女の姿勢の良さがわかった。
一本の糸で天から吊られているみたいに、とよく言うが、彼女の立ち姿はまさしくその例えの通りだな、とこのみは思った。
舞台の稽古や、今日の『dear...』のときは、姿勢を意識してずっと気を張っていなければならず、本当に大変だった。
気を抜くと、すぐ猫背気味になってしまうこのみとしては、それが少し羨ましかった。


「ええ。私もそう思います。和装の着姿の美しさは、姿勢の美しさから、とも言うくらいですから。」

「えへへ、そうかな? なんか、照れちゃうね。」

紬の言葉に、海美は頬を掻いた。
このみが思い返す限りでは、彼女がステージ衣装として和服のような落ち着いた雰囲気の衣装を着てるところは、今まで見たことがなかった。
普段の快活な彼女らしく、動きやすくて、ダンスが映えそうな衣装のイメージが強かった。
和服を着たら海美ちゃんもお人形さんみたくなっちゃうのかしら、なんてこのみは想像したりしたのだが……。

「ようし、それじゃあ、さっそくプロデューサーにお願いしてくる! このみちゃん、また後でね!」

このみが声をかける間もなく、海美はあっという間に飛んで行ってしまった。
それが少しおかしく感じて、このみはくすりと笑った。

「あら、海美ちゃん、もう行っちゃったわね……。」


たくさんの人の波の向こうで、プロデューサーに話しかけている海美の姿が見えた。
身振り手振りを大きく使って説明している様子が微笑ましかった。
このみが紬の方に視線を戻すと、紬がじっと此方を見ていたらしく、目が合った。

「紬ちゃん?」

このみが声をかけると、ただ一言、紬が呟くように零した。

「……不思議です。」

このみは、その言葉の意味を考えたが、特段何か思い当たるようなものはなかった。
頭の上に疑問符を浮かべていると、紬が声を詰まらせながら、言う。

「いえ、その……。」

このみは紬の様子が、自分の気持ちを上手く言い表す言葉が見つからず、答えあぐねているように見えた。


「大丈夫よ、紬ちゃん。」

このみがそう言うと、紬は少し驚いたようだった。
少しの間の後に紬は微笑んで、それからゆっくりと話し始めた。

「……今日の公演が始まる前は、馬場さんがどこか遠くに行ってしまうような、そんな気がしていました。
 ただ、今馬場さんのお顔を見たら……。なんだか、安心してしまって。」

このみは、胸の奥がきゅうとなるのが分かった。
顔に出てしまいそうになるのを抑えて、このみは答えた。

「ウフフ、そう思ってくれたなら、嬉しいわ。
 しばらくは劇場に来れなくなっちゃうけど……。また一緒に、ステージに立ちましょうね。」

「……はい。その日が来る事を、心待ちにしています。」

このみと紬は、互いに笑い合った。
少しだけくすぐったくて、なんだか心地よかった。



二人で何でもない話をして、それからこのみは、紬と別れた。
このみが紙皿と箸を片手に歩いていると、後ろから、湿っぽく沈んだような声が聞こえてきた。

「このみ姉さん……。」

このみのことを、姉さん、と呼ぶのは、一人しかいない。
このみは息を吐いてから、自分を呼ぶ莉緒の方を振り向こうとした。
しかしそれより先に、自分の背中全体が包まれるような感覚があって、それからすぐ、腰まわりがぎゅっと締め付けられた。
このみの肩のそばに、何かが乗るような感覚があった。
このみの束ねた髪の上に、明るい茶色をした長い髪がぱらぱらと流れた。

「もう、莉緒ちゃん。急にどうしたの?」

後ろから莉緒に抱きしめられたまま、このみはそっと首だけ莉緒の方を向いて、そう言った。
返事はなかった。
髪に隠れて、莉緒の表情は見えなかった。
莉緒の腕にぎゅっと力が入ったのが、このみにはわかった。


「莉緒ちゃん……。」

このみはどう声を掛けていいのか分からなかった。
このみが出来ることは、空いたままの手で、莉緒の手をそっと握ってあげる事くらいだった。
莉緒の指先は冷たかった。
思わずこのみは、莉緒の手をぎゅっと握った。


あるとき、このみの手に、何か硬いものが触れた。
莉緒が手に何かを持っているのだと分かった。
それは表面が少し水で濡れていて、冷たかった。

このみはゆっくりと目線を下げて、莉緒の手の中にあるものを見た。
──それは、丁度いい塩梅に冷やされた、四合瓶の日本酒だった。

「……風花ちゃん、プロデューサーくん! このみ姉さん確保したわよ!」

「……え? ちょ、ちょっと、莉緒ちゃん!?」

気づけば、がっちりと腰を抑えられてしまっていた。
慌てて抜け出そうとこのみは抵抗を試みるが、小柄なこのみの体格ではなすすべもなかった。
ふと莉緒を見れば、顔がほんのりと紅潮していているのが分かった。


ふと部屋を見渡せば、部屋の反対側の端のローテーブルに、風花とこのみのプロデューサーの二人が座っているのが見えた。
先ほどまで酒盛りが行われていたらしく、テーブルの上には缶のビールやらおつまみの乾きものやらが乱雑に並んでいた。
プロデューサーはアルコールは飲んでいないようだったが、風花は莉緒と同じように、既にお酒が大分入っているようだった。
風花は、このみの捕獲に成功した莉緒をたたえるように、ぱちぱちと手を叩いていた。

風花に助けを求めることを早々に諦めたこのみは、一縷の望みをかけて、その隣に座っているプロデューサーの方を見た。
すると、このみのプロデューサーは、このみと目が合ったことに気づいて、グラスを持つ手を止めた。
そして、彼はこのみに向かって、会場は此処ですよと言わんばかりに大きく手を振った。
それを見て、このみは思わず彼に、そうじゃないでしょ、とツッコみそうになる。
しかし、彼が手を振りながら、子どもみたいに楽しそうな笑顔を浮かべるので、このみはなんだか気抜けしてしまった。
このみは、もうこの運命から逃れられないのだなと悟って、そっと笑った。
結局、このみはその体勢のままで、莉緒にテーブルまで連行されたのだった。


「風花ちゃーん、このみ姉さん捕まえてきたわよー。」

「わー。」

莉緒と風花の二人が、そんな締まりのないやり取りをする。
テーブルでは、このみが莉緒に連れられている間に、このみを出迎える準備が行われていたらしかった。
空いた缶やおつまみの袋が脇に固められていて、今は御猪口が3つだけテーブルの真ん中に並んでいる。
プロデューサーは、莉緒から日本酒を受け取って、ゆっくり御猪口に注いでいく。
そして、このみ、莉緒、風花の順で、御猪口を手渡した。


「あら。もしかして、プロデューサーは飲まないの?」

「ええ、まあ。……だから、俺はこれで。」

彼は水の入ったコップを少しだけ持ち上げた。

「プロデューサーくん、だめよ。そんなんじゃ全然雰囲気がでないじゃない。」

「そう言われてもな……。」

そんな彼の返事をよそに、莉緒は傍にある棚から新しい御猪口を出してくる。
莉緒と風花の二人が、彼にあの手この手で御猪口を握らせようとするのを、このみは横で見ていた。


今もそうであるが、公演の打ち上げのとき、彼は時々こうしてお酒を控えることがあった。
そして、そういう時に限ってこのみたちの誰かが酔い潰れたりして、結局プロデューサーに車で送ってもらうことになる、なんて事もよくあった。
このみは、彼がお酒を飲まないときは、自分達が安心をして、それで飲みすぎてしまうのだろうと思っていた。
けれど、二人の手の内をのらりくらりと躱し続ける彼を見て、このみはきっとそれだけじゃないのだと直感した。
彼は何も言わないけど、彼がこうしてお酒を飲もうとしないのはきっと、今日くらいは思いっきり羽目を外しても大丈夫、という彼なりの優しさなんだ、と。

その彼の気遣いが、このみはちょっぴり嬉しかった。
ただ、自分たち3人が御猪口で日本酒を飲みかわすのに、彼だけグラスで水を、というのは少し気が引けた。
どこか、彼を置いて行ってしまうような気がして、嫌だった。
とはいえ、これ以上無理に勧めることも、彼の好意を無下にしてしまう。
このみは、行き違う二つの気持ちの間で、どうすべきなのかと思いをめぐらした。


ふと彼の方を向いたとき、ミネラルウォーターのペットボトルが目に入った。
それを見て、このみは閃いた。

「ねえ、莉緒ちゃん。その御猪口貸してくれる?」

「……? 姉さん、どうかしたの?」

莉緒はぴたりと手を止めた。
疑問符を浮かべながらも、莉緒はそのままこのみに御猪口を渡した。
このみは、彼を見た。
そして、このみはプロデューサーの手を取って、その手に御猪口を握らせた。

当のこのみがそうするとは、彼も露程にも思わなかったようだった。
彼は目を丸くしながら、なされるがままに御猪口を受け取ってしまった。

「このみさん……?」


思わず、彼はそう言葉を漏らした。
彼は、今のこの状況を掴めないといったふうに、自分の手に握られた御猪口とこのみを、交互に見た。
それから風花が、このみさんからだったら受け取るんですね、と小さく零したところで、彼ははたと我に返った。
すっかり拗ねてしまった風花を彼がなだめすかしている間に、このみは目一杯ぴんと腕を伸ばして、テーブルの奥にあるミネラルウォーターを手に取った。
このみは小さく息を吐いてから、ペットボトルの蓋を開けながら彼に言った。

「ねえ、プロデューサー。これなら大丈夫。でしょ?」


彼と風花は、そこで問答を止めて、二人一緒にこのみを見た。
彼は驚きながらも、ようやく合点がいったという様子だった。
このみは、彼の御猪口にミネラルウォーターを注いでいく。
例え水でも、こうして御猪口の中に注いでしまえば、日本酒とそれほど区別がつかない。
彼が手の中で御猪口を軽く揺らすのを見て、莉緒も風花も、おお、と声を漏らした。

「あっ。これなら、みんなで乾杯できますね。」

風花は、いつの間にか拗ねモードから戻ってきていたらしかった。

「このみさん。ありがとうございます。」

「あら、いいのよ。私もプロデューサーと一緒に、乾杯したかったもの。」


これではれて、全員分の飲み物の準備ができた。
全員が自分の御猪口を持ったところで、莉緒がこのみたちをぐるっと見回した。
冗談めかして、こほん、と咳ばらいをするふりをしてから、莉緒は話し出した。

このみは思い返す。
公演のたびに、こうしてお酒で乾杯した。
明日から少しの間、劇場から離れてしまうけれど、それも私が選んだ道だ。

「──このみ姉さんのセンター公演の成功を祝して。そして、姉さんの舞台の成功を祈って……。」

こうして、背中を押してくれる人がいてくれるから、きっと私は踏み出せたんだ。
だから今日は、目一杯楽しもう。
これからもみんなと一緒に、私が進んでいくために!

「かんぱーい!」


朝方の厳しかった冷え込みもいつしか緩やかになっていて、また一つ季節がめぐり始めた。
三月の半ばの、とある日曜日。
今日の日もまた、光と音が劇場中に響き渡っていた。
観客席に居る、多くの劇場のファンたちが、光り輝くアイドルたちのステージを目撃していた。

今日の定期公演は、少しずつ暖かくなってきたこの頃らしく、「花」がテーマになっている。
劇場という一つの場所に溢れるたくさんの声や光たちを浴びて、アイドル達は成長していく。
それぞれが自分だけの色の花を咲かせて、みんなで一つの大きな花束になって、様々な想いをのせて大切な人へ届けよう。
そんな意味が込められている。


この日は、このみの復帰後初めての公演だった。
久々に腕を通したステージ衣装だったが、不思議と体に馴染んで、心が躍ったのがこのみ自身にもよくわかった。
『ピーチフルール』という名前の付いたこの衣装は、桃色が基調となったドレス調のステージ衣装だ。
このみがアイドル活動にようやく慣れてきたという頃に出逢った、初めての自分だけの衣装だった。
可愛らしい甘さだけではない、ちょっぴりビターな大人の乙女心を表すように、衣装の各所には臙脂色の地やリボンがアクセントとして差し込まれている。
右腕や左脚にはそれぞれ長めのリボンが巻かれていて、このみにはそれが衣装に包み込まれているみたいで、どこか心地がよかった。
衣装の後ろ側、腰のあたりにはひときわ大きなリボンが結ばれていて、それは大切な人へ贈るプレゼントを思わせるようだった。

この衣装なら、普段なら気恥ずかしくて言えない言葉でも、ステージを通してなら届けられそうに思えて、このみは気に入っていた。
今回の公演のテーマをこのみが聞いたとき、真っ先に思い浮かんだのが、この『ピーチフルール』だった。


公演は、もう中盤に差し掛かっていた。
このみは、『永遠の花』のステージを終えて、風花と桃子の二人と共に舞台袖に戻ってきていた。
このみたち三人は、武道館公演の以後も、ユニット『ジェミニ』として時折この曲を歌ってきた。

この曲は、永遠の愛を花言葉に持つ桔梗の花にのせて、愛する恋人との別れと再会を綴った、恋の歌だ。
二人が遠く離れていても、お互いを想い信じあう気持ちが、ずっと変わらずそこにあった。
長い夜でさえ、愛を育てる──本当に素敵な詞だと感じて、このみは胸の奥の方が熱くなるのが分かった。


すぐ後に別の曲を控えている風花と別れて、このみは桃子と二人で椅子に座った。
多くのステージライトに照らされ熱を持つステージの上とは対照的で、この辺りはひんやりとしていた。
ペットボトルの水を飲んで、そっと呼吸を整えた。
このみが深呼吸をする度に、目の中にステージから見えた景色が浮かんだ。
まるで白昼夢を見てるような、そんな夢のような世界だった。
けれど、ふと隣を見ればそこには、確かに同じステージを共有した仲間がいた。
このみと桃子は、二人して目を合わせた。
二人とも、考えていたことは同じらしかった。
ちかちかする視界の中で、たった数分前にあの光と音の溢れるステージの上に、一緒に立っていたんだと、このみは実感した。
しばらくの間、お互い言葉は交わさなかった。
同じステージに立った仲間が隣に居て、すぐ横で同じ眩しい景色を想起する──。
ステージを終えた後のこの瞬間も、このみは好きだった。


このみが気づくと、あれほど鳴っていた胸の鼓動ももう収まっていた。
このみが桃子を見ると、やはり目が合って、それがおかしくて二人で笑った。

「桃子ちゃん。一緒に歌ってくれて、ありがとう。」

ひとしきり笑った後に、このみは桃子の顔を見てそう言った。
アイドルとして戻ってきて初めての公演で、またジェミニの三人でこの曲を歌えたことが、本当に嬉しかった。
それは、自分の中から、自然に出てきた言葉だった。


このみの言葉を聞いて、桃子は照れくさそうにしながら、それを隠すみたいにタオルで頬の汗を拭いた。

「桃子も、このみさんと歌えて楽しかったよ。……これからもまた、沢山歌いたいな。」

このみは、目の前のモニタを見た。
そこには現在のステージの上の様子が写っていて、観客席には様々な色の光たちが揺れていた。

「それならきっと、大丈夫よ。これからも、何度だって、一緒に歌えるわよ。」

このみは、昔も今も変わらず、劇場のアイドルだ。
未来はどうなるか分からないけれど、きっと、これからも。
私が──私たちが、劇場のステージに立ち続ける限り、きっとこの光の波がそばにいてくれる。
それだけでもう、大丈夫だって信じられた。


このみは、プロデューサーと共に、上手側の舞台袖に居た。
この場所からは、袖幕の向こう側に、ステージがよく見えた。
隣に居た彼が、このみの手を握って、そっとあるものを手渡した。
それは、一つのブローチだった。

このみの手の中で、銀色の花弁が重なり合うように咲いていた。
花の傍には、まるで枝に果実をつけたみたいに、小さな玉が一つ添えられている。
その玉は、袖幕の隙間から射し込むステージライトの光を浴びて、白く光っていた。


手で陰を作ると、その玉はもとの色を取りもどした。
それは、何色にも染まっていない、どこまでも透明なガラス玉だった。
それから、このみはその何の変哲もないガラス玉にそっと指先で触れた。
指先の感覚は今までと変わらず同じままで、ただ愛おしかった。

このガラス玉は、このみがステージ衣装としてずっと昔から身につけていた、ブレスレットに付いていたものだ。

以前使っていたそのブレスレットは、装飾を固定する留め具の部分が内側で折れてしまっていたらしかった。
常にダンスで体を大きく動かすステージの上で、いつ装飾が外れてしまうか分からないアクセサリを着けるわけにはいかない。
詰まるところ、そのブレスレットとはもう、お別れだった。

このみは、先のセンター公演が終演した後、気づけばブレスレットを握って、駆けだしていた。
美咲とプロデューサーのもとへ、息を切らして走った。
手放してしまう事なんて、できなかった。

今このみが手にしているブローチは、そのブレスレットの装飾から、美咲が手作りしたものだった。
アクセサリのハンドメイドは不慣れだと美咲は言っていたが、実際に完成したものを見て本当に驚いたのを、このみは覚えている。
まるでずっと前から持っていたみたいに、手に良く馴染んだ。

「このみさん。ブローチを着けてみてくれますか?」

ブローチは、衣装に穴が開いたりしないように、クリップで着けられるようになっている。
このみは左胸に手をやって、衣装の生地の境目にある隙間に、そっと留めた。

「どうかしら?」

このみは、腕を後ろに回して、そう言った。
彼はこのみをじいっと見た。
それから、彼は優しい目をして、そっと微笑んだ。

「やっぱり、このみさんは素敵ですね。……ほら、見てください。」

彼は、すぐ近くの机の上にあった鏡を示した。
どういう意味だろうとこのみは思いつつも、彼に促されて鏡を覗き込んだ。

そこには、胸を張った自分が映っていた。
左胸に着けたブローチが、まるで勲章みたいにきらりと光った。
叶えたい願いに向かって、ここまで一歩ずつでも前へと進んできた。
そんな自分が誇らしく思えた。


次のこのみの出番が、近づいていた。
このみは、また後でね、と彼に手を振って、待機場所へと向かった。

待機場所は、下手側と同じように、衝立と幕で簡単に区切られていて、長机と椅子が所狭しと並んでいた。
机の上にあった鏡にブローチが映るのを見て、このみはそっと微笑んだ。


辺りが暗転するとともに、このみはステージへと飛び出していった。
客席には、前の曲の余韻が残っていて、青いサイリウムの色が海みたいにきれいだった。

このみは、ステージの真ん中で足を止めた。
舞台の仕事でアイドル活動を休止する直前、鶴の姿で『dear...』を歌ったときから、
復帰後初めての公演で歌う曲はこの曲だと決めていた。
『dear...』と同じ、恋の歌。
大切な貴方へ、届けたい気持ちをのせて。

耳元から、秒読みが聞こえてきた。
鼓動が胸の奥で音を立てるのがわかった。
このみは、息を吸い込んだ。


『ねぇ、甘えてみてもいい?
 この恋が本当だと伝えてみたいの』

たくさんの温かなステージライトが、このみを照らした。
サイリウムの色が段々と変わって、客席は鮮やかな桃色へと染まっていく。
詞を紡ぐたびに、桃色の光は優しく揺れた。

『優しく ギュッと抱きしめて──』

このみが前に手を伸ばすと、腕の先にサイリウムの景色があった。
そしてその向こう側には、このみのステージを見つめるファンたちの顔が見えた。
このみの指先と、桃色の光が重なった。
腕に巻いた赤いリボンが目に入って、まるでこのみの指先から届けたい相手まで、線が伸びて繋がったみたいだった。
このみはもう、ひとりでステージに立っているわけではなかった。

やっと見つけた私の新しい場所で、新しい歌を、大切な貴方に届けよう。
私が誇れる、大切な貴方に。貴方が誇れる、最高の私で──。
きっとこれが、『アイドル』馬場このみの──私の、恋焦がれた夢なんだ。


初めて触れたあの日から、冬を超えて、季節はまた一つ巡っていく。
袖に降り積もった雪はいつしか融けて、その雫はやがて、温かなこの場所で、ひとつの蕾となった。
『いつの日か、花芽吹く春の日を、待っている』
──春の足音が、聞こえた気がした。

以上になります。

ここまで読んでくださった方の中には、このSSが「白き鶴の如く 馬場このみ」の物語だと気づいてくださった方もいるかもしれません。
作中では、カードが実装された2019年2月11日までの日々と、それから少し未来、2019年3月中旬が舞台となります。

このSSで描かれたさらに先、2019年6月には、彼女は「White Vows」と「Flyers!!!」を歌うことになります。
『鶴』の舞台にまつわる一連の物語は、それら二つの物語への架け橋になったのではと思います。
このSSが「白き鶴の如く 馬場このみ」の彼女を、そして「White Vows」などさらに前へと進んだ彼女を知っていただくきっかけになれば、幸いです。

2019年の誕生日SSのつもりだったはずが、勢いあまって2020年の誕生日SSになってしまいました。
改めまして、このみさん誕生日おめでとうございます。
胸を張って前に進んでいく、そんなあなたが大好きです。

あのSSRのバックになる感じの話か。いいね
完結乙です

馬場このみ(24) Da/An
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>>8
徳川まつり(19) Vi/Pr
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>>34
周防桃子(11) Vi/Fa
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>>51
双海亜美(13) Vi/An
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双海真美(13) Vi/An
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大神環(12) Da/An
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永吉昴(15) Da/Fa
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>>111
我那覇響(16) Da/Pr
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>>112
横山奈緒(17) Da/Pr
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桜守歌織(23) An
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矢吹可奈(14) Vo/Pr
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>>114
如月千早(16) Vo/Fa
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>>117
高坂海美(16) Da/Pr
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>>119
田中琴葉(18) Vo/Pr
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宮尾美也(17) Vi/An
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>>127
百瀬莉緒(23) Da/Fa
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>>128
ロコ(15) Vi/Fa
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