十時愛梨「それが、愛でしょう」 (57)

・モバマスSSです
・地の文があります
・多少の独自設定があります

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1592336457

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1592469454

1.「マジックナンバー」

 小さい頃、魔女に出会ったことがある。
 そんな話をしても、大体が冗談だと思われたり、それとなく可哀想な子を見るような目で見られたり、ひどいときはいい病院を紹介されたりするのだろう。
 実際、友達に話をしたときはジョークかどうかを直球で尋ねられたりもした。

 だけど、それがもしトップアイドルに会ったことがある、ということであれば、多分ちょっとした自慢話になって、教室の中でちょっとちやほやされたり、ちょっと妬まれたり、そんなことがあるのかもしれない。
 魔女。トップアイドル。まるで接点のない言葉たち。
 すぅ、と大きく息を吸い込みながら、私は何度も鞄に履歴書が入っていることを確認して、駅から程近い場所にそびえ立つ事務所の正門に手を伸ばそうとしていた。
 
「はぁ……」
 
 ああ、緊張する。
 緊張するどころの話じゃない。吐き出した息から魂が漏れ出ちゃってるんじゃないかって思うぐらいだ。
 それだけじゃない。心臓はばくばくと、人に聞かれてないか心配になるぐらいうるさく跳ね回っていて、ここだけ、何か大きくてとてつもないものに時間の流れが押しつぶされているみたいに、一秒が引き延ばされて。

 魔女。トップアイドル。人が聞けば、きっとその二つの言葉に接点はないのだろうけれど、私にとってその二つは同じものだった。
 引き延ばされていく時間の中で、記憶の引き出しから不意にそんな思い出がこぼれ落ちて、どこまでも延びていく一秒の中を、鮮やかに駆け抜けていく。

 私が今、芸能事務所の門を叩こうとしていること。そしてそこからアイドルを目指していること。
 その二つと、切っても切り離すことの出来ない、小さい頃の思い出話。そして、私の旅の始まりのことだった。

◇◆◇◆◇


 歌うことが大嫌いだった。
 今の私が聞けば笑って、今の私を知ってる人が聞けば冗談だと思うかもしれない、もう一つの本当のことだ。

 子供の頃、っていっても今も子供には変わらないんだけれど、小学校に上がる前ぐらいの私は、それはもう歌が大嫌いで仕方なくて、お遊戯会とかで合唱をするときは決まって口パクで済ませていたものだから、保育士さんは相当手を焼いていたのだと思う。
 思い返すと申し訳ないけれど、過ぎたことはどうしようもない。
 だから、心の中で謝っておく。ごめんなさい先生。思い返す度に恥ずかしさに顔を紅くする黒歴史だった。

 それで、そんなに歌が大嫌いだった私がどうしてアイドルになろうなんて酔狂なことを考え始めたのかというと、それはやっぱり、小さい頃に出会ったあの人の、魔女のおかげに違いない。
 忘れることもできない、六歳の冬だった。
 卒園式まであと少し、ってことに何か風情とか情緒とかを感じられるぐらい心は発達していなかったけど、ただ卒園式が嫌だという気持ちでいっぱいだったことは今でもはっきりと思い出すことができる。

 別に、幼稚園に何か思い入れがあったわけじゃない。
 というか、そんな郷愁を感じられるぐらいの歳でもなかったから、幼稚園を出て小学生になるっていう未来については、他の子たちと同じで楽しみにしていたように思う。
 一年生になったら。朝の教育番組で流れていた歌のフレーズを思い起こす。
 友達が百人なんて出来る訳ねーだろ、って、ませた男子はバカにしていた。
 実際皆、口にこそ出さないけれど、そんな感じに冷めてたけれど、それでもせめて十人、いや、二十人、クラス皆と友達になって、ランドセルを背負ったり、知らない勉強をしたり。
 そんな、他愛もなくてあやふやな未来予想図を描いていたような気がする。勿論、その中には私も含まれていた。

 じゃあ、楽しみだったんじゃないのかって考える。
 新しい場所に行くための卒園式。それは確かに、楽しみで、待ち遠しいことだった。
 だけどそれ以上に、卒園式を締めくくるのに欠かせない合唱がプログラムに含まれていること。それが、嫌で嫌で仕方なかったのだ。

 私が魔女に出会ったのは、住んでるマンションから、大人の足で大体徒歩一分もかからないぐらいところにある児童公園に、そんな憂鬱を抱えながら一人で歩いた土曜日のことだった。
 お父さんは休日出勤で、お母さんは内容こそなんだかよくわからないけど電話の応対をしていたから後で来る。そんな限定的な状況と、公園が住んでいるとこに近くて、ご近所さんやお隣さんもよく使っているから許された、限定的な一人でのお出かけ。
 普通、子供だったら興奮しそうなものだけれど、私のちっぽけな心は見上げる空とは正反対に、ぐちゃぐちゃの灰色で塗り潰されていた。

『――ちゃんは、どうしていつも、歌ってくれないの?』

 卒園式に向けて皆が最期の合唱の練習に励んでいる中で、私は頑なに歌わなかった。いつもリズムに合わせて、餌を貰うときの金魚みたいに口をぱくぱくとさせるだけ。
 いい加減卒園も間近だというのに、そんなことを繰り返していた私に業を煮やしていたのだろう。先生は、いつもよりも怒りの色を濃くして、そんなことを訊いてきたのを覚えている。
 答えはわかっていた。だけど、それを答えたところでどうにかなるものじゃないというのは、小さかった私には説明こそできないかもしれないけれど、心のどこかでは理解していたんだと思う。

 だから、黙り込んだ。答えられないし、できたとしても答えたくなかったから。
 歌うのが嫌で、歌わせようとしてくる先生も嫌いで、聞こえてくる歌なんてロックもポップも児童向けの合唱曲も、全部が全部大っ嫌いで。

 当然そんなこと、お父さんやお母さんに言えるはずもない。
 連絡帳にはばっちり書かれてしまったようだけど、唇を引き結んで黙りこくっている私に、お父さんもお母さんも何も訊いてこなかったのは、優しさなのか匙を投げていたのか。それについては今も、判断がつかない。

 でも。
 公園に足を踏み入れて、真っ先に聞こえてきたのは一つの歌だった。

 マンション近くの公園で休日なら、利用しているのは私だけじゃない。実際その日も隣の隣ぐらいに住んでる友達や、近所じゃないけどよく公園で見かける小学生だったりお年寄りの人だったり、色んな人が好き勝手に遊んだり、それを見てどこか穏やかな顔をしてみたりとそれぞれに憩いの場を利用していた。
 だけど、子供たちのきゃーきゃーという叫び声より、中身はわからないけどきっと嫌なことで盛り上がっているんだろうな、ってことぐらいは察せられるおばさんたちの井戸端会議より、電話の向こうで嫌なことでもあったのか、電話を耳に当てながらへこへこと頭を下げながら申し訳ありません、を繰り返しているサラリーマンの声より先に、私の鼓膜を振るわせたのは、大っ嫌いだったはずの歌だった。

 ああ、今でも覚えている。
 その瞬間に私は、見えない、だけど大きな足に背中を蹴飛ばされたみたいに、歌声のする方へと走り出していた。
 きっと大人が早足で道を行くのよりも遅い、子供の全力疾走。

 不思議だった。
 大っ嫌いなはずなのに、聴きたくなんてないはずなのに、その時は、私が辿り着く前にその歌が終わってしまわないことをただひたすらに祈っていたのを覚えている。
 今でも歌が嫌いだったら、きっと頭がおかしくなったのか、冬の寒さでネジが外れてしまったかを疑いたくなるような、心と身体があべこべになったみたいな。
 そんな、疾走だった。

 冬だから、水を止められて枯れている噴水の近くに並べられた、所々塗装が剥げているベンチの真ん中に腰掛けて、その人は歌っていた。
 今でも忘れない。綺麗だと、言葉にも情緒にも乏しかった子供の心にも、ただその一言が浮かんで落ちたこと。
 それぐらいに、その人は綺麗だった。

 何が、と訊かれたら、今も昔も答えは変わらない。
 ――全部。
 子供心に、公園に来る人の顔や姿は大体覚えているから断言できた。この辺では絶対に見たことがない顔だ。私が知っている中では一番綺麗なお母さんより、幼稚園の中でも一際美人で男子たちの憧れの的だった年中組の先生より、ずっと綺麗な顔だった。

 もしこれがあのひとじゃなくて、よからぬことを企んでいる不審者とかだったら、私の人生はきっとあそこで終わっていたのかもしれない。
 だけど幸いなことに、あのひとは不審者や殺人鬼じゃなくて魔女だった。
 考えてみたら、同列に並べられそうな言葉だけれど、そこには決定的な違いがある。
 顔だけじゃない。まだその時の私にはわからなかった言葉を紡ぐ歌声も、そして、何より。

 じっと、砂場に転がる石の一つになったみたいに体育座りをして、私はそのひとの歌を聴いていた。歌わないからはっきりと聞こえる、子供たちの合唱とも呼べないような合唱も、教育テレビから流れる童謡も、たまにお母さんが確認する音楽番組で流れている流行の歌も、全部が全部大っ嫌いだったはずなのに、どうしてかそのひとの歌だけは、一秒たりとも聞き逃してはいけないと、子供心にそう思っていたことを覚えている。

 なんだか、神様に祈る牧師さんみたいだと、そんなことを思っていたのかもしれない。
 クリスマスになると現れる、サンタさんの格好をしたおじさんと、片手に聖書を抱えて何だかよくわからない話をする牧師さん。
 言ってることは、小さい頃の私たちでも理解できるようにとても簡単に噛み砕かれたものだったけれど、そんなありがたい言葉より、礼拝が終わった後にサンタさん役をしているおじさんがくれるパラソルチョコより、かくあれかし、と言い換えられる一言を唱えて何かを真剣に祈っている牧師さんの顔が、私にとっては印象的だった。

 多分こんな事を街角で宣ったなら、今でも怒られる気がするけれど。
 きっと牧師のおじさんは、あの時の私と同じような気持ちだったのかもしれない。
 声が途切れて、歌が締めくくられたのだとわかると同時に、あの時の私は不遜にもそんなことを考えていたのだ。

『あはは、聴いてくれてありがとうございますっ』

 多分そのひとにとっては、何の気もない鼻歌とか、そんなつもりだったのだろう。
 少しだけ恥ずかしそうに頬を染めながら、そのひとはぺこりと小さく頭を下げる。
 だけど、飴玉で出来た鈴を鳴らしたみたいなそのひとの声が聞こえたときに周りを見れば、集まっていたのは果たして、私だけじゃなかった。
 遊具に集まってヒーローごっこをしていた男の子たちも、井戸端会議に花を咲かせていたおばさんたちも、電話越しに何やら誤り続けていたサラリーマンも、砂場でおままごとをしていたお隣の子も。
 通り過ぎていく風とか車とか、そういうものを除けば、公園にある全ての音がなくなっていた。そのひとの、砂糖菓子みたいに甘くて、宝石みたいに綺麗な声以外の全部が消えてしまったみたいに、公園は静まりかえっていた。

 二曲目を歌うつもりはないのだろう。そのままベンチに座り込んで、何かを思い出したみたいに宙を眺めているそのひとを見て、皆はまるで最初から歌も、そのひともいなかったみたいに、元の場所へと戻っていく。
 サラリーマンの人が右手に持っていた空のペットボトルがゴミ箱にぶつかって、がたん、と無機質な音を立てる。
 きたないな、と、そう思った。普段なら気にすることもないはずなのに、あの歌を聴いた後だと、それ以外の全部が汚く聞こえてしまうぐらいに、澄んだ、綺麗な歌声だった。

 皆が元に戻っていったのに対して私はというと、影を地面に縫い付けられたようにじっと体育座りをしていたまま、そのひとのことを見つめていた。
 今思えば結構な迷惑だったのだろうけれど。
 それでも、空に浮かんでいた何かを、きっとそこにあった思い出を手繰り終えたのか、そのひとはゆっくりと私へと振り返って、こう言ったのを覚えている。

『歌、好きなんだ?』

 好き。その時は、嫌いの反対にあった言葉。
 だから私は、ううん、と、首を横に振るしかなかった。だって、歌は大嫌いだったから。

『きらい』
『そうなんだ』

 不躾で、無礼で、遠慮の欠片もない否定の言葉だったけれど、大して気を悪くした様子もなく、そのひとは私の知っている誰よりも綺麗で、温かい笑顔を浮かべていた。

『ごめんね、でも私が歌ってたとき、一緒に口、動かしてくれてたの、あなただけだったから』

 はっとしたように、幼い私は俯く顔を上げた。
 何に驚いたのか、その時は言語化できなかったけれど今ならわかる。そのひとは歌っていただけじゃなくて、周りに集まってきた人のことまでじっと観察していたのだ。

 言葉にしてみれば簡単そうに見えるそれが、どれだけ難しいことか。
 私以外の誰かが歌っているとき、いつも見ているのは何もない空の一点だ。そこに向けて声を出せと、そう教えられているから。テレビで見る歌手の人たちは、当然その瞬間を切り抜かれているからなんだけど――カメラのある方向だけを見つめている。
 でも、このひとは違う。頭の上に載せていたキャスケットを少し目深に被り直して、そのひとは、じっと私を見つめていた。

 だけど、その時の私は、それ以上に、自分が口を動かしていた、という事実に驚いていたのだと思う。
 当たり前だ。私が歌に合わせて口パクをするのはいつだって嫌々やっている、やらされていることで、何なら一回口パクすらしないで黙りこくっていたら先生にこっぴどく怒られたからで、決して自分から進んでやるようなことじゃなかったのだから。

『だから、歌うのが好きなのかなあって、そう思ったの。嫌いだったならごめんね』

 子供相手に謝る言葉なんて軽いものだ。
 その時から大分時間が経って、今でもそう思うのはきっと、先生が間違ったところを指摘したときにどこか嫌そうな顔をしてから悪かった、といったり、ゲームセンターでメンテナンス不良を指摘した同級生に申し訳ございません、といいながらも嫌々作業をしているのが見てとれるアルバイトの人だったり、かかってきた営業の電話にお父さんとお母さんは家にいません、というと一瞬微妙な間が空いてからすみませんでした、と聞こえてきたりと、そんな人ばっかりを見てきた偏見が積み重なったからかもしれない。

 でも、そのひとは真剣だった。わざわざそんなことをする必要なんてどこにもないのに、丁寧に腰を折って、被り直した帽子を脱いで頭を下げてみせたのだ。
 ここで何も言わなければ、きっと私は一生後悔することになる。
 幼い心だったけど、それだけは理解していた。だから、一歩一歩と離れていく背中に、私は。

『……まって! ください!』

 叫んでいた。きっと大きな声じゃなかった。ヒーローごっこをしていた子供たちに掻き消されてしまうような、井戸端会議に飲み込まれてしまうような、そんなか細くて頼りない叫びだった。
 だけど。

『どうしたの?』

 ゆっくりと、前に進めていた足を止めて、そのひとはもう一度、わたしへと歩み寄ってくる。
 届いていた。ううん、届いてくれた。聞いてくれた。
 どうしてそんなことをしようと思ったのか、きっとその時の私もわかっていたんだと思う。それが一生ものの後悔になるからという不安だけじゃない。
 なんせ今だって子供だけど、それに輪をかけて小さい子供だ。
 家に帰って眠ってしまえば、きっと引きずりはするだろうけれど明日にはいつも通りの朝を迎えられたはずだ。
 それでも、その人を引き止めなければいけなかったのは。

『……うたうの、すきなんです』

 私は、嘘をついてしまっていた。
 思い出す。泣きじゃくる私の隣に同じ体育座りで腰掛けて、その人はじっと、要領も得なければ、聞き取りやすいものではないし、何より、縁もゆかりもないし、聞く義理も義務もない私の言葉に、とても真剣に、耳を傾けてくれていたことを。

『じゃあ、どうして嫌いになっちゃったのかな』

 魔女なんじゃないかと、そう思い始めたのは多分、そのひとの口からその一言を聞いてからだったと思う。
 咄嗟に尋ねられた恥ずかしさをごまかすために嫌いだと嘘をついたんじゃない。
 子供にありがちなことだ。わざわざ遊園地で開かれるヒーローショーまで足を運んでいるのに、ヒーロー役のスタントマンからインタビューを受けたときに、ヒーローなんて嫌いだ、本当は怪人を応援していたんだ、なんて強がってみせるあまのじゃくなんてそう珍しいものじゃない。
 そんなステレオタイプを捨て去ろうと、じいっと、アーモンド色の瞳が私のそれを覗き込んでいた。大きくて、つぶらで、宝石みたいなそこに映っていたものは、涙を流す私と、きっとその内側にあったものだった。

『……わらわれたから』
『笑われた?』
『……へただって、おんちだって』

 年少組から年中組に上がったときのことだった。
 小さい頃の私は歌うのが大好きで、その時まではずっとテレビにかじりついて、童謡が流れてくる度に勝手なデュエットをしていたと、お母さんから聞かされたことがある。
 多分そんな私がめっきり歌わなくなったことに関して、お母さんは心配していたんだと思う。そして、同時に恐れていたんだと思う。
 今まで好きだったことを捨ててしまうなんて、何かよっぽどのことがあったんじゃないかと心配にならないはずがない。実際、その時の連絡帳には詳細にその日のできごとが記されていたはずだ。

 歌を嫌いになったきっかけなんて、ありふれたものだった。お遊戯会の出し物である合唱の練習をしていた途中、私の隣で歌っていた男の子が突然歌うのをやめて、私のことを音痴だと罵ってきたのだ。
 歌の音程が合っているかどうかなんて、その道に進むのでもなければ大体誰かが気にするようなことでもないし、カラオケとかで調子外れな歌を披露している友達がいたとしても、何も言わないで盛り上げ立てるのが暗黙の了解みたいなものだ。

 だけど、子供というのはどうしたって敏感なもので、その男子にとって私の音程が外れた歌は、どうしたって許すことのできないものだったのだろう。
 その日はもう大喧嘩だった。どっちから先に手を出したのかはわからない。でも、私はいても立ってもいられなくなって、その男子の頬に思いっきり平手を打ち込んだことを覚えている。
 当然子供の頃だって男子の方が力が強いのなんて当たり前だし、そいつはいわゆるガキ大将ってやつだったから、あえなく私はこてんぱんにされてしまったのだけれど、それ以来ずっと、この瞬間まで、大好きだったはずの歌は、大嫌いなものに姿を変えることになってしまったのだ。

 多分、そんなことを何回も何回も繰り返していたのだろう。だけど、そのひとは決して呆れた様子も見せず、私が涙を流す度に、そうだねと、つらかったねと、寄り添うような言葉をかけてくれた。

『あのね、実は私も、歌うの下手だったんだよ?』

 一頻り泣いて、私が落ち着いたのを見計らって、その人は言った。
 正直、最初は嘘だと思った。だって、あんなに綺麗で、上手く歌える人が下手だったはずなんてない。
 悔しいけど、歌うのをやめてじっくり聴いてみれば、そのガキ大将の歌声は、同じガキ大将でも土管の積み重なった空き地でリサイタルを開くやつとは正反対の、子供にしては綺麗で音程の取れたものだった。
 あとで確認してみたら、そいつは習い事で少年合唱団に所属していたらしい。そりゃあ、上手くないはずもない。

『……うそ』
『本当だよ? だからね、お姉さん、いっぱい練習したんだ』

 いっぱい、いっぱい。祈りの言葉を繰り返すように、そこに滲んだ血と涙の数を数えるように、そのひとは、真剣に言葉を紡いでいた。

 ――あのね、歌って、リズムなんだよ。ちっちゃな流れと、おっきな流れががちゃんってなって、歌になるの。

 きっと小さな私にもわかるように、そんな言葉を選んだのだろう。それから時間が経ってみればどういうことなんだろう、とわからない部分が出てきたり、そういうことなのかもしれない、とその時みたいに納得できたり、なんだか微妙な感じの言葉だったけど。

『私が歌ってた歌、結構難しいんだ。でも、あなたはちゃんとついてきてた。だからね、あなたの歌は下手なんかじゃないよ。お姉さんが保証してあげる』

 ――だから、一緒に練習しよっか。あなたはきっと、上手に歌えるから。
 それでも、続く言葉と合わせて、それは私にとっての救いだった。
 本当に私の口パクがリズムに合っていたのかどうかはわからない。もしかしたら、か細く吐き出した息で歌っていた音程は外れていたのかもしれない。

 だけど、その瞬間に、私の「嫌い」は「好き」にもう一度戻ろうとしていた。脱ぐのをやめた殻を壊して、羽を広げようと必死に、もがいていた。

 歌いたい。このひとみたいに、お姉さんみたいに。
 泣きたいときに泣いて、笑いたいときに笑うように、歌を歌いたい。幼い心に思った、きっと今でも続いている思いの原点。多分、夢とか、そんな感じのこと。

 正直、お姉さんの練習はあまりわかりやすいものではなかったというか、感覚的な教え方が多かったのだけれど、子供の私にはその方が丁度良かったのか、日が暮れ始めるまでずっと練習をする頃には、音感をしっかりと身につけることができるようになっていた。

『すっごーい! 上達するの、とっても早いね』

 私より、ずっと。もしかしたら追い越されちゃうかもなんて、冗談めかしてお姉さんは笑った。
 私も、きっと笑っていた。枯らした喉で、乾いた涙を引っ込めて、お姉さんと一緒に、通りかかった人が心配になるぐらいにからからと笑い転げていたのだ。

『……おねえさん』
『なあに?』
『ありがとうございます』

 私に謝ってくれたのと同じぐらいに、精一杯の気持ちを込めて、頭を下げる。
 きっとそれでも足りていない。足りるはずなんてない。

 好きが嫌いに変わるのなんて、きっと簡単だ。下り階段で一段足を踏み外すように、一つボタンを掛け違えてしまうように、些細なきっかけでそうなってしまうことなんて、世の中にはきっとありふれている。
 もちろん、好きという気持ちがマイナスの感情に蝕まれて、じわり、じわりと嫌いに、憎しみに変わっていくことだってあるかもしれない。
 でも、そうなってしまった嫌いを好きに戻すのには、一体どれぐらいのエネルギーがいるのだろう。

『どういたしまして』
『……あの』
『なあに?』
『うたのこと、おしえてくれませんか』

 師匠になってほしいとか、これからも先生でいてほしいとか、そういうつもりじゃなかった。
 ただずっと、一日中、私が嫌いになってしまった歌を好きになる、そのきっかけになった始まりの歌の名前が知りたかったのだ。
 あまりにも必要な言葉が欠けた私のお願いを読み解こうと、お姉さんは細い首を傾げて、少し考え込むような仕草を見せてから。

『それが、愛でしょう』

 どこか得意げに、晴れやかで、鮮やかな、真夏の太陽みたいな笑みを満面に浮かべて、私の願いを、見事に言い当てて見せた。
 近くの料理屋さんから、カレーの匂いが漂ってきた。あんなに蒼く晴れ渡っていた空は真っ赤な夕焼けに塗り潰されて、早く家に帰れとばかりにどこか遠くでカラスが一つ、鳴き声を上げていた。
 そして、近くで私の名前を呼ぶ、お母さんの声が耳朶に触れる。
 長電話を続けていたのか、それともじっと見守ってくれていたのかはわからない。だけど、それはもう私が家に戻らなければいけないという合図で、お姉さんとの時間は終わりだと、幕を引こうとしている宣言だった。

『……あのっ!』

 引き離されていく。お母さんに手を引かれて、何事か社交辞令を二言三言お姉さんが口にして、私の過ごした夢のような時間は終わろうとしていた。
 それに抗うように、声を上げる。遠ざかっていく背中に向けて。今度は、掻き消されてしまうように。教えてくれた歌のことを言葉にするように、私は。

『どうしたの?』
『おなまえ、おしえてくれませんか!』

 今考えてみたら、これはとんでもなく大それたことだったのだろう。
 でも、その時の私は知らなかった。ずっと歌を嫌いなままでいたから、知ろうともしていなかった。
 昔に流行った歌のこと。そして、それを歌っている人の名前。全部が全部いらないと、捨ててしまって、殻に閉じこもっていたからこそ出来た、蛮勇だったのだと思う。
 不幸中の幸いとか、災い転じて福と成すとか、聞く人が聞けばそう言って笑い飛ばすような、だけど聞く人が聞けば顔を真っ青にするような、そんな問いかけ。だけど、お姉さんは。

『愛梨。十時、愛梨ですっ』

 忘れないで。続く言葉はなかったけれど、きっとあの時、あのひとはそう言いたかったんじゃないかと思う。
 根拠なんてどこにもない。だけど、私の耳にはその名前が、どこか祈りでも捧げるように厳かな響きを持って伝わっていたのだ。
 とときあいり。その時はどんな意味を持つか知らなかった名前を、何度も、飴玉でもなめるように、舌の上で転がしたことを覚えている。そして、隣で私の手を引くお母さんが顔を青くして、何度もすみません、と繰り返していたことも。

 十時愛梨。それが初代シンデレラガールの、トップアイドルの名前だということを知るのは、それからしばらく経ってのことだった。
 だけど、その意味を知った今も、私にとってあの出会いが持つ意味は変わらない。
 好きが嫌いになるのは、きっと呆れるぐらいに簡単だ。でも、その反対は幾重にも絡まった知恵の輪を解き続けなければいけないぐらい難しい。
 あの時から少しだけ大人になってわかったことだ。だからこそ、私はいとも簡単に、私の嫌いを好きに変えてしまったあの歌声を思い出す度に、一つの言葉を思うのだ。
 魔女。そうじゃなければ魔法使い。
 だから、私にとっての十時愛梨さんは、歌のお姉さんは、とっても素敵な魔女だった。
 そして。

◇◆◇◆◇


 引き延ばされた一秒が、ゆっくりと元に戻っていく。
 履歴書と、必要な書類は鞄の中に入っている。何度も、何度も確かめた。
 ――よし。
 ふんす、と気合いを入れて自動ドアの前に立つ。
 エントランスには、第二十二期プロジェクト・シンデレラガールズ選抜オーディションの文字が描かれた看板がでかでかと掲げられている。
 憧れ。近くて遠い場所にあるもののこと。誰かにとっては、理解から遠いものだと笑い飛ばされてしまうようなこと。
 だけど、笑いたければ笑うといい。私の膝だってがくがくと笑っているけれど。
 私はあのひとみたいに、アイドルになりたくて、ここに来たのだから。


◇◆◇◆◇

2.「それが、愛でしょう」

 中身がこぼれ落ちきった砂時計をひっくり返す。全部が下に落ちるまでには百八十秒、三分かかる小さなものだ。
 それが意味しているのは一つだった。適当なペンケースと割り箸を重し代わりに乗せていた蓋からのけて、カップラーメンの封を切る。

 カップ麺は人類の生み出した三大発明に数えても良いんじゃないかと、僕は公言してはばからないのだけれど、残念ながらそこに賛同が得られたことはない。
 裏方のちょっとした休憩時間でも食べられて、そこそこ美味しい。現にこのカップ麺が国民食と呼べるまでに広がったきっかけだって、緊迫した事件の最中でも、少し空いた時間に手早く食べられてそれなりにカロリーが取れるということが広まったからだと記憶している。
 いつもそうしている通り、無感情に、舌に乗っかったジャンクな味を直接胃袋へと流し込むようにカップ麺を啜っていく。

 休憩時間にはまだ余裕があるけれど、ライブというのは生き物だ。いつ何が起こっても不思議じゃないのだから、可能な限り早く、自由に動ける体勢を整えておくべきなのだ。
 とはいえ、そんなのは理想論だ。
 あ、と、間の抜けた声に遅れて、指の隙間からすっぽ抜けた割り箸が床に落ちる。
 やってしまった。
 幸い給湯室には予備の割り箸が用意されていたから、食べかけの昼飯を泣く泣く流しにぶちまけなければいけなくなるなんて事態は回避できたけれど、我ながら情けない。

 なんでこんな間抜けなことをしてしまったのか。
 考えてみれば、答えにはすぐ行き当たる。緊張しているのだ。
 それも、かつてないぐらいに。
 二つ目の割り箸が、ぱきん、と小気味の良い音を立てて不格好に、二つというよりは一つと半分、もう半分の組み合わせを取るように割れる。
 横向きで割るのは縁を切ることを連想させてしまうので、社会人たるもの割り箸は必ず縦にして割るのがマナーです、なんて聞いたこともないような習慣を得意げに宣っていたのはどこのどいつだったかは生憎思い出せないけれど、それを教わった頃から随分と、時間は遠いところにきてしまった。

 どこに行くにも、何をするにも緊張していた社会人一年生だった頃を思う。電車の中で吐きそうになったり、特に理由もなく出社を拒否して、いつも乗っているのとは反対方向の電車に乗ろうかなんて考えていたこともあった。
 思えば二年目三年目にも、その先にも似たような感情を抱いたことがないわけじゃない。
 だけど、今はそんな記憶にあるどの瞬間よりも緊張していた。

 もうすぐ、担当アイドルが引退する。
 流行り廃りが目まぐるしい現代だ。そう聞くと悲観的なことのように思えるけれど、幸運なことに、僕の担当アイドルの幕引きは極めて円満なものだった。
 十時愛梨引退公演、最終ドームツアーライブファイナル。
 かきこむようにして、スープまで全部胃袋に詰め込んだカップラーメンの容器をゴミ箱に捨てて楽屋を一瞥すれば、そんな文字の記された紙がドアには張り出されている。
 誰もが知っている、どれぐらいの人数が詰め込めるかの指標にもなるドームの席は埋め尽くされていて、ライブビューイングの会場も、チケットの争奪戦が起きるぐらいには好評を博しているのは、きっと何物にも代えがたい幸運なのだろう。

 トップアイドル。ありふれた言葉として、純粋に目指している少女たちの憧れであり目標として、或いは僕たちのような人間が売って歩くための夢として巷を飛び交うその王座に手をかけられるアイドルは、片手の指で数えられるぐらいだ。
 それでも、愛梨はそこまで上り詰めた。
 こん、こん、こん、と三度楽屋の扉をノックすれば、はぁい、と、飴玉の鈴を鳴らしたような返事が耳朶に触れる。

「愛梨、大丈夫かい?」
「はいっ、緊張して今も何だか暑くなってますけど……その分テンションだって最高潮ですっ」
「何よりだ。でも衣装は脱がないでくれよ」
「脱ぎませんってばぁ」

 軽口にむくれて頬を膨らませる愛梨は、黄色に近いオレンジを基調とした豪奢なドレスに身を包んでいる。
 残念ながら、僕は衣装のことについてはそれほど明るくないから何がどうなっていて、それが愛梨をどんな風に引き立てているかについては詳しく語る言葉を持ち合わせていないのだけれど、それでも、童話の中から飛び出してきたようなお姫様のようなドレスと、頭上を飾る銀色のティアラは、アイドルとしての愛梨を、その有終の美を飾るのに、これ以上ないほど相応しいものであることは確信できた。

「……似合って、ますか?」

 一瞬だけ、瞬きをしていたら見逃してしまいそうな僅かな間、愛梨の細い眉がどこか不安げに八の字を描く。
 言葉とは裏腹に、いつだって愛梨はマイペースでいつも通りに見えるけれど、これだけの大舞台だ。裏方の僕ですら、今も胃がひっくり返りそうなほど緊張しているというのに、その舞台に登る当人なら言わずもがなだろう。

 ああ、そうだ。きっとそうやっていくつも見逃して、去って行く時間と一緒に、通り過ぎていった。
 たった一瞬の不安に、それを見付けられるまでに費やした時間のことを思い返す。
 それでも、砂時計をひっくり返したところでさっきこぼれ落ちた三分が戻ってくるわけじゃないことを、僕たちは知っている。だから。

「ああ。とても似合ってる……なんだか、お姫様みたいだ」

 ありったけの想いを込めて、大丈夫だと、そうであってほしいと、そんな祈りと共に言葉を紡ぐ。
 出力されたものは、自分でも笑ってしまいそうになるぐらい陳腐でありふれたものだったけれど、愛梨をもし一言で表すのならば、世界で一番その言葉が似合うはずだ。それだけは、自信を持って断言できる。
 そしてそれに間違いがないことを、ドレスを身に纏った彼女の姿が、その頭上に輝くお姫様のティアラが、何よりも力強く証明してくれていた。

「じゃあ、この衣装を選んでくれたプロデューサーさんは魔法使いですか? それとも、王子様?」

 からかうように、ちろりと紅い舌先を覗かせて、愛梨はそう問いかけてきた。

「僕はそんなに大層なものじゃないよ、愛梨」

 プロジェクト・シンデレラガールズ。発足当初は百人以上、今は二百人にも匹敵するアイドルたちを集めて競い合わせ、その中から未来のトップアイドルたり得る人材を育成するという、天海春香のアイドルアワード受賞をきっかけにして、アイドル戦国時代の潮流を感じ取った業界最大手が惜しみなく資金と人員を導入した事業計画の名前であり、愛梨が参加しているプロジェクトだ。
 世界でも五本の指に入るぐらい有名な童話の題名を謳い文句に掲げているからか、それとも単に能力や個性を重視して無作為にアイドルもプロデューサーもかき集めたからか、時折魔法使いがどうのとロマンチックな名前で呼ばれる同僚がいる。
 彼がそう呼ばれるに値する人物かどうかはわからないけれど、間違いなく、魔法使いという称号は僕に相応しくない。王子様なんてもってのほかだ。

「そうですか? でも、私にとってのプロデューサーさんはいつだってヒーローでしたよっ」
「からかわないでほしいな」
「ふふ……じゃあ、エスコートしてくれますよね、プロデューサーさん」

 冗談交じりにはにかんで、白い手袋に包まれた愛梨の右手が差し伸べられる。
 照れ隠しに腕時計を一瞥すれば、公演の開始まで、それほど時間は残されていなかった。

 終わる。それを意識した瞬間、引退という言葉とその意味が、両肩にのしかかってきた。
 それがどんな形であれ、今日、この公演を終えれば愛梨はアイドルではなくなる。
 間違いなく、愛梨の終わり方は幸せなものだといえるだろう。異例の速度でスターダムを駆け上がって、初代シンデレラガールの称号を勝ち取って、そこからアイドルアワードに選出されたことで、活動中の数年間はずっとトップアイドルの名をほしいままにしてきた。
 誰もが羨むようなシンデレラストーリー。もしも、僕自身がそこに関わりを持たなければきっと何かを勘ぐりたくなってしまうような、そんなできすぎたまでに幸せな物語が今、終わろうとしている。

「……ああ、行こう。愛梨」

 答えて、彼女の手を引くまでにはどれぐらいの時間がかかっただろう。
 多分、三分と経っていないはずだ。それどころか、一分かかったかどうかも怪しい。
 それなのに、まるで答えるのに数年かかったかのような重みが全身を包み込んでいた。こうして愛梨の手を取って、ステージに向けて、終わりに向けて歩けているのが、不思議なぐらいに。

「私のアイドル活動、今日で終わりなんですよね」

 僅かな沈黙を破り捨てて、愛梨がどこか名残惜しそうにそう呟く。
 そうだ、とは答えられなかった。ああ、とも、うん、ともつかない曖昧な返事をするのが精一杯だったのは、僕もそこに大きな心残りがあるからだ。

 アイドルには賞味期限がある。
 どこの誰が言い出したのかはわからない。残酷で、不躾で、僕自身は嫌っている言葉ではあったけれど、それは半ば暗黙の了解のように、この業界では事実として扱われている。

 それまで無名だった事務所のアイドルたちがトップアイドルの王座に手をかけたことで訪れたものは、通算三回目の一大ムーブメントだった。国中を巻き込んで、そこかしこでアイドルの話題が日々飛び交い続ける。
 一度目にアイドル戦国時代を引き起こした人間の名前は生憎忘れてしまった。それでも、二度目は日高舞という名前だったのは覚えている。
 ただ、三度目のアイドル戦国時代は、それまでのムーブとは性質が大きく違っていた。

 日高舞の時代、トップアイドルの玉座には彼女しか座っていなかった。街を往く人々が口にするアイドルの名前はほぼ彼女とイコールで結ばれて、対抗馬となる存在だって何人もいたはずなのに、日高舞以外はまるで存在していないかのように、この国はたった一人の女の子の歌声に、笑顔に夢中になっていたのだ。

 天海春香の最大にして異端、異例の功績は、その玉座が一人のものではないと知らしめたことだった。
 十三人。センターである彼女が代表のようにこそ扱われているけれど、個性も歌声もばらばらなアイドルユニットがまとめてトップアイドルの称号を手にしたことで生まれたものは、それまでの画一性とは反対の多様性だった。
 誰か一人の名前を称えるのではない。それぞれに好きなアイドルがいて、その全員がもしかしたらトップアイドルになれるかもしれない。
 そんな、一昔前にこの業界で口にしようものなら、鼻で笑われそうな幻想が現実になってしまった。
 今は、そういう時代だった。

 だからこそ、それこそくだらない偏見でしかないのだけれど――かつての業界では確固として一つのボーダーラインとされていた、二十代を過ぎても現役でアイドルとして活動を続けている人は何人もいる。
 現に、かつてのトップアイドル、日高舞も今は現役復帰しているし、その破天荒さで日々お偉いさんの頭を悩ませているとは上司から聞いた噂だった。

 それだけに、愛梨がアイドルを続けるという選択肢だって、十分に考えられた。
 それでも、終わりを選んだのは僕たち二人に他ならなかった。二人で話し合った末に、納得して決めたことだった。
 身勝手な話だとは思う。ここで終わりにしようと、そう決めているはずなのに、今更名残惜しさを感じているのだ。誰かにそう詰られてしまえば返す言葉もない。

 だけど、そんなものだとも、そう思ってもいる。砂時計をひっくり返したら三分前に戻らないかなと、あの時こうしていたら、もし違う選択肢を選んでいたらと、いつだって、もしもを考えてしまうのが、きっと人間なのだから。
 沈黙が続く。晴れ舞台のはずなのに、まるで葬式にでも向かうかのように僕たちは手を繋いで、舞台袖に向けて歩いていた。

「プロデューサーさん」

 黙りこくっていることに耐えられなかったのか、それとも気を遣ってくれたのか、先に口を開いたのは愛梨の方だった。

「どうしたんだ、愛梨?」
「えっと、今言うことじゃないかもしれないんですけど」
「ああ」
「スーツの胸ポケットにラーメンついてますよ」

 本当だ。いや、今言うべきことじゃないとかそっちじゃなくて、慌てて自分の胸元に視線を落としてみれば、急いでかきこんでいた名残のお弁当を持参してしまっている。

「ありがとう。はは……情けないな。自分じゃ気付かなかった」

 何とも締まらない限りだ。火が出そうな温度をいつもの仏頂面に押し込めて、何事もなかったかのように取り出したハンカチで付着していた麺を取り除きながら、僕は言った。

「ううん、どういたしまして。それと」
「まだ何かついてるかい?」
「違いますっ、ただ、まだあの砂時計、使ってくれてたんだなあって、ちょっと嬉しくなって」

 いつも、カップ麺が出来上がる時間を計るのに使っている小さな砂時計。入社一年目の冬からと随分長い付き合いになるそれは、愛梨から誕生日プレゼントの名目で貰ったものだった。

 ――プロデューサーさん、いつもカップ麺食べてますよねっ。

 溌剌とした彼女の声が、脳裏に蘇って反響する。
 別に好きで食べているわけじゃなかったし、今も好きで食べているわけじゃない。ただ、限られた時間の中で食べられるものという選択肢の中で、おにぎりや菓子パンよりはカロリー的にも栄養的にもマシかもしれないという、そういう消極的な選択だった。
 それでも、今も昼飯にカップ麺を食べているのは、愛梨からあの砂時計を貰ったからかもしれない。

 思い返す。
 誰かから誕生日に贈り物を貰うことに経験がなかったわけじゃない。ただ、正直にいってしまうと、あの頃の僕は精神的に参っていた。
 期待の裏返しとはいえ、入社一年目にしてさっそく大きなプロジェクトに組み込まれて、右も左もわからないままアイドルを担当することになって。
 いつ失敗してもおかしくなかった。僕も、僕に関わる全ての人も、案件も、もちろん、愛梨自身も。そしてその責任はいつも自分の両肩にのしかかっている。これで気が狂わなかったことをいっそ褒めてほしいぐらいだといつも思って仕事をしていた。

「愛梨のおかげで、随分助けられたから」

 正直なところ、愛梨とのファーストコンタクトは、決して印象の良いものじゃなかったことは覚えている。
 いきなり現場に放り出されてアイドルのスカウトを任されて、私はあなたのスカウトを受けられないけれど、あなたの望んでいるアイドルのことを知っている、なんてよくわからない理由で断られたことに悩み続けていた矢先に飛び込んできた、オーディションの審査員という大役。
 あの時、自分の中でちゃんとした判断が出来ていたかどうかはわからない。テンパって夜も眠れなかったし、事前に贈られてきた最終選考に残った女の子たちのプロフィールや自己アピールも、穴が空くほどに何度も読み返していたつもりだ。いや、だから眠れなかったのだけれど。
 そんな状態で迎えたオーディションで果たして、愛梨の自己アピールがどうだったかといえば、確かに極めて強烈なものだったかもしれない。まず間違いなく審査員の印象には残る、だけど人によってはその場で怒り出しかねない。
 それぐらいに絶妙な綱渡りを、愛梨は最初から、きっと無意識にこなしていたのだろう。

 でも、正直自分から応募したんじゃなくて、友達が勝手に応募したというケースは何度か聞いたことがあるけど、オーディションでいきなり服を脱ぎ出そうとするアイドル候補生なんて見たことも聞いたこともなかった。
 だから、そこに動揺して採用通知を早まったところがないとはいえない。
 だけど、その判断に決して間違いはなかった。それだけは、自信を持って今も言える。

 ああ、そうだ。
 いつだって、いや、初めから、ひょっとしたら、生まれたときからずっと、愛梨は完璧にアイドルだったのかもしれない。

「私も……プロデューサーさんが一緒にいてくれたから、ここまで頑張ってこられたんです」

 その言葉に嘘がないのは、内側から滲む熱に潤んだ彼女の瞳が示している。
 思い返す。愛梨をプロデュースしていて、何度か聞いて、今改めて聞かされている言葉のことを。
 嬉しくないはずがなかった。そんな感謝の言葉を添えた砂時計を手に取ったとき、僕は初めてこの仕事をやっていて良かったと、心からそう思えたのだから。そして今だって、トップアイドルとして、その名前に恥じない姿で目の前にいる愛梨からそんな言葉を受け取ったのだ。これ以上の名誉なんて、これ以上に嬉しいことなんて、きっとこの世のどこにもないのかもしれない。

 それでも、考えてしまう。
 愛梨がトップアイドルになれたことに、僕はどれだけ寄与できていたのだろうかと、本当に僕は、彼女に感謝を捧げられるに値する存在だろうかと。
 そうしていつも、思い出すことがある。
 ずっと、きっと今に至るまで掛け違えたままだったボタンのこと。たった二年前に示し合わされた、僕の至らなさと不甲斐なさ、そして、いつもわかった振りをしていたのだと、突きつけられた夜のことを。

◇◆◇◆◇


 正直なところ、いつもいっぱいいっぱいだった。余裕なんてない毎日だった。
 それが言い訳に過ぎないことはわかっている。それでも僕はいつしか、その言い訳に甘えてしまっていたのだ。
 いつだって、その後悔を忘れたことはない。
 愛梨のアイドル活動に問題はなかった。むしろ、順調だったといっていい。他に前例がないほどに、それこそ天海春香や日高舞を比較対象に持ってきて良いんじゃないかと、当時プロジェクトを統括していた上司が太鼓判を押してくれたほどだ。

 いつだって全力で、がむしゃらにやってきたつもりだった。愛梨を、初めて担当したアイドルをトップアイドルの座に押し上げようと寝る間も惜しんでビジネス書を読み漁ったり、営業回りに東奔西走したりと、それこそ命を削る勢いで仕事をしていたことは、昨日のことのように思い出せる。
 だからこそ、愛梨自身に問題はなかったはずだ。問題があるとすれば、それは僕の方だ。
 いつだってそんな気持ちで、仕事をとって、次に繋げようと頭を下げて。

 それでも、世界の進む速度は僕が全力で走るよりも遙かに速い。
 誰かが歌っていた。目にも留まらない速度で今日は昨日になって、明日だった日が気付けば昨日の死骸になって、足下におびただしく積み重なっている。
 意識していたかどうかはわからない。ただずっと、僕は回り続ける世界にしがみつこうと必死になっていた。
 今月の流行コーデがどうのこうのと宣っていた雑誌に映っていた服が、気付けば半額セールのハンガーに吊されている。先月、街頭ビジョンから流れていて、嫌でも聴かされていた曲は別のものに差し替わっている。
 そんな風に世界は目まぐるしく回っても、人間はそう簡単に変わることなんてできない。
 わかりきっていたことのはずだった。

 プロデュースを初めて三年ぐらい経ったところで、愛梨の人気に陰りが出てきた。それは認めがたいことだったけれど、事実だった。
 愛梨が誰からも注目の的になった初代シンデレラガールであることに変わりはない。今だってそうだ。勝ち取った栄光は不変のものとして輝き続ける。
 だけど、アイドルには賞味期限がある。そのことを示すようにCDの売り上げは右肩下がりで落ちていったし、そうしている間にも次代のシンデレラガールが生まれたり、未来のトップアイドル候補生として色んな事務所から日々アイドルの卵がデビューし続けていた。

 だからこそ、焦っていたのかもしれない。
 それを見付けたのは、愛梨に関して贈られてくる様々なデータとにらめっこをしては、前年と比べて下降し続けるグラフに心がへし折れそうになっていた時だった。
 下がり続ける関連グッズの中で一つだけ、飛び抜けて売り上げのいいものがある。
 それは、この前何の気もなしに取ってきた少年誌の売り上げだった。前の月と比べて倍以上に売れている理由は、驚くほどシンプルなものだ。

 ――愛梨が、巻頭グラビアを担当している。

 正直なところ、こういう仕事に関して僕はあまり積極的に手を出したいと思っていなかった。それはある種の意地というか、担当アイドルが水着に身を包んでいる姿を全国に発信すると考えたとき、何か抵抗感のようなものがあったからだ。
 それでも、世間はそれを求めている。
 何よりも雄弁に、そして残酷に、跳ね上がるグラフとプラスのついた数字がそれを物語る。

 アイドルとは、なんだろうか。
 きっとそんなことを同じ業界の人間に聞いたとしたら、今はそんな哲学なんて語っている暇はないと一蹴されるか、そうでなければ僕と同じく頭を抱え続けるかのどっちかだと思う。
 当たり前だ。そこに明確な答えなんてないのだから。今だってはっきりとした答えを出せる気がしない。

 迷走していた。きっとあの三年目から、二年前の夜までずっと、僕は愛梨をプロデュースしているつもりが、愛梨にプロデュースされて、いや、回る世界と自分自身の不甲斐なさにずっと、振りまわされ続けてきたといってもいい。
 それは今でも後悔している。恥じるべきことだとも、思っている。だけど、事実に違いはなかった。
 世間が求めていることがある。多くの人間が望んでいることがある。だったら、それに答えることは正しいことじゃないのか。

 きっとあの頃の僕は、ずっとそんなことを考えていたのかもしれない。
 一人でも多くのファンがそれを望んでいるのなら、望むことを叶えてやるのはアイドルとしてきっと正しいことだ。多分それに間違いはない。実際、今もうちの事務所も余所の事務所も関係なくアイドルたちに聞いて回ったら、ファンの望みを叶えてあげたいと答えない子の方がきっと少数派になるだろう。

 だけど、そこには前提条件がいくつもあって、僕は、それを致命的なまでに履き違えていたのだ。
 そのデータを見て、僕は愛梨の路線をグラビアに寄せていくことに決定した。上層部も数字という根拠があればそれを拒絶する理由もなく、愛梨にもそれを説明したことで、十分に納得してもらえたはずだった。
 白うさぎを模した衣装に身を包んで、どこか物欲しげに潤んだ目で頬を膨らませた愛梨が表紙を飾った週刊誌は、それだけで飛ぶように売れていった。
 捲土重来。あえて誰かが口にすることはしなかったけれど、そんな空気が世間に漂っていたことも、覚えている。

 ファンとの交流企画を立てるコンペティションで、海の家を運営して、そのメインスタッフをアイドルに一任するという企画が採用されたのは、丁度それから一年ぐらい経ってのことだった。
 生憎僕の考案した企画ではなかったけれど、それならば他に適役がいるはずもない、と、メンバー選抜において真っ先に白羽の矢が立てられたのが愛梨だったのはきっと用意されたかのような必然だった。

『うーんっ、気持ちいいですねっ。今回は海の家の看板娘ってことで、私、いっぱいいっぱい頑張ろうと思ってたんですっ』

 企画が始動して、休憩時間に裏方で涼んでいた愛梨へ仕事について尋ねたとき、そんな答えが返ってきたことを覚えている。

『だって、憧れだったんですよ? 今までアルバイトとか、あんまりやらせてもらえなかったから、すっごく楽しみでっ。なんで……って、私もよくわからないんですけど、そういうことしようとすると、いっつも周りのお友達に、愛梨ちゃんは座ってるだけでいいから、っていわれちゃって』

 何一つ曇りのない笑顔で、憧れていたことができて満足していると、そう語っていたのを覚えている。ああ、そうだ、忘れられるはずもない。
 実際に、愛梨の仕事は完璧だった。ファンとの交流という一種の危うさも含んでいる企画を、実質的なリーダーとして見事に取り仕切ってみせたし、彼女が注文された飲み物を運んでいるオフショットや、その後に浜辺で撮影した水着グラビアが掲載された雑誌は例によって書店が悲鳴を上げる勢いで売れていったと、流通関係者から苦笑交じりに聞かされたこともある。
 きっとそこに嘘はなかった。愛梨の憧れにも、仕事に対する真剣な姿勢にも、言葉にも。
 だけど、どこかで何かを掛け違えているような、そんな違和感を、どうしても拭えなかったのは。

『……流石、グラビアで天下取っただけのことはあるわ。ああいうのを天才ってんだろうな』

 同じ仕事に参加していた桐生つかさが、そんなことを呟いていた。
 彼女は決して皮肉屋ではない。他人にも自分にも厳しい子で、だからこそその賞賛は本物だったのだろう。愛梨には天賦の美貌がある。そしてグラビア方面での才能だってずば抜けている。
 そこには何の間違いもない。つかさほどの子から賞賛を引き出せたことだって、本当なら誇るべきことのはずだ。

 ただ、何か違和感があるとするなら、彼女がプロジェクト初期からのメンバーではなく、新規スカウト枠として事務所に、プロジェクト・シンデレラガールズに後から所属したことだった。
 愛梨がグラビアクイーンとして天下を取った。
 そこにだって嘘も間違いもない。愛梨が映るポスターや写真はいつだって人気を博して、注目を集めてきた。何より、その功績こそ全て愛梨のものでも、そうなるように仕向けてきたのは僕自身に他ならないのだから。

 それでも、僕はそこに感じた引っかかりのようなものを拭えなかった。やっていたが元からグラビアの仕事なのだから考えすぎだと言われればそれまでの話だったし、実際、その時はそこまで深刻に捉えていなかったはずだ。
 だけど、十時愛梨が天下を取った最大の要因はグラビアにあると、シンデレラガールの称号よりも先に、グラビアクイーンの称号が、同じ商売の仕掛け人側にもいるアイドルの口から出てきたことは、結果からいえば、決して見逃してはいけないことだった。

 果たしてその後も、愛梨の路線は変わることはなかった。その中でバラエティ番組の司会を務めたり、仕事のバリエーションだって順調に増えていったけれど、世間の認識において、十時愛梨とは何か、ということを分析したときに真っ先に出てくるのは、いつだって彼女の歌より先に、グラビアだった。

 ここで、一つボタンを掛け違えていたことに気付けば、何かが変わったのだろうか。
 わからない。いや、きっと気付いていなかったはずがない。
 言葉にこそ出来ないけれど、見逃してはいけない致命的な齟齬。それは確かに存在していたはずなのに、僕はそれに蓋をして、見て見ぬ振りを繰り返していたのだ。

 だってそうだろう。世間には需要があって、それが何年も落ち込んでいないのは、とりもなおさず愛梨がアイドルとして求められていることの証左だ。そして、多くの人間が望んでいて、愛梨自身もそこに不満を抱いていないのなら、きっとこの方針でアイドルを続けていくことに間違いはない。
 それが、正しいことじゃなくてなんだというのか。
 
 思えばそれも、とんだ思い上がりだったのだろう。
 そうして違和感を抱えていても、悩みや憂鬱を抱いていても、世間は一秒だって待ってくれないで、時間は先へ先へと進んでいく。そうしてどんどん、掛け違えはずれていって、いつしか正しさという名前を借りた服の形だって保てなくなってしまう。
 もがいていた。あがいていた。
 待ってくれと、少しでいいから止まってくれと、ずっと夜眠るときにそんな祈りを八百万もいる神様のどれかに当たらないかとがむしゃらに投げ続けていた。
 そうでもしないとわからないじゃないか。僕がしていることは、本当に正しいのか。進もうとしている道は、過ちに繋がっていないか。
 いつだって、少しだけでいいから、考えさせてほしかったんだ。

 その話を愛梨から聞いたときは、ひどい雪が降っていたことを覚えている。
 首都の道路に積もった雪を、無数のヘッドライトとテールライトが照らしていると書けば少しは風情がありそうなものだけれど、生憎風情より何より、遅々として進まない車が列を成している苛立ちが、時折クラクションになって聞こえてくる殺伐とした夜のことだった。
 僕もわざわざクラクションを鳴らしたりはしないけれど、例に漏れず、少しだけ苛立っていた。進んでいくのは気晴らしにつけているカーステレオから流れるラジオばかりで、車の列は何分経ってようやく一メートル進むか進まないかという有様に、怒りを感じるなという方が無理な話ではあったけれど、ささくれ立った感情の大本がそこにはないことぐらいは理解していた。

『それではここで一曲お届けしましょう、天海春香で――』

 ラジオを垂れ流すステレオの中身が、今もトップアイドルの名を維持したままに活動を続けているアイドルと、その歌声へと切り替わる。
 ああ、覚えている。その時、僕は反射的にチャンネルを変えようとした。アイドル。そして、トップアイドル。思い返せば苛立ちの正体は焦りで、その原因はそこにあったのだから。
 だが。

『いい歌ですよね、春香さんの曲』

 僕の苛立ちを理解していたのかしていないのかはわからない。それでも、チャンネルを変えるなと言っているかのように、愛梨が唐突に沈黙を破ってそう言ったのだ。
 ラジオからは、アコースティックギターが奏でるイントロが流れ出したばかりだった。それだけで曲の良さが判断できるなら苦労はしない。
 だから、僕が返した言葉は怒りとか呆れとかより先に、純粋な疑問だった。

『愛梨は、この曲を聴いたことがあるのかい?』

 確か聞き間違いがなければ、番組の中で天海春香は新曲だと、そう言っていたはずだ。
 それとも本当に聞き間違えていて、本当は二年、三年前に発表されていた曲なのか。どっちにしても鈍っているな、と、自分のアンテナがここ数年で結構錆び付き始めていることに違いはなかった。

『うーん……これって言っていいんでしょうか』
『何か、悪いことでも?』
『そんなんじゃないんですけど』

 発売前の新譜を何かのコネを使って事前に入手していました、というのはそれが流通に絡む人間なら当たり前の話だけれど、歌う方で、ましてや競合する他社のアイドルが歌う予定のものを不正に盗み聞きしたとあれば信用に関わる。
 愛梨に限ってそんなことはないと信じたい。
 その時の僕は、そんな心配を抱いていたはずだ。そもそも、信じたい、という言葉が出てきている時点で、信じ切れていないことにさえ気付けていないほどに、鈍っていた。
 じっと、愛梨の目を見ればそこに嘘がないことはすぐにわかる。愛梨は確かに天然で、意図せずに意味ありげなことを言ってしまったりもするけれど、僕が担当としてみてきた数年間で一度も嘘をついたことはなかった。それは確かなことだ。

 なら、言えない理由はどこにあるのだろう。
 訊こうか迷った一瞬のことだった。
 すぅ、と、はっきり、息を吸い込む音が聞こえた。
 まるでこれから歌声を作り出すかのように愛梨は息を小さく吸い込んで、何かを決心したように拳を小さく固めて、言ったのだ。

『私、プロデューサーさんには感謝してるんです』
『……それは、僕もだよ』

 そこに嘘はない。進む気配のない渋滞の中で、息が詰まりそうな緊張がどこかに空いた隙間から流れ込んできて、背筋を伝っていくような、そんな寒気を感じた。
 その言葉に嘘はなくても、喋っていない部分に嘘が隠されている。
 そんなことは、この業界に限らず日常茶飯事だ。あってはいけないことのはずなのに、本当なら責められるべき間違いなのに、訊かなかった方が悪いと責任を転嫁して、自分たちは間違っていないと開き直る。

 言ってしまえば、僕もその手法を使ったことがないかと訊かれてきっぱりと首を横に振れるような人間ではない。
 本当ならそんなことをするべきじゃないし、したくもなかった。そんなことを、半ば騙してしまった相手の前で宣ったって、何を今更と、嘘を言うなと詰られるのが関の山だ。
 それでも、もしも僕が嘘をつくことで、真実を少しだけ伏せて話をするだけで多くの人間が得をするなら、それは正しいことなんじゃないか。
 そんな風に、騙し騙しやってきた。正しくありたいと願って、正しい結果を出すために間違ったことをする。ひどい矛盾だ。

 愛梨の目は、僕の奥底を引き抜いてそのまま映し出しているかのように透明だった。濁って見えるのは、目を逸らしたくなってしまうのは、きっと僕自身が重ねてきたことがそうさせてしまうのだろう。
 だから、せめて今だけは、愛梨から目を逸らしたくなかった。
 アイドリングを続ける車たちの排気音が、カーステレオから流れる音楽が遠ざかって、一秒が薄く引き延ばされていく。そんな、重苦しい沈黙はどれぐらい続いたのかはわからない。

『私、春香さんに会ったんです』

 だけど、愛梨がしゃべり出す頃には、ステレオから流れている音楽がとっくに終わってしまっていたことだけは覚えている。

『あの天海春香と?』
『はい、あの天海春香さんと』

 いつものように悪戯っぽく、だけど、どこか困ったような笑みを浮かべて、愛梨が答えた。
 この業界は広いようで狭い。天辺に近づけば近づくほど知っている顔が増えて、事務所が違っても仲のいい友達がいる、なんていうのはそんなに珍しいことでもない。
 勿論守秘義務とかそういうものはあるから、守ってくれているかどうかはアイドルたちの良心に任せるほかにないのだけれど、守れなかったアイドルがどうなるかなんて誰だって想像がつく。
 だから、結果としてそれを守れる人間だけが残っている。

 愛梨だって、天海春香と共演したことは何度かあった。同じ放送局が看板番組を二つ抱えているという都合もあって、夏頃に放映されるやたらと長い番組の中で「とときら学園」と「生っすか!? サンデー」がコラボレーションするのは、ここ数年の風物詩でもあった。
 そういう都合もあるから、別に愛梨と天海春香が個人的な親交を持っていたとしても不思議ではない。
 ただ、愛梨が語るには、天海春香と普段から親交を結んでいたわけではなく、その出会いも単なる偶然だったという。

『特に何かあったわけじゃないんです、特別嫌なこととか、普段から嫌がらせされてたりとか、そんなことなんて全然なくて』

 それでも何故か、その日は誰とも会わずに一人で歩きたい気分だったと、愛梨はどこか申し訳なさそうに、まるで懺悔でもするように語り始めた。
 多分、この国に住んでいる人間なら、生まれたての赤ん坊とか一、二年ぐらいの子供を除けば誰だって知っているような大きなテレビ局がある。東京湾の埠頭が程近い位置にそびえ立っているそれはとときら学園のキー局で、そこから少し歩けば海浜公園に辿り着ける。
 だから、その日愛梨は収録を終えると、スマートフォンの電源を落としてその公園に向かっていたらしい。道理で連絡がつかなかったわけだと嘆息する。

『どこか行きたい場所とかもなくて、ただ行ってみようって、夜の海でも眺めてみようかなって、そう思ったんです……って言うと、なんか思い詰めてるみたいですよね』
『……悪いけど、そう聞こえるよ』
『あはは……でも、それって半分は当たってなくて、半分は当たってたんです』

 半分は本当で、半分は嘘。どこか自嘲するように、愛梨は手持ち無沙汰になった指先をくるくると宙に回してみせる。
 行き先を失って、迷子になっていたのかもしれないと、そう思った。
 愛梨の仕草にそんな意図があったかどうかは確かめようもないし、仮にそうであったとしても、そこまでは踏み込んじゃいけない気がした。

 ただ、どこかで行き詰まったとき、人は今いる場所じゃなければどこでもいいからと、結局今いる場所からそう離れていないところをぐるぐると歩き回っていることが多い。うちの事務所だと、一ノ瀬志希――まで行くと本当に放浪癖だが、塩見周子や二宮飛鳥辺りはそんなプチ迷子とでも呼ぶべき癖を持っていることは記憶していた。
 それでも、愛梨にもそんな癖があった、と、いうより、そこまで何か思い詰めていたこと自体が、初耳だった。

『それでは二曲目です、寒さも一気に吹き飛ばす、高槻やよいでゲンキトリッパー、お聴きください』

 何年も担当してきたのだ。正直、そこにショックを受けなかったかと言われれば嘘になる。黙りこくった僕に代わって、続けて、と促すようにカーステレオは二通目のリクエストはがきを読み終えて、この場にはやけに場違いな、アップテンポなナンバーを流し始める。

『正直、私もなんでこんなことしてるのかなって思ったんですけど、海でも見たら忘れちゃうかなって思って、歩いてたんです』

 そして、天海春香と出会った。
 愛梨は掌に握りしめていた宝物を差し出すように、そう呟く。

『春香さん、歌ってたんです。さっき流れた曲だったんですけど、なんでか私、ずっとそれに聴き入っちゃって』

 想像する。愛梨が紡いだ言葉から、夜の埠頭で歌う天海春香の姿を。
 生憎、どんな曲なのかはこのとき頭から抜け落ちてしまっていたけれど、それでも何となく様になっていると、そう思った。きっと、天海春香なら夜の公園だって、ボロボロのテントを背景にした芝生の上だって、どこだって自分のステージになる。
 悔しいけれど、何度かオーディションでぶつかったとき、そして歌番組で共演したときに、彼女の中にあるアイドルとしての魅力というべきものは嫌というほど見せつけられた。

 天海春香より歌が上手いアイドルは何人もいる。それこそ彼女と同じトップアイドルという名声を得ていない原石たちの中にだって、探せば見つかるかもしれない。
 そして、天海春香よりも上手く踊れるアイドルだって何人もいるし、好みは人によって違うから断言は出来ないけれど、天海春香より美人だと言わしめるアイドルだっているかもしれない。
 と、いうより、愛梨なら天海春香に勝るとも劣らないぐらい可愛いし美人なのだから前言撤回、ここにいる。
 それは流石に担当としての贔屓目が入りすぎているだろうかと小さく頭を振って、思考を整理する。

 結局のところ何が言いたいのかと問われれば、天海春香より一芸に秀でたアイドルはこの戦国時代の最中においてはそう珍しい存在ではないということだ。
 それでも、その誰もが、愛梨を含めて皆が皆、天海春香にはなり得ない。
 アイドルとは何かと訊かれたとき、多分それは強力な答えの一つだ。

 自然に、ハンドルを握る手に力がこもっていた。
 それはきっと、僕が抱いていた焦りと、無関係ではなかった。
 焦燥がちりちりと胸を焦がしていく錯覚がした。あと少しで、心臓が破裂して、内側から焼け死ぬんじゃないかなんて物騒な心配を抱いてしまうぐらいに、脈拍が上がっている。
 そして。

『どうしてかはわからないんです。でも、その歌を聴いてたら、私、いつのまにか泣いちゃってて』

 最初にも言ったんですけど、悲しいとか苦しいとか辛いとか、特別そういう何かがあったわけじゃなくて。灯火をそっと投げ込むように、愛梨は言葉を続けた。
 曰く、それで泣いている自分を見て天海春香は愛梨の相談に乗ってくれたのだという。

 ――悔しかった。

 その時に感じたことを言葉にするなら、その一言に尽きる。
 そうじゃなければ、情けなかった。別に、天海春香に何か嫉妬をしているわけじゃない。むしろ愛梨が抱えていた何かしらの悩みに対して力を貸してくれたのなら、そこに感謝こそしても、恨みや妬みを抱くのは筋違いだ。

 それでも、僕は天海春香が埠頭で歌っている姿は容易に想像できたのに、愛梨が泣いている姿をすぐには想像できなかった。
 それがただ、悔しくて、情けなくて、仕方がなかった。それは、今でもはっきりと思い出せる。

 いつだってにこやかに見える人間はいつだって笑っているわけじゃない。当たり前の理屈としてそんなことはわかっている。働きたくない、仕事をしたくないと公言しながら、誰よりも効率的に、言い換えるのなら熱心に双葉杏がそんな自分のキャラクターを理解した上でアイドル活動を続けているように、人間を切り取った一面だけで見るのは愚かなことだ。
 それを頭ではわかっていたはずなのに、僕はどこかで、愛梨はいつだって笑っているのだと、思い込んでいたのかもしれない。
 示し合わせるように、慌てて開け放った記憶の引き出しに収められている愛梨はどれも、にこやかに笑っているものばかりだった。中には怒って頬を膨らませる姿もあったけれど、泣いているのは、ありのままに涙を流している愛梨の姿は。
 ただ一つ、初代シンデレラガールとして、その戴冠式に臨んだ時のものしか、思い当たらなかった。

『死んじゃいたいとか、いなくなっちゃいたいとか、そんなことを考えたことは一度もないんです』
『…………』

 恐らくそれは本当だろう。そこまで思い詰めた感情を抱えて、そしてそれを誤魔化しながら生きていれば、五年以上もアイドルとしてやっていくことは不可能に近い。
 テレビが映し出す華やかなイメージとは裏腹に、アイドルは過酷な職業だ。理不尽と出会うことだって数知れないし、だからこそそんな時にアイドルを守れるように、いざとなったらいつでも彼女たちの代わりに腹を切れるように、僕たちが、プロデューサーが、マネージャーが、そしてそれより上の役職に飾られた人間がいるのだ。

『……でも、ちょっと悲しいとか、ちょっと苦しいとか、つらいとか。そういうことはいっぱいありました』

 ごめんなさい、プロデューサーさん。それが私のついてきた嘘です。
 愛梨は、まるで罪を告白するかのように微かに目を伏せて、だけどごまかすことなく、言葉の一つ一つを噛み締めるように、はっきりとそう言った。

 そうだろうね、とは、言えなかった。
 当たり前としてそういうことがあると理解していても、僕はそういう愛梨に降り積もった悲しさや苦しみを、見抜くことができなかった。
 それは致命的な過ちだった。きっと、取り返しのつかないことだった。
 今だけは車の列が進まないことに、そして頭の中に思い描く天海春香に感謝をしながら、もう取り戻せない悲しみに涙を零してしまわないように、ぎり、と奥歯をきつく噛み合わせる。

『……私、色んな人に支えられてここまで来たことはわかってます』

 あんまり頭は良くないですし、天然ですけど。愛梨はそう謙遜したけれど、それをちゃんと理解している時点で十分に、十分すぎるほどに彼女は聡明だ。

『だから、ずっと……泣いちゃダメだって、そう思ってたんです』

 ダメダメな自分を支えるために頑張ってくれる人がいる。そんな自分を見捨てずにいてくれる人たちの前で弱音を吐くのは、その人たちに失礼だから。
 愛梨が零した言葉は、紛れもない呪いだった。自分の心を縛り付けて、いいことだけを拾い上げて生きていけと、決して悲しんではならないと、それがどれだけ過酷なものであるかは、愚かで鈍い、僕にだって想像できた。

 いつだって、正しくありたかった。
 子供の頃からずっと、そんなことを考えていた気がする。テレビの中に出てくるヒーローになりたいといつも思っていて、それが虚構で、サンタクロースの正体は父親だと理解できるようになっても、この世界のどこかには絶対的な正しさがあって、それに忠実に生きていくことがいいことで、そこから外れるのは悪いことだと、そう思いながら、生きてきた。
 だけど、それがどうだ。誰かのためだと、正しいことだと自分に言い聞かせて偽りながら、すぐそばにいるたった一人の女の子の悲しみにだって寄り添えない。

 これのどこが、正しいんだ。いったい僕の行いのどこに、正しさがあったというんだ。
 鼻の辺りに滲む熱と塩辛さを止める術は、もう持ち合わせていなかった。
 一人の女の子が、今日の今日までそんな呪いを背負いながら生き続けてきた。それを僕は、今になるまでずっと、見落とし続けていたのだ。
 大の大人だというのに僕はただ、すまなかったと、そう繰り返しながら、涙を流すことしか出来なかった。見落としてきた、見過ごして、通り過ぎて、そして見なかったことにしてきた悲しみのために、祈ることぐらいしか、できなかった。

『……プロデューサーさん』
『……愛梨』
『もう、遅いかもしれないですけど』

 泣きたいときに泣いていいですか、つらいことがあったら、弱音を吐いていいですか。それは、迷惑じゃないですか。
 愛梨はそう問いかける。きっと、天海春香に問いかけたのと、同じことを。

『迷惑なんかじゃ、ないさ』

 そしてきっと、遅くもないさ。
 天海春香がどう答えたのかなんて想像できない。それでも同じような言葉を愛梨に返したのだろう。
 だったら、僕はせめて同じだけの慈しみを、同じだけの優しさを愛梨に返せているのだろうか。途中で詰まりながらも、ありったけの想いを込めて、僕は言葉を返す。

『……私、プロデューサーさんのことが大好きです』

 だから、嘘をついちゃったんです。泣いてるところを、見せたくなかったんです。
 ぽろぽろと大粒の涙を零しながら、言葉を詰まらせながら、愛梨は言った。
 きっとどこにでもある些細なすれ違いだ。大好きだと、そう言われることが嬉しくないはずもない。だけど、そう言われるほどに信じてくれているなら、もう少しだけでも頼ってほしかった。
 そう思ってしまったことは確かだけれど、愛梨はそれと正反対のことを考えていたのだろう。

『……僕も、愛梨のことが大好きだ』

 そこに嘘はない。全部が全部本当のことだ。全身全霊をかけて、この命を天秤に乗せろと言われたって躊躇いなくそうできるぐらいに、きっとこの世に存在する全ての意味で、僕は愛梨のことが好きだった。アイドルとして、人間として、そして。
 バックミラーに映る愛梨の顔は、この数年で始めてみるぐらいくしゃくしゃに歪んでいた。そしてきっと、愛梨の目に映る僕も、同じように顔をくしゃくしゃに歪めていたのだと思う。
 だけど、笑っていた。お互いに、前に進んだことを示し合わせるように、ずっとぐるぐると回り続けていた場所から抜け出せたんだとばかりに、僕たちは進まない渋滞の中で二人だけ、笑いあっていた。

 だったら、最初から通じ合っていたんじゃないかと思う。それなのに、通じ合っているはずなのにすれ違う。
 簡単なことのはずなのに難しくして、わかっていることのはずなのに見落としてしまう。それがどうしてなのかはわからない。
 多分これも、この世に遍く存在する、いくら考えたって答えが出てこない問いかけの一つだ。
 だとしたら、神様が七日目にサボったことが、よしとしてしまった間違いが、こういうものなんじゃないかと、そう思う。人間が人間である限り、どうやったって間違い続けてしまうこと。

 誰かのために生きることはきっと美しい。僕たちはいつだって、そう教えられて育ってきた。
 誰かのために自分を殺して、誰かの願いを叶えるために生きていく。それは奇しくも、アイドルという生き方を、あり方を選ぶのなら、どうしたって避けられないことなのかもしれない。

 だとしても。
 きっと迷いに迷ってどうしようもなくなったとき、最後に優先すべきものは一番近くにあるものなんじゃないか。
 そんなことを考える。もちろん、それが許されないことだって世の中にはいくらでも転がっている。滅私奉公。そんな美徳の為なら自分の命の優先度だって提げても構わないと豪語する人間だって、掃いて捨てるほど存在している。
 それでも、それが間違いだと言われても、最後に選ぶべきは、きっと自分の思ったことなのだ。

 どうしたいかだけで、ただそれだけでいい。泣きたいときに泣いて、笑いたいときに笑って。
 そして、歌いたいときに歌うように。
 思えば、この時にきっと、決まっていたのかもしれない。
 そこにいくつも後悔を残すことをわかっていても、きっと本番になっても未練を捨てられないことをわかっていても。

『愛梨』
『なんですか、プロデューサーさん?』
『歌手路線で行くつもりはないか?』

 見なかったことにして、記憶の底に沈めていたものを引っ張り上げながら問いかける。

 ――愛梨ちゃん、絶対歌手路線でいった方がいいのになあ。

 愛梨がグラビア路線を歩み始めたのだと世間に周知された当初、ツイスタに寄せられていた意見の中にぽつりとこんな意見があった。それは誰の賛同も得られず、ぽつりと電子の海の中に融けて消えてしまったけれど、僕の記憶の片隅には、確かに引っかかっていた。
 愛梨は歌を歌わなくなったわけじゃない。今でもそれなりに歌番組に呼ばれることはあるし、歌唱力だってデビュー当時からは信じられないぐらいに上手くなったと、好評を博している。

 だとしても、十時愛梨といえば、というイメージを世間に問いかけたとき、歌、という言葉が返ってくる確率は低いだろう。
 博打だった。今のグラビアもバラエティもこなせて歌が上手いマルチタレントとしての十時愛梨というパブリックイメージを投げ捨てるのは、正直なところ勿体ないと、このままの路線を維持してバラエティ女優の道に進むことだってできるのに、ここにきてがらりとイメージ戦略を変えるのは愚策だと、そう言われても仕方ないのかもしれない。

 残念ながら、僕はその意見に対して、きちんとした理屈を立てて反論することはできなかった。はっきりいってこれは根拠のない無謀な賭けだ。今までの安定を投げ捨ててまで得られるリターンがあるかどうかさえわからない。
 それでも、確信だけは持ち合わせていた。

『はいっ! 私、歌いたいですっ!』

 示し合わせたように、愛梨は力強く、きっと、心の底からそう答えた。
 愛梨の歌を、もっと皆に聴いてほしい。あの歌声を、初めて聴いたときに、上手いとは決して思わなかったけれど、きっと何か、大きな事を成し遂げてくれるという予感と確信を抱かせてくれたこの声を、埋もれさせてしまいたくはない。

 きっと愛梨は何にだってなれるだろう。グラビアでだって天下を取った。バラエティの司会者として何年も看板番組を持ち続けている。時間はかかるかもしれないけど、ダンスで世界を目指せる可能性だって、あったはずだ。

 だから、どうしたいかを聞きたかった。愛梨は何になりたいのか。今どうしたいのか。
 ずっと、何よりも訊かなければいけなかったこと。それを取り戻すように、僕はその答えが形になるのを思い描く。

『なあ、愛梨』
『なんですか、プロデューサーさん』
『天海春香が歌ってた曲の名前、覚えてるか?』
『はい、覚えてますっ。えっと、確か――』

◇◆◇◆◇


 果たして十時愛梨が歌手路線一本で行く、という僕の掲げた博打は無謀の一言で一蹴されるかと思いきや、すんなりと社内を通ってくれた。
 それは皆が皆、僕と愛梨の決めたことに賛同してくれた、なんて都合のいい話じゃないことぐらいはわかっている。
 愛梨が積み重ねてきた功績が道理を蹴っ飛ばして無理を通せるほどのものだったというものもあるし、愛梨自身、デビューから随分と経っていて、かつてボーダーラインとされていた、路線の転換か或いは引退かを迫られる年齢に近くなったのもある。
 だから、会社としても最後に花道を添えてくれるぐらいの感覚だったのだろう。

 そこに何か憤りを感じなかったはずはない。愛梨は紛れもなく初代シンデレラガールとしてスターダムを駆け上がったアイドルなのだ。だったら、その花道を誰もが羨むぐらいに、見ている人間の目が潰れかねないぐらいに豪奢なものに仕立て上げてやろうじゃないか。
 あの夜から二年間は、ずっとその一心で、初めて入社した頃に戻ったように方々をかけずり回っていたように思う。
 そしてその結果は今、僕の目の前に現れている。

 今はまだ微かにざわめいているだけだけれど、愛梨が舞台に登った瞬間に、五万五千の歓声が、そして会場の外から何十万の歓声が万雷のように彼女へ降り注ぐのだ。
 それは全て、愛梨の歌声が成し遂げたことだ。
 歌手路線一本で行くと決めたとき、世間の反応は決して好意的なものじゃなかったことは覚えている。とときら学園の司会が交代すると訊いて、わざわざツイスタにファンをやめることを公言したアカウントだって何個あったか数え切れない。
 それでも、愛梨の歌は彼女を見放した人間を、それまで見向きもしなかった人間を、何となくその辺を歩いて街頭ビジョンを見上げただけの人間を。老若男女を問わずその首根っこをひっつかんで、振り向かせてみせたのだ。

 きっと、奇跡と人はいうのかもしれない。
 いつだったか、路線を変えることになって、最後に臨むこととなった和装グラビアの撮影の時に愛梨が呟いていた一言が、はたと頭の片隅に零れて落ちる。

『何千年先も、みんなの心に残るような……そんなアイドルになりたいです』

 残念ながら、末永く、とは行かなかったけれど。
 きっと、十時愛梨の名前は歴史に刻まれた。彼女の歌が、天海春香に続く記念碑になった。

 だけどそれは奇跡でも何でもない。全て、愛梨が成し遂げた必然だ。
 舞台の幕が上がるまで、もう時間は残されていない。
 プロデューサーは、アイドルの一番最初のファンだと誰かが言った。実際に、僕もその通りだと思っている。
 だけど、一番の最初の、そして一番のファンであるはずなのに、そのステージを裏方から見守ることしか僕にはできない。当たり前だけれど、それが少しだけ今は歯がゆかった。

「愛梨」
「なんですか、プロデューサーさん?」
「僕は……君の力に、なれていたかな」

 きっと、愛梨は生まれながらのアイドルだった。その足でどこまでもいける強さを、そしてどこまでも飛んでいける、目には見えない天使の羽根を背中に負って生まれてきた。
 だからもしかしたら、隣にいるのは僕じゃなくてもよかったのかもしれない。それどころか、僕以外だった方が良かったことだってありえるかもしれない。
 そんな不安を一蹴するように、きつく握りしめた僕の両手にそっと、慈しむように柔らかな掌が触れる。

「私、一番最初に言いました。私がトップアイドルになれば、プロデューサーさんはトッププロデューサーになるって、だから、トップを目指すって、プロデューサーさんといれば、トップアイドルになれると思うって」
「……ああ、覚えてるよ」
「それと、あの時言いました。大好きですって。だから、私のプロデューサーはプロデューサーさんだけです。そこに、代わりなんて絶対にいませんっ!」

 思えば、至らないことばかりだった。
 取り返しのつかない見落としをした。直視しなければいけないことから、目を逸らし続けていた。それだけじゃない。重ねてきた失敗や後悔の数を数えていけば、それはきっと果てしなくて、途方もないものになっていることだろう。
 それでも。それでも、愛梨が、僕で良かったと、そう言ってくれるのなら。

「……ありがとう。ああ、安心した……こんなに嬉しいことはないよ、愛梨」

 明日世界が滅ぶと思って生きている。
 僕について、誰かにそんな噂をされたことがあった。
 実際、僕は良かったことよりも間違ったことや後悔ばかりを、正しさに足りなかったことばかりを数えて生きてきたような人生を今まで送ってきたのだから、それはきっと間違いじゃない。

 それでも、きっとそのおかげで、絶対的な正しさなんてどこにもないように、間違いの全てが間違っているわけじゃないと、間違えてしまった選択肢の中にだっていくつも正しいこととか、いいこととか、そういうものがちゃんとあるんだと学ぶことができた。
 いいや、きっとそれを間違いと、過ちだと言い切って、捨ててしまうのが、間違っている。随分と長く、迂遠な道を辿って、ようやく理解することができたのだ。
 そして、それを教えてくれたのは愛梨に他ならない。
 そんな愛梨が、他の誰でもない僕を好きでいてくれると、僕であってよかったと言ってくれたのだ。これ以上の幸せなんて、この世のどこを探したって見つかるはずがないだろう。

「……行ってきます、プロデューサーさん。もう一度言いますよ……大好きですっ!」
「ああ、僕もだ! 行ってこい、愛梨!」

 万感の思いを、自分の中にあるだけの感謝を言葉に代えて、僕は最後の仕事として、きらめく舞台へと担当アイドルを送り出す。

 ――プロデューサーさん、プロデュースしてください! ほら、レッスンしましょ!

 愛梨を担当することになって初めてレッスンに同伴するとき、そんな言葉をかけられたことを覚えている。
 スタッフに見送られて、ゆっくりと開いていくカーテンの演出に合わせて、愛梨は花道を歩んでいく。
 人生は長い旅路のようなものだと誰かが言った。だとしたら、僕たちが歩んできたのは、きっと始まりを探す旅だった。
 一番最初に、見失わないようにと突き立てた旗。トップアイドルになるという目標を、何より早く達成してしまったからこそ、見失っていたこと。
 歌いたい。大好きな人に、今まで貰ってきた愛に、同じだけのものを返したい。
 きっと愛梨が、最初に願っていたこと。そしてずっと、願い続けてきたこと。
 それが今、歌になって花開こうとしている。

 万雷の歓声が地鳴りを引き起こさんばかりに轟いて、アップルパイのお姫様を、その最後の凱旋を迎え入れる。
 セットリストに抜かりはない。寝る間も惜しんで練り上げて、時には意見を衝突させながら演出家と持論をぶつけ合って研磨した、最高のものだと断言できる。
 ああ。
 今、裏方にいることがこんなにももどかしい。
 なぜなら、今愛梨が立っているのは、最高の舞台だから。歴史にきらめく名前を刻む舞台だから。それを正面から見届けられないなんて、まるで拷問だ。

 それでも、聞こえてくる歌声が、歌い、踊る愛梨の姿を脳裏へと鮮明に描いていく。
 さっきまでは一秒が永遠に感じられるぐらいに時間の進みが遅かったのに、一曲一曲が終わる度に、少し裏方に戻って衣装の早着替えをするのが一瞬に見えるほどに、時計の針は荒れ狂っている。
 どこまでも圧縮された一秒。そこに詰め込まれているのは、愛梨が描いた全ての軌跡だった。そして、今、描き出そうとしているのは。

「私、天然だってよく言われるんです」

 知ってる、と、マイクパフォーマンスに答えるようにレスポンスが飛んで、会場が笑いに包まれる。だけど、そこに侮蔑や嘲笑は一切ない。裏方から客の姿は見えないけれど、一つに溶け合って聞こえてくる笑い声は色とりどりだけれど、皆、温かなものに感じられる。
 皆、ずっと待っていた。愛梨が帰ってくることを。このきらめく舞台で歌うことを。
 いくつもの優しさに、何物にも代えることの出来ない幸せに包まれて、愛梨はフィナーレを謳う言葉を噛み締めるように紡ぎ上げていく。

「あはは……そうですよねっ、だから……今まで私、色んな人に支えられてきました。きっと何回ありがとう、って言っても足りないってわかってます。だけどずっと、それを返そうって思って、今日まで頑張ってきたんです。正直、今もそれができてるかどうかはわからないです。でも、泣いても笑ってもこれが最後ですから、今、この会場に来てくれている皆にも、それから……ライブビューイングで見てくれている皆にも、来れなかったけど、私を応援してくれる人にも、そうじゃない人にも、皆に届くように、精一杯に、私の全力を、全部の愛を込めて、歌います!」

 ――それが、愛でしょう!

 いつか聞こえた、優しいアコースティックギターの旋律が会場を、そこから飛び出して、カメラの先にある映画館のスクリーンを、それすら追い越して、世界を、この星全部を包み込むように響き渡る。
 最後を飾るのに選んだ曲がカバー曲だというのも、異端な話ではあった。それでもどうしてか、愛梨のフィナーレを飾るなら、これしかないというのは、しょっちゅう意見がぶつかり合った演出家も、企画を通してくれた上層部も同じだった。

 そして今、ここまで歩いてきた軌跡が、奇跡に変わってステージで弾ける。きっと、いくつもの想いと光が作り出す虹に包まれて、いくつもの声に、いつだって彼女を支え続けていた見えない手に背中を押されて、他の誰にも代えることの出来ない愛梨の、愛梨だけの歌が高らかに響く。
 その歌声を、そして、すぐ側に近づいてきた終わりを想いながら考える。愛梨とのこと。辿ってきた足跡のこと。そして、きっとここからどこかに繋がっていく何かのこと。
 天海春香が歌った歌が十時愛梨に引き継がれてここにある。もしかしたら、このステージを見ている誰かの中に、見ていない誰かの中に、この歌を、そこに込められた想いを引き継ぐ誰かがいるのかもしれない。

 正しいこと。間違ってしまったこと。そしてその正しさの中にある間違いと、間違いの中にある正しさのこと。歩んできた全てと、これから歩む全てを抱え込んで、今、愛梨はありったけの思いを歌っている。ずっとすぐ傍にあった願いを、全身全霊をかけて歌の形に込めている。
 歌が聞こえる。回る世界に弾き出されて見失ってしまったものも、仕方ないからと言い訳をして見て見ぬ振りをしてしまったものも、取り返しのつかない過ちも、過ぎていく時間の中に打ち棄てられたものも、全てを包み込んで抱きしめるような、そんな優しい歌声が。
 愛梨。きっと、生まれたときからずっとそうあるように願われて、彼女自身もそう願い続けてきた一つの祈り。
 世界はきっと、それを愛と呼ぶんじゃないだろうか。
 笑って、泣いて、それでも今日まで必死に辿り続けてきたその軌跡を、だから今ここで花開いているこの奇跡を、そして今、世界へと答えを返すように高らかに響き渡る、世界に二つとない、あの優しい歌声のことを。

◇◆◇◆◇


3.「THE IDOL M@STER」

 その話を切り出したとき、随分チャレンジャーだな、と、私を担当するプロデューサーは呆れるようにそんな言葉を残して困ったように頭を掻いていたけれど、それでも不敵に笑っていた辺り、彼も同じ穴の狢なんじゃないかと思う。

 果たして私は第二十二期プロジェクト・シンデレラガールズのオーディションに何とか受かって、初めてのミニライブに立とうとしているのだけれど、その道のりは決して順風満帆とはいえないものだった。それどころか、幸先が悪いといっていいものだったかもしれない。
 オーディションは、私が思い描いていた理想とは遙かにかけ離れたものだった。
 自己紹介の時には噛み噛みで、自分でも何を言ってるのかわからなかったし、しまいには自己アピールの機会で挽回しようとしたら、パイプ椅子の脚を踏んづけて派手に転んでしまう始末だった。
 正直、落ちたと、私も含めてあの時会場にいる誰もがそう思っていたに違いない。実際、涙目になりながらちらりと一瞥した隣の子なんて、小さくガッツポーズをしていたぐらいだ。
 この野郎、と、正直いらっときたけど、こんな重要な場面ですっ転んだ私が悪いと言われればぐうの音も出ない。形にしたのはその子だけだったけど、心の中では他の子だって同じことをしていただろう。

 それでも、ただ一人、派手にすっ転んだ私を見て爆笑していた人――その後、私を担当することになるプロデューサーだけは違っていたみたいだった。
 一応自己弁護するなら、アピールタイムに歌だけはちゃんと歌いきった。課題曲の「お願い! シンデレラ」。何度もカラオケに通って、百点を安定してたたき出せるまで練習した曲だ。
 でも、それが何の足しになるんだというレベルで無様な姿をさらしてしまったのだから、もしかして落選の通知すら送られてこないんじゃないかと、合否通知が来る前の日は一日中、布団を被って震えていたことを覚えている。

 それなのに、何がどう転んで、どこでどう噛み合ったのか知らないけれど、私の元に贈られてきたのは、合格通知だった。
 胃がひっくり返るかと思った。皆が総出で私を騙そうとしてるんじゃないかと、そうじゃなければ夢を見てるんじゃないかと何度もほっぺたを引っ張ったり、手紙の文章とにらめっこしてみたり、果ては採用担当に電話をかけてみたりしたけれど、どうやら奇跡というのは本当にあるらしい。
 私は、間違いなく合格していた。採用担当の人もどこか呆れながらも、嘘じゃないよ、と、何度も念を押すように言ってくれたけどあの人には相当迷惑をかけたんじゃないかと、思い返す度に顔が真っ赤になる。

 それはともかく。
 プロジェクト・シンデレラガールズはそれ自体がトップアイドルの登竜門と呼べるぐらいに有名なものだ。大資本が経営しているからというのもあるけれど、何よりも。
 神崎蘭子。渋谷凛。塩見周子。島村卯月。高垣楓。安部菜々。本田未央。北条加蓮――指折り数える歴代のシンデレラガールには、アイドルに興味がないと公言してはばからない人だってきっと知っている、錚々たる名前がいくつも並んでいる。
 そして、その一番初めに十時愛梨の名前がある。それがその証明だった。
 例えシンデレラガールに選ばれていなくても、アイドルアワードを受賞し、トップアイドルと呼ばれる存在を数多く輩出してきたプロジェクトなのだから、今なお戦国時代が続いているこの業界だ。有名にならない理由がない。

 今アイドルになりたくて、そしてトップを目指す気概があるならシンデレラ城の門を叩け。
 オーディションで出番が回ってくる前に、私と同じ候補生だった子たちの誰かが、誰の受け売りなのかは知らないけれど、どうにも有名になっているらしいそんな、格言めいたことを呟いて、闘志を燃やしていたことを思い出す。
 初めに言い出したその子もどうやら合格したみたいで、今は結構やり手のプロデューサーがついたりして、期待されているとは聞いたのだけれど――まあ、私にはあまり関係のない話だ。

 とはいえ、いつだって華やかなのはカメラが映し出すピラミッドの天辺だけだ。
 プロジェクト・シンデレラガールズに所属することはただの始まりでしかない。
 身内で競い合うことを前提にしている以上、プロジェクトの上の方にいるアイドルのバックダンサーや前座をやれるチャンスがあったりと、確かにそこらの事務所よりは豪華といえるかもしれないけれど、誰もが頭の中に思い描くような華々しいデビューを迎えられるわけじゃない。
 実際、今私が臨もうとしている、キャパが二十人あるかどうかも怪しい複合商業施設の広場を会場にしたミニライブだって必死に、新人枠の中で開催されたオーディションを勝ち抜いて、この手に掴んだものだ。

「準備はいいか?」

 用意された衣装に身を包んで、ステージに登ろうとしている私に、プロデューサーは不敵な笑みを崩さないままそう問いかける。
 この人の中にどんな期待があって、あれだけ失敗した私を拾ってくれたのかはわからない。
 それでも、今もきっと何かを期待しているのだろう。だったら、それに応えるのが恩返しのはずだ。

「はい、大丈夫です」
「緊張してるな。まあ、無理もないさ。気楽にとは言わないけど、肩の力ぐらいは抜いておけよ」

 でないと、またすっ転ぶぞ。
 プロデューサーは豪快に笑いながらそんな冗談を飛ばしてきたけど、正直こっちとしては笑い事じゃない。
 初めてのオーディションでもすっ転んで、初めてのライブでもすっ転んだアイドルなんて前代未聞だし、それでイメージがつくにしたって、転倒系アイドルなんていくらなんでも縁起が悪すぎる。

 好き嫌いで語るなら、私はプロデューサーのそういう無遠慮なところがあんまり好きじゃないけれど、多分悪い人じゃないんだというのは、私の無茶なお願いを聞いてくれて、それを形にしてくれたことからもわかる。
 歌いたい曲がある。
 新人がそれをリクエストするのは、分不相応なことだというのはわかっていた。
 それでも私に担当のプロデューサーがついたあの日、開口一番に言ったのは挨拶とか自己紹介じゃなくて、そんな無謀な、戯れ言だと一蹴されるようなお願いだったのは今でもはっきりと覚えている。
 それを聞いたプロデューサーは、当然だけど笑っていた。さっきみたいに豪快にがはは、と大口を開けて。呵々大笑、なんて言葉を実践するならきっとこんな感じだとばかりに笑っていたのだ。
 だけど、そこに私を馬鹿にしたり、侮蔑するような響きがないことはすぐにわかった。
 馬鹿だと、とんでもない馬鹿を担当することになっちまった、と口にはしながらも、私を拒絶していないのが、何よりそれを雄弁に物語っているのかもしれない。

 思い出す。初めて、魔女に会ったあの日のことを。
 あのひとは、公園にいる皆の視線を釘付けにした。そして今、舞台袖から覗く街角では、あの時とは比べものにならない数の人々が忙しなく行き交っている。
 だけど、私の歌でその中のどれぐらいを振り向かせられるだろう。
 頭の中ではいくらでも、最悪なケースを思い描ける。でも、心はどこかで期待を捨てきれない。オーディションの時と一緒でいつだって最高を思い描いて、それが叶うことを信じて疑っていないのだ。

 それが、愛でしょう。二人の歌姫に歌い継がれたナンバーの名前。
 デビューしたての新人にはあまりにも荷が重いと、それどころか不遜でさえあると言われたって、何の文句も返せない。
 だけど、歌いたかった。例え目の前にどれだけの大金を積まれた上で別な曲を歌ってくれと言われても、首を横に振るぐらいに、私の心はそれを求めていた。
 正直なところ、デビューしたばかりのアイドルが何の歌を歌えるのかなんて訊かれたら、多分その答えは何も歌えないというのが正しいのだろう。

 私より先に、恋を歌った子がいた。ポップでキュートな夢を歌った子がいた。だけどそれは完成形とはほど遠いものだと、何よりもその子たちがわかっているのだろう。そうじゃなければ、どこか悔しそうに唇を噛んで、レッスンルームにかじりつくようにしてボーカルの練習を重ねるはずがない。
 だからまだ、恋の歌だって、夢の歌だって私はきっと歌えない。
 恋から先にあるものが愛だというなら、きっと愛の歌だって私には歌えないはずだ。

 それでも。
 それでも、他の誰でもない私が持っているものがある。
 本番前のカウントダウンをスタッフの人が読み上げる。一秒一秒が重く、遠くなっていくような緊張が、ぶるりと背筋を振るわせる。

 大丈夫。何度もそうしてきたように、自分に小さく言い聞かせる。
 そして、震える背中を後押しするように、私の肩にごつごつと骨張った感触と、三十六度の体温が触れた。行ってこいと、どこかでなんか失敗しても、俺がいるからと、私が緊張する度に、口癖のように繰り返してきたエールに代えて、プロデューサーの手が私を舞台へと送り出す。

 薄く目を見開いて、カーテンの隙間から見える舞台はきっときらめく場所からは遠いのだろう。喝采は湧き起こらない。ペンライトが描く虹は浮かばない。
 ――それでも。
 自分に言い聞かせるように、繰り返す。
 それでも、今日ここから、私の旅は始まるのだ。

 十時愛梨。憧れた名前は、私が初めに触れた記念碑は、同じ舞台に立って眺めてみれば、遙かに遠いところにある。
 八番の子、合格です。社内オーディションの審査員をしていた担当の人が、無機質に読み上げたのは結果と番号だけで、そこに私の名前はない。
 今だって、それはきっと同じことだ。舞台に飛び出した私に、名前はまだないに等しい。
 どれだけしつこく名乗ったって、呆れるぐらいによろしくお願いしますと繰り返したって、何百人の中で一人、気に留めてくれた人がいたならそれだけでも望外の幸運だと言い切れるぐらいに、アイドルという存在は飽和して、ありふれたものになってしまっている。
 だけど、その幸運を引っつかまなければ、私が手にすることを願って、プロデューサーが形にしてくれたこの一歩を踏み出すことすらできないんだ。

 簡易的な自己紹介を終えて、一曲だけを披露する機会が巡ってくる。
 大丈夫。言い聞かせるのは、過去に怯えて震えていた私。そして今、緊張で口から心臓が飛び出そうになっている私。そして。
 静かなアコースティックギターのイントロが、見えない手に押し出されたかのように私の背中を突き抜けて、観衆へと向けて響き渡る。
 五人。微かに足を止めて、また歩き出した人まで含めても、たったそれだけ。この曲の力をもってしても、今はまだ、何百人の中から片手の指で数えられる人の足しか止められない。

 そしてそれは、私自身の力じゃない。
 わかっている。不遜で、傲慢で、向こう見ずな私だけど。
 恋のことだってわからないし、そこから先にあるもののことなんて、想像もつかないけれど。
 それでも、十年以上抱えてきたものがある。だから今、この舞台に立っている。

「未熟者かもしれません、だけど、小さい頃に歌が嫌いになりそうだった私を助けてくれた人に感謝を込めて、全力で歌います!」

 恋は一種類だけだけど、愛にはいくつもの種類があるんだぜ、なんて歌っていたのはどこの誰だろう。緊張している今じゃなくたって、思い出せないけれど。
 今この瞬間、私にしかないものを歌いたい。だけど、ふとしたときに湧き起こってくるものじゃなくて、ずっとずっと、抱え続けて生きてきたもののことを。

 小さく息を吸い込んで、いち、にい、さん。
 私は歌う。あの日、素敵な魔女から貰った魔法のことを。それから生きていく中で、歴史の中に突き立てられて、途方もないぐらい遠くで今もはためき続けている旗を目指す旅路の始まりを。
 そして、その始まりをくれたあのひとへの、十年以上ずっと胸の内側で押さえつけられて、外に出たがっていたありったけの想いを、今ここで歌うのだ。

「――それが、愛でしょう!」

 世界がそれをなんて呼ぶのかはわからない。もしかしたらもっと違う何かなのかもしれない。だけど。
 愛情。友愛。恋愛。親愛。ぱっと思いつくのはこれぐらいだけれど、いくつも種類があるのなら、きっとそのどれかにぐらいは引っかかっているんじゃないかって、そう思う。

 大きな愛がくれた、小さな愛から始まったこと。そして今ここで歌っている、私の中では確かに愛と呼べるものから始まること。
 世界がそれを愛と呼ぶまで、それがいつか、歴史に深く刻まれたあの大きくて、偉大な、だけど愛しい名前に辿り着くまで。そこに至るまでも、もしかしたらあるかもしれないそこから先も、全部が全部途方もなくて想像なんかできないけど。
 伝説になるかどうかなんてわからない。それでも確かに、今日ここから、私の旅は始まっていく。
 愛から始まる、物語の旅路。そして、刻まれた多くの足跡に続いて、まだ名前の無い私が、きっとあのひとに貰ったアイドルとしての名前を記すまでの物語が。

終わりです、長々と失礼しました。HTML化依頼出してきます

このSSまとめへのコメント

このSSまとめにはまだコメントがありません

名前:
コメント:


未完結のSSにコメントをする時は、まだSSの更新がある可能性を考慮してコメントしてください

ScrollBottom