アルコ&ピース平子「夏の概念と夢の国」 (25)
2021年はひどく穏やかな8月を迎えた。その穏やかさったら恐ろしいくらいで、無風の海のようだ。凪っていうんだっけ?見た、ちょっと前にアニメで見た。まるで日本の全てから一切合切、騒音が消え去ってしまったかのようにすら感じる。
暁を覚えることを知らない眠気にぼんやりと遠くの方を見ると、散り際を間違えた桜がひらひら、強い風に吹かれては遠くの方までひゅるると飛んでいってしまった。
桜だ。
「キレイだねー」
そんな子供達の声が聞こえる。
夏らしくない。
いや、違う。
そんなレベルじゃない。
「夏が、来ない。」
8月の平均気温はここ数年の統計をとっても29度前後、比較的高めの温度で推移しているらしい。が、今年は30度超えどころか25度にも届かない日が続いている。エアコンを付けなくて済むのはありがたいが、かと言って夏のあの強烈な日差しがないのは寂しいばかりだ。
こんなことになっているのは、なんでも日本、それも東京だけらしい。涼しい風が頬を撫でる、本当に今は夏なのだろうかとスマートフォンのカレンダーを見直したが、やっぱり8月。俺の見間違いじゃない。
───まるでコンクリートジャングルが夏と言う概念を忘れてしまったみたいだ。
……なんて、なんだか詩的な言葉が頭をかすめる。
そもそも6月くらいから、全く平均気温が5月と変わらないという話になって皆が不安がっていた。扇風機の売れ行きも悪いと業界が頭を抱え、観光地はいわゆる避暑地も大きくは盛り上がっていないそうで、ワイドショーでは連日その話題に時間を割いているような有様。
異常事態だ、と学者達が騒ぎ立てる。会議は熱量をはらんだが、されど進まず。東京だけ、というのが余計に分からなかった。海外の学者もあれやこれやと調べて論文をいくつも発表したが、どれも確信に至ることはなかった。残念ながら、原因を特定することができなかったってこと。
東京五輪がうまいこと行って良かった、と言いたいところだが、それとこれはまた別の話。海外選手も『東京の暑さに対応するために練習してきたのに、涼しすぎて体が動かない』なんていう始末だ。
今日も日中は22度、ひどく穏やかな日差しが車を照らした。鮮やかなベガスイエローも、柔らかな光のおかげか心なしか目に優しく見える。
それにしても、8月の桜なんてきっと前代未聞だろう。だが、平均気温があまりにも低すぎたせいで、ここまで開花時期がズレ込んでしまった地域が複数あるらしい。そんなの、ありえんのか?なんて疑問があったが、実際こうして目の前にあるのだから飲み込むしかないのだろう。セミ達は鳴こうとしているが、気温が上がりすぎないせいか妙に元気がなく思えた。
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まあいいや、とりあえず仕事するだけだ。車を走らせて、今日も仕事に急ぐだけ。とはいえ、まだ始業の時間には全然余裕があるので、安全運転で向かうことができる。桜は徐々に散っていて、きっと9月まではもたないなと思った。
しばらく直進してから緩やかなカーブを曲がって、見えてきたビルの駐車場へと進んでいく。出入りを管理する警備員が、小さいプレハブみたいな小屋から出てきてこちらに会釈する。それに応じて頭を下げてから窓を開けた。
「おはようございます」
慣例となった挨拶をした。
「ああ、どうもお疲れ様。今日も涼しいですねえ」
警備員はそんなことを言って空を仰ぐ。うっすら雲が泳いでいる青は遠くまで澄んでいて、僅かに見える月が綺麗に光っている。風もそこまで強すぎやしないし、今日もいい日になりそうだった。
屋外から屋内へ、ビルの地下にある駐車場へと車を走らせていく。特段空気がひんやりとしていて、むしろ冬かと思ってしまうくらいの温度感が肌を刺すようだ。
さてさっさと駐車して、と───
遠くの誰かと、目が合う。
誰かが、こちらに向かってくる。
それはどこかで見覚えがあるようなないような、俺とは面識がないはずなのに、なぜだか妙に懐かしい感じのする、褐色の肌の男だった。
足取りははじめ重くゆったりしており、しかし近付いてこちらを見た途端……何かを確信したように、弾かれたかのように、突如急いで走り出す。しかもそいつは、真っ直ぐに、迷いも躊躇いもなく、真っ直ぐに……俺の方へとやってくるじゃないか。
なんだ、なんだよ?一体何なんだ?少し恐ろしくなってしまって、俺も釣られて走り出す。
「……っ、待っ、ちょっと待って!なんで走んのよ!」
背後からそんな叫び声が聞こえたが、面識のない人に追いかけられるいわれもないわけだし、お構いなしに走っていくことにした。恐ろしくて仕方がない。
……最近はどこで何が起きてもおかしくないからなあ。どこかで恨みでも買ってしまったのだろうか。
「マジで待って、話聞いt」
ガシャン。
絞り出すような叫び声は、エレベーターの鋼鉄のドアに阻まれて消えた。
いや、俺は彼のことは、知らない。きっと何かの間違いだ、誰か別な人と見間違えているのだ。
……それにしても彼とは、一体どこで会っただろうか。何故か顔を見た途端に、少しだけ懐かしい気持ちになって、つい泣きそうになってしまった。
どこでだろうかと思い出そうとすると、これまた妙なことに脳裏がにわかに痛み出す。ずきずきと、こめかみにまで痛みが到達して、思わず顔をしかめた。
きっと考えないほうがいい事なんだろう。
軽く首を振って、その痛みを飛ばした。
そうだ、そうだよな。俺があんな人間を、知っているわけがない。
エレベーターはやがて、目的の階に到達した。ゆっくりと扉が開き、一歩かごの外へ足を踏み出す。天井の照明がやたらに眩しくて目が眩んだ。
その中で、先程の彼を隣に、俺が舞台に立っている幻覚が見えた。
なんだ、これは?
いや、彼とは会ったことはないはずだ。ましてや、舞台に立つだと?俺が?そんなわけがない。客席を前に、自分の前に置かれているのはスタンドマイク、それに向かって語っているような、そんな幻想だ。
夢にしてはあまりにもリアルだけれど、心当たりがない。
首をかしいで、今日の業務へと向かった。
それから……オフィスに到着して1時間ほど、デスクワークをしただろうか。
「主任」
部下に呼ばれ、俺は顔を上げる。
そこにいたのは、最近入ったばかりの女子だ。どうも俺に気があるようで、ことあるごとに声をかけてきてくれる。例えば、先日などは『これから時間ありますか?一緒に食事はどうですか』なんて言ってきた。
可愛らしいし、気立ても良く、好みのタイプであることは間違いない。そろそろこちらからもアプローチしていい頃だろうかと思っていた。ああ、それはどうでもいいのかもしれないけれど。
まあ、そういうわけで、そんな俺に気があるであろう彼女からの声掛けなので、もしかしたらそういう話なのか、あるいは?などと甘い幻想を見て思わず笑顔を浮かべてしまっていたのだが、相反して彼女は真剣な顔をする。
「主任にお会いしたいと、お客様がお見えです」
「客?今日は誰からも連絡がなかったと思ったけど」
「いえ、それが……」
言葉が詰まる。どうしたの、とそちらを見て、そうすると彼女は少し申し訳なさそうに眉をたらした。
「あの、主任とどうしてもお話をしたい、という方がいらっしゃってまして」
「……ほう?」
それは興味深い報告だった。どうしても、か。かなり切実に思える。しかもなぜ俺なのだろうか?疑問が膨らむ中、彼女にさらに話を促した。
「それが、ですね。ものすごく熱心な方だったんです」
「俺と、話をしたいと」
「はい。何度かお断りしたのですが……」
「………」
「会議室にお通しして良いでしょうか?」
仕事ができないわけではない彼女の断りを拒むとは、なかなかにできるやつなのかもしれない。それともただ単に厄介なだけか、どちらにしてもかなり興味深いことは間違いない。
なにより、それだけ粘る人物なのだ、きっと今日断ったところで明日また来るだろう。それなら仕方がない、ここできっぱりキツめに言葉を突きつけてやるのも優しさだ。一度だけ話を聞いてやるか。
その人物を会議室に通すように指示を出し、今ある仕事を切りのいいところまで終わらせる。大した作業じゃない、海外支部への指示書の見直しをしていただけだ。
5分ほど時間を取り、そうしてある程度のところで見切りをつけて、やっと客人を迎えに行くことにしたのだった。
がちゃ。
ドアノブをひねる音がした瞬間に、中で人が立ち上がるのがわかった。ぱたぱた、と足音がしたが、革靴でないことは確かだ。これは……スニーカー、か?だとしたら見当違いかもしれない。
ゆっくり扉を開く。
「……お前」
「やっと、会えました」
いや、見間違えたはずもない。今朝の褐色の男だった。前髪が目を隠しているように見え、表情はいまいち読み取りにくい。安堵したようなうっすら笑みを浮かべているように思った。
実にラフな格好だった。オフィスに尋ねるような服装でないことは間違いない。それ以上にデスクワークを中心とした会社の中において清潔感が多少足りていない!
なんなんだ?こいつはなぜ俺を付け回す?正直なところ、ふつふつと怒りが沸き始めているところだった。
「一体なんの目的があって俺に───」
きっと強く睨みつけて、言葉を。
そう思っていたのに、褐色の男の方からまさか仕掛けてくるとは思っていなくって。
「目的はひとつです」
「何?」
「思い出してもらうんですよ、アンタに」
一瞬たじろぐ、と同時に言われたことを反芻した。
思い出して、もらう?アンタ……俺に?何を?
突然の言葉に困惑し、俺は動揺してしまった。全く身に覚えのないことだが、しかしそれを思い出してもらうなどと、それもかなり堂々と宣言した。
しかも、その様はどうしても、嘘をついているようには思えない。ハッタリと言うわけでもなさそうだし、だからこそ余計に腑に落ちない。俺に何をさせるつもりなのだろうか?
向こうも相当真剣な表情で俺を見ている。覚悟あってここに乗り込んできているということなんだろうか。それで……それで?何を思い出させるんだって……?
疑問符だらけの俺を見て、彼は言った。
「大事なもん、全部思い出して、そんで帰りましょう。平子さん」
ひらこさん?
……誰、だ?
何がなんだか、わからない。彼は今、何を言っている?それに、それになんだって?誰の話をしているのかもよくわからない、俺はそんな名前ではない───
「なんだと?俺は後藤だ……誰だそいつは」
「やっぱりな……朝の感じから分かってましたけど、なんで忘れちゃうのよ。大事な思い出、たくさんあったのに」
「いや、いや待って、それは俺が聞きたいんだけど?」
「何が!」
「そもそもお前は誰だ?俺はなんだって?どうしてここに来た、そして何をさせたい!」
全身がびしょりと、汗にまみれていくのがわかった。嫌な汗だ。こんなものかきたくなかった。焦り、怒り、戸惑い、様々な感情が全身をこわばらせて、じわりと包んでいる。空調からの風ももう生ぬるくしか感じない。
褐色の男は大仰にはぁ、とため息をついて、それからくしゃくしゃと頭を掻いて、話し始めた。
「マジで忘れてんすね、俺のことも、テメェのことすらも。そんなことって、ある?事実は小説より奇なりってか?」
独り言はやけに大きい。ていうか、意外にもインテリジェンス溢れた言葉遣いをすることに驚いた。見た目からはそんな要素が全く見て取れなかったからだ。俺の目が狂ったのか?いや、人は見かけによらずという方が良さそうだ。
「俺、酒井 健太、アンタの相方。んでアンタは平子さん……平子 祐希。二人揃って、俺らお笑い芸人よ?つっても全部忘れてるみたいっすけど」
「……は」
なにを、いっている?
降って湧いた突然の情報に目が眩む。意味が分からない、わけが分からない。
何を言っている、彼は?作り話にしてはランクが低すぎた。俺の、相方?芸人?なに、なぜ、何が……?
「……酒井」
しかし彼の名を言葉にしてみると、不思議にしっくりきたのは、そういうことなのだろうか?呼びなれた名前、と言うことなのだろうか。初めてのはずなのに、妙な感じがして恐ろしく思えてきた。
「んで」
短く声を上げて、酒井は次の話をしようとする。ぱん、と手を叩き、わざわざ改めて注目を向けさせて、それから再び大仰に大真面目に語りだす。
「俺は正直、ずっとアンタを探してました。そしたらここにそれっぽいのがいるって聞いて来たんすよ、でも平子さん逃げちゃうし……まあ、覚えてなきゃ当たり前かと思って」
「それでわざわざ、会社に、連絡を」
聞いてきた?引っかかるワードが出てきたが、それを掘り下げても話は進まないだろう。
にしても、こいつも律儀なんだかなんなんだか。ただ頭が悪く突っ込んでくるだけのイノシシのような性格ではないことは確かだ。
「早かったんで」
「ああ、そう……正規の方法で会うなら確かに最短か」
不思議と納得する。納得している場合じゃないんだけれど。
「そんで俺はアンタに全部思い出してもらいに来ました」
彼は真剣にそう言った。
◆
◆
2020年は厳しい8月を迎えていた。その厳しさったら驚くほどで、静岡の浜松ではついに41度にまで達した日が出たという。もはや暑さに人間どころか自然も勝てず、とうとうセミたちすらも鳴くことが叶わず繁殖するよりも先に死んでしまうらしい。
そのあまりの暑さに誰もが「いやぁ、今年オリンピックじゃなくってよかったね」なんて、大型イベントを逃した口実に使っているくらいだ。あのまま、熱に対する対策がほとんど練られないままで五輪を迎えていたらどうなったことかと思った。
休むことを知らない太陽の下で夏を全身に感じながら昨日のミスや今日のドジを明後日悩むことにして、強い日差しに目を細める。どこかから、水の音がした。ひょっとして打ち水だろうか。
「夏だなー」
なんでも東京がこんなに暑くなる理由ってのはいくつかあるが、つまるところ複合的要素が生み出す、ヒートアイランド現象ってやつらしい。俺には詳しくはわからなかったのだが、そういうことだ。
ちなみに浜松が暑くなった理由はこっちじゃなくてフェーン現象だとか。ええと、山から吹き降ろす風が温度を上げるんだったか?テレビで説明を見たけど、結局よくわかんねえな。カタカナばっかり使わないで、分かりやすい日本語で説明してほしい。
それにしても……ああ、もうだめだ、太陽光のおかげでほとんど思考が回らない。本当にぼんやりそんなことを思いながら、車へ向かった。
これだけ厳しい日差しなのだが、愛車のベガスイエローは品のある光沢を持ってひときわ美しく輝いている。ああ、そういうとこも好き。
エンジンを予めかけておけば、車内は快適そのものだった。涼しくて、最高だ。
「……はぁ」
車内でシートベルトをしてから、溜息をつく。ひんやりとした気持ちがいい風を頬に感じながら、風よりも冷たい意志をはらんだ息だった。
……今年は、最後の夏になってしまう。
「行きたかったなぁ、行ける日に」
スマートフォンをチラ見、こういうときに限ってスケジュールは埋まっている。心が寂しい、気持ちは妙に沈みこむ。
行きたかった、むしろ無くならないでほしい。
俺の夢の場所なのだから。
だって。
8月末で。
───としまえんが閉園してしまう!
ほんとに好きなんだね、と笑われたこともある。むしろ熱量そのままに語ってドン引きされることすらある。素でも周りに半分引かれていることは承知、本当に最高の場所なんだと何回でもお伝えしていきたい。むしろ伝えさせてほしい、本当ならもっとたくさんの人に行ってほしい!
そもそもなんだ、お前は見たのかと。俺の熱を笑うならあそこで遊んだことはあるのか?と。問いたい、問い詰めたい、地の果てまでも問いかけに行きたい。寝起きでもベッドでもどこでも駆けつけて問いかけたい。
あのプールを、スライダーを、イーグルからの景色を、コースターを、人々の笑顔を、夏を彩る噴水の美しき水飛沫を、なによりも世界最古級の回転木馬である『カルーセルエルドラド』を。
行きたかった、本気で!俺も!泳ぎ納め的なやつやりたかったの!
……だってのに。
今年は例のウイルスを警戒しているおかげで、園は事前にチケット購入制になってしまっている。当然チケット枚数は決まっているわけで。そらね、行ったよ?もとから買えてた日は。だけど、そんな一回二回で足りるわけねえじゃん。
だから追加で行こうと思ったら、唯一スケジュールの余裕がある日はなんでかわかんねえけどチケットが売り切れてしまって、家に帰って即自分の部屋に戻り、声が枯れるかもしれないほど泣き叫びながら悔しさをひとり吐き出した。まあ嘘なんだけど。そこまでではないけど。泣いてないんだけど。つうか、ほんとに園の人にお礼とか言われても遠くの方で全然泣いてないけど。
(※ちなみに───結局その後、どうしても終わりたくなくてまたチケットを買って行ってきました。またお話します)
「マジでずっと言ってますね」
「そりゃあ言うよ。行きたかったもん……」
「忙しいのはいいことでしょうよ?喜びましょうよ」
「今回ばっかりは素直に喜べないねぇ」
「なんでよー!?いいじゃないすか」
現場に到着してからもそんな風にうだうだ言う俺へ、慰めるように酒井から言われても全然納得できなかった。それならむしろ今年全く忙しくないほうが良かったとすら思った。
そもそもだよ、こんな時勢だってのになんでちょっと忙しいの?いや、嬉しいよ、やっぱり仕事が途切れないってのは嬉しいけどさぁ……それとこれとは違うんだよ……。
本当に諦めきれない。が、そこで終わる俺ではない、こうなったらと発想を転換した。
そう、自分が行く代わりに誰かが行けたんだとしたらそれでよかったじゃないか。もしかしたらその人は俺と同じくらいとしまえんを愛している人なのかもしれない。いやあおめでとう、コングラッチュレーション!ラッキーボーイめ!
(※……そこは俺よりも、とは絶対に言わない。だって、なんか悔しいでしょ)
にしても、とても悲しい。分かっていることではある、けれどそれを受け止められるかどうかとはまた違う。理解はしているのに、心の底で否定したい。子供たちに一体どうやって説明しようか、いや、彼らはちゃんと話せば分かってくれるだろう。
全てのものはいずれ無くなる。
あらゆる生命は必ず失われる。
不滅のものなんてありえない。
有史以来、地球では絶対のルールだ。
だから、としまえんだって、いずれなくなる。
普通に考えたらそうなんだろう。だけど、なぜだか俺はそんな当たり前のことを忘れていたのだ。いや、分かっていたとしても『としまえんは別』だと勝手に思い込んでしまっていたのだ。
だって、終わるわけがないと思っていた。未来永劫のものだとつい思っていた。むしろそうであろうと信じて疑うことは無かった。
としまえんが無くなるはずなんてないって、未だに実感湧かなくって、意味分かんなくて、全く理解できなくて、信じたくなくて。
だけど、としまえんだって、なくなるのだ。
それが俺が生きている間かそうでないかだけの違いであって、この夢の空間はいずれ無くなってしまう運命なのだ。ろうそくの火のように、使いっぱなしの蛍光管みたいに、いつか消えるものだ。
かたちあるものはいずれ失われる。悲しいことだけれどそれは自然として当然のことなのだから。
分かってはいる。受け入れられるかどうかは別として。
だから、別れを惜しんで俺は言ったのだ。
いや、今にして思うならば、言ってしまった、と表現するのが正しいのだろう。
「としまえんは、夏の概念なんだよ」
「は?」
「あのね、としまえんが夏なの。わかる?」
「や、ちょっ……と、意味がよく分かんないすね」
ドヤ顔で俺は言う。
「としまえんが無くなるってことは、東京から夏が無くなるってことなんだよ」
なんで分かんねえかなあ、この感じが。
厳しすぎる夏をあの空間で迎える喜びと、切なさと。それが二度と失われてしまうという事実と、絶望と。それらがないまぜになって、どうしようもなく悲しくて仕方がなくて、そんなことを謎の論調で語ったのだ。
お前だって一緒に行った時、見たこともないような笑顔で眩しい笑顔で流されてっただろ?ほら、やっぱあそこは楽しいんだよ、一緒に浮き輪で浮かんだ思い出を思い出せ。そうやって噛み付いた。
そこで終わっておけばよかったんだろう。
その日のよる、どうしてもどうしても悲しくて。
───深い意味はない。理由なんてないけれど、チケットを取れなかった哀愁と、俺の代わりに行ける人への羨望と、ちょっとの負け惜しみを込めた言葉を、140字の短文に乗せてインターネットに放出した。
締めに『こうなったらもう、僕自身がとしまえんだ』と記して。
◆
◆
そんな事実を聞かされても、まだ理解できていなかった。なんだ、芸人特有のリップサービス?いわゆる、面白くなると思って喋ったこと、なのだろう?それが、今の俺とどうつながると言うのだ。そもそも、俺はお前が言っている平子という人物は知らないし、そんな話をした覚えなどは一切無いのだから。
と、こちらから語っても説得しても酒井は折れず、未だ真剣な顔をしてこちらを見ていた。この時点で誰か呼んだり、警察にでも通報すればよかったのだが、なぜかそんな気は起きなかった。
あまりのスケールに圧倒されていたのかもしれない。いや、としまえんの大きさじゃなくて、話のあまりの理解できなさに。
「もういいんすよ!あのね、もういいんす」
「もういいって、何が」
「───忘れなくて、いいんすよ。そこまでする必要はなかったの。むしろ、そこまでしたから、おかしくなったんです」
「だから……何が!」
いよいよ俺も苛立ってきて、つい大声を出してしまった。見ず知らずの人間に、そこまで感情をぶつけるつもりなんて一つもなかったのに、どうして俺は。にわかに焦り始めているようだった。
自分の知らない、自分の話をされているからか?しかもそれが与太話であれば良いものを、どうしても……どんなに意味がわからない話だと思っていたとしても、なぜかどうしても嘘には思えなかったせいか?
大きく溜息をついて、髪をくしゃくしゃとかきむしった。それで何か解決するわけでもないのだが。
「あの、平子さん。落ち着いて聞いてくださいね」
「もう落ち着いていられる場合じゃないんだけど」
「そうかもしんねえけど!聞いて!」
「何だよ、聞けば満足すんのか!?」
「いいから!」
こほん、と一つ咳払い。そして酒井はひどく大真面目に言うのだ。
「平子さんはとしまえんになりました」
………。
…………………。
「は?」
は?
うーんと、えーと……は?
「だから、言葉そのまま、言ってる通りになったんすよ」
「え?……は?」
「俺もよく分かってねえのよ!だから聞いて!」
狂人ではないはずの男のあまりの狂った論説に、本来の夏を取り戻したかのように、俺の体は発熱していた。混乱、恐怖、愕然としたまま酒井を見る。何もかもが現実味がないまま進んでいる。
としまえんに、なった?は?はぁ?
俺の相方と名乗った男は、酒井は、あまりにも真剣に……真面目に、どこまでもめちゃくちゃなことを言っている。なんだ、どこまでが本当で、どこまでが嘘なんだ?
一度頭を抱え、言葉を整理しながらも酒井は続ける。
「いや、説明がむずいんだけど……まず前提として、平子さんは俺がとしまえんだ、みたいなこと言ってたのね」
「はぁ……そうらしいな、らしいって言っちゃうけど」
「で、同時に、としまえんは夏の概念の具現化だとも言ってたわけよ」
「ほう?それで?」
「この時点で、平子さん=としまえん=夏、ね。俺もかなりバグったこと言ってるけどまぁ聞いて」
正直、本当に言っていることがバグり過ぎていて、今すぐ話し合いを放棄したかった。
「でこっからが大事。あの日、あの8月最後の日。アンタはどうしても『としまえんが無くなる』ってことを受け入れられなかった」
「どれだけとしまえんに入れこんでたんだ、そいつは、いや、俺なのか?知らんけど」
何がなんだか、聞いているだけで疲れてくる話だった。遊戯施設にハマった男の話だろう、これは?それがどうして、夏がどうこうだの、俺が記憶を失っているだの、そんな話になるのだ、と思ってうんざりしていたが、酒井は話を続ける。
「その日、普通に仕事をこなしたアンタは、帰り道で失踪した、ことになってる」
「……何?」
よくわからなかった。
現実を受け入れようとした男は、突然姿をくらませた?なぜ?どうして。
「分かんねえのよ。仕事も、家族も、何もかも放り出して、突然消えたんだから。なんでかも分かんねえし、探してもずっと見つかんなくて、それで、それで……」
家庭を持っている男が、それほどのことをする理由とはなんだ?さすがに『としまえんが無くなることを受け入れられないから』、だけではないはずだ。
なぜだろうかと考えながら聞き入れていた酒井の声がふいにうわずってブレる。……ブレる?なんで?
「マジ、探したんすよ……やっとみっかって……でも全部忘れてて……!」
彼は、泣きそうな顔をしてそう言った。
「お前、」
「めちゃくちゃ心配、したんだかんな……バカ、超バカ……」
涙を堪えている顔は妙に切なくて、ちょっと面白くて、どこか懐かしくて、けれど言うわけにもいかなくて黙って見つめるしかなかった。
ふぅ、と大きく息を吐いた酒井は一瞬天井を見上げる。何もない場所だろうが、涙腺を締め直すにはちょうどいい景色だったろう。
「……ともかく、見つかった。だからそれはそれでまず一個、喜ぶべきことなんで」
「そうだな、俺には微塵も自覚がないからとりあえず、他人事のように『おめでとう』と言うことしかできねえんだけども」
「はい、ありがとうございます……じゃねえのよ」
「何だよ今度は」
すっかり泣き顔をやめた酒井が今度こそ大真面目になった。もともと真面目だったのはわかっているのだが、にしたって会話の内容があまりにも意味不明すぎて理解が及ばない。バグに溶かされかけた脳をなんとか奮い立たせて更に話を続けていく。
「いいですか?としまえんは夏の概念で、それが平子さんなんだけど、平子さんは全部忘れちゃってるの。わかる?」
「つまり?」
「俺もうまく説明できないんだけど……要はその……」
うん、と頷いて酒井は言った。簡潔に。
「結果から言うと、平子さんが……としまえんという『夏の概念』が、東京から失われちゃって、そんで東京に夏が来なくなったんすよ」
再びバグるかと思った。
◆
◆
8月31日もやっぱり暑かった。今年も結局、日中は最高気温35度をマークした非常に暑い日だった。こういう時には、室内での仕事が多い自分の現在をありがたく思うことがある。
実際のところ、もっと厳しい体当たりな現場も多数存在しており、この8月もあらゆるところで体を張ったり汗まみれになったりはしていたのだが、それでもたまにはとは言えどこんな太陽の上った暑い時間帯を涼しいスタジオで過ごせるのはツイている。夏の長所であり短所でもある熱射には弱い。
「お疲れ様です」
色々仕事を片付けたら、すっかり夜だ。どっぷりと日は暮れて、気温は20度前後というところか、まあ過ごしやすいくらいに落ち着いている。だからといってどこかに出かけに行くわけでもない。
仕事が終わったら、家に帰らない理由がないからだ。
この世の誰よりもっとも愛すべき妻と、ふたりの間に生まれてくれた可愛い子が2人、俺の帰りを待っている。いわば愛妻家で子煩悩、イメージがひっくり返ればたちまち地獄に落ちそうなワードが脳裏に浮かぶ。だって本当に好きなんだから、大切なんだから、仕方がないじゃないか。
嫁はいつ見たって最高の女で、最強の妻で、誰にでも自慢の出来る愛しい存在。そして、その彼女がこの世に産み落としてくれた宝である息子と娘。とても良い子に育ってくれた。俺には勿体無いくらいの最高の幸せがあった。
だからこそ、だからこそだ。
───好きなものと好きなものはかけ合わせたらもっと好きに決まっている。
つまり今日、子供達にとしまえんの最後を見届けてやらせたかった。けれど、無理な話だ。そもそも俺に仕事が入っていて時間帯も合わなかった。それならその前に滑り込みで前日にもう一回、と思ったがやっぱりチケットはキャンセルも出なくて行けそうにもなかった。
ツイてないなぁ。なんて、短く落胆してから車に乗り込み、自宅へと急ぐ。
これはいわゆるあるあるというか、なんでかはわかんないけれど、急いでいる時に限ってどうしてだか、普段よりも帰りに時間がかかっているように感じることがある。ない?俺結構あんだけど、ない?
まさにそんな感じで、その日はやけに道が長い。おかしいな。こんなに長い直線道路なんて、近所にあったか?
……なんて思い時計を見ると、いや、本当に時間が経過していて、普段なら既に到着していておかしくない時分になっているじゃないか。
なんだ?なにか、道を間違えたのか?いや、そんなはずはない。普段から幾度となく通った道だぞ、それをちょっと気が緩んでいるからと言って、まさか間違えるとは思えない。
そうして、そこまでになって、初めて俺は気付いた。
「ここ……どこだ?」
外は全く見知らぬ景色になっている。
さっきまでは、ずっと知っている道だったはずなのに!一体どこなのだが全くわからない。来たことがない、というかどうやって来たかの方がわからないくらい、本当にその風景に心当たりがなかった。
恐ろしくなって、アクセルを踏む足をブレーキに切り替え、その場に停止する。息を殺して外を見つめる。気密性の高い室内に、いつもなら心地の良いエンジンの低い唸り声が響き渡る。
どうする、どうする?ケータイを取り出して、ここがどこだか検索するのが先か、それとも?思考を巡らせる。
突然、全てが真っ暗になった。
ブラックアウト。突然の沈黙。息をするのも忘れそうになり、眼球がぎょろんと忙しなくあちこちを見ようとした。
「……は!?」
車のエンジンが唐突に切れ、車内の明かりと言う明かりが途絶える。あの唸り声も突然無くなって、エアコンも動かないのかなんの音もしないし、計器類を照らした光も無くなった。
見えるのは車外の薄ぼんやりとしたライトだけ。外に何かあるのだろうか、こんな場所なのに遠くの方に建物でもあるのだろうな。どこかもわからない場所にある建物ってヤバくない?えっ、どこなの?
混乱してその場で暴れそうになったが、今の自分を俯瞰視して冷静さを取り戻そうとした。今俺は、暗くなった室内に残された男だ。慌てる気持ちもわかるが、そういう時に慌ててもろくなことにはならない。
まずは明かりを……そう思いポケットに手を突っ込んでスマホを取り出した。時間はよるかなり深いが、まだ日付は変わっていない辺りか。
それにしても。
「圏外?……なんだそれ」
そんなところに来てしまったのか?目の前は文字通り真っ暗、スマホをポケットに戻しながら愕然とする。いや、いや。道は間違えていないはずなのに、わけがわからない。何が起きているのかさっぱりわからない。
どうすべきか。まずは助けを……だからスマホが使えねえっつってんじゃん。したらどうすりゃいいって?車から降りて人を探してみるか?……それこそ行くあてがなさすぎる、博打すぎんだろ。
にわかに焦り始める自分をなんとか御す。じんわりと浮かび上がる脂汗が額を湿らせて、夏の暑さは密閉されているはずの車内に入り込んで広がろうとしていた。
ハンドルを握って、鍵を回す。しかしやっぱり車は動かなくて、梃子でも動かないぞ、という強い意思を感じる。バッテリーがイカれたんにしても、直そうとするなら一回降りなきゃなんないのはひどく恐ろしく思える。
どうする、どうすべきだ。
悩んだ結果、俺は一度車を降りることにした。
がちゃり、とゆっくり扉を開いて、足を地面に着ける。さく、と何かが擦れる音がして下を見れば、夏には相応しくない枯れ葉が積もっていた。まるでここだけは時間軸がずれてしまったような、壊れてしまったような感じがする。ここはなんなのだろう。さく、さく、両足を下ろし、そこに立ち尽くし、扉を閉める。
「時間……夜、か。つうか暗すぎて……」
世界は本当に真っ黒い。ぼんやり眼前に見えるのは希望のように差し込む光。
不思議だ。
なぜだろうか。
その時、車の修理よりも先に、光がある方へと歩くべきだと俺は思ってしまった。ああ、どうして、どうして?
よろよろと、ゆらゆらと。
光に向かう、死にかけの蛾のように。
不規則な揺らめきへと俺は近付いた。
途端に、光が前方からぱぁっと漏れ出す。ああ、なんだか暖かくて、ちょっと胸の奥がきゅうと掴まれるような、そんな懐かしさと切なさが───
目を開けると、そこは夢の国だった。
◆
◆
頭がごちゃごちゃだった。
「俺もよく分かんねえんだけど……だけどさ、これは何か変なことんなってんだって」
酒井はひどく真面目なままで言った。いや、いや。ちょっと待ってくれ、俺に理解をする時間をくれ。俺が……平子で、夏の……ええい、どういう意味だよ?つまり?
「そもそも『としまえん』なんて、俺は……」
「知らないんすよね?そうじゃなきゃいけないんですよ、むしろ」
しかし、確かにそうだった。
としまえんという『夢の施設』が存在していることを俺は全く記憶していないし、なんならこうしてウィキペディアを見せられても全くピンとこない。流れるプールどうこうも全然理解できず、呆然とする。
そこが俺の夢の国だった?10年以上通いつめた?熱量持って誰よりも好きだと叫んでいた?いや、いや……だめだ、そんなもん一切浮かばない。
知らない、のではなく。
知っていたが、忘れた。
状況的にそう考えた方がしっくりくる。……本当か?
「つうか、そうしないとこの状態に説明がつけらんないの。だって、もう……そうってことじゃない?」
なにをどうやってその結論に辿り着いたのだろうか、計り知れずに一歩二歩、思わず後ずさりしてたじろいでしまった。今までの話もそうだったけれど、それ以上に結論が全く理解ができなかったせいだ。
酒井の根拠と信憑性がやけに薄いし、今までの話をまるまる、全部疑わずに信じろと言うのは流石に無理がある。カケラも何も思い出せないのが辛い。何か言ってやりたいが、かと言って何か有効な情報もない。
よし。
「……警察を呼ぼう」
いや、だが、そもそもだ。
俺は馬鹿なのか。こんな、ありえない事態を前にして冷静になろうとしすぎていた。けして彼を無碍にしては行けないなんて思ったわけではなく、単にきちんと訪問してきた客人に対する礼節として話を聞いてやっただけだ。頭からこれを信用する必要など一つもなかった。
───そう、不審者だ。
酒井は、いま時点で俺を信用させるだけの証拠を一つも持っていない、ばかりかよくわからない話をして俺を混乱させようとしている。ジャケットの内ポケットからスマートフォンを取り出して一言そう告げれば、酒井の目の色はみるみる変わっていく。
「俺には仕事があるんだ。いつまでも、そんな与太話に付き合っている場合じゃないんだよ」
「ちょっ……待ってよ、ここまで話したのにまだ信じてくんねえの?」
「信用するだけの材料が無いだろう」
「……あるよ」
ぽつりと。
「あ?」
それは湖面に落ちる雨粒のように本当に小さい声で。
「あるよ。材料っつうんなら……俺とアンタの思い出がいっぱいある。写真とか、映像とか」
「……何?」
酒井はスマートフォンを見せてくる。
画面に映る、自分らしき誰かが。
見せたことのない笑顔を向けている写真がある。
これは。なんだ。誰だ。俺か?
俺の知らない、俺の思い出がそこにいる。
何枚か見せてくれたが、見るたび見るたび、やはり記憶になくて、けれど間違いなくそれは俺でしかなくて……なぜそれを覚えていないのか、自分自身でも納得がいかなくなるくらいのものだった。
そして、さらに見せてくれたのはふたりだけのやりとり。要は───機密性の高い、ふたりきりのプライベートな連絡。それが間違いなくそこには残っている。
最後の方なんて、なんて。
『寝てんすか』
『どしたん』
『どこにいんのよ』
ねえ、なんで。
文字に残る悲しみ、それから、悔しさ。
何件もついている電話をかけた履歴。
『なんで無視なん』
『嫁子供泣いてるよ』
残してある言葉は、なんだか見ているこちらまで胸が張り裂けそうになるくらいで。
『警察に届出出しました、絶対見つけるんで』
『俺ひとりじゃ無理よ、助けて』
『辛いといつも電話かけちまうなぁ』
『またやらかしちゃった、やっぱひとりきついわ』
『息子さん、大会で優勝ですってよ』
『既読つかねえかな』
『帰ってきてよ、平子さーん』
『今どこにいんだろう』
『やっぱまた会いてえな』
なんとも言えない。
でも気持ちは伝わってくる。そんな、そんな文字の羅列がずらっと。
警察を呼ばなければ、と言う内心の焦りと、もっと話を聞いたほうが良いのでは、と言う探求の思いがせめぎ合う。本当にこのまま、彼を返してしまっていいのだろうか?
どう考えてもこいつは不審者だ。だが、ここにあるデータは俺のことを示している。どういうことなのか白黒つけた方がいいのではないかと思った。
「……」
「って、ちょい!なんで最後まで読んでんの、もー!くっそ恥ぃ!!」
「……酒井、」
自分が思っている場所よりスクロールを進められていたことに驚いて、酒井がぴょんと飛び跳ねてから端末を取り返した。妙に鼻頭が赤くなっている気がしたけれど、そこに触れるのも野暮だろう。
彼のそんな思いに対して何か言おうとして、唐突に思い出したことがあった。ずきりと、頭の奥の方が痛む。多少よろけてしまい、それを見た酒井がまたしても驚くと、恐る恐る近付いてきた。
険しくなる表情、夏の日差しのように眩しい光が薄く開いた目の奥からチラついて、言葉に詰まってしまいそうになったけれど、それでもきっとこれは大切な情報なのだと確信が持てた。そうか、そうだ。
思い出したことがある。
……あの場所に行けば、何かあるかもしれない。
◆
◆
学生時代は、暗黒だった。
そう言った方があまりにも早い。人によっては「そんな程度大したことないでしょ」なんて言うかもしれないが、ましてや俺なんて今は体格もいいし、皆信用しないのであまり語ろうとは思わないのだが。
俺の青春というのは、ほとんどが周りの学生達に黒く塗りつぶされた。精神的、肉体的ないじめに遭っていたのだ……詳細を語ることは辞めよう、目の前がぐにゃんぐにゃんに歪むほど具合が悪くなる。気分が悪い話なんてなかなか出来るもんじゃない。
今でも、そう今でもだ。子供達の集団から向けられる視線が恐ろしくて仕方がないことがある。今なら間違いなく勝てる、はずなのに、やっぱりどうして、睨まれると全身が硬直してしまって、背中からどろりとした汗をかいてしまう。
トラウマは克服できない。体の傷はいずれ癒えても、心に空いてしまった穴は一生塞ぐことはできない。
輝かしい学生時代なんてものはとうに失われ久しい。そんな思いをずっとしてみたかった、忘れていたからもう忘れたままでもいいと思っていた。できないならできないでも、今をそれなりに生きてやろうと思っていた。
今の言葉で言ういわゆるリア充みたいなものに偏見と羨望を持ったまま大人になった俺がやっと、ようやく、自らの手で掴み獲った青春というのが、俺にとっては───としまえんだった。
「ここ、は……」
暗闇の向こう側にぼんやりと浮かんでいた光を超えたと思ったが、俺がいたそこは、俺の知るとしまえんに違いなかった。
シンボルマークである『カルーセルエルドラド』が今日も炎天下に負けじとキラキラ輝いて回転している。周りは多くの客で賑わっており、誰もが楽しそうに笑みを浮かべて園内を回っている。ここがこうなんだから、プール側も絶対に盛り上がっているだろう。20あるスライダーは全て埋まっていて、みんなきっと心からの喜の表情で滑っていくんだろう。
それがなんだか自分の事のように嬉しく、ここには何よりも平和な時間が流れている。
ああ、そうだ。ずっとここにいたい、なんて。そう幻想を抱くくらいには、気分がいい。
「いてもいいんだよ」
と。
「え?」
「ずっとここにいていいんだ、君のための夢の国なんだから」
誰かわからないけれど、背後からそんな声をかけられる。誰から言われたかもわかってなかったのに、くるりと振り返ってから、俺はただ聞き返す。
「そんなこと……出来んの?」
「ああ、出来るさ、君が望むならば」
「でも、仕事もあるし……」
「気にする必要はないよ」
「嫁も……息子も娘もいるんだ」
「君には君の人生があるだろう?」
「あ、それに相方も」
「君がやりたいことをすべきじゃないかな」
こつ、こつ。
その人は───どんな顔かわからなかった。どんな人間が俺に語りかけているのか全くわからなかった。けれどそいつはこつこつと、地面のきれいに整備された石畳をこつこつと、ピカピカに磨き上げられた革靴で鳴らしながら歩いてくる。
子供みたいな疑問が胸中渦巻いて、けれど言葉にすることは、返事が、言葉が帰ってくるのが恐ろしくてどうしようもなくて黙り込む。
だけど、だけどさぁ。
本当に?
ここは俺のための楽園?
ずっとここにいてもいい?
いや……そんなわけがない。
俺は子供じゃない。
聞き分けのない子供じゃないし、これがきっと夢なのだと言うことはよくよく分かっているつもりだ。だから、これは俺の甘えというか、本当に夢……叶えばいいな、と思っているレベルのものなんだ。
「思うだろう?」
長考しているさなか、突然声をかけられてしまったので、えっ、と思わず声を上げて聞き返してしまった。
「この場所が、としまえんが、世界から消え去る必要なんてない、そう思うだろう?」
それは。
言葉が出ない。何も言い返せない。俺の胸中に渦巻いていた感情そのものだったからだ。
あの水しぶきを無くしたくはない。あの世界を失いたくはない。
そうだ。
ああ、そうだよな。
間違ってない。その通りだ。
理性が否定しているのに、感情が超越してどうしてもどうしても、そう結論を出してしまったんだ。
としまえんがなくなるはずがない。
としまえんがなくなっていいはずがない。
永遠に、未来永劫いつまでも、俺達の心を満たしてくれる幸せな場所じゃないか。
流れるプールだって、奇抜なCMだって、いつかから復活した夜空を彩る花火だって、なんだって重要で、この世界からなくす必要なんてひとつもないじゃないかよ!
色々考えているうちに胸の奥に熱くなる感情が目覚める。目頭が熱くなってきて、込み上げるものをなんとか押さえ込んだ。この場所に涙は似合わない。笑顔で、そう笑顔で。
「そうさ、ここは夢の国。だから」
そうか、そうだったんだ。
俺はここにいていいんだ。全てを忘れて、このままずっとこうして、遊んでいてもいいんだ。
「うん、君はここにいていいんだ」
───夏はまだ終わらないんだ。
◆
◆
気付けば俺は、酒井を助手席に乗せて車を走らせていた。なぜだか分からないが、そうしなければ行けないような気がしてしまったからだ。
失われたとしまえんと俺の記憶、そしてそれを取りに行かなければいけないと義務感が生まれだしているようだった。気持ち悪いが、胸中動き出した衝動性を止める力もない。
本当ならそんなことする必要なんてなくて、本当ならこいつを警察に突き出せば終わるかもしれなくて、でもなぜかできなかった。
「どこ行くの」
「ああ、俺が目ぇ覚ましたとこだよ」
「は?」
そう、そうだ。妙だなとは思っていたんだ。
過去のことを思い出そうとすると、強烈な目眩と強い頭痛に悩まされるようになった。いつからか、って言うのはあまりにも唐突だったので記録をつけてある。
それが9月1日だった。
去年、8月31日から9月1日に日付が変わって。
目を覚ますと、俺はそこにいた。
最初どこかもわからずぼんやりとしており、自分がなぜここにいるのかをゆったり考えていたのだったが、それ以上に『自分が何者なのか』を思い出せずに慌ててしまった。なにか、ヒントはないのかと探ったが、車からも財布からも、スマホの中からも、俺の俺たる情報のほぼ一切が抹消されており、途方に暮れた。
朦朧とする意識の中、不意にかかったエンジン音で脳裏にパンと浮かんできた謎の地図。不審だったにもかかわらず、それを信用してしまった。どう考えたって危険な状態なのに、なぜか安全運転を完遂して家で寝たんだった。
そして翌日、ああそうだ、免許証を落としたなと思って慌てて財布を開いたら、ちゃんと免許証は入っていた。『後藤 龍司』。俺だ、いいや、これは俺に違いない───間違っても平子 祐希ではなかった、それすらもなぜかなんて今聞かれても謎でしかないので答えられない。
「あれは……山だ。名前も誰も知らねぇような、小さな山だな」
「山?そんなとこ行ってたんすか」
「分かんねえよ。俺だってどうやって行ったか覚えてねぇし」
鮮やかなイエローは、車道から舗装の甘い山道へと進んでいく。会社から30分ほどで到着するような、そんなに離れた場所ではない、大して大きくもない山だ。
9月1日のあまり暑くないあの日、俺は真っ暗闇の車内で覚醒した。その場所がどこだかくらいは流石に調べた。
理由を探っても何もなかった。俺は何のためにそこに行き、どうしてそこで目覚めたのだか、考えてもいなかった。答えがここにあるのならば、見に行く必要がある。
山に入って数分。
ずっと車で走っていけるような、ゆるい道が続いている。木々は多くあるものの、そのどれもが季節とは外れて全て葉が枯れており、なのにどこからかひらひらと枯れ葉が舞っては落ちている。
時空がずれてるのか?という変なワードが脳裏を過ぎったが、言わなかった。処理できる自信がなかったからだ。
しかしここも小さい山とはいえ、それなりの本数の木が全て枯れてずらっと並んでいる様は威圧感のある画だ。この空間に全く生命がないようにすら思えた。
そうして走っていくうちに、ゴールが見えてくる。
「ここ……すか?」
ずっと走っていった先に、突然開けた場所が出てきた。まるで広場か何かのように見える。
地面が不自然にごろごろとした岩ばかりになり、車も多少揺れながら走っていくほどである。万一のことを考えて道を塞がないよう少し車を走らせ、広場の中央辺りに車を停める。
周りにはおかしなものは何もないように思えたし、特段変わったことはなさそうだ。それでも、なんだか全身がざわついた。車を降りると8月にしては寒すぎる風が吹き、酒井が寒そうに二の腕を擦った。8月とは思えない風なのは仕方がない、だって今の世界には夏がないんだから。
だったら取り戻さないと。
夏も。思い出も。俺も。
何もかも。
だけど、ここまで来たけどどうしたらいいんだろう。俺は気を失っていただけだったし、何をどうしたらいいのかまで考えていなかった。
うん、うん。何回か頷いてみるが解決策は浮かばなかった。そもそもここに来たからと言ってすべて解決するかどうかも分からなかったのに、来たことすらも無駄だっただろうかとちょっと悩む。
「ん?」
ふと、そんな何もないだだっぴろい山のど真ん中だってのに、何か聞こえた気がした。水の、音?
ばしゃーーんっ!
と、何か重いものが、水の張られた場所に突っ込んでいくような音がした。
「ウォータースライダーだ」
確信があった。間違いなくウォータースライダーで遊んでいる音だった。なぜそう思ったのかについては説明が難しいのだが、確実にそうだという自信だけが妙にあった。
ウォータースライダーであっても、仮に違ったとしても、それがどうしてこんな山の中で聞こえてくるのだろうか、不思議に思って辺りを見回す。何もない、建物の一つも見つからない。
それでも確かに音がした。何かを探す俺の姿を不審がって酒井がほのかに震えたが、すぐにはっとしてこちらに駆け寄る。
「なんか見つかりました?」
「水の音がした」
「え?水?」
「何言ってんすか、水なんてどこにも……」
今までさんざよくわからないことが起き続けているんだ、山の中で水の音が聞こえるのもおかしなことではないかもしれない。と、何か言いかけて。
世界が突然、まばゆい光に包まれる。隣に立っていた酒井どころか、自分の指先の輪郭すら見えなくなってしまうくらいの強烈なライトが全体を照らして、空間を消し去っていった。
「何、これは───」
隣にいたはずの彼を呼ぶが、その声ももうどこかに消えてしまって、そうして視界も思考も真っ白に染まっていき。
ぷつん、と。
突然電源が落ちたみたいに、意識が闇に落ちた。
◇
◇
次に目を覚ましたのは石畳の上だった。俺と酒井は一緒のエリアで伸びていたようだ。
突然のことで全身が重い石になってしまったようで、ぐったりしながらだがなんとか体を起こす。やけに周りが騒音だらけだなと不審に思いながらも、それでも優先すべきはこちらだろうと感じ、瞼を閉じた酒井の肩をとんとん叩いて起こしてやる。
短く唸ったあと、何度か瞬きをして彼は目を覚まし、頭を掻きながら起きた。一瞬何が起きたか分からないようにきょとんとしたが、すぐに何かを察した様子で俺に話しかけてくる。
「あ……えっと、ここって」
「さあな。俺は知らないが」
一言答えると、それは聞こえてきた。
………ばしゃーーんっ!
水の音がした。先程聞いたのと同じ音だ。でも随分遠くの方だ、と見回しても何も見えないが、きっと奥の方にウォータースライダーがあるのだろうとなんとなくぼんやり思う。
俺達のいるところから左手にはいくつかの遊具?……そして空を裂く、大きな船が2隻ちらちらと見える……さっき見せてもらった中にあった気がする、あれがフライングパイレーツか。
その前をごぅっと鋭く風を切って弾丸のようにレールを伝うのは、サイクロン。見るだけで名前が出てくるのは、直前に見ていたせいで……ん?
まさか。
見渡せば周りには幸せそうな笑顔を浮かべた人々がたくさんいるじゃないか。
もしかして、いやもしかしなくとも。ああ、そうか。ここが、ここがそうなのか。
「としまえん!」
見れば目の前で大きな木馬が回転している。
その名も『カルーセルエルドラド』───『カルーセル』が回転木馬(メリーゴーラウンド)で、『エルドラド』は黄金郷……英語とスペイン語だ。世界最古級とされる回転木馬で、なんでもその製造は1906年、座席の木馬はすべて手掘りで作られており全頭顔が違う。ちなみに、馬だけではない、豚もいる。(豚は幸運の証だとかなんとか……)
100年以上前に作られたものとは思えない精巧さと重厚さと、そしてきらびやかな光を身に纏った馬達は誇り高く天を突く。溢れ出る笑顔、自然と俺も乗りたい気持ちになってくる。
「そこにいたのかよ」
短い声がした。そちらを向けばエルドラド広場の中央部分、酒井がひとりの男と対峙しているじゃないか。いつのまに、いや、はじめからここにいたのかもしれない。
そいつは……ああ、そうだ、俺かもしれないし、俺じゃない。夏を楽しんで、夢を忘れたくなくて、そこに漂う夏の概念だ。
としまえんを愛してやまなかった男だ。
「……? あれ?酒井?なんで」
ここにいるの、という疑問符を待たずして、拳が飛ぶ。それは1年、幻想の中に囚われていた男への叱咤激励なのだろう。大柄の男のよろめく姿は割と見ていて画になる気がして、思いがけず目を細める。勢い余って尻もち付いた平子には、心配の声も、同情の言葉もかけなかった。
苛立ちはさらに募るのか酒井の視線はさらに鋭くなり、夏真っ盛りを楽しむ平子に怒りの鉄拳を更に振るおうかと言うところである。舌打ちまで聞こえてきた。
……あ、前言撤回。これなんかしらの意味あるグーパンじゃなくて、単純にクソムカついてるから手ぇ出してるだけだわ。こいつがひとりで浮かれ気分で、なんならちょっと肌が焦げるくらい楽しんじゃってるとこが心底ムカついて仕方がないだけだわ。
「マッッッッッジでムカつくなアンタ!殺していい!?」
「ええ?なぁに、そんな怒ることねえじゃん……いてーな、殴るなよお前」
「いやアンタ自分が何してんのか分かってんの!?」
「あ?そら、としまえんでこうして終わらない夏を享受してんだって……」
「1年だよ1年!」
「……、……………え?」
「終わんない夏?エンドレスとしまえん?もう平子さん、1年楽しんじゃってんのよ!つかそのくらい体感で感じねぇかなぁ、バカじゃねぇんだから!」
硬直、フリーズ。
その長い時間を知らされて、平子は驚きと同時に立ち上がりもせずに呆然としていた。まさか、そんな、みたいな言葉が口から漏れ出したが音にならずにその場に消えていく。
信じられないんだろう、本当に、まさかエンドレスっつったって、終わらないってそんなに終わんねえのかよと。俺、そんなに遊んじゃってたんかいと。
幻想に誘われた挙句、童心の自分と理性の自分を切り離して、世の中から夏まで奪っといて、そこまでした元凶だってのに呆けた顔してぺたんと座り込んでいる。いや、彼が本当に犯人かどうかは微妙なところだが、それでなくとも彼が戻らなければ夏も無いわけで。
「俺、そんなに……」
「そうすよ!ばーか!」
じゃあどうしてこんな世界が成立したかって、その根本には『としまえんは永遠不滅のものだろう』という強い熱意と思い込み、そしてきっと耐え難いほどの無念と願望があったからだろう。
ひとりどころじゃない、きっとこの楽園にいる人々は皆同じようにこの幻想を選び取ったのだ。
わかっているんだ、皆本当は、全ては幻想なのだと。
それでも、終わってしまうみたいで、終わらせたくなくて、自分の思いを捨てきれなくて、だから天秤にかけた願望が現実を上回ってこんな場所を形どったのだ。
「でも、ここ出たら、としまえんが消えちゃうから……本当に……なくなってしまうみたいで、終わっちゃうみたいで……それ、やっぱ受け入れられなくて……」
かたちあるものはいずれなくなるさだめ。
抗う者たちの最後の拠り所。
言葉には魂が宿るというが、そんな言葉遊びみたいなものに最後に縋って、そうしてなんとかこれを実現させたなんてさ、それってちょっと面白い話かもしれない。八百万の神々の誰かのいたずらか、それとも夏が見せた陽炎の如き何かか。
あるいは、狐につままれたのかもしれない。いや、『つままれた』と言うか、誤記と知ってあえて使うが、『狐につつまれた』のかもしれないな。幻の楽園に、つつまれたのかもしれない。
「思い出だけじゃ辛すぎるってか!?じゃあ残された俺のことも考えてよ!」
「それ、は……!」
「俺だけじゃねえわ、アンタのこと信じてるいろんな人ののこと、さ……考えてくれって!」
「分かってんだよ、いやね、分かってんだけどぉ」
「分かってねえじゃんかよぉぉぉぉ!!」
「だっ、から分かってるって言ってん、いって、痛い痛い殴るなバカ!!」
目の前で大乱闘が始まった。それをやれやれと見ているしかない。その乱闘騒ぎや凄まじく、周りの客もいよいよ心配そうに集まって彼らを見にくるくらいだった。
これが収まれば大団円なのか?いや、そうなってくれなきゃ困るんだけれど。なんにしたってこのままじゃいけないと、彼らは理解しているはずなのだから。
彼らの帰るべき世界はここではないのだから。
彼らは彼らのある場所に戻るべきだから。
だから。
「もういいか?」
俺の呆れ顔を見て、男達は取っ組み合いを中断する。これからどうすればよいのかは知っている。
「酒井、最後に聞かせてくれよ」
「なんすか」
息を荒くした酒井に声をかける。
ひとつだけ、不可解だったことがあった。
───酒井はなぜ俺を見つけられたのだろうか。誰に教えてもらったのだろうか。しかしそれを問うても、歯切れは悪い。
「分かんないんすよ、差出人は。いきなりメール来て、そこにあれが書いてあったんすよ」
「書いてあった?」
「としまえんだの、夏の概念だの、アンタがどこにいるかだの!誰が送ってきたんだか……俺が聞きたいんすけど」
「そう……なのか……」
「俺もマジで頭抱えましたね。いやー、サイコメール復活か?っつって。ネタメール間違えて俺に直送してね?って作家に聞きましたもん」
その気持ちは分かる気がする。誰だってそう思うだろうし、俺も同じ立場ならめちゃくちゃ心底疑うだろう。
だが不思議な話には不思議なことつきものなので、もう答えを探す元気もない。俺も狐につままれた、いや、つつまれたのか?何にしても謎は残ったが、それでも終わる気配がして胸をなでおろした。
だって、これからやるべきことはもう明白だ。
としまえんが夏の概念で、それが平子を指すのなら、解決策は一つしかないだろう。
……つまるところは、この幻想のとしまえんから、平子を引き剥がす。関連を断ち切って、連れ去って、現実へと戻す。
そうすればこの歪なイコールは崩れ去り、夏はきっと帰ってくるし、平子は普通に現実へ戻っていくし、俺もやがて薄れ消えていくだろう。本来あるべきではなかった人格の俺は、このとしまえんと同じようなうっすらぼんやりした存在に違いない。もとの所有者たる平子に器を返すのだから、おかしなことはない。
帰れるのか?いや、帰るしかない。あの出入口のゲートをくぐって、夢の国から帰るしかないさ。
とにかく、言えるのはひとつだけだから。つかつか歩み寄って、俺は言う。
「帰るぞ。」
手を伸ばす。こちらから。
「……夏は、もう終わりかぁ」
名残惜しそうな声とともに、手が伸びる。
「そう言うな、夏はまた来るさ」
「来るかなぁ」
「ああ。お前が忘れなければ、夏は何度でも」
風に乗った夏の匂いが、遠くから香ってきた。
始まったものはいずれ終わる。幻想にもいずれ壊れてしまう時が来る。それが瞬きするほどの速さか、それとも1年かはその人によるのだろう。
子ども達の笑い声と、優雅な音楽と、カルーセルエルドラドの輝きに平子は目をつぶり、言葉につまり、泣きそうになりながら大きく息を吸う。そうして、たっぷり時間を取ってからようやっと口を開いた。
「もっかいだけ、流れるプールで泳いできていい?」
俺と酒井で殴っておいた。
◆
◆
2020年の8月は本当に暑い日がずっと続いていた。なんだってもう、こんなに暑いんだろうかと嫌になる。
気づけばどこだが分からない場所で倒れていた。なんだよもう、俺何してたってのよ。ゆっくり起き上がると砂が体についていて、ああ、汚えなあと思いながらほろってあちこち見ると、外が真っ暗で、しかもそこが公園だと言うことがわかった。
調べればそこは向山公園───練馬の高級住宅街の中にある、尾崎豊の曲でも有名な公園だった。しかしなんでまた公園に、俺はなんか……なんだ、よくわかんないとこに着いちゃって、そんでなんかよくわかんないけどびかびか光ってるとこに行ったら……なんか夢見てたような……。
なんてぼんやり考えていると、左の頬がじんわりと痛むのがわかった。しかも口の中もちょっと切れてるじゃんか、もー。倒れた時にぶつけた?痛みに耐えつつ左腕に填めた時計で時間を見ると、既にてっぺんまで針は到着していた。つまり、もう9月1日になっていた。
2020年の9月1日。
としまえんは94年の営業にピリオドを打った。今日からは、としまえんのない日々を過ごしていかなければならない。辛いけれど、まだ納得も実感もないけれど、それでも俺は進まないといけないんだろう。
さよならなんて、お前には言わないぜ。俺は、またな、とそう言うよ。あの黄金郷に再び辿り着くことができたのならば、きっと泣いて喜ぶんだろうなってすぐわかる。
ああ。そうだ。俺の夏は終わってしまったけれど、まだ終わっていないことはたくさんあるよな。
「っつうう……あ、あー?」
「あ?」
うめき声がしたので、そこで初めて自分が一人ではないことを知る。視線を下ろせば、なんで?酒井が倒れてるんだけど。え、なにそれこわい。俺らコンビでここで伸びてたってのかい。そうなると一気に不安になって来て、所持品を確認してしまった。財布よし、ケータイよし、鍵も……よし、何も盗まれてな……いや、待て。再び財布の中身を見ると、きっちり4300円減っていた。
「んーと……?」
だめだ、何も覚えていない。変なとこに着いたことは覚えてるが、それ以外がてんで思い出せない。
「えっと、おかえりなさい」
「……何が?」
「んだよ、それも覚えてねぇんかーい」
本当に、何が?
けれどまぁ、いいか。なぜだか胸がスッキリしている。頬が特に痛いのと、全身が水泳をやり疲れた時のような虚脱感に見舞われている以外は問題なさそうだ。
「とりあえず、どうする?」
「帰ります」
「乗ってく?」
「当たり前だろ」
「え、何でそんな偉そうなの」
夏の概念は消え失せて、そうして今年の夏は終わっていく。俺達の思いが残っている限り来年もまた、きっとここに夏は続いていくんだろうなと思いながら。
車を走らせ始めたところで、なんとなく酒井が泣きそうな目をしてこちらを見たけれど、理由は最後までわからなかった。ついでに2020年と言うワードに大仰に驚いていたけれど、その理由も教えてくれなかった。
……ああ、そっか。終わったんだな。
既に閉園して真っ暗になったとしまえんを背に俺は日常に帰っていく。またな、と一言告げてからアクセルをぐんと踏み込み、その幻影を振り払った。鮮やかなベガスイエローは、この日ばかりは少しだけ寒色に見える気がした。
もっかい流れるプールで泳ぎたかったな、って言ったら助手席の酒井に肩の辺りをグーパンされた。
としまえんが閉園するので初投稿です。
誰得アルピー小話シリーズでした。最近もうどっぷりです。やべー。
しくじり学園とラジオ本放送を楽しみに毎日生きています。
また思いついた頃に。
っぱアルピーss最高だわ。
ダイナマイトボートレース!
>>24
レスついてるーと思ったらダイナマイトボートレースリスナーじゃん!!!!ありがてぇ
誰からも需要無くてもまた書くかもしんないからその時はよろしくお願いしまーす
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