中野五月「あいまいでぃすたんす」 (470)

五等分の花嫁のss。 たぶんR18。 

続編なので前のから読んでね。

何度試そうにもこれ以上カレンダーを捲ることが出来なくなって、そこでようやく今が何月かを理解した。玄関から一歩外に出ればそこにはもう冬が広がっており、間もなく今年が終わってしまうという事実をぼんやりと悟る。
 すっかり歩きなれてしまった通学路に、ずいぶんとくたびれた制服。そういったものともあと数か月でお別れだ。小学生の時も中学生の時も似たタイミングはあったはずで、しかし当時は何を思うでもなかった。だが、今回限りは少し特別。
 嫌でも思い入れなきゃならない出来事と交錯し続けた高校生活。特に二年後半からの攻勢は凄まじく、忘れようにも忘れられない記憶がちらほら。その中には可能なら忘れ去ってしまいたいことも含まれているのだが、この際それは考えないことにしておく。
 過去を振り返るたびに胸中にじんわり広がるこの感傷が、世に言う名残惜しさってやつなのだろうか。結局のところは自問自答でこの問いに答えてくれる相手はおらず、だから永遠と自分の内側で反響するだけになってしまうのがうざったいけれど。

 暖房の良く効いた職員室と比べて、廊下はお世辞にも快適とは言い難かった。スラックスの裾から入り込む冷気に脚が震えて、連動するかのように歯の根がカチカチと鳴る。白む吐息を見れば分かる通りに、節電はばっちり行われているようだ。環境保護に意欲的な施設のようで大いに結構。
 それにしても、この時期の学校から漂う焦燥感はどうにも好きになれそうにない。受験間近の三年生とそれを受け持つ教師たちは絶えず余裕のない顔をしているし、下級生もその勢いに飲み込まれているせいで非常に窮屈だ。マンツーマンの面談やら面接練習やらがそこかしこで実施されていて、とにかく校内全体が息苦しさに満ち満ちている。
 それらを受けて、嫌だなあと大きくため息をついた。こちらの事情を一切顧みることなく変遷していく周辺世界に関してもそうだし、今までとは打って変わってその環境から影響を被ってしまいそうになっている俺に対してもそうなのだが、とにかくもう少しでもいいから穏便に回ってくれやしないものだろうか。

「上杉君」
「……ん」

 教室への帰りしなに声をかけられる。誰かと思って顔を見れば、今日も今日とて頭部に星型のアクセサリーをくっつけた末っ子さんがそこには一人。彼女も寒さには強くないようで、冷気にあてられた頬はほんのりと紅潮していた。
 
「職員室に用でも?」
「ああ、まあな」

 会う場所が会う場所で、歩く方向が歩く方向だったため、繕いようがなかった。今の俺は誰から見ても、職員室から出てきた生徒だ。

「ちょっと担任から呼び出されて」
「……悪事を働いたりは」
「してねえよ」

 法律なり学則なりに触れた記憶はない。というかちょっとくらいやんちゃをしたところでこれといった問題はないように思う。学校なんて好成績さえキープしておけば教師の評価は自ずと高くなるのだから、これまで向こうも俺にガミガミ言ってくることはなかったし。
 ……だがまあ、今回は事情が事情だったため、仕方なかった。

「ではどんな理由でしょう?」
「追い追い話すから待ってろ。ってかお前、人のこと心配してる余裕あるのか?」
「……うっ」

 露骨に目を逸らされる。誤魔化そうにも俺は彼女のテスト結果を網羅しているので、口先で何を言おうと無駄だった。直近の模試では、なかなか苦しいアルファベットが成績欄に印字されていた記憶がある。

「俺はいいから、今は自分のことだけに集中しとけよ」
「そうは言っても……」
「ここに来てるってことはお前も職員室目当てなんだろ? ならさっさと行ってやれ。後がつかえる」

 五月は妙に食い下がる気配を見せたが、意図してそれに取り合わず、そそくさとその場を脱する。積極的に話したいことではなかったし、話すにしても場所を選ぶ必要があると思った。少なくとも誰が盗み聞きしているかも分からない廊下で持ち出すような話題ではない。
 
「後でちゃんと教えてくださいね!」

 五月の声を背中で受けながら、室温を気にしなくても構わない教室へと向かう。体が冷えていると、その延長で心まで凍えてしまいそうな気がしたから。

 時期が時期だから、もう通常授業という名目で時間割が運営されていない。何もかもが受験対策に染まっていて、ここが高校なのか予備校なのかの判定が自分の中で曖昧になってきているのが分かる。
 午後イチのコマは発展演習ということで、有名大の過去問を解かされた。幸か不幸か以前に手をつけた問題だったので制限時間の三分の一程度で解答欄を埋め終えて、残り時間を思考に費すことにする。
 思い返すのは、先ほど職員室で問われた話題。自分の中で未だに結論が出ていない、一つの大きな悩みについて。この数か月で何度も考えさせられて、されどまるで答えがまとまってくれなかったこと。

「…………」

 プリントの端のスペースに、同じ長さの直線を角度を変えて数本書いて階段を作る。その段に対応させるように小学校、中学校、高校と書いて、そして次に。

「…………」

 次に、何も書けなかった。俺の思考力は現在を描くのに精いっぱいで、その先の未来を書き記してくれない。数か月後の身分さえ、確定させることが叶わない。
 どう想像しようにも上手く行ってはくれなかった。先へ先へと進んでいくと必ず思考が断絶するポイントがあって、何度試してみてもその関を越えられないのだ。そしてそれは、決まって進学や就職といった場所で発生する。
 要するに、お先が真っ暗だった。その場所に至る能力の持ち合わせはあるのに、それを活用している自分の姿が思い描けない。目的なく手段を鍛え上げたツケをこんな時になって払わせられることに歯噛みし、今しがた書いたばかりの階段をHBの鉛筆で塗りつぶす。その像はまるで今の自分の脳内を図解したかのようで、直視するのが躊躇われた。

 教室に響くのはペンが文字を記す音と、クラスメイトの呼吸音。それから、時計が秒針を刻む音。
 そのどれもが優柔不断な俺を急かしているように思えて、逃げるように目を閉じた。
 そんなことをしたって、白紙の進路調査票は埋まってくれやしないのに。

 どんな問題も、永遠に保留しておけるならそれより楽なことはないのになと思う。期限をどこまでも先延ばして、追及をのらりくらりとかわして、そうやっていつまでも面倒なことを考えずにいるのが許されるなら、俺もそっち側に流れるかもしれない。
 けれど、現実としてそんなことを許容してくれるほど世界は甘く作られてはいなくて。だから遅かれ早かれ、満足の行く行かないにかかわらず、答えを迫られるときは必ずやって来る。

「へんなかお」
「そう思うなら見なきゃいいだろ」

 図書室。机の上に必要なテキスト類をざっと並べて、黙々と励んでいたところ。
 別に招集をかけたわけでもないというのに、三玖は俺の対面の椅子をそっと引いて、そこに腰をおろした。

「眉間にしわが寄ってる」
「目が疲れてんだよ」
「ほんとに?」
「ほんとに。ついでに言えば脳とか体とか、他にも色々疲れはたまってる」

 変な顔、というのは表情が苦しげだという意味だろうか。考え事をするのならそれに関わる如何は己の内側に留めるべきで、外に漏出させるのは好ましくない。芸とか品位とか、その他もろもろを問われる。
 昔までならどれだけ険しい顔をしようが問題はなかったが、ここ最近は勝手に心配してくれる連中がいるので、下手な迷惑をかけたいとは思っていなかった。
 それがこうやって三玖からの指摘を受けるほど目に見える変化を起こしてしまっているのなら、いよいよ深刻。

「えい」
「えい、じゃねえよ」
「ほぐせば少しは良くなるかなって」

 大きく身を乗り出した三玖が、指先で俺の眉間をつまんでくる。それに飽き足らず前後左右にぐりぐりと動かしてくるので、前を見るのもままならない。

「そこをいじったところで疲れは取れなくないか?」
「気分的に」
「気分で解決はしないんだな、残念なことに」

 原因は明らかに睡眠不足なので、保健室のベッドにでも潜り込むのが一番だ。ただ、最近は寝つきも良好とはいえないからなんとも。
 それ以前に解決すべきことが山積しているとの見方もあるが、俺の能力で片付けるのが不可能だからここまでだらだらと間延びしてしまったわけで。
 眉間から下降して頬っぺたをつつき始めた三玖の手を退けて、目をノートに落とす。正直これ以上手を尽くしたところで意味があるかは微妙なのだが、気分的に妥協はしたくなかった。

「無理はほどほどにね」
「心得てる」
「心得てるなら、ゆっくり休むべきだと思うんだけど」
「……自分のことだけ考えりゃ良いのならそうしてたかもな」
「……意外にお人好しだよね、フータロー」
「意外は余計だ」

 俺が現在扱っているのがセンター対策系の問題集だったのを見て、三玖は色々と察したようだ。

「どうせなら皿まで食ってやろうと思ってな」
「…………?」
「こっちの話」

 嫌味を言うようだが、俺自身はもうどうにでもなる。国内の最高学府なら、基本的にどこだって射程だ。なんなら明日に試験を持ってこられようが構わない。
 だから、こちらの心配は、自分以外に預けられている。

「ここまでやってきたんだ。どうせなら成功してもらった方が得だろ」
「損得で考えるのがフータローらしいっていうか」
「俺の一年の価値が問われてるからな」
「そんなの、気にしなくてもいいのに」

 気にするんだこれが。自分のやって来たことが間違いだったかもしれないという憂いは、人生に大きな影を落としてしまうから。
 というか、それ以上に。

「本人の頑張りを知っちまってるから、応援してやりたくもなる」
「お人好しと言うよりは、お節介焼きなのかもね」
「否定はしない」

 これから受験に臨む誰かさんのために躍起になって要点整理ノートなんて作っているのだから、そう言われても仕方ない。ここまでくると介護に近い趣さえ感じる。
 昼間はあんなことを言ったけれど、あいつの努力に関しては疑っていない。要領が絶妙に悪いせいでこれまでは結実しなかったが、人生の大一番でくらい成功体験を味わってもらっても罰は当たらないだろう。
 
「サポート頼むぞ」
「うん、分かってる」

 精神面のケアは俺の領分じゃない。それはこれまでで嫌と言うほど理解させられているので、大人しく姉妹に丸投げしておく。同じ家で過ごす家族である以上、俺なんかよりもよほど上手く立ち回ってくれるに違いないから。
 得手不得手はどうしてもあって、そしてそれは彼女たちに限った話ではない。克服しようと努めるのも大切だけれど、効率の方を優先させた方が丸く収まる場合だってある。おそらく、今は後者だ。
 一年前よりは彼女たちのことを深く知って、一年前よりはその心の内を推し量ることに大きなウェイトを割くようにもなった。けれどそこにはどうしても俺の性向上の限度が存在するので、踏み込み過ぎるのも考え物だ。
 
「……で、お前はどんな用向きでここに来たんだ?」
「好きな男の子の顔を近くで眺めておこうと思って」

 一切の予備動作なく投下されたバンカーバスターの余波がどこまで広がっているか確認するために周囲を一通り見回すが、幸運にも聞き咎めた者はいないようだった。聞いていないフリをしているのかもしれないが、別にそれでも構わない。今この場において重要なのは、いかになんてことない感じで受け流せるかどうかだから。

「……反応してもらえないと恥ずかしいんだけど」
「悪いが今ちょうど切らしてる」
「スーパーじゃあるまいし」

 真っ向から受け止めて甘酸っぱい感じの雰囲気になってしまうと、間違いなく勉強どころではなくなる。
 酷いことをしているという自覚はあるけれど、俺の考えられる最適解がこれである以上、頼らないわけにはいかない。

「入荷予定はあるの?」
「……数か月後じゃねえかな」
「そっか。なら、気長に待つ」
「わ――」

 悪い。そう言いかけて、けれど途中で口を噤んだ。どこかで致命的な間違いが発生している気がするというのが第一の理由で、第二には、それを弁解するだけの資格が自分に備わっているようには思えなかったというのが挙げられる。
 やったことがやったことだ。最低とか最悪とか、そのあたりの誹りは黙って全部受け止めておかないと。一人で勝手に謝って、救われた気分になるのは何かが違う。この話題に関してのみは、どうあっても彼女たちの優しさに甘えることは許されないと思うから。

「わ?」
「……忘れてたら言ってくれ」
「じゃあ、今日から毎日催促を」
「やっぱやめてくれ」

 急ごしらえの方針転換なんてしても、何もいいことはなかった。最低具合がさらに跳ね上がっただけだ。マイナス百が二百になろうが三百になろうが零点を割り込んでいるというところでは同じなので、今更気にしたところでと感じたりもするけれど。

「気付いたら四葉も手籠めにされてたし、もっとアピールしなきゃなって」
「お願いだからそれ以上いじめないでくれ……」
「朝帰りした後、冷や汗だらだらで苦笑いしてる四葉に何が起きたかを考えるのはすごく簡単だったよ」
「その節は大変申し訳なく……」
「申し訳なく思うなら、せめて最後くらいはきっぱりね」
「……おう」

 温情、あるいは憐憫。結局甘えに走ってしまっている俺は、思ったよりもずっと弱っちい人間らしい。
 なればこそ、せめて彼女の言う通りに有終までは持っていきたかったが、『誰が』とか、『どういう理由で』とか、果たしてそんなことを言う権利が俺にあるのかどうか。
 分からないなりにどうにかしようともがいていて、そのたびにずぶずぶと底なし沼へと沈んでいく。厄介なことにじっとしていても体は泥に動きを奪われていくから、両者の違いは侵食速度の差だけ。それならばせめて自分の力で溺れてしまおうと思うのは、俺の傲慢か。

「あ、そうだ」
「なんだ」
「三玖が一番って言う練習、ここでしておく?」
「圧」

 えげつないプレッシャーだ。誰もかれも最近こんなのばっかり。
 もっとなりふりを構って欲しいところだが俺の素行が素行なので強くは言えず、だから必然的に、彼女との視線の交わり合いをやんわり避けるところに帰着する。

「……とにかく、俺は作業に戻るから」
「ん、分かった。……見ててもいい?」
「好きにしてくれ」

 それから数時間、何をするでもなくただただ椅子に座りながら俺を見つめてくる三玖になんとも言えないものを感じながら、それでもどうにか予定していたものを作り上げた。
 よくもまあ飽きないものだというのが、正直な感想だった。

「これ、五月に渡しといてくれ」
「自分で渡せばいいんじゃないの?」
「こういうのは早い方がいいだろ。時間がそんなに残ってるわけでもないんだし」

 ノートに題でもふっておこうかと思ったが、気の利いた文言が思いつかなかったのでそのままにした。『サルでもわかる』なんて喧伝した上で理解されなかったらあまりにも悲惨過ぎるので、変に凝らない方がいいとも思う。外見より中身で勝負していけ。

「……まあ、この時期にやたらめったら新しいものに手をつけるのは危険だとは分かってるんだけど、心情的に拠り所になるものがあると楽だからな」
「了解。しっかり届ける」

 三玖がノートを鞄にしまい終えるのを確認してから、その場を離れる。思いの外手間取ってしまったというのもあって、図書室内の人影は既にまばらになっていた。おおかた、暗くなる前に帰路に就こうという魂胆の連中が多かったんだろう。
 昇降口で緩慢に靴を履き替えて、外を眺める。
 照明に慣れてしまった目に、夕闇はいくらか暗すぎた。疲れ目では瞳孔の収縮も上手くいかず、また眉間にしわを寄せることになる。

「ほら、さっさと帰るぞ」

 振り返って言う。ローファの踵がどうにも合わないらしくもたついている三玖を急かすために。

「え……?」
「なんだその困惑顔」
「いや、いつものフータローなら一人ですぐに帰っちゃうところだから」
「そうしたってどうせ付いてくるだろ、お前は」

 もしかすると、俺は割と恥ずかしい類の勘違いをしてしまったのかもしれない。すっかり一緒に帰るものだとばかり思って、それを前提に行動していた。
 これを思い上がりと呼ばすになんと呼ぶといった感じだが、当の三玖はまんざらでもないらしかった。それどころか、ご満悦らしかった。

「うん、付いてく」

 言って、ようやくのこと立ち上がる。……けれど。

「それはサービス対象外なんだが」
「しーらない」

 しっかり組まれた左腕を、半ば諦観の意を込めながら見下ろす。独占欲の高さは姉妹に共通するようで、以前の二乃なり四葉なりを彷彿とさせるような、抜け出す方法が見つけ出せない完全な両腕によるホールドだった。
 こんなことをしなくても走って逃げ出したりはしないというのに、一体何が彼女たちを突き動かすのか。……と、そこまで考えて、四葉の言が頭の中に甦る。誰より近くで自分の欲しかった幸せを見せられる恐怖。そもそもこいつらの定義する幸せになぜ俺が関与しているのかという根本的な疑問は飲み込めていないが、こいつらはこいつらなりに必死なのだろう。
 だからこんな風に、捕らえた腕に頬ずりを――

「いくらなんでもそれはねえだろ」
「せっかくだし」
「お前も損得勘定で動いてるじゃねえか」

 この指摘で多少は離れてくれるかと思ったが、どうやら彼女の決意は俺の思う以上に硬いようで。
 なおも頑なに体をすり寄せてくるのを強引に引き剥がして、なんとか会話を続ける。

「しゃーないから聞くわ。ずっと気になっていたことではあったんだけど、なぜここまで俺にご執心なんだお前?」
「なぜって?」
「いや、上手くは言えないけど……」

 「俺のどこが好きなんだ?」と正面切って言う胆力はなかった。自分の口で言うと認知を確定させてしまったようで悔しさが滲むというのもある。
 しかし、これはずっと気になっていたことではあったのだ。男の趣味が悪いなーと漠然と感じはしていたが、そこに明確な理由付けがなされているのなら、聞いておきたい。敵と己を知って百戦百勝の構えだ。

「なぜってどういうこと? もっとはっきり聞いて欲しい」
「さてはお前分かってやってるな?」
「分からない。何も。だからはっきり聞いて欲しい」
「三十六計」
「逃げるに如か……あ、ちょっと。待ってよフータロー」

 形勢不利と見たら取りあえず逃げる。兵法の基本だ。
 俺がいつから戦争に参加していたのかは謎だが、ここは歩幅を大きく広げて、三玖の意識を歩行に割かせることに注力する。俺の脚の方が長いので、加減をやめれば歩行距離に差がつくのだ。
 しかし、俺の権謀は虚しく散る。というのも、しばらく黙ってもらおうと思っていたのに、突然三玖が口を開いたからで。

「…………まさに、こんなところとか」
「意味が分からん」
「いつもはこっそり歩幅合わせてくれてるってことでしょ」
「…………」

 完全に無意識なので、いきなり言われても困惑するしかない。確かに横並びで歩くことには慣れてきたけれど、そこに隠れた意図なんて一つも……。

「そういうところがあったかいなあって」
「……誰でもしてるだろそんなの」
「そういう素直じゃないところも」
「無理やり好きな要素増やそうとしてないか……?」

 単純な疑問。天邪鬼な部分まで気に入られても困る。卑屈だったりひねくれていたり、少なくとも俺の性格は褒めそやされるようなもんじゃない。
 ここまでくるとどうにも恋に恋している感が強くなっている気がして、そこから漂う違和感が拭えなかった。盲目的すぎるのは、流石に違うように思う。

「人を好きになるって、要はそれでしょ?」
「それってどれだ」
「一つ『ここがいいなー』って思ったら、だんだん他のところにも目が向くようになるの。それで気が付いたら、その人の全部が好きになってる」
「……じゃあさ」

 大本。根っこ。今に至る原因。それがあると彼女は言うのだから、この際教えてもらうことにしよう。

「最初の一つってなんだったんだよ?」
「さあ?」
「さあって」

 いきなりの矛盾。自身の言葉を彼女本人が否定しにかかっている。
 今の言葉から鑑みるに、何かしらの理由が必要不可欠なはずだった。それがないなら、今こうなってはいないって。
 なのに当人がこの調子では、何をもってその発言が裏付けられるかが不明瞭になってしまう。

「押しに弱かったのかもね、私」
「口説いた覚えなんてないぞ」
「違くて。ほら、フータローはさ、最初から距離を気にしないでぐいぐい詰めてきたから」
「仕事だったし……」
「それにしたって強引だったよ」

 俺なりに必死だったので仕方のないことだ。生活がかかっている以上、適当に投げるわけにはいかなかった。
 結果として、大きく踏み込み過ぎたというのはあると思う。だがしかし、それで陥落するのはいくらなんでも耐性がなさすぎる。

「きっかけはたぶん、そんな感じ。こんなに近くに男の人がいるの、初めてだったから」
「引き運が悪くて残念だったな」
「ん、どうだろ」

 言って、三玖はそのまますり寄ってくる。人懐こい猫を思わせる動きに、人としての尊厳を問いたくなった。

「フータローじゃなかったら、きっとこうはならなかったと思うなぁ」
「…………それは嫌味か?」
「半分はね」
「もう半分は?」
「……感謝、かな?」

 確かに私生活をはちゃめちゃに荒らしはしたが、その中でも仕事に関してはきっちりこなしてきた。その部分に恩義を感じるというのなら、受け入れられなくもなかったり。今考えれば、プロに任せていた方がもっと丸く収まったのではないかと思いもするけれど。
 ……が、そんな俺の内心を知ってか知らずか、三玖は否定を示す次の言葉を紡いでいく。

「フータローに会えたおかげで、昔よりずっと自信がついたから」
「別に、いずれどうにかなってたろ」
「じゃあ、その『いずれ』を手っ取り早く引き連れてきてくれたフータローには、俄然感謝をしなくちゃね」
「そういうもんかね」
「前と違って、好きなものを素直に好きって言えるようになったよ」
「……なんだその目は」
「好きな人を見る目」
「…………」

 これ以上のやり取りは不毛と言うか、俺の精神力が一方的に摩耗していくだけというか。
 とにかく、今は何を言っても墓穴を掘ってしまいそうな気がしたので、一度口を紡ぐ選択をした。

「フータローが恥ずかしがり屋さんなのは知ってるから」
「……ただの予防策だっての」
「何を予防するの?」
「主に失言。それと、そこから来る揚げ足取り」

 一度口に出した言葉は引っ込みがつかないので、吟味を挟んでいくしかない。思考と発言を直結させるのは安易すぎる。少なくとも、俺の性格とは相性が良くない。

「黙ったら黙ったで、私の言葉が刺さってるのが分かって嬉しいけど」
「そう言われたらとうとう打つ手がねーよ」
「打たなきゃいいんだよ。私はいつでも準備万端だから」
「一応聞いとく。何の準備だ?」
「嫁入り」
「こえーよ。怖い」

 みんな怖い。どこまで先を見てるんだか分からなさすぎる。三玖を見るに『冗談だよ』と否定する様子もなさそうなのがまた、俺の不安を煽り立ててくるのだ。
 こういう奴らを四人ほど相手にしていくのか、俺は。業があまりにも深すぎて今にもこの場で泣き出しそうだ。

「私をこんな風にした責任は、フータローにあるんだからね?」
「安直に病むな」
「……それは冗談としても、良いよね、お嫁さん」
「男だからその感情は分からん」
「お嫁さんって、女の子にとってはウェディングドレスのイメージだから」

 基本的に一生に一度だけ世話になる華美な服装。大きな晴れ舞台として、深層意識では誰もが憧れるものなのだろうか。

「一応仏教国なんだけどな、日本」
「フータローは白無垢の方が好み……?」
「そういう意図はない。ってかそれは神道だろ」
「神前式も趣があって良いよね」
「ここで歴女の顔を出すな」
「紋付の袴、似合いそうだし」
「バージンロードって和製英語らしいぞ」

 向こうが会話を放棄して妄想に耽り始めたので、こちらも大暴投することにした。キャッチボールなんて知らない。
 しかしその球は三玖の体を掠めたようで、「へー」と頷いているようだ。

「バージン」
「なぜそこで区切った」
「バージン……」
「なぜ俺を見る」
「いや、もうあげちゃったなと思って」
「胃が千切れるから勘弁してくれ」

 やっぱり、口は災禍を招いてしまう。この際だから大人しく声帯でも潰しておこうか。
 それ以上に災いを呼んでくる器官があることには薄々勘づいているが、ここを切除する想像をすると全身が震えあがるのでやめておく。命は惜しい。

「まあいいや。誰かさんが私の憧れを叶えてくれるように、今からお祈りしておくね」
「それは脅迫って言うんだぜ」
「それでもいいよ。なりふり構う余裕がないもん」

 外気は冷たいはずなのに、三玖はそれを感じる余地すら残してくれない。肌のふれあいと、それから心のふれあいでもって、さっきからずっと体が火照っている。
 いっそ雪でも降ってくれれば話題を逸らすことも出来るんだけどなと思いつつも、そういえば彼女と会ってから、進路に関しての懊悩を一時的に忘れられていたことに気付く。代償に、同等の爆弾を落とされはしたけれど。

「なあ、三玖」
「なあに」
「お前、将来の夢ってあるか?」
「フータローのお嫁さん」
「ノータイムで答えんな。……でも、そうか」

 ぱっと出てくる選択肢があるだけ羨ましい。俺には、それすらないから。
 これさえあればというものが自分の中央に座っていないのは、今思えば歪な精神構造なのかもしれない。たかだか十八のガキに、未来を決める決断を迫るだけ無謀だという見方も出来なくはないけれど。

「フータローには何かあるの?」
「……さあ、どうだかな」
「ないなら、見つけるのを手伝うよ。恩返しにね」
「恩なんか売ってねえよ」
「勝手に買ったもん」

 正規の購入手続きを経てくれと毒づく。だが、協力者がいる方が、頼もしいか。

「大丈夫。私たちに勉強を教えるより難しいことなんて、世の中に存在しないんだから」
「それだけ説得力やべーな」
「だから元気出してよ。最近、ずっと疲れた顔してる」

 むにむにと頬を引っ張られる。その程度で、凝り固まった表情筋がほぐれることはないけれど。……でも、心の方には、ちょっとだけゆとりができた。

「……これじゃあ、どっちが先生なのか分かんねえな」

 聞かれないように呟く。教え導く側がこんなんでいいのか全くの謎だ。
 未だに、舵の取り方は分からなかった。その場しのぎを繰り返してきたせいで、具体的な方法論は確立されていない。

「ラストスパートだ」

 何においても。終わった後に倒れこめそうにないから、余力を残しておかなければいけないけれど。それでもあと数か月で、今の俺に襲い掛かっている問題の大半は一応の解決を見る……ことになっている。今の段階では神のみぞ知ることだから、せめて上手く行けと願っておこうか。
 ここからの自分の判断一つ一つが、未来の自分を作る大きな分岐点になる。まるで実感が湧かないが、悔いだけは残さないようにしないと。

「出来る限り、私も協力するから」
「なら、この腕をほどくところから始めてくれ」
「これは別問題」
「さいで」

 空に浮かぶ星を見上げながら、肺にたまった空気を吐き出す。こういう甘えたやり取りをしていられるのも、おそらく今が最後だ。
 何を選ぶにしろ、選ばないにしろ、きっと円満な解決法なんて存在しない。大団円はどこにもない。
 それならそれで、俺にお似合いの結末のように思う。自分の分を超えた行いだったと考えれば、意外にすんなり受け入れられる。
 どんなことになろうとも、その顛末は全てこの身で受け止めよう。自分で引いてしまった引き金なのだから、面倒を最後まで見切らないことには話にならない。
 当然の帰結。当たり前の責任。それを超えた先に、待っていてくれるものはあるのだろうか。

「ほら、お前んちあっちだろ」
「ん、もうちょっと」
「お前のもうちょっとは異常に長いんだよ。知ってるかんな」
「なら、あと五分」
「五分はちょっとなのか……?」

 体力自慢なら一五〇〇メートルを軽々駆け抜けられるくらいの時間。大抵のカップ麺が出来上がる時間。それがちょっとかどうかは、俺の尺度では断言できなかった。

「もしくは十分……」
「指定しても伸びるんじゃ意味ねえだろ」

 ぽすっと胸あたりに収まる三玖の頭をどう扱うべきか悩んで、最終的に握りこぶしをぐりぐり押し付けることに決めた。これなら、触れることに特別な意味を見出されなくて済む。
 
「ね、フータロー」
「なんだよ」
「キス、しとく?」
「しとかねえよ」
「いや、断られてもするんだけど」
「えぇ……」

 極力限界まで背を反って、目を瞑りながらこちらに唇を寄せてくる三玖から逃れた。残念なことに、一日一回は朝一番で消化済みだったりする。

「……むぅ」
「むぅじゃないが」
「じゃあ、こっちで我慢しておく」

 ちゅっと、唇が首に触れた。これは協定的にセーフでいいのか……? この抜け穴を許すと、どんどん綻びを突かれる気がするんだけど。

「このほうが記憶に残っていいかもね」
「良くねえよ。なんにも良くない」

 そのたびに寿命を縮めてしまう。長生きしようとは思わないが、別に早逝したいってわけでもないのだ。

「あったかい……」

 そりゃあそんなにべたべた引っ付いたら、寒さを感じるどころではないだろう。決して俺は湯たんぽなどではないので、勘違いはしないでもらいたいのだが。

「頑張ってね、フータロー」
「言われなくても頑張るっての」

 こんなやり取りの間にも、時間は刻々と流れていく。
 結局、経過したのは五分や十分どころではなかった。何もない道端で立ち尽くして、中身の伴わないどうでもいい会話をして、そうやって、だらだらと貴重な時間を消費していく。
 なんてことはなく、ぬくもりを誰よりも求めていたのは、ここにいる俺自身だったらしかった。
 やっぱり、彼女たちへの甘えは消えてくれない。

今日はここまで。最新話の一花見て目ん玉溶けちゃった。

 二十四節季でいう大雪を通り過ぎた十二月の半ば。日に日に強くなっていく冷え込みに度重なる厚着を強要されながら、今日も今日とて家庭教師だと中野姉妹が住まうアパートへ足を運ぶ。
 開けっ放しになっている玄関ドアの鍵は、俺に対する信用の表れか、あるいはただの不用心か。

「五月は?」

 こたつに座して待っている面々は、勢ぞろいというわけではなかった。いつも五月が座っているところだけがぽつんと歯抜けになっていて、妙な違和感がある。
 さては無理がたたって熱でも出したか。そう思って寝室の方に視線を向けると、俺の考えを否定するように、三玖が壁掛けのカレンダーを指さした。

「……そういうことね」
「朝一番に訪ねてすぐ帰るって言ってたけど、長引いちゃってるみたい」
「了解。お前らは自習しててくれ」

 入って来たばかりの玄関に逆戻りして、靴を履き直す。つくづく俺の領分じゃねえなあと思うが、やらないことには始まらない。

「入れ違いになったら連絡頼む」

 それだけ告げて家を出た。一度温かな空間に立ち寄ってしまったせいで、寒さはいっそう際立ったように思う。

「風邪ひくぞ」
「…………!」

 墓石の前で手を合わせている五月を捕捉し、横に並んだ。
 本日は十二月十四日。そして、毎月十四日は彼女たちの母親の月命日にあたる。五月が毎月欠かさず墓参りをすることは知っていたが、ナイーブな時期にいることもあってか、予想以上に長居をしてしまっているらしい。

「あ、ご、ごめんなさい! すぐ帰るつもりだったのに!」
「線香余ってるか?」
「……? ええ、一応」
「分けてくれ。供え物する余裕はないが、それくらいはな」

 百円ライターで線香数本に火を灯し、供える。面識もない相手の喪に服するのは、なんだか変な感じがした。

「お前の母親、学校の先生だったって言ったか」
「はい」
「ならご利益もあるか」

 碑に刻まれている横並びの没年月日と戒名を順に辿って行って、明らかに名づけの法則が異なる一つを見つける。病死した人物にありがちな、疫を雪ぐ名前。それが彼女たちの母親の名であることは想像に難くない。
 きちんと傍記されている本名に意識を吸われかけたが、今はそれを気にしている場合でもないだろう。こいつをさっさと家に連れ帰って、少しでも多くの知識を叩き込んでやらないと。

「なんだか意外です」
「何がだよ?」
「遅刻したことを怒られるものだとばかり」
「俺を何だと思ってんだ……」

 風に吹かれて、線香の燃焼速度が増した。実家の香炉にも手を合わせてこようかなんて考えながら、五月の方に視線を向ける。

「サボりだったら怒るだろうが、そうじゃないことくらい俺にだって分かるっての」
「そもそも上杉君の場合、こういう信心深さとは無縁のような気がして」

 宗教的な価値観の話。確かに、俺はそこまで信仰心が篤い人間ではないけれど。

「神サマは信じてないが、仏に関してはそうでもない」
「……その心は?」
「神がいるなら俺の母親もお前の母親も死んでない。逆に、俺の母親やお前の母親が死んでる以上仏はいる」
「暴論……」
「自分で納得できればそれでいいんだよこんなのは。現にこの解釈が一番しっくりきてるし疑ってない。俺は信仰を自分の軸に据えていないし、適当なくらいがちょうどだ」

 少なくとも墓前でするような話じゃないがな、と付け足す。時と場所と場合は見極めないといけない。
 まあ、そういうのは置いても、五月の気持ちが分からないわけではないのだ。人事を尽くさずして神頼みに走るのは論外だが、出来る限りの努力を積み切ったうえでそこに不安が残るのであれば、後はスピリチュアルなものに縋るしかない。そして一般的な環境下で育ってきた日本人の場合、それが先祖の類である可能性が高いのも分かっている。
 空から見守ってくれているという考え方。正しい努力には正しい顛末が付いて回るはずだという理想論を、もうこの世界にはいない誰かに肯定してもらいたい。
 それを一概に弱さだと断じて括ることは、俺にはできなかった。

「なんというか、上杉君らしいです」
「どこらへんが?」
「迷いのなさが。私は、道に迷ってばかりで」
「……そうでもないんだな」
「はい?」
「なんでもない。で、その迷いってなんだよ?」
「信念、でしょうか」

 五月は自分の心臓のあたりに手を当てる。疑似的に、心に触れているのか。

「上杉君と違って、自分の信じたことをそのままに受け入れる力が私にはありませんから」
「初耳だぞ、そんな力の存在」
「当たり前に思っている人ほど気づかないものですよ」

 笑いかけられる。その笑顔が絶妙に脆くて、表情とは裏腹な思いがないまぜになっているのが分かった。

「ついついよそ見をしてしまいますから。普通は」
「俺が普通じゃないみたいな言い方はよせ」
「なら、なおさら撤回しかねます」

 変人認定など要らないのに、彼女はそれを取り消してくれない。こちらには否定材料がないせいで、言われるがままだ。
 墓所で軽口をたたき合うのは、マナー的にどうなのだろうか。

「……よしんば俺が普通じゃなかったとして、別によそ見をしてないわけじゃねえよ」
「そうでしょうか?」
「よそ見ってのは、選択肢を複数持つ人間の特権だ」

 それだけ言って、今いる場所から離れる。彼女の返しを待ちはしない。

「ほら、そろそろ行こうぜ。お前の姉連中が待ってる」
「あっ、ちょっと」

 慌ててついてくる五月を尻目に、石段を降りる。感傷に浸れども今抱えている問題が解決するわけではないので、きちんと実になることを積み上げないといけない。
 それ以前に、負い目があった。……その、なんというか、彼女たちの母親に申し訳ないことをしているというか……。

「どういう意味ですか、今の」
「どうもこうもない。そのまんまだ」

 連日の降雪で薄ら白む歩道に足跡を残しながら、来た道を逆戻り。春の遠さに目が眩むが、いざ春が来たら来たで、また新たな課題が俺の目の前に姿を現すのだろう。悩みも課題も天壌無窮。生きている限りその輪から逃れる術はない。
 意識的に、俺が数分前につけたばかりの足跡を上書いて歩く。真っ直ぐやって来たつもりがところどころで歪んでいて、自分の認識のずれを見せられているようだ。

「それ以前に、この前のお話もまだ聞いていませんし」
「この前?」
「職員室の近くで会ったときです。追い追い話すって言っていたじゃないですか」
「ああ、あれ」

 機会が機会だ。二人で話す時間があるうちに、言っておくのが吉か。
 だが、タイミングが微妙な気もした。俺に対して余計な心遣いをされても困るし、現在余裕がないのは彼女の方に違いないのに。
 だから、極力なんでもないように装うことに決めた。深刻な雰囲気を醸し出さないように、気をつけて。

「大したことじゃないから聞き流せよ」
「それは私の判断次第ですね」
「進学か就職か聞かれた。以上」
「大問題じゃないですか」
「だよなー」

 我ながらそう思う。人生設計が甘すぎだ。
 だからこいつには言いたくなかった。少なくとも、成績が安定するようになるまでは話題に出さないつもりでいたのに。

「ま、まさかまだ決まってないなんてことは……?」
「取りあえずセンターは受ける」
「それだけですか……」
「願書の締め切りで考えればまだ一月くらいは時間あるし、そこまで大した問題でもないだろ」
「大した問題ですって。私の面倒を見ている場合じゃないでしょう」
「まあ、なんだ。人生なるようになる」
「それはなにもかもが円満に片付いた後で言うセリフです」

 ごもっともだ。楽天家の自己肯定に使っていい言葉ではないことだけは確か。
 しかし、どう考えたところで結論は出てくれないのだから仕方ない。勉学を極めれば何者かになれるものだとばかり思っていたけれど、現実はそんなに甘くなかった。課題の類は次から次に提示され、息つく暇もなく自分に襲い掛かってくる。
 そんな中にあって、冷静な判断を下す自信がない。後悔を残す予感しかしない。
 俺は一体、どこに向かって歩いているのだろう。

「これも一つの教訓だと思って見ておけよ。お前が欲してやまない学力という武器を持っている人間だって、その使い道を知らなければこうなる」
「笑えませんよ」
「結局、テストの出来なんてのは手段の一つでしかないんだよ。気付くのが遅すぎた気もするが、俺も一つの学びを得た。そこを突き詰めれば学者という選択肢が生まれるのかもしれないが、残念ながら俺は学問自体に魅力を感じているわけじゃない」
「それは真理かもですが……」

 勉強だけが全てではないことを、彼女たちとの関わりを通して学んだ。そのせいで、今まで絶対だと信じて疑ってこなかった自身の価値観が揺らいでしまうことにも繋がったわけだが、それが学生の間に訪れたことはむしろ僥倖であろうとも思う。
 人間、何かを始めるのに遅すぎるなんてことはない……などとは言うけれど、それは恵まれた側にいる人間の戯言だ。資本主義の底辺層で燻っている俺に、そう何度もリカバリのチャンスは訪れない。
 少ないチャンスをものにするために、より多くの観点が必要だった。俺は、それを与えてもらった。

「お前、夢あるんだろ?」
「……一応」
「ならその時点で俺より上だ。胸張って生きろ」

 夢や目標を原動力にするやり方がなにより健全だったのだ。その点で、俺は彼女を尊敬できる。

「……正直、お前が学校教師になっている姿はまるで想像出来ないが」
「えっ」
「なんだよ。これはただの個人的な感想だ」
「いえ、私、直接伝えましたっけ……?」
「模試の志望欄が全部教育学部のやつが先生目指さねえってことはないだろ……」

 それが分からない程鈍い奴だとでも思われていたのか俺は。それはさすがに心外だと訴えるために薄眼で彼女を見ると、五月はぽかんとした表情で視線を虚空に彷徨わせるばかりになっていた。

「確かに……」
「むしろあれで隠してるつもりだったってのが怖い」
「い、いつか自分の口で宣言しようと思って」
「いつかが遠すぎる。ほら、今言え今」
「今ですか?!」
「お前の口からは聞いてないしな」

 なんの儀式だって感じだが、こういうのが意外と大事だったりする。逃げ道が消えることによって力を増すタイプの人間がいることは知っているから、五月もそうである可能性を願おう。

「いえ、でも、今のままだと……」
「できるかどうかはこの際どうでもいいだろ。この場合、重要なのはなりたいかどうかだ」

 それっぽいことを言って励ます。退路の一切を絶たせてしまう恐ろしいやり方だが、彼女にはこれくらいでちょうどいいと思う。保険も予防線も、挑戦という概念の前では邪魔なものでしかないから。

「それに、聞く相手が俺だしな。気負うことなんか何もない」
「……だから言えなかったんですよ」
「…………?」

 会話のどの部分を受けて「だから」という言葉が湧いて出てきたのかは推察できなかった。しかし、そんなことはどうでもいい。さっさと宣誓させて、迷いから抜け出させてやらないと。

「…………先生に、なりたいです」
「少し違う」
「違うと言われても」

 小声でぼそぼそ言ったって、大した効果が望めるようには思えなかった。もっと、何もかもかなぐり捨てて突っ走る感じがいい

「それはただの願望だろ。宣言ってのはもっとこう、我がままで、無根拠な自信に満ちたものじゃないと」
「つまりは、どういうことでしょう?」
「なりたいんじゃねえ。なるんだよ、お前は」
「…………」

 失敗した自分の姿を勝手に想像して、それを恐れるようではいけない。確かに無駄に知恵をつけて、社会を知って、そういう過程で保身に走る能力を身に着けてしまうことは分からないでもない。でも、いつもそうやって自分の空に閉じこもっていては、前に進む気力が枯れ果ててしまうと思うから。

「それともなんだ? 口だけで終わるのが怖いか?」
「なっ!」
「そんな奴が夢を実現させられるとは思えねえなあ」
「ななっ!」

 俺の低レベルな煽りにきちんと乗っかってくれるのはありがたい。その煽り耐性の低さは、後々修正していかないとまずそうだが。
 とにかく、堰を一つ破ろう。がむしゃらにやるしかないんだ、今の五月は。

「……そこまで言うなら、やってみせようじゃないですか」
「ほう?」
「なりますよ。なってみせますからね、絶対に」
「……ま、ここらへんが落としどころか」
 
 息を吐いて、彼女に背を向ける。こちらの思惑通りに動かされてしまった五月を見ていたら、堪らず噴き出してしまいそうだから。

「聞いていますか?!」
「聞いてる聞いてる。ちゃんと記憶したかんな」
「絶対にさっきの言葉を撤回してもらいますからね!」
「出来たら喜んで靴でも足でも舐めてやるよ。出来たら、だけどな」
「このっ、この人は……! 後悔しても遅いですよ!」
「はいはい」

 適当にのらりくらりとかわしながら、少しずつ歩を進める。一気にジャンプアップする方法があれば楽でいいが、バカ不器用な五月に限ってそれは無理。なら、せめて俺が階段くらい作ってやろう。
 本当に、問題児の先生と言うのは楽じゃない。

「なんで笑ってるんですか!?」
「笑ってねーよ」

 せめて「ほくそ笑んでいる」とかにしてくれ。「可笑しがっている」でもいい。
 楽しいことがなくても、どうやら人は笑えるらしい。不思議なことだ。

「見返すために全力で頑張れ。まずは今日の課題から」
「言われなくても」

 後ろにいた五月が俺を追い越して、そのまま家の方へと早歩きしていく。俺も、それに付いて行くように、少しだけ歩調を速めた。
 家庭教師が走るから師走か。なるほど、なんにも上手くねーや。

短いけどここまで。前話での燃えつき感解消のため色々と試行錯誤してるんで気長に待ってね。

このSSまとめへのコメント

1 :  MilitaryGirl   2022年04月21日 (木) 03:24:48   ID: S:qpZ7Ab

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