高垣楓「あなたがいない」 (216)


・モバマス・高垣楓さんのSS
・ちょっと長い
・完結してますけど、ゆっくり更新



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 それは、一本の電話だった。


「はい、CGプロでございます」

 春の日の朝。
 事務所には私とちひろさんしかいない。いつものようにちひろさんが電話を取る。

「はい。確かに、Pは私共の社員ですが……え」

 いくらかの沈黙。そして、私は聞いた。

「あの、どういうことでしょうか。事実なのでしょうか。Pが……亡くなったというのは……」

 凍り付く時間。
 そう、確かに聞いたのだ。
 Pさんが、亡くなったという、言葉を。

―― ※ ――


 事務所の中に私とちひろさんしかいなかったのは、幸いだった。
 にわかに信じがたい言葉を飲み込み、私は電話が終わるのを待つ。
 ちひろさんの蒼白な顔。それだけで、先ほどの言葉は真実なのだろうと思われた。

「……どう……しましょう」

 ちひろさんがうめくように呟く。私はなんとか、言葉を絞り出した。

「ちひろさん……まず、社長さんに。それから……ええと……」

 先ほどの電話を思い出しなさい……どこに安置されていると言っていたの?

「社長さんとちひろさんで、病院に行ってください……私は、残ります」
「えっ、それでは……」
「今はほら、人がいませんし。スタッフの方に事情をお話ししないとなりませんし」
「でも」
「早く、社長さんとちひろさんが会ってあげて……くださいね?」


 私は「お願いします」と告げ、ちひろさんを送り出そうと試みた。
 ちひろさんは震えながらも頷き、社長さんへ連絡をする。私は給湯室へ向かい、スタッフが来るまでにお湯を沸かそうと、準備をする。
 ずるり。
 給湯室に入った途端、足に力が入らなくなる。軽いめまい、そして。

「……なぜ……Pさん」

 ぺたんと、へたり込む私。今ここにある現実を、私は受け止めきれずにいた。
 だがふと、Pさんの顔が浮かぶ。
 そうだ、こうしていられない。Pさんならどうする?
 私はどうにか起き上がり、お湯を沸かし始める。
 なにかしないと……その気持ちだけが、私を動かしていた。


 ほどなく、スタッフが出社してくる。
 私は取り急ぎ、Pさんが病院にいるという事実だけをスタッフに伝え、ちひろさんを向かわせた。
 なにせ内容が内容だけに、他のアイドルに話が伝わればどれほど混乱するか分からない。
 事業部長などの上役は、もう少し遅く出社するだろう。それまでは。

 混乱を最小限に。意識を集中する。Pさんならどうするだろうかと、そのことを考えて。
 今日出社するスタッフが、あらかた事務所にそろう。
 私は部長さんから「大まかに話は聞きました」と告げられ、別室に呼ばれた。ちひろさんと社長さんはここに、いない。


「高垣さん……ありがとうございました」
「いえ、大したことはできませんでしたが」
「いや本当に……P君が亡くなったことを、今のところ抑えてくださって」
「……それは」

 Pさんなら、公開すべきところを関係スタッフと意思統一を図るだろう。
 今はまだ、それすらできていない。そう考えて抑えていただけだ。

「Pさんだったら、と。そう思って」
「それがありがたいんです。社長が戻ったら、残りのスタッフに話をすることになりますが、たぶん大きく混乱するでしょう。
私たちスタッフは、全力で皆さんをサポートしますが、アイドルの皆さんのサポートを少し、お願いしないとならないかも、しれません」
「それは、たぶんそうだろうと、思っています」
「本当に……本当に申し訳ない」

 部長さんは私に頭を下げた。その姿に戸惑いを隠せない。なぜなら。
 私もどうしていいのか……分からない。

「とにかく。社長さんがお戻りになったら、ということで」
「そうですね、ええ、そのとおりだ……まず、社長の帰りを待ちましょう」


 しばらくして、アイドルも事務所に顔を出し始める。
 スタッフをやりくりして、各々の仕事先へ向かわせる。
 私は幸い、今日はレッスンだけ。社長さんが戻るまではとお手伝いをするけれど、実際は違う。
 レッスンをする気になれないでいたのだ。
 なにかをしていないと、ひどく落ち着かなかった。

 そして、社長さんが戻ってくる。ちひろさんは、一緒にいない。
 事務所内にいるスタッフに招集をかけ、社長室に入っていく。私は電話番の名目で、同席を遠慮した。
 不思議と、電話はかかってこなかった。私はカールコードを手でもてあそぶ。
 社長室ではどんな話をしているのだろう。
 気にはなるけれど、おそらく私たちアイドルが聞いていいことではないだろう。それが想像されるだけに、余計に気が重かった。

 そして、みな重苦しい表情を浮かべ、社長室から出てくる。
 スタッフのひとりが私に「社長がお呼びです」と声をかけた。
 なんだろう?
 不安な気持ちを抱えながら、私は社長室のドアをノックした。


「高垣です」
「どうぞ」

 簡潔なやり取り。
 私は社長室へ入っていく。中では、社長さんと部長さんが立っていた。
 部長さんに促され、私たち三人は応接ソファーに腰かける。

「高垣さん」

 社長さんが切り出す。私は「はい」と返事をして、次の言葉を待った。

「P君のことですが……ここからは、この三人と、ちひろ君だけの秘密とさせてください」

 どきり。その言葉ひとつで私は知った。
 ああ、彼は確かに。
 亡くなったのだ、と。

「分かりました」

 私と部長さんが頷く。
 社長さんは、ふうとため息をひとつこぼし、言葉を放った。


「私とちひろ君が病院に着いた時にはもう、彼は、亡くなっていました。そして今、スタッフにはその事実を伝えました」
「……」
「ここからが、秘密にしていただきたいことです……ほどなくして、警察が病院に来まして、私とちひろ君、そして彼のお姉さんが事情聴取を受けました」
「えっ?」

 私は声を上げた。
 警察? なぜ?

「救命センターの先生がおっしゃっていました。彼の死因は、一酸化炭素による中毒死。車の中で、発見されたそうです」
「……」
「彼の持ち物に、遺書らしきものがあったそうです。警察は、自死の可能性が高いけれど、念のためにと私たちに……」

 私も部長さんも、声が出ない。声にならない。

『自死』

 その単語が、私を苛む。手が震え、視線が定まらなかった。


「彼は、自ら死を選んだんです……」

 それ以上、誰も、なにも、話せない。
 私は両手で顔を覆い、うつむく。
 部長さんの手が、握られたまま震えている。社長さんが、目を伏せている。
 いたたまれない時間。私たち三人は、社長室で無為に時を過ごす。そのことを、いったい誰が責められるだろう。

 涙は、不思議と流れてこなかった。そうだろう。
 私はここに至ってもなお、信じていないのだから。
 沈黙だけが、私たち三人を慰めていた。


 ちひろさんは帰ってこない。
 社長さんの指示で、スタッフ経由でアイドルたちに、Pさんが亡くなったことを伝える。
 仕方ないことだ。人の口には戸が立てられないし、いつどこから、彼が亡くなった事実を聞くか分からない。
 むしろ早めに手を打つことで、少しでも動揺を収束させる狙いがあった。
 そうは言っても、ショックは計り知れない。
 告げられたアイドルたちから、次々と社内SNSにコメントが入ってくる。信じられないと、悲痛な言葉があふれかえる。

 ああ、これから。
 どうなるんだろう。

 私はなぜか、そんなことを考えていた。
 Pさんならどうするのだろう? そう思うことで、私は私を保っていたのかもしれない。
 考えても、仕方のないことなのに。


 ちひろさんが帰ってきたのは、もう夕方になろうとする頃だった。
 私の顔を見て一言「ごめんなさい」と呟き、力なく社長室へと向かう。
 彼女がなにを話すのかなんて、私には分からないこと。
 だがちひろさんのまぶたはややはれぼったくて、相当に泣きはらしたのだろうということは容易に想像できた。
 そして、社長室から戻ったちひろさんが、よろよろと席に着いた。私は少しぬるくなったお茶を、彼女へと差し出す。

「お疲れさまでした」
「いえ……楓さんにはご迷惑をおかけしました。本当にごめんなさい」
「……いえ、そんなこと」

 彼女の口からは、謝罪の言葉しか出てこない。ちひろさんの心を考えると、私はどう言葉を返したらいいのか分からなかった。

「Pさんのお姉さんに、お会いしました」

 ちひろさんはそう切り出す。


「お姉さんに、ですか?」
「はい……弟がいろいろお世話になりました、と、お礼を言われて……」

 そう言うとちひろさんは、ぽろぽろと涙をこぼす。

「私……なにもPさんに報いることしていないのに……お礼を言われるなんて、そんな……」

 それ以上、言葉を紡ぐことは難しかった。そして、ちひろさんが涙を流す横で、相変わらず泣けずにいる、私。
 いったい、なんなのだろう。この、私は。

「他のスタッフさんにお任せして、私たちはお先に失礼しましょう。たぶん社長さんも、そうおっしゃったのでしょう?」

 ちひろさんはうつむいたまま首肯する。
 私はちひろさんを連れ立って、ロッカールームへ向かった。そして、ちひろさんを着替えさせる。
 鼻をすする音が、ロッカールームに消えていった。
 事務所の中に指示の声が響き渡る。スタッフの混乱が続く中、私とちひろさんはお先に上がることとした。


「ちひろさん? マンションまで送りましょうか?」

 私の提案に、ちひろさんはかぶりを振る。さすがに今の彼女をそのまま電車へ預けてしまうのは、不安でしかない。
 通りに出てタクシーを捕まえる。

「ほら、私も一緒に乗りますから。帰りましょう?」
「……ごめんなさい」

 要領を得ないちひろさんと一緒にタクシーに乗り込む。幸い私は、ちひろさんの自宅を知っていた。
 無言のまま通りを走っていくタクシー。
 ちひろさんが実家住まいでよかったと、私は安堵している。親御さんに送り届けられれば、とりあえず安心していいだろうと思う。
 今の彼女にかける言葉はまだ、見つからない。

 もどかしい時間が過ぎ、ようやく彼女の自宅へタクシーが到着する。
 親御さんに簡単に事情を説明し、私はちひろさんを引き渡す。
 タクシーを待たせているからと、お茶を辞退してすぐ自分のマンションに向かった。


 車内。私は流れる街灯りをぼんやりと眺めている。
 今日は本当に、いろいろとありすぎた。目まぐるしく変化する状況に、理解が追い付かない。
 今こうしている間も、これが現実と思えない私がいる。

 女子寮を出てマンションを借りてもらったのは正解だった。
 たぶん今、女子寮の中は混乱の渦真っただ中だろう。その環境でクールダウンすることは、とても難しいことに思える。
 タクシーがマンションに着く。私はじりじりとした頭痛を抱え、部屋へと戻った。

 がちゃり。玄関からリビングへ向かうと、冷蔵庫のうなりが私を出迎える。
 いつもの光景。
 しかし今の私には、その音すら煩わしく感じた。
 ソファーにバッグを放り、そのまま寝室へ。私はベッドへ倒れこむ。

 はあ。
 ため息をこぼす私。ベッドで横になると、体が異常にこわばっていたことに気付いた。
 そうか、ずっと気を張って、冷静を装っていたのか。
 ようやく冷えてきた頭で、私は思う。


 あれは、現実だったのだろうか。
 部長さんの落胆する表情。社長さんの苦悩の色。そして、ちひろさんの涙。
 耳には、スタッフの指示の声。そして。
『自死』の言葉。

 忘れたくても忘れられない、その響き。
 ベッドに横になり、徐々に体が弛緩してようやく、その言葉の意味を理解するようになる。
 Pさんは自ら、消えることを選んだ。心を打ち明けることなく、ひとりで決め、そして実行した。
 その気持ちが理解できるとかできないとか、なぜ打ち明けてくれなかったとか。
 私は、そんな独りよがりなことを思ってしまうのだ。でも。


 私は、彼ではないのだから。


 その事実が、心に突き刺さる。
 だが彼は、デビュー前からずっと、私を担当してくれたプロデューサー。そして、この芸能界で最も深く長いお付き合いをしている、大切な人。
 私たちは二人三脚で、シンデレラロードを歩いたのだと思っている。
 そのことに気付いて、私は理解した。

 そう。彼は、ベターハーフなんだ。
 私は、私の半身を失ったんだ。
 ほろり。
 両の目に、温かいものがこみ上げてくる。私はタオルケットで、顔を押さえた。
 言葉が出てこない。いや、言葉にできない。私のベターハーフ。

 私はようやく、泣くことが、できた。

―― ※ ――


※ 今日はここまで ※

副業の合間を縫って更新します。
毎日は無理そうなので、しばらくずっとお待ちください(←?

ではまた ノシ

投下します

↓ ↓ ↓


 朝が、きた。
 どうやら、そのまま眠ってしまったらしい。起き上がると鈍い頭痛がする。
 昨日のことを思い出したりするけれど、今日は今日でいつもの日常が待っている。仕事が待っている。
 くらくらする頭を、シャワーで洗い流す。いくらかさっぱりはするものの、気持ちはまったく晴れない。
 昨日の今日で気持ちが切り替えられるのならどんなに楽だろうと想像するけれど、簡単に切り替えられないから私なのだ、などと自分に言い訳をした。

 悲しいかな、どんなに嘆いたところでPさんが帰ってくるわけじゃない。
 それよりも彼が残してくれたスケジュールを、私はこなさねばならない。それが唯一彼に報いることなのだと、その時の私は思っていた。
 玄関を出る。
 私ははっとした。そうだ、もうPさんの送迎は、ないのだ。
 アイドルとして名前も売れシンデレラガールの称号を得た私が、電車で通うなど問題が大いにありすぎる、と。
 担当が責任をもって送迎する、それが事務所のやり方。
 Pさんが私を迎えに来る、それが今までの私の日常だったのだ。

 そして今、日常は打ち破られている。
 足がすくむ。どうしようという気持ちがぐるぐると、私を締め付けた。
 でも、Pさんの残してくれた仕事があるからと、そう自分に言い聞かせながら私はタクシーを捕まえた。


 昨日より遅くに、事務所へ着いた。ドアを開けるとそこにはスタッフの右往左往と、アイドルたちの沈んだ顔。
 事務所の中は昨日よりもずっと重く、ずっと深かった。少しは想定していたとはいえ、この雰囲気に飲まれそうになり、一歩が踏み出せない。

「楓ちゃん」

 ふと声をかけられ視線を向けると、瑞樹さんが手を振って待っていた。

「瑞樹さん……今日は」

 私が声をかけようとすると、彼女は手で言葉を制しかぶりを振った。

「楓ちゃん……大変だったわね」
「いえ……私よりもむしろ、ちひろさんや社長さんのほうが」
「それはそうでしょうけど……楓ちゃん、P君と一番古い付き合いじゃない。だから心配になって」

 瑞樹さんは一番に、私のことを気にかけていた。


 確かに私とPさんは古い付き合いで、彼にスカウトされ、彼のプロデュースでデビューし、彼のおかげでシンデレラガールにまで登り詰めた。
 その間に彼は何人かのアイドルを同時にプロデュースしていたこともあったけれど、今は私だけとなっていた。
 なぜか。

 それは、私が事務所の看板アイドルだからということが大きかった。
 稼ぎ頭のプロデュースを専属のプロデューサーが行う、異例と言っても過言ではなかった。
 私は確かに、特別扱いされていたのだ。

 瑞樹さんは、私の次に彼がプロデュースを手掛けたアイドルで、彼女とはユニットを組んだこともある。
 この業界の酸いも甘いも互いに知った、戦友と言ってもいい存在。
 今でこそ彼女は、セルフプロデュースで安定した仕事をこなしているけれど、それは前職がアナウンサーという経験がなせるものだと、私は知っている。
 Pさんの次に付き合いの長い彼女だから、こうして心配をしてくれるのだろう。本当にありがたい。


「まあ、大丈夫とはとても言えないですけど……でも、Pさんが残してくれた仕事がありますから」

 私がそう答えると、瑞樹さんは「待って」と言い、私と目を合わせる。

「ダメ。ダメよ。そんな物分かりのいい楓ちゃん、P君が望んでる楓ちゃんかしら?」

 瑞樹さんは言う。彼女の言いたい意味は分かる気もする。
 しかし今は、それではいけない。私は視線を外し、瑞樹さんに言った。

「ごめんなさい……今はこうしていないと、自分自身どうかなってしまいそうですから……」

 私は瑞樹さんに、ひどい言い訳をした。彼女はため息をひとつ、こぼす。

「そうね。昨日の今日だし、気を張ってしまうのは仕方ないわ。でも」

 瑞樹さんは再び視線を向ける。

「張りすぎた弦は、いつか切れるわ」

 瑞樹さんは私の肩をぽんと叩くと、スタッフに声をかける。

「それじゃあ、現場へ行ってきます。みんな、頑張りすぎないでね」

 言葉を残し彼女は、事務所をあとにした。


 残された私はまず、Pさんのデスクに向かった。
 彼がいないのは事実。でも彼のデスクで当日のスケジュールを確認することが、私のルーティーン。
 だからいつものように、そう、いつものように。
 デスクの上の閉じられたノートパソコンを、私は撫でた。
 ゆっくりと開け、電源を入れる。しばらくして、慣れ親しんだ画面が浮き出てきた。
 彼から教えてもらったパスワードを入力する。目の前に浮かび上がる、見慣れたデスクトップ。私はマウスを動かし、社内SNSを立ち上げた。


「私にパスワードを教えて、いいんですか?」
「もちろんです。見られて困るものは全然ありませんし、一緒にスケジュール確認するなら、このほうがいいでしょう?」
「私、Pさんに内緒で、エッチなホームページの履歴を探しちゃうかもしれませんよ?」
「いやいや楓さん。これ、ちゃんとウェブフィルターがかかってますから、最初から見られませんよ」
「あら。じゃあ一度は見ようとしたんですね?」
「……ばれました?」
「ふふふっ」
「あははは」

 そんな冗談を交わしたことを、不意に思い出す。少し心が、痛くなった。
 スケジュールを目で追っていると、ちひろさんがそばにやってきた。


「楓さん……昨日は本当に、ありがとうございました」
「いえ、ただ一緒に帰っただけですから。少し、落ち着きましたか?」
「ええ……まあ」

 ちひろさんは沈んだ表情を浮かべる。当たり前だ。たった一日で落ち着けるはずもない。お互いの慣用句が、むなしく響く。

「スケジュールの確認、ですか?」

 ちひろさんが私に尋ねる。

「ええ、まあ。いつものことなので」
「そうですね……あ、そうだ」

 そういうとちひろさんは、Pさんの袖机を開け、大判手帳を取り出した。

「これ、楓さんが持って行ってください」

 彼女は取り出した手帳を、私に渡す。


「え? ちひろさん、勝手にPさんの手帳出して、いいんですか?」
「はい。Pさんには以前から『ここに手書きのスケジュールとか入れておきますから、いつでも見てください』って言われてましたから。
ほんと、Pさんはオープンな人ですよね」

 そう言ってちひろさんは、無理に笑顔を作った。

「ありがとうございます。じゃあ遠慮なく」
「あ、あと。これを」

 ちひろさんはそう言うと、私にメモを渡す。そこには、日付と時間、そして。

「……これ」
「はい。先ほど事務所に連絡がありました。Pさんの告別式の、場所です」

 そこには、日付と時間と、告別式の斎場が、書かれていた。


 慌ただしい日々は続く。それでも。
 私はどうにか、告別式で焼香できる時間をひねり出すことに成功した。
 当日は収録の仕事が入っていたけれど、中抜けをして斎場に向かうことができるよう、事務所のスタッフが手配してくれていた。
 みんなギリギリの心理状態であろうに、本当にいくら感謝しても足りないくらい。

 テレビ局から中抜けし、車で移動する。そんな中ふと、漫画で読んだのだったか、火葬場で煙を見上げるというシーンを思い出す。
 しかし実際は近所の迷惑になるからと、煙は見えなくするよう工夫をしているのだそうだ。
 それを私に教えたのは、Pさんだった。
 なぜそんなことを知っているのだろうと不思議に思ったことを、私は覚えている。

 今、私は思う。
 煙が見えたなら、どれほど心がざわつくのだろうか。
 それを確かめる術は、ない。


 そして到着した告別式、僧侶の読経が響く。中に入ると、驚くほど人がいなかった。
 小さな祭壇に、社長さんやちひろさんなど事務所スタッフ数名、それからおそらく、彼のお姉さん。
 両手で十分数えられる人数。私は茫然とした。
 お姉さんと思しき人は、私の顔を見てわずかに会釈した。

 そうだ、あまり時間がない。
 わずかな中抜けしかできない以上、少ない時間の中で彼を惜しむしかない。
 祭壇に誘導され、遺影を見る。その姿はいつ頃の写真なのだろうか。
 社会人というにはまだ少しあどけない表情で、おそらく大学生の頃なのだと想像できた。
 私の知らない頃の、Pさん。
 そして、無垢の棺の中に眠っているだろう、私の知っているPさん。

 彼の顔を見ることが、怖い。
 そんな気持ちがよぎる。

 私は一歩、また一歩と、焼香台へ向かう。僧侶へ一礼し、遺影に向かう。
 焼香をつまむと、ひとつ、またひとつとくべていく。
 煙の奥で笑う、Pさんの表情。私はそれをしっかりと目に焼き付け、手を合わせた。
 願わくは、彼岸への旅路が安寧でありますように。そして、いつか私がそちらへ旅立つことがあれば。
 彼に、会えますように。

 そして、私はすぐにお暇をする。お姉さんに会釈をひとつ、社長さんとちひろさんにも会釈を。
 ちひろさんは落ち込んだ表情を浮かべたまま、私に頷き返した。
 結局彼の顔を伺うことは、しなかった。
 いや、できなかった。


 収録へ戻る車の中。私は、臨時でマネジメントをしてくれているスタッフに話しかけた。

「本当に」
「……なんです? 楓さん」
「……あっけないものですね」

 私は、どういう意味でそんなことを言ったのだろう。それきり、会話は途切れた。

 今頃、Pさんはどうなっているのだろう。
 もう火葬場へと向かったのだろうか。
 煙が見えたなら、なんて思ったけれど、それをこうして想像するだけで、ちりちりと痛みを感じる。

 無言のまま、車はテレビ局へ滑っていく。
 窓から伺える街の喧騒が、私を日常へ戻るよう強いているようで、心がざわついた。
 目を伏せ、アイドルへ戻る作業へと、私は没頭する。
 まぶたの裏では、先ほどの遺影が、私に笑いかけていた。

―― ※ ――


 手帳を、開く。
 Pさんが残してくれた、私のスケジュール。それは半年先まで埋まっていた。
 もちろん、これから詳細を調整する必要があるものばかりだけれど、私たちアイドルのスケジュールをこれだけ埋めておけるというのは、やはりPさんの力量が並外れていることの証左と思う。
 カレンダーの後ろ、メモのところにはびっしりといろいろなアイディアや備忘録、彼の考え方や私のことなどで埋め尽くされていた。
 彼のすべてとは言わないけれど、手帳には想いが詰まっていた。

 シンデレラガールを射止めたあとも、トップアイドルとして私があり続けられるようにと、いつもいつも考えてくれていた。
 書かれている文字ひとつひとつを惜しむように、私はなぞっていく。
 本当に、私は大事にされている。私は……Pさんに報いたい。
 そう、決心した。


 社長さんから、Pさんの後任の打診を受ける。Pさんの先輩で、プロデューサーとしての実力も確かな人だった。

「高垣さんには酷な話だと思っています。だが我々も万全の体制で、引き続き頑張っていきたいと考えています」
「……」
「よろしく、お願いしたい」

 Pさんを失ったとは言え、仕事は続いていくわけで。各所への配慮を考えれば、たぶんベストなのだろう。
 しかし、私は逡巡する。
 Pさんには、やりたかったことがまだまだあった。できるなら、それを実現したい。それが私にできること。私の心は囚われていた。

「ありがとうございます」

 私は社長さんに一礼する。しかし。

「でも、今はお受けできません……ごめんなさい」

 私は言った。


「……それは、P君のことが忘れられない、ということなのですかね?」

 社長さんが問う。

「そういう気持ちがないと言ったら嘘になります……でも、それ以上に」

 私は、まっすぐに告げる。

「私自身を信じて、しばらくセルフプロデュースでいきたい、と。そう、考えています」
「セルフ、ですか……ふむ」

 社長さんはなにやら考えている。

「川島さんの例もありますけど……やはり今後のことを考えると、分かりましたとは、さすがに」
「そうだろうと、私も思います。でも」

 そう言って私は、バッグからPさんの手帳を取り出す。

「それは?」
「これは……Pさんの、スケジュール帳です」
「……そう、ですか」

 テーブルの上に置かれた、黒いシンプルな手帳。社長さんはそれを手に取り、ぺらぺらとめくり始めた。

「私はちひろさんからこれを預かりました。そして中を見て、Pさんの思い描く先を想像しました」
「……なるほど」
「私は、この想いに報いたい。そう、考えています。そしてそれは」

 私は一息つくと、社長さんの目を見る。

「私自身がトップアイドルであり続けること、そこに繋がるものだと、確信しています」


 わがままだということは十分分かっている。だがどうしてもこれだけは、譲れない。
 社長さんは手帳をテーブルに置くと、両手を組んで私に言った。

「高垣さんの想いは分かりました。ただ、それでもセルフでというのは、承諾できません」
「……」
「チームを組みましょう。そのリーダーは、高垣さん、あなたで」
「……えっ」
「私たちが高垣さんをバックアップします。彼の想いを実現できるよう、頑張りましょう」

 私は、なにを言われたのか一瞬、分からなかった。今も少し、混乱している。

「マネジメントと営業のスタッフの人選は任せてもらいます。それと、先ほどのプロデューサーは、アドバイザーとして参加させます」
「……」
「では、詳細は後日、詰めていきましょう」
「……あ、はい」

 なにかがあっけなく決まっていく。拍子抜けするほどに。でも、これで。
 Pさんに、報いることができる。
 私は、彼ではない。だから彼のようにできるとは思わない。
 それでも、彼の意志を継ぐということが私にとって、なにより重要なことなのだ。
 こうして私は、困難な道を進むことを決めた。それがどういう結果をもたらすか、分からないのだけれど。
 それでも、私は幸せだった。


 翌日。オフであった私に一本の電話が届く。チームの構成について打ち合わせをしたい、ということだった。
 私は早速事務所へ顔を出した。

「おはようございます」
「あ、楓さん。お待ちしてました」

 ちひろさんが出迎える。
 彼女の表情は明るさを取り戻しつつある、とは言い難い。
 時間が人を癒やしてくれるとは言うけれど、そうすぐに解決できるほど人の心は単純じゃない。
 たぶんそれは、私にも言えることだ。

 会議室には社長さんと、チームのメンバーとなるであろう人たちが集まっていた。
 先輩プロデューサー、ベテランマネージャー、そして営業兼事務のメンバーがふたり。
 中心に座る社長さんが言う。

「うちの事務所で考えうる、ベストメンバーを用意しました。まあ、高垣さん専属とはさすがにいきませんけど」

 それは致し方ない、というか、それが当然だと思う。
 集まってくれた面々はすでに担当アイドルが複数いるわけだし、引き抜くわけにいかない。兼務というのは至極妥当な話だ。


「いえ、ありがとうございます。正直、ここまでしていただけると、私のプレッシャーが」
「いやいや、私たちのほうがプレッシャーですって。ほんと、お手柔らかに」

 私の言を受けて、プロデューサーが言う。少し、場の雰囲気が和らいだ。
 メンバーの顔触れをもう一度確認し、私はバッグからPさんの手帳を取り出す。そして、それをプロデューサーに渡した。

「これが、Pさんの全部、です。よろしくお願いします」
「分かりました、お預かりします。あとこれはスキャンしてお返ししますね」
「え?」
「だって、彼のすべて、でしょう?」

 そうか、プロデューサーは私に、最大の配慮をしてくれたのだ。これが私にとってどれほど大切なものなのかを、彼は知っているのだ。
 Pさんの先輩であるからこそ、そうしてくれた。
 心が、詰まる。
 ありがたいと思う気持ちはあるけれどそれ以上に、もう彼はいないという、現実を突きつけられた気がした。

「よろしく、お願いします……皆さん、頑張りましょう」

 チームのみんなが頷く。私は言葉を絞り出すのが、精いっぱいだった。


 翌週から仕事の合間を縫って、ミーティングが開かれる。
 私がリーダーになったとは言え、企画からスケジュール管理まで行うのはチームの他のメンバー。
 私はアイディア出しとパフォーマンス、それを求められている。実際、仕事のスケジュールは半年先まではある程度埋まっている。そこは問題ない。

「やはり、ライブでしょうか……」

 私は切り出す。
 チームを作っているからこそ、先々にある道標(ランドマーク)を表さねばならない。それもはっきりと目立つように。

「そうなるでしょうね」

 私の切り出しに、プロデューサーは頷く。

「楓さんはどういうコンセプトでやってみたいと思ってます?」

 プロデューサーは言葉を続けた。


「そうですねえ……ホールはあまり大きくなくていいんです、と言うか、あまり大きくないほうがいいんですが。
私の肉声が聞こえるくらいの近さで、アコースティックなライブがやってみたいです」
「ああ、なるほど。アコースティックですか」

 コンセプトはある程度、分かってもらえそうな雰囲気。

「ただ、やはり楓さんクラスのアイドルがライブを行うのなら、五百から千人のハコでは、小さいと思います」

 マネージャーはそう意見する。これにはプロデューサーも同意した。

「営業的には二千人くらいまでのハコでPAは使用。演奏はアコースティックオンリーでいくのはどうでしょう?」

 プロデューサーは落としどころを探る。そのコンセプトなら、Pさんが思い描いていたライブに近いもののような気がした。

「そうですね……それなら、いいかと」

 私は答える。

「分かりました。基本はそれで。ライブの時期は一年後くらいでしょうかね。ハコを押さえる関係がありますし」
「はい。それでいきましょう」


 プロデューサーのざっくりしたスケジュールに、私はゴーサインを出す。
 チームの道標は決まった。あとは詳細を詰めていく作業へ移る。
 チームが、事務所が、人々が、慌ただしく動いていく。私の新しいスケジュールは徐々に、密に埋まっていく。
 それが私にはありがたかった。

 なぜならPさんのことを思い出さずに、済むから。

 私が私であるために今は、仕事にまい進する。
 それが今私に求められていることだと、勝手に思っていた。
 仕事にレッスンに、私は時間を割いていく。Pさんを想いつらくなることは少なくなり、それは見事に成功しているようだった。
 仕事に私を捧げ、半年が過ぎた。

―― ※ ――


※ 今日はここまで ※

徐々に、お話は進んでいきます。

ではまた ノシ

余談

芦名星さん逝去の報道に、心乱してます

単純に好奇心で聞きたいんですが、紙で出したものの再録をここでする理由ってなんですか?
逆(掲示板SS→紙の同人誌)なら修正をしたいとかあるのかな、と思いますが

それと、音葉SSの続きはもう書かないんですか?

>>46
再販はしないよってことと、単純に自分の作品を公開したいってことですかね。
公開なら渋もあるけど、やっぱり速報の投下スタイルが私は好きです。

音葉SSを覚えていただいてるとは……書きたいのはやまやまですが、今現在は精神的余裕がないので……
がんばりますとしか……

投下します

↓ ↓ ↓


「おはようございます」

 私はいつものように、事務所へと顔を出す。

「おはようございます、楓さん」

 ちひろさんは笑顔で応えてくれた。
 こうして日常に至るまで、半年と言う時間がかかってしまった。
 それほどPさんを失った影は大きく、どれほど折り合いをつけることが難しかったことか。
 私は、折り合いがついたのかしら?

「今日はレッスンですね」
「ええ」

 いつもの会話、しかし今日は少しだけ違っていた。


「ところで楓さん……ちゃんと食べてます?」
「え?」

 ちひろさんの何気ない一言。私はちょっぴり驚いた。

「ええ、もちろん。アイドルは体が資本、ですからね」
「ですよねー。あ、気を付けて行ってらっしゃい」

 ちひろさんは私を送り出してくれた。そう。
 私は、嘘を吐いている。


 決して食べていないわけじゃない。あまり食欲が湧かないのだ。
 もちろん体が資本だと分かっている。だから私は、きちんと食べるように努力していた。
 それでも、体重は以前よりかなり落ちていた。食べているのに、増えない。
 私にも分からなかった。

 仕事が忙しいからなどと言ったところで、減る限度というものがある。
 ふらついていてはみんなが心配する。私なりに頑張っている、はずだ。
 でも確かに、なにを食べてもあまり味を感じない。

 以前なら美味しいお酒と美味しい食事で私の心は満たされていたし、それを得るためにこの仕事をやっているのだとさえ、思っていた。
 ところが、どうだろう。今の私はなにを食べても、感動しない。食事をすることがまるで修行のようだ。
 もともとやせ型だったこともあって、体重が減っていること自体あまり気付かれていないように感じる。
 それでも察知されることを嫌って、このところ体型が隠れるラフな服装を好んで選んでいた。
 こんなごまかしでいつまでも騙せるはずがない。私は不安で仕方なかった。


 レッスンでもそうだ。ハードレッスンを受ければ当然、体を酷使する。
 ついていけなければトレーナーさんから指摘されるし、心配もされる。
 だから私はどんなにつらくても、それを顔に出さないよう努力した。

「どうした、高垣! 遅れてるぞ!」
「はい! すいません! 大丈夫です!」
「大丈夫なわけないだろう! ……もういい、今日はここまでにする」

 ベテラントレーナーさんから、レッスンの終了を告げられる。

「……はい。すいませんでした」
「……高垣。少し休んだほうがいいんじゃないか?」
「いえ、仕事は待ってくれませんし。まあ、ちょっとハイペースだったかもですから、多少スローペースでぼちぼちやります」
「あまり感心しないな……きちんと休むことも、アイドルの仕事だぞ。きちんとクールダウンしろ。あと」

 ベテラントレーナーさんは言った。

「しばらく、私のレッスンは受けなくていい」
「え?」
「こんな状態では、身に付くものも身に付かないからな。もう少し体調を整えてから、もう一度来い」
「……はい」


 もう、ごまかしも限界にきていることを、感じずにはいられない。
 疲れ切った体を引きずり、私はマンションへ帰る。送迎はベテランマネージャーが、その役を担ってくれている。

「高垣さん、大丈夫ですか?」
「ええ、なんとか。今日のレッスンはずいぶんとハードでしたから……ゆっくり、休みますね」
「ぜひそうしてください。無茶だけは、しないでくださいよ」
「もちろん。承りました、ふふっ」

 そんなたわ言を述べ繕いつつ、車はマンションへと近づいていた。


「……ただいま」

 誰もいない部屋。
 私は独り言が多くなった。
 バッグをソファーへと放り、キッチンのガスコンロに火をつける。お酒のつまみに、鍋に入った作り置きの煮物を温めるのだ。
 そして冷蔵庫から私は日本酒を取り出した。

「今日は……これかな」

 山形の『惣邑』。Pさんが好きで、たまにお相伴に与っていたお酒。
 四合瓶からガラスの冷酒器へ移し、お猪口と一緒にリビングのテーブルへと置いた。そして私は、キッチンへ戻って鍋の様子を眺める。
 ちりちりと泡立ちはじめる音を聞きながら、揺らぐ碧い炎をぼんやり見つめていた。


 どうしてしまったのだろう、私は。
 Pさんが亡くなった衝撃で、食欲が落ちているのだろうか。
 そういう分かりやすい理由なら、もっと打ちのめされた気持ちになってしかるべきものなのに、私はそこまで悲しくなれない。
 ちひろさんの悲嘆に暮れた顔を思うたびに、私は薄情なのかしらと訝ることもしばしばだった。
 決してそんなつもりはない。あの時私は確かに、泣き疲れて眠ってしまうくらい泣けたのだ。
 そして、Pさんがベターハーフであったと、気付いたはずだ。

 ところがどうだろう。
 あれから半年が過ぎ、私は仕事にかまけてPさんを忘れようとしているのではないか。そんな馬鹿なことを考えることが、たまにある。
 忘れられるはずもないと思う気持ちと、実はそれほど痛みに思っていないのではという疑念。
 矛盾を抱えていても私は、なにかアプローチしようとせずただ立ち竦んでいるだけじゃないのかしら。
 アイドルとしての自分を一番に考えるべきところで、私は思考を浪費しているような感覚に囚われていた。
 ことことと鍋から小気味いい音が聞こえてくる。火を止め、小鉢に煮物を取り分けた。


「それじゃあ、いただきます」

 冷酒器からお猪口へ、お酒を注ぐ。澄んだ命の水をありがたく、頂戴する。

「?」

 違和感を抱く。
 このお酒の持つ豊かなうまみが、口の中に感じられない。一昨日開栓したばかりなのに、そんなわけはない。
 煮物に箸をつける。飴色をした大根を一口、ほおばる。
 おかしい。妙な甘ったるさを強く感じる。
 もう一口、お酒を含む。先ほどとは違う、妙な痺れを感じた。

 私、変だ。


 味覚が安定しない。自分の舌は、どうなってしまったのか。
 不安な気持ちが膨らんでいく。
 私は慌ててキッチンへ戻り、コップに水を汲む。やわらぎ水で口をリセットし、お酒を呑み始めた。

 先ほどよりはましになった気がする。
 私は安堵した。やはり疲れなのだろうか、ベテラントレーナーさんもマネージャーさんも、私に休むよう進言してくれる。
 そうね、お酒をゆっくりいただいて、ゆっくり休んで、明日の英気を養いましょう。
 水を挟みつつ、私は結局四合瓶ひとつ空けることとなった。
 あまり酔った気がしない。もう少しなにか呑もうか。
 ロック用に置いてあるラムが、冷凍庫に鎮座している。私はこれを取り出して、ショットグラスに注いだ。
 ぐいっ。氷も入れない刺激物が、私ののどを焼く。
 うん、今日はこれでお開きにしよう。明日の仕事のことを考えつつ、私はテーブルを片づけ始めた。

 ベッドに潜る。眠くない。
 まああれだけお酒を入れたし、そのうち眠くなるだろうと思いながらも、私の頭はさっぱり茹だっていなかった。そう言えば。
 最近私は、いつ『酒あわせ……』と言っていただろうか。
 ふと、そんなことを、思った。


 翌々日。チームのミーティングでプロデューサーから言われる。

「楓さん」
「はい」
「ペースを、落とします」
「……え? どうして?」

 突然のペースダウン発言に、私は驚いた。

「いや、楓さん。どうしてもないでしょう? ……ベテラントレーナーさんから聞きましたよ」

 ああ、そういうことか。
 ひょっとしたらとは思ったけれど、もはやごまかしが許されない状況なのだと、観念するしかなかった。

「楓さんだからということで我々もバックアップに努めていましたけれど……ありていに言えば、楓さん、頑張りすぎ」

 プロデューサーのきつい一言に、チームのみんなが頷く。

「どうも空き時間を見つけては自主練していたそうじゃないですか。そういうところは美徳だと思いたいですけど、さすがに心技体そろってはじめて、そう言えるんじゃないかと」
「……そう、ですね。ごめんなさい」
「いえ、謝って欲しいわけじゃないです。もちろん、我々の当面の目標はライブに設定してますけど、それはまだ先の話です。今から根詰めてどうするんです?」
「……」
「心配なんですよ、我々だけじゃなく、スタッフみんなが」
「……そうですね」

 私はそう答えるしかなかい。


「心配かけてすいません……ありがとう」
「いえ、チームですから」

 プロデューサーが笑う。私の心は晴れなかった。
 チームなのだから……そう言って私の心配をしてくれる。他のスタッフだって、トレーナーさんだって、ちひろさんだって、私が大丈夫なのかと心配する。
 当然だろう、私はこの事務所のアイドルであって、ひとつの商品なのだから。

 ……え?
 私は、なにを思ったの?

 あさましい自分の思考を封印する。そう、私はやり遂げなければならないのだから。
 それが、私のとれる道なのだから。
 営業さんのアプローチしている仕事の内容を吟味し、私のスケジュールは徐々に軽くなっていく。
 目を離すと無理をしそうだと、レッスンの時にはマネージャーが必ず付いた。
 そこまで私は無理していないのだけれどと思いながらも、彼らの心配を和らげるのも私のやることなのだろうな、と自分で歯止めをかける。


 ペースダウンを余儀なくされたものの、負荷を軽くしたことが思いもよらず好循環を生む。
 私の歌に鋭さが加わったと、評判が上がったのだ。果たしてそれは、本当に負荷を軽くしたおかげなのだろうか?
 私には実感がなかった。
 私は今までどおり歌ってきたし、なにも変えたところなどない。鋭さと言われても、それがなにを指しているのかさえ、見当もつかない。

「最近の楓さん、ずいぶん評判がいいですね」
「そうですか?」
「ええ。歌の力がさらに上がったと、収録スタッフからも驚きの声です。ほんと、私も鼻が高いですよ」

 マンションへの帰り道、マネージャーがそんなことを言う。

「それは嬉しいですけど、あんまり実感がなくて」
「いやそれは、楓さんのレベルがさらに上がった、ってことじゃないでしょうか」

 マネージャーはそう言うけれど、私にはどうしてもそう思えない。
 まだまだ、私はもっと高みを目指さなくてはならない。私はまだやり続けなくてはならない。
 私は。

「楓さん?」
「……はい?」
「どう、しました?」

 マネージャーが、私を呼んだ。

「いえ、なんでも」
「いや、なにか深刻に考え事をしてたように見えたので」
「うーん、今日はなにを呑もうかしら、って」
「まあ命の水も、ほどほどに」
「ですね、ふふふっ」

 お酒、か。そう言えばあれから、あまり美味しいって思いながらお酒をいただいていないなあ。
 最近はなにを食べても、なにを呑んでも、あまり味を感じない。生きている実感がない。
 車は、まもなくマンションへ着こうとしていた。


 朝。
 いつもの気だるさではなく、妙な重苦しさをもって起き上がる。
 今日はレコーディングに向けてのレッスンだっけ。目覚めを呼び起こすため、シャワーを浴びる。シャワーの粒がピリピリと肌に痛い。

 昨日の車の中で、私はなにを考えていたのだろう。
 周りの評判と、私の実感。それが乖離していくほどに、私の心は軋みをあげる。
 私はまだ、なにも成し遂げていないし、なにもファンにあげられていない。私は、もっと頑張らなければならないのに。
 ずきり。
 頭が痛む。片頭痛のような痛み。

 待って。私は今日、レッスンがあるの。行かなきゃ。
 私がそう思うほど、痛みが私を苛む。息が上がる。
 その場にへたり込み、私は深呼吸しようと試みる。うまく息ができない。
 意識がなにかに持っていかれるような感覚。
 これは、なに?
 濡れたままの体を引きずり、私はどうにかリビングまでやってくる。バッグからスマホを取り出し、事務所へ電話をした。

『おはようございます。CGプロでございます』
「……ち、ちひろ、さん」
『はい……楓、さん?』
「……ごめん、なさい……だれ、か」
『……楓さん! 楓さん!』

 私は、意識を手放した。

―― ※ ――


※ 今日はここまで ※

ではまた ノシ


投下します

↓ ↓ ↓


 気が付くと、私はベッドに寝かされていた。見たことのない天井、のわけがなく、ここは私の寝室だった。

「気が付きました?」

 声のほうを向けば、ちひろさんがそこにいた。

「あ」
「ほんと、びっくりしましたよ?」
「そうそう。ほんとよかった」

 ちひろさんとは違う声がする。少し顔を上げると、清良ちゃんが一緒にいた。

「ああ、清良ちゃんまで……ごめんなさい」
「いいんですよ。あ、無理に起きちゃダメね」

 清良さんは私を寝かしつける。

「ちひろさんから急に電話をもらって、大変! どうしたのかしらって思ったけど。でも、頭も打ってなかったみたいだし、顔色も悪くなかったから、とりあえず寝かせて様子を見ましょう、って」
「……清良ちゃん」
「過呼吸を起こしたんじゃないかしら。なにか心配事でも?」
「……」

 答えられない。心配事と言われても、私には思い当たる節がない。
 清良ちゃんはなにかを察したのか、柔らかい笑顔を向け、こう言った。

「でも、どこか悪くしているかもしれないから、今日中に病院に行ってくださいね? あと」
「あと?」
「トップアイドル高垣楓が緊急入院、なんてことになったらそれこそスキャンダルですよ?」
「……ああ」


 少し朦朧とした頭で、清良ちゃんの言葉を反芻する。
 そうだ、ここで例えばちひろさんが救急車を呼んだとする。そうすれば私は、どこかの総合病院に担ぎ込まれることになる。マンション界隈は大騒ぎになるだろう。
 そして、それをマスコミがかぎつければ。
 トップ記事の、できあがり。

「ほんとに……ありがとう、清良ちゃん」
「いいえ、ちひろさんの機転にお礼、言ってくださいね」
「ええ。ちひろさん、ありがとう」
「いえ、ほんとよかったです。あと、病院は私がいいところを知ってますから。今日はそこに行きますからね」
「え、でも。今日は」
「ここに来る前、レッスンはキャンセルしておきましたから。観念して私と、病院に行きましょうねー」

 どうやら有無を言わさず、私は病院送りにされるらしい。彼女たちの配慮に、私はほっとする。
 ちひろさんの言葉を聞いて、私は少し眠くなってきたらしい。

「もう少し、休んでもいいですか?」
「はい、午後になったら行きましょうね」

 誰かがいる安心。私は久しぶりに眠った、気がした。


 午後。
 ちひろさんは私の看病に付いてくれていた。
 あまり食欲はないけれどこれではいけない、と彼女とブランチをともにする。誰かとこうしてプライベートに食事をするなんて、いつぶりだろう。
 いやいつぶりというほど久々というわけじゃない。仕事のお付き合いとか、仲間のアイドルたちに誘われたりとか、一緒に食事に行くことはよくあった。
 でも、その印象を私は覚えていない。
 冷たい女なのかな、などとつまらない考えが過ぎる。

「ほら、楓さん」
「え?」
「考え事、ダメですよ?」

 ちひろさんに指摘される。せっかく事務所の仕事を放ってまで来てくれているのだ、彼女との食事に集中しよう。
 そうは言っても食べられる量は多くなく、ちひろさんは一瞬困ったような顔をした。しかし彼女はすぐに笑顔を取り戻し、私に。

「さあ、それじゃあ病院に行きましょうか」

 と告げた。

 タクシーでちひろさんと移動する。案内された先は、ビルの中にある一室だった。

「ここ、は」
「私も通っているんです。さ、行きましょう?」

 入口にある看板に書いてあったもの、それは。

『メンタルクリニック』

 の文字だった。


「高垣楓さん、ですね?」
「はい」

 私は今、先生の前で診察を受けている。


 受付を済ませ、しばらく看護師さんから質問を受けた。
 曰く。最近眠れてますかとか、食事は摂れてますかとか、お仕事は忙しくないですかとか。
 心配事はありますか、とか。
 心配事? そう言われても、心当たりがない。
 それは朝に清良ちゃんから言われて、私が思ったものだ。メンタルクリニックだからと言ってそんなことを訊かなくてもいいのに、などと、私は少しかちんとくる。
 だが、朝と違うのは、ちひろさんが同席しているということと、ここは病院だということ。
 なぜか尋問されているような気がして、私は息苦しく思った。

 ちひろさんと看護師さんが話をする間、私は待合室に座っていた。
 私以外に人はいなく、待合室もとても落ち着いていて心地いい。少々解放された気楽さなのか、周りの様子が気になる。
 テーブルの前には、休診日などが書いてある紙。それを見てふと気が付く。

「今日は……休診日?」


 そう、今月と来月の休診日が書いてある紙には、今日が休診日と記載されていた。なのに、私は診察を受けに来た。それがどうにも心に引っかかる。
 後でちひろさんに訊いてみよう。
 手近にある雑誌をめくりつつ、ちひろさんを待つ。
 紙コップと温かいほうじ茶も用意されていた。もちろん、セルフだけど。
 そうして紛らせているうちに、ちひろさんが戻ってきた。

「お待たせしちゃいましたね、楓さん」
「いえ、いいんです……ちひろさん、私に教えて欲しいんですけど」
「はい、なんでしょう?」
「今日ここ、お休みですよね? なんで開いてるんです?」
「……気が付いちゃいましたか」

 ちひろさんは観念したような表情を見せる。そして、私に言った。

「今日ここにお連れしたのは、楓さん。楓さんが私のようだったからですよ?」
「ちひろさんの、よう?」
「ええ。Pさんを亡くした頃の、私のようだったので」

 そしてちひろさんは、種明かしを始める。


 Pさんを失った直後からしばらくのちひろさんは、それはもうひどく悲しみに暮れていた。
 事務所では気丈に振る舞っていたけれど、誰が見ても痛々しくて、とても見ていられなかった。
 その後、一週間ばかりお休みをいただいたことがある。
 私たちはひどく心配したけれど、それからの彼女は徐々に、本当に徐々にでしかなかったけれど、いつものちひろさんに戻りつつあるようだった。

「その時に、ここを紹介されたんです。社長から」
「社長さんから?」
「はい。ここ、芸能人がよく来られるとこなんだそうですよ」


 謎は解けた。つまりこういうことだ。
 休診日というところに、芸能人がお忍びで診察に来る。
 実のところ休診日と謳っているところが、診察日だったのだ。
 今のご時世メンタルクリニックに診察に来ることなど、そう珍しいことではないし、そうやって心の安寧を図ることはあってしかるべきことだろう。

 しかし芸能人ならどうか。
 芸能人がメンタルクリニックに通っている。それがマスコミに知れたら、言い方は悪いけれど格好の餌だ。
 なにが彼ら、彼女らに起きたのか。それを根掘り葉掘り、掘り起こしにかかるかもしれない。
 いくらやましいことがなくても、報道する彼らにはあまり関係がない。その時のタイムリーな話題を、すぐにお茶の間へ。

 芸能人だって人だ。心を病むことだってあるだろうに、それすらも許されないのか。
 需要のあるところに供給がある。ここはそのひとつなのだという。世間のプライバシーに配慮された、お忍びのクリニック。

「楓さんには申し訳なかったんですけど、私の独断で連れてきちゃいました」

 ちひろさんは苦笑気味に言った。


「……いろいろ、大変でしたね。今、おつらくないですか?」

 場面は診察室に戻る。私の前にいる先生は、人の好さそうなおじいちゃん先生だった。

「いえ、特には」
「そうですか。高垣さんとご一緒に来られた方にも、お話は伺っています。ですが、高垣さんからいろいろお聞かせ願えれば、私は嬉しいです」

 おじいちゃん先生は優しく説くように、私に話しかける。そう言われても、私はなにを話していいのか分からない。

「そうですねえ。それじゃあ、女性に尋ねるのは申し訳ないですけれど……去年と比べて、体重はどのくらい落ちましたか?」
「体重、ですか?」
「はい。体重、です」

 体重と訊かれると、さすがに正直に答えないわけにいかない。先ほど看護師さんから質問を受ける前に、身長や体重を量ったのだ。

「ええと……だいたい六キロ、です」
「六キロですか」
「はい」

 六キロ、つまり今の私の体重は四十三キロ。この身長で四十キロ台前半は、あまりよろしくない。


「なるほど、あまりご飯は食べられてない、ですね」
「いえ、決して食べてないわけじゃ」
「なるほど食べてるんですね。でも、身にならない、と」
「……はい」

 先生に図星を突かれる。私自身きちんと食べているはずで、それなのに体重が減っていく。
 ただでさえやせ気味な私がこれ以上やせてしまうのは、ビジュアル的に致命傷だと思っている。

「高垣さんのように食べてもやせてしまう方とか、いらっしゃいますから。頑張っておられるのですね」
「いえ……そんなことは」

 頑張っていると言ったところで、結果やせてきているのでは意味がない。

「大丈夫ですよ。高垣さんは、大丈夫です」

 先生が穏やかに言う。私にはその言葉が不思議に思えた。なにを根拠に大丈夫と言えるのだろう。ところが。

「高垣さんは、私が大丈夫と言ったとしても、あまり実感は湧かないでしょう」

 先生はまるで、私の心を見抜いたようだった。


「……どうし、て」
「ああ、別に超能力でもなんでもないですよ。こういう仕事をやっていますから、高垣さんのような患者さんを何人も、診ているわけです」

 その言葉で、私は頑なだった何かが解ける気がした。
 そうだ、目の前にいる人は、その道のプロだ。だから、私が頑なになっている『意味がない』

「……分かりました」

 そういうことなのだ。私は自分に納得して、Pさんとの別れを話し始める。
 先生は時々頷きながら、私の話を聞いてくれている。私はところどころつっかえながら、話を進めていく。
 彼が亡くなった後のこと、チームを組んだ頃のこと、ここ最近のこと。
 どのくらい話したろうか。時計を見ると、先生の問診が始まってもう四十分が過ぎようとしていた。

「少し、疲れましたか? 良ければお茶、どうぞ」

 先生は、紙コップに入れられたお茶を勧めてくれた。

「なにか、話がとっ散らかってしまって申し訳ありません。時間もかかっちゃって」
「いえ、高垣さんのお話、伺いました……芸能人の方は本当に、頑張られる方ばかりですね」
「そう、なんですか?」

 だいぶ冷めたお茶でのどを潤し、私は先生に尋ねた。


「そうですねえ、私のところに来られる方しか存じ上げませんけど、皆さん努力家と思います」
「そうなんです、ね……私はまだまだ」
「いえ。高垣さんも、頑張られている方、そのものですよ」
「え?」
「私は、そう感じました」

 先生は私を、頑張っていると言ってくれる。私にはさっぱり実感はないけれど、初対面の先生がそうおっしゃるのなら、そうなのかもしれない。
 先ほどとは私の感じ方が変わってきていることに、私は気付いていない。

「ところで、高垣さんはだいぶお仕事がお忙しそうですね。先ほどのお話を聞いてそう感じます」
「そうでしょうか……でも私には必要なことだと思っているので」
「お仕事をされている最中に、眠くなったり、いつも以上にだるく感じたりすることはありませんか?」
「眠く? だるく、ですか?」
「はい」

 ここ一週間ほどの仕事を思い浮かべる。ああ、そう言えば。

「眠くなるというほどではなかったですけれど、確かに気だるさを感じ続けていた時は、あります」
「そうですか」

 先生は、私との受け答えをカルテに書いていく。


「睡眠はいかがですか? 眠れてますか?」
「そうですね……あまり、眠れてないかもですね」
「なるほど……食欲は先ほど伺いましたし……それじゃ、お仕事」

 先生は一言タイミングをずらすかのように呼吸を入れ、私に尋ねる。

「楽しい、って感じてますか?」
「……」
「芸能人の方を診させていただくようになって、皆さん本当にお仕事を楽しまれているんだなあ、と。とても思うようになりました」
「……はあ」
「ですから、高垣さんはどうなのかと思いまして。もちろん人それぞれですから、生きるため、糧を得るためとおっしゃる方もおられますし、義務的にされてる方もおられるようです。
ただ、ここに来られる方、皆さん口にすることがですね」
「……」
「楽しかったはずの仕事が、楽しめてない、と。おっしゃるんです」

 先生の一言が、ひどく私を惑わせる。私は、楽しんでいただろうか?
 ううん、アイドルになってPさんと過ごした日々、慣れないお仕事もとても楽しかった、はずだ。
 うん?
 いえ、楽しかった?

 はっきりと、思い出せない。
 今、楽しめている? 仕事、お酒、日常……


「……あの、先生」
「はい」
「最近、楽しく感じていないんです……いえ、仕事のことではなくて、お酒のことで」
「ほう、高垣さんはお酒をたしなまれるんですか。うらやましいですね、私はさっぱり呑めないので」
「まあ、周りのお友達と比べて、ちょっとだけ、お酒が呑める程度ですけど」
「ほうほう。それでもうらやましいです」

 私の口が、私が思いついたままのことを、ストレートに出していた。

「私、お酒をたしなむことが好きで、そうですね……お酒のためにお仕事をさせてもらってると言っても、大げさじゃないな、なんて思ってたんです」

 先生はにこりと微笑み、私に続きを催促した。

「それが、このところ。お酒をいただいても美味しく感じなくて、いえ、味すら感じないこともあって……なにより」
「なにより?」
「お酒をいただくたびに、ああ、幸せだなあって。そう思っていたはずなのに」

 私は、思い出してしまった。

「お酒が、楽しめないんです……楽しめないん、です」


 私のなにかが、切れた音がした。ぽたり、ぽたり、と。
 涙が、こぼれはじめた。

「これって……なんなのでしょう? 先生……これ、なんですか? 私」

 我慢しようとしても勝手にあふれてくる涙。心配をかけてしまうのに、なんてことを。

「私は、どうなっちゃったんですか?」

 くしゃくしゃの顔を上げ、私は先生に問うのだった。
 先生は相変わらず柔らかい笑みを湛え、私に答える。

「高垣さんは、どうもなっていませんよ。ちょっとバランスを崩したんです」

―― ※ ――


※ 今日はここまで ※

ではまた ノシ


投下します

↓ ↓ ↓


 私とちひろさんは、私のマンションには戻らず、事務所へと戻った。
 ちひろさんは家でゆっくりと言ってくれたけれど、私がお願いした。
 ちひろさんと会議室でふたり、クリニックでの出来事を振り返っていた。

「高垣さん。高垣さんは心のバランスを崩して、結果食べられなくなったり、疲れやすくなったり、楽しめなくなったり。
今高垣さんが感じているもやもやな状態、それは『うつ状態』と言っていいと思います」

 先生は言った。私は『うつ状態』なのだ、と。心のバランスが崩れて、そのまま体のバランスも崩れてしまったのだ、と。

「一週間ほどお薬を出します。心のバランスを整えるのは、気の持ちようとか自分で解決できるとか、そういう方もいらっしゃいますけど、私は薬の助けを得ることは悪くないと思ってます。
今は気持ちがすっかり弱っているというか、自分でもどうしたらいいか分からない状態かと考えますから、まず心を落ち着かせるところから始めてみましょう」

 そうして診断書と、クリニックで薬まで処方され、こうして事務所に戻ってきたのだ。そしてまず、社長さんに報告をした。


「そうですか。分かりました」

 社長さんはそう言うと、私たちをソファーへと案内する。

「まあぶっちゃけこの業界、いろいろなことがありますから。それこそ有象無象というか。心を病むアイドル達も少なからずいるのです。
今はこうして、メンタルクリニックとか心療内科とか、心のケアを専門に診てくれるお医者様が増えました」

 社長さんは視線を外して、呟く。

「昔は精神科、しかありませんでしたから。やはり敷居が高いというか、というより、精神科で診てもらうというのはもうアイドルとしては致命的だとすら、言われるような時もありましたから」
「そうなんです、か」

 ちひろさんは、そう相槌を打った。

「ええまあ、『うつ』というものにあまり理解がなかった、というのが大きくて、ね。怠け者の烙印を押されてしまうのですよ」
「……」
「なので、当人とごく一部のスタッフでなんとかしなければ、と、ほんの数人が悶々と抱えるしかなかったんです。しかも解決は、まあ、ね」
「……」
「所詮、メンタルケアについては、素人の集まりでしかなかったわけですから」

 おそらく、社長さんの経験なのかもしれない。発する言葉には、たいそうな重みを感じる。

「それで私に、あのクリニックを紹介してくださったんですか?」

 ちひろさんは社長さんに尋ねる。

「このご時世、メンタルの問題はうちの事務所だけのことじゃないですからね。横の繋がりもあるわけです」


 今日伺った先生のところは、芸能人がよく行くところだと聞いた。
 何らかのきっかけがあって芸能人かあるいはその関係者が診てもらい、その評判が広がって、今のような状態に落ち着いたのだろう。
 もちろん先生も商売だろうから、芸能人を受け入れるというのは、特別な配慮をしてもなお『美味しい』と感じる、そういうものがひょっとしたらあるのかもしれない。
 いずれにせよ、悪い先生のようには感じられなかった。

「あと高垣さんのチームメンバーには、私から話をしておきます。ご本人から打ち明けるには、さすがに勇気がいる、どころの話じゃないですからね」

 社長さんは笑った。
 まさにそのとおりで、私はどうチームに話したらいいか、そのことで頭がいっぱいだった。だから社長さんの申し出は、本当にありがたいと思う。

「すいません。よろしくお願いします」

 私は社長さんのご厚意に甘えることとした。


「これが、気持ちを前向きにする薬。これが朝晩の二回。それと、寝付きをよくする薬で、これは寝る前に一錠、ですね」

 私は会議室で、ちひろさんと薬の確認をしていた。
 出された薬は、ミルナシプラン、というものと、エチゾラム、というものだった。
 ミルナシプラン。薬の説明紙には『気分を落ち着かせ、前向きにするお薬です』と書いてある。
 先生が少し説明してくれたけれど、飲めばすぐに効く、という薬ではないのだそうだ。
 まず飲んで体調が悪くならないか確認して、大丈夫なようなら続けていこう、と。そういう方針で出されたものだった。

 エチゾラム。いわゆる睡眠薬なのか、と思ったのだけれど、これは『不安を取り除くお薬です』と書いてあった。
 抗不安薬、と言うらしい。

「私は、ドキドキ落ち着かなくなる場合とか、緊張して不安で仕方ない時に飲んでくださいって、出されましたけれど」
「そうなんです、ね?」

 ちひろさんの説明に、私は相槌を打つしかない。
 実際よく分かっていないので、ふうん、という思いでしかないのだ。

「ただ、飲むと確かに急に眠くなるんで、ああ、睡眠薬だって思いましたよ?」

 そういうちひろさんが妙におかしくて、私はくすりと笑ってしまった。


 あれ?
 今、私、笑った?


 おかしくて、笑う。ただ、それだけのことなのに。
 当たり前のことなのに。
 私にはひどく懐かしく、思えたのだ。
 なぜ今ここにきて、私は笑えたのだろう。その理由が私にはさっぱり分からない。
 その心地悪さが、私を不安にさせる。
 本当ならこうして私が笑えるようになったことは、喜ばしいことのように思える。でも。

 ああ、自分が分からない。

「楓さん? 大丈夫ですか?」

 ちひろさんが心配そうに私の顔を覗いていた。

「あ、ああ。ちょっと考え事していたもので」
「とりあえず、いただいた薬はきちんと守って、飲んでくださいね。あとお酒は、しばらく禁止ですよ?」
「ええ? 禁止ですか? ……どうにか『さけ』られませんか、なんて」
「ダジャレでごまかしてもダメです」
「ですよね……」

 心地悪さをダジャレでごまかす。ちひろさんに話をしている自分が、なぜか他人のように思えて仕方なかった。


 マンションに戻る。夕食は途中のパスタハウスで軽く済ませた。
 コップに水を汲む。手には、処方されたミルナシプラン。薄褐色の粒を口に含み、水で一気に流し込んだ。
 これで、私はよくなるのだろうか。

 そもそも心の病と言っても、体の病と違って、目に見えて良くなる気がしない。
 そう思えば、社長さんが口にしていた昔の反応は、今でもあまり変わらないのではないか。つまり、うつは怠け病だ、と。
 私は決して、自分が勤勉だなんて思わない。
 むしろ働きすぎず、ほどほど働きよく遊べを体現していたほうだと、思っている。
 もっとも自分が、どう遊んでいたかをうまく思い出せないのだけれど。
 それも、薬で心のバランスが元通りになることで、思い出していくのかしら。とても気の長い話で、私はそれだけで挫折しそうな錯覚に囚われた。

 いけない、思考がネガティブになっていく。今日はもう寝てしまったほうがいいかもしれない。
 自分なりにやれることはやろうと、バスタブにお湯を張ることにした。
 緊張している感じがするなら、それを緩めよう。リラックス、リラックス。

 少しぬるくした湯船に長く浸かり、汗を流す。湯船から上がり身支度を調え、手に睡眠薬を取った。
 白くて小さな一粒。これですっぱり意識が飛ぶというのだから、なかなか恐ろしい薬だと感じる。
 ぱくっ。
 口に含むと薬はラムネのように溶け始めた。
 ……甘い。

 ああ、本当にこれはラムネのようだ。
 なるほど、これなら睡眠強盗に使えそうね、なんて不謹慎なことを思った。
 スマホでSNSをチェックすること三十分、急にぐらり、と視線が歪んだ。
 これか、こういう感覚なんだ。急激な眠気が襲ってくる。体には力が入らず、普通にしていたら倒れてしまうかもしれない、感覚。
 なるほど、覚えた。
 脱力した体を横たえ、私はベッドにもぐりこんだ。準備は万端だったし、大丈夫だろう。電気を消して。
 おやすみ、なさい。


 目が覚める。正しく、朝になっていた。
 本当に睡眠薬の効果は絶大で、私は朝まできちんと眠れたようだ。カーテン越しの朝日を感じつつ、私はベッドから起き上がる。
 ……よいしょ。
 体がものすごくだるい。
 力が入らないというほどではないけれど、全身筋肉痛みたいなカチコチ感を覚えた。
 もっとも昨日、クリニックでいろいろあったこともあるし、本当に筋肉痛なのかもしれない。だるさを解消しようとシャワーを浴びることにした。
 ストレッチを念入りに行い、シリアルと野菜ジュースで軽い朝食を摂る頃には、体のだるさが抜けてきていた。
 この感じ……私はとても驚いた。
 なるほど、薬でバランスを整えるというのは、アリかもしれない。そう思わせるものだった。これなら。
 事務所に電話を入れる。ちひろさんは相変わらず早くから出社していた。

『おはようございます、CGプロでございます』
「あ、ちひろさんおはようございます。楓です」
『ああ、楓さん。おはようございます。お加減、どうですか?』
「ええ……睡眠薬、とてもよく効くんですね。びっくりしました」
『あはは。そうですねー。私も最初飲んだ時はばたっと倒れるくらい効いたので、びっくりしますよね』
「おかげさまで、昨日はきちんと眠れました。本当にちひろさんにはお世話になってばかりで、ごめんなさい」
『いえいえ、いいんですよ。楓さんがよくなるように、これからもサポートしますね』
「ところで、今日。レッスンを受けたいと思うんですけど」
『……あー』

 ちひろさんは少し言いにくそうな反応を返した。


『実はですね……楓さんのレッスンは、今週いっぱい禁止になってまして』
「えっ」
『……あはは』

 私のレッスンが、禁止? それ、どういうこと?

「あの、どういうことでしょう」
『ごめんなさい、社長から御触れが出てます。楓さんは次の診察日まで完全お休み、です』
「……」

 なんと、この事態は社長さんによるものですか。え、完全にお休み、ってことは。

「あの……私のお仕事は」
『はい。後ろへ延ばせるものは順延、中止できるものは中止、あとどうしようもないものについては代役をお願いしています』
「……はあ」

 私はため息を吐くしかなかった。
 私のスケジュールを空にするために、かなり無理を強いたのだろう。そのことが容易に想像できた。

「私は、なんてことを」
『楓さん、気に病まないでくださいね。これは私たちの意向なんですから』
「でも」
『今の楓さんがベストパフォーマンスを発揮できるかというと、それは難しいだろう、と。それが社長はじめチームの判断です』

 悔しかった。今までの努力が否定されたみたいで、私の心は荒れ狂いそうになる。でも。
 そこまで追い詰められていたこともまた、私の責任。
 結局、自分の行いが自分に返ってきた、そういうことなのだ。

『本当にごめんなさい。でも、楓さんが元気を取り戻せるようにすることが、一番ファンのためになる、私たちのためになる、そういうことなんです』
「……」
『今は自分本位で、心を穏やかに、過ごして欲しい……私もそう思います』

 ちひろさんにそう言われて、でも、と言うことは難しかった。仕方なく、私は現状を受け入れる。

「分かりました。ゆっくり休むことにします」
『はい、そうしてください……あと、時々お邪魔しますから、こっそり自主練習とかはナシ、ですよ?』
「……はい」

 ちひろさんに見抜かれている。私は白旗を上げるしかない。
 こうして、思いがけずすっぽりと、スケジュールが空いてしまった。
 私は、どう過ごせばいいのだろう?

―― ※ ――


「高垣さん、具合はいかがですか?」
「……先週とあまり変わってない、ですね」

 一週間が経ち、私はクリニックに来ている。先生がこの前と同じく、にこやかに尋ねてきた。

 事務所から一週間のレッスン禁止を言い渡され、かつ、仕事もペンディングやリスケをされて、私は正直途方に暮れた。
 心穏やかに、とちひろさんに言われても、どうやったら心穏やかに過ごせるのか、私にはアイディアがなかった。
 とりあえず部屋の掃除でもしようか、と始めてみたものの、あっという間に息が上がってしまい続かない。
 ああ、これではレッスンなんてもってのほか、ね。私は認めざるを得なかった。
 本を読むにしても、音楽を聴くにしても、集中力が続かない。もっとはっきり言えば、すぐ飽きてしまう。これは私にも誤算だった。
 ここまで集中が持続しないとは思ってもみなかった。そして、頭の中に疑問が湧く。

「いつもなら私、どうやって過ごしてたかしら」

 いつもなら、この言葉の持つ意味が、急に重々しく感じられる。
 どうしていたのだろう、本当に思い出せないのだ。
 そして私は、考えることを放棄して眠ることにする。
 だが惰眠をむさぼれるほど、体は疲れていない。結局眠ることもできずに、ただ悶々とするだけ。
 この一週間できたことと言えば、ご飯を食べることと、薬をきちんと飲んだこと。
 これができただけでも、私を褒めて欲しい。そう思うくらい、一週間が長く感じられた。


「なるほど。夜は、眠れていますか」
「あ、はい。いただいた薬がよく効くので、寝付きがよくなりました」
「ああ、それはよかったです。まずは寝ることから始められて、いいと思いますよ」
「……ありがとうございます」

 寝ることを褒められるという、なんとも締まらない体験をする。それだけ私は今、普通と違う状態なのだろう。

「食事はどうですか? 食べられてますか?」
「ええと。あまり食べている、という感じではないですけど……食べるようにしています」
「そうですか。でも食べるようにしているなら、いいんじゃないでしょうか」
「……ところで、先生」
「なんでしょう?」
「実は、私」

 私は、この一週間の行動を告白する。
 せっかく事務所から時間をいただいたというのに、無為に過ごしてしまった気がする。結局自分のためにできることは、なにもなかった、と。
 しかし先生は、こう言った。

「いえ、それでいいんです。今はただ休む、それが必要だと思いますよ」
「え?」
「だらだらと考えもせず、休んだのでしょう?」
「え、ええ……」
「ならそれでいいんです。心が休みを欲しているんじゃないでしょうか」
「そう、ですか」

 私の行動が肯定されて、私は返答に困った。
 はた目から見れば明らかに怠けていて、決して褒められるようなことはないように思えるから。


「お出ししている薬で、気持ちが前向きになるものがあるじゃないですか」
「はい」
「それが効いてくると自然に、ちょっとなにかやってみようかな、と、やってみたくなる気持ちが出てきますから。それを待ってからでも遅くないと思います」
「そうなん、ですね」
「ええ」

 やってみたくなる気持ち、か。それを今の私が想像するのは、とても難しいことに思えた。
 なにかやることが決まっていて、それをやらなければならないとしたらできるような気がする。
 だが、やりたい、始めたい、と私からすすんでというのは。
 気の長い話に、めまいがする思いだった。

「もっと早く、そうなれればいいんですが」

 私は答える。そうでないと、事務所にもっと迷惑をかけることになる。

「もっと薬を増やせば、そうなりますか?」

 私は先生に尋ねた。

「いえ、そうはなりません」

 先生ははっきりと言う。

「薬はあくまでサポートです。どうしても心のことは、時間がかかるものです。まあ、特効薬があればね。もっと楽になれる人たちがいっぱいいるとは思いますけど」

 先生は残念そうに呟く。

「そう簡単には、いかないですね」
「……やはり、そうなんですね。残念です」


 私は心から、残念に思う。
 時間薬と、よく言われたりする。失恋とか。
 しかしそれは、なにかを忘れるための時間なのであって、本当に薬なのだろうか。
 時間をかけることで、私はPさんを忘れてしまうのだろうか。
 それはとても許せない、気がする。
 どうあっても私は、Pさんを忘れたくない。いろいろな想いがぐちゃぐちゃに混ざり合ったまま、私は今を生きている。

「吐き気とかもないようですし、今の薬を続けてみましょう」
「あの……先生」
「なんでしょう?」
「どのくらい続ければ、結果が出るんでしょう」

 私は藁をも掴む気持ちを、打ち明ける。しかし先生は。

「さすがにひと月では、難しいでしょうねえ」

 そう、くぎを刺すのだった。


 私は、薬を飲む。
 二週間。特に変わった様子はない。いや、少しだけ変わってきたことがある。
 相変わらず睡眠薬で昏倒するように眠るのだけれど、寝付きはよくなったが早くに目が覚めることが増えた。
 二時間くらいでぱっちりと。そこからもう一度眠ろうとするのは、とても苦痛だった。
 実際眠れることはなく、悶々とした時間を過ごすだけ。
 もらった睡眠薬を追加で使おうと思ったけれど、今度は薬がなくなった後のことを考えて不安になり、追加することが憚られた。

「こういうことがありまして……」

 次の診察で、私は先生に訴えてみた。

「なるほど、そうですか……そうだなあ、じゃあ熟眠できるように、少し薬を変えてみましょうか」
「よろしいんですか?」
「高垣さんはちゃんと用法どおり飲んでいますから、大丈夫ですよ」

 そうして、睡眠薬が『エチゾラム』から『ニトラゼパム』というものに変わった。
 すると、寝付きは少し悪くなったものの、途中で目が覚めるということがなくなった。
 起きた時の体のだるさには参ったけれど、それでも途中で目が覚める倦怠感よりはましな気がした。
 そして、大きく変わったこと、それは。

「そろそろ、仕事を再開しますか?」


 プロデューサーからようやく、ゴーサインが出た。
 ちひろさんがたびたび私の様子を確認に来て、今の状態ならとチームに上げてくれたらしい。
 心から、安堵した。

「ぜひ! お願いします!」

 仕事ができる喜び。私は本当に嬉しかった。
 だが、私の喜びは最初からつまずいてしまう。ボイストレーニングは問題なかったものの、ダンスレッスンに問題が発生した。

「高垣。あまり無理するな」
「いえ、もう一度……お願いします」

 なんとなく、あくまで感覚的なものでしかないのだけれど、ひとつひとつの所作が一呼吸ずれる気がする。
 はた目に見ればまったく問題なさそうなステップも、ベテラントレーナーさんの目はごまかせない。
 もちろん、私自身も。
 これでいい、これで十分。どうしても自分を妥協させる気にならなかった。

「今日はここまで……高垣、もう少し時間をかけて戻すしかなかろう、な」
「……はい……ありがとう、ございました」

 心のもやもやを解決できぬまま、仕事を徐々に戻していく。
 そうしたつまずきはあるけれど、仕事をしている間の私は確かに、私らしく感じられる。


「高垣さんは最近、まとまったお休みを取ったとか。どうでした、お休みは」

 番組の収録。司会の方からインタビューを受ける。

「ええ、だいぶお仕事をさせていただいたので、事務所からごほうび、ということで。ごほうびなら、私は、こちらのほうがよかったかなあって」

 ぐい飲みを持つポーズでくいっくいっ、と。お酒をたしなむ真似をする。

「でもその分、ゆっくり、もちろんいっぱい呑まれたんじゃないですか?」
「ふふっ。そうですね。それはもう『一杯』どころではなく」

 呑んでもいない架空の話を、私は口にする。言葉がうわ滑っている。
 大丈夫。徐々に戻るから。大丈夫。
 心の中で呪文のように、私は繰り返していた。


 クリニックに通い始めて二か月。
 睡眠はそこそことれているような気がするけれど、仕事のパフォーマンスはさっぱり上がらない。私は少し焦っている。

「先生」
「はい」
「先生からいただいている薬で、夜は眠れるようになってきてます。けど……」
「けど?」
「なにかこう、まだ気持ちが前向きにならないというか、私はまだダメなのかなあ、なんて。ネガティブが考えが支配することも、まだ多くて」
「ふむ、そうですねえ……高垣さんが来られて二か月ですか。正直言えば、二か月くらいで改善することは、そう多くないですね」
「そうですか。でも、私はもう少し……少しでいいんです、早く前向きになれたらって気が逸って」
「それは、どうしてです?」
「やはりファンの方をお待たせするのは、とても申し訳なくて」
「うーん、なるほど」

 先生は、少し考えこんだ。

「今飲まれている前向きになるお薬。高垣さんにはまだ、最低限の量しか出してません。ですから、お薬を増やして様子を見てみましょうか」
「いいんですか?」

 先生の提案に、私は前のめりになる。

「ただ増やすことで体調が急に悪くなったりすることもありますから。その時は減らしてください。いいですね?」
「はい。ぜひお願いします」

 そうして、ミルナシプランを増やすこととなった。
 増やした当初は、胃がむかむかして食欲が落ちた。
 でもこれで前向きになれるのなら、と、しばらく我慢して飲み続ける。
 するとどうだろう。
 胃のむかむかは徐々に忘れるくらいになり、それなりにご飯も食べられるようになった。
 よし、これなら……
 そう思うことが前向き、と言えばそうかもしれない。少しずつであるけれど、自分の感覚のずれが薄れてきたように思えた。

「よし! 高垣、だいぶ調子が戻ってきたようだな」
「はい、ありがとうございます」

 ベテラントレーナーさんとのレッスンでも、以前のような一呼吸のずれが解消されていた。
 よかった。私は、ようやくアイドルへ戻れたのだと、嬉しくなった。
 それまで、私の体調優先でチームの活動もほぼ開店休業状態であった我がチーム高垣は、ここに至ってようやく、掲げていた目標への道を再び歩み始めることとなる。
 それは、単独アコースティックライブ。
 遅れを、取り戻さないと。

 気が付けば、クリニックに通って四か月。目標のライブまであと半年となっていた。

―― ※ ――


※ 今日はここまで ※

ではまた ノシ


投下します

↓ ↓ ↓


 ライブに向けていろいろなことが進んでいく。使う予定の曲はほぼアレンジが終わっていて、私はボーカルレッスンに勤しんでいた。

「はい。結構です」
「ありがとうございます」

 トレーナーさんからオーケーをもらう。
 もともと私の曲ではあるし、セルフカバーだから問題になり得ないといえばそのとおり。だがステージの演出で、どう魅せるべきか。
 そんなことを考えながら、この後に開かれるライブミーティングへ、私は向かうのだった。
 レッスンが後ろに押したこともあって、すでにミーティングは進行していた。空いている席へ、体を滑り込ませる。


「ここはアコギメインで、編成をアコギとピアノ、パーカスのトリオでどうかと」

 我々チームを含む、ライブスタッフのミーティングが続く。ここにアイドル自身が加わる必要はないのだけれど、私はできるだけ参加するようにしていた。
 スタッフメンバーからレジュメを渡され、簡単に目を通す。なるほど、編成の確認か。

「高垣さん。いらしたばかりでなんですけど、この編成についてはなにかアイディアは?」

 進行役に突然振られる。私は移動中に考えていたことを打ち明けた。

「そうですね……この曲について今回は、弦の音を生かした形にしたいかと。例えば……アコギを三本にパーカス二名で、とか」
「なるほど、するとサポメンの選定が難しいですね」

 こんな感じ。私のアイディアはアイディアとして、会議の中に取り入れられる。
 もちろん、採用されるとは限らないし、私のライブとは言え、周りのスタッフのほうが海千山千の猛者ぞろいなのだし。
 だから私は、安心して言いたい放題できるのだ。

「やはりサポメンのやりくりに問題がありそうですし、高垣さんの案は今回は申し訳ないですけど」
「ええ、結構です」

 こうして今日も、つつがなく進行していくのだった。


 私がこうして意見を述べることは、そう多くない。Pさんがいた頃はそれこそ、Pさんにお任せして問題ないとさえ思っていた。
 今回もそのスタンスには違いないはずだったのだけれど、周りのスタッフが気を遣ってくれているためか、私に意見を求める機会がわりとある。
 あらかたの編成は決まったところで、次の議題に移る。ライブの日程は半年前に押さえてあるので、当日までの営業の確認だった。
 予定されている営業活動は、滞りなく進んでいる。私の体調のことがあって心配ではあったけれど、営業メンバーの努力でなんとかしのいでいたらしい。
 本当に申し訳ない。背中に受ける日の温かさを受けながら、私は無言でみんなに詫びる。

「……さん……楓さん」

 我に返ると、プロデューサーが私を起こしにかかっていた。

「あ……はい」
「楓さん、今日はお疲れだったみたいですね。ミーティングは滞りなく進みましたよ。さ、今日は上がりにしましょう」
「……また私、寝てしまってました?」
「ええ。まあ」

 私の質問に、プロデューサーは顔を掻く。
 ああ、またやってしまった。私は恥ずかしくなった。

 このところ、こうした打ち合わせ中に眠ってしまうことがある。
 もちろんインタビューのような仕事の最中に眠ってしまうという失態は、まだ見せていない。ただ、自分が意識しないうちに眠ってしまうのは、かなり問題ではある。
 今度クリニックに行ったら、先生に相談してみようか。


「なるほど。会議中に眠ってしまう、と」
「はい」

 先生との問診で、私はこのところの居眠りを打ち明けた。

「そうですねえ。夜は眠れてますか」
「いただいた薬で眠れています。ただ」
「ただ?」
「このところ中途覚醒することが増えて、頓服で二度寝をするような有様で」
「そうですか……」

 先生はカルテに、なにかを書き込んでいく。

「あと……ほんとに些細なことなんですが」
「些細な?」
「はい、最近どうにも気持ちがネガティブに傾いてて、気持ちがこう、湧きあがらないというか」
「ふむ」
「もうすぐライブのレッスンも本格的になりますし、もっと気持ちを上げていかないとならないんですが……」
「……分かりました」

 先生はミルナシプランをさらに増量すると、そう私に告げた。


「先生」
「なんでしょう」
「本当に、申し訳ありません」
「いえいえ、高垣さんがきちんと自分に向かい合っているわけですから、私はそのお手伝いだけですよ」

 私は今のルーズな気持ちを、薬を増量することで打破しようと思っていた。ミルナシプランを増量するということは、私の思い描いていたとおりだった。
 私のわがままに、先生を巻き込んでしまっている。そのことがとても申し訳なく思う。
 先生まで、私のもろもろに巻き込んでしまわなくてもよかったのに。
 そうは思いながらも、私は目標のためになんでもすると、自分自身に暗示をかけていた。
 私は、ひどい女だ。


 薬を最大量まで増やして二週間。効果が出てきた気がする。
 なにより、動きが軽く感じられるのだ。

「よしそこまで! 高垣。だいぶキレが出てきたな」
「はい! ありがとうございます!」

 今までのルーズ感はどこへやら。ここまで薬が効くのかと、私自身驚いた。

「お、時間だな。クールダウンは念入りに行っておけ」
「分かりました」

 こうしていい汗をかいている。いったいいつぶり、だろうか。
 本当に、体が、軽い。
 私の調子が上り調子になるに従い、周りのスタッフに好循環が訪れる。目標のライブに向け、すべてが順調に進んでいる。そう思われた。


「ただいま」

 ひとりマンションへ帰ってくる。体は疲れているものの、自分はやれるという満足感が確かにあった。
 お風呂を沸かすため『ふろ自動』のボタンを押す。そうして私は化粧を落とすため、クレンジングリキッドをコットンに湿らせる。
 ふう。コットンの冷たさが心地よい。目を閉じてしばし、私は現実へと戻ってくる。

 ……え?

 目の前にある目覚まし時計は、帰ってきた時刻からすでに四十分経過していることを告げている。
 そんな、馬鹿な。
 気になって掛け時計を見ると、同じ時刻を指している。
 私、意識が飛んでいた?
 どうやらそういうことらしい。突然眠ってしまうのとは違う、意識が飛んでしまう現象。私の中のバッテリーが、急激にゼロを示したようだった。
 今までとは違う、何らかの副作用。
 薬の増量のせいだとは思いたくない。今やめてしまったら、せっかくここまで持ち直した私自身が、再び動きを止めてしまうようで。不安、いや、恐怖。

 どうしよう、どうしようと、頭の中でぐるぐると疑問が駆け巡る。でも。
 この状態を維持するためにも、さらに頑張らないと。
 私は、自分自身に嘘を吐く。大丈夫。きっと大丈夫だから。
 その根拠は、どこに。


 ライブに向けてのレッスンは続く。
 目標マイナス三か月。本番に向け、そろそろ最終形を作らなくてはならない時期。私たちはそこに向け、スタッフ総出で問題点をつぶしにかかっていた。

「はい! 楓さん、オッケーです」

 レッスンルームにライブスタッフが集まり、通し稽古を行っている。
 まだ最終案ではないけれど、かなり完成された進行表に従っての、粗々のリハーサル。
 突然のシャットダウンという爆弾を抱えながらも、私の頭は冷静に考えられている。

「……どうでしょう?」
「うーん、少し押してますね。もうちょっと中抜きしましょうか」

 私の確認に、プロデューサーは答えた。

「中抜き、ですか? いえ、中抜きはなしでお願いします」
「それじゃあ」
「前半のトークを削って、時間を作りましょう。できるだけ皆さんに、歌を聴いて欲しいので」

 私は自分の体力と精神を削りながら、ステージに私自身をぶつける。
 それが私のやり方で、今更曲げることなどできなかった。

「了解。じゃあ、このパートのトークを削って、三連続で歌にしましょう……でも大丈夫ですか?」
「ええ、お任せあれ」

 私はスタッフの心配をよそに、彼らにウインクしてみせた。
 こうして徐々に、最終形を作り上げていく。より完璧に、より鋭利に。
 代償は、私自身。

 そしてマンションに帰れば、今日もまた意識が彼方へ飛んでいく。
 自分の体が自分のものではないようで、幽体離脱しているのかしら、などと冗談を言っても、とても冗談には聞こえない。
 幸い聞いているのは、私だけ。それだけが救いだった。


 目標マイナス二か月。ライブチケットはすでにソールドアウト。ファンの期待が高まっているのを、実感せずにはいられない。
 今日も仕事の合間にライブのレッスン。体力も気力もゴリゴリと削られるけれど、私は歩みを止めない。
 ファンの皆さんが待っているから。Pさんが期待しているから……
 もういないPさんに操を立てているわけではないけれど、私の一挙手一投足はすべてPさんに見守られていると、そう信じていたい。
 仕事は主に午前中、夜はレッスンというルーティーンをこなし、今日もつつがなく予定を消化する。事務所に戻ってきた私に「楓ちゃん」と声がかかる。

「あ……瑞樹、さん」
「忙しそうね……今日これから、ちょっと私に付き合わない?」

 瑞樹さんが久しぶりに私を誘う。そう言えば、Pさんが亡くなってから私は、いろいろなお誘いにあまり参加しなくなっていた。

「ええ、喜んで」

 私は緊張しながら、瑞樹さんのお誘いに乗ることにした。
 ふたりでタクシーに乗り、いつものイタリアンバル。
 瑞樹さんと呑む時は、こういうゆっくりできるところで静かに楽しむのが、ふたりのお約束になっている。

「私はハウスワインの赤で。楓ちゃんは?」

 瑞樹さんが尋ねる。お店に入って私は今更ながらに気付いた。
 私、薬を飲んでいるんだった。どうしよう……

「えーと、じゃあ、スプモーニを」
「あら。楓ちゃんにしては珍しいわね」
「え、ええ。このところ、少し控えてるんです」
「もうすぐライブだものね。そうよね、あまり無理しないで、ね」
「ええ」


 お互いにグラスと前菜がそろう。私たちはグラスを手に取り、唱和した。

「お疲れさま」

 かちん。
 澄んだ響きが心地よい。
 実のところ、家でこっそりお酒をたしなむことはあったのだけれど、外で呑むのは久々だった。

「……ふう。美味しい」
「あら、誘った甲斐があるわね。よかった」

 私がふとそんなことを口走ると、瑞樹さんは笑って答えてくれた。嬉しい。
 長命水は、心の扉を軽くさせる。久々の瑞樹さんとの呑み会は、私のエントロピーを下げてくれる、そんな気がするのだ。
 そんな私の隙を、瑞樹さんは見逃さなかった。

「ところで楓ちゃん。ライブの準備はどう? 順調?」
「そうですね……まあ順調と言えば順調、ですかね」
「まあ楓ちゃんのことだから、そのあたりは抜かりないと思うけど。でも、ほんとに順調?」
「……それって」
「今の楓ちゃん、ものすごく無理してる、気がする」

 瑞樹さんの瞳が、私の心を射抜く。なにか見透かされているようで、私は怖くなった。


「ああ、ごめんなさい。実は楓ちゃんのこと、少し知ってる。申し訳ないんだけれど、ちひろさんから聞いたの」
「え、じゃあ」
「うん。今、楓ちゃんが『うつ』で苦しんでいること、知ってる。でも安心して。私しか知らないし、誰にも教えてない」

 瑞樹さんは私の言葉を制し、真摯に告げる。
 できれば知って欲しくなかった、そう思う気持ちと、瑞樹さんならよかったという、安堵。
 心がかき混ぜられる感触に、身震いする。

「その上で楓ちゃんには、言わせてもらうわ……今の楓ちゃんは、おかしい」
「……なに、が……です」
「その目。目よ」

 私の、目?
 瑞樹さんはまっすぐ、私に言う。彼女の言葉の意味が、私には分からない。

「私の目、どうかしました?」
「楓ちゃんは気付いてないのでしょうけど、ううん、気付いててもかしら。今のあなたの目、なにかを犠牲にしているような、ぎらついた目をしてる」
「……」

 私は、そんな目をしているのだろうか。ぎらついた目。私のは心当たりがまったくない。

「今の楓ちゃん、まったく余裕がないように見える。まあ、私の見立てだから同意することないわ。でも、ひとつだけ言わせて」

 瑞樹さんは、私になにを告げるというのだろう。


「楓ちゃん。今度のライブが終わったら、しばらく仕事から離れなさい」
「え? なにを瑞樹さん突然」
「ダメよ。このまま楓ちゃんが走り続けたら、あなた絶対壊れる」

 そう告げる瑞樹さんの目は、真剣すら突破して、鬼気迫るものがあった。だけど。
 私はそう告げられてもなお、彼女に挙げる言葉を持ち合わせていない。それでもどうにか、思う言葉を絞り出すのだ。

「……無理です。私は、まだ走り続けないと」
「なぜ? 誰のために?」
「……」
「ファンのため? ううん、違うわね」

 きっと瑞樹さんは、気付いている。

「P君の、ため」

 そして瑞樹さんは、答えにたどり着く。私は言葉を失った。

「そういうこと、でしょう?」


 息が上がる感覚。私は、頭に血が上るのを感じた。

「なぜ、ですか……それが、いけないんですか」

 ふつふつと。言葉が止まらない。瑞樹さんは、言い終わってはっとした顔をした。でも、もうダメ。

「それが、いけないことですか! 私は!」

 私の心が叫びをあげる。今まで抑えてきたすべてが、暴発する。

「私は……私は……」

 そう言いながら、私はぼろぼろと涙を流す。
 顔を伏せ、涙のままに私は打ち明けるしか、ない。

「Pさんは、私のことを導いてくれたんです……私、Pさんになにも返せていない……なにも」
「……ごめん、なさい。言い過ぎた」

 瑞樹さんは謝罪する。でも。

「謝らないでください……分かっていました。分かっているんです……」

 どんなに頑張ったところで。
 Pさんは、いない。

 それが現実というのなら、現実は私には残酷すぎる。それでもなお、希求してやまない、心。
 どうして。
 どうして。
 いくら自問しても、答えなど出てこない、袋小路。

「……ひっ……ううっ……」

 私はただ、泣き続ける。瑞樹さんは私に寄り添い、ささやいた。


「そう、今は泣くの。ひたすら泣いて、彼のこと、想うの」

 誰もが彼のいない世界で、懸命に頑張っているというのに。
 私がPさんを想うことを、許されるはずがない。そう自分を戒めて今まで走ってきた。
 そして未だに、走り続けている。

「大丈夫。楓ちゃんと私だけだから。今は、泣くの。ねえ」

 瑞樹さんの言葉が、私の弱さを溶かしていく。

「……ううっ……えっ……」

 瑞樹さんは私が限界だと察し、今日こうして誘ったのだと、ようやく気が付いた。そして、心を開かない私に、自らが犠牲になって言葉を放った。
 私は、大事にされている。改めて私は、そのことに気付く。
 ありがとうの言葉は、今は口にできない。
 ただ、こうして泣かせてくれる優しさに、私は感謝する。
 瑞樹さん、今日はごめんなさい。だけど今だけ。

 泣いて、いいですか。


 私は、薬を飲む。
 泣きはらして多少は、心が軽くなったかもしれないけれど。日々は変わることなく、流れていく。
 私の調子は一進一退というところで、決して芳しいとは言いにくい。それでもライブはやってくるわけで。

「はーい、楓さん。今日はこのくらいにしましょう!」
「……はあ、はあ……ありがとうございました」

 レッスンは休むことなく続けられた。
 ライブスタッフの対応はいつもと変わりなくて、私は瑞樹さんが約束を守ってくれていることを理解した。そのことに感謝しつつ私は、ライブの完成度を上げていく。
 もうすぐ、あと少し、と。私たちが納得いく仕上がりになり、ついに。
 ライブの日が、やって来た。

―― ※ ――


 ライブ当日。開演一時間前。
 私はいつになく落ち着かなかった。

「おや楓さん。緊張してます?」

 プロデューサーが声をかける。

「ええ、そうですね。なんだかデビュー当時を思い出して」
「そういうもんですか。アリーナ公演もこなした楓さんでも、久々だと緊張するものですか」
「そういうものですよ。ただのアイドル、ですから」
「ま、そりゃそうですね。でも、よかった」
「よかった、ですか?」
「ええ、そういう人間くさい楓さん、僕たちは大好きですから」
「まあ。ふふっ」

 プロデューサーは今の私の状態を、緊張、と呼んでくれる。だが私の心は、緊張とは離れた状態にあった。しいて言えば『不安』
 そう、不安、なのだ。


 なにに対して不安になっているのか、私自身認められていない。漠然とした、ちりちりという焦燥感。それでも。
 その時は、やってくる。
 ふとプロデューサーの言葉を思い出す。人間くさい、私。彼らはそういう私が好きなのだ、と。そして、気付く。
 ああ、Pさんもそう言っていた。完璧じゃない、人間くさい私が好きなのだ、って。
 それだけの、こと。ただそれだけのことが、妙に嬉しい。

 私はポーチから、頓服のエチゾラムを取り出す。これには何度もお世話になって、今は服用しても、ちっとも眠くならなくなってしまった。でも、私のお守り。
 一粒の薬を手に、私は自問する。
 プロデューサーも、スタッフも、ファンも。私を求めてくれている。さて。
 今、私はアイドルでいられている?
 今、私は私でいられている?

 よし、大丈夫。

 私はそれを服用することなく、ポーチへしまい込む。
 顔を上げた先、鏡に映る私は確かに、アイドルの顔をしていた。


 舞台袖、私は佇む。客席の熱気と緊張が、肌に伝わってくる。ベルが鳴った。

「本日は、高垣楓アコースティックライブにお越しくださいまして、誠にありがとうございます……」

 サポメンとの円陣。私はみんなに告げた。

「本日の出会いに感謝して……さあ、行きましょう」

 掛け声はいらない。静かにエールを送り、そして舞台へ。
 ライブはアコギのアルペジオから、静かに始まった。

 アコースティックの音は静かに熱気を帯びて、私を躍らせる。
 曲が進むたび、私は気持ちが高揚するのを、体いっぱいに感じる。
 このスリリングな駆け引き、生音の緊張感が私をさらに昂らせる。
 そしてファンの熱気。ライブは最高潮に達する。

 ああ、この気持ち。この、肌触り。
 気が付けば予定の曲をすべてこなし、アンコールへと突入するのだ。


「本当に今日はありがとうございます……アンコールまで、こうして待っていただいて、嬉しいです」

 わああ、と。沸く客席。そして私に求められている曲、それを私は知っていた。

「今日まだ掛けていない曲、皆さん、お待ちなんですよね?」

 私の問いかけに、全力で応えるファンの声援。

「分かりました。このために実はとっておいたんですよ? ……ではお送りしましょう……『こいかぜ』」

 そう私が告げ、照明が落ち、私とピアノにスポットが当たる。
 ピアノと私だけの、饗宴。


 ――渇いた風が 心通り抜ける
 ――溢れる想い 連れ去ってほしい

 シャンソンのように。ピアノの自由律に私は、語り掛けるように歌う。顔を上げ客席を見れば、そこは緑の光の洪水。
 そう。これはPさんと共に見てきた、光景。
 この歌は、Pさんと共に作り上げてきた歌。私に残された、かけがえのない宝物。
 だからこそ、最後に持ってきた。忘れないという、想いを胸に。

 ――ココロ風に 閉ざされてく
 ――数えきれない涙と 言えない言葉抱きしめ

 何度も、何回も、歌ってきた曲。私自身ともいえる曲。歌詞を噛みしめるたび、彼のことを思う。
 そして歌詞が、今の私に語り掛ける。

 あなたは、泣かないの?
 あなたは、想わないの?

 ――震えてるの 心も体も
 ――すべて壊れてしまう前に 愛がほしいの

 そんなわけがない。いつだって私は、彼を想っている。今だってほら。
 苦しい。
 苦しいの。
 何度も歌ってきた曲が、私を狂わせる。なぜPさんが、ここに。
 いないの、だろう。


 ――満ちて欠ける 想いは今
 ――苦しくて溢れ出すの 立ち尽くす風の中で

 助けて。
 私を、助けて。
 手を伸ばしても届かない。ほらすぐそこに、その先に。光があると、いうのに。

 ――君のそばにいたい ずっと

 歩む。手を伸ばす。
 歩む。
 手を、伸ばす。
 もうすぐ、もうすぐ届くのに。
 
 ああ、Pさん。
 私を。

 ふわり。




「きゃああああああああああ!」



 客席から響く叫び。そして、嘆き。
 浮遊感。
 光を、掴み損ねて。
 私は。

 落ちてゆく。

―― ※ ――


※ 今日はここまで ※

ではまた ノシ


投下します

↓ ↓ ↓


 気が付くと今度こそ、見知らぬ天井だった。私は知った。
 ああ、私。病院に運ばれたんだ。
 頭の痛みと、足の痛み。ねん挫をしたのだろうか。
 先ほどまで、煌めくステージの上にいたというのに。
 気持ちが昂っていたからかあまりよく覚えていないけれど、間違いなく私は、ステージから落下したのだ。

 本番の時のあの昂ぶりが嘘のように、今の私は冷静に物事を考えている。ううん、冷静というのは正確ではない。まるで。
 感情が、抜け落ちてしまったように。
 しばらくしてぼうっとしていると、看護師さんに案内されたのか、社長さんとプロデューサー、それと……

「楓ちゃん!」

 瑞樹さんが私を抱きしめようとしていた。


「い、痛い」
「あ、ごめんなさい!」

 体のあちこちが痛んで、私はつい声を上げてしまった。瑞樹さんが申し訳なさそうにしている。
 私はなんとか体を傾けようともぞもぞ動いてみるけれど、痛みに負けて動くことをあきらめた。

「とりあえず、第一報は済んでます」

 社長さんの声だった。第一報とはおそらく、今回の事故についてのこと。
 マスコミに投げ込みをしたか、ひょっとしたら会見をしたのかもしれない。

「本当に、ごめんなさい」
「いえ、高垣さんの無事がなによりです」

 社長さんの掛ける言葉に、私は謝るしかない。

「プロデューサーにも、ご迷惑をおかけしました」
「いや、楓さんが無事なら、それでいいんですよ」

 私の謝罪に、プロデューサーはそう答えた。

「それで、ライブは」
「ああ、いいからいいから。今はなにも考えなくていいから」

 プロデューサーは私を押しとどめる。
 私は思っていた。
 ああ、ファンの皆さんに心配をかけているな。代替公演を計画しないと。
 まずは、他のスタッフとサポメンにも謝罪しなければ。
 この後の段取りを、淡々と。不思議と悔しいとも、悲しいとも、思うことがなかった。


「楓ちゃん、改めて、本当にごめんなさい」

 瑞樹さんが私に謝る。はて。

「瑞樹さん、どうして謝るんです?」

 それがとても不思議だった。
 なにか彼女は、私に謝るようなことをしただろうか。まったく覚えがない。

「あの時」

 瑞樹さんの声がわずかに、震えている。

「P君のために、って。言ったこと」

 あの時?
 ああ、そう言えばそんなこともあった。あれは瑞樹さんと呑みに行った時だったかしら。しかしそれは。
 瑞樹さんが、謝るほどのこと、かしら。

 私があの時どんな思いだったのか、今この時点で思い出すことができない。それがすべて。
 私の感情は今、まったく揺れ動かない。

「いえ、いいんです。謝らないでください」
「そんな謝らないでって……」

 瑞樹さんは私の顔を覗き込む。そして顔色を失い、口元を押さえて呟いた。

「……いえ……そう。分かった。今は、言わないわ……」


 瑞樹さんがショックを受けたような表情をしているけれど、私には理解できない。
 今の私に瑞樹さんの気持ちを推し量ることは、できそうにない。
 ……脳が、疲れたな。

「ごめん、なさい。少し寝ても、いいですか」

 私は言う。

「ああ、また具合がよくなったら、伺います」

 社長さんはそう言い、彼らはベッドから離れていった。

「また様子を窺いに来ますからね。なにかあったらナースコールのボタン、押してくださいね」

 知らない女性の声。ああ、看護師さんか。
 私は「はい」とだけ答え、目を伏せる。
 
 ああ、なにもしてないけれど、疲れたな。
 たぶん眠れないだろうけど、目を伏せるだけでも違うだろう。不眠はもう、慣れている。
 しばらく、私は思考をやめた。



 翌朝。もう退院することを告げられる。
 頭を打っていたため一応異常がないかを観察していたそうで、CTなどで異常がないことを確認してから、という条件ではあるけれど、めでたく放免ということらしい。
 事務所にも連絡が行っていたようで、社長さんとちひろさんが見舞いに来てくれていた。

「瑞樹さんは」
「ああ、彼女は事務所に残ってもらいました。また取り乱されてはかなわないですからね」

 社長さんは苦笑した。
 ところが、CTだけではなくMRIも急遽撮ることに決まり、社長さんとちひろさんはかなり待たされることが決定した。
 退院時間はだいぶ遅くなるらしい。

「控室で待ちますから、大丈夫ですよ」

 ちひろさんはこともなげに言う。
 こればかりはお医者様が決めたことなのでどうしようもないけれど、私は申し訳なく思った。


「なんかお待たせして、ごめんなさい」
「いいですいいです。気にしないで」

 彼女の笑顔に救われる。昨日より心が動いていることに、私はふと気付いた。
 空腹のまま造影剤を入れられ、CTとMRIを撮影する。幸い気持ち悪くならなかったけれど、体に力が入らないのはなかなかに堪えた。

 左足首のねん挫と、額の裂傷。それ以外に外傷はなさそうだ。
 相変わらず体はぎしぎしと痛い気がするけれど、看護師さんが車いすで補助してくれている。
 こうした経験は滅多にするものではないし、したら大事ではあるから、私は貴重な経験をしていることになる。
 せっかくだから今日は、お任せにしましょう。ちょっとだけ楽しく思った。

 検査が終了し、部屋で待たされる。
 検査の時間は短いのに、こうして待っている時間は存外に長い。ようやく呼ばれ説明を受ける頃には、すっかり夕方になっていた。
 そしてめでたく退院、社長さんとは病院でお別れし、ちひろさんは私のマンションへ一緒に向かう。

「今日は私、楓さんと一緒にお泊まりしますので」

 ちひろさんは明るくそう言った。きっと彼女なりの配慮なのだろう、私は素直に甘えることにした。
 マンションに着きドアを開ける。ノブの重さが久々のように感じられる。


「ただいまー」
「お邪魔しまーす」

 私は足を引きずりつつ、ちひろさんをリビングへ案内した。

「あ、楓さんは無理しないで。いろいろな準備は、私がしますから」
「そうですか……じゃあ、お願いします」

 本来はホステスがきちんとしなければならないところなのだけれど、なにせこの体だ。
 彼女の好意に遠慮なく甘えよう。私は客布団の場所などを教え、ダイニングの椅子に腰を下ろす。

 辺りを眺める。
 ほんの二日間、家を空けていただけなのに、ずっと帰ってきていなかった錯覚に囚われる。
 そう思うと、あのライブでの出来事はとても奇異に感じられた。

 あのライブでの私は、アイドルの私であったはずなのだけど、それをかなり逸脱していた気もする。
 なぜこうなったのか。それを考えようとすると、どうにも考えがまとまらなくなる。まるであの時を拒絶しているかのようだ。
 私であって、私でない。気味の悪いなにかに取り憑かれているみたいで、私は恐ろしくなる。


「楓さん。お夕飯どうします?」
「あ。ええ、そうですねえ……あまり食欲もないので」
「食べないのは、いけませんよ?」
「……そうですね。じゃあ、軽いものをなにか」

 ちひろさんは、冷蔵庫の中身でリゾットと温野菜サラダを作ってくれる。その温かさが私の体に染み渡っていく。

「ちひろさん。今日はなにからなにまで、ありがとうございます」
「いえ。私のわがままですから」
「え? ここに泊まるのって、社長さんからの指示では?」
「いえ? 私の独断です」

 そう、なのか。だとしたら本当に、申し訳ないことをしている。
 ううん。今日はもう、そういうことを考えるのはよそう。彼女の気持ちを蔑ろにする、から。
 食事も終わり、さすがに足をくじいている状態で風呂に入るわけにもいかないので、着替えて寝ることにする。

「じゃあちひろさんは、自由にお風呂とか使ってください、ね」
「はい、ありがとうございます。片付けは私がやっちゃいますから、今日はもう休んでください」
「……ありがとう」
「いえ。おやすみなさい」


 足を引きずり、寝室へ。どうにか寝間着に着替え、私は睡眠薬を取り出す。
 ふと、思う。

 これをいっぱい飲んだら、目覚めなくなるのかしら。

 なにを馬鹿なことを。
 ふるふるとかぶりを振り、私はニトラゼパムを一粒、口に含んだ。苦みを水で流し込む。
 先ほどの考えを、なかったことにするみたいに。

 ベッドに潜り、私は眠くなるのを待つ。目覚ましの音が、かち、かち、と。
 私は、どうしたというのだろう。近いうちにクリニックにも、行かなくては。
 やがて睡魔が、私を包み込む。
 明日がどうか、来ますように。


 その言葉どおり、朝は来た。リビングに行ってみると、ちひろさんがすでに朝食の準備をしている。

「あ。おはようございます」

 ちひろさんは笑顔で挨拶してくれた。

「おはようございます。まさか、朝起きたら朝食が用意されてるなんて」
「ちょーショック、は、なしですよ?」
「言われちゃいましたね」
「うふふ」
「ふふっ」

 ちひろさんの心遣いにはいつも驚かされる。大いに感謝し、ふたりで朝食を楽しんだ。
 タクシーに便乗し、事務所へ。社長室へまっすぐ向かった。
 落下事故の謝罪とその対応へのお礼のために。


「高垣さん、おはようございます。お体、いかがですか?」
「ええ、おとといよりはだいぶましになりましたけど」

 社長さんの問いかけに私は素直に答える。

「足は長引くかもしれませんから、無理だけはしないように、お願いしますね」
「はい。申し訳ありません」

 私はそう言って軽くお辞儀をした。

「あと、それから」
「はい」

 一呼吸、入れる。

「本番中に落下するという事故を起こしてしまい、本当に申し訳ございません」

 先ほどより私は、深く深く礼をした。


「それと、その後の対応についても、いろいろお手を煩わせてしまい、申し訳ありませんでした」
「いえ、いいんです。それが私たちの仕事です」

 私の謝罪に、社長さんは事もなげに言った。

「私たちの仕事は、アイドルの皆さんを盛り立て、なにかあればサポートしフォローするのが本分です。ですから高垣さんが気にすることではありません」
「でも」
「そうですね。まあ、ファンの皆さん、それからマスコミに対しては、ご本人から何らかお話しいただく必要は、あるでしょうね」
「……はい」
「その調整についても私たちに任せてください。しばらく、高垣さんにはお休みいただく方向で、我々は動くつもりですので」
「それは、つまり」

 私は、社長さんの顔色を窺いながら、尋ねてみた。

「……高垣さん。高垣さんがどうお考えなのか分かりかねますけど、お休みいただくのはご本人の体調を考えてのことです。
決して、ペナルティーとかそういうことではありません。それは私が断言します」
「……はい、ごめんなさい」
「まずは、高垣さん自身が元気になることが一番、ですから。私たちも、ファンの皆さんも、それを待っていると思いますよ」
「はい……分かりました」


 社長さんはそう言ってくれたものの、事故を起こしたアイドルへの風当たりは、間違いなくきついものだろう。
 しかし私には、それを説明できる言葉を持たない。なぜなら。
 私にも、よく分からないのだから。
 ただ人前に出るには、若干の猶予をいただいたのだ。それを無碍にするわけにはいかない。
 同じように私は、プロデューサーへも謝罪する。

「いや、本当に楓さんが無事で、それだけでよかったですよ」

 プロデューサーは言った。

「あの……この件で取材とかは」
「ああ、それなら問題ないです。任せてください」

 私が尋ねてもプロデューサーは答えない。それがいっそう、私の心を曇らせる。
 これでいいのか、いやよくはないけれど。
 今、私にできることは、ないのだ。
 そのことが、ただ悲しかった。無力な、私。


 翌日。
 クリニックを受診することになった。今日は、ちひろさんも一緒に。

「私もまだお世話になってますから。ちょうどいいです」

 そうちひろさんは言うけれど、私は申し訳なさでいっぱい。うつむいたままタクシーに乗り、いつものクリニックへと近づいていく。

「ニュースで拝見しました……大変でしたね」

 開口一番、先生は私に言う。

「いえ、本当にお騒がせして、申し訳ありません」
「いや私はその場にいたわけじゃないですし、謝らないでください」

 沈黙が、診察室を包む。

「高垣さん。今の高垣さんを見ていると、本当につらそうで心が痛みます」

 先生が言う。私は、なにも答えられない。

「大変申し上げづらいことですが……しばらく、お仕事を休まれてはいかがですか?」
「え?」


 うつむいた顔を上げる。私は、先生の言ったことがよく理解できてない。

「なに、を」
「診断書も書きます。高垣さん。お仕事を休まれたほうが」
「……待って……ください」

 仕事を、休む? 私が?

「どれくらい……休めば、いいですか? 二日? 三日?」
「いえ、最低三か月は休まれたほうがいいです」

 待って。三か月? 三か月って、どのくらい?

「先生……」

 言葉を失う私に、先生は悲しそうにかぶりを振った。

「……いや」
「高垣、さん?」
「いや、です」

 私は、頭がかっとする感覚を覚える。

「いやです! やめて! お願い!」


 私が、私でなくなってしまう。
 そんな焦燥が私を包み込んだ。

「高垣さん。今高垣さんに必要なのは、完全な休息です。ゆっくり療養される、その時間が必要なんです」
「ダメなんです! それじゃ、ダメなんです!」

 私は狂ったように叫んだ。

「私から、仕事を、奪わないでください! ……私は、アイドルを続けなければ、いけないんです! それが!」

 そして、力なくへたり込む。

「Pさんの残してくれた、ものだから……私とPさんの、たったひとつの、繋がり……お願い……」

 振り乱した髪もそのままに、私は呟くのだ。

「もう……奪わないで……」


 先生が看護師さんを呼ぶ。私はうずくまり、ただ泣くだけ。
 処置室に促され、私はジアゼパムを注射される。酩酊する感覚、そして私は、眠りに落ちた。

 どのくらい経っただろうか。
 目を開けると処置室には誰もいない。ドアを開けると、待合室にちひろさんがいた。

「あ、目が覚めました?」
「ええ……はい」

 私はぼうっとした頭で返事をする。ちひろさんはふらつく私を支え、診察室へと連れて行った。

「少し、落ち着かれましたか」
「……はい」

 未だはっきりしない頭のまま先生から問われ、曖昧に返事をする。


「高垣さん。ちょっとですね、お薬を変えましょう」
「え……お薬、ですか」
「はい。今まで飲んでもらっていたミルナシプラン、あれは前向きになるお薬でしたけど、今の高垣さんには、気分を整えるお薬のほうが大事に思われます。
ですから、ミルナシプランを別のお薬にします」
「そう、ですか」

 ぼんやりした頭で、先ほどのことを思い出そうとしてみる。
 おぼろげだけれど、私がなにを言っていたのか浮かんできた。

「あの……」
「なんでしょう」
「……仕事、は」

 先生は「ああ」と呟き、私の顔を伺うと。

「それは、お仕事先で相談してください。千川さんにも、お話させてもらいましたので」

 私は力なく「はい」としか、答えられなかった。


 再びタクシーで、まっすぐマンションへ帰る。今日もちひろさんが付いてきてくれた。

「今日も私、お邪魔していいですか?」

 ちひろさんが私に尋ねる。

「それはいいですけど……ご実家は?」
「それはもう、連絡してあります」
「そう、ですか。じゃあよろしければ」
「はい。お邪魔しますね」

 マンションに着き、私はちひろさんとまた、いただいた薬について確認していた。
 ミルナシプランはオランザピンという薬に変わっていた。そしていつものニトラゼパムと頓服のエチゾラム。
 薬の説明を見ると『気分を整える薬です』と書いてある。

「あの……ちひろさん」
「はい?」

 私は、ちひろさんに訊いてみた。

「私のことについて、ちひろさんはなにか説明されました?」
「はい。説明を受けました」

 私に質問に、ちひろさんはまっすぐ私を見て、そう答えた。


「今の楓さんは、『双極性障害』の疑いがある、そう先生はおっしゃってました」
「そうきょくせい、しょうがい?」
「はい。昔は『躁うつ病』と呼ばれていたものだそうです」
「そう、うつ、びょう……」

 私は、目の前が真っ暗になった感じがした。
 躁うつ病って、なに? 私は『うつ』ではなかったの?
 私の頭がぐるぐると、なにか答えを探し求めている。ちひろさんはかなり困った顔をしていた。

「楓さん。あまり自分を責めないでくださいね」
「ちひろ……さん」
「先生がおっしゃってました。お仕事でいろいろ気が張りつめて、気持ちが高揚したのかもしれない、って」

 ちひろさんの言葉に私は、はっとする。
 気持ちが高揚する。
 そう、あの時私はそうだったと、気付いたのだ。


「双極性障害って、要は気持ちの波を自分でうまく調整できなくなる状態だって、おっしゃってました。
なんでもやれる自分と、なにもできない自分のギャップに、心が参ってしまう病気だと」
「……ああ」

 なるほど、確かに当てはまるような気がする。今の私はあまりに無力で、なんにもできない木偶の坊とすら、思えるのだから。

「でもできないって思うのは、まやかし、ですからね?」
「え?」
「だって今日は楓さん、事務所に行けたし社長ともお話しできたし、クリニックにも行けたじゃないですか」
「でも、それは当たり前のことで」
「当たり前のことができている、それで十分じゃないですか?」

 私が自分のふがいなさを探そうとすると、ちひろさんはそれを否定した。

「それで、ですね」

 ちひろさんは手を胸元で合わせ、私に言った。

「私しばらく、楓さんと一緒にここに住むことにしました!」
「は?」


 ちひろさんはにっこり笑い、「はい」と言った。

「え……どういうこと、ですか」
「しばらく、楓さんと二人三脚で、一緒に頑張っていきましょう、ってことです」
「そんな……ちひろさんはご実家があるわけですし」
「……実はもう、相談しちゃいました」

 私の心配に、ちひろさんはあっけらかんと言うのだ。

「母が『あら、いいわね』なんて、賛成してくれて。『トップアイドルと過ごすなんて、あなたすごいわね』って、褒められちゃいました」
「……」
「父も『ご迷惑にならないようにな』と、認めてくれました」
「……」
「あと、社長にもお願いしまして。『よろしくお願いします』って、頼まれちゃいました」
「……ああ」

 私はがっくりと項垂れる。
 私のこの状態で、ちひろさんに多大な迷惑をかけていると、そう思えて仕方ない。

「まあ、明日からすぐってわけじゃないですけど。私も、心の病気と向き合っていますし、お互いさまってことで」

 ちひろさんは私の手を取り、優しい笑みを向けてくれた。

「よろしく、お願いしますね」

 そう言われて、私は否と言えるはずがない。今後に不安を感じながらも、私は。

「はい」

 そう答えるしか、なかった。


 一週間後。
 ちひろさんは約束どおり、うちにやってくる。

「今日からしばらくお世話になります。よろしくお願いしますね」
「いえ、こちらこそ。お世話になります」
「そうですね。お世話します。うふふ」

 ちひろさんからそう言われ、私は苦笑する。
 ともあれ、ちひろさんがやってくる準備として、家の中をきちんと掃除できたことは、褒められてもいいかもしれない。
 とにかくこの一週間、薬が変わったことでかなり体調がすぐれなかったのだ。

 まず食欲が落ちた。
 食べようとする気力が萎えてしまう。したがって「食べなくても、いいかな」となる。
 以前のように食べようと努力すればいいのかもしれないけれど、とにかく気力が続かない。

 食べるだけじゃない。
 なにか行動を起こすにも、気力が湧かない。私はどうなってしまったのだろう。
 薬を飲んでこの調子では、私はますますダメになってしまうのではないか。不安が拭えない。
 そんな状態なので、掃除ひとつでも私は、自分なりにかなり頑張った気がするのだ。よくやれたとすら思っている。
 次の診察で、先生に薬を戻してもらおうか。私はそんな風に考えていた。


「じゃあ、私はここに」

 ちひろさんはリビング脇の和室に、自分の荷物を置く。
 必要最低限の着替えと、メイク用品一式、あと黒い袋。いわゆるデリケート用品。
 彼女は本当に最低限の荷物だけで、ここに来た。もっともお客様用の布団も食器類も完備しているので、それで十分だった。

「なにか、お手伝いすることは」
「いえ、こんな荷物だけですし、特になにも」
「そう、ですか」

 ちひろさんにそう言われ、私はなぜか安堵した。
 今私はなにかを手伝おうとしても、たぶん満足にお手伝いはできない。早くも馬脚を現すことがなかった、安堵。
 そう感じることが、私を悩ませる。こんな役立たず、必要なんかないじゃないか、と。

「楓さん?」
「なんでしょう?」
「……ダメ、ですよ?」


 ちひろさんは私の顔を見て、たしなめる。私の不安が表情に出ていたのだろうか、彼女に申し訳なく思う。
 ああ、ほんと。ダメ。
 なにを考えてもネガティブに。今の私は、アイドルである私の対極にいるようで、本当に情けなかった。

「ひととおり荷物が片付いたら、引っ越し祝いになにか美味しいもの食べましょうね」
「引っ越し、祝い。ですか」
「ずいぶん軽めの引っ越し、ですけどね」

 ちひろさんは笑う。
 彼女がここまで笑えるようになるまで、どれほどの苦痛を味わったのだろう。今それを私が想像することは、果てしなく困難に思えた。

 それでも。
 誰かがいる、ということは、とても大きなもので。
 ちひろさんが食事の支度をすれば、私が手伝いをしなければ、と気力を振り絞って動くことをするし。
 後片付けも、彼女の労力に報いたいとなんとかやろうとするし。
 気が付けば自分がなにかをしている、という状況が作り出されていた。
 ひとりでは、とてもなにかをやろうという気持ちが湧かないのに、ちひろさんがこうしていることで、やらなければ、やろう、という環境ができあがっている。
 昨日までのダメな私からあまり変わっていない気がするけれど、それでもなんとかやっている。

「ちひろさん」

 リビングでくつろいでいるちひろさんに、キッチンから声をかける。

「はい」
「……ありがとうございます。いろいろと」

 ちひろさんは嬉しそうに「まだ初日ですよ」と言った。
 本当に彼女には、感謝しかない。


「そろそろ、投げ込みしましょうか」

 足の痛みが退けてきた頃、社長さんから話を切り出された。

「はい、分かりました」

 私はすでに、覚悟というか準備はできている。どういう方法にするのか、それをここで決めるのだ。
 社長室には私と社長さん、それとプロデューサーの三人。

「すでにだいぶ時間が経っているので、会見という形にはしないつもりです」

 社長さんは言った。

「それは、なぜ」
「あまり突っ込まれても困りますし、それに」
「それに」
「高垣さんも、質問されても返答に困るでしょう?」
「……ええ」

 それは確かに、本当だ。
 あの時の状況を思い出してみるけれど、私がどう思ったのか、未だによく思い出せない。
 というより私の中で、あの状況がきちんと消化できていない。


「そこを突っ込まれるのは、対外的には格好の餌ですしね」
「確かに」
「それにあれは事故です。ファンの皆さんが心配なのは高垣さんの体のことであって、どうしてそうなったのか、その事実についてはあまり興味はないでしょう。
事故の要因は私たち事務所スタッフの責任ですから」
「いや、それでは」
「社会的に、そういうものなのです。アイドルの責任は事務所が受け持つ、これは当然のことなのですよ」
「……申し訳、ありません」

 社長さんにそう言われれば私は、申し訳ないと言うしかない。私はあまり表に出るな、そうくぎを刺されているのだ。

「なので、高垣さんには自筆のメッセージをいただきます。あ、あまり事務所のこととか考えなくていいですからね。
高垣さんのファンへの想いを、そのまま書いてください」
「……分かり、ました」
「じゃあ高垣さんのメッセージができあがったら、プロデューサーに確認を取ってください。一応、ね。事務所のチェックはさせてください」
「……はい」

 そして社長室から出ると、私はちひろさんから便せんを渡された。

「あまり、深刻に考えないでくださいね」

 ちひろさんが言う。私はこくりと頷いた。
 打ち合わせテーブルで私は文章を考える。
 こうして文章を考えていると、頭の中にぐるぐると、様々な想いが渦巻いて吐き気を催しそうになる。
 でも、できるだけ素直に、ファンの皆さんの、ために。
 そうしてようやく、メッセージができあがる。


 ファンの皆様へ

 先日のステージでの事故では、皆様に多大なご心配をおかけしました。
 スタッフから発表があったとおり、足のねん挫とところどころ打ち付けたあざ程度で、大きな怪我をせずに済みました。
 私は、大丈夫です。
 早く良くなって、ファンの皆様に歌を届けます。
 もう少しだけ、待っていてくださいね。

 高垣 楓


 できあがったメッセージを、プロデューサーに見せる。すると。

「ちょっと楓さん。申し訳ないですけど、ここ、直してもらえますか」

 プロデューサーは私の『もう少しだけ』のところに二重線を入れる。

「どうして、です?」
「……実は楓さんには、ちょっと仕事をお休みしてもらいたいんです」

 プロデューサーの一言に、私は蒼白になる。

「待って、ください……仕事……お休みしないと、いけませんか」
「楓さんの体はもうだいぶいいんでしょうけど、ステージから落ちた心がね、心配ですから」
「……お願いです」

 プロデューサーの心配は理解できる。しかし私は、それを承諾するわけにはいかなかった。

「今までどおり、私に仕事させてください!」
「え、ちょっと楓さん」
「大丈夫です! 私できます! できますから!」

 私はプロデューサーに掴みかかる勢いで、嘆願する。プロデューサーは、困惑しているようだった。

「お願いです!」


 私の勢いに、周りのスタッフが私を見る。彼らもどうしたらいいのか、手をこまねいている。
 そこに、ちひろさんが入ってくる。彼女は私とプロデューサーの間に入り込み、こう言うのだった。

「楓さん! まず、社長室に行きましょう。ね?」

 私の興奮は収まらない、しかしちひろさんが間を取り持ってくれたのだ。私はちひろさんの言葉に首肯する。
 私とプロデューサーと、ちひろさん。三人は社長室に逆戻りした。

「おや、どうしました」

 社長さんは私たちを応接テーブルに案内する。私は社長さんに問いただした。

「私の休養の件について、教えてください」

 社長さんは「ああ、それですか」と言い、私たちをソファーに座らせる。

「そうです。私が指示をしました」
「なら……それを撤回してください」
「撤回、ですか?」
「はい」

 ここで、休むわけにはいかない。私も必死だった。


「うーん……では伺いますけど、今の状態で高垣さんは、ベストパフォーマンスを出せる、と言い切れますか?」
「……いえ」
「なら高垣さんご自身がよく分かると思いますけど。それは、ファンの皆さんに失礼だ、って」
「……」

 私はその言葉に言い返すことができない。悔しさがこみ上げてくる。
 けれど、社長さんの言っていることには、説得力がある。その時。

「社長。先日私が、クリニックの先生から、アドバイスをいただきました」

 ちひろさんが、会話に入り込んできた。

「ほう。なにかありましたか」
「はい。楓さんは今、自分のバランスに苦心している状態だと」
「バランスですか……ならなおさら休みが必要なのでは?」
「いえ、そうではないそうですよ」


 ちひろさんは、続けて言う。

「今生活しているリズム、仕事をしているリズム、全体のリズムを大きく変えてしまうのはあまり好ましくない。そうおっしゃってました」
「リズム、ですか」
「はい、リズム、だそうです」

 ちひろさんの言葉を受けて、社長さんはなにかを考えている。そして、プロデューサーと目を合わせると、彼に問うた。

「今、高垣さんのスケジュールはどうなっていますか?」
「事故のことがありましたんで、今のところは白紙で」
「そうですか……仕方ないですね」

 社長さんはため息をひとつ、吐いた。

「足の痛みがよくなったら、状態を見てあまり負担にならないところから始めてください。お願いします」

 社長さんからのオーダーに、プロデューサーは驚いた。でもその指示に「承知しました」と首肯する。
 私は、ぽかんとしていた。


「高垣さん」
「え……は、はい」
「これからも無理のない程度で、よろしくお願いしますよ」
「あ……ありがとう、ございます!」

 私は慌ててお辞儀をする。
 よかった、私から仕事が奪われてしまう不安は、ひとまず回避された。

「それから千川さん」
「はい、社長」
「くれぐれも高垣さんのこと、しっかりサポートしてあげてくださいね」
「ええ、承知しました」

 ちひろさんはいつもと変わらない笑みで、社長のオーダーに首肯する。
 ちひろさんには本当に、迷惑をかけてばかり。私が少し落ち込みそうになると。

「気持ちが楽になる程度に、ぼちぼち、頑張りましょうね」

 ちひろさんが、フォローしてくれた。

「そうそう。そのあたりのさじ加減は、私たちに任せてください」

 プロデューサーはそう言うと、サムズアップをして、続けた。

「僕たちは、楓さんのチーム、ですからね」

 ああ。
 私ひとりのために、これだけの人たちが動いてくれる。私はそのことがとてもうれしく思い、そして。
 とても申し訳なく、思った。

―― ※ ――


※ 今日はここまで ※

ではまた ノシ


投下します

↓ ↓ ↓


 公式にメッセージを配信してしばらく経った。まだ仕事は再開して、いない。

「カウンセリングを受けてみたら、どうかしら」

 近くのカフェで一緒にお茶をしている時、瑞樹さんが言った。

「カウンセリング?」
「自分ひとりだと苦しいことでも、話を聞いてもらうことで整理できたりするし、いいと思うの」
「……はあ」

 瑞樹さんはあの事故のことがあって、いろいろ気にかけてくれる。それはありがたい事だけれど。
 私自身、カウンセリングを受けてみようかという気にならない。
 むしろ、早くに仕事を再開したいという思いでいっぱいで、そんなところまで気が回る余裕はなかった。

「でもあまり、気が進まないですね」

 私がそう答えると、瑞樹さんは。

「合う合わないもあるし、エステに行くような気持ちで、一度くらい行ってみたら?」

 などと気安く言うのだった。
 それは彼女なりの優しさだと、もちろん私は知っている。無碍にするのも申し訳ないので、調べてみようかしら。
 事務所に戻り、プロデューサーを訪ねてみた。
 彼はすでに次の現場に出かけていていない。というか、スタッフのほとんどが出払っていた。

「今日はちょっと忙しいみたいで」

 ちひろさんがぽつんと、留守番をしている。私はちひろさんの隣、出かけているスタッフの椅子を無断で借りた。


「忙しいのは、ほんと、なによりじゃないですか」

 私が言う。

「そうですね。楓さんはそろそろ、再開されるんですか?」

 ちひろさんが訊く。

「私はもう始めたくてうずうずしてるんですけど、プロデューサーからゴーサインが出なくて」
「そうですか。ならお手伝い、お願いしますね」
「ええ、喜んで」

 そう、仕事をしていない今、レッスンなどで時間を費やすことも必要だと思うのだけれど、なぜかそれもストップされている。
 手持ち無沙汰な私に、ちひろさんは事務の手伝いをお願いする。ありがたく、その仕事を拝命するのだ。

「そう言えば……」

 書類整理をしながら、私はちひろさんに昼間のことを話してみた。

「カウンセリング、ですか」
「ええ。ちひろさんは受けられたこと、あります?」
「いえ、実は私も、ないんです」

 ちひろさんも、経験はないようだ。

「私の場合は、親がいろいろ話し相手になってくれたので……特に必要はなかったかなあ、って」
「ああ、なるほど」

 身近な相手がいる、ということ。確かに大きいと思う。でも私は。
 つい、ちひろさんをちらちら見てしまう。
 今彼女と一緒に暮らしていることもあって、一番身近な相手というと、やはり彼女かなあという気がする。

「ん?」

 ちひろさんが視線に気付く。私はちょっと恥ずかしくなった。

「私でよければ、いつでも」
「いえ、ちひろさんには毎日お世話になってますし、たまには別な方に相談するのもいいかなあ、と」
「あら、振られちゃいましたね」
「いえいえ! そんなことは!」
「うふふ、冗談です」
「……もう」

 彼女にお世話になりっぱなしは、良くない。
 少しは自分自身でなんとかする癖を、つけなくては。


 とりあえず事務所近くにカウンセリングルームがあることが分かった。
 九十分で一万二千円、高いのか安いのかよく分からない。女性専用ということだったので、ここに予約を入れてみた。

 カウンセリング当日。
 マンションの一室、玄関に小さくカウンセリングルームの看板が張り付けてある。
 中では瑞樹さんと同年齢くらいの女性が、私を待っていた。

「ようこそ。はじめまして」
「はじめまして。高垣と申します。よろしくお願いします」
「よく存じ上げてます……と言っても、テレビ画面の中ですけど」
「そうですか。ありがとうございます」

 ひととおりの挨拶。私は応接ソファーに案内される。
 カウンセラーさんはお茶を入れ、私に勧めてきた。

「ハーブティー、お嫌いですか?」
「いえ、頂戴します」

 カモミールの香り。心を落ち着けるための配慮ということか。

「あと、先にご説明しますね。プライベートに関してお話を伺った内容は、一切公表いたしません。
プライバシーに関する誓約書を取り交わしますので、安心してくださいね」
「はい、よろしくお願いします」

 しばらく世間話をする。
 もちろん芸能界に関することは、話せない。
 それはたとえ誓約書を交わしたとしても、こういう業界にかかわる人間であれば細心の注意を払うことだから。
 当たり障りのない話。話をしながら私は、心が冷えていくのを感じる。


「さて、高垣さん。こちらに来られた理由を、お伺いしてもいいですか」
「……そうですね。そのために来ましたので」

 私は逡巡する。事ここに至って、なにを話せばいいのだろう。そして。

「実は……今『うつ』を患ってまして」

 私は、嘘を吐いた。
 嘘と言うには少し違うと思うけれど、しかし正確ではないことを、私は言った。

「なるほど」

 カウンセラーさんは、メモを取りながら私の話を聞く。
 私がところどころ考え、言葉が出なくても、カウンセラーさんはずっと、私の言葉を待つ。時間だけが無碍に過ぎていく、そんな気がした。
 ひととおり話を終える、と言っても、自分がうつであることと、今クリニックで治療を受けていること、そのくらいか。

「ありがとうございます。お話は、そこまでですか?」
「え?」

 カウンセラーさんは私に言った。

「そうですねえ……なんと言うか、高垣さんがお話されたことは、今現在ご自身が置かれている状況ですよね」
「はい」
「なかなか、お気持ちを話すことは、難しいですか」


 どきりとする。
 確かに、今の私の気持ちを話せるかと言えば、それは難しい。なぜなら彼女は私の知らない他人、なのだから。

「そう、ですね」
「そうでしょうね。実際、高垣さんのような方は、多いです」
「そうなんですか?」
「はい。うつを患っている方は、ご自身のことをなかなか打ち明けていただけません。致し方ないことだと思います。
いきなり見ず知らずの他人に打ち明けるなんて、普通の人でも難しいですしね」

 カウンセラーさんは一般的な話、と前置きをする。そしてこう言った。

「もし高垣さんがお話ししてもいい、と思われたら、話してください。それでいいんです」
「はあ……なんか、ごめんなさい」
「いえ。それが私の仕事ですから」

 予定されていた時間はとうに過ぎている。それでも彼女は私にこうして付き合ってくれていた。しかし。
 縁が、なかった。私はそう思った。
 確かにこうして話を聞いてもらえることで、心が軽くなる人もいるのだろう。しかし私は、その段階を超えてしまっている、そんな気がする。
 こうして話をしたところで、彼は戻ってこない。
 私には諦念がある。それをどうにかできないうちは、話をしても無駄に思える。

「今日は時間オーバーでお話を聞いていただいて、ありがとうございました」

 私は彼女にお礼を言う。彼女は、私をどう思ったのだろう。

「いえ。もしまたご縁があれば、お話、聞かせてください」

 カウンセラーさんは私に握手を求めた。手のぬくもりが、私を悲しくさせる。
 ご縁があれば。
 その縁はおそらく、繋がっていない。


 私はようやく、仕事を再開する。
 歌番組の収録。録画ものでインタビューなし、という、今の私にはありがたいものだ。しかも瑞樹さんと共演。
 事務所スタッフの努力と配慮に感謝しながら、スタジオへ向かった。

「楓ちゃん、やっほー」

 瑞樹さんは先に部屋入りしていた。別の収録からまっすぐこちらへ、という段取りだったのだ。

「瑞樹さん、今日はよろしくお願いします」
「なーに言ってるの。この前一緒にお茶した仲じゃない」
「そうですね。お酒じゃなかったですけど」
「そうねえ、今度は夜、ご一緒しちゃいましょうね……ところで」

 瑞樹さんが尋ねる。

「カウンセリング、行ってみた?」
「ええ、先日」
「……どう? 少しは楽になった?」
「……どうなんでしょう」

 私は苦笑するしかなかった。その表情で理解したのか、瑞樹さんは「そっか」と言い。

「今の楓ちゃんには、合わなかったってことね。それでいいんじゃないかしら」

 私に笑みを向けた。


「せっかくお勧めしていただいたのに、なにか申し訳なくて」
「いいのよ、私も気楽に言っただけだし。そうね。今度は体もリフレッシュするように、全身エステ、行きましょ?」
「そう、ですね。ぜひ」
「じゃあ、今日は楓ちゃんの復帰初仕事、頑張りましょう!」

 瑞樹さんは私を慮って、努めて明るく振舞ってくれた。

 収録本番。瑞樹さんとのデュオは久々で緊張する。でも、それが妙に嬉しかった。
 足はほぼ大丈夫になっているけれど、無理をしないということで、振り付けを最小限に抑えている。
 相変わらず綺麗で伸びやかな、瑞樹さんの歌声。聞き惚れてしまう。日頃ソロで歌うことが多い私には、こうして誰かと歌うことが貴重で、ありがたい。
 サビ。ふたりの息を合わせ……

「はーい! ストップでーす!」
「楓ちゃん、大丈夫?」

 収録スタッフの声と、瑞樹さんの声。私は、固まって動けない。


 歌詞が、飛んだ。


 瑞樹さんとのデュオで、歌い慣れていたはずの曲。歌詞が出てこない。頭が真っ白になったのだ。

「す、すいません……大丈夫、です」
「ごめんなさい! 五分、休憩ください!」

 私がアピールするものの、プロデューサーがそれを制した。

「了解でーす。じゃあ次の歌い手さんを先に収録しますんで、それでいいですか」
「はい、お願いします」

 収録スタッフとプロデューサーのやり取り。私は瑞樹さんに付き添われ、楽屋へ戻った。
 どき。どき。
 鼓動が鳴り響く。色を失った私に、瑞樹さんが声をかける。

「楓ちゃん。楓ちゃん! 大丈夫よ。大丈夫。ほら、お茶飲んで」

 手渡された紙コップを、両手で掴む。手がわずかに震えていた。
 こくこくとお茶を飲む。少しだけ気持ちが、戻ってきた。


「……瑞樹、さん」
「大丈夫? 楓ちゃん」
「ごめんなさい……飛んでしまい、ました」
「いいのいいの、久しぶりだし。大丈夫だから」
「……私」
「え?」
「まだ……早かったんでしょうか……復帰」
「……それは違うわ。うん、違う」

 動揺する私に、瑞樹さんは語り掛ける。

「復帰に早いも遅いもないわ。たまたま今日は、調子が悪かっただけ。問題ないの」
「でも」
「歌詞が飛ぶなんて、よくあるじゃない。完璧じゃなくていいの。それより……」
「……」
「私との共演、楽しみましょ。ね。楽しんで?」


 緊張が止まらない私に、瑞樹さんがウインクを投げる。その仕草が、私にすっと入り込んできた。
 ああ、いつもの瑞樹さんだ。
 ようやく、緊張の糸が解ける。涙がこぼれそうになるけれど、私はそれをこらえ、瑞樹さんに言った。

「ありがとうございます……大丈夫、戻ってきました」
「そう。なら次で、決めちゃいましょうね」
「……はい」

 収録が再開し、今度はオーケーをもらう。どうにか復帰初仕事を無事、終えることに成功した。

「お疲れさまでした。緊張しました?」

 帰りの車で、プロデューサーが尋ねた。

「緊張もしましたけど、それより……申し訳ない気持ちで、いっぱいですね」

 私は窓の外、流れる景色をぼんやり見ている。

「大丈夫です。ぼちぼち、行きましょう」

 プロデューサーは、私を慰めた。
 道のりはまだ、険しい。


 私は、薬を飲む。

 オランザピンに変えて三か月。なかなか気持ちをコントロールするのが難しい。
 先日は部屋で大泣きをして、ちひろさんを困らせてしまった。
 なぜか分からないけれど、悲しい気持ちが渦巻いて泣くしかなかったのだ。そこに理由はない。ただ悲しい、それが横たわるだけ。

 そうかと思えばひどく冷静になって、アンドロイドになったかのように歌い、踊る。
 決して感情がこもっていないとか、冷たいとか、そういうことではなく。
 どこか他人のようなもうひとりの私が、歌っている私を客観的に眺めている、そんな感覚に囚われた。

 もちろん、普通に過ごせる私もいる。だがそう感じる私に、もうひとりの私が語り掛ける。
 普通って、なに?

「先生」
「なんでしょう」
「私、おかしいんでしょうか」


 先生に、今のわたしを打ち明ける。
 ふたりの私がいること、感情の浮き沈みがまだ激しいこと、そのために心が、疲れてしまうこと。

「そうですね……高垣さんの今は、まだ過渡期なんだと思います」
「過渡期?」
「徐々に穏やかになっていく、その途中なのだと、思いますよ」
「そうでしょうか」

 私にはそう思えない。
 だってこんなにも激しくて、こんなにも誰かに迷惑をかけている。
 ちひろさんや瑞樹さんや、プロデューサーやスタッフ。社長さん。みんなに、迷惑を、かけている。

「私は、今の私が嫌い、です」
「私には、産みの苦しみのように見えますね」
「産みの、苦しみ……」
「はい」

 そうしてまた、私は同じ薬を処方される。閉塞感に、押しつぶされそう。


「お帰りなさい」
「ただいま、帰りました」

 ちひろさんがマンションで、私の帰りを待ってくれていた。
 今日、彼女は振替の休みの日だというのに、私のために時間を作ってくれたのだ。

「せっかくのお休みなのに、ごめんなさい」
「いえいえ。こうして楓さんとの共同生活も、もう当たり前になってて、このほうが落ち着くんです」
「……ありがとう」

 そうだろうか。
 こんな手のかかる相手と一緒の生活なんて、苦しい以外の何物でもなかろうに。
 このところネガティブなことばかり、考えてしまう。

「さあ、夕食にしましょう。今日はお手伝い、お願いしますね?」
「……もちろん」

 そうしてまた、いつものようにふたりの食事。
 ちひろさんとこうしてふたりで過ごせることは、とてもありがたい。
 だが思う。彼女をこうして束縛してしまっている現状は、私たちふたりにとって不幸なことなのではないか、と。
 閉塞感。行き詰まり。
 そして、諦念。

 お風呂から上がって睡眠薬を取り出す。このルーティーンを行うようになって、どれくらい経ったろうか。
 薬のお世話になって一年以上経っているというのに、私は少しも良くならない。
 むしろ悪化しているように、思える。
 先生はよくなっていると言うけれど、それを実感することは、ない。
 私は、いつまで。

「……」


 目の前にある、薬。白い粒をじっと見つめる。ふと悪魔が私に、ささやいた。

 これをたくさん飲んだら、目覚めないかしら。
 かつて私が、思いついたことだった。
 私は疲れてしまった。
 いろいろ努力していると思っているし、みんなのサポートも受けている。
 それなのに、私はみんなになんにも返せていない。報いることができない。


 いらない……こんな私。


 ざらざらと、溜まっていたニトラゼパムとエチゾラムを出す。これを全部、飲んだら。

「楓さん!」

 私の寝室にちひろさんが入ってきた。ちひろさんは私を抱きしめ、言った。

「馬鹿! ダメでしょう!」

 ……え? なにが?

「なにをしてるんですか! 楓さん!」

 なにって、えっと……なに?

 ……あ。

 視線の先には、折り重なる睡眠薬のシート。
 私、なにをしてるんだろう。

「よかった……よかった」

 ちひろさんは私を抱きしめたまま、ぼろぼろと泣き出した。

「あの……ちひろ、さん」
「ダメです」

 そう言ってちひろさんは私を離さない。涙はいつか泣き声となる。

「楓さん! ダメですよ! ダメです!」

 泣き叫ぶちひろさん。その叫びが私を、現実へと戻していく。
 体が震え、頭がぐらぐらする。

「……ごめん、なさい」

 私は口癖のように、彼女に謝った。

「許しません! 許しませんから……」


 抱きしめたまま泣き続けるちひろさん。私は、深い後悔を覚えた。
 私は、ひどいことをした。
 こんなにもちひろさんや事務所のみんなが、私を支えてくれているというのに。
 私はなんて、おぞましいことを考えてしまったのだろう。それは決して、許されない、こと。

「……ごめん、なさい……ほんとに……ごめんなさい」

 わあわあと泣くちひろさんを、私も抱きしめる。
 なにを言われても私は、謝ることしかできない。それほどのことを、ちひろさんにしてしまった。
 ひとりきりだったら、私はどうしただろうか……
 ちひろさんはまた、私を助けてくれた。私は彼女を、これ以上苦しめてはいけない。それはつまり。

 私は、いなくなってはいけない。

 私の中に深く、それを刻み付けなければ。それが彼女への贖罪、ならば。
 それを思い続けることが、できるのだろうか。不安が消えない、ままで。


 それから。
 私の薬の管理は、ちひろさんがすることになった。当然だ、前科があるのだから。

「はい、楓さん。薬です」
「ありがとうございます」

 朝晩と、彼女から薬を手渡される。それが私たちの新しいルーティーン。
 ちひろさんには手間をかけさせてしまうけれど、彼女は「このほうが私は安心ですから」と言ってくれる。
 なにより私には誰かがいてくれる、そう思えることが私には重要だった。

 少しだけ地に足が着いた気分。それが支えとなり、仕事を順調に回すことができる。
 仕事が回せると、気持ちが多少コントロールできるようになってくる。好循環だった。

 もちろん、波はやってくる。
 未だに泣き叫びたくなる気持ちになるし、ふたりの私がいる感覚もあまり変わらない。
 つらい気持ちに苛まれることも、まだまだ多い。でも。
 あの時よりは、まし。


 ちひろさんと共同生活をするようになって八か月、少しだけルーティーンが軌道に乗ってきていた。

「ただいま戻りました」

 事務所に戻ってくる。スタッフが「お帰りなさい」と声をかけてくれる。
 いつも変わらないこと雰囲気が、私に安心を与えてくれる。そして。

「お帰りなさい。待ってました」

 ちひろさんが、声をかけてきた。

「あら。なにかありました?」
「ええ、ありました。実は」

 ちひろさんから打ち明けられた内容に、私は驚く。そして、体の力が抜けていくのを感じた。

「Pさんのお姉さんから、電話があって……楓さんに、お話があると」

 なぜ、今。ああ。
 気が付けば、彼が亡くなってから二年が経とうとしている。三回忌。
 時が過ぎるのは、早いのか、それとも。

 遅いのか。

―― ※ ――


※ 今日はここまで ※

次回で完結です。
ではまた次回 ノシ


投下します

↓ ↓ ↓


「……」

 呼び鈴を押す手が、震える。

 東京から新幹線に乗り、駅からタクシーでしばらく。家に着く。
 Pさんのお姉さんは結婚されていて、旦那さんとお子さんと暮らしていると、電話口で伺った。
 なぜこの時、私に連絡をくれたのか。私がそれを問うことは、叶わなかった。
 それでも心を振り絞り、私はお邪魔する約束を取り付ける。そして。

 閑静な住宅街に、ひとり。
 ぴんぽーん。呼び鈴を押すと、中でぱたぱたという足音が聞こえる。
 がちゃり。中からかわいらしい男の子がひょっこり、顔を出した。

「あら、こんにちは」

 私が挨拶をすると急に恥ずかしくなったのか、ぱたぱたと走って、人の陰に隠れる。その人こそ。

「ようこそ、いらっしゃいました」
「……ありがとうございます」

 Pさんのお姉さん、だった。
 お入りくださいと案内され、リビングに通される。
 続きの和室の客間に、小さな祭壇。そこに鎮座していたのは、Pさんの遺影と、まだ納骨していないであろう骨壺。


「あ……」

 私は、言葉を失う。
 会いたかった人が、そこにいる。全身が震え、力が抜けそうになる。

「どうぞ、線香をあげてください」

 お姉さんに促され、一歩、また一歩、祭壇へ歩む。
 あの日、告別式で見たPさんの笑顔。変わらないそれを見て、心がとても締め付けられる。
 苦しくて。悲しくて。なぜ。どうして、と。
 わけも分からない感情に支配され、私はPさんの祭壇にしゃがみ込む。そして。

「……P、さん」

 私はうずくまり、声を殺し、涙を流し続けた。
 五分、十分、どのくらい時間が経ったか。私はどうにか、顔を上げる。
 すると、お姉さんは傍らで、一緒に涙を流していた。男の子は不思議そうな顔をして、お姉さんの顔を覗き込む。

「だいじょぶ?」

 彼は私に大丈夫、と、声をかけてくれた。

「ええ……ええ。大丈夫よ」

 私は答える。男の子はまたびゅーっと走って、母親の後ろへ隠れた。


 少しだけ落ち着いた私は、祭壇に線香をあげる。仄かな煙が、彼の顔を霞ませる。
 それがいっそう物悲しくて、私は再び涙を流す。ただ、悲しい。
 それでもどうにか涙を拭き、お姉さんへ一礼をする。彼女は「どうぞ」とリビングへ案内した。
 春とはいえまだ寒く、こたつのぬくもりが心地よい。男の子はお姉さんにべったりとくっついて、離れようとしない。

「この子、だいぶ人見知りで。ごめんなさい」
「いえ、とってもかわいらしくて。ねえ、いくつ?」

 私は男の子に尋ねる。彼は母親の後ろからひょこっと顔を出し、手で『三』を示した。

「そう、三歳なんだ。しっかりしてるのね」

 私がそう言うと、彼はまたひょいと顔を隠した。
 お姉さんはお部屋で遊んでらっしゃいと促すけれど、男の子は離れようとしない。そのまま彼女は、男の子を抱っこした。

「お忙しいところわざわざ来ていただいて」
「いえ却って、ご連絡いただきありがとうございます」


 私はお礼を返す。
 そう言えば、告別式の時はあまり時間がなかったのでうろ覚えだったのか、Pさんの面影があると思い込んでいたけれど。
 こうして改めてお会いすると、あまり似ていない。

「……弟と似ていないでしょう?」

 私はまじまじと見てしまったのか、彼女はそう言った。その言葉に私は、恥ずかしさを覚える。

「実は私、母親の連れ子でして。再婚相手との子が、弟なんです。ですから歳も離れてて」
「失礼ですけど……おいくつ」
「十二歳、離れてます」

 そう言う彼女の表情は、暗く落ち込んでいる。

「私がもっとしっかりしていれば、弟はこんなことにならずに、済んだのに……」

 彼女の言葉には、後悔の思いしか映し出されていない。そんな気がした。

「もし、よかったら」

 私は彼女に、言葉を促す。それはとても重い、話だった。

「私たちの、親は……」


 私たちの親は、いわゆる『毒親』だったんです。
 私の実の父と私の母が離婚して、ほどなく再婚しました。実はその時にはすでに、母のお腹には弟がいました。
 そう、母は浮気相手と再婚したんです。

 あの男は、ひどい男でした。母に暴力をふるう、借金もする。
 父親と呼ぶことも憚られる、私にとっては害虫でした。そんなところに弟が生まれて、弟はかわいそうでした。
 あの男、いや『虫』ですね、虫はいつだって家にいない。母がひとりで私と弟を育てる、そういう環境です。
 でも母は生活するために働かないとならない。いつしか母は、弟を私に任せ自分で育てることをやめました。

 虫は普段、母のところには戻らず、他の女のところを転々とするような奴だったと聞いています。
 時たま帰ってきては家のお金を持っていく。
 母も苦労していたと思いますけど、それを私は哀れだと思いません。だって、私や弟に暴力をふるい怪我をさせても、なにひとつ庇おうとしないんですから。

 そして私が中学の頃です。
 虫に襲われそうになりました。恐ろしくて、私は何度も母に「逃げよう!」って、訴えました。
 でも母は動こうとしない。学校の先生にも訴えて、そこから児童相談所へ連絡が行って。
 どうにか、私たちは虫から逃げることができました。そして所縁のない町で新しい生活を始めたんです。

 しばらくは穏やかな生活でした。母もこの時は、優しかったような気が、します。
 高校を卒業して私は東京で就職することになり、家を出ました。
 それが、間違いでした。
 就職して彼氏ができて、私自身が幸せだなと思っていた時、虫から電話があったんです。
 あいつを、どこへやった、と。
 虫から電話があって私は、あまりに恐ろしくてすぐ切りました。
 そして、住んでいたアパートから彼の部屋へ引っ越して、電話番号も変えて、一日おびえる日々でした。
 その後、虫から連絡が来ることはなく、私は彼と結婚して、今に至ります。


 お姉さんが一息ついて、お茶を飲む。男の子は彼女の膝の上で、アップルジュースを飲んでいる。
 お姉さんの境遇を思い、私の心は締め付けられる。

「弟の消息を知ったのは……」


 弟の消息を知ったのは、弟が楓さんの事務所に就職して、だいぶ経ってからのことでした。彼から私に、連絡があったんです。
 どういういきさつで私の消息を知ったのか、弟は話してくれませんでした。
 でも、彼が無事でいてくれて嬉しかった。そう思っていました。
 せっかくだからと、弟がここに遊びに来てくれて、その時弟の境遇を聞きました。

 私は、ひどい姉です。
 私が就職してしばらく、母親が逃げたそうです。今どこにいるのか、私には分かりません。
 事もあろうに弟は、虫に預けられたんです。
 そこでどういう仕打ちを受けたのか、弟は話してくれませんでしたけど、ひどいことをされていたのだと思います。

 弟が虫から逃げて東京に行き、楓さんの事務所にお世話になってようやく、弟は安心できるようになったと、思います。
 今、アイドルのプロデュースなんて、信じられないような仕事やってるよって、嬉しそうに言ってました。
 そこで、楓さんが担当だと、伺いました。私も信じられない気持ちで、すごいねって。弟が本当に幸せそうで、嬉しくなりました。

 ところが。
 次に弟のことを知ったのは、楓さんもご存じのとおり、弟が亡くなった時でした。
 楓さんの事務所の社長さんから、連絡がありました。そして、弟と対面して……


 お姉さんは言葉を失い、泣くばかり。男の子はそんな母親を心配して「げんきだして。だして」と、お姉さんに声をかける。
 ……なんと言えばいいのか、いや、なにも、言うことはできない。
 フィクションのような、テレビのような、そんな虚構と思いたくなる話。でも、現実の話。
 私は言葉を失った。

「うっ……うう……」

 声を殺して泣くお姉さんに、私は声をかけられない。なにを言ったところで空々しく、無意味に思えたから。
 お姉さんは落ち着くまで、私はその場にとどまるしか、できなかった。
 肩越しに見える、Pさんの遺影。その笑顔が、私をいっそうつらくさせる。
 Pさん。あなたは。
 どうして、いなくなったのですか?


「ところで」

 私はお姉さんに尋ねる。

「納骨は、されないんですか?」

 お姉さんは彼の遺影を眺めたまま、呟く。

「弟のお墓を作って納骨してしまったらもう、会えなくなる気がして……」

 私と、同じだ。そう思った。

 Pさんはもういない。それは紛れもない事実。
 しかし私は、事実を認めたくない。認めてしまったら、私の中のPさんがいなくなってしまう。そんな気がしたのだ。
 それが私の呪縛であることも、知っている。
 そうして心壊れても私は、Pさんを想い続けている。

「お姉さん」

 私も、彼の遺影を見ながら、呟いた。

「時々、Pさんに会いに来て、いいですか」

 お姉さんは、私の問いかけに答える。

「いつでも……会ってあげてください」

 お姉さんのお宅から辞去する時、手紙を渡される。

「これ、受け取ってください」
「これ、は?」
「弟が楓さんに宛てた、手紙です」

 本当ならすぐに渡せばよかったけれど、心の踏ん切りがつかなくて、と、お姉さんから謝罪を受ける。
 それは些細なことで、こうしてPさんの手紙が私の手元へ来たことが、とてもありがたかった。
 彼女にお礼を言い、男の子に「また来ても、いい?」と言葉をかける。彼はこくり、と頷いた。
 それだけで不思議と、ほっとする。私は「また伺います」と言い残し、東京へ帰る。

 帰りの新幹線。Pさんからの手紙を、開けた。


 楓さんへ

 これを楓さんが読まれるとき、僕はこの世にいないでしょう。
 ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。
 僕は弱い人間です。個人的な揉め事で心を乱して、今こうして、自分を殺めようとしている。そんな馬鹿な男です。
 楓さんと出会えて、楓さんがトップアイドルとなって、僕は幸せでした。
 楓さんが、好きでした。大好きでした。
 一緒に歩めなくて、ごめんなさい。僕はもう、駄目なんです。
 楓さんがトップアイドルで居続けられることを、祈っています。
 さようなら。


 便せん一枚に、短い言葉。
 彼はなにを思って、これを書いたのだろう。私は。
 私は。

 それでも彼に、生きてて欲しかった。

 こんな言葉を残すくらいなら、私に話して欲しかった。ともに生きて欲しかった。どうして……
 どんなに思っても、どんなに考えても、答えなど分からない。彼はもう、いない。
 ひとり車内で、涙を流す。そして、思う。
 Pさんはずるい、です。私をこんなに泣き虫にさせて。責任を、とってください。
 ……それはもう、叶わない。
 悲しみを携えたまま、新幹線は東京へと向かい、私は日常へ戻るのだった。


 翌日。私は社長室へ向かう。

「社長さん」

 Pさんの手紙を手に、私は社長さんに問うた。

「Pさんのこと、知ってらっしゃったんですか?」

 手紙を社長さんに押しつけ、私は尋ねる。社長さんはため息を吐き、私をソファーに座らせた。

「……知ってました」

 私の心はざわつかない。社長さんの言葉を、待つ。

「彼はとても強かったです。私は彼の強さを見込んで、プロデューサーにスカウトしました」
「……」
「でも彼が亡くなる直前、彼の父親と名乗る人物から、私に連絡がありました。高垣楓のスキャンダルをバラして欲しくなかったら、金をよこせ、と」

 私は、その事実に驚く。虫はPさんが亡くなる直前まで、彼からすべてをむしり取ろうとしていた。
 私は、思う。虫は本当に、Pさんの父親なのか。血が繋がってるというのに、そんな仕打ちをどうしてできるというのか。
 闇は、私の想像を超えて、深かった。

「私は、自称父親に対峙しました。金など、払えない。そもそもスキャンダルなど、ありませんから、と」

 社長さんの表情は、お姉さんと同じように深い後悔に包まれていた。


「P君が亡くなったのは、その翌日だったのです……彼はその自称父親に、追い詰められていたのだろうと、思います」

 どれほどのプレッシャーを、Pさんは感じていたのだろう。
 それをおくびにも出さず、彼は私のプロデュースを続けていた。
 私たちは、Pさんを知らなかった。そして彼は、自らの命を絶った。

 無知は、罪。
 あまりにも劇画のようで、現実離れしている話。しかし、現実の話。
 私も社長さんも、その罪を抱えて、これから過ごしていかなくてはいけない。
 それでもなお、私は願わずにいられなかった。

 せめて、打ち明けて欲しかった。
 どうして、いなくなったのですか。

―― ※ ――


 季節は、移ろいゆく。
 Pさんがいなくなって、二年と半年。私はテレビの中で、歌っている。

「ありがとうございました」

 カメラの先にいるであろう、たくさんのファンの皆さんに、お礼を。私は深くお辞儀をする。

「高垣さん、お疲れさまでしたー」
「お疲れさまでした。お先します」

 収録が終わる。局スタッフに声をかけられ、私たちは事務所へと引き上げるのだった。

「どうでした、か?」

 帰りの車で、私はプロデューサーに声をかける。

「ええ、よい出来でした」

 プロデューサーの答えに、私は安堵する。
 事務所ではちひろさんが待っていた。

「お帰りなさい」
「はい。ただいま戻りました」


 いつもの挨拶。でも今は、少しだけ違っている。

「ところで楓さん」
「はい?」
「今日は楓さんのところ、お邪魔してもいいですか?」
「はい。喜んで」

 もうちひろさんとは一緒に、共同生活をしていない。
 彼女は実家へ戻り、私はひとり暮らしを再開した。それは私の様子がここに来て安定してると、判断されたから。

「あ、でも今日は先約が」
「あら、じゃあ今日はやめますね」
「いえ、瑞樹さんと久々に店呑み、なんです。よかったらちひろさんもいかがですか? 私の歯止め役として」
「歯止め役、ですか。うふふ。じゃあ私もご一緒させてもらいますね」

 クリニックの先生からは、飲酒は極力控えるようにと言われているけれど、ほんの猪口っと、いえ、猪口じゃなくてグラス一杯くらいは、見逃して欲しい。
 今は彼女たちとの語らいが、とてもよく効く薬なのだと、思っている。
 だから私は、また次のステージに、向かうことができる。

「楓さん、じゃあミーティングを始めますか」

 プロデューサーが、我がチーム高垣を招集する。

「はい、今行きます」
「久々のライブですから、しっかりと安全に、いろいろ段取り決めていかないと」
「そうですね、よろしくお願いします」

 次のステージ。それは久々のライブ。あの事故以来の企画、もうああいうことを起こしてはならないと、みんな緊張している。
 私も、気をつけないと。


「そう言えば、楓ちゃん」

 夜。いつものイタリアンバルで、瑞樹さんとちひろさんと一緒にお酒をたしなんでいた。

「なんです?」
「先週、行ったんでしょ? P君のところ」
「はい、行きました」
「どう? 少しは落ち着いた?」
「おかげさまで」
「そう……ならよかった」

 私と瑞樹さんの会話を、ちひろさんはにこにこと眺めている。
 私が安定しているもうひとつの要因、それは間違いなくPさんだった。
 薬が効いてだいぶ安定しているとは言え、いつまた暴発するか、分からない。そう思ってしまうことが私を不安にさせる。
 でも。

 あそこに行けば、Pさんに会える。
 そう思うことで、私は心の安寧を得ている。
 それは現実を受け入れず、未だ夢を見ていると、そう言われても仕方のないことだ。
 けれどどうしても私は、Pさんを忘れることなど、できない。折り合いをつけること、それができるのは彼に会うこと。私の中にひとつルールができた。

 私たち三人はゆっくりと語らい、気が付けば夜もだいぶ遅くなってしまう。
 ちひろさんは私のマンションに寄るつもりだったけれど、今日は遅いしもうお開き、ということになった。


「ただいま」

 誰もいない部屋。この暗さにももう、慣れた。
 この前までちひろさんと一緒に料理したり、ゆっくりと話し合ったり。あるいは。
 泣きはらして、慰められたり。
 私はキッチンへ向かい、コップに水を注ぐ。ポーチから薬を取り出し飲もうとして。

「あ。今日はちょっと深酒しちゃったし」

 副作用が強くなってしまうといけない。そのままポーチへ、薬を戻した。
 さっとシャワー程度で済ませ、私は寝る準備をする。かち、かち、と。目覚ましの音。
 うまく、眠れない。
 やはり薬のお世話になるべきかと頭をよぎったけれど、それはダメなことと、もう一度目を瞑る。だが睡魔はやって来ない。
 私はむくりと起き電気をつけ、化粧台の引き出しから彼の手紙を、取り出した。


 何度も何度も読み返す、手紙。
 読み返せば、悲しみが襲ってくる。自傷行為と言われても仕方ない。だけど。
 こうして傷を負うことで、彼を忘れずにいられるのなら。
 私は意味のない自傷を、繰り返す。心は未だ、歪んだまま。
 安定なんて、それは気持ちの波の大きい小さいの違いでしかなく、多少ましなアンバランスに過ぎない。

 私は、気持ちにけりもつけられず。
 死を選ぶことも、できず。
 いつまでも現状をたゆたうだけの、存在。

 アイドルである私。
 最近は妖艶さが増したなどと言われるけれど、私にはその価値が分からない。
 でもアイドルであるうちは、私は自分の存在を確かめることが、できている。

 そして、アイドルではない、私。
 なにもないただの高垣楓に、どれほどの価値があるというのか。
 存在を認められる私と、存在を黙殺する私と、二律背反が心の中にあり続けている。
 きっかけがあれば簡単に壊れてしまう私を、今この場にとどめているのは確かに、Pさんの存在なのだ。


 Pさん。私は。
 アイドルでいられていますか?
 私で、いられていますか?

 私はいつだって、Pさんを呼び続けている。求め続けている。でも。
 あなたが、いない。
 その事実を突きつけられるたび私は、心の中で慟哭する。泣いて、泣いて。泣き疲れて。
 そして今日も、眠るのです。

 Pさん、あなたが好きです。
 あなたに、会いたい。
 言葉が、想いが、漂いながら空へ溶け、見えなくなる。
 私はベッドの中でうずくまり、朝が来るのをただひたすらに待つ。そしてまた私は、アイドルへと戻るのだろう。


 朝が来る。
 私は。



「あなたがいない」


(了)


完結です。おつかれさまでした。

このお話はもともと個人誌用に書き下ろした作品で、ほぼ冊子がはけたので記念に投下したものです。
ハッピーエンド至上主義の私が、ハッピーじゃない話を書いてみよう、ということで、自分の持てる限りを尽くして書かせていただきました。

お読みくださりありがとうございます。
読んでくださった方の琴線に触れたら、この上ない慶びです。

ではまたいつか ノシ

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