雲龍「魔法の指輪」 (26)
時計が十一時になったことを知らせてきた。わたしは作業の手をふと止めて、いや、この一枚分だけは終わらせてしまおうと、A4の封筒の裏側へ筆を走らせる。
油紙をぴーっと外して、皺のよらないように、折り目のつかないように、丁寧に接着。これが自分の姉妹に当てたものであれば神経も使わないとは思うけど、生憎相手は雲の上のお偉いさん。提督の代筆であるのだから猶更適当にはできない。
諸々の確認。送り先は防衛省。宛名は深海棲艦対策部の第二技術課、特務開発室。室長の丹原様まできちんと。よし。
技術課の第二は、確か火砲や魚雷以外の艤装を扱っている。そこの特務開発だから、きっと新規で生産されたなにかについて。うちの泊地も随分とひとが増えてきたのでそれについての具申かもしれない。
そういえば、潜水艦のコたちが、今の艤装は泳ぎにくいと言っていた。それだろうか。
「あ」
表面の左上、切手を貼るのを忘れていた。いや、違う。そういえば切手は切らしていたから、あとで出すときにコンビニで買って、余分に沢山ストックしておかないと。
郵便に出す書類が、いまの封筒も含めて四通。防衛省が二通、神祇省が一通、他の泊地への演習願いが一通。机の上の目立つところに置いておく。
立ち上がった。
まだお昼には早いけど、この時間に談話室で軽い昼食をとることに決めていた。窓際のソファに、この季節だとちょうど十一時くらいから、暖かな日差しが差し込んできて気持ちがいい。わたしは気持ちいいことが好きなのだ。
おにぎりを二つ持参して、ソファに深く腰を掛けながら、とりあえずそれは小脇に置いて……陽光がわたしの体の左側を照らす。ぽかぽかの陽気に思わずあくびが漏れてしまった。
みんなは今頃海域の半ばくらいだろうか。少し前に、順調に進んでいるとの一報は入っていた。旗艦は青葉。少し心配だけど、心配しすぎるのは彼女に失礼なような気もした。
遠征に出ている二部隊からの連絡はまだない。定時報告は十二時のきまりだ。多摩と天龍は、駆逐艦との付き合い方も心得ているから、平気だと思う。
談話室にはわたし以外誰もいなかった。テレビが寂しそうに通信販売の番組を流している。
非番のコたちは、今日は街まで買い物に行くと言っていた。龍驤が提督からミニバンの鍵を借りていたから、きっと運転していくのだろう。わたしも免許を取ろうと考えたことはあるけど、そう話した三回とも、葛城に止められた。なぜ?
「ふぁ……」
またもあくびが漏れ出てしまう。日差しのなかでのんびりと、うつらうつらしている心地よさは何物にも代え難い。こんな日常が続けばいいと思うし、同時に、こんな日常を護るためにわたしたちは最前線で戦っているのだとも思う。
とはいえ、わたしは今はお休みの番だった。暇を出されているというよりは、時季外れの夏休みのような。
練度が最高まで達してしまったわたしには、出撃の機会は与えられないから。
「……ん」
首をぷるぷると振った。それは少し、いやみな考えだと反省したからだ。提督も意地悪でそう言っているのではない。来たるべきより大きな敵の侵攻に備えて、他のコたちにも経験を積ませるべきと判断した、それだけのこと。そしてわたしもその判断には賛成だった。
「……みんなは頑張ってるかしら」
やっぱりわたしは、こうして部屋で暖まる気持ちよさも勿論好きだけど、海風を全身で切って進む気持ちよさのほうが好き。
でも、こんな憂いもじきに終わる。
提督はいま、東京の方にいる。練度の上限を解放するにあたり、それが初めての者は、一泊二日で研修を受けなければならない。そういう決まりがあるらしい。
面倒くさい話ね。そう言ったわたしに、これくらいで済むなら安いもんさと彼は答えた。
練度が最高に達した艦娘は、これまでは後進育成のために中央へ呼び寄せられることが多かった。もしくは必要に応じて戦力の足りない沿岸部へと送り込まれるのだ。だけど、近年それは変わりつつある。
曰く、最高練度まで達した艦娘は、拠点の重要戦力である以上に精神的支柱でもあるのだから、そう簡単に手放すわけにはいかない……そういう理屈だ。
精神的支柱。わたしは自らの白い髪の毛を、片手で梳いた。本当? 本当にわたしは、そんな存在になれているだろうか。
うちの泊地に正規空母はわたし一人だけだ。以前は加賀と翔鶴がいたけど、どちらも練度の関係で、中央の方へと移ってしまった。二人はとてもできるひとで、こんな田舎で燻っているよりは、そちらのほうがよかったのかもしれない。
おにぎりのアルミホイルを剥いた。談話室の隅には湯沸しポットがあって、備え付けの湯飲みの中に、ティーバッグを一つ。そうして上からお湯を注ぐ。
じんわりと手のひらに暖かさ。湯気が、薄くお茶の匂い。
それぞれ一齧り、一啜りして、ほうと一息。
ぼんやりと、のんびりと、時の流れがゆっくりとした中で、しかし邀撃に精を出しながら生きていくこの生活は、実にわたしの性に合っている。わたしはここがよかった。みんなの模範として、格好いい背中を見せていきたいとまで大それたことは言えないけど。
それでも、やるべきことは多く、やりたいこともまた同じくらいに多く、到底中央のほうへ行くなんて考えられない。
彼が「どうしたい?」と尋ねてきたとき、わたしは拙いながらも、そう答えた。
申請が通ったのは次の日で、東京へと出発したのはその二日後だった。
「……ほんとう、ばかなのね」
おにぎりの海苔の感じがちょっとだけ提督の髪型に似てしまって、思わず笑みがこぼれた。
普段の仕事もこれくらい素早く片付けてくれればいいのに。
体の外から内から暖かい。
もむ、もむと咀嚼。ぞずず、とお茶を呑んで、どちらも綺麗に片付けると、ソファの背もたれに深く体を預ける。
三十分だけ居眠りをして、今日も元気に秘書艦の仕事に戻るとしよう。
* * *
* * *
「ほな、行ってくるわ」
定例の出撃前のブリーフィングを終え、龍驤は片手をあげて軽くひらひらとさせた。頭一つぶん背の低い彼女は、それでもいつでも陽気に元気。ツインテールがゆさゆさ揺れている。
思わず手を伸ばして触ると、恥ずかしそうに「なんや」と訊かれた。
「……? はて」
「はて、やないっちゅーねん」
反撃とでも言わんばかりに龍驤はわたしのおさげを左右に揺らす。なんだかとても愉快になって、笑ってしまう。
「そういえば、おっさんは今日帰ってくるんやったな?」
提督はまだおっさんと言うほどの年齢ではないはずだけど、その呼び方が親密さの現れであることは、鈍感なわたしでもなんとなくわかった。
ツインテールを跳ねさせるのをやめて、わたしは頷く。提督がいないことは当然艦娘みんなが知っているし、その理由も。
「っちゅーことは、明日にはまた雲龍、あんたと組めるっちゅーわけやな。ダブルドラゴンの再結成や」
「龍驤はセンスがからきしだものね」
「誰に! 何を! 納得しとるんや!」
胸をべしべしと叩かれた。必要以上に敵意が籠められた気のする攻撃を無視して、
「いいお酒を買ってくるって言ってたわ。東京で。今夜は昵懇と行きましょう?」
「あほう。とっくにあんたとは昵懇やろうが」
また手をひらひらと振って、龍驤はそのまま大股で部屋を後にした。他の五人をあまり待たせるのも、確かに申し訳ない。
わたしもあまり遊んでいるわけにもいかなかった。それは海に出ているみんなにも悪いし、信頼して留守を預けてくれている提督にも悪い。
わたしは、それから暫しの間、執務室で書類仕事を担っていた。とはいっても、単なるいち秘書艦の権限なんてたかが知れている。判をつけるわけでもなし、閲覧権限のある書類も多い。メールチェックなどはできても、返信は殆ど提督にお願いすることになる。
掃除や書棚の整理はこの間やってしまったし……。
「どうしたものかしら」
と、そこで着信があった。わたしは虚空を二回指先で叩いて、二次元的なバーチャル・ディスプレイを引っ張り出す。
相手は、想像のとおり提督だった。当然即座に出る。
『もしもし、雲龍か。どうだ、変わりはないか』
「はい。万事滞りなく」
『そりゃあよかった。今からバスに乗る。練度の最大値を上げるのは、泊地でも問題なくできるそうだから、執務室で待っててくれ』
「二十分くらい?」
『だと思う。それでな……あぁ、いや、今はいいか』
「なにか?」
『後で話すよ。というか、なんと言ったらいいのか、まとまってねぇ。悪いな』
「いえ。道中、お気をつけて」
『バスの運ちゃんに言っておくよ』
「もう」
『ははは。じゃあな』
「はい」
ぷつり。つー、つー、つー。
メールでのやりとりは昨日もしたけど、声を聴くのは一日ぶり。少し声がお酒に焼けていた? 中央の人たちとでも呑んでいたのかもしれない。
「……ふむ」
気力の充実がここまでしっかりと感じられるのは初めてだった。また、前線に出られる。
戦いは好きではない。みんな仲良くするのが一番いい。それでも、わたしの仲の良いひとたちのためならば、戦うこともやむなし。
浮かれた気分で過ごしていると、二十分程度なんてあっという間だ。
堂々としたノックが二度されて、扉の外から野太い男の声「入るぞぉ」。自分の部屋なんだから、わざわざマメにしなくてもいいと思うけど、性分はそう簡単に買えられるものではない。わたしも「どうぞ」と気軽に返す。
提督がスーツケースをひいて入ってくる。以前と変わった様子はない。当たり前か、だって二日しか経っていないのだから。
「お疲れ様でした」
ありがとうございましたと迷って、結局わたしはそちらを択んだ。
「他の奴らは海に?」
「非番のコたちは市場に行くと言っていたわ」
「市場? なんでまた」
「さぁ……?」
「そうか。出撃は、今日は?」
「龍驤が旗艦で出撃中です。天龍と多摩が、いつもどおり」
「なるほど。まぁ、何事もないようでなによりだ」
提督は言いながら、鞄から封筒と小箱を取り出した。封筒は白くA4サイズで、小箱は濃紺の、布張りの、高級感のある。
なんだろう? というのが率直な感想だった。
「あー、んー」
唸った。喉の調子を整えているのかとも思ったが、顔を見るにどうやらそういうことではないらしかった。
「どうかしましたか」
見るに、それが練度の最大値を底上げする書類一式だということは間違いないだろう。ただ、提督が電話口でも言っていた通り、言いにくい「なにか」がそこにはあるようだ。
「ちょっと悪趣味なんじゃねぇかとは、思うんだがな」
と、提督はそう前置きして、封筒に入った書類を読み上げる。
「雲龍。お前はこれまで随分と頑張ってくれた。そして、お前はこれからも、頑張ってくれると言う」
「ここで」。噛み締めるように提督は言った。
わたしもじんわりと心の内が熱くなって、自然と直立の姿勢をとる。
「その気持ちに最大限の感謝を送るとともに、今後により大きい期待をしたい。お前はいまやうちの泊地の顔だ。泥を塗るな、しゃんと胸を張れ、格好のいい背中を見せろ――そんなことを押し付けがましく言うつもりは、俺にはねぇ。
理想論かもしれねぇが、お前がお前らしいままで任務にあたれればいいと思うし、そのために俺は尽力するつもりだ。
つまりは、んー、なんだ」
ぽりぽりと頭を掻く提督に、わたしは少しだけ、いじわるがしたくなった。
「これからよろしくお願いしますね」
「ん。まぁ、そうだな。そういうことだ」
恥ずかしげに差し出された、そのごつごつとした手を、わたしがとらない理由はどこにもない。硬く握手を交わす。
「でも、なにが悪趣味なの? とてもそうは見えなかったけど」
「そっちの箱が問題でな。いや、別にいいんだが。俺は。俺はな?」
手に取る。小さい。軽い。
「開けても?」
「……あぁ」
かぱり開くと、中にあったのは銀色の指輪。……指輪?
「あの、これは提督からの……?」
「違う! 違ェよ!? だから――ああもう!」
ケッコンカッコカリ、というらしい。
書類一式と、指輪が提督には適宜配布される。それはあくまで形式的な代物であるらしく、機能的には単なるシルバーメッキのリングに過ぎない。
提督はそれを悪趣味と評した。さもありなん。わからないでもなかった。
「いや、意義はわかるよ、意義は。そっちのが箔はつくわな」
何も戦略的に価値の高い泊地/鎮首府がよい組織なのではない。それは所属人数もまた然り。組織の長が好人物なら、そのひとはよい組織を作るだろう。よい組織は有能な人材を育てる。そして定着率もいい。第二の故郷として愛を抱く。
わたしのように。
指輪はいわば証明なのだ。組織への愛。仲間への愛。そして、……提督への愛。
「なぁんだ」
妖艶に見えるように、意図して笑ってみる。
「求婚されたかと思った」
「冗談も休み休み言え。こんな階級を盾にできるわけねぇだろうが」
「いい艦載機をくれるんなら、考えてあげてもいいですよ?」
「関係なしにくれてやるよ。いずれな」
「いずれ。ふふ」
わたしは笑った。笑って、折角なのだしと、左の薬指につけてみる。すんなりと嵌った。
「おい、雲龍」
勘弁してくれとでも言わんばかりの提督。あんまりいじめるのもかわいそうだったので、箱の中へと戻した。
実際問題戦闘中に落としても、安物だとは思うのだけど、気分もよくないだろう。身に着けるならチェーンでもつけて首から下げる方が無難かもしれない。
「これでおしまいですか」
「そうだな。申請は通ってる。システムに反映されるのは明日以降らしいから、出撃は今日はだめだ。明日にするか? それとも、明日は一日、感覚を取り戻す日にするか?」
「いえ、大丈夫よ。明日から。明日から、出たい」
「そうか。なら覚えておくよ。今日はもう下がれ。二日間、仕事を任せて悪かったな」
「いえ、そんな」
謙遜ではなく、本当に、大したことはしていないつもりだ。
「助かった。編成が決まり次第、声をかけるよ」
これ以上食い下がる理由はなかった。封筒と指輪の箱を手に、わたしは一礼、そのまま執務室を後にする。
* * *
* * *
談話室はどんちゃん騒ぎだった。提督の研修を労う会であり、わたしの復帰を祝う会であり、なにより呑みたい人間が酒を呑む会である。
提督は、やはり疲れが溜まっていたのだろう、缶ビールを一本空けるとすぐに横になってしまった。顔を少しだけ火照らせて、小さく寝息を立てているその姿は、普段の眉間にしわを寄せた表情からはあまり想像できない可愛らしさだ。
敷いたビニールシートの上では龍驤が一升瓶から手酌でコップに酒を注いでいた。隣に伊勢と響がいて、三人ともかなりできあがっているらしい。
多摩と榛名、何人かの駆逐艦がテレビ番組で盛り上がっている。中世魔女狩りを題材にした歴史ドラマのようだった。
天龍は缶チューハイを困った顔で見つめている。下戸なのだ。
わたしはソファに深く腰掛け、ぬる燗をちびちびやっていた。首から下がった指輪は目立たないように服の下へと潜り込ませてある。少し気になるけど、気になりすぎるほどではない。
体が内側から暖かい。ほかほかして、どきどきする。たまにむずむずすらして、落ち着かない。
「ね、ね、雲龍さん! 中世では魔女は火炙りだったそうでひゅよ!」
興奮した様子の榛名。酒のせいもあって、少し呂律が回っていない。
「可哀しょうですよね! ね!」
「そうね。冤罪はよくないと思う」
「雲龍さんは魔女ってほんもにょだったと思いましゅか? 本当に魔法使えちゃ人がいるって」
「魔法。魔法ね……」
酩酊の霞がかかり始めた頭で考える。その質問自体に対した意味がないとは知りつつも。
だけど、こんなにもオカルトと科学の融合であるわたしたちが、魔法などのことを考えるのは不思議なような気もした。魔女と艦娘。そこに大した違いはないのではないか。
そんなことを言うと、酔った榛名は子供っぽく頬を膨らませた。
「違います! 魔法ってのは、こう、もっと、なんていうんですか、きらきらしてて甘い感じのやつなんです! どきどきしてて楽しいやつなんです!」
なるほど?
……なるほど。
榛名の言葉はとても抽象的だったけど、だからこそ訴えかけてくるものがあった。きらきらしていて甘い。どきどきして楽しい。それが魔法だというのなら、確かに艦娘は、油と鉄でできている。あと、少しの火薬とボーキサイト。そういった要素とは無関係だ。
だからわたしの答えは決まっている。
「魔法使いは知っているわ」
「え?」
榛名のこたえを待たずにわたしはソファから立ち上がった。ずんずんと談話室の隅まで進む。急に立ち上がって動き出したわたしは注目を集めるけど、それよりもまずやらなくてはならないことがあった。
尋ねなければならないことがあった。
そこで寝ている提督に。
わたしは知っている。この暖かさが日向のものでなければ、ぬる燗によるものでもないことを。
頬をべちんべちんと三度叩いて、むりやりにでも起こす。提督は目をこすりながら重たそうに上体を起こし、「どうした?」だなんて寝ぼけたことを訊いてくる。実際寝ぼけているのかもしれない。
でも、その台詞を言う権利は、まずはこちらにある。
「提督、あなた指輪に魔法をかけたわね」
あなたに指輪をもらってからこの、胸の動悸はそのせいなのだ。
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おしまい
リハビリその2
実は提督はケッコンとは別に指輪を東京で用意していたんだけれど、渡すことができなかったのである。
彼の執務室の机の抽斗の中には、いまも指輪が日の目を見るのを待っている。
過去作もよろしくどうぞ。
ノーマルのSS速報にスレを立てると、なぜかエラーが出てRのほうに立つ現象が起きてまして…
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