【たぬき】小早川紗枝「古都狐屋敷奇譚」 (301)
モバマスより小早川紗枝(きつね)、小日向美穂(たぬき)、塩見周子らの事務所のSSです。
がっつりめの独自設定、ファンタジー要素、「有頂天家族」とのクロス要素などありますためご注意ください。
この辺りの作品の続編です↓
小日向美穂「こひなたぬき」
小日向美穂「こひなたぬき」 - SSまとめ速報
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塩見周子「小早川のお狐さん」
塩見周子「小早川のお狐さん」 - SSまとめ速報
(https://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1510159749/)
小日向美穂「空と風と恋と山と街と狸と人と」
小日向美穂「空と風と恋と山と街と狸と人と」 - SSまとめ速報
(https://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1513350021/)
塩見周子「お狐さんって怖いものとかあんの?」
塩見周子「お狐さんって怖いものとかあんの?」 - SSまとめ速報
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【 序章 : 狐隠し 】
◇周子◇
「プレゼントだって?」
あたしの相談に、プロデューサーさんは目をまんまるに見開いた。
「誰が?」
「あたしが」
「誰に?」
「紗枝ちゃんに」
「え……あ……あぁ、おぉ~」
「何その顔。言いたいことあんなら言わんかい」
あんまリアクションでかいとあたしも恥ずいやんけ。
とはいえ、そうなのだ。
プロデューサーさんだって先刻承知のはずで、意外そうな顔の後にはすんなり話を呑み込んだ。
「……そっか、もうすぐだもんな」
「そゆこと。シューコちゃんにもそれくらいの甲斐性はあんのよ」
「いやでも、俺に相談するのかよ。女の子の方がよっぽどセンスあるだろそういうの」
「そんな頼りないこと言わんといてよー。紗枝ちゃんをプロデュースしてるのは誰よ? コーデとか考えんのも得意なんじゃない?」
「まあ、それはそうかもしれんが……」
「……あと寮に隠し事できそうな子いないし」
「そうだな……!!」
大いに合点がいったようで結構。
そう。10月18日は紗枝ちゃんの誕生日だ。
うちの部署では誕生日を迎えたアイドルをみんなで祝うことにしている。
寮の食堂に集まってケーキを食べたり、プレゼントをあげたり。何かしらイベントが挟まるとかでない限りはずっとそうだ。
直近では加蓮ちゃん、奈緒ちゃん、アーニャちゃんの誕生会があったり、まゆちゃんの誕生日でぐるぐる巻きのプロデューサーさんがプレゼントにされかけたりと色々あった。
でまあ、あたしとしても紗枝ちゃんとは浅からぬ縁があるわけで。
これを機に、日頃の感謝を込めて……と言うんじゃないけど、まあ大体そんな感じ。
〇
「漫画とかでさぁ、よくあるじゃん」
「何が?」
「ほら。男女二人が連れ立って歩いてて、すわデートか!? と思ったら実は別の子のプレゼント探してましたみたいなオチ」
「あー、ラブコメとかでよくある……」
完全に他人事だったプロデューサーさんがはたと気付いて、
「……今それ言う?」
「漫画みたいやなって思って。まゆちゃんとかに見られへんといーねぇ♪」
いっちょ腕でも組んだろかな……ってのは冗談として。
百貨店あれこれ見て回っているうち、気になるコーナーに行き当たった。
簪売り場だ。
紗枝ちゃんは色んな簪をコレクションしていて、その日の気分や着物の柄に合わせて使い分けてる。
髪を梳かしながら、今日はどの簪を使うのか選ぶのが毎朝の楽しみって聞いたことがある。
……うん、いいかも。
二人してああでもないこうでもないと話し合って一本を決める。
ギフト用にラッピングしてもらって……と。
「――いやー決まった決まった! 一仕事終えた後の甘味が染みるね~」
「ナチュラルに奢らせるよね君。まあいいけど」
前から目を付けてたあんみつパフェのお店で一息。
あとはこれで本番を待つばかりとなったわけだ。
「あ」
と、お茶飲んでたプロデューサーさんが声を上げる。
「ん、どしたん」
「なんか、思い出した。大したことじゃないんだが」
「なに?」
「俺、紗枝に名刺渡したことないんだよな」
そういえば。
紗枝ちゃんはあたしについて上京し、そのままアイドルになったわけで。
だから名前も連絡先も普通に知ってるし、名刺を渡す必要が無いまま今に至るんだ。
「いんじゃない名刺。誕生日に一枚あげとけば?」
「いやプレゼントが名刺っておかしいだろ。ちゃんと別に用意してるっつの」
言いつつ、プロデューサーさんも自分が渡す用の包みを持ってる。
考えてみれば、改めて何か贈り物をするっていうのが初めてなような気がする。
そう思うとにわかに緊張してきた。
……喜んでくれるかねぇ?
あーいかんいかん、あたしっぽくない。あとはなるようになれだ。
そんなこんなで、当日が来る。
◆◆◆◆
―― 10月18日 女子寮
みく「せーのっ」
一同『紗枝ちゃん、お誕生日おめでとう!』
紗枝「まぁ~。皆はん、おおきにな~」
美穂「紗枝ちゃん、おめでとうっ! これ良かったら使ってっ」
芳乃「今日の良き日に立ち会えしことー、心より嬉しく思いまするー」
蘭子「遍く闇夜の獣達が、汝の産声に祝福を捧げているわ!」
菜帆「あ、これとっておきの羊羹です~。これからもよろしくお願いしますね~♪」
ワイワイ ガヤガヤ
紗枝「あやや、こないぎょうさん……。もぉ持っとるだけでも一苦労やわぁ♪」
周子「やっほ紗枝ちゃん、おめっとさーん」
紗枝「あら、周子はん」
周子「てことで、はいこれシューコちゃんから。良ければ使ったって」
紗枝「これは……青牡丹の簪どすか?」
周子「そうそう。紗枝ちゃんっていつもはピンクとか赤系のをよく使ってるからさ」
周子「たまにはこういう色をコレクションに加えてみるのも、一興か……みたいな?」
紗枝「おぉ~……せやったら、こうして、こうやって」ヒョイヒョイ
紗枝「うふふっ。似合いますやろか?」
周子「おお、似合う似合う!」
未央「かわいい!」ニュッ
茜「いいですねぇ!!」ニュッ
藍子「一枚撮ってみましょうかっ♪」ニュッ
ワイワイ…
P「おめでとう紗枝。これは俺から」
紗枝「まあ、松栄堂の掛け香! 京を思い出すわぁ、おおきになぁ♪」
楓「プロデューサー、もう一つの方はよろしいんですか?」
P「もちろん言いますとも。この為に資料もまとめてきたし」
周子「もう一つ……?」
P「うん、実はな――」ゴソゴソ
P「周子と紗枝の、新しいデュエット曲が出来ているんだ!」
周子「へぇえ……?」
紗枝「ほぉお……?」
周子「――って新曲ぅ!?」
P「曲自体はちょっと前にほぼほぼ出来上がってたんだけどな」
P「せっかく紗枝の誕生日なんだから、これもサプライズプレゼントってことで」
周子「あたしなんも聞いてないんだけど!?」
P「相方が知ってたらサプライズ半減だろ」
紗枝「あらあらあら、まぁまぁまぁ~」
周子「あは、あははっ、粋な真似しちゃってこのぉ!」グリグリグリグリグリ
P「はっはっはそうだろ周子ギブギブ痛い痛い」
奈緒「やったじゃんか二人ともっ! あたしも楽しみにしてるよ!」
まゆ「まゆ達にお手伝いできることがあったら、なんでも言ってくださいねぇ」
P「もちろんステージも用意してある。悪いがこれから大変だぞ」
周子「はぁ~もう、悪い大人なんやから……寿命縮むわまったく」
美玲「よく言うよ。楽しみでしょうがないって顔してるぞッ♪」
紗枝「せやったらうちまた、周子はんと一緒に歌えるんやなぁ~」
周子「そっか。こないだの春フェス以来だし、デュエットとなると、ひのふの……」ユビオリ
周子「……さてはナマっちゃいないだろうねぇ、お紗枝はん?」ニンマリ
紗枝「んふふ、それはこっちの台詞どす~♪」コンコン
◆◆◆◆
◇周子◇
それから数日はみっちりレッスン詰めだった。
……道理でここんところのスケジュールが空き気味だったわけだ。うまいこと調整してくれたもんやね。
羽衣小町の『美に入り彩を穿つ』は、和風テイストの入ったロックナンバーだ。
疾走感のある曲調には相応の振り付けもついてくる。更には、いわゆる舞の要素も入るわけで。
ただ激しいだけでなく時にたおやかに、緩急をつけた優雅な動きを実現しなきゃならない。
ここらへんであたしは手こずった。しかもソロならともかく今回はデュエットだ。
扇子の使い方は自分の曲で多少心得があるけど、今回はまた細部が違う。まさに「細を穿つ」集中力が必要ってわけ。
「周子はんは、まだちぃと動きが急いではるようやなぁ」
「マジかぁ」
汗を拭きながら作戦会議。
舞ではやっぱり紗枝ちゃんに一日の長があるようで、レッスン場でトレーナーさんに絞られながら休憩室で彼女のアドバイスも聞く。
一方で紗枝ちゃんはテンポの速い動きが苦手で、そこはあたしがサポートしながら二人三脚でやってる。
この舞は一人と一人じゃできない。二人がシンメトリーになってようやく成立するものだ。
と、そこに美穂ちゃん達がジュースの差し入れを持ってきてくれた。
「それにしても、やっぱり紗枝ちゃんって舞が上手なんだね。なんていうか、ひらひら~って感じで!」
「うふふ、おおきに♪」
「まさに天上の舞踊ぞ!」
「京にお師様がおられたのでしてー?」
芳乃ちゃんの質問に、紗枝ちゃんは照れくさそうに小首をかしげた。
「ちゃんとした先生は持ったことあらしまへん。ほとんど独学みたいなものなんよ」
「独学?」
「芸妓のお姉はん達の稽古を盗み見たり……街で、たわむれに触りだけ教えてもろたり。まぁそんなようなものやなぁ」
「ほー……そうとは思えぬほど、習熟しておりまするがー」
「時間だけはたんとありましたさかい。けど、どこかの稽古場に入るのだけはあかんかったんよ」
言って紗枝ちゃんは手で狐を作り、茶目っ気たっぷりに笑ってみせる。
「なんとなればうち、『これ』やさかい。こん♪」
さらっと言いはしたけど、ただの酔狂でここまで続くものでもないだろう。
あたしはいつか鴨川沿いで見た狐の舞を思い出していた。
「うちがまだちっちゃな仔狐やった頃、舞を教えてくれたお姉はんがおってなぁ」
もうすぐ休憩時間が終わる。
紗枝ちゃんはスポドリで喉を潤して、束の間の回顧をこう締めくくった。
「それがあんまり楽しかったから、今でもやめられへんのよ。あのお人は今、どこで何してはるんやろ」
◆◆◆◆
◇紗枝◇
「この、恋の一途を、胸の痛みを……」
歌に合わせて、ちん、とん、しゃん……。
寮のおつかいの帰りに、公園でちぃとばかしお稽古。
遠回りしてもうたけど、目当ての品も買えたことやし……あとは帰って渡すだけや。
「んー、墨絵の……こればっかりは、なんや不吉やなぁ」
龍は好かへん。恐ろしいもんやとお父はんから教えられて、見るのも嫌になってもうた。
……けど今回ばっかりは、そうも言ってられへんわ。
言の葉をきっちり呑み込んで、うちも一歩前に進まへんとあかんのやと思います。
そういえば――お父はん達はどうして、龍を畏れるようになってもうたんやろ。
小早川の父祖に龍にまつわる因縁があったんやろか?
具体的な曰くいうんは、とんと聞いたことがあらしまへん。
一度も言うてくれへんかったし、うちも自分からは聞けへんかったけど……。
けれど気にしたかてしょうのないことやね。
うちは今、家から勘当されてもうた身やさかい。
「逢いたい、涙が、冷めぬ間に――」
と。
秋にしても冷える風が吹いて、それはなんや、懐かしい香りがしよる。
背格好も服装も何もかもばらばらな老若男女が、いつの間にか周りに、ずらっと。
みんな、和紙で編まれた狐面を被ってはります。
誰もなぁんも言わんと、覗き穴の向こうから金の目を光らせるばかり。
「――ああ、そうなんや」
それだけで、全部を察してしもうた。
「もう、潮時なんやねぇ」
◆◆◆◆
小早川紗枝が行方不明になった。
◆◆◆◆
―― 翌朝 事務所
ザワザワ バタバタ
ちひろ「いましたか!?」
美穂「い、いえ、どこにも……!」
卯月「ひょ、ひょっとして何か、大変なことに巻き込まれちゃったとか!?」アワワ
小梅「あの子も、飛んで探してみたけど……近くにはいないって……」
加蓮「電話しようにも、スマホはここだもんね」
美玲「近くの公園に買い物袋ごと落ちてた。アイツ、お遣いに行ってたんだ」
響子「そんな、私が頼んだから……!」
由愛「きょ、響子さんの責任じゃないです……! 私が一緒に行ってれば……」
周子「…………」
凛「ねえプロデューサー、やっぱり警察に通報しよう。こんなの普通じゃないよ」
P「いや、もう少し待ってくれ」
P「……芳乃、わかったか?」
芳乃「…………むー…………」
芳乃「いささか距離がありますゆえ、細かな位置まではまだー……」
美穂「大雑把にならわかるの!? ど、どこっ!?」
芳乃「はいー。これだけは、間違いなきことですがー……」
芳乃「紗枝さんは、京都に戻っておられますー」
美穂「きょ」
一同『京都!?』
P「京都か。ちひろさん、すみませんが後は頼みます」
ちひろ「行くんですか?」
P「スマホも買い物もほっぽっていきなり帰省なんてありえませんからね。志希でもそこまでしない」
P「すぐ探さないと。……芳乃、一緒にいいか?」
芳乃「是非もなくー。行くなと申されましても、ついてゆく所存でしてー」
P「みんなはいつも通りにしててくれ。事務所の運営に穴を開けるわけにもいかない」
P「新幹線の時間は……最悪向こうに宿を取って……それじゃあ行ってき」
美穂・蘭子「待ってぇーっ!!」ガシィーッ
P「グワーッ!?」ビターン
凛「顔からコケた……!」
美穂「わ、私も行きますっ! 紗枝ちゃんを放ってなんておけません!」ガシィーッ
蘭子「魔道を分かつなかれ! 我もあの者の盟友なりーっ!」ヒシィーッ
P「ふぉ、ふぉまえふぁふぃ……」
周子「あたしも行く」
周子「プロデューサーさんの言う通り、こりゃ只事じゃないよ。また何かおかしなことが起こってるかも」
P「……」
周子「まさか芳乃ちゃんだけ連れてって、ユニットメンバーを置いてくなんて言わんよね?」
美穂「そうです! 私と蘭子ちゃんだって同じなんですからっ!」
蘭子「……!」コクコクコクコク
芳乃「ふふ……そなたー、三人もこう仰っておりますがー」
P「来るなって言っても……か。わかった、一緒に行こう」
響子「本当に気を付けてくださいね……っ」
まゆ「プロデューサーさん達に何かあったら、まゆ……」ズモモ
P「大丈夫だよ。ちょっと行って探してくるだけだから」
智絵里「そ、そうだっ。茄子さんや楓さんに連絡すれば!」
P「いや、あの二人はちょうど遠方でロケだ。邪魔するわけにもいかない」
菜帆「京都はたぬきがたくさんいるって言いますから~。どうか化かされませんように~」
周子「大丈夫だいじょーぶ、そういうの慣れてるから」
周子「なんならついでにウチの和菓子土産にするよ。ほんじゃねー」ヒラヒラ
菜帆「周子ちゃん、あんまり気にしてないみたいですね~。ちょっと心配してたから良かったです~」
P「この時点じゃまだ何もわからないからな。今から気負ってちゃ身が持たないさ」
周子(…………)
◆◆◆◆
◇周子◇
かくして、急遽生まれ故郷へと向かうことになったわけである。
最速で取った京都行きの新幹線に乗りながら、あたしは昔とは逆戻りの車窓を眺めている。
あの時は隣に紗枝ちゃんがいて、外に見える浜名湖や富士山にはしゃいでたっけ。
持っていく荷物はハンドバッグに納まる程度だった。何日もいるなんて思ってないし。
手近なものを詰め込んだ程度の中身をチラ見して……。
「周子ちゃん、食べる?」
と、隣から美穂ちゃんが駅で買ったおにぎりを差し出してくる。
ありがと、と受け取る。おかかだ。アタリ(何入っててもアタリだけど)。
「……ほんとに大丈夫?」
「ん? んー、だいじょぶだいじょぶ。急に帰省しちゃって、どんな文句言ったろかなーて思ってたとこ」
「そう? ならいいんだけど……」
言いつつ、美穂ちゃんはバッグの中を見ている。
シンプルなハンドバッグには不似合いな感じがする、一輪の花を。
紗枝ちゃんは寮近くの公園で消えた。
買い物袋がそっくりそのまま落ちてたんだ。
中には頼まれてた食材や日用品の他に、一つだけ別のお店でわざわざ探してきたらしいものが入っていた。
赤牡丹の簪。
どこかの誰かさんとお揃いを意識した、色違いの花飾りだ。
【 序章 ― 終 】
一旦切ります。
長くなるため、以降の更新は随時ゆっくりめになると思います。
【 前編 : 京都まやかし迷路 】
◇周子◇
京都駅はあの日発った時から変わらず、秋風が大階段を吹き抜けていた。
「……まさかホントに帰郷することになるとはねぇ」
「こ、ここが、京都……」
「この魔王の第六感(センス)にも、悠久の歴史に根差す確かな妖気が響いているわ……」
「そこで饅頭売ってたけど超うめぇわ」
「そなたっそなたっ」
「お、芳乃も食うか。はいあーん」
何食っとんねん。
いや、うまいけどさ。宝泉堂の賀茂黒。
「まあ今からそう気を張るなよ。ほらみんなもお食べ」
「わぁ……! ほんとにおいしいです!」
「漆黒の宝珠!」
さて故郷の和菓子も頂いたところで。
せっかく帰ってきたのに悪いんだけど、あたしらが目指すのは最短距離だ。
とにかく紗枝ちゃんを見つける。
そんで、一緒に東京に帰る。できれば今日中に。
それ以外に道は無い。あるもんかい。こちとら新曲控えとるんやから。
「芳乃ちゃん、どう?」
連絡手段が皆無な以上、頼みの綱は芳乃ちゃんの「失せ物探し」の力だけだった。
京都タワーを見上げながら、芳乃ちゃんは一歩踏み出す。
駅前広場の雑多な空気を肺いっぱいに吸い込み、目を閉じることしばし――
「――感じまするー」
「マジ!? どこ!?」
「それはわかりませぬー」
ズルッとなった。
芳乃ちゃんは虚空に視線を巡らせて、たぶん彼女にしか見えない無数の「糸」を辿っているようだった。
「やはりー……以前にも感じました通り、ここの気はたいそう複雑怪奇に絡み合っておりますー」
「そうなの、芳乃ちゃん?」
「はいー。地には人、森に狸、空は天狗……あらゆるものの気脈が混ざり合い、大きな流れとなって都と共にありー……。
各所に構えられし神域の数々が、それらの要所となっているのでしてー」
「ふおおお……!?」
蘭子ちゃんのテンションが上がっとる。無理もないか。
普通に暮らす分にはなんてことのない地元だったけど、見る子が見りゃそうなんのか……。
「それじゃあ、紗枝ちゃんの……」
言いかけて、訂正する。
きっとあの子個人のと言うより、もっとわかりやすい指標というものがある筈だ。
「狐の気配は?」
芳乃ちゃんはしばらく黙っていた。
まるで彼女自身が一つの小さな器となって、京都の風や光、匂いや気配を全身に透徹させようとしているみたいだった。
やがて、ぱち、と目を開ける。
「まずはひとつ、やらねばならぬことがー……」
「やらなきゃいけないこと?」
芳乃ちゃんは浮き上がるように歩を進め、あたしを振り返って微笑んだ。
「周子さん。紗枝さんと一緒に遊んだ場所などを、ご紹介していただきたくー」
〇
人間ながら京のバケモノにはそこそこ事情通のつもりなあたしだけど、狐たちのことは生憎ほとんど知らない。
どうやら彼らは自分の住処や能力、生態など全てにおいて徹底的に秘匿主義を貫いているらしい。
仮に詳しい者がいるとすれば狸界でも相当の大物か、はたまた本物の天狗様くらいだろうけど、そっちへのパイプは持たなかった。
知っているのはせいぜい話半分の噂くらいだ。
曰く、陰険。
曰く、タチが悪い。
曰く、冗談が通じない。
曰く、祟るし隠すし呪うし化かす。
「最悪じゃねーか」
茶団子を食べながら、プロデューサーさんがひどくげんなりした。
「やーまあ、実際どうかは蓋開けてみなきゃわからんことだけどね」
「私、お狐さまって紗枝ちゃんしか知らないけど、ほんとにみんな怖いのかなぁ」
「ほー。なるほど、ここにもたぬきさんが数多く行き交っておりましてー」
「我おうどん好き」
忠僕茶屋でああでもないこうでもないと会議しながら、あたしはいつかここに紗枝ちゃんと来た時のことを思い出していた。
道行く人々の正体当てゲームをしたんだ。
きつねうどんをはふはふ頂く蘭子ちゃんを見ながら、ふと対面の芳乃ちゃんに身を乗り出す。
「でもさ、昔あたしらが行ったとこを辿ってどうなんの?」
芳乃ちゃんは湯飲みを両手に持って、ずずずと啜りながら鷹揚に答える。
「辿るべきは、縁なればー。この入り乱れたる流れにて、そなたと紗枝さんの『色』を知らねばなりませぬゆえー」
たとえば、大黒町のダーツバー。
たとえば、道端の献血車。
たとえば、鴨川沿いの並木道……。
それは、あたし自身の記憶を辿る旅のようでもあった。
いつか来た場所を次々に巡り、そこかしこに染み付いた過去の匂いを嗅ぎ取るような。
ぴた、と芳乃ちゃんが足を止めた。
「芳乃? どうした?」
「ふむー……なにやらかぐわしき、香の薫りがー……」
「お香? どこからするの、芳乃ちゃん?」
ピンと来た。
人でも狸でも天狗でもない、それはきっと何か京の「表」とは異なるものの気配のはずだ。
「芳乃ちゃん、それ辿れる?」
「おまかせあれー。わずかばかりながらー、こちらからー……」
下駄をからころ鳴らしながら歩きだす芳乃ちゃん。
道行を導くのはこっちからあっちに交代となった、鴨川を下る形で川沿いの道をぽてぽて南下していく。
「これが、京都なんだね……」
美穂ちゃんは今と古代の色が混ざった街並みを見て、感慨深げに溜め息をついた。
「いつか行きたいと思ってたけど、こんな形でなんて思わなかったなぁ」
「どーせなら凱旋といきたかったとこやけどね。ま、しゃーないしゃーない」
「我らが使命を果たせしあかつきには、いずれ必ず完全体となりてこの地を支配せん!」
やがて五人は河合橋の中腹に差し掛かる。
高野川と合流する鴨川デルタにはちらほらと人がいる。ほんのりと赤や黄色を纏い始めた木々が風に揺れ、秋の冷えた川面がその色を写し取っている。
季節の変わりゆく音を聞いた気がして、あたしはいつかの春を思い出す。
あれは桜の花弁が五分咲きに広がる、少し肌寒い宵だった。
ここは紗枝ちゃんを見つけた最初の場所だ。
あの時まだあたしの髪は黒く、あの子の髪は銀で、お互いに退屈を飼い殺す一人と一匹の阿呆だった。
見上げる秋空に雲はなくて、夏より薄くなった青が絵の具のように広がっているのが見えた。
寒くなるにつれて空も太陽も遠くなる。でもこのくらいの距離感が、あたしには心地がいい。
ふいに頬で雫が弾けた。
「つめたっ。……え、水?」
「なんだ、雨か? こんなに天気がいいのに……」
プロデューサーさんもいぶかしげに空を見上げた。突如現れた雨滴は冷たかった。
さあっ――と降り注ぐにわかな細雨。きらきらと青空に映える様が光のカーテンのようだ。
「雨? 雨なんて降ってます?」
「水精(ウンディーネ)の恵みはもたらされておらぬが……?」
美穂ちゃんと蘭子ちゃんは、雨なんて何のこっちゃという顔をしていて。
しまった。
「!」
芳乃ちゃんが身を翻し、こちらに両手を伸ばす。
「そなた、周子さん、わたくしに手を――――!」
遅かった。
いつかと同じだ。誘い込まれたんだと咄嗟に察した。
寸前、芳乃ちゃんが自分の髪を引きむしるようにほどいた。
頭のリボンと、首の髪紐。しゅるりと宙を泳ぐそれらがギリギリであたしとプロデューサーさんの手に渡り。
ぴしりと世界の層がズレる感じがして、二人だけがいなくなる。
◆◆◆◆
すーっ、ぱたん……。
ひとりでに襖の開いていく音が、無限の座敷に延々と響いていた。
「な、なんだ? さっきまで外にいなかったか!?」
「……プロデューサーさん。あたしらどうやら、二人だけ呼ばれたっぽい」
この場所は知ってる。一度だけ招かれたことがある。
もっとも紗枝ちゃんがいなければ危なかった、相当ろくでもないご招待だったようだけど。
「ここ、狐の屋敷だよ」
プロデューサーさんがぐっと緊張する気配。
あたしも似たようなもんだ。前回と違うのは、こっちから来る意志があったってこと。
「ここに紗枝がいるってことか?」
「……多分。でもどうだろね。あんまり穏やかなことじゃないかもしれへん」
縦長の座敷は無限に連なってどこまでも続いている。果てがどうなっているのかは知る由もない。
行燈の光が闇をほんのり照らして、壁にかけられた無数の狐面がじっとこちらを見ていた。
「紗枝ちゃん!! ここにいんの!?」
……し~ん、ってなもんか。
まあ簡単に返事されるなんて思っちゃいないけど。
「先に進んでみよう」
「ちょい待ち。この先行ってもなんもないよ。ずーっと座敷が続いてるだけ」
「しかし、ここにいるだけじゃどうにもならんぞ」
「うん……一回、試してみたいことがあんのよ」
あたしは真後ろを向いた。そこにはやっぱり襖があって、ぴっちり閉ざされている。
あの時は前にだけ進んでドツボにはまった。きっと今回もそうだろう。なら、その逆は?
最初から逆行してみればどうなる?
「周子……!」
「大丈夫。あたしに任せ……てっ!」
たんっ!
開いた先の空間に息を呑んだ。
当たりと言えば大当たり、けれどそれが吉と出るかはわからず、相手はきっと先刻ご承知で。
向こうの壁も見えない大広間に、狐面を被った老若男女が何人、何十人、何百人と立ち、こっちをじいっと見つめていた。
「……!」
「周子、俺の後ろに!」
プロデューサーさんが咄嗟にあたしを下げさせる。
狐面は誰も何も言わず、無感情な朱塗りの顔をこくりと傾げる。水を打ったような静寂。息をしているかさえ怪しい。
「ようこそ、おいでくださいました」
狐面が口を開いた。水瓶の中をぐわんぐわん反響するような声は、誰が喋ってるものか知れたもんじゃなかった。
「貴方様がたのお話は、お姫(ひい)様よりようく聞き及んでおります」
「ご足労いただき、まことにご苦労様でございました」
「しかしながら、当家はただいま大事な儀式の準備中でございまして」
「満足なおもてなしも出来ぬこと、まずはお許しくださいませ」
そんな話を聞きたかったんじゃない。
お姫様ってのは、間違いなく紗枝ちゃんのことだ。
プロデューサーさんは一応の礼を返し、懐の名刺入れを取り出そうとしてやっぱりやめた。
「ご丁寧にどうも。そこまでご承知でしたら、我々がお宅を訪ねた理由もおわかりでしょうが……」
「無論のこと、承知しておりますれば」
「なれど当家の問題ゆえ」
「それは、東京から一日で彼女を引き戻してまでしなきゃいけないことですか?」
沈黙。
人の都合など知らんと全身全霊で言われてる気がする。
やがて、狐面はぽつりと、
「これは、お姫様ご自身のたってのご希望でもあります」
は?
呆気に取られた時、狐面の集団がざざっと左右に割れた。
続いて座敷の薄闇の奥から、見慣れた女の子がしゃなりしゃなりと歩み出てくる。
「――あら、周子はん、プロデューサーはん。こっちに来てはったん?」
紗枝ちゃんは黒髪に大きな耳と尻尾を揺らして、当然のように指呼の間にあった。
見れば狐面はみな彼女に頭を垂れている。まさに「お姫様」の待遇を受ける彼女は、けれど、こうして見る分にはいつも通りだった。
狐面の一人にぽしょぽしょ耳打ちされて、紗枝ちゃんはうんうんと頷く。
「まぁ、今日すぐに東京から……。それはまぁ、遠路はるばるおくたぶれさんどしたなぁ~」
「紗枝」
いかにも芝居がかった感じのする紗枝ちゃんに、プロデューサーさんが切り込む。
「俺は今、そこに並ぶお面達から嫌な話を聞いた。正直、聞き間違いか勘違いだと思ってるが、念のため確認したい。
お前から一言違うと言ってくれればそれで済むんだ。
……自分で望んで京都に戻ったっていうのは、本当のことか?」
覚悟の要る確認だった。
けれど紗枝ちゃんはさして気負う風もなく、いともあっさりと答えた。
「せや。そろそろ帰ろ思て、迎えに来てもろたんどす」
「……何故?」
「ん~」
「何か気に入らないことがあったのか? プロデュース方針に問題が?」
「はて、なぁ……」
「スケジュールだとか仕事の都合とかはこの際どうでもいい。単純に気持ちを伝えてくれ」
昨日の今日で態度が違いすぎる。一体どうしちゃったっての。
紗枝ちゃんは気のない感じで視線を虚空に走らせ、暑くてかなわんとでも言うように手を差し出す。
すると狐面が扇を差し出し、彼女はそれをはらりと開いて、こう答えた。
「うちなぁ。あいどる、もう飽きてもうたんよ」
プロデューサーさんの肩が震えるのが、こっちからもはっきり見えた。
「まぁ、ええ機会やさかい。誕生日を潮目いうことにして、そろそろ小早川の狐の本分を全うせなあかんのや思います。
お父はんから術を継いで、仙気を高めて……ああ、婿取りも真面目に考えなあきまへんなぁ」
やるべき「狐の仕事」を指折り数える彼女の顔は、どこまでも平静。
何も着けていないのにそれ自体が狐面のような感じがした。
「…………なんやねんそれ」
手足の先からすっと血の気が失せて、代わりに腹の底がふつふつ熱を持つ。
「飽きた!? はぁ!? 阿呆なこと言いなや! 冗談にしても笑えんわ!!」
「えろうすまへんなぁ。せやけどほら、いつまでも人に混ざってふらふらしてもいられへんやろ?」
「あたしを祟るってのは!? まだなんにも返してないでしょ!?」
「お父はんが特別に、一から修行をやり直せばええ言うてくれはったんよ。長い目で見ればもともと大した量やあらへん」
ガラじゃない。
あたしらしくもない。
自覚しながらコントロールが利かない。
血を吐くような思いで言った。
「あたしらがやってきたことは、そんな簡単にほっぽり出せるもんなの……!?」
「感謝はしとるんよ? ええ退屈しのぎさして貰うたなぁって」
…………!!
「この……ッ!」
「落ち着け周子!」
「くわー! ちょぉ離してやプロデューサーさん! まだ文句は山ほど……!!」
「まぁ、なんや言わはりたいことがあるんはわかりますけど――」
相手はどこまでも柳に風で、開いた扇子でわざとらしく口元を隠した。
「ご自分の心配でもしはった方がええんとちゃいますか、『人間はん』?」
数えきれないほどの狐の目が、みんなこっちに注がれている。
下手に動いたらどうなるかなんて馬鹿でもわかる。檻の中のモルモットでも見るような、無感動かつ無慈悲な目だった。
「……本当に、本気で言ってるのか?」
「……うちは狐や。仙狐と俗人、所詮は住む世界が違うたんよ」
ぴしゃりと扇子を閉じる。
青い簪の花が小さく揺れる。
その時、足元の畳がぐにゃりと揺らぐのがわかった。
「紗っ……!!」
いや畳だけじゃない。壁も天上も周りの狐も陽炎みたいに形を失い、おぼろげな色水となって遥か向こうに吸い込まれていく。
もはや座敷ですらない空間に放り出され、あたしは彼方から響く狐の声を聞いた。
「これが今生の別れどす。日のあるうちに東京へ戻りなはれ。それがお互い、ちょうどええ分際いうもんや!」
ぷつんと光が途絶え、あたしらは意識を失った。
◆◆◆◆
◇紗枝◇
済んだか、と座敷の奥から声。
「はいな。これでもう縁も切れましたやろ」
低く唸るだけで返し、向こうの薄闇はすっかり黙り込んでまいます。
「もうあの人らとうちは何の関係もあらへん。お父はんがわざわざ隠すまでもありまへんえ」
すたん、すたんっ、と襖が開いていく音。
狐の屋敷が、今一度開かれてゆきます。
内側からしか開け閉めすることのできひん、硬く秘された結界が。
「ええ、ええ。そのまま追い出してしもうたらええ。人は俗世で勝手に生きて死ぬるもんや」
全て狐の幻。醒める時は来る。何もかも納まるべきとこに納まるよう出来てはる。
お月はんが東から昇るのと同じ、自明のことや。
「せいぜい……よぼよぼになるまで、生きてはったらええわ……」
かくして、狐屋敷に一人娘が戻る――
◆◆◆◆
◇周子◇
『――――なたー』
『――そなたー…………周子さんー…………』
聞き覚えのある声に起こされた。
芳乃ちゃんの呼びかけは、何故か手元から聞こえていた。
「芳乃?」
プロデューサーさんが先に起きて返事をする。
いつの間にかあたしらは、前後に果ての見えない板張りの廊下に転がっていた。
『ようやく繋がりましてー』
狐の手に落ちる前に握らされた、芳乃ちゃんのリボンと髪紐。
なんと声はそこからしていた。
「芳乃? そっちは今どこにいる? 美穂と蘭子は?」
『わたくし達は無事でしてー。変わらず京の町におりまするー』
彼女が説明するところでは、こうだ。
あたしらは狐が隠れ住む結界屋敷に閉じ込められた。
芳乃ちゃんが渡したリボンは彼女がこっちを見つける為のマーカーのようなもので、こうして念話みたいなこともできるらしい。
彼女は自分の手鏡を通して結界内のあたしらを見ているようだ。
でもそれはようやくのことで、今の今まで姿はおろか気配さえ掴めなかったらしい。
『おそらく、お狐様が結界の秘匿を緩めたのでしょうー』
「それって……」
『敢えてのことかとー』
つまり、出て行けと言っているのだ。
自分達の足で。
そしてもう二度と入るなと。
「芳乃。…………」
『そなたー?』
「紗枝に会ったよ」
言ったきり、プロデューサーさんはしばらく黙った。
あたしも途切れた言葉の接ぎ穂を拾うことができない。
しばしの沈黙の後、彼はぽつぽつと起こったことを語り出す。
芳乃ちゃんは先を催促しようとはせず、一つ一つに「はい」「はい」と相槌を打ちながら、ただ聞いていた。
あたしは、そんなプロデューサーさんの横顔を見ている。
彼のこんな表情を見たのは初めてだ。
全て聞き届け、芳乃ちゃんはすごく優しい声で言う。
『……まずはお戻りなさいませー。わたくしが導きますゆえー』
〇
歩いている。
長ーい廊下を、二人して悄然と歩いている。
『この廊下を果てまで歩けば、光が見えることでしょうー。それが外の光でしてー』
踏み越える端から床板が外れているような感じがした。
すぐ背後で廊下だった場所がぐるぐる変化していくのを感じる。
生ぬるい風が追ってきて、踵から背中を這い上がってくる。
『歩みを止めねば、無事出られましょうー。ただし、決して振り返ってはなりませぬよー』
「……振り返ったら、どうなんの?」
『再び狐の結界に囚われるでしょう。そうなれば、二度とは出られる保障がありませぬゆえー……』
見るなのタブー。よくある話だ。
所詮は常人の二人に狐の仕掛けをどうこうできるわけがない。身の安全の為に、従うしかない。
やがて光が近付いてきた。
空の色をしている。見ているだけで安心する現世の光だった。外は真昼だ。
紗枝ちゃんのことを考える。
姿かたちこそ見慣れた通りだったけど、こちらに向ける表情はぞっとするほど冷たかったこと。
紗枝ちゃんのことを考える。
人と狐の隔絶を示すように、その拒絶は徹底的だったこと。
紗枝ちゃんのことを考える。
なめとんのかと。
――それがお互い、丁度ええ分際いうもんや!
最後の方で声が震えていたのを聞き逃すあたしだとでも思ってんのか。
黒髪に添えられた簪の色に気付かないと思ってんのか。
もしかしたら勝手な妄想か、藁にも縋る願望か、それでも考える。
本当に本心から「飽きた」って言うなら、彼女はあの青牡丹の簪を付けてなかった筈じゃないか。
あと一歩で外に出るというところで、プロデューサーさんがいきなり言った。
「職業病ってあるよな」
なに急に。
「……プロデュース業の、ってこと?」
「そう。癖になってて、寝ても覚めても仕事のことを考えちゃうんだよな」
「うん」
「こうなると厄介でな。白状すれば、おまわりさんのお世話になりかけたことも一度や二度じゃない」
「うん」
「たとえば外でこう、ピンと来た子を見つけたりすると、声をかけずにはいられなくなっちゃうわけだ」
「うん、知ってるよ」
「だからまあ、何が言いたいかと言えば。こんな時にすまないんだが」
「えーよえーよ。それもサガってものやんな?」
二人、示し合わせたように足を止め。
「さっき名刺渡したい子みっけた」
「マジ? あたしにも紹介してよ」
奇々怪々の狐屋敷を、同時に振り返る。
◆◆◆◆
◇美穂◇
「……善き哉」
芳乃ちゃんは顔を綻ばせて、手鏡をぱたりと閉じます。
私と蘭子ちゃんはなすすべもなく見守っているだけでした。
「どう? 二人は帰って来られそう……?」
「お二人は、屋敷の中に残ってしまいましてー」
「えぇえ!? そんなっ、どどどどうしよう……!」
いや――と考え直します。
芳乃ちゃんがここまで落ち着いてるということは、不測の事態じゃないってことで。
きっと二人は自ら望んで中に残ったんだ。
だったら、私は。
「どうすればいい?」
周子ちゃんの落としたハンドバッグを握る手に、無意識に力がこもりました。
芳乃ちゃんは、私と蘭子ちゃんの顔を順番に見て微笑みます。
「まずは霊脈の流れを知らねばなりませぬ。我々は今一度、京巡りと参りませー」
一旦切ります。
〇
「結界を破ることは、まず出来ぬと見てよろしいでしょうー」
ぽてぽて歩きながら、芳乃ちゃんは道すがら告げます。
きっとすごく難しいとは思っていたけど、彼女の口からそう断言されるのはやっぱりショックでした。
「強大な魔力を炸裂させれば、突破口を開くことは出来ぬか!? 汝の力なれば……!」
「わたくしにもそれほどの力はありませぬー。仮に出来たとて、それではいけないのですー」
どういうことだろう。首を傾げる私達に、芳乃ちゃんは説明を続けました。
「この都は古来より、天然自然の霊気が流るる地なのでしてー」
途中足を止め、枝で地面になにやらかりかり書き込む芳乃ちゃん。
京都を真上から見た簡単な絵図でした。
ここは盆地。ざっくり三方を山に囲まれていて、だから夏は暑いし冬は寒いって周子ちゃんが愚痴っていたのを思い出しました。
「このように京を囲う霊山から気が流れ、脈々と平地に注いでいるのですー」
加えて、遠く平安の時代から街を細かく区切る碁盤状の通り。東西南北には四神相応の思想で建てられた大きな神社があります。
これは山から注ぐ霊気をがっちり捉え、街中に十二分に循環させる為のものだそうです。
更には洛中洛外で暮らす人や狸、天狗や狐などあらゆる生き物の気も加わり……と。
全て陰陽道の理にかなう、古来より完成された計画都市…………な、なんだか頭がこんがらがってきた!
「ふむむ……!」
「ら、蘭子ちゃん、わかる……?」
「…………ぷしゅう」
目がぐるぐるしてきました。
芳乃ちゃんは土の絵図にあれこれ書き足しながら、簡単にまとめます。
「つまりー、たいへん豊富な霊気が、今も絶えず街中を潤し続けているのですー」
集中しているのでしょう。その表情も声色も、徐々に静謐さを帯びていきます。
「仙狐の術法は、この霊脈そのものに密接に関わっておりますー。
長い長い時をかけ、たくさんのお狐様が協力し、少しずつ少しずつ、京の霊気を吸い上げ続けー……。
千年あまりの長きを経て形成されし、ご当地密着型のたいそう強力な結界なのでしてー」
千年。
途方もない単語に、目の前がくらくらしました。普通に生きていてそんなスケールの時間が出てくるなんて思ってなかった。
京の由緒正しき化け狐……きっとそれは何代にもわたり脈々と受け継がれてきた秘術なんでしょう。
「然るに、それを破るということは、京を巡る霊脈そのものを乱すということー……。
天変地異や神威の類なれば可能やもしれませぬが、逆を申せば、表の世界にも必ずや害をもたらしましょうー」
「そ、そんな……」
「力のみでは太刀打ちできぬというのか……っ」
「結界を解くか開くか否かは、全てお狐様の裁量によるものー……。強引に入ることはできませぬー」
でも希望が無いわけではないようです。
芳乃ちゃんは安心させるように微笑みかけました。
「なれど、いつまでも閉じたままではありますまいー。現に、お狐様達が表の世界に出入りしておりますゆえー」
「秘密の入り口がどこかにあるってこと?」
「いかにも。わたくし達は、それを探さねばならないのですー」
〇
プロデューサーさんや周子ちゃんを助け出すために。
それと、紗枝ちゃんともちゃんとお話するために。
閉ざされた結界の入り口を探すのが、外に残る私達の役目なのでした。
あちこちの神社仏閣、人の集まる場所、河川や道路の要所……。
芳乃ちゃんが言う「霊脈」の合流点や分岐点、いわゆるチェックポイントになるところを巡ります。
巡る史跡はどれもがどっしりしていて、たぬきの私は気後れするようでした。
そうして辿り着いた、中京区の紫雲山頂法寺。
なんでもお堂が六角形だから「六角堂」のあだ名で呼ばれているそうで、場所的にはちょうど京都のど真ん中だそうです。
「ふむー…………」
「ここはどう?」
芳乃ちゃんはふるふる首を振ります。どうもここにも入口は無さそう。
彼女はそれよりも、ロープで囲まれたある一点を気にしているみたいでした。
「あれはへそ石と申すものー。京の中心となるもので、時の帝がこの石を起点に都を区切ったと言われておりますー」
「千年の古都の中心……!」
「しかしながら、今はたぬきさんが化けた姿のようですー」
「へー……ええっ!?」
石が!?
たぬきが化けてるの!?
「ずいぶん長く化けておられるご様子ー。京のたぬきの中でも、一廉の者と言えましょうー」
「す、す、すごい……! そんなたぬき聞いたことないよ……!」
「よい巡り合わせゆえ、お祈りしておきましょうー。なむなむー……かの者らを守りたまえー……」
三人並んで、へそ石様に手を合わせました。
へそ石様は泰然自若。なんだか「そんなこと言われてもなぁ」と思っているような気がしなくもないです。
一礼して背を向けたのち、芳乃ちゃんはぽつりと呟きます。
「いかなるものにも要訣はありまするー。石垣の要石、家屋の大黒柱、へそ、ツボ、経穴ー……」
見上げる空は午後の色。
秋の陽はつるべ落としと言い、早くも西の空が朱を帯びているのが見えました。
「お狐様が自在に出入りし、地場の霊気を吸い上げる……。そのような窓口が、必ずどこかにある筈ですがー……」
〇
日が暮れるまで街を回っても、それらしきものは見つかりませんでした。
足が棒みたいです。私達はベンチに腰掛け、息を切らしていました。
「……探さねばー」
まだろくに休憩もしないまま芳乃ちゃんが立ち上がります。
ふらり。
「我がとっ……よ、芳乃ちゃん!」
蘭子ちゃんが慌てて立ち上がり、芳乃ちゃんを支えます。
彼女の疲労は私達の比ではない筈でした。ただ歩き回るだけでなく、街中を流れる気の流れを絶えず探っていたのですから。
「……地を走る霊脈は淀みを知らず、まこと平穏を保っておりますー。隙間らしきものは、なにもー……」
「芳乃ちゃん、汗かいてる……休まないと……!」
「一朝一夕にて看破できぬことは承知の上。なればこそ、急がねばー……」
これ以上は芳乃ちゃんも危ない。休まなければどうにもなりません。
既に空は夜の色を濃くしていました。
だけど、どこで? そういえばお宿をどうしよう。このままずっと外にいるわけにもいきません。
「もし、そこのお嬢さんがた」
声に振り返ると、買い物袋を提げた女の人がいました。
年の頃は40の半ばくらいでしょうか。小ざっぱりしていて、おっとりした感じのおばさまでした。
誰だろう……と思う前に、嗅ぎなれたほんのり甘い香りが鼻先をくすぐります。
目元によく知る子の面影を見て、思わず「あ」と声を上げました。
「――もしかして、周子のお友達の方々ですか?」
「しゅ……周子ちゃんの、お母さん!?」
「ああ、やっぱり。テレビや雑誌で見た通りや。小日向美穂ちゃんと神崎蘭子ちゃん、依田芳乃ちゃんですやろ?」
〇
お母さんは一も二もなく私達をお家へ通してくれました。
周子ちゃんの実家は洛中にある老舗和菓子屋。年季を感じる日本家屋にちょっとだけ気後れしてしまいます。
「そうですか、周子が……」
芳乃ちゃんの説明を聞いて、お母さんはしきりに頷きます。
「本当なんです。信じられないことかもしれませんが……」
「いえ、もちろん信じます。うちは代々、そうした人ならぬお客さん相手にも商売しとった店です」
指差す先には、壁に賭けられた塩見家三訓。
一つ、稲荷には手を出すなかれ。
一つ、天狗だけは怒らすなかれ。
一つ、狸はまあなんでもいいや。
「……美穂ちゃんは、たぬきさんなんやね?」
「ぽこっ!? あ、は、はい! 黙っててごめんなさいっ!」
「ええんです。それより、気を悪ぅせんとって下さいね? うちの家訓はたぬきを蔑ろにしとるようやけど、むしろ逆。
この中では一番気安うて、一番付き合いやすいもんやさかいこう書いとるんですよ。まあひとつの照れ隠しや思てくださいな」
気を悪くするなんてそんな。恐縮するばかりの私に、お母さんはくすくす笑います。
「母君よ、周子は我らと魂を共鳴させし同胞! ……ぜったい、助けてみせます……!」
「蘭子ちゃんは優しいねぇ。けどええんよ、そない気負わんと」
「ひゃっ。あ、あうぅ」
なでなでされて、蘭子ちゃんは思わず赤くなっちゃいました。
にゃー。
と泣くのは大福ちゃん。前に周子ちゃんが拾ったという、雪のように真っ白な猫です。
最初こそ片手に乗るほどちっちゃかったそうだけど、今は若く精悍な成猫に育っていました。
猫の成長って早いなぁ。
「周子は、ええお友達を持ったみたいですねぇ。三人ともとっても優しい子や」
大福ちゃんの喉を優しく撫で上げながら、お母さんは微笑みました。
「あの子は小さい頃から無欲な子でしたさかい。誰かが捕まえてへんと、ぱっと消えてまうような気配がありました」
「周子ちゃんが……」
「ほら、あの子ったらいつも飄々としたとこがありますやろ? きっとあれは、真剣に向き合える何かがあらへんかったせいやと思うんです。
でも今は違うようや。……ようやく見つけたんやねぇ、周子」
宿があらへんのやったら、しばらく泊まってってください。
なんや娘が三人できたみたいで楽しいわぁ。
お母さんはそう言って、晩ご飯まで作ってくれました。
周子ちゃんが好きだったという、白だしの肉じゃがと秋ナスのお味噌汁。
ほっこり湯気の立つそれらに、私達は今更のように空腹を思い出しました。
とてもあたたかくて安心する味。お茶の間に染みついた家庭の匂いには、確かに周子ちゃんのそれも残っていて。
「……う」
じわわ……と、安心と不甲斐なさで目頭が熱く。
すると隣の芳乃ちゃんが手を伸ばし、小指の先で涙の雫を拭ってくれました。
「必ずや、みなで帰りましょう。必ずや……」
熊みたいに体の大きなおじさまがぬうっと入ってきた時、私は思わず悲鳴を上げるとこでした。
だけどそれは早とちり。彼は周子ちゃんのお父さんで、すなわち塩見家のご当代なのです。
無口な職人気質のお父さんは、敢えて何も聞こうとはしませんでした。
全て先刻ご承知だったのかもしれません。
ただ深々と頭を下げて、滞在中は周子ちゃんの部屋を使って欲しい、と言ってくれました。
「好きに使うてください。あれが住んどった時のままにしとりますよって」
〇
ふかふかの来客用お布団を三組も敷くと、床がほとんど埋まってしまいます。
けれど狭く感じないのは、もともと部屋に物が少ないからでしょう。
周子ちゃんは昔からあまり物を持たないタイプのようで、それは女子寮の個室でも同じでした。
まるで、いつでもどこにでも旅に出られるようにしているみたい。
ふと思い立ったその時に、小さなキャリーケースやハンドバッグ一つで、どこへでも……。
あまり快くない想像です。状況が状況だから、誰かがどこかへ行くなんて考えたくない。
……紗枝ちゃん、周子ちゃん。プロデューサーさん……。
いつしか私達は寄り添い合うように眠っていました。
目の前にはすうすう寝息を立てる蘭子ちゃんの顔があって、目元に光る雫を見た気がしました。
拭おうとするけど、自然とまどろみの中に落ちて……。
〇
どれほど経ったでしょうか。
ふと目を覚ますと、お部屋の窓がわずかに開いています。
街の灯がすっかり落ちた深夜、雲一つない夜空は光り輝いて見えました。
中と外を分かつ窓枠に、真っ白いシルエットが立っています。
「……大福ちゃん?」
にゃー。
大福ちゃんは私を見ながら一声鳴いて、ひょいっと窓の外へ出て行ってしまいます。
わ。
と、びっくりして起き上がり、窓から上体を出します。
二階にある周子ちゃんの部屋からは表の道路が見下ろせます。そこを大福ちゃんがすいすい歩いていくのが見えました。
ひょっとしたら脱走かもしれない。
そう思った私は慌てて上着を羽織り、外に出ました。
大福ちゃんは道の向こう、曲がり角のあたりで尻尾を立てていました。
こちらを振り向いて、また、にゃー。
月が輝く空の下で、その白い体毛はとてもよく映えて見えます。
大福ちゃんは私が追ってくるのを待っているみたいでした。何度か立ち止まり、こっちがついてくるのを確かめているのです。
……どこかに連れて行きたいのかな。
そう思い始めた矢先、大福ちゃんは小さな公園に走り込んで、ある一匹の猫と合流しました。
京都の美しい夜が形になったような、とても上品な雰囲気の黒猫でした。
お互いをふんすふんす嗅ぎ合う二匹は、すっかり気心の知れたお友達みたい。
あの子に会いに来たのかな……そう思いかけた私は、顔を上げてびっくりしました。
いつの間にか、女の子が立っていたんです。
見た感じ小学生くらい……10歳とか、その辺りだと思います。
とても綺麗な、人形みたいな女の子でした。
花紺青(はなこんじょう)色の長い髪と、夢見るような半開きの目。瞳は夜の下でもはっきりわかるほど鮮やかなルビーの色。
白黒のゴシックな衣服を身にまとい、彼女はじっと、そこに立っていました。
「…………………………」
「あなたは……?」
「…………………………………………」
「あ、あの、えっと……」
何も言ってくれません。
こっちを見てるから、無視してるんじゃないと思うんだけど。
長い沈黙に変な汗が出そうになったところ、彼女はぽつりと、
「………………あなた………………たぬき…………?」
ぽこ!?
ま、また即バレ!?
でも隠すわけにもいきません。一目で見抜かれたことから、彼女もきっと只者ではないことがわかりました。
そもそもこんな時間にお外にいるなんて、一体どういう子なんだろう。
「う、うん。実はそうなの。私、小日向美穂。あなたは?」
「……………………………………そう」
女の子はこくりと頷き、黒猫に手を差し伸べました。
おいで、と一言声をかけるだけで、猫は当然のように彼女のもとに戻ります。
「…………わたし……雪美。佐城、雪美……。…………この子は、ペロ…………」
なーぉ。
雪美ちゃんの足元で、ペロちゃんが一声。
にゃー。
応じて大福ちゃんが鳴き返し、二匹の間でなにやら通じ合ったようでした。
「大福…………お友達を、探してるんだって…………。あなたも…………そう…………?」
「!! しゅ、周子ちゃんのこと!?」
雪美ちゃんの足元にすり寄り、大福ちゃんがにゃあにゃあ訴えかけています。
その一つ一つが雄弁な言葉であるかのように、雪美ちゃんはうんうん頷いて聞いています。
「も、もしかして……わかるの?」
「……まだ……。でも…………手伝って、あげる…………。狐は…………いじわるだから…………」
彼女は何者なのでしょうか。
ううん、何者でもいいって思いました。
手が届かない狐の屋敷、そこにいる筈の三人と会えるなら。
雪美ちゃんは猫同士の鳴き合いを聞き届け、私をじっと見つめました。
「……………………ついてきて」
言って、くるりと踵を返します。
ペロちゃんと大福ちゃんが当然のように追いかけていきます。
私も慌てて駆け出しました。
ほとんど確信のような思いがあったからです。
餅は餅屋、蛇の道は蛇というように――京都の抜け道近道は、猫が知ってるのだと。
〇
どこをどう歩くかは雪美ちゃん次第でした。
私はついていくしかありません。土地勘が全然ない上に、晴れているとはいえ真夜中なのですから。
静まり返った大通り、石畳の小路、神社の境内、虫達のささやく森、せせらぐ川のほとり……。
きっと幾つものショートカットを使ってるんだろうということはわかります。
あるところから出たらまったく違う景色で、まるでワープでもしてるかのようでした。
人の姿だと通りにくいところも幾つかあって、私はポンッとたぬきに戻って追いかけます。
ペロちゃんと大福ちゃんの足取りは迷いなくて、先頭の雪美ちゃんはもっと軽やかでした。
小柄とはいえ人なのに、どんなところもまるで平地のように歩いて……。
(あ……!)
月明かりが逆光となった彼女の後ろ姿は、歩く過程で確かに変化していました。
大きな耳と長い尻尾があったんです。
しかも尻尾は根元で二つに分かれ、それぞれ別の生き物みたいにふりふり動いていました。
虚空に染みわたる声で、雪美ちゃんは「にゃあ」と鳴き。
唱和する声は、古都の闇の中に幾つも幾つもありました。
数えきれないほどの光る眼が、あちこちの物陰から私達を見ています。ある子は珍しげに、ある子は恐る恐る、ある子はついていきたそうに。
そして……どれくらい経ったのかな。
時が止まったような夜の中、私達はいつの間にか小高い山の上に立っていました。
展望台のようです。雪美ちゃんは街を見下ろす場所に立ち、すっと前を指差しました。
「………………見て」
ポンッ! と人に戻って雪美ちゃんの隣に立ちます。
眼下に広がる京の街。
あちこちに灯はあるけれど、ほとんどの人々が眠った街はとても静かでした。
大部分を闇に塗りつぶされた街並みは、だけど、見ているうちに……。
「わぁ……!?」
ぼうっ……と。
蒼い光が、碁盤の目を浮き上がらせるように輝きだすのが見えたんです。
ピンときました。これは芳乃ちゃんの言ってた「霊脈」の光なんだ。
深夜だからか、それとも雪美ちゃんが導いてくれたからか、今の私の目にはそれがはっきり見えました。
「綺麗……」
こうして俯瞰すると確かに、一つの隙もない完成された循環のように思えました。
生き物の体内を流れる、血管のように。
「あのどこかに隙間があるの? 雪美ちゃん、わかる……?」
雪美ちゃんは綺麗な目で、じっと京都を見下ろしています。
やがてその指が動き、新たな一点を指差しました。
あそこは……確か、そう。伏見稲荷大社。
千本鳥居が有名な、お稲荷様の総本社。お狐様の聖地です。
当然そこは真っ先に訪れました。芳乃ちゃんの感覚を頼りに隅から隅まで確かめ、だけどあえなく外れに終わった場所。
とても強い力が集合しているけど、どこを探しても綻びとなる場所なんて無くて。
「………………違う」
呟いて、雪美ちゃんは意外な行動を取りました。
指を、上に向けたのです。
気付かない筈です。
私達は大社の構造とか建物とか、地形的なものばかりを気にしていましたから。
だって、「そこ」に至る発想自体がまず無かったんだから。
雪美ちゃんの指が辿る先。星々を曝け出す夜の、静謐な空の只中。
霊脈は大社を起点として地上を離れ、今にも消えてしまいそうな細い一本の線となって「上」へと流れていたのです。
指で線を辿り終え……小さなおとがいを真上に向けて、雪美ちゃんは一言、ぽつりと。
「………………どうしよう」
蒼い光は蜘蛛の糸のように伸びて、夜空のある一点へ脈々と注がれていました。
遥か彼方で煌々と光る、大きな大きな月に。
【 前編 ― 終 】
一旦切ります。
書き溜め終わったので以降の更新は少しスピードダウンすると思います。すみません。
実は初作で一瞬だけペロの名前が出ていましたが、最初の作品ゆえ設定が固まっていなかったせいとお許しくださいなんでもしまむら。
【 中編 : 千年仙狐の偽月 】
◆◆◆◆
――翌日早朝 塩見家
芳乃「……よもや、月、とはー……」
ピロロロロ ピロロロロ
芳乃「むむー? すまひょ」
らくらくホン『電話ドスエ』
芳乃「よっ、ほっ、ほー」ペペペペ
ピッ
芳乃「できまして……申す申すー」
楓『そちらはどうですか、芳乃ちゃん?』
芳乃「美穂さんから聞きましたところー、いささか難しきことになっておりますー」
カクカク シカジカ
楓『なるほど……それは確かに、簡単に手出しできませんね。むーん(月だけに)』
芳乃「茄子さんは、まだ出雲におられるのでしてー?」
楓『ええ。残念だけど、彼女は動けそうにありません』
芳乃「いえ……よいのですー。いずれあの方に頼るわけには参りませぬゆえー」
芳乃「此は全て現世の営み。京には京の、守るべき理がありまするー」
楓『天狗様のもとへは私が向かいます。そちらは心配いりませんよ』
楓『だけど芳乃ちゃん、本当に大丈夫ですか? 今のあなたは本来の力の半分も――』
芳乃「わたくし一人の力が及ばぬとて、何ほどのことがありましょう」
芳乃「みな、頑張ってくれております。一つ一つが協力し合えば、きっと道は拓けましてー」
楓『……そうですね。では、私は私のやることを済ませましょうか。くれぐれも気を付けてくださいね、芳乃ちゃん』
芳乃「はいなー。感謝致しまするー」
ピッ
芳乃「ふむ。さりとて、いかにしたものかー……」
◆◆◆◆
―― 京都・烏丸通上空
フヨフヨ
楓「さて、岩屋山と愛宕山は済みましたね。次は……」
楓「……そういえば、如意ヶ岳の薬師坊様は今どちらにお住まいだったかしら?」ハテ
??「あら、誰かと思えば!」
楓「?」
フヨ~
??「久しぶりじゃない楓ちゃん。私よほら、相馬の」
楓「まあ……夏美さん? 帰洛してらしたんですか?」
夏美「まあね。たまには実家に顔出しとかなきゃって思って。それよりどうしたの? 旅行?」
楓「実は、狐の屋敷に用がありまして……」
夏美「狐って……あのヒキコモリ達がなんかやらかしたの?」
楓「身内が『お呼ばれ』されてしまったんです」
夏美「あちゃー……妙なことになっちゃってるみたいねぇ」
夏美「だけど、ちょっと面倒かもよ? こっちで騒ぎが起こると天狗が黙ってないじゃない」
夏美「なにしろあいつら、京都の天下はみんな自分のものだって本気で思ってるもの」
楓「ええ。ですので今、お土産を持ってご挨拶回りをしているんですよ」
楓「そうだ、夏美さんもご一緒にどうですか? みなさん喜ぶかも」
夏美「どうかしらねぇ。嫌味か説教でも言われるのが関の山じゃない? 天狗のくせに走るのが好きとか、京を出て飛行機なんか乗ってとか」
楓「いいと思うんですけどねぇ。飛行はしてても、非行に走ったわけでもないんですから……ふふっ」
夏美「連中にはそれが気に入らないのよ。鞍馬の下っ端なんて群れてばっかりでプライドだけ高いんだから」
楓「それでは、ここでお別れですか?」
夏美「うーん……いや、せっかくだからご一緒しようかしら。楓ちゃんが困ってるのに無視するのもなんだし」
夏美「それで、渦中はどんな御大尽なわけ? 大物陰陽師? それともまたどこぞの二代目?」
楓「いえ、人間です」
夏美「人間……人間って、ただの人間?」
楓「ええ。何の変哲もない、人間が二人――」
◆◆◆◆
◇周子◇
ずぼっ、とよくわからんとこから顔を出した。
「どこここ」
「暗くてよく見えん」
「なんか黴臭いなぁ。さっきまで廊下歩いてなかった?」
「それよりどうも頭が痛……ん? あれ? 俺逆さまになってね?」
「うひゃあ!? どこ触ってんの!」
「周子? 近くにいるのか? あ、ふとももかこれ」
「あっ、んひ♡ ちょ、ちょっと、蹴るよ!?」
蹴った。
プロデューサーさんはハナヂを拭き拭き暗所から脱する。
二人してどこぞの物置の大甕に入り込んでいたのだった。
「膝は酷いと思うんだよな」
「うっさい。乙女のふとももすべすべしといて安く済んだと思いや」
どつき漫才はともかくとしても、変なところに出たもんだ。
狐屋敷に建築的整合性なんて求めるもんじゃないだろうけど、それにしても頭がこんがらがりそうな地理だった。
「紗枝ちゃんを見つけないと」
物置の軋む木戸を開くと、またどこへ繋がってるかわからない廊下。
恐る恐る踏み出して、抜き足差し足歩いていく。
「あたしらが残ったこと、知られてんのかな」
「どうだろうな。知られてたらとっくに何か仕掛けられてる気もするが……あ、窓だ」
「窓? 外見える?」
竹格子が嵌まった窓の外は、暗い。
どうも夜らしい。いや本当に夜なんだろうか? 時間がわかんない。
暗い空の彼方にはぽっかりと月が出ていて、あたしらの顔をほんのり照らした。
先に進みながらも廊下のあちこちに窓があって、その全てから月明かりが差し込んでいる。
おかしなことに位置や角度に関わらず、どこから見ても「夜空に月」という光景が偏在しているようだ。
「……幻の屋敷に常識なんか通用しないってわけだ」
プロデューサーさんが呟き、足を止める。
幾つか廊下を曲がって行き着いたその果てだった。
どうしたんやろと背中をつついてみると、彼は前方を指差す。
肩越しに向こうを見て、「げ」と思わず声が出た。
廊下がそこで途切れ、滝のように真下に流れている。
目の前には屋根瓦。廊下の行く末を目で追えば、遥か眼下に障子の森があってぱたんぱたんと開閉を繰り返している。
ならば上はどうかと見てみると、一面に枯山水が広がってワビサビを表現しているのだった。
縦と横、上と下、前後左右の区別なく「お屋敷」という空間が広がっているんだ。
しかも、こっとん、こっとん――と柱時計にも似た音がして、秒刻みで屋敷の構成が変わっていく。
振り向けば歩いてきた廊下は消えていて、どこに繋がっているかわからない階段が伸びるばかり。
目の前にはスカスカの足場ができていた。梯子か何かかと思ったけど、横倒しになった縁側の手すりらしい。
「念のため起動してみたんだが、さっぱり役に立たないな。見てみろ」
プロデューサーさんはスマホに方位磁石のアプリを入れていた。
ところが持ち主に方角を伝える筈のそれは、さっきから狂ったようにぐるぐる回転しているのだ。
更には、時間。こっちもおかしい。
二人が突入したと思われるお昼頃から、進まないと思えば戻ったり、そうかと思えば何時間も進んだり。
数字がヤケクソみたいに推移して、結局は元の時間に戻るのだった。
「ちょっと信じがたいが、時空間がおかしなことになってるらしい。精神と時の部屋みたいな感じかもしれん」
「精神と……? 何それ」
「え? 精神と時の部屋知らない!? ドラゴンボールだぞ!?」
「あー、タイトル知ってるけどあたし読んだことないんよね。だからほとんど知らんの」
「マジかよ……ジェネレーションギャップだ……」
なんか本気でショック受けとる。
こっとん、と音がして目の前に襖ができた。
開くとほかほかの湯が張られたお風呂場だった。一瞬入りたいなぁと思ったけど、そうも言ってらんない。
誘惑を振り切って突っ切り、反対側の扉から土間に出る。
「芳乃のリボンは持ってるか?」
「持ってる。そっちこそ髪紐は?」
「ポケットの中だ。でも芳乃の声は聞こえそうにないな」
外はどうなってるだろう。
芳乃ちゃん達を信じたいところだけど、連絡がつかないんじゃどうにもこうにもだ。
道中は過酷だったけど、意外なことに邪魔は入らなかった。
破れそうな障子の床を這って進み、床の丸窓を潜り抜ければ下は海原のように広い屋根瓦。
薄暗い竹林を通り抜け、卒塔婆の梯子を上って、十重二十重に枝分かれする大黒柱の巣を渡っていく。
道中のあちこちに赤い前掛けの稲荷像が鎮座していて、いつ動き出すか気が気じゃなかったけど。
やがて足が石畳を踏んで、それの前に立つ。
回廊のように果てなく続く、真っ赤な千本鳥居に。
「……どう思う?」
「辿り着いたと見るか、誘い込まれたと見るか……」
鳥居の先は果たして、罠かゴールか?
虎穴に入らずんば虎子を得ずとは言うけど、底意地が悪い狐の穴には何があるか知れたもんじゃない。
その時だった。
――どうぞ、こちらへ。
「……聞こえた?」
「聞こえた。……この奥からだな」
――わたくしが呼びました。
――他の狐は気付きません。どうぞお早く。
先の予想は半分当たりで、半分ハズレと言えるかもしれない。
つまり……誘い込まれたのは間違いないが、悪意ある罠というわけでもなさそうってこと。
呼びかける声は、紗枝ちゃんに少し似ている気がした。
目が回りそうなほど長い鳥居を抜けると、果てには年季の入ったお堂がある。
仏堂と言うよりは寝所、いわば離れと言うべき建物のようだ。
木戸の隙間から、透き通った風が流れ出ているのがわかる。
この中だ。
「プロデューサーさん……」
「わかってる。大丈夫だ」
プロデューサーさんはぐっと肩をいからせ、ずんずん進んで扉に手をかけ。
すたんっ、と一息に開け放つ。
「……!」
その女性は、お堂の中心に静かに座していた。
色鮮やかな十二単。畳にまで伸びて広がる長い長い銀髪。頭の頂点でぴんと立つ同色の耳。
それとやっぱり、狐面。
「あのまま出てしまいましたら、ご苦労をすることもございませんでしたのに」
言って、女性は面を外した。
背筋が寒くなるほどの美貌には、やはりよく知る面影があって。
「お初にお目にかかります。紗枝の母です。どうぞよろしゅうに」
一旦切ります。
京都出身アイドルは全員登場します。
◆◆◆◆
◇美穂◇
「イヴさんとブリッツェンちゃんにお願いするとかっ」
「大気圏突破は不可能でしょうー」
「桃園の姫君と誓約を交わし、天翔ける火箭を召喚せん!(訳:桃華ちゃん達に頼んでロケット!)」
「時間がかかりすぎるかとー」
う~~~~ん…………。
塩見さんちで作戦会議をすることしばし、一向に打開策が出てきません。
結界の入り口が月だなんて、一体どうすればいいんだろう……。
「うう……月旅行なんて無理だよう」
「……それは……狐も、同じ…………」
ぽそりと告げるのは佐城雪美ちゃん。ペロちゃんと大福ちゃんを小さなお膝に乗せています。
彼女は嵐山にある洋風お屋敷の一人娘だそうで、付近の猫とは一匹残らず顔見知りだといいます。
芳乃ちゃんは一目見るなり「猫様とはー……」と感嘆し、蘭子ちゃんは雪美ちゃんの耳と尻尾に興味津々です。
というのはともかく。
雪美ちゃんの言う通りではあるんですよね。
それは確かに、狐が人間より数段上の技術レベルを持っていて、一足先に月面基地を建設させたなんて可能性もゼロの中のゼロじゃありません。
だけどまあ無いとは思います。それじゃ帰る度に宇宙飛行することになっちゃうし。
とはいえ、じゃあどうすれば入れるのかって話になると、やっぱり振り出しに戻っちゃうわけで……。
「おそらく……あれを、まことの月と思わぬがよいかもしれませぬー」
「まことの……? 幻とか、狐の術のひとつってこと?」
「はいー。夜にのみ立ち現れ、まことの月と重なって天蓋にある、仙狐の偽月……。されど秘術に触れるには、まだ何か……」
議論が袋小路に迷い込み、また沈黙。
芳乃ちゃんは黙考して、ぽくぽくぽくぽくぽく……。
「!」
ちーん!
どうしたんだろうと見守る三人の前で、芳乃ちゃんは懐から手鏡を取り出して、
「そなたー。わたくしの声が聞こえましてー?」
えっ!
「つつつ繋がったの!? 二人と話ができるのっ!?」
「今しがた、ふっと気配が掴めましてー。周子さんもお傍におりますー」
どたばたしながら芳乃ちゃんの後ろに回り、手鏡を覗き込みます。
するとそこには、見知った二人の顔が……!
◆◆◆◆
◇周子◇
『プロデューサーさんっ! 周子ちゃぁん!!』
『そちらは今、どのような状況にありましてー?』
『魂の火を絶やすことなかれーっ!!』
『……………………………………』
にゃー。
「いやいやいや、いっぺんに言われてもわからんって。つか、今の大福? そこってあたしんち?」
芳乃ちゃんと大福(と、あと誰?)はともかく、美穂ちゃんと蘭子ちゃんはべしゃべしゃの半べそ声だった。
飛び跳ねる勢いで喚き立てるリボンに受け答えして、とにかく二人を落ち着かせる。
「こっちはまだ屋敷の中だ。屋敷のどこかはわからんが、ひとまず安全地帯だ……」
言葉を切り、プロデューサーさんは目線を上げた。
「……と、思ってもいいんですよね?」
目の前に座っている絶世の美女は、紗枝ちゃんの実の母君。
彼女があたしらを匿ってくれたのだと思う。多分きっと。
母狐は狐屋敷の結界をほんのわずかに緩めてくれた。
といっても、電話みたいに声を届けるだけで精一杯。
それさえも芳乃ちゃんの力があってのことらしく、母狐はリボンをしげしげ見下ろしてこう言ったものだ。
――……恐ろしく高度な術法で編まれています。現代の人がこのようなものを持つとは。
『仙狐様の奥方とお見受けいたしまするー。わたくし依田は芳乃と申しますー』
「ええ、お二人からお話は伺いました。難儀なことになってしまったものですね」
『まこと仰る通りー』
「お客人には無礼を働いてしまい、まったく申し訳なきことです」
味方……と思っていいのかもしれない。
少なくとも敵意は感じないし、他の狐からあたしらを隠してくれているのも彼女だ。
「それにしてもなんつう美人だ」
「出すな出すな名刺を」
相手間違っとるやろがい。
とにもかくにも、確認しなくちゃならない。
プロデューサーさんは改めて母君に向き直り、はっきりと質問した。
「我々は娘さんを連れ戻そうとしています。ご協力頂けると考えてよろしいのですか?」
「協力――と言いましても、元より出来ることは限られております」
母狐は小首をかしげ、たおやかに微笑んだ。
「この屋敷はわたくしのみならず、ここにいる全ての狐によって維持されております。
わたくしひとりが結界を弄ろうとて、所詮は大河の流れに指を差し入れる程度のもの。
ほんのわずかに他の狐の眼を欺き、依田様のお力を借りて声だけ繋げるのが精一杯」
ちゃちゃっと紗枝ちゃんの元まで連れて行って貰う、というわけにはいかなそうだった。
「……よほど大規模な場所なんですね」
「ええ。合わせ鏡の如くに互いを照らし合わせ、無限に重なり広がりゆく不可思議の屋敷です」
合わせ鏡。言い得て妙かもしれない。
ただし角度も数もべらぼうで、まるで狂った万華鏡みたいな有様だけど。
「しかしながら、紗枝の望みはわかります。娘は昔から芸事をとてもよく好みましたから」
思い出した。
紗枝ちゃんは、街に出てこっそり舞やお花やお茶を教えて貰っていたとか。
それを知っているのはお母はんだけ――と彼女自身が言ったものだ。
「無論のこと、あの子の望むとおりにしてやりたいと思っておりますよ。腹を痛めて産んだ我が子ですもの」
「なら……!」
「化かす隠すは狐の常とは申せ、旦那様のやり口はいささか乱暴ですし。――と、それが半分でしょうか」
半分?
意味を訪ねる前に、母狐が先を促す。
「ご相談をなさるなら、お早く。あまり長くお声を繋げるわけにも参りません」
リボンと手鏡を介して、あたし達は情報交換を始めた。
流石に月なんて言われた日には二人とも仰天したものだけど、母狐は落ち着き払った様子。
「……よもや、外にいながらそこまで到達していようとは」
『…………にゃあ』
「なるほど……佐城の娘御が猫の手を貸しましたか」
夜空に浮かぶ月について、母狐は更に詳しく補足した。
「いかにも。この屋敷も偽月も、狐の法に則りしもの。種があれば仕掛けもあります。
月は夜ごと細々と霊気を吸い上げておりますが、最も大きく流れるのは月が満ちし時です」
「満月……」
「その夜……満月が中天高くに座す、子の正刻に限り。屋敷の空と京の空は、繋がります」
「繋がる、ですか?」
「ええ。月に一度、人と狐は見上げる空を同じとします。そして屋敷全ての狐が大座敷に集まり、大開きの満月から注ぐ霊力を受け取るのです。
屋敷の為、決して欠かすことの出来ぬ大切な儀式です。ついでに酒盛りも行います」
飲み会すんのかい。
思いつつ、あたしはここに来るまでに見た月を思い出していた。
どの窓からも覗き見える夜空と月は、どこか非現実的な雰囲気のものだった。
けれど満月の午前零時にこそ、窓の外は本物の「京都の空」となるのだろう。
『じゃ、じゃあ、そこから飛び込むこともできちゃったりしますかっ!?』
「残念ながら不可能でしょう。通れるのはあくまで形なき物のみ。でなければ、酔った天狗が迷い込まないとも限りませんから」
『そんなぁ……』
しょんぼりする美穂ちゃん。
確かに空が飛べりゃ或いはとも思ったけど、そこは京都の狐。天狗礫や迷い天狗の対策もばっちりなんだろう。
「とはいえ……その瞬間が、結界の最も大きな隙であることは間違いないでしょう」
語り終え、母狐は一息ついた。
満月の夜に一堂に会す狐、繋がる空、結界の隙……要素は揃ったように思う。
だけど具体的にどうすれば? あと一歩を、これから話すべきだ。
「わたくしが教えられるのはここまで。……お時間が近づいて参りました」
『あれ? え……プロ――――周子ちゃ――――っ――』
声が途切れ途切れになる。
母狐は平静そのものといった顔。
「他の狐に気付かれたようです」
お堂の景色が、滲む絵の具のようにおぼろげになっていく。
『我が友――――嫌――――まだっ――――』
「……『もう半分』の話を致しましょうか」
母親として、紗枝ちゃんの思い通りにさせてあげたい。夫のやり方を良く思っていない。
それが半分だと、確かに彼女は言った。
「わたくしもまた狐。そのことをお忘れではありませんでしょう?」
背筋を伸ばして正座し、歪む畳の上で彼女は微動だにしない。
声色は凛として、けれどさっきまでより一段と低く冷たい。
「あの子が望もうと望むまいと、たとえ鳥籠に閉じ込めてでも、ずっと手元に置いておきたい。
だって腹を痛めて産んだ我が子ですもの。そうした気持ちもまた、等しくあるのですよ」
咄嗟に伸ばした手がプロデューサーさんを掴む。
あっちもあたしの手を握り返して、足元が強く揺れた。
もう上も下もわからなくなった中で、母狐の声だけがこだまする――
――然るに、わたくしは事がどちらに転ぼうとも、それを天命と受け止めます。
――母として、狐として、お客人に貸せる手はここまで。秘術の要をわたくしは全て語りました。
――以降は一切の手出しを致しません。貴方がたの手で、あの子を引き戻して御覧なさい。
――叶わぬならば、話はそこまで。紗枝はここで生きるでしょう。
――届いたならば、そのあかつきには――――
〇
気が付けば、二人して玉砂利の海に倒れていた。
周囲360度には狐面がずらっと並び、揃ってこっちを見下ろしている。
その中に一つだけ黒い面があるのがわかった。
時代がかった裃を身にまとう、ほっそりとした男。一際大きな耳と尻尾は、やはり銀色だった。
見上げてプロデューサーさんが問う。
「……もしかして、お父さんですか?」
「貴君に父と呼ばれる筋合いは無い」
取り付く島、マジで無し。
父狐が合図を発し、またも景色が組み変わる。
ことんことんと柱時計の音がして、次にいるのは薄暗い座敷牢だった。
「愚妻が要らぬことを吹き込んだようだが、無駄なことと心得たまえ。無事に外に戻る機会を放り捨てたのはそちらだ」
鏡餅ほどもデカい南京錠に鍵が差し込まれ、座敷牢がゆっくり開いていく。
今から二人とも放り込んでやるってことだろう。
抵抗は無意味だった。いくらなんでも多勢に無勢すぎる。
「今や貴君らは招かれざる客。勝手に当家の敷地を踏み荒らされたとあっては、相応の罰なくば示しがつかん」
「……だったらどうするっての? 鍋にでもして食べちゃうつもり?」
「鍋、か」
父狐は顎に手を当ててわざとらしく思案した。
「確か京では、人間が狸を鍋にするという。狸なんぞ今更煮たところで何の益にもならぬが……さてこの場合はいかに」
何やっとんねん京都人。どこの食い道楽じゃ。
「よろしい。獣を喰ろうて悦に入る人間に、ひとつ意趣返しをするも一興か」
なにやら思い付いた黒い面が、うっそりと笑ったように思えた。
ぬぅっと顔を突き出し、こっちの目を覗き込んで狐は言う。
「二人揃って天麩羅にでもして、来たる月見の肴にしてしまおう」
◆◆◆◆
◇美穂◇
声が途切れて、室内はなんとも言えない沈黙に満たされています。
満月……。
チャンスがあるとすればその時だけ。
そういえば満月っていつだったっけ。
同じことを考えた蘭子ちゃんが、スマホを使って10月の月齢を調べてくれていました。
みんな揃って液晶を覗き込み、残された時間のあまりの少なさに血の気が失せました。
「10月24日……あ、明日!?」
〇
議論が何度目かもわからない袋小路に入る頃、誰かのおなかがきゅるると鳴りました。
表世界の時刻はそろそろ正午。
なんとも情けないことに、こんな事態でだっておなかは空くのです。
あっちの二人とも、ひもじい思いをしてなければいいけど……。
と、周子ちゃんのお母さんが私達を呼びに来て、雪美ちゃんにびっくりしました。
「あらぁ、佐城さんところの娘さんやない。お友達になったん?」
「……………………うん」
「そらええことや。ああ、お昼ご飯を作ろうと思うんやけど、ネギを切らしてもうてねぇ……」
なんでも、ちょっとそこまでお遣いに行って欲しいとのこと。
そのくらいならお安い御用と私が行くことにしました。
歩きながら妙案が浮かべば……というのは期待しすぎですが、気分転換は大事ですから。
出町商店街でお買い物を済ませて表通りに出ると、道沿いの街路樹が騒がしい。
なんだろうと思って見上げたら、ある一本にカラスがぎゃあぎゃあたかっているのです。
「……? 何かいるのかな……」
って!!
たぬき!
街路樹のてっぺんにしがみついて、仔狸が一匹ぷるぷる震えているんです!
「こ、こらーっ! いじめちゃ駄目でしょーっ!!」
買い物袋を振り回したり落ちてた石を投げつけたりして、なんとかカラスを追い払いました。
ふらふら、ぽとりと落ちるたぬきを受け止めます。
……うん。クラクラしてるけど大丈夫みたい。
私は左右をきょろきょろ見渡して、とりあえず人目につかないところまで入りました。
「大丈夫? 歩ける?」
路上に降りたその子は二・三歩たたらを踏んだものの、なんとか四本の脚で立つことができました。
まだまだ幼いみたい。私より年下かな。
たぬきは大きな目で私を見上げて、鼻をひくひく鳴らしました。
……そういえば、京都のたぬきと対面したのは初めてです。
「はじめまして。君は化けたりできるのかな。実は、私もたぬきなんだよ」
ポンッと耳と尻尾を出してみると、案の定びっくり。
目を丸くする姿に私はちょっと得意げ。
たぬきは綿毛みたいな体をふるふる震わせて、むんっと気合を入れたようでした。
あ、ひょっとして……。
ポンッ!
と、相手も化けました。
小学生くらいの男の子でした。気弱そうだけど、同時に聡明さも感じさせる顔つきです。
そこで私は、彼が首から携帯電話を下げていることに初めて気付きました。
「助けてくれて、ありがとうございます」
男の子は改めて私に向き直り、ぺこー。
「あ、これはどうもごていねいに」
私も釣られて、ぺこー。
彼は糺の森を住処とする狸の一族で、今は修行中の身なんだそう。
今は修行先に向かう途中でうっかりカラスに絡まれて、びっくりして化けの皮が剥がれちゃったといいます。
「どんなことしてるの?」
「偽電気ブラン工場で奉公をしています」
途中まで一緒に歩く道すがら、男の子はそう言いました。
……偽電気ブランって何?
きょとんとしたのに気付いてか、男の子はむしろ意外そうな顔をしました。
「そっか。お姉さんは京都のたぬきじゃないから知らないんだね」
偽電気ブラン。
偽と言うからには本物があるのであって、真の電気ブランは東京浅草の神谷バーという酒場にあります。
舌先にぴりりと来る度数、独特の甘みと香りが特徴の、明治期に誕生したお酒です。
ただし製法は今もって門外不出。
しかるに「偽」電気ブランとは、昔々ある京都の電話職員がその味に感銘を受け、我流でその味を再現しようとしたものなんだそうな。
けれど研究は難航しました。
発電所をひっそり使ってあれやこれや試行錯誤した結果生まれたのは、本物とは似ても似つかない無色透明の不思議なお酒だったのです。
ところが、それはそれで。
半ば偶発的な事故の形で生まれたお酒は、たいそう芳醇な香りと透き通るような飲み心地の良さを獲得していました。
結果本物とはまた違った立ち位置を得て、今でも岡崎疎水の工場で密かに製造され、洛中洛外の人や狸、天狗達にひっそり流通しているといいます。
こっちの製法もやっぱり秘密。だけど、発電所をまるまる使うほどの電力が必要なのは間違いなさそうです。
「お姉さん、電気は大事だよ。僕は電磁気学を修めようと思うんだ」
「そうだねー。私達たぬきの文化的生活も、電気があってこそだもんね」
電気こそまさに偉大なる発明。文明の利器。たぬきもその恩恵に預かりっぱなしです。
びば文明開化。
「だけど、あんまり大きくし過ぎるといけないよ。使い方を間違えると雷みたいになっちゃう。雷神様は怖いんだ」
「雷、怖いよね。私もまだちょっと苦手なんだ」
男の子はこくこく頷いて、ふと誰かを案ずるような顔をしました。
「母上がね、雷が大嫌いなんだよ。だから僕は電気を上手く使えるようにならなくちゃ」
手を振りながら去っていく男の子を見送り、私も家を目指します。
ちょっと寄り道になったけど、そんなに時間はかかっていませんでした。
雷かぁ。
私も怖かったなぁ。
今ではまあ慣れたけど、あの「ごろごろどかーん!」にはまだうっかり尻尾が出そうになっちゃいます。
小さい頃はそれこそこの世の終わりみたいな気持ちになって、静まるまでずっとお母さんにくっついて震えてたっけ。
あの子のお母さんにとって、雷様はまさに弱点なんでしょう。
誰にだって弱点はあるんです。
結局のところ化け術とは、高い集中力を必要とするもの。その集中を乱す何かに直面すれば化けの皮はあっさり剥がれます。
一時期の私ときたら、プロデューサーさんを見たらくしゃみを連発して変化が解けちゃう有様だったし。
…………ん?
あれ?
弱点。集中。化けの皮。たぬきはそう。だったら狐は?
月、空、雷様、電力、苦手なもの。
紗枝ちゃんの弱点は。
〇
ぽんぽこ転がる勢いで家に戻ると、みんなびっくりしていました。
「敵襲かっ!?」
「ちっ違、違うの! 聞いて! 私! たぬきで電気で、カラスのくしゃみがお母さん!」
「落ち着きなされませー」
お茶の間に上がり込み、お水を頂いて深呼吸。
そして語りました。
ひょっとしたら無茶で、たくさんの飛躍があって、藁をも掴むような一つの思い付きを。
たぬきが絞り出した、精一杯の悪巧みを。
三人とも最後まで神妙に聞いています。
できるかどうかと言われればかなり難しい、言ってしまえば賭けにすら近いものです。
無茶な夢物語と切って捨てられそうだけど、思い付くのはそれしか無かったから。
「…………なるほどー」
ぽそり、と芳乃ちゃんが呟きます。
「化かし合いの要諦は、とにもかくにも相手の虚を衝くことに尽きまするー。その案ならば、あるいはー……」
見ると、蘭子ちゃんも雪美ちゃんも大きく頷いて。
大福ちゃんとペロちゃんがにゃーと鳴き、周子ちゃんのお母さんがお昼ご飯を持ってきました。
決まりということです。
〇
食後、芳乃ちゃんが懐をごそごそまさぐったと思ったら。
「すまひょでしてー」
てけてけてけーん。
彼女は事務所から支給されたそれをぺしぺし操作して、どこかに連絡を取り始めました。
上手になったなぁ。
「電話するの? 誰に?」
「美穂さんの策ならば、流石に今少し人手が欲しいところでしてー。明日までには間に合いましょうがー……」
◆◆◆◆
「京都……ですって。どうする?」
「近い近ーい。あたし的には散歩圏内だよ~にゃっはは~♪」
「ん~、カリスマ的にはそこらへんどう思……ワオ! 荷物まとめるの早ーい☆」
「急ご! もう時間あんまり無いみたいだから!」
【 中編 ― 終 】
一旦切ります。
ちょっと「有頂天家族」要素濃いめになります。ご注意ください。
つまり、某モバマス系SS作家の作品が仮面ライダーを知ってた方が楽しめるように、有頂天家族を知っていた方が楽しめますかね?
>>164
知っていればニヤッとできますが、知らなくても問題なく楽しめると思います。
ここまで強くクロス要素があるのは本作だけです。(舞台が同じ京都なので)
【 後編 : 彩を穿つ 】
◇紗枝◇
「お父はん! それ、本気で言うてはりますの!?」
聞くなり声を荒げてしもて、あかん、と思いました。
ここでは平静やないと、目の前の狐はうちの心の根までも入り込んで暴き出してまう。
それでも、せめて異を唱えておかへんことには……。
「何か問題でも?」
「……いくらなんでも、悪食が過ぎひんどすやろか?」
「狐とて霞を食んで生きてきたわけではない。時には山の獣を噛み殺して血肉を啜った時分もあろう。先祖に倣うのさ」
「そないなこと言うたかて、人を二人も喰うてまうなんて。正気の沙汰やありまへんえ!」
「ほう」
お父はんが呟き、扇いではった扇子を「ぱちん」と閉じます。
その扇子の先で狐面を軽く上げ、白い細面に光る眼で、ひたと娘を見据え。
「ひとつ聞くが、その『正気』というのはどちらの基準だね。狐か? 人か?」
うちは、すぐには答えることができずにおりました。
暫しの沈黙を置いて、お父はんは静かに語り始めます。
まだ幼いうちに狐の掟を語って聞かす、あの時と同じ口調で。
「紗枝。おまえはいつしか、俗人の世にかぶれてしまうようになってしまった」
街に出て遊ぶこと。
こっそり覚えた芸のこと。
いつからか人間に入れ込み、あまつさえその為に仙気を使うてもうたこと。
お父はんはそれを責めるでもなく、ただ淡々と、
「日舞などと、一体いつどこで拾ったものか知れぬが、狐の修行には無用だ。
未練がましい想いなど絶ってしまえ。おまえは何も隠せていない」
小娘の仮面などはお見通しと。
それが為の、この仕打ちと。
面と向かってそう言われたも同然やった。
うちは腹を括りました。
二度とは会えへんでもええと思うとった。今生の別れでも、それで丸く収まるならと。
せやかて、いくらなんでもこれは別や。
あの二人を煮え油に落とすくらいなら。
うちが牙を剥くより早く、お父はんが「鏡」を傾けました。
がたたたたたたたたっ。
座敷の景色がゆらりと揺れたと思えば、四方八方の虚空から格子木が飛び出してうちを囲いました。
これは檻や。お父はんの手にかかれば、屋敷に忽然と檻を組むなんて朝飯前。
「こうなったのも彼らの選択だよ。自ら檻に舞い戻った獲物は、釜に落ちるより他なかろう」
うちを捉えた四角い檻は、そのままあぶくのように座敷をぷかぷか。
その前に立ち、お父はんは娘の顔をまじまじと見ます。
「そして物事には因果がある。全てはおまえが俗世に染まった結果だ」
◆◆◆◆
◇周子◇
満月の夜が近い。
……らしい。窓も時計も無いんじゃ時間なんてさっぱりだけど、感覚でわかる。
座敷牢の外では狐たちが慌ただしく動き回っているみたいだった。
宴の準備だろう。満月の夜、彼らは大座敷に集まって儀式と宴会を行うというから。
そして、その宴のメインディッシュになるのが、あたしとプロデューサーさん。
だけど他には何の変化も無く。
二人は座敷牢に放り込まれたまま、屋敷の慌ただしい気配を探るのが関の山だった。
「しっかし、人間の天ぷらなんて考えるかね普通」
「食ってもうまくないと思うんだがなぁ」
現状を一言で表すなら、二人して煮えたぎる釜の縁でタップダンスしてるようなもんだ。
油の底に沈むのは時間の問題。仮にこれで狐のお腹に納まったとして、表じゃどういう扱いになるんだろ。行方不明?
「まさかプロデューサーさんと心中寸前なんてことになろうとはねー」
「なんだ、俺と死ぬのは嫌か?」
「悪かないけど、あと100年は早いんとちゃうかな」
こうなると軽口を叩き合うしかすることがない。
「……てか落ち着いてるじゃん。観念しちゃった感じ?」
まさかと彼は首を振る。こんなんだけど命懸けの状況だ。今まででもトップクラスにヤバいことは間違いない、けど。
「事が動くとすれば満月の夜だろう。それまではじたばたしたってどうにもならん」
「まあ確かに」
「それに、屋敷の仕組みは美穂達だって聞いてる。あっちはあっちで動いてくれてると考えるしかない」
今や声は分断されたけど、必要な情報と条件は紗枝ちゃんの母狐からもたらされている。
その点に関して言えば彼女は公平だった。決してこちらの味方ではないにしてもだ。
プロデューサーさんは漆喰の壁に背を預け、薄暗い天井を仰いだ。
「みんなを信じよう。神頼みならぬ、狸頼みだ」
◆◆◆◆
◇美穂◇
事前準備に日が暮れて、夜が明けて当日の朝。
ダムに隣接する夷川発電所の前には、なにやらうごうごと人が集まっていました。
先頭にはメガホンを手に取る二人組。
緊張の面持ちで、閉ざされた施設内に声をかけます。
「無駄な抵抗はやめろー!」
「君達は包囲されているー!」
私達は今、テロをしているのです。
立てこもりです。人質も取ってます。
表向きは水力発電所、裏の顔は偽電気ブランの製造工場というこの施設を占拠してはや数時間。
朝早くから表は大騒ぎ。集まる黒山の人だかりは、実はみんな京都の化け狸なのです。
「た、たすけてー」
そして人質ならぬ狸質は、先日出会った男の子たぬきなのでした。
「それ以上近付かないで! こ、この子がどうなってもいいんですかっ!」
「たすけてー。ははうえー、にいちゃーん」
窓から顔を出して叫びます。演技はちょっと上手じゃないかも。
男の子は事情を先刻承知でした。あれから私の相談を受けて、協力を申し出てくれたのです。
「母上や兄ちゃん達には話しておいたよ」
「それで、なんて……?」
「いてもうたれって言ってた」
ひそひそ声で心強いことを言ってくれます。
そうこうしている内に人だかりは増えていきました。
工場に従事するたぬき、このままでは偽電気ブランが飲めんと憤るたぬき、なんやなんやと寄り付いた野次馬もとい野次狸(これが大半)。
騒ぎが大きくなっていくのを受けて、メガホンたぬきコンビは声を張り上げます。
「役立たずの尻尾丸出し君なんてどうなってもいいけどね、そこはうちの工場なんだ」「その通りだよ兄さん!」
「ただでさえ父上がいなくなって大変なのに、外様の狸に好き勝手やられちゃたまらないよ」「迷惑千万! 迷惑千万!」
「第一こんなことされて、妹に怒られるのはこっちなんだぞ! 絶体絶命だ!」「軽くやばいよ兄さん!」
「ていうかその海星はどこにいるんだろう。工場がこんなになってるのに」「まさかツチノコ探しに行ってるんじゃ」
夷川発電所の責任者(?)は兄弟らしいです。二人とも顔そっくりだから双子なのかも。
申し訳ないとは思うけど、こっちだって緊急事態。
プロデューサーさんと周子ちゃん、紗枝ちゃんを助ける為にはこれしかない。
それに時間だって無いんですから。
窓から離れて中に戻ります。形だけ狸質の立場でいた男の子に導かれ、施設の奥へ。
私達が用があるのは偽電気ブラン工場じゃなくて、それに電気を供給する発電設備でした。
「志希ちゃん、そっちはどう?」
「んー」
ケミカル白衣から黄色い絶縁衣に変身した志希ちゃんは、大きな設備の周りをうろうろ歩き回っていました。
「まあ仕組みは普通の水力発電機ってゆー。その半分を街に流して、もう半分で工場を回してるのかにゃ?
見た目はレトロだけど案外パワーがあるよねー。シキちゃんびっくりしちゃった」
志希ちゃんはあらためて私を見て、にぱ! と微笑みます。
「それにしても悪いこと考えるようになったねー。プロデューサーの影響? それとも周子ちゃん?」
「うぅ、こ、これしか手が思いつかなくて……」
「お姉さんも、電気に詳しいんですか?」
男の子の問いに志希ちゃんは「んにゃ~」と首を傾げて。
「あたしじゃなくて、専門はそっち」
指差す方から、新たに二人が出てきました。
「しかし奇っ怪な物置もあったものだな。家財道具から何から手当たり次第に放り込まなきゃああはならんぞ」
「まあ、おかげで掘り出し物もあったわ」
ウサ、ウサ、ウサ、ウサ、ウサ。
たくさんのウサちゃん型ロボを引き連れて現れたのは、奏ちゃん。
そしてツインテールの眼鏡の女の子……池袋晶葉ちゃん。
私は直接面識は無かったけれど、機械工学やら何やらの天才で、志希ちゃんや奏ちゃんとも知り合いだそう。
プロデューサーさんそっくりのメカを造ったり、社食を丸ごとハイテク回転寿司に改造したり……と聞くだに凄い活躍ぶりです。
彼女と志希ちゃんが今回の作戦の起点。来てくれて本当に良かったです。
「なんかおもしろそーなの見つかったのー?」
「うむ。物置の奥からいいものが掘り出せたぞ。やはり歴史のある発電所だな」
どすんっ!!
とたくさんのウサちゃんによって運び出されたのは、埃を被った巨大な円柱状の装置でした。
「旧式の大型テスラコイルだ。おそらく模造品だが、これだけ立派なら必要十分というものだな!」
「いけそうかしら、美穂ちゃん? これならお望み通りの現象は引き起こせると思うけど」
「う……うん! これならきっと、狐を化かせる!」
ふむ、と顎に手を当て、晶葉ちゃんは目を細めてこっちを見ました。
「呼ばれて来てはみたが、なかなか興味深い状況だな。たぬきだらけの発電所に密造酒……か。
ふっふっふ、古い同僚の声掛けにも応じてみるものだな……!」
〇
一方その頃、芳乃ちゃんは発電所の屋上にちょこんと座っていました。
よく晴れた空をじーっと見上げて、来たる夜に向けて集中を練っているようでした。
雪美ちゃんは付近の猫に声をかけて回っています。
志希ちゃんと晶葉ちゃんと奏ちゃんは施設の中。
私と男の子は再び立てこもり犯と狸質になりきって窓から顔を出します。
「大体そっちの要求はなんだって言うんだい」「うちの工場を丸ごと奪おうってんじゃないだろうね」
「そしたら困るぞ。とても困る!」「偽電気ブランはそこじゃなきゃ作れないからね」
「作り方も僕らはなんとなくしか知らないし」「なんとなくで再現したら偽偽電気ブランになってしまうよ」
「そのまま夜まで入ってきちゃ駄目ですっ!」
メガホンたぬきはうろたえました。まさか丸一日占拠されるとは思っていなかったようです。
そのまま近くのたぬき達と集まって、うごうごもぞもぞ相談し始めました。
「夷川親衛隊の奴らだ」
男の子は小さく呻きました。
「あいつら、タダで偽電気ブランが飲めるからって従ってるけど、飲めないとなると大変だよ。暴れちゃうかも」
「ええい、付き合ってられない!」
と、メガホンたぬき(兄の方)が大声をあげます。
「大体どうしてそっちの要求に従わなきゃいけないんだ。責任者は誰だ!」
「僕らだよ兄さん!」
「あ、そうだった。つまり僕らが一番偉いってことになるじゃないか。だったら決定権も僕らにあるぞ!」
そうだそうだ! と唱和する夷川親衛隊。
野次狸達も同調し始めたようです。そうだそうだ、酒飲ませろ、騒げればなんでもいい。
「だから交渉には乗ってやらないぞ。狸質なんてどうでもいいさ!」
「君達、こういうのは四面楚歌っていうんだよ。袋のネズミ、いやたぬきだ! そして僕らはライオンさ!」
ポンポンッ!
同時に、なんと二人ともライオンさんに化けたのです。
後ろのたぬき達もやる気十分。どうも強行突破する方向で話が固まったようです!
「お尻を噛んで鴨川に放り込んでやる!」
「捲土重来ーッ!」
ま、まずいかも!
そう思った矢先に――――
「ん待てぇぇえいっ!!」
ざざんっ!!
突然の大声と、たぬき達に立ちはだかる黒い影!
「ここから先を通りたくば、この魔王を斃してみせよっ!!」
ら……蘭子ちゃん!
たぬき達はポカンとしていました。
なんだこいつ。
全員の顔にそう書いてあるような気がします。
ら、蘭子ちゃん、どうするの……!?
固唾を呑んで見守る私達をよそに、蘭子ちゃんは低く笑い……。
「あのう、どちらさまでしょう」
「人間だよ兄さん! なんかへんてこりんな人間だ!」
「ふっふっふ……人間? 汝らには、我が身がただの人間に見えるか……!」
バッ!!
「よかろう! ならば聞くがいい、我が魔性に魅入られし哀れなる霊獣達よ!!」
「「!?」」
「創世の時! 天より堕ちし白銀の星が、大いなる地に焔を産んだ!!」
シュバッ!
「それは滅亡の鎮魂歌(レクイエム)にして、誕生の聖譚曲(オラトリオ)……。天魔の交わる火の国に、我が魂は形を得たり!!」
シュババッ!!
「そして14の鐘が高らかに鳴り響き、祝福と呪詛を等しく秘める翼は即ち、無垢なる黒と魔道の白……!!」
ササッ、ドンッ!!
「今こそ聞け! 闇に染まり空を翔け、運命(さだめ)を切り裂く聖なる歌声(しらべ)!!
而して刮目せよ!! 耀きの剣を手に、千年の都に降誕せしこの威容(かたち)!!」
「――その魂に刻め!! 魔王神崎蘭子とは、我のことなりぃっ!!!」
ババァァーーーンッ!!
――――ざざざざざっ!
ポーズをキメる蘭子ちゃんを前に、たぬき達は一斉に尻込みしました。
本気で気圧されていました。
その威風堂々たる名乗り、なにやら物凄いオーラ、根拠はともかく偉大な感じに京都のたぬきは原初の畏怖(?)を呼び起こされたようです。
「どどどどうしよう」「いや人間だろう、天狗じゃあるまいし」「でも人間が一番タチが悪いって言うじゃないか」
「変な幻術師って線もあるし」「ひょっとしたら弁天と同類かもわからん」「キャラデザ的に銀髪っぽいしなぁ」
「滅多なこと言うな、あんなおっかないのが二人もいてたまるか」「ぶるぶるしてきた」「いじめられる」「酒が飲みたいのう」
「ふんむ……どうしたのだ、獣達よ? 先程までとは態度が違うではないか……」
ついっ。
ざざっ。
蘭子ちゃんが一歩近付くごとに、たぬき達が一歩退いて。
もう一歩近付いたら、更に二歩遠ざかって……。
「…………がおーーーーーっ!!」
わーーーーーーーっ!!
走り出す魔王にたぬき達は逃げる逃げる逃げる、蘭子ちゃんは追う追う追う。
日傘を振り振り全力ダッシュの蘭子ちゃんが、ふとこっちを振り返りました。
――今のうちに!
「蘭子ちゃん……!」
強い視線に頷き返し、工場の中に戻ります。
時刻はまだ朝。ここからが勝負です……!
〇
「ぼんじゅ~。食べ物たくさん買ってきたよー」
裏口から入ってくるのはフレデリカちゃん。
それと……。
「――美穂っ!」
「わぁ! み、美嘉ちゃん!?」
目が合うなり駆け寄ってきて、がばっ! と抱き着いてくる美嘉ちゃん。
勢いに転びそうになりながらなんとか受け止めました。
美嘉ちゃんは私を強く抱き締めた後、正面から私の顔を見ました。
「大丈夫だった? 三人は!?」
「うん、私達は大丈夫。周子ちゃん達は中だけど……きっと無事だよ。信じてる」
ぎゅっ……と、美嘉ちゃんはほんの一瞬、痛みを堪えるような表情を見せます。
だけどすぐ気丈に笑ってみせるのでした。
「わかった。それじゃ早く引っぱり戻して帰ろ。みんなで……!」
「……うんっ!」
〇
「ふむふむ……なるほど。要はハッタリか。しかし成功すればなかなかの見物だな」
「手順はともかく納期がキビしいねぇ。大丈夫かにゃ、池袋博士?」
「誰に言ってる。お前こそ専門でないからといってまごつくなよ、一ノ瀬教授!」
「にゃはは~。電磁気学はバケガクのおやつにちょっとつまんだ~♪」
晶葉ちゃんと志希ちゃんを中心に、たくさんのウサちゃんロボを動員して作業が始まります。
どうやら発電機に手を加えているようでした。
私も手伝います。大事な作業はできないけど細かい雑用や、手元にない工具に即席で化けたりして。
たぬきの男の子は、そんな私達をじっと見ていました。
「お姉さん達は、友達を助けようとしているんだよね」
「うん、大事な友達なの。早く出してあげなきゃ」
「そっか。……」
男の子も工具を手に取りました。
そしてゴーグルをすちゃっと装着し、志希ちゃんと晶葉ちゃんを手伝い始めたのです。
「え!? だ、駄目だよ! 君は手伝わなくていいから!」
「ううん、僕もやる。少しは勉強してるから」
「で、でも、狸質役で協力して貰ってるのに……!」
これ以上手を貸したら完全にグルだって思われちゃう。
そうなると事が済んだ後で彼の立場が危うくなるに決まってます。
けれど男の子は気にしない様子で、尻尾を出したまま笑いました。
「これも阿呆の血のしからしむるところだって、兄ちゃんが言ってたよ」
〇
それから、長い一日が過ぎていきました。
日が暮れるまで工場にいて、東の果てからまるい月が顔を出して、作業は続いて……。
「では、これをこうして~……はいっ! 種も仕掛けも、あったりなかったり?」
ぱーんっ!
おおー、やんややんやぱちぱち。
篝火の炊かれた外では相変わらずたぬき達が集まっていて、フレデリカちゃんの手品に沸いていました。
蘭子ちゃんも一緒になって楽しく鑑賞しているようです。
スーパーコミュ力の持ち主であるフレデリカちゃんが混ざって、気が付けば仲良しになってたみたい。
「え、最近カレが冷たい? ダルマ集めにうつつを抜かしてる? あー、それだめだめ! ガツンと言っちゃいなよ!」
美嘉ちゃんは雌狸の恋愛相談に乗っているみたいです。行列ができていました。
たぬきには生来のんきなところがあるので、ほとんどはもう立てこもりのことはどうでもよくなっているみたいです。
どうしてここに集まっているのかわからない子達も寄ってきて、思い思いの場所で酒盛りをしたり将棋を指したりしています。
もう少し……タイムリミットは午前0時……。
〇
「はいこれ」
「わひゃっ」
ぴとっ、とほっぺたに冷たいものが。
見ると知らない女の子がスポーツドリンクを差し出してくれているのでした。
「ありが……え! 誰? ど、どこから入ってきたの?」
「勝手口なんて幾らでもあるわ。外の奴ら阿呆だから気付かないだけ」
ポンッ!
と戻ると、一匹のかわいらしい雌狸なのでした。
敵意は感じません。ここは素直に厚意に甘えることにします。
「んくっ、んくっ……はぁぁ、おいしい……生き返るぅ」
「そっか。じゃ、頑張って。周子によろしく言っといて」
え?
「ちょ、ちょっと待って! 周子ちゃんの知り合いなの?」
雌狸はこちらに尻尾を向けたまま、少し照れくさそうに答えます。
「昔一緒に遊んだことがあるの。何年か前のことだったかな」
「それって――」
――中学ん時の友達にね、化け狸がいたんだ。
いつか周子ちゃんが言ったことが思い出されます。
それじゃあ、彼女の友達ってつまり……。
声をかけようとしたのに、雌狸はもうどこにもいませんでした。
素早いというかなんというか……工場の中を熟知していないとできないスムーズな動きです。
ちゃんとお礼を言いたかったのになぁ。
「……誰? 誰か来たの?」
男の子の集中がほつれ、ふとゴーグルを上げて周りを見渡しました。
くん、くんと鼻を鳴らし――
「海星姉ちゃんの匂いがする」
〇
ぎらぎらと満月の照る、ひどく明るい夜。
金色の真円が中天に頂く直前――午後11時。
みんなの見守る中で、「それ」は完成しました。
◆◆◆◆
◇周子◇
宴が始まる。
今や大座敷には屋敷中の狐が集まり、様々な料理に舌鼓を打ち、酒を酌み交わしていた。
あたしらはその中心に並んで座らされている。
ご丁寧に手足まで縛られている。狐達はいい気なもんだ。お面付けたまんまでどうやって飲み食いしてんのやら。
「……プロデューサーさーん。生きてるー?」
「一応……」
まあ、このままだと風前の灯火なわけだけど。
座敷は障子紙越しでも明るかった。満月の光に照らされた座敷は白い。
きっとあの障子を開けば、満点の空が広がっているんだろう。
と、奥の襖がすたんと開き、例の父狐が入ってきた。
それから……。
「紗枝ちゃん……」
紗枝ちゃんは何も言わなかった。
言えなかった、の方が正しいのかもしれない。
ぷかぷか浮かぶ立方体の檻に閉じ込められ、宙で正座のまま黙りこくっていた。
眉ひとつ動かさない。こっちを見ようともしない。
だけどその顔は蒼白で、よく見れば両手は血が滲みそうなほど強く握り込まれている。
「いい月だ、諸君」
父狐が口火を切り、なにやら仰々しいご挨拶を終えて拍手喝采を浴びる。
さて――と視線がこちらに注がれた。
「今日の善き日に、珍しき獣を諸君に饗そう。鼠よりも希少なもの、人の天麩羅だ」
続いて、ドラム缶の倍はありそうな大釜が二つ座敷に運び込まれた。
中では油が並々と注がれ、高温にぐわらぐわら煮えたぎっている。
……てか、よりによって丸揚げかーい! あたしゃ石川五右衛門か!
調理担当の狐がわらわら入ってくる。人間天麩羅の出来上がる過程までがお楽しみってことか。
引き結んだ紗枝ちゃんの唇から血が垂れた。
檻と無数の狐に隔たれて、目を合わすこともできなかった。
囁き合う狐達の笑い声。近付く宴の最高潮。
障子の向こうで、月はゆっくりゆっくり上昇している。
子の正刻……午前0時が、繋がる時か。
「最期に」
プロデューサーさんが唐突に口を開いた。
狐の視線が一気にこちらに集中した。
「我々を腹に納めるお狐様の為、余興をさせて頂きたく思います」
一瞬目配せをする。打ち合わせ通りだ。
「……ほう?」
父狐が小首を傾げた。紗枝ちゃんがわけがわからないという顔をしている。
これは策とは言えない策。外を信じなければやろうとも思わないヤケクソ的な唯一の手段だ。
「うちの塩見が、舞をひとさし奉じたいと言っておりまして」
リミットまであとわずか。
ただの人に神通力はなく、力こぶも心許なく、あるのは口八丁手八丁。
上等だった。狐を前に稼げるものならなんだって稼いでやる。
一か八か、いざ尋常に。
一旦切ります。あと3~4回くらいで完結すると思います。
リアル満月は過ぎましたが、もう少しお付き合い頂けると幸いです。
◆◆◆◆
◇美穂◇
巨大な装置を屋上にセットし終えても、休憩する暇はありませんでした。
旧式の大型テスラコイルを中心としたそれは、あたかも巨大な天狗の鼻。
私達の身長の倍はあり、まさに天を衝くかのごとく傲然と聳え立っています。
根本からは長くてぶっといケーブルが何本も伸びて、窓から中の発電装置に直結されていました。
「さて問題は射程距離だが」
晶葉ちゃんは鋼鉄の天狗鼻を見上げながら説明します。
「これほど大型の装置なのだから、相当のものにはなるだろう。しかしここは地上だ。
高所に設置しようにも、疏水のど真ん中だから周りに高い建物が無い。どこまで高空に届くかは未知数だな」
「高空!?」
フレデリカちゃんの剣刺し箱に入っていたメガホンたぬき兄弟がにわかに大声を上げました。
「それは問題だ! 大問題だよ! だって京都の制空権は天狗のものだからね。
何を考えてるか知らないけど、そんなことをして癇癪玉を喰らっても文句は言えないぞ!」
「はーい種も仕掛けもあるかも無いかも~♪」
箱に剣を突き刺されて、彼らは黒ひげ危機一髪の要領で「うはーい」と吹き飛んでいきました。
「美嘉ちゃんデビルはさー、これ抱えて飛んでくとかできないのかにゃ?」
「こんな重いの持ってけるわけないでしょ!」
「流石に重量が嵩みすぎたな。作動に関しては問題ないが、空中に運ぶのは楽じゃなさそうだ。一度試しに発射してみるか?」
ああでもないこうでもないと議論を交わしていると、屋上に座ってずっと月を見上げていた芳乃ちゃんがぽそりと口を挟みます。
「心配はご無用かとー」
明るい月光にさっと影が差した、かと思えば、
美人のお姉さんが一人、上空の冷たい風を連れてくるように、当たり前に屋上に降り立つのです。
「京都の制空権は、誰のものだって?」
――ざざざざざざざざっ!!
たぬき達は一斉に元の姿に戻り、毛玉となってその場にひれ伏しました。
私はぽかんとするばかり。飛んできたその人が誰なのかもわからないのですから。
京都のたぬきは天狗に師事し、時にこき使われ、時にいじめられる。
そうした完全な上限関係にあるということを、私は遅れて知るのでした。
「初めまして、可愛いたぬきさん。相馬夏美よ」
と、雪美ちゃんがひょっこり顔を出して「にゃおう」と鳴きます。
それに相馬夏美さんが「はいほー」と応えます。
雪美ちゃんはペロちゃんと大福ちゃんを筆頭に、たくさんの猫ちゃんをぞろぞろ連れていました。
「…………夏美」
「雪美ちゃんも来てたの? 今夜はずいぶん賑やかなのね」
「楓さんはいずこにー?」
「挨拶回り中。もうすぐ済むから、私だけ先に様子見に来たの。それより話は聞いたわよ。空に行きたいんでしょ?」
言って、装置の隅っこにゴトンと置かれたものに見覚えがありました。
古びた年代物の茶釜です。
「これって……!」
「そ、茶釜エンジン。浮かすだけならこれで十分だと思うわ」
「でもあの、えと、いいんですか? 京都の空は天狗様が支配してるって……」
茶釜エンジンとは、天狗秘蔵の浮遊からくり。お酒を燃料とし、稼働し続ける限り触れたものを重力から解き放つ不思議の魔道具です。
タイプは違うけれど、熊本で似たようなものを見たことがあります。
目を白黒させる私達に、夏美さんは茶目っ気たっぷりにウインク。
「うるさい奴らはほっとけばいいのよ。飛行機の高さから見れば、天狗も狸も変わらないわ」
そして赤ワインを開栓し、ルビー色の中身をどぼどぼどぼどぼどぼどぼどぼどぼどぼどぼ。
燃料をたらふく呑み込んだ茶釜エンジンは「ぐぐぐっ」と力を漲らせて……。
「む……飛んだ! 反重力システムか!? 興味深い!!」
「お~、流石にこれはあたしにも未知のメカニズム~」
装置がぐんぐん上昇していきます。
発電機と接続したスイッチは太い上にとにかく長いので、このままいくと京都市街を一瞥できる高さまで浮き上がることでしょう。
「……よし、いけるぞ! 電力を供給する! 打ち合わせ通り、日付変更のタイミングでやるぞ!」
晶葉ちゃんがうきうきで施設内に取って返します。
時刻は午前零時直前。
誰もが浮かび上がるヘンテコ装置と、眩しいくらいの満月を見上げていました。
ケーブルに繋がれた作動スイッチは、私の手の内にありました。
◆◆◆◆
◇周子◇
「無論、却下だ」
けんもほろろとはこのこと。
舞を見せましょうかという提案に、父狐はめんどくさそうに首を振るだけだった。
プロデューサーさんは平静。煮え立つ油の釜を前に、企画のプレゼンでもするような顔でいる。
「……無理もないか。見る価値も無いと、そう仰るわけだ」
「当然だ。人ごときのくだらぬ踊りを見せられるなど時間の無駄でしかない。残念だが、貴君の延命には付き合えんよ」
「でしょうねぇ。もし手下の一匹でもその『くだらぬ踊り』とやらを気に入っちまえば、あんたの面目丸潰れだもんな」
口調から遠慮会釈が無くなっていく。計算ずくのことだと思う。
あからさまな無礼に狐が色めき立つ。父狐は無言。釜に落ちる前の取るに足らぬ雑言と切って捨てるか、それとも。
「……ああそういえば、どなたかの娘さんはそうなってましたっけ?」
うわエッッグ。
刺し殺すみたいな煽りを受けて、父狐はしばらく黙っていた。
狐全員、紗枝ちゃんもあたしも固唾を飲んで見守っている。
ややあって、狐面に隠された口元から低い笑いが漏れた。
「貴君もよくよく性根が据わっておられる。お座敷芸を高く見積るのにも限度があろう」
「まあそれが仕事ですからなぁ。でも無理ならいいんだ。どうぞこのまま釜茹でになさってください」
縛られたまま鼻を鳴らし、狐の高慢をせせら笑う。
「怖いんでしょう、また娘さんの心を奪われるのが。そりゃそうだ。うちのアイドル達はみんな凄い子でね、見る者みんなを笑顔にしてくれるんです。
だけどまあ……見たくもないってんならそれもまた良し。人の芸から狐が逃げたと、いい冥途の土産が出来ますわ」
一つだけ確かなのは、古い狐は高飛車で高慢ちきのコンコンチキだということ。
結界に引きこもって表世界の奴らを全員見下し、人も狸も天狗もみんな阿呆だと決めてかかっている。
人間に舐められるなどとは言語道断。どんな小さな傷でも、付けられたからには黙っちゃおかない。
「よろしい」
ぱしんっ、と扇子で座敷を叩き、場の空気を改める。
面の下の見えない顔からは、ふつふつと静かな怒りが滲んでいた。
「見せてみたまえ。諸君の寿命が数分伸びることを許そう」
――周子。
プロデューサーさんの目配せに頷く。狐の妖術か、あたしを縛る縄が音もなくほどけて落ちた。
はっきり言って何を踊るかについてはこっち次第だった。
これは完全な時間稼ぎ。そして……視線をあたし一人に集中させる、一種の陽動だ。
すたすたと歩み出て、月光の滲む障子戸を背にする。
音楽無し、小道具なし、相方なし……問題なし。
『美に入り彩を穿つ』、アカペラ4分30秒。じゃ、いきましょうか。
◆◆◆◆
◇美穂◇
ぐぐぅぅうん、と途方もない電力がケーブルを通っていくのがわかりました。
空中のテスラコイルはもう点のよう。なんだか凧揚げを思い出す光景です。
みんなそれを見上げていました。屋上に立つ私達も、篝火に照らされるたぬきも、無数の猫も。
「それにしても、たぬきは面白いことをするのねぇ」
満月の夜空を仰いで、夏美さんは愉快そうでした。
「たまには帰ってみるもんだわ。京都は相変わらずだけど、こういうお客さんも来るんだから大したものよね」
「あ、あははは。お騒がせしてすいません……」
「いいのいいの。たぬきの阿呆なんて今に始まったことじゃないもの」
私を見返して、夏美さんはいたずらっぽく微笑みます。
「凄いのよ。山一つに丸ごと化けて、鞍馬天狗を総崩れにしたのだっていたんだから」
「山!? ほ、ほんとですか!?」
「そ。洛中洛外の化け狸を統べる大狸、先代偽右衛門下鴨総一郎。天狗も一目置く傑物だったんだから」
彼女の語りを聞いて、例のたぬきの男の子が誇らしげに胸を張るのが見えました。
「それで、今回は狐を化かしてやろうってわけでしょ。私そういうチャレンジブルなのって大好き!」
「――電力充填、OKだ! いつでもいけるぞ!」
晶葉ちゃんが窓から叫びます。コイルはケーブルの長さいっぱいのところでぷかぷか。
芳乃ちゃんはじーっと月を見上げながら、途方もない集中に身を置いていました。
夏美さんはいつの間にやらワイングラスを持っていて、赤く甘い液体を転がしながら、
「その狸が言ってた言葉があってね」
ぽそり、呟く夏美さん。
京の風に乗り、誰にともなく語り継がれてゆく、耳に心地のいい言葉でした。
◆◆◆◆
◇周子◇
土壇場に立てば人はなんでもできるもので。
本来、この舞は不完全だ。そもそもが二人で歌い踊る前提だし、音楽から何から無い無い尽くしも程がある。
だけどあたしは完璧に歌った。
二人分のパートを引き受け、最後の残心まで、一心不乱に踊り切った。
――さて、どうよ。仮面の下のその顔は。
呆れか、感嘆か。油に落ちる寸前の食材に哀れみでも覚えたか。
なんでもいい。拍手も歓声も要らない。無数の目がこっちに向いている、その感触だけでいい。
頬を伝う汗をそのままに、視線をふと檻へと向ける。
紗枝ちゃんはこっちをじっと見ていた。
まばたき一つしていなかった。両拳を握りしめたまま、あたしの舞の一挙手一投足を注視していた。
辛うじて保たれた無表情の奥には、たくさんの表出しきれない感情が渦巻いているようだった。
……そんな顔しないでよ。これ、あんたにも踊って貰うんだからね?
父狐が呟く。
「……やはり、児戯よな」
あたしは歯を剥いて笑った。
今の今まで、たった一人の人間から一秒も視線を外さなかったのはどこのどいつだ。
「なめんじゃねーっつーの」
すたーんっ!
叩き付ける勢いで、真後ろの障子を開けた。
背後には墨に浸かったような夜空と、闇を穿つ大きな大きな満月がある。確かに街の匂いがした。
あれは京都の空だった。
必然、あたし一人に注がれていた狐達の視線は、外へ。そして月へと向かう。
こちとら時間感覚なんて無くて、ただ外を信じて稼いだ時間だったけれど……。
今が、ちょうど午前零時になる瞬間だったらしい。
ざわりと胸に沸き立つものがあって、あたしはほぼ無意識にある言葉を諳んじる。
誰が言ったか、どこで聞いたか。京の風に乗った阿呆の格言――――
◆◆◆◆
◇美穂◇
ちかり。
中天の月が一瞬、妖しげな光をまたたかせます。
狐色の光だと直感でわかりました。今この瞬間、表と裏の世界で、みんながあれを見てるんだ。
「今でしてー」
ぴしゃりと言い放つ芳乃ちゃん。
手元のスイッチを握り込み、私はついさっき夏美さんが教えてくれた言葉を叫んでいました。
「お、面白きことはぁっ!!」
ぽちっ!
◆◆◆◆
◇周子◇
「――――良きことなりっ!!」
突如、巨大な雷霆が夜空を引き裂いた。
閃光、轟音、震動。真っ白な驚愕が座敷全体を打ち据えた。
誰も何も、言葉も無かった。固まっていた。竦んでいた。
白状するとあたしもビビった。一体何をしでかしたのかもわからない。
テスラコイルに夷川発電所の電力を横流しして起こした、大規模な放電現象――
という種を知らない身からすれば、確かに本物の雷だったのだ。
誰もが息を呑む一瞬の中で、あたしはどうして狐が龍を怖がるのか、直感でわかった。
龍は水神。雨と雷の化身。叢雲で夜空を覆い、激しい雷光を降らせる「月の天敵」だ。
だけど狐も狐で進化して、自然の雷に慣れ、結界を作って付き合い方も弁えていく。
今や雷雲が垂れ込めた程度では誰もビビらず、嵐が来たなら来たで引きこもって晴れを待つのみとなったわけだ。
そして千年の中で、「龍」という寓話……いわば漠然とした畏怖の概念だけが独り歩きして語り継がれてきたんだろう。
この放電は忘れ去った恐怖を思い出させる一撃だとあたしは思う。
狐を化かすにはその発想の上を行かなければならない。
自然をも欺く怪異でなくば届かない。
天気雨を超える珍事、文字通りの「青天の霹靂」。
地から天へ奔る雷は、墨の空を昇る龍そのものに思えた。
ぐわんっ!!
座敷が大きく波打った。結界を維持する狐達が、予想外の出来事にみんな肝を潰していた。
こじつけ結構、ハッタリは十分、種がどうでも化かし合戦はビビったもん負け。
美穂ちゃん達は、狐を見事化かしてみせたんだ。
紗枝ちゃんが何かを叫ぶ。父狐が威嚇めいた唸り声を上げる。
その時、空に変化があった。
まるで水面に石を落としたように、夜空全体が波紋を生じさせたのだ。
◆◆◆◆
◇美穂◇
放電は成功。派手な閃光が空を染め上げて、近隣が束の間の停電に追い込まれます。
テスラコイルはゆっくり降下していって……。
続いてなんと……空の月が、石ころみたいにぽろりと落ちたんです。
「……!!」
芳乃ちゃんが動きました。
落ちゆく偽月を見上げ、ばっと開いた両手をそちらに向けます。
翼のように広がる髪は、その端々にまでもチリチリと力を漲らせていました。
月はくるくる回転しながら、夷川ダムにぼちゃんと着水!
「鏡に花、水面に月、正しく合わせ鏡の秘儀……ようやく見つけましてー」
ダムから眩い光が溢れ出ました。空には無い丸くて大きな月が、水面でびかびか輝いています。
咄嗟に理解しました。
入口は空じゃなくて、水に映る月にこそあったんだ。
そして水月はもはや芳乃ちゃんの手の内にありました。
狐の秘儀を完全に理解した彼女の手に合わせ、光はぐねんぐねん波打ってこねこねされて形を変えます。
そして、むすんでひらいて、ぱんっ!!
「わたくしが保ちます! みなみな、中へ!」
渦が生まれ、水をのけて巨大な穴となります。
見えるのはダムの底ではなく、無数の狐面が居座る大きな大きな座敷でした。
――――開いたっ!!
◆◆◆◆
◇プロデューサー◇
空に大穴が開いて、京都の空間と繋がった。
やってくれたのか!
居並ぶ狐達はみな尻尾を出し、逃げ惑う下っ端もいれば、気丈に残るベテランもいるようだった。
穴から吹き込むのは京都の風。そこに懐かしい匂いを嗅いだ気がする。
入ってくるのは――――――
にゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあ
にゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあ
にゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあ
にゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあ
にゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあ
にゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあ
「…………って猫じゃねーか!!」
なだれ込む猫洪水に呑み込まれてたちまち前後不覚になる。どういうことだよ!
「……………………狐………………きらい」
むぎゅ、と俺の上に降り立つ美少女。誰この子。逸材では?
無数の猫が座敷で暴れる暴れる暴れる、遊ぶ遊ぶ遊ぶ。好き勝手にも程がある。
しかし狐も気丈なもので、逃げるでもなく応戦する者もいたりして座敷はいきおいカオスの様相を呈した。
と、猫に埋もれた周子がやってきて俺の縄をほどいてくれた。
「大丈夫プロデューサーさん!? 生きてる!?」
「ああ、なんとかな。それより……!」
紗枝は!?
もう座敷は戦争のような大騒ぎだった。見れば猫の他にも、巻き添えを喰らったらしいたぬき達がどかどか入り込んではうろたえている。
っていうか、たぬきもいるのかよ。なんか青々としたカエルも見えた気がするし。どうやって迷い込んだ?
それはともかく。
がばっと上体を起こして座敷の奥を見る。俺の上に乗った女の子はひょーいと狐狩りに向かった。
向こうの襖が開いて、父狐が逃げようとしているところだった。
その隣には当然、檻に閉じ込められた紗枝が浮いていた。
「紗枝!!」
なにはなくとも、きっちり確認しておきたいことがある。
「俺はまだ聞き間違いだと思ってる。だからもう一回だけ確認したい。あの時飽きたと言ったのは、本当のことか!?」
わずかな沈黙。
閉まりゆく襖。
紗枝はよじれた表情で、絞り出すようにこう答えた。
「……そんなわけ、ないやないの……!」
たたたたたたたたんっ、と無数の襖がほぼ同時に閉じる音。
結界の奥に逃げたのだ。
大座敷は今や大惨事。入口は暴かれたが、まだ底は知れない。頭の上に猫が乗る。俺一人が出来ることは多くない。
だけど、本音は聞き届けた。
「楓さん!!」
声を限りに叫ぶ。
影も形も見えないが、聞こえているに決まっていた。
「やっちまいましょう!!」
瞬間、辺り一帯から一切の音が消えた。
無風・無音の時が止まったような一瞬が確かにあり、しかし直後ひとたまりもなく打ち砕かれる。
空の穴から、突然横殴りの竜巻がぶち込まれたのだ。
それはもうとんでもない威力だった。座敷大にぎゅっと圧縮した台風としか言いようがない。
しかも、不思議なことに竜巻には意思があった。
吹き飛ばすべきと吹き飛ばさざるべきを的確に識別し、人や狸や猫や蛙を綺麗さっぱり避けて狐どもだけミキサーにかけたのだ。
酒も料理も釜も狐も、何もかも天地逆転にしてのける暴風の中で、悠然と歩いてくる人がいる。
彼女は手ぶらだった。
ちょっとコンビニに行ってきます、みたいなノリで、碧と紺の双眼を巡らせる。
「あら、ひどい格好をしてますね」
「少なくとも今ひっくり返ってんのはあなたの仕業です」
「そうですか? プロデューサーはいつも大変なことに首を突っ込むから、お好きなんだと思ってました」
楓さんはくすくす笑った。
いつもと全く変わらぬノリでしゃがみ込み、指先で俺の頬を撫でて、慈しむように笑む。
「本当に……損ばかりして。仕方のないひと」
◆◆◆◆
◇周子◇
物凄い風で、座敷の混沌は更にえらいことになった。
竜巻はまだ止まらなかった。
奥の襖に食らい付き、ぴっちり閉じたそれを無理やりすぎる風圧で開け放ってしまった。
更に向こうの座敷の、向こうの向こうの座敷の襖まで、風が続くまで。
多分それは、楓さんが作ってくれた風の道筋だった。
そうこうしてるうちに狐が殺到してくる。お家を守る為に、この座敷で外敵を迎え撃とうというんだろう。
だけどこんなとこで触れ合い動物ランドをしてる場合じゃないのだ。
奥に行かなきゃ、どうにもならない。
と、聞き慣れた声とエンジン音が耳朶を叩いた。
「周子!」
「周子ちゃんっ!!」
空の穴から飛び込んできた、奏ちゃんと蘭子ちゃんだった。
奏ちゃんはなんとバイクに乗っていた。といっても原付、年季の入ったスーパーカブ――
「……あれ!? それ、うちのカブじゃない!?」
「借りたの。必要になるかと思って」
実家の塩見屋は、お得意さんに和菓子の配達をしていた時期がある。
その為のカブだったけど、あたしが乗らなくなっちゃったから車庫の奥で埃を被っていたんだ。
「いやでも、ナイスタイミング奏ちゃん! よっ、白馬の王子様!」
「白馬じゃないし王子様でもないわ。悪かったわね」
早くしなさいと促すので、荷台に乗っかる。
…………50CCは二ケツ禁止? 細かいことは気にしぃな、ここは狐の異空間じゃい!
シートに奏ちゃん、後ろにあたしで座敷の奥を目指す寸前、蘭子ちゃんが駆け寄ってきた。
「周子ちゃん、これ……っ!」
と標準語で投げ渡してくれるものを受け取り。
まじまじと見て、にんまり笑ってしまう。
「……あんがと蘭子ちゃん。ちゃーんとキメてくるからね!」
「う、うん……! ……幽玄なる仙狐のまやかし、しかと暴いてみせよっ!」
頷き、奏ちゃんがハンドルを捻った。
ぐんっっと加速する車体。遠ざかる座敷。猫と狐と狸の大騒ぎ。
目の前に広がる極彩色の結界を睨み、蘭子ちゃんが渡してくれた赤牡丹の簪を挿す。
うん、気合が入った。
ものの本によると「推参」とは、呼ばれてもいないのに自分から、敢えて自分から押しかけることを差すそうな。
今のあたしらにはお誂え向きじゃないか。
これで最後だ。推して参りましょうか!
一旦切ります。
閉じゆく襖の隙間を抜けて、猛スピードで座敷を突っ切っていく。
楓さんがこじ開けた進路の向こう、滑るように後退していく父狐が点のように見えた。
他の狐も黙っちゃいない。あちこちの物陰から奇襲を仕掛けてカブをすっ転ばそうとしてくる。
けど奏ちゃんの華麗なテクはそれら全てを避けてのけ、速度をまったく緩めぬまま結界の奥を目指した。
「凄いじゃん! こんなに運転できたん!?」
「あいさんに教わったのよ」
戦争状態の大座敷が遠くなり、狐を全て振り切って、エンジン音だけが高らかに鳴り響く中を走る。
ゴムタイヤが畳を切り付ける中、あたしは薄闇の向こうに結界の果てを見た。
祠がある。
歳月と風雨をこれでもかと刻み付けた小さな祠だ。
左右にはこれまた古びた狐像があり、それらに守られるようにして小さな鏡が妖しく光っていた。
間違いない。あれが結界の中心だ。
ゴールが見えたところで俄然やる気が出て、奏ちゃんに更なる加速を要求しようとしたところで。
「……なにあれ」
「は?」
いきなり、祠が遠くなった。
文字通りの意味で。いきなり座敷そのものがうにょーーーんと伸びて、祠のある位置を遥か彼方へ吹っ飛ばしたのだ。
「ちょおおおお!? そんなんアリかーい!!」
「まずいわね。このままじゃいつまで経っても追いつけない……」
「どうすんの!?」
奏ちゃんには策があるようだった。涼しい顔でなにやら操作し始める。
あれ? と思った。カブのハンドルにそんなパネルは無い。えっ何その赤いボタン。どゆこと?
「捕まってなさい周子。振り落とされたらおしまいよ」
「…………ああ、な~~~んか後ろの方に見たことないパーツあんなぁと思ってたんだけど、もしかしてこれ」
「こんなこともあろうかと、晶葉ちゃんに付けてもらったロケットエンジンよ」
やっぱりかぁー。
ぼぼぼ、ぼっ――とロケットエンジンにパワーが漲っていく。
誰がどう見ても50ccの原チャリに搭載していいものではなかった。
奏ちゃんはしなやかな指先を、赤くて大きなボタンに乗せて――
「ねぇ……奏ちゃん」
「何かしら」
「くれぐれも、安全運転でね?」
前方を見つめながら、奏ちゃんは笑った。
くすり、と。いやむしろ、にやり、と。
「――――保障はしかねるわね」
ぽちっ。
その時どういうわけだか、彼女と出会って間もない頃のことが思い出された。
あたしが事務所に入所したばかりの頃、親睦を深めるという名目で都合が付く子達で遊園地に行ったことがある。
少し先輩の奏ちゃんもその中にいた。
みんな大いに楽しみ、童心に帰ってあちこち遊び回り、ついにそのゴーカートを選んだ。
あたしがハンドル、奏ちゃんが助手席。
テンション上がってたあたしはノリノリで車をぶっ飛ばし、奏ちゃんの静止も聞かずゴキゲン絶頂の暴走運転を繰り返した。
降りる頃には奏ちゃんすっかりグロッキー。
この事件は「塩見のデス・ロード」として記録に残り、しばらく事務所に「安全運転」という標語が掲げられるきっかけともなったのだ。
あははっ、どうしてそんなこと思い出したんやろね。あれも今となっちゃ美しい思い出――――
「絶対あれ根に持っとるやろぉおぉぉぉおぉおぉぉぉおおおぉぉぉぉお~~~~~~~~~~~っ!!!?」
爆発。轟音。高熱、暴風、加速加速また加速!!
馬鹿げた熱量が背後で炸裂し、スーパーカブは文字通り流星となる。
周囲の景色が線になる。
全身が真後ろにうす~~く伸びていくような錯覚。
髪バサバサ。振動バリバリ。地獄。
簪が落ちてしまわないよう、頭を押さえるので精一杯だった。死ぬかもしれん。
通常の何倍にもなろうかという超加速にカブが軋む。でも壊れない。流石ホンダの最高傑作。
祠が近付き、ついに鏡の形もはっきりわかるようになった時、ぼすんっとロケットノズルが煙を吹いた。
「何? ロケットの燃料切れ!?」
「そうみたいね」
失速の予感。止まるわけにはいかないのに。
奏ちゃんは何かを決意して、振り返らずに短く叫ぶ。
「……行けるわ、周子。飛びなさい!」
「え? なに? 飛ッッッ!!?」
急ブレーキ。
カブが前のめりにジャックナイフし、蹂躙された畳表が散り散りに舞う。
奏ちゃんの言う通り、あたしは慣性のまま、飛んだ。
ロケットスピードを体全体に乗せ、毬のようにくるくる回転。
逆さまになった視界の向こうで奏ちゃんが何か叫んでいる。襖が閉じて、彼女は見えなくなる。
着地してからもごろんごろんずざざざと転がった。
ようやく止まる頃には、お尻を突き出したうつぶせのまましばらくピクピクしているあたしだった。
「――っぷは! あー死ぬかと思った……!!」
けど、着いた。
今いるのは一回り小さな座敷。前後左右の襖が閉じ切って、仲間の姿はどこにも無い。
中心には例の祠がぽつんと鎮座していて……。
馬鹿みたいに大きな銀色の狐が、怒気を漲らせながら睨んでいる。
……訂正。やっぱ死ぬかも。
◆◆◆◆
◇プロデューサー◇
ぼへぼへぼへぼへ、とカブのエンジン音を響かせながら奏が帰ってきた。
「周子は!?」
「結界の中心に着いたわ。……どうなってるかは私にもわからない」
あんなに遠くまで走っていった筈なのに、奏はどういうわけだかすぐ隣から来たようだった。
大座敷には束の間の静寂が戻っていた。
残った狐達はみんなキュゥと伸び、猫が散らかった料理をがつがつ片付けて、楓さんがぶちまけた酒を勿体なさそうに眺めている。
あとは周子が紗枝を連れ帰りさえすれば……。
ごとんっ!
だしぬけに座敷全体が大きく揺れた。
続いて地鳴りのような音と振動が伝わる。
……なんだ?
「みなみなさまー」
芳乃の声が座敷全体に朗々と通る。
結界の入り口を守る芳乃はいち早く異変を察知しているようだった。
「出られる者から、お早く座敷を出られませー。いささか危ういことになっておりますゆえー」
「芳乃、何があった? この音は何だ!?」
「結界が縮小しているのでしてー」
この巨大な幻惑屋敷は、複数の狐によって維持されているものだ。
だが月を打つ雷で宴席が総崩れとなり、ねこぱんちを喰らったり竜巻でぐるぐる掻き混ぜられた今、狐の大部分が失神してしまっている。
結界を保つ重要な構成員は、もうそのほとんどが力を行使できない。
そうなると必然的に起こるのは――
「結界の決壊、ですね。ふふっ」
くっ、先回りして言われた……!!
「紗枝さんの父君が結界の中心に立ち、自身のみで維持できる規模に組み直すのでしょうー」
「それじゃ、この座敷は?」
「ぎゅっと圧縮されて、結界の一部に組み込まれるでしょうー。そこから先はわかりませぬー」
また座敷が大きく揺れた。今度はより強い、ヤバい感じの揺れだった。
遠くから何かの砕ける音がした。それは近付いて、波のようにこちらに押し寄せている。
ばきん、ばきん、ばきんばきん。絶え間なく割れ続けるガラスのような音だ。
「まずい……! みんな出るぞ! 撤退、撤退ーっ!」
言うが早いか、猫の群れがにゃあにゃあにゃあにゃあ逃げ去っていく。
猫の波に乗っていくのは例の美少女。続いて迷い込んだ狸達も逃げていき、俺達も後に続いた。
「芳乃ちゃんが苦しそうです。私は先に行ってあの子を手伝いますね」
「お願いします!」
ひょい、と飛んで穴から出ていく楓さん。
ぼすんぼすんと揺れるカブに乗って、奏も無事脱出。続いて蘭子の背中を押して脱出させる。
よし、もう誰も残ってないな。ぴっちり閉ざされた襖を振り返る。
「周子……」
「周子さん達は必ずや戻りましょう。そなたは、お早くー!」
「……ああ!」
とうとう再構成の波はこの座敷にも及んだ。
吹き飛んだ襖の向こうに異様な光景が広がっていた。
光の乱反射、乱れ舞う色。剥き出しになったミラーハウスが押し寄せてくるようで、しかもそれらは絶えず砕けては混ざり続けている。
慌てて走り出す。空の穴から外へ飛び出そうとして……。
「グワーッ!」
何かに足を取られ、顔からすっ転んだ。
愕然として足元を見たら、伸びていた狐が何匹も集まって俺を捕まえているではないか。
「逃がすまいぞ!」
「貴様とあの女だけは、天麩羅にして喰らってやる!」
まだ諦めてなかったのかよ!
鏡の群体が迫る。狐はなんとかなるんだろうが、常人の俺が巻き込まれたらどうなるか。
「プロデューサーっ!?」
穴からこちらを覗いた蘭子が目を見張った。
まずい、間に合わない……!?
バサッ!!
穴から人影が飛び込み、猛スピードで狐の群れに突撃をかけた。
ほとんど力の残っていない狐達はひとたまりもなく毛玉となってぽんぽん転がる。
解放された俺の手を掴み、美嘉が叫んだ。
「早く!!」
黒い翼を翻し、力強く羽ばたく美嘉。足先に迫る波。
狐達は「こーんっ!」と鳴いて光の中に消えていく。生きろ。
ギリギリのところだった。
美嘉に連れられ、すんでのところで穴から飛び出すことができた。
ダムの水が渦巻いて戻る。
とぷんと波打つ水面にはもう、巨大な偽月は映ってなどいない。
「おわーっ!」
勢いあまって飛び過ぎて、放物線軌道を描いた俺と美嘉は夷川発電所の屋上に転がる。
仰向けにぶっ倒れて見上げる月は、本物の満月。
外にはどこまでも普通な、深夜の京都が広がっているばかりだった。
と、美嘉がのろのろ立ち上がり、こっちに近付いてすとんとしゃがみ込んだ。
どうしたのかと思えば、倒れる俺の頭を抱え、膝の上に乗せて暫く黙っている。
「……美嘉?」
美嘉は何も言わない。月の逆光で表情がよく見えなかった。
「えーと、ありがとう。助かったよ。流石にあれはヤバかっ」
「バカっ!!」
えぇえ……!?
「何考えてんの!? アンタも周子も危ないことしてっ! 人間なんだよ!? 何かあってからじゃ遅いでしょ!?」
ド正論だった。一分一厘反論のしようがない。
甘んじて受けるつもりだったが、聞いているうちに美嘉の声が震えてきたことに気付く。
「あんな目に遭って……っ。紗枝ちゃんの為だけど、でも、しっ、死んじゃうかもしれなかったんだよ……!?」
相変わらず表情はよく見えない。
けれど、頬に熱い雫が落ちるのを感じた。
「美嘉……お前、泣いて」
「泣゙い゙でな゙い゙っ!!」
雫がまた一滴、二滴。
美嘉は背中を丸めて俺の頭を抱え込む。形のいい指が頬を包む。
実在を確かめるように俺の輪郭を撫で上げ、美嘉は小さく嗚咽を漏らし始めた。
「……ほんとに……心配するじゃん。ばか……ばかなんだから……っ」
なんやなんやと野次狸が集まってくる。誰もが二人を見守っている。
顔で涙をぽたぽた受け、フレデリカが水を持ってくるまで、俺達はしばらくそうしていた。
〇
もちろん事件はまだ終わっていない。
周子と紗枝が帰ってくるのを待たなくては。
ダムの面々で集合し、知ってる顔と知らない顔を確かめ合って、俺は美穂がいないことに気付いた。
気付いてすぐに察した。蘭子を見ると、彼女は力強く頷いた。
「……そうか」
あとは信じて待つだけ。その時間が、途方もなく長く思われる。
◆◆◆◆
◇周子◇
「紗枝ちゃんはどこ?」
「君には手の届かぬ場所だ」
目の前の巨大な狐こそ、小早川家当主の真の姿なのだろう。
長い時を生きた威厳が尾っぽの先まで満ち満ちて、怒りにざわめく銀毛はまるで白い焔だった。
……爪なっが。牙でかっ。
狐にそんな獰猛なイメージは無いけど、ここまでデカいと虎もメじゃない。
あっちが殺る気を出したらひとたまりもないと思った。
狐がふいと祠を示す。その中で光る鏡に、見覚えのある姿を認めた。
「紗枝ちゃん……!」
鏡の表面がちかりと瞬き、映っていた筈の紗枝ちゃんの姿が無くなる。
この空間に物理法則は通用しない。わかるのは、紗枝ちゃんはあの鏡の中におり、鏡はどうやら結界の中枢らしいということだけ。
「諸君は何故、我が娘に固執する? 諸君と娘は住む世界が違う。こうまでして連れ戻そうとする理由は何だ?」
理由ねぇ。
損得を勘定に入れてるんだとしたらお門違いもいいとこだ。
一から十まで筋道立てて説明できる気もしない。だって理屈なんて無いんだから。
「……あたしにもわからない、ってんじゃダメ?」
「戯けたことを」
狐が前脚を払った。
ばしっと衝撃が走ってのけぞる。赤牡丹の簪が吹っ飛ばされて転がった。
娘がずっと付けているものと色違いのそれが、狐は気に入らないらしかった。
「……っ!」
巨大な前脚で押さえつけられる。
床に押し倒される形になり、あたしは肺の中の空気を「かはっ」と吐いた。
「これだからな。人間はこれだから。愚にもつかぬ感情で動く。だから低俗だというのだ」
「そりゃあ……阿呆だからねぇ」
やばい、流石にちょっと苦しいかも。
狐が鼻先を近づけ、冗談みたいにでかい牙をくわっと剥いた。頭からバリバリ食われるかもしんない。
「どうせなら、踊らなきゃ。みんな同じ阿呆だもん。面白いことやって、新しいこと初めて……」
「もうよい、黙りたまえ。我々は諸君とは違う」
圧迫感に顔を歪め、あたしはそれでも不敵に笑って強がる。
「……確かに。でもそんなにお偉いお狐さんなのに、人を化かすのは得意でも化かされるのには慣れてないの?」
「なに?」
「気付かない? あたしはすぐ気付いたけどなぁ。それとも、あんまり腹が立って目が曇ってたとか?」
何を言っているのかわからないという顔。
獣にも表情があるのだ。なんかちょっと可愛いかも。
ポケットに手を突っ込み、中身を狐に見せてやる。
「ちなみに、本物の簪はこっちね」
ポンッ!!
畳に転がった偽簪が、ソーダの栓を抜くような音で元に戻る。
美穂ちゃんは脇目も振らずに走り出した。
狐が唸る。行かせるもんか。両手両足で前脚を掴んで引き留める。
「やったれ美穂ちゃん!!」
「紗枝ちゃんを返してもらいますっ!!」
美穂ちゃんは祠に飛びつき、鏡を取り出して――
石造りの狐像に、思いっきり叩きつけた。
鏡が割れる。
同時に、今いる座敷も砕け散った。
あたしも狐も美穂ちゃんも重力の無い虚空に投げ出される。
狐の屋敷は跡形もなく消え、360度全天に広がるのはただ形の無い光達。
金や銀や紅や墨や蒼や碧や黄や紫や――絢爛の蒔絵を鍋に放ってぐりぐり書き混ぜたような、極彩の「色」の洪水だ。
「ぽこーっ!?」
「鏡を砕くなどと……この、ど阿呆め!!」
座敷が色に満たされる。どちらが上か下かもわからなくなって、美穂ちゃんも狐もどこかに飛んでいっちゃった。
〇
落ちてるのか、上昇してるのかもわからない。
さんざめく色彩は美しくて、まるで万華鏡の中を泳いでいるみたいだった。
どれほど視線を巡らせても、紗枝ちゃんの姿を見つけることはできない。
ひっくり返って混沌になった結界の只中を流れ、遥か彼方に光が見えた。
外の光だと直感した。
結界は壊れ、中にいた者は一人残らず放り出されるってことだろう。自動的に外に出られて、一件落着?
紗枝ちゃんを見つけてないのに?
色んな助けを得たとしても、結局はそれが人間の限界ってわけ?
「冗っ談じゃない、ここまで来て……っ!」
人事を尽くして天命を得て、走って走ってまだ足りなくて。
だからって諦めてたまるか。
続く行動は、本能に近い閃きによるものだった。
右手で頭を掴む。指の間を流れる髪は、秋空に冴える月のような銀。
これはもともとあたしの色じゃない。
元はあの子の髪の色。
あの子がくれた、仙気の色だ。
「ここに少しでも残ってんなら、今すぐ応えて!!」
念じる。こういう力の使い方なんて欠片も知らない。
だからただ、念じる。願う。ありったけの心で志す。
「あたしは! 友達を!! 連れ戻しに来たんだ!!!」
指先に光が絡んだ。その色は銀。
体から抜けた仙気の残滓が煌めき、纏う右手をいっぱいに伸ばす。
その指先が束の間、仙狐の理に触れた。
絢爛たる色に干渉する。触れて選び、動かせる。ほんの僅かな間だった。
一つ一つが目も眩みそうなほどに美しかった。
そんな中で、あたしは青を見つけた。迷わず選び、掴み取った。
自分で選んだ簪の色なら、よく知っているから。
青牡丹の彩から眩い光が広がって、全身を包み込んだ。
◆◆◆◆
気が付けば――
あたしは、よく晴れた空の下に立っていた。
周りには緑。どうやら小高い丘の上らしい。
……はてさて、どこに行き着いちゃったもんやら?
突っ立ってるわけにもいかないので歩いていると、目の前に誰かが立っているのが見えた。
着物と黒髪、大きな耳と尻尾……!
「紗枝ちゃ……っ!!」
って、あれ?
なんかちっちゃくない?
紗枝ちゃんで間違いない、と思う。
でも小さい。ていうか幼い。5歳くらい?
紗枝ちゃんは目をまんまるにして、そこの茂みにぴゃっと隠れようとした。
「ちょ、ちょっと待って!」
追っかけて襟首をキャッチ。
「うー! う~!」
紗枝ちゃんはじたばた暴れて抵抗する。
間近に見る人間が怖くて仕方ないという感じだった。
綺麗な黒髪は、揺れる端から銀色の光をちらつかせた。仙気に染まりきらない幼狐の毛なんだと思った。
今目の前にいるのは、紛うことなく幼き日の紗枝ちゃんだ。
〇
なんとか落ち着かせて聞けば、紗枝ちゃんは舞の練習をしているとのこと。
「うち、うまくでけへんの」
古びた扇子を持って、はらり、ひらり。
けどやっぱりと言うべきか素人丸出しで、ぎこちない未熟な動きだった。
どうして小高い丘の上かというと、ここから見下ろせるものに答えがある。
公園でお子様向けの日舞の体験会が開かれているのだ。
子供達は楽しそうだった。芸妓のお姉さんに合わせて、笑い合いながら舞いを学んでいる。
紗枝ちゃんはそれを遠くから盗み見て、真似っこをしているだけだった。
ずっと、ひとりぼっちで。
「……あっちに混ぜて貰わんの?」
「あかん。おとうはんにしかられてまう」
ふるふる首を振る紗枝ちゃんは、同い年くらいの子供達を遠い目で見守っていた。
決して遠くはないのに、絶対に手の届かないものを見る目だった。
「それに、うち、きつねやもの。みんなこわがってまう」
……ん~。
扇子を胸に抱いて黙りこくる紗枝ちゃんに、明るく声をかける。
「じゃさ、おねーさんが教えたげよっか」
「え?」
ええの? と目が言っている。
あたしは快く頷いて、扇子を受け取った。
「――わぁ、わぁっ!」
手本を見せるあたしの周りを、紗枝ちゃんがぱたぱた走り回っている。
大興奮だった。好奇心たっぷりの目で、こっちの動きを色んな角度から観察している。
「すごいすごい! おねえはんは、舞がおじょうずなんやねぇ!」
「あはは、まさか。にわか仕込みだよ」
あたしだってアイドルになってから齧ったくらいだもん。
友達に上手なのがいてね。
その子の舞を見て、色々教えて貰ったりもして。
「うちもおねえはんみたいになれますやろか?」
「うんうん楽勝楽勝。君だったら、あたしくらい簡単に追い抜けちゃうよ」
「えへへぇ、こんこんっ」
嬉しくてたまらないといった顔で鳴く紗枝ちゃん。
もっと見せてもっと教えてとのおねだりに応じて、二人っきりの日舞体験会はしらばく続き――
〇
「おおきに! おおきにな!」
門限が近いという紗枝ちゃんは、あたしを何度も振り返りながら手を振った。
「うち、たんと練習します! おねえはんみたいに、きれぇに舞えるようになりますさかい!」
「がんばってねー! 楽しみにしてるよー!」
「うん! そのときは、うちもおねえはんと舞うんや!」
すぅーっと息を吸い込んで、紗枝ちゃんは叫んだ。
「きっと、きっといっしょにしようなぁ!!」
全て夢なのかもしれない。狐が見せた幻なのかも。
あるいは狐の操る時空間がよじれて、変なところに繋がってしまったとかかも。
なんでもいいと思った。
あの子と交わした約束を、あたしはきっと、忘れずにいよう。
◆◆◆◆
――うちがまだちっちゃな仔狐やった頃、舞を教えてくれたお姉はんがおってなぁ。
――それがあんまり楽しかったから、今でもやめられへんのよ。
――あのお人は今、どこで何してはるんやろ――――
【 後編 ― 終 】
【 終章 : あの日の約束が、色褪せないように 】
◇周子◇
目が覚めると、座敷だった。
「……っ!」
跳ね起きる。出られなかった? 今どうなってる?
慌てるあたしはしかし、様子が変わっていることに気付く。
風が吹き込んでいる。
清爽な朝の風だった。見れば開け放たれた障子の向こうは青空で、空気はやわらかな金木犀の香りがした。どこかで鳥が鳴いている。
スマホを見ると、午前7時。正常に一秒ごとの時を刻んでいる。
夜が明けた。ここは外の世界なんだ。
「ずいぶんぐっすり眠ってはりましたなぁ」
口から心臓が飛び出るかと思った。
見るとあたしの後ろ(つまり寝てた時は頭のすぐ上あたり)に、紗枝ちゃんがちょこんと正座していた。
「紗枝ちゃん……」
いつも通り、寮で毎朝顔を合わせるのと同じ調子で、彼女はそこにいる。
相変わらずの濡れ羽色の髪に、朝でもきっちり着込んだ和服。頭には青牡丹の簪が揺れていて。
紗枝ちゃんは何も言わずあたしの頭に視線をやった。
前髪をつまんでみる。銀色だったあたしの髪は、端々まで元の餡子みたいな黒に戻っていた。
「ああ……これ? イメチェンしようと思ってさ。あはは」
「ええ。よう似合うてはると思います」
ふっと笑い、少しの沈黙。
紗枝ちゃんは穏やかな、何かとても大きなものを降ろした――あるいは失った――かのような、透明感のある表情だった。
「どこへなりと行くがいい、と言われました」
「……そっか」
「お母はんもお口添えしてくれはったんよ。ここまでやり遂げたんやから、もうええやろうって」
「で、お父さんは?」
「それはもう、カンカンどす」
うへぇ。
「人と狸に化かされるとは情けない。修行のし直しや……って、みんな連れて山へ帰ってもうた」
やった……ということで、いいんだろうか。
まだ心の半分が夢にぷかぷか浮いている。無限の座敷、砕けた万華鏡の色彩、でかい狐、小さい狸…………あ!!
「美穂ちゃん! 美穂ちゃんはどうなったん!?」
「夜明けに、たぬき姿で伸びてはるところをお父はんが咥えて持ってきはりました。これはもう、降参やいうことでええと思います」
袖で口元を隠して、紗枝ちゃんはくすくす笑った。
その笑い声がなんだかとても久しぶりなように思えた。
「でも……うちの見間違いやったかもしれへんけど。お父はん、ちょぼっと楽しそうだったんよ」
また雀が鳴いた。庭から通り抜ける風に、い草の匂いがほのかに沸き上がった。
ここは多分、「表」の狐屋敷だろう。とても清潔で殺風景だけど、そこかしこに狐の気配が染み付いていた。
このご立派なお屋敷を元にして、裏の大結界を築き上げたんだろう。
もっとも、それはまんまとご破算。
狐は修行のし直しと、山へ戻って……。
「うちは置いてかれてもうた。本当に本当の勘当や。これでもう何者でもない、ただ一匹の狐どす」
悲しいことだとは思っていなさそうだった。
嬉しいことかもわかっていないようだった。
ただ何か、とても大きな縛りから解き放たれたことへの、実感の薄さと戸惑いが先に立っているんだ。
檻から出た狐は、十月の空の青さにただ、途方に暮れていた。
あたしは立ち上がってお尻をぱんぱん払う。んっと大きく伸びをして、紗枝ちゃんに手を差し伸べた。
「帰ろっか」
紗枝ちゃんは眩しげにあたしを見上げて、呆けたように何も言わない。
「…………うち、」
「帰ろうよ。あたしが連れてってあげる」
気楽な感じに笑ってみせる。こちとら遊び人、自由の御し方なら心得ているつもりだ。
ちょっとキザっぽいけどそこはそれ。さっきまでがシューコちゃんらしくなかったのだ。あたしらしく在ってこそのあたしだもんね。
紗枝ちゃんは手を虚空に泳がせ、少し迷って、あたしの手を取った。
〇
誰もいない屋敷を出て、見上げるほど立派な棟門を抜けると、みんなが待っていた。
なんだかトライアスロンでも完走してきたみたいにボロボロにくたびれている。
……まあ、それはあたしも似たようなもんか。
「おやまぁ、みなはんお揃いで……」
紗枝ちゃんが一歩前に出て、そのまま突っ立っていた。
知らないうちに増えている。プロデューサーさん、美穂ちゃん、芳乃ちゃん、蘭子ちゃん……楓さんに奏ちゃん、フレちゃんに志希ちゃんに美嘉ちゃんも。
それに見慣れない眼鏡っ子と小さな女の子とお姉さんがいて、黒猫が一匹と、なんと大福まで来てるじゃん。
「えろうすまへんなぁ、お騒がせしてしもて。わざわざ東京まで来てもろて……大変なことに巻き込んでもうた」
彼らの正面に立ち、紗枝ちゃんはどうにか微笑もうとしていた。
「……うち、ひどいこと言いました。あかんなぁ。みんなに迷惑かけて……うち、どんくさやから、うまく立ち回れへんで……堪忍、堪忍え……」
×東京まで
〇東京から
です。すみません。
長くはもたなかった。
紗枝ちゃんの声は次第に震え始め、俯いた顔が長い髪に隠れる。
「…………ええんやろか。だって、うち……ええのかなぁ。うち、は……」
「小早川紗枝さん」
紗枝ちゃんが顔を上げると、プロデューサーさんはもう目の前に立っていた。
両手に持つのはいつもの名刺。
職業病なら仕方ないというもので、彼は少し畏まった様子でこう言った。
「アイドルになりませんか?」
小さな手が、震えながら名刺を受け取る。
誰もが固唾を飲んで見守っていた。一番ドキドキしてるのは名刺を渡した本人だったかもしれない。
スカウトを受けた女の子は、手の内の名刺をまじまじと見て。
「喜んで、お受けします」
泣きながら、叢雲が晴れるように笑った。
ぽろぽろこぼれる涙は、けれどなんだか快くて、あたしは流れるに任せればいいと思った。
空は快晴。こぼれる端から光の礫となる涙。
晴れた日に降る不思議な雨を、「狐の嫁入り」と呼ぶんだそうだ。
◆◆◆◆
「……済んだか」
「そのようですねえ」
「まったくしょうむない。毛玉と人間風情が、何を揃ってわちゃわちゃやっておったのか」
「そんなことを言って、先生もあの人の挨拶には満更ではなさそうだったじゃありませんか。美女には弱いんだからなあ」
「やかましい。儂は偉いのである。偉い儂に手土産を持ちに参るのは当然である」
「まこと仰る通りで。――そういえば、今日の昼から円山公園で宴会をするそうですよ。一足早い紅葉狩りです」
「儂は行かんぞ。狸どもは何かにつけてどんちゃん騒ぎおることよ」
「なにせ、狸はみんな阿呆ですから」
◆◆◆◆
◇美穂◇
公園の広場にはたくさんの人やたぬきが集まっていました。
京都に来た事務所のみんな、手伝ってくれたみんな、迷惑をかけてしまったみんな……。
そうした全員を呼んで一堂に会しています。
並べられた長机の上には偽電気ブランの列。大瓶がずらりと並び、日光を受けてきらきら輝く様は壮観でした。
更には幾つもの大鍋でおでんがぐつぐつ煮え、飴色に輝いてお腹の虫を誘惑します。
お供となるのは目も眩むほど山積みにされたおにぎりです。お茶もあります。
「え~、それでは~♪」
「京都探訪お疲れ様&迷惑をかけてごめんなさいパーティーということで……」
楓さんとプロデューサーさんがグラスを持って音頭を取ります。
この大量の偽電気ブランは、お詫びということで二人がポケットマネーで買い上げたものでした。
……お詫びというのは半分口実、もう半分は楓さんの強い希望らしく、プロデューサーさんはちょっとげっそりしています。
たぬき達は大瓶の行列を見てころっと機嫌を直してくれました。
なんだかんだで、おいしいお酒と食べ物を頂ければなんでもいいという種族的性格というものがあるのです。
「かんぱーいっ!」
〇
宴が始まりました。
山盛りおでんに偽電気ブラン、ほかほかおにぎりに濃いめのお茶。
あっという間に場はほぐれて、にぎやかな昼日中の宴席となりました。
にゃー。
「お、大福」
「あらぁ、えらい大きゅうなって~」
大福ちゃんが周子ちゃんと紗枝ちゃんのもとに駆け寄ります。
久しぶりでも二人のことは覚えているのでしょう。喉をごろごろ鳴らしながら、周子ちゃんの膝の上でうにゃんうにゃん転がりました。
「……………………大福………………嬉しそう…………」
いつの間にか雪美ちゃんとペロちゃんもすぐ後ろにいました。周子ちゃんびっくり。
「ん!? あ~……え~と……あ! お得意さんの佐城さんちの娘さん!?」
「………………うん」
「わーマジか。滅多に顔出さないから思い出すまでに時間かかったわ! え、でも何でここに……」
「佐城はんのお宅いうたら、ここらでは珍しい化け猫の血筋やったんちゃうかなぁ」
えっ。
周子ちゃんが目を丸くします。
「なーんか他のお宅と雰囲気違うなぁと思ってたら……そうきたか。化け猫は初遭遇やわ……」
「…………にゃおん」
「みくちゃんが見たらなんて顔するかな」
「お、やってるね~」
とふよふよ浮いてくるのは、夏美さん。偽電気ブランのグラスを持ってゴキゲンです。
「うわ! 天狗!? 本物!?」
「まぁ~。絶対に出くわすなって、お父はんが言うてはりましたわ」
「あはは、残念でした! 相馬夏美よ。狐屋敷に迷い込んだのがただの人間って、楓ちゃんが言ってたのはほんとだったのねぇ」
夏美さんは周子ちゃんの顔をまじまじと見て、続いて紗枝ちゃんに目配せして楽しそうに頷きます。
「うん、二人ともいい顔してる! 今度飛行機乗る時は連絡してね、サービスしちゃうから」
「サービスって……飛行機?」
「私、普段はCAやってるの。自分じゃ飛べない高度まで行くのって楽しいのよ? それに走るのもね!」
天狗らしからぬ気さくさに、二人はぽかん。こんなタイプの天狗は珍しいのかもしれません。
でも私が初めて出会った天狗は彼女なので、天狗はいい人だと思います。お茶とお酒でかちんと乾杯しちゃったりして。
〇
「それで……周子ちゃん? えっと、その髪」
私が切り出すと、実は全員タイミングを伺っていたらしいことがわかりました。
事務所のみんなの視線が周子ちゃんの頭に集まります。
彼女の髪は、綺麗さっぱり黒一色に染まっているのです。
「これねぇ、戻ったみたい。昔は黒髪だったって言わなかったっけ?」
「俺は見たことあるな」
「なにやら懐かしき気持ちになりましてー」
「よもやその髪に、狐の魔力を蓄えていようとは……っ」
「え、そうだったの!? アタシ何があったのかと思った!」
「オセロでひっくり返されたみたいね」
「じゃあじゃあ、もっかいひっくり返したらシューコちゃん銀髪になるのかなぁ?」
「試してみる価値はあると見た!」
「やめんかーい」
迫る志希ちゃんをぶぎゅると押さえ込む周子ちゃん。ノリは全くいつも通りなのに、黒髪というのが不思議な気持ちです。
「……でもま、みんなびっくりするかもね。アイドル塩見周子は銀髪で通してきたわけやし」
「別に構わないぞ? イメチェンってことにすればいい。無理に弄れば髪が痛むだろ」
「ん……いや。やっぱしブリーチしよかな」
前髪をいじいじしながら、周子ちゃんは目を細めます。
「相方が黒髪なんやし、あたしは前の色の方が映えるじゃん?」
……おお~。
という空気が辺りに満ちて。
「……いやいやいや、そんな感心されてもだね。ええやん元に戻すってだけの話で! 逆に恥ずかしいわ!」
「ふふっ。周子ちゃんのイキな計らいに、みんなイキを呑んだんですよ♪」
「楓さん絶好調すね……」
「サエちゃん的にはそこらへんどう~?」
フレデリカちゃんに、紗枝ちゃんはいつも通りの笑顔です。
「せやなぁ。ぶりーちしはるんやったら、一回親御はんに相談してみるべきなんやないかなぁ」
「あ、そうそう周子ちゃん! 私達周子ちゃんの実家にお世話になってっ」
「汝が育ちし神殿にて寝食を共にしたわ!」
「マジかっ!」
のけぞる周子ちゃん。箸でつまんだおでんのコンニャクが落ちて、お椀の湖にぽちゃんと落ちます。
「……あー、そっか実家か。あたしどうすっかなぁ」
「それについては、ご両親よりお手紙を託されておりますー」
「え、うそ」
芳乃ちゃんが懐からすっと封筒を取り出しました。ずっと持ってたのかな。
中身には便箋が一枚きりでした。周子ちゃんは上から下までしげしげ読んで、ほうっと息を吐き出します。
「周子ちゃん……ご両親は、なんて?」
私を見返す彼女の顔は、なんだか晴れやかでした。
「簡単だったよ。自分の道を見つけたんなら、極め尽くすまで帰ってくんなって」
きっとお父さんのメッセージなんでしょう。職人らしい、簡潔で力強い言葉でした。
紗枝ちゃんは楽しそうにくすくす笑います。
「なんや、せやったら周子はんも追い出されっぱなしやないの」
「ほんとだよ。芸能極め尽くすなんてどんだけかかるんだか。こりゃ東京に骨を埋める覚悟しなきゃかなぁ」
「うちも屋敷には帰れへんしなぁ。なぁプロデューサーはん?」
「ンぶっ」
大根を齧りながら偽電気ブランをちびちび飲んでいたプロデューサーさんが咳き込みます。
「なぜそこで俺に振るのか」
「いやぁ、なんや責任取ってもらわなあかんかなぁ~思て。もとはといえば、うちらを東京に呼んだんはあんたはんやもの」
「いいと思わん? 一家に一台シューコちゃん。ご飯の味見とかできちゃう」
「今なら狐も一匹ついてきますえ~♪」
通販みたい。……って!
「だ、ダメっ! ダメだよ!?」
「あらぁ? うちらがプロデューサーはんに厄介になるかもーいう話に、どないして美穂はんが口を挟むんやろ~?」
「ありゃりゃ、なんか駄目な理由あんの? なになに~?」
「も、もうっ二人ともぉ~~~~っ!!」
けらけら笑う二人。みんなも笑います。ほ、ほんとにもうっ!
周子ちゃんと紗枝ちゃんはすっかりいつも通り。快い安堵が満ちて、美嘉ちゃんがほっと一息つきました。
「……でも、良かった。二人とも帰ってきてくれたんだね」
「もっちろん。相変わらず好き勝手させて貰うわ」
周子ちゃんは本当に楽しそうでした。紅葉の舞う公園で、黒髪を揺らして歌います。
「いつでも波風立てるよ~♪ ずんずん立てるよ~♪」
「いつでも平和を乱すよ~♪ がんがん乱すよ~♪ どす~♪」
「こえーよ!? 何そのハタ迷惑な歌!?」
◆◆◆◆
◇周子◇
まさに宴もたけなわ。締めにはまだまだ早い。
わいわい楽しむみんなを見て、あたしは思い立って立ち上がった。
「紗枝ちゃん」
「はい?」
モチ巾着をはふはふ頂いていた紗枝ちゃんがきょとんと顔を上げる。
「いっちょ、踊ろうか」
あんむ。
咥えた巾着をごっくり呑み込んで、紗枝ちゃんは笑んだ。
「うふふっ。どないしはりましたの、急に……」
「合わせたくなったんよ。練習がてらってことで……どう? 嫌?」
「嫌なわけあらへん」
さらっと答えて、嬉しそうに立ち上がる紗枝ちゃん。
何を踊るかは打ち合わせをするまでもなくご承知のこと。
――きっと、きっといっしょにしようなぁ!!
結局あれは夢だったんだろうか。
彼女は覚えてるんだろうか。
いや、どっちでもいい。つまりは二人が「そうしたい」と思うことが大事なんだ。
「そんなこともあろうかと!!」
うわぁびっくりした!
例のツインテ眼鏡っ子がウキウキでリモコンを動かし、ウサウサ蠢く謎のメカが運んでくるは謎のスピーカーとちょっとした舞台。
「ステージを披露するならそれなりの設備があるべきだろう。ということで、私特製のミニステージを用意してきたぞ!」
「ちなみに音源は俺のスマホに入っているので、接続して流せるらしい」
お、アリなん?
という目で見ると、アリだぞ、とサムズアップしてみせた。
関係者を抜きにすれば狸と天狗と猫だ。ギリギリでセーフなのかもしんない。
赤ら顔の彼の後ろで、同じく赤ら顔の楓さんがぷかぷか浮いてけらけら笑ってる。
……予想以上に賑やかなことになりそうだ。
「いける、紗枝ちゃん?」
「心配無用どす。体が鈍ってへんか、確かめなあかんしなぁ♪」
やんややんやと囃し立てる狸達。拍手する事務所のみんな。猫の群れは丸くなったまま目だけを開き、天狗はカメラを構えている。
それと――
あちこちの茂みから、興味深げな視線が注がれている。
人じゃない。犬猫でも狸でもない。
一目見ようと、「彼ら」も思っているんだろう。
上等じゃないか。プロデューサーさんの合図を受けて最初のポーズを取る。
直前に目配せすると、紗枝ちゃんはにんまりと会心の笑みを浮かべていた。全部承知の上らしい。
始まった。
歓声と音楽が咲いて、お昼時の円山公園はちょっとしたステージに変貌する。
黒髪の小早川紗枝と、黒髪の塩見周子。あたしはすぐに染めるから、これが一度きりのプレミアムライブだ。
これからも何度となく同じ舞台に立つのだろう。色んな曲を歌い踊り、あたしらの道を究めていくんだろう。
宴は広がっていくだろう。人も集まってくる。もしかしたら人以外のものも集まってきて、大騒ぎになるのかもしれない。
楽しい。それでいい。
気が付けばいつだって、面白き日々だ。
~おしまい~
おしまいです。
独自要素とクロス要素が合わさって、だいぶややこしい話になっていたと思います。
作中の思わせぶりな描写は全て「有頂天家族」の小ネタとお思い下さい。
長々とお付き合い頂きまして、本当にありがとうございました。
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