大河「お腹が痛いんだけど」竜児「……俺もだ」 (25)

大河「竜児ぃー! まだぁー?」

居間から届く、何度目とも知れない催促。
高須竜児は手の動きを止めずに、応えた。

竜児「もうちょっとだ!」

大河「もう、お腹が減って死にそう……」

どの口がそんなことをほざくのやら。
弱々しい台詞とは裏腹に、居間からはガサゴソ何やら物色する物音と、バリボリむしゃむしゃと咀嚼する音が聞こえてくる。大河の仕業だ。

あれほど飯の前にお菓子を食うのはやめろと竜児が忠告したのにも関わらず、大河は帰宅途中にコンビニで購入した菓子類に手をつけていた。
姿を見ずとも、だらしなく居間で寝そべり、テレビを観ながら貪っている姿が容易に想像出来た。逢坂大河が豚のように肥え太る将来が、刻一刻と差し迫っているのを竜児は感じた。

危機感を覚えた竜児は手の動きを加速する。
ギラギラとした双眸を光らせ、手に持った包丁を縦横無尽に振るう。完全に事件現場である。

しかし、高須竜児は善良な一市民だった。
包丁で微塵切りにしているのは、タマネギだ。
他には、ジャガイモ、ニンジン、少量の豚肉。
つまり、竜児は現在、料理を作っていた。

下ごしらえが終わり、鍋で豚肉を焼く。
その後、他の食材も鍋に投入。暫し炒める。
タマネギが飴色になってきたら、水を投入。

沸騰する時間を利用して、まな板を洗浄。
ついでに皿とスプーンを用意しておく。
鍋の中で食材が踊り、充分に火が通った。

素人はジャガイモに爪楊枝を刺して確認する。
だが、竜児はそんなことをしない。
長年培った体内時計が、それを告げてくれる。

竜児「それっ」

タイミングを見計らい、ルーを投入。
すると、鍋の中身が乳白色に変わった。
茶色ならばカレー。白色ならばシチューだ。

今晩の献立は、竜児特製のシチューだった。

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竜児「よし、あとは仕上げだな」

玄人たる竜児はルーを入れて満足しない。
仕上げに、たっぷりの牛乳を入れるのだ。
そうすることで、まろやかさやコクが深まる。

牛乳を取り出すべく、冷蔵庫を開ける。
中は綺麗に整頓されていて、すぐに発見。
そしてそれをドバドバ鍋に注ごうとして。

竜児「ん?」

ふと、牛乳パックの上部に目が留まる。
そこに書かれた賞味期限は、数日前の日付。
竜児としたことが、見誤っていた。失態だ。
本来ならば期限が切れる前に使い切るのが一流の職人である。自らの読みの甘さが情けない。

竜児「うーむ」

竜児は悩む。牛乳を入れるべきか否か。
たとえ数日とは言え、期限切れは期限切れ。
本来ならばそれを使用するのは御法度だ。
もちろん、冷蔵庫に入れて保管しているが、季節は梅雨。朝食時に飲んで、テーブルにしばらく置きっ放しだったこともあるかも知れない。

竜児は双眸を眇めて、牛乳を凝視。
別に、ガンつけているわけではない。
逡巡しているのだ。要するに、迷っていた。

別に、牛乳を入れずとも問題はない。
ルーを入れた時点でシチューは完成した。
だが、料理において妥協はしたくなかった。

竜児「どれどれ?」

一応、匂いを嗅いでみる。
特に異臭はしない。大丈夫そうだ。
しかし、断言は出来ない。季節は梅雨なのだ。

やはり、やめておくべきか。
わざわざ危ない橋を渡る必要はない。
竜児が牛乳を諦めかけた、その時。

大河「まだ出来ないの!? こんだけ待たせた挙句に美味しくなかったら承知しないから!!」

逢坂大河に吠えられ、決断した。
時には、危険を冒すべき場面もある。
虎穴に入るならば、美味い飯を用意せねば。

竜児「ええい、ままよっ!」

竜児は悩んだ末に、牛乳を投入。
これで特製シチューは仕上がった。
念入りに煮沸消毒したいところではあるが、大河に急かされているので断念せざるを得ない。

竜児「へい、お待ち!」

大河「どんだけ待たせるのよ!」

プリプリ怒りつつも、大河は笑顔だった。
どうやら、間に合ったらしい。
しかし、牛乳に関しての懸念は拭いきれない。

一抹の不安を抱えながらも、晩餐が始まった。

大河「はあ~! 美味しかった~!」

カランと、空の皿にスプーンが置かれた。
大河はシチューを完食。おかわりまでした。
周囲には、菓子類の箱や袋が散乱している。
逢坂大河の腹の容量は、底知れぬ異次元だ。

大河「ご馳走様、竜児!」

竜児「はいよ、お粗末さま」

空腹時、大河は機嫌が悪くなる。
しかし、満腹になると上機嫌だ。
そんなわかりやすいところが、竜児は好きだ。
それに、最近は少しばかり大河も変わった。

大河「後片付けは、この私に任せなさい!」

丁度、空になった竜児の皿を取り上げる大河。
腕まくりをして、やる気充分だ。
竜児はその意思を尊重しつつ、釘を刺す。

竜児「皿は割るなよ?」

大河「へーきへーき! 余裕のよっちゃんよ!」

ヘラヘラしながら、大河がシンクに向かう。
竜児はそれを見送りながら、思い返す。
シチューの味は、問題なかった。
大河の敏感な嗅覚も、異常を感知しなかった。
どうやら、杞憂だったらしいと安堵して。

大河「きゃあーっ!?」

悲鳴と共に、パリンと皿が割れる音。
どうやら心配する対象を間違えたらしい。
ドジな大河がやらかしたことを察し、竜児はやれやれと首を振りつつ、シンクへと向かった。

大河「遺憾だわ」

竜児「何が遺憾だよ。あーあ、盛大に割りやがって。これからシチューやカレーを食う時、どうすんだよ。暫くは献立から消えるだろうな」

まるで人ごとのように遺憾の意を示した大河に意地の悪い嫌味を言ってやると、途端に取り乱し、慌てて縋り付いてきた。

大河「シチューとカレーがなくちゃ、私は生きていけない! どうしよう、竜児!?」

竜児「そんな人間は存在しないから安心しろ」

妄言をほざく大河に正論をぶつける。
すると大河は不満げに頬を膨らませて。
それから、あっと、何かを閃いた様子。

大河「お皿が足りないなら、共有しましょ」

竜児「共有?」

大河「そ。あたしと竜児が同じお皿を使うの」

さも名案のように提案する大河。
竜児は想像してみる。皿の共有の光景を。
隣同士に座るのは、難しい。膝の上だ。
竜児の膝に座った大河に、飯を運んでやる。
すると今度は竜児の番。大河が食べさせる。

ふむふむ、なるほど。
なかなかどうして、悪くない。
たしかにそれは名案に思えた。

大河「鼻の下が伸びてるわよ?」

竜児「っ……!」

しまりのない顔を見られてしまった。
赤面して、鼻元を手で覆う竜児。
それを見て、大河はクスクス笑って。

大河「お皿を割った私に感謝しなさい」

竜児「アホ。それだけはない。反省しろ」

自己正当化した大河に辟易としながらも。
割れた皿を片付ける竜児は、次にシチューかカレーを作るその時が、楽しみだった。

大河「ねえ、竜児」

竜児「ん? ちゃんと反省したか?」

食後、居間でのんびりテレビを眺めていた。
その間、大河は珍しく口数が少なかった。
皿を割った件を反省していると思っていた。
しかし、逢坂大河はそんな殊勝な女ではない。

大河「お皿の件は、過ぎたことよ」

竜児「お前な、少しは反省しろよ」

大河「あのね、私たちは今を生きてるの。そして今、私はとても困ったことになってるわけ」

何やら哲学的なことを言い始めた大河。
竜児はうんざりしつつも、テレビを消す。
仕方なく、話を聞こうと向かい合い、気づく。

竜児「お前、どうしたんだ?」

大河の顔色が悪い。蒼白だ。
寝起きで血糖値が下がっているのならまだしも、食後にこの顔色はあり得ない。
異変に気付いた竜児が手を伸ばすと。

大河「触らないでっ!」

さっと、その手を回避する大河。
まるでネコ科の動物のような俊敏さ。
ふざけている様子はない。必死である。
拒絶された竜児はますます心配になった。

竜児「どうしたんだよ、大河」

なるべく優しく、聞いてみた。
相手は手負いの虎だ。追い詰めてはいけない。
間合いをはかりながら、にじり寄る。
竜児が近づくと、大河は後退り。
2人の距離は、なかなか縮まらない。

大河「ち、近づかないで!」

竜児「ま、待て、落ち着け!」

ぐるるっと唸る大河を宥める。
しかし、唸り声は口から聞こえたのではない。
もう一度、耳をすますと。

ぐりゅりゅりゅうぅ~!

それは確かに、大河の腹から、聞こえた。

竜児「た、大河? まさか、お前……」

大河「おっと! それ以上は言わないで!」

片手を突き出して、追及を遮る大河。
カサついた唇が、わなわな震えている。
声も震え声で、目尻に涙が光っていた。

全てを察した竜児は、迷わずトイレを指して。

竜児「さ、さっさとトイレに……ッ!?」

ぐりゅりゅりゅりゅうぅ~!

再び唸り声を上げるタイガー。
しかし、今度は目の前の虎からではない。
まるで虎を丸呑みしたかのように。

竜である竜児の腹から、それは響き渡った。

大河「まさか、あんたまで……?」

竜児「……おう。そろそろ答え合わせの時間だ」

大河が抱える問題。
そしてつい今しがた、竜児が抱えた問題。
その答え合わせをする時が、やってきた。

大河「お腹が痛いの」

竜児「……俺もだ」

両者、見事に回答が一致。
これがクイズならば、ハワイ旅行が貰えた。
しかし、これは現実であり、切実な事案だ。
下手すると、本当にハワイにぶっ飛ぶ。
これから先は慎重に事を進める必要があった。

大河「も、もう、駄目かも……」

竜児「諦めるな、大河!」

ガタガタ震えて弱気な大河。
それを叱咤する竜児にも、余裕はない。
怒鳴った分、更に破滅に近づいてしまった。

竜児「と、とにかく、まずはお前が先に……」

大河「いやっ! 竜児を置いていけない!!」

竜児が大河だけでも救おうと提案するも、両手で顔を覆い、首を振り、受け入れてくれない。
逢坂大河は、決して高須竜児を見捨てない。
竜と虎は、常にそばに居て、対等に並び立てる唯一無二の相手。己の半身のようなものだ。

それに大河にはわかっていた。
一度トイレに入ってしまえば、最後。
長く、苦しい戦いとなるだろう。

それまで竜児が耐え切れるとは、思えない。

大河「ごめんね、竜児」

ぽつりと、大河が謝罪を口にした。
何のことかわからず、竜児は首を傾げる。
すると大河は、たどたどしく説明した。

大河「さっさとトイレに行けばこんなことにならなかったのに、どうしても勇気が出なくて」

竜児「勇気?」

大河「そう、勇気よ。だって、あんたの家でトイレすると、その……聞こえちゃうでしょ?」

そこまで言われて、ようやく気付いた。
何故、大河がトイレに駆け込まなかったか。
どうやら、排泄の音を気にしていたらしい。
竜児は己の甲斐性の無さを自覚して、嘆く。

このボロアパートじゃ、トイレすら出来ない。

もっと良いところで暮らせれば。
トイレも2つあるような、大きな一戸建て。
庭があるなら、そこで用を足しても構わない。
全ては、竜児の責任だった。

竜児「大河……ごめんな」

大河「ううん、あたしが悪いの」

竜児「いや、違うんだよ」

健気な大河に、これ以上隠すことは出来ない。
そもそもの、事の発端。それこそが、元凶。
竜児は深呼吸をして、便意の波を見定め。
意を決して、己の罪を、打ち明けた。

竜児「実は、夕飯のシチューに使った牛乳が……どうやら、腐っていたみたいなんだ」

大河「……は?」

竜児「本当に申し訳ないっ!!」

全てを打ち明け、土下座する竜児。
呆然とした様子の大河を見てられなかった。
もしかしたら、あまりのショックで漏らしてしまったかもしれない。大河の足元をチェック。
良かった。まだ平気らしい。安堵したその時。

大河「あんた、今なんて言った?」

ゲシッ! と、竜児の頭を踏む大河。
鼻を床にぶつけて、竜児は悶える。
そんな彼の頭をゲシゲシと何度も踏みつける。

大河「ぎゅ、牛乳が腐ってたですって!?」

竜児「ぐっ……すまん」

大河「すまんじゃないわよ!? 道理であんたまでお腹が痛くなるわけね! 信じらんない!!」

責められ、暴力を振るわれ、竜児は謝る。
正直、そんな大河の振る舞いで、救われた。
罰を受けることが、竜児にとっての償いだ。
しかし、普段に比べると、酷く弱々しい。
それもその筈、大河の体調は現在最悪なのだ。

大河「はあ……とはいえ、過ぎたことか」

その場に蹲り、膝に顔を埋める大河。
どうやら、怒りは収まったらしい。
しかしながら、便意が収まった様子はない。

諦観が漂い始めたのを察して、竜児が動く。

竜児「大河、ちょっと待ってろ……!」

大河「えっ? りゅ、竜児、どこ行くの……?」

ふらつきながらも掃除用具入れへと向かう。
そこには竜児愛用の掃除グッズが多数あり。
その中から、バケツを拾い、居間に戻った。

大河「バケツ?」

竜児「おう。バケツ、だ」

それはどこにでもある、青色のバケツ。
大きさもそれほど大きいわけではない。
数ある掃除グッズの中から、竜児はバケツを選んだ。高須棒にも目が留まったが、やめた。
それよりもバケツの方が現実的だったからだ。

大河「バケツなんて、何に使うの?」

用途がわかっていない大河に、説明する。

竜児「俺はこれに、用を足すつもりだ」

大河「な、何を言ってるのっ!?」

竜児の覚悟に驚いた様子で悲鳴をあげる大河。
もちろん、想定済みだ。正気の沙汰ではない。
しかし、これ以外に2人が助かる道はなかった。

竜児「大河、わかってくれ」

大河「だ、駄目よ! こんなのいけない!!」

竜児「もうこうするしかないんだよっ!!」

怒鳴ってから、失敗したと思った。
大河の大きな瞳から、涙が溢れる。
逢坂大河は、優しい女の子だ。
人の為に、こうして泣いてくれる。
そんな大河を抱きしめて、竜児は諭した。

竜児「ごめんな、大河……わかってくれ」

大河「嫌っ! 竜児にそんなことさせない!」

竜児「もう楽になりたいんだ……わかるだろ?」

駄々を捏ねる大河に、言って聞かせた。
もはや便意は限界に近い。漏らす寸前だ。
ならば、バケツにした方が遥かにマシである。

もちろん、竜児とてこんなことはしたくない。
後片付けのことを考えると、酷く憂鬱だ。
しかし、それでも、漏らすよりは、マシだ。

それに今も竜児を襲う腹痛からも解放される。

竜児「さあ、大河。トイレに行け」

胸元にしがみついて泣く大河を引き離す。
なるべく笑顔で送り出してやりたかった。
あまり、上手く笑えた自信はない。
たぶん、引き攣り、さぞ悍ましい表情だろう。

竜児は自分の笑顔が好きではなかった。
見る者を恐怖させる、凶悪な笑み。
全ては父親譲りの三白眼のせいである。
おかげで様々な苦労を背負う羽目になった。
しかし、だからこそ、竜児は大河と出逢えた。

ギラギラと光る、竜児の危険な眼差し。
大河はそれを見て怖がったりしない。
彼女は虎。竜に怯えることは、あり得ない。

そんな大河を、竜児は愛していた。

竜児「安心しろ」

大河「えっ?」

竜児「お前が用を足す際の音なんて、耳に入らない。そんな音は、俺が全部かき消してやる」

にやりと嗤うと、大河は泣きやんだ。
ごしごしと、涙を拭ってこちらを見据えて。
ずずっと鼻をすすり、負けじと不敵に嗤う。

大河「ふんっ……なにカッコつけてんのよ」

それこそ愚問だ。
好きな女の前でカッコつけない男は居ない。
たとえ、この後、バケツに用を足そうとも。

竜児「ほら、行けって」

問答は終わりだ。
約束の刻が差し迫っていた。
互いに限界状態の今ならば、同時に出せる筈。
そうすれば、他方の音に気を取られずに済む。

竜児が大河の背を押す。
大河は何歩かトイレへと進み。
何故か立ち止まり、こちらを振り向いた。

竜児「どうしたんだ?」

大河「やっぱり、あんたを置いては行けない」

この後に及んで、また聞き分けのないことを。
そうは言っても、それが逢坂大河だった。
頑固で、諦めが悪く、執念深い、肉食獣。
獲物となった竜児を、大河は捕えて離さない。

竜児「じゃあ、どうするつもりだ?」

大河「私もバケツでする」

竜児「……は?」

竜児は耳を疑った。
今、この女はなんと言った?
大河は見た目だけは、小柄で可憐な美少女だ。
たとえ中身がどう猛な虎であっても女の子だ。

それなのにバケツでするなんて、あり得ない。

竜児「だ、駄目だ。お前はトイレでしとけ」

大河「なんで?」

竜児「な、なんでもだっ!」

大河「私は竜児と一緒がいいっ!!」

じっと、大河の大きな瞳に見つめられた。
そんな風に見られると、落ち着かない。
動悸が激しくなって、顔が火照った。

竜児「か、勝手にしろ……!」

暫く見つめ合って、竜児は目を逸らした。
改めて、惚れた弱味を実感してしまった。
そんな竜児に、大河は釘を刺す。

大河「言っとくけど、あんたが一線を引こうが、私には関係ない。越えようと思ったら、どれだけ拒まれても、私はそれを越えるから」

一方的な宣言して、大河が部屋着を脱ぐ。
慌てて、竜児は目を逸らす。真っ白なお尻。
目に焼き付いた大河の臀部が、消えない。
必死に煩悩に抗う竜児に、大河が呼びかける。

大河「ほら、さっさとあんたも脱いで」

竜児「んなこと言われたって!」

大河「じゃあ、背中合わせでする?」

面倒そうに大河は打開策を提案した。
背中合わせでの排泄。それならば、健全だ。
既に正常な判断能力を失っていた竜児にとって、それは名案であり、希望に感じられた。

竜児「よし、わかった。それでいこう」

虎と竜は背を向け合い、バケツに腰を下ろす。

大河「ちょっと竜児、押さないでよ!?」

竜児「お、おう! すまん!」

尻を突きつけ合って、押し合いへしあい。
大河の尻は非常に柔らかかったが、そんなことに気を取られている場合ではない。
気を抜けば、全てが終わる。集中せねば。

竜児「ど、どうだ、そっちは!?」

大河「ん。いけそう! 竜児は!?」

竜児「おう! いつでも大丈夫だ!」

ようやく、ポジションが決まった。
冷静に考えると、奇妙な状況である。
すぐそこにトイレがあるのに、バケツを選択。
居間の真ん中でいったい何をしているのやら。

しかしながら、そんなことは瑣末な問題だ。
たまにはバケツにしたっていいじゃない。
むしろ、それが正解のようにも思えてきた。
うん、間違いない。これしかないと、納得。

竜児が自身に自己暗示をかけていると。

大河「た、大変! 竜児!!」

竜児「ど、どうしたんだ!?」

切羽詰まった大河の悲鳴。
まさか、フライングか!?
しかし、異臭はまだしない。
だとすると、いったい何があったのか。

大河「このままじゃ、一面水浸しになる!」

ああ、なるほど。
竜児は瞬時に悟った。
極限の緊張状態の中で研ぎ澄まされていた。

大河は恐らく、尿の心配をしているのだろう。

竜児「大河、ペットボトルを使え!」

大河「無理! 絶対こぼしちゃう!」

ペットボトルの使用は難しそうだ。
なにせ大河は筋金入りの、ドジである。
繊細なボトラーにはなれないだろう。

他に何か手はないかと思案を耽っていると。

大河「竜児! お菓子の袋があった!」

竜児「それだ!」

大河が夕食前に食べていた菓子が入った袋。
それならば、開口部が広く、失敗しない。
そそくさと袋を回収する大河。早く早く!

大河「へい! お待たせ、竜児!」

竜児「おう! 気にすんな!」

大河「竜児は袋がなくても平気なの?」

竜児「男はある程度角度を調整できる!」

大河「すごいわ! なんて便利なのかしら!」

竜児には袋など必要なかった。
下に向ければ、それで済む。
大河は感心した様子で、竜児を羨む。

男に生まれたことが、誇らしくなった。

竜児「よし、そろそろいくぞ!」

大河「待って、竜児!」

意気揚々と脱糞する間際。
またしても大河が待ったをかける。
今度は何だと思いながら、背後に尋ねた。

竜児「どうしたんだ!?」

大河「あのね、その……えっと……」

竜児「なんだよ!? 早くしてくれ!!」

何やらモジモジし始めた大河。
竜児にはもうあまり時間的猶予はない。
さっさとぶちまけて楽になりたかった。
だから急かすと、大河はこんなお願いをした。

大河「手を、繋ぎたいの……ダメ?」

恥じ入るような口調で、大河はおねだりした。
そこで竜児は、またしても自分自身の不甲斐なさを思い知った。大河はきっと、不安なのだ。
それなのに竜児は、自分のことばかりを考えていた。猛烈に自省して、そっと手を繋ぐ。

竜児「大河、一緒にいこう」

大河「うん……返品、出来ないからね?」

その物言いに、思わず苦笑してしまう。
もとより便は、不可逆的な存在だ。
一度出したら、もう元には戻せない。

竜児「当たり前だ。一生の宝物にする」

その決意を受けて、大河は心から安堵した。

竜児「今度こそいくぞ、大河!」

大河「竜児……私、怖い」

竜児「大丈夫だ! 俺も一緒だから!」

大河の恐怖は、竜児にも痛いほどわかる。
これは普通ではない。アブノーマルな世界だ。
もちろん、お互いにそんな趣味はない。
竜児と大河はまともな性癖の持ち主である。
しかしそんな彼らにも、その真意がわかった。

互いのもっとも汚い場面を、見せつけ合う。

何故そんなことをする必要があるのか。
それは相手の全てを受け入れる為である。
どんなに汚くても、愛し合う決意を固める為。
それはある種の、誓いなのかも知れない。

汚いからこそ知れる、美しさ。

それで相手を嫌わない、決意。
何よりも固く、絆を結ぶ為の儀式。
その真理に辿り着くと、神聖なことに思えた。

故に竜児は、誓いを口にする。

竜児「大河! 俺は決してお前を嫌わない!!」

大河「っ……!」

竜児「どんなに汚いところも受け入れる!!」

大河「わ、私も、竜児の全部を受け入れる!」

互いに誓い合い、竜児はその言葉を口にする。

竜児「大河! 俺はお前を、愛してる!!」

大河「わ、私も、竜児を愛してるっ!!」

ぶりゅっ!

どちらが先だったかは、わからない。
しかし、愛の言葉と共に、それは出た。
ボタボタと、バケツに愛の結晶が、溜まる。

竜児「フハッ!」

ぶりゅりゅりゅりゅりゅりゅりゅっ!!!!

竜児「フハハハハハハハハハハハッ!!!!」

激しい排泄の音に、竜児の哄笑が混じり合う。
恐らく、大家には丸聞こえだろう。
しかし、それがどうした。構うものか。

今はただ、全てを出し切る。
便と共に、愉悦を撒き散らすだけだ。
狂っているかって? ああ、狂っているさ。

狂おしい程に、大河を愛していた。

大河「あっ」

小さく、大河が跳ねた。
何だろうと思ったら、袋に穴が。
そこから尿が盛大に漏れていた。

大河「ご、ごめんね……竜児」

珍しく素直に謝罪する大河。
いつもなら、小言のひとつでも言うところ。
しかし、今ならば全てを許してやれる。

竜児「気にするな、大河」

大河「でも……」

竜児「そんなお前が、俺は好きだ」

大河「っ……!」

思ったことをそのまま口に出した。
どうやら、効果は覿面だったらしい。
顔は見えないが、きっと真っ赤な筈だ。

大河「ふぅ……愉しかったね、竜児」

竜児「おう!」

事後、満足げな大河。
竜児も満ち足りた感覚を味わっていた。
ふと、部屋の時計を見やると、そろそろ母親の泰子がリニューアルオープンしたお好み焼き屋『毘沙門天国』から帰宅する時間帯だった。
さっさと後始末をせねば。

速やかにバケツを片付けようとすると。

大河「もっかい、しよ?」

引き留めてくる、大河。
もっかい、もっかいと、何度もせがむ。
竜児とて、その望みを叶えてやりたい。
しかし、実際問題、それは不可能だった。

竜児「もう出すものがないだろ?」

既に、互いの腹は空っぽだ。
それは大河にもわかっている筈。
すると大河は竜児の小指を絡め取って。

大河「じゃあ、また今度ね?」

竜児「おう。わかった」

大河「約束をすっぽかしたら許さないから!」

指切りを交わして、誓約を結ぶ。
本来ならば、薬指に指輪でも嵌めたいところ。
しかし、今はこれで充分だった。

眩い大河の笑顔を忘れる筈は、ないのだから。

竜児「それじゃあ、片付けてくるから……」

バケツの中身をトイレに流しに向かう、間際。

泰子「ただいまぁ~!」

泰子が、帰ってきた。
ドタドタとこちらに向かってくる。
竜児は慌ててトイレに向かうも間に合わない。

泰子「竜ちゃん大河ちゃん、ただいまぁ! あれぇ~? なんかぁ~このお部屋、臭くない?」

竜児「き、気のせいだろ!」

大河「そうそう!」

くんくんと鼻を鳴らす泰子。
全力で誤魔化す竜児と大河。
すると泰子は竜児が持っているバケツを発見。

泰子「あれぇ~? なぁに、そのバケツ? ああ~わかったぁ~! やっちゃんの為に、バケツいっぱいのプリンを作ってくれたんだぁ~!」

かつて、櫛枝実乃梨が作った、バケツプリン。
竜児が話したことを泰子は覚えていたらしい。
ウキウキした様子でバケツの中を覗いてくる。

竜児「終わった、な……」

竜児にはもう、抵抗する気は無かった。
悟りを開いたように、無心で佇む。
大河はそそくさと窓から逃亡を図っている。

何が、竜児を置いていけない、だ。

それでも腹が立つことはなかった。
何故ならば、大河が着用している白いワンピースの尻の部分に茶色い染みがついていたから。
あのドジ、拭かずにそのまま着たらしい。
竜児が怒らずとも、神はきちんと罰を与えた。

そして今度は、竜児が罰を受ける番だった。

泰子「竜ちゃん……これ、なぁに?」

竜児「それは俺と大河の、愛の結晶だ」

その返答はスムーズに口をついて出た。
無心であるからこそ、悩む必要はない。
ただただ、竜児の心は穏やかだった。

泰子「やっちゃんは、竜ちゃんをそんな子に育てた覚えはありませんっ!!」

竜児「俺もこんな風に育てられた覚えはない」

もう、どうにでもなれと思った、その瞬間。
開き直った竜児の頬を襲う、衝撃。
じわりと熱を感じて、ぶたれたと理解した。

泰子「まさか、竜ちゃんと大河ちゃんにこんな特殊な趣味があったなんて……そんなの、ギガントありえないでヤンスでゲスー!!!!」

泣きながら泰子が部屋から出て行く。
まるで街宣車のような声量で風評被害が拡大。
それを引き留める資格は、竜児にはない。
手に持ったバケツの重みが、ズシリと響いた。

インコちゃん「……ンコ……ンコ……ンコ……!」

立ち竦む竜児の耳に届く、最後の家族の声。
大河も泰子も去り、もはやインコちゃんだけ。
その希望の鳥が、ついに己の名前を口にする。

それで締めくくれるならば、悪くない。
そう思った竜児は、籠の前にしゃがみ込み。
奇跡の瞬間を固唾を呑んで見守ったの、だが。

インコちゃん「ウンコちゃーん!!!!」

竜児「くだらねぇっ!!!!」

さすがは1gの脳みそしか持たぬ鳥類。
それでもこんな時だけは空気を読みやがった。
バシャッと、バケツの中身を籠にぶちまけた。


【高須家の糞尿被害】


FIN

ご読了、ありがとうございました!
タイトルに関しては、大河「お腹が痛いの」竜児「……俺もだ」に脳内変換して頂ければありがたいです!

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