【ミリマス】彼女はその手を繋ぎたい (59)
===
新参者のこの私が、765プロライブ劇場に
『お昼寝部』なる活動の存在があることを知ったのは、
歌を教え教わる先生と生徒の立場でありながらも、
同時に、アイドル仲間でもある環ちゃんとお話してた時。
「みんなで色んなトコ行って、遊んでから、眠るんだぞ!」
いつでも元気一杯の環ちゃんは、
その時も説明をしている間ずっと忙しなく体のどこかをぴょこぴょこさせて。
身振り手振りのその度に、彼女がたてがみのように括っている長い髪の束が、わさわさ。
三時のおやつにと用意されたケーキを食べるのと、
お話をすることの二つを同時にこなそうと無茶するから、
テーブルの上には口の中に入れ損なったスポンジなんかが、ぽろぽろ。
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1528502925
「ふふっ。環ちゃんのお話を聞いてるだけでも楽しいってことよく分かるわ」
「ホントに? かおり、ラジオで話しても大丈夫かなぁ」
「ええ、きっと」
傍にあったティッシュでその口元を拭ってあげる中、
「今度のトーフ番組? で話すんだ~」なんてニコニコ笑顔の環ちゃんへ、
「ならこれは私からの応援代わりね」と、彼女の食べかけケーキのその上に、
私は苺の形をした太鼓判を押してあげるのでした。
「……いいの、かおり?」
「うん! それを食べて、お仕事しっかり頑張って」
「ん~、ありがとっ! かおりは優しいな~♪」
……でも、ラジオじゃ環ちゃんの可愛い動きを伝えられないことが残念。
こんなに見ている人の気持ちをポカポカさせる笑顔を届けられないのも。
「勿体ないと、思いません?」
だから私、おやつを食べ終わる頃にタイミング良く
様子を覗きに来たプロデューサーさんへ思ったことを伝えたんです。
すると彼は、「だぁーいじょうぶです!」と自分の胸を一叩き。
「まーかせてください。バッチリ抜かりはありませんよ」
「というと?」
「ラジオと言ってもウェブラジオ。
動いてる環の魅力なら、俺だって重々承知のうえですとも!」
自信満々、鼻高々、まるで娘を自慢する父親のようなその姿が、
良く知っている男の人と重なって見えたものですから。
「……ふふ、プロデューサーさんって、良いお父さんになれそうな人ですよね」
つい口走ってしまった言葉を受けて、彼の目は大きく見開かれたのでした。
……傍で聞いていた環ちゃんが首を傾げて尋ねます。
「おやぶんは良いおとーさんになるの?」
「いやぁ、そういう予定は――」
ですが彼女は、歯切れの悪いプロデューサーさんの言葉も終わらないうちにくるりと私の方を振り返って。
「だったらかおりもめちゃんこ優しいから、きっといいおかーさんになれるよね!」
くふふと無邪気なその笑顔は、時に、人を真っ赤な苺のように変えるみたい。
――お母さん、母親に、私が――
そ、それはその、私だって一人の女ではありますから、
いつかはそういう役目も回って来ると考えたことが無いと言ったら嘘になります。
だけど、その前には色々やらなくちゃいけないし、まず結婚しなくちゃならないし、
結婚するにはそもそもお付き合いしている相手が必要で――第一父が何と言うか。
だって私が学生の時分から、男女の交友には強く目を光らせ続けてる人ですもの!
……なので私は、正直父以外の男性の手をしっかり握ったことすら無く。
思わず空いてる自分の手をチラリ。
その、視線を動かす仕草が答えをはぐらかすように映ったのか。
「まっ、まさかそんな予定があるんですか!?」
息を飲み、身を乗り出して、突然思考に割り込んで来る慌てた声、いいえ、彼。
「あ、ありません! 無いですそんな!
――私、男の人と付き合ったことさえ一度だって……」
その勢いに大変驚かされてしまって、
不自然なぐらい、みっともなく取り乱したりもしてしまって。
恥ずかしさと自分自身への呆れで増々頬が、熱くなる。
でも、プロデューサーさんは私の反応に何だか胸を撫でおろすと。
「な、なんだ、そうですか……良かった」
「良かったって、何がです?」一拍置くことすら忘れてあわてんぼう。
怪訝そうに訊き返してしまう、私。
すると彼は、どう説明したものかと悩むように頭を掻きながら。
「いえね、他意は無いんですよ。ただほら、今の歌織さんは――アイドルですから」
――彼の口にしたその言葉は、私を頷かせるのに十分過ぎる程の力を持っていました。
確かに、アイドルを生業としてる人間が異性とお付き合いしてるだなんて……良くないことだと分かります。
でもそれは、世間に向けた暗黙の了解。
実際裏でどうかなんて、わざわざ触れない周知の事実。
現に目の前にいるこの人ですら、自分より遥かに年下のアイドル達から少なくない好意を寄せられていて
――私より年上のこのみさん曰く、「あれはお気に入りの玩具扱いよね」なんだそうですが――
事情を知らずに傍から見れば、いたいけな少女たちをはべらせている典型的な悪い大人(ひと)。
だけどそこまで好かれてしまうのは、彼が誰にでも公平だからかもしれません。
裏表も、隠してるつもりでお尻が見えてる人ですし。
「……それでももし、誰かとお付き合いしてるって事実があったなら、
言い出し辛いかもしれませんけど俺に一言言ってください。
……勿論、そのせいで歌織さんに事務所を辞めてもらうとか言う話では無いですけど」
そうして時々はこんな風に、人をドキッとさせる言葉を下さるんです。
私は、まるで隠し事を悟られた少女のように肩を震わせると。
「疑っていらっしゃるのですか? ……私が、嘘をついてると」
「まさか! そうじゃなくて、支障が出ない方向へ活動をシフトさせますって話がしたいんです。
アイドルの肩書きを外したって、女優業だとか、モデル業だとか。
ウチはアイドル事務所である前に、芸能事務所でもありますから!」
「……プロデューサーさん」
彼の強い口調に押される形で、私は小さく口ごもると。
「お言葉ですけど私、演技は上手じゃありませんし、見た目に自信があるワケでも――」
でも彼は、そんな私の発言を黙って良しとはしませんでした。
立ったままで力み過ぎたのか、二人の間にいた環ちゃんの肩へ
押さえつけるように両手を乗せて、さらに大きくその身を乗り出して。
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「自信が無いだなんてとんでもない! アナタはとても素敵な方だ。
歌織さんが伸びやかに歌う姿は春風のように心地よく人の視線を惹きつけるし、
ひとたび衣装を纏ってステージに立てば、ライトアップされたダイヤモンドにも負けない輝きを放ちます。
雅やかな雰囲気を感じさせるトークは耳障り良く渇いた心に染み渡り、さらには時折見せるはにかんだ笑顔!」
言って、今や熱狂的な講演者さながらに両の拳を振り回す彼が私のことを指さします。
そうしてそんなことをされてしまえば誰だって、
自分の意志とは関係なしにうっかり微笑み返してしまう物でしょう?
「その笑顔がとても美しい!! 少女のような愛らしさと、確かに感じる大人の色香……。
その二つが混ざり合った様は、まるで稀代の芸術品のように洗練された美の極致です! ――なぁ環!?」
「えっ!?」
「環だって、歌織さんの笑顔は好きだよな! なっ?」
プロデューサーさんは(怖いぐらいに)興奮気味に捲し立てると、
環ちゃんと目線を合わせるため膝を折ってその場に素早く屈みこみました。
思わず半歩身を引く環ちゃん。
でも彼女は、「う、うん」と小さく頷くと。
「おやぶんの言ってることはよくわかんないけど――でも、かおりの笑顔ならたまきも好き!」
彼女が期待通りの答えを返したからか、満面の笑顔でわしゃわしゃと、
プロデューサーさんは目の前の"こぶん"をいい子いい子してあげます。
するとみるみる蕩けてしまうように、顔をほころばせていく環ちゃん――可愛い……じゃなくてズルい! で、でもなくてっ!
私はある少女をお手本に両手を自分の腰に当て、少し恥ずかしいけど偉そうに小さく胸も張って。
大人同士の話し合いに、こんな子供を介入させるなんて卑怯な人、この恥知らず!
……そういう気持ちを視線に込めたなら、丁度都合よく跪いている彼のことを見下すように一瞥する。
「……まぁ! お上手ですこと」
さらには少し強めの皮肉も投げつけちゃう。
ふふっ、このぐらいの大人の駆け引きは私にだってできますもの!
あんな見え透いたお世辞で言い包められてしまうほど私はちっとも子供でなく――。
「くふふ、かおりも嬉しいんだ!」
「ふぇっ?」……なんて、環ちゃんに言われて変な声が。
「だって褒められたーって顔してる!」
「分かって貰えたみたいですね! 俺から見た歌織さんがどれほど素敵な方なのかを!」
「えぇっ!? そんな、私、そんなつもりじゃ……」
途端、思わず両手を頬に当てて、虚勢もたちまち消え失せて。
私は今、自分がどんな顔をしているのか無性に確認したくなって――
ああ、でもでもそれを知るのはとっても怖い。
あれほど悪い人だからと自分に言い聞かせておいたのに、
それでも褒められたから嬉しいだなんて歌織ったら……もう! 一体どこまで単純な女なんでしょう!!
ここまで。
===
そんな今思い出してみたって恥ずかしい、
自分の丸め込まれやすさというものを嫌と言うほど味わった一件からしばらく。
もっと大人にならなくちゃ。そう心に誓って劇場での日々を過ごす私のもとに、
プロデューサーさんがあるお仕事のお話を取って来て下さいました。
「歌織さん、恋人になりましょう!」だなんて、心底こちらを驚かせるような言葉と共に。
「こっ、恋人にですかっ!?」
応える声が裏返っているのが分かります。
おまけにそれが、どれほどリラクゼーションルームの中で響いたのかも。
すぐさま目の前の彼が慌てながら、先ほどの発言を打ち消すように手を動かし。
「ああ、いえ、誤解しないでください! 今のは別に、告白とかそういうワケじゃ」
「も、勿論――勿論ですとも?」
「雑誌の企画なんですよ。テーマが『恋人とのデート』っていう」
説明されて少し安心。
……ところが、彼の大きな大きな言い訳で、
部屋のあちこちからはホッと安堵のため息が聞こえて来る。
その空気を感じ取るだけでも、目の前の男性が常日頃から
どれだけ無作為な優しさを辺りにばら撒いてるかが分かります。
中には、まるでそんな周囲をけん制するように「は~い!」と甘えた声を上げ。
「それってプロデューサーさんが相手役だったりするんですかぁ?
もしそうなら、そのお仕事わたしが受けたいでーす!」
今の今まで読んでいた雑誌も座っていた椅子に放り出して、
一人の少女が私たちの間に体ごと割って入って来ます。
彼女の両手が彼の腕を掴み、そのまま流れるように絡められる。
薄いシャツ越しに押しつけられてる、体。
随分積極的なアプローチは、けれども、
プロデューサーさんには余り効果が無いみたい。
「聞けば飛んで来ると思ってたよ、翼」彼はそう言って少女を引き剥がすと。
「でもこれは歌織さん向きの仕事なんだ。ちょっとリッチな大人のデート特集ってな」
呆気なくあしらわれてしまった翼ちゃんは、不満そうにその場で髪を跳ねさせます。
その仕草は、地団駄と呼ぶには余りにもチャーミング過ぎるものでした。
「だったら、なおさらわたしがやりたいのに……。プロデューサーさんとの大人デート」
「……あのな翼、相手役は雑誌の読者だよ。
あくまで恋人といるって想定して、何枚か写真を載せるだけさ」
でもそれを理解していない彼女ではありません。
「別に、言ってみただけですよ~」
リップで艶やかな唇を拗ねるようにプイッと尖らせて、分かりやすく露骨なアピール。
すると、プロデューサーさんはそんな彼女のご機嫌を取るように。
「だからそう拗ねるなって。今度は翼にピッタリの仕事を取って来るから」
「……お仕事よりもデートがいい」
「デートみたいな仕事をさ。――確か、アスレチックランドの紹介があったかなぁ?」
記憶を辿るかのように頭を掻いてる彼ですけど、プロデューサーさんってば、
自分が手の平の上でいいように転がされていることをちゃんと分かっているのかしら?
だから私は、まるで助け舟でも出す気持ちで、
「それで、プロデューサーさん?」――会話に割り込んだ私へと、二人分の視線が向けられます。
でもそれ以上に、きっとこの部屋で立てられてる聞き耳は沢山。
「もう少し、具体的なお話が聞きたいです。……できればその、もっと落ち着いた場所で二人きりで」
ここまで。
===
――後悔、そして自己嫌悪。私ったら、どうしてあんなことを言ってしまったのか。
『……歌織さん、もしかして怒ってます?』
ううん、そんなこと無いのよ翼ちゃん。
『あー……。すみません、何だか放ったらかしにしたみたいで』
プロデューサーさん? それじゃあまるで、
私が二人のやり取りにヤキモチを焼いてるみたいじゃありませんか。
『いいえ、全然気にしてません。……それよりも、プロデューサーさんだって
お忙しいでしょうし、お仕事の打ち合わせは手早く済ませられた方が』
『そ、そうですか? なら、詳しい話は事務室の方で』
『はい。一緒に参りましょう』
……こうして思い出すのは先日のこと。
さらには廊下へ出る間際に、彼が残したあの言葉。
『翼! さっきの約束、覚えとくぞ』
扉が閉まるその時まで、こちらを向いていた少女の笑顔がまざまざと蘇って寝返りをうつ。
とっくに意識は覚めてるのに、瞑った瞼を開けたくない。
ベッドの上は心地いいのに、心の中はモヤモヤする。
私ったら、あんな子供に嫉妬してる。
……いいえ違うわ! 悪いのは彼女よりあの人の態度だもの。
まだ本当の恋も知らないような子をたぶらかして、全くなんて卑劣な人!
――そう思えば、なんだか元気が湧いてきます。
両目をゆっくりと開いたなら、枕元の時計を手に取って
「……起きなきゃ」
けれども、私が体を起こすより先に自室の扉が開かれました。
ドアノブを握り、無遠慮に顔を覗かせるのは母です。
「歌織、アナタいつまで寝てるの?」
次いでコンコン、と扉を手で叩く。
ノックをするのが遅すぎるわ――なんて愚痴の代わりに返したのは。
「んー……。起きてる」
「ならベッドの上から降りなさいな。
そういうのを、世間じゃまだ寝てるって言うんでしょ」
彼女は呆れたようにため息一つ。
私は言われるままに体を起こし、
名残りを惜しみながら温かなベッドから離れました。
肌寒さに自分の肩を抱きながら、
遮光カーテンを開く母の背中に「おはよう」と挨拶を投げかけます。
「何がおはようなんだかこの子ったら。……もうお昼よ」
「お昼って、まだ十時じゃない」
「昼前って言葉を知らないの? 早く着替えて顔だって洗って来て。お父さんも起きて居間にいるから」
そうして母は私を急かすようにクローゼットの前へと追い立てる。
彼女のせっかちさは私が小さな頃から変わらない。
なのに、小言を言われる量が年々増えてきているのは単なる気のせいなのかしら?
そんなことを頭の隅で思いながら、
今日着ていくための服を選び、姿見の前で袖を通す。
……髪型は、どうしようかな? 普段と同じじゃ少し不安。
纏めてる時の癖がついて、緩くウェーブのついてる髪をそのままじゃみっともないとか思われない?
「あらま、随分とお洒落してること」
鏡に映る母が言います。
私は振り返ることもせずに、取り急ぎ手櫛で髪を整えると。
「別にいつもの服と変わらないわ」
「母を甘く見ないで頂戴。……いいわねアナタは若くって」
「……それ、どういう意味?」
「怒らないの。見せる人が居るって素敵なことよ」
彼女はからかうようにくすりと笑い、私の両肩にその手を置きました。
鏡の中に並ぶ二つの顔。
一つは未来、一つは過去。
「私も老けるワケだわね」
――将来は私も母のように、自分の娘へ語りかける時が来るのでしょうか。
い、いえ。女の子が生まれると決まってるワケじゃありませんけど。
いつかの繰り返しになってしまいますが、第一相手も居ませんし。
「ところで歌織」
「な、なぁに?」
「化粧は薄めで行きなさい。私はそれでお父さんを落としたわ」
だからって、こんな風にお節介を焼く母親にはならないようにと思いました。
結局、髪はクリップでハーフアップにまとめるだけ
――どうせ結ぶか括るかしかありませんし――
むしろ普段とはシルエットも違う分、都合がいいかもしれません。
顔を洗いに行く途中で母と別れ、
私は洗面台のボウルにぬるま湯を張り終えると手を浸す。
冬の寒さに心地いい感触。
ぱしゃりと顔に貼りつければ、ようやく目元がスッキリします。
水を使う朝の身支度に関する一通りのルーティンを終わらせたら、
ふわふわタオルで顔を拭きつつ今日の予定を確認する。
「――いやだ」
気づけば、頬の緩み切った自分の顔が洗面台の鏡に映っていて。
気を張り直すように瞳を閉じて深呼吸。
……再び瞼を上げた時、鏡の中の歌織はちゃんと余所行きの表情で私とその目を合わせました。
「本当に浮かれ屋なんだから」
困ったように言い聞かせて、すぐにも洗面所を後にする。
そうして居間にやって来ると、
ソファに座っていた父が読んでいる新聞から顔を上げ。
「おはよう歌織。今朝はよく眠れたのかい?」
「おはようございますお父さん。……お休みだから寝過ぎちゃった」
挨拶を済ませた私は彼の対面に腰を下ろしました。
二人の間に置かれたテーブルに、母が出来立ての朝食を持って来てくれます。
「もしかして、私だけ先にお昼ご飯?」
「ダイエットしてるならそれでもいいけど。コーヒーにする? それとも紅茶?」
「紅茶が良いな。ミルクたっぷりの」
母がやれやれと言う風に眉を上げて台所へと戻っていく。
真っ白なお皿の上にはこんがりと焼き目のついたジャムトースト。
火傷しないように手に取ったら、鼻をくすぐっていたリンゴの匂いが強まります。
……ひなたちゃんから頂いたジャムと食パンの相性は凄く抜群。
まるで焼き菓子のような味のハーモニーに、つい、お代わりだって欲しくなりますけど。
「歌織、ちょっといいかな」
名前を呼ばれて視線を上げる。
口の中のパンを飲み込んだなら。
「なぁに、お父さん?」
「今日はお父さんもお休みでね。どうかな、久々に二人でゴルフにでも――」
「あー……ごめんなさい。午後からは大事なお仕事が待ってるの」
私はどこかソワソワと提案する父の言葉を遮ると、
申し訳ない気持ちで小さく首を横に振って。
するとたちまち、お仕事という言葉を聞いた彼の顔色が怪訝そうな物へと変わります。
「さっきはお休みだって言ってただろう?」
「そうだけど、そうじゃなくて」
パンを齧って返事を濁しながら、私は説明要らずの母にも困るけれど、
父もそれと同じぐらいには面倒よね――なんて。
「次のお仕事の為に下見をしなくちゃいけないのよ。予定の合う日が今日しか無くて」
そうしてすぐに思い出します。
丁度やって来た母からミルクティーを受け取ったら、
私はなるべく父とは目を合わせないようにしつつ。
「お母さん。忘れてたけど今日のお昼は外で食べるわ。……もしかすると、夜ご飯も」
母は父の前にコーヒーを置くと、その隣に自分の分のカップを並べ。
「あらそうなの」
「うん」
「じゃあ、どっちになっても連絡だけは忘れないで」
持っていたお盆もテーブルに置いたなら、眉一つ動かさずに父の座ってる隣へと。
そんな素知らぬ振りの母とは違い、父は慌てた様に持っていた新聞を畳んだなら。
「待て待て、お前たちちょっと待ちなさい」
眉をひそめ、肩を張って、ソファに深く座り直す。
その手はコーヒーに伸びているけど、視線は私に固定して一ミリだって動かさない。
「お父さんがお休みの日の夜には、家族揃って夕食を食べるのがウチのルールだ。
その為にも私だって予定を空けているのに」
不満な面持ちを隠そうともせずにカップを持ち上げた彼は言います。
確かにそれは、我が家で長年守られて来たしきたり。
自衛隊の、それも何だか偉い立場にいるらしい父は
――詳しいことは知りませんが――私が小さな頃から忙しく。
こうして落ち着いて顔を合わせられるようになったのもたかだかここ数年のお話。
そんな彼が、家族との繋がりを心配して設けたのが先のルール。
母との、そして一人娘である私との時間を大切にしたい。
その心掛け自体は大いに褒められるべきことでありましょうが、
こうして月日が経つにつれて、古い習慣はある種の束縛も次第に生み出して。
「そうは言っても、凄く大切なお仕事なの」
私は食べかけのトーストをお皿に戻し、
代わりにミルクティーのカップを取ると仕方ないのよなんて肩をすくめます。
ですが、それでも父は納得いかないと唇を曲げ。
「なのに昼夕と食事まで済ませるのか? 休みだというのに、長い時間を」
「あるんだもの……。アイドルって、色々と変わったお仕事が」
私の返事に、溜め息。
父は釈然としない気持ちを飲み込むようにコーヒーカップに口をつけて
――それからしばらく黙った後、
詰問するような視線をこちらに投げかけ言ったのです。
「歌織、例の高木っていう青年が一緒なのか?」
その名前をこの場に出された瞬間、
動揺のあまり紅茶でむせそうになりました。
それでも何とか噴き出すのだけは堪えると、
私は努めて平静を装いつつカップをテーブルへと戻し。
「……それが何か?」
「一緒なんだな」
「だったらどうだってお父さんは――。
あの人は私のプロデューサーなのよ? 当然、お仕事だったら一緒でしょう」
居心地の悪さが紅茶の味さえ忘れさせる。
父だってもう、朗らかな笑顔ではありません。
難しい顔で腕を組んで、低く唸る姿はここを仕事場と勘違いしてるみたい。
――でも、だからと言って目を逸らすワケにはいかないから。
「アナタ」
その時、今の今まで我関せずといった態度だった母が初めて口を開きました。
気が立つ私達の関心を集めても、彼女はまるで堂々としたまま
テーブルの上に置かれたテレビリモコンをその手に取り。
「この子だってもういい大人なんですから、殿方との付き合い方ぐらい。……歌織も分かっているわよね?」
消されていた居間のテレビに電源が入る。
場違いなバラエティーショーの再放送。
底抜けに明るい、わざとらしい笑い声が辺りの空気を変えていく。
「お父さんを泣かせるようなことしちゃあダメよ」
母の放ったその言葉で、不意に環ちゃんの笑顔が浮かびました。
――膝の上に乗せていた両手を無意識のうちに組み直す。
それは長年に渡って押さえつけてばかりいた躊躇いを、自分自身の心から追い出すように。
「……それじゃあ、お母さんは一生独身でいろって言うの?」
父が思わず腰を浮かす。
口端を上げた母が私を一瞥する。
――とうとう言ってしまったとそう思った。
後悔と興奮、二つの感情がやり直しの効かない発言と共に私の体を駆け抜ける。
案の定、我に返った父は大きくその身を震わせて。
「歌織!? まさか、既にもう――」
でもすぐに、母が片手を上げて遮った。
「強がらなくったっていいのよ歌織。孫についてはもうとっくに諦めてるんだから」
言って、彼女は半眼で父のことを見やり。
「でももう一度子育てをするぐらいなら、遠慮せずに弟を生んでおくんだったわ」
その一言が、どれほどのショックを彼に与えたことか。
「母さんそれは……。い、今言う話じゃないだろう?」
「ええ、ええ、そうでしょうね。夜になったらタップリ話し合いましょう?」
「母さんっ!!」
そうして後に続いた夫婦のやり取りが、どれほど私の頬を染め上げたかを――
詳しく説明する必要は、どこにもあるワケが無いですよね?
ここまで。Pの名前についてはこの後のイチャイチャで必要なので、気になる方は適時脳内変換願います
===2.
最寄駅から徒歩で数分。
二人の待ち合わせに選んだのは、
駅の近くの路地に入り、少し進んだところに建ってる喫茶店。
そこは、顔の模様が太眉に見える看板猫がいるお店で、
メニューの中になぜかおうどんがあることでも知られている。
いわゆる一つの、隠れた名店的な小さな場所。
「……遅い」
我慢できずに注文した美味しいサンドイッチを頂いて、
お腹も膨れた私は時計を眺めて呟きます。
……プロデューサーさんったら、お昼過ぎには着くと連絡して下さったのに。
振り子の付いた掛け時計が彼の三十分遅れを知らせている。
私が座っているは角の席なので、テーブルの上に頬杖をつくと、
目だけを動かして店内をぐるりと見渡せます。
あまり広くは無いスペースにお客さんの姿はまばら。
マスターはカウンター席の常連さんらしき人と談笑中。
入り口近くのクッションの上、横たわる猫がくぁーっと気持ちよそうに欠伸。
釣られて私も口を開けた。その時扉のベルが鳴った。
開け放たれた出入り口にコート姿の待ち人来たり。
――油断大敵。
口が一番大きく開いたところで二人の視線が重なります。
「――うにゅっ!?」
思わず噛み殺した欠伸は、お返しだと言わんばかりの間抜けな声を上げさせました。
一瞬、店内にある視線の殆どが私に注がれたような気がしますが――勘違いよと言い聞かせる。
素知らぬ顔を装いながら俯けば、
床を踏み鳴らし近づいて来る足音、安心できる聞き慣れた声。
「すみません」
急いで顔を上げたなら。
「待ち合わせをしてたんですけど……。相手がまだ来てないみたいで」
若いウェイトレスさんに説明する彼の姿が目に入った。
……全く何をしてるんだろう。
私は椅子から立ち上がって、人待ちに良さそうな席へと案内されようとしている彼の傍までやって来ると。
『プロデューサーさん』
そう、いつものように呼びかけた口を。
「プロ――裕太郎さん?」
無理やり違う形に変えた。驚く顔がいい気味だわ。
それに席はもう取ってありますと伝えたくて、彼のコートの袖を軽く引っ張る。
「遅刻ですよ。三十分も」
……流石に、そのまま腕を組んだりまではしませんでしたけど。
私はただの親切心から、きっと自分の仕事で忙しいだろう
ウェイトレスさんの手間を解消して差し上げたのでした。
とりあえずここまで。
「あのぉ……。さっきのは一体何ですか?」
そう遠慮がちに彼が切り出したのは、二人で角の席へ戻り、
着ていたコートを畳み終わり、遅刻したことを謝られて
(この際、二人の"お昼過ぎ"の定義の違いでひと悶着がありましたが……。不毛な話題なので流しますね)、
ウェイトレスさんにとりあえずコーヒー(そういう商品名なんです)を注文し、
その一部始終をジィっと眺めていたこちらとの視線を合わせた時。
私は姿勢正しく彼と向き合い、籠の中の小鳥が
飼い主を見つめるようにちょこんと小首を傾げたら。
「一体、とは?」
何のことだか綺麗さっぱり。そう嘯く調子で訊き返します。
すると彼は困ったように眉根を寄せて。
「とぼけないでください、呼び名ですよ。……アナタはどうして俺の名前なんか?」
「……以前頂いた名刺に書いてありましたもの。
それに私たちが初めて出会った時にも、丁寧に自己紹介して下さったじゃありませんか」
「そういう意味じゃなくてですね」
「なら、どういう意味なんです? わざわざ変装までして会ってるのに、いつもみたく"プロデューサーさん"と」
そこで一旦言葉を切ると、私は毅然と胸を張って答えたのです。
「そういうお仕事に対して中途半端なコト、私、手を抜いてるみたいで好きじゃありません。
第一、裕太郎さんには今日一日私の恋人役をしてもらうんですから」
言われたプロデューサーさんが「また呼んだ」なんて顔になって口をつぐむ。
注文したコーヒーが運ばれてきて、渋面の彼の前へと置かれます。
少しだけ浮つく、視線。
私はそんな反応を敢えて見逃すと。
「なのに約束の時間には遅れて来る。私のことにも気づけない。
おまけに他の女の人にデレデレして」
言いながら、戻っていくウェイトレスさんの背中を見やり。
「これが本当にお付き合いしてるなら、今頃相手は怒って帰ってますよ?」
そうしてテーブルの上で腕を組むと、私は忠告するように言ってあげました。
まるで叱られている子供みたいに首を縮めて、
プロデューサーさんが「いや、それは」と言い訳を探し始めます。……聞きましょう?
「別にデレデレなんかしてませんよ。ただ待ち合わせ相手を探してることを伝えようとしてただけで」
「探していただなんて。入ってすぐ、私達目が合ったじゃありませんか」
「……そんなことありましたっけ?」とプロデューサーさんは目を逸らします。
本当に子供みたいな人。
どうしてこんなに分かりやすい誤魔化し方を選ぶのかしら。
「とぼける必要、無いですよね」
そんな情けない彼は、私が語気を強めて問い詰めると。
「……仕方がないじゃありませんか。丸っきり印象が違ってたから」
「髪を下ろしてるだけですけど」
「それだけでも別人に見えるものなんです。
特に、歌織さんみたく普段がかっちりしてる人の場合――」
言いかけた言葉を慌てた様子で引っ込める。
私は許しませんと視線でその口をこじ開ける。
結局、勘弁して欲しいと泣き出しそうになった彼は。
「下ろしただけでおさな――若く見えるんですよ。それに印象だって柔らかくなって。
も、もちろん普段の歌織さんも、十分優しいイメージのある人ではありますけど」
なら、どうして今のアナタはそんなにも怯えた顔で私を見るんですか。
そんな不満が顔に出ていたのか、プロデューサーさんは恐る恐ると口を開き。
「……怒ってます?」
「怒ってません!」
すぐさま言い返してしまったんです。
これだと肯定してるのと変わらない。
私は何だかとっても面白くなくて(第一若く見えるだなんて、
普段の私を暗に老けていると言ってるような物です!)
気分と話題を変えようと、「それで、今日の予定ですけど」なんて話をお仕事へと移します。
けれども、時間を気にして時計を確認したのが裏目に出てしまいました。
柱時計の刺す時刻はもうすっかりお昼とは呼べなくて。
後数時間のうちに彼とのお別れが迫っていて。
アナタが遅刻なんてするからと心の中で文句を言う。
鎮めようとしていた苛立ちがパチリとはぜる。
そんな私の機嫌を知ってか知らずか、目の前の彼は呑気にコーヒーを味わいながら
「それだったら、当日に回る予定の場所をリストにして持って来ましたから」とジャケットのポケットからメモを取り出します。
テーブルの上に置かれたそれには、今度受ける雑誌のお仕事
――例の大人デートです――で赴く予定の場所がずらり。
とは言っても、大別すれば幾つかの娯楽施設とレストランに分けられるその内容は、
いかにもデートスポットにおける定番といった顔ぶれで。
……なんて偉そうに言ってる私ですが、実際にデートをした経験はありません。
『だから知識だけじゃなく体験として、お仕事前に知りたいんです。
当日の現場で指示に慌てたり、上手くできないなんてことが無いように』
数日前に事務室で交わしたやり取りが蘇ります。
それは随分と突飛な理屈ではありましたけど、
プロデューサーさんは優しい――単純な人だから。
『いいですよ。早速予定の方を調整しましょう』
こうして作られた恋人ごっこの練習日。
あまつさえ「歌織さんは仕事に真面目ですね」なんて評価まで彼にして頂いて。嬉しい反面ちょっとフクザツ。
だって歌織は、お仕事を口実にアナタの傍に居たいだけだと自分で分かってしまってるから。
でもそんなことを言ってしまうと、ダメですね。
幾分頬が火照って仕方ありませんので――落ち着くまでの間にほんの少し、違う話をさせてもらえはしないでしょうか?
===
それは一羽の小鳥にまつわるお話です。
ある所に大きくて立派なお屋敷が一軒。
広く手入れの行き届いた庭には、
美しい鳴き声で人々を魅了すると噂される小鳥を守る籠がありました。
飼い主は言います。
年老いた自分の心残りは、彼女を一人遺して逝くことだと。
いざという時には任せられるように、新たな飼い主候補を募りたい……なんて。
そうして長年飼われていた小鳥は、いつからか、
ケージの鍵が外されたままになっていることに気づきました。
それはココではない、別の籠へ、小鳥を誘う為の扉。
新たな飼い主に名乗りを上げた方々は、それは豪華な装飾の施された鳥籠と、
色鮮やかで美しい木の実や果実を手土産に愛らしい姫君を訪ねます。
けれども籠を向かい合わせ、扉を開けたところで彼女は止まり木から動きません。
無理やり移し替えることは今の飼い主が禁じています。
なぜならば、そうすることでこの歌姫がその歌声を失くしてしまうと知ってたから。
誰も彼もが失意のうちに屋敷の庭を後にする中で、ある日突然、
飼い主の監視を掻い潜り、塀を乗り越えて来た無作法で変わった人が一人。
『不躾なのは承知ですが、今日はアナタに会うために来たんです!』
男は、小鳥がそれまで出会ったことのある人たちに比べて随分とみすぼらしい格好をしていました。
おまけに立派な籠も持たず、両手は空で、驚く彼女の前に
ポケットからゴソゴソ取り出すのは美味しそうな餌でもない紙切れが一枚。
……それでもあの時渡された鍵の重みを、
小鳥はしっかりハッキリと覚えています。
それは心の扉を閉める鍵。
本当は臆病で、自信が無くて、
弱い自分を抑える強がりを閉じ込める為の扉の鍵。
代わりにその部屋から連れ出した、長年見ないふりをして来た蠢く邪悪な感情は、
けれども、上手に付き合うことで大きな勇気の源になる。飛び立つための翼になる。
年老いた主人が心配だからと言い訳して、居心地の良い止まり木の上に甘んじた。
そんなお利口な生き方を否定できるだけの愚かさを自由にした出会い。
……この時初めてその小鳥は、恐れる心があるからこそ胸はより高鳴る物だと知ったのです!
『私をこんな風にしてしまった……責任は、とって下さいね?』
変わり者の男から、新たな止まり木の代わりに差し出された指が、腕が、その肩が。
一緒に見上げる大空が、どこまでも広がる自由な空が――彼の持つ鳥籠だったと気づいた時には、
昔馴染んだ庭の籠も、ちっぽけに色あせてしまっていたのでした。
そうして歌うことの意味を改めて見出したその小鳥は、今はただ、心のままに羽ばたくだけ。
どこへ行っても、どこまで行っても、
"動く止まり木"なんて世にも変わった存在はいつでも彼女のすぐ近くに。
――ただし、一つだけ思い違いがあったとすれば。
新しい籠の中はとても広くて、止まり木のお世話になっている鳥が
その小鳥一羽だけでは無かったということでしょうね。……全く!
===
だから、私だけを見ていてください。
どうかこの手を繋いで離さないで
――そう伝えることが出来たならば、気持ちはとても楽になるでしょうけれど。
「夕食の予約は任せてください」と彼の見ている前で電話を掛け終え、
それを合図に待ち合わせの喫茶店を後にする。
肩を並べて歩いていても、隣同士の席にいても、
二人の間で交わされる話はとても恋人同士のソレではなく。
贔屓目に見ても同僚同士のコミュニケーション。
最も身近で、かつ、共通の話題と言えば劇場の女の子達の話になりますもの。
「そう言えば、環の奴が褒められたって話はしましたっけ」
「いいえ、聞いてません」と私が素直に応えれば。
「歌織さんが自主練を見てくれるようになってから、声の出が以前より随分良くなったって収録で。
他にも同じように褒められたのが数人。みんなアナタの教室の生徒たちです」
まるで魔法でも使ったみたいですよ。
そう言って笑う彼の目には、こちらに対する期待があります。
アナタを信頼してますというプレッシャー。
それは少しだけ私の肩を重くして、同時に、
ちっぽけな自尊心に柔らかな陽だまりと水を与えてくれる。
ただ甘やかすだけのやり方じゃない、飴と鞭の絶妙なバランスが心地いい。
「私は特別なことなんて何もしてません。彼女たちが素直で良い子だから……。
その真っ直ぐな努力が実りをつけた、でしょう?」
「でもそれなら、育てられたのは歌織さんだ。流石、元は歌の先生」
「とんでもないです! 私一人だけじゃとても。……ゆ、裕太郎さんが」
「えっ?」
「アナタが自由にやって構わないと、私を信頼して下さったから。
……それに応えないと。そう思えば、夢中で取り組むことが出来たんです」
勇気を貰えたお陰ですよ。
そう私が彼に伝えたのと、
乗っていたバスが停留所に到着したのは同時でした。
暖房の効いていた車内から外に出れば、
しんとした冬の空気が肺の中の温もりと混ざり合って。
「歌織さん」
呼びかける口から白い吐息。
それらはこの寒空に溶けていって、羨ましいぐらい簡単に触れ合えるのに。
「どうしたんです? 時間も余りありませんし……」
歩き出さないでいた私のことを、怪訝そうに覗き込む彼。
「いいえ、ちょっと考え事を」要らない心配をかけないよう、そう、笑って応えたなら。
「思えば、スケートだなんて学生の頃に滑ったきりで」
「一昔前はブームでしたものね。俺も、よく滑りに来たんですよ」
「そうなんです?」
「ええ。男ばっかりでむさ苦しく……。いやぁ、あの頃は馬鹿してたな」
恥ずかしそうに頭を掻く彼の横顔を眺めながら、私はふと、もしかすれば、
同じリンクの上ですれ違ったこともあったのかもしれないなんて思いを馳せる。
……今さら確かめることなんて出来ませんけれど、夢を見るのに遠慮は要りませんものね。
そうして私たちの訪れたスケート場は、ぎこちない恋人ごっこの
デビューステージでありながら、同時にラストステージでもありました。
元々、ロケの予定は一日がかり。
それを半日で消化しようとすれば、
当然リストアップされた全てを回るだなんて無茶な話。
おまけに今日は、プロデューサーさんの遅刻付きです。
結局、残された僅かな時間では施設の一つ二つを巡るのがやっと。
……その中から歌織は選びました。
なるべく彼の傍に居れて、自然に触れ合えるような場所はドコか?
「だ……大丈夫ですか歌織さん」と、目の前の彼が私を心配してくれます。
屋外に作られた銀盤の上は半分ほどが人で埋まっていて。
私は手すりに寄りかかり、両足を震わせて不安げな眼差しを返すバンビ。
「や、やっぱり、その……ブランクが、ああっ!?」
昔の私は、一体どうやって滑っていたのかしら?
思い出すために気を抜いたらすぐにも転んでしまいそうな、
危うい私の傍を中学生ぐらいの女の子が鮮やかに滑り通り過ぎていく。
凄いなと感心する反面、氷の上に立つことすらままならない自分が情けなくもなります。……でも、今は。
「ま、待っててください! 俺も、そちらに行きますから」
一歩、一歩、着実に。
まるで不安定なつり橋を渡るようにしてプロデューサーさんがやって来る。
だけどその手がしっかと握るのは、
怯える私の手ではなくスケートリンクの手すりでした。
拳一つ分の距離まで近づく互いの手。
強気な誤魔化し笑いから、彼も無理をしていることが分かります。
「滑るのはお得意だったんじゃないんですか?」
私が訝しみながらそう訊けば。
「あっははは……。どっちかって言うと俺たちは、女の子との出会いが目的で」
悪びれた様子もなく答えたなら、プロデューサーさんはリンクの方へと懐かしそうな視線を向けました。
その先には、彼の青春時代の光景が蘇っているのかもしれませんけども。
「つまり、ナンパをする為にスケート場に? ……呆れた人!」
ハッキリと嫌悪感を表せば、彼は言い訳するように首を振ります。
そうして、慌てながら開いた口からは。
「だ、だけど今は、歌織さんと一緒ですから。……勘違いしちゃ困りますよ!」
でもそれは、人の心を逆撫でするには十分すぎる言葉です。
これまでは「大人だもの」と堪えて来た、
彼に対する気持ちを爆発させるに足る程の余計な一言だと言えます!
私は首筋を走る熱さに、氷の上の恐怖も忘れて彼を鋭く睨みつけると。
「勘違いなさってるのはアナタの方じゃありませんか? 確かに私は、
恋人役になって欲しいとは言いましたけど……それで本当の恋人になったワケじゃありませんよ?」
「も、もちろん!」
「だったらどうして、今は歌織が居るから良いだなんて!」
そんなに安い女じゃないと牙の代わりに爪を見せる。
……昔の私ならきっと笑って流せたハズなのに。
どうにもこの人の傍にいると、心は子供っぽくなってしまう。
カッとなって背筋を伸ばしたら、その分手すりから離れた体が即座にバランスを失って――。
「きゃあっ!?」
前屈みに崩れた私のことをプロデューサーさんが抱きとめる。
だけどそれは、彼も手すりから両手を離したということです。
……お互いに支える物も無い体はそのまま冷たいリンクの上へ。
僅かな衝撃が体を抜けて、私達は殺し切れない勢いに任せて氷上をつるつると滑って行く。
――みっともないダンスが終わった時、
私の頭は尻もちをついたような格好でいる彼の胸の上にありました。
そうして強く、強く抱きしめられている上体。
肘から先が彼の体に縋りつくように張り付いていて、
固く握りしめていた両手をそっと緩めたなら。
両膝から下が触れている氷の冷たさに触発され、
腕から伝わる熱を無意識のうちに求めている。
……今なら、誰からも咎められない。
「つ、うぅ……!」
そうして、プロデューサーさんが痛みを堪えるように呻いた時です。
私は彼のコートの下にサッと両腕を滑り込ませると、
まるで抱きかかえられた子供のようにその体へとしがみつきました。
ギョッと、彼の目が見開かれます。
私はその様をまじまじ下から見上げながら。
「裕太郎さん」
一切の抑揚を纏わせず、ただ、ポツリと、名前を呼ぶ。
「ごめんなさい。私ったら急に取り乱して」
「いっ、いえ」
「お怪我はありませんか? ……重たいですよね、私」
「そんなこと! そ、そんなことは……」
しどろもどろに答える彼は、周りの視線が気になるみたい。キョロキョロ辺りを見回して。
確かに、他のお客さんたちがジロジロと私達のことを見ていますけど……。
「あっ」
その時、あの滑りが上手な女の子と目が合いました。
お友達らしき他の少女達と一緒に、私たち二人のことを見ています。
……その誰もが少し驚いたように。
そうして、年頃の女の子らしく興味津々といった具合に。
だからでしょうか? 私は思わず、ニコリと微笑み返してしまったのです。
開き直ってしまった気持ちに照れ臭さなんてありません。
このままずっと見せつけてしまってもいいと思うほどに浮つく心は充実していて。
「歌織さん、と、とりあえず立たなくっちゃあ……」
相変わらず視線を合わせずに、プロデューサーさんがそう仰います。
「はい」と素直に返事して、私は彼の腰から腕を離しました。
それから、よろよろと立ち上がった二匹の小鹿は手すりを求めて四苦八苦。
何とかリンクの端へ戻り、一息ついても体はふわふわと軽いままで。
「一つ、提案なのですけれど」
だから、無言で頷く彼に向けて、感情のままに吐き出してみた。
冴えてる大人のやり方を、あの子達にも披露したくなってしまったもの。
「今度はプライベートで来ませんか? 劇場の子達も連れて……きっと楽しくなりますよ」
===
その後も時間が許す限り、私たちは"スケート場"を堪能しました。
ええそうです。忘れていた滑り方を体が思い出した頃にはもう、
次の予定へと移らなくてはならない時刻になってしまっていましたから。
スケート場を出てすぐの広場。
真新しい夜の帳の中で二人、すれ違う風に身を縮めて。
「それで――裕太郎さん? この後の予定なのですけれども」
訊けば、彼は今日何度目かの渋い表情をその顔に浮かべます。
そうして意を決したように、コホンと一度咳払いをすると。
「あの、歌織さん。その前にずっと言おう言おうと思ってたことがあるんですが」
さて、一体なんでしょうか?
私は分からないわという風に胸の前で両手を組むと、
彼の真摯な眼差しを受け止めます。
「その裕太郎さんってのを止めましょうよ。
いつものプロデューサーがダメだって言うなら……せめて高木と」
「……どうして今になって仰るんですか?」
「今しか無いと思ったからです。この後は一応食事の予定ですし」
言って、彼は気恥ずかしそうに視線を泳がせました。
それから一秒、二秒、三秒目で再び私と向き合うと、何やら意気込んだ様子で口を開き。
「そこでも名前を呼ばれるままだったら……。距離感が掴みづらくなります、俺」
「距離感……?」
とぼけたように復唱する私のことを、彼がたははと苦笑います。
「今日は恋人役だったとしても、プロデューサーとアイドルでしょう?
……そろそろ自分を戒めておかないと、立場を忘れてしまいそうで」
その顔は、照れ臭そうに。
言われた私も言葉に詰まると、「どうしてです?」なんて下らない質問を返してしまう。
すると彼は、大真面目に私を見つめ。
「アナタが余りに魅力的な女性なので、このままだと夢中になり過ぎてしまいます」
……そういう事を、臆せず口に出してしまえるのは実に、
褒めるのが仕事のアナタらしいですね。
でも、だからと言って、私は。
「……いけない人!」
分かりましたと言う代わりに、はにかんで顔を伏せました。
そうしておずおずと左手を前に出すと。
「ならせめて……手を、繋いではくれませんか?
この広場を出るまでで構いません。……私にとっての初めてを、アナタが」
広場の前に通る道路を数台の車が通り過ぎる。
その度に、ライトで浮かび上げられる二人の影。
暫くするとその一方が、そっと静かに近づきました。
「――ありがとうございます。プロデューサーさん」
手袋越しでも感じられる、私を導く確かな伝手。
先ほどまでとはうって変わり、緊張した面持ちになった彼が仰います。
「そ、それじゃあ行きましょうか。とにかく駅か、バス停に」
「はい」
私は今日一番の素直な返事をすると、
彼にその手を引かれるまま広場の出口に向かって歩き出したのです。
――けれども、初めは大股だった彼の歩調が、だんだんと間隔を狭めていく。
そしてとうとう、出入り口まで後数メートルといったところで完全に足を止めてしまい。
「……歌織さん」
「はい、何でしょうか?」
上擦った彼の声とは裏腹に、私の返事はとても朗らかなものでした。
私たちが足先を向ける車止めの向こう側、車道から注がれる車のヘッドライト。
眩しいほどの逆光を背にして仁王立っていた人物が、一歩前へと踏み出します。
「この時間に、歌織から迎えに来てほしいと言われていたものでね」
隣の彼が、謀りましたねとでも言いたげな顔で私のことを見ていますが……無視しちゃう。
先に入れた連絡通り迎えに来てくれた父がそんな私たちをじろり一睨み。
「それはそうと、家では家内が夕食を用意して待っているのだが。
……歌織の話では、君も食べに来てくれるのだろう?」
そうして、私も父の方へ一歩歩み寄ると。
「招待されて頂けますか?」
ニコリと彼に向かって微笑んで。
引きつり笑顔を返すプロデューサーさんがどこへも逃げられないように。
この止まり木が自分の物であると爪で証を残すように。
私はゆるゆると脱力していく彼の手をぎゅっと、ぎゅうっと……強く、固く、ドキドキしながら握りしめるのでした。
===
以上おしまい。手繋ぎデー…焼きもちや…
普段は隠してる子供っぽいワガママ独占欲…か、歌織さんっていいですよね!
では、お読みいただきありがとうございました。
プロデューサー君所長の身内だったか...
乙です
桜守歌織(23) An
http://i.imgur.com/9bBTslk.png
http://i.imgur.com/p8Qz8dc.png
>>1
大神環(12) Da/An
http://i.imgur.com/98VUQyQ.png
http://i.imgur.com/5dRXgxU.jpg
>>14
伊吹翼(14) Vi/An
http://i.imgur.com/nqysf3c.png
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