【バンドリ】羽沢さんの懺悔室 (43)


※地の文があります。

 少し百合百合してます。

 羽丘女子学園の生徒会長に勝手なキャラ付けをしています。


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「はぁ……」

 薄暗く少し埃臭い教室の一角で、私は一人ため息を吐き出した。

 耳を澄ますと、窓の外から微かな喧騒が聞こえてくる。今日は羽丘女子学園の文化祭だ。きっとここの生徒や外部からのお客さんが大いに楽しんでいることだろう。

 だというのにどうして私は人気のない教室に――羽丘女子学園の敷地の中でも外れの方、今はほとんど使われていない古い校舎の最上階の教室にいるんだろうか。しかも、四方をペニヤ板の壁に覆われた個室のような空間の中に。

 ここへやってきてから約二十分。どうにも誰も来なさそうな雰囲気だ。手持無沙汰の私は発端の出来事を回想する。


――――――――――――


 あれは確か、文化祭まであと一ヵ月に差し迫った日の生徒会会議のことだった。

「つぐみちゃんって、確か去年、シスターの衣装でライブやってたよね?」

 そう言ったのは今年の生徒会長の先輩。それに「はい」という返事を返すと、彼女はニヤリとどこか悪だくみを思い付いたような笑みを浮かべた。

「そっかそっか、やっぱそうだったよね。いやーあの衣装とっても可愛かったよ」

「そ、そうですか? ありがとうございます」

「ふふ、それじゃあちょうどいいね」

「はい? なにがですか?」

「先生からさ、今年は生徒会も何か出し物をやれって言われちゃってたんだ」

「はぁ」

「でもさ、正直生徒会ってそんな暇ないじゃん? 準備期間中も、文化祭当日も」

「まぁ……そうですね。去年は千聖さんが来たからって言うのもありましたけど、みんなずっと走り回ってましたもんね」

「だよねー。大変だったよねー。……という訳で、生徒会は出し物として羽沢さんの懺悔室を行います!」

「……え?」

「空き教室の一角に懺悔室を作って、そこでシスターな羽沢さんに懺悔するって出し物! これなら作るのは簡単なブースだけでいいし、準備も簡単! 学校側には西洋宗教の研究って言えばオッケーでしょ!」

「え、え……!?」

「はい、それじゃあ生徒会の出し物はけってーい!」

 その会長の声に、私を除く生徒会のメンバーは「わー」なんて言いながら拍手をしていた。


――――――――――――


 それから私の理解が追い付く前にトントン拍子に会長が出し物の詳細を決めていってしまった。気付いたらあまり人の来ない空き教室に、ダークブラウンに塗装されたペニヤ板で作られた箱型のブース――会長が勝手に名付けた『シスターTの懺悔室』が出来上がっていた。

 そして文化祭当日の今日、私はそこへシスターの衣装で座らされることになっていたのだった。

「なんていうか……押しに弱いなぁ、私って……」

 その中で独りごちる。ちゃんと双方の顔を見えなくするための衝立――ちょうど口元当たりの高さに、小さな穴がいくつか、円を描くように空けられている。多分声を通すためだろう――はあるけど、屋根は作られていない。漏れた言葉は虚しく教室の天井に消えていく。

「午前の二時間だけ……って言ってたっけ」

 懺悔室というものの実物を見たことがないけれど、自分が今いるこのブースがお粗末な作りだということは十分に分かる。

 長方形に作られた、人が四人くらいは入れそうな箱型の個室。長い方の両辺にはかなり簡素な扉が設けられていた。衝立は長方形を細長く両断するように設置されている。その衝立を挟むように置かれた何の変哲もない学校の椅子。『とりあえず形にしました』というやっつけ具合がそこかしこから感じられた。カーテンを閉めて室内を薄暗くしているのはそれを誤魔化すためでもあるんだろう。

(会長も真面目に出し物としてやるんじゃなくて、あくまで学校側へのポーズとしてこの企画を押し通したんだろうな……)

 そう思って、手元にある文化祭のしおりの隅、目立たないようこっそり小さく書かれた『シスターTの懺悔室』の概要に目を通す。

 午前九時から十一時まで、という開催時間の案内。それと説明には『あくまで模擬的なものです。西洋宗教研究のために行いますので、実際に教会の懺悔室で行う告解やゆるしの秘跡とは全く異なるものです。至らぬところがありましてもご了承ください。それから本気の犯罪などの懺悔もご遠慮ください。普通に通報します』とあった。


(いいのかなぁ、こんな軽い考えで催し物としてやっちゃって……)

 宗教的なことには詳しくないけど、きっと厳かな儀式のようなものだろうし罰当たりなんじゃないだろうか。いや、そんなことを言ったらライブ衣装のモチーフに修道服を使うこと自体が罰当たりなんだろうけど……。

『シスターTの懺悔室』をやると言われてからずっと考えていることだったけど、未だに答えは出そうにない。私は頭を振ってその考えを脳内から追い出す。それから会長が屈託のない笑顔で言っていた言葉を思い出す。

『つぐみちゃん、去年はずーっと走り回ってたもんね? 今年はゆっくり出来るよ! それが終わったら一日目は自由にしてていいからね!』

 あえて人が来ないような場所にこの催し物を出したこともきっとあの人なりの優しさなんだろう。確かに去年の今頃はあちらこちらへ走り回っていたから、それに比べれば随分と楽をさせてもらっている。

「……でも暇すぎるのもちょっとなぁ」

 会長の気持ちは嬉しいけれど、なんだか仲間外れにされているような気持ちになって私は少し寂しくなる。それを紛らわすために誰かに来てほしいけど、でも懺悔室なんて何をどうすればいいのかよく分からないから誰にも来てほしくないというか、なんとも言葉にしづらい微妙な気分だった。

「んー、ここかなぁ……おねーちゃんが言ってたのって」

 一応懺悔室ではどんな振る舞いをするかは調べて来たけど……なんて思っていると、教室の扉が開く音がして、そのあとにやや幼さを感じる声が聞こえた。

(ひ、人来ちゃった。……あれ、でもちょっと聞いたことあるような声の気が……)


 少し幼げな声に、おねーちゃんという単語。そこから、幼馴染の巴ちゃんの妹であるあこちゃんの顔が連想された。そうしていると、弾んだ声が薄いペニヤ板ごしに聞こえる。

「あ、ここであってるみたい! へー、これが『シスターTの懺悔室』かぁ~!」

 そういえばアフターグロウのみんなには生徒会でこの出し物を行うことを伝えていた。だから多分、巴ちゃんがあこちゃんにこの催し物を教えたんだろう。

(あこちゃん、こういうの好きそうだもんね)

 顔は見えないけど、先ほどの弾んだ声と軽やかな足音を聞いて、あこちゃんの表情がきっと無邪気に輝いているだろうことは想像できた。すると不安な気持ちもどこか和らいでいくような気がした。

「すいませーん!」

 元気の良い声が近くなる。衝立を挟んだ向かい、簡素な懺悔室の中にあこちゃんが入ったんだろう。私は小さく咳ばらいをして、頑張って厳かな声を出す。

「……ようこそいらっしゃいました。迷える子羊よ、神のいつくしみに信頼して、あなたの罪を告白してください」

 その言葉のあと、衝立の向こう側から「おおっ……!」という感嘆の声が聞こえてくる。

 事前に懺悔室での流れを調べてカンペや役立ちそうな言葉を用意してあった。実際はもっと違うものなんだろうけど、そもそも私は神様の祝福を受けた本職のシスターや神父様じゃない。失礼なことかもしれないけど、雰囲気だけでも似通わせて、それであこちゃんが喜んでくれるのならちょっと嬉しかった。


「……うむ。実は、我は神を裏切ってしまったことがあるのだ」相手が私だと気付いていないだろうあこちゃんは、声色を低くして仰々しい雰囲気で言葉を返してくる。「その昔、かけがえのない友を救うために闇の力が必要になり、我は自ら堕天の道を選んだ」

 何かのゲームの話かな? と思いながら、私は黙ったままあこちゃんの声に耳を傾ける。

「かつての仲間を裏切ってしまったこと、そして……えーっと、そう、堕天という禁忌に手を染めてしまったこと……そのことがずっと我の心の中に残っておるのだ」

「なるほど……」

 相づちを打ちながら、どんな言葉を返そうか少しだけ考える。あこちゃんが描いている物語の内容は分からないけど、これは燐子さんとのことを思っていそうだというのは想像が出来た。いつかに紗夜さんが「宇田川さんと白金さんのやっているネットゲームに付き合わされたことがあるのですが、やってみると意外に面白いものですね」と言っていたから、多分合っているだろう。

(なら……よし)

 私は言葉にすることを一度頭の中でまとめてから口を開く。

「あなたのご友人は、その行いで救われたのですか?」

「……うむ。聖堕天使となった我の闇の力で無事に救うことが出来た」

「であれば、神様もきっとあなたの堕天をゆるされるでしょう」

「まことかっ?」


「はい。あなたの行いは、愛すべき友人のために自らを禁忌の道に落とす、いわば自己犠牲の奉仕です。己を顧みずに隣人を助けること、それは無償の愛です。神様はあなたが持つ友愛の精神を祝福するでしょう。その清い志を持ち続ける限り、真の意味であなたが邪道に落ちることはありません」

「おお……」

「私は神様と聖霊の名によって、あなたの罪をゆるします。どうか、これからも純真な心を持っていてください」

「神の御使いよ、感謝する!」

「はい。ゆるしの秘跡は以上です。あなたに神のご加護があらんことを」

「うむ! それじゃあ失礼します!」

 最後の一言は仰々しく作った声ではなく、いつもの明るいあこちゃんの声だった。ついで、懺悔室の扉が開く音がして、パタパタという軽い足音が遠ざかっていった。

「……ふふ、喜んでもらえたみたい」

 その足音が聞こえなくなってから、私は小さく呟きを漏らす。

 あこちゃんは昔から『カッコいいもの』に憧れていて、その真似をしながら巴ちゃんの後ろをついて回っていた姿が記憶にあった。その中の姿より背丈はずっと大きくなったけど、無邪気なところはやっぱり今も全然変わっていない。それが微笑ましくて、なんだか私も元気をもらえたような気がした。

「よーし、頑張ろっ」

 この催し物は学校に言われたから仕方なく出しているものかもしれないけど、あこちゃんみたいに楽しんでくれる人がいるかもしれない。そう思うと自然と気合が入る。こんなところにまで足を運んでくれた人に喜んでもらえるように、私が出来る範囲で精一杯やってみよう。


「ん~? なんだろ、この出し物……えーっと……『シスターTの懺悔室』? へぇー、なんか面白そうっ」

 そんなことを考えていると、少しハスキーな声が廊下から教室に入ってくる。これも聞き覚えのあるものだった。誰の声だっただろうか。

「すいませーんっ、お一人様、お願いしまーす!」

 懺悔室の扉を開く音。次に明るい声が聞こえる。ああそうだ、この声は日菜先輩のものだ。そう思いながら、私は言葉を発する。

「ようこそいらっしゃいました。迷える子羊よ、神のいつくしみに信頼して、あなたの罪を告白してください」

「わー、本当にシスターっぽいんだね! えーっと、罪……罪かぁ……」

「うーん」と悩むような声と、椅子がギシリと軋む音が聞こえる。衝立の向こう側、日菜先輩が悩んだような顔をして椅子に腰かける姿を私は想像する。

「ねぇねぇ、懺悔ってさ、罪とかじゃなくてもいーの?」

 しばらく間を置いてから、日菜先輩はそんな言葉を投げかけてきた。多分、罪にあたるものが思いつかなかったんだろう。

「ええ、大丈夫ですよ。こちらは本格的な懺悔室ではありませんし、何か心に引っかかるものがあればそれをお話しください」

「んーじゃあさ、悩み事を聞いてもらってもいいかな?」

「はい、いいですよ」

「ありがとっ。えっとね、最近……でもないんだけどさ、なんだか彩ちゃんのことがすっごく気になるんだ」


「気になる……ですか?」

「うん、そーなんだよ。最初はね、あたしには分からないことだらけの彩ちゃんが面白いなってだけだったんだけど、段々それとも違うなーって気持ちになってきてるんだ。なんていうんだろ、おねーちゃんと一緒にいる時に似てるような、でもちょっと違う気持ちっていうか……。『るんっ♪』ってするんだけどそれとも少し変わったような感じっていうか、よく分からない気持ちなんだよね。シスターさんはどう思う?」

「そうですね……」

 その言葉を聞いて、私はなんて言葉を返すべきか少し悩む。日菜先輩が紗夜さんに抱いている感情は家族への情愛と尊敬……だと思う。普段の様子を見ているとそれだけで済ませられる感情なのか少し不安だけど、多分。……まぁ、そうなっちゃう気持ちはよく分かるんだけど。

 さておき、それと似たようでちょっと違う感情。相手のことが気になって、やや行き過ぎているような気がしないでもない家族愛に似たような感情。となると……恋慕に近いもの、なんだろうか。

(いや、でも女の子同士だし……あ、でもモカちゃんが『アイドルが女の子同士でいちゃいちゃする売り方があるんだってさ~』って言ってたし、そういうのなのかな……?)

 その時のモカちゃんの様子を思い出す。ニヘラ、とふやけた笑顔で「だからいちゃいちゃしよーよー蘭~」なんて蘭ちゃんにずっとくっついていた。蘭ちゃんは蘭ちゃんで「モカ、意味分かんないし鬱陶しい」なんて口では言いながらも全然モカちゃんを引き離そうとしてなかった。

 それは見慣れたいつも通りの二人の姿だった。日菜先輩が彩さんに抱く感情はそういうじゃれ合いに似たものなんだろう。……自信はないけど、多分。そう結論付けて私は口を開く。


「……ご自身が抱く感情の正体が分からないというのであれば、もっとその気持ちに素直になってみてはいかがでしょうか」

「素直に?」

「はい。あなたがその人に抱いている感情は、間違いなく好意的なものであると思います。であれば、お相手の方にその気持ちをぶつけてみるのはどうでしょうか? 人ありきのお悩みですし、一人で答えを考え続けていては答えも出し難いでしょう。ですが素直な気持ちで行動をしてみれば、自ずと答えも見えてくるのではないか……と思います」

「素直な気持ちをぶつける……かぁ」

「はい。ただ、その気持ちをいきなり全力で相手にぶつけるのは――」

「よーし、分かったよ!」と、日菜先輩の威勢のいい声が私の言葉を遮る。「善は急げって言うし、ちょっと今から彩ちゃんに会いに行ってくるね! 相談に乗ってくれてありがと、つぐちゃん!」

 その声の後に懺悔室の扉を勢いよく開く音。そしてバタバタと慌ただしい足音が室内に響き、それがどんどん遠ざかっていった。

「…………」

 教室に一人残された私は思う。日菜先輩、私だって気付いてたんだ、ちょっと恥ずかしいな、それと勢いよく出て行ったけど懺悔室の扉が壊れてないか心配だな――なんてことよりも強く。

(彩さん……なんていうか、ごめんなさい)

 今日からより一層日菜先輩に振り回されるだろう彩さんの姿が容易に想像できて、私の胸中は申し訳ない気持ちで一杯になるのだった。


……………………


 遠慮がちな教室の扉の開く音が聞こえてきたのは、日菜先輩が出て行ってから約十分後のことだった。

 勢いよく開けられた扉が壊れていないか確認してから懺悔室の中に戻り、事前に用意してあったカンペや格言集に目を滑らせていた私は、音のした方へ視線を送る。

「…………」

 今度の来客は何も喋らない。ゆっくりと扉を閉める音がした後、静かな足音がコツコツとこちらに近付いてくるだけだった。

(……流石に三回連続で知り合いが来る、なんてことはないよね)

 そんなことを思っているうちに、懺悔室の扉が開く音がして、衝立の向こう側に人が入ってきた気配がする。

「…………」

 ギシ、と椅子の軋む音が聞こえる。あちら側にも用意してある椅子に腰かけたんだろう。しかし、あこちゃんや日菜先輩のように何か話しかけてくるでもなく、その人は無言のままだった。

(もしかしたらどうすればいいのか勝手が分からないのかな)

 なんて思って、普通はそうかと思い直す。付け焼刃のにわか知識だけど、私だってこういう機会がなければ懺悔室の作法を知ることもなかっただろうし。

「ようこそいらっしゃいました。迷える子羊よ、神のいつくしみに信頼して、あなたの罪を告白してください」

 私は衝立の向こう側へ声をかける。しばらくの間を置いてから返事がくる。

「罪……ではないのだけど、少し話を聞いてもらえないかしら」

 静かだけど芯のある、よく通る声だった。そしてまたも聞き覚えのある声だった。普段はあまり話すことがないけれど、歌声は何度も聞いたことがある人の顔が脳裏に浮かぶ。


(この声……友希那先輩だよね……?)

 衝立越しで少しくぐもってはいるけど、聞き間違えるはずない。ライブハウスやCDで何度となく紗夜さんのギターと一緒に聞いているものなのだから。

 知り合い来すぎじゃない? という気持ちがない訳でもないけど、恐らく友希那先輩はシスター役が私だと気付いていないだろう。得体のしれない、と表現するのはちょっとアレだけど、そんな懺悔室を頼りにしてきてくれたんだから、しっかり話を聞かなくちゃ。

「……はい。悩み事があれば、神様に代わって私が聞きましょう」

 そう思って私は友希那先輩に言葉を返す。

「ありがとう。それで……」と、そこで一度友希那先輩は言葉を切る。「……何から話せばいいのかしら」

「難しく考えないで、あなた自身の素直な気持ちをそのまま話してみてください」

「分かったわ。……その、私は……バンドを組んでいるんだけど、そこではいつも自分が主導になって、みんなを引っ張っていると思っていた」

「…………」

 訥々と先輩は言葉を紡ぎ始める。邪魔しないように私は口をつぐんでそれに耳を傾ける。


「でも……ある日、気付いたの。私がみんなを引っ張ているようでいて……その実、私はみんなに助けられてばかりいたんだって。そう気付いた時には……バンドがバラバラになりかけていた。……それもきっと私のせい、で」

「…………」

「自分の無力さが悔しかった。情けなかった。どうすればいいのか分からなくなってしまった。でも……こんな私のところにも、みんなはまた集ってきてくれた。そしてまた、私たちは前を向いて、頂点を目指すことが出来るようになった。それは、それで……みんなには感謝してもしきれないことで……私たちに必要だったことで……良いことなんだと思う……けれど……その……なんていえばいいのかしら……」

 友希那先輩はそこで言葉を止めてしまう。どういう風に話せばいいのか迷ってしまっているのだろう。それでも自分の中にあるものを言葉にしなくては、と急いているような雰囲気が感じられた。

「ゆっくりで大丈夫ですよ。時間はたくさんありますから」

「……ええ、ありがとう」

 私からの言葉にお礼を返して、それからまたしばらくの間が空く。自分の中の言葉をまとめているんだろう。私は黙ったまま友希那先輩の言葉を待った。


「……バンドメンバーに、幼馴染がいるの」やがてポツリと友希那先輩の口から言葉が漏れる。「気付けばいつも隣にいてくれる……大切な幼馴染がいるの。何かあっても、きっとあの子がなんとかしてくれる。私は……そう、無意識のうちに、あの子を頼ってばかりいた」

「…………」

「きっと辛くたって、もどかしくって躓いたって、傍にいてくれる。なにがあったって、あの子は私の隣にいてくれる。助けてくれる。それに……ただ、私は甘えていた。そうなんだと気付ける記憶はいくつもあるのに、大事な場所を失いかけるまで、私はそれに気付けなかった。でも、気付けた……それで、気付いてしまった」

「…………」

「私の中にある……あの子に対するこの想いは……この正体は……なんだろう、と。かけがえのない大切な幼馴染。あの子に対する気持ちは『好き』だけど……この『好き』の正体は……なに?」

「…………」

「友達として、幼馴染として、バンドメンバーとして……なのか、それとも、それ以上を望んでしまう……『好き』なのか……。私は……私は、この『好き』が怖い。無視なんて出来ないほど……大きくなってしまったこの感情の正体が……怖い。考えるだけで苦しくて、切なくて、泣きそうになってしまう。あの時と同じくらいに……もしかしたらそれ以上に……どうしたらいいのか分からなくなってしまうの……」

「…………」

 それからしばらく、言葉の続きを待ってみる。しかし友希那先輩は何も話さない。多分、胸の内に抱えた気持ちは今ので全部、なんだろう。

 なら次は私が言葉を返す番……なんだけど、なんて言葉を返せばいいのか判断がつかない。


 だって、つまり、友希那先輩はリサ先輩が――いや、幼馴染のバンドメンバーさんが、その、色んな意味で好きってことで……私なんかが口を出していい問題じゃないのは確実だ。

(で、でも……友希那先輩は私じゃなくてシスターTさんを頼ってるんだから……少しでも力になれるようにしなくちゃ……)

 どんな言葉を返せばいいのか考えすぎて頭が痛くなりそうだった。でもしっかりした答えを返さなきゃいけない。

 私は頭の中で言葉をまとめて、少し大きく息を吸ってから言葉を紡ぐ。

「……きっと、そのお相手の方は優しくて、とても素晴らしい人なんでしょう」

「…………」

 友希那先輩は何も言わない。ただ私の言葉に耳を傾けていそうな雰囲気だった。

「ご自身の気持ちと向き合うこと。それはとても怖いことだと思います。そして、それを相手に向けることはもっと怖くて、勇気が必要なことだと思います。……ですが、何も焦る必要はないでしょう」

「…………」

「どうなろうと、幼馴染という関係は一生涯切れることはありません。あなた方のようにお互いを尊重し、大切に思い合っている間柄であれば尚のことです。これからもずっと、あなたとお相手の方の付き合いは続いていくでしょう。だから、あなたが抱える気持ちの正体も急いで暴く必要なんてありません。……お相手の方と、顔を合わせるのは辛いですか?」


「……いえ、辛くはないわ。あの子との時間は、むしろとても楽しいわ。ただ……一人になった時に、この気持ちのことを考えてしまうだけで……」

「そうですか。それなら、今まで通りでいいので、もっともっとその方と向き合ってみてはいかがでしょうか。一人では解決の出来ない悩みですから、その方との時間を大切にしてください。そして何より、あなた自身の気持ちを尊重してあげてください」

「私の気持ちを……」

「はい。人になにを言われようと、どう思われようと、あなたの気持ちはあなただけのものです。それに……色々な形がありますが、『好き』という感情はきっとどれも尊いものだと私は思います。だから焦らずにゆっくりと、答えを探してみてください」

「……そう、ね。それがいいのかもしれないわね」静かな声が響く。先ほどよりも幾分か明るい声に聞こえた。「少しだけ……だけど、気持ちが軽くなった気がするわ。ありがとう」

「いいえ。力になれたのであれば何よりです」

「それでも……ありがとう。それじゃあ、失礼するわね」

「はい。あなたに神のご加護がありますように」

 私の言葉の後、静かな足音が遠ざかっていく。そして入ってきた時と同じように遠慮がちな教室の扉が開く音と閉まる音。それからは窓の外の喧騒と私の息遣いだけが聞こえてきた。

「……はぁぁ~……」

 しばらくぼうっと放心してから、私は大きなため息を吐き出した。……なんていうか、私、かなり偉そうなことを喋っていたような気がする。それに……友希那先輩がリサ先輩と……って……。

「……うぅ」

 思わず脳裏に描いてしまった百合色の光景に頬が熱くなるのを感じる。自分が同じ状況だったらどうするだろうか、なんて変なことまで考えてしまい、私は非常に落ち着かない気持ちになるのだった。


……………………


 友希那先輩が出て行ってからしばらく、挙動不審に椅子から立ち上がったり座ったり、意味もなく教室の中をウロウロしていたら、耳年増な脳内に咲いたやたらと鮮明な百合の花もどうにかしぼんでくれた。

 まだその残り香があるといえばあるけど、それもそのうち気にならなくなってくれるだろう。そんな希望的な観測で脳裏に描いてしまった消し難い存在感を醸す妄想を無視することにして、私はスマートフォンの時計を見る。

 時刻は十時を十分ほど過ぎていた。気が付けばこの懺悔室の開催時間も残り半分だ。

「流石にもう知り合いは来ない……よね」

 この一時間でここにやってきたお客さんは三人。そしてその三人とも知り合いという、ある意味奇跡のような流れだった。あこちゃんは巴ちゃんに教えられたから別として、日菜先輩と友希那先輩はどうしてこんな教室にまで足を運ぼうと思ったんだろうか。先輩たちもアフターグロウの誰かに話を聞いたんだろうか。

(というか、普通に考えたら人なんてこんな場所に来ないよね……)

 学園の外れの旧校舎。こんなところに催し物を開いているのはこの懺悔室くらいで、他の教室は催し物の飾り付けやその資材などの置き場になっていた。わざわざこんな場所に来るのはよっぽどの物好きか、置かれた資材を取りに来た羽丘の生徒だけだろう。

 だからもう誰も来ることはないだろうな……と呟いた直後。

「……どこだろう、ここ」教室の扉が開く音がして、次に人の声が聞こえてくる。「やっぱり自分の学校じゃないと勝手が違うなぁ」

 困っていそうだけど、いまいち深刻さにかける調子の声。落ち着いているようにも聞こえるけど、どこか幼さに似たものを感じるというか……これもなんだか聞き覚えがある声だった。


「ん、なんだろう、この……箱? ウサギ小屋かな?」

 誰の声だったっけ、と考えているうちに、その声が段々とこちらへ近付いてくる。それから懺悔室の扉を開く音が聞こえてきた。

「すいませーん、誰かいませんかー?」

「……はい、なんでしょうか」

「おお、壁から声がした。えーっと、これってなんですか?」

「これ……ええと、この懺悔室のこと、ですか?」

「あ、懺悔室っていうんだこれ。ウサギ小屋じゃないんだ」

「ええ……まぁ……」

「へー、大きさ的にウサギがいそうだなって思ったんだけど、違うんだね。ところで懺悔室って?」

「えぇっと……迷える子羊の罪を告白――懺悔して、それを神様に聞いてもらい、許してもらう……というものです」

「羊が罪を告白……すごい、動物の言葉が分かるんだね」

「あーっと、子羊とはあなたのようにここへいらっしゃった方を指しています」

「私は人間だよ?」

「いや、それはそうなんですけど、比喩表現と言いますか……そういうものなんです」

 いまいち会話が噛み合っていない。まるでおふざけモードのモカちゃんを相手にしているような感覚がする。……いや、モカちゃんは冗談だって分かってて言うだろうけど、この人はさっきから大真面目に発言していそうだ。そしてこんなこと言いそうな知り合いに心当たりがあった。

(多分……おたえちゃん、だよね……)

 直接はあんまり話したことはないけど、ポッピンパーティーのみんなでウチの喫茶店に来てお話しているところは何度も見たことがあった。その度にどこかズレた発言をして、有咲ちゃんにツッコミを入れられていたのを思い出す。その姿とさっきまでの言葉が違和感なく頭の中で重なった。


「ふーん、そういうものなんだ」

「えっと……迷子ですか?」

「うん、そうなんだ。迷える子羊だね」

 あ、でも私は迷える仔ウサギの方がいいな……と続けられた言葉になんて返そうか少し考えて、私じゃ太刀打ち出来なさそうだからその発言はスルーすることにした。

「目的地はどちらでしょうか?」

「えっと、体育館……だったと思う。十時半にそこで待ち合わせだって有咲が言ってたから」

「体育館でしたら、この校舎を出て右手側にまっすぐ歩いて行けばたどり着けますよ」

「あ、そうなんだ。教えてくれてありがとう」

「いえ……これも神のお導きですから」

 まさか迷子の道案内をそのままの意味ですることになるとは思わなかったなぁ、なんて思っていると、衝立の向こう側から椅子の軋む音が聞こえてきた。おたえちゃんが椅子に腰かけた……んだろう。

「あの、待ち合わせをしてるんじゃ……」

「え? せっかくだし懺悔室ってどんなものか体験したいんだけど……ダメだった?」

「いえ、私は一向に構いませんが……あと十五分ほどで約束のお時間ではないでしょうか」

「そんなに時間がかかるの?」

「いいえ、そんなにお時間を頂くようなものではありませんけど……」

「じゃあ大丈夫だよ~」

 おたえちゃんは明るい声を出す。それを聞いて少し不安になる。目立つ大きな体育館へたどり着けず、こんな外れの校舎にまで足を運んでしまった人がちゃんと約束の時間に間に合うのだろうか、と。でもこの催し物を体験したいと言ってくれたおたえちゃんの気持ちを無下にすることも出来なかった。


「……では。迷える子羊よ、神のいつくしみに信頼して、あなたの罪を告白してください」

 少しでも早めに終わらせることが出来れば待ち合わせに遅れる可能性も少なくなるだろう。そう思い、私は始まりの言葉を口にする。

「はーい。えーっと、罪、罪……」うーん、と悩む声が聞こえる。「……思いつかない。有咲が食べようとしてたおまんじゅうを食べちゃったとかでもいいの?」

「……それは本人にキチンと話して謝った方がよろしいかと思います。罪ではなく、お悩みとかでもいいんですけど、そういうのはありませんか?」

「うーん、悩み……罪が思いつかないのが……悩み?」

「…………」

 それが悩みだって言われても、私はどうすればいいのか分からないよ、おたえちゃん……。そんなこと考えていると、「あっ」という声が衝立の向こう側から響いてくる。

「CiRCLING」

「えっ?」

 突拍子のない言葉だった。その意味が分からず、私は変な声を出してしまう。

「私たちポピパの歌なんだけどね、その中の歌詞にあるんだ。『神様 約束します―― 私たち 今ひとつになって』っていうのと、『神様 約束どおり 私たち ひとつになれました』って」

「は、はぁ……」


「えっとね、私、ポピパのみんなに出会えて、毎日すっごく幸せだよ。生まれて初めて友達が出来て、毎日が楽しい。CiRCLINGで歌った通りだよ」

「…………」

 まっすぐな言葉がハキハキとした口調で放たれる。私はそれに口を挟んじゃいけないような気がして、黙っておたえちゃんの言葉を聞く。

「みんなのことが大好きで、一緒にステージに立つとハートが震えて……キラキラしてドキドキするんだ。一人でギターを弾いてただけじゃ、きっとこんな気持ちになることはなかったよ。香澄に、有咲に、りみに、沙綾に、みんなに出会えたことがすっごく嬉しい。だから……えーっと、なんていうんだろう……。あ、そうだ、ありがとう!」

「ありがとう……ですか?」

「うん、ありがとう。素敵な出会いをくれてありがとう、神様。それと、ひとつになるって約束して、約束通りひとつになれたよって、神様に伝えて欲しいな」

 明るく朗らかな声だった。眩しくて見えないくらいまっすぐな言葉だった。ある意味これが一番正しい懺悔室の在り方なんじゃないか、と思わされるくらいだった。

「……分かりました。祈りと共に、神様に伝えましょう」

「うん。お願いね、つぐみ」

「……え?」と、先ほどとまったく変わらない調子のおたえちゃんに名前を呼ばれ、素っ頓狂な声を出してしまう。「あれ……おたえちゃん、私だって気付いてたの?」

「うん? 気付くって、何に?」

「えっと、懺悔室の中にいるのが私だって……」

「……? つぐみはつぐみだよ?」

 また会話が噛み合っていない。おたえちゃんは私が何を言いたいのかまったく分かってなさそうだった。少し考えて、質問を変えてみる。


「その、顔も見えないのに、いつから私だって分かったの?」

「んー、『この懺悔室のことですか?』の辺りかなぁ」

 平然とした口調で答えが返ってくる。どうやらおたえちゃんはほとんど最初から分かっていたようだった。

「……よく分かったね」

「ウサギってね、耳がいいんだよ」

「えーっと……うーん……?」

 どういうことなんだろう、と考えて、そういえば沙綾ちゃんと「おたえはウサギをいっぱい飼ってるんだよね」という話をしたことがあるのを思い出す。つまり、ウサギをたくさん飼ってる自分も耳がいいんだよ、だから分かったんだって言いたかったのかな……?

「あ、もうこんな時間だ。そろそろ行かなくちゃ」そんな推測を頭の中でしていると、おたえちゃんは先ほどと何も変わらない口調で言葉を放つ。「体育館の場所、教えてくれてありがとう。懺悔室、頑張ってね」

「あ、うん、ありがとう……?」

 私の返事のあと、「それじゃあね」とおたえちゃんは言う。そして椅子から立ち上がる音と懺悔室の扉を開く音が聞こえて、それから軽い足音がどんどん遠ざかっていった。

「…………」

 懺悔室に残された私は思う。印象通りの不思議な空気を持った女の子だな、という気持ちと、本当はすっごく友達想いなんだな、という気持ちが、なんというか上手く自分の中で混ざりきらない。前々から掴みどころがない女の子だとは思ったけど、こうして一対一で話してみるとより掴みどころが分からなくなってしまった。

「……待ち合わせ時間、間に合うかなぁ」

 呟きつつ、スマートフォンの時計に目を落とす。画面上のアナログ時計は十時二十五分を指していた。迷わなければまず間違いなく間に合うだろう。でも、どうしてかまた道に迷って遅れそうなイメージが拭えなかった。


……………………


 おたえちゃんが教室を出て行き、スマートフォンで神様への祈りの届け方を調べていると、時計の長針は8の数字を超えようとしていた。この懺悔室もあとちょっとで営業終了だった。

(結局……知り合いしか来なかったなぁ)

 そう思いながら、四人の言葉とそれに返した自分の言葉を回想してみる。

 あこちゃんは何かのゲームの一幕、といったような感じだった。純粋に楽しんでもらえたみたいで私も嬉しかった。

 日菜先輩は懺悔というか悩み相談だった。……いや、日菜先輩に限らずみんなほとんど懺悔らしい懺悔ではなかったんだけど。

 さておき、彩さんが気になる、というような悩みに対して「自分に素直になってみては」とアドバイスを送った。

 次にやってきた友希那先輩は、リサ先輩――じゃなくて、『幼馴染のバンドメンバーの人』が好き……その、色んな意味で好きなんだけど、どうしよう……という懺悔だった。それに返した言葉は「もっと相手と向き合ってみては」というものだった。……私なんかが口を挟んでいい問題じゃない、と今でも思う。

 最後にやってきたのはおたえちゃん。おたえちゃんが口にしたのは懺悔でも悩みでもなく、大切な人たちに出会えたことの感謝だった。あの不思議な雰囲気にあてられていたから実感出来なかったけど、こうして思い返してみるとすっごく良い言葉だった。

「大切な人に出会えたことの感謝……かぁ」

 その言葉でまず思い浮かぶのはアフターグロウのみんなだ。小さいころからずっと一緒で、辛いことも楽しいこともみんなと共に経験してきた。かけがえのない大切な友達だ。

 それともう一人、頭に浮かぶ人物がいた。いつも一生懸命で、何事にも真摯に向き合うまっすぐな眼差し。ステージでは颯爽とした立ち居振る舞いで、見惚れるほど綺麗な指がしなやかに弦を押さえ、麗しく音を奏でる。強くて、カッコよくて、だから近寄りがたい印象を人に与えてしまうんだろうけど、本当はとても優しい人。私の憧れが形を成して立っているかのような、すごく尊敬している大切な人。

 ……なんて、そんな風に『大切な人』だと勝手に思うのはおこがましいか。頭を振って、私は違うことを考える。


(みんな……今ごろ何してるかなぁ)

 私たちのクラスの催し物は『たこせんっぽいもの』の屋台だった。井ノ島で食べたたこせんの味が忘れられない、と言っていたモカちゃん。その口車に乗せられたひまりちゃんと巴ちゃんが『たこせんっぽいもの』の屋台を出そうとクラスメートたちを押し切っていたのを思い出す。

 蘭ちゃんとは今年もクラスが別になってしまっていた。確か蘭ちゃんのクラスの出し物は『男装喫茶』で、「あたし……なんかタキシードとか、そういうの着るハメになったんだけど……」とぼやいていた姿が印象に残っている。それから「当日絶対に冷やかしに行こう!」と言っていたひまりちゃんとモカちゃんの姿が脳裏に思い起こされる。

 それを『楽しそうだな』と見ていた私は、生徒会の仕事でそんな暇はないだろうと思っていた。

「……このあとどうしよう」

 生徒会長に言われた「それが終わったら、一日目は自由にしてていいからね!」という言葉。文化祭の準備期間は忙しかったし、『シスターTの懺悔室』を始める前はシスター役なんてどうすればいいのか分からなくてアワアワしていたから実感がなかった。だけどこうしてあとちょっとで自由の身になれる、という状況に直面すると、その時間に何をすればいいのか分からなくなってしまう。

「屋台、手伝ってこようかなぁ」

 こっちは手伝わなくて大丈夫だよ、とクラスのみんなから言われていた。生徒会の仕事が忙しいのを知っているから気を遣ってくれたんだろう。けど暇な身になってしまったんだし手伝いに行かないのはみんなに悪い、という気持ちがある。でも手伝いに行ったら行ったでひまりちゃんに「つぐはツグり過ぎるから休んでなよ!」と言われるのは目に見えていた。

 本当にどうしようか……と、そう思っていた時だった。


「……ここ、かしらね。湊さんが言っていたのは」

 教室の扉が開く音と、小さな呟き声が聞こえた。

(この声……紗夜さん?)

 何度も話をしているし、十数回くらいとそんなに多くないけど二人で一緒に遊びにいくこともあった。だから、まだ声は遠いけど、その声の主の姿はすぐに想像が出来た。ついでに先ほどの考えを思い出して少しドキドキしてしまう。

「対人関係の悩みならここ、ね。随分と具体的な占い結果だわ。……それを信じる私も私だけど」

 コツコツと床を叩く規則正しい足音が近づいてくる。私はなんとなく居住まいを正す。お互いの姿は見えないのに、被ったヴェールがズレていないか、首元のチョーカーが緩んでいないか、なんて確認してしまう。

 そんな無駄なことをしていると、懺悔室の扉が開く音がして、次に椅子の軋む音が衝立の向こう側から聞こえてきた。

「…………」

「……ようこそいらっしゃいました。迷える子羊よ、神のいつくしみに信頼して、あなたの罪を告白してください」

 声が震えないように、少しお腹に力を入れて、いつもよりも低い声で始まりの言葉を放つ。本日五回目の言葉だけど、最初にあこちゃんに放った時よりもずっと緊張しているのが分かる。

「罪……ではないのですが、よろしいでしょうか?」

「……はい。何か悩みがあるのなら、どうぞお話しください」

「ええ、では……」

 紗夜さんが小さく息を吸う音が聞こえる。『どんな悩みがあるんだろうか、私で助けになれればいいな』と思う自分と、姿を隠して紗夜さんの悩みを盗み聞きしているような状況にドキドキしている自分がいた。


「その……私と懇意にしてくれている方がいて……その方についてのことなんです」

 紗夜さんと懇意にしている人物……誰だろう。ロゼリアの人かな、それとも日菜先輩かな。私で力になれることかな……なんてことが頭に浮かんでくる。ちょっとソワソワしつつ、口をつぐんで言葉の続きを待つ。

「あることをきっかけに交友が出来た方なんですが……その方は、不器用な私にさじ加減というものを教えてくれました。そして、明るく朗らかで、相手のことを思いやり、認められる素晴らしい人柄に……私はとても救われました」

(……あれ?)

「いつも一生懸命で優しいその方と、私はもっと仲良く接したいと思っているんです。ですが……先ほど言ったように私は不器用な性分をしているんです。その上、人付き合いの機微というものにも疎くて……どういう風に仲を深めればいいのか分からず、迷ってしまうことが多くあるんです」

 事前に言うことをまとめていたんだろうか。紗夜さんはハッキリとした口調で言葉を続ける。そしてそれを聞いている私はどんどん落ち着かなくなってしまう。

「特に、その方のことをなんて呼べばいいのか迷ってしまうんです。その方は私のことを下の名前で呼んでくれていますが、私もそうしていいんだろうか、と。私としては名前を呼んでもっと親しくしたいという思いがあります。ただ、何度か思い切って下の名前を呼んでみたのですが、やはり不快な気持ちにさせるんじゃないかと思ってしまい、結局その方を名字で呼んでしまうんです」

(こ、これって……もしかして私のこと……!?)

 紗夜さんの話は身に覚えがあった。

 普段は「羽沢さん」と名字で呼ばれているけど、何度か、本当に数えられるくらい少ない回数、紗夜さんに名前で呼ばれたことがある。「つぐみさん」と静かな声で呼ばれて、それがすごく嬉しくて、でもそれからすぐに「羽沢さん」と呼びなおされてちょっと寂しい思いをした記憶があった。それに最初に話したさじ加減が大事っていうのは、ウチで開催したお菓子教室でのこと……なんだと思う。

(つ、つまり紗夜さんが懇意にしてる方っていうのは私で……その方ともっと仲良くしたいっていうのはつまり私とってことで……ええ!?)

 紗夜さんの話の登場人物の正体がどんどん私に紐づけられていく。その度に心臓の鼓動が早くなる。もう痛いくらいにバクバクしてる心音が衝立越しの紗夜さんに届いちゃうんじゃないかと思うくらいだった。

「それに、どこかへ行かないかと誘いをかけるのは大体私から、だったと思います。もしかすると、懇意にして頂いていると思っているのは私の方だけなのかもしれません。だから、その方からすれば私はただの交友関係の一人……路傍の石のようなものではないだろうか、だなんて、身勝手で卑屈な思いさえ私は抱いてしまうんです。……そんな人間に名前を呼ばれても、迷惑に決まっています」

「そっ、」と、反射的にこぼれかけた言葉を、口元に両手を持っていってどうにか止める。

「でも、『そんなことありません』と……こんな私の気持ちを聞いたら、その方は言ってくれるでしょうね」ほんの僅かに漏れた言葉はあちらには届いていなかったようだ。衝立の向こうから紗夜さんの言葉が続けられる。「そして少し悲しそうな顔をして、『自分のことをそんな風に卑下しないでください』と心配してくれる姿が目に浮かびます。……だからこそ、その方はとても眩しくて、私は憧憬に近い――いや、もしかするとそれ以上の感情を抱いてしまっているのかもしれません。その方にもっともっと近づきたくて、でも、どういう風にすればいいのだろうか、と悩んでしまうんです」

「…………」

「私は……どうしたらいいんでしょうか」

 静かな声が懺悔室に響く。紗夜さんの悩みを聞いて、私はそれに答えを返さなきゃいけない。……いけないんだけど、もう頭がパンクしそうだった。


(お、お、落ち着かないと……紗夜さんの悩みにしっかり答えを返さないと……!)

 そう思うけれど、色々な感情が胸の内でしっちゃかめっちゃかに混ざり合う。紗夜さんの悩みをこんな形で聞いてしまったことに対する罪悪感と、遠い憧れだと思っていた人が思ったよりもずっとずっと近くにいた驚き、そして私ともっと仲良くしたいって言ってくれた嬉しさ。

 正直なことを言ってしまえば「名前を呼んでください」と答えてしまいたい。遠慮はしないでください、私も遠慮しませんから……と言いたい。

 だけどそれは『羽沢つぐみ』の答えである訳で、今この場で紗夜さんが求めているものではない。紗夜さんが欲しているのは『シスターT』からの答えだ。

 紗夜さんの真摯な心を裏切らないためにも――いや、こうして悩みを聞いてしまった時点でもう限りなく黒に近いグレーゾーンなんだけど、それは置いておいて――私は最後まで、この懺悔室にいる間は『シスターT』でいなくちゃいけない。

 私は小さく、紗夜さんに聞こえないように深呼吸をする。そして『シスターT』として、紗夜さんに伝えるべきことを頭の中にまとめる。そして、意を決して口を開く。


「……あなたはとても優しい心をお持ちなのですね」

「いえ……そんなことは……」

「優しい心を持った方はみんなそうやって謙遜するものですよ。ですが……それが少し、外へ向きすぎているような気がします」

「……外へ?」

「はい。あなたは優しい心を持っていて、他人を思いやることが出来ます。ただ……自分を認めて、ご自身の心を許してあげることが苦手な印象を受けます」

「…………」

「人に優しく、己に厳しい。それは人間としてとても素晴らしく清い志だと思います。ですが、それも行き過ぎてしまえば、いつか心と身体が潰されてしまうでしょう。なので、自分自身にもっと寛容になってみてはいかがでしょうか」

「寛容に、……?」

「はい。きっと、あなたはお相手の方と自分とを比べて、『こんな自分ではあんなに素晴らしい人間とは釣り合わない』と思ってしまっているのでしょう。そのお気持ちは分かります。人間は、得てして自分の欠点は大きく見えてしまうものです。特に自分自身に厳しい人ほどそのきらいがあります。ですが……そのお相手の方も同じように考えているのではないでしょうか」

「羽ざ――っ、その方が、私と同じように?」

「……はい」

 一瞬呼ばれかけた名前に反応しそうになるけど、今の私はシスターTさんだ。だから、今から吐き出す言葉は、羽沢つぐみとは関係のないシスターTさんが、羽沢つぐみの気持ちを勝手に憶測して、迷える子羊に放つ言葉だ。


「あなたはとても素晴らしい人間です。ですから、あなたがお相手の方を尊敬するように、お相手の方もあなたをとても尊敬しているのでしょう。そして、きっと今のあなたと同じような悩みを抱えているでしょう。自分とは不釣り合いだから、すごい人だから、想像の中でだって『大切な人』とは言い切れない……そんな悩みを」

「そう、なんですか?」

「はい。私は、そう思います。ですから完璧である必要なんてないんです。弱いところを見せたっていいんです。みんな同じように悩みを抱えているんですから。だから、もっとあなた自身を許してあげてください。そして、一度だけでもいいので、あなたがしたいように行動してみてはどうでしょうか」

「…………」

「もしもそれが間違いだったとして、それくらいであなたとお相手の方の関係は壊れてしまうものですか?」

「……いいえ。壊れない、と思います」

「であれば尚のことです。福音書の中にもこういう言葉があります。『人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい』……きっとあなたがお相手の方にされて喜ぶことは、同じくあなたがお相手の方にしても喜ばれるものでしょう。ですので、あなたがしたいようにしてみるのが一番だと、私は思います」

「……確かにその通りかもしれませんね。私も、私の望むように行動してみようと思います」

 衝立越しの紗夜さんの声。それが少し吹っ切れたように聞こえた。僅かながらでも紗夜さんの力になれたみたいだった。

「はい。そうしてみてください。きっと、それでいいんだと思いますから」

「……ええ。悩みを聞いて頂いてありがとうございました」

「いえ、あなたのお力になれたのであればこれ以上の喜びはありません。あなたに神の祝福がありますように」

「ありがとうございます。それでは、失礼します。……湊さん、分かっ……かしら……」

 礼儀正しい言葉の後、微かな呟きのようなものが聞こえたような気がした。それから懺悔室の扉を開く音と閉める音がして、静かな足音が遠ざかっていく。それが完全に聞こえなくなったところで、私は大きく息を吐き出した。


「き、緊張した……私だってバレてないよね……?」

 いつの間にか全身が強張っていたのを実感しながら呟く。頑張って低い声を出していたし、きっと、多分、私だと気付かれていない……はずだと思う。

(それにしても……紗夜さんがまさか……)

 紗夜さんがシスターTさんに吐露した悩み。その一字一句を思い出すだけで顔が非常に熱くなるのが分かる。そしてなんとも落ち着かない気持ちになってしまう。

 遠い憧れ。手を伸ばしても届かなさそうな、『大切な人』と呼ぶのも憚られるような人が、自分と同じような気持ちを私に抱いていた。それが嬉しくて、こそばゆくて、でもこんな形で聞いてしまったことに良心の呵責を覚えてしまう。したことがないから分からないけど、テストでカンニングして満点を取った時の心境ってきっとこんな風なんだと思う。

「うぅ……次から紗夜さんにどんな顔をして会えばいいんだろ……」

 そう呟きながら、スマートフォンの時計を見る。時刻は十一時を回っていた。もう懺悔室の営業時間は終わりだった。私は悲喜交々のため息を吐きながら、懺悔室の後片付けを始める。

 ……と言っても、「懺悔室の時間が終わったら、制服に着替えて教室の鍵だけ閉めて、それを生徒会室に持ってきてね」と事前に会長からは言われていたから、私が着替えるだけなんだけど。


……………………


「……分かってたけど、誰もいないよね」

 会長に言われた通り、懺悔室で使った教室の鍵を生徒会室に持ってきた私は、がらんどうの室内を見回して独りごちる。文化祭中の生徒会の仕事は多いから、きっとみんな忙しなくあちらこちらを走り回っていることだろう。

 私は会長の机の中にある、色々な鍵が付いているキーリングに旧校舎の教室の鍵を通す。それからいつも私が使う椅子に腰かけた。

 生徒会室は生徒の教室がある校舎の最上階にあった。窓の外の喧騒も旧校舎にいるよりずっと近くに感じられる。加えてひっきりなしに廊下から人の足音と話し声が響いてきていた。

「…………」

 それを聞き流しながら、私は手持無沙汰にスマートフォンの画面を眺める。

 ディスプレイにはトークアプリ。トーク相手は紗夜さんとのものだった。その上に指を滑らせ、履歴を遡ってみる。

「一、二……回だけ、かぁ」

 紗夜さんが懺悔室で言っていた『誘いをかけるのは大体私から』という言葉の通り、トークアプリで私から紗夜さんを遊びに誘ったのはニ回だけだった。

 本当はもっともっと紗夜さんを誘ってみたかった。でも「やっぱり忙しいんじゃないか」と二の足を踏んでしまう自分を何度も見た。そのせいで紗夜さんはあんなことを考えてしまっていた。


 だから素直になるべきなんだろう。向き合うべきなんだろう。

『素直な気持ち』というものを考えると、それは一体どんなものなんだろうかという思いがないでもない。

 紗夜さんは憧れの人。でも、その憧れって一体なんだろう。好き、という感情には間違いがないけれど、その好きっていう感情は何色のものなんだろう。燃えるような夕焼け空と似たアフターグロウのみんなに対するものとは違うし、バンドを通じて知り合った人たちとの色とも違う。この気持ちはどんなものだと表現されるのだろうか。それが分からない。

「……どの口が言ってたんだろ」

 そんな不明瞭な自分の気持ちに、先ほどまで身を扮していたシスターTさんの言葉がそっくりそのまま返ってくるような感じがした。

 あこちゃんに話したように、紗夜さんに喜んでもらいたい。

 日菜先輩に話したように、もっと素直な気持ちになりたい。

 友希那先輩に話したように、もっと紗夜さんに向き合いたい。

 おたえちゃんが話したように、大切な人なんだと気持ちを伝えたい。

 だから……紗夜さんに話したように、私がしたいようにしてみたい。

 そう思って、トークアプリにメッセージを打ち込んでみる。それからやっぱりやめようと文章を消して、でもやっぱりメッセージを送ろうとまた文字を打ち込む。


「わっ!?」

 そんなことを何度か繰り返した時だった。スマートフォンが震える。その拍子に私の親指がディスプレイに触れる。画面に通知が表示される。紗夜さんとのトーク画面に新着メッセージが現れる。

『つぐみさん、』

『もし暇だったら、羽丘の文化祭、一緒に回りませんか?』

 連続されたメッセージ。短い六文字は紗夜さんのもので、簡素な誘い文句は私が何度も打ち込んでは消していたものだった。同時に、そのすぐ横に『既読』の文字が表示されていた。

「…………」

 あまりに突拍子のない出来事にフリーズしてしまう。どうしよう、迷ってるうちにうっかり送っちゃった。しかももう紗夜さんはこれを目にしてる。今さらメッセージの取り消しをしたら変に思われちゃう。……もしかすると、紗夜さんもいま同じような状況なのかもしれない。

「……よ、よし!」

 偶然の出来事とはいえ、送ってしまったものはもう仕方がなかった。紗夜さんの悩みを盗み聞きみたいな形で知ってしまったこと、自分の気持ちの正体、忙しく走り回っているだろう生徒会のみんなのこと、催し物にそれぞれ精を出しているだろう幼馴染のこと……それらは少しの間だけ……とりあえず今日の午後は、文化祭一日目が終わるまでは気にしないようにしよう、出来るだけ。

 そう思って、勢いに任せて続くメッセージを打ち込み、椅子から立ち上がる。そして送ろうとしている文章をもう一度見直しつつ生徒会室の扉を開く。

「きゃっ」

「わっ」

 そうしたら紗夜さんがいた。生徒会室の入り口のすぐ前に、スマートフォンを持って固まった状態で。


「…………」

「…………」

 無言で見つめ合う。私は少し顔が熱くなっているのを感じる。紗夜さんは驚いたように目を丸くしていた。

「おーつぐみちゃん、懺悔室お疲れ様~。ごめんね、ちょっと通してね」

「あ、は、はいっ」

 そこへ慌ただしい足取りの生徒会長がやってきた。扉を開いたままで固まっていた私が廊下に出ると、入れ替わりに会長は生徒会室の中へ入っていく。……ていうか、今、紗夜さんに聞かれたら非常にマズイことをサラッと言われたような気がする。

「……あの、」

「……その、」

 そのことについてとか、さっきのメッセージについてのこととか、とにかく何かを話そうとしたら、紗夜さんと言葉が被ってしまった。

「あ、さ、紗夜さんから……」

「い、いえ、羽ざ……えぇと……その……あ、あなたの方からどうぞ」

「いや、私の話はいつでも出来るので……」

「……私も、その、いつでも話せることなので……」

「なーんで必要な書類を生徒会室に置きっぱにするかなぁ……そしてなーんで生徒会長をパシリに使うかなぁ……」

 そして変な譲り合いをしていると、何かの書類を持った会長がぼやきながら生徒会室から出てきた。

「あそうだ。ごめんねつぐみちゃん、あんな無茶ぶりしちゃって。今日のつぐみちゃんの仕事はあれだけだから、ゆっくり文化祭を楽しんでね。それと、そこのあなたも、さっきはぶつかっちゃってホントにごめんね」

「あ、はい」

「いえ……」

 という私と紗夜さんの返事もそこそこに、会長は私たちに手を振りながら小走りに去っていく。私はその姿を見送ってから、意を決して紗夜さんに向き直る。


「あの、紗夜さん。その……一つ謝らないといけないことがあって……」

「……羽丘の文化祭は面白いですね」

「え?」

 と、紗夜さんは私の言葉を遮るようにして発言する。懺悔室のことを正直に話して謝ろうと思っていた私はそれに意表を突かれて、気勢をそがれる。

「あの方……生徒会長さん、ですか?」

「え、ええ、はい」

「なるほど」そこで紗夜さんは少し何かを考えるような顔をして、再び口を開く。「なんというか、とてもユニークな方ですね。……先ほど生徒会の出し物にも顔を出したのですが、あの方の影響でしょうか。なかなか趣深いものでした」

「え、えっと……」

「……あそこにいたのはシスターの方だけですよ」

 少し困ったような、でも優しげな表情を浮かべた紗夜さんはピシャリとそう言い切る。それで察する。会長の言葉を聞いていなくても、紗夜さんはとっくのとうに懺悔室にいたのが私だって気付いていたんだと。そして、私が謝ろうとしていたことに先回りをしてくれたんだと。怒ったりなんかしていないから気にしないで下さい……そう言外に伝えてくれたんだと。

「そこでとても参考になる言葉を頂きました。ですから、その……つぐみさん」

「は、はいっ」

「先ほどのお誘いなんですが……私でよければ、喜んで」

 フッと紗夜さんは笑みをたたえる。思わず見惚れるような穏やかで綺麗な表情だった。

「っ、はい! ありがとうございます!」

 そして私はそんな紗夜さんを見て、飛び跳ねるような勢いで返事を返す。


 ……まだ私の中の気持ちの正体は分かりそうもない。でも、紗夜さんとこうしていられることが嬉しい。静かな声で名前を呼んでもらえることが嬉しい。素直な気持ちで向き合えることが嬉しい。いつか私の中の感情の名前を知って、そして、幼馴染のみんなに対するように、胸を張って『大切な人』なんだって言えるようになりたい。

 その『いつか』はいつ来るのだろうか。もしかしたらずっと来ないのかもしれない。でも、そんな先のことは考えていたって仕方がない。そう開き直ってしまおう。分からないことは分からないでいいじゃないか。

 だって、隣に優しく笑う紗夜さんがいて、名前を呼んでくれる。それだけで、今の私はとても幸せなんだから。

「羽丘のことはあまり詳しくないので……つぐみさん、案内をお願いできますか?」

「はいっ、任せてください!」

 この幸せを少しでも、本当にちょっとだけでもいいから、紗夜さんにも返してあげられるようになりたい。私と同じように思ってもらいたい。そんなことを考えながら、私は紗夜さんを先導して、文化祭の喧騒の中に飛び込んでいくのだった。


おわり


たまには毛色の違う話を書こうと思った結果がこうなりました。
色々な方面の方に申し訳ない気持ちで一杯です。すいませんでした。

HTML化依頼だしてきます。

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