蝙蝠先輩とでこぼこなボク (16)

 今更になってボクは思う。
 その日はなんだかいつもと違っていた。
 目覚まし時計より先に飼い猫に叩き落とした事とか。
 いつもは買い置きしてあるはずのパンを切らしていた事とか。
 一つ一つは些細な出来事。
 それらは全て予兆だったのかもしれない。
 もしもそれら全てを察知して、結末を全てを知っていたとしたら。
 ボクは一体どうしていただろうか。
 いや、きっと知っていても何も変わらなかっただろう。
 そう思えるほど必然的に、運命的に。
 ボクはあの日、先輩と出会った。

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「……ん……ぐ」

 胸を締め付けるような息苦しさにボクは目を開ける。
 息苦しさの正体を探ろうと体を起き上げた。
 それと同時に、何かの感触が体を沿ってごろりと転げ落ちる。
 
「……なんだ、お前か」

 ふてぶてしくも飼い主を敷物にして寝ていた球体が、ボクの方を見ながら抗議するようににゃあと鳴いた。
 ボクはそんな不躾な抗議を一蹴すると、寝惚けた頭をぶんぶんと振ってから目覚まし時計の方に目を向ける。
 役目を取られた目覚まし時計は役目を果たす二時間も前の時間で沈黙していた。
 
「全く、抗議したいのはこっちの方だよ……」

 半分体を起こした状態でボクは大きく欠伸をする。
 ボクに与えられた選択肢は二つ。
 起こした体を再び倒して二度寝するか、このまま立ち上がり登校準備をするかだ。
 もう一度目覚まし時計を見る。
 この時間に二度寝して、果たしてこいつの力で起きれるだろうか。
 答えのほぼ決まっている問答を頭で二度三度転がしてからボクは決断した。

 ベッドから出たボクを待っていたのは、抗議が通じないと見るや武力行使に打ってでた猫だった。
 爪を研ぐときのようにぴーんと足を伸ばし、ボクのふくらはぎ辺りにしがみ付いてくる。
 パジャマ越しに突き立てられた爪は痛くも痒くもなく。
 ボクはそんなタカ派の猫の脇に手の平を滑り込ませると、パジャマを破られないようゆっくりと抱え上げた。

「よしよし」

 猫というやつは調子のいい生き物で、こうして撫でてやればすぐに喉を鳴らし始める。
 さっきまで自分がやっていた事などもう覚えていないのだろうか。
 気楽な生き物だ。
 そこが好きでもあるのだけれど。

「……そろそろ降りて欲しいな」

 前言撤回、気楽すぎるのも考え物らしい。
 結局猫が満足するまで数分じっくり撫でまわしてやると、猫はもういいと言いたげにそそくさと去って行ってしまった。

 意識が段々とはっきりするにつれて、それに比例するように肌寒さが強くなってきた。
 ぶるぶると身を震わせながら、ボクは一度ベッドの方を見る。
 先程までボクの肩にしがみ付いて喉を鳴らしていた猫が我が物顔でそこにいた。
 
「ほんと自由な奴だな、お前は」

 そのマヌケ面に誘惑されて一歩踏み出してしまった足。
 そんな足をもう一方の足で引き留めると、そのままずるずると足を這わせてリビングへ向かった。
 ボクは特別真面目な人間ではない。
 だからここで二度寝して遅刻したり、まして学校を休むような事になったとしても特に気が咎める事もない。
 ただ、学校を休んだ際に生じる薄っぺらい担任の心配の電話だとか、大して親しくも無いクラスメイトの訪問だったりとか。
 そういう煩わしい色々な事象を回避するためだけに学校へ行くわけだ。

 あれこれ想像していたら、何だか気が滅入ってきてしまった。
 そんな嫌な気持ちも洗い流すように、ボクは蛇口を全開まで開く。
 髪から滴り落ちていくぬるま湯。
 背中を伝い足先へ伝わる頃には湯と呼べなくなっているような温度。
 決して蛇口が壊れているわけではない。
 ボクがこの温度を気に入っているのだ。

「……ふぅ」

 水滴と共に抜け落ちていった髪の毛が、ゴボゴボと音を立てて排水口へと吸い込まれていく。
 流れが悪い。
 足元で水が跳ねる音がし始めた辺りでボクはシャワーを止めるとバスルームを後にした。
 ひんやりとした脱衣所の空気が心地よい。
 乱雑に積み上げられた洗濯物の山からバスタオルを一枚引っ張り出すと、それを下着代わりに身に纏ってリビングへと再び歩みを進める。

 誰もいないリビングに、ひたひたと濡れた足跡を付ける音だけが響く。
 いつにも増して静かな朝。
 いつもと変わらない、朝。
 少し早い時間に起きたからといって何が変わるわけでもない。
 餌入れに固形のキャットフードを山盛りにしてからテーブルに座る。

「あれ……」

 ポンコツトースターを引っ張り出して電源コードを刺したところでボクは気付く。
 毎朝食べているお気に入りのパンが切れていたのだ。
 昨日食べた時は確かに残っていたはずなのだが。
 原因を分かっていながらボクはわざとらしく溜息を吐いた。
 早起きは三文の得、なんて誰が言いだしたのやら。 

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