和久井留美「明るい未来の話を」 (56)
就職先を東京の企業に決めたことに然したる意味はなかった。
ただ漠然と都心への仄かな憧れを抱いていた、地方の田舎娘特有の単純な気持ちからだ。
もちろん、決めたからには努力は惜しまなかった。
面接予定の企業情報をリサーチし、求められている人材たる対象となるよう準備をした。
受け答えの際に広島弁が出ないよう、標準語を体に叩き込む訓練もした。
元々何かを調べたり、まとめたりといった作業は嫌いではない。
そうして無事に内定を勝ち取り、東京で新社会人としての生活が始まった。
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入社してからは覚えることが多く苦労した。
学生のころは要領が良いと褒められもしたけれど、井の中の蛙だったと痛感する。
専門的な知識やジビネスマナー等々……自分に足りないものが次から次へと出てくる。帰宅後はビジネス書を熟読したり、仕事で使えそうな資格取得に向けての勉強に時間をあてた。
研修期間を終える頃には『同期の中で一番仕事のできる新入社員』と評されるようになる。
実務に入ることを心待ちにしていた。
だけど……実際は。
………
……
…
「和久井くん、ちょっとお茶を頼むよ」
今日も部長からお決まりの台詞をかけられる。
私は「お待ちください」と返事をするといつもの給湯室に向かう。
部長は女性社員はお茶くみとコピー取りが仕事だ、と言わんばかりの人だった。
研修期間を終え希望した部署に配属されたが、簡単な事務作業や雑務しか任されていない。
急須に茶葉とお湯を入れて少し待つ間に、何をやっているんだろうと思案せずにはいられなかった。
部長の元についた同期でも男性と女性で与えられた仕事に差があるのは明白だ。
もっと出来る筈なのに。性別だけで力量を鑑みられない現状に悔しさが溢れた。
「お待たせしました」
「ありがとう……うん、和久井くんの入れたお茶が一番美味いな」
くっくと下品に喉を鳴らす部長の笑い声が耳に付く。
他の女性社員にも同じことを言ってることは知っている。
部長なりのリップサービスなのかもしれないが、それが部屋に響くような声量では意味がない。
「部長……他に任せて頂ける案件はありませんか?」
「あー、いま任せている資料作成が終わってから指示する」
「お言葉ですが、そういったことではなく……同期でも男性社員はもっと実務的な内容を任されていますよね」
「いま和久井くんに振っている内容も大事な仕事だ。彼らをサポートする意味でね」
「ですから、サポートではなく私自身も――」
「君は私の指示に不満があると?」
低くなった部長の声が刺さる。
それでも、振り上げた拳はもう引けない。
「……その通りです。適正を見ないまま女性だからという理由での指示内容な気がしてなりません」
背後から小さくざわめき声が聞こえた気がした。
「そうか……君の言い分はわかった。後日改めて指示を出すから、本日は引き続き資料作成を頼む」
部長は吐き捨てるようにつぶやくと席を立ち部屋から出て行った。
事の一部始終を目撃していた同じフロアの人の視線が残された私に向けられる。
目を合わせようとすると顔を背けられたので、自分のデスクに戻り作業を再開した。
それから仕事内容は改善され、自分の求めているものを任されることとなった。
ただ、それでも以前のような雑務を指示されることも減らなかった。
中には新人に任せるべきでないような、比較的重要度の高い案件も舞い込んでくる。
恐らく、私が出来ませんと泣き付いてくるのを見越しての指示だろう。
事実、投げ出したくなるようなときもあったが、それだけは絶対にしたくないと躍起になり、誰にも泣き付くことなく黙々と仕事をこなした。
「和久井さんって仕事できるアピール凄いよね」
「ね、私はあなた方とは違って優秀ですって顔に書いてある」
「部長に意見までして、いまも涼しい顔して仕事こなしちゃって」
女子トイレから、女子社員の陰口が聞こえる。
「和久井さん、ちょっと近寄りがたいオーラ出してますよね」
「わかる。仕事もできるし、男のことナチュラルに下に見てるタイプだなありゃ」
「でも美人なんだよなぁ。一発でいいからヤリてぇ……」
「やめとけって、あの感じマグロの可能性大だ」
「はは、違いねぇ」
夜間の喫煙所から、男性社員の低俗な会話が聞こえる。
他人に自分の弱い姿を見せないことは強さであり、同時にそれ自体が弱さになりえると気付いたのいつだったか。
気付けば私は、社内で孤立していった。
………
……
…
「和久井くん、この資料のデータまとめておいてくれ。明日の会議で配布する」
部長がファイルとA4用紙の束を私のデスクに置く。
明らかに定時間近で頼む物量ではないのだけど。
「これを明日の会議までに、ですか」
「あぁ、そう言ったんだが聞こえなかったかな」
「この量を明日までには流石に……他の方と協力して分担させてもらえませんか?」
「いやぁ、各々任せてる仕事があるからね」
「……それは私にも当てはまりますよ」
「くっく、君は優秀だからこれくらい何てことないだろう? 私はこれから大事な会合があるのでね。おい、行くぞ」
部長は男性社員を連れ出て行った。
喉を鳴らすいつもの笑い声が、いつにも増して耳障りだ。
会合とは名ばかりの、取引先との酒の席じゃないか。それを接待費として毎度安くない金額の領収書を通しているのも知っている。
フロアを見渡しても各々が自分の仕事に追われ目が合うそぶりもない。これは「巻き込むな」という意思表示だ。わかってはいたが……。
小さくため息をつきながら、頭の中で現在抱えているタスクを整理する。ひとまず明日までというならば最優先だ。デスクに高く積まれた、一番上のブックファイルに手を伸ばした。
数字を打ち込めば自動的に集計するので作業自体は至極単純だが、量が量なのでどうしても時間がかかる。
左手でデスクに広げたファイルを捲り、右手で書かれた数字の羅列を流れるようにタイピングしていく。紙面から画面へ、同じ数字が写される。無心でひたすら打ち込み続けた。
やがて退勤する人がぽつぽつと出て、気付くとフロアには私ひとりだけとなった。
画面右下のデジタル時間の表記に視線を落とす。残りの量からして、全て終わる頃には終電に乗れるかどうか。
集中が途切れた為か、空腹を覚えた。少し疲れたし、気分転換も兼ねてコンビニで夜食を買おう。このまま続けても却って効率が悪い。
ロッカー室まで財布を取りに行かなくても、携帯さえあれば電子マネー決算で済むのが気楽だ。
大きく伸びをすると腰と肩がじわりとあたたかくなる。
滞っていた血の流れを内側から感じつつ、エレベーターへ向かった。
外に出ると夜風が薄手のカーディガンをなでる。
季節は初夏にさしかかるといっても、日が暮れてからはまだ少し肌寒い日もある。
でも、いまはその肌寒さが心地よい。
空を仰いでも視界にはビルが伸び夜空を狭めていた。雲はないが、星も見えない。その代わりだというように、周りのビルや街灯に光が灯り続けている。
ふと、離れた故郷のことを思う。同じ夜空なのにこんなにも星は見えなくなるのか。
東京で一人暮らしを始めてから、一度だけ母から電話があった。
体調を崩していないか、仕事はうまくいってるかと訊ねる母に、心配かけまいと「大丈夫、うまくいってるから」の一言だけで済ませたきり、以降連絡はない。
寄り添う星も見つけられず暗闇で一人きりのような、私の心を映したような空だった。
しばらくそのまま夜空を仰いでいると、ふいに小さな鳴き声が聞こえた気がした。
はっとして声のする方向に目を凝らすと、植込みのかげに可愛らしい声の主がそこにいた。
夜の暗闇に溶け込むような黒毛の子猫で、くりんとした丸い瞳が浮いているかのようだ。
「あ、猫ちゃん……ほーら、怖くないでちゅよ~」
屈んで視線を低くしながら、手招きする。
子猫は動かずにじっと様子を伺っていたが、そのうちに顔を出してそのまま近づいてきた。やった!
人慣れしてるのか、指先に鼻を付けてすんすんと匂いを嗅ぐ様子がとても、とても可愛らしい。
そのまま指を動かして喉を撫でてあげると、気持ちよさそうに目を細めた。
しかし、同時に鼻の奥にむず痒くなる、あの感覚が顔を出す。それでも、止めることはできない。
「ふふ、可愛いでちゅね……くちゅん!」
外とはいえこんな遅い時間のオフィスの敷地内、誰かに見られはしない。
子猫を撫でるたび、だらしなく頬が緩むことも涙と鼻水を止めることもせず、今はただ、この人懐こい子猫を愛でよう。
「えっと……和久井さん……?」
はっとして声のする方を向くと、目の前に夜の暗闇に溶け込むように黒スーツの男性がそこにいた。
見覚えのあるその顔は、部長に連れられ“大事な会合”に向かった筈の、同僚だった。
緩んだ頬を引きつりに変えて、言葉も出ない。
子猫が、無言で向き合う二人の間を横切るように歩き出し、やがて暗闇に溶けていった。
「ハンカチどうぞ」
「いえ、自分の使うので……くしゅん!」
出入口前ではなんですし、とりあえず入りませんか、と促され二人でフロアまで戻ることにした。
本音を言えば鼻をかみたいけれど、二人きりで思い切りそれをするのは恥ずかしい。いや、今さらなのかもしれないが。
そんな様子を察したのか彼が
「俺、コーヒー淹れてきます」
と、その場を離れる。気を遣わせてしまったかも。
給湯室までは届かないだろうが、それでも控えめに鼻をかんで、目薬をさす。
化粧も直そうかと悩んだけど、そうこうしている内にマグカップを両手に彼が戻ってきた。
「ミルクと砂糖は?」
「……ブラックで」
差し出されたカップを受け取る。白い湯気が立ち上っては、すぐに薄まり天井へ溶けていく。
ひとくちすすったが、鼻が詰まっていて香りも何もあったものじゃなかった。おまけに熱くてまだ飲める温度でもない。
両手でカップを抱え息を吹いて冷ましていると、彼が笑った。
「な、なんですか?」
「いえ、猫好きの猫アレルギーで、そのうえ猫舌なんだなって。ふーふーしてるの可愛くてつい」
抱えたカップの熱が移ったかのように、顔が熱くなっていく。
落ち着こうと無意識にコーヒーをもうひとくち。まだ熱かった。
「お楽しみの時間にお邪魔しちゃってすみません」
「大体……なぜこんな時間に。大事な会合はいいんですか?」
「もう終わりましたよ。俺は一滴も飲んでませんけど」
「えっ?」
「お酌して回って部長の顔立てて、おまけに送迎までが俺の仕事になってまして」
「それは……なんとも酷い話ですね」
それでも彼は微笑んだまま。
「長いものには巻かれる性質なもので……なので、あの部長に正面から啖呵きった和久井さんのこと気になってたんですよ」
「それは……」
それは、私は貴方のように大人になりきれてないだけだと、そう思わずにはいられない。
「でもまさか、猫にデレデレな一面まであるとは思いもしませんでしたけどね」
「そ、そっちはもう掘り返さないでっ!」
「はは、了解です。墓まで持ってきますよ、安心してください」
彼の笑い声は部長のそれとは違い、聞いていて心地よい。
ああは言ったが、私が本気で拒絶していないと解ってるのだろう。
「それで、結局戻ってきた理由をまだ聞いてないわよ」
「ああそうだった。単純な話、まだ仕事が残ってるので」
彼のデスクは私の席からはよく見えない。思い起こせば部長に連れられた彼は手ぶらで、鞄がそのままであったのは完全な見落としだ。
戻ってくる気だった、ということ。
「さて、和久井さんはあとどれくらいですか?」
「残りは……あと、これだけ」
「了解。じゃあ半分持ってきますね」
と、彼が積まれたファイルを持ち上げる。
「そんな、ご自身の仕事をなさってください!」
「ご心配なく。この手伝いが残りの仕事です」
「えっ?」
「流石にひとりでする量じゃないですよ。いまの残り分担すれば、それだけ早く帰れますし」
本当に、この為だけに戻ってきたのか。それはわからないけれど。だけど。
「……ありがとう、ございます」
彼の協力もあり日付を超えることなく全ての仕事が片付いた。
翌日の朝一番に、部長へまとめた資料を提出する。まさか間に合ったのか、と漏らしながら資料に目を通される。
「不備がないかご確認頂けますか? 会議まではまだ時間もありますので」
「……ああ、わかった。よくやってくれた」
労いの言葉とは裏腹の苦虫を噛み潰したような顔を見て、つい口角が上がってしまう。
「いえ、では自分の仕事に戻ります」
「待て、和久井くん……これは本当に君ひとりで?」
席に戻ろうとする私の背後から、部長が訊ねる。
彼のデスクに視線だけ移すが、姿はない。
「……他の方は各々の仕事をしていましたよ」
正直に答えれば手伝ってくれた彼まで目を付けられるだろう。
この言い方なら嘘はついていない。なんて、詭弁かもしれないけど。
「仕事に戻りたまえ」という部長の声を聞きながら、心の中で舌を出した。
………
……
…
信用できる人がひとりいるだけで、随分と楽になった。心が軽くなった。
それはそのまま仕事や職場の人間関係にも表れる。
ゆっくりとだが、部長や他の社員からの風当たりは薄まっていった。
それでも。
以前ほどではないが、部長は相変わらず無茶な仕事を振ってくるし、未だに私の努力を認めない人もいるのは確かだ。
それでも。
以前と違うのは、そんなときに飲みに誘ってくれる同僚がいること。
お決まりのバーで彼と飲むお酒は美味しい。
時には飲みに行く以外にも。
初めてそこへ連れてかれたのは、バーでひとしきり仕事の愚痴を漏らしたあとのこと。
「お酒もいいけど、たまには体を動かした方が健康的ですよ」
と、彼と向かった先は……バッティングセンター。
正直、少しだけ期待していた自分がいて、到着してそんな自分に気付いたときは、その場にうずくまりたくほど恥ずかしくなった。
「もしかして初めてですか?」
「ええそうね、バッティングセンターは初めて……よく来るの?」
「たまーに、くらいですね」
答えながら入口の両替機に紙幣を投入すると、じゃらりと硬貨が吐き出される……いや、よく見ると出てきたのは硬貨ではなくメダルだ。
学生のころ友人に付いて行った、ゲームセンターのメダルコーナーを思い出させる。
「へぇ、メダルを使うのね」
「店によってはプリペイドカードだったりしますよ。和久井さんは左打ち?」
「えっと……どっちかしら、やったことなくて……」
「このバット持って構えてみて下さい。考えずに自然に」
「こ、こう……?」
「左打ちですね。じゃあこっち入って」
導かれるままにネットを潜って打席に入る。
後ろからメダルを機械に投入する音が聞こえたかと思うと、10数メートル先の液晶画面に映るピッチャーが振りかぶった。そんな、いきなり!?
心構えも十分でなかった1球目はバットを振ることさえできなかった。
放たれた白球はとても速い、というほどではないけれど、こんな至近距離ではやはり怖い。
私の動揺なんて知ったことなしと、モニターのピッチャーが再び投球モーションをとる。
2球目、ようやく振ったバットはむなしく空を切る。
振った位置が球の上なのか下なのかさえわからない。
「腰引けてますよ。大丈夫、球をよく見て」
私の負けん気の強さを知ってか知らずか、まるで子供をあやすような口調で言われ、少しむっとしてしまう。
そんな風に言われたら意地でも当ててみせようじゃないの。
結局、球は一度も前に飛ぶことなく足元に転がっている。
それでも後半はバットにかすったことも何球かあったが。
久しぶりに体を動かしたので息が切れる。
「惜しかったですね。ヒールとスーツでそこまで振れれば上出来です」
と、彼がミネラルウォーターを差し出す。
私が好んで飲んでいる銘柄だ。
「ありがとう……ふぅ、難しいものね。悔しいわ」
「続けたら当たるようになりますよ。うん、連れてきてよかった」
言葉の真意を読み取れずに怪訝そうな顔をしていると、続けて彼は言う。
「来る前より良い顔してますよ」
見られるのが恥ずかしくなり、誤魔化すようにペットボトルに口を付ける。
普段から飲んでいるミネラルウォーターが、いつもより美味しく感じた。
こんな風に。
私が疲れたときに。少し無理をしているときに。我慢してるときに。
見計らったようなタイミングで、『おつかれさま』と書かれた猫の付箋とコーヒーが、いつの間にか机に置かれていたこともあった。
彼はいわゆる男前というわけではないけれど、真っ直ぐで、細かいところも気が付く、あたたかい人。
部長が彼を会合に連れて行く理由が解った気がした。
彼とこんな関係がずっと続けばいいと、柄にもないことを想っていた。
だけど、そんな細やかな願いすらも。
………
……
…
部長の厄介な所に、本人の機嫌によって部下への当たりが変わることがある。
その日、私はICレコーダーで録音した会議の議事録を作成していた。
他の人の迷惑にならないよう、それでいて電話や声掛けされても気付けるように、イヤホンを片方だけ付けての作業。
そんなときフロアに現れた部長は、私を見るなり「仕事中に音楽なんぞ聞いているんじゃない!」と一喝した。
レコーダーで議事録を作成していると説明しても、まぎらわしいことをするのが悪いと言い切られる。
完全に虫の居所が悪いときに目を点けられてしまった。
そうして、フロアに部長の怒鳴り声が響く。
次第に業務態度や人格否定一歩手前の発言まで飛び出して……。
冷静に、冷静に。
自分にそう言い聞かせるも、頭が怒りでじくじくと痛んで、大声で反論したくなる。
研修が終わって間もない頃に戻ったようだ。
ついに、何かが切れて口を開いた瞬間。
「部長、お言葉ですが私は――」
「部長がおっしゃっているのは、間違ってます」
私の前に飛び出して、部長に立ちふさがったのは、彼だった。
「なんだ、君は」
「部長のされていることは滅茶苦茶です。そんなことではそのうち、この部屋全体が部長の指示に付いて行けなくなりますよ」
「な……何を言ってるんだ!」
私はそこまで聞いて、そこにもういられなくなって。
フロアを飛び出して、ビルの屋上まで一気に駆け上がった。
頭はまだ、ズキズキと痛む。
落ち着こう……落ち着こう。
それから、泣いた。
悔しくて、泣いた。情けなくて、泣いた。声を押し殺して、泣いた。
泣いたら、少しだけ、すっきりした。
「見つけた」
彼に声を掛けられて、慌てて涙を拭う。
「見つけられちゃった、か」
「分かりますよ、和久井さんの行く場所くらい」
「なんで部長にあんなこと言ったのよ、私のことなんて放っておけばいいのに……あなたまで目を付けられるわよ。長い物には巻かれる性質じゃなかったの?」
私の問いかけに、彼は少しだけ考えたあと、
「それでも、間違ってると思ったら、ここ一番では男みせなくちゃ。女の子ひとり守れなくて、何が男だ」
彼が、あまりにも真面目な顔をして言うから。
私は、おかしくておかしくて、笑った。大笑いした。
「やっと笑ってくれた」
それから、彼も一緒に笑った。
おかしくて、笑った。嬉しくて、笑った。声を出して、笑った。
大声で笑ったら、もう少しだけ、すっきりした。
例えばドラマであれば、ここで一つの区切りとなったのかもしれない。
それでも、現実は変わらず明日を連れてくる。
いつも通り起きて、いつも通り身支度を整えて、いつも通り満員電車に押し込まれて、いつも通りに出社して。
いつもと違うのは――突然彼がいなくなったことだった。
………
……
…
フロアのボードに張り出されていた人事異動通知書には、彼の名前が記載されていた。
地方の営業所への転勤を命じた、簡潔な文章。
『新任地での活躍に期待します』なんて、取ってつけたような一文だ。
私か彼か、違う部署に飛ばされることを覚悟していたが、ここまでするのか。
「異動先で急に席が空いたらしくてね、優秀な彼が選ばれたんだよ」
などとのたまう部長に怒りが込み上げる。
が、ここで問題を起こしたら部長の一人勝ちになる。気づかれないよう唇を噛んだ。
私や彼は部署の業務上、担当役員のスケジュール管理や社外秘の資料を扱うことも多い為、仕事用の携帯やタブレットなどの情報端末は全て会社支給だ。
私は彼の仕事用の携帯番号しか知らないし、逆もまた然り。
飲みに行くのも直接誘ってくれていたし、休日を一緒に過ごしたこともない。プライベートにまでは踏み込んでこない、その距離感も心地よかった。
例え部署が変わっても、廊下や食堂で鉢合わせることもあるだろう……勤務地が同じであれば。
営業所に電話をすればいいだけなのだけど、彼と話すためだけに連絡するのは躊躇われる。
そもそも、私と彼の関係はそこまで深いものではないのだ。
どこにでもありふれた、気心の知れた同僚でしかない。
その心地よい距離感に胡坐をかいて、関係を進展しなかったのは他でもない自分自身だ。
社内で唯一の拠り所が、自分の行動で壊れてしまうことを恐れていた。
私がもう少し大人の対応ができていれば。嫌味など聞き流せるくらいの器量を持ち合わせていれば、彼が助け舟を出すこともなかったのに。飛ばされることもなかったのに。
彼に助けられていた私が、彼の未来を摘んでしまった。
その日は集中を欠いてつまらないミスを連発した。
部長の小言も頭に入らない。普段からこんな風に右から左へ受け流せてれば、あるいは。
帰り道、空を仰いでも星は見えず、ビルの隙間には暗闇に塗りつぶされていた。
再び孤立した社内で私の取った行動は、無心になることだった。
趣味らしい趣味も持たず、愚直に仕事に明け暮れた。同僚や上司からの理解されることを放棄して、蓋をした。
孤立はしたが、社内の派閥争いに巻き込まれずに済むので、そこは有り難かった。
かくいう部長もその一派閥の中心人物で、対立の別部署の部長と社内政治を繰り広げている。
初めのころは「誰の下につくのが正しいか、聡明なキミなら分かるだろう?」と粉をかけられていたが、どこにも属さない姿勢を見せているうちにそれも落ち着いた。
希望を持たなければ、絶望もしない。
ルーチンのように仕事をこなし、眠るためだけに家に帰る。
そんな風に日々を過ごしても、季節は止まらず巡っていく。
………
……
…
ある日、フロアボードに張り出された辞令書の営業所の地名に覚えがあった。
彼の異動先となった場所だ。あれから1年が経とうとしていた。
目の前に記載された社員は部署も違うし顔も出てこない、自分とは関係ない人物のようだ。
だが、異動先がかの地ということは、受け入れ先でも人員の変動する何かがあったことを意味する。
優秀な彼のことなので、昇進して部下をつけたか、それとも……。
営業所に連絡をしたのは定時を過ぎてから。
他の人に聞かれるのは憚られる気がして、自然と足が屋上へ向かわせた。
携帯のキーパッド入力で番号を入力する。
連絡しようとしたのは初めてではないので、営業所の番号は指が覚えてしまった。
仕事で辛いことがあると、入力していた。あとは通話ボタンをタップするだけの、数センチ指を動かすことができずにいた日々を思う。
かすかに震える指先が、液晶に表示された通話ボタンに触れた。
数コールのあと、事務員であろう女性の声が返ってくる。
本社の人間であることは伏せて、彼の名前を伝えると。
「申し訳ございません、○○は退職されましたが――」
別れの言葉も、感謝も伝えられないまま、彼とのつながりは完全に断たれた。
そうして。
私の心は止まったまま、時間だけが過ぎていった。
仕事に対してのやりがいや熱意が無いわけではない。
だがそれも2年、3年と経つうち「優秀だから」「できて当然」「あなたなら大丈夫でしょ?」という枕詞と共に膨れ上がる仕事量に、努力を認めてもらえない環境に、次第に擦り切れ摩耗していく。
もう心を壊すか、それとも我慢が限界に達するかだ。
入社から4年目になる、その年の新入社員歓迎会で、部長の横に座らされた。
部長の機嫌を取りながら飲むお酒のなんと不味いことか。
一次会終わったらさっさと帰ろう。
私はそう心に決めて、食べるもの食べて、飲むもの飲んで。適当に部長の相手して。
そうしたら、思ったより飲み過ぎてしまった。
宴もたけなわとなり、予定通りに一次会で切り上げる。
大通りに出てタクシーを止めると。
「一緒の方向だから、送っていこう」
と言いつつ、半ば強引に部長が乗り込んで来た。
「ちょっと休めるところまで頼む」
部長は、運転手に向かって言う。
休めるところ?
タクシーの運転手は、何かを心得たように運転しだす。
窓から流れる街並みは、予想通りホテル街へ向かっていることを示していた。
あぁ、これは……。
「……部長、どういうつもりですか」
「おいおい、みなまで言わせるのか」
「奥様もいらっしゃるのに?」
「くっく、固いこと言わんでくれ」
「……」
「私はいずれ会社を背負うポストになる。ここだけの話、現役員への根回しもあらかた済んでいてね……次の役員会での奴の慌てふためく顔が目に浮かぶようだ」
「奴、とは……第二営業部の部長、ですか」
「あぁ、派閥に疎い君でも分かるだろう。これで出世競争は私の勝ちさ」
「そう、ですか」
タクシーがラブホテルの駐車場に滑り込む。
支払いの際、こんなときまで領収書を切らせているのがこの男だ。
タクシーが去り、周囲に人影もない。駐車場から建物の入り口まで、もう数メートルの距離。
部長の手が私の右手首を掴んだ。
抵抗する間もなく無理やり引き寄せられ、腰に手を回される。
「和久井くん、私は君を買っているんだよ。公私ともに、私の右腕としてサポートしてもらいたい。君の出世は約束される。それに断れば……優秀な君なら、わかるだろう?」
部長の舌なめずりに、全身に悪寒が走る。そして顔が近づいてきて――
「……嫌ッ!」
掴まれていない左手で、部長の頬を思い切りはたく。
掴まれた力がゆるくなった一瞬で振りほどき、それから、走って逃げた。
走って走って走って……とにかく、部長が追いかけて来ないことが分かるまで、走った。
気持ち悪くなり道端にうずくまりながら「最低……最低よ……」とつぶやき続けた。
翌日出社すると、どことなくフロアの雰囲気がおかしい。
問い掛けるような視線を隣の席の子に向けるが、さりげなく目を逸らされる。
それからというもの、部屋の女性があからさまに私を避けるようになった。
部長から何かよからぬ噂を流されているのだろう。
わかっていたことだ、これでもう吹っ切れた。
そっちがその気なら、こちらにも考えがある。
………
……
…
あれから数日。
全ての準備を終えて、私はフロアへ向かう。
相変わらず、他の社員は私を見る目は冷たい。いつかのときと同じ、針のむしろにいるような気分。
そんな周りのことなど気にせず、まっすぐに部長の席へ歩みを進める。
数年前は彼がいた。彼に救われた。そのかわりに、彼は去って行った。
だから――
「どこほっつき歩いてた。とっくに始業時間は過ぎてるぞ」
「部長……本日限りで、辞めさせていただきます」
今度は私が、自分でケリをつける番だ。
デスクに辞表を叩きつけた。
途端に部屋がざわめき立つ。
流石の部長も驚きを隠せないでいるが、すぐにいつもの嫌らしい笑みに戻る。
「君はもう少し利口かと思っていたよ」
「ええ、歓迎会後の一件がなければ、ここまではしませんでしたよ」
「何のことかな……まぁいい、ここじゃなんだし場所を変えよう」
「いえ、このままで結構です」
あからさまに見てはないだろうが、部屋中の社員がこちらを伺う気配を感じる。
部長はやああっと叩きつけた辞表を拾うと
「いきなり言われて『はい、そうですか』と受理できるものじゃないんだよ、ひとまず預かっておく。それと……」
そう言いながら姿勢をあげ、私だけに聞こえる小声でつぶやく。
「あの件のことを話しても無駄だ。社内で君に味方はいないし、酒を飲んで酔っていた。証拠もない……覚悟しておけ」
いまの部長の口ぶりからして、おそらく関係を迫った女性社員は過去にもいたのだろう。
そうして逆らえない子もいたし、抗っても握りつぶされた子もいたのだろう。
お前もそのうちのひとりでしかない――そう言いたげな、怒気を含んだつぶやきだった。
でも、部長。
「その点は大丈夫です」
「は?」
「お忘れですか。部長が仰られていましたよ……『和久井くんは優秀だ』と」
ジャケットの胸ポケットから、ICレコーダーを取り出した。
「部下の仕事道具も把握してないんですね、あれだけ怒鳴り散らしていたのに」
「そ……それを渡すんだ!」
「ええどうぞ、もう必要ないので」
ICレコーダーを無造作に放り投げると、まさか本気で渡してくると思わなかったのだろう、虚をつかれた部長は掴むことができずデスクに落下した。
「ここに来る前、対立派閥の方に録音データをお渡ししてきました。私の即日辞職の受理と、今後この件で私に責任や関与等を追及しないことを条件に、です」
「なに!?」
「条件は飲まれましたので、辞職は決定事項です。データがどう使われて部長がどうなろうと、もう私には一切関係ありません」
白昼夢を見るような、狐に化かされたような、放心した部長を後にしてフロアを立ち去る。
部屋の出入口で振り返り、
「おつかれさまでした、さようなら」
こうして、晴れて私は無職になった。
………
……
…
バーの店内で、本日何杯目かもわからないカクテルを呷る。
全て終わった。やったことに後悔はない。むしろ、これでよかったとすら思える。
が、勢いで辞めた身。明日のことを考えるには、アルコールに浸かるこの頭ではどうにもならない。
明日から自由な時間を謳歌できると言っても、やりたいことも特に思い浮かばない。
仕事が趣味といえるような人種には、何でもできることは何よりも不自由だ。
とにかく、今夜くらいはお酒に溺れてしまおう――マスターにおかわりを注文しながら、そう決めた。
「隣、いいですか?」
ふいに声をかけられ、痛む頭を振って一瞥すると、スーツ姿の男性がそこにいた。
酔いからか自然と視線が下がっているようで、ピンドット柄のネクタイが目に飛び込んでくる。視線を上げるのも億劫で、ろくに顔も見ずに視線を空のグラスに戻した。
「何よ。もしかして、ナンパかしら? だったら、やめておいた方がいいわ。今の私、最高にたちが悪いから」
いつもは無視するか適当に流すところだけど、失うものは何もないと、自嘲気味に返す。
「お仕事は?」
あまりにピンポイントなことを訊かれたことが、いっそ清々しかった。
「今日……辞表を叩きつけてきたの。趣味が仕事って言えるくらいには打ち込んできたのに……簡単なものね」
酔いの力も借りて、いまの私は饒舌になっていた。
こんな、会ったばかりの誰かもわからない男に、身の上話を語っている。
「ふふっ、なるほど。それじゃあ、未来の話を」
「何が可笑しいのよ……だから、私には何もないの。それなのに、未来の話なんかできないわよ」
普通なら、失業した話を笑われたら腹も立つだろうが、不思議とそんな気が起らない。
むしろ、そんな笑いが、どこか心地いいとさえ思える。
「では、これを」
「あら。名刺、頂戴します……えっ」
身体に染みついた習性か、差し出された名刺を両手で受け取る。
そこで、今日初めて正面からその男を見た。顔をしっかりと視界に収めた。
「お久しぶりです」
退職した彼が、そこにいた。
「嘘……え、貴方、なんで……」
あまりのことに思考がまとまらず処理が追いつかないでいると。
「辞めてからまたこっちに戻って、再就職したんです」
受け取った名刺には、彼の氏名にプロダクションと役職が印刷されている。
「……貴方、芸能事務所のプロデューサーなの?」
「アイドルのスカウトからプロデュースまでトータルで。やりがいありますよ」
「そう……とにかく、元気そうで良かった」
「お陰様で。和久井さんは……飲みすぎですね」
「再会するにもタイミングを考えてよ、もう」
何年ぶりになる会話なのに、それを感じない。つい先日も、ここで話していたような。
「ヤケ酒具合からまさかと思いましたが、辞めた直後とは」
「本当よ。だから未来の話なんて」
「いえ、だからこそですよ。さっきスカウトからトータルで、と言いましたよね」
意図を理解できずにいると
「和久井留美さん」
真剣な……それでいて、気持ちの良い笑顔で彼は言う。
「明るい未来の話をしましょう」
デレステの和久井さんメモリアルコミュ、こんな台詞言えちゃうプロデューサーイケメン過ぎ。
ここまで読んでくださった方に、名刺だけでも。
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