最初の出会いは誰にとっても普通で、私にとっては驚きから始まった。
「あの、鷹富士さん、ですよね」
自販機で飲み物を買ってる時だった。スポーツドリンクを買うためだったのだけど、コーヒーも飲みたかった。だから、二つ並びの自販機でこっちを選んだ。
当たりつきだったから。
振り返った時、最初は年上かと思った。
身長は私より低いし、体つきも着ている可愛いゴシック調の服も子供らしかったのに。
その瞳に余りに愁いが深く染み込んでいたから。
もちろん、私だってその考えをすぐに改めた。
「白菊……ほたるちゃん、ですよねー」
私の言葉に、ちょっとだけ瞳が膨らんだ。嬉しそうに、そして微かな尊敬を含めて。
(じゃあ、やっぱり)
記憶違いでは無さそうだ。
白菊ほたる。十三歳にして私より芸歴が長くて、運の悪さで有名な子。
その意味で、運の良い私と真逆だ。
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もろもろを置いておいたとしても、私がお姉さんだ。
「ほたるちゃん、なにか飲みたいものありますか?」
「えっと……?」
言葉の意味を捉えかねてるようだったから、尋ね返した。
「飲み物、奢ってあげますね」
驚いたほたるちゃんに、私の口元は微笑みが強くなった。
「で、でも」
「ほら、早く決めないと、運が逃げちゃいますよ?」
間違ったことは言っていない。当たりの表示が出てから少しの間に次の商品を選ばなければ、当たりは取り消しになってしまうから。
「えっと、あっと」
私はスポーツドリンクのボタンを押して、くじ引きのピピピという音を聞きながら、ほたるちゃんの答えを待った。
「じゃ、じゃあ。ココアを」
可愛いチョイスだ。コーヒーでも甘い炭酸飲料でもないのが雰囲気に合っていた。
「ココアですねー」
私は自販機に顔を戻して、首を傾げた。
選択用の、赤い点滅が現れない。
どうしたのだろう。不思議に思ってクジの結果に目を落とす。
外れていた。
驚いたけど、たまにそういう事もある。
「ココア、ですよねー」
「?」
お金を入れなおして、ココアを選択して。
また外れた。
「鷹富士さん?」
ほたるちゃんの声に、私は我に返った。
「かこ、って呼んでくださいよ」
誤魔化すためだったけど、きっと気づかれてはいない。
「は、はい……えっと、か、茄子さん」
微かに緊張している様子のほたるちゃんに、私はココアを手渡した。
私の胸の内の淡い高まりに、ほたるちゃんは気づかなかっただろう。
電子ケトルのお湯が沸いた。打ち上げのビンゴで貰ったケトルだった。
同時に、トースターからパンが二枚飛び出した。これも、一人暮らしを始めた時にくじで貰ったトースターだった。
でも、パンはちゃんと買ったもの。
(いけない)
焼き終わる前に起こすべきだった。こういうリズムに、私はまだ慣れていない。
そんなことが楽しくて、少し笑みながら居間を出た。
都内のマンション。色々な事情が重なって、私は運よくこの4LDKを安い値段で借りていた。眺めのいい部屋で、晴れている日には遠くに富士山を視ることができる部屋だった。
その内の一室。かつては物置に使っていた部屋に入る。
閉じられたカーテンの隙間から洩れる光が、薄暗い室内を照らしていた。
今では奇麗に整理され、真新しい家具が部屋の中を飾っていた。立派ではないが、殺風景でもない程度のシンプルな部屋。カーテンにクローゼット、小さなテーブル。そしてベッドが一つ。
このベッドはこだわった。柔らかいのもいいけど、返って体に負担になることもあるというから、柔らかすぎず、堅すぎず。
触ったり、一緒に横になったりして一つ一つお店で確かめた。
しっかり吟味した甲斐はあったようだ。寝心地は良さそうだ。
彼女は安心に満ちた、とても穏やかな寝息を立てていた。
選んだ時は申し訳なさそうだった。ここまでして貰わなくていいと。
ベッドを買い替えるつもりだったから問題ないと、ウソをついた。
使うことがなくなったら、自分のベッドにするからと。
私は少女の眠るベッドサイドに座って、見下ろすように顔を覗き込む。
横向きに体を抱く様に眠っている彼女は、真っ白なパジャマに包まれていた。
「起きてください。朝ですよ」
可愛い下がり眉をなぞるように頭を撫でると、彼女はゆっくりと目を開いた。
「茄子、さん……?」
夢うつつな瞳が私を捉えた。
急に顔を上げ、枕もとに置いてあった時計を両手でぐっとしがみつく様に持って顔に引き寄せた。
「あれ、動いてる……」
時刻を確認した訳じゃないらしい。時計が壊れていると思ったようだ。
「朝ごはんの準備ができたから、起こしに来ちゃいました。まだ寝てたかった?」
「いえ、ただ……」
ジッと時計を見ていた少女が私に振り向く。
カーテンからの光が顔に掛かり、眩しそうに目を細めながら、薄い唇が朝もやに包まれた湖畔のように淡く微笑んだ。
「せっかく買ってもらったのに、もう壊れちゃったと思って」
私は彼女の手から時計をとると、耳に近づける。
カチカチと、一定のリズムで動く歯車の音が耳をたたいた。
わかりきったことを確認しただけ。
「やっぱり、壊れてませんね」
「ですね」
私が笑って、つられるように彼女も笑った。
私は改めて言った。
「おはよう、ほたるちゃん」
「おはようございます。茄子さん」
今、私はほたるちゃんと暮らしていた。
きっかけはプロデューサーの大怪我だった。あるスタジオの階段から足を滑らせたのだ。
プロデューサーはしばらく入院することになった。
その現場にいたアイドルが、ほたるちゃんだった。
ほたるちゃんは自分を責めた。
周りがいくら違うと言っても聞く耳を持たず、自分のせいでプロデューサーが怪我をしたと、ふさぎ込んでしまった。
仕事やレッスンも休み、寮の部屋にずっと籠りきり。
その話を聞いて、私はちひろさんに提案した。
「なら、私が一緒に暮らしましょうか?」
私といると、不幸なことも起きづらくなると、ほたるちゃんは以前、一緒にロケに行ったときに語っていた。
だからきっと、私の提案をほたるちゃんは嫌とは言わないだろう。運については本当か気のせいかは分からない。でも一人で居るより誰かと居たほうがいいんじゃないか。
ちひろさんは、すぐには頷かなかった。
根本的な解決にならないと。
けど結局、誰かが傍にいたほうがいいという意見には同意して、納得してくれた。
ほたるちゃん自身の了承を得るため、私は寮に行った。
ドアの外から声をかけても返事はなかった。ドアノブに手を掛けると、鍵はかかっていなかった。
「ほたるちゃん?」
彼女は電気もつけず、部屋の隅で体を丸めていた。私が明かりをつけると、小さな体をさらに小さく丸めた。
私は近づいて、ほたるちゃんのそばに屈んだ。
「ほたるちゃん、私と一緒に暮らしません?」
頭を上げたほたるちゃんの顔が、目の前に来た。痛々しい顔だった。余り眠れていないようだ。目にはクマが刻まれ、白い肌はさらに白くなっていた。
提案の意味が分からないように、ほたるちゃんは虚ろに見上げていた。
「きっと楽しいですよ、私と暮らすの」
「……でも」
「でも?」
ほたるちゃんは顔を俯け、怯える様に体を縮めた。
「ご迷惑をかけることになります」
「そんなことないです」
またゆっくりと顔を上げたほたるちゃんに私は微笑んだ。
「だって、私ですよ?」
ほたるちゃんの白い頬が、少し赤くなった。
もし、私になにか起きれば、すぐに家を出る。
それを条件に、ほたるちゃんは私のマンションにやってきた。
ほたるちゃんの心配は杞憂だった。
本当に、なにも起きなかった。
それどころか、普段からほたるちゃんに降りかかっていた不幸が起きなくなったという。
最初は借りてきた猫のようだったほたるちゃんも、そのことを実感して、だんだんと明るくなっていった。
それどころか、いつでもどこでも、一緒に居たがるようになった。
私はそれを受け入れた。いつもほたるちゃんと一緒だった。
本当に、いつも一緒だ。
「姫川」
「鷹富士」
「原田の」
「エブリィウィンターズ」
「はい始まりましたー。ウィンター・F・ドライバーズのラジオ」
「冬ももう終わったのに、まだまだウィンター、な私たちでーす」
「名前付けミスったよね。応援歌考える時もそうだけど、汎用性って大事だよ?」
「友紀ちゃん、それ言ったらおしまいだから……って茄子ちゃん、ラジオ始まってる」
「分かってますよ?」
「ならブースの外に手を振らないの」
「言わなきゃわからないのに、美世ちゃんの意地悪」
「膨れてもだーめ。って、友紀ちゃんもなに振ってるの」
「あんな可愛い見学者がいるならしかたないって」
「もう、じゃああたしも振るー」
「なにが起きてるか、聞いている人は分からないですね」
「はい美世ちゃん! 説明お願い!」
「あたしに丸投げ……? えっとですね。今日はほたるちゃんが外にいるんですよ。白菊ほたるちゃん。その……別のラジオの収録に来てて、時間があったんだって」
収録が終わってブースを出ると、ほたるちゃんが出迎えてくれた。
「お疲れ様です、茄子さん」
「どう、良かったですか?」
「はい。とっても」
ほたるちゃんは一緒に暮らし始めてから、こうやって私の現場にもついてくるようになった。
それとは逆に、私がほたるちゃんの現場についていくことも。
私が側にいれば、不幸なことが起きてみんなに迷惑をかけないから。
仕事は時間が決して被らないようにスケジュールを組んでもらっていた。
周りの人もほたるちゃんが現場に戻ってきたことを喜ぶ声が多く、否定意見は少なかった。
ちひろさんは、あまりいい顔をしていなかったけど。
「ほったるちゃーん」
私の背後からにゅっと出てきた友紀ちゃんが、そのままほたるちゃんに抱き着いた。急に抱きつかれ、あわあわするほたるちゃん。
「茄子ちゃんだけじゃなくて、あたしはどうだった?」
「あたしはあたしは?」
と、友紀ちゃんに続いて美世ちゃんに尋ねられると、戸惑いながら、良かったとほたるちゃんは答えた。離れた友紀ちゃんは、ほたるちゃんの答えに満足げな様子。
最近は友紀ちゃんと美世ちゃんのユニット、ウィンター・F・ドライバーズでの活動が多かった。二人もほたるちゃんがいることにはもう慣れていた。
だからこそ今日は名前も出したのだと思う。いつも一緒というのはボカしてくれていたけど。
私ではなくほたるちゃんの為に。二人はやんちゃだけど、根は優しいし、気遣いもできる。
ほたるちゃんを当たり前のように受け入れてくれている二人がありがたかった。
「ねえねえ、この後二人は暇? ご飯食べいかない? 美世ちゃんが車出してくれるよ」
「そう、出してあげるよー」
ほたるちゃんは申し訳なさそうに笑った。
「ごめんなさい、この後は私のお仕事があって」
「そういう訳なんです。だから私とほたるちゃんはいけないんです」
「ふーん、そっか。じゃあ仕方ないね」
四人でラジオ局を出て、出入り口で別れた。
私とほたるちゃんは、次の現場へむかった。
ほたるちゃんが茄子を真剣な調子で吟味していた。
その様子がおかしくて、私は笑ってしまう。
「ほたるちゃん、またナスビ?」
「はい、せっかくだから大きいのがいいのかなって」
帰りがけ、二人で一緒にスーパーに立ち寄っていた。
小さな子がナスビを睨みつけている様子は、中々おもしろい絵だった。
食事は外で済ますことも多いけど、作れるときは当番制で作る様にしていた。
今日はほたるちゃんの日だった。
ほたるちゃんが料理を作る時、食材には決まってナスビがあった。
ゲン担ぎということだ。
私の名前と同じ漢字の野菜だからというより、縁起がいいから。
「今日はなにを作るんですか?」
「どうしましょう。マーボーナスは……前に作ったし。茄子の炒め物も」
「なら、茄子はおひたしにして、お魚を焼くのはどうでしょう?」
「お魚、いいかもしれませんね。鯛とか縁起がいいですし」
「お魚でも縁起なの?」
「縁起、大事ですから」
その顔にはふざけた様子はなくて、茄子を睨んでいたのと同じくらいの真剣さがあった。
茄子を選ぶのも、ほたるちゃんには大事なこと。
私と一緒に住むようになってから、縁起を気にする傾向が強くなったようだ。
やっと選んだ茄子を籠に入れて、私たちは魚売り場にむかった。
「たい、たい、たい、たい……」
ほたるちゃんは並んでいる魚や切り身を一つ一つ指さしながら鯛を探すが、売り場には並んでいなかった。
前見たときはあったのに、珍しいこともある。
「あら、あれのせいですかね?」
と、私は柱に張られてあったチラシを指さした。そこには大特価の文字と共に、鯛の写真が載っていた。
「特価品分しか仕入れてなかったみたいですね」
そしておそらく、それはすでに売り切れてしまったようだ。もういい時間だ。売り場に目を向けると、特価というポップの踊る広い空白スペースがあった。
「あ、そうですか」
とたんにしゅんとなるほたるちゃん。
「やっぱりついてないですね……」
「でも待ってください。確か」
私は魚売り場のある棚へ戻る。そこにはパックされた沢山のエビ。
残りわずかになった山から一つを取って、顔の横に持ち上げてほたるちゃんに見せた。
「ほら、これも特価品ですよ」
チラシで鯛の隣に掲載されていた商品だった。この二つが目玉だったようで、大々的に乗っていた。
「鯛は手に入らなかったですけど、こっちのエビが手に入ったなら、ついてない訳じゃないですよ。それに言うじゃないですか。エビも縁起物だって」
「茄子さん……じゃあ、エビにしましょうか」
ほたるちゃんの表情が和らいだ。私は茄子だけだった籠にエビのパックを入れた。
「本当に、ありがとうございます」
「いえいえ、お礼なんて」
「でも、茄子さんが居なかったらきっとエビは手に入ってませんから」
「そんなことないです。ほたるちゃんが居たからですよ」
「私なんてそんな……」
「ホントですよ……ほたるちゃんに料理してほしかったから、きっとエビさんたちは待っててくれたんです」
「食べられちゃうのにですか?」
「そうですよ。『茄子ちゃんとほたるちゃんに食べられたーい』って、この子たち、言ってましたから」
「じゃあ、美味しく作らないとですね」
「はい」
私の冗談に微笑んでくれて、私も微笑み返す。
でも、ほたるちゃんがいたからエビを買ったというのは、本当だ。
だって私だけだったら、鯛を買えてただろうから。
自慢ではないが、私は運がいい。
もともと縁起のよい苗字になぞって『茄子』という漢字をあてがった両親のお陰なのだろうか。
読みを「ナス」ではなく「カコ」としてくれたことには感謝している。
運がいいと言っても、両親からは能天気なだけと言われていた。それもあるかもしれないけど、多分両親も他の人に比べて運がよかったから、そう思うのかもしれない。
自分たちの運の良さに、両親は気付いていなさそうだ。
運も良い上に、祖母から言わせれば器用で器量も良い。
だから、こう言ってはなんだが私は何でもできた。
アイドルの仕事は運だけでは乗り越えられない。そんな仕事に出会えたことも、私にとっては運がいい出来事といえた。
私は欲しいものは何でも手に入った。
良い悪いではなく、それは私の当たり前。
でも、ほたるちゃんといると、少し勝手が違った。
ついていない訳ではないのだけれど、全てが上手くいく訳でもない。
まるでほたるちゃんの悪運と私の幸運が、相殺しあっているように。
つまり、私の運は『平凡』になるのだった。
パチパチと跳ねる音が、室内に響いていた。
広いキッチンでは、ほたるちゃんがタブレットと睨めっこをしながら油たっぷりの鍋に向かっていた。
私は居間のテーブルに坐りながら、調理に励むほたるちゃんを見ていた。
エビとナスビということで、天ぷらにすることにしたのだ。他にもシソやちくわを買って、もう衣もついて準備は万端だった。
でも、ちょっと心配。
「ほたるちゃん、私も手伝いましょうか~?」
「へ、平気です……あっ!」
パンと跳ねた油にびっくりして、ほたるちゃんは後ずさり。そのまま後ろの棚に頭をぶつけてしまった。
「ほたるちゃん?!」
私は立ち上がって側に駆け寄る。ほたるちゃんは涙目になって、タブレットを持ったまま、ぶつけた所を手で抑えていた。
一緒に住んで分かったが、ほたるちゃんは運が悪いのもあるだろうけど、それを抜いても少しおっちょこちょいだ。
「大丈夫、ほたるちゃん」
「へ、平気です。それにタブレットも落としませんでしたし」
笑いながら彼女は言った。だから運がよかった、ということらしい。
「……やっぱり、私も一緒に作ってあげます」
「へ、平気ですよ。私一人でも」
「でもほたるちゃん、揚げ物作ったことないんじゃないですか?」
「それは……」
図星だったようだ。
というより、一緒に暮らすようになるまで、料理なんてほとんどしたことないのだろう。
タブレットでレシピと睨めっこをしているのを見れば、誰だって分かることだ。
「他の料理ならいいですけど、やっぱり揚げ物は危ないですし、お姉さんが側でフォローしてあげますよ」
「ですけど……」
と、ほたるちゃん。結構意地っ張りだ。
「その代わり、今度私が作る時はほたるちゃんにフォローしてもらいますから。ね、これでお互い様でしょ?」
「そうですけど……」
まだ後に引かないほたるちゃんだったけど。
パン!
「ひゃっ!」
跳ねた油に驚いて、身をよじってから、ほたるちゃんは私の視線に気づいて白い肌が真っ赤になった。
「……分かりました、お願いします」
観念するように、ほたるちゃんは項垂れた。
私たちの共同生活は、こんな風にして進んでいった。
あれ以降、料理は一緒に作るのが当たり前になり、私が母に教わった料理などもほたるちゃんに教えてあげた。
ほたるちゃんは目を輝かせながら大事にします! と言ってくれた。
ますます慕ってくれて、私もそれがまんざらではなくて。
なによりも、私自身が変化を楽しんでいた。
それはウィンター・F・ドライバーズでのラジオ収録の時だ。
美味しそうなラーメン屋さんを見つけたから、帰りに食べに行こうと相談していた。
もし、友紀ちゃんと美世ちゃんが誘ってきたら、仕事と言って誤魔化しちゃおう。
ウソをついていいんですか? いいのよ、少しくらいなら。
四人で食べたくないわけじゃない。ただ二人で食べたいから。
大盛り?。大盛りは……。育ちざかりなんだからしっかり食べないと。でも、食べ過ぎちゃうと体型も……。なら、早朝にランニングでも初めてみません? 新しいランニングシューズやウェアを買いに行きましょうか。
そんなことを話しながら、私たちは局のエレベーターで録音ブースの階までむかった。
ブース傍の小さな準備室にはすでに友紀ちゃんと美世ちゃんがいたけど、もう一人別の影があった。
私とほたるちゃんは、小さく言葉を漏らした。
「プロデューサー?」
彼は子供のような無邪気な笑みを浮かべて、片手をあげた。
「よ、お二人さん」
「プ、プロデューサーさん……!」
ほたるちゃんは破顔させたけど、次には喜びは顔から消えて、私の後ろに隠れる様に移動した。
「その……いつ、戻ってきたんですか」
「昨日退院したばかりさ。ちひろさんには一週間は自宅療養って言われてるけど、顔を見るぐらいなら文句ないだろ?」
仕事ではなく、プライベートで来たということか。一瞬誰だかわからなかった訳だ。いつものようなスーツ姿ではなく、演者のようなラフなシャツを着ていた。
ほたるちゃんが、私の服をギュッとつかんだ。怯えているようだ。プロデューサーにではなくて、プロデューサーに対する罪悪感で。
私は、ほたるちゃんの腕に優しく手を添えた。
ほたるちゃんが私を見上げる。私は頷いてほたるちゃんを促した。
手が私から離れ、ほたるちゃんは一歩前に出た。
「プロデューサーさん……その」
ぽん、とごつごつとした手がほたるちゃんの頭に乗った。
「ただいま、ほたる」
「……お帰りなさい、プロデューサー」
顔を俯けながら、ほたるちゃんは照れくさそうに頬を染めていた。
「みんなには心配かけたな。来週には現場に戻ってくるから」
「ホント心配したんだからね」
と、友紀ちゃん。微かにほたるちゃんが体を強張らせたのに、私以外は気づいていないようだった。
「美世ちゃんだって、寂しい寂しいっていつも言ってたもんね」
「そこまでは言ってないけど。でも戻ってきてよかったよ」
「で、ドライブには誘わないの? 帰ってきたら誘うっていってたじゃん」
「ちょ、ちょっと友紀ちゃん!?」
美世ちゃんは顔を真っ赤にしていた。ニヤニヤと笑っている友紀ちゃん。肝心のプロデューサーは、キョトンとしていた。
「ドライブ、誘ってくれるのか?」
「えっと、うん……また今度ね」
目を泳がせながら、少し上ずっていた美世ちゃん。プロデューサーは、なにも理解していなさそうだ。
「あー、茄子。ちょっといいか?」
「? なんですかプロデューサー」
「少し仕事のことで、ちょっと」
ちょいちょいと、プロデューサーは廊下の陰まで私を連れて行く。
「実は、ほたるのことなんだけど」
その名前が出て、私は少し驚いた。
でも、予想もしていたから、静かに笑みを返した。
「仕事の話って言うのは、嘘みたいですねー」
「まあ、間違ってもいないさ……色々ほたるの件で、迷惑かけたな」
「迷惑なんてそんな」
プロデューサーは不器用に微笑んだ。申し訳なさもあるのだろう。どうやら、ちひろさんなどから私とほたるちゃんの事情は聞いているようだ。
きっと、私の意図などなにも理解していない笑みだ。
「ずっとそばにいてくれたんだろう。本当に助かってる。ほたるも仕事やレッスンを休みがちになってたって話だし……でも、いつまでも迷惑をかけられないよ」
「というと?」
「茄子の仕事だってあるんだ。ずっとべったりってわけにもいかないだろ。あれは俺の不注意のせいだったんだ。ほたるにはなにも悪いことはない。それを伝えて、またしっかり仕事に励んでほしいんだ」
「つまり、ほたるちゃんともう、一緒にいなくていいと?」
「しばらくはほたるとつきっきりになるから、まだお前らを放っておくことにはなるかもだけど」
「……でも」
私は片手を頬に添え、視線をさまよわせてから、プロデューサーを見た。
彼は不思議そうに私の視線を受け止めていた。
「私は、そうしない方がいいと思いますけど」
「……どういうことだ?」
「さっき、プロデューサーさん言ってましたよね、仕事やレッスンを休みがちになったって。
休みがちなんてものではなかったんですよ? 仕事もレッスンも全部キャンセルしてたんです」
「全部って、そんな……」
プロデューサーは絶句した。どうやら、ちひろさんは事態をマイルドに伝えたらしい。
好都合だ。
「学校だってずっと休んでるんですよ」
それは今だってそうだ。私と離れたくないから。
学校に行って、誰かに迷惑をかけるのが嫌だから。
「ずっと、寮に引きこもってたんです。今、私と暮らしているのは知っていますよね。寮には私が呼びにいったんですけど、その時のほたるちゃん……どんな状況だったと思いますか」
「それは……」
「部屋の端に小さく丸まってたんですよ。私が行ったのは夜だったのに、電気もつけないで。ご飯もちゃんと食べてなかったみたいです。私が電気をつけると、怯えた様子で。何とか説得できましたけど。そこまで落ち込んでいた理由は、まあなんというか」
「俺の、怪我だよな」
苦虫をつぶしたように、プロデューサーは言った。
「あいつのせいじゃないんだ。それをちゃんと言えば」
「分かってます。でも、ほたるちゃんの心の問題です。プロデューサーがいくら言っても、自分のせいだって責めたから、引きこもりがちになったんだと思います。それどころか……」
私は言葉を濁した。プロデューサーはジッと私を見てくる。
「それどころか、なんだよ」
「……プロデューサーが言えばいうほど、自分のせいだと責めてしまう可能性もあるじゃないですか」
「なっ……」
プロデューサーは明らかにショックを受けていた。私はつとめて慌てた風に言った。
「絶対とは言えませんよ。ただ、ほたるちゃんは良い子じゃないですか。良い子だからこそ、全部自分で抱え込んでしまうものでは?」
「それを支えてやるのがプロデューサーだ」
彼は強く言い切った。なにも間違っていない。
「でも、今は貴方がその役目をしない方がいいのではないですか? 因果関係はどうあれ、ほたるちゃんが落ち込んだ原因が、傍にいるというのは……返って無理をして悪化してしまうかも」
「でも、じゃあどうすれば」
「だから、私がしばらくは傍にいてあげます」
「茄子……だけど」
「いいんですよ。私も、ほたるちゃんと一緒にいたいんですから」
それがきっと、なによりもほたるちゃんの為になる。それに。
声を明るくして、私は続けた。
「私とほたるちゃんのスケジュール関係ではご迷惑おかけしますけど。それでもいいですよね。なんとかするのが、プロデューサーと以前言ってたじゃないですか」
「お前なあ……」
プロデューサーは苦笑を浮かべていたけど。
「……ありがとう。茄子」
「いえいえ」
私は微笑みながら、返事をした。
「そんなこと、全然ないですよー」
本音であった。ありがとうなんていわれる所以はなかった。
私が、ほたるちゃんを手放したくないだけなのだから。
くじ引きが当たった時、普通はどう思うのだろう。
運がよかったと思うのか、偶然だと思うのか。
私はどっちも思わない。当たるのは、当たり前の事だから。
羨ましいとよく言われる。それだけ運がいいなら、きっと色々楽だろうと。
その通りだ。困ったことに私は困ったことがほとんどない。
運動もできるし勉強も出来た。芸能界という特別な世界も、私にとっては特別でもなんでもなかった。特別であることは、私には当たり前だったから。
たくさんの人に願われて拝まれて、欲しいものはなんでも手に入って。
私が持っていないのは、平凡だけだった。
旅行に出かけた時に曇っているような平凡。
自販機で当たりをほとんど引いたことのないような平凡。
運が良すぎて、気味が悪いと言われない平凡。
彼女といると、私は平凡になれた。
出かけたときに降られる小雨や、赤信号によく引っかかることに小さな喜びを覚えた。
そしてくじ運も。
「見てください、茄子さん!」
ほたるちゃんはソファーで新聞とにらめっこしたまま、パタパタと私を手招く。その横顔は嬉しそうに輝いた。片手には、宝くじを持って。
「三千円です、三千円!」
「ホントですか?」
私は朝食の片づけをしているところだった。丁度今日が宝くじの発表の日だったようだ。
そんなこと、すっかり忘れていた。
食器を白いフキンで拭いながら、私はほたるちゃんが膝の上に広げていた新聞を覗き込む。
「ほら、ここ」
嬉々として指さした番号と、ほたるちゃんの掲げた数字を見比べる。
なるほど、確かに当たりくじだ。
そのあとも確認したところ、百円も三枚当たっていた。
損であった。五千円分買っていたのだから合計してもその額には届かない。
以前の私なら、ありえないこと。
ほたるちゃんは、当たったということにとても喜んでいた。
私は、プラスにならないということに小さな喜びを感じていた。
「……あのですね、茄子さん」
喜びから一転、ほたるちゃんは静かに新聞を膝に置き、大事そうに両手で当たった券を持った。
「どうしました? あ、そのお金でなにか食べたいものでも。お仕事の後にでも」
「いえ、そのことなんですけど……」
少し様子が変だ。どうしたのだろうか。私はほたるちゃんの言葉を待った。
「そろそろ、一人でも大丈夫です」
「えっ?」
突然のことに、私は呆気にとられた。
「あの、お仕事です。もう一人で……ああ、プロデューサーさんとですけど」
「つまり、私はついていかないでいいってこと……その、でも。大丈夫なの?」
「はい……」
頷いたものの、不安げだった。とても大丈夫そうではない。
「プロデューサーに言われたんですか?」
あそこまで言ったのだから、てっきりプロデューサーは納得してくれたと思っていたけど。
ほたるちゃんは小さく首を振った。
「プロデューサーさんじゃなくて、ちひろさんに」
「ああ……」
私は合点がいった。ちひろさんは始めから、この件に一番難色を示していた。
彼女ならほたるちゃんやプロデューサーをうまく言いくるめることができるだろう。
「茄子さんにも、やっぱりご迷惑ですし」
「私は、迷惑なんかじゃないですよ?」
「そうですけど……その。甘えてばかりも良くないから」
やはりそうか。ちひろさんが心配していたのは、私に対する負担よりも、ほたるちゃんが私に依存し過ぎることだ。
だから私から離そうとする。
強くは言えないが、しかし。
「私は、甘えて貰ってもいいんですよ」
ほたるちゃんは微笑んだ。いつものように力なく。でもその笑みは、嬉しさだけでないことが私にも分かっていた。
「ありがとうございます。でも、やっぱり……」
静かだけど、その響きの奥にある意思は強い。ほたるちゃん自身、今のままではだめだと思っているのだ。
そういう子だ、ほたるちゃんは。優しくて不幸で、でも弱い子ではない。
私は笑みを作った。
「いいですよ。ほたるちゃんの好きなようにして」
少し考えてから、付け加えた。
「焦らない方が、いいと思いますけど」
結局その日は、私もほたるちゃんの現場についていった。プロデューサーとほたるちゃん、それに私の三人で。
でも次の現場からは、ほたるちゃんとプロデューサーだけになった。
私はスタジオの外のカフェで、ほたるちゃんの仕事が終わるのを待っていた。
ほたるちゃんの為に予定を空けていたし、他の予定を入れる気にもならなかったから。
行きかう人々の中、テラス席に座って私はスタジオの方にジッと目をむけていた。
腕時計で時間を確認する。もうそろそろだ。
席を立って会計をしたとき、レジでスクラッチカードを貰った。
「今、キャンペーン中なんですよ」
私はお礼を言って、お店を後にした。
(このスクラッチをほたるちゃんにあげたら、どっちが出るのかな)
当たるのだろうか、それともほたるちゃんだから外れ?
太陽に透かして中身を確かめようとするみたいに、私はスクラッチカードを空に掲げ、見上げていた。
私は結局、ほたるちゃんにスクラッチカードを渡さなかった。
それからだんだんと、ほたるちゃんとは別々になることが多くなった。
私と離れている間、ちょっとした不幸には見舞われているようだけど、ほたるちゃんはめげる様子はなかった。
仕事が終わってから、ほたるちゃんから現場であった話をご飯を食べながら良く聞いた。
ほたるちゃんは、学校にも行くようになった。
私と過ごす時間はどんどん減っていた。
「ほたるちゃん、調子いいみたいだね」
ラジオ収録の休憩中、机を挟んだむこうから美世ちゃんが声をかけてきた。
私はブースの外にあった誰も座っていない椅子から、美世ちゃんに向いた。
「一時はどうなるか心配だったけど、今じゃちゃんとプロデューサーと現場行ってるんでしょ」
私は笑みを作る。
「ええ、そうみたいです」
「良かったけど寂しいのもあるよねえ」
と、友紀ちゃん。
「いつもいるのが当たり前になってたから、ぽっかり穴が開いた感じもするし。ここは幸子ちゃんか美羽ちゃんでも連れてこようかな……」
「あはは、ダメでしょ普通に」
「おだてたら、二人とも来てくれそうじゃない?」
「知らないけどさ」
腕を組んで真剣に考えている様子の友紀ちゃんに、美世ちゃんは苦笑していたけど。視線を私に向けて。
「それで、いつまで一緒に暮らす予定なの?」
「えっ」
私は言葉を詰まらせた。
「あれ、もう別々に暮らしてるの?」
「そうじゃないですけど……特には決まってませんね」
「でも、ずっと一緒に住んでるわけにはいかないでしょ」
「そんなことは、ないと思うんですけどね」
静かに呟いた私に、友紀ちゃんと美世ちゃんは不思議そうな視線を送ってきた。
私は席を立った。
「ちょっと、飲み物買ってきますね」
ブースの外に出た。廊下を歩きながら胸の内の不安を意識する。
一体なにを私は動揺しているのか。最初から分かっていたことではないか。
ほたるちゃんが現場では私と離れ始めて、最終的には部屋を出ていくことなど。
でも。
「あれ、茄子?」
声に我に返る。振り返ると、そこにはプロデューサーが立っていた。この前ラジオ局で見た時とはちがって、しっかりとスーツを着ている。
「プロデューサー……今日はほたるちゃんについているんじゃ……?」
「ああ、だから今日の現場がここなんだよ」
藍子ちゃんの番組のゲストとして呼ばれているらしい。
昨日は私の仕事が終わるのが遅く、私が帰ってきた時にはもうほたるちゃんは眠っていて、朝も仕事についてはすっかり聞きそびれていた。
「そっちこそ、今日の現場ここだって?」
「ウィンター・F・ドライバーズのラジオですよ。友紀ちゃんの仕事の都合で、日にちをずらしてもらったじゃないですか」
「ああ、そうだったな」
「しっかりしてくださいよね」
「悪い悪い」
小さな振動音。プロデューサーは内ポケットから、スマホを取り出した。
「ああ、ちょっと悪い」
「いえいえ、では」
私は小さく頭を下げて、ブースにもどろうとした。
プロデューサーは電話にでると、一応周りを気にして、階段の扉をくぐっていった。
確か、前に落ちた時もあのように踊り場で誰かと通話中だったはずだ。マイペースというか、無頓着というか。
それとも、怪我があっても自分のリズムを壊したくないのか。
ある考えが、私の頭に浮かんだ。
もし、再びプロデューサーが不幸な目に合えば、ほたるちゃんは家を出ていかないんじゃないのか。
たとえば、また階段から落ちるとか。
私は足を止め、プロデューサーへ振り返った。
プロデューサーは下りの階段の方をむいており、私には背中を向けている。
電話に夢中のようだ。本当に不用心。
私は、ゆっくりとプロデューサーに近づいて行った。
でももし、押したのが私だとばれたら?
バレるはずがない。私は運がいいのだから。そもそも一体だれが私を疑うというのか。私がそんなことをする理由はない。
誰かに押されたと、プロデューサーは証言できなくなっているかもしれない。
そうなれば、そもそも犯人捜しは行われないだろう。
プロデューサーはとても不運だったというだけだ。
私は踊り場までやってくる。プロデューサーはもう目の前。
彼はまだ、私に気づいていない。
ほたるちゃんはまたふさぎ込むだろう。
そうなれば、ほたるちゃんはきっと。
私は彼の背中に、ゆっくりと手を伸ばした。
「茄子ちゃん?」
私は息がとまりかけた。
手を引っ込めて振り返ると、友紀ちゃんが怪訝な表情を向けていた。
「なにしてるの?」
「ああ、いえ……」
「あれ、プロデューサー?」
友紀ちゃんがあたしの後ろにいる人物を覗き込むように伺った。
私が向き直ると、不思議そうなプロデューサーの顔が目の前にあった。
プロデューサーは電話口を手で押さえた。
「どうかしたか?」
「いえ……ちょっとスケジュールについて質問があったので」
「悪い、今はちょっと」
「そうですね。後でメッセージを送ります」
では、と私はまた頭を下げて、待っていた友紀ちゃんの元へ行った。
「友紀ちゃんは、どうしてここに?」
「あたしも急に飲み物を買いたくなってさ」
録音ブースから自販機の前に行くには、この階段の前を通り過ぎる。そこでたまたま見つけたということのようだ。
間が悪い。
さすがプロデューサーというか、悪運がある。
私は電話を続けているプロデューサーを一瞥してから、友紀ちゃんの後に続いて自販機にむかった。ここの自販機は、くじはついていなかった。
(それとも、運がよかったのは私の方かしら?)
並ぶ商品に目をむけながら、考え直す。
仮に突き落とす瞬間を目撃されれば、いくら私でも言い逃れはできない。
突き落とす直前に友紀ちゃんが来てくれたから、私は犯人にはならず、犯人として目撃もされなかった。
「茄子ちゃん、大丈夫?」
選びかねている私に、不意に友紀ちゃんが聞いてきた。
「なにがですか」
「なんか最近、ちょっと元気ないから」
「そんなことないですよー、私はいつも通りですから」
ほら、と胸元で両手をグッと握って見せた。しかし友紀ちゃんは、疑いの眼差しをむけてきたまま。
「やっぱり、ほたるちゃんのせい?」
「どうしてですか。ほたるちゃんが元気になって嬉しいって話したばかりじゃないですか」
「そうなんだけど……」
難しそうな表情をしていた友紀ちゃんだけど、不意に表情が緩む。
「一緒に住んでたんだもん。いなくなれば寂しくなるでしょ?」
そうですね。と私は笑みを返した。
友紀ちゃんの考えは、とんだ思い違いだ。
ほたるちゃんの居なくなる寂しさではなく、ほたるちゃんと過ごすことによって得られる平凡が、私には何よりも大事なのだ。
だけど、それを守るためにどうすればいいか、私には手段は思いつかなかった。
ほたるちゃんと仕事現場が被る事自体が珍しい。
仕事が一緒では駄目なのだ。
ほたるちゃんに加害者意識を持たせ、私の元にとどまらせるには、ほたるちゃんと私が別々の状態で大きな事故や事件が起きなければならない。
私が傍にいる状況で不運が起きては、ほたるちゃんは私からも遠ざかる。
そういう意味では、ラジオ局での一件は千載一遇のチャンスだった。
私はそれを見事に掴めそこなったわけだ。
同じような幸運なチャンスは、二度とやってこなかった。
それも当然か。
ほたるちゃんといると、私から幸運は遠ざかる。
私は私が求める平凡の為に、その平凡が離れようとするのをなすすべもなく見ているほかなかった。
そして、その日はやってきた。
「あの、茄子さん」
私が帰ってくるのが遅れて、ほたるちゃんが料理を作ってくれていた。
私が母から教わった料理だ。茄子にベーコンを挟んで焼いたもの。
お味噌汁にキュウリと白菜の浅漬け。アボカドのサラダ。
私との生活のなかで、ほたるちゃんはすっかり料理が上手になっていた。
料理を食べ終え、洗い物は私がやっていた時。
背後から、ほたるちゃんが声をかけてきた。
「私、来週には寮に戻ろうと思うんです」
私は答えなかった。なにも聞こえなかった風にすれば、なかったことにできるんじゃないか。
そんなことを考えたのかもしれない。そんな訳ないというのに。
「本当、今までお世話になりました。ご迷惑ばかりかけていたんですけど」
私は水を止めると、タオルで濡れた手をぬぐいながら振り返った。
「まだ、早いんじゃないでしょうか」
「……茄子さん?」
「前も言ったけど、そんなに急がなくていいんじゃない? ほたるちゃんがすぐにでもこの家を出たいって言うなら話は別ですけど」
「そ、そんなことないです!」
ほたるちゃんはこちらに身を乗り出すようにしていった。
「じゃあ、どうして?」
「茄子さんはとっても素敵です、美人ですし、料理もおいしいし優しいし。できることなら、ずっと居たいぐらいです」
「なら、ずっと居てくれていいのよ?」
「えっ」
私の言葉は予想外だったのだろう、ほたるちゃんは目を丸くした。
私は洗ったばかりで乾燥させていないコップを手に取った。
シンプルだけど綺麗な細身のガラスのコップだ。ほたるちゃんの為に買ったコップだった。
冷蔵庫からお茶を取り出すと、コップに注いで一口飲んだ。
ちょっと濃い。煮立てすぎてしまった。
「ほたるちゃんも飲む?」
「大丈夫です」
「そう」
私はもう一度口元でコップを傾けた。
「あの、茄子さん?」
「ほたるちゃん、私たちって、ぴったしだと思いません? ほたるちゃんはちょっぴり不幸で、私はちょっぴり幸運。二人でいると、運命って天秤が、バランスよくなると思うんです」
「よっと」と声を出しながら私は飲み終わったコップの角を人差し指の腹に乗せると、支えていた他の指を離した。
ほたるちゃんは小さく声を上げたけど、コップは私の人差し指の先で、バランスを崩すことなく立っていた。
かくし芸で鍛えた力だ。
「きっと、凄く丁度いいと思うんですよ。ほたるちゃんも、それを感じてませんか?」
「それは……」
「それなのに、わざわざ離れる理由って、あるんですかね」
私は笑みを浮かべ、小首を傾げながらほたるちゃんを見やった。ほたるちゃんの小さな瞳は、静かに揺れていた。
もうひと押しか。
「だから――」
「あるんです!」
大きな声に、私は面食らってしまった。
「あっ」
気が緩んで、指先からコップが滑り落ちる。
ガラスの割れる音が、部屋中に響いた。
「ご、ごめんなさい。急に叫んだりして」
ほたるちゃんは駆け寄って、私の足元に散らばったガラスの破片を拾うとした。
しゃがんだほたるちゃんの肩に、私は手を添えた。
「コップのことは良いから……教えてくれない? 離れなきゃいけない理由」
憂いに、怯えすら含んだ瞳が私を見つめていた。私はまっすぐと見つめ返していると、視線から逃げる様にほたるちゃんは顔を俯けた。
「だ、だって」
小さく、それでも想いを伝えようとする声。
「だって、いつまでも茄子さんに頼ってられないから。とっても嬉しいです。茄子さんからそんなこと言われて。私もずっと一緒にいたいですけど、
だけど。やっぱり、自分で立たなきゃダメなんです。茄子さんに甘えてばかりじゃいけないから。だから」
ほたるちゃんは顔を上げた。まっすぐと、いつものような下がり眉で、力強い瞳で、私を射抜く。
「だから私、ここを出なきゃいけないんです」
ああ。そうか。この子にはなにも伝わっていない。
ずっと頼ってていいのだ。
甘えてていいのに。
ああ、手放したくない。
手放したくない。
すべて、言ってしまおうか。
どうしてプロデューサーが怪我をしたのか。誰のせいか。
みんなは責めないが、きっと間違いなくほたるちゃんのせいだと。
ほたるちゃんと居なければ、プロデューサーは怪我をしなかった。
私が側にいなかったから、プロデューサーは怪我をしなかったはずなのに。
それを言えば、どんな顔をするだろうか。真っ青になるだろう。恐怖するだろう。
私に言われれば、きっとほたるちゃんは否定できないから。
だって私は、きっと誰よりもほたるちゃんを理解しているから。
運は、均等でないと。
そこまでしっかり告げてから、穏やかに説得すればいい。
責めている訳ではない。ただ、そういうものなのだ。
今は怪我で済んだけど、次は……
そこまで言えば、ほたるちゃんも受け入れてくれるだろう。
理解して、私と一緒に暮らしてくれるだろう。
私の手元に、平凡は残り続けるだろう。
私は、ぎゅっとほたるちゃんを抱きしめ、耳元でささやいた。
「もう……寂しくなりますね」
そんなこと、ほたるちゃんにできるはずがなかった。
結局、私はいい人を演じすぎていたのだろう。
ほたるちゃんも、ぎゅっと私に抱きつき返してきた。
最初は弱く。やがて強く、強く。幼い温もりが私を包んだ。
「今まで、本当にありがとうございました」
翌週、ほたるちゃんは私の部屋を出て、寮に戻っていった。
ほたるちゃんは良く連絡をしてくれた。ちょっとしたことなんかがあれば、楽しそうに。
私から離れて不幸体質に戻ったようだけど、ほたるちゃんはどこまでも前向きなようだ。
「きっと、茄子さんと一緒にくらしたお陰です」
どうかしら。と私は返した。
ほたるちゃんからの連絡には返信したけど、自分からは連絡をとらなかった。
送ったところで、私に意味はないのだから。
私の元から去った平凡な日々が、戻ってくるわけではないのだから。
残されたのは、不愉快な胸のわだかまりだけ。
私から送られてこないことが気まずくなったのか、だんだんと、ほたるちゃんからの連絡も減っていった。
その日、事務所に向かう前に自販機に立ち寄った。
レッスン用のドリンクを買いに来たのだけど、コーヒーも飲みたい気分だった。
だから、当たり付きの自販機を選んだ。
コーヒーを選んでから、私は次を選択しようとして、
しかし、いつまでたっても選択可能の赤いランプはつかなかった。
私はくじの結果を見る。くじは外れていた。
(まさか)
私はとっさに周囲を見渡した。
何度も、何度も確認して、私以外の人影がないことをやっと理解した。
時間が過ぎたので、おつり箱に小銭が落ちていった。
胸の高鳴りを残しながら、小銭を取り出そうとした時だ。
「?」
自販機に入れたのは五百円だ。
それなのに、小銭入れにも五百円が入っていた。
それに他の小銭も。どうやら、前に買った人が五百円を取り忘れていたらしい。
私は息をついた。
なるほど、だからくじは当たらなかったのか。
うんざりしながら飲み物と小銭を手に取った。
それでも私は歩きださず、しばらく周囲を伺っていた。
まるで、誰かが現れないか待っているかのように。
(……私はなにを探しているのかしら)
そんなもの、決まっているくせに。
平凡だ。
平凡をもたらす少女だ。
本当に、そうなのだろうか?
私はなにか、とんでもない勘違いをしてるんじゃないか。
そうなりたいから会いたいのか、会いたいからそうなりたいと思うのか。
会いたいからに、決まっている。
(そっか、そうだったんだ)
私は、やっと理解した。友紀ちゃんは、なにも間違っていない。
気付かなかったのは自分自身だ。
始まりは『平凡』を求めていたのに、最後まで惜しんだのは『少女』自身だった。
平凡な日常ではなく、彼女のいる日常を。
小さなことを喜び、慈しむ愛しい少女。
なによりも彼女のそばに居たかった、ただそれだけだったのだ。
(そんなことに今更気づくなんて)
ほたるちゃんが去ってから胸の内にわだかまっていた正体を、私は理解した。
手にしたかったものが手に入らなかったこと。
(ああそうか……)
これが、不幸ということなのだろう。
諦めてしまうのは簡単だ。
過ちを犯していたのだ。許されるようなことはでない。
彼女を欺き続けていた。
罪悪感から、彼女に背をむけてしまったほうがいいのかもしれない。
でも、もっとできることがあるんじゃないか。
欺き続けた償いを、なにか別の方法で。
そんなことは言い訳だ。
私はまた、彼女に会いたいだけなのだ。
彼女と会って、話して、笑って欲しいのだ。
でも、なにか理由を探さなければ。
私はいつか、喫茶店で貰ったスクラッチカードを思い出した。
財布の中を確認すると、まだ入っていた。削っておらず、当たりか外れか分からないままのスクラッチカード。
期限を確認する。まだギリギリだ。
このお店に誘ってみよう。
私はスマホに手を伸ばした。胸の高鳴りは鼓膜を揺らしていた。
彼女の名前を探して、震える指で通話ボタンをクリックする。
彼女は出てくれるだろうか。
怒っていないだろうか。許してくれるだろうか。
もしかしたら、愚かな私の考えを全て見透かしているんじゃないか。
仮にそうでないとしても、全てを語る勇気なんかない。
そんな浅はかな自分を、彼女はまた受け入れてくれるのか。
分からない。なにもかもが分からなくて、押しつぶされそうなほど不安だった。
今すぐ電話を切りたかった。出ないでとすら願っていた。
それでも、こらえながら着信音に耳を傾けて。
電話を出る音に、私の心臓は大きく跳ねた。
「ほたるちゃん、お元気ですか?」
うまく、誘えるだろうか。
「ええ、私は元気ですよ……ほたるちゃんも元気そうで。いえ、ちょっと用事があって。そのですね――」
私は店名を確認するために、スクラッチカードを持ち上げた時だった。
強い風が吹いた。
身をすくめてしまうほどの、強い風。
目をつむり、止むのを待った。
やがて風は静まり、私はゆっくりと目を開ける。
スクラッチカードが、風にさらわれて指の隙間から滑りぬけていた。
私は風が奔り去った方に目を向けていたけど。
ふっと微笑んだ。
「理由はないです。ただ会いたくなったんです、ほたるちゃんに」
――鷹富士茄子「ほたるちゃんと一方通行共依存」《終》
終わりです
ほたるちゃんは茄子ちゃんに幸運を求めるけど、茄子ちゃんはほたるちゃん以上に不幸を求めることもあるんじゃないかとおもって。こんな感じになりなました。
偶然にも、昨日発表された総選挙の中間では、二人とも良い位置にいます。
結果はどうなるかわかりませんが、ちょっと楽しみです。
最後に読んで頂いた方、本当にありがとうございました。
楽しんでいただけたなら幸いです。
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