【バンドリ】氷川日菜「あまざらしなおねーちゃん」 (106)
※紗夜さんがちょっとamazarashiっぽくなるSSです
シリアス寄りな話です
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――花咲川女子学園 教室――
――ザァァ...
氷川紗夜「……ひどい雨ね」
紗夜(暦は立春を過ぎたころの午後4時。そんな時間だとは思えないほど外は暗かった)
紗夜(朝の天気予報でも言われていたが、お昼頃から降り出した雨は次第に強さを増していった)
紗夜「はぁ……まさかこんな日に傘を忘れるなんて……」
紗夜(……これは日菜のせいね)
紗夜(寝坊した、とかなんとかでバタバタしてるのを見ているうちについうっかり、玄関に傘を置き忘れてきてしまった)
紗夜(そのせいで私は帰るに帰れず、放課後の教室に1人取り残されることになってしまったのだった)
紗夜「…………」
紗夜(教室の窓を雨粒がバタバタ叩いている。それがなんだか私を『間抜けなやつめ』と嘲笑っているかのように感じられて、机の上に目を落とす)
紗夜(そこに置かれたスマートフォンには日菜からのメッセージが表示されていた)
氷川日菜『おねーちゃん! あたしが迎えに行くから一緒に帰ろーよっ!』
紗夜(手持無沙汰な私はそのトーク履歴を読み返す)
日菜『おねーちゃん、今日傘持たないで出てったでしょ?』
紗夜『……そうね。あなたが喧しくバタバタしていたせいかもしれないわね』
日菜『おねーちゃんが忘れ物するなんてめずらしーね! だからこんなに雨が強いのかなぁ?』
紗夜『話を聞きなさい、日菜』
日菜『あ、そうだ! いいこと思いついた!』
紗夜『だから話を聞きなさい』
紗夜「まったく……どういう意味よ、私が忘れ物したから雨が強くなるなんて」
紗夜(先ほどまでのやり取りを見ながらため息を吐く)
紗夜(毒づきながら呆れつつも自分の口元が緩んでいるのが分かる)
紗夜(こんな風にあの子と笑えるようになったのも……ロゼリアやつぐみさんのおかげなのかもしれないわね)
紗夜(良いか悪いか、で考えれば、これもいい傾向でしょう)
紗夜(日菜とこうしていられるのも悪くない。最近はそう思うようになった)
スマートフォン<ピピ
紗夜(机の上のスマートフォンから着信音が鳴る。確認すると日菜からのメッセージだった)
日菜『おねーちゃん、もうすぐ着くよ! 昇降口で待っててね!』
紗夜『はいはい。走って転ばないように気をつけなさい』
紗夜(それに返信すると、私は鞄を手にして昇降口へと向かった)
――昇降口――
紗夜「……ますます酷くなってるわね、雨。雷も段々近づいてきているみたいだし……本当になんでこんな日に限って傘を忘れるのかしら」
紗夜「……なんだか秋のころを思い出すわね」
紗夜(……そういえば、あの日もこんな雨だった)
紗夜(七夕以降、日菜とは少しは向き合えるようになって、私たちの関係もいい方へ向かっていた)
紗夜(だけど、あの子のギターを聞いて……私の音はなんてつまらないものなんだろうかと、また劣等感を抱いてしまった)
紗夜(散々悩んで、ロゼリアのみなさんにも迷惑をかけた)
紗夜(あの日も……あまざらしな私の元へ日菜が傘を持ってきてくれた)
紗夜(そうやって常に歩み寄ってくれた日菜を蔑ろにしていたことを思うと、自分が少し情けなくなる)
紗夜(でも、あの時の経験も決して無駄じゃなかった。もしまた日菜とすれ違うようなことがあっても、星に願う短冊を探し回ったこと、秋時雨に傘をさしたこと……この思い出があればきっとすぐに和解できる)
紗夜(……1年前の私からすれば、まさかこんなことを思うことになるとは夢にも思わないでしょうね)
紗夜(これも良いこと……なのかしらね)
日菜「おねーちゃーんっ! お待たせーっ!」
紗夜(感傷に浸る思考を切り裂いて、日菜の大きな声が耳に届く)
紗夜(視線を校門の方へ送ると、傘をさした日菜が大きく手を振ってこちらに小走りで向かってきていた)
紗夜「日菜、あまり走ると転ぶわよ」
日菜「へーきへーき!」
紗夜「…………」
紗夜(確かに日菜の運動神経なら転ばないでしょうけど……走ったおかげで泥水が跳ねて付着したその靴下を、あなたは事前に泥を落とそうともしないで洗濯機に放り込むでしょう)
紗夜(そうすると他の服にも土が付いて大変なのよ……)
紗夜「まったく……しょうがないわね」
紗夜(小さく呟いて、日菜の方へ足を踏み出したその時だった)
――ドンッ!
紗夜(一瞬の白い閃光が視界を奪い、全身を震わせるような轟音が響いた。次に感じたのは地響き)
紗夜「きゃっ――」
紗夜(学園の近くに雷が落ちたのだ、と分かるより早く、世界が揺れる。傾く。足元には小さな階段があった。踏み外したのだ)
――ゴン
日菜「お、おねーちゃん!?」
紗夜(次に感じたのは、右の側頭部あたりに大きな衝撃。鈍い音が頭の中で反芻する)
日菜「だ、大丈夫!? おねーちゃん!?」
紗夜(その場にへたりこみ、ぶつけた箇所を手で押さえながら顔を上げると、さしていた傘など放り出して駆け寄ってくる日菜の姿があった)
紗夜(それと同時にじんじんと頭全体に痛みが広がっていく)
紗夜「大丈夫……よ。少し驚いただけだから……」ヨロ
紗夜「あ、れ……」
紗夜(立ち上がろうと足に力を籠める。しかし思うように体が動いてくれない)
日菜「……ちゃ……!? お……――」
紗夜(日菜の声がかすむ。触れられるくらいに近いのに声が聞こえない)
紗夜(泣きそうなその姿もどこか薄いフィルターを通した別の世界のものに見える)
紗夜(じんじんとした頭の痛みもどこか遠くへ行ってしまったような気がした)
紗夜(そう思っているうちに、私の意識は闇に飲まれた)
――――――――――
―――――――
――――
……
日菜(目の前でおねーちゃんがバランスを崩して転んで、階段の手すりに頭を打った)
日菜(そしてその場にうずくまったまま意識をなくした時はこの世の終わりがやってきたのかと思った)
日菜(すぐに救急車を呼んで、お医者さんに見てもらったら、軽い脳震盪だと言われた)
日菜(じきに目も覚ますでしょう、と言われた時にはずっと入りっぱなしだった全身の力がやっと抜けてくれた、とかそんな風なことを思った)
日菜(今は病室に眠るおねーちゃんとあたしが2人)
日菜(救急車を待つ間、おかーさんには状況の説明をして病院に来てもらっていたけど、診療室でお医者さんと、大事をとって何日かの入院をするだとかそんな話をしていた)
日菜「よかったぁ……」
日菜(ベッドの上で眠るおねーちゃんの顔を見つつ、心からの呟きが漏れる)
日菜(もしもおねーちゃんが二度と目を覚まさなかったら、なんて考えたくもないことばっかりが頭の中をぐるぐる回っていた)
日菜(その不安からもようやく解放された)
日菜「本当によかったよ……おねーちゃん……」
日菜(不安で不安で堪らなくて涙が出そうだった。またあたしのせいでおねーちゃんが苦しむのかもしれない。考えるだけで気持ちが沈んだ)
日菜(その心配がなくなって、今度は安心で涙が出そうだった)
日菜(でも、そんなあたしを見たら、きっと優しいおねーちゃんは負い目を感じちゃうかもしれない)
日菜(だから、あたしはしっかり明るい顔をしてなきゃ。おねーちゃんが起きたら『ドジだなぁ』の一言でも言ってやるんだ)
紗夜「……ん、んん……」
日菜「!」
日菜(おねーちゃんの口から小さな声が漏れる。飛びついて揺り起こしたい衝動があった)
日菜(でもお医者さんから頭も体も動かさないように、と言われているから、それは我慢する)
日菜「おねーちゃん、おねーちゃん……」
日菜(小さな声で呼びかけることしか出来ないのがもどかしい。お願い、おねーちゃん……早く起きて)
紗夜「…………」
日菜「おねーちゃん……?」
紗夜「……日菜?」
日菜(うっすらと目を開いたおねーちゃんがあたしの声に反応する)
日菜(それだけのことが嬉しくて堪らなかった。嬉しすぎて、涙がどんどん出てくる)
日菜「うぅ……おねーちゃん……っ、もうほんとに……ドジなんだから……」
紗夜「…………」
日菜「……? ぐすっ、どうしたの、おねーちゃん?」
紗夜「ここは……」
日菜「病院だよ。覚えてない? おねーちゃん、頭を打って意識なくなっちゃって……」
紗夜「頭を打って……覚えがないわね」
日菜(おねーちゃんの言葉にお医者さんの説明を思い出す)
日菜(しばらくは前後の記憶が抜け落ちることもあるだろうけど、それはこういう時にはよくあること……らしい)
日菜(大きな外傷もなく、頭蓋骨にも異常はまったく見られなかったから、それは自然に治るだろう……とのことだった)
紗夜「どうしてあなたがそんなに泣いてるのよ」
日菜「だって、だって……あたしのせいでまた……おねーちゃんが苦しんだらって思うと……」
紗夜「……っ」
日菜「……おねーちゃん?」
日菜(おねーちゃんの顔が少し歪む。もしかしてまだどこか痛いのかな?)
日菜「大丈夫? まだ頭、痛い?」
紗夜「余計なお世話よ」
日菜「え……?」
紗夜「あなたのせいで私が苦しむなんて言った覚えはないわ。勝手なことを思わないでちょうだい」
日菜「……おねーちゃん……?」
日菜(違和感がある。いつものおねーちゃんと、今のおねーちゃん)
日菜(何かが違うような気がした)
日菜(でも、この雰囲気のおねーちゃんはどこかで見たことがある)
日菜(まるで周りの人全部が敵みたいな目で、誰にも頼ろうとしない刺々しい雰囲気)
日菜(――まるで、まるで……)
紗夜「……それにしても寒いわね。4月なのにどうしてこんなに冷えるのかしら」
日菜「お、おねぇ、ちゃん……?」
紗夜「……どうしたの」
日菜(おねーちゃんは疎ましそうな目であたしを見てくる。……嘘だ、信じたくない。あたしの想像が間違っていてほしい)
日菜「い、今は……2月、だよ……? ほ、ほら、年末だって一緒にパスパレの特番見たでしょ? あたしのギター、褒めてくれたよね?」
紗夜「何をバカなことを言っているの? 今は4月の上旬でしょう。それに……パスパレ? 聞いた事もないし……そもそも、いつの間にかまたあなたは私と同じことを始めたのね」
日菜「……っ!」
日菜(だけどその願いはあっさりと破られてしまった)
日菜(パスパレのことも知らずに、今が4月だと言い張るおねーちゃん。つまり、これは……)
日菜「わ、忘れちゃったの!? 七夕のことも、喧嘩したことも!?」
紗夜「いつの話なの、それは。私は去年の七夕も日菜とは過ごしてないし……喧嘩なんて、そんなこともした記憶はないわ」
日菜「そ、そんな……」
日菜(……全部、忘れてしまった――なくしてしまったんだ)
日菜(4月以降の記憶を、ロゼリアに出会ってからのことを……全部)
日菜(これも……あたしのせい……?)
日菜(あたしが寝坊してバタバタしていたせいで傘を忘れた、とおねーちゃんは言った)
日菜(それなら一緒に帰ろうと提案したのもあたし)
日菜(昇降口で待ってて、って言ったのも……あたしだ……)
日菜(――そうだ、全部あたしのせいなんだ……)
――――――――――――
日菜(お医者さんとおかーさんからことの状況を説明されたおねーちゃんの困惑は大きなものだったと思う)
日菜(最初は『何の冗談かしら』と真面目に取り合わなかったけど、スマートフォンの日付やカレンダー、最近のニュースを見せられて、おねーちゃんは混乱していた)
日菜(自分がほぼ1年間やってきたことの記憶がない)
日菜(そんな馬鹿な、と思っても、スマートフォンにはロゼリアのみんなの連絡先、それにロゼリアで演奏していた曲も入っていた)
日菜(でも、おねーちゃんはそれを忘れちゃったんだ)
日菜(それでどうしていいのか分からなくなっちゃったんだと思う)
紗夜「……1人に、してください……」
日菜(今にも消え入りそうな声と、真っ白な顔をしていた。あたしたちはそれに従うことしか出来なかった)
医者「恐らく、エピソード記憶障害……でしょう」
日菜(診療室でお医者さんから言われたのはそんな言葉だった)
日菜(エピソード記憶障害。名前の通り、自身が体験、経験したエピソードをまるまる忘れてしまう記憶喪失……らしかった)
日菜(おねーちゃんの場合は4月上旬からの自分の記憶をすべてなくしてしまっているみたいだ)
医者「通常、軽い脳震盪ですからそこまで長引くことでもなく、次第になくした記憶も取り戻すでしょうが……」
日菜(言い辛そうに喋っているお医者さんを見て、あたしは泣き出しそうだった)
日菜(この1年の出来事は、きっとおねーちゃんにとって大きすぎるものだったんだ)
日菜(今までのあたしとの問題も解消して、色んな友達に恵まれて、人生を変えるような出来事がいっぱいあったんだ)
日菜(でも、それは小さな積み重ねだからこそのものなんだ)
日菜(いきなり『あなたはロゼリアというバンドで活動していて、みんなと良好な関係を築いているんですよ』なんて言われたって心が受け付けられる訳がない)
日菜(だからきっと、おねーちゃんが元に戻るのは大変なことなんだ)
日菜(それが分かるから、あたしは泣き出しそうなんだ)
日菜(ああ、またあたしはおねーちゃんを傷付けたんだ。そしてまた、きっとたくさん傷付けるんだ)
日菜(それがきっと現実……なんだと思う)
日菜(でも、口にしなかったら、もしかしたら違うかもしれない)
日菜(これはただの現実逃避なのかもしれない)
日菜(でも、そう思わないと、口を閉ざさないと、あたしの心も今にも潰れてしまいそうだった)
日菜「おねーちゃんも……あの時、こんな気持ちだったのかな」
日菜(診療室の窓を叩く雨粒を見て呟く)
日菜(心が潰れた土砂降りの日に縋るものはそれほど多くない)
日菜(おねーちゃんとの距離が縮まった日を、わだかまりが解けた日を思い出す。……そういえばいつかもこんな雨だった)
日菜(そんな秋時雨に傘をさした記憶も、今のおねーちゃんの中には欠片も存在していないんだ)
――――――――――――
4月11日――(斜線で訂正されている)――2月7日
目を覚ますと悪夢のような現実が私を待ち受けていた。
心の中が整理できない。
何かにこの気持ちをぶつけないと頭がおかしくなりそうだ。
私の記憶では、確かに昨日は4月だった。ライブハウスでライブを行って、それに大きな不満しか抱けなかった。それが確かな記憶だ。
ところが気付いたら病院のベッドに寝ていて、今は2月だと言われた。最初は笑えない冗談だと思った。心配そうな表情で私を見つめる日菜に対し苛立ちさえ感じた。
しかしどうやら本当に今は2月で、私の記憶から1年近く経っているようだった。
字にすればそれだけのことだが、頭の中は混乱したままだ。
ロゼリア、パステルパレット――前者は私が、後者は日菜が所属するバンドだと言われた。
分からない。知らない。そんなバンドなんて聞いたことがない。
私はそのロゼリアというバンドでギターを担当して、充実した日々を送っていた……らしい。そんな自分にも苛立ちを覚える。
私の知らないところで私の知らない私がまるで甘い考えで音楽をやっている。それが許せない。私の目指すものはそんなものだったのか、結局、誰かに認めてもらいたいだけの承認欲求で音楽に携わっていたのか。
ふざけないで。
違う、私は違う。そんな考えでいるんじゃない、ちがう。ちがう、ちがうちがう
言葉が出てこない。あまりにふざけた現実に……いえ、これは果たして現実なのかしら。
寝て起きればもしかしたら変わるかもしれない。
これは夢。そう、寝て起きれば、明日は4月12日で、私はいつも通りの時間に起きていつも通りに学校へ行くだろう。
明日は風紀委員の朝の当番だったはずだ。もう寝よう。
――――――――――
―――――――
――――
……
――氷川家 リビング――
日菜「しばらくパステルパレットの活動も、学校もお休みする」
日菜(おねーちゃんの記憶がなくなった翌日。あたしは両親にそう言った)
日菜(おとーさんは『……そうか。分かった』とだけ頷いて、しばらく学校を休む旨を学校に電話してくれた)
日菜(おかーさんは『あなたのせいじゃないんだから、あまり抱え込まないでね……』と悲しそうな顔であたしに言ってくれた)
日菜「ううん、そういうんじゃないよ、おかーさん。あたしがおねーちゃんの傍にいたいからお休みするんだ」
日菜(そのあたしの言葉を聞いて、おかーさんは悲しそうな顔のまま目を伏せるだけだった)
日菜(……分かってる。あたしがこんなことを言ったって、負い目を感じてやっているって思われるのは)
日菜(それでもこれはあたしがやらなくちゃいけないことだから、せめて明るく振舞わなきゃ)
日菜「病院の面会時間って10時からだよね?」
氷川母「ええ……そうよ」
日菜「分かった。そしたら今日は1日中おねーちゃんと遊んでくるねっ!」
日菜(それだけ言うと、あたしは足早に自室へと戻った。これ以上、おとーさんとおかーさんの悲しそうな顔を見ていると泣いちゃいそうだったから)
日菜(部屋に戻ると、あたしはスマートフォンを手に取って、パステルパレットの連絡先を呼び出す)
日菜(誰に話すか少し迷ってから、千聖ちゃんの名前をタップした)
日菜(スマートフォンを耳に当て、コール音が3つほど続いたところで電話が繋がる)
白鷺千聖『……もしもし? どうしたの、日菜ちゃん』
日菜「あ、ごめんね、千聖ちゃん。こんな朝早くに」
千聖『いいえ、大丈夫よ』
日菜「うん、それでね……えーっと、あのね……」
千聖『珍しいわね、日菜ちゃんがそんなに言い淀むなんて』
日菜「あ、あはは……ちょっとね」
日菜(きっと、パスパレのみんなにも……あたしのせいで迷惑をかけることになるんだよね)
日菜(でも……あたしが言わなきゃいけないことだから)
日菜「……ごめん、千聖ちゃん。あたし、しばらくパステルパレットをお休みする」
千聖『……え?』
日菜「…………」
千聖『……なにかあったのかしら?』
日菜「うん、その……家庭の事情? ってやつかな?」
千聖『一応聞くけど、冗談とかじゃないわよね?』
日菜「……冗談で済ませられればよかったのにね……」
日菜(ぱん、と)
日菜(現実に顔をはたかれた様な気持ちになった)
日菜(思わず口から漏れた言葉のせいで、実感してしまった)
日菜(これは冗談でも夢でもなんでもなくて、本当におねーちゃんは……みんなとの大事な思い出をなくしちゃったんだ)
千聖『……そう、分かったわ』
日菜「……ごめん、ごめんね、千聖ちゃん」
千聖『謝る必要なんてないわよ。……話せるようだったら、詳しく話を聞かせてもらえないかしら?』
日菜「…………」
日菜「ごめん、話すにはもう少しかかりそう……なんだ」
千聖『そう……』
日菜「一応、あたしから事務所の方に連絡はするんだけど……」
千聖『大丈夫、みんなには私から言っておくわ』
日菜「うん、ごめんね」
千聖『ふふ、今日の日菜ちゃんは謝ってばかりね』
日菜「……ごめん」
日菜(いつになく優しい千聖ちゃんに胸が詰まる)
日菜(あたしは本当にいい仲間に恵まれているんだ。そして、あたしはそれをおねーちゃんから奪ってしまったんだ)
千聖『……日菜ちゃん、1つ約束してくれるかしら?』
日菜「うん……なにを?」
千聖『いつでもいいから、事情を話せるようになったら、きちんと私たちに説明してくれる?』
日菜「……うん、する」
千聖『それならいいのよ。……何があったかは分からないけど、1人で抱え込まないでね?』
日菜「……ありがと、千聖ちゃん」
日菜(それから一言二言会話を交わして通話を切った)
日菜(……やっぱり千聖ちゃんに電話をして正解だった。落ち着きなくザワザワしている胸の内も、千聖ちゃんと話しているうちに少しは落ち着いたような気がする)
日菜「千聖ちゃんは……頼りになるなぁ……」
日菜(あたしもおねーちゃんにとってそういう存在でいたいな……)
日菜(そう思いながら、今度は事務所の電話番号を呼び出した)
……………………
日菜(おねーちゃんが入院する大きな総合病院までは、家から歩いて20分くらいのところにあった)
日菜(あたしは事務所に休養申請の電話をしたあと、準備をしてから家を出発する)
日菜(昨日の豪雨はもう通り過ぎていて、今日は東北地方がその雨に襲われる)
日菜(そんなニュースを見たことを思い出す)
日菜(それに対して『あたしみたいな思いをする人がいませんように』と小さく願ったのも思い出した)
日菜(そうして歩いている内に、あたしは病院にたどり着いた)
日菜(おねーちゃんの入院している部屋は402号室だった)
日菜(受付で名前と要件を伝えてその部屋を目指す)
日菜「おねーちゃん、日菜だよ」
日菜(氷川紗夜、というネームプレートが掲げられた個室の扉をノックする)
日菜(……もしも今、ノックもしないで勝手に部屋に入ったら……おねーちゃんはどんな反応をするんだろーな)
日菜(きっと……邪険にされるんだろうな)
紗夜『……開いてるわよ』
日菜(扉越しのくぐもった声が聞こえた。それを確認してから扉を開けて病室へ足を踏み入れる)
日菜「おはよっ、おねーちゃん」
紗夜「……ええ」
日菜(頑張って明るく聞こえるようにおねーちゃんに挨拶をする)
日菜(おねーちゃんはベッドに入って上半身を起こした状態で、ずっと窓の外を見ていた)
日菜「今日はいい天気だね。昨日雨が降ったからかなぁ、空もこんなに青くてキレイだよ」
紗夜「…………」
日菜「あ、そうだ。途中でおいしそーな果物買ってきたんだ~! ほらほら、このリンゴ、すっごく赤くておいしそうだよ!」
紗夜「…………」
日菜「……あんまお腹減ってないか。そうだよね、朝ご飯食べたばっかだもんね」
紗夜「……ええ」
日菜(おねーちゃんは窓の外を見たまま相づちをあたしに返す)
日菜(こっちの方は1回も見てくれない。それが寂しかった)
日菜「あ、そ、そーだ! おねーちゃん、入院中はヒマでしょ! 実はね、おねーちゃんのギター持ってきたんだ!」
紗夜「…………」
日菜「ほらほら、エレキならヘッドホンアンプでも使えるでしょ! あたしのアンプも持ってきたよ、貸してあげるからさ!」
紗夜「…………」
日菜「ヒマな時は弾きなよ、ギター! 何日も触ってないと感覚狂っちゃうでしょ?」
紗夜「…………」
日菜「あ、もしかして勝手に部屋に入ったこと怒ってる……? ごめんね、でもおねーちゃん喜んでくれるかなって思って……」
紗夜「……て」
日菜「そ、それにさ、リサちーも言ってたよ! おねーちゃんはいつでも正確な音だしてくれるから助かるって! やっぱり腕がなまっちゃうとロゼリアで――」
紗夜「やめてっ!!」
日菜「っ……!」
紗夜「……やめて……お願いだから」
日菜「ご、ごめんね……おねーちゃん」
紗夜「…………」
日菜「…………」
日菜(それからしばらく、お互いに無言になる)
日菜(時計の針の進む音、窓の外で小鳥がさえずる声、廊下からたまに聞こえる足音や話し声だけが病室に響く)
日菜(おねーちゃんはずっと窓の外を見ていた。あたしはそんなおねーちゃんをずっと見つめていた)
紗夜「……現実、なのね」
日菜「え……?」
紗夜「……寝て、起きれば、きっと昨日のことなんかは夢で……私はいつもの時間に起きていつも通りに学校へ行って、風紀委員の仕事をして、放課後は弓道部の活動をして、家に帰ってからはギターを弾いて……そんな4月12日が過ぎるんだと……思っていたわ……」
日菜「おねーちゃん……」
紗夜「でも、目が覚めても私は病院にいて、あなたがお見舞いに来て、知らない人の名前を口にする。……これが現実なのね」
日菜「……ごめん」
日菜(昔からそうだった)
日菜(あたしはきっと、人の気持ちが分からない人間なんだろう)
日菜(だからおねーちゃんを今まで傷付けてきて、今もまた同じように、おねーちゃんの気持ちが分からなくて傷付けてしまう)
日菜(あの秋のころから、そういうところは直そうと思っていた)
日菜(でも、全然だめだった)
日菜(……あたしはおねーちゃんの頼りになれないのかな)
日菜(おねーちゃんを助けてあげられないのかな……)
紗夜「……怖いのよ」
日菜「怖い……?」
紗夜「あなたは……一体誰を見ているの?」
日菜「あたしは……あたしはおねーちゃんをずっと見てるよ?」
紗夜「それは本当に私なの?」
日菜「おねーちゃんは……おねーちゃんだよ」
紗夜「…………」
日菜(違う、きっとおねーちゃんが欲しいのはこんな言葉じゃないんだ)
日菜(でも正解が分からない。どんな言葉をかければおねーちゃんが喜んでくれるか、楽になれるか分からない)
日菜(それが……悔しい)
紗夜「……1人にしてちょうだい」
日菜「うん……ごめんね、おねーちゃん」
日菜(大人しくあたしは立ち上がる)
日菜(ただあたしは無力なんだと思わされただけだった)
日菜「一応、ギターは置いていくからね? ヘッドホンアンプも。えへへ、実はちょっと重くて持ってくるの大変だったんだ」
日菜(それでも暗く落ち込んだ言葉なんかおねーちゃんは望んでないはずだ。だからせめて明るい言葉だけでも残していかなきゃ)
紗夜「…………」
日菜「それじゃあ……また来るからね、おねーちゃん」
紗夜「…………」
日菜(おねーちゃんからの返事はなかった)
日菜(1度もあたしの方は見ずに、ただ窓の外を眺めていた)
日菜(……今はしょうがない。それでもいいんだ。いつか絶対、またいつもの笑顔でこっちに振り返ってくれる日が来るはずなんだ)
日菜(そう思ってあたしは病院を後にした)
――――――――――――
2月8日
目が覚めても結局私は病院の中にいた。
そして嫌になるくらい現実を突きつけられた。
これは冗談でも何でもなく、本当に私は4月から約1年間のタイムスリップをしてしまったのだと。
タイムスリップ。まさしくそうだ。
目が覚めたら何もかも分からない世界に放り出された。古いSF映画にでもありそうな主人公の境遇だ。気付かぬうちに私は冷凍睡眠をしていて、未来の文明へ放り出される。
そして、この世界の私は私ではない誰かなんだ。氷川紗夜であって氷川紗夜ではない誰かだ。
今日、お見舞いに来た日菜に対してまたきつく当たってしまった。
だけど記憶の中の日菜と病室であった日菜は別人に見えた。
あの子は昔から人の気持ちを考えるのが下手で、自分の好きなように動いていた。それが許される天才だった。それ故に私はあの子に劣等感を感じた。
しかし今日出会った日菜は私の印象とはまるで違う。
私を気遣い、なんとか元気づけようとしていた。自分の興味本位で動くのではなく、私を思って言葉を選んでいた。そんな姿は今まで見たことがなかった。
……あれは本当に日菜だったのだろうか。似通った誰かが日菜の真似をしていたのではないだろうか。
そんな考えさえ頭の中を巡る。
そもそも私は一体誰なんだろうか。日菜は一体誰を見ているのだろうか。
まとまらない考えを書きなぐる日記の横でスマートフォンが震える。
ディスプレイにはまったく知らない名前が並ぶ。
「湊友希那」「今井リサ」「宇田川あこ」
学校でもそんな名前を見たことはない。この人たちは誰だ。そして私のなかに誰を見ているのだろうか。
「白金燐子」
確か同じクラスの生徒だ。しかし会話をしたことはない。いつも物静かに本を読んでいるという印象しかない。
分からない。分からない。わからない
私は誰なんだろうか。
日菜も、この人たちも、私の中に誰を見ているのだろうか。
――――――――――
―――――――
――――
……
――病院への道――
日菜(リサちーから電話がかかってきたのは2月9日のお昼のことだった)
今井リサ『あ、もしもし、ヒナ? 今大丈夫?』
日菜「うん、大丈夫だよ、リサちー」
リサ『ごめんね、学校休んでるとこ……風邪?』
日菜「あー、うん、まぁ……」
リサ『珍しいね、ヒナがそんな言い淀むなんて』
日菜「あはは、千聖ちゃんにも同じこと言われた」
日菜(空元気で笑ってみた。きっとリサちーはこんなのすぐに見抜いちゃうんだろうな)
リサ『……本当に大丈夫? 悩みとかあるなら聞くよ? 話すだけでも楽になることってあるからさ』
日菜(……やっぱり、思った通りだよ)
日菜(リサちーくらい周りに気配りが出来れば……おねーちゃんに面会謝絶なんてされなかったのかな)
日菜(門前払いなんてされないで、今日もおねーちゃんに会えたのかな)
日菜(……そうだよね)
日菜(あたしも人の気持ちがしっかり分かれば、おねーちゃんを救ってあげられたんだろうな)
日菜(リサちーの優しさは嬉しいけど……心に刺さるよ)
日菜「大丈夫……かどうかで聞かれると大丈夫じゃないけど……へーきだよ」
リサ『絶対へーきじゃないでしょそれ!』
日菜「へーきへーき。リサちーの用事って、多分おねーちゃんのことだよね?」
リサ『そうだけど……今はヒナの方が心配だよ』
日菜「ん、ありがと。そう言ってもらえるだけであたしは嬉しいよ。それにね、あたしがちょっと『るんっ♪』てしてないのはおねーちゃんが関係してるからさ」
リサ『……また喧嘩した、とか、そういうのじゃないよね』
日菜「うん、まぁ……」
日菜(……リサちーにどこまで話していいんだろ)
日菜(きっとリサちーに話せば、ロゼリアのみんなもおねーちゃんの状況を知るだろうな)
日菜(そしたら、みんな何か出来ることはないかって言ってくれると思う)
日菜(でも、おねーちゃんは怖いって言ってた)
日菜(それはきっと『自分の知らない自分を知る人が怖い』っていう意味なんじゃないかと思う)
日菜(今のおねーちゃんは、ロゼリアを知らないおねーちゃん)
日菜(もしロゼリアの人たちと会ったら……ショックが大きくて、大変なことにならないかな……)
日菜「…………」
日菜(……でも、きっとあたし1人じゃおねーちゃんには拒絶されるだけだ)
日菜(悲しいけど、それは分かってるんだ。今のおねーちゃんは、あたしのことが嫌いだって)
日菜(それなのにリサちーたちを頼れないのは……あたしが下らない意地を張ってるから)
日菜(もし誰かにこのことを話したら、現実になってしまうんだ)
日菜(おねーちゃんはあたしのせいで記憶をなくして、苦しんでいる)
日菜(あたしが……あたしが大好きなおねーちゃんを傷付けたんだ)
日菜(でも、こんな変な意地を張ってたらおねーちゃんはもっと遠くへ行っちゃう)
日菜(それだけは絶対に嫌だ)
日菜(なら……リサちーにちゃんと話さなきゃ……)
日菜「……実は、おねーちゃん……記憶喪失になっちゃったんだ」
リサ『え……記憶喪失……?』
日菜「そう。去年の4月から先のこと……ぜーんぶ、なくしちゃったんだ」
リサ『…………』
日菜「冗談でもなんでもなく……ホントのことなんだ」
リサ『……ごめん、ヒナ』
日菜「どうしてリサちーが謝るの?」
リサ『辛いこと、言わせちゃったから……ごめん』
日菜(ああ、今のできっと、全部分かっちゃったんだね。あたしの悩みとか、そういうの)
日菜(やっぱり……ズルいなぁ、リサちー……)
日菜(あたしがリサちーくらいに気遣いが出来れば……きっとおねーちゃんの気持ちも簡単に汲めるんだろうな)
日菜(それで、望んでることも叶えてあげられて、きっとすぐに笑顔にさせられるんだ)
日菜(それが出来ないのが……悔しいな)
日菜「へーき、へーきだよ、リサちー。ありがとね、気遣ってくれて」
リサ『……ううん。でも、そっか……だから連絡がつかなかったんだ……』
日菜「うん……正直、おねーちゃんかなりパニクっちゃって……一応ね、今は入院してて、脳に異常はないみたいだから明日退院するんだけど……」
日菜「……えへへ、今日お見舞いに行ったら『誰にも会いたくなーい』って面会謝絶されちゃった」
リサ『笑いごとじゃないでしょ。……無理、しないでよ』
リサ『アタシだってさ、もし友希那が同じようなことになって、面会謝絶なんてされたら……辛いよ。ヒナが紗夜にそうされて悲しくないワケないでしょ』
日菜「……うん。ホントのこと言うと、辛いや。やっぱりあたし、おねーちゃんに……ずっと嫌われて、たんだなって……」
リサ『違うよ。それは違う。今はさ、余裕がないだけだよ。絶対そうだって』
日菜「……そうかな」
リサ『そうだよ。ヒナより紗夜の全部を分かってるなんて言わない。でも、ロゼリアでの紗夜のことならヒナよりも分かってるもん』
リサ『出会った頃なんかはもう見てて怖いくらいに尖ってたけどさ、ロゼリアを結成してからは周りを見る余裕も出来て、ヒナとも向き合おうと努力してたよ。ホントに嫌いな人にそんな労力、割かないよ、紗夜は』
日菜「……そっか。ありがと、リサちー」
リサ『ううん。……アタシたちに何か出来ることってあるかな?』
日菜「気持ちは嬉しいけど……ごめん。今はおねーちゃん、誰かに会うの怖いみたいだから……」
リサ『そっか……分かった。もし何か力になれることがあったら何でも言ってよ』
日菜「うん。ありがとね」
リサ『お礼なんか言わないでいいって。このこと、ロゼリアのメンバーに話しても大丈夫?』
日菜「……そうだね。あんまり広めることじゃないけど、リサちーたちは知ってないといけないと思うから」
リサ『ん、分かった。……辛いことなのに話してくれてありがとね、ヒナ』
日菜「ううん。あたしの方も、話聞いてくれてありがと」
リサ『しばらくは紗夜に付きっきり?』
日菜「そうだね。パスパレの方もお休みして、そうするつもりだよ」
リサ『オッケー。ヒナの分までちゃんとノートとっとくから、学校のことは気にしないでね』
日菜「……ありがと、リサちー」
リサ『だからお礼はいいってば。話くらいなら聞けるからさ、1人で塞ぎこまないでね?』
日菜「うん、ホントにどうしようもなくなったら、電話するかも」
リサ『ん、了解。っと、もう昼休み終わっちゃうや。それじゃあ、またね』
日菜「うん、またね、リサちー」
日菜「……リサちーってすごいなぁ」
日菜(電話を切ってから呟く)
日菜(認めたくないことをやんわりと否定してくれた)
日菜(話してるだけで少し気持ちが楽になる、包容力……って言うんだろうな)
日菜(千聖ちゃんやリサちーみたいな気遣いはあたしには出来ないのかもしれない)
日菜(でも、何もしない訳にはいかないんだ)
日菜(あたしはあたしに出来ることをしっかりやらなきゃ……)
日菜(面会謝絶なんかに気を落としてる場合じゃないよ)
――――――――――――
2月9日
分からない。
人の目が怖い。誰を見ているの? 私は誰?
自分を否定されている。誰もかれもが見ているのは私の知らない氷川紗夜だ。
今の私を見ている人間は誰もいない。どこにもいない。
怖かった。
誰にも会いたくなかった。きっと今日も日菜は病院に来ていただろう。でも会いたくない。会えば会うだけ私は私に否定される。嫌だ。人が嫌い、世界が嫌い、言葉が嫌い、過去も未来も怖い。
息苦しい。それはきっとここが生きる場所ではないから。私にとってここは未開の世界だ。
……医者の話では明日、私は退院するらしい。
もう逃げ場もない。ここなら誰にも会わないで済んだ。でも明日からはそうもいかない。
きっと日菜は私のことを気にかける。私に対してなのか、私じゃない私に対してなのかは知らない。でも心が軋むのは今の私だ。
もういっそ全部忘れて眠らせてほしい。
耐え難い悪夢みたいだ。もう忘れてしまいたい。
そんなことを思ったって忘れられない。
分からない。
どうすればいいの?
――――――――――
―――――――
――――
……
――病院――
日菜(翌日、退院するおねーちゃんを迎えに行く前に、スマートフォンにメッセージが届いた)
日菜(それはおねーちゃんからのもので、ただ一言『つばの広いハットが欲しい』というだけのものだった)
日菜(それに対して色々な言葉を返したかった。『どんな色が良い?』『形は?』『どれくらいの大きさ?』『どうして欲しくなったの?』)
日菜(だけど、きっとおねーちゃんがそれを望んでいないことは分かった)
日菜(だからあたしは、何回も文章を打っては消して、最終的に『うん、分かったよ。病院まで迎えに行くから、その時に持ってくね』とだけ返信した)
日菜(それが正解だったのかは分からなかった。でも、きっとあれこれと尋ねるよりは間違っていないと思った)
日菜「おねーちゃん、きっとこの色なら似合うと思ったよ」
紗夜「……そう」
日菜(病院までたどり着いて、おねーちゃんに淡いブラウンのつば広帽子を手渡すと、おねーちゃんはそれだけ呟いてそそくさと目深に帽子を被るだけだった)
日菜「めずらしーね。おねーちゃんが帽子を欲しがるなんて」
紗夜「そういう……気分だったのよ」
日菜「……そっか」
日菜(おねーちゃんはそう言って帽子をさらに深く被り直した。それ以上踏み込んで来ないで、と言われたような気がした)
日菜「それじゃ、行こっか。……転ばないように気を付けてね」
紗夜「……ええ」
日菜(おねーちゃんは病室で一度もギターを弾いていないみたいだった)
日菜(あたしが持ってきたままの状態で放置されていたギターはあたしが背負っている)
日菜(その影に隠れるようにして、まるで忍び足のような足取りでおねーちゃんは歩いていた)
日菜「おねーちゃん、それ、歩きづらくない?」
紗夜「気にしないで」
日菜「……うん、分かった」
日菜(……人が怖いみたいだし……誰かに会わないで家に着ければいいけど……)
日菜(でも今日は土曜日だし、しかもお昼前の時間だ……誰かに会うかもしれない)
日菜(出来ればロゼリアの誰かなら事情を知ってるしなんとなるんだけど――)
羽沢つぐみ「あれ? 日菜先輩に……紗夜さん?」
日菜(――そう考えていたあたしの考えはあっさりと打ち砕かれた)
日菜「あー……こんにちは、つぐちゃん」
日菜(よりにもよって……おねーちゃんと仲が良いつぐちゃんと会うなんて……)
つぐみ「はい、こんにちは。後ろにいるのは……紗夜さんですよね?」
紗夜「……っ」
日菜(あたしの後ろに隠れたおねーちゃんが小さく息を飲むのが聞こえた)
日菜(ちらりと後ろを見ると、自分の体を抱きしめるように組んだ腕が震えていた)
つぐみ「珍しいですね、紗夜さんが帽子被ってるのって」
紗夜「…………」
つぐみ「……紗夜さん?」
日菜(どうしよう、どうしたらいいんだろう)
日菜(おねーちゃんは固まっちゃって動けなくなってるみたいだし……)
日菜(ここは……逃げるしかない、よね……)
日菜(つぐちゃんには悪いけど、あとで訳を話せば分かってくれる……よね)
日菜「……つぐちゃん、ごめんね!」
つぐみ「えっ……!?」
日菜(あたしはつぐちゃんに一言謝って、おねーちゃんの手を取って走り出した)
日菜(しばらくしてから後ろを振り返ると、あたしに手を引かれるまま走るおねーちゃんと、かなり後方にポカンとした表情のつぐちゃんがいた)
日菜(それだけ確認すると、あたしは前を向きなおして交差点を曲がるまで走り続けた)
日菜「……はぁー……」
日菜(交差点を曲がってつぐちゃんの姿が見えなくなると、足を止めて大きく息を吐き出した)
日菜(おねーちゃんも同じく立ち止まり、肩で息をしていた)
日菜「ごめんね、おねーちゃん……急に走り出して」
紗夜「いえ……」
日菜「あー、誰にも会わないといいなーって思ったけど……まさかつぐちゃんと会うなんてなぁ……」
紗夜「…………」
日菜「……まぁしょうがないか」
日菜(呟きながらおねーちゃんの様子をうかがう)
日菜(おねーちゃんはもう体の震えもなくなっていて、乱れた呼吸とズレた帽子の位置を整えているみたいだった)
日菜(多分、気持ちの方はもう大丈夫だと思う)
日菜「じゃ、行こっか」
紗夜「……ええ」
日菜(小さく頷いたおねーちゃんを先導して、あたしは再び歩き始めた)
……………………
日菜(つぐちゃんに遭遇して以降は誰にも会うことなくあたしたちは家にたどり着いた)
日菜(おねーちゃんはリビングでおかーさんと一言二言話すと、あたしから渋々といったようにギターを受け取って、自分の部屋に向かっていった)
日菜(おかーさんはそれを悲しそうな目で見送って、あたしはそれに『大丈夫だよ、おねーちゃんはあたしが絶対に元のおねーちゃんにするから』と根拠もなく言い張るしか出来なかった)
日菜(それからあたしも自分の部屋に足を運び、先ほどの行動をつぐちゃんに説明するために電話をかける)
日菜(5つ目のコール音の途中で電話は繋がった)
つぐみ『はい、羽沢です。日菜先輩ですか?』
日菜「うん、そーだよ。さっきはごめんね、つぐちゃん」
つぐみ『い、いえいえ、ちょっとびっくりしちゃっただけですから』
つぐみ『……紗夜さん……何かあったんですか?』
日菜「うん、実はね……簡単に言うと、記憶喪失になっちゃったんだ」
つぐみ『え……?』
日菜(もうリサちーには話したことだからか、おねーちゃんの異変を実際に見られたからか、つぐちゃんの雰囲気がそうさせるのか)
日菜(分からないけど、あたしは特に深く考えるまでもなくおねーちゃんの状況を口にしていた)
つぐみ『そう……だったんだですね……。ごめんなさい、そんなところに出くわしちゃって……』
日菜「んーん、つぐちゃんが悪い訳じゃないよ。強いて言うなら、あたしの運が悪かったのかなーって感じ?」
日菜(つぐちゃんは全然悪くないのに……なんで謝るんだろ。変なの)
日菜(なんだかおかしくて……久しぶりに笑いそうだ)
日菜(つぐちゃんの雰囲気にあてられたのかな。ちょっとだけ、気持ちが軽くなった気がする)
日菜(……やっぱりおねーちゃんが仲良くしてるだけあるなぁ……)
日菜(なんとなくだけど、つぐちゃんに優しくなるのは分かるような気がする)
つぐみ『あの、私にもなにか協力できることって……ありますか?』
日菜「…………」
日菜(つぐちゃんに協力できること、か……)
日菜(おねーちゃんが理由もなく下の名前で呼ぶつぐちゃんなら……なにか変わるかもしれない……のかな)
日菜「……うん、助けが欲しくなったらお願いするね」
日菜(そう思って、あたしは前向きな答えをつぐちゃんに返していた)
つぐみ『はい、いつでも頼りにしてくださいね』
日菜「とりあえず今は……見てもらったから分かると思うんだけど、おねーちゃん、誰かに会うのが怖いみたいなんだ」
つぐみ『……ですね。帽子被ってるの、珍しいなって思ったんですけど……あれって人の目を避けるために被ってるみたいですね』
日菜「うん……。おねーちゃん、普段からマナーとかに結構うるさいんだけどね……今は家の中でも帽子、脱がないから……」
日菜「あたしもなんとかしてあげたいって思うんだけど……今のおねーちゃんにあたしは……ちょっと良くない存在だからさ」
つぐみ『え?』
日菜「……今でこそおねーちゃんもあたしに笑いかけてくれてるけどね……昔は……ね」
つぐみ『そんなこと……ないと思います』
日菜「……違わないよ」
つぐみ『違いますよ』
日菜「…………」
日菜(つぐちゃんから思いがけないほど強く否定されて、あたしは口を噤む)
つぐみ『紗夜さん、言ってました。日菜先輩はなんでも上手に出来て、自分と日菜先輩を比べて落ち込んでしまうって。でもそれは空回っているだけだって、私に諭してくれました』
つぐみ『紗夜さんは全部に一生懸命っていうか、真摯なんだと思います。だから、日菜先輩のことが嫌いとか、そういうんじゃないんだと……思います』
つぐみ『日菜先輩とも真正面から向き合おうとしているから、その途中だから、きっと上手く日菜先輩に接することが出来なくて……少し悩んでいるだけなんだと思います』
日菜「つぐちゃん……」
つぐみ『あっ、ご、ごめんなさい! こんな偉そうに話しちゃって……日菜先輩と紗夜さんの事情もよく知らないのに……』
日菜「……ううん、ありがと。なんかちょっと元気出た」
つぐみ『そ、そうですか? それなら……よかったです』
日菜(つぐちゃんは嬉しそうにそう言ってくれる)
日菜(誰かのためにここまで一生懸命になれるから……おねーちゃんも魅かれるのかなぁ)
日菜「うーん、つぐちゃんもやっぱりズルいなぁ」
つぐみ『えっ、ズルい……ですか?』
日菜「うん、ズルい。おねーちゃんと2人っきりでお買い物に行くし、それもつぐちゃんならしょーがないかーって気持ちにもなるし」
つぐみ『ええっ?』
日菜「あははっ」
日菜(よく分からない、って感じに困惑するつぐちゃんの声を聞いていたら、とうとうあたしは声を出して笑ってしまった)
日菜(こうして笑ったのはいつぶりだったっけ)
日菜(おねーちゃんが記憶をなくしてからずっと落ち込んでたけど……ちょっとだけ元気が出たような気がする)
日菜「でもそこまでつぐちゃんがおねーちゃんにラブだって知らなかったなぁー」
つぐみ『ラ、ラブ……!? そ、そういうのじゃないですよ、日菜先輩!』
日菜「あはは、冗談だよ~」
つぐみ『もう……何だか日菜先輩って、モカちゃんと似てるところありますよね』
日菜「そうだね、モカちゃんは『るん♪』ってするしあたしもモカってするからね~。つぐちゃんもつぐってばかりじゃなくて『るん♪』ってしてもいーよ?」
つぐみ『うう……ついにアフターグロウ以外の人からもつぐってるって言葉が……』
日菜「……つぐちゃんって面白いね。彩ちゃんを可愛くしたみたいな感じがするよ」
つぐみ『ア、アイドルの方より可愛いなんて、そんなことないですよ。それに、それは彩さんに失礼なんじゃ……』
日菜「へーきへーき! 彩ちゃんてすっごく面白いんだよ。何度やっても同じところでダンスの振り付け間違えるしっ」
つぐみ『えぇ……』
日菜「……ホント、ありがとね、つぐちゃん」
つぐみ『え、あ、はい。どういたしまして……?』
日菜「何かあったら、頼りにさせてもらうね」
つぐみ『……はい。いつでも頼りにして下さいね』
日菜「うん、ありがと。長々とごめんね」
つぐみ『いえいえ、そんな。紗夜さんにも、その、お大事にって……』
日菜「うん。言えるタイミングがあれば、つぐちゃんからって伝えてみるよ。もしかしたら何か思い出すかもしれないし」
つぐみ『はい、ありがとうございます』
日菜「んーん、こちらこそだよ。それじゃ、またね」
つぐみ『はい、失礼します』
日菜「……おねーちゃんも仲良しになる訳だなぁ……」
日菜(礼儀正しい言葉のあと、少し間を置いてから切れた通話)
日菜(控えめで、一生懸命で、他人のことを思いやれるつぐちゃん)
日菜(おねーちゃんが仲良しになるのも無理ないよ……)
日菜(あたしももっともっと頑張って、おねーちゃんの助けになれるようにしなくちゃ)
――――――――――――
2月10日
ついに退院となり、私は安寧の場所から追放された。
怖かった。人の目が怖い。
それらから逃れるために、日菜に帽子を持ってきてくれないかと頼んだ。何か詮索をされたりするかと思ったが、日菜はあっさりと「分かった」とだけ言って、帽子を用意してくれた。
それに対してまた私は分からなくなる。
病院からの家路、最も恐れていた事態が起こった。私の知らない私を知る人との遭遇だ。
私はただ身が竦んでどうすることも出来なかった。今すぐにその場から走って逃げだしたい、でも体に力が入らない。
そんな私の手を取って走り出したのが日菜だった。出くわした人物に対して一言謝ると、一目散に走ってその場をあとにした。
それに少し助けられたが、より私は分からなくなってしまう。
本当にあなたは日菜なの?
周りに対する気遣いが出来て、その場その場で人のことを考えた行動をとれる。そんな日菜は知らない。私の中の日菜と目の前にいた日菜のギャップが大きすぎて混乱する。
また、日菜は「まさかつぐちゃんと出会うとは」といったようなことを呟いていた。
つぐちゃん。呼び方から考えるに、私のスマートフォンにも連絡先が入っている「羽沢つぐみ」という人物だろう。
何故その人物と出くわすのがまずかったのか。彼女は私にとって何か大きな意味を持つ人物だったのだろうか。
メッセージアプリには彼女とのトーク履歴もある。だがそれは怖くて見れない。見ればきっと私はまた私に否定されるのだ。
同じ理由でギターも見たくなかった。ロゼリアでもいつも使っていたというエレキギターは、まさに私じゃない私の権化といってもよかった。
日菜に連れられて家に着くと、まずは私はそのギターを見えない場所に……押し入れに入れた。その際、買ってから数えるほどしか弾いていない、少し埃かぶったアコースティックギターを見つけた。
なんとはなしにそれを手にして、コードを押さえて弾いてみる。しばらく放置されていたからだろう、狂った調律はまるででたらめな不協和音を奏でた。
私はそれにひどく安心した。
ああ、このギターは私と同じなんだ。
いつかの私に忘れられ、調律もおかしくなり、狂った音を奏でる。そうだ、まさに今の私にふさわしいギターだ。
何もかも分からない世界で唯一の理解者……いや、知った顔に出会えた。そんな気持ちだ。
チューニングをしてから、1曲、確か2か月前くらいに発売された、たまに聞くアーティストの曲を奏でる。
在りし日の幻影を ハンガーにぶら下げて 多情な少年は出がけに人影を見る
去りゆくものに外套を着せて 見送る先は風ばかり
かじかむ指先でドアを開けて 未練を置き去りにして街に出る
繁華街で馴染みの顔と 音のしない笑い声 喧騒が静寂
楽しいと喜びが反比例しだして 意識の四隅に沈殿する
小さな後悔ばかりを うんざりする程看取り続けて
一人の部屋に帰る頃 どうでもいい落日が
こんな情緒をかき混ぜるから 見えざるものが見えてくる
幽霊 夕暮れ 留守電 がらんどうの部屋
曲の半分以上は朗読のポエトリーソングだ。
表題曲ではなかったが、きっと今の私にふさわしい。
――――――――――
―――――――
――――
……
日菜(おねーちゃんが退院してから5日が経った)
日菜(あたしは疎まれているとしても、何度もおねーちゃんの部屋に行って、色んなお話をした)
日菜(でも、おねーちゃんの記憶は一向に戻る気配がしなかった)
日菜(それどころかどんどん口数が減って、塞ぎ込んでいってるみたいだった)
日菜(みんなでご飯を食べてる時もおねーちゃんは自分から言葉を発しない)
日菜(何か聞かれれば『はい』か『いいえ』だけで答える。それだけだった)
日菜(そしてご飯の時とか以外では、ずっと部屋に籠りっぱなしだ)
日菜(たまにおねーちゃんの部屋からアコースティックギターの音色が聞こえてくる)
日菜(でもそれはなんだか悲しい音に聞こえて、あたしの胸はきゅっと締め付けられる)
日菜(このままじゃ駄目だ)
日菜(だけどどうすればいいんだ。どうしたらいいんだ)
日菜(焦るだけで何もいい考えが浮かばなかった)
日菜(それでもあたしまで落ち込んでたらおねーちゃんだって良くならないはずだ)
日菜(せめて、いつも通りに明るく接しなくちゃいけない)
日菜(……今日はおねーちゃんが退院してから初めての検査の日だ)
日菜(それで何かが変わるような発見があれば……)
――病院――
医者「記憶の回復について、なんですが……」
日菜(おかーさんと一緒におねーちゃんを病院に連れてきて、無事に検査が終わった)
日菜(その検査のあと、あたしとおかーさんはお医者さんに呼び止められた)
日菜(おねーちゃんの記憶のことだろう。だけど今のおねーちゃんを1人にする訳にはいかなかった)
日菜(おかーさんは『日菜が聞いた方がいい』と、おねーちゃんを連れて先に病院を後にしていた)
日菜(そしてお医者さんから開口一番に言われた言葉はやっぱり記憶に関してのことだった)
医者「本日の検査でも脳に異常はなく、少し腫れていた患部ももう元通りに治っています。ですので、本来であれば記憶はすぐに戻るでしょう」
日菜「……はい」
医者「……どの人も記憶が戻るのは喜ばしいことで、自ら率先して記憶を取り戻そうとします。自分の過去に関連するものに触れて、なくした記憶を想起しようとします」
医者「ですが……紗夜さんは自身の過去に触れることを、過去の自分に向き合うことを極端に怖がってしまっています」
医者「このままだと、恐らく記憶は戻らないでしょう」
日菜「…………」
医者「こうなってしまうと、もう私の分野外です。なので心療内科での診察をお勧めします」
医者「こちら、私からの招待状ですので……どうしようもない状況なら、ここへかかってみてください」
日菜「……わかりました。ありがとうございます」
日菜(お医者さんから紹介状を受け取る)
日菜(受け取ったけど、こんなものがあってどうなるんだ)
日菜(言ってしまえば、匙を投げられたんだ)
日菜(何かが変わるかもしれない、なんていう期待はあっけなく踏みにじられたんだ)
日菜(そうなんだ。結局全部おねーちゃん次第なんだ)
日菜(あたしに出来ることなんて本当にちっぽけで、おねーちゃんの助けにもなれず頼りにもされない)
日菜(小さなころからよく天才だとかなんだとか言われていた)
日菜(でも……それがなんだって言うんだ)
日菜(こんな時におねーちゃんの力になれない。それどころか苦しめてる)
日菜(あたしは無力で小さな人間だ)
日菜(それが……悔しかった)
日菜(悔しくてしょうがなかった)
日菜(俯いて1人病院を後にする)
日菜(だいぶ西へ傾いた太陽があたしの目の前に影を作る。それがなんだか癪に障った)
日菜(地団駄を踏むみたいに、その影を力任せに踏みつけた)
日菜(ダン、っていう音が響いた。それだけだった)
日菜(大きく打ち付けた足が少し痛くて、余計に虚しくなった)
日菜「……っ」
日菜(気付くと視界が滲んでいた。俯いてそれが零れ落ちないように堪える)
日菜(だけど駄目だった。足元のアスファルトにポツポツと黒い染みが出来る)
日菜(……あたしが泣いてどうするんだ。こんなことでどうするんだ)
日菜(今、1番辛いのはおねーちゃんなんだ。せめて明るく接しようって決めたんだから)
日菜(止まれ。泣いてる暇なんてどこにもないんだから)
日菜(……そう思うほど、あたしは無力なんだと痛感させられる)
日菜(空元気を見せることしか、泣くことしか、あたしにはできないんだ)
日菜(もう嫌だ)
日菜(どうすればいい、どうすればいいの。どうすればおねーちゃんは笑ってくれるの)
日菜(考えても考えても考えても、答えなんて出てこなかった)
日菜(気付くともらった紹介状が握りしめられた拳の中でくしゃくしゃになっていた)
日菜(……でも、だからなんだっていうんだ。こんなのでおねーちゃんが救えるもんか)
つぐみ「……日菜先輩?」
日菜(もう全部、何もかも投げ捨ててしまいたい)
日菜(自暴自棄な気持ちが膨れ上がり始めた時、つぐちゃんの声が聞こえた)
日菜(あたしは1度だけ袖で目元を拭って顔を上げた)
つぐみ「……どうかしたんですか?」
日菜「ど、どうもしないよ。つぐちゃん、学校帰り? あたしはちょっと西日が眩しくってさ、あはは」
つぐみ「嘘……ですよね」
日菜「……嘘じゃないよ」
つぐみ「嘘です」
日菜「……嘘じゃないよっ!!」
日菜(思わず張り上げてしまった声につぐちゃんが怯むのが見えた)
日菜(ああ駄目だ。駄目だよ。関係ないつぐちゃんに八つ当たりなんかしてどうするんだ)
日菜(そう思っても、口火を切った気持ちは次々と溢れ出てくる)
日菜「嘘じゃないんだよ、全部っ!!」
日菜「あたしはおねーちゃんに嫌われてて、だから助けてあげられなくって、1番おねーちゃんを傷付けたのはあたしで、どうしたらいいか分かんなくてっ、でもあたしが助けなきゃいけないんだっ!!」
つぐみ「日菜先輩……」
日菜「どうしたらいいのか分かんないよ、あたしは、もうどうしたらいいのっ、どうしたらおねーちゃんは元に戻るのっ!?」
日菜「どうしたらっ……どうしたら……おねーちゃんは笑ってくれるの……?」
日菜(みっともない。情けない)
日菜(気持ちを吐き出した自分に抱いた気持ちはそれだけだった)
日菜(いたたまれなく頭を垂れる。足元のアスファルトには黒い斑点がポツポツと付いているのが見えた)
日菜(それはあたしの無力さの何よりの証拠だ。そう思うとまた涙が滲んできた)
日菜(もう……いい)
日菜(もういっそ、涙なんて全部零れて、枯れちゃえばいいんだ)
日菜(隣り合わせの絶望に、背中合わせの自暴自棄に、身を投げちゃえばいいんだ)
日菜(そう思ったあたしの体がふわりと温かいものに包まれる)
日菜(……ほとんど身長の変わらないつぐちゃんに抱きしめられているんだ、と理解するのに少しかかった)
日菜「……つぐちゃん?」
つぐみ「ごめんなさい。どうしたらいいか分からなくて……泣いている蘭ちゃんに、巴ちゃんがこうしてたなって思って」
日菜「…………」
つぐみ「その、私なんかが口を出していい問題じゃないかもしれません。でも、駄目です、日菜先輩。1人で全部抱え込んじゃ……駄目です」
つぐみ「日菜先輩、言ってたじゃないですか。何かあったら頼りにするって。今がまさにそうする時……だと私は思います」
日菜「…………」
日菜(つぐちゃんの制服からは微かにコーヒーの匂いがした。それに混じってシャンプーのほのかな香りも漂ってくる)
日菜(その香りが、なんだかあたしを落ち着かせてくれたような気がした)
つぐみ「私も、その、頑張り過ぎちゃって倒れたりとかってしますから……日菜先輩の気持ちもちょっとだけ、分かると思います」
つぐみ「もっと頑張らなくちゃ、みんなに置いていかれないようにしなくちゃ、って焦っちゃうんですよね」
日菜「……うん」
つぐみ「それは考えすぎだって、紗夜さんに言われたことがあります。私は、確かにその通りだなって思いました」
つぐみ「アフターグロウのみんなに置いていかれるかもって……よく考えたら、誰かが遅れそうなら、きっとみんな立ち止まって待っててくれますから」
日菜「……うん」
つぐみ「それと一緒だと思うんです。日菜先輩は1人じゃないです」
つぐみ「イヴちゃんとか、パスパレのみんながいるじゃないですか。リサ先輩だって、ロゼリアの方たちだっているじゃないですか」
つぐみ「もちろん私だって……力不足ですけど、いますから」
日菜「……うん」
つぐみ「だから、1人で塞ぎこむのは駄目……だと思います」
つぐみ「きっと紗夜さんも――記憶をなくした紗夜さんも、いつもの紗夜さんも、日菜先輩が悩んで苦しむことなんて望んでないですよ」
日菜「……そっか」
つぐみ「きっとそうですよ」
日菜「……ありがと、つぐちゃん」
日菜「……もうへーきだよ」
つぐみ「あっ……、ご、ごめんなさいっ」
日菜(つぐちゃんはそう言ってから少し赤い顔をして体を離した)
日菜「あーホント……ズルいなぁーつぐちゃんは……」
つぐみ「えっ?」
日菜「ホントにあたしの1個下? 実は2歳くらいサバ読んでない?」
つぐみ「よ、読んでないですよ!」
日菜(つぐちゃんは焦ったように否定する。……やっぱりこういうところは1つ年下の女の子なんだな)
日菜(あたしもつぐちゃんみたいな優しさが欲しい。だけど、これはきっとあたしじゃどうやったって手に入れられないものなんだろう)
日菜(でも、何かが分かった気がする)
日菜(……きっと、おねーちゃんもこんな気持ちだったんだ)
日菜(どんなに頑張ったって、逆立ちしたって手に入らない)
日菜(つぐちゃんのあったかい優しさは生まれついてのものなんだ。それと同じものは絶対に手に入らない)
日菜(……そうだ、おねーちゃんもきっとそういう気持ちだったんだ)
日菜(あたしは大体のことは何でも出来る)
日菜(双子のおねーちゃんはずっとそれと比較されてきた)
日菜(どんなに頑張ったって、どんなに願ったって、おねーちゃんはあたしにはなれない)
日菜(常に先をいくあたしを見て、新しいことに挑戦して、それでも後追いのあたしが追い抜かしちゃう)
日菜(だからおねーちゃんは苦しんでいたんだ)
日菜(負けたくないけど、負けちゃって、どうしたらいいか分からなくて、それでも向き合わなくちゃいけないって、苦悩を重ねてたんだ)
日菜(そうだ……あの秋の時点で、あたしはおねーちゃんの悩みを根っこのところから理解していなかったんだ)
日菜(ただ、昔みたいに仲良しに戻れるって……浮かれてただけなんだ)
日菜(……ごめんね……本当にごめんね……おねーちゃん)
日菜(今度は……あたしの番なんだ)
日菜(どんなに辛くたって、おねーちゃんと向き合うんだ)
日菜(おねーちゃんがあたしにそうしてくれたみたいに)
日菜(辛くて苦しくて、どうしていいか分からなくなっても向き合おうとしてくれていた、とっても強いおねーちゃんみたいに)
日菜「……ホントにありがとね、つぐちゃん。あたし、こんなことでへこたれてる暇なんてなかったよ」
つぐみ「……いえ、日菜先輩の力になれたならよかったです」
日菜「それと……もう1つ、お願い聞いてくれないかな?」
つぐみ「はい、私に出来ることでしたら」
日菜「おねーちゃんに……会ってみてくれないかな?」
――――――――――――
2月15日
今日は病院での検査があった。
結果は異状なし。何も変わらず、私は私のままでいるようだった。
……相変わらず外を出歩くのは怖い。異常がないのなんて分かりきっているのだから、わざわざ病院に行く必要があったのだろうか。
ただ、心配そうな顔をする母と……日菜がそれで安心するというのなら、私はそれに従うしかない。
日菜といえば医者から話があるというので1人病院に残っていた。帰って来てから私の部屋に来たが、少しその目が赤かった。日菜でも泣くことがあるのね、と思ったが、いつも通り……いや、今日に限ってはいつも以上に明るく馴れ馴れしかったあの子のことだから、目に砂が入ったとかそういう理由かもしれなかった。
私は病院の検査が終わると、今日も1人部屋にこもる。そして決まって西日の射しこむ時間に曲を奏でた。
西日とアコースティックギターだけが今の私の理解者……友人だった。
ここ数日は、5日前に弾いたアーティストの曲ばかりを聞き、弾いている。
昔は暗い歌ばかり歌うアーティストだと思っていた。いや、今もそう思う。ただそれが今の私には妙に心地いい。
だが雨がテーマになっている曲は聞きたくなかった。雨音を聞くと、頭の中がうずき、胸の中がよく分からない感情で満たされて張り裂けそうになるからだ。
私は今日もギターを奏でる。
さよなら さよなら 思い出なんて消えてしまえ
どうせ明日が続くなら 思い出なんていらないよ
この足を重くするだけの感傷なら どぶ川に蹴り捨てた
ギターに没頭している時だけ、私はどこか救われた気持ちになっていた。
ただそれでも無性に泣きたくなる。歌詞に心を合わせているわけでもない。
なんでだろうか。分からない。
――――――――――
―――――――
――――
……
――氷川家 紗夜の部屋の前――
日菜「ごめんね、急で」
つぐみ「いえ、大丈夫です。私も紗夜さんの力になりたいですから」
日菜(日曜日のお昼前、あたしはつぐちゃんを家に招いていた)
日菜(3日前の病院からの帰り道でのお願いに、つぐちゃんは2つ返事で頷いてくれたからだ)
日菜(早速つぐちゃんの厚意に甘えちゃったけど、それでもつぐちゃんは頼られたことが嬉しいかったのか笑顔で家までやって来てくれた)
日菜「……一応、もう1回念を押しておくけど……」
つぐみ「……大丈夫ですよ。この前も言いましたけど、紗夜さんは本当は優しい人だって知ってますから」
日菜「ん……ありがと」
日菜(おねーちゃんのために力を貸してくれるのは嬉しかった。でも、それでつぐちゃんまで傷付いちゃうのは誰も望んでいないと思った)
日菜(だから、病院からの帰り道に、つぐちゃんにはこう言っていた)
日菜(「今のおねーちゃんは人が怖いみたいで、もしかしたらつぐちゃんに酷い言葉を投げたりするかもしれないよ。それでも……来てくれる?」と)
日菜(でもそれを聞いてもつぐちゃんは『紗夜さんは優しい人だって知ってますから』と笑顔で言うだけだった)
日菜(それが頼もしい反面、絶対に敵いっこない優しさにちょっとだけ自分が情けなくなった)
日菜(でもそんなの、おねーちゃんのためと思えばどうでもいいものだった)
つぐみ「紗夜さんはお部屋ですか?」
日菜「うん。……最近は、ご飯の時とか以外はずっと、ね」
つぐみ「そう……なんですね」
日菜(自分のことみたいに人の痛みを分かってあげられるつぐちゃん)
日菜(だからこそ、もしかしたらおねーちゃんは変わるかもしれない)
日菜(この前、つぐちゃんが言った言葉がずっと胸の中にあった)
日菜(『紗夜さんも――記憶をなくした紗夜さんも、いつもの紗夜さんも』)
日菜(あたしはどんなおねーちゃんもおねーちゃんだと思って接していた)
日菜(……もしかすると、この考えがおねーちゃんを傷付けていたのかもしれない)
日菜(おねーちゃんが『怖い』って言ったこと、『あなたは誰を見ているの?』って聞かれたこと)
日菜(それがつぐちゃんの言葉で1つに繋がって、おねーちゃんの抱える不安をはっきりさせてくれたような気がする)
日菜(だけど、相変わらずあたしは人の気持ちを考えるのが下手だ)
日菜(分かりかけた答えも掴みかけたヒントも、もしかしたらあたしのせいで全部台無しになっちゃうかもしれない)
日菜(だから、きっかけをくれたつぐちゃんを信じて、託してみたくなった)
日菜「それじゃあ、ちょっとおねーちゃんに声かけてくるね」
――コンコン
日菜「おねーちゃん、日菜だよ」
紗夜『……開いてるわよ』
日菜「うん、入るね」
日菜(一声かけてから部屋の中に入る)
日菜(おねーちゃんの部屋はカーテンが閉められていて、まだお昼前なのに薄暗かった)
日菜(おねーちゃんはベッドに腰かけて、アコースティックギターを膝に抱えて、イヤホンで何かの音楽を聞いていたみたいだった)
日菜「ごめんね、ギター弾いてる時に」
紗夜「……いえ」
日菜(よく見るとベッドの上にまっさらな楽譜とシャープペンシル、それとあたしがあげたつば広帽子があった)
日菜(もしかしたら歌を楽譜に起こしていたのかもしれない。だけどおねーちゃんはほとんど喋らないからそれが正しいのかは分からなかった)
日菜「今日はどう? どこか痛いとかない?」
紗夜「……別に」
日菜「ん、そっか。よかった」
日菜(いつも通りの返事だ。顔色もいつもと変わらない、記憶をなくしてからのおねーちゃんだった)
日菜(この状態を『いつも通り』なんて言えちゃうのが……やっぱ辛いな)
日菜(でも、今はそんなことを考えてる場合じゃないんだ)
日菜「……おねーちゃん、実はね」
日菜(口の中が渇いてて声が出しづらい)
日菜(もしかしたら、これはおねーちゃんに悪影響を及ぼすことかもしれない。取り返しのつかないことになったらどうしよう)
日菜(今さらそんな弱気なことが頭の中に浮かんでくる)
日菜(でもここで何もしなかったらずっとこのままかもしれない)
日菜(それだけは絶対に嫌だ)
日菜「今日は、会ってほしい人がいるんだ」
紗夜「……っ」
日菜「つぐちゃん……羽沢つぐみちゃんって言うんだ。すっごく優しくて、あったかくて、面白い子なんだ」
日菜(つぐちゃんから貰った大事なヒント。それを考えて、慎重に言葉を選んだ)
日菜(……今のおねーちゃんは違うんだ、色んな人と交流して、自分を認めてくれたおねーちゃんではないんだ。それをあたしが認めなくちゃいけないんだ)
紗夜「…………」フルフル
日菜(おねーちゃんは言葉が出ないのか、血の気が引いて青白くなった顔を横に振るだけだった)
日菜(その姿を見ると今すぐにでもつぐちゃんと会うのは中止にして、おねーちゃんを安心させてあげたくなる)
日菜(……でも、それはただの問題の先延ばしなんだ)
日菜「……もう、呼んであるんだ。入ってもらうね」
紗夜「……だ、……て」
日菜(小さくかすれた声がおねーちゃんの口から漏れる。きっと拒絶の言葉だ)
日菜(それは分かるけど、でも、ごめんなさい)
日菜(あたしは人の気持ちが分からない子だから、ごめんなさい。おねーちゃんがきっと苦しむだろうなってことだって平気でしてしまえるんだ)
日菜「入っていーよ、つぐちゃん」
つぐみ「……失礼しますね」
日菜(遠慮気味につぐちゃんが部屋に入ってくる。その姿を見るより早く、おねーちゃんは傍に置いてあったつば広帽子を慌てて被って、顔を俯かせていた)
つぐみ「初めまして、ですよね」
紗夜「……っ」ビク
つぐみ「私は、羽沢つぐみって言います。羽丘女子学園の1年生で、生徒会の役員もやってるんですよ」
紗夜「…………」
つぐみ「ピアノとキーボードもやってて、アフターグロウっていうバンドを幼馴染と組んでます」
紗夜「…………」
つぐみ「……ギター、好きなんですか?」
紗夜「…………」
日菜(おねーちゃんは答えない。どうすればいいのか分からない、というみたいに、つば広帽子が少し左右に揺れていた)
つぐみ「あ、その、急でびっくりしちゃいましたよね。ごめんなさい」
つぐみ「日菜先輩から聞いたんです。その、とっても素敵なお姉ちゃんがいるから、是非会ってほしいって」
紗夜「…………」
つぐみ「名前、聞かせてもらえませんか?」
紗夜「…………」
つぐみ「…………」
紗夜「……紗夜」
つぐみ「紗夜さん、っていうんですね」
紗夜「…………」
日菜(おねーちゃんからの答えはなかった。でも、一言だけでも返事をしてくれた)
日菜(それだけでも前に進めたんだ)
……………………
つぐみ「紗夜さん、ほとんど無反応でしたね……」
日菜「んーん。一言だけでも大きな1歩だと思うよ」
日菜(おねーちゃんの部屋での短い時間を過ごしたあと、あたしの部屋につぐちゃんを招いた)
日菜(結局おねーちゃんが返事をしたのは名前を名乗った時だけで、あとはつぐちゃんに話しかけられてもずっと黙ったままだった)
つぐみ「そうですかね……」
日菜「そーだよ。だって今のおねーちゃん、きっと誰かに会っても何も喋らないって方が普通だもん」
つぐみ「……それはそれで……悲しいですね……」
日菜「……うん。でも、つぐちゃんには喋れたから、きっといい方に向かうと思うんだ」
日菜(これは希望的な観測なのかもしれなかった)
日菜(おねーちゃんが進めた1歩は本当に小さな1歩で、虫の歩みのようなものだったのかもしれない)
日菜(でも、それはあたしが1週間以上かけても動かせなかった1歩だ)
つぐみ「日菜先輩……また紗夜さんに会いに来ても平気ですか?」
日菜「……いーの?」
つぐみ「はい。今の紗夜さんを……あの姿を見たら、放っておけないですから」
日菜「そっか、ありがと。つぐちゃんはホントに優しいね」
つぐみ「そんなことないですよ」
日菜「そんなことあるよ」
つぐみ「そうですかね?」
日菜「そうだよ。ふふっ」
日菜(変な押し問答をしてるうちに笑ってしまった。つぐちゃんも遠慮気味に笑っていた)
日菜(肩にずっと入っていた力が抜けた気がした)
つぐみ「それにしても、紗夜さんってアコースティックギターも弾くんですね」
日菜「うん、昔に、ギター始めたばっかりの頃に買ってた」
日菜「……それを今手元に置いてるのは、エレキギターを見るとロゼリアのことを考えちゃうからみたいなんだけどね」
日菜「ギターどうしたのって聞いたら押し入れにしまってあるって言ってたし」
つぐみ「そうなんですね……。今も自分の音、探してるのかな……」
日菜「つぐちゃん、おねーちゃんが自分の音を探してるって知ってるの?」
つぐみ「あ、はい。ウチでお菓子教室開いた時にそんな話をしました」
日菜「ふーん、そうなんだ」
日菜(そっか……つぐちゃんが羨ましいな)
日菜(きっと付き合いも浅いのに、そんな信念のことまで話せるくらいに心を許してるんだ)
日菜(もしつぐちゃんみたいになれたら、おねーちゃんもあたしのことを好きになってくれるかな)
日菜(……なんて、何をおかしなことを考えてるんだろ)
日菜(みんな、同じなんだ。みんな同じで、違うんだ)
日菜(あたしがあたしにしかなれないみたいに、おねーちゃんはおねーちゃんにしかなれなくて、つぐちゃんはつぐちゃんにしかなれないんだ)
日菜(きっと世界中のみんなが同じで、違うんだ)
日菜(彩ちゃんが面白いって思うのと、みんながあたしのことを天才だとかよく分からない人だなんていうのもきっとそのせいだと思う)
日菜(あたしにとっての大発見だけど……もしかしたらこれって、当たり前のことなのかなぁ)
日菜(でも……何かが分かったような気がするし、いいや)
日菜(これからは今まで以上におねーちゃんのことを理解して、助けてあげられそうな気がする)
日菜(だから、それだけでいいや)
――――――――――――
2月18日
心境の変化というものはあらゆるものに対する印象を変えるのだと思った。
いつか聞いた音楽もその時の気持ちによって受け取り方が変わるものだ。
いずれにしても立ち去らなければならない 彼女は傷つきすぎた
開かないカーテン 割れたカップ 流し台の腐乱したキャベツ
あのアーティストの、自虐家の少女を歌った曲だ。前に聞いた時はただ切ないという印象を抱いたが、今日、歌を聞きながら楽譜に起こしていると、なんて優しい歌なんだろうかという印象を抱いた。
いつものように日菜が部屋にやってきたのは、その作業中だった。
ただ、その日は少し様子が違った。日菜は私に会わせたい人がいると言ったのだ。
その言葉に私は戦慄した。
嫌だ。
またきっと私は否定される。
ただただそれが怖かった。
……だが、私が危惧した恐怖はやってこなかった。
日菜が部屋に招き入れたのは羽沢つぐみという少女だった。
彼女は私に対して、「初めまして」と言った。
最初は解せなかった。何を言っているんだ。あなたは私の知らない私を知っているんだろう。初めましてなんかじゃないはずだ。
…………
少し考えてから、それが『私』に言われた言葉なんだと気付いた。気付いてから、不思議な気持ちになった。
やっと私は誰かに見つけられたんだ、という安心
もしかしたら裏切られるかもしれない、という不安
彼女も私ではない私に会いたくて初めましてなんて言ったのかもしれない。結局のところ私はやっぱり必要とされていないのかもしれない。でも私を私と認めてくれたことが嬉しい。
正反対のものが胸の中でない交ぜになった。羽沢つぐみに対してどういう反応をしたらいいのか分からなかった。
そうして黙り込む私に対し、羽沢つぐみは何度も声をかけてくれた。
しかし結局私は自分の名前を名乗ることしか出来なかった。
それでも彼女はめげなかった。その姿が眩しかった。
どうして私に対して、こんな面倒な事情を抱えた人間に対して、そこまで親身になれるのだろうか。考えても考えても分からなかった。
ただ、ほんの少しだけ、暗がりに光が射したような気がした。
それは風前の灯火のように頼りなく、どちらが前かも分からない暗闇を晴らすには弱すぎる光だ。それでも、それだけあれば少しは足を動かしてみようかと思えなくはない。
……私はどうしたいのだろうか。
楽譜に書き起こした歌詞を見て思う。
あの人が愛した 父さんが愛した
この海になれたら 抱きしめてくれるかな
今でもずっと愛してる
明日の私はこれにどういった気持ちを抱くのだろうか。
――――――――――
―――――――
――――
……
日菜(おねーちゃんの元につぐちゃんを招くようになってから1週間が経った)
日菜(最初こそおねーちゃんはつぐちゃんに何も反応しなかったけど、2回、3回と顔を合わせるうちに、あたしと同じように言葉を交わせるようになっていた)
日菜(その変化はとっても小さなものだったかもしれない)
日菜(それでも、焦る必要なんてないんだ)
日菜(つぐちゃんが言ってたように、おねーちゃんに合わせて、時には立ち止まって、時には手を引いて、ゆっくり進めればいいんだ)
日菜(……きっと、あたし1人だけでいたら、どうしていいか分からなくて破れかぶれの自暴自棄な気持ちになってただろうな)
日菜(だけど今は隣につぐちゃんがいてくれた)
日菜(他にも事情を知っているロゼリアのみんなもいる。理由も話さなかった自分を信じてくれたパステルパレットのみんなもいる)
日菜(そう思うだけで、あたしはへこたれずに頑張れる)
日菜(だからきっとおねーちゃんも同じなんだ)
日菜(おねーちゃんにもあたしと同じように頼れる人がたくさんいるんだ)
日菜(少しだけでも、自分に、なくした過去と未来に、世界に向き合うきっかけがあれば、きっとすぐにおねーちゃんの記憶だって回復するんだ)
日菜(確かな根拠なんてない。でもそれを信じられる)
日菜(あたしもおねーちゃんも1人じゃない。そう思うだけで)
日菜(あたしは今日もおねーちゃんの部屋に足を運ぶ)
日菜(今日はつぐちゃんが来れないからおねーちゃんと2人っきりだ)
日菜(……前までは、重苦しい気持ちで部屋のドアをノックしていたと思う)
日菜(でも今はちょっと違った。楽しむ余裕があった)
日菜(今日はどんなことを話そうかな)
日菜(そう考えながら、あたしはおねーちゃんの部屋をノックする)
――――――――――――
2月25日
どうすればいいのか、ではなく、どうしたいのか。
それをこの1週間ずっと考えていた。
相変わらず日菜は毎日私に会いに来た。
羽沢さんも4回ほど、日菜と共にやってきた。
それが何のためだったのか、少し考える。
私のため。それはどちらの私のためなんだろうか。
ずっと考えていた。ずっと考えていたけれど、分からなかった。
最後にはどっちでもいいような気がしてきた。
つまるところ、日菜はずっと私のために行動していたのだ。
羽沢さんも同じだろう。そう思うようになったのは3日前だった。
私はどうしたいのだろうか。
いつまでも部屋に籠ってギターを抱えているわけにもいかない。
もう学校に行かなくなって20日近く経っていた。日菜もきっと学校を休んで私に付きっきりなんだろう。パステルパレットというバンドの活動も休んでいることだろう。
そう思うと自分の小ささを強く痛感させられた。
日菜はこんなにも、私のことを考えてくれていたのだ。
自分の事情をすべて差し置いて、私を優先していたのだ。
私はそんな日菜に対して一方的な劣等感を抱き、拒絶していた。常に手を差し伸べてくれていたあの子を見放していたのだった。
それに気付くと足元が崩れて深い闇の中に落ちていくような感覚がした。なんて自分勝手で矮小な考えで私は生きてきたんだろうか、と。
けど、そこへだってきっと日菜はやってきて、私の手を引いて、無理矢理にでも光の指す方へ連れ出そうとするだろう。
あの子はいつだってそうしていたんだから。
……だから、全部が自分次第なんだ、と思った。
私はどうしたいのか。
これ以上日菜に面倒をかける訳にはいかない。
羽沢さんだってそうだ。本来、彼女はきっと私の交友関係の1人、というだけのはずだ。いつまでも彼女の優しさに甘える訳にはいかない。
どうしたいのか。……いや、答えにはとっくに行きついていたはずだ。
向き合うんだ。自分の知らない自分と、それを知る人たちと。
怖いけれど、向き合うんだ。勇気がないなら、またギターを奏でればいい。
近付けば遠くなるカシオピア 今は笑えよ スターライト
いつか全てが上手くいくなら 涙は通り過ぎる駅だ
珍しく前向きな歌だ。安っぽい歌だと言う人もいるだろう。
それでも、そんな歌が私の背中を押してくれる。私が望む未来へと。
――――――――――
―――――――
――――
……
――紗夜の部屋――
日菜「え……いいの?」
紗夜「……聞きたくないのなら、別に……」
日菜「ううん、そんなことないよ! 聞きたい! 絶対聞く!」
紗夜「…………」
日菜「えへへ、おねーちゃんからそう言ってくれるのって珍しーね! 楽しみだなぁ、おねーちゃんのギター!」
日菜(いつも通りにおねーちゃんの部屋にやってくると、『私のギターを聞いてくれないか』とおねーちゃんに言われた)
日菜(色々と考えなきゃいけないことがあった。どうしておねーちゃんがそう言ったのか、なにか伝えたいことがあるんじゃないか、と)
日菜(でもそんな考えもすぐに消えてなくなった)
日菜(……おねーちゃんがあたしの方に歩み寄ってくれた)
日菜(それだけで天にも昇るくらい嬉しかった)
日菜「……えへへへ」
日菜(口元が自然と緩み顔がにやける)
日菜(でも仕方ない。おねーちゃんが声をかけてくれた。ギターを聞かせてくれるって言った)
日菜(それが嬉しくて嬉しくてしょうがないんだから)
紗夜「…………」
日菜(おねーちゃんはあの帽子を被ってるから表情は分からなかった)
日菜(隠れた顔が困ったように笑っていてくれたらなぁ)
日菜(ああ、それとおねーちゃんが気に入ってる帽子はあたしが用意してあげたんだよって誰かに自慢したいなぁ)
日菜(すっごく久しぶりだなぁ、なんだか『るんっ♪』ってするの!)
日菜「おねーちゃん、どんな曲弾くの?」
紗夜「……最近よく聞く曲よ」
日菜「あたしも知ってる曲かな?」
紗夜「……いいえ、知らないと思うわ」
日菜「そっか! 楽しみだなぁ~!」
日菜(これでロゼリアの曲を弾いてくれればな、なんて思わなくもなかった)
日菜(でもおねーちゃんがあたしを見てくれただけでもうすごい嬉しい。そんなちっちゃなことなんてどーでもいいや!)
紗夜「じゃあ……弾くわよ」
日菜「うんっ!」
日菜(あたしは頷いて、ベッドに腰かけるおねーちゃんの正面に椅子を持ってくる)
日菜(そしてそこにお行儀よく腰かけた)
日菜(どんな曲を弾いてくれるんだろうなぁ~、楽しみだなぁ~っ)
日菜(……こんな気持ちになったのはいつ振りか分からないくらいだった)
紗夜「…………」
日菜(おねーちゃんは深呼吸をしてから、ギターの弦を弾きだす)
紗夜「……幾時代かがありまして 悲しいことが起こりました」
日菜(そして静かな声で歌詞を紡ぎだす。あたしはそれにただ集中した)
日菜(この曲は何度か聞いたことがあった。いつかのおねーちゃんがたまに聞いていたり、口ずさんでいた歌だった)
強がる理由がなくなって 不幸ぶる理由もなくなって
本音の言葉で向かい合う そんな時が来たって気がするよ
涙流る 時も流る その速度より早く走り抜け
街は変わる 人も変わる 昨日報われなかった願いも 捨てないでよ
日菜(曲の終わりに向かうにつれて、おねーちゃんの歌声はだんだんと力強いものになっていった)
日菜(その歌詞の一字一句、ギターの1ストロークだって聞き逃すもんか)
日菜(あたしはそう思っておねーちゃんの歌声とギターに聞き入る)
過去から未来 繋ぐ実線 ミクロからマクロ帰結して
流転に物思う暇なく 有史以前と同じ風が吹く
時代の愛の価値移ろい 未来永久に過ぎ去る理
時代の愛の価値移ろい 離したくないと抱いたの何?
日菜(……そっか)
日菜(おねーちゃんの伝えたいことが分かった。そんな気がして、あたしは嬉しくなった)
痛みも全部無くなって 喜怒哀楽も全部無くなって
「平穏だ」なんて閉じこもる そんな毎日なんてくそくらえ
涙流る 時は流る そんな世界じゃ僕ら一瞬だ
急げ 急げ 急げ 急げ
紗夜「昨日笑われた君の本気も 捨てないでよ 君の番だよ」
日菜(おねーちゃんは最後まで歌い切り、大きくギターをかき鳴らす。その音が消えると、あたしは大きく拍手した)
日菜「やっぱりおねーちゃんってギター上手だね!」
紗夜「……ええ」
日菜(おねーちゃんは迷うぞぶりを見せてから、帽子を脱いだ。そしてあたしをまっすぐに見つめてくれた)
紗夜「日菜、その……」
日菜「……んーん。大丈夫だよ、おねーちゃん」
紗夜「…………」
日菜「あたしはおねーちゃんが元気になってくれるならそれで満足だし、前に進もうって思ってくれたなら、それだけでもういいよ」
紗夜「……ごめんなさい」
日菜「いいんだよ。向き合うって……決めたんでしょ? なら、いいんだよ」
紗夜「ごめんなさい、日菜……」
日菜「いいってば」
日菜(俯いたおねーちゃんはきっと涙をこぼしているだろう。その涙の意味も、謝罪の理由も、もうあたしは知ってるんだから)
日菜「あたしはへーきだよ。なにがあったって、あたしはおねーちゃんのこと、ずーっと大好きなんだから」
紗夜「日菜……っ」
日菜(俯いたまま肩を震わせるおねーちゃんをそっと抱きしめた。その体は思っていた以上に小さかった)
日菜(……こんなに小さな体で今までずっと戦ってたんだ)
日菜「辛かったよね。それでも頑張ってたんだよね」
日菜「……あたしの方こそ、今までホントにごめんね。おねーちゃんのこと、ずっと、ずっと傷付けてたんだよね」
紗夜「…………」フルフル
日菜(おねーちゃんは何も言わず、小さく首を横に振った)
日菜(それだけでもう十分だった。今でのあたしの全部が報われたんだ。そう思えた)
日菜「そしたらさ、もう少しだけ……一緒にがんばろーね、おねーちゃん。あたしに出来ることがあればなんでもするからさ」
紗夜「……ええ」
日菜(おねーちゃんは小さく頷いた)
日菜(もうおねーちゃんは大丈夫だろう。あたしの手助けなんかなくったってすぐに記憶を取り戻すだろう)
日菜(それでもあたしは、まだまだ、ずっと、おねーちゃんを助けられる存在でいたいんだ)
日菜(どんな小さなことだっていい。おねーちゃんを助けてあげられることを探そう)
日菜(そう思って、あたしは涙が止まるまでおねーちゃんを抱きしめ続けた)
――――――――――――
2月27日
今日、日菜にギターの弾き語りを聞かせた。
それには大きな意味があって、もしかしたら日菜はそれを汲んではくれないかもしれないという危惧があった。
しかし、心のどこかでは日菜を信じていた。きっと今の日菜ならば、私の気持ちを分かってくれるだろうという信頼があった。
おかしなものだ。そして、なんとも現金なものだ。
あれほど拒絶していた日菜を信頼して、こんな時だけ、自分の気持ちを分かってもらいたいだなんて。
しかし日菜はどうであったか。私の弾き語りを聞いて、それだけで、言いたいことも私の葛藤も全部分かってくれた。
まったく、本当にあなたは何でも出来るのね。そう思いもしたが、決して嫌な気持ちではなかった。むしろ、呆れたような、困ったような感情もあるが、それは嬉しいものだった。
ただ、日菜の胸で泣いてしまったことは今思い出すと恥ずかしかった。
その行動は姉としての威厳が微塵もない。素直に身を委ねたことを思い出す度に顔が熱くなる。
……それは今は置いておこう。
私は私自身に向き合うと決めた。だから失った記憶もさっさと取り戻してしまいたいし、遅れた分の勉強だって早くしなければいけない。
……さて、どうすれば記憶が戻るのだろうか。
やはり、私が私でなかった期間――いや、この表現はもうやめにしよう――私が大切にしていたという思い出にきちんと触れなければいけない。
恐怖心が完全に拭えたかというと未だにそんなことはなかった。だが頑なに目を逸らし続けるほどのものでは、もうない。
今の私となくした私の共通点はなんだろう。少し考えてから、やはりギターなのかしら、と思い至る。
そうだ、ギターだ。ギターを弾いて、歌を歌おう。
だがそれだけでは駄目だ。日菜がそうだったように、きっと2月の私は、色んな人に触れて考え方もずっと変わっているはずだ。誰かに触れなければいけない。
そうして考えているうちに行きついたのがロゼリアだった。
名前は知っている、だが顔は知らない彼女たちの前で演奏してみれば、触れてみれば、何かが変わるかもしれない。
よし、と自分自身に気合を入れる。まず手始めに何をすればいいか。そうだ、弾く曲を考えよう。そう思ったところで、ふと、スマートフォンが目についた。
そういえば、私が演奏したという曲がこの中には入っていた。記憶をなくしてから最初に触れて以降ずっと避けていたが、この曲たちにも向き合わなければいけないだろう。
プレイリストを開いて『ロゼリア』に分類されている曲目を見る。
カバー曲とオリジナル曲がいくつも並んでいて、そのうちの1つに目がとまった。
……Determination Symphony。
意訳すれば「決意の調べ」といったところか。
誰がどういう気持ちで誰に宛てて作った曲なのか、どういう意味を持つ曲なのかは知らない。いや、この場合は思い出せない、か。
だが今の私にはふさわしい曲名だと思った。
決意の調べ。
そうだ。私は向き合うんだ。日菜とも、忘れた過去とも、忘れてしまった人たちとも。そう決意したんだ。
ただこの曲はまだ弾けないし聞くこともしない。これは「ロゼリアの氷川紗夜」が聞いて、弾くべき曲だ。「記憶をなくした氷川紗夜」には少しもったいない代物に思えた。
何を演奏するのがいいだろうか。この曲がいいだろうか。あの曲がいいだろうか。
怖気づく気持ちもまだもちろんあるが、同時に少しの楽しさも感じられた。
それはきっと私は1人ではないと知ったからだろう。
――――――――――
―――――――
――――
……
――氷川家――
日菜「ふんふんふーん♪」
日菜(おねーちゃんの弾き語りを聞いた翌日、いつものようにあたしはおねーちゃんの部屋に足を運ぶ)
つぐみ「日菜先輩、今日はなんだかご機嫌ですね」
日菜(今日はつぐちゃんも一緒だった。それに笑顔で答える)
日菜「えへへ、昨日ね、おねーちゃんがギターを聞かせてくれたんだ」
日菜「おねーちゃんって普段はね、あたしにギター弾いてるところ見られるの嫌がるんだ。でも昨日は自分から『聞いてくれないかしら』って言ってくれてね、『るらるんっ♪』って感じだったんだ~!」
つぐみ「へぇ~、よかったですね、日菜先輩」
日菜「うん!」
日菜(頷きながらおねーちゃんの部屋の扉の前まで来て、少し悩む)
日菜(……今ノックをしないで部屋に入ったら、おねーちゃんはどんな反応をするんだろうか)
日菜(怒るかな? 呆れるかな? 仕方ないわね、って言って笑ってくれるかな?)
つぐみ「……入らないんですか?」
日菜「あ、ううん。ノックしないで入ったらおねーちゃんどんな反応するかな~って思ってさ」
つぐみ「そ、それは怒るんじゃないですか、紗夜さん……」
日菜「今のおねーちゃんになら怒られるのもいいかなぁ」
つぐみ「えぇ……?」
日菜「よし決めた! ノックしない! おねーちゃーん、日菜だよーっ!」
――ガチャ
紗夜「……ノックはきちんとしなさい」
日菜(ノックをせずに開いた扉)
日菜(あたしを出迎えたおねーちゃんは、いつものようにベッドに腰かけてギターを膝に乗せていた)
日菜(カーテンが開いた窓からは少し西に傾き始めた陽光が差し込んできてて、それが呆れたような顔をしてるおねーちゃんの足元と机の上に置かれたつば広帽子を照らしていた)
日菜「あれ、驚かなかった?」
紗夜「……あれだけ部屋の前で騒いでいれば分かるわよ」
日菜「そっかぁ~。おねーちゃんは何でもお見通しなんだねっ」
紗夜「はぁ……」
日菜(おねーちゃんは呆れたように小さくため息を吐いた。その反応が見れたのがすごく嬉しかった)
つぐみ「お、お邪魔します」
日菜(あたしの後に続いて、つぐちゃんも部屋に入ってくる)
日菜(おねーちゃんは窓の方へ顔を動かしかける。でも途中で思い直したように動きを止めて、ちょっと間を置いてからゆっくりつぐちゃんの方へと顔を向けた)
紗夜「……こんにちは、羽沢さん」
つぐみ「紗夜さん……」
日菜(そのおねーちゃんの姿につぐちゃんはびっくりしていたみたいだった)
日菜(あたしはそれを見て胸を張っていた)
日菜(向き合うと決断して、その通りにつぐちゃんから逃げなかったおねーちゃんの姿がすごく誇らしかった)
紗夜「今まで……顔も見せずにいて、ごめんなさい」
つぐみ「あ、いえ、そんな」
紗夜「いえ、謝らせてください」
紗夜「ずっと失礼なことをしていて、本当にごめんなさい。そして……ありがとうございます」
紗夜「あなたが私を見つけてくれたから……向き合おうと思えるようになりました」
つぐみ「……私は何もしてませんよ。紗夜さんが頑張ったからだと思います、それは」
紗夜「そんなことはありません。あなたに『初めまして』と言われて、やっと私は……歩けるようになりましたから。感謝してもしきれません」
つぐみ「そ、そうですか? そう言ってくれるなら……紗夜さんの力になれたならよかったです」
日菜(つぐちゃんはそう言ってはにかんだ。おねーちゃんはそんなつぐちゃんに穏やかな表情を向けている)
日菜(その姿を見て思う)
日菜(……つぐちゃんを頼りにして本当によかった)
日菜(あたし1人じゃおねーちゃんが向き合うようになるまでもっとたくさんの時間と苦労が必要だったと思うから)
日菜「そういえばおねーちゃん、向き合うってどんなことするのか決まった?」
紗夜「……ええ、決めたわ。私は……ロゼリアの前でギターを弾こうと思う」
日菜「なるほど、そうやって向き合うんだね!」
日菜(力強い言葉にとても嬉しい気持ちになった)
日菜(これと決めたらそれにまっすぐに、ひたむきになる。それはあたしが憧れるおねーちゃんの姿そのものだった)
日菜(きっともうおねーちゃんは大丈夫だ。おねーちゃんは世界で1番強くてカッコいい人だから、絶対にそれは上手くいくんだ)
日菜(それでもちょっとくらいなら……あたしが手助けをしてもいいよね?)
日菜「そしたらあたし、ライブハウス押さえるよ! あ、それからリサちーたちにも声かけなくちゃね!」
紗夜「……そうね。お願いできるかしら、日菜」
日菜(おねーちゃんは遠慮がちに頷いてくれた)
日菜(それを見て、聞いて、あたしはきっと自分が世界一の幸せ者なんだと思った)
日菜(そうやっておねーちゃんに頼られることをどれだけ望んでたか)
日菜(どれだけの時間、悩んで待ち焦がれていたか)
日菜(……でも、そんなことはもうどうだっていいや)
日菜「うんっ! 任せてね、おねーちゃんっ!」
日菜(世界で一番大好きなおねーちゃんの力になれる、頼りにされる)
日菜(それだけであたしは幸せなんだっ!)
――――――――――――
2月28日
今日は羽沢さんと向き合うことが出来た。
正直に言えば怖かった。帽子も被らず、彼女の顔を見るのがまだ怖かった。
帽子を被るべきか未練がましく悩んでいると、扉越しに日菜が大きな声を出しているのが聞こえた。
その能天気な声を聞いていると、無駄に難しく考えていた自分がバカみたいに思えた。
……よく考えれば、隣には絶対に日菜がいてくれるのだ。
あの子には絶対に言わないが、そう思うだけで私は今までよりずっと強くなれた気がした。
だから、羽沢さんともしっかり向き合うことが出来た。そして、今までの非礼を詫びて、お礼を言うことが出来た。
しかし、なんだろうか。羽沢さんと話をしていると前にもこんなことがあったような気がしてくる。
これが忘れた記憶のせいなのか、彼女の持つ雰囲気が私にそう思わせるのかは分からない。
ただ、悪い気はしなかった。……今はそれだけでいいと思う。
また、日菜と羽沢さんにもロゼリアの前で演奏する、ということを話した。
それを聞いた日菜は意気揚々とライブハウスを押さえてロゼリアのメンバーを誘うと言ってくれた。その言葉に素直に甘えてしまった。
まったく、私はあの子に頼ってばかりだ。記憶が戻ったらもっとしっかりしないといけない。いつまでも日菜に世話をかけさせていては駄目だ。
ライブの――いや、ライブというべきものなのか分からないが、とりあえずは便宜上、ライブの開催は来週の水曜日に決まった。
演奏するのは1曲だけだから、別に期間が短いとは思わない。その曲も、最初は難しいかと思ったが羽沢さんの協力を得られて、なんとか出来そうだ。
しかし……それにしても羽沢さんには頭が上がらない。
私を見つけてくれただけでも感謝のしようがないくらいのことなのに、今日から1週間、また私のわがままに付き合わせることになってしまった。
それでも彼女は笑顔で「紗夜さんの力になれるならなによりです」と言うものだから参ってしまう。
どうすれば羽沢さんに報いることが出来るだろうか。これも記憶が戻ったら最優先で考えなければいけない。
……ともあれ、先のことは先のことだ。
今は目先にある明確な目標をクリアするのが優先事項だ。
ただ、これで本当に記憶が戻るのかは分からない。
不安は多い。だが進むべきだ。
今はまだ、将来も未来も視界不良の道半ばなんだ。
目の前にあるのは記憶をなくした氷川紗夜の分岐点。行くか戻るかの分岐点だ。先は暗く見えないが、進まなければいけない。
もし上手くいかなかったら。考えるだけで気分が重くなる。吐きそうだ。
それでも、日菜と笑い合えたこの日々も、失くした日の痛みも、私は肯定する。
どこかに忘れ物をしたから、それを探しに行くんだ。
先がどうなるかは分からないが、私の旅は決して孤独なんかじゃなかった。
もしかしたら私を待ち受けるのは、美しき思い出ではなく悲しき思い出なのかもしれない。
でも大丈夫だ。どうなったって、きっと隣には日菜がいてくれる。
だから私なりに頑張ってみよう。
結果がどうなろうと、この日記を書くのは今日で最後にしよう。
ここが私の終わりで始まりだ。
――――――――――
―――――――
――――
……
紗夜(……日菜と羽沢さんに、ロゼリアのメンバーの前でギターを弾くと決意表明してから1週間が経った)
紗夜(私はライブで弾く曲を楽譜に起こして、それの練習をずっとしていた)
紗夜(日菜はそんな私の元へいつものようにやって来ては、応援しているつもりなのか邪魔をしているつもりなのか判断に迷うくらい、私にまとわりついてきた)
紗夜(羽沢さんは短い時間しか居れない日もあるが、ほぼ毎日私の部屋に来て、キーボードの練習を重ねた)
紗夜(そんな日々を振り返ると、自分の中に穏やかな感情が沸き起こるのを感じる)
紗夜(……そもそも自分は何故ギターを始めたのか)
紗夜(その理由は、なんでも上手に出来る妹と比較されるのが嫌で、ただ日菜に勝ちたいがためだとか、そんな風なものだった)
紗夜(だから私は今までギターの練習をしていても穏やかな気持ちになることなんてなかった)
紗夜(それに、そういう気持ちは高みを目指すためには不要なものだと思っていた)
紗夜(それが今や、日菜の前でも素直にギターが弾ける)
紗夜(羽沢さんが演奏ミスをしても、それに対して優しくアドバイスをして歩調を合わせられた)
紗夜(前までの自分だったらどうだっただろうか)
紗夜(きっと日菜にギターを弾いている姿は絶対に見せないし、何度もフレーズを間違えるメンバーは「邪魔だ」と切って捨てていただろう)
紗夜(心境の変化、というものを前にも考えた)
紗夜(少し前までの自分と今の自分の心境。考えてみると、あまりにもかけ離れすぎではないだろうか)
紗夜(……でも、それも悪い気はしなかった)
……………………
――CiRCLE ライブステージ舞台袖――
紗夜「ふぅ……」
紗夜(ライブ当日の時間は瞬く間に過ぎていた)
紗夜(私は日菜に導かれてやってきたライブハウス――CiRCLEのステージに繋がる舞台袖にいる)
紗夜(リハーサルも滞りなく終わり、あとはここで羽沢さんと開演時間を待つだけだった)
紗夜「…………」
紗夜(自分が立つステージを脳内に思い浮かべる)
紗夜(今日は観客が5人だけ。日菜と、名前は知っているが顔は知らない、ロゼリアというバンドの4人)
紗夜(彼女たちの前でギターを弾く。その結果がどうなるのか。ロゼリアの人たちは自分をどういう目で見るのか)
紗夜(正直に言ってしまえば恐怖心は大きい。手と足が震えているのを自覚できる)
紗夜(ステージで自分を守ってくれるのは、もう愛着さえ湧いてきたつば広帽子とギターだけだ)
つぐみ「紗夜さん、緊張してますか?」
紗夜(……いや、違うか)
紗夜「……いいえ、大丈夫です」
紗夜(私は首を振って、隣にいる緊張した面持ちの羽沢さんに答える)
つぐみ「不安は……ないですか?」
紗夜「そちらは、少しだけ」
つぐみ「えっと、じゃあ、力になれるか分かりませんけど」
紗夜(そう前置きをして、羽沢さんは遠慮がちに私の手を握る)
つぐみ「少しでも、紗夜さんの不安がなくなりますように……」
紗夜「……ありがとうございます、羽沢さん」
紗夜(羽沢さんの手も少し震えていた。恐らくそれは緊張からだろう)
紗夜(ロゼリアは頂点を目指すためのバンドだと聞いた。そのメンバーの前で、普段は共に演奏をしない相手と楽器を奏でるんだ)
紗夜(羽沢さんの緊張だって小さなものではないだろう)
紗夜(……それなのに私のために祈ってくれるんですね、羽沢さんは)
紗夜(彼女は強い。私なんて足元にも及ばないくらいだ)
紗夜(そんな強い人が隣にいてくれるんだ。共にステージに立ってくれるんだ)
紗夜(これほど勇気を貰えることはない)
紗夜「私は大丈夫です。わがままに付き合ってくれたあなたのためにも、日菜のためにも、私は絶対にやり遂げて見せます」
つぐみ「……はい。一緒に頑張りましょうね」
紗夜「ええ」
紗夜(羽沢さんと頷きあう)
紗夜(大丈夫、大丈夫だ。きっと私はしっかり頑張れる)
紗夜(その場で大きく息を吸って吐いた。気付けば開演の時間だった)
紗夜「……よし」
紗夜(私は気合を入れなおして、ステージへ足を踏み出した)
紗夜(極力、まだ観客席を見ないようにして、ゆっくりとステージの中央まで歩く)
紗夜(そこにはギタースタンドに自分のアコースティックギター、その近くに椅子とマイクスタンドが2つ)
紗夜(その一歩後方の右隣には羽沢さんのキーボードと、同じくマイクスタンド1つがあった)
紗夜(私は一度だけ帽子を深く被り直し、ギターを手に取り、椅子に腰かける)
紗夜(マイクをサウンドホールと顔の前に微調整した。それから少しだけ間を置いて、顔を上げる)
紗夜(観客席からは逆光になるようにステージライトをセットしてもらった。あちらからでは帽子の影で私の顔は見えていないだろう)
紗夜(広々としたオールスタンディングの観客席が眼前に広がる。この辺りでは有数の規模だ)
紗夜(このライブハウスを押さえるのにどれだけ日菜は苦労したのだろうか。頭にはそんな考えが浮かぶ)
紗夜(今日は観客も入れられない、自分のためだけのステージだ。きっと相当な労力が必要だったはずだ)
紗夜(でも……日菜はそんな素振りを全く見せなかった)
紗夜(私からの感謝の言葉を受け取ると、それだけで十分だと言わんばかりの輝く笑顔を見せた)
紗夜(……ありがとう、日菜)
紗夜(心の中でもう一度、日菜に感謝する)
紗夜(がらんどうの観客席に目をやる。ステージとそことを分ける最前列の柵の前に5人が立っていた)
紗夜(私は左からその人物を確認する)
紗夜(一番左にいるのは、確か同じクラスの白金燐子だ。喋っているところをまったく見たことがなかった)
紗夜(彼女の隣にはかなり背丈の小さな女の子がいた。中学生だろうか、自分とは少し歳が離れているように見えた)
紗夜(並びの真ん中にいる人物は腕を組み、まるで自分を試すかのような視線を送ってきていた。力強い目だ)
紗夜(その隣には今風な身なりをした女性が心配そうな面持ちでいた。ギャル、というのだろうか、そんな格好と心配そうな表情に少しギャップがあった)
紗夜(そして右端には日菜がいた。日菜は自分と目が合ったのが分かったのか、明るい表情で1つ頷いて見せた)
紗夜(「おねーちゃんなら大丈夫だよ!」と背中を押された気がした)
紗夜(5人に視線を巡らせたあと、会場の全体を見回す)
紗夜(このライブハウスで演奏したことはなかった。初めて立つはずのステージだ)
紗夜(しかし、見覚えがあるような気がして、何か頭の片隅に引っかかるものがあった)
紗夜(それのせいか、不満と焦燥、驚愕、決意、そして安穏など、まぜこぜになったいくつもの感情が胸中に渦巻いている)
紗夜(……怖い)
紗夜(得体のしれないそれらに恐怖心を煽られる。小さく手が震える)
紗夜(でも……日菜が背を押してくれた)
紗夜(右隣へ視線を巡らせる。一歩下がったその位置にいる羽沢さんと目が合う)
紗夜(彼女も日菜と同じように力強く頷いてくれた)
紗夜(それにも背を押された)
紗夜「……歌います」
紗夜(口から漏れた小さな呟きをマイクが拾って会場全体に響かせる)
紗夜(もっと言うことがあった。いろいろな言葉を考えて、いろいろな感情を吐き出すつもりだった)
紗夜(しかし、それだけしか出せなかった)
紗夜(コードを押さえる。手の震えはもう止まっていた)
紗夜(ピックを握った手で、大きく最初の音をかき鳴らした。羽沢さんのキーボードも途中からそれに交わってくる)
紗夜(……大丈夫、ちゃんと弾ける。歌える)
紗夜(私はそう思い、目を瞑って歌詞を紡ぎだす)
辛くて苦しくて まったく涙が出てくるぜ
遮断機の点滅が警報みたいだ、人生の
くさって白けて投げ出した いつかの努力も情熱も
必要な時には簡単に戻ってくれはしないもんだ
紗夜(歌う。ギターを弾く。脳裏には様々な言葉が巡る)
紗夜(現実。幻想。苛立ち。許容。受け入れなけばいけない。恐怖。自分。立ち向かわなければいけない)
回り道、遠回り でも前に進めりゃまだよくて
振り出しに何度戻って 歩き出すのも億劫になって
商店街の街灯も 消える頃の帰り道
影が消えたら何故かホッとして 今日も真夜中に行方不明
紗夜(氷川紗夜。ギター。ロゼリア。氷川日菜。羽沢つぐみ。姉妹。比較。劣等。認めなければいけない)
死ぬ気で頑張れ 死なない為に
言い過ぎだって言うな 最早現実は過酷だ
なりそこなった自分と 理想の成れの果てで
実現したこの自分を捨てる事なかれ
紗夜(認めたくない。焦燥。雑音。決意)
君自身が勝ち取ったその幸福や喜びを
誰かにとやかく言われる筋合いなんてまるでなくて
この先を 「救うのは」
傷を負った 「君だからこその」
フィロソフィー フィロソフィー フィロソフィー
紗夜(言葉が浮かぶ)
紗夜(その関連性が分からない。意味があるのか分からない。それらはどんどん胸の内に積み重なっていく)
紗夜(暗闇。挫折。約束。七夕。審査。否定。結託。共感)
都市の距離感解せなくて 電車は隅の方で立ってた
核心に踏み込まれたくないからいつも敬語で話した
心覗かれたくないから主義主張も鳴りを潜めた
中身無いのを恥じて ほどこした浅学、理論武装
紗夜(音。正確な音。負け。負けたくない。勝てない)
自分を守って 軟弱なその盾が
戦うのに十分な強さに変わる日まで
謙虚も慎ましさ 無暗に過剰なら卑屈だ
いつか屈辱を晴らすなら 今日、侮辱された弱さで
紗夜(盾。ギター。弱い。否定。願い。雨。小鳥。肯定。雨。中身。音。承認)
うまくいかない人生の為にしつらえた陽光は
消えてしまいたい己が影の輪郭を明瞭に
悲しいかな 「生きてたんだ」
そんな風な 「僕だからこその」
フィロソフィー フィロソフィー フィロソフィー
紗夜(とめどなく言葉が積み重なる)
紗夜(それに意味があるのかまだ分からない。何も分からない)
紗夜(薄ぼけた抽象画のように心がその言葉たちに塗りつぶされる。暗闇に落ちていく)
紗夜(何も思い出せない。焦りが募る。どうしたらいい)
紗夜(私は、何を信じたらいい?)
正しいも正しくないも考え出すとキリがないから
せめて望んだ方に歩けるだけには強がって
「紗夜」
声が聞こえた、ような気がした。俯かせていた顔を起こす。ロゼリアの顔ぶれが自分を見つめていた。
「紗夜さん」「氷川さん」「紗夜」
名前を呼ばれた気がした。凛々しい声で、無邪気な声で、小さな声で、明るい声で、共に頂点を目指そうと手を引かれた気がした。
願って破れて 問と解、肯定と否定
塞ぎがちなこの人生 承認してよ弁証法
「紗夜さんの全てのことに真摯に向き合うところ、すごく素晴らしいと思います」
誰かに自分を肯定されたような記憶があった。私は私でいいのだと教えられたような気がした。
悲しみを知っている 痛みはもっと知っている
「必ずあなたのもとへ向かうから、もう少し待っていて」
「うんっ……うんっ……! 約束だよ、おねーちゃん!」
雨の音が聞こえた。約束をした。打ちのめされた。手を差し伸べられた。決意をした。自分の音を探すと。誇りを持つと。もう1度約束をした。いつかあなたの隣でそれを奏でると。
それらにしか導けない 解が君という存在で
私は何を信じればいいのか。
分かった気がした。
―――にバンドを組まないかと声をかけられたこと、―――――のオーディションをしたこと、今までに体験したことがない一体感を味わったこと、なし崩しに―――んがバンドに入ったこと、日菜に劣等感を抱いていたこと、キーボード担当を探して――さんのオーディションをしたこと、このステージでロゼリアの初ライブをやったこと、――川さんに怒鳴ってしまったこと、バンドがばらばらになりかけたこと、―井さんがそれを食い止めるために奔走していたこと、コンテストに不合格だったことロゼリア全員でやけ食いをしたこと湊さんが父の曲を歌う資格があるのか悩んだことそれに共感したこと今井さんがいなければロゼリアがまともに練習すら出来ないと知ったこと日菜と星に願う短冊を探し回ったこと秋時雨に傘をさしたことつぐみさんに力の抜き加減が大事だと教えられたこと宇田川さんと白金さんのやっているというゲームを手伝う羽目になったこと。
それを積み重ねた自分自身を信じればいいんだ。
それだけで、よかったんだ。
そもそも僕らが生きてく動機なんて存在しなくて
立ち上がるのに十分な 明日への期待、それ以外は
僕は僕の 「問いを解いて」
君は君の、 「君だからこその」
フィロソフィー フィロソフィー フィロソフィー
紗夜(最後の1ストローク。震える弦を掌でミュートした。音が消える)
紗夜(熱に浮かされたような気分だった。寝起きのおぼろげな意識のように頭がぼーっとする)
紗夜(そのまま俯いて目を瞑った。そして脳裏に思い浮かべる)
紗夜(きっと、日菜は輝いた表情をしているでしょう)
紗夜(つぐみさんは練習でよく間違えていた歌いながら演奏するフレーズをちゃんと弾けて安心しているかもしれない)
紗夜(白金さんは落ち着かずにソワソワしていそうだ)
紗夜(宇田川さんはもしかしたらこんな自分のギターにまた「かっこいい」なんて思ってくれているかもしれない)
紗夜(湊さんはどうだろうか、きっとまだ試すような顔をしていそうだ)
紗夜(今井さんは心配のし過ぎで泣きそうな顔をしているかもしれない)
紗夜(……ああ、そうか。これで)
紗夜(……私は、やっと私は……氷川紗夜を信じることが出来たんだ)
紗夜(私は震える右手を、被ったつば広帽子に伸ばす)
紗夜(今までありがとう。弱い私を守ってくれてありがとう。もう、私は大丈夫)
紗夜(帽子をゆっくりと脱ぐ。そして顔を上げる。きっと眼前の風景は、私が思い描いた通りのものだろう)
紗夜(そう思って、私は瞼を開いた)
※ ※ ※
……どうやら無事に私の記憶は戻ったようだ。それはとても喜ばしいことだと思う。しかし、思うところがあるので、もう書かないと決めた日記をあと1ページだけ。
…………。感情が処理できない。
まず最初に、私は今、日記になんていうことを書いていたんだと枕に顔を埋めたい気分である。
読み返してみると、本当にひどい。ひどすぎる。
悩みすぎだ。馬鹿なのではないかとその時の自分に言いたい。
それに日菜に抱きしめられて涙を流すなんて……。1度ならまだいい。だが秋にも私は同じようなことをしているではないか。なんとも恥ずかしい。
その上、つぐみさんにも多大なる迷惑をかけてしまっている。彼女に対する償いの方法が思いつかない。とりあえずこれから週に3日は必ず羽沢珈琲店に通おう。それで少しはつぐみさんにも報いることが出来ると思う。それ以上の良案は今は出てこなかった。
それと、記憶に関してだが、学園の昇降口で日菜を待っていたことは覚えている。そこから次の記憶が病院のベッドだ。日菜にひどいことを言った。そのあとの記憶は全て残っている。
理不尽ではないだろうか。
記憶をなくしていた期間のことは、なくした記憶が戻ったら交換条件で消えるべきではないだろうか。記憶喪失の私と今の私は分けて考えられるものではないだろうか。それくらいは大目にみてくれないのだろうか。おかげで忘れたいことがたくさん増えた。穴があったら入りたい、とはまさに今の心境だろう。もういっそ開き直ってしまったほうがいいのかもしれない。
…………
そうだ、プラス思考だ。
これもいい機会だ。もしまた同じような目に――いや、人生で2度も記憶などなくさないとは思うが――あった時に、この日記の存在を思い出して恥を重ねないように自分を戒めよう。
自分の正直な気持ちを書こう。
日菜は私に――(斜線で消されている)――私にとってまさに陽――(斜線で消されている)
つぐみさんとまたセッションをするのもいいかもしれない。
日菜は――(黒く塗りつぶされている)
日菜は大切な妹だと思った。
……いざ書こうと思ってもなかなか上手くいかないものだ。結局こんなことしか書けなかった。好きなことを好きって言うのはこんなに難しかったかしら。
まぁいい。
恐らく、またこんな目に遭ってもどうせ日菜のことだから、私に付きっきりで看病をするでしょう。それに甘えてしまうのは非常に癪ではあるけれど、その存在が私にとって大きな助けになっていることは確かだ。
『絶対に味方でいてくれる人が氷川紗夜の隣にいつもいます』
この1文だけでいい。色々と切羽詰まった状態の私でもきっと察してくれるだろう、きっと。
ともあれ、これで本当の本当に日記は終わりだ。
これは戒めだから、私が日常的に目に触れるような場所へ隠しておこう。
どこがいいだろうか。私のことだから……何かがあったらきっとすぐにギターに触れるでしょう。しばらく持ち運ぶ予定のないアコースティックギターのケースにでもしまっておこう。
これにて私の――氷川紗夜の日記は終わりだ。また私が氷川紗夜でなくなる時があれば、この日記を見つけて、大切な妹への感謝を思い出せますように。
了
――――――――――――
――芸能事務所――
日菜「っていうおねーちゃんの日記を見つけたんだ~っ!」
千聖「……はぁー……」
丸山彩「…………」
大和麻弥「…………」
若宮イヴ「…………」
千聖(約1か月ぶりに事務所に顔を出した日菜ちゃんの言葉を聞いて、私は大きなため息を吐き出した)
千聖(他のみんなはなんて言ったらいいのか分からない、というような表情で固まっていた)
彩「……えーと、じゃあお姉さんの紗夜ちゃんが記憶喪失になってて……?」
日菜「うん、ずっと看病してたんだー。いやー、みんなごめんね。おねーちゃんももう記憶戻ったから、今日から復帰だよっ」
彩「あ……うん……」
千聖(あっけらかんとした物言いに彩ちゃんは困ったように頷くのみだった)
千聖(それも無理がないと思う)
千聖(……日菜ちゃんのお休みしていた理由の説明は非常に簡素だった)
日菜『おねーちゃんが転んでここ1年の記憶なくしちゃってたんだ。もう大丈夫になったからお休みおわりって感じ! あ、ねぇねぇ、それよりこれ見てよ!』
千聖(以上、である)
千聖(それだけ言って、嬉しそうにお姉さんの日記とやらをスマートフォンに納めた写真をみんなに見せている)
千聖(これは他人が見ていいものなのだろうか。そもそも嬉々として見せるものなのか)
千聖(そんな思いが日菜ちゃん以外のみんなにあったと思う)
千聖(よく言えば常識にとらわれない、悪く言うと空気が読めない行動だと思うけれど……)
千聖「……まぁ、日菜ちゃんらしいわね」
麻弥「そ、そうですね。いつも通りの日菜さんって感じ……ですかね」
千聖(……そう、言ってしまえばいつも通りの日菜ちゃんだ)
千聖(でも、ひと月前の電話越しの日菜ちゃんは、すごく弱っていたように思える)
千聖(簡単な一言だけだったけど、無人島にまで写真を持っていくほど溺愛しているお姉さんの記憶がなくなった)
千聖(きっとそれは日菜ちゃんにとって大きなショックがあったからだろう)
千聖(でも……それをおくびにも見せずに、まったくいつも通りの姿で日菜ちゃんは事務所にやってきた)
千聖(強い……というのか、なんというか……)
千聖(普通の人であればもっと引きずりそうなんだけど……あの子の中ではもう『過ぎたこと』で済まされているのかしら)
千聖(……それは強さといっていいのかどうなのか……)
日菜「ここなんてほら、見て見て!『日菜ならば、私の気持ちを分かってくれるだろうという信頼があった』だって! えへへ、おねーちゃんにこんな風に思われてて『るんっ♪』てしちゃうな~!」
イヴ「ヒナさんはサヨさんととっても仲良しなんですね!」
日菜「うん! 今回のことでもーっと仲良くなったよ!」
彩「……いいのかな、これ……。あとで日菜ちゃん、絶対に怒られるよね……」
千聖(日菜ちゃんはなおも嬉しそうに日記の文面を晒して、その上音読までして見せていた)
千聖「麻弥ちゃんは見ないでいいの?」
麻弥「やっぱり、ああいう日記とかって本人がいない前で勝手に読んじゃいけないと思いますから……ジブンは遠慮しておきます」
千聖「……そうね。その通りね」
千聖(日菜ちゃんみたいな女の子を妹に持つのって、どういう心境なのかしらね)
千聖(…………)
千聖(……苦労しそうだ、ということ以外なにも思いつかないわ)
千聖(あまり話をしたことはないけど……あの真面目そうなお姉さんも、きっと奔放で唯一無二の日菜ちゃんにいつも振り回されてるのかしらね)
千聖「はいはい日菜ちゃん、そこまでよ」
千聖(それに同情に近い念を抱いたから、という訳ではない。だけどそろそろ止めないとずっと話が脱線したままだろう)
千聖「日菜ちゃんがお休みしてる間にパスパレで決まったお仕事もあるの。そのお話をしましょう」
日菜「うん、分かったよ。どんなことが決まったの?」
千聖「まず、新曲を録ることになっているわ。……日菜ちゃんのことだからこっちはあんまり心配してないけど、ギターの方は……」
日菜「大丈夫だよ! おねーちゃんのギター見て、あたしももっと『るんっ♪』てする音が出せそう!」
千聖「そう。それならいいんだけど。それと、その新曲の発売に合わせてリリースイベントをやることになっているわ」
日菜「リリースイベント? ってなに?」
彩「CDとかブロマイドを渡して、お客さん1人ひとりにちょこっとお話しするイベントだよ」
日菜「へぇーそうなんだ。つまり……色んな人と話をしたりするって感じなのかな?」
千聖「大体はそんなイメージかしらね」
日菜「なるほどね! じゃあ、みんな同じで違うってことがもっとよく分かるかもしれないなぁ~」
イヴ「みんな同じで違う……ですか?」
日菜「そうだよ、イヴちゃん! なんかね、そういうこと考えると楽しいなって思うようになったんだ」
イヴ「……どういうことでしょうか?」
麻弥「イヴさん、こんな時には便利な言葉があるんですよ」
イヴ「便利な言葉、ですか?」
麻弥「はい。こういう時は『つまり……そういうことさ』。これで全部解決ですよ!」
千聖「麻弥ちゃん……薫から悪い影響を受けているみたいね……」
日菜「これでもっともっとおねーちゃんのことが分かるようになるかな~」
彩「日菜ちゃん、最終的には全部そこに落ち着きそうだね……」
千聖「……それも日菜ちゃんらしいんじゃないかしら」
彩「うーん……確かにそうかも……」
千聖(でも、どこか少し雰囲気が変わったような気がする。それも悪い方ではなくて良い方に)
千聖(色んな意味で目が離せない子だけど……少し頼もしくなったというか、周りが見えるようになったというか)
千聖(私は日菜ちゃんにそんな印象を抱くのだった)
……………………
――CiRCLE スタジオ――
――ジャーン......
リサ(力強い歌声が、ベースの重低音に、ドラムのリズムに、キーボードのメロディに、ギターのリフに彩られる)
リサ(1つの音が変わるだけでこんなにも印象が変わるんだ、とベースを弾きながらアタシは思う)
リサ(きっとみんなも同じことを感じてるだろうな)
リサ(紗夜が記憶喪失になっている間、ロゼリアの練習では打ち込みのギター音を使用していた)
リサ(楽譜通りに正確な音を出し続けるそれは紗夜の音にちょっとだけ似ていたが、まったく別のものだった)
リサ(みんなが滞りなく曲を演奏しても、どこか違和感があった)
リサ(言葉にするのは難しいけど、一体感がなかった)
リサ(どうにも『ただフレーズを合わせているだけ』という印象が拭えなかった)
リサ(でも、紗夜が復帰してから初めての練習でのこの感じはなんだろう)
リサ(目の前でアコースティックギターを弾いていた姿を見たから、きっと記憶をなくしている間もギターに触れていたんだと思う)
リサ(今日も紗夜のギターは、まるで機械のように正確でいて、打ち込みとはまるで違う音を奏でていた)
リサ(その音がどこかちぐはぐだったロゼリアの演奏を1つに繋ぎとめた。そんな印象だ)
リサ(……この感じは前にも覚えがあったな)
リサ(確か……あれは初めてロゼリアとしてライブをやった時だ)
リサ(みんなの音にどんどん引っ張られて、練習以上の音を奏で、一体感を感じられる。それにすごく似てる)
リサ(そう考えているうちに、曲の最後のフレーズを弾く。伸ばした音たちが切られる。それから1拍ほど間があった)
宇田川あこ「……やっぱり紗夜さんがいると全然違いますね!」
白金燐子「はい……氷川さんがいてくれると……なんだか安心して演奏できます……」
リサ「そうだね。打ち込みのあの、ちぐはぐ感? そういうのが綺麗さっぱりなくなった感じだね」
湊友希那「ええ、そうね。でも、紗夜……」
紗夜「分かっています。……最後の間奏からサビに入る箇所ですね。少しもたつきました」
友希那「……いえ、それもあるといえばあるんだけど」
紗夜「大丈夫です。このひと月の空白はすぐに取り戻して見せます」
友希那「…………」
リサ「あー、えーっと、紗夜。気持ちはすごく分かるんだけど、友希那が言いたいのはそういうことじゃないんじゃないかな」
リサ(『違う、そうじゃない』と言いたげな思案顔になる友希那に代わってアタシが声を出す)
紗夜「はい? ……ああ、なるほど」
リサ(あ、分かってくれたかな?)
紗夜「私は他にもなにかミスをしていましたか。すいません、それすらも気付かないほど鈍ってしまっているようです」
リサ「あー違う違う! 友希那が言いたいのは、病み上がりなんだから無理はしないでねってことだよ!」
リサ(ホントに真面目っていうか自分に厳しすぎるっていうか……)
リサ(でもそれが紗夜らしくて……なんか安心する)
リサ(……最初にヒナから『記憶喪失』という言葉を聞いた時は、何かの冗談かと思った)
リサ(でも電話越しのヒナからは今まで聞いたことがない悲痛な響きの呟きが漏れて、それが本当のことなんだって悟った)
リサ(それをロゼリアのメンバーに伝えた時、みんなの驚きは大きかった)
リサ(あこはお見舞いに行くべきだと言い、燐子も心配だから様子を見に行った方がいいと主張していた)
リサ(アタシ自身もヒナからは止められていたけど、それでも紗夜に会えば何か変わるかもしれないという気持ちがあった)
リサ(でも友希那だけは違った)
友希那『もし紗夜が本当に記憶をなくしているのなら、それは紗夜と日菜の問題よ。私たちが勝手な気持ちで関わるべきではないわ』
リサ(……その言葉はもしかしたら冷たいものに思われたかもしれない)
リサ(普段は友希那を尊敬してるあこも、その時はかなり食い下がっていた)
リサ(でも、最終的には黙るしかなかった)
友希那『秋に紗夜が迷いを抱いていた時と同じよ。歯痒いけれど、私たちに出来ることは、日菜から助けを求められる時まではない』
友希那『……それに、紗夜の記憶が戻ってから『紗夜のために奔走してロゼリアの練習が疎かになっていました』なんてことになったら……あの子は気に病むわ』
リサ(紗夜とヒナと自分たちのことを考えた最善が『見守ること』。その友希那の言葉は正しかった、と思う)
リサ(ヒナから紗夜の記憶を取り戻すためのライブを見に来てくれないか、と言われ、CiRCLEのライブステージ……初めてロゼリアがライブをしたステージに立った紗夜を見た時は、すごく驚いた)
リサ(普段から非常に礼儀正しく、委員として学園の風紀の取り締まりにも口うるさいっていう紗夜が、目深に被った帽子で自分の顔を隠し、アタシたちに目をくれることもほとんどなくステージに現れたからだ)
リサ(『人が怖いみたい』ってヒナに言われた言葉を、もしかしたらアタシは軽く受け取り過ぎていたのかもしれなかった)
リサ(もし友希那が制止してくれずに紗夜のお見舞いになんて行っていたら、取り返しのつかないことになっていたかもしれない)
リサ(そう考えると冷や汗が滲む思いだった)
リサ(ステージで演奏する紗夜の顔は帽子の影で見えなかった)
リサ(でも、何かに苦しんでいるような表情をしているような気がした)
リサ(それが正しかったのか、ギターを弾く紗夜はどんどん俯いていってるように見えた)
リサ(それを見かねた。何とかできないかと思って、声をかけようとした)
リサ(でもそれはもしかしたら逆効果かもしれない)
リサ(そうやって悩んでいる時に、友希那が小さな声で紗夜の名前を呼んだ)
リサ(隣にいるアタシですらギリギリ聞き取れるか、というくらいの小さな響きだった)
リサ(でも、紗夜はハッとしたみたいに顔を上げた。それを見てアタシももう我慢できなかった)
リサ(「紗夜」と名前を呼んだ。ステージの上で、きっと何かと戦っている紗夜に声援を送った)
リサ(大丈夫、アタシたちもここにいるから)
リサ(そう伝わるように)
リサ(あこと燐子もそうしていただろう)
リサ(その自分たちの声のおかげだ、なんて思わない)
リサ(でも、曲を演奏し終わったあと、紗夜は帽子をとってアタシたちを見つめてくれた)
リサ(そして何か一言呟いたような気がする)
リサ(その言葉がなんなのかは分からなかった)
紗夜「病み上がりもなにも……体には特に異常はなかったのだから、その心配は無用よ」
紗夜「……でも、ありがとうございます」
リサ(不愛想にも聞こえるような言葉の後に、小さくお礼を言う姿を見て、少し紗夜は変わったなと思う)
リサ(前より少しだけ丁寧語で喋ることが減って、素直な気持ちを言葉にするようになった……ような気がした)
友希那「リサの言う通りよ。本人の気付かないところで疲労は溜まっていたりするんだから。少しだけ休憩にしましょうか」
紗夜「……そうですね」
あこ「そういえば紗夜さん、アコースティックギターはロゼリアで弾かないんですか?」
紗夜「あれは……ロゼリアでは弾かないわよ」
あこ「えーそうなんですか? この前の弾き語り、すっごくカッコよかったのになぁ……」
紗夜「あくまで弾き語りは私個人のものだから。それに、私が歌っていたら湊さんのやることがなくなってしまうわ」
友希那「あら、それならツインボーカルにしてみればいいんじゃない? 他のバンドはそういう曲もやっているわよ」
紗夜「いえ、そうだとしても、アコースティックの弾き語りになるとドラムとベースもやることがなくなってしまいます」
紗夜「ロゼリアは湊さんの歌声で、それぞれがそれぞれの楽器を奏でるからこそロゼリアなんだから」
リサ(……そっか。きっと前よりも、友希那を、アタシたちを、ロゼリアを大事にしてくれてるんだ)
リサ(そう思うと……なんだか嬉しいなぁ)
あこ「そっかぁ~。残念だなぁ」
燐子「でも……きっとロゼリアでの演奏じゃなければ……弾いてくれるってことだよ、あこちゃん……」
紗夜「いえ、白金さん、そういう意味で言った訳では……」
リサ「んー、じゃあアフターグロウに声かけてみよっか。つぐみに言えば手伝ってくれるんじゃない?」
紗夜「…………」
紗夜「まぁ……つぐみさんとであれば」
あこ「ほんとですか!? わー、それじゃあまた見れるかもしれないんですね、紗夜さんの弾き語りっ」
燐子「でも……そんなに簡単に……手伝ってくれるんでしょうか……」
友希那「代わりに燐子があちらで演奏する、というなら大丈夫じゃないかしら」
燐子「えっ……!?」
友希那「燐子の演奏も素晴らしいものだわ。きっと技術的には問題ないでしょう」
燐子「え、あの……でも……」
友希那「そろそろあなたも人見知りを克服する時ではないかしら?」
燐子「……絶対……無理、です……」
リサ「あはは、ゲームの中だとあんなに饒舌なのにね」
燐子「あ、あれは……わたしが喋っているわけでは……ないので……」
紗夜「……『あらゆる思想は、損なわれた感情から生まれる』だったかしらね」
リサ(ふと、穏やかな顔をしている紗夜が何かを呟いたような気がした)
リサ「何か言った? 紗夜?」
紗夜「いいえ、何も」
リサ(尋ねられても、紗夜はそう言って少し呆れたような笑顔を浮かべるだけだった)
……………………
――羽沢珈琲店――
紗夜「日課、ね……」
紗夜(久しぶりのロゼリアの練習が終わったあと、夕焼けに照らされる道を歩いて、私は羽沢珈琲店に来ていた)
紗夜(店内に入って2人掛けのテーブルに案内され、そこに腰を下ろすと独りごちる)
紗夜(あの日記の最後に書いていたように、今は週3日でこの喫茶店に足を運んでいた。もうつぐみさん以外のスタッフにも顔を覚えられているような気さえしている)
紗夜「……あまり気にしていなかったけど、病院の近くなのね、ここ」
紗夜(改めて考えてみると、ここから歩いて15分ほどのところに自分が入院していた病院があった)
紗夜(ある交差点を曲がれば氷川家の方へ、曲がらずにまっすぐ歩けば病院にたどり着けるたはずだ)
つぐみ「あ、こんにちは、紗夜さん。また来てくれたんですね」
紗夜「ええ、こんにちは」
紗夜(頭の中の地図を辿っていると、エプロンを付けたつぐみさんがメニューを持ってきてくれた)
紗夜(地図を頭の中から追い出して私は挨拶を返す)
つぐみ「最近よく来てくれますね」
紗夜「ここの珈琲、美味しいですから」
つぐみ「ありがとうございます。えへへ……そう言ってもらえると嬉しいですね」
つぐみ「注文はどうされますか?」
紗夜「珈琲とケーキのセットを」
つぐみ「はい、いつも通りですね。少々お待ちください」
紗夜(軽くお辞儀をしてから、つぐみさんはパタパタと厨房へ入っていった)
紗夜(……お菓子教室の件も、ついこの間の忘れたい記憶喪失の件も、つぐみさんには大いに助けられてばかりだ)
紗夜(どうすればあの天使のように優しい人に報いることが出来るだろうか)
紗夜(金銭や物で報いる、というのは抵抗がある)
紗夜(それはかえってつぐみさんを恐縮させてしまうだけだろうし、自分としてもそんなもので恩を返すというのは俗物的で意にそぐわない)
紗夜(しかしこうして足しげく羽沢珈琲店に通うのも、オブラートに包んでいるだけで根底は同じではないのかという気持ちがない訳じゃない)
紗夜(何か案があればいいのだけど……)
紗夜(もちろん、つぐみさんが私のように何かの壁にぶつかって落ち込むようなことがあれば、それを全身全霊で助けよう)
紗夜(だけど、そんな辛い思いをつぐみさんにしてほしくない。出来ればあの子は祝福された幸せで明るい人生を今後も歩んでいってほしい)
紗夜(となると……私のこの報いたいという気持ちは報われない方がいいのかもしれないわね)
紗夜(その方がつぐみさんは幸せな人生を歩めるということだもの)
紗夜(でも、案外現金な部分が私の中にはあるというのも今回の件で自覚した)
紗夜(つぐみさんが幸せならそれでいいけど、それでも何かをしないと気が済まない)
紗夜(自分勝手な気持ちだろうとは理解しているが、これだけはどうにも消せそうにない)
紗夜「負い目、なのかしら」
紗夜(店内の喧騒に消えた小さな呟きを、少し考えてから首を振って否定した)
紗夜(負い目ならば、助けられたから助けなければいけない、という義務のような感情になるはずだ)
紗夜(しかし自分が考えているのは、助けられたから助けてあげたい、という積極的な気持ちだ)
紗夜(だからきっとこれはそういう後ろ暗いものではなく、明るく前向きな感情であるはずだった)
紗夜「…………」
紗夜(きっとこのつじつま合わせは理論武装とか屁理屈とか表現されるものね)
紗夜(でも、誰かにそう思われても当のつぐみさんが嫌な思いをしないなら、それでいいか)
紗夜(……以前に比べて簡単に開き直れるようになった気がするわね)
紗夜(これも日菜の影響なのかしら)
日菜「あーっ、やっぱりおねーちゃんここにいた!」
紗夜(入り口の扉に付けられたベルが鳴り止むより早く、日菜の声が耳に届く)
紗夜(そちらへ視線を巡らせると、日菜がこちらへ向かって歩み寄って来ていた)
紗夜「日菜、店内ではあまり大きな声を出さないで」
日菜「おねーちゃんてば最近ホントによく来てるね、ここっ」
紗夜(諫言を聞いているのかいないのか、日菜はサッと私の対面の席に腰を下ろす)
紗夜「人の話を聞きなさい」
日菜「おねーちゃん今日は何頼んだの? またケーキセット?」
紗夜「だから話を聞きなさい」
紗夜(まったく、と内心思うが、これが日菜らしさなんだろう)
紗夜(その強引さというか、唯我独尊的な部分に支えられて助けられたのも事実ね)
紗夜(だから毒づきながらも、自分の顔に困ったような、呆れたような笑みが浮かんでいるんだろう)
日菜「……えへへ」
紗夜「……? なにかおかしいことでもあったの?」
日菜「んーん。やっぱり、おねーちゃんはおねーちゃんで、だから大好きなんだなーって」
紗夜「そう」
つぐみ「お待たせしました――あ、日菜先輩。こんにちは」
日菜「こんにちはーつぐちゃん!」
つぐみ「メニュー持ってきますね。紗夜さんは、はい、こちらケーキセットです」
紗夜「ありがとう、つぐみさん」
日菜「メニューは大丈夫だよ! あたしもおねーちゃんと同じのちょうだい!」
つぐみ「あ、はい。かしこまりました」
紗夜(つぐみさんは私の前に珈琲とイチゴのショートケーキを置き、それから日菜の注文を聞いて厨房へ再び向かっていった)
紗夜(ふわりと漂う珈琲の香りがやけに優しく感じられて、私は目を細める)
日菜「あ、そーだおねーちゃん、聞いて聞いて!」
紗夜「はいはい。他の人に迷惑になるから声は抑えなさい」
日菜「うん分かった!」
紗夜(心なしか声が小さくなったような気がするが、まだ大きくはないだろうか)
紗夜(少し心配だったが、それに突っ込んでも暖簾に腕押しだろう)
紗夜(私は諦めて珈琲を口にする)
日菜「あのね、今度パスパレで『お渡し会』っていうのやることになったんだ!」
日菜「おねーちゃん、お渡し会って知ってる? ファンの人たちに直接CD渡したりお話するんだって~!」
紗夜「アイドルらしいこともやるのね」
日菜「アイドルバンドだもん、それくらいはやるよ~」
紗夜「……アイドルって無人島でサバイバルをして、最後に山頂でCDの告知をするような人たちを指す言葉だったかしら」
日菜「あれは彩ちゃんの持ち味だから!」
紗夜「……そう」
紗夜(丸山さん……不憫ね……)
日菜「それで、お渡し会! おねーちゃんも遠慮なく来ていいからね! なんなら事務所に言って券を用意してもらうから!」
紗夜「行かないわよ」
日菜「ええ、なんで!?」
紗夜「家にいれば会えるのになんでわざわざそんなところまで行く必要がないでしょう」
日菜「でも、みんなにおねーちゃんとあたしの仲良しアピール出来るよ?」
紗夜「それはあなたのファンに悪いから絶対にやめなさい」
日菜「そうかなぁ……。彩ちゃんがあたしの名前でネット検索すると『お姉さんと仲良しで微笑ましい』ってよく書かれてるって言ってたよ?」
紗夜「そうだとしても、わざわざ日菜のために来てくれた人が、目の前で私の相手しかしないあなたを見たら悲しむでしょう」
日菜「んー、そっかぁ……」
紗夜(しゅん、と日菜は落ち込む。その姿を見たから、という訳ではないが、私は1つため息を吐いてから言葉を投げる)
紗夜「またあなたが出てるテレビやライブなら一緒に見てあげるから」
日菜「ほんとっ!? 絶対だよ! 約束だよ、おねーちゃん!」
紗夜「はいはい……」
つぐみ「お待たせしました。ケーキセットもう1つ、お持ちしました」
紗夜(日菜に呆れたような声で相づちを返していると、つぐみさんがケーキセットを持ってきた)
つぐみ「なにか楽しそうにお話してましたね」
紗夜「日菜が1人で騒いでいただけよ」
日菜「えー!? そんなことないよ~!」
つぐみ「……ふふ」
紗夜「……どうしかたの、つぐみさん? もしかして変なところに珈琲でもついていたかしら」
つぐみ「あ、ごめんなさい、そういうことじゃなくて……、その……やっぱり紗夜さんと日菜先輩って、双子なんだなぁって」
日菜「……? おねーちゃんとあたしはずっと双子だよ?」
つぐみ「えーっと、なんていうんですかね。お2人とも……性格が正反対に見えて似てるところが多いなって思いました」
紗夜「つぐみさん、それは誉め言葉なのかしら。日菜と似ている、と外見以外で言われると少し中傷されているように聞こえるわ」
日菜「えー!? それどーいう意味!?」
紗夜「そのままの意味よ」
日菜「もー! おねーちゃんひどいっ!」
つぐみ「ふふ……」
紗夜(日菜と私の内面が似ている……か)
紗夜(今まで、そう言われたことも考えたこともなかった。きっと私が無意識に日菜と比べられるすべての要素に耳を塞いでいたからだろう)
紗夜(だけど、改めて考えてみると……確かに似ているところがあるのかもしれない)
紗夜(それもそうだ。日菜と私は血を分けた双子なんだから)
紗夜(昔であれば、このことをムキになって否定していたかもしれない)
紗夜(でも今は……それはそれでいいと思えるようになった)
紗夜(氷川日菜は氷川日菜で、氷川紗夜は氷川紗夜)
紗夜(言ってしまえばそれだけの簡単な話だ。簡単なことを難しく考えるのはもうやめた)
紗夜(今この場に、楽しそうな日菜がいて、つぐみさんがいて、自分がいる)
紗夜(……それだけだ)
紗夜(羽沢珈琲店の窓から沈みかけた西日の赤い陽光が差し込んできていた)
紗夜(あの光の前ではみんな同じだろう。等しく誰もかれもが赤く照らされる)
紗夜(つぐみさんの穏やかな笑顔も、怒ったような、楽しそうな日菜の横顔も、きっとすました表情でいるだろう私の顔も)
紗夜(だからそれでいい)
紗夜(1つが2つあって、笑い合えたら1つで)
紗夜(それだけでいいと思った)
……後日、日菜経由で例の日記がロゼリアに知れ渡って一悶着あったり、紗夜がつぐみとまたセッションがしたくなって燐子がアフターグロウに更迭されたりするが、それはまた別のお話。
おわり
長々と申し訳ありませんでした。
特に氷川姉妹が好きな方とamazarashiファンの方、すいませんでした。
地の分こみこみで書いたものが読み辛かったので、それは別の場所に投稿してこちらは台本形式に直したものです。読みやすくなったかというとそんなことはない気がします。
紗夜さんの弾き語りはフィロソフィーのMVを参考にしました。
アプリにamazarashiのカバー曲が追加されてほしいです。
言いたいことはこれで全部です。
HTML化依頼出してきます。
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