双葉杏「日本は、義理チョコをやめよう」 (18)

何作目か覚えてないので初投稿です。

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 オフィスはとうに無人だった。

 事務員などは定時で帰るし、定時を過ぎればあとは個々人の裁量で退社できる。

 仮にやるべきことが残っていても、その大半は会社に残らないといけない業務ではない。

 だから午後九時までわざわざ残業していく社員などは、俺の他に誰もいなかった。

 パソコンの電源を落としてから、フロアの電気を順に消していく。非常灯だけが照らす足元は少し頼りなかった。

 先ほどまで暖房を効かせた部屋にいたためか、廊下に出ると冷えた外気が肌に刺すようだった。

 身体を震わせながら駐車場へと向かう。キーを片手に自分の車の前まで歩くと、もこもこの防寒具に身を包んだ妖精がそこに座り込んでいた。

 薄い金色の長い髪。巻き込むようにマフラーを首に巻いている。耳当ては彼女には大きすぎるようで、耳からはみ出して頬までも覆っていた。

 光沢のあるジャケットを着込んだ少女は、紛れもなく双葉杏であった。

「よす」

「おっす。……こんなとこで何してんだ。もう九時だぞ」

「そーそー。プロデューサーいつまで仕事してんのさ。すっかり冷えちゃったよ」

「いや、知らんがな……」

 プロデューサーからすれば、帰ろうと駐車場に来たら自分の担当アイドルが座り込んでいたのだ。

 もちろんこんなところで待っているよう指示したつもりはないし、そもそも今日は三時間以上前に帰らせたはず。

 本来いるはずのない存在に、怪訝そうな表情を浮かべるのも無理はなかった。

「ま、大方家まで送らせようって魂胆か……にしたって三時間は待ちすぎだろ。さっさと帰ればよかったのに」

「だーかーらー、プロデューサーがこんな時間まで仕事してなきゃよかっただけでしょ。人の迷惑も考えてよね」

「はいはい。分かったから乗ってけ」

 ロックを解除すると、杏は飛びつくように助手席に乗り込む。溜め息を吐いてプロデューサーは運転席へと向かった。

 ずっと冷えた空間に置かれた車内は外とそう変わらない肌寒さだった。

 すぐにキーを回して暖房をつける。ごうごうと音を立てて若干冷たい風の後に、ぬるい空気が吐き出され始めた。

「はー……生き返る心地だよ。やっぱりエアコン・コタツ・ストーブは冬の三種の神器だね」

「そんなに寒がりならなんでこんなとこにいたんだよ。せめて事務所に戻ってくればよかったのに」

「そしたらどうせ『なんで戻ってきたんだ、帰れ』って言うでしょ?」

「まぁ遅くまでいられても困るしな」

「じゃあダメじゃん」

 何がダメなんだ、と問い返しても返答は得られそうになかった。

 元より時間を浪費することには長けている彼女だ。周りが思うほど、本人は労力とは思っていないかもしれなかった。

 エンジンが温まってきたところで、ゆったりと車を発進させる。

 杏を乗せたからには最優先で彼女の家まで送り届けねばならない。少し遠回りになるか、とプロデューサーは頭の中で経路の計算を始めた。

「……ほんと、わざわざこんな日に残業なんてご苦労なことだよ。バレンタインデーだってのに、用事の一つもないわけ?」

「バレンタイン……? あぁ、今日は十四日だったか……だからみんなやけに帰りが早かったのか。謎が解けたわ」

「げっ、今の今まで気付いてなかったのかよ。はーやだやだ、非モテは世間の流行にも疎いんだもんねぇ」

「散々言ってくれるな……それを言うならお前だって同じじゃねーか。そんな日に無駄に時間使って、相手がいませんって自白してるようなもんだぞ」

「今の問題発言でしょ。アイドルに色恋沙汰はご法度なんじゃないの?」

「かもな。でも俺に言わせりゃ、きちんと隠し通せるなら何したって文句はねえよ。リスク管理として、相手を作らないのが一番確実だってだけの話さ」

「ふーん……ま、杏は確固たる目的があって待ってたわけだから。無駄じゃありませーん」

「俺にこうして家まで送らせることがか? そりゃ大層な目的だ」

 プロデューサーは鼻でせせら笑う。詭弁もいいとこだった。労力を割かないという目的に向ける、エネルギーのベクトルが間違っていると言わざるを得ない。

「ま、バレンタインなんざ所詮は販売戦略の一環だ。そんな世俗的なものに労力を割くくらいなら別のことに時間を使う。そこに関してはお前に同意するよ」

「お、強がり言っちゃって。ほんとはチョコ欲しいくせに」

「別にいいっつの。食べたけりゃ自分で買うし。好きなもん買える分、そっちの方が効率もいいだろ」

「……まさかとは思うけど……本気で言ってんの?」

「本気半分軽口半分ってところか。なんだ、やけに絡むじゃないか。何かいいことでもあったのか?」

「いやね……そういうことなら、別に杏は構わないんだけどさ。せっかくお仕事頑張ってるプロデューサーのために、心優しい杏ちゃんはチョコを用意してあげていたわけだけど……いやいや、本気半分なら仕方ないなぁ」

 杏が懐から取り出した箱を目にしたプロデューサーは思わず急ブレーキを踏む。

 幸い人通りのない道だったから追突の心配もなかったが、急な動きにシートベルトに締め付けられた杏は「ぐぇ」とカエルのようなうめき声を上げた。

「ちょっと……安全運転安全運転。ていうかよそ見しないでよ」

「分かってるよ……でも今のはお前だって悪いだろ。え、何? 俺にくれんの?」

「用意してたって言っただけであげるとは言ってないよ。ていうか別のことに時間を使うんじゃないの?」

「貰う分には貰うさ。俺が選ぶわけでもなし」

「うわ、もうちょっとマシな答え用意しときなよ。心証最悪だよ」

 いいから止まってないで、と杏に急かされて、プロデューサーは車を再発進させる。

 チラ見せしておいてよそ見するな、早く出ろとはどういう物言いだという思いはあったが、自分の運転マナーが悪かったのは事実なので口をつぐんでおいた。

「……まぁ、ひがんでたのは事実だよ。俺には縁のない話だし、ってな……でもお前が? どういう風の吹き回しだ」

「きらり」

「なーる」

 その一言で大体予想はついた。彼女の親友である諸星きらりが、一緒にバレンタインのチョコを用意しようと誘ったのだろう。

 杏本人はやる気がなくとも、無理やり巻き込むだけのパワーがきらりにはある。それに、杏はきらりの誘いを無下に断るような性格でもなかった。

「ま、ほとんどきらりが作ってくれたからさ……杏はやること少なくて助かったよ。持つべきものは友人だね」

 杏の言葉を聞いて、プロデューサーは再び急ブレーキを掛ける。悲鳴のようなくぐもった「げぶっ」という声が助手席から聞こえた。

「二度目!!」

「いやいや、それ買ってきたんじゃないの? 作ったわけ? わざわざ?」

「……だから、きらりが作ろうって言ってきたんだよ。それに本当にほとんど何もしてないし……チョコを溶かして固めて包装しただけだよ」

「簡単な手作りチョコってやることほぼそれだけだろ?」

「…………」

 いったい何を手伝ってもらったのだというのか。杏の手に握られた箱をよくよく見てみると、丁寧にラッピングまでされている。

 だからこそ市販のものだと勘違いしたのだが、あるいはそれがきらりの手伝った部分なのかもしれなかった。

 黙ってしまった杏をしばらく眺めていたが、何の返事もなさそうだと判断したプロデューサーは無言で車を発進させる。

 しばらくの間会話はなかった。思い返してみれば、ここまでの会話は杏から切り出されたものだ。彼女が話さなければそうなってしまうのも自然なのかもしれない。

「……悪かったよ。想像もしてなかったから口を滑らせた。さっきまでの話は本気にしないでくれ」

「……実物見た途端にそれとか、現金すぎるでしょ。別にそういう配慮は求めてないからいいけど」

「誰だってそんなもんだよ。目の前にぶら下げられたら欲しくなるさ……そろそろ着くけど、どこに停める? 玄関の前か?」

「ん、ここら辺でいいよ。コンビニ行きたいし……」

「それなら先に言えよ。寄ったのに」

 プロデューサーはぼやきながら路肩に車を停めた。シートベルトを外した杏は、じゃあこれ、と手に持っていたチョコレートの箱をプロデューサーに手渡した。

「今日のお駄賃ってことで。送ってくれてありがとね」

「お、おぉ……お駄賃ねぇ。バレンタインではないのか」

「へそ曲がりのプロデューサーは別の理由くっつけないと素直に受け取らないんでしょ? ま、ありがたく受け取っておきなよ」

「お前が言うか? ……しっかしあれだな……よりによって、ハート型の箱か。杏、お前こんなの人にほいほい渡してたら勘違いされるぞー?」

 にやにやと緩い笑みを浮かべてプロデューサーは意地悪そうな声で言う。

 よりによってハート型。きらりが選んだのか、それとも店先に置いてあった包装用の箱がこれしかなかったのか。

 からかうには絶好のネタだというつもりで、プロデューサーはそう言ったのだが。

 杏は車から降りて、振り向きざまに答える。

「――杏だって、たまには年相応に女の子らしいことしたいだけだよ。へそ曲がりのプロデューサーには伝わんないかもしんないけどね」

 そして扉を閉めた。

 そのまま振り向きもせず、すたすたと自宅のある方角へと歩いて行ってしまう。

 車内に一人取り残されたプロデューサーが、その直球の言葉の意味を咀嚼するにはまだ時間が掛かりそうだった。

おわり。

「杏だって女の子なんですー!」
そんなお話でした。

お疲れさまでした。

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