二宮飛鳥「偶像失格」 (41)
飛鳥がひどい目に遭うことから始まる感じの鬱系ストーリーです。
年始から書き始めたのに今日という日に間に合わなかったのでとりあえずスレ建てとこの精神
冒頭に若干の暴力表現および間接的な強姦表現があるので苦手な方は注意。でも最低限の描写なので多分大丈夫。
できるだけコンパクトに納めたいだけど長いかもしれない。
6割がた書き終えているので、完結を急ぎながら少しずつ投下しようと思う。
あとタイトルはそれっぽくつけただけで人間失格とは何も関係ないです。
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1に書き忘れた
デレマスの二次創作です。なんでか地の文つけて書いちゃったから読みにくいかもしれん
後半にいくにつれてマシになるとおもう
手元で完結するまではsageておく
頭の中では繰り返し、あの日のことがリフレインされる。
✻✻✻✻
その日の深夜、ボクは星を見るために門限の過ぎた女子寮をこっそりと抜け出した。
本当にただ星を見るだけなら部屋のベランダからでも夜空を堪能すればよいのだが、ボクはしばしば寮監の目を盗み、近場の公園まで出向いては、そのささやかな背徳を愉しんでいた。
いつも夜の遅い時間に抜け出すため、大抵、公園も公園に至るまでの道中にも人気はなく、寮から公園までの少しの間、イヤホンを着けて馴染みのラジオを聞きながら歩くのが習慣だった。
その日もまた、同じようにしてラジオを聞きながらいつもの夜道を辿った。
綺麗な星空だった。空気も澄んで、いつにも増して夜風が心地よかったように思う。
事が起きたのは、――その時だった。
不意に視界が乱れ、側頭部に強烈な鈍痛が響いた。
殴られた、そう直感したときにはもう何もかもが遅かった。
ぐるぐると視界は動転し、全身の力がぬけ、体は地面に打ち付けられた。
ボクを背後から襲った男は、まずボクの懐をまさぐり、スマホ等の持ち物をその場に投げ捨てた。
そして、地を這って動けなくなっているボクをどこかの路地裏のような場所まで引きずっていき、またいくらかの殴打を加えた。
ボクは辛うじて残っていた意識で、必死にこの場から逃れる方法を考えた。
自分がどこへ引きずられていったのかもよく分からない状態だったが、さほど元の道から離れていないはずだった。
通りがかりの誰かに気づいてもらえさえすれば、通報なりなんなりしてもらえれば、きっとこれ以上悪いようには――
とにかく、ボクは精一杯声を振り絞って助けを呼ぼうとした。
「だれかたすけ――」
そう声を出すやいなや、男はボクの首を押さえつけ、みぞおちを強く殴りつけた。
「声ださないでよ、なあ?」
男は抑えながらも異様に上気した声色で、そう脅し掛けてきた。
みぞおちを突かれた激しい痛み、せりあがってくる吐き気。こらえることもできず、嘔吐した。
男の興奮のしようは常軌を逸していた。
手から伝わる体温は高く、奇妙なほどの発汗。鼻をつく独特な甘い体臭。
明らかに、常人のそれではないことがわかった。
口の中は胃液に塗れ、体をよじるたびに殴られた痛みが蘇ってくる。
もはや抵抗する気はわかず、その後、永遠とも思えるような長い時間にわたって、ボクは男のされるがままとなった。
……その間、ボクの意識は現実世界と分離して、どこか遠いところにあったような気がする。
信じがたいような惨劇を目の当たりにしながら、遠いところでずっと、ボクに起こったこの出来事を事務所のみんなやファンが知ったらどう思うのか、考えていた。
公になれば事件になって、メディアに報道されたりするだろうか。
そしたら、同僚のアイドル達にたくさん迷惑をかけてしまうのかな。
プロデューサーも大変だろうな。
ボクは悲劇の偶像に成り下がる。セカイは悲劇を求めない。
求められることのないボクはもうきっと――。
意識を取り戻したときには、既に男は消えていて、暗い路地に薄く朝日が差し込んでいた。
体中に鈍い痛みがあって、衣服もボロボロに破れていた。
恥部から出た血は既に乾いて、赤黒く変色しているのがわかった。
徐々に思考を取り戻し、自分の身に何が起きたのかを理解しようとし始めた。
ボクは何をされてしまったんだろう。
"理不尽な暴行を受け、貞操を奪われてしまった"
中身の伴っていない言葉面だけの出来事として、頭でそれを飲み込んだ。
ただ、それ以上の大切な何かを失ってしまったような気がして、しばらく茫然自失としていた。
夜明けの乾いた空気を吸い込んで、まるで頭の中も空気で満たされたかのように空虚だった。
あったのは、昨日までとは何もかもが変わってしまったのではないか、という空恐ろしさだけ。
立ち上がるのが困難なほど、身体は言うことを聞かなかった。
それでも、ボクはとにかく今日予定されていた雑誌の撮影には出られないことを、プロデューサーに伝えなければならないと考えた。
そうすること以外、何も考えたくはなかったし、考えられなかった。
自分が今いる場所が襲われた地点とそう離れていないことに気づき、連絡をとるためのスマホを探しに体を引きずって歩いた。
スマホは捨てられたまま、同じ場所にあった。
――プロデューサー。
電話帳を開いて、彼の番号をコールした。
応答を待っている間、ボクはようやくその時になって気づいた。
まず、彼に何を言えばいい?
とにかく、今日の仕事には出られない、すまない?
もっと伝えるべきことがあるはずだった。
しかし、擦り切れてもなお、思考はそれを伝えてしまうことを本能的に拒んでいた。
ボクは頭の整理をつけられないまま、プロデューサーに不審に思われないために一生懸命に頭を働かせた。
どんな言い訳を話せばいい?
どんな声で言えばいい?
ボクは普段どんな声を出していたのだろう。
そもそも、こんな早朝に彼が電話に出るとも限らないじゃないか――。
せきを切って溢れ出る自家撞着に終止符を打つように、スマホの向こうから声が聞こえてきた。
「あー、もしもし、飛鳥?どした」
「……」
声は出なかった。
そして、彼の少しまぬけな寝起きの声を聞くと、涙が頬を伝った。
「おーい。もしもしー、飛鳥?……あれ」
「っ……」
溢れる涙を止められずにいた。全身の力が抜け、その場に座り込んだ。
何か応答しなくては、そう強く思っても、何も言葉が出てこなかった。
「飛鳥?大丈夫か?どうした?」
「……」
何かを感じ取ったか、プロデューサーが心配そうな声で語りかけてきた。
深刻な顔をしている彼の顔が目に浮かぶようだった。
続けて何かを話す彼の声が聞こえたが、ボクの精神はとうに限界をむかえていた。
ふらりと視界が暗転し、ボクはそこで気を失った。
次にボクが目を覚ましたのは、都内の大きな病院の、今ボクが日々を過ごしている病室だった。
✻✻✻✻
次にボクが目を覚ましたのは、都内の大きな総合病院の、今ボクが日々を過ごしている病室だった。
外傷が多かったこともあって、ひとまず検査入院することになった。
入院直後に分かったことだが、ボクは声を出せなくなっていた。
話そうとすればするほど、口から言葉が出てこない。
小賢しい弁をもてあそぶきらいのあったボクが、いまや自分の口で意思表示をすることすら叶わないなんて、とんだ皮肉だね。
医者は、心因性の失声症、要するに暴行が原因で声を出すのがトラウマなっているんだと言っていた。
多くの場合、暴行による外傷が治るころには克服される、とも。
検査が終わって、外傷はじきに治癒するとのことだったが、失声症の様子見もあって、しばらく入院を継続する運びとなった。
[P]
コンコン、と病室のドアをノックして、ゆっくりと開いた。
「……おっす」
はじめに何と声をかけるべきか、考えあぐねた結果、意味もなくぶっきらぼうな感じになってしまった。
「……」
病室のベッドの背もたれに体をあずけてぼんやりしていた少女が、体を起こして会釈した。
俺の担当アイドルの一人、二宮飛鳥。
事件に関する警察の聴取が終わって、彼女と面会可能になったため、仕事やこれからのことを話しにやってきた。
「元気……じゃないよな。今、大丈夫か?」
「……」
飛鳥は無言で頷いた。
彼女の状態については、医者からある程度聞いていた。
心因性失声症。
暴行の恐怖に囚われた飛鳥の気持ちを思うと、ズキズキと心が痛む。
「仕事の話だけど、飛鳥が心配することは何もないよ」
「とりあえず、体調不良のため休養中という扱いになってるから、今はゆっくり休んでほしい」
「今のところ事件はおおやけになっていないし、警察の方にも公表はしない方針でと伝えてある」
そう俺が言うと、飛鳥は伏し目がちに小さく頷いた。
「あ、そうだ。これ」
俺は懐から手のひらほどの小さなメモ帳とボールペンを取り出して、飛鳥に渡した。
「伝えたいことがあれば、書いてみせてくれ」
飛鳥はそれを受け取って、何か伝えたそうに口をもぐもぐさせてから
『ありがとう』
と細い字で書いたメモ帳を見せてきた。
「うん。あとな、学校のほうにはちひろさんから連絡してもらって、しばらく休んでも大丈夫だって」
「あ、もちろん理由は伏せてあるし、そこらへんは心配しなくていいよ」
「……」
俺の言葉にしおらしく頷くだけの飛鳥は、らしくない痛々しさを伴って、その身に憂いを帯びていた。
「よし、業務連絡はこのくらいにしておくか!」
「実は、事務所のみんなからいろんなもの預かってきてるんだ――」
他のアイドルたちに、飛鳥のことをどこまで伝えるかは社内でも判断が割れたところだが、交友のあったアイドルだけに口外禁止を条件に、暴行に遭って療養中で一時的に声が出なくなってしまっている、と知らせることにした。
一部のアイドルはとてもショックを受けていたが、俺の担当を含めみんな普段通りを心がけてよくやってくれている。
前を向ききれていないのは、この俺だけなのかもしれない。
他愛のない話をいくらかしたあと、覚悟を決めて俺は一番大事な話を切り出した。
「飛鳥は……まだ俺と一緒にアイドルを続けたいと思うか?」
「……」
飛鳥はその言葉にピクリと反応したが、じっと考え込んだままボールペンを走らせることもなく黙った。
「もし、周りの目がこわいとか、ステージに上がりたくないとか、思うところがあるなら、遠慮なく俺に伝えてほしい」
「……」
「まあ、あれだ。警察の話では、犯行に計画性が見られないとか、状況的に、飛鳥を狙って及んだ可能性は低いと考えられる、らしい。だからその……」
飛鳥が襲われてしまったことと飛鳥がアイドルであることに関係性はない?
だから、これからもアイドルを続けてほしい?
俺は飛鳥があの日の事件をきっかけにアイドルをやめてしまうことを恐れている。
努力を重ね今に花開こうとしている飛鳥が、謂れのない不幸によってアイドルに絶望を抱いたまま萎んでいく姿を、俺は見たくない。
でも。
こんなにも傷ついている飛鳥を目の前にして、俺にそんなことを言う権利があるだろうか。
「――いや、そういうことはおいおい考えておいてくれればいいよ」
飛鳥にアイドルであってほしいと願うのは、俺のエゴでしかない。
どんな選択をしようとも飛鳥がそう決めたなら、俺はそれを尊重するべきだ。
「今は飛鳥の体が一番だからな」
そう言葉をかけてから、席を立った。
話をじっと聞いていた飛鳥は、ベッドに視線を落としたまま相槌を打った。
「……ああそれと、親御さんには俺から伝えた。近々見舞いにいらっしゃるそうだ」
「それじゃ、またくるよ」
そう声をかけて、病室の扉を閉めた。
――申し訳ない。
あの日飛鳥に起きた不幸を知ったときから、俺は自責の念を払いきれずにいる。
俺は、飛鳥が夜にたびたび寮を抜け出して、近くの公園に行っていたことを知っていた。
節度はわきまえるように、と飛鳥には言っていたが、一方で俺は大目に見てやってください、と女子寮の寮監に頼んでいた。
治安はとても良い地域で、近場の公園程度なら夜に出歩いても大丈夫だろう、そんな腑抜けた考えのもとだった。
多感な時期に縛りつけておくよりは、好きにさせてやりたかった。担当アイドルの中でも、年少である彼女への贔屓目もあったかもしれない。
俺がもっと有能な人間であれば、今回の事件は起きなかったんじゃないか。
少なくとも、いくら治安が良いといっても、年端もいかない女の子がひとりで夜に出歩くことは、厳しく制限するべきだった。
想像力、危機管理、マネージメント能力。
すべてに至らなかった俺の責任は計り知れない。
……いや、もうやめよう。
こういうときこそ、目の前のひとつひとつを大切にしていかなきゃダメなんだ。
今すべきことは、飛鳥が戻ってくる時のために最善を尽くすこと。やるべきことはいくらでもある。
自分を責める前に、手を動かせ。
そう自分に言い聞かせて、俺は病院をあとにした。
[飛鳥]
ボクが入院してから、3週間が経った。
プロデューサーをはじめ、事務所の親しい同僚たちも何度かお見舞にきてくれた。
蘭子にいたっては、ボクのことを案ずるあまり、普段のあの口調を一度も発揮することなく、ひたすらに心配であるという旨を話しつくして帰っていった。
あれではこちらが心配になるというものだ。
しかし、見舞いにきてくれるというだけで、今のボクにはありがたかった。
誰かが話しかけてくれていれば、あの日ボクの身に起きた出来事について考えずに済むから。
この塞がれた空間に独りであっては、ボクにゆるされることなど後悔くらいというものさ。
ヒトが得た際限なき思想は、時に無限の苦しみを以て己に牙をむくようだ。
もっとも、ボクがあの時、用もないのに公園にいこうとさえしなければ――。
病室にひとり思い耽って、また呵責の輪廻に取り込まれてしまいそうになったその時、扉をノックする音が聞こえた。
「おっす」
プロデューサーがいつものようにのそのそと入ってきた。
手に持っているのは菓子折りだろうか。
彼は仕事の合間を縫って、短い時間ではあるが、頻繁に見舞いに来てくれる。
やあ、と以前のように挨拶を交わしたかったが、今日もボクは声を出せなかった。
ボクの意図に反して、声帯は緊張を起こし、声を出すことを拒否し続ける。
申し訳ない。
仕事はおろか、ろくにコミュニケーションも図れないこのボクに、手間暇をかけている余裕はあるはずもないのに。
プロダクションにとって、アイドルが商品であるなら、ボクはとんだ不良債権だ。
「いや、大丈夫だよ」
「そんな顔しなくても」
気遣うように微笑みながらプロデューサーはそう言った。
そんな顔。
ボクは今どんな顔をしているのだろう。
入院してからというもの、鏡を見る機会がめっきり減った。
……きっとひどい顔をしているんだろうな。
「体のほうは大丈夫か?先生からはかなり良くなったって聞いたけど」
『ほぼ完治さ』
そうメモ帳に書いて見せると、プロデューサーは顔をほころばせた。
ただ、ボクの不安は治りゆく外傷に反して、日を追うごとに増していくようだった。
もしも、声を出せるようにならなかったら?
実のこと、いくら安静にしていても、もうボクの声が戻ることはないんじゃないか、と心の隅で恐れている自分がいる。
どうしてそう思うのかもわからないし、そもそもボクが声を失ってしまった理由でさえも自分でははっきりしない。
何もわからない自分が嫌になってくる。
「不安だよな」
「はは、そりゃわかるよ。顔にそう書いてあるもん」
どきりとした。
そのとおり、不安なんだ。
あの日ついた傷が治っても、あの日失ったものは何ひとつ戻ってこないような気がして、たまらなく不安なんだよ。
そう、彼にぶちまけてしまいたかった。
でも、今のボクにはその手段すらない。
「やっぱり」
「――実はさ。ほんとなんとなくなんだけど」
「飛鳥が声を出せない理由、あの日のトラウマ以外にあるじゃないかなって思うんだよ」
慎重な面持ちで彼はそう言った。
どうなんだろうか。
ボクにもそれは分からないんだ。
「なんというか、最近の飛鳥の顔を見てるとそう思うんだよ」
プロデューサーがそう思うのなら、そうなのかもしれない。
けれど、たとえそうだとして、ボクにできることはあるのだろうか。
何も分からないこのボクに。
「大丈夫。まだ確かなことは言えないけど、きっと声は戻ってくる」
「俺がその方法をがんばって探すから、もう少しだけ待っててくれ」
彼の言葉は力強かった。
根拠のない空元気のようにも見えたが、それでも気持ちは少し救われた気がした。
ありがとう、と口だけで伝えた。
「どういたしまして。これでも飛鳥のプロデューサーだしな」
[P]
飛鳥の前でそう意気込んでから1週間が経った。
しかし、精神病についてや鬱に関する情報を少し集めたくらいで、まだ何も解決策を考えられてはいなかった。
というのも、飛鳥のことがあってからここ1ヶ月、まともな休みをとっていない。
すべき仕事がいくらでもあって、自分の休みどころではなかった。
つまり、飛鳥のことを考える時間もろくにとれていないわけだ。
あの時、飛鳥をどうにか元気づけたい一心で無責任なことを言ってしまったことを今更後悔しはじめていた。
明らかにキャパオーバーだ。自分にこなせる仕事量ではない。
でもそれはわかっている。
わかっていながら、半ば狂ったように回ろうとする歯車を止められないでいる。
ただ、先週飛鳥と顔を合わせたときは確かに、飛鳥から抜け落ちてしまった何かを見たような気がした。
だからといって、時間も知識もない俺がそれを埋め合わせてやれるわけはなかったのだが。
結局のところ、別の専門の病院にかかるのを提案するくらいしか、今の俺にはできないのだろうか――。
そんなことを社用車の運転席で考えていると、ガチャりと音を立てて助手席のドアが開いた。
「おまたせ〜♪」
と陽気に乗り込んできたのは担当のひとり、一ノ瀬志希。
「ああ、おつかれ。撮影はうまくいったか?」
「べっつにぃ、普段通り〜。ほら、志希ちゃんがんばらなくてもできる子だから。つねにサイコーのパフォーマンスをゴテイキョーってね〜♪」
彼女はそう言ってシートベルトをつけた。
いつも調子の良いことばかりを並べて奔放だが、実際そのとおりにやってのけてしまうだけの才能を持っている。
俺が担当しているなかでは一番の人気アイドルだ。
「そりゃなにより。最近現場についてやれてないから申し訳ないと思ってるけど、心配はしてないよ」
「ま、そこらへんはノープロブレムのモーマンタイかなー」
少しつまらなそうにそう言ってから、
「志希ちゃんからしたらキミの方がよっぽどおつかれで心配だと思うなー?」
と、わざとらしく真面目な顔して俺を覗き込んだ。
俺はゆっくりと車を発進させた。
「……まあ、自覚があるだけ大丈夫だ」
「ふ〜ん」
ただでさえ、飛鳥の穴が空いてしまって他のアイドルに心身ともに負担をかけている状態だ。
ここで俺が倒れてしまっては、それこそ立ち行かなくなることも出てきてしまう。
これ以上、アイドルたちに余計な心配はさせたくない。
しかし、光明の見えないこの状態だからこそ、やれることはやらなくちゃならない。
それは俺が飛鳥のプロデューサーである限り。
ただ、そのやれる限界が近いことも重々承知している。
「はぁ……」
「ねえねえキミ〜。大丈夫って言ったそばからため息はないでしょ〜」
「いやぁ。追い詰められた時こそ人は真価を発揮するとか聞くけど、つくづく俺の無力さを痛感する日々だよ」
「おっ、なになにメランコリー?そんなあなたにオススメのリラクゼーション〜♪その名も〜、失踪っ♪」
「しないよ。俺が失踪したら困るのは志希だぞ」
「困らないよ〜?なぜなら、あたしも失踪するから!」
ケラケラと笑う彼女を尻目に、しっかりと安全確認をしつつハンドルを切る。
「じゃー、これから一緒にゆこうじゃないか♪思いきってトビキリ遠くまでいっちゃう?」
「事務所直行な」
そんな他愛ない会話を交わしていると不意に
「飛鳥ちゃん、けっこう深刻な感じ?」
と志希が聞いてきた。
助手席に目をやると、いつのまに取り出したのか、俺のバッグにしまっていたはずの精神医学について書かれた本をペラペラとめくっていた。
「こら、勝手にバッグを漁るんじゃない」
「こんなの読まなくても、志希ちゃんにいってくれれば診察してあげるのに〜」
「お前は医者じゃないだろうが」
「あは、バレた?でも少なくともキミよりは正しい判断ができると思うな〜」
「ぐぬぬ……じゃない、それ読むくらいなら来週収録の台本でも読んでなさい」
「え〜。……で、飛鳥ちゃんは?」
「……まあ、身体の方はじきに完治するらしい。ただ、失声症のほうがちょっとな」
「もどらない?」
「うん。原因がわからないんだよ。暴行のトラウマだって医者は言うんだが、飛鳥の顔を見てるとどうも違うような気がしてな」
「なるほどにゃ〜。それで自分でこんな本を買って調べてたってわけ。それで何かわかったの?」
「それがどうにも。今のところ何か飛鳥に目立った様子があるわけじゃないし、本人もよくわかってないみたいだから調べようがないって感じで」
「ん〜?でもキミは飛鳥ちゃんを見て何か感じ取ったんだよね?」
「そうなんだけど、これといって確証があるわけじゃないんだ。ただなんとなくそう感じたってだけで」
「感じたっていうのは、具体的にはどう?」
いつになく真剣なまなざしをして彼女が問う。
俺は飛鳥があの時浮べていた表情を思い起こした。
自分の中で、もやに覆われてはっきりしないでいた違和感をたぐり寄せて、それを言葉にしてみた。
「俺に対して申し訳なさそう、という感じ、かな。いや、単純に申し訳なさそうにしているわけじゃないんだけど。俺が見舞いに来ること自体は様子を見るに嫌そうじゃないから」
「ただ、なんというかな……恐れてるのかな、何かを」
「んー……なるほどね〜。うん、だいたいわかった」
あまりうまく伝えられた気はしないが、彼女の頭の中では何が理解されたのだろうか。
「ヒトってねー、案外もろくて壊れやすいモノなんだよ。飛鳥ちゃんみたいな、純粋で不安定な年頃は特に」
「ま、飛鳥ちゃんはとりわけセンシティブな方だと思うけど」
「やっぱ専門の病院にかかったほうがいいと思う?」
「ノン。あたしはそう思わない」
「どうして?」
「あたしの想像が正しければ、ドラッグやカウンセリングで解決するものでもないし、なによりも天才ドクターアイドル志希ちゃんにいい考えがあるからでーす♪」
「……本当か?」
ドクターアイドルというとってつけた肩書きを認めるわけにはいかないが、
本当に解決策があるというのなら、喉から手が出るほど教えてほしい。
「志希ちゃんウソつかなーい」
目的地に到着したことを知らせるカーナビを切り、車を事務所の駐車場に停めてサイドブレーキを引いた。
「聞かせてくれ」
「まあまあ落ち着きたまえ。この一件、とりあえずあたしに預けてみるっていうのはどう?」
「?……というと?」
「理由はみっつあります。その1〜♪明日志希ちゃんは久々のオフ。だから、あたしが直接飛鳥ちゃんを診察します」
「その2〜♪そのうえで飛鳥ちゃんの治療には長く密接な時間が必要になると思われます。どうせ多忙を極めるキミの手には負えません」
「その3〜♪担当アイドルに身体の心配をされるようなプロデューサーではそもそも不適格。しばらくその使いっぱなしの頭を休めることを推奨。方法としては失踪がオススメかにゃ〜」
「……つまり、俺は休んでろと言いたいのか」
「さすがはプロデューサー、物分かりがいいね~」
「はあ……」
担当に心配されるようなプロデューサーでは不適格、か。
実際その通りなんだからままならない。
奔放な志希に仕事のことで戒められる日がくるとはなぁ。
「ではそゆことで。それじゃ、明日病院から飛鳥ちゃんがいなくなっても大丈夫なように取り計らっといてほしいなー。じゃあね~♪」
「えっ」
そういって志希は車から降りて、止める間もなくどこかへ行ってしまった。
……なんだか、嵐に見舞われたような気分だ。
担当に気を利かされて立つ瀬がないといえばそうだが、それで飛鳥の状態が良くなるのなら言うことはない。
俺にできることがなくて、志希に策があるというなら、一度彼女の言う通りにしてみるべきなんだろうな。
とりあえず、何をするつもりなのか志希に電話で確認して、それから退院なりなんなり病院にかけあってみるか。
そうと決まれば、今さっき増えたタスクをこなして、また次の営業に出かけるとしよう。
飛鳥が戻ってくるときのためにやっておくことはいくらでもある。
[飛鳥]
「やっほ〜♪」
一ノ瀬志希はノックもなしに病室のドアを勢いよく開けて入ってきた。
「久しぶりだね〜、飛鳥ちゃん」
昨日、明日志希がそっちに行くからとプロデューサーから手短な連絡を受けた。
「実は志希ちゃん病院のにおいが苦手なんだよね〜。この次亜塩素酸ナトリウムのにおい!」
そこらをハスハスしながら、彼女はそう言った。
じあえ……?
相変わらずこの天才娘の言うことはよくわからない。日本語で喋ってほしいと何度言わせるつもりだろうか。
ま、今のボクにそれを言うことはできないけれど。
「まー、このにおい自体が嫌いなんじゃなくて、病院ってそれ以外のにおいがしないからつまんないんだよね」
そう言いながら志希はボクのほうへすり寄ってきて、顔を近づけた。
「ところでエクステのない飛鳥ちゃんも新鮮でいいね〜?ハスハスしちゃお♪」
突然の奇襲。
まったく、彼女のすぐににおいを嗅ぎたがる習性には呆れるしかないな。
「ん〜、やっぱあんまり飛鳥ちゃんの香りがしないな〜。志希ちゃんガッカリー」
急に嗅がれたあげく幻滅されるボクの身にもなってほしい。
というか、この娘はボクのにおいを嗅ぐためにここに来たのか?
プロデューサーから事前に連絡があったから、てっきり何か用があるものかと思っていたのだが。
「ハッ、そうだ!あたし、飛鳥ちゃん専属ドクターになったんだった」
「このつまんない空間から飛鳥ちゃんを救いにきたんだよ」
突拍子もないことを言うのはいつものことだが、やはり何を言ってるのか理解しがたい。
「じゃあさっそく始めようか、ドクターアイドル志希ちゃんの診察ターイム♪」
「今の飛鳥ちゃんに何の成分が足りていないのかをはっきりさせるために、いまからいくつか問診をします。それにイエスかノーで答えてね♪イエスなら頷く、ノーなら首をふる。オーケー?」
どうして彼女はそんなことをしに来たのだろう。
色々と頭が追いつかないが、彼女が自分のオフを使ってここにきたというのだから、答えないわけにはいかないが。
「うんうん。それじゃー、はじめよっか」
「自分の気持ちに正直にね」
「キミはあの日以来、男性が怖くなった?」
ノー。
「夜や、暗いところが怖くなった?」
ノー。
「暴行やその日のことを今でも繰り返し思い出す?」
……イエス。
あの日、自分が犯してしまったミスを数えきれないほど思い返しては、後悔している。
「暴力に極度な嫌悪感、拒否感を覚える?」
……わからない。
だが、はっきりと覚えているのは痛みくらいなもので、どんなことをされたのかまではあまり覚えていない。
当然あんな痛みは二度と味わいたくはないが、極度な拒否感と言われれば……
……ノー、かな。
「暴行に遭ってしまったことには、自分にも落ち度があると思っている?」
イエス。
あの日、夜道を出歩きさえしなければ、こうなることもなかったはずだ。
「自分のせいでプロデューサーや事務所のみんなに迷惑をかけたと思っている?」
……イエスだろう。
実際、少なからず影響は出ているはずだ。
「迷惑をかけることしかできていない自分を不甲斐なく思っている?」
……それは……。
「……犯されて、声も出ない自分は無価値?」
……。
彼女は突然、ボクの返答を待つこともなく抉るように残酷な問いを投げかけてきた。
――答えたくない。
急に心臓の脈打つ鼓動が早まってくる。
彼女から発せられた言葉が、耳から頭、頭から心臓、心臓から全身へと行き渡り、冷たい汗が浮かんでくる。
ボクの心が、彼女の声を拒んでいた。
しかし、ボクの反応を意に介することなく志希は質問を続ける。
「誰にも求められることのない自分に、もう居場所なんてないと思っている?」
その言葉は、必死に隠して見ないようにしてきた自分への自己評価を暴き、ボクの心を覆って守っていたベールを引き裂いていくようだった。
心拍はさらに加速し、汗を握る手は力んで、手のひらに爪が痛いほど食い込んでゆく。
「じゃ〜、最後の質問――」
もういい、やめてくれ。
もう十分だ。
これ以上は聞きたくない。
喚き散らしたかった。
――もう、ボクを見ないでくれと。
「――自分はもう、偶像〈アイドル〉としての資格を失ってしまったと思っている?」
両手で耳を塞いで、膝を折って顔をうずめ、精一杯身体をこわばらせた。
それがボクにできた最後の防衛手段だった。
ボクはボクの心に感知しないでいたかった。
本当は気づいていた。
あの夜、偶像としての二宮飛鳥は死んでしまった。
もう、取り返しはつかないんだ。
ボクは、壊されてしまったから。
「そんなことないよ」
そう、優しさに満ちた声がした。
そして、やわらかく、あたたかい彼女の手がボクをそっと包んだ。
ふわりと鼻腔を通るトワレの香りが心地よかった。
「よしよし♪ひどいこと言ってごめんね〜」
そう言いながら彼女はボクの髪を撫で回し、身体を抱き寄せた。
「ハスハス……うん、これでこそ飛鳥ちゃんだ」
急になんだか恥ずかしくなってきて、彼女の腕を引き剥がして、いつのまにか流れていた涙をぬぐった。
「さて、問診の結果だけども」
「飛鳥ちゃんに足りていないもの、それはズバリ〜?」
「アイ!そう、ラブだね♪」
実に自信ありげな顔で彼女はそう告げた。
ボクさえ直視できていなかったボクを解き明かした彼女には、いったい何が視えているというのだろう。
「それっぽくいうと、重度のストレス負荷による自己肯定感の欠如、かな?専門じゃないからわからにゃいけど、にゃはは〜」
「要するに、飛鳥ちゃんは自分が愛されているってゆー確証をなくしちゃってるわけ」
「わかるね?」
志希がまっすぐボクを見つめる。
死んでしまった心に気づかないフリをするボクを、彼女は許してはくれない。
これ以上、誰にも見られなくはないのに、傷つきたくはないのに。
「だからきっと、飛鳥ちゃんが心から安心して、自分を肯定できるようになったら、声も戻ってくるんじゃないかなー」
「それで、具体的にこれからどうしたら飛鳥ちゃんが自分を認めてあげられるようになるかなんだけどー」
彼女は矢継ぎ早に述べ立てる。
起きてしまった事象は、もう巻き戻せないというのに。
「なんと、この度志希ちゃん、オススメのリラクゼーションがありまーす!パチパチパチ〜♪」
彼女の言うことは、ろくでもないことばかりだ。
でも、そんなろくでもないことは、根拠の見えない確からしさをもってボクの心に侵入する。
「その名も、失踪!」
もはや二宮飛鳥という仮面を失ってしまったボクに、彼女は"そんなことないよ"と言った。
彼女の持つ根拠の見えない確からしさに導かれて、ボクが少しだけその言葉を信じられるとすれば。
ボクはまだ、砕け散ったペルソナの欠片を拾い集められるのだろうか。
「さあ、善は急げってね。ゆくとしようか、キミ」
[比奈]
出来事というのはいつも突然に訪れるものだ。
ガチャリ。
「Good evening♪荒木センセ♪」
「えぇ……こんばんは。いきなりどうしたんスか志希ちゃん」
インターホンが鳴ったから出てみれば、そこにはアタシの同僚のアイドルである一ノ瀬志希がいた。
アタシが同僚と呼ぶのもおこがましいほど人気沸騰中のアイドルである彼女を気安く同僚と言っていいのかはわからないけれど、一応同じプロデューサーに担当されている間柄。
でも彼女をうちに呼んだ覚えはないし、そもそも彼女はアタシの住所すら知らないはず……。
いや、そんな常識的な通念で測ることのできる子ではないか。
「も〜、顔合わせるなりドン引きなんて失礼しちゃうな〜?」
「や、それはその、このビックリな出来事自体に困惑したというかなんというか、いや、困惑ってのもアレなんスけど」
「にゃはは、ジョークだよジョークぅ〜♪」
……この手のコミュニケーションは専門外なんスよ。
「……それで、アタシに用事か何かでスか?というか、なんでアタシのマンション知ってるんスか……」
「それは〜ほら、フラフラ〜っと失踪してて気がついたらここに?みたいな♪」
「ぜったいウソっス……」
「細かいことは気にしなーい♪それで、実はセンセに折り入ってお願いがありまして〜」
「はあ」
「というのも、しばらく飛鳥ちゃんを預かってほしいんだよね〜」
「ええっ。飛鳥ちゃんって、あの飛鳥ちゃんでスか?たしか彼女入院中じゃなかったっスか」
「うん、もちろんその飛鳥ちゃん。身体の方はもう大丈夫なんだけど、まだ声が出るようにならないんだよね〜。それで、飛鳥ちゃんの声を取り戻すためには近しい誰かと一緒に過ごすのが一番良いかなーって思って」
「それでアタシでスか。……それ、アタシでいいんスか?アタシと一緒にいるなんてむしろ飛鳥ちゃん病んじゃいませんかね」
年の近さや仲の良さでいったらきっと蘭子ちゃんとか寮の子たちのほうが気が楽だろうし、適している気が……。
いや、いきなり寮には戻すというのも酷な話なのかな。
門限を破って被害に遭ってしまった飛鳥ちゃんからしてみれば、申し訳なさやら、迷惑をかけた手前複雑な気持ちがあるだろうし。
「むしろセンセこそ唯一にして最適な存在だと志希ちゃん思うな〜♪」
「それはどういう」
「だって、この時期に休暇をとってて飛鳥ちゃんと一緒にいられる時間に余裕がある人なんてなかなかいないからね〜」
それはたしかにそうだ。
調整に調整を重ねて、冬コミ前は毎年まとまった休みをもらえるようにプロデューサーに頼んである。
ちょうどこれから冬コミに出す同人誌を製本が間に合うように追い込みをかけて仕上げる時期だ。
しかし、それゆえに時間に余裕があるわけではないんスけども。
でも、飛鳥ちゃんのためになるというなら仕方がない。
人ひとりがうちに増えることなんてどうということはない、多分。
であれば、いくらでも喜んでムネをかそうじゃないでスか。
「暇ってわけじゃないんスけど、そういうことなら、分かりました。それで、飛鳥ちゃんが来るのはいつからになるんスかね?」
「んーとねー、……今から♪」
そう言って彼女は唐突にスマホを取り出し、誰かに電話をかけ始めた。
「えっ。今から?まさか今からっスか!?」
「あー、飛鳥ちゃん?センセ、飛鳥ちゃんのためならーって快く引き受けてくれたよ♪」
「ちょ、こういうのってふつう前もってアポとるもんスよね!?そんな急に言われても部屋とかきたな――」
「さっき言った部屋番まであがってきてね〜、それじゃ」
「え゛っ。すでに到着してる感じスか?ていうかそれぜったい最初から一緒に来てたやつじゃないスか!」
「これでよし!志希ちゃん、任務カンリョー♪」
彼女は通話を切り、わざとらしくそう言ってみせた。
「よしじゃないっス。こっちにも準備があるんスから、せめて前もってぇ……」
「前もってLINEしておいたよ?」
「ぜったいウソっ――」
「あ、ほんとだ」
スマホを取り出して確認してみると、本当に志希ちゃんからLINEが来ていた。
「――ってコレ5分前じゃないっスか!」
「にゃは、バレたか〜♪」
「も〜……。まあいいっス、ハイ。ここで追い返すわけにもいかないし」
「うん、センセならそういってくれると思ってたー。さすがイイ人!」
彼女は万事計画通りだと言わんばかりに笑みを浮かべた。
へいへい、どうせアタシは彼女の手のひらの上っスよ、と心のなかでいじけてみる。
しかし、実のところアタシは妙に嬉しくもあった。
良くも悪くも、この子は興味のないことには一切関心を示さないタイプだから、ひょっとすると、同僚のことなんて歯牙にもかけていないのかもしれない、と心の何処かで距離を感じていた。
でも、それはアタシの間違いだったというわけだ。
彼女は同僚の飛鳥ちゃんのために、アタシが置いていた距離を飛び越えてここまで来てくれた。
あまりの遠慮の無さには呆れるけれど、それも悪くはない。
「……志希ちゃんも、十分イイ人っスよ。まだ伝えられないかもしれませんが、飛鳥ちゃんもきっと感謝していまス」
アタシがそう言うと、彼女は少し虚をつかれたようなそぶりを見せ、小さくつぶやいた。
「……キミ面白いこと言うね」
「?」
彼女の発した言葉の真意はよくわからなかったが、その顔はどこか満足げに見えた。
「――お、来たきた。こっちだよ〜」
階段のほうからゆっくりと歩みを進める飛鳥ちゃんの姿が見えた。
お見舞いに行って顔を合わせた時よりも、またいくらか身体が細くなったように感じる。
なにより、パーカーのフードをまぶかにかぶってうつむき加減に歩くその姿は頼りなく、以前までの飛鳥ちゃんよりも随分小さく見えた。
「退院、おめでとうございまス。飛鳥ちゃん」
アタシがそう声をかけると、飛鳥ちゃんは一瞬だけ目を合わせて会釈した。
その様子は、人見知りがするようなそれではなく、あまり健常とは言えないような痛々しさをまとっていた。
前にお見舞いに行った時はそこが病室だったからわかりにくかったのか、今こうしてこの場で見てみるとそれがはっきりと感じられる。
日が暮れて暗くなった街の背景に、飛鳥ちゃんの白く薄い肌が浮いていた。
「んー、退院というか〜……どっちかっていうと失踪のほうが近いかも、なんちゃってー♪」
「……えっと、大丈夫なんスよね。ソレ」
「一応プロデューサーには言っておいたし?」
「そっスか」
……プロデューサーも大変っスね。
アタシはもうこのトンデモ娘の行動については深く考えないことにした。
「それじゃあたしはそろそろ帰るねー」
そう告げた彼女はコンビニ袋に入った生活用品やらをアタシに手渡し、階段のほうへ歩いていった。
かと思いきや、途中で急に何か思い出したかのように踵を返して、飛鳥ちゃんの目の前まで戻ってきた。
「いやはやシッケイ、あたし飛鳥ちゃんに一番大事なこと伝えるの忘れてたー♪」
そう言って志希ちゃんは真面目な顔をして伏し目な飛鳥ちゃんを見つめた。
そして、少し冷たいようで力のこもった声で続けた。
「あたしは待ってる。キミとまたステージに立つ日を」
「――愛してるよ、飛鳥ちゃん♪」
まるでドラマのワンシーンのようだった、ロケーションがアタシの部屋の前でなければ。
この愛の告白を至近距離で目撃するアタシの立ち位置は何なんだろうか、などと考えながらポカーンとしていると
「じゃ、あとはまかせた〜♪」
と言い残して彼女は足早に帰っていった。
彼女に足りないものは説明能力だとアタシは悟った。
撒き散らしてゆく情報量のわりに、それに対する説明がなさすぎる。
考えてもしかたがないわけだ。
唐突な愛の告白を受けた飛鳥ちゃんは、アタシの目を気にしているのか、身のやり場がなさそうだ。
大丈夫っス、アタシはそういうのには理解があるほうっスから。
などと心の中でありがちなセリフを言ってみてから、過ぎ去った嵐が残していった飛鳥ちゃんを、とりあえず家の中へ招き入れることにした。
「……なか、入りまスか」
こうして、ある日突然考える間もなく、アタシは飛鳥ちゃんと生活をともにすることになった。
[比奈]
アタシがもともと、飛鳥ちゃんに持っていた印象はおおよそ好意的なものだった。
少なくとも、仲は悪くない。
飛鳥ちゃんがアタシをどう思っているのかは分からないけれど、年の割に落ち着いているし、同じ漫画好きとして話が合う。
アタシと飛鳥ちゃんと乃々ちゃんの三人でユニットを組んだこともある。
ただ一方で同時にアタシは、二宮飛鳥というアイドルのひとりのファンでもあった。
彼女を見ていると、かつて中学生だったころの自分を思い出す。
日常や自分という存在に対して疑問の絶えない年頃というのは、程度の差はあれ誰にでもあるものなんだろう。
といっても、彼女ほどナイーブで純粋な心は持ち合わせていなかったから、アタシは胸のうちに留めているあいだに、いつのまにか"若気"を失ってしまったけれど。
自分に渦巻く問いに対して、どこまでも素直に在るその姿勢は、アタシにはとても眩しく見えて、自分ではあることのできなかったその姿に、時に憧憬すら覚えた。
彼女には人に共感を、共鳴を喚び起こす才能がある。
志希ちゃんとはベクトルが違えど、人を魅了する武器を持つという点では同じ、天性のアイドルだ。
――そう、思っていた。
声の出せない飛鳥ちゃんと一緒に過ごすようになってから数日。
ここにいるのは、人を魅了してやまないアイドル二宮飛鳥ではなく、自分の居るべき場所を見つけられない14歳の傷ついた少女だと分かった。
はじめの二日ほどは声が出せないという状態以外には特に何も問題はなかった。
しかし、まもなくしてそれは飛鳥ちゃんの意識的な、あるいは無意識的な強がりだったのだと知った。
飛鳥ちゃんの異常が顕著に現れるようになったのは、ささいな出来事がきっかけだった。
アタシは同人誌の原稿にペン入れをしているとき、のどがかわいたので飛鳥ちゃんにグラスに水を入れてもってきてくれるように頼んだ。
そして水を持ってきてくれた飛鳥ちゃんがテーブルにそれを置こうとしたとき、アタシはそうとは知らずうかつにも直接手で受け取ろうとしていた。
その結果、置こうとした飛鳥ちゃんの手のこうと受け取ろうとしたアタシの手のこうが空中でぶつかって、ガラスのコップを床に落とし割ってしまった。
大丈夫、大丈夫とできる限り飛鳥ちゃんが気にしないようにフォローしながら、アタシはこぼした水とガラス片を処理したが、飛鳥ちゃんはそれを過剰なほど気に病んでいて、なにか言いたげに口をパクパクと動かしながら冷や汗をびっしょりとかいていた。
その後もひどい動悸に襲われていたようで、背中をさすってあげて、しばらくしてようやく落ち着きを取り戻した。
この一件がきっと、飛鳥ちゃんが限界まで被り続けていた最後の仮面を引き剥がしてしまったんだと思う。
それからは、彼女が抱えていた心のほころびを体現するかのように、その身に異変を起こし始めた。
食欲が減退したりなど、生活の端々にその異変は見られたが、一番顕著なものはその日の晩、飛鳥ちゃんがお風呂に入ろうしたときのことだった。
風呂場に続く洗面所でドンッと何かが壁にぶつかったような物音がした。
気になったアタシはすぐにそこへ駆けつけた。
すると、飛鳥ちゃんが下着姿のまま壁に背中を預けるようにして、洗面台の鏡の前で放心していた。
アタシが声をかけると、顔を両手で覆ってその場にへたりこんでしまった。
アタシはとりあえず彼女を部屋に戻し落ち着かせてから、なにがあったのかを聞いた。
筆談を交えながら長い時間をかけて聞いたところによると、飛鳥ちゃんは鏡に映った自分の姿があまりに醜くなっていてショックを受けたということらしい。
アタシから見れば、事件に遭う前と今の飛鳥ちゃんの外見的な差は少し痩せて髪がやや伸びたくらいなもので、特にここ数日でもこれといった変化はしていない。
顔色は良くないけれど、今でもちゃんとかわいい。
おそらく、精神的に疲弊した彼女には現実とは違う姿に見えてしまったんだと思う。
そんな自傷的とさえ思われるような状態まで落ち込んでいる飛鳥ちゃんの隣で、アタシはどうしたら疲弊してゆく彼女の心を癒やしてあげられるのか、考えていた。
特別な知識があるわけでもないアタシに、なにができるのか。
できることなんてこれっぽっちもないのかもしれない。
――ただ、それでも。
そんなアタシでもどうして飛鳥ちゃんが苦しんでいるのかは、その様子を見ていてなんとなく理解できた。
きっと、彼女は自分のことを正しく評価することができていないんだと思う。
自分に対する価値付けが絶望的なほど下手くそになっていて、誰かが彼女に本当の価値を教えてあげないといけない。
……そして、その役目は多分、アタシなんスよね。
それが、志希ちゃんがアタシを頼って来た本当の意味だと直感した。
だから、アタシはどれだけ時間をかけてでも伝えようと決心した。
二宮飛鳥へ、一ファンとしてのアタシの愛を。
[飛鳥]
「お客さん、かゆいところはないっスか〜なんちゃって、へへ」
一人暮らし用の広くはない風呂場に比奈さんの声が響く。
比奈さんが一緒に入ろうと言った日から、彼女はこうして毎日ボクの髪を丁寧に洗ってくれる。
あまりに酷い顔をした自分が映る鏡を見てしまってから、洗面所を通ることすら億劫になったボクを見かねて、比奈さんは気を遣ってくれているんだと思う。
「飛鳥ちゃんは色白っスねー。ホント、すべすべできれいな肌っス」
「アタシなんか、日頃の不摂生がたたってカサカサっスよ。冬場は特に」
彼女ははじめよりボクに気を遣うようになった。
ボクが応えられないと分かっていても、嫌な顔ひとつせずに話しかけてくれる。
「あ、でも飛鳥ちゃんが来てくれたおかげで自炊する習慣がついたし、ぼちぼちアタシのお肌も本領発揮するかもっスねぇ〜」
本当に優しい人だと思う。
ボクがここでお世話になりだしてから、彼女は慣れない自炊にもかかわらず、「栄養のあるもの食べてほしいっスから」と、毎日手料理を作ってくれる。
彼女はどうして、ボクにそこまでできるのだろうか。
彼女からしてみれば、ボクという存在なんて急に押し付けられた厄介事でしかないはずなのに。
「いやー、やっぱ二人はせまいっスね、毎度すみません」
お湯を張った浴槽はもちろん一人用で、二人で入るとなるとボクが比奈さんに抱きかかえられる形で入るしかない。
比奈さんは苦笑いしながら、温かいお湯のなかでボクをぎゅっと抱き寄せる。
それが心地よくて、少しウトウトしてしまいそうになる。
「入稿も済んだし、冬コミが終わればもうすぐ年明けっスねぇ……」
水面を伝う波紋は穏やかで、体も心も時間もゆるんでゆく。
こうしているとなんだか、何もかも忘れてしまえそうな気がする。
「ふふ、なんかこれ姉妹みたいじゃないっスか?」
「実は最近、妹ができたみたいでちょっと嬉しいんスよ」
感慨深そうに比奈さんがそう言った。
……比奈さんが、姉。
一瞬、本当にそうだったらいいなと思ったけれど。
ダメだろうな、こんなボクじゃ。
「まあ、こんなだらしないのが姉じゃ大変だろうけど」
ボクは首を振ってそれを否定した。
「ふふ、ありがとうございまス。でも、一人でいる時はほんとだらしないんスよ、アタシ」
「プロデューサーにも迷惑かけてばっかりで」
「でも、迷惑をかけられるっていうのも一つの関係なんだって、プロデューサーは言ってくれるんスよ」
迷惑も、一つの関係。
「……飛鳥ちゃんは、どうしてアタシが飛鳥ちゃんに親切するのか、わかりまスか?」
「それはアタシがそうしたいからなんスよ」
「飛鳥ちゃんが大切だから、アタシがしたくてやってるんでス」
「だから、飛鳥ちゃんはアタシに迷惑をかけてくれていいんスよ」
そう言われて、ボクはあの事件に遭って以来はじめて、自分の居ていい場所に行き着いたような気がした。
身体を目一杯湯船に沈める。
そうすれば、頬を伝う雫は落ちてしまう前に湯船に溶けて消える。
彼女はボクに寄り添って小さくつぶやいた。
「だってアタシは二宮飛鳥が大好きなんスから」
その言葉とともに、彼女のあたたかい体温が密着した身体を伝って、ボクの内側の方まで染み込んでくるようだった。
――ああ、ボクはここにいていいんだ。
そう思った途端、固く結ばれた糸が解かれるように、心が弛緩していくのが感じられた。
「……ふぅ〜。ち、ちょっとのぼせてきたっスね。アタシそろそろあがるっス!」
少しの沈黙ののち、そう言った比奈さんは勢いよく立ち上がった。
そして真っ赤にのぼせた首筋を手で仰ぎながら、一足先に浴室から出ていった。
ボクはもう少し彼女の残していったぬくもりに浸っていたくて、また広くなった浴槽に深々と身体を沈めた。
[比奈]
「飛鳥ちゃん、今日は一緒にこっちで寝ないっスか?」
ここ数日でかなり飛鳥ちゃんの様子が平常に戻ってきていて、だいぶアタシにも気を許してくれるようになった。
まだ声は戻らないが、その他は随分良くなって比較的顔色も良くなっている。
だからそれを好機と見て、今までベッドで寝ることを勧めても遠慮していた飛鳥ちゃんを、粗末な来客用敷布団から引きずりあげるべく一緒に寝ることを提案したわけだ。
すると意外にも、飛鳥ちゃんは素直に応じてアタシの被る布団にのそのそと潜り込んできた。
「やっぱシングルっスから、ちょっとせまいっスよね。すみません」
当然ながら密着して寝なければならないのだが、飛鳥ちゃんは嫌がるそぶりもなくアタシに背中を預けてくれた。
毛布と布団で彼女の身体を包み込んで、アタシと同じシャンプーの香りがする飛鳥ちゃんを抱き寄せる。
「暑苦しくないっスか?」
彼女は小さく頷いた。
こうしてみるとやっぱり飛鳥ちゃんは中学生の少女で、身体も小さくて華奢だ。
やや乱れてはねた彼女の髪を優しくなでつけると、そのつややかで繊細な手触りにアタシは少し羨ましくなった。
「こんなにかわいいのになぁ……」
思わず声がもれてしまった。
こんなにかわいいのに、影が差してしまった飛鳥ちゃんを見ているとどうしても、もったいないと思わずにはいられなかった。
声と自信さえ取り戻すことができたら、彼女はまたステージに立てるだろうに……。
――そしてふと、昔のことを思い出した。
アタシが、プロデューサーに出会ったころの話だ。
「……ちょっと、前のアタシの話をきいてくれまスか」
「アタシ、アイドルを始める前までは自分のこと、ダメな人間だって思ってたんスよ」
「ずっと日陰者で色んなことを諦めながら、閉じこもって生きてきたっスから」
「でも、ある日プロデューサーに出会って」
「あの人、アタシにありえないことばっかり言うんスよね」
「君はかわいい、君にはアイドルの素質がある〜とか」
「まあアタシってば単純っスから、まんまと乗せられてその結果今に至るんスけど」
「今になって思えば昔のアタシは、ダメだと思い込んで自分に期待しないことで、ある意味、自分を守ってたんスよね」
「……その気持ち、きっと今の飛鳥ちゃんなら分かってくれると思いまス」
「だからこそアタシは、これだけは飛鳥ちゃんに伝えたいんスよ」
「飛鳥ちゃんはダメじゃないし、今もちゃんとかわいいんだって」
あの時、プロデューサーがアタシに伝えてくれたように、飛鳥ちゃんに伝えてあげられたら。
二宮飛鳥は、きっとまた。
「……だから、アタシは飛鳥ちゃんに諦めないでほしいっス」
「……」
アタシがそう言い終えると、暗く静かな部屋に、スースーと穏やかな寝息だけが音を立てていた。
最近は随分と寝付きも良くなったようだ。
顔は見えないけれど、安心して眠っている飛鳥ちゃんの顔を想像すると、少しほほがゆるんでしまう。
飛鳥ちゃんの体温があたたかくて、心地良い。
彼女がまたステージに立てることを願いながら、アタシも微睡みに身を任せることにした。
「……おやすみ」
[飛鳥]
「ただいまっス〜」
夜も更けて来た頃、年内最後の仕事から比奈さんが帰ってきた。
「いや〜、遅くなっちゃってごめんねぇ。友紀ちゃん酔っ払うと話長いんスよ」
どうやら飲んできたらしい。
いつも以上に少し気の抜けた調子で、居酒屋のにおいを纏っている。
「ご飯は食べたっスか?」
ボクは頷いて応えた。
「わ、洗い物までしてくれたんスね!」
毎日ご飯を作ってくれることに、ボクなりに少しでも報いられたらという気持ちで食器を洗ってみた。
「感激だなぁ……。嬉しいっスよアタシは」
なぜか比奈さんはそれがとても嬉しかったようで、飲んできたというのに冷蔵庫からお酒を取り出してまた晩酌を始めた。
その間、彼女はボクが食器を洗ったことにはじめ、自分の作ったご飯をボクがちゃんと残さず食べてくれるということ、ボクの顔色が良くなったことなどを、やたら感慨深そうに滔々と語った。
要するに、この人も酔っ払っているのだろう。
しばらくして比奈さんはビール一缶を空けた。
そして、少しのあいだ押し黙ったのち、口を開いた。
「今日、星がキレイだったんスよ。今から一緒に見てみないっスか?」
「といってもそこのベランダで、スけど」
あの日から、ボクはとくべつ星を見ようとも思わなくなっていた。
でも、彼女が見ようと言うのなら、それを断る理由はない。
「おし、じゃあ寒くないよう上着きていくっス」
「ふふ、息が白いっスね」
ベランダに出て、久しく見なかった星空を見上げると、そこには綺麗に澄んで輝く星々があった。
「こう見えてアタシ、星座には少し詳しいんスよ」
ふーっと白い息を吐いて寄り添いながら、しばらく二人で夜空に浮かぶ星の群れを眺める。
「あれがシリウス、プロキオン、ベテルギウス……」
比奈さんは光り輝く一等星を指さして、冬の空に三角形を描いた。
「ま、それはいいとして――」
「……実は、飛鳥ちゃんに聞いてほしいものがあるっス」
そう言って彼女は懐からスマホを取り出して、それにささったイヤホンの片側をボクに渡した。
イヤホンを着けてみると、事件の日以来聞いていなかったラジオが流れてきた。
ボクが一番好んで聞いていた、二人のパーソナリティがあてどなく駄弁るだけの深夜帯番組だ。
「少し前、なんとなしにこの番組を聞いてたんスけど、それが是非飛鳥ちゃんにも聞いてもらいたい内容だったもんで」
「プロデューサーに頼んでその回の放送を手に入れてもらったんスよ」
「嫌じゃなければ、少し聞いてもらっていいっスか」
ボクは頷いた。
冒頭の聞き慣れた挨拶からやや雑談を挟んで、ふつうのおたより、いわゆる"ふつおた"のコーナーに入ろうというあたり。
「ここからっス」
飲んで赤ら顔ながらも真剣そうな面持ちで、彼女はつぶやいた。
イヤホンが外れてしまわないよう隣り合って、都心の光る街並みと濃藍色の虚空に視線を投げながら、それに耳を傾ける。
『――それじゃ今日もふつおた読んでいこうか』
『はーい、ではさっそくラジオネーム"だいだい"さんからのお便りです』
"○○さん、××さん、こんばんは"
『こんばんは〜』
"毎週楽しく聞かせてもらっています"
『どうもどうも』
"私事で恐縮なんですけど、私がこの番組を知ったのは雑誌で某アイドルが好きなラジオ番組としてこの番組を挙げていたことがきっかけでした。パーソナリティのお二人はそのアイドルをご存知ですか"
『あー、はいはい。あれだ、二宮飛鳥ちゃんね』
『もちろん知ってます。ありがたい話ですよ。続き読みますね』
"私はそのアイドルのファンなんですけど、ひと月ほど前、彼女はとつ然体調不良ということで一時的に活動休止となってしまいました。その後、しばらく音さたがないので非常に心配です。そこで勝手で申しわけないんですけど、この番組で、きっとこれを聞いているであろう彼女にエールを送ってもらえないでしょうか。私は彼女がまたステージに立ってくれるのを待っています。どうかよろしくお願いします"
『と、いうことで』
『ずいぶん珍しいタイプのメール来たねぇ』
『ですねー。でもこれを読んだのには訳があるんですよ』
『というと?』
『実はこれとほぼ同じような内容のメールがですね、他にもたくさん来てまして。なんと、直近のメールの結構な割合がその飛鳥ちゃん絡みの内容なんです』
『はえ〜、そんなに。影響力すごいね』
『それが飛鳥ちゃんのファンのあいだではこの番組、かなり有名でして』
『そうなの?世間一般じゃ全然人気ないのに?』
『ええ。彼女のおかげで視聴者がかなりふえまして、今や視聴者の大半が彼女のファンだという説もあるくらい』
『どうりで打ち切り寸前だったのに持ち直したわけだ……というか、貴方なんかやたらその事情に詳しいね』
『何を隠そう私も二宮飛鳥ちゃんの大ファンでライブはもちろんSNSから掲示板までウォッチングしてますから』
『お前もかーい!しかも濃ゆい!』
『それもありましてね、これは私個人としてもぜひとも言わせていただきたいんですよ』
『まあファンの方も視聴してくださってるわけだしね。あと番組存続的にもね』
『というわけで、聞いていただけているかはわかりませんが、二宮飛鳥さん。ここにあなた宛の応援のメッセージがたくさん届いてますよ!ぜひご自愛していただいて万全になったら、また我々ファンのね、魂を揺さぶるようなLIVEをしてほしいと思います。くれぐれもお体に気をつけて』
『そうだね。無理せず元気になったらね』
『ええ。私も大好きなので』
『ここぞとばかりに主張するね』
『チャンスかと』
『何のだよ。という感じでメッセージはこれくらいにして、そろそろ次のメールに〜〜』
比奈さんはスマホを閉じ、イヤホンを巻き取ってポケットにしまうとゆっくりと白い息を吐いた。
「アタシも同じ気持ちっス」
「一人のファンとして、飛鳥ちゃんにはもう一度立ち上がってほしい」
二宮飛鳥はまだ、セカイに求められている。
胸の奥がじわじわと熱を帯びてきた。
自分の中に喜びや嬉しいという気持ちがわいてくるのを感じる。
……でも、ボクはまだ、二宮飛鳥というペルソナの欠片を取り戻せてはいない。
「ふふ、大丈夫っスよ」
「声はきっとすぐ出るようになる、間違いないっス。今の飛鳥ちゃんを一番近くで見てるアタシが言うんスから」
「少し前の、正直見ていて不安になるような飛鳥ちゃんはもうどこにもいないっス」
「今の飛鳥ちゃんはどこに出しても恥ずかしくない、アイドル二宮飛鳥。アタシが保証しまス」
そう言って、彼女は確信に満ちた表情で胸を叩いた。
そしてふと、こちらを向き直った比奈さんは口をつくようにして
「そうだ、ちょっと声出してみないっスか?案外出そうと思えばポロッと出るかもしれないっスよ!」
と、ボクに提案した。
……声を出す。
頭の中では思い描いても、アクションとして実際やってみようとするのはとても久しい気がした。
声を出すって、どんなだっただろうか。
その前に、まず何を声に出せばいいんだろう……。
余計な思考がぐるぐると回りだして、喉から向こうへ出すべき言葉が見つからない。
「……」
考えれば考えるほど、しゃべるという単純な行為を複雑にしていっている気がした。
そうして、ボクがこのわずかな沈黙を埋められずにいると、あまり間をあけることなく比奈さんはばつの悪そうな笑顔をつくった。
「……なんちゃって、へへ」
「ゴメン、今日はちょっと飲みすぎてバカになってるみたいっス。急に何か言えって言われてもそりゃ困るっスよね!」
「気にしないでほしいっス」
比奈さんは、また応えることのできなかったボクをフォローしながら星空を見上げた。
「無理に応えようとしなくていいんスよ。そのうち、なんてことなかったかのように戻る日がきっと来るんスから」
「……ところで」
そう言った後、彼女は今度はしっかりと言葉を選ぶようにして、慎重に話しだした。
「一応というか、言っておきたいんスけど……」
「もしも、もしもの話っスよ?」
比奈さんはベランダの手すりに肘をついて、どこか遠くへ視線をやりつつ妙にそわそわしながら言う。
「もし……飛鳥ちゃんの声がなかなか戻らないとしても」
「飛鳥ちゃんがいたいと思う限り、ずっとここにいていいっスから」
「だから、大丈夫というか……いや飛鳥ちゃん的には大丈夫じゃないんスけども」
「とにかく、アタシとしては一生そばにいてくれてもいいってことっス!」
そう言い切った言葉には、確かなぬくもりがあった。
彼女はこんなにもボクのことを大切に思ってくれている。
ただそれがよく理解った一方で、恥ずかしげながらもそれを惜しみなく伝えようとしてくれる彼女の様子がなんだか可笑しくもあった。
「……なんか下手なプロポーズみたいっスね!自分で言ってて恥ずかしくなってきたっス」
その可笑しさに気づいて余計に恥ずかしそうに笑う比奈さんの姿は、笑ってしまうほど優しさに満ちていた。
「でも冗談じゃないんスよ?」
と、お酒のせいか恥ずかしさでか分からないような赤ら顔でそう言う彼女が、ボクはなんだか可笑しくなって、つい笑ってしまった。
「フフッ」
――それは掠れて小さかったけれど、ごく自然に発せられた声だった。
前触れもなく、さっき比奈さんが言ったようにポロッとこぼれるかの如く。
「あれっ、いま飛鳥ちゃん」
「ぁ……」
ボクの声帯はもう、緊張を起こしてはいなかった。
「ぁー、ぁー……も、もどっ……た」
「おおっ、おおお!ほんとっスか!?ほんとに戻ったスか!?どうしよう!れ、連絡しなきゃっスよね?プロデューサー!」
およそ2ヶ月ぶりに出た声は掠れたり裏返ったりしてうまく話せないけれど、それは確かにボクの声だった。
声が出たことにボクよりも驚いた比奈さんは取り乱してしまって、真夜中のベランダでプロデューサーを探し始めた。
「フフッ……ひなさん、おちついて」
「ハ、ハイ。そっスよね、いったん落ち着こう。よし、えっと、とりあえず――」
涙を浮かべた比奈さんはそう言って、ボクを抱きしめた。
「よかった。よかったっスねえ……飛鳥ちゃん」
感情あらわに泣きじゃくる比奈さんのおかげで、逆にボクは笑いながら落ち着いていられた。
そしてやっと、ボクは自分の言葉で伝えられる。
「ぁりがとう……ひなさん」
ボクがそう言うと彼女はまた大粒の涙を流して鼻をすすった。
今度は比奈さんが声を出せず、うんうんと頷くばかりだった。
「ボクは……ボクはまた、舞台に……たてるとおもう、かい」
「もちろんっスよ……!二宮飛鳥は、立派なアイドルなんスから」
「そう、か……」
ボクを偶像たらしめるのは、ボクを支えてくれる者の心だとするなら。
ボクはまだ、偶像として、二宮飛鳥として在ることができる、か。
「ふぅ……まずはプロデューサーに知らせないとっスね!」
彼女はその場でスマホで電話をかけた。
「ねてるんじゃ」
「寝てても起きる人なんスよ、彼。あ、いいこと思いついたっス!ほら、飛鳥ちゃん」
そう言って彼女はコール中のスマホをボクに手渡した。
ボクがプロデューサーに話して驚かせようということだろう。
そしてちょうど、プロデューサーが電話に出て応答した。
「もしもしぃ……?」
眠たそうな彼の声。
ふと、あの日のことが思い出される。
乾いた朝、電話の向こうでボクに声をかける彼に何も応えられなかった、あの日のことを。
「あれ、もしもしー?比奈?」
「……ボクだよ」
「あー、飛鳥?ひさしぶ……飛鳥ぁ!?」
絵に描いたような驚きだ。
彼の仰天した様子が想像に易かった。
「飛鳥、声……もどったのか?」
「ああ。いま、でたんだ」
「そっか。そっか……よかったよ」
「……ねえ、プロデューサー」
あの日、ボクが心の底に押し込めてしまったことを聞こう。
あの時、こわくて何も伝えられなかったことも、今なら、大丈夫だって理解っているから。
「――キミはまだ、ボクをプロデュースしてくれるかい」
「するとも」
その言葉で十分だった。
声が震えてしまわないうちに、ボクはスマホを比奈さんに返した。
比奈さんはいくらかプロデューサーと話したあと、電話を切って白い息を吐いた。
いくら拭っても、ボクの涙は止まなかった。
「アタシも飛鳥ちゃんも、すっかり涙もろくなっちゃたっスね」
笑う彼女に肩を抱かれ、声をあげて泣いた。
ボクは幾星霜のように長く思われた時のなかで愛を知ることができた。
「……とりあえず、なか戻りまスか」
だからもう、あの日を後悔するのは終わりにしようと思う。
✻✻✻✻
[ラジオ]
某日放送
『――さて、ちょっとここでCMです』
『あ、それ僕らが読むんですね』
『みたいだわ。しかもなんとこの情報の一部はなぜかこの番組が初出らしいよ』
『へえ〜、珍しいですね。そりゃ一段と気になるな、宣伝にこんな番組を選んだ理由が』
『いやそこは中身気になれ中身を』
『今日もいい感じにキレてますね』
『うるさいわ……えっと、きたる2月3日、CGプロ所属トップアイドル・一ノ瀬志希ちゃんのソロライブが開催されるということで』
『ほー。2月3日にやるんですね』
『ここからが解禁情報なんですが、そのライブのセットリストが今私の手元にあってですね。ラストの曲がなんと「共鳴世界の存在論」ということでこの番組でも以前話題に持ち上がった二宮飛鳥さんの――』
『え、まさか。もしかしてサプライズで本人登場とか』
『いやまだ読み上げてるからちょっと――』
『あ、しかも2月3日ってアレですよね。それでこの番組で宣伝ってもうそれ……これマジですか?ちょっとテンション上がってきました』
『いいから読ませろ』
『すみません。スケジュールを確認するので続けてください』
『はい、そのセットリストやチケット情報などの具体的なお知らせはホームページ等〜〜〜
✻✻✻✻
[2月3日ライブ当日]
最後の曲目を残して、いよいよ大詰めとなった一ノ瀬志希のソロライブ。
その会場には、おびただしい数の人と熱狂が充溢している。
ある人はそわそわと落ち着かない様子で誰かと囁きあい、ある人は狂信者のように志希のMCに耳を傾けている。
また、ある人はステージから真正面にある二階部分の関係者席で、感慨深そうに呟いた。
「いよいよ、だな」
「いよいよっスねぇ」
「……比奈と志希にはどれだけ感謝してもし足りないな」
「はは、それまだ言ってるんスか」
「お前たちがいなかったら、飛鳥がこんなに早く復帰できることもなかっただろう」
「たった一ヶ月でこのライブが実現したのはプロデューサーが頑張ったからスよ」
「俺はそれが仕事だからな。特に比奈にはたくさん苦労をかけた」
「まあ、慣れないこともたくさんしましたけど、飛鳥ちゃんが元気になってくれてアタシはもうそれだけで幸せっス」
「……比奈も変わったなぁ。出会った頃とはまるで別人だよ」
「そっスか?」
「ああ……そろそろか」
観客席にまばらに点灯していたウルトラピンクが消えたころ、照らされたステージだけがほの暗い空間に浮き上がった。
『――それじゃ最後の曲、といく前に』
『みんなもう知ってるかもしれないけど〜』
『実はスペシャルゲストを呼んであるんだ〜♪』
会場は再び熱気を灯した。
『うんうん。最後の曲は「共鳴世界の存在論」、キミたち、もうお分かりだね〜?』
『じゃ、はじめちゃおっか。ね、飛鳥ちゃん?』
ガシャン、と音を立ててスポットライトはもう一人の少女を照らし出した。
『やあ、ボクはアスカ。二宮飛鳥』
どよめきにも似た歓声が彼女を迎える。
一斉に青い光が会場を包み、一面はウルトラブルーに染め上がった。
『まずは感謝を。ボクと共に在った仲間とここまで導いてくれた彼女に』
『――そしてなによりも、ボクを偶像たらしめるこの会場のすべての人々に!』
\ワァァァァ/ \キャーーアスカクーン!!/
『さあ、祝おう……新しいボクたちのbirthdayを』
〜♪
おわり
っていう感じのシリアスは俺に需要があるからみんな書いてくれって言いたかった
2月3日に完結させる気まんまんだったけどss書くのが思ってたより大変でこんなことになってしまった
まあスレ立ては間に合ったし実質ハッピーバースデーかな
全体的なガバガバ設定は見なかったことにしてみんなシリアスssを書いてくれ
苦悩に苛まれつつもそれを乗り越える女の子が一番かわいい
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