高森藍子「観察日記」 (29)


春の陽気に誘われて、カメラを片手に事務所を飛び出しました。
本日の最高気温は20度ぐらいの予想だそうです。
上空にはわずかに雲が残る程度の快晴。
絶好のお散歩日和でした。

背の低い建物が連なる通りを、てくてくと歩いていきます。
15分ほどで閑静な住宅街に出ます。
信号を2つ渡って、進路は左へ。
コンビニエンスストアを通り過ぎたあたりに、住宅街の中にあるにしては比較的広い公園があります。

休日の昼間だけあって、幼稚園児ぐらいの子供が10人ほど、そしてその保護者らしき大人の人たち、散歩に来たのであろう老人の人達が数人と、多くの人で公園は賑わっています。
特に急ぎの用事があるわけではないので、私は公園で一番大きな木のそばにあるベンチに腰掛けます。
傾き始めた太陽の光を浴びながら、大きな砂山のような遊具で遊ぶ子供たちを何の気なしに眺めていました。


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15分ほど経ってから、私はベンチから立ち上がりました。
影の向きはわずかに鋭くなって、気温も少しだけ下がった気がします。
向かうはベンチと反対方向の、鉄棒の近く。そっとカメラを取り出します。

良かった。花はまだ咲いていました。

一面が緑の茂みから、寝ぐせのようにぴょこっと飛び出した薄暗いオレンジ色の花が、申し訳なさそうに咲いています。
何という花なのか気になって、ポケット植物図鑑で花の名前を調べたけれど、素人の目にはどの花なのか分かりませんでした。
私がこの花を見つけてから――2週間ほど前でしょうか――私はほとんど毎日、この花の写真を撮り続けています。
なんとなく、公園の隅で縮こまって咲いているこの花に惹かれるものがあったんです。


ぶれないように、丁寧にシャッターを切ります。
4月29日、晴れ。花は変わらずに咲いていました。


日が陰って、少し肌寒くなってきました。薄いカーディガンを羽織って、公園を後にします。
次の目的地は事務所――ではなく、駅前の家電量販店です。15分ほどバスに揺られて、駅前にたどり着きました。

目深に帽子をかぶって、人通りの多い駅前をのんびりと歩きます。
鉄道の高架の下をくぐって、大きな交差点を左へ。4階建てのビルの入り口を目指します。

店内は人でいっぱいです。もう冷房をつけているのでしょうか、涼しいを通り越して寒いくらいです。
カーディガンを持ってきておいて正解でした。
店の2階に、目当てのものはあります。エスカレーターをひとつ上って、カメラコーナーへ向かいます。
デジタルカメラの陳列棚の、さらに奥へ。
ありました。写真のプリント機です。

幸いにも、2台ほど空きがありました。カメラから慎重にSDカードを取り出して、機械に挿しこみます。
写真を選んで数分。選んだ写真が現像されて出てきました。
ビニル袋に写真をつめこんで、お金を払います。
これで今日やるべきことは完了です。鞄のポケットに写真をしまって、家電量販店を後にしました。


午後3時。
事務所の扉を開いた私を待ち受けていたものは、いつもと同じ部屋と、プロデューサーさんがひとり、そしてお菓子と紅茶の香りでした。
ソファーの前のローテーブルの上には、ケーキの白い箱と、紅茶のカップがふたつ、仲が良さそうに並べてあります。
プロデューサーさんはソファーに座って、神妙そうな面持ちでそれを眺めていました。

「何してるんですか」

 目深にかぶった帽子を脱いで、ソファーで座っているプロデューサーさんにわけを尋ねます。

「何って……チーズケーキと、紅茶を」

きょとんとした顔で私を見上げているプロデューサーさん。
訊きたかったのは、そういうことではありません。


「お仕事中じゃないんですか」

「ああ」

ふいと目をそらすと、手もとの紅茶を無意味にかき混ぜはじめました。

「いいんだ」

「何がどういいんですか。ちひろさんに見つかったら大変なことになりますよ」

「いや」

プロデューサーさんは、にやりと笑いました。

「ちひろさんは1時間ほど戻ってこないそうだ。……藍子も食べるだろ?」

「……ほんとうに、大丈夫なんですかね?」

私はおそるおそる、ソファーの空いているスペース、プロデューサーさんの横に陣取りました。


そう来なくっちゃな、と言わんばかりのしたり顔を浮かべたプロデューサーさんは、ケーキの入った箱の中からふたつのケーキを取り出します。
一方は、よくあると言うと失礼かもしれませんが、見慣れたふつうのチーズケーキです。もう一方は、チョコレートケーキでしょうか。

「チーズケーキとチョコレートチーズケーキ、どっちがいい?」

「チョコレートチーズケーキ、ですか。そんなものもあるんですね」

「珍しいものが売ってたから、買って来た」

プロデューサーさんは相変わらず得意そうな顔をしています。
……私がチョコレートチーズケーキを選ぶのを期待しているのでしょうか。


「……私は、普通の方でいいです」

当てが外れて、プロデューサーさんは見るからに肩を落としました。

「喜ぶと思ったんだけど」

「そうですかね?」

「ほら、パッションだし。冒険とか好きそう」

「……チョコレートチーズケーキに失礼じゃないですか?」

「パッションに関しては否定しないんだ」

プロデューサーさんは軽口を叩きながら、チョコレートチーズケーキをお皿の上に慎重に乗せると、まわりについているビニールをぺりぺりとはがします。
いろいろ言いたいことはありますけど、まずはチーズケーキですね。
鞄をソファーのすみっこに置いて、普通のチーズケーキのビニールをはがします。


「甘くておいしいけど、複雑な味がする」

一足先にケーキを口に運んでいたプロデューサーさんが、不思議そうに呟きました。
複雑な味というのは、よくわかりません。

「藍子も食べる?」

「……じゃあ、お言葉に甘えて」

フォークでチョコレートチーズケーキのかけらをすくい上げます。
小さなそれをゆっくりと舌の上で転がします。
ひとしきり味わってから、ごくんと飲み込みます。

「…………複雑な味ですね。どっちつかずというか」

「だろ? 1足す1が2になってないんだよ」

「甘くて美味しいですけどね」

プロデューサーさんは私と同じ言葉を繰り返します。

「甘くて美味しいんだけどなぁ」


私が紅茶をふうふうと冷ましながらチーズケーキを半分ほど消化した時点で、プロデューサーさんはケーキをすべて食べきっていました。
……食べるのが遅いのはどうしようもありません。

私はふと思い立って、鞄から先ほど現像した写真と日記帳を取り出します。
写真は全部で12枚ありました。上の写真から順番に3×4の状態で机の上に並べます。

「……これ、花?」

お皿を片付けようとしていたプロデューサーさんは、不思議そうに写真を眺めています。

「はい、同じ花です」

「どこで撮ったの?」

「ここから一番近い公園ですよ」

オレンジ色の花の写真が、12枚並んでいます。
左上がはじめてこの花を見つけたときの写真で、右下が今日撮った写真です。


「ちょっと、元気がないな」

花はまっすぐ空を向いているのではなく、空から目をそらすように横に伸びていました。色も決して鮮やかではありません。

「あ、でも、少しずつ、背が高くなってませんか?」

私は写真を順番に指さします。初めて花を見たときに比べると、花の位置は2倍ぐらいの高さになっていました。

「言われてみれば、確かに」

「写真を撮るまで、気付きませんでした」

「止まってるように見えても、確かに育ってるんだな」

「そういうフレーズ、どこかで聞いたことがあります」

「そうかな」

プロデューサーさんは苦々しそうに笑いました。


チーズケーキをひとくちすくって、鞄の中からペンケースを取り出します。
スティックのりを引っ張り上げて、写真の1枚1枚を日記帳にぺたぺたと貼り付けます。
それから写真の下に撮った日付とその日の天気を、丁寧に記入していきます。

4月14日、晴れ。
4月15日、曇り。
4月17日、晴れ。

花を撮った日を1日1日思い出しながら、観察日記を作り上げていきます。

――4月29日、晴れ。

すべての写真を貼り終えると、胸が温かくなるような達成感に襲われました。


「まめなことをするなぁ」

一部始終を見ていたプロデューサーさんが、感心したように呟きました。

「でも、楽しいですよ」

「俺は日記とか、継続してやれないたちの人間だから」

プロデューサーさんは出来上がった観察日記を、図鑑を眺めるようにぺらぺらとめくっていきます。

「写真に残さないと、すぐに忘れちゃうもんだよなぁ」

プロデューサーさんは遠い目をしています。もの思いにふけっているようなそぶりでした。
私は、残りのチーズケーキを消化しなければなりません。
冷めすぎた紅茶をちびちびと飲みながら、ちひろさんが帰ってくるまでに、何とかケーキと紅茶を片付けました。

プロデューサーさんはというと、後片付けの詰めが甘かったのでしょうか、ケーキを食べていたのがばれて、ちひろさんに叱られていました。


4月30日、雨。
今日日にしては珍しく、天気予報が外れました。

私は事務所でお留守番をしています。
温かい4月の終わりの雨の音と、日曜日のお昼のニュースの音が、私ひとりだけの事務所の中に響いていました。
窓から覗く空は、厚い灰色の雲に一面を覆われて、一向に晴れそうにありません。
この雨では、お散歩にいくのもはばかられます。
雨は嫌いではありませんが、お散歩に行けないのは残念です。

ほどなくして、事務所の鍵ががちゃりと開きました。
私はソファーからゆっくりと立ち上がって、玄関まで向かいます。
帰ってきたプロデューサーさんは、右手に白い箱、左手に黒い傘と鞄という、すごく大変そうな格好をしていました。


「これ、持って」

助かった、と呟きながら、私に白い箱を手渡します。この箱は――


「……また、買ってきたんですか?」

プロデューサーさんから、ケーキの箱を受け取ります。

「今日はちひろさんのぶんもあるし、大丈夫」

「ちひろさんが怒ってたのって、そういう意味じゃないと思うんですけど」

「そうかな」

「……また怒られますよ」

それはいやだなぁ、と能天気な声が聞こえます。


私は一足先にケーキの箱を持って、ソファーへと戻ります。
給湯室から3人分のティーカップと紅茶のバッグを取ってきて、準備を始めます。

ティーバッグをカップの中へ。ちひろさんはしばらく帰って来ないそうなので、2人分の紅茶を準備しましょうか。
お湯をゆっくりと注ぐと、透明だったお湯はじわじわと燃えるような赤色に染まります。
じゅうぶんに時間が経ったところで、私のカップにシュガーをさあっと流し込みます。
これで完成です。

「プロデューサーさん、紅茶が出来ましたよ。早く頂きましょう」

プロデューサーさんはスーツの上着をハンガーにかけたり、鞄の中身を整理したりで忙しそうにしていました。
お仕事の合間にケーキを買ってくる割に、妙なところで真面目です。
なかなか来てくれません。紅茶が冷めちゃったらどうしましょう。
私はプロデューサーさんが来るまで、ほんの少しの愚痴を頭の中で繰り返しながら、紅茶の湯気が空気に溶けていくのをじっと眺めていました。


「ごめん、遅くなった」

プロデューサーさんは片手にものを持ってソファーまでやってきました。
薄黄緑色の表紙の本と、あれは何でしょうか。……写真の束?

「写真を現像しに行ってたんだ」

プロデューサーさんは机の上に写真をばらまきました。

「これって……私の写真ですか?」

「そうだ」

1枚1枚を眺めます。
宣材写真。
初めて雑誌に載ったときの写真。
初ライブのときの写真。
ラジオの公開収録での写真。
CDデビューしたときの写真。


「アルバムを作ろう」


最初のページに、プロデューサーさんが私の宣材写真を貼りました。

「もう1年も前のことになるんですね」

プロデューサーさんは写真の下に、ボールペンで『4月19日』と記入します。

「あんまり覚えてないな。1年前だし」

チーズケーキをひとかけら口に入れて、写真を見つめます。
服装は、プロデューサーさんにスカウトされたときに着ていた服です。
写真の中には、少しだけ幼い顔立ちをした私が、口元をかすかにほころばせて映っています。

「……なんというか、幼いな」

1歳年下の高森藍子は、今よりも髪があちこちに伸びていました。
目元は今より幼く、どことなく垢ぬけない印象を受けます。

「顔って、1年で結構かわるものなんですね」

「少しだけ、大人っぽくなったよな」

……自分の話をされるのはなんだかこそばゆいです。プロデューサーさんを急かします。

「つ、次いきましょう」


「これは……?」

この写真は、何があったときのものでしょうか? 
写真の真ん中では、ステージ衣装を着た私が微笑んでいます。
場所はどこでしょうか。薄暗い中に機材やコード、大きな照明や幕が映っています。
どうやらライブ会場の舞台の裏側のようです。


「……思い出しました。私の、初めてのライブバトル。……確か、負けちゃったんですよね」

1か月のレッスンを経ての、アイドルになって最初のライブバトルでした。
拙いなりに精一杯歌って、踊って、笑って……一生懸命やって、負けて。

それでも私はプロデューサーさんに、写真を撮ってくださいとお願いしました。

「……この頃に比べると、藍子も変わったなぁ」

「そうですか?」

紅茶に口をつけます。まだ、少し熱いです。


「昔は大変だったよ。だって藍子、ライブバトルで相手に勝ちを譲ろうとするんだ」

「……そうだったんですかね?」

……それは1年越しに打ち明けられたことでした。
プロデューサーさんが気付いていたことで、私自身は気付かなかったこと。

やっぱり、1年前のことはよく覚えてません。
写真の中の私は混じり気のない微笑みを浮かべています。

「このときの藍子、悔しくて笑ってるわけでも、嬉しくて笑ってるわけでもなく、自分が負けて相手が勝つことに安心してただけだったんだよな」

私は無言で、喉の奥へと紅茶を流し込みます。
飲めないほどに熱くもなく、かといって冷めているわけでもでもない液体が、カップの中から消えていきます。
プロデューサーさんも何も言いません。
……写真の中の私は、果たして何を考えて、こんなにも微笑んでいるのでしょうか。
じっと見つめてみても、睨んでみても、写真に写る私の考えていることは分かりません。

沈黙に耐えられなくなったのでしょうか、プロデューサーさんはわざとらしく音を立ててページをめくりました。


「初ライブ、ですか」

のりで貼り付けた写真の下には、『9月30日』と書かれてあります。
写真には、舞台の上で大勢のスタッフさんの真ん中に立って、泣きそうになりながら笑っている私が映っています。
都内にある、収容人数300人ほどの小さな会場でした。
あまり緊張しないたちの私でも、ソロライブとなると流石に緊張したのを覚えています。
黄緑色のライトの海に目が眩んで、波のように押し寄せる歓声と拍手に足がすくんで、何度もよろめきそうになりながらも、歌って踊っているうちに、気付けばライブは終わっていました。

あんなに綺麗で、あんなに印象的だった思い出も、1年間ですっかり風化してしまいました。
この写真を見ると、ほんのわずかにですが、当時のことが浮かび上がってくるように思い出されます。

「……細かいことは思い出せないですけど、景色が綺麗だったのは覚えてます」

「半年前のことだからな。俺も細かいことは覚えてないけど、成功してすごく安心したのは覚えてる」

紅茶を片手に、写真をじっと眺めます。
暗がりにぼんやりと広がる緑色の光。
無数のライトに照らされた私。
会場中に広がっていく私の声。
速まる心臓の鼓動。
息を吐く間もないほどの静寂のあとの、大きな歓声と拍手。
ステージから引き上げたときの、舞台袖の高揚した空気。
スタッフの誰よりもプロデューサーさんが笑顔だったこと。

色あせてしまった思い出が、鮮やかな色に塗りなおされていきます。

プロデューサーさんは、私の手を引くように、ページをめくりました。


「CDデビュー、ですね」

「11月13日……っと。この頃のことは、さすがに覚えてるか」

エプロンワンピースを着た写真の中の私は、バラの花束を持って、まっすぐこちらを見ています。

「CDが出て、どうだった?」

「なんとなく恥ずかしかったですけど、なんとなく、嬉しかったです」

私たちは意図したわけでもなく同時に紅茶をすすりました。
かちんと小気味良い、ティーカップとお皿のぶつかる音が、雨の音に混ざって溶けます。

「……でも、不思議でしたね。CDショップで、他のCDに混ざって私の映っているCDが売られているのが」

私のような、流れに任せて生きてきた普通の子が、テレビでよく見る大物アーティストと一緒に店頭に並んでいる。
その光景は、なんだか不釣り合いというか、分不相応のように思えたのを覚えています。


「あと、レコーディングは大変でしたね」

チーズケーキの量が半分を下回りはじめました。
フォークで小さく切って、そっと口に運びます。……甘くて美味しい。

「歌は上手い方じゃなかったので、すっごく時間がかかっちゃいました」

同じマイクを相手にするにしても、ライブやラジオとは勝手が違います。
ひたすら楽譜や歌詞カードとにらめっこをして、OKが出るまでやり直し、の繰り返しでした。
全部を録り終えたころには日が沈んでいました。

「この頃と比べると、藍子も歌が上手くなったよ」

「そうですかね?」

「本人は気付かないかもしれないけど」

写真がちゃんと貼り付いているのを確認してから、プロデューサーさんはまた1枚、ページをめくりました。


プロデューサーさんが最後の1枚をぺたりと貼り付けます。
下に4月29日と書いて、完成だ、と呟きました。

私もプロデューサーさんもぱちぱちと手を叩いて、アルバムを前から順に流し見していきます。
写真がしっかり貼り付いているかどうかを確認して、プロデューサーさんは表紙に「日記」と記入しました。

「……日記なら、毎日書かなきゃいけないんじゃないですか?」

「俺は日記とか、継続してやれないたちの人間だから」

プロデューサーさんは、一仕事やり遂げた、といった顔で伸びをして、チーズケーキを大きめにカットし、口に運びます。

「今日以降はどうするんですか?」

「毎回やる必要はないよ。忘れそうになったとき、日記の続きを埋めて、思い出してやればいい」

日記を持ち上げます。まっさらの状態に比べると、スポンジが水を吸ったように重くなっていました。
写真の1枚1枚を見つめます。
断片的に切り取られている私は、ページを1枚めくるごとに大人びていきます。
少しずつ、でも着実に大人になっていきます。


「さて」

プロデューサーさんがおもむろにソファーから立ち上がりました。

「俺はこれから、外回りに行かなきゃいけない」

スーツの上着を羽織って、あわただしく鞄を手にします。
私はしばらくの間、事務所待機です。

「雨が降ってるので、気を付けてくださいね」

「ああ」

微かな音を立てて扉が閉まります。
階段を下る足音がだんだんと遠ざかります。
やがて完全に足音が聞こえなくなると、聞こえるのは雨音だけになりました。


冷めきった紅茶をぐるぐるとかき混ぜて、目を閉じて一気に飲み干します。
吸い込んだ紅茶の香りが、痛みが引くようにじわじわと消えていきます。
……胸のすくような気分です。

全てを思い出せたわけじゃないけれど、思い出せたことはたくさんありました。
私の記憶の底に沈んでいて、でも確かに息づいていた思い出。
出来ればずっと、覚えていたい。
私ひとりの力だけでは、いつまでも覚えていることは不可能なんでしょう。
でも、私のポケットには、カメラがあります。
1冊の本は、私の観察日記になって、確かな重さを私に感じさせてくれます。


四月の終わりの温かい雨が、事務所を包み込むように降り注いでいました。




数十分後に帰ってきたちひろさんは、またもお仕事をさぼってケーキを食べていたプロデューサーさんに呆れていましたが、ちひろさんのぶんのケーキも買ってあることを話すと、ほんのわずかに上機嫌になって、プロデューサーさんの愚痴をぶつぶつ言いながら、ケーキを食べていました。



5月1日、晴れ。


昨晩まで降っていた雨が上がって、空がからっと晴れています。
いつもの公園は、平日だからでしょうか、人はまばらでした。
雨に濡れた木々は、慌てて夏への準備をしているかのように、緑色に光っています。
水溜りを避けながら、鉄棒の奥の、茂みの近くへ向かいます。


オレンジ色の背の高い花が、茂みから顔を出しています。
花をしっかりと目に焼き付けながら、デジタルカメラで写真を一枚。
長方形に区切られた風景の中で、露に濡れた花は太陽の光を反射して輝いています。



――忘れたくないことはたくさんあります。
それはお仕事中に起こった楽しいことだったり、友達との何気ない会話の中で感じる幸せだったり、道行く誰かの笑顔だったり、お散歩中に見つけた面白いものだったり。

でも、どんなに鮮やかな記憶でも、時間が経てばいつかはそれを忘れてしまうんですよね。

……忘れたくない思い出は、ちゃんと観察日記の中にしまいこんであります。



ふいに吹き込んだ五月の風が、花を濡らしていた露を吹き飛ばしました。

まるで紙吹雪のようです。

風に揺られた花は、所在なく空中をさまよっています。

そのくすんだオレンジ色の花が、月曜日の傾いた太陽に重なって、生まれて初めて見たような色に輝いていました。




そんな何気ない光景が、私には、忘れちゃいけないもののように思えるんです。


終わりです
お付き合いいただきありがとうございました

過去作
高森藍子「終末旅行」
高森藍子「終末旅行」 - SSまとめ速報
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