相葉夕美「秋風の運ぶ追憶」 (39)
――ねぇ、教えて。
あの時のあなたは。あの時の私は。
あの時の二人は、今どこへ行ってしまったの?
その時、二人の間を透きとおる秋風が吹き抜けた。
儚く散った紅葉はふわりと舞い上がり、夕陽と共に秋の夕暮れを茜色に染め上げた。
去りゆく彼女の胸元で夕陽にきらめく銀色のイルカたちが、ひとひらの涙を零したように見えた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
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アイドルマスターシンデレラガールズ「相葉夕美」のSSとなります。
原作から数年後の設定になりますので、好まない方はブラウザバック推薦です。
いよいよ本格的に秋めいてきた夜空の下、私はいつも通り仕事を終えて自宅へと向かっていた。
最近朝晩はめっきり冷えるようになったけど、それにしても今日は一段と寒い日だった。
女優業に転身して早一年弱。
初めのうちは、アイドル時代と勝手が違う慣れない仕事に苦労したけど、最近になってようやく上手くこなせるようになってきた。
アイドル時代の話題性だけで売れてる――なんて最初は言われてたけど、その声も今では段々と小さくなってきたような気がする。
元来負けず嫌いな性格の私は、そうやって言われるれるのが悔しかった。
だからこそそれを跳ね除けるために頑張れたし、その経験のおかげで今の私があるのかな、なんて。今考えればそう思える。
あまりの寒さに私は一旦足を止め、かじかんだ手でマフラーをなんとか巻きなおして、駅へと再び歩き始めた。
するとその時、無造作にコートのポケットの中に放り込んでいたスマホが振動した。
ちょうど踏切で足止めされてしまったので、暇を持て余した私はその場でスマホを確認することにした。
ロックを解いてメッセージアプリを開くと、一番上には久しく連絡を取っていなかったあの人の名前があった。
それを見た私は、胸がきゅっと締め付けられるような、体が火照るような奇妙な感覚に襲われた。
それと同時に、私は少しの嫌悪感を覚えていた。
あの人からの連絡ひとつで、こんなにも心が浮き立ってしまう私自身に。
こんなにも時間が経ったのに。もう割り切ったつもりだったのに。
「あぁ、やっぱり。私は今でもあの人のことが――」
冷たい北風で我に返った私は、再度下りてしまった踏切の遮断機が上がるのを待ち、再び駅へと歩き始めた。
電車に乗り込むと、窓の外ではぽつぽつと冷たい雨が降り始めた。車内はまどろみを誘うように暖かく、疲れきっていた私の意識は間もなく静かな闇の中に溶けていった。
From:Pさん
本文:
久しぶり。なかなか連絡出来なくてごめん。
元気にしてたか?
こっちまで活躍、伝わってきてるぞ。嬉しいよ。
さて、本題なんだが、仕事が一段落して今こっちに帰ってきてるんだ。
もしそちらの都合が良ければ、久々に会えないか?
突然で申し訳ないと思ってる。色々思う所はあると思うけど、あの時の事も含めて一度ゆっくり二人で話がしたいんだ。
もちろん気が進まなければ断ってくれても構わない。一週間後にはまたあちらへ帰るから、それまでに連絡を貰えると嬉しいです。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
時は数年前に遡る。あの人――Pさんにスカウトされた私は、アイドルとして充実した生活を送っていた。
大変な事や辛い事もあったけれど、仲間達にも恵まれて、互いに支え合って一緒に乗り越えてゆけた。
ただ、そんな中でも一つだけ問題があった。
――私はPさんに恋をしていたのだ。
きっかけは、分からない。初めのうちは、指先でつつけばパチンと消えてしまいそうなシャボン玉のような。自分でもそのキモチの正体が分からないような。そんなあいまいな感情だったような気がする。
その正体に気がついたのは、ほんの些細な出来事がきっかけだった。
ある日、自然公園での撮影が終わった後、私のわがままでPさんと二人で園内を散策していた。
移動中とか仕事中には何度かあったけど、プライベートで二人きりになるのは初めてで。いつもは特に気にする事もなかったのに、その時はなぜだか妙にそわそわして。
しばらくの間は、この気持ちの正体が分からないままだった。
やけにPさんの事が気になって、辺り一面に広がる花々の事さえ、ろくに考える余裕も無かった。
今考えると、少し鈍感過ぎたかな。
もし、あの時素直に気持ちを伝えられていたら――
ちょっと話がそれちゃったね。話を戻そっか。
ふと、その時。少し前にライブで披露した歌の事が思い出された。女の子の純真な恋心を、シャボン玉になぞらえて描いた歌。
あなただけの一番に
なりたいからちょっとだけ背伸び
ほら こんな私かわいいでしょ?
他の誰にも見せたくない 私がいるんだよ
ちゃんと見つけてください 胸に咲く花を
ここまで来て、ようやく。私は、私自身が抱くこの気持ちの正体に気づいたのであった。
太陽に向かって燦然と咲き誇るヒマワリも、ひとつひとつが悠然と、色とりどりに咲くコスモスも綺麗だけど。
今、あなたの隣にいる私のことも――私の胸に咲く花のことも、ちゃんと見て欲しいなっ。
本やドラマに出てくるヒロインではなく、紛れない私自身が。あなたに抱くこの気持ちは――
あと数センチの距離を
もっと もっと 近くに感じたくて
そうか 私、恋してるんだ
でも、アイドルという仕事柄、恋愛というのはあまりよろしいものではなくて。事務所から禁止されているとか、そういう訳じゃないけれど。
暗黙の了解というか、なんというか。
ファンのみんなは私の事に興味を持ってくれて、私の事を信じて、ファンになってくれた訳で――少なくとも私はそう思っている。
だからこそ、「好きな人が出来ました。今まで応援してくれてありがとう。」では済まされないのは重々承知だし、そんなファンの皆の気持ちを裏切るようなことはしたくない。
アイドルとしての私と、一人の女の子としての私。
二律背反な気持ちになかなか折り合いがつかないまま、アイドルを続けていたある日の事だった。
Pさんの海外への配置転換――それを聞いた時、私は胸を突かれるような衝撃を受けた。
会社の人事について、私がどうこうできるわけも無く。その準備は、日々着々と進んでいった。
346プロダクションの海外進出において、様々な要素――実績、信頼性、語学能力、家庭の有無など...を考慮した結果、私を担当するプロデューサーに白羽の矢が立った。というのが、私になされた説明だった。
だが、もう一つの理由――私が知るべきでは無かった理由がある事を、私は知ってしまっていた。
もしそれを知らなかったら...なんて、今でもたまに思うけど、人生にたらればは無いよね。
そして別れの日、事務所のみんなでお別れ会をした後に、二人で海辺の公園に行った。
その公園は、私が何かに迷ったり悩んだりした時によく来た場所だった。一人で来ることもあれば、アイドルの仲間と来ることもあったし、Pさんと来ることもあった。
今考えると、あまりに自然な流れで二人きりになったような気もする。
もしかすると、事務所のみんなにも私の気持ちを見抜かれてて、気を使ってくれてたのかな...。
最後は泣かないって決めてたのに、結局泣いちゃったのはここだけの話。
あの日以来もしばらくの間はときどき連絡を取っていたけど、お互いに仕事で忙しく段々と疎遠になっていってしまっていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ベッドで寝転びながら返信を考えていると、気づいたら日付を跨いでしまっていた。
ようやく打ち終わった文章を送信すると、明日の早い朝に向けて眠りについた。窓の外の冷たい雨は、その後もしばらくの間静かに降り続いていた。
To:Pさん
本文:
久しぶりっ。こっちこそごめんね。
アイドルを引退してすぐは色々大変だったけど、今はだいぶ落ち着いてきたよ。
プロデューサーさんこそ元気にやってた?
海外事業の話は事務所でたまに小耳に挟んだりするけど、そっちは順調そうなのかな?笑
せっかく戻って来てるなら、私も久々に会いたいなっ。
今週の日曜日なら大丈夫そうなんだけど、その日で良さそうかな?
ベッドで寝転びながら返信を考えていると、気づいたら日付を跨いでしまっていた。
ようやく打ち終わった文章を送信すると、明日の早い朝に向けて眠りについた。窓の外の冷たい雨は、その後もしばらくの間静かに降り続いていた。
To:Pさん
本文:
久しぶりっ。こっちこそごめんね。
アイドルを引退してすぐは色々大変だったけど、今はだいぶ落ち着いてきたよ。
Pさんこそ元気にやってた?
海外事業の話は事務所でたまに小耳に挟んだりするけど、そっちは順調そうなのかな?笑
せっかく戻って来てるなら、私も久々に会いたいなっ。
今週の日曜日なら大丈夫そうなんだけど、その日で良さそうかな?
From:Pさん
本文:
返信遅れてごめん。
こっちは元気にやってるよ。ありがとう。
一応順調に進んでるよ。
まとまった休みがなかなか取れなかったんだけど、今回ようやくね。
それじゃあ日曜日にしようか。
人の目もあるし、そっちまで車で迎えに行こうと思うんだけど、引っ越してたりする?
To:Pさん
本文:
順調なのは良いけど、働きすぎて体壊さないようにねっ。
私も心配してるんだよ?
家は変わってないよ。それじゃあ、お昼過ぎにお願いして良いかな?
From:Pさん
本文:
ありがとう。季節の変わり目は風邪ひきやすいし、お互いに気をつけないとな。
それじゃあ、日曜日の昼過ぎ。家の近くまで行ったらまた連絡する。
To:Pさん
本文:
そうだねっ。
わかった、それじゃまた日曜日ね。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
数日間降り続けた雨はすっかり止み、今日は朝から雲一つない清々しい秋晴れだった。
家中の窓を開け放って湿った空気を入れ替え、私は朝から家の掃除をしていた。
家の中がホコリっぽいと、なんだか私まで気分が落ち込んできちゃうから。清潔に保つに越した事は無いよねっ。
リビング、キッチン、お風呂場、トイレ、ベランダ――家中の掃除を一通り終えて一息つこうとした時、ちょうどスマホに連絡が入った。
From:Pさん
本文:
いま家の下に着いたよ。
車で待ってる。シルバーの車で、周りに他の車は停まってないからすぐ分かると思う。
準備できたら降りてきてくれ。
To:Pさん
本文:
はーい。
すぐ降りるねっ。
私はすぐに返信を打ってから、そそくさと掃除の用具を片付けて身支度を整え始めた。
女子というのは準備になにかと時間がかかる生き物で。どのブラウスにしようかな...なんて考えていたら、気づいたら十五分も経っていた。またやってしまった。
最後に少しの願いを込めて、二頭の銀色のイルカがデザインされたネックレスを首から下げた。
扉を開けて玄関を出ると、秋の柔らかい風で髪がふわりと揺れた。
私は逸る思いを抑えつつ、階段を降りてPさんの乗る車の元へと向かった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
マンションのエントランスを出ると、すぐに銀色の車が目に入った。
コンコンとドアをノックすると、Pさんはこちらに一度にこりと笑いかけると助手席のドアを開いた。
「久しぶりっ。ごめん、待った?」
「おう、久しぶり。全然待ってないよ、とりあえず乗ってくれ。」
「うん、分かった。ありがと。」
私は促されるまま席についた。車の中の雰囲気は以前から相変わらずで、何となく安心感を覚えた。
「ほんと久しぶりだねっ、元気にやってた?」
「うーん、まぁぼちぼちね。夕美こそどうだった?アイドルから女優に転身となると、やっぱり色々大変だったろ。」
多分海外に行った後も、私の事を気にかけてくれていたのだろう。
連絡こそ取って無かったけど、それだけでも嬉しかった。
「まぁ、初めのうちはね。でも今は慣れてきたし、楽しくやってるよ。」
「それなら良かった。そういえば、昼食とかってもう食べた?」
「まだ食べてないや、ついさっきまで部屋の掃除してて...。」
「はは、それなら食べに行こうか。前によく行ってたあのカフェって、まだあるか分かるか?」
事務所から近いこともあって、以前に二人でよく行ったカフェがあったのだ。恐らくその事だろう。最近はめっきり行って無かったけど...。
そういえばそんなものもあったなぁと、なんだか懐かしい気持ちになった。
「うーん、最近行ってないから分かんないや...。」
「せっかくだし一回行ってみるか、もし無くなってたらまた考えよう。」
そう言うと、Pさんはエンジンをつけて車を発進させた。
運転しているPさんを見ていると、少しの違和感を感じた。その正体は、どうやら服装らしい。
よくよく考えれば、以前はスーツを着ていることがほとんどだった。
いま目の前で見慣れないジャケットを羽織っているPさんが、なんだかこの数年の間に、まるで遠い人になってしまったように感じられた。
――もしかしたらPさんも同じかも。私もアイドルやってた時とだいぶ服装も変わってるし...。
互いに若干の距離感を感じてしまい、発進して以降は沈黙がしばしの間流れた。
車内で静かに響き渡る機械的なエンジン音が、今日はやけに心地よく感じた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「――あら、お二人とも久しぶりねぇ。元気にやってた?」
「お久しぶりです。おかげさまで元気にやらせて貰ってます。」
「お久しぶりですっ。なかなか顔出せなくてすみません...。」
「そんなこといいのよ。お二人とも忙しいんでしょう?ご注文が決まりましたら声かけて下さいね。どうぞごゆっくり。」
「ありがとうございますっ。」
路地裏にある年季の入った木製の扉を開くと、懐かしい顔のお出迎えが待っていた。
ここは一組のご夫婦が経営している小さなカフェで、以前は仕事の合間や休みの日などによく通っていた。
人目を避けるにもちょうど良かったし、何よりもこの家庭的な雰囲気が私はお気に入りだった。
「うーん、僕はミートソースにしようかなぁ。」
「そういえばPさん、ここに来るといつもそれだったよねっ。」
「新しい店で外食する度にミートソース頼むんだけど、どうもここの味が忘れられなくてさ。」
「あー、何となく分かるかも。私も久々にここのカルボナーラ食べようかなぁ。」
ここではPさんがミートソースを、私がカルボナーラを頼むのがお決まりになっていた。
以前はお店に入ると、「お二人ともいつもので良い?」と尋ねられるほどだった。
「それじゃあそれにするか、飲み物はアイスティーで良いか?」
「うんっ。それでお願い。」
「了解。おばちゃん、注文お願いします。」
「はいよー。ちょっと待っててねー!」
その注文を終えて少しすると、Pさんのスマホが鳴り始めた。
「ごめん、少しだけ席外しても良いか?」
私が快諾すると、申し訳なさそうな顔をして席を外し、店の外へと出ていった。
恐らく仕事の連絡なのだろう。私も同じような事はよくあるから、気持ちは痛いほど分かる。
ぐるりと辺りを見回すと、棚の中に私のサインが丁寧に飾られているのを見つけた。
アイドルのデビューが決まってここに報告しに来た時に、「夕美ちゃんのファン2号として是非サインが欲しい。」と頼まれて書いたものだ。曰く、1号はPさんらしい。
その時は特にサインなどは考えておらず、頭を捻って何とか考え出して書いたそれは、今となっては良い思い出の品だ。
二つの「i」がお花の形にデフォルメされた「Yumi Aiba」の文字は、今でも使い続けている。お気に入りだし、あえて変える必要も特に無いしね。
「ごめん、仕事の連絡が入っちゃってさ。」
「大丈夫だよ。私もよくあるからっ。」
懐かしい思い出に浸っていると、Pさんが電話を終えてこちらに戻ってきた。時間を考えるに、そんなに重要な件では無かったのだろう。
「その棚のサイン、懐かしいなぁ。確か夕美がデビューする前、ここに来た時に無茶振りされたんだっけ。」
「そうそう、私もさっき思い出して。なんかついこの前みたいに感じるなぁ。」
「ほんと、時間経つの早いよな。僕も少し前までは学生やってた気がするよ。」
Pさんがおどけて言ってみせた。
「あれ、Pさんが学生だったのって何年前くらい...?」
「悲しくなるから聞かないでくれ...。あの頃は若かったんだけどなぁ。」
「ふふ、なにそれっ。今でも十分若いと思うけど。」
「そう言ってくれると嬉しいよ。僕もまだまだ頑張らないとな。」
「――お二人とも盛り上がってるところごめんね、こちらご注文のミートソースとカルボナーラです。」
昔話に花を咲かせていると、良い匂いと共に懐かしいそれが運ばれてきた。
「あとはアイスティーね。夕美ちゃんは確かガムシロ入れてたわよね、今はどうか分からないけど良ければ使って。」
「ありがとうございますっ。うわぁ、久々に見たけどやっぱり変わってないなぁ。美味しそうっ。」
「そうだな、家で作ってもなかなかこうはならないんだよなぁ。」
「あらあら、お二人とも口が上手いわねぇ。この時間は基本的に他のお客さんは来ないから、ゆっくりしていってね。」
そう言うと、腰に巻かれたエプロンを解きながら厨房へと下がっていった。
旦那さんはどうやら調理担当らしく、こちらに出てきているのはあまり見たことないような気がする。
ぱちんとガムシロの容器を割り、アイスティーに流し入れてストローで軽くかき混ぜると、カランカランという氷の心地よい音が静かなカフェに染み渡った。
「それで、さ。本題なんだけど――」
スパゲッティをすすりながら、Pさんがタイミングを見計らうように言った。おばさんは気を使ってくれたみたいで裏に下がっていて、今は二人きりになっていった。
「実は、ずっと言えなかった事があって。本当は言うつもりは無かったんだけど、ずっと心残りだったんだ。あまり気分の良い話じゃ無いと思うけど、聞いてもらえるか?」
「うん、分かった。この前言ってた『あの日の事』ってやつかな?」
私は何となくその内容に察しはついていたが、あえてそれを言うことはせずに、Pさんの話に耳を傾けた。
「そう。その事なんだけど――」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「まぁまぁ、とりあえず座ってくれ。」
「はぁ、ありがとうございます。」
この日僕は、部長に話があると呼び出されていた。恐らく海外赴任の件だろうと、おおよその察しはついていた。
「忙しいところ呼び出して申し訳ないね。準備の方は進んでるかい?」
準備――というのは、恐らくその事だろう。
「はい、おかげさまで。わざわざ会社の方で手伝いまでして頂きありがとうございます。」
「そうかそうか。こちらとしても君には期待しているからね、出来る限りのサポートは惜しまないよ。」
「何せ色々と勝手が分からないので、本当に助かってます。それで、お話というのは...?」
僕がそう問うと、部長は一転神妙な面持ちになって、一息ついてからこう言った。
「まぁ、君も察しての通り海外赴任の事についてなんだが。ひとつ伝えておきたい事があってね。」
改まってそう告げたので、僕は思わず身を構えた。
「はい、なんでしょうか?」
「まず、これは相葉くんには伝えないでおいて欲しいんだが――」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「――実はこういう裏があったんだ。本当は今でも言うべきじゃ無いと思うんだけど、隠しておく方が夕美に申し訳ないと思って。」
氷が溶けきって薄まったアイスティーを飲みながら、うつむき加減でPさんはそう言った。
空になったコップでストローがズズズ...と音を鳴らすと、ばつが悪そうな顔をしてこちらへ向き直った。
「今まで黙ってて申し訳ない。改めて転勤の理由を夕美に伝えた時に、一瞬だけ何か釈然としないような顔を見せたのがずっと心残りだったんだ。」
あの時は確かにあまりに急な話だったから、動揺していたのは確かだった。ただ、それを見抜かれていたとは今まで思いもしなかった。
それなら、私も今伝えておくべきなのかもしれない。
「ううん、大丈夫だよ。私、実はさ、その話知ってたんだ――」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「――これは相葉くんには伝えないでおいて欲しいんだが、君を推薦した理由についてなんだ。」
「それについては、以前お聞きしましたよ。僕も納得してますし、チャンスを頂けたと感謝しています。」
この時私は、Pさんに報告する事があって「Pさんなら会議室の方に行ったよ」という情報を聞き、会議室の前まで来ていた。
するとどうやら、海外赴任についての話をしているらしかった。
触るなと言われたら触りたくなるし、聞くなと言われたら聞きたくなる。悪いなという気持ちはあったけど、案の定好奇心が勝って、ドアの外でひっそり聞き耳を立てた。
「そう言ってくれて嬉しいよ。だが、本題はそこじゃないんだ。実はもう一つ、君に伝えておきたい理由があったんだ。」
「理由、ですか。」
「単刀直入に言わせてもらうが、千川くんから君の推薦があったんだ。」
「ちひろさんが、ですか?」
「まぁ少し齟齬があるかもしれないが――そう思ってもらって構わない。彼女曰く、このままでは君と相葉くんが危うい、と。」
「突然だが、今の世間の風潮が恋愛沙汰について厳しくなっているのはもちろん分かってるね?」
「はい、それはもちろん。」
「ちなみに私は、そこまで縛り付ける必要は無いと思っているのだが――まぁそれは今は良いな。それで、彼女曰く。相葉くんは君に恋をしているのでは、と。」
「はぁ...。僕にですか?」
「どうやら、そういう事らしい。はっきり言って私はよく分からないんだが、女性の勘というのは凄まじいからね。事実、千川くんには恋愛沙汰の件で幾度と助けられてきたんだ。」
「なるほど...。そういうことだったんですか。」
「察しはついたかもしれないが、一応最後まで聞いて欲しい。それで、相葉くんは恐らく自分の気持ちと、自分の立場との間で悩んでいるのでは、と。」
「それなら、一旦二人の間に距離を置かせるのもありなのでは、と思っていたらしい。そこで、海外進出の話が舞い込んで来たという訳だ。」
「君が相葉くんの事をどう思っているかは知らないが、私から見ても少なくとも悪い気はしていないだろう。私も千川くんも、二人を仲違いさせようとしている訳では無いことは、どうか分かってほしい。」
「――分かりました、こうして話して頂きありがとうございます。ちひろさんにもお礼を言っておかないとですね。」
「もし君が相葉くんを想っているなら、私は一向に構わないと思っている。だが、相葉くんがアイドルのうちはまずい。想像以上に恋愛沙汰に対する世間の風当たりは冷たいんだ。二人の将来のためにも、どうか理解してくれ。」
「もちろんです、色々とありがとうございます。僕もこの機会に改めて色々と考えてみる事にします。」
「そうして貰えると嬉しいよ。もしもいざという時は、私もサポートするから安心してくれ。全く、世知辛い世の中になったもんだよ。」
「それで、引き継ぎの事についてなんだが――」
すると、何やら難しい話が始まった。どうやら転勤の理由についての話は終わったようだ。
私は、この話を聞いてしまったことを後悔した。
もしそれを知らなければ、Pさんへの気持ちを割り切れたような、そんな気がした。会社の人事ならしょうがない、と。
結果、この事がずっと頭の片隅に引っ掛かっていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「そうだったのか。本当に申し訳ない事をしたな...。」
「ううん、盗み聞きしちゃった私も悪いし。Pさんが悪いわけじゃないよ。」
ちひろさんが言ってたことも図星だったし...。という言葉は、胸の中に留めておいた。
「――そろそろ出よっか、結構長い時間居座っちゃってるし。」
「そうだな。ちょっと会計お願いしてくる。」
Pさんはそう言うと、おばさんを呼びに厨房の方へと入っていった。
会計の際、一悶着あって私の分の代金までPさんに出してもらってしまった。
せめて食事代くらいは出させてくれと言うPさんと、いやいやそれは申し訳ないとなかなか引き下がらない私に、おばさんが一言。
「夕美ちゃん、そこは男を立てるつもりで女は一歩引くものよ。」
人生の先輩だもの、そう言われたらしょうがない。私は一歩引き下がり、そういう運びになった。
もし芸能界を引退する時が来たら、この場所みたいに誰かの心の拠り所になれるような、そんなカフェを開いてみるのも良いかもしれないなぁ。まだ先の話だろうけど。
二人でおばさんにお礼を言って、私たちはカフェを後にした。
環境が変わってからは来れてなかったけど、今日こうしてここに来れて良かった、と思った。また今度、休みの日にでも来ようかな。
カランコロンという退店の際に鳴るベルの音が、二人が去った後の店内で静かに響き渡った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
駐車場に止めた車から降りると、私たちはすぐ側の公園へ向かって歩き始めた。
紅葉は秋を彩る役目を終え、ひらりひらりと舞い落ち始めていた。耳を澄ますと、夕陽に照らされたさざ波の音が微かに聞こえてくる。
私はどうしても、あの時に来たこの場所にもう一度二人で来たかった。カフェを出てからPさんにそう頼むと、「実は僕もそう思ってた」と言ってくれた。
海沿いに広がる公園。季節によって様々な表情を見せてくれるこの場所が私は好きだった。今は秋から冬にかけての衣替え期間だろうか。
Pさんは私の少し前を歩きながら、辺りを見回して言った。
「やっぱり、ここも変わってないなぁ。あと少しで、この紅葉たちも全部散っちゃうんだよな...。」
「うん、そうだね。そうして寒い冬を乗り越えて、春になったらまた新しい命が芽吹くんだねっ。」
そして夏が過ぎ、また季節が秋になれば鮮やかに色付き始める。
厳しい冬や幾度もの風雨を乗り越えて、初めてこうして立派に秋を彩ることが出来るのだ。
もし私だったら、この紅葉の木みたいに長い冬を乗り越えられるのかな。
「ねぇ。Pさんって、明日帰っちゃうんだっけ。」
「そう、朝一番の飛行機で。」
「そっか。それじゃあ、またしばらく会えなくなっちゃうね。」
すると、ふとPさんがこちらへ振り返った。背後に広がる雄大な海が、夕日に照らされてやけに眩しく感じた。
「夕美。ちょっとだけ、話を聞いてもらっても良いか?」
「――うん、分かった。いいよ。」
Pさんがこちらへ一歩近づいた。
「プロデューサーとして初めて担当したのが夕美で、僕がここまで評価されるようになったのも夕美のおかげだと思ってる。改めて、本当にありがとう。」
「ううん、こちらこそ。私もPさんがいたからここまで頑張れたんだと思うな。」
「そう言ってくれて嬉しいよ、ありがとう。」
「でも、前から薄々感じてたんだ。僕は夕美の頑張りに甘えてるだけで、本当は僕じゃなくても良かったんじゃないかって。」
――それは違う。お願い、そんな事言わないで。
Pさんは俯いてこう続けた。
「僕はプロデューサーとして、失格だったんだ。」
「そんな事言わないでよっ!何でそんなこと――」
「僕はずっと、夕美の事が好きだったんだ。」
その時、二人の間を透き通る秋風が吹き抜けた。
「海外赴任を機に気持ちの整理をつけようとしたけど、やっぱり忘れられなくて。今のうちに伝えないと後悔すると思ったんだ。」
――Pさんも、私と同じだったんだ。自分の置かれている立場と、気持ちの間で悩んでた。
「そっか...。実は私も、ちひろさんの言う通りだったんだ。一緒にいる時間が増えるほど、アイドルだから駄目なのにって思うほど、気持ちは強くなっていって。」
「――でも今は、ごめんなさい。」
好きだけど、好きじゃない。今のPさんへの気持ちが、あの時抱いていた気持ちと同じものなのか、自分でも分からなかった。今も好き、そう言い切れる自信が無かった。
もう少し時間が欲しい。そう思った。
「そっか、分かった。ごめんな、せっかく久々に会えたのに。さっき僕が言ったことはもう忘れて――」
「Pさん、待って。」
私はPさんの言葉を制した。
「あっちでの仕事が終わって帰ってきて、もしその時も私のことを好きでいてくれたら。」
「もう一度、迎えに来てくれませんか。」
儚く散った紅葉はふわりと舞い上がり、夕陽と共に秋の夕暮れを茜色に染め上げた。
「――分かった。きっと、約束するよ。」
少しの間、心地の良い沈黙が流れた。秋風の奏でる波音と紅葉の揺れる音が、辺りを秋色に彩っていた。
「それじゃあ、また。」
「うん。体調には気をつけてね。」
「夕美こそ。あっちからでも、ずっと応援してるから。」
「ありがとう。Pさんも、頑張ってね。」
最後にそう言うと、私はくるりと背を向けて歩き始めた。
「――ずっと、待ってるから。」
去りゆく彼女の胸元で夕陽にきらめく銀色のイルカたちが、ひとひらの涙を零したように見えた。
以上で終わりとなります。
これを書き始めた時は秋真っ只中だったのに、最近は布団から脱出するのが辛い日々。これからもっと寒くなると考えると恐ろしいです。
銀イルカ、秋風に次ぐwinter ver.「ツインテールの風」の発表もありましたね、とても楽しみです。
朝晩の凍えるような寒さと相葉ちゃんの3周目SSRに震える日々が続いておりますが、読んで下さった皆さんはどうか体調にお気を付けて。
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