馬場このみ『dear my sweet.』【ミリマス】 (16)

「アイドル」とは一体何なのであろうか。
その問いに答えを出そうとする者たちの多くは、その語源は「偶像」という語に由来すると引き合いに出すだろう。
それはファンと呼ばれる、アイドルを応援する集団が作り出す、本来実在しないはずの像であるのか。
それとも、アイドルひとりひとりが必ず持っている目標、憧れといったものの先にある像であるのか。
明確な答えはいまだ出ないままだ。
ただ、一つだけ言えることがある。
スポットを浴びて輝く「偶像」たる存在は「偶像」でなくてはならない、ということだ。

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彼女はひとりステージに立っている。
彼女のたつ場所は今、アイドルをアイドルたらしめるものは何もない。
アイドルの命でもある楽曲は流れておらず、煌びやかなはずの照明だって落とされて暗闇の中。
それはどのライブでもある、楽曲間で出演者を切り替えるのための暗転。
そんな、本当に短い時間である。

この有名音楽フェスから765プロライブ劇場のメンバーに参加のオファーがきたのはもうずっと前だっただろうか。
毎年夏に開催され、様々なアーティスト、アイドルが参加するこのイベントは、業界に居れば誰だって名前くらい聞いたことがあるだろう。
その舞台はここは劇場から遠く離れた、自分たちがまだ立ったことのないほど大きなアリーナ会場。
ステージから見渡す限り上から下まで、右から左まで全てが客席で、会場の名前にふさわしい大きさである。
今回はこのフェスに向けて特別に選ばれたメンバーだけでの参加になるのだが、いつか必ず全員揃って、この場所で『Thank You!』を歌うんだ、と彼女は不思議な予感を感じていた。

舞台照明が暗転した。
彼女は、直前の出演者に向けられた割れんばかりの歓声をやり過ごし、その間に自身の立ち位置へとスタンバイを終える。
リハーサルで何度も確認したことだ。その動きにはいつものように何のよどみもなかった。
続く765プロのメンバーたちの一番手として、最年長として、できる準備は全てしてきたつもりだった。

ここは私たちのことを知っている人たちばかりでは決してない。だから──。
彼女は暗転したステージの上で準備を終えた彼女は、何度も自分に繰り返した言葉を思い返し、飲み込んだ。
耳につけた機器からはすぐにでも曲が始まる合図が聞こえてくるはずであるが、彼女は暗闇の中それを待っていた。

劇場の公演とは対照的なフェスという形態。会場の大きさも、そこに集まった人たちも。
直前の出演者のイメージカラーである深い青色に染まったままの会場の中心で、彼女はひとりであった。

私はうまくやれるだろうか?
後の子たちに繋げられなかったら……?
普段の彼女であれば感じないものまでもが、どっと押し寄せる。

今までが太陽の光が波間にきらめく暖かな海であったならば、それはまるで荒波をたてる冷たい北の海のように見えた。
彼女は立ちはだかり、拒絶され、飲み込まれさえしてしまいそうな不安さえ感じてしまっていた。

彼女はマイクを握っている側の腕を強くぎゅっと掴んだ。
それは何かにしがみつくようにさえ見えた。
腕が震えていたかもしれない。
だが、それが実際にどうだったかに気が回らないほど会場に圧倒されてしまっていたのだ。

こんな状態のままステージに立つわけにはいかない。
彼女は目を閉じて、胸に手を当てて、ゆっくりと息を吸った。
こんなときそうして呼吸を確かめるように耳を澄ませるのが、いつからか彼女自身のおまじないになっていた。

いくらか経ったあと、彼女はそっと目を開けた。
彼女の目に見えたのは、彼女にいつも見えている景色そのものに戻っていた。
ばくばくと鳴る鼓動は収まらないものの、普段のように落ち着いてまわりを俯瞰できるほどにはなっていた。

彼女は胸をなでおろし、ふと当てていた右手に目をやった。
『それ』を見た時、彼女はすこし驚いたあと、優しい表情を見せた。

彼女は昔を思い出す。今思えばそれから長かったようでいて、短かったようでもあって。
自分の立った初めてのステージのことを思い出していた。
今よりもずっと小さなライブハウスで、自分のことをまだ誰も知らなかった頃の、そんな記憶。

これは、初めてのファンからもらった贈り物。
その日からずっと、大事な日につけるようにしていたブレスレット。
初めてのステージのときも、初めて自分だけのソロ曲を歌った時も。私のバースデーライブの時だって。
そして、今日も。

他の人には何の変哲もない、丸いガラス玉のついたブレスレットに見えるかもしれない。
でも、いつも私のそばで勇気をくれた、大切なもの。

指先で転がしながら前を向いた。
目を開けるとそこにはステージを心待ちにするみんながいた。
私のことを知ってくれている人も、そうでない人も。

ほら、耳元から秒読みが始まった。
マイクを持ち替えて右手を確かめるように触り、そっと抱き寄せてから、もう一度だけ深呼吸をした。

彼女の歌声が響きわたるのとほぼ同時に、ピンク色をしたあたたかな光が会場を照らし出した。
その中心には確かにスポットライトを浴びて輝くアイドルがいた。
深い青色に染まっている中心で彼女は歌う。
彼女自身の原点でもあり、初めて出会った自分だけの大切な曲を。
彼女の優しく、芯のある歌声だけが広い会場を包んでいた。
ひとつ、またひとつと、彼女の歌声が届くたび海は色を変えていった。


「love song のようにきらめき
 love song のようにときめき
 不安なんて嫌だ
 let me see your smile again」


360度どの観客たちも、そこに立つ紛れもないアイドルを目撃していた。
下から上へ揺れるように掲げられるサイリウムの波間は、すでに暖かな一つの色へと完全に移り変わっていた。

ほんのちょっとの勇気をもらったピンクのブレスレットに、またひとつ想いが重なっていった。
ひとつ、またひとつと途切れることなく。


「想えば想うほど 愛しいよ───」

おしまい。
もともとは夏ごろに書いていたものですが、とあるきっかけで今の形に書き上げて投下するに至りました。
色々思っていたりしたことを自分なりに形にしたつもりです。
読んでくださった方、ありがとうございます。

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