晩夏にほどける (54)
一次創作です。
方言を多用しています。わからなければ適宜聞いてやってください。
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八月も暮れだというのに、路地には不快なほどの熱気が立ち込めている。
夕方に降った雨が湿らせた裏通りを歩く彼女は、その後ろ姿だけでも絵になる雰囲気を備えている。
うんざりとする暑気の中でさえ、むしろ涼やかな感があった。
相当なうわばみだということを知ってはいる。
しかし、ついさっきまで居酒屋であれだけ飲んでいたにも関わらず、酔った気配をまるで見せていないことには驚かされた。
たとえそれが、毎度のこととはいえ。
なんとはなしに、彼女の歩調に合わさって長い黒髪が滑らかに揺れているのを眺めていると、急に彼女が立ち止まった。右に倣っておれも足を止める。
「そや、夏目君」
彼女が振り返って、のびやかな声音でおれの名前を呼ぶ。
「なんでしょう」
「きみ、ご実家は京都やったと?」
「そうですけど、それがどないかしはったんですか?」
「別にどないもしまへんよう」
おれの口調を真似て、薄く微笑む。
「お盆は帰省しよる?」
街灯や店先の乏しい光の下では、彼女の表情の委細までたしかめることはできない。
でも彼女のその立ち姿は心なしか儚げに見えた。
「いや、今年はやめとこかなって思ってます」
「ふうん」
「先輩は帰らはるんですか?」
彼女の名を千夏さんという。同じサークルに所属している先輩で、一つ歳上だった。
いつも落ち着いていて、あまり前に出るようなタイプではないけど、優しい人だった。
「ううん、まだちょっと悩んどったんよ」
「でもまあ、うちも今年はええかな」
先輩はそばに据えられている車止めのポールに腰を預けて、難しい顔をした。
そうかと思えば、すぐに破顔する。
話してみると、彼女は存外よく笑う人だった。
「交通費も馬鹿にならんからね」
彼女が生まれ育ったのは福岡で、それは話す言葉の柔らかさからも窺える。
それから暫くああでもないこうでもないと言いながら、ついに帰省することを諦めたようだった。
「ようし、決まり」
人の気配の薄れた路地裏に、どこか近くのスナックから、カラオケの音がわびしく響いている。
彼女の背後から吹いてきた生温い風が、夏の匂いを運んでくる。
よくわからないけど、ああ、夏だなあと思えるような、どこか懐かしい匂いを。或いは気配のようなものを。
「そう、さっきはお疲れさま」
おれの顔を見て、思い出したように彼女が労ってくれた。
「さっき? なんのことです?」
「ほら、飲み会仕切ってくれよったこと」
「ああ、それですか。別に感謝されるほどのことやないですって」
「うそ。全然お酒も飲まんで、取り持ってくれたと」
ふっと息を吐くように、彼女がにこやかに微笑む。
たったそれだけの仕草で、息が詰まりそうになってしまった。
なんとも単純な生き物だと、我ながら思う。
「いや、幹事が酔い潰れとったらあかんでしょ」
頬が緩んでしまいそうになるのを、苦く笑ってごまかした。
「でも、折角の飲み会なのに全然酔ってないって、なんか損した気せん?」
諭すというよりは、甘やかすような言い方だった。
自然と、ちっぽけな強がりをかなぐり捨ててしまえる気になれた。
裏付けがあってのことではないが、自然な気の遣い方をする人の気遣いほど、意識の深い部分に届くのだと、とみに思う。
それに、あれだけ痛飲した彼女が言うと、その言葉は妙に説得力を帯びているように感じられた。
観念して両手を上げる。
本当のところ、帰ってから一人で飲みなおそうと思っていたのだ。
「ほんま、先輩っていう人は、なんもかんもお見通しですね」
そう言うと彼女は、得意げな表情をした。
「夏目君、時間ある?」
「はあ、基本的にはいつでも」
そう答えると、彼女がゆっくりと首を横に振った。
「じゃなくて、これから」
「これから?」
「うん。飲みなおさん?」
「おれと?」
自分の右手の人差し指で自分を差すと、彼女はこくりと頷いた。
「……少し、相談に付き合ってほしかことが、あると」
彼女はそう言って、少しだけ恥じらうように笑った。
しかしその表情には、どことなく陰りが差しているように見えた。
十数分ほど時間を遡る。
サークルの飲み会を終えて各自解散となった後、おれは、最寄りの駅まで真っすぐ向かっていた。
幹事をしていたとはいえ全然酔えなくて、少しだけもやもやしていた矢先、少し前方に彼女の後ろ姿を見つけた。
背中に届く黒髪を揺らしながら一人、ぽつねんと歩いているその姿は、他に誰と間違うこともない。
後ろから声をかけると、歩みは止めないままこちらを振り返って、彼女は顔を綻ばせた。
おれは、彼女のことが好きだった。
丁寧に言葉を選んで話し、相手の気持ちを汲むのが上手かった。
いつも意図的に集団の中央から一定の距離を保ち、なにがしかの意見を求められる時は、常に中立的な目線からものを話した。
顔の輪郭が綺麗で、右目の下に小さな泣きぼくろがあり、くちびるが薄かった。
声は大きくはなかったが聞き取りやすく、笑う時は目を糸のように細めた。
日常的に方言を話し、アルコールの類を愛していた。
そんな彼女のことを好ましく思うようになったのはいつからだろうか、わからない。
長い下り坂を歩くようにして、どこか明確な点として彼女を意識するようになったわけではなく、緩やかにおれの領域を彼女が占めていった。
元々は二人とも地方の出身だという程度の共通点しかなかったように思う。
話すようになったきっかけは、はっきりとは覚えていない。
たしか、くだらない映画の趣味が被ったとか、そんな感じだった気がする。
話し始めてから、自分の好みが、彼女のそれと近いことに気が付いた。
たとえば、二人ともメインクーンという種の猫に目がなかったし、マーシャルというメーカーのイヤホンを愛用していた。
その程度のものではあった。
でも、それだけで十分だった。
二人の間だけで映画評を交わしはじめ、やがてそれ以外のことについても話すようになった。
端的にいうなら、おれと彼女は馬が合った。
自惚れでなければ彼女もまた、そのように感じてくれていたと思う。
気持ちを伝えようと思ったことは、何度もあった。
しかし、その一歩がなかなか踏み出せなかった。
今のようにお互いにつかず離れずの距離で向き合う、緩い結びつきのような間柄を続けるのも、十分心地良かったからだった。
たとえ気持ちを伝えたとして、もしも断られでもすれば、気軽に話すことさえできなくなる。
そうなることが、なせかとても恐ろしいことのように思えた。
要するにおれは、ただ臆病だった。
「相談、ですか。ええですけど」
口にした言葉とは裏腹に、煙のように掴みどころのない感情が沸き上がる。
対面で酒を飲むというのも、実は初めてのことだった。
本来はもっと、わかりやすく喜ぶべきなのかもしれない。
だけど、彼女が誰かに相談する姿なんて、今まで見たこともなかった。
「ありがと」
「どこか店入ります?」
「うち、いいお店知っとうからそこでええ?」
「大丈夫ですよ」
身体の後ろ側で手を組んで、彼女が再び歩き始める。その斜め後ろをついて歩く。
店に着くまでに五分とかからなかったが、その間に意味のある会話は殆どなかったと思う。
少し歩いた先にそびえていたのは、瀟洒な雰囲気が漂う、洋風の建物だった。
彼女に追従して重い扉をくぐると、橙色の照明が少しだけ眩しい。
冷房の効いた店内は、異国のような、あまり嗅いだことのない香りがする。
彼女は入店するなり、店主と思しき老齢の男性と二三会話をしたかと思うと、店の奥のカウンターの端に腰掛けた。
異様にも感じられる雰囲気に気圧されながら隣の席に腰掛けると、先輩は意外そうな顔をしている。
「夏目君はこういうお店、初めて?」
「そうですね、専ら自分は宅飲みなんで」
「お酒、強い人?」
「弱くないとは思いますけど」
「じゃあ適当に頼んじゃおっか。奢ったげる」
「お世話になります」
「相談に乗ってもらうもの。そげん、かしこまらんでもええよ」
そう話す彼女の方が、明らかにかしこまっているように見えるとは言えなかった。
洋酒は日頃あまり飲んでない、と言うと彼女は少し考えて、口を開いた。
「オーヘントッシャンを、ロックで」
耳慣れない可愛らしい名前だったが、ロックというからにはウイスキーなのだろう。
先ほどの人物はカウンターの向こう側で、グラスを磨きながら頷いた。
「うちには、いつものを」
少しの間を置いて、彼女が呟く。
彼はなにも答えずに黙々と準備をしている。
優しそうな笑みを浮かべている。
やがてオールドグラスが二つと、ナッツの盛られた小皿がカウンターに置かれる。
琥珀色の液体に浮かぶロックアイスは、小さな氷山のようだった。
小さく乾杯し、すぐに彼女がグラスに口を付けた。
彼女の喉がこくりと動くのを、目を離すこともできないまま見つめてしまう。
「……ふう」
その一口だけで半分ほど飲んだ彼女は、俯きがちに艶やかな息を吐いた。
飲み会の席でさえ、こんなに近くで彼女と飲んだことはなかった。
ちょっと、どうにかなってしまうくらい、色っぽい。
「よう来るんよ、このお店」
「一人で飲んどうたい」
彼女の声に、いつもの調子が戻りつつあった。
「どんだけお酒が好きなんですか」
つとめて普段通りに返した。
「たまには酔いたい夜もあるの」
たまにはという言葉から推測するに、どうやら彼女は、おれとは異なる時間の流れの中に佇んでいるらしい。
彼女の方を見やりながら、そんなことを思った。
「……なあんか、失礼なこと考えとうと?」
すぐに看過されてしまい、おれは首を横に振った。
相談がどうこうという前に、差し当たってまず酒を飲むことになった。
殆ど素面のおれに気を遣う半分、自分も飲みたい半分だろうか。なんにせよ、ありがたかった。
オーヘントッシャンというウイスキーは、グラスを傾けると仄かに柑橘類の香りがして、これが飲みやすい。
雑味がなく軽やかで、一口で気に入った。
「お。夏目君、自分結構飲めるくちやねえ」
「たまには酔いたい夜もあるんです」
「もう。あほ」
ふざけて彼女の言葉をなぞって返すと、少し恥ずかしそうな、呆れたような顔をされた。
「でも、たまには息抜きも必要たいね」
「息抜き、ですか」
「疲れ切ってから休むんでは遅いんよ。そうなる前に休まんと意味が薄か」
曖昧な笑みを浮かべて、彼女が呟く。
それからグラスを傾けつつ、言葉を重ねた。
「全部に言えると。踏ん切りがつかんままずっとおっても、いたずらに時間ばっかしすぎよう」
「……言いたかことも言えんまま、終わるから」
「なんや、深いこと言わはりますね」
「最近そう考えるようになっただけで、別に深くもなんともなかと」
そう言って彼女はグラスを空けて、同じものを注文した。
受け取ったそばから、グラスをぐいと傾けていく。
いくら彼女にしたって、少しペースが早すぎるんじゃないかと思った。
「あんね、夏目君」
彼女の声のトーンが、少し落ち着いたような気がした。
「なんでしょう」
「うち、きみに聞きたいって思っとったこと、いっぱいある」
「いっぱいあるんよ」
なんとなく、腹を括ったような言い方だった。
もう既に半分ほどになったグラスをテーブルに置いて、彼女がおれを見つめる。
たしかに艶のある表情でもあったけど、なんとなくいつも通りの彼女も、そこに同居しているような気がした。
緊張を覚えつつ、おれは彼女の言葉を受けた。
「答えられることなら、なんでも答えますけど」
そう言うと、彼女の表情が僅かに明るくなったようだった。
「ほんま? ええっとね」
「好きな食べ物は、なに?」
「え?」
彼女の纏っている雰囲気と言葉が噛み合っていなくて、拍子抜けしてしまった。
「だから、好きな食べ物たい。何系とかでもええき」
「えっと、なんでしょう、和食全般ですかね。煮物とか好きです」
質問に答えながらも、彼女の考えが読めなかった。
こんなことを聞いてどうするつもりなんだろう。
彼女はふんふんと言いながら、何度か頷いている。
「そんなら、目玉焼きには、なにかけとう?」
「醤油ですね」
「あ、うちも同じ。じゃあ、最近泣いたことある?」
「……いや、ないですけど、ていうかなんですか、これ」
若干楽しげな彼女に、質問の意図を尋ねた。
「なにって、聞きたかことあるって言うたとね?」
首を傾げて彼女が答える。
「いやでも好きな食べ物とか、目玉焼きがどうとか、なんでそんなことを?」
「んん……えっとね」
言葉に詰まった彼女は、照れた幼子のように、口角を少し上げてはにかんだ。
いつもなら、あまり見かけることのない表情だった。
「今まで夏目君とは、趣味の話でばっかし盛り上がってきようやろ?」
「やけん、こげなことも知りたいなあって、前から思っとったの」
「……迷惑やったと?」
そう言いながら彼女は、頬を真っ赤にさせていた。
照れくささや気恥ずかしさが綯い交ぜになって、自分の顔にも血が昇るのを感じた。
「なんにも迷惑じゃないですけど、それにしたって別に、今聞かなきゃいけないことでもないでしょ」
「それもそうかもしれんとね」
手のひらを頬にあてながら、彼女は頷いた。
「ね、もう一つだけ質問してもよか?」
「はいはい、なんでもどうぞ」
照れを隠すために、少し言い方がぶっきらぼうになる。
「……なんでも、ええと?」
「じゃあね」
それまでは本当に、なんでもないような口調だった。
酒精も手伝ってか、普段よりも少し眠たげで、柔らかい話し方。
「彼女さん、おる?」
一転して、静かな声だった。
肌に朱が差した彼女が、水面に布を敷くように慎重に尋ねてきた。
暫くお互いに、見つめあう形になる。
彼女は至って真剣な表情だった。
何度か深く息を吸って、首を横に振る。
「でも、好きな人はいてます」
「そっか」
大きくはなかったが、聞き取りやすい声だった。
暫くの間、おれと彼女は静かに酒を飲み、静かにナッツを齧った。
いつものように意味のない話題を投げかけて、沈黙を埋めることもしなかった。
今そうして有耶無耶にしてしまったら、この先ずっと後悔してしまうような気がした。
音楽のかけられていない店内は、俺と彼女以外に客の気配がない。
店主らしき人物は、古ぼけた椅子に腰かけてペーパーバッグを開いている。
空調の唸るような駆動音だけが、退屈な伴奏のように聞こえている。
「先輩」
「うん?」
「相談ごと、聞かせてくれますか」
なんとなく彼女が誘ったこのきっかけに、きっと意味があるのだと思った。
ナッツに伸びる手が止まる。
彼女は小さく頷いて、もう一度だけグラスを煽って、くちびるを舐めた。
聞き逃してしまいそうなほど微かな咳払いが聞こえた。
「うち、好いとう人がおるんよ」
それは、口から出たそばから空気に溶けて消えてしまいそうな言葉だった。
彼女はじっと、グラスに浮かぶ小さな氷山に視線を落としている。
「優しくて、話が面白くて、一緒にいると安心できて」
「なんとか気持ちを伝えられたらって、思っとうと」
「ばってん、うち、そういうん苦手やき、困っとうたい」
「普通に話す分には、できるのに」
てのひらに収まるほどの大きさの観葉植物に水を差すように、グラスは穏やかに傾けられる。
ほどなくして、からんと音がして、融けきれなかった氷が自分の存在を主張した。
「おかわり」
新しく用意されたグラスを受け取ると、それには口を付けず、彼女は俺の方を見た。
その視線には、信じられない量の感情が渦巻いているようにも、たった一つの意思を宿しているようにも見える。
すぐに彼女は顔を綻ばせて、一度だけ眉根を上げた。
「どうしたら、振り向いてもらえるやろか」
こんな時に、自分に豊富な語彙が備わっていればと思う。
伝えたいことを、なに一つの意味の損失もなく伝えることができないことが、もどかしかった。
だからおれは、思ったことを言うことしかできない。
「先輩は、先輩のままでええと思います」
「お酒飲んで楽しそうにしてはるの、見てるだけでこっちも楽しくなるし、」
「あほみたいなB級ホラー映画観て、する必要のない考察しあうのも好きです」
「先輩は今のままで十分魅力的なんで、普通に話してるだけでも全然大丈夫やと思います」
言い切ってから、身悶えするほど恥ずかしくなった。
「……えっと、あくまでも、おれの意見なんですが」
ずっと俯き気味に聞いていた彼女が、顔を上げた。
生まれたばかりの猫をタオルケットに包むような、優しい表情だった。
「ううん、嬉しい」
「だって、きみの意見が聞きたかったもの」
たとえ突っぱねられたとしても、伝えるなら今しかないと思った。
「先輩」
心臓が早鐘を打っている。
もう後には引けないところにまできている。
「おれ、先輩のことが、ずっと前から、」
「ねえ」
今まさに伝えようとする、すんでのところで彼女に遮られた。
言葉に詰まるおれに、真剣な表情を浮かべた彼女が言う。
「先輩、じゃなくて、千夏って、呼んでほしかよ」
歌うような言葉だった。
頷くこともせず、おれは彼女の目だけを見つめる。
「おれ、千夏さんのことが、ずっと前から好きでした」
そうして、意外にすんなりと言葉になったことに、自分で驚いた。
彼女の名前を呼ぶなんて、もちろん初めてのことだったけど、口にするだけで温かい気持ちになれた。
当の彼女はただひたすら、くすぐったそうにしていた。
それから、もう何杯か飲んだ後のことだった。
「夏目君、きみ全然酔ってなくない?」
彼女が訝しげな表情を浮かべて、おれの様子を窺っていた。
「ええ? 普通に酔ってますって」
「ばってん、そんな感じには見えんと?」
「ああ、おれあんまり見た目にはわかりづらいって、よく言われます」
そう答えると、彼女はわかりやすく残念そうな顔になった。
「きみも、あとちっと酔いよったら都合ええのに」
「都合?」
どこか拗ねたような横顔。その顔がおれに向き直り、こちらに身を乗り出して、そのまま右の耳元に近付いてきた。
おれはというと、突然の事態についていけなくて身体が動かなかった。
「言うときに照れんくなるばい」
「な、なにを、ですか」
耳元で甘い甘い、鈴のころがるような声がする。
こそばゆくて仕方なかった。
「うちからもきみに、言ってあげたかこと」
「……おれに」
とん、という微かな音と共に、柔らかな質感。そしてすぐそばから漂う、くだもののような香り。
気が付いた時には、彼女のおでこがおれの肩に預けられていた。
「だめ、寝ちゃう」
ぱっと顔を上げて彼女が無邪気に笑う。重そうな瞼を擦って、何度か瞬きをした。
そうして嬉しそうに小さく笑ってから。
大切な秘密を打ち明けるように、そっと言ってくれた。
「うちもきみのこと、好いとうよ」
店を出て、連れ立って歩く。
幾らか涼しくなっている気候に、漸く長い夏のおわりを見た気がした。
更け切った夜の、ずっと静かな気配がそこかしこにある。
ふと、つまらないことに気付いた。
おれも彼女も、二人とも"なつ"という言葉が名前に入っている。
くだらないと思いながら、どこか嬉しくなっている自分がいる。
「先輩」
彼女を呼ぶ。
いつもならすぐに反応をくれるのに、どうしてだか彼女は振り向きもしなかった。
「先輩?」
「つーん」
たった一言だけ返ってくる。
相変わらず振り向いてはもらえなかった。
よくわからないけど、どうやら機嫌が傾いているらしい。
「どうしたんです?」
先輩の顔を覗き込むと、くちびるを尖らせていた。
「うちの名前は"先輩"なんかじゃなかよ」
つっけんどんなその返事が、いちいち可愛かった。
「あー、すんません」
「えっと、千夏さん」
あらためて、彼女の名前を呼ぶ。
にこにこと笑う彼女が、今度はすぐに振り向いてくれた。
「うん?」
「手、繋ぎたいです」
「ん」
おれの方にぶらっと伸ばされた、白くて小さな左手に触れる。
ほんの少しだけ冷ややかで、この世で一番柔らかかった。
そうして手を繋いだ途端、どうしてだか、身体中がほどけていくような気がした。
実際になにかがほつれたわけじゃなく、それは感覚的なものに過ぎないけど、たしかだった。
嫌な気持ちが根こそぎ取り去られて、ベッドに身体を沈めた時のような安心感に包まれる。
身体の芯に少しずつ滲むようにして、幸せだという思いが広がっていく。
少しだけ力を込めて握ると、応えるようにして握り返してくれる。
「夏目君」
「はい?」
名前を呼ばれて彼女を見ると、彼女もこちらを見つめていた。
目が合って、薄く微笑まれる。
「うち、もうちょっとだけ、きみと飲みたか」
「まだ飲まはるんですか」
おれは思わず笑ってしまい、それを見て彼女は少しだけ恥ずかしそうな顔をした。
それからすぐに吹き出して、一緒に笑った。
ひとしきり笑い終えてから、彼女が呟いた。
「うちは本気で言いよっちゃよ?」
手を握る力を強めたり弱めたりしながら、なにかをねだるように。
「でもそんなこと言って、終電逃したらまずいでしょう」
別におれだって、まだ飲む余裕はある。
それでも今日はもう遅い時間に差し掛かっていた。
「お誘いは嬉しいんですけど、どうしても飲みたいんやったら、家で飲むのがええんと違います?」
「やけん」
彼女が繋いでいない方の手で、ちょいちょい、と手招きをする。
なんだろうと思いながら、彼女の方に顔を寄せた。
悪戯っぽく笑いながら、彼女がおれに耳打ちをする。
「……これから一緒にうちにきて、飲まんね?」
以上になります。
読んでくださって有難うございました!
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