鷺沢文香「遣らずの雨」 (29)
デレマスの鷺沢文香さんのSSです。地の文多めです。
普段は渋で活動しているので、こういう形で投稿するのははじめてになります。
至らない点がありましたらご容赦ください。
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覚悟はしていたのだ。
プロデューサーさんにスカウトされアイドルになると決心したあの日から、私は想像の及ばない困難が待ち受ける世界に足を踏み入れたのだと。
演技もダンスも歌も経験はない。運動も人付き合いも、笑顔を見せることすら不得手である。そんな私がアイドルの道を目指したのだから、苦労しないわけがない。そう覚悟はしていた。
しかし、こんなことになるなんて聞いていなかった。
「文香ちゃん! 闘魂を燃やしていますかっ!? あのメラメラと燃える赤い夕陽のように! さあっ、足を前に動かして! 足を動かしたら腕も動かしましょう! 身体全体で走るのですっ!!」
「あ、あの……茜さん……私、そろそろ体力の限界が……。それと、今は昼下がりなので……夕陽は、見えない、かと……」
「何を言っているんですか文香ちゃんっ! 私たちの心に熱い魂が燃えている限り、夕陽はいつだってそこにあるのです!! 私が読んでいるマンガでは、登場人物たちが走りはじめるといつも夕陽が現れるので間違いありませんっ!」
「それは、表現の一種……あるいは、お約束と呼ばれるものでは……あの……」
どうしてこんなことになってしまっているのか。
私は今、鉛のように重たい身体を引き摺りながら土手を走っている。同じく私の前を走っているのは事務所のアイドル、日野茜さん。
同じくといっても、呼吸を細切れにして地獄に落とされたカンダタのような面持ちでいる私とは対照的に、茜さんの元気はまるで無尽蔵である。汗こそかいているものの、疲れの色なんて一切滲ませない笑顔をその表情に浮かべ、陽気に走り続けていた。
本当に、どうしてこんなことに。
プロデューサーさんから『トレーニングの時にパートナーをつけてみましょう』と提案されたのが一週間前のことだ。
その時に紹介され、出会ったのが茜さんだった。茜さんの自己紹介は今も鮮明に記憶している。
『鷺沢文香ちゃんというのですね! 私は日野茜です! よろしくお願いしますっ!! 好きな四文字熟語は猪突猛進! 好きな食べものは昆布茶ですっ!』
事務所に入りたての私にとって、出会う人すべてが初対面である。しかし、これほど強烈な第一印象を残した人物は他にいなかった。
昆布茶を食べものに分類しているのはどういうことなのだろうか。
元気を体現したような溌剌さ。真っ直ぐな言葉遣い。初対面の相手でも臆さず見つめてくる瞳。
すぐに自分とは真逆の人間なのだと悟った。その時、私がどんな挨拶を返したのかはもうよく覚えていない。
そんなあべこべなふたりがパートナーを組むだなんて冗談だろうと思った。
実際、冗談であればどんなによかったことか。
茜さんと一緒にトレーニングをするのは今日が三回目だが、すでに生涯で費やしてきた体力の総量を超えるほど走り込んでいるのではと、危惧してしまうぐらいなのだから。
「あの、茜さん……私たちはいったい……どこまで行こうとして、いるのでしょうか……」
「もちろん! アイドルを目指す私たちの未来までですっ!! さあ、どんどん行きますよー! ファイトー!」
詩的な表現を含んだレトリックは私好みなのだが、今の私にとっては未来なんてそんな遠い場所ではなく、できれば三メートルほど先で休息をいただきたい。
ああ、どこかに救いの蜘蛛の糸は垂れていないものか。
◇
◇
◇
事務所に併設された喫茶店の窓から空を覗くと、ねずみ色の雲が空を覆いはじめていた。
天気予報に雨マークは出ていなかったはずだが、この季節の空は千変万化。にわか雨でも降るのかもしれない。
疲労感の籠もった溜息を吐き、はしたないとわかっていながらも私はテーブルの上に項垂れた。
しばらくそうしていると、向かいの席に誰かが座る気配を感じた。顔を上げる。
「こんにちは、鷺沢さん」
「プロデューサーさん……」
「大変お疲れのようですね」
「お恥ずかしい限りですが、ご覧のとおりです」
時刻は午後の三時を回ろうとしているところ。プロデューサーさんもひと息つきにきたのだろうか。
「コーヒーでもどうですか? ご馳走しますよ」
「せっかくの申し出ですが遠慮しておきます。身体が疲労困憊していまして、飲食物を受けつけないのです」
「茜さんとのトレーニングは辛いですか?」
プロデューサーさんが和やかに微笑む。
しかし『辛い』という表現に刃物のような鋭さを感じて、私は内心で胃が引き絞られるような錯覚を起こした。
おずおずと答える。
「……辛いといえばそうなのかもしれません。運動が辛いというのも事実ですが、それ以上に茜さんの足手まといになっていることが心苦しいのです」
ふむ、と間を置いてプロデューサーさんが背広の内ポケットから黒い手帳を抜き出す。
何枚かページを捲って、言った。
「そうでしょうか? 茜さんからトレーニングの様子はいつも聞いていますが、そう悲観するものでもないと思いますよ?」
「え? あの、それはどういう――」
「お疲れさまでーす! プロデューサーさんっ!」
言葉の意味を尋ねようとした時、突然プロデューサーさんの背後から茜さんが現れた。
プロデューサーさんの座る椅子に勢いよく飛びつく。
危ない、と思ったが、プロデューサーさんの身体はわずかに揺れただけで、衝撃を難なく受け止めていた。
プロデューサーさんが振り返る。
「茜さん、お疲れさまです。それと、いつも言っていますが人に向かって突然タックルを仕掛けてはいけません」
「すみません! 元気なもので! それにプロデューサーさんなら受け止めてくれると信じていましたから!」
「慣れましたからね」
何やら不可解な会話が目の前で繰り広げられている。茜さんが私を見た。
「文香ちゃんもお疲れさまです! 今日もよくがんばりましたね!」
その眩しい視線を直視できず、思わず目を逸らす。
「……いえ、私なんてそんな……」
がんばったなんてとんでもない。今日もまた途中でへばってしまい、事務所に引き返すことになった。
まだ一度だって最後まで茜さんについていけたことはないのだ。私はただ足を引っ張ってばかりで……。
「ところでのど渇いてませんか!? 水筒に淹れてきた私のお茶飲みますか!? ランニングのあとのお茶は格別ですよっ! あっ、これは豆知識なんですがランニングの前のお茶も美味しいんです! すごいですねっ! お茶飲みますか!?」
首を振って答える。
プロデューサーさんにもコーヒーを勧められたが、今は口に何かを含みたい気分ではない。
「そうですか……おやつ時なのでちょうどいいと思ったんですが。それにつけてもおやつはお茶です!」
「おやつ、ですか……」
お茶とは本来糖質の低い飲みもので、ダイエットなどにも活用されると聞く。
糖質に偏ったものだけがおやつと呼べるわけではないが、その概念を差し引いてもお茶をおやつに分類するのはあまり適切ではないように思う。
しかしお茶といっても種類は様々だ。たとえば市販のミルクティーなどは非常に甘い。
それに、確か茜さんが好きだと言っていた昆布茶も味を調整するために砂糖を混ぜるらしい。
つまり、おやつの意義目的をカロリー摂取に置くとするなら、お茶もおやつに分類できてしまうのではないだろうか。
「……なるほど」
「鷺沢さん、今何を納得したんですか?」
「いえ、何でも……」
プロデューサーさんの声で意識が思考の海から戻る。
茜さんは背負っていたリュックサックから水筒を取り出すと、コップに注いで一気に飲み干した。
陽に焼けてやや小麦色になった喉もとがコクコクと動いている。
「日野さんは帰られるところでしょうか?」
プロデューサーさんが尋ねる。
「はい! 今日はもうレッスンもありませんし、ノルマ分のランニングも終わったのであとは走って帰るだけですっ!」
……今、走って帰ると言わなかっただろうか? いや、そんなまさか。
「文香ちゃんも一緒に帰りますか? 走って帰れば疲れが吹き飛びますよ?」
「あの……えっと……申し訳ありません。私にはもう茜さんのような元気は残っていないので。茜さんはいつも私の遅々としたペースに合わせてくださっているのに、私はいっこうに成長する気配がなく、とても情けないと思っています……」
「何を言っているんですかっ!?」
茜さんがテーブルに両手を着き、私の正面に身を乗り出してきた。
「文香ちゃんはもっと自信を持ってください! いいですか、文香ちゃんは今日ひとつのことを成し遂げたのです」
その勢いに目を白黒させつつ、茜さんを見つめ返す。
成し遂げたとはどういうことだろうか。心当たりがない。
茜さんが人差し指をぴんと立てて言った。
「前回私と走ったときに文香ちゃんが足を止めた地点。今日はその地点よりも三メートル先まで進むことができました。たかが三メートルと思うかもしれませんが、今日の文香ちゃんは過去の文香ちゃんよりも三メートル分、確実に成長したのです! これを褒めずして何を褒めるというのでしょう!」
思いもよらない言葉に私は息を呑む。茜さんの顔を呆然と見つめ続ける。
「自分をもっと褒めてあげてください、文香ちゃん! 今日成長したのは他の誰でもありません。文香ちゃん自身なんですから! もしその元気がないなら文香ちゃんもやってみますか?」
「何を、でしょうか」
「プロデューサーさんへのタックルです! 元気出ますよ、これ!」
予期せぬ方向から矢が突き刺さり、プロデューサーさんが「え」と漏らした。
私と顔を見合わせる。
とんでもない、と言わんばかりに私は顔の前で両手を振った。
プロデューサーさんの身体にぶつかれば私のほうが反動で転んでしまうに違いない。
それよりも気になることがあった。
「……あの、茜さんはもしかして、私がその日走った距離を記録して、次に走るときはその記録を少しでも超えられるように配慮してくれていたのでしょうか?」
「もちろんです! こう見えて私にはマネージャー経験があるので、誰も彼もを無闇に走らせるわけではありません! 誰にも、その人に合った成長スピードがありますからね!」
……申し訳ありません。無闇に走らされてるのだとばかり思っていました。
プロデューサーさんを見る。
「プロデューサーさんが言っていたことは、ひょっとして……」
「そのとおりです」
頷いて、プロデューサーさんは手もとの手帳をこちらに開いて見せた。
そこにはおそらく茜さんが話したのであろうと推測できるトレーニングの様子が、プロデューサーさんの字で隙間なく記されていた。
「本当に、嬉しそうに話してくれるんです。だから僕もつい筆が乗ってしまいました」
優しげな眼差しで私と茜さんを見て、優しげな声音でプロデューサーさんが言う。
「嬉しかったので!!」
快活に茜さんが答える。その傍らで、私は口を開けないままでいた。
私はただ茜さんについていくのに必死で、自分がどれだけ走れているかなんて気に留めていなかった。
茜さんが私のことをこんなふうに考えてくれているなんて想像もしなかった。
「それでですね! 実は文香ちゃんに渡したいものがあるんです! ここに寄ったのもそれを渡すためで」
そう言って、茜さんはスカートのポケットから空色の小包を取り出した。
「どうぞ、文香ちゃん!! きっと似合うと思います!!」
手渡されたそれと茜さんの顔を交互に見遣る。これはいったい……?
「こ、こういうのってドキドキしますねっ。よければ開けてみてください!」
状況が飲み込めない私は、言われるがままに小包を開封する。
指を入れてみると柔らかな感触。中身のそれをそっと手のひらに乗せる。
私の手の上にあったものは、まるで空を映したような鮮やかなブルーのシュシュ。
「……茜さん、これは?」
「私から文香ちゃんへのプレゼントです! 文香ちゃんの髪、長いのでランニングの時やダンスレッスンの時に動きづらいんじゃないかと思いまして。私も長いんでよくわかるんです! だからトレーニングの時はこのシュシュで髪の毛をまとめれば、もっと励めますよ!」
そこまでハキハキと喋っていた茜さんだったが、急に声のトーンが落ちる。
わずかに頬を桃色に染め、くすぐったそうに言葉を紡ぐ。
「あと……そのですね、文香ちゃんがシュシュで髪をくくれば私とおそろいっぽくなるんじゃないかと。それって何だかパートナーって感じがしませんか? 私、そういうのに憧れてて……」
それはきっと、茜さんの精いっぱいの気持ちだったのだろう。
手のひらの上のシュシュ。
触れている部分から熱が伝わるかのように、私の中に茜さんの想いが染み渡っていく。
私の小さな成長を見届けてくれていた茜さん。
それを嬉しそうにプロデューサーさんに語ってくれていた茜さん。
それから……私とパートナーでいたいという気持ちを形にしてくれた茜さん。
私はいったい、どれだけのものを貰えばいいのだろう。
それが嬉しいのに、けれどこんな時、どんな表情を相手に見せればいいのかわからない。
「文香ちゃん……? もしかして、お気に召しませんでしたか!? すみません!! 明るいことと熱いことだけが取り柄なので、プレゼントってどんなものを選べばいいのかわからなくて!」
あちゃー、とおどけた表情を見せる茜さん。
しかし茜さんの瞳は切なげな色を滲ませていた。
それがどうしようもなく堪らなくて、自然と言葉が漏れていた。
「いいえ、いいえ……! 確かに茜さんは熱い方ですが、私にとって貴方はとても暖かい人です」
「暖かい? それは温度が足りないということでしょうか!?」
首を振る。
「十分です。本当に私には十分なほど暖かくて……。茜さん、ありがとうございます。とても、とても嬉しいです」
手のひらのシュシュを両手でそっと包み込む。
こんなにもたくさんの気持ちを貰って、こんなにも感謝しているのに、そのすべてを十全に伝える方法が私にはわからない。
胸にあふれるこの気持ちを贈りたいのに、その術を私は持っていない。
何て、もどかしいんだろう。
私は貴方に、何を返せるだろうか。何を返せばいいだろうか。
しかし、きっともう時間もない。茜さんは帰るところだと言っていた。
叶うなら、私は貴方とまだお話をしていたい。
きっと、私は貴方をもっと知らなければいけないのだろう。
こんな些細な願いですら、言葉にするのは勇気がいるというのに。
「文香ちゃんに喜んでもらえてよかったです!! 次のトレーニングの時はふたりでポニーテールにして走りましょうか!? いいですねっ! それがいいです!! くぅ~~、今から楽しみになってきました!!」
表情を明るくした茜さんがリュックサックを背負い直す。
「それでは! そろそろ失礼しますね!! 文香ちゃん! 次も一緒にがんばりましょう!!」
ああ、行ってしまう。
後悔の種が芽を吹きはじめているというのに、私は曖昧な頷きを返すことしかできなかった。
その時だった。
「雨だ」
誰かがつぶやいた。
見ると、プロデューサーさんが窓の外を覗いている。それに倣って私も外に視線を移した。
「あぁっ! 雨が降ってます!! どうしましょう! 私、傘持ってきてないんです!」
先ほどから怪しかった天気がついに崩れたらしい。外は土砂降りになっていた。
「おそらくにわか雨です。きっとすぐに止みますよ」
にわか雨。そうだろう。
しかし、私にとっては違う。
帰ろうとする人を引き留めるかのように降る雨。
まるで私の願いに呼応したかのように降るこの雨の名前を、私は知っている。
「……遣らずの雨」
ふと視線を感じて横を見遣ると、プロデューサーさんと目が合う。
しばらく思案げな表情でプロデューサーさんは私と目を合わせていたが、何かを思い出したかのように茜さんに向き直った。
「そういえば日野さん、次の舞台のお仕事で使う台本のチェックがまだ万全でないと言っていませんでしたか? それ、鷺沢さんに協力してもらうのはどうでしょう。鷺沢さんは本に詳しいので、きっとお芝居の原作についても知っていると思いますよ」
「本当ですか!!?? 文香ちゃん!?」
勢いよく、私の両肩を茜さんが鷲づかみにする。
「ぜひ助けてください!! 私はどうも台本のドッカイ? というのが苦手で! 監督さんにいつも怒られてるんです!! 怖いんです!!」
「え、えぇっと……あの……」
鷲づかみにされた上に、思いっきり揺らされる。
「わ、わかりました。どんな台本かわかりませんが、私でよければ助力します。……なので、あの、あまり視界と頭をゆらさないでいただければ……疲れているので、酔ってしまいます……」
しかし、言葉とは裏腹に私の気持ちは浮ついたものになっていた。
私でも日野さんの力になれることがある。その事実がただ嬉しいから。
もし、私という成長の物語が存在するなら、今はまだ序章を終えたあたりなのかもしれない。
ページは捲るスピードは遅くとも、それは褒められることだと言ってくれる人たちがいるなら。
私もその気持ちに寄り添っていきたい。
そしていつか、茜さん。
貴方とパートナーでいたいという気持ちを私も形できたらと、そう願います。
以上になります。
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