【アイマス】眠り姫 THE SLEEPING BE@UTY (467)

――たくさんの笑顔。
たくさんの拍手。
「おめでとう」の声。
その全てを一身に受ける女の子。
歩み寄ると、気付いたその子は目に涙を浮かべて振り返った。

  「おめでとう」

そう言うと、その子は「ありがとう」とにっこり笑った。
花が咲いたような笑顔につられて、こちらまで笑顔になってしまう。
可愛らしい声に心がじんわりと温かくなる。

そうだ、『アイドル』に選ばれるっていうのは、きっとこういうこと。
……いつか、きっと。
自分もいつかアイドルになって、そして――

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1499943328




薄暗い部屋で、少女は目を覚ました。
白いシーツと対照的な黒い長髪は、暗い中でもよく映えて見える。

長髪の少女は、まず初めに目に映った見慣れぬ天井を眺めた。
少し経って体を起こすと、やはり見慣れない部屋の、
一番端のベッドに自分が居ることを確認した。

カーテンの隙間から漏れ入る光に気付いた頃になって
意識がはっきりし出し、少女はようやく思い出した。
自分は、昨日からここで生活を始めたのだと。

その時、少女の意識が冴えるのを待っていたかのように鐘が鳴った。
起床の合図だ。
鐘の音は優しく、だがしっかりと部屋いっぱいに響き、
まだ夢の中に居た他の者達を呼び起こした。

マコト「んっ……はあ、よく寝た~! おはよう、ユキホ!」

ユキホ「うん、おはようマコトちゃん」

目覚めて初めに声を発したのは、マコトと呼ばれた少女と、
それに挨拶を返したユキホと呼ばれた少女。
寝ぼけ眼をこすっている者も居る中で、
マコトの快活な声は起床の鐘以上によく響いた。
と、すぐ隣のベッドから唸るような声が聞こえる。

イオリ「学年の始めからうるさいわね……。
   今年からはちょっとはマシになってくれるものだと思ってたけど」

マコト「む……なんだよイオリ、そんな言い方ないだろ?」

イオリ「何回も言わせるあなたが悪いのよ。まったく……」

気だるそうにそう言って、イオリと呼ばれた気の強そうな少女はベッドを降りる。
そして去っていくその背中に、今度は別の方向から笑い声が投げかけられた。

ヒビキ「あははっ、イオリは朝から不機嫌だなぁ。
   ほら、こーんないい天気なのにそれじゃあもったいないぞ!」

マコト「そうそう、ヒビキの言う通りだよ」

イオリ「ふんっ、余計なお世話よ」

カーテンを開けて笑う、マコトとはまた違ったタイプの快活さを見せる少女ヒビキ。
朝の日差しに包まれ太陽さながらの笑顔を浮かべる彼女から、
イオリはつんと顔を逸らして洗面所へと向かった。

そんな彼女らの様子を、いち早く目覚めた黒髪の少女――
チハヤは、ただ黙って眺めていた。
しかしその横から彼女に向け、また別の大きな声が届く。

ヤヨイ「あのっ! おはようございます、チハヤさんっ!」

チハヤ「えっ? え、えぇ、おはようございます」

勢いの良い挨拶にチハヤが目を向けた先に居たのは、
ふわふわとした栗毛が特徴的なまだ幼さの残る小柄な少女。
大きな声に少しだけたじろいでしまうチハヤだが、
その少女は構うことなしに明るい笑顔で続けた。

ヤヨイ「昨日はちゃんと眠れましたか?
   私、初めてここに来た時はドキドキして全然眠れなくって……。
   あっ、でもチハヤさんならきっと平気ですよね!
   だって私と違って、すっごく落ち着いてるかなーって!」

チハヤ「ええ、まぁ……」

元気に話し続ける彼女に対し、チハヤの口からは短い言葉しか出てこない。
とその時、栗毛の少女の後ろから、頭一つ分ほど背の高い少女がすっと歩み出てきた。

ヤヨイ「あっ、アズサさん! おはようございまーす!」

アズサ「ふふっ、おはよう。ヤヨイちゃんも朝からとっても元気ですごいわね~。
   でも、チハヤちゃんはちょっとびっくりしちゃってるみたいよ?」

少女、というよりは女性と表現した方が、
彼女の大人びた雰囲気を表すには合っているかも知れない。
栗毛の少女――ヤヨイは、アズサの言葉を受けてチハヤに向き直った。

ヤヨイ「はわっ! す、すみません~。
    初めましての人だからって思って、つい……。
    ごめんなさい、チハヤさん。私、うるさかったですよね……?」

チハヤ「いえ……気にしないでください。気を遣ってくれてありがとうございます」

一言残し、慣れない賑やかさから距離を置くように、
チハヤはその場をあとにして洗面台へと向かった。




チハヤ「ご機嫌よう、ティーチャー・リツコ」

皆の輪を離れて一人先に食堂に着いたチハヤは、窓に向かって立っていた女性に挨拶する。
女性は振り返り、微笑みと挨拶を返した。

リツコ「ご機嫌よう、チハヤさん」

凛とした佇まいと、慈しみの中に厳しさを感じさせるはっきりとした声。
きっちりと纏められた髪と眼鏡からはどこか知性を感じさせる。

リツコ「あなた一人ですか? 他の皆は?」

チハヤ「着替えが済んだので、私だけで先に来ました。
    他の人たちももうすぐ来ると思います」

リツコ「そうですか。行動が早いのは良いことです」

リツコ「けれど、この学園ではできるだけ集団行動を心がけてください。
   友人との好ましい関係を築くことも大事ですからね」

チハヤ「……はい。以後気をつけます、ティーチャー・リツコ」

リツコ「結構。では着席を」

チハヤ「はい」

軽く頭を下げたのちにきびきびと次の行動に移ったチハヤの背を、
リツコは薄い笑みを崩さずに見つめ続ける。
その時、食堂の外から話し声と足音が聞こえ、
そちらに目を向けると同時に、先程までとは打って変わって賑やかな挨拶が食堂に響いた。

ヒビキ「ご機嫌よう、ティーチャーリツコ!」

ヤヨイ「ごきげんよう!」

リツコ「ご機嫌よう。では、あなたたちも着席を。冷めてしまわないうちに」

はーい、と元気に返事をしてヒビキたちは食堂奥へと向かい、
他の者も皆、既に朝食が並んでいる食卓へとつき始めた。

イオリ「ほら、ちゃんと居たでしょ?」

ヤヨイ「うん……えへへっ。良かったー」

イオリ「心配性ね、まったく。小さな子供じゃないんだし、
    ヤヨイだって言ってたじゃない。しっかりしてそうだって」

自分の席へ移動しながら小声で話す二人の声は、チハヤにも聞こえてきた。
多分先に行ってしまった自分のことを言っているんだろうな、
と思い当たったのと、イオリが話しかけてきたのは、ほとんど同時だった。

イオリ「あなたも、この子に心配かけるようなことはやめなさいよね。
    新入りだから忠告してあげるけど、次からは一人で勝手にどこかに行ったりしないの。
    この学園って結構広いんだから、うっかりしてると本当に迷子になっちゃうわよ」

チハヤ「……ティーチャーリツコにも集団行動を心がけるよう言われました。
    ごめんなさい。次からは気を付けます」

イオリ「そうね、気をつけて頂戴」

ぶっきらぼうにそう言って、つんと前を向くイオリ。
しかしその時、どこか含蓄のありそうな笑みを浮かべて正面に座っていたマコトと目があった。

イオリ「……? 何よマコト、にやにやしちゃって」

マコト「別に。ただ……イオリも結構世話焼きだよね」

アズサ「うふふっ。私もイオリちゃんを見習って、
    チハヤちゃんに色々教えてあげないといけないわね~」

イオリ「だっ……誰が世話焼きよ!
    ただ新入りに勝手されたら迷惑だと思って忠告しただけなんだから!」

ヒビキ「あはは、素直じゃないなぁイオリは」

イオリ「う、うるさいわね! あなたまで入ってくるんじゃないわよ!」

ささやかな会話から、その場はテーブルの端から端まで一気に賑やかになった。
しかしその喧騒に終止符を打つように、パンパンと手を叩く音が食堂に響く。

リツコ「賑やかなのは良いことですが、皆さんも言っている通り、
   昨日から新しい友人が加わっています。
   良き友人として、またこの学園に通う先輩として、模範となる行動を心がけてくださいね」

穏やかながらも厳粛な声色に、その場は水を打ったように静かになる。
そして一瞬の静寂の後、

リツコ「さ、せっかくの温かなスープが冷めてしまいます。いただきましょう」

優しく笑い、リツコは目を閉じて胸の前で両手を組む。
イオリたちは各々、安堵や申し訳なさを含んだ笑みを浮かべて目配せしたのち、
リツコに倣って目を閉じて両手を組み、

  「いただきます」

声を揃え、食事を始めた。

厳かな雰囲気で始まった朝食ではあったが、始まってしまえばまた和やかさを取り戻した。
大半の者が笑顔で談笑し、少し前まで不機嫌そうだったイオリも、
柔らかな表情で食事を口に運んでいる。

そんな中チハヤは、リツコの言葉を頭の中で復唱した。
そして一人思考する。

「友人との好ましい関係」、「良き友人として」――
自分に上手くやれるだろうか。
少なくともこれまでの経験では、上手くいった記憶がない。
自分から積極的に行動しなかったというのもある。
だが、だからと言って自分から進んで友人を作ろうとは……

と、チハヤは何気なく手元から目線を上げ、食卓に並ぶ少女たちの顔を見た。
すると正面のアズサと目が合い、

アズサ「ね、チハヤちゃんはどう思う?」

チハヤ「え?」

アズサ「ほら、川の向こう側に丘があったでしょう?
    桜の木が一本だけ立った、小さな丘」

唐突に聞かれ、そんな丘などあっただろうか、とチハヤは記憶を探る。
が、どうにも覚えがない。
しかし彼女がそう言うからには自分が見落としていただけなのだろう、
とチハヤは黙ってアズサの言葉を聞き続けた。

アズサ「それでね、今日のお昼休みはみんなであそこで過ごそうって、
    今お話してたところだったの」

マコト「今の季節だと、桜を一望できてすっごく景色がいいんだ。
   歩いて登ればちょっとした運動にもなるし、風も気持ちいいよ!」

アズサはにこにこと穏やかな、
マコトはハツラツとした笑顔をそれぞれチハヤに向ける。
また、その隣のユキホも会話に加わっていたのだろう。
視線に気付いたチハヤが顔を向けると、
一瞬恥ずかしそうに目を逸らしたのち、ぎこちなくも優しい笑みを返した。

チハヤは始め、断ってしまおうかと思った。
昼食後に昼休みがあることは聞いていたが、敢えて誰かと居るつもりはなかった。
しかしすぐにリツコの言葉を思い出し、

チハヤ「……ええ、そうですね。良いと思います」

その表情には感情めいたものは浮かんではいなかったが、
アズサたちは嬉しそうに笑い、
それから時折チハヤにも話を振りながら談笑と食事を続けた。

朝食を終えた少女たちは食堂をあとにし、揃って桜並木を歩く。
今日の午前中は転校生であるチハヤに学園の敷地内を案内する、ということになっている。
チハヤを中心に据えて歩きながら、今はこの並木道について紹介しているところだ。

ヤヨイ「ここの桜、すっごく綺麗ですよね!
   私、初めて見たときはびっくりしちゃいました!」

マコト「チハヤの居たところはどうだったの?
   ティーチャーリツコが言うには、ここの桜はすごく立派らしいんだけど」

チハヤ「はい……私も、とても立派だと思います」

その表情にはやはりあまり変化は見られなかったが、これはチハヤの本心であった。
空を覆い隠さんばかりの満開の桜は樹上のみならず石畳にも彩りを加え、
舞い散る花びらもあって視界いっぱいに春の色が広がっている。
その光景はチハヤの目にも美しく見えた。

また、桜だけではない。
少し視線を外した先には小川が流れ、耳をすませばせせらぎが聞こえてくる。
手漕ぎのボートのようなものも見える。
知らないものが見ればここが学校であろうなどとは到底思い寄らないだろう。
ただ制服姿の女学生が居るということだけが、
その光景に学校らしさを僅かばかり加えていた。

もしそこに、もっと多くの学生が歩いていれば
学校らしさもよりはっきりとしたものになっていただろう。
しかしこの光景に映る学生は、七人のみ。
いや、学園の敷地内のどこを見ても、彼女ら以外に学生は見当たらない。
そして教師は、先ほど食堂に居たリツコ一人だけ。
これこそが、この学園の最も特殊な点のうちの一つであった。

ヒビキ「チハヤもびっくりしたんじゃないか?
    転校した先にまさか生徒が六人しか居ないなんてさ」

チハヤ「いえ……。大体のことは、もう聞いていましたから」

マコト「僕たちの方こそびっくりしたよね。
    だってこの学園に新しく来る生徒って言ったら小さい子ばっかりだと思ってたからさ」

イオリ「本当、ティーチャーリツコってばいきなり仰るんだもの。
   あなたのためにみんな大急ぎで準備を整えたのよ」

チハヤ「……そうでしたか。ご迷惑をおかけして、すみません」

アズサ「あらあら、何も謝らなくてもいいのよ~」

ヒビキ「そうそう。っていうか、別にそこまで大変でもなかったしね。
ベッドとか色々、ちょうど一人分余ってたところだし」

アズサ「それより、新しい子が増えるのもとっても久しぶりね~。
    うふふっ、なんだかイオリちゃんやヤヨイちゃんが来た時のことを思い出しちゃうわ」

ユキホ「あ……そうですね、懐かしいなぁ。二人ともすごく可愛かったですよね……。
    あっ! い、今ももちろん可愛いよ!」

イオリ「そんなに慌てなくたって別に気にしてないわよ……」

ヤヨイ「えへへっ、でも私もなんだか懐かしいかも!」

そんな他愛ない会話を聞きながら、チハヤはふと目線を脇に逸らす。
その先には、朝食の際に話題にのぼった小高い丘があった。
ずらりと並ぶ木々の隙間から覗く、離れた場所に一本だけ立った桜。
言われるまでは存在にすら気付かなかったが、
なるほど、確かに行ってみてもいいかもしれない。
そんな風にチハヤが思った、その時であった。

チハヤ「……?」

その一本桜の下に、誰かが立っていた。
舞い散る桜と遠く離れた距離のおかげではっきりとは見えないが、
確かに誰か居る。
黒を基調とした……あれは、制服だろうか。
だがこの学園のものではない。
いや、でも、なんだろう。
あの制服、どこかで見たような……。

アズサ「チハヤちゃん?」

現実に意識を引き戻される感覚。
反射的に顔を向けた先には、きょとんとしたアズサの顔があった。

アズサ「どうかしたの? 向こうの方に何か……あっ、さっきお話してた丘ね?
    うふふっ、チハヤちゃんも楽しみにしてくれてるみたいで嬉しいわ~」

両手を合わせてにこにこと微笑むアズサから、
チハヤはもう一度あの丘へ視線を移す。
しかしほんの一瞬前までそこにあった人影は、既にどこにもなかった。

ヒビキ「おーい、早くしないとお昼までに案内終わらないぞー!」

アズサ「あらあら、大変。さ、行きましょうチハヤちゃん」

チハヤ「……ええ」

前方から自分たちを急かす声に、チハヤは再び向き直る。
見間違い……気のせいだったのだろうか?
まあ、仮にそうでなかったとしても、この学園に居る限りは、
いずれ何かの形であの人影の正体はわかるだろう。
そう思い、チハヤは些細な疑問をそっと頭の片隅に追いやって、
アズサのあとに続いて歩き出した。

その後も学園の案内は続き、広い敷地や複数ある校舎を色々と回ったが、
チハヤにとって興味を引かれるようなものはそう多くはなかった。
ただ、多くの蔵書が揃っている図書室と、
歌唱の授業に使うという大きな堂の二つには心を動かされた。
特に後者に関しては、一歩足を踏み入れた時のチハヤの表情の変化は、
他の者の目にも明らかだったようだ。

ヒビキ「チハヤ、歌が好きなのか?」

チハヤ「ええ……嫌いではありません」

大きな窓から差し込む太陽光。
必要なものを揃えれば聖堂にでも食堂にでもなりそうなほど
十分な広さを持っていながら、そういったものが一切ない、ただの堂。
見るものが見れば殺風景と感じるだろうが、それがチハヤにとっては良かった。
嫌いではない、と言いながらも、それまで見せたことのない瞳の輝きに、
周りの少女たちは優しい笑みを浮かべるのだった。

アズサ「案内する場所はここが最後だし、もう少しこの場所でのんびりしてもいいのよ~?」

チハヤ「……ありがとうございます。でも大丈夫です。
    昼食までに、午後の講義の準備もしておきたいので」

アズサ「あらあら。それじゃあ、私たちの部屋に戻りましょうか」

これで学園の案内はすべて終わった。
案内など不要、無駄な時間だと思っていたが、
思っていたよりは有意義な時間を過ごせたかも知れない。
そんな風に思いながら、チハヤは皆と共に寝室のある校舎へと戻る。

しかしその時、ふと気が付いた。
案内は終わったと言っていたが、まだ行っていない場所が一つだけある。

チハヤ「あの……向こうの校舎には、行かなくても?」

チハヤの方から声を掛けてきたことを、
表情に出さない程度に意外に思いながら、皆チハヤへと顔を向ける。
そしてチハヤの指し示す方を見て、

マコト「ああ、あれは旧校舎だよ」

チハヤ「旧校舎?」

イオリ「もう使われてないし、老朽化が進んで危ないから近付くなって言われてるの」

皆の言葉を聞きながら、チハヤはその旧校舎をじっと見る。
他の校舎と同じく石造りではあるが、
言われてみれば確かに外壁の風化が進んでいるようで、随分古びて見えた。

ヒビキ「小さい頃に一度だけ忍び込んだけど、特に面白いものはなかったよね。
    古い本とかがいっぱいあるくらいで」

ユキホ「あの時、みんなティーチャーリツコに怒られたよね……。
    私はやめようって言ったのに……うぅ……」

マコト「そうそう、確かヒビキが言い出したんだよ。『探検しよう!』ってさ」

ヒビキ「ご、ごめんってば。でも今となってはそれもいい思い出……って、
   あの時はマコトだって乗り気だったじゃないか!」

マコト「あれっ、そうだっけ? あははっ! まあいい思い出だよ、いい思い出!」

半ば無理矢理ごまかした形ではあるがマコトが話題を終わらせた。
それを見てアズサはチハヤに向き直り、

アズサ「というわけで、あそこは案内できないの。ごめんなさいね」

チハヤ「いえ。こちらこそ、要らないことを聞いてすみませんでした」

チハヤは軽く頭を下げ、再び歩き出した。




マコト「うーん、毎年のことだけどやっぱりここは眺めがいいなぁ」

ユキホ「えへへっ。今年も晴れてて良かったね、マコトちゃん」

昼食が終わり、楽しみにしていた昼休みが訪れた。
少女たちは朝に話していた通り、一本桜の丘に集っている。

チハヤ「あの……昼休みには、いつもこうしてみんなで集まるんですか?」

イオリ「いつもってわけじゃないわ。いつの間にか恒例になっちゃった感じね。
   学年の初めのお昼休みはみんなでここで過ごそう、って」

ヒビキ「ね、気持ちいいところでしょ!
   太陽はぽかぽかで風も優しくて、ついうとうとしちゃいそうだぞ」

チハヤ「そう……ですね。確かに、良いところではないかと」

これもまたチハヤの本心である。
満開の桜に囲まれた並木道も美しいとは思えたが、
あちらは少し圧倒される感覚があった。
それに比べ、こちらの一本桜の下の方は落ち着ける。
満開の桜もこうして上から見下ろす分には、落ち着いて眺めることができた。

また視線をずらせば、先ほど見た旧校舎が静かに佇んでいる。
案内の時には気が付かなかったが、この丘は旧校舎のすぐ裏に位置していたようだ。
もう使われていない校舎の近くということもあり、
喧騒から離れた静かな雰囲気を持った丘である、とチハヤは感じた。
これから空いた時間は一人、ここで過ごすのもいいかもしれない。

イオリ「ところで、ずっと気になってたんだけど……
    チハヤ、あなたいつまで私たちにそんな口調なの?」

チハヤ「えっ?」

ここで過ごす時間に思いを馳せていたところに思わぬ言葉をかけられ、
チハヤは意表をつかれたような顔で振り向く。
イオリはそんなチハヤに、少し呆れたような顔を向けた。

イオリ「敬語よ、敬語。年上のアズサはともかく、
私たちには別に普通に話してもいいんじゃない?」

チハヤ「それは……」

ヒビキ「うん、確かに。私もちょっと気になってたんだよ!
   この学園の生徒はみんな家族みたいなものなんだからさ。
   話し方くらいは普通にして欲しいぞ!」

マコト「へー、いいこと言うじゃないかヒビキ! 
   家族みたいなもの……ボクも同感だよ!」

ユキホ「わ、私も賛成です……。と、時々は私も敬語になっちゃいますけど……」

イオリ「言ってるそばからもう敬語じゃないの」

ユキホ「ひうっ! ご、ごめんなさい~!」

ヤヨイ「私も賛成でーす! チハヤさんは私よりもお姉さんだから、
    普通に話してくれた方が私もあんまり気にならないかなーって!」

次々と言葉を発する皆に、チハヤは少し困惑して目を泳がせてしまう。
と、唯一黙って見ていたアズサと目があった。
何も言わずにただ優しく微笑むアズサと数秒、視線が触れ合う。
そしてチハヤは、斜め下に目を伏せ、

チハヤ「……みんながそう言うなら、そうするわ」

その表情は不慣れなことに戸惑っている様子ではあったが、
決して不快さを表すものではないことを、少女らは全員わかっていた。
だから皆、各々笑顔を浮かべ、改めて「これからよろしく」と、
新たな友人に、家族に、口々に声をかけた。

チハヤ「あ、でも……ごめんなさい。
    アズサさんはやっぱり、年上だから……敬語を使わせてください。
    それが礼儀だと、思うので」

アズサ「あらあら、謝らなくてもいいわよ~。
    うふふっ、チハヤちゃんったら本当に真面目なのね」

申し訳なさそうに言うチハヤにアズサは笑顔を返し、
他の皆もにこやかな笑みを彼女に向けるのだった。
完全に打ち解けるにはまだ時間が必要かもしれない。
でもきっと、これが新たな家族としての第一歩になると、少女たちは信じていた。

今日はこのくらいにしておきます
劇中劇「眠り姫」のSSです
n番煎じです
長いです

昼休みが終わると少女らはまた別の校舎へ向かった。
その手には、寝室から各々持ってきた分厚い本が数冊持たれている。

目的の校舎の入口を潜り、更にその中の一室へ少女たちはたどり着いた。
先頭のマコトが扉を開けると、まずはずらりと並んだ机が目に映る。
そして部屋の前方には黒板の前に立つリツコの姿があった。
そこはいわゆる講義室で、これからリツコによる講義が行われようとしているのだ。

マコト「よろしくお願いします、ティーチャーリツコ!」

ユキホ「よろしくお願いしますぅ」

リツコ「はい、よろしくお願いします」

マコトに続いてユキホ、また後続の者たちも、
同じように挨拶をして講義室へと入っていく。
全員が着席し、机上に本を重ね置いて教師を注視するその光景は確かに、
生徒の人数こそ少ないものの確かに「学校」そのものである。
リツコは全員の目が自分に向いていることを確認し、一息置いてから、

リツコ「それでは授業を始めます。今日は『“能力”の理論と応用』について学びましょう」

リツコ「さて、今回の授業内容と大きく関わってくることですが、
   今日が新学期初めの授業ということで
   まずは皆さんの目標を改めて確認しておきましょう。
   皆さんは基本的な念動力の他に、それぞれ固有の『能力』を持っています。
   そしてその『能力』を極めた者をなんと言いますか、ヤヨイさん?」

ヤヨイ「はい! 『アイドル(能力者)』です!」

リツコ「ありがとうございます。そう、アイドルです。
   そしてそれこそが、皆さんが目指しているものです。
   アイドルを名乗るのは簡単ですが、正式に選ばれ、そして認められる者はごく僅か。
   そうなるためにはたゆまぬ努力が必要となります」

リツコの話を少女たちは真剣に聞く。
転校生であるチハヤ以外は皆この学園で、幼い頃からアイドルになるための勉強を続けてきた。
つまりここはアイドルとなるべき者を育て上げる、養成学校とでも言うべき施設なのだ。

リツコ「あなた方はまだ『能力を有している者』に過ぎません。
    『能力者』に――アイドルになるため、
    これまで通りこの一年間、頑張ってくださいね?」

優しく笑いかけたリツコに対し、
各々気合の入った表情で声を揃えて返事をする生徒たち。
ただ唯一チハヤだけは今ひとつ気勢に欠けるようであったが、
リツコは気付いていないのか敢えてそれに触れることなく、

リツコ「良い返事です。では早速授業の内容に入りましょう」

そう言って黒板に顔を向けた。
すると、同時にチョークが数本ふわりと浮き上がり、
黒板に文字や図を書き込んでいく。

リツコ「『“能力”の理論と応用』……とは言っても、やはり基本となるのは念動力です。
   念動力の応用として既に皆さんは飛行を身につけていますが、
   『能力』を最大限に活かすにはただ浮くだけではなく、
   高速で機動するなどといったより高度なレベルでの飛行が必要となります」

話している間にもチョークは板書を続け、
ちょうど話し終わると同時に、どうやら板書も完了したらしく、
数本のチョークはすべてもとあった場所に収まった。

リツコ「というわけで、ここで改めて皆さんの念動力のレベルを見てみましょう。
    テスト1、『瓶の蓋開け』です」

テスト、という言葉に数人の表情がぴりっと引き締まる。
しかしそれに気付いたリツコは、柔らかい表情を変えぬまま続けた。

リツコ「テストとは言っても、今のあなた達にとっては容易いものですよ。
   既に気づいているでしょうが、ここにキャンディの入った瓶があります。
   この瓶の蓋を中身のキャンディごと浮かせ、
   零すことなく蓋を開ける、それだけですから」

そう言ってリツコは教卓の上に置いてあった瓶を手に取る。
中にはリツコの言う通り、色とりどりのキャンディがいくつか入っていた。
見れば板書にも、瓶とキャンディを表したらしき図が書かれてある。

リツコ「念動力のコントロールが苦手な人は
   力の調節ができずにキャンディを零したり、瓶を割ったりしてしまいます。
   適切な力で蓋を開ける繊細なコントロールが求められるわけですね」

リツコの話を聞く限りでは、それなりの練度が求められそうなテストではある。
しかしこれを聞く皆の表情は少し前に比べて和らいでいた。
そんな彼女らの顔を見ながらリツコは満足気な笑みを浮かべる。

リツコ「では実際にやってみましょう。皆さん前へ出てきてください」

促されるまま、全員席を立って教室前方へと集まる。
と、大半の者が普段通り歩いている中、一人ヒビキは自身の体を浮かせていた。
それを見てヒビキの意図を察したのはマコトだった。

マコト「あはは、もしかして準備運動のつもり?
   自分の番が来るまで浮いてるつもりなんでしょ」

ヒビキ「あ、バレちゃった? まあ、念の為にね。
   このくらいのテストなら全然ヘーキだと思うけど!」

イオリ「当然よ。こんなのお茶を飲みながらでもできちゃうわ」

ユキホ「で、でも私も一応、準備しておこうかな。失敗しちゃったら恥ずかしいし……」

余裕の笑みを浮かべるイオリの横で不安げに呟き、
ユキホもヒビキに倣って自分の体を浮遊させた。
そんな微笑ましいやり取りをする一同にリツコは慈しみのこもった視線を送りながら、

リツコ「では、まずヤヨイさんからやってみましょうか」

ヤヨイ「あっ、はい! よろしくお願いしまーす!」

勢いよく頭を下げてお辞儀をした後、ヤヨイは瓶に人差し指を向ける。
するとすぐ、ふわりと瓶が浮いた。
中身のキャンディもリツコの指示通りに一つ一つ全てが浮いている。
それから数秒を待たずして、僅かな抵抗を感じさせはしたがあっさりと、
コルクの蓋が瓶の口から外れた。
もちろん中のキャンディは外に出ず、瓶の中でふわふわと漂っている。

ヤヨイ「えっと、これでいいんですか?」

リツコ「ええ、良いですよ。どうでしたか? 難しかったですか?」

ヤヨイ「いえ! 念動力は苦手ですけど、このくらいなら大丈夫です!」

リツコ「けれど数年前までのヤヨイさんなら、きっとできなかったでしょうね」

ヤヨイ「あ……確かに言われてみればそうかも。
   それじゃあ私も、ちゃんと成長できてるってことですよね!」

リツコ「もちろんです。さあ、この調子で他の皆さんもやってしまいましょう」

ヒビキ「はーい! 次は私が行きまーす!」

ユキホ「あっ、じゃあその次は私が……!」

チハヤ「――これでよろしいですか?」

リツコ「ええ。流石ですね、チハヤさん」

その後も皆ヤヨイに続いて『蓋開け』を軽々とクリアし、
チハヤを最後に、全員が一定の基準に達していることが証明された。
リツコの口から合格を聞き、
チハヤはそのまま念動力で蓋を閉めて瓶をそっと机上に戻す。

チハヤ「全員が簡単にこなせるようなことをしただけで『流石』と言われても……。
    あまり、褒められているようには思えません」

リツコ「そうかもしれませんね。
    ですが、この学園の外では出来ない人の方が多いんですよ?」

チハヤ「……そうですか。まあ、なんでも、いいですけれど」

呟くようにそう言って、チハヤはふいと目を逸らしてしまう。
そんなチハヤの態度を目の前にしても、
リツコは笑みを消すことなく他の皆に顔を向けて明るく言った。

リツコ「では皆さん、席に戻ってください。
    皆さんの念動力がある程度の水準に達していることを前提として、講義に移りましょう」




イオリ「うーん、それにしても今日はよく歩いたわね。
   学園中歩き回ったのなんて久しぶりじゃないかしら」

イオリは深く息を吐きながら、浴槽内で伸びをする。
そんなイオリの横で、湯から首だけ出した状態のヤヨイが答えた。

ヤヨイ「そっかー、そう言えばそうだよね。
   ここ、すっごく広いから、私なんて今でも迷子になっちゃいそうかなーって」

ヒビキ「確かに、敷地の端から端まで歩くことなんてほとんどないもんな。
   でもイオリ、この程度で疲れてるんじゃアイドルなんてなれっこないぞ?」

イオリ「べ、別に疲れただなんて言ってないじゃない。
   アイドルになろうって人間がこんな程度で疲れるわけないでしょ!」

そんなイオリたちの会話をチハヤは浴槽の端からぼんやりと聞く。
確かに、この学園の敷地は広大だった。
ただ歩いて案内するだけで半日が潰れるなど、
自分がもと居た学校では到底考えられない。

また敷地だけでなく、一つ一つの部屋も妙に広かったのが印象に残っている。
今居る浴室についてもそうだ。
同じ浴槽に浸かっているイオリたちの会話は聞こえるが、
洗い場で二人、体をこすっているユキホとマコトの会話はほとんど聞こえない。

今更ながら、チハヤはこのことに違和感を覚えた。
この学園の広さは……明らかに、七人程度では持て余す。
これほどの広さがあれば、何百人という学生が通っているのが普通だろう。
もしかすると、以前は大勢の学生がここに通っていたのかもしれない。
それともこれから通う予定があるのだろうか。

思い返してみれば他にも気になることはあった。
自分がいるこの校舎――ここには寝室や浴場以外にも多く部屋がある。
にもかかわらず、それらについては全く案内されなかった。
案内されなかったということは必要ないということなのだろうが……。

イオリたちの他愛もない会話から、覚えた違和感についてチハヤは一人思考する。
しかしその思考は不意にかかった声に途切れさせられた。

アズサ「この学園はどうだった? 元気にやっていけそう?」

チハヤ「アズサさん……。そう言われても、まだ、わかりません。
    ここへ来て、一日しか経っていませんから」

アズサ「あらあら、そうよねぇ。ごめんなさいね、私ったら」

チハヤ「いえ……」

困ったように笑うアズサから、チハヤは目を下に逸らす。
湯の中で揺れる自分の指先を見つめながら、
最年長のアズサならばあるいは、自分の疑問に答えられるかも知れない、と思った。
だが、どうも他の皆はこの敷地の広さに疑問を感じている様子は特にないようだ。
これについて聞くことでおかしく思われるかもしれない。

そう考え、無闇に目立つことを好まない性格も手伝って、
チハヤは自分の覚えた疑問と違和感を飲み込んだ。

考えてみれば些細なことだ。
それに、少し調べてみればその程度のことはわかるはず。
読書に使う本も探してみたいし、時間の空いた時にでも図書館へ行ってみよう。
あれだけの蔵書数だ。
学園の歴史について書いてある本の一冊や二冊はあるだろう。

チハヤ「……そろそろ、あがりますね。お先に失礼します」

考えが一区切りつき、
アズサに軽く頭を下げてチハヤは一人脱衣所へと出て行った。




入浴後から消灯までは、基本的には全員寝室で過ごすことが多い。
この時間より後に屋外へ出ることは禁じられているし、
またこの校舎自体にも、特にこれといって用事を作らせるような部屋は寝室の他にはないからだ。
が、この晩は例外であった。

チハヤ「……」

薄暗い廊下をチハヤは一人、歩いている。
校舎の大きさに合わせて当然廊下も長く、
少し前まで聞こえていた寝室から漏れ出る話し声も、端まで歩いてしまえばもう聞こえない。

チハヤは振り返り、自分の通った廊下を眺めた。
壁には、扉が同じ間隔で並んでいる。
恐らく部屋の広さは全て、自分たちの寝室と同程度なのだろう。
それ自体は特におかしなことではない。
建物の構造としては、同じ広さの部屋が並ぶのはごく普通のことである。

ただやはりチハヤとしては、これだけ多くの部屋があるにもかかわらず、
それらに関しての説明も案内も一切されなかったことが疑問であった。
これだけの部屋が今後の学園生活で不要ということがあるだろうか?
それともいつか説明される機会があるのだろうか。

チハヤはふと、横に視線を向けた。
そこには二階へと続く階段がある。
二階も見てみるか、とチラと思ったチハヤではあったが、
恐らく一階とたいして変わった構造はしていないだろう。
わざわざ今上ってみる必要はない。

そう思い直し、チハヤは通ってきた廊下を引き返すことにした。
だが真っ直ぐ寝室に戻る前に……と、一番手前の部屋の前で立ち止まる。
そしてドアノブに手をかけ、力を入れてみた。
カチャ、と小さな音を立て、抵抗なく動いた。
鍵はかかっていないらしい。
チハヤはゆっくりとドアを開き、中を覗き見た。

部屋の中の様子は、チハヤの推測を大きく外しはしなかった。
そこにあったものは、骨組みだけのベッド。
マットレスもシーツもない裸のままのベッドが、
そこに寝る者を待つように、窓から差し込む光に照らされてずらりと並んでいた。
一歩中に踏み入り、もう少し部屋の様子を見てみる。

部屋の大きさや形。
それらは思った通り、自分たちの寝室と同じであった。
ということはやはりここもまた寝室だったのだ。
他の部屋もそうだろう。
この建物の一階には、自分たちが寝起きするのと全く同じ寝室が多く並んでいるのだ。

これらの部屋が「かつて寝室であった」のか、
それとも「これから先寝室になるのか」は分からない。
だが、少なくともチハヤの覚えた違和感は正しかった。
この学園は、本来はもっと大勢の学生が通うべき施設なのだ。

自分の推測が当たっていたであろうことを頭の中で確認するチハヤであるが、
その時、ふと何かを感じた。
違和感――今度は別の、また新しい違和感だ。
なんだろう、この部屋はどこか……妙なところがある。
いや……あるいは違和感があるのは、この部屋ではなく寧ろ……。

アズサ「何をしてるの?」

背後からかけられた声に、今回ばかりはチハヤも肩を跳ねさせた。
振り向けば部屋の入口に、アズサが立っている。

アズサ「あ……ごめんなさいね、驚かせるつもりはなかったの。
    ただ、チハヤちゃんを探しにきて……」

チハヤ「そ、そう、でしたか……」

アズサ「それで、何をしていたの? この部屋に何か用事?」

アズサは笑っていた。
だが廊下の僅かな照明を背に受け、
部屋から差し込む月光に照らされるその表情は、
なぜかチハヤには喩えようもなく得体の知れないものに見えた。

チハヤ「いえ、その……他の部屋が何の部屋なのか、気になって。
    特に用事があったわけでは……」

アズサ「まあ~、そうだったの。でも、どうしてそれが気になったの?」

アズサにそのつもりがあるのかは分からないが、
チハヤは何か、目の前の笑顔の少女に尋問を受けているような感覚を覚えた。
そのせいもあって、チハヤは素直に心のうちを話すことにした。

チハヤ「この学園の広さが、気になったんです……。
    本当は、もっと多くの学生が通うはずの学園なのではないか、と……」

身を固くするように片手でもう一方の腕を抑え、
チハヤは目を斜め下に伏せながら答えた。
だがそんなチハヤに対するアズサの反応は、拍子抜けするほど軽いものだった。

アズサ「ええ、そうだけど……ティーチャーリツコから説明されてなかったの?」

チハヤ「えっ? いえ、その……はい。私は、何も……」

アズサ「あらあら……。だったら気になっちゃうわよねぇ。
    こんなに広いのに、生徒は私たちしか居ないんですもの。
    チハヤちゃんの言う通り、昔は……旧校舎がまだ使われていた頃は、
    生徒も先生ももっとたくさん居たみたいよ。
    でも色々な事情があって、今の形になったそうなの」

チハヤ「色々な事情……?」

アズサ「そこは私もよく知らないんだけど……。
    でもこれで、チハヤちゃんの気になってたことは解決したわよね?」

そう言って両手を合わせ、ニッコリと笑うアズサ。
チハヤは数瞬の間を空けて、

チハヤ「そう、ですね。ありがとうございました」

アズサ「うふふっ、どういたしまして~。
    これからはわからないことがあったら、まずは私か他の子に聞いてちょうだいね?
    今日みたいにいきなり居なくなったら心配しちゃうから」

チハヤ「ごめんなさい、そうします。では、戻りますね、失礼します……」

早口気味に言い残し、チハヤはアズサの脇を抜けるようにして部屋を出た。
そうしてやはり早足で寝室へと戻るチハヤの背を、
アズサは扉を閉めながら黙ってしばらく見つめ続けた。




蝋燭の光が揺らめく石造りの壁と床に、足音が反響する。
足音は一人分。
螺旋階段を下った先の廊下には、またいくつかの扉が並んでいる。
そのうちの一つの前で足音は止まり、木製の扉をゆっくりと押し開けた。

  「お母様!」

同時に部屋の中から聞こえたその声は、二人分。
声の主たちは揃って、扉を開けた人物に駆け寄る。

  「お母様、おかえりなさい!」

  「私たち今日もとってもいい子だったのよ、お母様!」

無邪気な笑顔を浮かべて両腕に絡みつくその二人の少女は、
声も、顔も、背格好も、まったく同じ外見をしている。
ただ髪型だけが二人を区別していた。
そんな二人に『お母様』と呼ばれた人物は優しく微笑み、

  「ええ、ただいま戻りました。アミ、マミ」

『お母様』と呼ばれているが、彼女も外見上はまだ少女であった。
銀色の髪と落ち着いた雰囲気が大人びた印象を放っていはいるものの、
年齢は高く見積もっても二十代の前半。
低ければまだ十代だろう。
対してアミ、マミと呼ばれた双子と思しき少女たちも、外見年齢は十代半ばである。

ただ、アミとマミはその外見に対し、表情や仕草はひどく幼かった。
銀髪の少女の腕に顔を擦りつける様子はまさしく母親に甘える幼子である。
またどういうわけか彼女らは、十代半ばのその外見で、
口元には赤ん坊が咥えるいわゆるおしゃぶりがあった。

常識を持つ者であれば、一見してこの光景が異様であることを理解するだろう。
しかしそんな中において少女たちの表情は明るく穏やかである。
そのことが、この状況を更に異様に見せていた。

マミ「ねえお母様、新しい子はどんな子だった?」

アミ「良い子だった? 悪い子だった?」

銀髪の少女は、無邪気に顔を見上げる双子を見つめる。
そして、

  「さあ、どうでしょうね」

薄く笑って、二人の頭を優しく撫でた。

撫でられる感触を堪能するかのように、双子の少女は嬉しそうに目を瞑る。
そして手が頭から離れたのと同時にぱっと顔を上げた。

アミ「ねえお母様、今日もご本を読んでくれる?」

マミ「私、今度はお姫様のお話がいいわ!」

すがりつくように服をきゅっと掴むアミとマミを引き連れ、
銀髪の少女はベッドへと歩いて行く。
数人は寝られようかという大きなベッド。
少女はその上を這うように移動し、
枕元にあった分厚い本を手にとって、枕に体を預ける。
双子もすぐにベッドに飛び乗り、
銀髪の少女の両側に腰を据え、腕と腕を絡みつかせた。

  「それでは、今日からはこのお話を読み聞かせましょう」

静かに発されたその声に、アミとマミは目をうっとりとさせる。
まるでもうすでに物語の世界に入り込んでいるかのように。
銀髪の少女はそんな少女らを更に深く物語へ引き込むかのごとく、
しなやかな指先でゆっくりと本の表紙をめくり、囁くように、本のタイトルを読み上げた。

  「『眠り姫 THE SLEEPING BEAUTY』――」

今日はこのくらいにしておきます。
続きは多分日曜の夜に投下します。




  「アイドルになるって、どんなカンジなのかな?」

私が聞くと、隣に座っていたその子は正面を向いて、考えるように目線を上げる。
それから何秒か経って、どんなカンジだろうね、とその子は笑った。
私も別に答えが欲しかったわけじゃないから、一緒になって笑った。

  「いつか、アイドルになれるかな?」

きっとなれるよ、とその子は答えてくれた。
私は目をつむってその子の肩に頭を預ける。

  「一緒に頑張ろうね。アイドルになっても、ずっと一緒にいようね。約束だよ」

うん、約束。
短くそう答えて、その子は私の頭を抱いて、
額にそっと優しくキスしてくれた。

ヤヨイ「――チハヤさん、どうかしたんですか?」

チハヤ「えっ?」

隣に目を向けると、寝間着姿のヤヨイがきょとんとした顔で
こちらを見上げているのが見えた。

ヤヨイ「鏡をじーっと見て、固まっちゃってましたよ?
    おでこに何かついてるんですか?」

言われてから、自分が額に手を添えて鏡を見つめていたことを思い出す。
何故だろう。
改めて鏡を見てみても、額には特に何か変わった様子があるわけではない。

チハヤ「いえ、なんでもないわ……。少し、寝ぼけていたみたい」

ヤヨイ「そうなんですか? チハヤさんでも朝はぼんやりしちゃうんですね!
    私も、今日はばっちり目が覚めましたけどよくぼーっとしちゃって、
    この前なんかイオリちゃんに――」

無邪気に話すヤヨイの話を、チハヤは少し戸惑いながらも笑顔で聞く。
そうするうちに、些細な疑問は頭の片隅へと追いやられていった。




桜舞う中庭に広がる青空。
学生七人が横に並び、その前に教師が一人立っていた。
つまりこれからこの朗らかな中庭で行われることもまた、授業のひとつである。

リツコ「さて、予告していた通りこの時間は『能力』の訓練にあてます。
   そのためにまずは一人ずつ、現段階でどの程度能力を使いこなせるかを確認しましょう。
   前に私が見た時から成長していることを期待しています」

リツコの様子はいつもと変わらないが、
学生たちの表情は心なしか昨日よりも気合が入っているように見える。
やはりアイドルを目指す者にとっては、
能力訓練は特に気勢が上がる科目の一つなのだろう。

リツコ「それでは、まず初めに披露してもらうのは……」

ヒビキ「はいはーい! 私が一番にやりたいです!」

手を挙げかけたマコトとイオリに先んじて初めに声を発したのはヒビキだった。
マコトは残念そうに笑い、イオリはふんと鼻を鳴らして悔しそうに手を下げる。
そんな彼女たちを見て、リツコは満足げに微笑んだ。

リツコ「皆さん意欲的で大変良いですね。では、初めにヒビキさん。
    その次にマコトさんとイオリさんにいってもらいましょう」

ヒビキ「よーし、行くぞー!」

ヒビキは早速皆の前へ歩み出て、校舎を背にして立つ。
そして振り返る動作と同時に左手をすっと斜め前へ出した。
すると、腕の周囲から渦を巻くように光が発生し、
それは上を向いた手のひらへと集約され――
次の瞬間には、ただの光では無くなっていた。

小動物……?

チハヤが受けた印象は、まさにその通り。
小動物の姿をかたどった青白い光が、ヒビキの手のひらから腕を駆け上り、
肩に乗って顔に擦り寄る姿がはっきりと見えた。
また同じように光で出来た小鳥が、ヒビキの周りをパタパタと羽ばたいている。

ヒビキ「えへへっ、どうですかティーチャーリツコ!
    見た目はまだ光のままだけど、こんなに元気に動いてくれるんですよ!」

光の小動物に囲まれて楽しそうに笑うヒビキに、
リツコは優しく微笑み返す。

リツコ「ええ、素晴らしいです。多数同時の創生に、それぞれの自律した行動。
    ここまでくればもうすぐに、外見も本物と変わらないものを生み出せるはずですよ」

ヒビキ「本当ですか! やったあ!」

マコト「やるなぁヒビキ……。でもボクだって負けないよ!
   ティーチャーリツコ、お願いします!」

リツコ「ふふっ……ええ、どうぞ」

勇み出てきたマコトに、リツコはバトンのようなものを手渡した。
見た目にはただの木製の棒、といった感じだ。
それを受け取ったマコトはバトンをぐっと握って構える。

マコト「はああっ!」

瞬間、バトンの先から赤い光が閃光のように発生し、
かと思えばバトンは一点、輝く光剣の柄へと姿を変えた。
その迫力に、数人の学生から歓声が漏れる。

マコト「切れ味も保証しますよ! レンガくらいなら真っ二つです!」

リツコ「見事です。しかし、レンガ程度で満足してはいませんね?」

マコト「もちろん! すぐに鋼鉄だって真っ二つにしてみせます!」

リツコ「よろしい」

向上心を欠かさないマコトの姿に、リツコは優しく微笑み頷く。
次いでその笑みをイオリに向け、

リツコ「では続いてイオリさん、前へどうぞ」

イオリ「はい」

待ってましたと言わんばかりの表情ではあるが、あくまで悠然と前へ出るイオリ。
数歩進んでやはり優雅に振り返り、胸の前で両手のひらを向かい合わせた。
するとその指先と指先の間を走るように、
桃色の電光がバチバチという烈しい音とともに発生した。

リツコ「見事、放出箇所を指先の一点に集中……よくコントロールできていますね」

イオリ「ありがとうございます。
   一点に集中した分威力も上がって、レンガくらいなら軽く砕けますわ」

殊更に丁寧な口調で発されたその言葉に、マコトがぴくりと反応する。
挑発的な笑みを含んだイオリの視線と、対抗心を燃やしたマコトの視線が交差する。
そんな二人の様子に気付いたか、リツコは微笑みを崩さぬまま言った。

リツコ「マコトさんの光剣もイオリさんの電撃も、
    シンプルな能力ゆえに基礎の仕上がり次第で有用さに幅が出ます。
    これからも友人同士切磋琢磨し、上を目指してくださいね」

リツコの言葉に、二人揃って「はい」と気合の入った返事をする。
そうしてイオリが列に戻っていくのを確認し、

リツコ「さあ、続けて行きましょう。次は誰ですか?」

ヤヨイ「あ、はい! じゃあ私、行ってみます! よろしくお願いしまーす!」

それから少女たちは次々と能力を披露し、
その様々な能力は、初めて目にするチハヤの目には新鮮に映った。
ヤヨイはリツコの用意した重さ五キロの鉄球を人差し指で数メートル弾き飛ばし、
ユキホは手のひら大の光の塊を射出して地面に大きな穴を開け、
アズサは数十メートルもの距離を一瞬で移動してみせた。

それらはどれもチハヤの居た学校では
目にすることのないレベルで使いこなされた能力であり、
しかもリツコの言葉を信じるならば、全員の能力がこれより更に向上するらしい。
なるほど、本気でアイドルを目指すだけはある。
本人たちの資質と、この学園の教育の質の高さをチハヤは実感した。

リツコ「さて、最後はチハヤさんですね。
   チハヤさんの能力はこの学園に来る際に見せてもらったので
   どういったものが私は把握していますが、
   他の皆さんへの紹介も兼ねてよろしくお願いします」

チハヤ「……わかりました」

好奇心に満ちた興味深げな視線を一身に受けながら、チハヤは歩み出る。
そして振り返り、両手を前方へとかざした。

かざされた手の先に現れたのは、人一人分程度の面積の、青く光る壁。
少女たちはしばらく、その壁の挙動を固唾を飲んで見守った。
しかし、

イオリ「……これだけ? あなたの能力って」

そのまま動かないチハヤに怪訝な表情を見せるイオリ。
その言葉を受け、チハヤは浅く息を吐いてリツコに問いかける。

チハヤ「もう良いですか? ティーチャーリツコ」

だがリツコは相変わらずの笑みを浮かべたまま、
イオリに向けて言った。

リツコ「イオリさん、この壁に向けて電撃を放ってみてください。もちろん、全力で」

イオリ「え? でも……」

そんなことをすれば壁の向こうに居るチハヤが危険なのではないか。
そう思って少し戸惑った様子を見せるイオリであったが、
リツコは促すようにただゆっくりと頷いた。

どうやら、何も問題ないから心配するな、ということらしい。
そう理解したイオリはチハヤに向き直り、

イオリ「悪いけど本当に全力で行くわよ? いいわね?」

確認を取って、両手のひらを胸の前で向かい合わせる。
直後、バチバチという音を立てて五指から電撃が発生し、
束となって壁に向かって走った。
生身の人間に当たればひとたまりもない、
石造りの壁であっても砕き貫通するほどの電撃はしかし――

イオリ「っ!!」

イオリは息を呑み、見ていた他の少女らも思わず声をあげる。
光の壁は、まったく傷一つ、焦げ目一つ付くことなく、依然としてそこに輝きを放ち続けていた。

リツコ「続いてマコトさん、ヤヨイさん、ユキホさん。
   それぞれ自身の能力を最大限の威力で発揮し、
   チハヤさんの壁に向けて放ってみてください」

その言葉を受けて、三人は言われた通り続けざまに自身の全力を壁にぶつけた。
だがやはり壁は変わらぬまま、チハヤの前に厳然とあり続けた。

リツコ「非常に堅牢な壁――と言えば単純でしょうが、
    その質の高さは皆さんにも実感していただけましたね?
    これがチハヤさんの能力です。ありがとうございました、チハヤさん」

リツコの言葉を聞き、目を閉じて軽く頭を下げてチハヤは列へと戻った。
学生たちが全員横一列の並びに戻ったことを確認し、
リツコは少女らの正面に移動する。

リツコ「しかし皆さんがより高度なレベルで能力を使いこなせれば、
    この壁を打ち砕くこともできるでしょう。
    またチハヤさんも、
    努力次第で何ものにも破壊不可能な壁を生み出すこともできるでしょう。
    先ほども言いましたが、上を目指すには切磋琢磨することが必要不可欠です」

いつしか少女たちの顔つきは少し険しいものになっている。
現時点で自分に不可能なことがあるということがはっきりした形をもって判明したことで、
もともとあった向上心が更に熱く燃え上がったようだった。

リツコ「あなた方は全員友人であり家族であるだけでなく、
    アイドルを目指すライバル同士でもあります。
    そのことをしっかりと意識して、全員でアイドルを目指して頑張りましょう」

はい! と、大きな返事が揃い、そこからは各自での能力訓練へと移った。
ただやはりチハヤだけは他の者に比べて気勢が上がっているようには見えなかったが、
今の彼女たちはそれに気付くことはなかった。




大量の書架に隙間なく詰められた大量の蔵書。
とても学校図書館とは思えないその規模に少なからず感心しながら、
書架の間を縫うようにしてチハヤは歩いていた。
趣味と言える程度には日常的に読書をするチハヤにとって、
ここは初日の案内の時に心を動かされた場所の一つである。

授業の合間や休み時間に読む本を探しに、チハヤはこの図書館へ来ていた。
と言っても、既にそのための本は手にしており、
今彼女が棚に並ぶ本の背表紙に視線を滑らせているのは別の目的からである。
つまり、この学園の歴史を調べるためであった。

しかしどうにも見当たらない。
分類上あってもおかしくない棚はすべて回ったが、
チハヤの求めている情報を載せている本はどこにも存在しなかった。
もう間もなく自由時間が終わってしまう。

……仕方がない、諦めよう。
どうしても知りたかったというわけではないのだし。
チハヤは軽いため息とともに囁かな不満を置き去りにし、その場をあとにした。

日暮れを迎えたのち、一足先に入浴を終えたチハヤは、
寝室で一人枕に背をあずけて早速借りた本の表紙をめくった。
ツンとした含みのある声がかかったのは、それから少し経ってのことだった。

イオリ「随分長く図書室に居たと思ったけど、借りたのは一冊だけなのね」

顔を上げた先には、チハヤと同じく寝間着姿のイオリが立っていた。
髪はしっとりと濡れ、ちょうど今入浴を終えたところらしい。

チハヤ「……ええ。でも、それがどうかしたかしら」

イオリ「別に、どうもしないわ」

と言いながらも、イオリは未だチハヤに目を向けて立ち続けている。
やはり何か用事があるのだろうか。
チハヤがそう問おうとしたのと同時、廊下から賑やかな会話と足音が聞こえてきた。
他の者たちも入浴を終え、こちらに戻ってきているようだ。
イオリもそれに気づいたのだろう、寝室の扉を一瞥したのち、

イオリ「昼間はやられちゃったけど、すぐに超えてみせるわ。
   絶対にアイドルになってみせるんだから、覚えてなさい!」

そう言い放って、プイと踵を返して洗面台の方へ歩いて行ってしまった。

その直後に寝室の扉が開き、マコトを先頭に全員が入ってくる。
と、何やら毅然とした表情でその前を横切っていくイオリに、マコトは気付いた。

マコト「あ、イオリ。さっきはどうしたの? 髪も乾かさずに行っちゃって。
   っていうかまだ濡れたままじゃないか」

イオリ「なんでもないわ。今から乾かすわよ」

そう言って目も合わせずに立ち去ったイオリの背を皆は不思議そうに目で追ったが、
ふとマコトが、イオリが去っていったのとは反対方向にチハヤが居たことに気付き、
合点がいったようにふっと表情を崩した。

マコト「あー……あははっ、なるほどね。そういうことか」

ユキホ「? どうしたの、マコトちゃん?」

マコト「チハヤ、さっきイオリに何か言われたでしょ。
   『あなたには負けない』とか、そんなこと」

ああ、今のはそういうことだったのか。

マコトに言われるまで、イオリのあまりに唐突な言葉の意味に
気付けなかったチハヤだったが、この時になってようやく理解した。
どうやら自分は、イオリに宣戦布告を受けたらしい。

腑に落ちたようなチハヤの表情を見て、やっぱりそうか、とマコトは笑う。
また他の皆も思い当たる節があるようで、納得したように笑った。

マコト「まあ気にすることはないよ。イオリのあれは通過儀礼みたいなものだから。
   ボクたちも全員、同じようなこと言われてるしね」

ヒビキ「そうそう、ユキホなんか涙目になっちゃってさ!」

ユキホ「うぅ、ヒビキちゃん言わないで~!
    だってあんな風に言われたのって初めてだったからびっくりして……」

アズサ「でもあの時はイオリちゃんも慌てちゃって……うふふっ。
    二人とも可愛かったわ~」

入口辺りに固まったままかつての思い出に浸る一同だったが、

イオリ「ちょっと、聞こえてるわよ!」

と奥から顔を出したイオリの怒声をきっかけに、
それぞれのベッドへと散らばった。
そうして彼女らが去ったあとにチハヤとイオリの視線が、離れた距離で触れ合う。
かと思えば、イオリは小さく鼻を鳴らして先ほどと同じように踵を返し、
洗面台の方へ引っ込んでいってしまった。

だがこの時、気恥ずかしさからか僅かに頬が赤く染まっていたのをチハヤは見逃さなかった。
あの様子からして、マコトたちの言っていたことは本当のことらしい。
向上心や対抗心は強いようだが、自分のことを嫌っているというわけではないようだ。
付き合いの長いマコトらは当然そのことをわかっており、
またチハヤも、彼女たちの言葉を受けてそう理解した。

しかし微笑ましげに笑い合う皆に対して、
再び手元の本に目線を落としたチハヤの表情は、浮かないものであった。

今日はこのくらいにしておきます。
続きは多分明日の夜に投下します。


キサラギと同じ人かな?




紙面に花びらが落ちたのを見て、チハヤはようやく、
自分が文字を読んでいなかったことに気が付いた。
花びらを指で摘んで取り除き、ページを閉じて脇に置く。
ぼんやりと眺める先には広大な桜色の海が広がっていたが、
今のチハヤにはそれすらも目に入っていなかった。

一人読書をしようとこの丘へ上ってきたはいいものの、
聴こえてくるのはそよ風が枝を揺らす一本桜のさざめきだけ。
その静けさを求めてやってきたはずなのだが、
それが逆にチハヤの心をざわつかせた。

昨晩イオリに言われた言葉。
自分への対抗心を燃やすあの言葉が、
耳のどこかへへばりついたかのようにチハヤの中で繰り返されていた。

  『昼間はやられちゃったけど、すぐに超えてみせるわ。
  絶対にアイドルになってみせるんだから、覚えてなさい!』

チハヤ「……アイドル、か……」

誰へともなく呟く。
しかしその時、不意に後ろから声をかけられた。

   「あなた、アイドルになりたいの?」

学生の誰かが来たのか、
そう思い、チハヤは声の方を振り返る。
しかしそこに居たのは知らない制服を身にまとった、知らない少女であった。

……いや、違う。
自分はこの制服を知っている。
そうだ、確か学園を案内してもらったあの日に、
この丘に立っていた人影が、今目の前に立っている少女と同じ制服を着ていた。

チハヤ「あなたは……」

   「ああ、ごめんね! 自己紹介もせずにいきなり話しかけちゃって」

ハルカ「私、ハルカっていうの。だからそのままハルカって呼んでくれたら嬉しいな」

チハヤ「……チハヤと言います。よろしくお願いします」

ハルカ「あっ、いいよいいよ、敬語じゃなくても! 多分同い年くらいでしょ?
    私もチハヤちゃんって呼ぶから、ね!」

なんだか少し馴れ馴れしい子だな、とチハヤは思った。
だが不思議とそれを不快には感じさせない雰囲気がこの少女にはあるとも思った。

チハヤ「ハルカは……この学園の生徒ではないわよね」

ハルカ「うん、違うよ。でも時々こうやって遊びにきちゃうの。
    だってすごく景色がいいし、散歩すると気持ちいいから!」

他校の生徒が勝手に敷地内に入ってもいいのか。
そもそも今日は平日なのだからハルカの学校でも授業があるのではないのか。
そういった疑問は当然チハヤの中にいくつか浮かんだが、
それを特に口にしようとは思わなかった。
ハルカがいわゆる不良少女であろうとなかろうと、チハヤにとってもどうでもよいことだった。

そんなチハヤの心情を知ってか知らずか、
ハルカは穏やかに笑いながらチハヤに歩み寄り、隣に立った。

ハルカ「隣、いい?」

チハヤ「……ええ」

目を合わせずに正面を向いたままチハヤは答える。
ハルカはその横顔に笑顔を向けたまま、スカートを押さえながらチハヤの隣に腰を下ろした。

ハルカ「それで話を戻しちゃうけど、チハヤちゃんもアイドルになりたいの?
    チハヤちゃん、転校生だよね。
    ここに転校してきたのは、やっぱりアイドルになるため?」

自分が転校生だと知っている……ということは、
以前からこの学園とは関わりを持っていたのだろうか。
と思い至ったチハヤだが、それはすぐに別の感情にかき消された。

ハルカの質問を受けて僅かに視線を落とす。
何度目か分からないが、またイオリの言葉が思い起こされる。
少し沈黙したのち、チハヤは口を開いた。

チハヤ「正直に言うと……私は、アイドルには興味ないわ。
    この学園へ転校してきたのも、ここの先生誘われて、
    前の学校の先生にも勧められたから……。
    自分の意思でここに来たわけじゃないの」

もしこれが学園の生徒からの質問であったなら、
チハヤは恐らくここまで正直には答えなかっただろう。
いや、そうでなくとも、相手がハルカでなければ適当にごまかしていたかも知れない。
だがチハヤは、この少女になら自分の内面を打ち明けてもいいと、
無意識下ではあるがなぜかそんな風に感じていた。

ハルカ「そうなの……? でも、女の子はみんなアイドルに憧れるよね」

チハヤ「それも、私には理解できなくて……。
    私もそうだけど、アイドルがどういうものなのかも
    具体的にはよく分かってない子がほとんどでしょう?
    なのにどうしてあんな風に憧れるのか……わからない」

そうしてチハヤは再び沈黙する。
手元に目線を落としたままのチハヤの横顔を、ハルカもしばらく黙って見つめた。
しかし数秒後、ハルカの明るい口調でその沈黙は破られた。

ハルカ「いいんじゃないかな? よく分からないまま憧れても。
    きっと、アイドルには正解なんてないんだよ」

チハヤ「え?」

言われた意味が理解できず、チハヤは思わずハルカへと顔を向ける。
舞い散る桜を見上げるように顔を斜め上へ向けていたハルカは、
やはりにこやかな笑みをチハヤに向け直した。

ハルカ「『能力を使いこなせる子がアイドルに選ばれる』。
    これは多分間違ってないんだけど、
    きっとそれ以外にも、アイドルには大事なことがあるんだと思う。
    それで、その大事なことっていうのは多分、
    アイドルになる子によってそれぞれなんじゃないかな?」

チハヤ「アイドルによって、それぞれ……」

ハルカ「チハヤちゃんは、今はあんまり興味がないかも知れないけど、
    もし自分がアイドルになるとすればどんなアイドルになりたい?
    せっかくだし、それを考えてみてもいいと思うんだ。
    その答えが見つかったら、
    もしかしたらチハヤちゃんもアイドルになりたいって思うかもしれないし」

そう言って、ハルカは目を閉じてすっと立ち上がる。
そして見上げたチハヤに改めて笑顔を向け、

ハルカ「それじゃ、今日はもう行くね。またね、チハヤちゃん」

別れの言葉と疑問を残し、ハルカは丘の下へと姿を消していった。
チハヤはその背を追う気にはなれず、ハルカの残像を瞳に写したまま、
残していった言葉の意味を考え続けた。




   「――しかし一緒に居ると約束した友達は、女の子のそばから居なくなってしまいました。
   二人で過ごした日々や思い出がすべて夢か幻であったかのように……」

マミ「お友達はどこへ行ってしまったの?」

   「誰も知らない、遠いところです。とても、とても遠いところ」

石造りの薄暗い地下。
扉を隔てた先の部屋は、別世界のように可愛らしい。
ベッドの上でぬいぐるみに囲まれ、今夜も読み聞かせは続く。

   「それから毎晩、女の子は悲しみで涙を流しました。
   悪い夢でありますように。目が覚めたら友達が帰ってきていますように。
   そうでなければ、このままずっと眠っていられますように……。
   毎晩、毎晩、そんな風に神様にお祈りしながら、女の子は眠りにつきました」

アミ「女の子は、どうしてずっと眠っていたかったの?」

   「夢を見ていたからです。大好きな友達とずっと一緒にいられる夢。
   とても楽しくて幸せな夢を、女の子は毎日のように見ていました。
   だから、ずっと眠っていられたら幸せなままでいられる。
   こんなに悲しい気持ちなんて、しなくてもすむ。
   女の子はそう思って、毎晩、毎晩、眠りについていたのです――」




チハヤという新たな顔が加わったことで、
学園の生活にはちょっとした変化と刺激も加わった。
友人が増えて喜ぶ者、ライバルが増えて対抗心を燃やす者、
抱いた感情はそれぞれ違ったが、
ゆったりと流れていく時間が徐々に、その変化を日常へと変えていった。

並木を彩る桃色が緑へ替わり、
石畳が赤く色づき、
白銀を経て、
やがて再び桃色が芽吹き始める。
学園を彩る色の変化もまた、新顔が加わるという変化と同様に、
少女たちの日常の一部となっている。

チハヤの転校初日から数えて、もうすぐ一年。
満開の桜が並木道の空を覆い尽くすこの頃には、
チハヤもすっかり学園の一員として、皆に受け入れられていた。
とは言え、傍から見た様子は一年前とほぼ変わらない。
チハヤはやはり賑やかな輪の中から一歩外へ出ていることが多かったが、
決して疎ましく思われているわけではないことを皆理解しており、
無理に輪に入れようとすることもなく自然な形として穏やかに馴染んでいた。

そんな日常の中、桜舞う学び舎に今日も少女たちの歌声が響いている。

リツコ「ここはより伸びやかに。そう、いい調子ですよ」

横一列に並んだ少女たちと、その前を教鞭でリズムを取りながら歩くリツコ。
少女らの表情は楽しげなもの、真剣なもの、様々である。

学園で学ぶものは『能力』にかかわるものばかりではない。
一般的な学問に加え、歌や踊りなども高いレベルで教わることになっている。
『アイドル』となるには直接的には関係ないとは言え、
憧れられる存在たるものかくあるべき、
という信条のもとにこの学園ではあらゆるものを身につけさせるのだ。
学園に通う生徒たちも納得し、こうした授業も熱心に取り組んでいる。

リツコ「……はい、今日はここまでにしておきましょう。
   では一人一人、今日のアドバイスを。まずはヒビキさんから」

ヒビキ「はいっ!」

リツコ「とても明るい歌声で、音程もしっかり取れています。
    ただ、曲調によっては――」

リツコ「――最後にチハヤさんですが、歌の技術はとても素晴らしいですね。
    ここへ来てもうすぐ一年になりますが、
    元々優れていた技術を更に伸ばすことに成功しているようです」

チハヤ「ありがとうございます」

リツコ「しかし、やはり表情の固さが課題ですね。
    技術自体は優れているはずなのですが、
    表情に影響されて歌までどこか固い印象を受けてしまいます。
    歌う時の表情も、歌の表現力の一つ。
    その課題さえ解決できれば、あなたの歌は至高のものとなるでしょう」

チハヤ「……ご指導、ありがとうございます。努力を続けます」

リツコ「ええ、頑張ってください。ではこれにて授業を終了します」

そうして歌唱の指導は終わり、リツコは背を向けて堂を立ち去る。
それから他の者もゆるゆると、その場をあとにした。

その後、学園は休み時間へと入った。
今日は皆特に用事はないので、全員中庭でのんびりと空中を浮遊して過ごしている。
ユキホとマコトは持参したティーセットで紅茶を飲み、
ヒビキは空中を泳ぐようにひらひらと飛び回る。
そしてチハヤはやはり一人、読書を嗜んでいた。

そんな様子を少し離れた場所から眉根を寄せて見ていたのが、イオリであった。

アズサ「あらあら、どうしたのイオリちゃん」

イオリ「別に……なんでもないわよ」

アズサ「チハヤちゃんを見ていたの? 何か気になることが?」

イオリは肯定するでもなく否定するでもなく、ただ一方をじっと見続ける。
だが沈黙は即ち肯定であり、視線の先にはアズサの言う通りチハヤの姿があった。

イオリ「……あの子、あんなに本ばっかり読んでるから顔も固くなっちゃうんじゃないの」

アズサ「? 顔も固くって……。あ、もしかして、歌の時の?」

イオリ「大体、いつも何を読んでるのよ。一人でいつもいつも……」

アズサ「あら……そう言えば、聞いたことはなかったわね~。
    読書の邪魔をしちゃいけないと思って……。
    う~ん……とても真面目な子だし、
    アイドルになるためのお勉強をしてる、とか?」

イオリ「……そうね、そうに違いないわ。私だって去年より成長してるはずなのに、
    まだあの子の能力を破れないなんて、そうとしか考えられないもの……。
    一体どんな本を読んで勉強してるのかしら……」

チハヤから視線を外さないまま誰へともなく呟くイオリを見て、
アズサはようやく、イオリがまたもライバル心を燃やしているのだということに気が付いた。
恐らく、チハヤの歌に対してリツコが下した評価が自分より高いと感じたのだろう。
そんなイオリの横顔に、アズサはにこやかな笑みを向け続けた。

アズサ「あらあら……うふふっ。だったら、ちょっと私が聞いてきてあげるわね」

瞬間、イオリが何か言う間もなく、
アズサは笑顔を残してイオリの隣から姿を消した。
そして次に現れたのはチハヤの隣であった。

アズサ「うふふっ、チハヤちゃん♪」

チハヤ「アズサさん……。何か用ですか?」

この一年間でもう慣れてしまったのだろう、
突然隣に現れたアズサに特に驚くこともなく、
チハヤは本から目を離してアズサの顔を見上げた。

アズサ「ごめんなさいね、用っていうほどのものでもないんだけど。
    ただ、チハヤちゃんがいつもどんな本を読んでるのかなって気になっちゃって」

チハヤ「どんな本……ですか。
    そう聞かれても、特にこれといってジャンルを選んでいるわけではないので……」

アズサ「まあ。色々な本を読んでるっていうことなのね、すごいわ~。
    それじゃあ、今読んでるのはどんな本なの?」

チハヤ「これですか? これは――」

そんな風に他愛もない会話を始めたアズサとチハヤ。
その二人をイオリは、ただ黙って遠目に眺めていた。

イオリ「――はぁ……」

二人の様子を見ながら、イオリは浅くため息をつく。
だが、本当にアズサはお節介なんだからと思いつつも、
これで自分も成長できると思えば感謝の気持ちも少なくはない。

ふと、イオリはちらと下方に目を向けた。
その先にはあるのは、あてもなく彷徨うようにふわふわと浮遊しているヤヨイの姿。
するとヤヨイもその視線に気付いたようで、
顔を上げてイオリと視線を交差させ、にっこりと笑って浮上してきた。

ヤヨイ「イオリちゃん見ててくれた?
   私、結構上手に飛べるようになってきたかも!」

イオリ「ええ、そうね。すごくリラックスして飛べてるわ」

ヤヨイ「えへへっ、ありがとう! それじゃ私、もうちょっと練習してくるね!」

イオリ「まだ練習するの? せっかくの休み時間なんだし、ちょっとは休憩したら?」

ヤヨイ「ううん、私はみんなより下手っぴなんだから頑張らなきゃ!
    早くイオリちゃんたちみたいに、上手に飛べるようになりたいもん!」

ヤヨイ「ヒビキさんみたいに飛び回れたら楽しいだろうし、
    マコトさんとユキホさんみたいにお茶を飲んだり、
    チハヤさんみたいに本を読んだりするのもカッコイイかなーって!」

ヤヨイの視線を追い、イオリも周りに目を向ける。
すると、チハヤの隣でまだ会話を続けているアズサと目があった。
そしてそれに気付いたチハヤが、
同じように視線を追ってこちらに目を向ける――
そんな予感がして、思わずイオリは顔を背けてしまった。
なぜチハヤと目を合わせることを避けたのか自分でも分からないまま、
顔を背けた先に居たヤヨイに向けて言った。

イオリ「それじゃ、私も練習に付き合うわ」

ヤヨイ「えっ? そんな、悪いよ。だってせっかくの休み時間なのに……」

イオリ「気にしなくていいの。これは私のためでもあるんだから。
    人に教えたほうが上達するって言うでしょ?
    ほら、さっさと始めちゃうわよ。時間は限られてるんだから」

それから休み時間が終わるまで、イオリはヤヨイと飛行の練習を続け、
結局その間、チハヤと目が合うことはなかった。




ヒビキ「なあイオリー。いくらジャンルは問わないって言っても、
    本当にこんなにバラバラで良かったのか?」

イオリ「いいのよ。バラバラなことに意味があるんだから」

ヤヨイ「私、図書館で本借りるの久しぶりです!
    えへへっ、なんだか賢くなったような気がしますね!」

図書館を歩くイオリたちの手には、一人一冊ずつ本が持たれている。
これら三冊を今から借りようというのだ。
手元の本に視線を落としたイオリの脳裏に、少し前のアズサとの会話が思い起こされる。

 アズサ『どんな本を読んだか覚えているものを全部教えてもらったけれど、
     歌が関係してる本が多いみたいだったわ~。
     やっぱりチハヤちゃん、歌が大好きなのね。
     ただ、アイドルとはあんまり関係なさそうだったけど、
     それでもアイドルの勉強になるのかしら? 不思議ね~』

アズサは疑問に思っていたようだったが、
イオリはやはりチハヤの能力の高さの秘密はその読書量の多さにあると踏んだのだ。

一見すればアイドルとは無関係な分野でも、
視点を変えれば何か得られるものがあるに違いない。
そう考え、特に仲の良いヤヨイと、
偶然話を聞いていたヒビキを引き連れて早速図書室にやってきたのだった。

ヒビキ「でもなー……。本当にこんなのでアイドルの勉強になるのかなあ。
   っていうか、どうせ真似するんなら
   借りる本もチハヤと同じ歌の本にした方が良かったんじゃないか?」

イオリ「真似じゃなくて参考よ、参考!
   借りる本まで同じにしたらそれこそ真似になっちゃうでしょ!」

ヒビキ「別にそんなに変わりないと思うけど。
   まあそれは良いとして……」

と、ヤヨイとイオリの手元からふわりと本が浮き上がり、
歩く速度に合わせてヒビキの目の前に移動した。
そしてヒビキは眼前に浮かぶ二冊の本と
自分が掲げている本のタイトルを読み上げ、苦笑いを浮かべる。

ヒビキ「『コーディネート・ファッション辞典』『念動力の理論と実践(上)』……。
    それに、『無と時間の証明――哲学、そして論理的思考――』。
    ヤヨイが借りたの以外、本当にアイドルと関係なさそうだぞ」

イオリ「だから、そこに意味があるんだって言ってるでしょ。
    現にチハヤが読んでた本だって、
    歌の本以外もアイドルに全然関係なさそうな本ばっかりだったらしいもの」

ふーん、と答えたヒビキはやはり半信半疑なようだったが、
熱意を燃やしているイオリの気勢を敢えて削ぐこともないか、と
それ以上は何も言わずに笑顔を浮かべた。
と、イオリが不意に立ち止まって振り返る。
すると今度はヒビキの手元の本も一緒に、三冊イオリのもとへ移動した。

イオリ「いい? 明日は授業が無いんだし、三人でみっちりこの本を勉強するわよ。
   休みの日の過ごし方でアイドルにどれだけ早く近付けるかが決まるんだから!」

ヤヨイ「うん! この本でいっぱい勉強して、早く上手に飛べるようにならなきゃ!」

ヒビキ「……ま、確かに何もしないよりはそっちの方が良いか。
    それに、三人で勉強っていうのも楽しそうだし!」

二人の返事を聞き、イオリは満足げに踵を返して、
三冊の書物の重さを両手に感じながら意気揚々と再び歩き始めた。

――翌日、今は平常であれば皆一様に授業を受けているはずの時間である。
しかし今日は休日。
少女たちは各々、思い思いに時間を過ごしていた。

イオリ、ヤヨイ、ヒビキの三人もまた、
本来なら既に制服に着替えているはずではあるが今日この時は寝巻きのままで、
三人揃って一つのベッドの上に集っている。
とは言っても、惰眠を貪っていたり着替えを怠っていたりするわけではない。
寧ろその逆、昨日話していた通り、『アイドルの勉強中』なのである。

ヒビキ「あはは、これ結構面白そうかも。ねえイオリ、次はこれやってみようよ!」

寝そべって本に目を通していたヒビキが、横に視線を上げる。
その先では膝立ちになってヤヨイの髪をいじるイオリと、
いじられるがままのヤヨイの姿があった。

イオリ「ん、待って。もう少しで結べるから」

口に咥えたリボンを手に取り答えたイオリの髪もまた、
既に自分自身かあるいは二人のうちどちらかによって手を加えられたのだろう、
普段と変わって前髪をすべて引っ詰めたような髪型となっている。

ヒビキとヤヨイは普段の髪型とそう変わってはいないが、
三人は共通して長い白のリボンによってまとめられていた。
そこを見ると、白の寝間着のままで居るのも
リボンとの組み合わせを考えて敢えてそのようにしているのかも知れない。

イオリ「……はい完成! できたわよ、ヤヨイ!」

ヤヨイ「ほんと? えへへっ、どんな風になってるのかな?」

自分ではあまり普段と変わった感覚はしないらしく、
確かめるように両手で自分の髪の毛をふわふわと触るヤヨイ。
そんなヤヨイに、イオリは横に置いてあった手鏡を渡す。
ヤヨイはそれを受け取って手鏡を覗き込むと、ぱっと目を輝かせた。

ヤヨイ「わあ……! リボンと結び方が違うだけなのに、なんだかお姫様みたい!
   ありがとう、イオリちゃん!」

純真無垢な笑顔に、少しだけ困ったような、
けれどとても嬉しそうな笑顔をイオリは返す。

イオリ「もう、大げさね……。さ、まだまだ勉強を続けるわよ!
    ヒビキ、さっきあなたが言ってたの見せてちょうだい!」




   「――けれど、朝はやってきます。
   幸せな夢を見て、目が覚めれば悲しさで涙を流す。
   それを繰り返すうちに、優しくて明るかった女の子はすっかり変わってしまいました」

アミ「どんな風に変わったの?」

   「泣いてばかりで、他の子たちとおしゃべりすることも遊ぶこともなく、
   本当にひとりぼっちになってしまったのです。
   ああ、かわいそうな女の子……。
   ところがそんなある日、女の子の前に魔女が現れたのです。
   魔女は言いました。
   『願いを叶えたければ、これを食べなさい。なんでも願いの叶う、不思議な果物だよ』」

マミ「不思議な果物ってなあに?」

   「魔女が取り出したのは、真っ赤な真っ赤な林檎でした。
   女の子は言いました。『それを食べれば、本当になんでも願いが叶うの?』
   魔女は答えます。『もちろんだとも。さあ、召し上がれ』
   そうして女の子は魔女から林檎を受け取り――」

今日はこのくらいにしておきます。
続きは多分明後日に投下します。

>>64
「無尽合体キサラギ」というタイトルのやつなら多分私です




ヒビキ「――結局、アイドルの勉強になったのかどうかはよく分からなかったなー」

ヤヨイ「でも楽しかったですよね!
    イオリちゃんが選んだ本は、私にはちょっと難しくかったかもだけど……」

イオリ「まあ、それでいいんじゃない? あまり実感はないかも知れないけど、
    こういう知識や経験がきっとアイドルへの成長に繋がるのよ」

話しながら歩く三人の手には、図書館で借りた件の本があった。
また今日はそれに加え、次の授業で使う数冊の厚い教科書も持たれている。
図書館に立ち寄り、借りた本を返却してから授業へ行こうというわけだ。

と、イオリは図書館へ向かう廊下の曲がり角で立ち止まり、

イオリ「これは私とヤヨイで返しておくわ。ヒビキは先に行ってていいわよ」

ヤヨイ「えっ? 三人で一緒に行かないの?」

ヒビキ「そ、そうだぞイオリ! 私だけのけ者にする気なのか!?」

ヤヨイとヒビキの反応は当然のものであったが、
イオリの発言も当然、理由のないものではない。
イオリは呆れたように薄く笑い、二人の疑問に答えた。

イオリ「ヒビキあなた、次の授業であてられるでしょ?
    先に行って予習しておきなさいってこと」

ヒビキ「あ……そ、そうだった!
   一応付箋は貼ってあるけど、もう一回読んでおかないと!
   ごめん、ありがとうイオリ! じゃあこの本、頼んだぞ!」

イオリ「どういたしまして。席はいつものところを取っておいてちょうだい」

ヒビキ「了解! それじゃまたあとでね!」

ヤヨイ「は、はい。ヒビキさん、頑張ってください!」

持っていた本をイオリに預け、ヒビキは駆けていった。
イオリはその背を笑顔で見つめた後、浅く息を吐き、

イオリ「さ、行きましょう。あんまりのんびりしてると私たちも遅刻しちゃうわ」

そういってヤヨイと二人、図書館へと歩いて行った。

――足元の桜を舞い上がらせ、ヒビキは並木を駆ける。
それにしても、イオリが予習を思い出させてくれて良かった。
学則で禁じられてさえいなければ教科書を読みながら移動したいところだが……
などと考えていると、前方からこちらへ歩いてくるリツコの姿が見えた。

ヒビキ「ごきげんよう、ティーチャーリツコ!」

目の前で立ち止まり、ヒビキは大きな声で挨拶する。
リツコも軽く頭を下げて「ご機嫌よう」と返し、微笑んだ。

リツコ「どうしたのですか? 随分と急いでいるようですが」

ヒビキ「はい! 早めに行って次の授業の準備をしておこうと思って!」

リツコ「まあ、そうでしたか。熱心でよろしい。
    ただもう少し早めに準備できていればなお良かったのですが」

ヒビキ「うぐ、ご、ごめんなさい」

正論を投げられて首を縮めるヒビキにくすくすと笑うリツコ。
ヒビキも申し訳なさそうに頭をかきながら笑みを返した。

リツコ「それに、気をつけてくださいね。
   屋外は構いませんが、屋内では走らないよう――」

突風が吹いたのは、リツコがヒビキに注意しようとしたその時だった。
一瞬木々がざわめいたかと思えば次の瞬間、
ヒビキの視界を自身の髪の毛が覆い、思わず声を上げ反射的に目を閉じる。
同時に、リツコの持っていた紙が飛び散り、
そのうちの何枚かが風にさらわれて上空へと舞い上がってしまった。

ヒビキ「っと、大変だ!」

舞い散る紙を確認したヒビキはその瞬間、上空へと飛び上がる。
そして飛びながら、

ヒビキ「みんな、手伝って!」

その声とともにヒビキの周囲に光が発生し、
それらがすべて多種多様な鳥へと姿を変えた。

光が形を成しているだけのものではなく、
見た目にはどれも本物と変わらない鳥たちが、散っていった紙に向けて一斉に羽ばたいた。
ヒビキ自身も飛び回り、紙を回収していく。
そうしてあっという間に、吹き飛んだ紙はすべてヒビキの手元に収まった。

ヒビキ「ふう、これで多分全部だよね」

ヒビキは手元の紙の向きを揃えながら、地上へ降りていく。
だがその時、ふとヒビキの目と手の動きが止まった。

ヒビキ「……これって……」

リツコ「ありがとうございます、ヒビキさん。大変助かりました。
    それに能力の使い方も見事でしたよ」

自分がいつの間にか地上まで降りていたことを、すぐ横から話しかけられて気付く。
ヒビキはパッと顔を上げ、リツコに目を輝かせて聞いた。

ヒビキ「ティーチャーリツコ、この書類って……!」

みなまで言う前に、リツコはそっとヒビキの手元から書類を預かり、
そして優しく微笑んで言った。

リツコ「ふふっ、見られてしまいましたね。
   ええ、その通りです。ここの全員が候補に上がっていますよ」

ヒビキ「わっ……やっぱり、本当なんですね!」

リツコ「明日にでも皆さんに話すつもりだったのですが、
   少しだけ早く知られてしまいましたね」

ヒビキ「あの、ティーチャーリツコ!
    このこと、みんなに教えてあげても大丈夫ですか?」

リツコ「構いませんよ。どうぞ、教えてあげてください。
   予定より早いですが、次の授業時に私の方からも正式に発表することにしましょう」

ヒビキ「えへへ、わかりました! ありがとうございまーす!」

リツコ「はい。ではまた後ほど授業で」

そう言ってリツコは微笑みを残して去っていき、
ヒビキは嬉しそうな顔のまま、再び駆け出した。

ヒビキが講義室に入ってしばらくしてから、ヤヨイとイオリの二人も入ってきた。
図書館に立ち寄ることを考えて早めに移動したのだが、
立ち寄ってもなお時間には余裕があり、
まだ講義室には彼女たち三人以外には誰も来ていない。

イオリ「お待たせ、ヒビキ。ちゃんと予習はできてる?」

ヒビキ「えへへっ、まーねー」

ヤヨイ「? ヒビキさん、何か嬉しいことでもあったんですか?」

何やら含蓄のある言い方をするヒビキに対し、
ヤヨイは興味深げに体をヒビキに向けて座った。
次いでイオリも着席しようとするが、
それまで待てないとばかりにヒビキは身を前に乗り出して言った。

ヒビキ「なあ、知ってるか?
    私たちの中から、アイドルが選ばれるかも知れないんだって!」

イオリ「……? 今更何言ってるのよ、当たり前じゃない。
   そのためにこの学園に通ってるんでしょ?」

ヒビキ「違うよ、そういうことじゃないんだ!
    もう私たち、アイドルの最終選考に残ってるんだよ!」

イオリ「……なんであなたがそんなことを知ってるわけ? 何かの勘違いじゃないの?」

興奮気味に言うヒビキとは対照的に、
情報の信憑性を確かめるようにイオリは努めて冷静に聞きながら席に座る。
ヒビキはイオリとヤヨイとの間を視線を行き来させながら答えた。

ヒビキ「さっきティーチャーリツコが持ってた書類が風で飛ばされて、
   それを拾ってあげた時に見たんだ!
   ティーチャーリツコもそう言ってたし、間違いでも勘違いでもないぞ!」

ヤヨイ「そ、そうなんですか? じゃあ本当に……! やったね、イオリちゃん!」

リツコが言ったのなら間違いない。
ヤヨイも確信し、興奮した様子でイオリに目を向けた。
しかしイオリは返事をせず、俯いたままで何やら呟いている。

イオリ「最終選考に……私たちが、全員……。本当に、アイドルに……」

ヤヨイ「? イオリちゃん……?」

イオリ「まだまだ……。
   ヒビキの言うことが本当だとしたら、ここからが本番よ!
   二人とも気を抜いたりしたらダメなんだから!」

突然立ち上がったイオリに、二人は目を丸くする。
だがイオリの目が熱意に燃え、興奮に頬が紅潮していることに気付き、
二人とも嬉しそうに笑った。

ヒビキ「もちろん本当だし、気を抜くつもりもないぞ! イオリにも負けないからな!」

ヤヨイ「みーんなでアイドル目指して、頑張りましょー!」

ちょうどその時、他の皆も講義室に入ってきてイオリたちの様子に気が付いた。
そしてもちろん、リツコの公表を待たずして全員にこの件は伝わることとなった。
自身の夢がグッと現実感を増したことを実感し、
皆嬉しそうに顔を見合わせ、手を取り合って喜ぶ。
ただ一人……チハヤを除いては。

リツコ「――なるほど、どうやら皆さん全員に伝わっているようですね」

教室に入った瞬間、
自分に向けられた表情からリツコは事態を把握して顔をほころばせた。
そして教卓の前に立ち、皆の顔を見回してから、ひと呼吸置いて話し始める。

リツコ「知っての通り、この学園の生徒全員がアイドルの最終選考に残りました。
   まだ目標がなったわけではありませんが、ひとまずはおめでとうございます」

その笑顔に、少女たちは改めて顔を見合わせて喜びを表現する。
リツコはその様子を眺めた後、軽く咳払いし、

リツコ「さて、ここから最後の選考に入るわけですが、
   最終決定がいつになるか、皆さんは気になるところでしょう。
   しかしこれに関しては、敢えて伏せることとしています。
   これからの選考期間が一週間なのか、あるいは一ヶ月間なのか、
   それを皆さんが知ることはありません」

リツコ「アイドルは、常に努力し心構えを持つことが肝要。
   もしかしたら明日にでも発表があるかも知れない。
   そんな緊張感を持ち、今日からの毎日を過ごしてください。
   当然、現時点である程度の順序付けはされていますが、
   それはこれからの日々の過ごし方次第でいくらでも変動するものです。
   あなた方の中の誰もが、今回の選考でアイドルになる可能性を持っているのです」

微笑みながらも厳しい言葉を、リツコは淡々と投げかける。
それを聞くうち、少女らの中に少なからずあった浮ついた雰囲気は徐々に影を潜めていった。
今はもう全員、気合の入った表情でリツコをじっと見つめている。
だがリツコはその表情を、やはり変わらぬ笑顔で受け止め、

リツコ「さて、少し厳しい話をしましたが、めでたいことには変わりありません。
    そこで今日は、私から皆さんに贈り物があります」

そう言って教卓の上……教室に入ってきた時から持っていた箱に、目を向ける。
片手で掴める程度の長方形の箱が人数分。
全員の目がその箱へ向いたのとほぼ同時、リツコは改めて正面を向いて言った。

リツコ「それでは一人ずつ前へ。この箱を渡します」

その後数分と待たず、全員の手に箱が行き渡った。
リツコはそれを確認し開封を促す。
少女たちは一斉に箱の縁に指をかけて中身を確かめ、
そして次の瞬間、教室には俄かに歓声が広がった。

マコト「ティーチャーリツコ! これってもしかして……!」

リツコ「はい。皆さんがより高いレベルで能力を扱うための、補助具です」

皆の手に握られているのは、少し変わった形をしたバトンのような道具。
起動すれば能力の発動、制御を助け、より楽により高度な能力使用が可能となる。
更に服装までが能力使用に最適化されるという、高度な技術を以て作られた道具。
それは基礎力を高い水準で身に付けた者のみに保持が許される、
アイドルを目指す者にとっては一種の勲章のようなものでもあった。
これを持つことで名実ともにアイドル候補になれると言っても過言ではない。

リツコ「ただし、この補助具にばかり頼っていては成長は止まってしまいます。
   こちらが指示した時か、本当に必要な時にのみ使用するようにしてくださいね」

少女たちは両手でその贈り物を大切そうに握ったまま、目を輝かせて返事をする。
だがそんな中にあってもチハヤはやはり、
膝の上に手を置いたまま視線を落とし続け、箱をそっと机の隅へ追いやった。

今日はこのくらいにしておきます。
続きは多分土曜か日曜の夜に投下します。




――たくさんの悲鳴。
たくさんの叫び声。
たくさんのものが壊れる音、崩れる音。

どうして?
どうして、居なくなっちゃったの?
約束したのに。
ずっと一緒だって、約束したのに。

悲しい 痛い 苦しい
嫌だ こんなの嫌だ

そうだ……眠ろう。いつもみたいに。
寝てる間だけは、こんな辛い思いをしなくて済む。
夢の中だけは、あの子とずっと一緒に居られる。
だから、起こさないで。
もう誰も起こさないで。

あの子が居ない世界なんて、要らないから。




鼻に何か触れる感覚がして、目が覚めた。
鼻先に付いたそれを指で取って確認すると、桜の花びらだった。

ハルカ「おはよう、チハヤちゃん」

体を起こしたのと同時に後ろから声をかけられる。
振り向いて姿を確認するより先に、チハヤも相手の名を呼んだ。

チハヤ「ハルカ……いつから居たの?」

ハルカ「さっき来たところ。珍しいね、チハヤちゃんがお昼寝なんて」

チハヤ「そうかしら。時々はするけれど」

ハルカ「それから、鼻に桜が付いてるチハヤちゃんも珍しかったよ。
    可愛かったのに、取っちゃって残念」

チハヤ「もう……からかわないで」

照れる表情を隠すように、チハヤは振り向いていた顔を正面に戻す。
ハルカはいたずらっぽく笑い、いつものようにチハヤの隣に腰を下ろした。
チハヤはちらとハルカを一瞥した後、眉根を寄せて再び正面へと顔を逸らす。
だが少しだけ怒ったようなその顔はやはり、面映さに染まっていた。

ハルカ「そう言えば、もうすぐチハヤちゃんがこに来て一年だね」

チハヤの心情を慮ったか、ハルカは別の話題を振った。
数秒置き、チハヤは正面を向いたまま答える。

チハヤ「ええ……。実感はあまりないけれど」

ハルカ「私は実感あるよ? チハヤちゃんと仲良くなれた、って」

チハヤ「……そうかも知れないわね」

ハルカ「それに、学園の友達とチハヤちゃんも一年前よりずっと仲良しに見えるよ」

チハヤ「友達……と呼べるかは分からないけれど。
    でも、そうね……。少なくとも、以前の学校のクラスメイトと比べれば、ずっと……」

そう言ったチハヤの顔は、とても穏やかなもの。
同世代の少女たちと一年間寝食を共にしたことは、
内向的であったチハヤにも仲間意識を与えるのに十分であった。
チハヤ自身、普段はあまり態度に出すことはないが、
同窓の者たちから親しげに接されることについては悪からず思っている。
しかし、だからこその悩みもあった。

チハヤ「……今日、ティーチャーリツコに言われたわ。
    私たちの中から、アイドルが選ばれるかもしれないって」

そう言ったチハヤの表情は、言葉の内容とは裏腹に、浮かないものであった。
そのことに気付いたか、本来なら感嘆の声の一つも上げているところだろうが、
ハルカは何も言わずに黙ってチハヤが続けるのを待った。

チハヤ「でも……やっぱり私はまだ、アイドルになりたいとも、なろうとも思えないの。
    今日の話を聞いた時のみんなの反応を見て、改めて私とみんなとの意識の差を感じたわ。
    みんなは本気でアイドルを目指してるのに、私は……。
    それが、申し訳なくて」

一年間、チハヤはこの心情をハルカ以外の者に話したことはない。
自覚しているかは分からないが、
彼女がこうして悩みを打ち明ける相手は常にハルカであった。
会う時間は少ないはずなのに、
ハルカの前では不思議と、普段隠している部分をさらけ出してしまう。
彼女が学園の外の者であるということもそうさせる要因の一つだろうが、
それ以上に、自身の内面を打ち明けることが許されるような雰囲気が、
このハルカという少女にはあった。

ハルカはしばらくチハヤの横顔を見つめて、
それからチハヤと同じように正面を向いた。
チハヤは自分のつま先を、ハルカは斜め上の空を黙って見続ける。

ハルカ「そう言えば、まだちゃんと聞いたことなかったよね」

沈黙を破ったのはやはりハルカ。
その声をきっかけに、二人は視線を交差させる。

ハルカ「初めて会った時に、聞いたこと。
    もしも仮に、でいいんだけど……。
    チハヤちゃんがアイドルになるのだとすれば、どんなアイドルになりたい?」

チハヤ「……なりたくないと言ってるのに、『もしも』も『仮に』もないんじゃ……」

ハルカ「まあまあ、細かいことは気にせずに!」

どこか気の抜けるような顔で笑うハルカだったが、
その表情が、チハヤの思考から堅苦しさを抜くことを成功させた。
チハヤは数秒ハルカと視線を交わしたのち、

チハヤ「多分、的外れなことを言うと思うけれど……」

そう前置きし、視線を上へ向けて答えた。

チハヤ「『歌を歌うアイドル』……。
    そんなアイドルなら、考えなかったことも、ないわ」

ハルカ「歌を、歌うアイドル……?」

呆けたように、ハルカはチハヤの言葉を復唱する。
チハヤはそんなハルカの様子を見て、後悔したように再び目線を足元に下ろした。

チハヤ「……ごめんなさい、おかしなことを言って。
   やっぱり私も、アイドルというものが何なのか、よくわかってないの。
   ただ、歌が好きだから……単純過ぎるわよね。自分でもどうかと思うわ」

どこか言い訳をするように気まずそうに言うチハヤ。
だが次いでその耳に届いたのは、明るい嬉しそうな声だった。

ハルカ「ううん、すごくいいと思う! 歌を歌うアイドル、とっても素敵だよ!」

チハヤ「……もう、だからからかわないでって……」

ハルカ「からかってなんかないよ! 本当に素敵だと思ってるもん!」

そう言い、ハルカはチハヤの両手を取り、ぐいと引いた。
チハヤは思わず小さく声を上げ、引かれるままに顔もハルカへと向ける。

ハルカ「私、応援するよ! 歌を歌うアイドル、目指そうよ!」

目を輝かせ、ハルカは真っ直ぐにチハヤを見て言った。
意表を突かれたチハヤも、見開いた目をハルカと合わせる。
が――

チハヤ「……さっきも言ったでしょう?
    私は、アイドルになりたいともなろうとも思ってない。
    みんなから憧れられる存在なんて、私には務まらない」

チハヤは目を逸らし、
自分の手を握るハルカの指をそっと解いて立ち上がった。

チハヤ「羨望も期待も、私には耐えられないから」

ハルカ「チハヤちゃん……」

チハヤ「でも、ありがとう。素敵だって言ってくれたことは、嬉しかったわ。
    ……それじゃあ、また明日」

寂しげに笑い、ハルカに背を向けて丘を下っていく。
そんなチハヤの背に向かってハルカは、

ハルカ「うん……また明日!」

ただ一言、明るくそう言って、
チハヤの影が見えなくなるまでその背を見送った。




ヤヨイ「あのっ、ティーチャーリツコ!」

その日の夕食が終わり皆寝室へと戻っていく中、
ヤヨイはリツコへ走り寄って声をかけた。
その後ろにはイオリとヒビキも付き添っている。
夕食後に声をかけられることなど滅多にないからか、
リツコは少々意外そうな様子で振り返った。

リツコ「あら、ヤヨイさん。どうかしましたか?」

ヤヨイ「『ねんどーりょくのリロンとジッセン』っていう本の、
    二冊目ってどこにあるか知らないですか?」

と、あまりに唐突な質問を投げかけるヤヨイ。
だがリツコはそれに動じる様子もなく、すぐに返答する。

リツコ「『念動力の理論と実践』……。
    確か上・中・下の全三冊のものでしたね。図書館にありませんでしたか?」

ヤヨイ「はい、今日の授業が終わってから晩ご飯の時間まで探してみたんですけど……」

リツコ「そうですか。となると……」

そう呟いて目線を落とし、リツコは顎に手を当てて思案する素振りを見せる。
そして少し経った後、

リツコ「図書館に無いのだとすれば、旧校舎の方へあるのかも知れません」

ヤヨイ「え……旧校舎ですか?」

リツコ「はい。古い本ですから、その可能性は十分にあります。
   でも、どうして突然?」

ヤヨイ「いえ……念動力の勉強をしようと思って一冊目は図書室で借りたんですけど、
   それがすっごく分かりやすかったんです。だから二冊目も読みたいなーって、
   思ったんですけど……旧校舎にあるんじゃ、しょうがないですよね」

立ち入り禁止の旧校舎にあるということは、入手を諦めざるを得ない。
そう悟ったヤヨイは、あからさまに肩を落とす。

ヤヨイ「続きが読めないのは残念ですけど、教えてくれて、ありがとうございました」

声のトーンは明らかに落ちているものの
それでも笑顔を作り、ヤヨイは礼を言って立ち去ろうとする。
だがそれに対しリツコが声を掛けようと口を開きかけたした、その時。

イオリ「あの、ティーチャーリツコ!
   旧校舎への立ち入りを許可してはいただけないでしょうか?」

ヤヨイ「! イ、イオリちゃん?」

イオリ「ヤヨイの言っている通り、あの本、とても分かりやすかったんです。
   念動力が苦手なヤヨイだけじゃなくて、私たち全員の役に立つくらいに……」

付き添いでヤヨイの後ろに立っていたイオリが、前へ出てリツコへ詰め寄るように言った。
気付けばヒビキもヤヨイの隣に立ち、
イオリの言葉に何度も頷いて同意を示している。

イオリ「だから、私ももっとあの本を読んで勉強したいんです。
   ティーチャーリツコも仰っていたでしょう?
   これからの過ごし方が、アイドルになるためには大事だって。
   だから、可能な限りの努力を続けたいんです!」

ヒビキ「私たち、昔に比べたらすごく成長しています。
    旧校舎が危ないって言っても、今の私たちなら大丈夫なはずです!」

真っ直ぐにリツコの目を見つめて懇願するイオリとヒビキ。
そんな二人の顔を、大きく見開いた目で交互に見つめるヤヨイ。
そしてリツコは二人の目をしばらく黙ってじっと見つめ返した後、
ふっと表情を崩して言った。

リツコ「確かに今のあなたたちが相手では、
   『危険だ』という理由で立ち入りを禁ずるのは少々無理がありますね」

イオリ「! ティーチャーリツコ、では……」

リツコ「はい。立ち入りを許可しましょう。
   ただし、今日はもう暗いので明日の日中に。幸い明日は休日ですから。
   それと当然、最大限の注意を払うこと。よろしいですね?」

リツコの言葉を呆けたような顔で聞いていたヤヨイ。
しかし数秒遅れて、感情がようやく理解に追いつく。
ポカンとした表情ははみるみるうちに笑顔に変わり、

ヤヨイ「は……はい! ティーチャーリツコ、ありがとうございます!」

満面の笑みで勢いよく頭を下げた。

ヤヨイ「うっうー! たくさん本を読んでいっぱい勉強頑張らなくっちゃ!
   でも、これで私もみんなみたいに上手に飛べるようになりますよね!」

頬を紅潮させて興奮気味に言うヤヨイに、リツコは黙って微笑みを返す。
そしてヤヨイの横から、ヒビキが再び半歩歩み出た。

ヒビキ「許してくれてありがとうございます、ティーチャーリツコ!
   あの、他のみんなも一緒に行ってもいいですか?」

リツコ「ええ、もちろん。旧校舎には他にも古い書物が多くありますから、
   読みたいものがあれば持ち出しても構いませんよ。
   ただ、立ち入るのは一階から上に限定してください。
   流石に地下は万一があった時に危険すぎるので許可できません。よろしいですね?」

イオリ「ええ、わかりました。ありがとうございます、ティーチャーリツコ」

リツコ「これを機に、皆でより一層自身を高めてください。
   では私はそろそろ失礼します。あなたたちも早めに寝室へ戻ってくださいね」

ご機嫌よう、と別れの挨拶を残してリツコは背を向けて立ち去る。
三人も挨拶を返したのち、笑顔を見合わせて皆の待つ寝室へと戻った。

やっぱり既に自分も行くことになっているのか、
とチハヤは思ったが、それを敢えて口に出すことはなかった。
古い本があると聞いて興味を抱いたのは事実。
聞かれれば行くと答えていたことには違いない。

マコト「でもせっかく許可をもらえたんだから、頑張っていい本探さないとだね!
   なんせ、ボクたちの中からアイドルが選ばれるんだからさ!」

ユキホ「そっか、そうだよね……。私たちがアイドルの最終候補に……。
    それにしても、いつ発表されるのかなぁ?
    発表の日が分からないって、なんだか怖いよね……。
    あ、でも分かってても怖いかも……」

と、マコトの何気ない一言にユキホは少し不安そうな笑顔を浮かべる。
そんなユキホに、ヒビキは対照的に快活な笑顔を向けた。

ヒビキ「なんだユキホ、自信ないのか?
   私は怖くなんかないぞ! だって、選ばれるのは私に決まってるからな!」

ユキホ「えっ? あ、ううん、そうじゃなくて……」

イオリ「あら、じゃあ自信ありなの? あなたにしては珍しいじゃない」

ユキホ「ええっ!? ち、違うよぉ、そういうことでもなくて……!」

ユキホ「その、アイドルに選ばれたらすぐに学園を卒業することになっちゃうんでしょ?
    誰が選ばれてもその人とはお別れってことになっちゃうから、
    それは寂しいなって思っただけなの!」

ヒビキ「あー、そのことか……。でもまぁ、仕方ないよ。
   それに、確かにちょっと寂しいかも知れないけど、
   一生のお別れっていうわけでもないんだからさ」

ユキホ「それはそうだけど……」

アズサ「あらあら……。そうねぇ、ユキホちゃんの言う通り、私もお別れは寂しいわ~。
    だから、いつになるかは分からないけれど、
    アイドルが発表される日までたくさん頑張らないといけないわね~。
    勉強も思い出作りも、みんなでい~っぱい。うふふっ」

ヤヨイ「そうですよね……!
    七人全員が一緒に居られるのって、もうあんまり長くはないんだから、
    いっぱい、い―っぱい頑張らないどダメですよね!」

イオリ「もちろん、私はそのつもりよ。
   それから一応言っておくけど、誰がアイドルに選ばれても恨みっこナシ!
   まあ、当然私が選ばれるに決まってるけど」

ヒビキ「むっ! イオリ、私の真似したな! 選ばれるのは私だぞ!」

マコト「へへっ、二人とも好き勝手言っちゃって! ボクだって負けないからね!」

ヤヨイ「うっうー! 最後まで、みーんなでがんばりましょー!」

明るい笑顔と笑い声。
彼女らは競い合うライバル同士であっても、それ以前に大切な仲間である。
共に努力すること以上に気勢の上がることはない。

それからは各々、旧校舎にはどんな本があるのだろうかと想像したり、
昔忍び込んだ思い出について改めて語り合ったりして消灯までの時間を過ごした。
そして消灯を迎え、眠りについてしまえば、
翌日が訪れるのはあっという間である。

今日はこのくらいにしておきます。
続きは多分水曜くらいに投下します。




旧校舎――
風化した外壁はところどころ色合いが変わっており、
他の校舎とは少し異なる雰囲気を纏う、
普段は近付くことすらほとんどない建物。
その入口に今、七人の少女は立っていた。

マコト「改めて見てみると、確かに結構古いね」

イオリ「『旧』校舎だもの、古いのは当然よ」

ヒビキ「ティーチャーリツコが開けてくれてるのは、ここの入口でいいんだよね?」

言いながら、ヒビキは目の前の扉に手をかける。
扉は抵抗なく動き、珍しい客人を誘うように内側に開いた。

先頭のヒビキの後ろから他の者も中を覗き込む。
そこから見える廊下は、入口と窓から差し込む陽光により明るく照らされ、
古びた雰囲気はあるものの陰鬱さなどは感じさせない。
壁や床、天井にも破損などは見られず、
想像していたよりも危険な場所ではなさそうだ、
というのが大半の者の抱いた感想であった。

そしてその感想に素直に従い、ヒビキは物怖じすることなくスッと中に数歩踏み入った。
僅かに床板の軋む音がしたが、やはり問題はないようだ。

ヒビキ「うん、しっかりしてるぞ。どこも崩れそうな感じもないし」

アズサ「まぁ~。だったら安心ね、良かったわ~」

ヤヨイ「もし床がボロボロだったら、ずっと飛んでなきゃいけなかったんですよね?
    そこまではしなくても良さそうかも!」

イオリ「でも一応気を付けるのよ? 危なそうなところはちゃんと飛んで移動しましょう」

しばらく廊下を進んでいくと、ふと壁が途切れる空間があった。
少し近付けば、その空間の正体が
上階と地下へ続く階段であることがすぐにわかった。
普段使っている校舎とは違う石造りの螺旋階段は、
彼女たちの目には素晴らしく新鮮なものに映った。

マコト「地下はダメなんだよね? よーし、じゃあ上の階から行ってみよう!」

ユキホ「あっ、ま、待ってマコトちゃ~ん!」

非日常感の溢れるこの空間に冒険心をくすぐられたのだろう、
マコトが先陣を切って上階にのぼっていき、
そのあとを慌ててユキホが付いていく。
階段は地下へも続いていたが、リツコに立ち入りを禁じられていることもあり、
もはやマコトの頭は上階への興味でいっぱいのようだった。
ただそれは、他の大半の者についても同様だったらしい。

ヒビキ「マコト、テンション上がってるなぁ~。まあ私も気持ちはわかるけど!
   ほらみんなも行こうよ! 置いてっちゃうぞ!」

イオリ「まったく、子供なんだから……」

ヤヨイ「えへへっ、でも私もちょっとわくわくしてるかも!」

ヒビキやヤヨイだけではない、呆れたようにため息をつくイオリも、
その表情は興味深さに緩んでいる。

アズサ「うふふっ……。さ、私たちも行きましょう、チハヤちゃん」

振り向いて言うアズサに、はい、と短く返事をして、
チハヤもアズサとともに上階へ続く階段へ向かう。
と、一段目を踏む前にチハヤの足が止まった。

チハヤ「……」

その視線は上階ではなく、地下の方へ向いていた。
それは音であったか、それとも気配のようなものであったか。
あるいはもっと漠然とした予感めいたものか……。
はっきりとは分からないが、正体の分からない『何か』が、チハヤの足を止めた。
しかし、

アズサ「あらあら、ダメよ~チハヤちゃん。
    ティーチャーリツコも仰ってた通り、地下は危ないわ~」

チハヤ「……そうですね、すみません」

あまりに曖昧なそれを『気のせい』だと断ずるのに、
時間も躊躇も特に必要とはしなかった。




イオリ「流石にちょっと埃っぽいわね……。病気になったりしないかしら」

ヒビキ「あははっ、イオリってばこのくらいで病気になるくらいひ弱なのか?」

イオリ「う……うるさいわね、ものの喩えよ」

マコト「でもやっぱり、どれも年季が入ってる本ばっかりだね。
   難しそうな本もいっぱいあるし、確かに勉強になりそうな感じはするよ」

ヤヨイ「念動力の本もたくさんありますね! どれを読むか迷っちゃうかも!」

イオリ「ヤヨイはまずはお目当ての本を探しなさい。他の本はそれからでいいでしょ」

ヤヨイ「えへへっ、はーい!」

元気に手を挙げて返事をし、ヤヨイは別の書架の方へと歩いて行った。
イオリは腰に手を当ててその背中へと穏やかな笑みを向けていたが、
そんなイオリの背後からふいに声がかけられた。

チハヤ「あの、少しいいかしら」

イオリ「! チハヤ、どうかしたの?」

チハヤ「そろそろ新校舎へ戻るわ。一応、言った方がいいと思って」

イオリ「あら、もういいの? まだ来たばっかりじゃない」

チハヤ「大丈夫。読みたい本は見つけられたから」

そう言ったチハヤの手には、確かに本が数冊見られた。
いつの間に、とイオリは思ったが、
本人が目的を達成したというのなら敢えて引き止める理由もない。

イオリ「そう、わかったわ。それじゃあまた後でね。アズサも一緒に戻るの?」

チハヤ「え?」

イオリの言葉と目線に、チハヤは意表を突かれたような様子で振り向く。
するとそこには言葉通り、アズサが立っていた。

アズサ「そうね、私も一足先に戻ってるわ。
    チハヤちゃんと一緒に待ってるわね~。他のみんなにもそう伝えておいてね」

イオリ「ええ。じゃあアズサも、また後で」

アズサ「また後で~。それじゃあチハヤちゃん、戻りましょうか」

チハヤ「あ、はい……」

イオリに向けてにこやかに手を振った後、
アズサはチハヤの隣に並んで歩き始めた。
対するチハヤはと言うと、少し戸惑うような表情を浮かべる。
と、去って行く二人の様子を眺めるイオリの横の書架から
マコトがひょいと顔を覗かせた。

マコト「あれっ? チハヤとアズサさん、帰っちゃったの?」

イオリ「ええ、もう用事は済んだからって」

マコト「そっか。それにしても、あの二人仲いいよね!
   結構いつも一緒に居る気がするよ」

イオリ「っていうか、アズサがチハヤのことを気に入ってるみたいだけど」

マコト「あはは、そうかもね。でもそれはイオリも一緒でしょ?」

イオリ「は……?」

マコト「だって、時々チハヤのこと遠くから見てるじゃないか。
   ライバル心だってボク達の時以上みたいだし」

イオリ「な、なんでそれがチハヤを気に入ってることになるのよ!
   転校生に負けたくないって思うのは当然でしょ!」

ヒビキ「なになに、何の話?」

ヤヨイ「どうかしたんですかー?」

イオリ「な、なんでもないわよ!
   それよりこの部屋はもういいわよね! 次の部屋に行きましょう!」

騒ぎを聞きつけてヒビキとヤヨイが集まってきたのを見て、
イオリは強引に話を切り替えて逃げるように部屋を出て行った。
ヒビキ達は不思議そうな表情を浮かべつつもそのあとを付いていく。
残されたマコトは苦笑いを浮かべた後、後ろを振り返り、
いくつか並ぶ書架の向こう側に居るであろうユキホに声をかけた。

マコト「おーいユキホー。次の部屋に行くよー」

……だが、返事がない。
マコトは首を傾げ、

マコト「ユキホってばー。おーい」

もう一度呼んでみたが、やはり何も返っては来ない。
怪訝な表情を浮かべ、マコトは部屋の奥へと向かいながら、
また何度かユキホの名を呼ぶ。
しかし、部屋の隅まで歩いてみたが、ユキホの姿はどこにもなかった。

マコト「ま……待って、みんな!」

その声に、次の部屋に入ろうとしていた一同は足を止める。
慌てた様子のマコトに、イオリはドアノブにかけていた手を離して振り返った。

イオリ「何よマコト、そんなに慌てて」

マコト「ユキホが居ないんだ。誰か、どこに行ったか知らない?」

ヒビキ「? いや、知らないけど……。先に別の部屋に行っちゃったんじゃないか?」

ヤヨイ「でも、ちょっと珍しいですね。
   ユキホさんが何も言わずにマコトさんの近くから居なくなるなんて」

マコト「珍しいどころか、こんなの多分初めてだよ……。
   あ……も、もしかして、何かあったのかも知れない!」

ヤヨイ「えっ? 何かって……」

マコト「ティーチャーリツコが言ってたみたいに壁や天井が崩れたり、床が抜け落ちたり……
   それで怪我をして動けなくなってるのかも……!」

ヒビキ「ええっ!? そ、そんなまさか……」

イオリ「もしそうだとしたらそれなりの音がしてるはずだと思うけど……
   でも、無いとも言い切れないわね」

ヤヨイ「た、大変です! 早く助けなきゃ!」

ヒビキ「そ、そっか、そうだよね……。
   よし、手分けしてユキホを探そう。私は一階に行ってみるよ」

マコト「じゃあボクもそっちに行こう! イオリとヤヨイは上から探してみてくれ!」

イオリ「わかったわ。行くわよ、ヤヨイ」

ヤヨイ「う、うん!」

そうして四人は二手に別れてユキホの搜索に向かった。
居なくなったのが他の誰かであれば、彼女たちもここまですることはなかっただろう。

だが、ユキホが何も告げずにマコトの傍を離れたことなど、少なくとも記憶にはない。
離れたとしても互いに存在を確認できる距離まで。
ここ数年、常にマコトの隣に居て、
用事があって離れる時には必ず一言告げる、それがユキホという少女であった。
そのユキホがいつの間にか居なくなっていたということは、
マコトにとってはある種、異常事態であった。

きっと何かあったに違いない、事故だろうか、事件だろうか、それとも他の――
階段を駆け下りるマコトの頭でどんどん不安が大きくなっていく。
……が、その不安はそれ以上大きくなることはなかった。

マコト「! ユキホ!」

一階に降りて廊下へ目をやった瞬間に、マコトは叫んだ。
後続していたヒビキもそれを確認する。
確かにユキホが居た。
廊下を少し進んだところ、扉の前に佇んでいる。

ヒビキ「なんだ、やっぱり一階に居たのか……。
   おーい、イオリ、ヤヨイー! ユキホ、こっちに居たぞー!」

階段を振り返り、上階へ向けて叫ぶヒビキ。
マコトはそんなヒビキを尻目に、
扉に向いて立ったままのユキホに声をかけた。

マコト「良かった……心配したんだよユキホ。急に居なくなっちゃって、何かあったの?」

ユキホ「……あ、マコトちゃん? どうしたの、そんなに慌てて」

マコト「え? ど、どうしたのじゃないよ!
   いつの間にかユキホが居なくなったから、心配して探しに来たんじゃないか!」

ユキホ「あ……そ、そっか、そうだよね。ごめんね、何も言わずに……。
   あれっ? でもなんで、私こんなところに……」

ヤヨイ「ユキホさん! 怪我はないですか!」

ユキホ「ヤヨイちゃん……。うん、大丈夫だよ」

イオリ「何よ、あっさり見つかったじゃない。心配して損したわ」

ユキホ「えへへ……ごめんねイオリちゃん。心配してくれてありがとう」

イオリ「べ……別にお礼なんていらないわよ」

素直に礼を言われて面映さを感じたか、ぷいと顔を逸らすイオリ。
だがすぐに表情を改め、ユキホの顔に指を突きつける。

イオリ「いい? もう勝手に居なくなるんじゃないわよ。
   万が一のことがあったら、
   またティーチャーリツコに立ち入り禁止にされちゃうかも知れないんだから」

ユキホ「う……そ、そっか、そうだよね。ごめんなさいぃ……」

叱られてしゅんと落ち込むユキホを見て、
イオリは両手を腰に当て軽く息を吐いた後、表情を和らげた。

イオリ「ま、分かればいいわ。次から気を付けなさい。
   それより続きを始めましょう」

そこで言葉を区切り、イオリはすぐ横の扉に目を向ける。

イオリ「ユキホ、あなたはこの部屋を探してたの? 中に本はあった?」

ユキホ「えっ? えっと……どうだったかな……」

マコト「……? 今から入ろうとしてたところじゃないの?
   ボクたちが来たとき、ドアをじっと見てたよね?」

ユキホ「あ、えっと、うん、そうだよ。私もまだ中には入ってないの」

イオリ「そう。だったら入ってみましょうか」

言いながらイオリはドアノブに手をかける。
それまでの部屋と同じく鍵はかかっておらず、微かに軋む音がして扉は開いた。
五人は部屋の中に足を踏み入れてきょろきょろと見回し、

ヒビキ「……物置か何か、かな?」

ヤヨイ「うーん……本はなさそうですね」

彼女らの言う通り、そこには本らしきものは見当たらず、
棚にはよく分からない壺や箱などが置かれていた。
それからいくつかの箱を開けてみたが、
空だったり、古びた食器が入ったりしていて、
やはり目当てのアイドルの勉強になるような本は見当たらない。

イオリ「やっぱりただの物置ね。次に行きましょう」

そう言って踵を返して出口へ向かったイオリだったが、
その時不意に、ユキホが声をあげた。

ユキホ「あ……待って、イオリちゃん」

イオリ「? 何、どうかした?」

ユキホ「あれ……」

そう言ってユキホは、振り向いたイオリの後方を指差す。
イオリがそちらに目を向けると、
棚の上、手の届かないところに、木箱がぽつんと置かれてあった。

マコト「どうしたのユキホ、イオリ……って、箱?」

ヒビキ「ん~……? なんでアレ、あんなとこに一つだけあるんだ?」

ユキホとイオリの視線を追って、マコトたちもその箱の存在に気が付く。
そして皆、箱の中身が気になっているようだ。
もしこれが他の物と同じ場所に並んでいたなら無視していたかもしれない。
だがこうして一つだけ離れて手の届かぬところに置かれ、
一度注目してしまうと、どうしても中身が気になってしまう。

イオリ「ま、どうせ大したものは入ってないでしょうけど……」

保険を掛けるように言って、イオリは箱に指を向ける。
すると箱はふわりと浮き上がり、足元まで静かに移動した。

イオリは蓋に指をかけ、あとの四人も中身を見ようと後ろから覗き込む。
そうして蓋が取り払われた先に現れたのは、少女らの予測を外すものだった。

イオリ「……鍵?」

マコト「それになんだろう、この紙……」

ヒビキ「っていうか、なんでこんなに鎖で縛られてるんだ?」

ヤヨイ「きっとすごく大切な鍵なんですよ! もしかして、宝箱の鍵だったりするのかも!」

ユキホ「じゃあ、この紙に書かれてるのは何かの暗号……?」

彼女らの目に真っ先に映ったのは、
少女を象ったような可愛らしい装飾の目立つ鍵。
だがどういうわけかその鍵は、鎖で幾重にも縛られている。
赤い布で覆われた分厚い板が箱の底面に敷かれ、
鍵はその板に鎖で縛り付けられているようだった。

またその鍵と共にあった紙片も目を引いた。
三角形と四角形を組み合わせたような見たことのない記号の描かれたその紙片は、
ところどころ焦げたように茶色に変色している。

イオリ「この記号、誰か見たことある?」

イオリは紙片を摘み、すぐ後ろに居たマコトに手渡す。
マコトは首を傾げ、他の者の反応も似たようなものだった。
次いでイオリは鍵だけ鎖から外そうとしてみたが、
かなり厳重に縛り付けられているようで、
結局鎖の巻かれた板ごと箱から取り出した。

イオリ「ん、結構重いわね……。どこかから解けないかしら」

言いながら鎖をいじるイオリであったが、
そうするうちに、金属の擦れ合う音と共に鎖の戒めは解けた。
同時に鍵が床に落ち、イオリは屈んでそれを拾う。
とその時、ヤヨイが小さく声を上げた。

ヤヨイ「あれっ? イオリちゃん、それってもしかして、本……?」

イオリ「え?」

ヤヨイが指さしたのは、鍵が縛り付けられていた分厚い板。
それを包んでいた赤い布が鎖の戒めが解けたことでめくれ、
隠れていた部分が一部露出している。
鍵を片手にイオリが布をすべて取り払うと、
分厚い板だと思っていたものはヤヨイの言う通り、本であった。

ヒビキ「『眠り姫』……。小説か何かかな?」

表紙に印字してあったタイトルと思しき文字を読み上げるヒビキ。
そしてイオリの手から本を受け取ってぱらぱらとめくって目を通し、

ヒビキ「うん……よくあるおとぎ話って感じだ。
   でもなんでこの本と鍵が一緒に縛られてたんだろう?」

そう言って不思議そうに首を傾げる。
次いでマコトが、ちょっと貸して、とヒビキの手から本を受け取り、
隣のユキホと共に中に目を通す。
そんなマコトたちを尻目に、
イオリとヒビキとヤヨイは今度は鍵を注視した。

イオリ「どう考えたって普通の鍵じゃないわよね。
   鎖で縛られてる鍵なんて聞いたことないもの」

ヤヨイ「だよね? やっぱり、すっごく大事な鍵じゃないかなーって」

ヒビキ「でも大事っていうんならなんでこんなところに置きっぱなしになってるんだ?
   それにさっきの縛られ方、大事なものって言うより、
   『危ないもの』って感じがするような……」

イオリ「危ないって、鍵がどう危ないって言うのよ」

ヤヨイ「うーん……爆弾が置いてある部屋の鍵とか……?」

イオリ「それこそ大事なものじゃない?
   だったら逆にしっかり管理しておきそうなものだけど」

などと色々推測で話をするイオリたち。
だがその時、

マコト「もしかして、『眠り姫』が居る部屋の鍵……ってことじゃないかな」

本を見ていたマコトが、呟くように言った。

今日はこのくらいにしておきます。
続きは多分金曜の夜くらいに投下します。




桜の木の下で、チハヤは分厚い本にじっと目を落とす。
最後のページを眺めながら、昨日の――
皆で旧校舎に行ったあとの出来事を回想していた。

アズサと共に一足先に戻ってからは、
特に何もなく二人でただ読書をして皆の帰りを待った。
それから帰ってきたイオリたちに渡されたのが、この分厚い本だ。
話によるとこの本は何かの鍵と共に鎖で縛られていたらしく、
その理由が彼女らは気になっているようだった。

そしてなぜその本が今チハヤの手にあるのかと言えば、
ヒビキの言い出した「よく読書をしているから」という理由により、謎の解明を一任されたのだ。
どうもその場に居た皆はまったくのお手上げだったようで、
普段なら呆れ顔の一つでも浮かべるであろうイオリでさえ、
妥当性のないヒビキの提案に賛成して本をチハヤに託したのであった。
あるいは、イオリにとってはさほど重要なことではなかっただけかも知れない。

そんな、昨日の出来事を振り返り、
チハヤは本に向けてため息を吐くのだった。

と、チハヤの背後からいつものように唐突に声が聞こえる。

ハルカ「『それは、開けてはいけない秘密の扉 起こすと怖い――眠り姫』……」

開いていたページの最後の一節を読み上げたその声。
振り向くと、ハルカが膝に両手をついて本を覗き込むようにして見ていた。
その後チハヤが何か反応を返す前に、やはりいつも通り隣に腰を下ろす。
そしてチハヤの腿のすぐ横に片手を付いて身を乗り出し、
もう片方の手で髪をかきあげながら再び本を覗き込んだ。

ハルカ「なんだか怖いね。どうしたの、この本」

チハヤ「……昨日、旧校舎から見つけてきた子が居て。少し貸してもらってるの」

ハルカ「へー。意外だね、チハヤちゃんこういうのも好きなんだ」

本を覗き込む姿勢そのままから顔だけ傾け、ハルカは上目遣いにチハヤを見て言った。
思わぬ近距離からの視線にチハヤは思わず目を逸らす。

チハヤ「いえ、そういうわけでは、ないのだけれど……」

そうしてチハヤはことの経緯を話し始めた。
鎖の話や鍵の話を、すべて。
ハルカもきちんと座り直してチハヤの話を聞いた。

チハヤ「……本当に、おかしな話よね。
    『たくさん本を読んでるから』なんて理由で、分かるはずはないのに……」

謎に満ちた話はきっとハルカの興味をくすぐるだろう。
おかしな理由から自分に本を預けた皆を、
ハルカは微笑ましく思って笑顔を浮かべるだろう。
そう思い、チハヤは話し終えると同時にハルカに目を向けた。
だがそこにあったのは、
眉をひそめて視線を落とす、それまで見たことのないハルカの横顔だった。

チハヤ「……ハルカ?」

ハルカ「ねえ、チハヤちゃん。その本、もう読んでみた? どんなお話だったの?」

チハヤ「? えっと、主人公は私たちくらいの女の子で――」

チハヤの語り始めた物語のあらすじを、ハルカは真剣な表情で聞く。
それからチハヤはハルカの様子に少しだけ戸惑いながらも話し続け、

チハヤ「――それで、ここでおしまい。『起こすと怖い 眠り姫』。
    中途半端な終わり方に思えるけれど、落丁なんかではなさそうね」

ハルカ「そっか……ここで、おしまいなんだね」

チハヤ「でもハルカ、どうして急にあらすじを教えてだなんて……。
    もしかして、何か分かったの?」

ハルカ「……ううん、何も! 頑張って考えてみたけど、
    やっぱり全然わからないね……えへへ」

そう言って笑い、頭をかくハルカ。
その顔は、チハヤの知る彼女の表情に戻っていた。
先ほどまでの固い表情は、この本と鍵について考えていたのが理由だったらしい。
そう納得したチハヤは安堵したように浅く息を吐いた。

チハヤ「鍵は、物語に出てくる『眠り姫』が眠っている部屋の扉の鍵。
    鎖で縛られていたのは、誰も眠り姫を起こしてしまわないように……。
    そういうことじゃないかって、みんなは言っていたわ」

チハヤ「でも流石にそれは非現実的すぎるわよね……。
    まあ、みんなも本気で信じているわけではなさそうだったけれど」

ハルカ「だよね。『眠り姫』はただのお話だもんね」

チハヤ「けれど、もしかしたらこの物語は何かの暗喩なのかも知れないわ。
    実際の出来事をこんな風に物語として表現しているという可能性も……」

と、チハヤの言葉を遠くの鐘の音が遮った。
休み時間の終わりを告げる鐘だ。
チハヤは本を片手に立ち上がり、少し遅れてハルカも腰を上げた。

チハヤ「もう行くわね。ごめんなさい、よく分からない話をしてしまって」

ハルカ「ううん。じゃあまたね、チハヤちゃん」

優しい笑顔で手を振るハルカに、
チハヤも小さく手を振り返して桜のもとを去った。
ハルカはその背が見えなくなるまで見送った後、振り返って桜を見上げる。
数歩歩き、幹にそっと手を触れた。
そして額を寄せ、

ハルカ「……そう、だよね。ごめん……ごめんね。でも――」

呟いたハルカの言葉は、風に揺れる枝葉の音にかき消された。
同時に桜吹雪が舞い、風が収まった頃には、
彼女の姿も一本桜のもとから消えていた。




――始まりは、いつからだったのだろう。
イオリたちが鍵を見つけた時?
学園からアイドルが選ばれると発表された時?
チハヤが学園に転校してきた時?
それとも、もっと以前から……?

アイドルを目指し、互いに競い合いながらも仲睦まじく、
切磋琢磨してきた少女たち。
そんな彼女らを、厳しさと愛情を持って指導し見守ってきた教師。

長い者には十年以上にもなる、学園での日常。
その日常がある者にとっては急激に、
ある者にとっては緩やかに、
しかし確実に、変わり始めていた。

マコト「――キホ。ねえ、ユキホ」

名前を呼ばれるも、席に座り正面を見つめたままで一切の反応を返さない。
虚ろな瞳はぼんやりと前方の風景を反射し続けるのみ。

マコト「ユキホ、ユキホってば!」

ユキホ「……? あっ、マコトちゃん。どうしたの?」

肩を揺さぶられ、ようやくユキホの瞳に光が戻った。
きょとんとした顔で既に立ち上がっているマコトを見上げる。
そんなユキホを見て、マコトは腰に拳をあてて呆れたように言った。

マコト「『どうしたの?』じゃないよ! さっきから何回も呼んでるじゃないか」

ユキホ「え? ほ、本当?
    あっ、もう次の授業に行かなきゃいけないんだよね! すぐ準備するから!」

ユキホは慌てて机の上にあった荷物を片付けて立ち上がる。
準備が整ったのを見てマコトは浅く息を吐き、歩き出した。

マコト「なんか、最近こういうの多くない? 夜はちゃんと眠れてる?」

ユキホ「えっ? うん、眠れてると思うけど……どうして?」

マコト「いや、どうしてって……。体調は? 見た感じだと、熱はなさそうだけど」

と、マコトは立ち止まってユキホの前髪をかきあげて額に手を当てる。
一瞬意表をつかれたように目を見開いたユキホだが、
すぐに照れくさそうに笑って、

ユキホ「えへへっ……やだなぁ、マコトちゃんどうしたの?
    私は別に、なんともないよ?」

触れた感覚でも高熱は感じられなかったのだろう、
マコトはユキホの額から手を離し、前髪を軽く整えてから言った。

マコト「いや……なんだか最近のユキホ、ぼーっとすることが多いと思って」

ユキホ「? そうかなぁ?」

マコト「……ううん、なんともないんならいいんだ。さ、行こう」

首をかしげるユキホを尻目にマコトは笑顔で話を切り上げ、
正面を向いて再び歩き始めた。

さて、この話題が終わったのならいつもの他愛ない話をしよう。
そう言えば今朝のスープは随分熱くて、
火傷しかけた舌を冷ますように口から出していたユキホが面白かったな……
などと考え、思い出し笑いをこらえながらマコトは口を開こうとした。
だがその直前。

ユキホ「マコトちゃん」

先にユキホが口を開いた。
目を向けると、ユキホはマコトとは反対側へ顔を向け、
どこか遠くの方を見ているようだった。

ユキホ「私たちの中から、アイドルが選ばれるんだよね」

マコト「? うん、そうだね。あれからもう何日か経ったし、
   早ければそろそろ決まったりもするんじゃないかな?」

このことについて何か不安や気になることでもあるのだろうか。
変わらずユキホは向こう側を向いたままで、その表情はよく見えない。
マコトはユキホの言葉を待った。
と、数秒の沈黙を経て、ユキホは呟くように言った。

ユキホ「『お姉さま』も、一緒に居られれば良かったのにね」

マコト「ああ……うん、そうだね。でも仕方ないよ」

ユキホ「どうしてお姉さまは、転校なんてしちゃったんだろう?
    私、お姉さまのこと大好きだったのにな」

マコト「ユキホ……。どうしたの、急に」

ユキホ「……」

ユキホは答えない。
やはりその表情は見えず、妙な沈黙が二人を包む。
しかしマコトが改めて呼びかけようとしたのと同時、

ユキホ「そう言えばマコトちゃん、
    この前ティーチャーリツコにお願いしてたお茶っ葉、明日届くみたいなの!」

マコト「えっ?」

勢いよくマコトの方を向いたユキホの口から出た言葉は、
まったく脈絡のない話題だった。

ユキホ「届いたらマコトちゃんに一番に淹れてあげるね! えへへ、楽しみだなぁ」

マコト「あ、うん、ありがとう……?」

ユキホ「? マコトちゃん、どうかしたの? もしかして、あんまり嬉しくない……?」

マコト「え? い、いやそんなことないよ!
   そっか、もう届くんだね。飲めるの楽しみにしてるよ、ありがとうユキホ!」

慌てて取り繕ったマコトだったが、ユキホは嬉しそうに頬を赤らめて笑った。
その顔は、何もおかしなところはないいつものユキホであった。
だが、その直前のユキホの様子は明らかに何かがおかしく、
笑顔で受け答えするマコトの心の隅に、疑問は残り続けた。

ここしばらく、『彼女』の話題は出していなかったはずだ。
なのになぜ今になって突然ユキホは、あの人の話をし始めたのだろう。

――月明かりがカーテンの隙間から差し込み、
ずらりと並ぶベッドの一部と床を僅かに照らす。
聞こえるのは寝息と、秒針が時を刻む音だけ。
そんな中に、衣擦れの音と微かにベッドが軋む音が割り込んだ。

寝返りではない。
次いで足音が聞こえる。
誰かがベッドから降りたのだ。

それはユキホだった。
素足のままペタペタと床を歩き、寝室の扉へと手をかけ、出て行った。

一部始終を、マコトは聞いていた。
ユキホに背を向けたまま薄く開かれていた瞳に映るものは何であろうか。
奥底でじわりと疼き始めた不穏な感情をしまい込むように、
マコトは静かに瞳を閉じた。




アミ「――それで、どうなったの?」

  「旧校舎のその桜の下には女の子が眠っていて、
  何年も何年も、そこの扉が開くのを待っているのです。何年も、何年も……」

マミ「可哀想……」

大きなベッドの上で、
今日も双子は銀髪の少女の両腕に抱きついて読み聞かせを聞いている。

アミ「誰も女の子を起こしてあげないの?」

アミはそう言って顔を上げ、
マミもまた同じように銀髪の少女の目を悲しげに見つめる。
そんな双子に少女は微笑み、本を閉じて頭をそっと抱き寄せた。

   「アミとマミはとても優しい子ですね」

一言そう言って、少女は体を起こす。
そして二人の頭を二、三度撫でた。

   「本日はここまでにしましょう。続きはまた明日」

ベッドから降りる少女を、アミとマミは座ったまま目で追う。
少女の両足が床につき扉の前に立つ頃には既に、着替えは完了していた。
彼女のまとっている服は、学園の制服。
その背に向けて、アミとマミはにこやかに笑って、声を揃えて言った。

アミマミ「いってらっしゃい、お母様」

   「ええ、行ってきます」

少女も優しい微笑みを返して扉に手をかけ、薄暗い廊下へと出て行った。

今日はこのくらいにしておきます。
続きは多分日曜の夜に投下します。




暖かい日の差し込む窓際。
部屋の中は静かで、遠くからは大きな音や少女の掛け声が聞こえる。
そんな教室に今、マコトとアズサは二人きりで立っていた。

マコト「ごめんなさい、急に相談したいなんて言って。
   でもやっぱり頼るなら一番年上のアズサさんかなって思って……」

アズサ「あらあら、いいのよ~。頼ってもらえるのは私も嬉しいから」

今は自由時間。
他の皆は自主訓練をしたり読書をしたり各々の時間を過ごしており、
この教室には二人の他には誰も居ない。
そんな中、深刻そうなマコトの表情と気持ちを少しでも和らげるためか、
アズサはいつにも増して柔らかい笑顔を浮かべて答えた。
その甲斐あってかマコトも微かに笑みをこぼす。

マコト「はい……ありがとうございます」

アズサ「それで、どうしたの? もしかしてユキホちゃんのことで何かあった?」

マコト「……やっぱりアズサさんには分かっちゃうんですね、流石です」

アズサ「そんな、大したことじゃないのよ~?
    もしユキホちゃんに関係ない相談事だったら、
    今もきっと一緒に居るだろうなって思っただけだから」

マコト「あはは、そうかも知れないですね」

アズサ「ユキホちゃんと喧嘩しちゃった、っていうわけじゃないのよね?
    さっきも楽しそうにお喋りしてたし」

マコト「はい、喧嘩はしてません。ただその……最近、ユキホが変なんです」

アズサ「変? って……どんな風に?」

辛うじて浮かんでいた笑みは既にマコトの顔から消えている。
目を伏せて少し黙り込んだ後、マコトは言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開いた。

マコト「初めは、最近よくボーッとすることが多いな……ていうくらいでした。
   でもそれが少し前からだんだん酷くなってきて……。
   うわごとみたいに、それまで話してたのとは全然関係ないことを話し出したり、
   かと思えば急に元の話題に戻ったり……。
   それから、なぜか最近、夜中に起きて寝室を出て行くことが多いみたいで……」

アズサ「夜中に……? そのこと、ユキホちゃんに聞いてみたりはした?」

マコト「一度、さり気なく聞いてみました。夜はちゃんと眠れてるか、って。
   でもその時は、眠れてるって言ったんです」

アズサ「そう……。ちなみにユキホちゃんの様子が変わり始めたはいつ頃から?」

マコト「多分……みんなで旧校舎に行った時からです。
   あの旧校舎の中でユキホは急に居なくなって……
   すぐに見つかりはしたんですけど、その時からもうどこか変でした」

アズサ「え? 急に居なくなった? そうだったの?」

自分たちが去ったあとにそんなことがあったのか、
とアズサは目を丸くする。
そんなアズサを尻目に、マコトはそのまま続けた。

マコト「だから多分、あの時に何か……頭を打ったとか、
   やっぱりそういうことがあったんじゃないか、って……。
   そう思ってティーチャーリツコに診てもらったんですけど、
   特にそんな異常は見つからなくて……」

マコト「ボク、すごく心配で……。
   でもユキホに聞いてもなんともないって言われるばっかりで、
   だからそれ以上聞くこともできなくて、ボク……!」

アズサ「マコトちゃん……」

話すうちに不安が増してきたのか、
いつからかマコトの声は震え始め、目には涙さえ滲みかけていた。
そんなマコトをアズサはそっと抱き寄せる。
マコトは、背と頭に優しく触れる手の暖かさに身を委ねるように目を閉じた。

マコト「それともボク……ユキホに、何かしちゃったんでしょうか。
   色々考えちゃうんです。もしかして、ボクと話をしたくないから
   関係ない話を始めるんじゃないか、とか。
   夜中に起きてることを言わないのも、
   ボクのことが嫌いだから隠してるんじゃないか、とか……」

アズサ「そんなことないわ……。
    ユキホちゃんがマコトちゃんのことを嫌いになるなんてあるはずないもの」

マコトの頭を撫でながら言うアズサの声も浮かべた笑顔もとても穏やかで、
単なる慰めではなくアズサ自身心からそう思っていることは伺える。

だが、不安を吐き出したいという思いから続けて発されたマコトの言葉は、
そんなアズサの表情を初めて崩させた。

マコト「でも、ユキホがいきなり話し出すことって……
   そのほとんどが、タカネのことなんです」

アズサ「……え……?」

優しく薄く開かれていたアズサの瞳がこの瞬間、大きく見開かれた。
しかし抱きついているマコトはそのことに気付かず、話し続ける。

マコト「ユキホはタカネのことを、すごく慕ってましたよね。
   でもチハヤが転校してきた頃には
   もうほとんどタカネの話をすることはなくなってたのに、最近また話すようになって……。
   ボクのことが嫌いになったから、
   昔好きだったタカネのことが懐かしくなってるんじゃないかって、
   そんな風に思っちゃうんです……」

マコトの話を聞きながら、見開かれたアズサの瞳はどこともない宙を凝視し続けている。
だがふと我に返ったように、再び微笑みを浮かべて、

アズサ「マコトちゃんったら、考えすぎよ。
    きっとたまたま昔のことを夢に見たりして、
    それでちょっとタカネちゃんのことが懐かしくなっちゃってるのよ」

アズサ「さっきも言ったけれど、ユキホちゃんがあなたのことを
    嫌いになるなんてこと、あるはずがないわ」

穏やかながらもはっきりとそう言い切ったアズサの言葉。
その言葉は、マコトの中で必要以上に大きくなっていた不安を少なからず取り払った。
マコトはそれ以上何も言わず、
礼の代わりのようにきゅっとアズサの体を強く抱き返した。
アズサはマコトが僅かでも安堵してくれたことを体で感じ、

アズサ「……時々ぼーっとしたり夜中に起きたりっていうのも、
   心がちょっと疲れちゃってるからだと思うわ。
   マコトちゃんが一緒に居てあげたら、きっと良くなるから心配しないで。ね?」

マコト「アズサさん……」

マコトは抱きついたまま、涙目でアズサを見上げる。
普段のマコトの中性的で凛々しく端正な顔立ちは影を潜め、
近い距離からアズサを見つめるその瞳は不安と安堵に揺れるか弱い少女のそれであった。
そしてアズサがマコトに向けて優しく微笑んだ――その時。

ユキホ「……マコトちゃん、アズサさん?」

教室の入口から聞こえたその声に、
二人はハッとして顔を向け、同時にマコトは慌ててアズサから離れる。
そこには、僅かに眉根を寄せたユキホが立っていた。

マコト「ど、どうしたの、ユキホ。ヒビキたちと能力の特訓をしてたんじゃ……」

ぐいと袖で目元を拭い、マコトは笑顔を作ってユキホに問う。
ユキホは入口に立ったまま答えた。

ユキホ「……マコトちゃんが一緒の方が練習になるからって、ヒビキちゃんが……。
   だから探しに来たの……」

マコト「そ、そっか! あはは、びっくりしたよ!
   いやあ、恥ずかしいところ見られちゃったなあ。
   さっきボクの目にゴミが入っちゃってさ、それをアズサさんに取ってもらってたんだ!
   アズサさん、ありがとうございました! もう大丈夫です!
   それじゃ、ユキホとヒビキが呼んでるみたいだから行ってきますね!」

アズサ「……ええ、行ってらっしゃい。練習、頑張ってね~」

マコト「はい! さ、行こうユキホ!」

そうしてマコトはユキホに二の句を継がせない勢いで足早に部屋をあとにし、
ユキホも小さく返事をしてその後を付いていった。

ユキホ「……ねぇ、マコトちゃん」

マコト「何、ユキホ?」

廊下を歩きながら、ユキホは斜め前をやはり早足気味で歩くマコトに声をかける。
マコトは歩く速さはそのままに、笑顔で振り向いた。
ユキホはほんの一瞬その笑顔から目を逸らした後、
改めて笑顔を作って、言った。

ユキホ「目、もう大丈夫?」

マコト「目? ああ、ゴミのこと? うん、もう平気だよ!
   もしかしたら前髪が入っただけかもしれないし!」

ユキホ「……そっか」

マコト「そう言えば髪も結構伸びてきたから、そろそろ切った方がいいかもなぁ。
   また時間がある時によろしくね!」

うん、とただ一言、ユキホは笑顔でそう返した。

マコト「それよりユキホ、今ヒビキはどこに居るの?
    ヒビキもボクのこと探してるんだっけ?」

ユキホ「ううん、イオリちゃんとヤヨイちゃんと一緒に練習してるはずだよ。
    マコトちゃんのことは私が探すからって、そう言ってきたから」

そうして話題は切り替わり、二人とも今の時間、今の出来事は頭の片隅に追いやった。
追いやったからと言って消えることはないと、知っていながら。




ユキホがマコトを探しに行ったあと、
ユキホの言っていた通り、ヒビキはイオリ、ヤヨイと共に能力の訓練を続けていた。

あの日――学園の中からアイドルが選ばれるかも知れないと
発表された日から数日の時が経過し、皆の熱意はより熱く燃えていた。
講義は今まで以上に集中して聞き、
こと能力を鍛えるための訓練への気合の入りようは凄まじいものがある。

その気合は本来自由時間であるはずの時間まで自主訓練に費やすほどで、
今はイオリたち三人のみだが、
ここ数日の自由時間はほぼ全員が、広場で汗を流しあっていた。
激しく、ともすれば危険でもある能力訓練ではあるが、
皆よく集中し、瞳を生き生きと輝かせていた。
だがそんな中……肩で息をして苦悶の表情を浮かべているのが、ヤヨイであった。

ヤヨイ「はあ、はあ、はあ……!」

イオリ「……ヤヨイ、少し休憩しなさい。すごい汗よ」

ヤヨイ「だ、大丈、夫! まだ……!」

ヒビキ「いーや、休憩した方がいい! 疲れてどんどん動きが悪くなってきてるぞ。
   これ以上無理して続けてもただ疲れが溜まっちゃうだけだよ」

ヤヨイ「あう……ごめんなさい。それじゃ、ちょっと休んできます。
   できるだけ、すぐ戻りますから……」

肩を落とし、ヤヨイは木陰へと歩いていく。
そして木の根元に座り込んで膝を抱き、訓練を再開した二人の様子を眺めた。
ずっと一緒に訓練をしていたイオリとヒビキであるが、
まったく疲れた様子を見せていない。
ヤヨイは自在に宙を飛び回る二人の姿を見て、
日陰に居るにもかかわらず眩しそうに目を細めた。

リツコ「ヤヨイさん、大丈夫ですか?」

ヤヨイ「! ティーチャーリツコ……」

不意にかけられた声に顔を上げると、
リツコが優しい笑顔でこちらを見下ろしていた。

リツコ「自主訓練は結構ですが、無茶をして体調を崩しては元も子もありませんよ?」

ヤヨイ「はい、ちょっと疲れちゃいましたけど平気です!」

ぐっと両こぶしを握って見せ、健在をアピールするヤヨイ。
リツコは微笑みを崩さぬままヤヨイから視線を外す。
視線の先には、イオリたちの姿があった。
ヤヨイもまたその視線を追うようにイオリたちに目を向ける。

リツコ「どうして自分だけこんなに疲れるのか……その原因は分かりますか?」

次いで聞こえた、穏やかではあるが厳しさも感じるその声。
ヤヨイは身を縮めるように膝を更にきゅっと抱え込んで答えた。

ヤヨイ「……空を飛ぶのが下手っぴだし、
   体の動きにもムダが多いから……だと思います」

リツコ「そうですね。標準的なレベルは超えているとは言え、
   まだアイドルに選ばれるまでには達していません」

ヤヨイ「うぅ……そうですよね。でも私、頑張ります!
   旧校舎で借りた本も、いっぱい読みましたから!」

自分の現状に負けまいとするように、
ヤヨイは下がりかけた視線をぐっと上げ、もう一度遠くのイオリたちを見る。

ヤヨイ「この前もイオリちゃん、褒めてくれたんです!
   だからもっともっと頑張れば、
   私もイオリちゃんたちみたいに上手に動けるようになりますよね?
   そしたら、いつか私もアイドルに」

リツコ「無理だと思います」

ヤヨイ「……え?」

明るい声を遮るように発されたリツコの言葉。
ヤヨイは一瞬言われたことが理解できずに、
笑顔を貼り付けたまま、再びリツコを見上げる。
リツコの顔からは、いつの間にか笑みが消えていた。

リツコ「数年間あなたを教えていて確信しました。
   ヤヨイさんには念動力を今以上のレベルで使いこなすのは不可能です」

ヤヨイ「……で、でも私、成長してるって、ティーチャーリツコも……」

リツコ「確かに、成長はしています。ですが本当に微々たるもの。
   それも年々、成長の速度は落ちています。
   残念ですが、もうこれ以上の成長は望めません」

……ヤヨイの大きく見開かれた目に、じわりと涙がにじんだ。
辛うじて上がっていた口角は下がり、唇は強く引き結ばれる。
足元に視線が落ちる。
もう、イオリたちの姿を見ることなど、できなかった。

こんなに冷たい、突き放すようなリツコの言葉を聞いたことは初めてだった。
だがそれ以上に、自分でも薄々感じていたことを……
それでも認めたくなかった現実を突きつけられたことが、あまりにショックだった。

今回の選考には間に合わないとしても、
でもこのまま頑張ればいつか、苦手な念動力は克服できる。
そうなれば数年後には自分もアイドルに選ばれることだって、きっとある。
そう信じてヤヨイはこれまで懸命に努力してきた。
なのに……言われてしまった。
これ以上の成長は望めないと。
『あなたはアイドルになれない』と、そう宣告されたも同じだ。

ヤヨイは膝に顔をうずめ、嗚咽を漏らし、肩を震わせる。
だがその時、両肩に何かが触れた。

リツコ「泣かないで、ヤヨイさん。
   まだアイドルへの道は閉ざされたわけではありません」

その声は温かく、絶望に染まりかけたヤヨイの心にじわりと染み入った。
ほとんど無意識にヤヨイの顔が上がる。
肩に触れていた手のひらは、首筋から顎を伝い、ヤヨイの両頬に添えられた。

リツコ「ヤヨイさんに念動力が上手く扱えないのは、あなたのせいではありません。
   これは体質……いえ、一種の病気のようなものです」

ヤヨイ「病、気……? 私、病気なんですか……?」

リツコ「そうです。ですが、あなたが望めば治療することができます」

ヤヨイ「っ……!」

 『自分のせいではなく、病気のせいだ』
 『だが、治療することができる』

その言葉はヤヨイにとって紛れもなく、救いであった。
ヤヨイはリツコに抱きつく。
そして涙を流しながら躊躇いなく答えた。

ヤヨイ「治してください……!
   私も、アイドルになりたいんです! だから……!」

リツコ「ええ、もちろんです」

ヤヨイの背に手を回し耳元で囁くようにリツコは言った。
その顔には再び、笑みが浮かんでいた。

今日はこのくらいにしておきます。
続きは多分週末くらいに投下すると思います。




ある者にとっては急激に。
ある者にとっては緩やかに。
変わり始めた日常。
どの日どの時を変化の始まりとするか、それもまた一様ではない。

鎖に縛られた鍵を発見した時か。
アイドルへの最終選考に残ったと知った時か。
チハヤが転校してきた時か。
自分が入学した時か。
それとも――。

いや、変化のきっかけなど、日常の中には無数にあるのだ。
だが彼女らの大半にとって最も大きく、
最もわかりやすい形で現れた変化は……間違いない。
そして唐突にやってきたそれは、事態を急速に進めることとなった。

この日、七人の学生は講義室へと集められた。
黒板にはまだ午前中の講義の板書が残っており、
日常の一コマを残す風景の中にありながら、
しかし少女らは明らかに色めき立っている。

本来なら自由時間となっているはずのこの時間だが、
昼食の終わりにリツコに全員集まるよう言われたのだ。
こんなことは今まで一度だってなかった。
何か重要な話でもあるに違いない。
つまり考えられるとすれば……。

興奮と緊張を隠しきれない様子で会話を交わす少女たちであったが、
前方入口に影が見えた途端一気に静寂する。
いつものように姿勢よく入室してきたリツコであったが、
教室中の視線は彼女の全身から、手元へと移った。
その手にはいつもの教鞭や書物はなく、
ただ一つ、赤い果実が握られていた。

リツコ「皆さん、もう揃っていますね」

その声に一同の視線はリツコの手元から顔へと上がる。
リツコの表情は、やはりいつも通りの微笑みだった。

リツコ「自由時間にこうしてわざわざ集まってもらったのは、他でもありません。
    恐らく皆さんが想像している通り。
    今回の選考で選ばれたアイドルを、発表します」

あまりにいつも通りの調子で、あまりに平然と発されたその言葉。
だがそれは教室を俄かにざわつかせた。
ざわつきを静めるべくリツコは表情はそのままにパンパンと手を打って、

リツコ「では、前へ。横一列に並んでください」

そう指示し、少女らはその通りに動く。
ある者は待ちきれない様子で小走りに、
ある者は高鳴る鼓動を抑えるようにゆっくりと、
教室の前へ横一列に整列する。
全員が出揃ったのを確認し、リツコは皆の正面に立った。

リツコ「これから、儀礼に則ってアイドルの選定を行います。
   皆さん両手を前へ出してください」

そう言ってリツコは両手で受け皿を作るような仕草を見せ、少女らもそれに倣う。
次いで教卓に一時置かれていた果実を再び手に取り、

リツコ「私がこの林檎を皆さんのうちの誰か一人に手渡します。
   その人こそが、アイドルに選ばれた者というわけです。
   では……心の準備はよろしいですか?
   準備が整った人から、目を閉じてください」

これに対する少女らの反応も様々であった。
落ち着いた様子ですぐに目を閉じる者、
深呼吸を繰り返してから目を閉じる者。
しかしそう長い時間を待たず、リツコを除いた全員の瞼が下りる。

目を閉じれば、自分の呼吸音と心音がはっきりと聞こえるような気がする。
そして、リツコの足音。
遠ざかっている? それとも近付いて――

リツコ「おめでとうございます。あなたが、次のアイドルです」

瞬間、全員の瞼が開く。
声のした方へ視線が向く。

チハヤ「え……?」

少女らの目に映ったのは、
唖然とした表情で手元の林檎を見つめる、チハヤの姿であった。

リツコ「これからはアイドルとして、頑張ってくださいね。チハヤさん」

と、数秒後。
ひと時静寂に包まれた教室が、手を打つ音に満たされる。

ヤヨイ「チハヤさん、おめでとうございますー!」

マコト「おめでとう、チハヤ! くーっ、先越されちゃったなぁー!」

ヒビキ「悔しいーっ! 私だってすぐに追いつくからな! でもおめでとう!」

共に学び競い合った友を心から祝う少女たち。
その温かな声と拍手を全身に受け、
チハヤは未だに手元から目を上げることなくじっと佇んでいた。

リツコ「さて、そういうわけでチハヤさんはこの学園を『卒業』することになりますが、
   すぐにというわけではありません。
   色々と準備があるので、出立の日時は十日後の朝となります。
   それまで悔いの残らないように過ごしてくださいね。ではまた後ほど」

そう言い残して、リツコは教室を後にした。
残されたチハヤはやはり顔を伏せたままだったが
他の者たちには感極まっているように見えていたらしく、
特にそのことについて言及する者はなかった。

ヒビキ「チハヤと一緒に居られるのも残り十日かー。
   っと、そうだ! 九日目の夜にはお別れ会をしないと!
   ティーチャーリツコ、何も言ってなかったよね? 私、ちょっと聞いてくるよ!」

アズサ「あ、じゃあ私も行くわ~。待って、ヒビキちゃ~ん」

唐突に思い出したようにリツコを追って教室を飛び出していったヒビキを、
更にアズサが追って行く。
一同はその背を笑顔で見送ったのち、再びチハヤに目を向ける。
チハヤはまだ、その場から動いていなかった。

しかしここで、いつまでも下を向き続けているチハヤを見かねたか、
イオリがチハヤの横に歩み寄った。

イオリ「まったく……。チハヤ、感動するのも分かるけどそろそろ上を向きなさいよね。
   あなたはアイドルに選ばれたんだから、きっちり背筋を伸ばさなきゃ」

チハヤ「……ええ」

一言だけ、ほとんど吐息のような声でチハヤは答える。
そんな二人の様子を見て、今度はマコトが口を開いた。

マコト「チハヤはきっと、まだ心の整理がついてないんだ。
   だから今はそっとしておいてあげようよ。
   お祝いも、チハヤがもう少し落ち着いてからにしよう。ね!」

そうしてマコトは背を向け、
またユキホもチハヤを気にしつつもその後ろへつき、
チハヤから少し距離を置くように教室の後方まで離れた。

ユキホ「……大丈夫かな、チハヤちゃん。なんだか元気がないようにも見えるけど……」

マコト「そんなことないよ。アイドルに選ばれたのに元気がなくなるなんて、
   あるはずないじゃないか。きっと泣くのを我慢してるんだよ」

ユキホ「そう、かな。だったらいいんだけど……」

マコト「それにしても……今回は残念だったね。次の選考はいつになるのかなぁ。
   今度こそ選ばれるように頑張ろうね、ユキホ!」

ユキホ「う、うん! 頑張ろうね」

目指してきた目標に到達できなかったとは言え、
彼女たちのその表情は決して暗くはない。
アイドルに選ばれるということは決して簡単ではないことは重々承知しているし、
寧ろ最終候補まで残ったことにより自信がついた。
落ち込む気持ちよりも、次回への意気込みと友人が選ばれたことへの喜びが優っているのだ。

しかしどういうわけか、そのアイドルに選ばれた本人が、
ユキホの言うとおりに浮かない表情をしている。
すぐ近くでそれを見ているイオリとヤヨイは流石に様子を変に思い、
改めてチハヤに声をかけようとした。
だがその直前、チハヤは脇の机に林檎を置き、踵を返して出口へ向かって歩き出した。

イオリ「ちょっと、チハヤ? これ、持って行きなさいよ」

イオリはすぐに林檎を手に取ってチハヤを呼び止める。
するとチハヤは足を止め、俯き気味に振り向いて呟くように言った。

チハヤ「……いらないわ。欲しければ、あなたが持って帰って」

イオリ「は……? 何言ってるのよ。
   これはあなたがアイドルに選ばれた証でもあるのよ?
   チハヤが自分で持ってるべきものでしょ」

そう言ってイオリは林檎を前に差し出すが、チハヤは黙したまま受け取らない。
イオリはそんなチハヤの態度に業を煮やしたか、僅かに眉根をひそめて言った。

イオリ「……あなたの気持ちも分かるわ。不安なんでしょう?
   自分がアイドルとしてやっていけるのか、って。
   でも、選ばれたのは事実なんだからそれを自覚しなさいよね。
   アイドルはみんなの憧れなの。
   だからチハヤは、これからはちゃんとアイドルとしての責任を――」

チハヤ「やめて」

イオリの言葉を遮って発された短い言葉。
やはり呟くように出たその言葉は、
離れた位置にいるマコトとユキホには届いていないようだった。
しかしその小さな言葉には、
イオリたちの表情を困惑で満たすのに十分な冷たさがあった。

イオリ「な……何? なんで……」

チハヤ「みんなに憧れられるだとか、そんなのは、私は知らない。
    そんなこと、私は望んでない。
    誰かが勝手に決めて、勝手に向けてくる視線に、自覚も、責任も、持ちたくない」

ヤヨイ「チハヤ、さん……?」

目を伏せたままのチハヤの顔に表れた色は、何と表現すればいいだろう。
イオリとヤヨイは彼女の言葉を、ただ戸惑いながら聞くことしかできない。
しかし、去り際に発された次のチハヤの言葉は、
イオリの困惑に別の感情を上塗りさせた。

チハヤ「その林檎も、アイドルの立場も……譲れるのなら譲りたいくらい。
    私は、アイドルになんて、なりたくなかった」

イオリ「ッ……待ちなさいよ!!」

チハヤの背に向けて投げつけられた怒声が教室中に響く。
同時に、これも怒りを表すかのように激しい音を立てて電撃が走り、
イオリの手元から宙に浮いた林檎が無残に四散した。
ユキホとマコトは異変に気付いて目を向け、歩き出したチハヤの足も再び止まる。

イオリ「私は認めない……! あなたがアイドルだなんて!」

チハヤ「……その方がいいわ。言ったでしょう。アイドルになんてなりたくないって」

あまりに突然のことに一瞬何が起きたか理解できなかったマコトたちであったが、
ここでようやく事態が決して軽くないことを認識したようで、
表情が緊迫したものに変わった。

マコト「ちょ……ちょっと、どうしたんだよ二人とも」

ユキホ「も、もしかして喧嘩ですか? ダ、ダメだよそんな、怪我しちゃうよ……!」

座っていたマコトは立ち上がり、
ユキホも少し怯えた表情を浮かべながらも場を執り成そうとする。
だがイオリとチハヤは睨み合ったまま動こうとしない。

と、その時だった。

ヒビキ「みんな、お待たせー! お別れ会のことなんだけど……」

教室の扉が開き、明るい笑顔とともに入ってきたヒビキ。
しかし入った瞬間に場の空気が何やらおかしいことに気付く。

ヒビキ「えっと……? どうしたんだ? 何かあったのか?」

戸惑いながらも表情には笑顔を残してヒビキは問うたが、
マコトとユキホ、ヤヨイはただヒビキと同じように困惑した視線を返すのみ。
チハヤとイオリに至ってはヒビキに気付いてすらいないかのように、
互いに向き合ったままである。

しかし当然気付いていないはずはなく、
寧ろヒビキの登場がきっかけになったように、

チハヤ「……ごめんなさい。少し、一人にして」

チハヤがそう言ってイオリから顔を背け、教室を出て行った。
イオリはその背を追うこともなく、ただ黙って足元へ視線を落とした。

未だ事情が掴めないヒビキであったが、
なんとなくチハヤとイオリとの間に何かがあったことは流石に察しがつく。
だが直接イオリに声をかけることは躊躇われるようで、
説明を求めるようにマコトへと視線を送った。
その視線を受けたマコトは、小さく首を横に振った後、

マコト「イオリ……何があったの?
    『アイドルになんてなりたくない』って……チハヤ、そう言ってたよね」

ヒビキ「え……そ、そうなのか? どういうこと?」

その場の注目が、再びイオリに集まる。
イオリは目を伏せたまま、唸るように答えた。

イオリ「そんなの知らないわよ。
    でも理由なんてどうでもいいわ……。聞きたくもない。
    チハヤがそう言うんなら、私は絶対にあの子を認めない。ただそれだけだから」

そう言って、イオリも踵を返してその場をあとにする。
ヤヨイは慌ててその後ろをついて行き、
教室にはやはり困惑し続けるマコトたちと気まずい雰囲気だけが残された。




ヤヨイ「――チハヤさん、どうしちゃったのかな……」

イオリ「……」

廊下を歩くイオリと、後ろを付いていくヤヨイ。
ヤヨイはしきりに先ほどのチハヤについての疑問を口にしているが、
イオリは答えずに黙って歩き続けている。

ヤヨイ「どうしてアイドルになりたくないだなんて……。
    きっと何か理由があるんだよ。そうだよね、イオリちゃ……」

イオリ「私に聞いたって、わかるはずないでしょ。
    知りたかったら本人に聞けばいいじゃない」

と、ここで初めてイオリはヤヨイの言葉に反応を返す。
だがヤヨイを遮って早口気味に発されたその返事には明らかな苛立ちが表れており、
思わずヤヨイは口をつぐんだ。

イオリ「……ごめんなさい。今のは八つ当たりね……。
   ヤヨイに苛立ちをぶつけたって、何にもならないのに……」

イオリは立ち止まり、ヤヨイへの謝罪の言葉を口にする。
前を向いたままでその表情は見えない。

ヤヨイ「ううん……いいの。気にしないで、イオリちゃん。
   私の方こそ、うるさくてごめんね」

イオリ「そんなことないわ……。私が一人でイライラしてるだけだもの」

ヤヨイ「……ねえ、イオリちゃん。
   イオリちゃんは、チハヤさんのこと……嫌いになっちゃった?」

イオリ「……」

ヤヨイ「私はやっぱり……仲直りして欲しいかなーって……」

長い廊下を沈黙が満たす。
時間にすれば数秒ほどの沈黙ではあっただろうが、
重苦しい沈黙に、ヤヨイはそわそわと指を動かし続けている。
だがヤヨイが耐え切れなくなる前に、イオリが静かに口を開いた。

イオリ「そうね……嫌いよ。チハヤのことなんて、大っ嫌い……」

それはヤヨイが欲していない答えの一つ。
その返事を聞き、ヤヨイは強く心が締め付けられるのを感じた。
だがヤヨイの心を締め付けたのは、返事の内容そのものではなかった。

イオリ「あの子が、アイドルに選ばれたって聞いた時……私が選ばれなかったって知った時。
   すごく、ショックだったわ。
   絶対誰にも負けないって思ってたから、悔しかった……。
   でも……祝福してあげたいっていう気持ちも、同じくらいあったの。
   チハヤも私と同じだって……本気でアイドルを目指してるんだって、思ってたから……」

ヤヨイ「……」

イオリ「……ライバルだって、思ってた。アイドルを目指す者同士、絶対負けないって……。
   でも、だから、心からお祝いしようって……なのに……。
   っ……これじゃ私、馬鹿みたいじゃない……!」

肩が、声が、震えていた。
その背中から、イオリの悲しさが、悔しさが、痛いほど伝わってきた。
それが何よりヤヨイの心を締め付けた。

イオリ「私はチハヤのことが大嫌い……。だから、絶対に認めない。
    世界中のみんながあの子を認めても、私だけは絶対に認めない……!」

イオリ「アイドルはみんなに憧れられて、みんなに認められる存在なの。
   だから私が認めない限り、チハヤはアイドルじゃない……。
   チハヤなんかより先に、私が本当のアイドルになってやるの。
   世界中の誰もに認められる、本当のアイドルに……!」

ヤヨイ「イオリちゃん……」

そこでイオリは言葉を切り、やはり前を向いたまま俯いて黙ってしまう。
イオリは、自分の中で渦巻いている感情が何なのか、
自分自身でさえはっきりとは分かっていなかった。
怒りとも悲しみともつかない何かが堰を切って溢れ出そうになるのを堪えるように、
イオリは拳に力を入れてただ立ち尽くしていた。
が、その時。
ヤヨイの声が、イオリの心へ割って入った。

ヤヨイ「私も……私も頑張る! みんなに認められるすごいアイドルになるよ!
   それで、二人でチハヤさんをびっくりさせちゃおうよ!」

イオリ「えっ……?」

思いも寄らぬ明るい言葉に、イオリは初めてヤヨイを振り向く。
そこには、聞こえた声の通り明るい笑顔のヤヨイが居た。

ヤヨイ「私も、チハヤさんの言葉はすごくショックだったから……。
    だから私とイオリちゃんで、
    アイドルはすごいんだーっていうのをチハヤさんに見せてあげよう!
    そしたらきっと、チハヤさんも考え方を変えてくれるかなーって!」

胸元でぐっと気合を入れるように拳を握るヤヨイ。
その笑顔は決して作られたものではなく、
言葉にも裏のないことがイオリには十分に伝わった。
イオリは数秒、呆けたような顔でヤヨイを見ていたが、
ふっと表情を崩して袖で目元をぐいと拭う。

イオリ「そうね……そうしましょう。
    二人で、チハヤをさっさと追い越して、それでぎゃふんと言わせるの。
    ええ、そうよ……。私は、チハヤにすら
    憧れられるようなアイドルになってやるんだから!」

そう言ったイオリの表情はやはり怒っているようであったが、
先程までとは違う、前向きに作用する感情であるとヤヨイは感じた。
だからヤヨイは笑い、イオリもまた、そんなヤヨイに笑顔を返す。

イオリ「ありがとう、ヤヨイ……。あなたのおかげで、ちょっとは気が晴れたわ」

ヤヨイ「えへへ……良かった。イオリちゃんが元気になってくれて」

イオリ「わ、私はずっと元気よ。
   それにヤヨイだって、最近ずいぶん調子いいみたいじゃない」

ヤヨイ「えっ? そうかな……?」

イオリ「ええ。少し前までは時々悩んでるみたいだったけど、最近はすごく明るいわ。
   今だって、もう『次』を考えてる。私も見習わなきゃね」

ヤヨイ「そんな……私に、イオリちゃんが見習うことなんてないよ。
   でも、ありがとう! これからも、一緒に頑張ろうね!」

イオリ「ええ、頑張りましょう」

そう言って笑いあった後、イオリは軽く息を吐き、

イオリ「さて、まずはチハヤに宣戦布告をしておかないと。
   仲直りってわけじゃないけど、あの空気のままじゃちょっと気まずいしね」

ヤヨイ「! う、うん!」

そうしてイオリとヤヨイは今歩いてきた廊下を、
今度は二人並んで引き返し始めた。

今日はこのくらいにしておきます。
続きは多分三日後くらいに投下します。




窓から差し込む日は暖かい。
ちょうど目の前には満開の桜も見え、
一人落ち着くにはちょうどいい場所を偶然見つけてしまったかも知れない。
そんな風に思いながらも、ガラス窓に向くチハヤの表情は暗く沈んでいた。
少し前のイオリの表情は、電撃の光と共にまだ目に焼き付いている。

アズサ「見ぃつけた♪」

不意に聞こえたその声にゆっくりと振り向く。
教室の入口に、にこやかな笑みをたたえたアズサが立っていた。
だが何も言葉を返すことなく、チハヤは再び窓の外へと顔を向ける。
アズサは表情を崩さぬままチハヤの隣に歩み寄り、
ぼんやりと外を眺める横顔をじっと見つめ続けた。

しばらく沈黙が続いたが、
隣に来ただけで何も言わずにただ見つめられ流石に居心地の悪さを感じたらしい。
チハヤは外を見たまま話を切り出した。

チハヤ「何か言いたいのなら、早く言ってください。
    みんなから、もう話は聞いているんでしょう?」

アズサ「……ええ、聞いたわ。イオリちゃんと喧嘩しちゃったのよね?」

チハヤ「喧嘩、とは少し違うかと。
    私がただ一方的に、怒らせてしまっただけです」

アズサ「イオリちゃんは人一倍、アイドルへの想いが強い子だから。
    きっと、すごくショックだったと思うの。
    アイドルに選ばれたチハヤちゃんが、アイドルになりたくないだなんて……」

チハヤ「……そう思います。あとで謝っておきます。
    無遠慮な言葉を、多くぶつけてしまいましたから」

アズサ「そうね……。でも、謝ったとしても、チハヤちゃんの気持ちは変わらないのよね?」

その問い掛けにチハヤは沈黙する。
ここでの沈黙は肯定を意味することであると、チハヤもアズサも理解していた。
それでも、何か返事をした方がいい。
そう思ってチハヤは言葉を選びながら口を開く。
だが、その言葉はチハヤの喉から出ることはなかった。

アズサ「だったら、アイドルなんてやめておいた方がいいんじゃないかしら」

チハヤは思わずアズサに顔を向ける。
言葉ではなく声色が、チハヤの目線を引き寄せた。
そこには笑顔のアズサが居た。
だがチハヤは、その笑顔の裏には何か別の感情があると、直感的に思った。

チハヤ「……できるなら、そうしたいくらいです」

アズサの笑顔から逃れるかのように、
体はそのまま、目だけを逸らしてチハヤは続ける。

チハヤ「ですが、アズサさんも知っているはずです。
    アイドルへの選抜は、絶対。辞退などできないと」

アズサ「確かに、そう聞いているわね。
    でもティーチャーリツコに言ってみるだけ言ってみてもいいんじゃないかしら?」

チハヤ「意味があるとは思えません。
    彼女の厳格さは、私よりアズサさんの方がよく知っているはずでは?」

アズサ「あらあら……。じゃあ、チハヤちゃんがここから居なくなるしかないわねぇ」

チハヤ「え?」

今度は言葉の内容がチハヤの視線を動かした。
アズサはやはり笑ったままだ。

チハヤ「居なくなるって、どういう……」

アズサ「例えば、『脱走』するとか……。
    見張りが居るわけじゃないから、私の能力なら多分できると思うわ。
    チハヤちゃんが望むなら、手伝ってあげるわよ?」

ニコニコと微笑みながら言うアズサではあるが、
対してチハヤは怪訝な表情で目を見開き硬直する。

脱走だって?
この人は本気で言っているのだろうか。
いや、そんなはずはない。
そもそも、笑顔で話すようなことじゃない。
この人は……自分をからかっている。

チハヤはこの時、初めてアズサに小さな苛立ちを覚えた。
平常のチハヤであれば、多少呆れはしても感情を波立たせることなどなかっただろう。
だがイオリとの諍いを直前に経験した今のチハヤは、心に余裕がなかった。
あるいは、アズサの言動をからかいと理解し、そこに怒りをぶつけることで、
彼女の笑顔に覚えた違和感を解消したかったのかも知れない。

チハヤ「ふざけないでください。私は今、あなたの冗談に付き合っている余裕は――」

と、僅かにではあるが珍しく荒らげた……が、その声は唐突に途切れる。
チハヤに向き合っていたアズサが、突然、
背後にかかっていたレースのカーテンを掴んだ。
そしてその右手をカーテンごと、自分たちを包むように大きく動かす。
そして一瞬後にはチハヤはアズサと共にカーテンに覆われ、
その細身の体は、長身のアズサの腕の中に抱かれていた。

チハヤは目を丸くし、思わず声を上げようとする。
だがその唇に人差し指があてがわれ、

アズサ「しーっ……人が来ちゃうでしょ?」

鼻先が触れ合うほどの距離で、アズサは囁き、笑った。

唇に触れた人差し指は暫時、チハヤの呼吸すらも止めた。
人との距離がこれほど狭まったのは初めてだった。
チハヤは逃げることも忘れ、
ただ身を硬直させて鼻先のアズサの目を見つめることしかできなかった。

アズサ「冗談なんかじゃないわ。私は本気よ?」

人差し指が離れ、同時にチハヤは思い出したかのように呼吸する。
そんなチハヤを、やはりアズサはすぐ目の前で見つめ続ける。

チハヤ「……どう、して……?」

アズサ「どうしてって、何が?」

辛うじて漏れ出たチハヤの言葉を、アズサは尋ね返す。
チハヤは呼吸を整えるように数拍置き、

チハヤ「どうしてアズサさんは、私にそこまで構うんですか……?
    初めて会った時から、気になってました。
    あなたは、明らかに……意識的に、私に関わろうとしている……」

チハヤ「それに、今も……。いえ、何より今が、一番疑問です。
    わざわざ脱走させてまで私をアイドルから退かせようとするなんて、
    どう考えても普通ではありません……」

アズサ「……だってチハヤちゃん、アイドルになりたくないんでしょう?」

チハヤ「本当に、それだけですか? 何か他に理由があるのではないですか?
    聞いて欲しいわけではありませんが……
    まずはなぜアイドルになりたくないのか、話を聞くのが普通かと。
    話も聞かずにいきなり脱走なんて極端な手段を取ろうとするなんて……。
    あなたが理由なくここまで常識を外れた行動を取る人だとは、私にはとても……」

一気にチハヤの口から流れ出た疑問を、アズサは最後まで聞いていた。
と、チハヤはここで初めて、
アズサの笑顔が色を変えていることに気が付いた。

アズサ「チハヤちゃんには、私がこんな常識外れなことを提案するようには思えなかった?」

チハヤ「……はい。もっと冷静で、思慮深い人かと」

アズサ「あらあら……。たった一年の付き合いだけど
    そんな風に思ってくれてたのね。ありがとう」

そこには、どこか寂しげな、あるいは辛そうな笑顔があった。
そしてこの時チハヤはようやく知った。
これこそが、先ほどからアズサが浮かべていた笑顔の
裏に隠されていた感情であったのだと。

アズサ「でもね、チハヤちゃん。人は必ずしも見た目で判断できるものじゃないの。
    それだけは、ちゃんと覚えてなきゃダメよ?」

そう言って、今度はアズサがチハヤから視線を外す。
窓の外を見るアズサであったが、
チハヤには、その瞳には多分窓の外の景色は映っていないのだと感じた。
少し前の自分と同じように。

アズサ「どうして私がチハヤちゃんに構うのか……もちろん、理由はあるわ。
    でも、あまり楽しい話じゃないのよ。それでも聞きたい?」

寂しげな笑顔のまま、ちらとチハヤに目を向けるアズサ。
チハヤは何も言葉は発さなかったが、
目を逸らすことなく黙ってアズサを見返す。
数秒見つめ合った後、アズサは観念したように息を吐いた。

アズサ「……チハヤちゃんがこの学園へ来る前、ここにはもう一人、学生が居たの。
    『卒業』じゃなくって、『転校』して行った子が」

やっぱりそうだったのか、とチハヤは思った。

一年前の夜、空き部屋を覗いてみた時に覚えた違和感。
それはつまり、ベッドの数であった。
後になって一階すべての空き部屋を調べたのだが、
ベッドの数が統一されていなかったのは自分たちの寝室と、隣の部屋のみ。
つまり、学生の数に合わせてベッドを隣室同士で移動させたのだ。

それ自体は何もおかしなことはないのだが、
学園を案内された時にヒビキの発した
『チハヤが来る前からベッドが余っていた』という言葉を考えれば、
『チハヤが来る前からベッドの数は7に揃えられていた』ということになる。
このことから、自分と入れ替わるようなかたちで去っていった学生が一人居たのだろうと、
チハヤはそう推測していた。

そんなチハヤの推理を知ってか知らずか、
アズサは特にこのことについて聞きただすようなこともせずに続けた。

アズサ「でもね……本当は違うの。
    ただ建前上、転校したっていうことになっているだけ」

チハヤ「……? どういうことですか?」

アズサ「転校じゃなくて、『追放』。
    人知れず、危険な方法でアイドルを生み出すための研究を続けていて……。
    それを、私が見つけてしまったの」

窓の外へ顔を向けたまま言うアズサ。
その横顔を見るチハヤの目は、流石に意外そうに細められる。
転校ではなく追放であったということはもちろんだが、
その理由もまったくチハヤの想像の外であった。

アズサ「捕まったあの日から、今もまだ罪を償い続けているのか、
    それとももう、どこかで普通に生活してるのか……私は何も知らないわ。
    チハヤちゃんが転校してくるまでは、
    その子を思い出すこともほとんどなくなってたくらい。
    だけど、あなたがここへ来て……それで思い出したの」

チハヤ「……何を、ですか」

アズサ「その子が、言っていたこと……」

そこでアズサは言葉を切る。
そしてひと呼吸置き、

アズサ「年齢にかかわらず、優秀な力を持っている子をこの学園へ誘って、
    アイドルを生み出すために利用にする……って」

いつからかアズサの顔からは笑顔も消え、
普段見ることのない深刻そうな表情で、外を見続けている。

チハヤ「……つまり、それで誘われたのが、私であると?
   でも、その人はもうここには居ないんですよね?」

と、アズサはチハヤに向き直る。
その顔には再び笑みが戻っていた。

アズサ「ええ、そうよ。だからきっと私の考えすぎ。
    私ってちょっと思い込みが激しいようなところがあるから、
    それでついチハヤちゃんのことを気にしちゃってたの。
    だけど、気にしすぎだって分かってても……どうしても考えちゃうの。
    チハヤちゃんがここへ来たのも、アイドルに選ばれたのも、
    もしかしたらあの子が関係してるんじゃないか、って」

そう言って、アズサはチハヤが何か返事をする前に数歩歩み寄った。
そしてチハヤの耳に口を寄せ、

アズサ「だからもしチハヤちゃんが本当にアイドルになりたくないのなら、
    私がすぐに外へ連れ出してあげるわ。
    チハヤちゃんの『卒業』の日まで……考えておいてね」

そう囁き、背を向けて去っていった。
チハヤはアズサが消えた教室の出口を、しばらく黙って見つめ続けた。




ハルカ「――そっか……そんなことがあったんだ。
   でも、良かったね。すぐに仲直りできて」

チハヤ「仲直り……できたのかしら」

ハルカ「まあ、完璧にってわけじゃないと思うけど……。
    でもお互いに謝ったんだから、一応仲直りって言ってもいいんじゃない?」

チハヤ「……だと良いのだけど……」

チハヤがハルカに話したのは、イオリとの諍いのこと。
そして、その後の『仲直り』のこと。
話し終えて俯いたチハヤの頭にその時の光景が思い浮かぶ。

言い争いの後、次に顔を見合わせた場で二人ともすぐに互いの非を詫びた。
チハヤは、無神経な言葉を投げてしまったことを。
イオリは、感情的になって能力まで使ってしまったことを。
しかしチハヤの頭に深く刻み込まれたのは、その後のイオリの言葉。

   『ただし、あなたをアイドルと認めるかどうかはまた別の話よ。
   チハヤの考えが変わらない限り、私の気持ちだって変わらない。
   あなたより先に私が、正真正銘本物のアイドルになって見せるんだから!』

ハルカ「それにしても、イオリって子もすごいね。
    そんな風に真正面から気持ちをぶつけられる子なんて、なかなか居ないよ」

チハヤ「ええ……本当に、そう思うわ。……アイドルになるのも、
    私なんかより、彼女の方が、きっとふさわしいと思うのに……」

自嘲的な笑みを浮かべ、チハヤは抱えた膝に口元を埋める。
そんなチハヤの横顔を見つめ、ハルカは穏やかに笑って言った。

ハルカ「まだ……ちゃんと聞いたことってなかったよね。
    チハヤちゃんは、どうしてアイドルになりたくないの?
    アイドルのこと、嫌い?」

その問いに、チハヤは沈黙する。
だがハルカは何も言わずに返答を待った。
そのままどのくらいの時間が経っただろうか。
チハヤはぽつりと口を開いた。

チハヤ「……嫌いだなんて……そんなことない。
   私も、アイドルは本当に……すごい存在だって、思ってる。
   でも、だから、私はアイドルにはなりたくないの」

チハヤ「私は今まで、自分の意思で何もしてこなかった……。
    努力や勉強も、するべきだと言われたからしただけ。
    この学園に来たのだって、ティーチャーリツコに誘われたから。
    そして今度は、私の知らない誰かが、私をアイドルにしようとしてる……。
    ただ流されて来ただけの私が、また流されるままに、アイドルになろうとしてるの」

ハルカ「……」

チハヤ「もしこのままアイドルになってしまったら、
    世界中の人たちが、きっと私のことを憧れの目で見るんでしょう?
    ただ流されただけの私を、羨望や尊敬の眼差しで見る……。
    そんなの、世界中の人を騙してることと変わらない。
    たくさんの人の想いを裏切ることと、変わらないもの……」

それは初めて吐露されるチハヤの心情であった。
学園の者には深く追求されなかったということもあるが、
やはりチハヤは、ハルカには自分の内面をさらけ出してしまう。
それはハルカの持つ不思議な雰囲気からか、
それとも学園の者ではないという適度な距離感がそうさせるのか、
チハヤ自身にも分からない。

チハヤ「クラスメイトの一人に、言われたわ。
    アイドルが嫌なら逃げ出したらどうか……って。
    でも私は、逃げ出そうなんて気持ちさえ、持てないの。
    そんなことをしたら、私をアイドルに選んだ人のことも、
    応援するって言ってくれたみんなのことも、裏切ることになるから……。
    アイドルになりたくないと思ってるはずなのに、
    私はまた、今まで通り流されようとしてて……」

チハヤの目には涙らしきものは見えない。
だがハルカには、チハヤが泣いているように見えた。

ハルカ「……チハヤちゃん、優しい子なんだね」

その言葉にチハヤは顔を上げてハルカを見た。
ハルカは、いつも通りの微笑みをたたえている。

ハルカ「自分がどうこうじゃなくて、みんなを裏切りたくないから。
    それって、チハヤちゃんが何よりみんなの想いを大切にしてるってことだよね」

チハヤ「そんなことは……ないわ。私が優しいだなんて、そんな……」

ハルカ「ねえ、チハヤちゃん。今からでもさ、
    自分の意思で、アイドルになってみたらどうかな。
    そしたら、チハヤちゃんに憧れる人を裏切ることにはならないでしょ?」

そう言ってハルカは笑う。
しかしチハヤはそんなハルカの笑顔から目を逸らし、

チハヤ「いえ……もう、遅いわ。
    私はもう、意思がないままにアイドルに選ばれてしまった。
    その時点で、私はみんなに憧れられるアイドルなんかじゃない……。
    偽物のアイドルなの。それに……初めにハルカに言ったことも、本当だから。
    私には、アイドルが何なのか、よくわかってない……。
    よくわからないものを本気で目指すことなんて、できないわ」

ハルカ「……チハヤちゃん……」

名を呟いたハルカと目を合わせることなく、チハヤは立ち上がる。
そして数拍置き、笑顔を作って振り向いた。

チハヤ「今日も、話を聞いてくれてありがとう。
    話ができるのもあと数回だと思うけれど……。
    一年前にあなたと会えて良かったわ。ありがとう、ハルカ」

今日はこのくらいにしておきます。
続きは多分明日投下します。




チハヤの卒業まで、残すところ数日。
初めにひと悶着あったものの、それも既に解決をしており、
あとはその日を待つばかり。

ヒビキ「やっぱり、手作りケーキがいいんじゃないか?
    すっごく大きいケーキ、作ろうよ!」

マコト「だったらティーチャーリツコに材料を頼まないと。
   それから作る時間も相談しなきゃだよね」

ユキホ「ケーキ作りってどのくらい時間かかるのかなぁ……。
    図書館に行ったら分かるかな?」

アズサ「そうねぇ。明日にでもみんなで探してみましょうか~」

授業の合間の教室で、少女らはわいわいと楽しげに話をする。
会話の内容は数日後に控えた、チハヤの『お別れ会』についてだ。
時折チハヤ本人に要望を尋ねながら話を進めていくヒビキたち。
チハヤもまた、複雑な気持ちではあるが友人が自分のために
色々と考えてくれているということについては決して悪い気はせず、
要望を求められた時には素直に答え、案を煮詰めるのに協力していた。

先日のチハヤの「アイドルになりたくない」という発言については、
驚きと不安でつい心にもないことを言ってしまった、
ということでイオリ以外の者は納得しており、
チハヤの門出を祝う心には曇りらしき曇りもない。
あるのは僅かな寂しさばかりである。
またイオリでさえ、話し合いには一応の参加の姿勢を見せ、皆に協力していた。

だがそんな中、輪には加わっているものの
会話に参加しているとは言い難い者が一人だけ居た。

イオリ「……ちょっと、ヤヨイ。ヤヨイってば」

ヤヨイ「ん……あれ? ……あっ、ご、ごめんなさい、私また……!」

イオリの横で船を漕いでいたヤヨイが、肩を揺すられてようやく目を覚ます。
これが一度目ではない。
この日……いや、ここ数日のヤヨイは、
昼間から居眠りを始めてしまうことが多かった。
授業中はなんとか起きているようだったが、
休み時間になると電池が切れたように眠りについてしまうことが増えているのだ。

マコト「あははっ。ヤヨイ、今日も疲れちゃってるみたいだね。
   まあ確かに最近、すごく頑張ってるしなぁ」

ユキホ「そうだよね……。特に能力の訓練なんか、調子も良さそうだし……」

ヒビキ「でもちょっと張り切りすぎなんじゃないか?
   次のアイドル選考はずっと先だってティーチャーリツコも言ってたし、
   今から飛ばし過ぎたら身がもたないぞ」

ヤヨイ「あう、そうですよね……。でも、つい張り切っちゃって……」

イオリ「それでこんな時間から体力が切れてるんじゃしょうがないじゃないの。
    まあ、いいわ。疲れてるのは確かみたいだから、休み時間くらいは寝てなさい」

ヤヨイ「えっ、で、でも……」

イオリ「いいから。その代わり、今日の晩は早めに寝て疲れを取るのよ?」

ヤヨイ「う、うん……ごめんなさい。それじゃあ、おやすみなさい……」

アズサ「は~い、おやすみなさ~い」

結局その日、ヤヨイは授業の時間以外はほとんど眠りについていた。
友人の門出をどんな風にして祝うか、
その話し合いに参加できていないことについては
皆も思うところがないわけではない。
だが無理強いすることでもないし、
何よりヤヨイ本人がそれを申し訳なく思っていることも十分わかっている。
だからこそ、それでも居眠りをしてしまうほど疲れているであろう
ヤヨイの体調を慮り、皆も特に何も言うことなくヤヨイを休ませた。

マコト「――そうは言っても……やっぱりヤヨイの意見も欲しいよね。
   結構チハヤに懐いてたとこもあったしさ」

ユキホ「うん……。明日は一緒に考えてくれるかな?」

マコト「まあ、今日あれだけ寝てたんだしきっと大丈夫だよ。
   夜も早めに寝るって言ってたし」

他の者より少し早めに入浴を済ませたユキホとマコトは、
ベッドに腰掛けて今日のヤヨイの様子について話す。
マコトは笑顔であったが、ユキホは心配げに眉をひそめている。

しかしこのマコトの笑顔も、心からのものではない。
一つはやはりヤヨイのことが気がかりというものがある。
本人も言っている通り、ヤヨイにも話し合いに参加して欲しいし、
また眠気を堪えられないほど疲労が溜まっている点は心配でもある。
だが、マコトの心に僅かに雲をかけている原因の大半は、
ヤヨイではなくユキホの様子であった。

ユキホ「でも、本当に大丈夫かなぁ……。いくら疲れてるって言っても、
    今日なんか休み時間はほとんど寝てて……。
    もしかしたら夜、ちゃんと眠れてないのかも」

マコト「……うん、そうかもね」

ユキホ「そうだ、私、安眠効果があるっていうお茶をいれてあげようかな。
   そしたらきっと夜はぐっすりで、昼はばっちり起きられるよね!」

マコト「あはは、うん、そう思うよ」

ユキホは恐らく心からヤヨイの体調を案じている。
だがそのことが、マコトの心に陰を作っていた。
そしてその陰はいつの間にか、笑顔で隠せないほど大きくなっていたらしい。

ユキホ「マコトちゃん、どうしたの?」

マコト「え……?」

ユキホ「なんだか、マコトちゃんまで元気ないみたい……大丈夫?」

マコト「そ、そう? いや、そんなことないよ?」

ユキホ「もしかして、マコトちゃんも寝不足?
    えへへっ、それじゃあ、今日はマコトちゃんにもお茶いれてあげるね!
    待ってて、今……」

マコト「ボクより、ユキホが飲んだ方がいいんじゃない?」

ユキホの言葉をマコトは笑顔で遮った。
笑顔ではあったが、その目はユキホを見ていない。
正面を向いたままのマコトの横顔に、
ユキホもまた、疑問符を浮かべながらも笑顔で問い返した。

ユキホ「えっと……私が飲んだ方がいいって、どうして?」

マコト「だってさ、ほら、ユキホも最近、時々ぼーっとしちゃうだろ?
   それもきっと寝不足だと思うんだよ。だから、ね?」

ユキホ「? そう言えば、この前もそんなこと……。
    うぅ、私、そんなにぼーっとしてるかなぁ。
    確かにみんなに比べてノロマかも知れないけど……」

マコト「違うよ、そうじゃなくてさ。
   っていうか、本当に夜もちゃんと眠れてないでしょ?
   よく夜中に起きて、部屋の外に出てるじゃないか」

ユキホ「え……? 私が? いつ?」

マコト「いつって……何回もだよ。二、三日に一回は起きてるよ」

ユキホ「……? マコトちゃん、他の誰かと勘違いしてない?
   私はそんなの、ほとんど……」

マコト「隠さないで欲しいんだ。実はずっと心配だったんだよ……。
   ユキホがこっそり、夜中にどこに行ってるのか気になってたんだ」

いつからかマコトの顔からは笑みが消えている。
向き直り、ユキホを真っ直ぐに見つめるマコトだが、
そんな真剣な眼差しにユキホが返すのは、ただただ困惑の色であった。

ユキホ「ま、待ってマコトちゃん。本当に何のこと?
    私、夜中に起きたことなんてほとんどないし、
    起きても部屋を出たことなんてないよ……?」

マコト「何を言ってるんだよ……そんなはずないだろ!?
   ボク、本当に心配なんだ!
   ユキホの様子がずっと変で、すごく心配してたんだよ!」

心に秘めていた不安を口に出してしまったことで、
マコトの感情に掛けられていた枷は今や完全に外れてしまっていた。
ユキホを心配するあまり、半ば怒り混じりに詰め寄ってしまうマコト。
そんなマコトにユキホはただ戸惑うばかりであった。
が、次のマコトの言葉は、ユキホの心の枷をも外してしまった。

マコト「それとも、ボクに言えない悩み事とかがあるの……?
   だったら隠さないで言ってよ!
   ボクたちの間で隠し事なんて無しだろ、ユキホ!」

ユキホ「……隠し、事……?
   だったら、マコトちゃんだって私に隠し事、してるよね……?」

マコト「え……?」

ユキホ「この前、アズサさんと、マコトちゃん……。
    目のゴミを取ってもらってたって言ってたけど、そうじゃなかった……!
    ゴミを取ってもらうのに、抱き合ったりなんてしないもん!」

マコト「っ……ユキホ、気付いてたの……!?
   い、いや、今はそのことは関係ないじゃないか!」

ユキホ「関係あるよ! 隠し事は無しって言ったのはマコトちゃんでしょ!?
    なんで抱き合ってたこと隠してたの!?」

マコト「っ……あれは、ユキホのことを相談してたんだ! ただそれだけで、別に何も……」

ユキホ「そんなの、抱き合ってる理由になんてならないよ!
    酷いよ、マコトちゃん……! 私を言い訳に使わないで! マコトちゃんの嘘つき!」

マコト「嘘なんかじゃないよ! だったらユキホの方こそ嘘つきじゃないか!」

ユキホ「私は嘘なんかついてないもん! 嘘つきはマコトちゃんだよ!
    マコトちゃんなんてもう知らない!!」

マコト「こ……こっちこそ、ユキホなんて知らないよ!」

売り言葉に買い言葉――
会話を拒絶するように布団に潜り込んだユキホに、
マコトも荒々しく言葉を投げかけて立ち上がり、その場を離れる。
すすり泣く声を背に受けながらも、
聞こえないというように強く目をつむって洗面台へと向かうマコト。

他の者が寝室へ戻ってきたのは、それから少し経ってからだった。
皆二人の様子を見てすぐ異変に気付いたものの、
マコトがこの件に触れて欲しくなさそうにしていたことにも気付き、敢えて追求はしなかった。
ただその空気もあって、その晩はもうチハヤの送別会に関する話題は出さず、
当たり障りのない会話をして就寝までの時間を過ごすこととなった。




ヒビキ「――あのさ、マコト。早く仲直りできないのか?」

翌朝、鏡に向かって並びながらヒビキはマコトに呟くように言った。
マコトは答えず、蛇口の水を両手で顔に打ち付ける。

ヒビキ「まあ、理由は知らないけどさ……。
   でももしこのままだとチハヤを気持ちよく送り出せないぞ」

マコト「……うん、わかってる」

タオルに顔を半分以上埋めたまま、マコトもまた呟くように答えた。
そしてそのままヒビキと目を合わせずに洗面所をあとにし、着替えを始める。
ヒビキはそんなマコトの姿を遠目に、
やれやれと言うように腰に手を当てて眺める。

マコトはそんなヒビキの視線を意に介さず、
ただ一人、手にした制服に向けて深くため息をつくのだった。

……昨日は自分もユキホも、まったく冷静じゃなかった。
二人とももう少し落ち着いていれば、
あんなふうにこじれることなんて絶対になかったんだ。
少なくとも自分の件に関しては、
きちんと説明すれば誤解はすぐに解けたはず。
ユキホのことについても、もっとちゃんと話を聞いてあげられれば良かった。

でもそれが出来ずに、喧嘩してしまったというのが現状だ。
これからどうしよう。
仲直りって、どうすればいいんだろう。

と、伏せた目の奥でマコトは色々と考える。
だが思考は堂々巡りするばかりで、一向に解決策は思い浮かばない。

マコトは、ユキホと喧嘩したことなどこれまでただの一度もなかった。
イオリと日常的に起こす小競り合いとは訳が違う。
彼女には、仲直りの仕方が分からなかった。

またアズサに相談しようか、とほんの一瞬考えたが、
そもそもの誤解の元がアズサに相談したことにあるのだ。
それだけは避けた方がいい。
アズサも、それを察して昨夜から敢えて自分と距離を取っているようにも見える。
ではどうするか。
誰かに相談するか、それとも自分自身で解決するしかないか……。

などと考えるうちに、数時間が経った。
今日は授業は休みの日である。
本来ならこの日にチハヤの送別会に向けての準備を大きく進める予定であった。
しかしマコトは今、一人空いた教室で机に突っ伏している。
目を閉じているが寝ているわけではない。
かと言って、何かを考えているわけでもない。
いや、考えてはいる。
ただその思考は相変わらずの堂々巡り、
「これからどうしよう」から一歩も前に進んでいないのだった。

しかし次の瞬間、
そのまるで前進していない思考ですら、呼吸とともにぴったりと止まった。

ユキホ「マコトちゃん」

聞こえたその声に、机に伏せていたマコトの顔は跳ね上がる。
大きく見開かれたその瞳に映ったのは、薄く笑ったユキホだった。
マコトは声が出なかった。

 『何?』 『どうしたの?』 『昨日はごめん』

たくさんの言葉が同時に頭に浮かび、
どれを選択するべきか混乱しかけていた。
だがマコトが言葉を選んでいるうちに、ユキホはにっこりと笑って、言った。

ユキホ「髪、伸びてきたって言ってたよね。今から切ってあげる」

マコト「え……」

唐突なその言葉にマコトがまともな反応を見せる間もなく、
ユキホはくるりと踵を返して出口へ向かって歩き出す。
マコトは困惑したまま、半ば無意識に、立ち上がってそのあとを付いていった。

ユキホが向かったのは、やはり空き教室の一つだった。
その場所はマコトがいつもユキホに髪を切ってもらっている教室。
だからマコトは特に驚くことなく、

ユキホ「はい、どうぞ」

促されるまま、ユキホが引いた椅子に腰掛けた。
ユキホは側にあった棚から布を取り出し、
慣れた手つきでマコトの首にかける。
そしてハサミを取り出して、頭髪を切り始めた。

マコト「……」

多分これがユキホの考えた『仲直り』なんだろうな、とマコトは思った。
髪を切るのはいつもユキホの役目。
ユキホは自分だけが持つこの役割をきっかけに、
これまでの関係に戻ろうと、きっとそう考えているんだろう。

ただ、いつもなら髪を切りつつ切られつつ他愛のない会話を交わしているところだが、
今のマコトにはそれはできそうもなかった。
やはりこちらからどう声をかければいいか分からない。

まず一言謝った方が良いのか。
それとも、昨日のことには触れない方が良いのか。
ユキホが何も言わないということは、
彼女もそれを望んでいるということなのだろうか。
いや、こちらが謝るのを待っているのだろうか……。

それにしても、自分がこんなにもくよくよと悩む人間だとは知らなかった。
少しだけ自分のことが嫌になる。

鋏が髪を断つ音がやけに大きく聞こえる。
でもこの音に集中していれば、余計なことを考えずに済むような、そんな気がする。
しばらくはこのままぼんやりと、身を任せていよう――

ユキホ「私、マコトちゃんのことが、好き」

――ユキホの声が鋏の音に割って入ったのは、その時だった。

マコト「……どうしたの、急に」

どう返せばいいのか分からずマコトが選んだ言葉は、
あやふやな、ごまかすような言葉であった。
もう少し何か気の利いた返事はできなかったのか。
表情に出さないまでも、マコトはやはり自分に嫌気がさした。
これでは仲直りするのにも苦労するはずだ。

もう、いい。
難しいことを考えるのはやめよう。
素直に昨日のことを謝ろう。

……マコトがそう決めたのと、
首筋にユキホの腕が絡んだのはほとんど同時だった。

ユキホ「マコトちゃんは私のこと、好き?」

背後から、耳元から、ユキホの囁く声が吐息とともに吹きかかる。
右耳から全身にかけて、何かが駆け巡るのをマコトは感じた。

マコトは反射的に、その感覚から逃れようと首を傾けようとした。
しかしその直前、逃げ場を封じるように今度は左頬に何かが触れた。
それは首に巻き付くように添えられた、ユキホの右手。
だがそれだけではない。
柔らかくしなやかなユキホの指の感覚の他、固く冷たい何かが即頭部あたりに触れている。
視界の外にあるため見えないが、間違いない。
それは鋏であった。

マコト「あ……危ないよ、ユキホ」

辛うじて、絞り出すようにマコトは言った。
今ユキホの親指と中指には、鋏のリングがかけられたまま。
その手は優しく添えられているものの、
マコトは、それ以上頭を動かすことはできなかった。

ユキホ「ねえ、マコトちゃん」

動かぬマコトの視界に、ふっと影が差す。
視線だけを動かすと、そこにはユキホの目があった。

ユキホ「マコトちゃんは、ずっと私と一緒に、居てくれるよね?」

それは、『あの時』の目だった。
タカネの話をする時の、ユキホの目だった。
マコトは何も答えられなかった。
色のない目に射すくめられたように、ただ硬直し続けた。

しかし、それからどれだけの時間が経っただろうか。
ユキホはマコトの答えを待たずして、ゆっくりと動き出した。
目が視界から消え、右手が左頬から離れ、首筋から両腕が離れた。
そして、

ユキホ「……マコトちゃん、その……き、昨日は、ごめんなさい!」

マコト「え……?」

ユキホ「私、マコトちゃんのこと嘘つきだなんて言っちゃって……。
    きっと私の見間違いだったんだよね?
    なのに私、マコトちゃんに酷いこと言って……ほ、本当にごめんなさい……!」

背後から聞こえたのは、必死に謝るユキホの声だった。
ああ……またか。
また、いつも通り、ユキホはおかしくなってたんだな……。

マコト「……気にしないで。ボクの方こそ、ごめん。
   昨日色々言ったけど……多分、ボクの勘違いだったんだ」

マコトは正面を向いたまま、笑顔を作って返事をした。

ユキホ「! う、ううん! いいの!」

マコトの謝罪を聞き、ユキホは嬉しそうに声を上げる。
そしてマコトの正面に回り込み、

ユキホ「マコトちゃんこそ、気にしないで!
   えへへ……マコトちゃんと仲直りできて、嬉しい」

そう言って頬を赤らめて笑った。
その顔は、マコトのよく知るユキホだった。

ユキホ「マコトちゃん、えっと……これからも私と、仲良くしてくれる?」

マコト「もちろんだよ、ユキホ。これからもよろしくね!」

ユキホ「えへへっ……うん!」

頬を紅潮させてユキホは頷き、再びマコトの背後に回る。
そして、鼻歌交じりに散髪を続けた。
チハヤの送別会についても色々と話した。
散髪が終わるまで、二人の会話はとてもよく弾んだ。

今日はこのくらいにしておきます。
続きは多分水曜前後に投下すると思います。




チハヤ「あの……少し、いいかしら」

イオリ「? 何よ、どうしたの?」

暖かな日光が差す寝室。
ヤヨイと二人で外へ出ようとしたところ、イオリはチハヤに呼び止められた。
何気なく振り返った二人だったが、その視線は揃ってすぐチハヤの手元に落ちる。

ヤヨイ「……その本……」

チハヤ「忘れないうちに、返しておこうと思って。
    一応読んではみたけれど、私も何も分からなかったわ……ごめんなさい」

それは、イオリたちが旧校舎から持ち出した本、『眠り姫』。
イオリは差し出されたその本を受け取り、浅く息を吐く。

イオリ「別に、謝らなくていいわよ。私も今の今まで忘れてたくらいだもの」

チハヤ「そう……。だったら、いいのだけれど」

チハヤ「引き止めてごめんなさい。用事は、これだけだから」

そう言ってチハヤは背を向け、自分のベッドへ戻る。
ベッドの横には既に整理された荷物がまとめて置いてあった。
チハヤの『卒業』まで、残すところ三日。
ベッドの上に畳まれたいくつかの衣類を鞄に詰め始めるチハヤを
イオリは黙って見つめた後、ふと手元の本に目を落とす。
そして表紙を少しばかり眺めたかと思えば、ふっと笑って言った。

イオリ「『眠り姫』、ね……。なんだか、今のヤヨイにぴったりじゃない?」

ヤヨイ「えっ?」

イオリ「昼間から居眠りしてばっかりの、眠り姫。なんてね」

ヤヨイ「あう……ごめんなさい。頑張って起きようとはしてるんだけど、
   なんでかどうしても眠くなっちゃって……」

イオリ「もう、ちょっとからかってみただけよ。気にしないで」

イオリはいたずらっぽく笑い、
申し訳なさそうに俯いたヤヨイの額をコツンと指で突いた。
ヤヨイは突かれた箇所を触れながら、少しだけ困ったように笑った。

そうして笑いあったのち、イオリはチハヤに顔を向ける。
チハヤは二人のやり取りを気に止めることなく、黙って読書を続けている。
イオリはチハヤをしばらく見つめ、
それに気付いたヤヨイは、様子を見守るようにイオリを見つめる。
イオリの横顔には、ヤヨイに向けていた笑顔がまだ残っているようだったが、
その内面では果たしてどのようなことを考えているのだろうか。

と、イオリはふっと表情を和らげ、ヤヨイに向き直った。

イオリ「さ、行きましょうヤヨイ」

ヤヨイ「え? う、うん」

そうしてイオリは自分のベッドに本を置き、
ヤヨイとともに寝室をあとにした。
日中の静かな寝室にはチハヤと、『眠り姫』、
そしてひっそりとイオリの机の中にあり続ける鍵だけが残された。




  「――けれど、本当はその扉は開けてはいけませんでした。
   なぜなら、女の子はとても怒っていたからです」

マミ「どうして怒っていたの?」

  「女の子は、お友達が居なくなったことに、とても、とても怒っていました。
   お友達に怒っていたのではありません。
   お友達を居なくさせた世界そのものに、怒っていたのです」

アミ「世界そのもの?」

マミ「なんだかよく分からないわ、お母様」

  「……アミとマミには、まだ少し難しいかも知れませんね」

困ったように眉をひそめるマミに優しく笑いかけ、頭を撫でる。
次いでねだるように身をよじったアミも同じように優しく撫でる。
双子は嬉しそうに目を閉じて銀髪の少女に寄り添い続けた。

少女は双子の頭から手を離し、ベッドを降りる。
アミとマミは名残惜しそうな表情を浮かべながらも、
少女のあとを追うことなく、やはりベッドの上から問いかけた。

アミ「今日もご用なのね」

アミ「お話してあげるの? それとも、お薬をあげるのかしら」

  「今日は、お薬ですよ」

笑顔でそう答え、少女は扉の向こうへと姿を消した。
残されたアミとマミは向かい合ってベッドに横になり、互いの手を取る。

マミ「お母様はとっても優しいのね」

アミ「もちろんよ。だって私たちのお母様だもの」

にっこりと無邪気に微笑み合う二人。
そして目を閉じ、

アミ「もう終わらせてしまえるといいわね」

マミ「悲しい悲しい、『眠り姫』の螺旋を」




ふっ、と意識が覚醒する感覚。
薄く目を開けると、真っ暗な天井が映った。
どうやら夜中に目を覚ましてしまったらしい。
チハヤは再び瞼を閉じて眠りにつこうとする。
しかしその時、物音がチハヤの睡眠を妨げた。

閉じかけた瞼の隙間から見えたのは、ベッドを降りるヤヨイの姿。
裸足のままペタペタとどこか覚束無い足取りで、
ヤヨイは寝室の出口へと向かい、そしてそのまま外へ出て行った。

ヤヨイの姿が消えたのち、チハヤは上体を起こす。
その目は今や完全に開かれ、眉は疑問にひそめられている。
夜中に一人廊下へ出る理由など、チハヤには思いつかなかった。
洗面所なら寝室内だし、
どこかに忘れ物をしたのだとしても取りに行くのは夜が明けてからでいいはず。

しばし逡巡したのち、チハヤはヤヨイのあとを追って寝室を出た。

廊下は暗く、ヤヨイの姿は既に闇の中に溶け入って見えなくなっていた。
しかしその時、遠くからキイと扉の開く音がした。
それを手がかりに進んでみると、校舎の外への扉が開け放たれている。
チハヤは靴に履き替え、扉をくぐった。

春先のまだ少しひんやりとした夜の空気が身体を撫でる。
と、視界の端に動くものを捉え、
目を向けた先には、ヤヨイの小さな背があった。
一体どこへ向かっているのか……。

ヤヨイの歩く速度はそう早くない。
こちらが少し早歩きをすればすぐに追いつけるだろう。
行って、声をかけてみようか。
そう思い、チハヤが足を踏み出そうとしたその瞬間。

イオリ「待ちなさい、チハヤ」

背後から小声で話しかけられ、驚いて振り向く。
そんなチハヤを尻目に、イオリはすっとチハヤの横から歩み出て、
ヤヨイの様子を遠目に見つめた。

チハヤ「どうして、あなたまでここに……?」

まさか自分以外に起きてここにいる者がいるなどとは欠片も思っておらず、
チハヤは感じた疑問を素直に口にする。
イオリはチラとチハヤを一瞥し、すぐにヤヨイに視線を戻して言った。

イオリ「それはこっちの台詞、って言いたいところだけどね。
   普段のあなたなら、こんなふうにわざわざヤヨイを追いかけたりしてないでしょ」

チハヤ「……それは……」

イオリ「あなたも気になってたんでしょう?
   最近のヤヨイの様子はどこか変だって」

その通りだ。
チハヤは沈黙を以て、イオリの問いへの肯定を示した。
と言っても、そのことがそのままチハヤがここに居る理由になっているわけではない。
わざわざヤヨイを追い、声までかけようとしたのには、
もっと直感的な何かに突き動かされたからだ。

イオリ「さ、行きましょう。そろそろ姿が見えなくなっちゃうわ」

そう言って、イオリは足を踏み出し、ヤヨイを見失わぬようあとを付け始める。
チハヤは少し戸惑いながらも、イオリに付いていった。

チハヤ「……声はかけないの?」

後ろに付きながらも、チハヤは小声で疑問を呈する。
イオリがヤヨイと仲がいいことはチハヤも十分承知している。
だから、そのイオリがこうしてヤヨイを尾行するような真似をしていることが、
チハヤにとっては意外であった。
当然湧いたその疑問に、イオリはちらとチハヤを一瞥する。
そして再びヤヨイに視線を戻して答えた。

イオリ「あの子が夜中に出歩くのは、今日が初めてじゃないわ。
   ここ最近になって、私が気付いただけでももう三回目よ」

チハヤ「え……?」

イオリ「一回目のとき、次の日の朝にヤヨイに聞いてみたわ。
   でもあの子……私が何を言ってるのか分からないって、そんな反応だったの。
   だから私も、多分夢でも見たんだろうって思ったわ」

イオリ「でも二回目があった。
    だから私、もし三回目があったらヤヨイのあとを付けてみようって決めたのよ」

チハヤ「……二回目の時は、何も聞かなかったの?」

イオリ「聞かなかったわよ。
   だって、その頃はヤヨイが昼間に居眠りするようになった時期だったから……。
   『最近夜はちゃんと眠れてるのか』って、もう私聞いちゃってたんだもの。
   それであの子は眠れてるって言ってたから……。
   でも実際は違ったわ。あれだけ毎日眠そうにしてるんだし、
   多分ほとんど毎晩、こうして出歩いてたんでしょうね」

そこでイオリは言葉を切る。
チハヤは黙って続きを待った。
斜め後ろから見えるイオリの表情には、少し寂しげな色が浮かんでいた。

イオリ「私にも隠すなんて、何か理由があるんだろうけど……
   だからって寝不足になるくらい深夜徘徊を繰り返すなんてこと、
   放っておくわけにはいかないでしょ。
   だから自力で探ることにしたの。
   納得できる理由だったらそのまま見なかったことにするけど、
   もしそうじゃなかったら叱ってやるんだから」

それから二人は、ヤヨイと一定の距離を保ちつつ、
時折木の陰に身を隠しながら尾行を続けた。
ヤヨイの動向に注意を払いながら、チハヤは、この状況を少し不思議に思った。
友人を尾行していることや深夜に出歩いていることなど、
あらゆる要素が日常とはまるで違うのだが、
チハヤにとって特に思うところがあったのはそれとはまた別の点――
こうしてイオリと同じ場所、同じ時間を共有しているということだった。

イオリ「……何? 言いたいことでもあるの?」

睨むようにこちらに目を向けたイオリとその言葉で、
いつの間にか自分が彼女を見つめていたことに気が付く。

チハヤ「いえ……別に、なんでもないわ」

視線から逃げるようにチハヤは目を逸らし、
イオリもまた、ふんと鼻を鳴らしてヤヨイに目を向け直した。

イオリ「前も言ったと思うけど、あなたと仲直りしたつもりはないわよ。
   ヤヨイのことを気にしてるみたいだから、一緒に来るのを許可してるだけ」

チハヤ「……ええ、わかってるわ」

そうこうするうちに、ヤヨイの向かう先が明らかになってきた。
夜の闇の中、徐々に姿を現した建物。
それは――

イオリ「……なんとなくそんな気はしてたけど、まさか本当に旧校舎だったなんてね」

チハヤ「でも、どうして旧校舎なんかに……」

イオリ「もうすぐ分かるわ。ほら、行くわよ」

ヤヨイが校舎内へ入ったのを確認し、二人は足を速める。
入口の前で一度止まり、
イオリは細心の注意を払って僅かに扉を開け中の様子を伺った。
ヤヨイの姿はなく、既に一階の奥、あるいは別の階へと姿を消したようだ。
耳をすませてみるが物音はしない。

イオリは目配せをして扉をくぐり、チハヤもそれに続いた。
さて、どこから探してみようか。
考えながら数歩進んだイオリであったが、ふと、
廊下の奥で何かがきしむような音が聞こえた。

イオリは振り返り、チハヤに目線を送る。
チハヤは黙って頷いた。
自分の聞き間違いではないようだ。
イオリは可能な限り足音を殺して、
おおよその音の出処と推察される辺りまで進む。

しばらく進んだところで、イオリの足は止まった。
そこには、階段があった。
先日使用したものと同じ階段であるはずなのだが、
渦を描きながら深淵へと下っていくその空間は、
イオリの目には今日初めて見たものに映った。

地下室――リツコに立ち入りを禁じられた場所への入口が今、
より深い闇をたたえて、あるいは誘い込むようにぽっかりと口を開けている。
あの物音がこの先から聞こえてきたものかどうかは分からない。
だがイオリは、ほんの僅かな逡巡を終え、階段を下り始めた。

螺旋状をとる石造りの階段。
纏う闇は深く、一歩一歩確かめるように、ゆっくりと下っていく二人。
しかしぐるりと一周ほど回った頃、
ぼんやりとした明かりが階下から先を照らしていることに気が付いた。

明かりを頼りに進むと、最下層まではすぐだった。
二人の目に映ったのは、階段と同じく石造りの床と壁の廊下、
そして壁に備え付けられた蝋燭。
この時には既に二人とも確信していた。
間違いなく、ヤヨイはこの地下に居ると。

そしてここでチハヤが気付いた。
蝋燭で照らされながらも薄暗い石造りの廊下――
その奥の、壁の一部に、一筋の明かりが線を描いている。

チハヤはその明かりに誘われるように、足を踏み出した。
少し近付けばはっきりと見える。
いくつか並ぶ扉の一つが僅かに開き、そこから明かりが漏れているのだ。

チハヤの様子を見て、イオリもすぐにその明かりに気が付いた。
今度はイオリがチハヤのあとへ続いて歩く。
と、ふと前を行くチハヤが足を止めた。
どうかしたのか、とチハヤの表情を窺おうとした、その時。

  「――さあ、こちらへ」

声が聞こえた。
ほんの短い一言であったが、それは確かに人の声だった。
そして当然のことではあろうが、知っている声だった。

チハヤは再び足を進める。
だがそれを、イオリが手を掴んで止めた。
チハヤが振り返ると、緊張した面持ちで真っ直ぐにこちらを見るイオリと目があった。
その視線の意図するところはわかっている。

『あくまで、気づかれないように』。
チハヤは頷き、イオリはそれを確認して手を離した。

そうして二人は更に明かりへ近づき、
その発生源たる部屋へ開かれた僅かな隙間に身を寄せる。
と、イオリが肩を叩いて下側を指差した。
自分が覗けないからしゃがめ、と言っているらしい。

背の低い方がしゃがめば良いんじゃないか、とチハヤは思ったが、
今はそんなやり取りをしている暇はない。
特に表情も変えることなく、チハヤは膝を曲げその場に屈んだ。
そうしてチハヤは下方から、イオリは上方から、同時に部屋の中を覗き込む。
……その瞬間。

チハヤ「――っ!?」

チハヤは目を見開いて息を呑んだ。
扉の向こうに居たのは椅子に座ったリツコと、その横に立つヤヨイだった。
だがチハヤが真に驚いたのはそこではない。
元々ヤヨイを追ってきたのだし、
先ほど聞こえた声から、リツコの存在については察しが付いていた。

チハヤが驚いたのは、リツコの手にあったもの。
ヤヨイよりもリツコよりも大きな存在感を放つ、
その小さな道具……注射器が、チハヤの呼吸を一時止めた。
注射器を満たす液体――薬物であろう緑色のその液体は、
妖しく発光してさえ見える。
その薬物が今まさに、ヤヨイの腕に注射されようとしていた。

次いで、チハヤの視線は注射器からヤヨイへと移った。
普段のにこやかな笑顔は見る影もない。
口は半開きに、目はぼんやりと虚空を見つめ、
誰が見ても明らかに様子がおかしい。
原因があの注射器の中の薬物であることも、疑いようはない。

イオリが起こした反応と思考も、チハヤとまったく変わらない。
そして二人は同時に考えた。

あの薬物は何なんだ。
なぜリツコはあんなものをヤヨイに注射しようとしているのか。
何か理由があるのか。
今すぐこの場で部屋に入って止めた方が良いのでは――
だがその思考は次の瞬間、霧散する。

リツコが、こちらへ目を向けたのだ。

リツコ「……」

注射器を横の器具台に置き、立ち上がる。
そしてゆっくりと扉に近付き、押し開けた。

ヤヨイ「……ティーチャー、リツコ……?」

うわ言のように名を呼ぶヤヨイの声を背中で聞きながらリツコは……
誰も居ない廊下をしばらく見つめた。
そして数秒後、

リツコ「なんでもありません。さあ、続けましょう」

そう言って扉を閉め、リツコは微笑んだ。
椅子に座り、再び注射器を手に取り、ヤヨイの腕にあてがう。
細い針がヤヨイの白くやわらかな皮膚を貫通し、中身はすべて注ぎ込まれる。
そして空になった注射器を置き、リツコは、

リツコ「早ければ明日……でしょうか」

もう一度扉へ目を向け、薄く笑った。




イオリ「――明日、あの部屋を探るわ」

高鳴る動悸のおさまらないままに、イオリは言った。
額に張り付いた髪を風が撫でる。
手のひらや背中にじんわりと滲む汗の理由は、
ここまで走ったからというだけだろうか。
チハヤは遠くに見える旧校舎を注視しながら、額を軽く手で拭う。

チハヤ「それじゃあ、このことはみんなには……」

イオリ「まだ言わないわ。言うとすれば、あの部屋から……何か、出てきた時ね」

『何か』、とイオリが敢えて表現をはぐらかしたのをチハヤは察した。
要するに、リツコの信用を失墜させるような何か、ということだ。
現段階ではあの行為が正当性のある医療行為なのか、
それとも別の何かなのかは分からない。
その判断がつかなかったこともあり思わず逃げてしまったが、
二人の推測はほとんどが後者へ傾いていた。

イオリ「時間は明日の昼休み。地下への階段前で落ち合いましょう。
   二人で行くとバレやすいでしょうし、別々に行くわよ」

チハヤ「もし何かの理由で身動きがとれなかった場合は……」

イオリ「その時はどちらか一人が実行するのよ。当然でしょ。
   あんなの見て放っておけるわけないじゃない……。
   何が何でも真相を突き止めてやるんだから……!」

イオリの頭の中には、
リツコかヤヨイに直接聞くという選択肢は初めから無いようだった。
ヤヨイがこの事実を隠していたこともあるが、
それ以前に、『聞くべきではない』と直感が告げていた。
そしてそれはチハヤも同様であった。
だから、黙って頷いた。

イオリ「……早く寝室に戻りましょう。
   ヤヨイがいつ帰ってくるか分からないわ」

二人は改めて旧校舎へ続く道を一瞥し、
踵を返して足早に自分たちの寝室へと戻っていった。

今日はこのくらいにしておきます。
続きは多分週末くらいに投下します。




並木を歩きながら、灰色の空を見上げる。
舞い散る桜の色も心なしかくすんで見えるのは、この曇り空のせいだろうか。

扉の前で改めてもう一度、チハヤは周囲を確認する。
……大丈夫だ、他の皆は全員中庭に居るはず。
リツコもこちらとは反対側へ歩いていくのを見た。

ひと呼吸おいて、旧校舎への扉を開く。
入口から真っ直ぐに伸びる廊下の先に見えた人影――
腕を組んで立っていたイオリも、チハヤに気付いて顔を上げる。
チハヤは黙って廊下を進み、ある程度近づいたところで、

イオリ「ティーチャーリツコは?」

チハヤ「大丈夫。少なくともしばらくはここへ来る様子はないわ」

イオリ「そう……じゃ、行きましょうか」

手短にやり取りを済ませ、二人は階段を降りる。
そして真っ直ぐに、例の部屋へと向かった。

部屋の前へ立つと、恐る恐るといった様子もなく、
イオリは手早くドアノブを回す。
意外にも鍵はかかっていなかった。
すんなりと開いた扉をくぐり、二人は周囲を見渡す。
隙間から覗いただけの昨日は見えなかった部屋の全体像は、
想像を大きく外すようなものではなかった。

昨晩の風景そのままに鎮座する器具台。
書架に並んだいくつかの書物。
それから、机と椅子。
注射器やその中身の液体は見当たらない。

二人はまず書架へ向かった。
そこに並ぶのは妙に古びた本ばかりだったが、
背表紙を見る限りでは特にこれといって目を引くようなものはない。
ただ、その種別ははっきりと二分されていた。

一つはアイドルに関連する本。
そしてもう一つは、化学に関する本である。

チハヤは適当な本を手に取り、パラパラとめくってみる。
イオリもまた同じように、まずは書架を調べ始めた。

二人とも初めに手に取ったのは、化学の本だった。
やはり昨晩の注射器が強く印象に残っているのであろう。
あの注射器の中身が何なのか、それを掴む手がかりがこの書物の中にあるかも知れない。

が、数冊目を通したところでイオリは歯噛みして手を止めた。
それらの本の内容はどれも専門的過ぎて、
何が書いてあるのかもよく分からなかったのだ。
こんなものをいくら読んだところで、手がかりを掴める気がしない。

チラと隣に目を向けると、チハヤはまだ本を探り続けている。
ここはひとまず、チハヤに任せよう。
この本棚以外に何か無いか……。
と改めて部屋を見回したイオリの目に、ぽつんと置かれた机がとまった。
机上には何も置いていないが、よく見れば引き出しが付いている。
イオリは持っていた本を書架に戻し、机に近づく。
そしてためらいなく開けた引き出しの中を見て、イオリは一瞬心臓が跳ねるのを感じた。

イオリ「チハヤ、ちょっと来て!」

その声色から、チハヤはすぐに状況を察する。
駆け足にイオリの元へ寄り、引き出しを覗いたチハヤは、大きく目を見開いた。




ヒビキ「それで、話って何? もしかしてお別れ会のことか?」

マコト「イオリとヤヨイは居ないけど、大丈夫なの?」

ユキホ「私は、昼間にイオリちゃんに呼ばれたんだけど……」

チハヤ「大丈夫、気にしないで。あなたたちだけに話したいの」

寝室に揃っているのは、イオリとヤヨイを除く学生全員。
チハヤから皆に話があるという珍しい状況に、
不思議そうな表情を浮かべる者、少し緊張した様子の者、反応は様々である。
だが全員、チハヤの顔を見て、何かとても大事な話であることは察しが付いていた。

アズサ「でも、どうして私たちだけに?
    ヤヨイちゃんにはイオリちゃんの方から話してあげるの?」

チハヤ「……いえ、話しません。みんなも、彼女には絶対に秘密にして欲しいんです」

そう言ってチハヤは脇に置かれたカバンから複数枚の紙を取り出し、
声を潜めて話し始めた。

ヒビキ「――ア……『アイドル量産計画』……?」

微かに震えた声でそう言ったヒビキの手にあるのは、先ほどチハヤが取り出した紙。
それこそが、昼間にチハヤとイオリがあの部屋で見つけたものであった。

マコト「な、なんだよこれ……。
   じ、人体実験だって……!? こんなの許されていいはずないよ!」

ユキホ「こ、これ、本当に……ティーチャーリツコが、ヤヨイちゃんに……?」

チハヤ「ええ……間違いないわ。確かにこの目で見たから……」

アズサ「……そんな……」

『アイドル量産計画』。
そう書かれた資料には、初めから終わりまで目を疑うような内容が詰め込まれており、
その中にはチハヤたちが昨晩見た光景を説明するものもあった。
つまりは、計画のための人体実験。
学園の生徒の中から最も能力の低い者を一名選び、
定期的に注射を打ち続けることで効果を見る。
能力の向上と引き換えに重大な副作用が生じることが予測されるが、
データさえ取れれば検体の健康状態は問わない……。
そんな内容だった。

ユキホ「し、信じられないよ、そんなの……。
   ティーチャーリツコが、私たちのことそんな風に思ってただなんて……!」

ユキホの声は震え、目には涙すら浮かんでいる。
他の物の反応も大きく変わらず、
信頼を寄せていたリツコの別の顔を知ったことが大きなショックを与えていることは
チハヤにも十分に理解できた。

ヒビキ「私だって、信じたくないぞ……。でも、嘘じゃないんだよね、チハヤ……」

チハヤ「……ええ、すべて事実。その資料ももちろんだけど、
   昨日見たことも、絶対に見間違いなんかじゃないわ……」

マコト「だ、だったらこんなの放っておけないよ!
   今すぐティーチャーリツコのところに行ってやめさせないと!」

アズサ「いえ……それは多分無理よ、マコトちゃん……。
    これだけじゃあ、簡単に誤魔化されちゃうわ」

マコト「え……どうしてですか! この資料が人体実験の何よりの証拠でしょ!?
   それに何より、チハヤとイオリが見てるんですよ!?」

一歩踏み寄り、マコトはアズサに食ってかかる。
だがそれに対してアズサは目を伏せたまま、静かに答えた。

アズサ「『昔から地下にあったものだから何も知らない』って、
    そんな風に言われちゃったらそれでおしまい……。
    チハヤちゃんたちのことも、『見間違い』だとか『夢を見てたんだろう』とか、
    いくらでも言い訳できると思うの……」

マコト「っ……そんな……」

ヒビキ「じゃ、じゃあどうすればいいんだよ!?
   そんなのもう、実験してるところを直接捕まえるくらいしか……」

と、そこまで言ってヒビキは、何かを思い出したかのように息を呑む。
そして手に持っていた資料を荒々しくめくり始めたかと思えば、
その手がぴたりと止まった。
ヒビキが凝視しているページ、そこに表記されているのは――

チハヤ「そう。次の薬剤投与は、昨日に引き続き今夜行われる。
    あなたの言う通り……今夜、みんなで地下室に行って、直接捕まえましょう」




月の光がおぼろげに、時折切れる雲の隙間から差し込む。
僅かな光は暗い校舎内を照らすには心もとないが、
一方で強烈な光と共に雷鳴が轟く。
稲光は、少女の陰を旧校舎の廊下に映し出した。
入り口付近に立つのは六人の少女。
その面持ちは、不穏な空模様に関係なく重苦しい緊張感を纏っていた。

チハヤが皆に『話』をして少し経った後、ヤヨイはイオリと共に浴場から戻ってきて、
それから長い時を待たず、やはり電池の切れた人形のようにぱったりと眠りに落ちた。
そしてチハヤたちが推察した通り、
昨晩に引き続いて、夜中に起きて外へ出た。

昨晩と同じように、ぼんやりとした表情で歩くヤヨイを
今度は全員で尾行した結果、行き着いた先も、昨日と同じであった。

先頭に立つイオリが振り向き、それを合図に皆、足を踏み出した。
慎重に、しかし迅速に、地下への階段へと向かっていく。

階段を下りながら皆は自然と手に力が入る。
そのうち何人かの手には、短めのバトンのようなもの――
能力補助装置が握られていた。

万一リツコが抵抗した場合は能力の使用すら有り得る。
その時に適切に過不足なく能力を扱うため。
そう考え、装置を握り締めているのだ。
リツコから贈られた物を、リツコと対峙するために持ち出すことになろうとは、
当時の誰もが予想などし得なかっただろう。

階段を下りきるまで、長い時間は要さなかった。
下りた先の廊下は昨夜と同じく、壁に並んだ蝋燭に薄明るく照らされている。
そして廊下の奥へ目をやったその時、皆は一瞬体がこわばるのを感じた。

だがイオリとチハヤの体がこわばった理由は、
他の者たちのそれとは似ているようで少し違った。

例の部屋の扉が、完全に開いている。
その『昨晩との違い』が、二人の心を俄かにざわつかせた。
頭によぎった予感めいたものに急かされるように、
イオリは足を速めて開かれた扉へ向かって進む。
ここからではまだ部屋の様子は見えない。
だが近付くにつれてイオリの覚える違和感は強くなっていった。

そして彼女とチハヤの予感は的中した。
部屋にはリツコの姿もヤヨイの姿もない。
注射器も薬剤もなく、
昼間に入った時の様子そのままに、無人の部屋がそこにあった。

だが、昼間は消えていたはずの明かりが灯っている。
閉めたはずの扉が開いている。
それは他ならぬ、誰かが少し前までここに居たことの証である。

ヒビキ「ま、まさか逃げられちゃったのか……?」

イオリ「だとしても、ヤヨイは少し前に旧校舎に入ったばかりよ。
    まだきっと校舎の中……少なくともそう遠くには行ってないはずだわ」

マコト「手分けして探そうよ!
   もしかしたら上の階に居るのかも知れない……ボク、見てくるよ!」

ユキホ「! ま、待ってマコトちゃん、私も……!」

アズサ「私も行くわ……。あまり離れすぎないように気を付けて。
    ティーチャーリツコとヤヨイちゃんを見つけたら、
    すぐに大きな声でお互いを呼びましょう」

そうして少女たちは三人ずつに別れ、地下と上階を探すことにした。
できれば全員で固まって動きたかったが、
想定していた場所にリツコたちが居ないとなるとやむを得ない。
今はまず現場を押さえることが最優先だ。

イオリ「……私たちも、急ぎましょう。
   可能性としては地下のどこかに隠れてる方が高いと思うから、気を付けて」

地下に残ったのは、イオリ、チハヤ、ヒビキの三人。
それぞれつかず離れずの距離で、隣接する部屋を一人ずつ、効率的に探っていった。
だが廊下を奥へ進み始めてすぐに、またも想定外のことに気が付いた。

地下に広がる空間が、思っていたよりもずっと広いのだ。
地上の校舎が占める面積を大幅に越えて、この地下空間は広がっている。
まるでこの地下こそが旧校舎の本体で、地上の建物は付属品であるかのような……
異様に多い部屋を探りながら、イオリたちはそんな感覚を覚えていた。

それからしばらく、少女たちは数々の部屋に出ては入り、入りは出てを繰り返した。
いくつ目かもわからない部屋の扉を開き、イオリは歯噛みする。
ここにもリツコたちの姿はない。
こんなことをしている間に、ヤヨイはまたリツコに注射を打たれているかも知れない……。
いや、きっともう打たれている。
もしかしたらもう逃げられてしまったのではないか。
上階の様子はどうなっているのだろう。
自分は今、無駄なことをしているのでは――

イオリの焦燥が限界を迎え始めた、その時だった。

  「あの子を助けに来たのね」

背後、部屋の出口から聞こえた声に、イオリは雷に打たれたように振り返る。
そこには二つの影があった。
同じ背丈、同じ体格、同じ顔の二人の少女が、そこに立っていた。

イオリ「だ……誰、あなたたち……!」

跳ねる鼓動を抑え、イオリは辛うじて当然の疑問を口にする。
だが二人の少女はそれに答えることなく、
すっと手を横方向に掲げ、揃って部屋の外を指さして言った。

  「あの子は向こうにいるわ」

  「この廊下の一番奥」

  「ずっと、誰かが来てくれるのを待ってる可哀想な子」

  「ずっと、ずっと、待ってる。可哀想な子」

そう言い残し、少女たちは部屋の外へ姿を消した。
イオリは一瞬の間を開け、ふと我に返ったようにそのあとを追ったが、
廊下には既に人影はなかった。
と、イオリは何かを踏み付けた感覚に、目線を足元へやり、同時に大きく目を見開く。
鍵が――この旧校舎で見つけた、鎖で縛られていたあの鍵が、そこにあった。

今日はこのくらいにしておきます。
続きは多分三日後くらいに投下します。

気付けばイオリは、鍵を持って駆け出していた。
廊下の奥へ、奥へ、早る動悸に駆り立てられるように。
そしてついに最奥へとたどり着く。

そこには明らかに異質……一際厳重な錠のかけられた扉があった。
その扉を前に、イオリの鼓動は更に高鳴る。
二人の人影は、『あの子』がここに居ると言っていた。
つまり、ヤヨイがここに閉じ込められているとでも言うつもりなのか。

この動悸は、乱れる呼吸は、走ったせいだろうか。
緊張しているのだとすれば……一体何に?

イオリは恐る恐る、鍵を錠の穴にあてがう。
飲み込まれるように抵抗なく奥まで入った。
そして、ガチャリと音を立てて錠は解放され、
イオリが手をかけるよりも先に、
不吉な音を立ててひとりでに扉が左右に開かれた。

ヒビキ「イオリ!!」

その声に肩を跳ねさせてイオリは横に顔を向ける。
見ればヒビキを先頭に、上階へ向かった者も含めて皆こちらに駆け寄っていた。

ヒビキ「こんなところに居たのか……心配したんだぞ!
   できるだけ離れないようにって言ったじゃないか!」

イオリ「あ……そ、そうね、ごめんなさい」

ヒビキの言葉で、半ば我を忘れてここまで駆けていた自分に気付き、
イオリは戸惑いながらも謝罪の言葉を口にする。
そんなやり取りをするうちに、六人全員がその場に揃った。
それを確認し、イオリは表情を改めてマコトたちに目を向ける。

イオリ「それで、上の方は……?」

マコト「ダメだったよ。どこにも、誰も居なかった。
   それで地下の方を手伝おうと思って、下りたところで、
   『イオリが居ない』ってヒビキに言われて……」

イオリ「……そう。悪かったわね、心配かけちゃったみたいで」

ユキホ「で、でも、なんでいきなりこんな、一番奥に……?
    この部屋に何かあるの……?」

ユキホの疑問に返答する代わりに、イオリは開け放たれた扉の奥に目をやる。
その視線を追うように、他の皆も部屋の中が見える位置まで移動した。
大仰な扉の向こうにあったのは、

ヒビキ「……? なんだ、この部屋……」

マコト「何も、無い……?」

マコトの言う通り、その部屋には文字通り何もなかった。
壁には廊下と同じように燭台がありそこで蝋燭が火を灯していたが、
ただ広い空間があるだけで、
他の部屋にあったような書架も、机も、一切何も置かれていなかった。
中に入ってぐるりと見回しても、どこにも何も見当たらない。
ただ……そんな中で存在感を放つものが一つだけ。
入り口から見て正面にもう一つ、奥へ続くであろう扉があった。

既に少女らの視線は、その扉に釘付けになっている。
今いる部屋にまったく何も無いことが、
まだ見えぬ扉の奥へと皆の意識を強く向けさせていた。
ただそんな中、ただ一人チハヤの目線だけが皆とは別の方を向いていた。

チハヤ「……その鍵、この部屋の鍵だったのね」

一瞬遅れ、イオリはそれが自分にかけられた言葉だと気付く。
他の者もチハヤの言葉に促されるように、イオリの手元へと目を向けた。

マコト「本当だ……イオリ、それ持ってきてたんだ」

ヒビキ「もしかしてそれがここの鍵だって、知ってたのか?」

皆の言葉を受け、イオリの脳裏で少し前の出来事が回想される。
謎の二人の少女と、彼女らの言葉。

イオリ「……実はさっき」

とイオリが口を開いたその瞬間――
部屋に灯った蝋燭の火が、何の前触れもなく、一斉に消えた。

ユキホ「ひっ!? な、何!? なんですかぁ!?」

ヒビキ「なんでいきなり……!? ど、どうなってるんだ!?」

アズサ「っ……みんな、落ち着いてじっとして! 慌てて動くと怪我をしちゃうわ!」

だがアズサに言われるまでもなく、全員その場を動くことができなかった。
この部屋だけではない。
廊下の明かりもすべて消えた今、全くの暗闇が周囲を覆っていた。
一体何が起きたのか、なぜ急に火が消えたのか。
多くの疑問が慌ただしく脳内を駆け巡る。
だがそんな、混乱しかけた彼女たちの意識は次の瞬間、
たった一つの感覚に支配された。

  「――っ!?」

全身の産毛が逆立つ感覚。
同時に、暗闇の中わずかでも明かりを探そうと忙しなく動き回っていた少女たちの目が、
全く同時に、一方向に固定された。

それはあの、扉の方向。
とは言え暗闇の中、誰にも扉など見えていない。
しかしそれでも彼女たちは、扉の向こうの何かに、目を向けていた。

何か、居る。
分からない。
分からないが、確実に居る。
得体の知れない何かが、あの扉の向こうに、居る……。

真っ先に動いたのはマコトだった。
暗闇に突如、眩い光が発生する。
それは、マコトが手に掴んだ装置を発動させた光だった。
光が全身を包み、圧縮され、一瞬後にはマコトは特殊な装いに身を包んでいた。
これが装置の機能の一つ。
能力の使用に服装が最適化されたのである。

これはつまり、『そうしなければならない』とマコトが判断したということ。
自身の能力を最大限に発揮しなければならない状況が今であるのだと、
その直感にマコトは従った。
数秒の間をあけ、他の者もマコトに倣うように次々と装置を起動する。
そして、まるで全員の態勢が整うのを待っていたかのように、
状況はまたも一変した。

イオリ「なっ……!?」

部屋が、赤く染まった。
消えた火が炎となり、部屋を満たしていた暗闇は一転、
目がくらむほどの明るさと身を焦がすほどの熱と変わって少女らを襲ったのだ。

ヒビキ「に……逃げろ! みんな!!」

熱の中、そう叫んだのはヒビキだった。
その声に突き動かされるように皆一斉に部屋の出口へ向かって走り出す。
だが彼女たちは全員、炎から逃げているのではなかった。
炎はきっかけに過ぎない。
今にもあの扉の向こうから姿を現すかも知れない『何か』が、
皆の身体を退避へと向かわせたのだ。

だからイオリは部屋を出たのち、すぐにはその場から離れなかった。
炎の熱から逃れることより優先すべきことがある。
部屋を振り返り、開け放たれた扉に手をかける。
そして力いっぱい扉を閉め、自らが外した鍵をかけなおした。

アズサ「イオリちゃん、早く……!」

イオリ「もう閉めたわ! 行きましょう!!」

長い廊下を六人の少女は駆け抜ける。
ずらりと並んだ燭台の蝋燭はあの部屋と同じように激しく燃え上がり、
もはや火柱となって天井や壁を焦がしていた。
当然そこを走る少女たちにも強烈な熱が襲いかかる。
本来呼吸すらままならない中を止まることなく走ることができるのは、
他でもない、装置によって纏った特殊衣装の効果であった。

その気になれば一晩中でもこの空間に居続けることもできるだろう。
だがそれでも少女たちは皆一様に必死な顔で走り続ける。
そうするうちに、ようやく地上への階段へとたどり着いた。

しかしそれと同時……轟音が、耳に届いた。
反射的に目を向けた一同は、息を呑んで目を見開く。
見れば廊下の奥から、炎が渦を巻いて爆炎となり、こちらへと迫っていた。
あれに飲み込まれれば、流石に無事で済むとは断言できない。

アズサ「急いで! 早く!!」

恐らく初めて聞く、怒鳴り声にも近いアズサの叫び。
その声が一瞬硬直した皆の身体を動かし、階段を駆け上がらせた。

一階へと上がった六人は、止まることなく出口へと向かう。
なんとか外へ。
とにかく外へ出さえすれば、僅かでも落ち着く時間を作れるはず。
そう思いただ出口だけを見据えて走った……はずだった。

イオリ「……!?」

ほとんど吐息のような声を上げ、突然イオリが立ち止まる。
迫る炎を確認しようと一瞬振り返った先、
そこに見た人影が、イオリの足を止めた。

ヤヨイ「……」

出口とは反対方向に、ヤヨイが居た。
歩きもせず、走りもせず、ただその場に立っている。
だがイオリはヤヨイが何をしているのかなど、一瞬たりとも考えなかった。

ヒビキ「イ、イオリ!?」

一人踵を返してヤヨイに向かって駆け出したイオリを、
ヒビキも足を止めて追おうとする。
だがその手をマコトが掴んで引き止めた。

マコト「駄目だ、ヒビキ! 危ないよ!!」

ヒビキ「で、でもイオリが! それにヤヨイも……!」

マコト「イオリなら絶対に大丈夫! 任せよう!
   それより早く外へ出ないと、ボクたちまで全員巻き添えだ!」

ヒビキ「っ……」

マコトの必死な形相を見て、
ヒビキは歯噛みしてイオリたちに背を向けて走った。
そして出口から転がるように外へ飛び出たのとほとんど同時、
ヒビキたちは、廊下が一部赤く染まったのを見た。

炎が吹き出てくる――
大半の者が咄嗟にそう思い、身構える。
だがその予測を外し、炎は地下通路から一気に階段を駆け上がった。
そして最上階に達したかと思えば次の瞬間、
ガラス窓を吹き飛ばす爆煙となって外へ飛び出した。

どうやら、炎からは逃げ切れたらしい。
だがその場の全員は誰一人、一瞬たりとも気を緩めることはなかった。
寧ろ警戒心を最大限に引き上げていた。

ヒビキ「みんな、気を付けて……!」

唸るように言ったヒビキの手から、光が生じる。
その光は瞬時に形を成し、
大型犬の数倍はあろうかという巨大な狼へと姿を変えた。
その巨大さや鋭い目つき、剥き出しの牙からは、
ヒビキが臨戦態勢に入っていることがはっきりと伺える。

狼はヒビキを背に乗せ、旧校舎入り口を睨んで唸り声を上げる。
また他の者も同様、こわばった表情で扉を凝視し続けた。

恐らく、来るはずだ。
あの部屋の奥に居た何かが、そう長い時を待たず、姿を現すに違いない。
いつ来る?
一体いつ――




イオリ「――ヤヨイ、こっち!!」

皆に背を向け一人逆方向へ走ったイオリは、すぐにヤヨイの元へと着いた。
そして走る勢いを落とすことなく、
ヤヨイの手を掴んでそのまま廊下を突き進む。
前方には出口はなく、ただ石造りの壁があるのみ。

だがイオリは臆することなく走り続け、空いている手を前へかざした。
瞬間、激しく電光が走り前方の壁へと刺さる。
すると壁が音とともに粉塵を上げ、
一瞬前までそこにあった分厚い石の壁には
大人一人が余裕をもって通れるほどの穴がぽっかりと穴を開けていた。

そしてイオリは見事、ヤヨイを引き連れて屋外への脱出に成功した。
その直後に階段の辺りが赤く光ったのが見え、轟音が上階の方から届く。
どうやら炎は一階を通過し階段を上ったらしい。
慌てて外へ出る必要はなかったようだが、
それなりに間一髪だったことには間違いない。

と、安堵しかけたイオリだったがすぐにそんな場合ではないことを思い出す。

イオリ「そうだわ、ヤヨイ……!
    あなたに言わなきゃいけないことと聞きたいことが山ほど――」

だがそう言ってヤヨイに向けられたイオリの顔は次の瞬間、苦痛に歪んだ。

イオリ「痛ッ……!? ヤ、ヤヨイ!?」

イオリは、ヤヨイの手を取ってここまで引いてきた。
だがその手が今、強烈な圧迫感とそれに伴う痛みに悲鳴を上げている。
原因は他でもない、
ヤヨイが万力のような力で、イオリの手をギリギリと締め上げているのだ。
しかもその力は徐々に増している。
このままでは、自分の手が握りつぶされてしまう。

イオリ「離して……! 離しなさい!!」

痛みに耐えかね、イオリはもう片方の手で強引にヤヨイの手を引き剥がした。
そして痛む手を庇うように胸元に抱え込み、数歩後ずさってヤヨイを見る。
ヤヨイは俯いていてその表情は見えない。
と思ったのも束の間、ゆっくりと、ヤヨイの顔が上がる。
そして数秒後、イオリの目は驚愕に見開かれた。

ヤヨイ「ウ……ウウウ……!」

つり上がった目、歪んだ口元、そこから漏れ出る、唸り声。
自分の知るヤヨイとは似ても似つかない、まるで狂った獣のような……。
イオリが思わずそう感じてしまうほどに豹変した、
しかし紛れもなく本人であるヤヨイ自身が、そこに居た。

イオリ「ヤ……ヤヨイ? ど、どうしたの……?」

恐る恐る、手を差し出しながらイオリは声をかける。
だがそんな彼女に――
ヤヨイは突然、拳を振りかぶった。

イオリ「ッ!?」

イオリは咄嗟に後ろに跳んで距離をとる。
一瞬前までイオリが居た場所にヤヨイの拳は振り下ろされ、
耳をつんざくような破壊音と共に地面に穴があいたのはその直後。
ヤヨイは自らの能力を、イオリに向けて全力で放ったのだ。

イオリ「ヤヨイ、なんで……!?」

数メートル離れた場所に着地したイオリは、未だに混乱と困惑から抜け出せない。
そのイオリに対してヤヨイは、

ヤヨイ「ウゥゥ……アアアァアッ!!」

尋常ならざる叫びをあげて、再び襲いかかった。

今日はこのくらいにしておきます。
続きはいつになるか分かりませんが、多分一週間以内には投下すると思います。




ヒビキ、マコト、ユキホ、アズサ、チハヤ――
彼女らはイオリとヤヨイに起きている異変など知る由もない。
五人は今や旧校舎の入口に釘付けであった。
厳密には、その奥からの気配を感じ取ろうとすべての意識を集中していた。

あの爆発の後、旧校舎には静寂が戻っている。
そのせいで自分の心臓の音がうるさいほどに聞こえる。
いや、その静寂こそが鼓動を早めているのだ。
今にもあそこから、『何か』が姿を現すかも知れない。

だが……そんな彼女たちの警戒心とは裏腹に、
少し前まで鮮烈に感じていた得体の知れない気配は
どういうわけか今は不気味なほどに静まり返っていた。

マコト「……ヒビキ、今は何か感じる?」

ヒビキ「な……何も。みんなは……?」

アズサ「私は、何も感じないわ……。
    少し前までは、信じられないくらい強い気配があったけれど……」

アズサに次いで、チハヤとユキホも首を横に振る。
ということはやはり自分の感覚が鈍ったわけではない、と各々再確認した。
理由は分からないが、今はあの気配自体が身を潜めているのだ。

あれは自分の勘違いだった……などということは、絶対にありえない。
勘違いであんなものを感じ取るはずなどあるわけがない。
とてつもない『何か』が、あの部屋の奥に居たのだ。
そのことには間違いない。

ユキホ「も、もしかして、イオリちゃんが鍵を閉めたから、
    そのまま出てこられなくなったんじゃ……」

ユキホが口にした可能性は、全員頭の片隅で考えていた。
鎖で縛られていた鍵、その鍵で開く厳重な錠……。
そういった要素から、あの部屋は何かを閉じ込めておくための、
封じておくための部屋であったのだと、五人全員が推察していた。

そして一度は開かれた鍵が再びかけられたことで、
その『何か』は再びあの部屋へ閉じ込められたのでは……。
と、少女たちの思考はそう共通していた。

ヒビキ「……ちょっと、様子を見てみるよ」

マコト「えっ……!? でもヒビキ、流石にそれは危ないんじゃ……」

ヒビキ「大丈夫、私が行くわけじゃないから」

そう言ったのと同時、ヒビキは一匹のネズミのような小動物を創生し、
手のひらに乗ったネズミに向けて言った。

ヒビキ「ちょっと危ないかも知れないけど、頼んだぞ」

ネズミはヒビキの言葉を受けて、すぐに彼女の手から飛び降りた。
そして素早く旧校舎へ向かって走り出し、扉の隙間から中へ潜り込んでいった。

ヒビキ「あの部屋の様子だけ見たらすぐ戻ってくると思うから、
    みんなもうちょっと待ってて」

こうして五人は、ヒビキの動物が帰ってくるのを待った。
能力を使うのに集中しているであろうヒビキは、
じっと旧校舎入り口を見つめ続けている。
そんなヒビキの後ろで、ふとマコトが口を開いた。

マコト「それにしても……本当にあれ、なんだったのかな……。
   姿も見えないのに気配を感じるなんて、あんなの初めてだよ」

ユキホ「マコトちゃん、言ってたよね……。
    旧校舎で見つけたあの鍵……『眠り姫』の部屋の鍵じゃないか、って……」

アズサ「それじゃあ、まさかあの気配が……?」

三人の会話を聞きながらチハヤも、鍵と一緒に縛られていた本の内容を思い起こしていた。
特にあの最後の一節。
『それは、開けてはいけない秘密の扉』……

チハヤ「……『起こすと怖い――眠り姫』」

誰へともなく、ほとんど無意識にチハヤがそう呟いた、
その直後だった。

ヒビキ「っ!?」

ヒビキがびくりと身体を跳ねさせたことに皆気づく。
何かあったのか、マコトがそう尋ねる前に、ヒビキは震える唇を開いた。

ヒビキ「……消された……」

マコト「え……?」

ヒビキ「あの部屋に行く前に、あの子が消された……! 扉は開いてたんだ!!」

瞬間、周囲の空気が一変するのをその場の全員が感じた。
同時にヒビキは振り返り、

ヒビキ「みんな上へ逃げろ!!」

その叫びに轟音が重なる。
次いで爆炎が、一階のあらゆる扉、あらゆる窓から吹き出す。

マコト「なッ……!? なんだよこれ!? 何が……!!」

爆炎の勢いに目を細めながら、間一髪、全員上へ飛んで回避することには成功した。
だがその表情は安堵とは真逆。

ヒビキ「鍵は破られてた……! 駄目だ! 外に出てくるよ!!」

吹き出た炎が周囲の木々を焼き、灰色の空を赤く焦がす。
五人の少女は眼下に広がる炎の海を睨むように注視し続ける。

そして――見えた。
炎の中に動く影。
目を凝らして見れば、それは、

ヒビキ「お……女の子……?」

一人の少女が、歩み出てきた。
燃え盛る炎に生える、鮮やかな金色の長髪。
片手には身の丈ほどもある長い棒状の何か。
年齢は恐らく自分たちとそう変わらない少女が、立っていた。
と、少女はおもむろに顔を上げる。
頭上の五人を見上げ、一人一人、確かめるように、ゆっくりと視線を動かす。
そして、口を開いた。

  「……お前たちが、私を起こしたの?」

その言葉を聞き……いや、聞く前から、皆確信していた。
眼下に立つ少女から、あの鮮烈な気配が漂ってくる。
扉の向こうに居たのは、この子。
そして今の言葉。
間違いない、彼女こそが……。

リツコ「『眠り姫』。あなた方の想像している通りです」

一同「っ!?」

背後から突然聞こえた声に全員振り向く。
そこには、薄い笑みを浮かべたリツコが居た。

マコト「な……何か知ってるんですか、ティーチャーリツコ!」

アズサ「あの子は一体……眠り姫とは、何なのですか……!」

困惑の色を浮かべ、少女たちはリツコに向けて口々に疑問を投げる。
対してリツコは顔に笑顔を貼り付けたまま、穏やかに答えた。

リツコ「彼女、眠り姫は、かつてのアイドルの成れの果て。
   今から百年前……チハヤさん、あなたと同様アイドルに選ばれたのが彼女です。
   しかし彼女は力を暴走させ、封印されてしまいました……。
   それが、眠り姫」

言いながら、リツコはゆっくりと視線を地上へと向ける。
少女たちもその視線を追い、地上へ――眠り姫へと、目を向けた。

そして思った。

『チハヤと同様アイドルに選ばれた』……?

一体これのどこが、『同様』だと言うのだ。
纏う雰囲気が物語っている。
この眠り姫と呼ばれる少女はチハヤを含めた自分たちと比べ……
何もかも、桁が違う。

リツコ「さあ、眠り姫よ。そろそろ思い出したのではないのですか? あなたの望みを」

眠り姫「……私の、望み」

そう呟いた眠り姫は、目を閉じて顔をゆっくりと下げる。
それから続いた沈黙は、
チハヤたちにとってはとても重く、長いものに感じた。
だが数秒後、

眠り姫「うん、そうだね。思い出したよ」

眠り姫の、笑顔――
牙を剥くように口角を上げたその表情とともに、沈黙の時は終わりを告げた。

眠り姫「私の望みは、この世界を壊しちゃうこと。
    全部ぜんぶ消して、グチャグチャにしちゃうこと」

その表情に、返答に、少女たちは息を呑む。
だがそんな彼女らの困惑した頭に更に追い打ちをかけるように、
背後から高揚したリツコの声がかかった。

リツコ「さあ、我が愛しき教え子たちよ……! これが最終テストです!
   眠り姫と戦い、生き残ってみせなさい! あなたたちの全力を以て!」

ヒビキ「なっ……!? ティーチャーリツコ!?」

リツコ「破滅か、生存か、あなたたちの手で未来を決するのです!
   ふふ、あははははははは……!」

マコト「ま、待って下さいティーチャーリツコ! 待って……!」

高笑いを残し、リツコはその場から飛び去っていく。
だが、マコトが闇へと消えゆくリツコの影を追おうとしたその時。

眠り姫「ねえ」

短く発せられたその声が、マコトを含む全員を振り返らせた。

眠り姫「お前たちも私の敵なんだよね。
    だったらもう消しちゃうけど、いいよね?」

ヒビキ「ま……待ってよ! 私たち、何も知らないんだ!」

マコト「そうだよ! 君のことも、何が起きてるのかも、全然……!」

アズサ「まずは話し合いましょう……! いきなり戦うだなんて、そんな……」

眠り姫の問いかけに、必死に説得を試みるヒビキたち。
しかし眠り姫は返事の代わりに、片手をすっと上げ、そして、

眠り姫「だ、れ、に、し、よ、う、か、な……」

空に浮く五人の少女を順番に、一人ずつ指差していく。
その意味が分かった瞬間、少女たちは全身の毛穴が開くような感覚を覚えた。
それから数秒を待たずして、眠り姫の指は止まる。
その先に居たのは、ユキホだった。

眠り姫「まずはお前からだね」

ユキホ「っ……!!」

眠り姫の持った長棒の先端に光が揺らめく。
一瞬後、光は弧を描く刃を形取った。
それは巨大鎌。
殺傷の意思を具現化したようなその得物に、全員の体が一瞬硬直した。
そして本能が告げた。
話し合いが通じる相手ではない、と。

マコト「ユキホ! やるんだ、早く!! 攻撃を!!」

ユキホ「は、はいっ!」

マコトの指示を聞いたのと同時にユキホは反応した。
能力補助装置を両手で構え、全集中力を込めて頭上に掲げて、

ユキホ「お願い……! 当たって!!」

ユキホの周囲に発生した数え切れぬほどの光の塊が、
眠り姫に向けて一斉に射出される。

だがその光は、眠り姫に当たることはなかった。
一歩目を踏み出した眠り姫は、
常軌を逸した速度と機動で大量の光の僅かな隙間を縫うようにして全て躱す。
そしてユキホが光を撃ち尽くしたのと同時、
地面を蹴って上空へ飛び上がり、鎌を振りかぶりながら一気にユキホに肉薄した。

ユキホ「ッ!? 速いっ……!」

そのあまりの速度に、ユキホはただ驚きの声を上げるしかできない。
だがあわやその華奢な体が鎌に切り裂かれようかとした直前。

アズサ「ユキホちゃん!!」

アズサがユキホの背後に現れ、そしてユキホを連れてその場から消えた。
鎌は空を切り、眠り姫の初撃は失敗に終わった。
だが眠り姫は口角を下げることなく、
移動した先のアズサとユキホに目をやった。

眠り姫「へー、面白い能力持ってるんだね。これなら結構遊べそうなの」

マコト「っ……ヒビキ!」

ヒビキ「わかってる!」

名を呼んだのを合図に、マコトは先行して眠り姫へと向かって飛翔する。
それに気付き、眠り姫は髪を振りマコトに顔を向けた。

マコト「はあああああッ!!」

全力の掛け声とともにマコトは光剣を生み出し、眠り姫に斬りかかる。
目にも止まらぬほどの速度の突進は、
並みの人間が相手なら反応することすら難しいものだった。
しかし相手は眠り姫。
マコトの突進も、その後の剣撃も、
舞いでも舞っているかのように易々と躱し、受け、弾き返す。

直後、背後から巨大な狼――ヒビキの創生獣が襲いかかる。
だが眼前に迫る牙にも微塵も臆することなく躱し、
次いで飛びかかったうねる鞭のごとき白蛇も、羽虫を払うかのように斬って捨てた。
そしてそのままの勢いに、一箇所に固まったマコトとヒビキに向け、
今度はこちらの番とばかりに猛然と飛んだ。

マコト・ヒビキ「ッく……!」

巨大鎌を振りかぶり、二人を同時に両断せんばかりの斬撃を見舞う。
それをマコトたちは辛うじて躱した……が、
眠り姫はどういうわけか二人を追撃することなく、
その場を素通りするかのように直進していった。
想定外の行動に意表を突かれたマコトとヒビキであったが、
眠り姫の向かう先に目を向けた瞬間、すぐにその意図が分かった。

マコト「チハヤ!!」

チハヤ「……!」

眠り姫は、一人離れていたチハヤにターゲットを変更したのだ。
何か理由があってのことか、戦術か、あるいは気まぐれか、
そんなことを考えている暇もなく、
ほぼ不意打ちに近い眠り姫の一撃は、チハヤの体を地面まで吹き飛ばした。

チハヤがやられた――
声を上げる間もなく吹き飛ばされたチハヤを見て、
その場に居た誰もが一瞬、そんな絶望にも近い思いを抱いた。
だがチハヤが吹き飛んだ先、衝撃に巻き上がった砂煙の辺りを見ながら、
眠り姫は口を尖らせて言った。

眠り姫「ふーん、あれ防いじゃうんだ。思ったよりはすごいってカンジ」

その言葉の直後、薄れた砂塵の向こうから淡く青い光が漏れるのが見え、
そこには眠り姫の言葉通り、青壁を構えたチハヤの姿があった。
と、ここで眠り姫は不意に何かに気づいたように表情を変え、

眠り姫「ん? そう言えばさっき、『チハヤ』って呼ばれてた?
   じゃあお前が今回、アイドルに選ばれた子なんだ」

チハヤは眠り姫の問いに対し何も答えることなくただ睨むように見上げる。
そして眠り姫はその沈黙を肯定と理解した。

眠り姫「そっか……でも、全然たいしたことないね。
   本当のアイドルっていうのは――」

そこで言葉を切り、眠り姫はチハヤを見下ろしたまま、
無造作に巨大鎌を肩に担ぐように掲げる。
するとその瞬間、背後から斬りかかったマコトの光剣が、鎌の刃にぶつかった。

マコト「っ……!」

眠り姫「――こんなふうに、圧倒的な力を持つ能力者のことを言うんだよ」

今日はこのくらいにしておきます。
続きは多分一週間以内には投下します。

ぶつかった両者の刃は未だがっちりと噛み合い、押し合いを続けている。
だがその持ち手の表情はまるで対照的であった。
両手で剣の柄を持ち歯を食いしばるマコトに対し、片手で鎌の柄を支える眠り姫。
そして眠り姫は、涼しげな表情で首を傾けて背後を振り返った。

眠り姫「後ろからいきなり斬りかかるなんて、ずるいって思うな。
   まあそのくらいしないと私には勝てないだろうけど」

その瞬間、視界の端にふっと影が差す。
それはヒビキの創生獣の影。
だが眠り姫はそちらを見ようとすることもなく、鎌の柄を両手で掴む。
そしてマコトの光剣とヒビキの創生獣を一気になぎ払い、
二人の能力は両断され、光の粒となって霧散した。

マコト「っあ……!?」

ヒビキ「そ、そんな……!」

眠り姫「あ、ごめん言い直すね。
    『そのくらいしたって私には勝てない』の方が正しかったよ」

そう言って眠り姫は、丸腰の二人に向けて刃を振りかぶった。

だがその刃は、マコトたちの体を切り裂くことはなかった。

眠り姫「!」

一瞬前までマコトたちが居たはずの空をただ通過した鎌を、
眠り姫はおもむろに膝下まで下ろす。
そして、視線を横にずらした。

眠り姫「……その能力、結構めんどくさいって感じ」

視線の先に居たのは遥か遠く……
マコトとヒビキの腰元からゆっくりと手を離すアズサの姿。

ヒビキ「ア、アズサさん!」

マコト「ありがとうございます……!」

アズサ「……いいの、お礼なんて」

言いながら、アズサは強ばった表情で眠り姫から視線を外さない。
そんなアズサに向け、眠り姫は気だるそうにため息をついて言った。

眠り姫「そういうの何回もされたらイライラしそう……。
   私の邪魔、しないで欲しいな」

その言葉を聞き、アズサは自身の体に一気に緊張が走るのを感じた。
だがすぐに気合を入れ直すようにきゅっと唇を引き結び、その場から姿を消した。

アズサ「だったら、しばらく私の相手をしてもらえるかしら」

背後から聞こえた声に、眠り姫は静かに振り向く。

アズサ「放っておくと、何度だって邪魔をしちゃうわよ?」

アズサは強ばりながらも不敵な笑みをたたえる。
挑発的な言葉ではあったが、アズサの狙いはその場の全員に理解できた。

ヒビキ「ま、まさかアズサさん、私たちを守るために一人で……!」

ユキホ「ア、アズサさん! 駄目です、危ないです!」

マコト「みんなで一緒に戦いましょう! アズサさん! 一人じゃ無茶ですよ!」

眠り姫「あの子たちの言う通りだって思うな。
   ちょっとだけめんどくさい能力だけど、そんなんじゃ私に勝てるわけないよ。
   それとも時間稼ぎでもするつもり?」

アズサ「……さあ、どうかしら。勝てないかどうかはやってみないとわからないものよ?」

眠り姫「……」

あくまで挑発的な態度を崩さないアズサに対し、
ここで眠り姫は初めて、微かに眉を動かす。

眠り姫「なんか……ヤ。そういうの、私キライ」

不機嫌そうに言い、鎌を構える眠り姫。
恐らく数秒後にはアズサに向けて襲いかかるだろう。
アズサの能力は確かに回避に優れてはいるが、本人の反応速度には限界がある。
もし反応しきれないような速度で急襲された場合、
アズサは為すすべもなく、あの巨大な刃に切り裂かれてしまう。

チハヤ「っ……」

気圧され、しばらく声を発することもできなかったチハヤではあるが、
ここでようやくアズサに声をかけようと口を開いた。
だが、

チハヤ「アズサさ――」

その声はアズサに届くことはなかった。

リツコ「……いけませんわ、眠り姫の邪魔をしては」

アズサ「!? ティーチャーリツコ……!?」

何の前触れもなく、気配もなく、アズサの背後に現れたリツコ……
そのリツコに今、アズサは羽交い締めにされていた。

リツコ「ここは大人しくしていただけませんこと?
   貴女には他に、やってもらうことがあるのですから」

アズサ「っ、く……!」

振りほどこうとしても、身動きが取れない。
それを見て、当然他の者たちはアズサの救出に向かおうとした。
しかしその足を、リツコの冷えた声色が止めた。

リツコ「さあ、眠り姫。この者は私に任せて、貴女は貴女の望みを叶えてください」

眠り姫「……ふーん。よく分からないけど、じゃあよろしくね」

そうして眠り姫は振り返る。
その視線に射すくめられたかのように、マコトたちは体を硬直させた。
そんな彼女たちを見、眠り姫は再び牙を剥くように口角を上げる。

眠り姫「じゃ、行くよ。頑張ってね。ちょっとは頑張ってくれないと、壊しがいがないから」

そうして、眠り姫と、マコト、ヒビキ、ユキホ、チハヤの四人との戦いが再開された。
いや、戦いと呼べるのかどうかも怪しいかも知れない。
更に速度と力の上がった眠り姫の一方的な攻撃に、
四人はただただ致命傷を避けることしかできない……。
そしてアズサはそんな仲間の姿を、
苦痛を堪えるような顔で見ることしかできなかった。

アズサ「っ……ティーチャーリツコ、なんで……!」

なぜ、どうして。
それはリツコの全てに対する疑問。
ヤヨイへの人体実験に加え、眠り姫を扇動し、自分たちを危険に晒す、
その理由がアズサには全くわからなかった。
これまで自分たちが見てきたリツコからは、まるで考えられないその言動。
厳しくも優しい、慈愛に満ちたあの表情が幻であったのだと思えるほどに、
今のリツコは、まったくの別人のようだと、アズサはそう感じた。

だがそれから間もなくアズサは悟る。
このリツコはまさしく、別人であったのだと。

リツコ「ふふふ……お久しぶりですわ――」

アズサが言葉の意味を理解するより先に、リツコはすっと右手を自身の顔にかざす。
仮面を取るかのようなその仕草の直後に現れたのは、
リツコではない……しかしアズサのよく知る顔であった。

タカネ「――お姉様」

アズサ「!? タカネちゃん……!?」

そこに居たのは、銀髪の少女。
『タカネ』……つまり彼女こそが、数年前にこの学園を去った追放者その人である。

アズサ「ど、どうしてあなたが……! 本物のティーチャーリツコは、どこに居るの!?」

タカネ「さあ、どこでしょうか。あるいは『本物』など、
   初めから存在しなかったのかも……ふふふふ……」

アズサ「っ……一体、あなたは……!」

と、歯噛みするアズサを制するようにタカネはそっと人差し指を唇に当てる。

タカネ「これ以上のお喋りは不要ですわ。さあ、私と共に参りましょう。お姉様……」

耳元で囁くように言い、アズサの目元をすっと手で覆う。
するとアズサは短く声を上げ……そのまま、眠るように気を失った。

一週間を超えた上に少ないですが、今日はこのくらいにしておきます。
続きは多分明日投下します。




イオリ「はあっ、はあっ、はあっ……!」

雲間から月光が差す闇の中、イオリは全力で駆ける。
そしてその後ろを同じく駆けるのが、ヤヨイであった。

ヤヨイ「ウウ、ウウウウウウッ……!」

イオリ「……っ」

振り返れば正気を失ったヤヨイが目に入る。
見るに堪えない親友の姿から目を逸らすように、イオリは正面へ向き直って走り続ける。
だがこのまま逃げ続けていても埒があかない。
遠くの方で、チハヤ達の身に何かが起きているのも分かっている。
早急にヤヨイの目を覚まさせなければ……!

遂にイオリは体を反転させ、ヤヨイに相対して立ち止まった。
しかしヤヨイ勢いを止めることなく、イオリに向けて全力で拳を振りかぶった。

ヤヨイ「ウアアアアアアッ!!」

イオリ「くっ……!」

鼻先を拳が掠める。
触れてもいないのに風圧で髪が乱れ、目もしっかりとは開けていられない。
咄嗟に距離を取るが、ヤヨイも逃すまいと追いすがる。
またも振りかぶった拳は、今度は伏せたイオリの頭上を通過した。
瞬間、破壊音と共に石の破片が飛び散る。
避けた先にあった石柱に、ヤヨイの拳がめり込んだのだ。
だがイオリが息を飲んだのも束の間、ヤヨイは空いた方の手で石柱を掴み、
まるで細枝を折るかのごとくへし折った。

イオリ「っ、ヤヨイ……!」

身の丈以上もある巨大な石柱が今、ヤヨイの両手の中にある。
そしてヤヨイは拳に代わって、
重さ数百キロはあろうかというその巨大な『武器』を振りかぶり、
イオリに向けて振り抜いた。

ヤヨイ「ウウウ……アアッ!! ウア゛アッ!!」

ヤヨイの猛攻をイオリは紙一重で躱し続ける。
躱しながら、懸命に語りかける。

イオリ「やめなさいヤヨイ! 目を覚まして!!」

投げつけられた石柱も躱して、イオリは辛うじて再び距離を取った。
そして、ここで遂に、イオリは自身の能力を発動した。
両手の指先から電撃が走る。
これまで躊躇っていた、『ヤヨイへの反撃』。
そこへ踏み切る決意を、イオリは今、ようやく終えたのだ。

だが当然、怪我をさせるつもりなど毛頭ない。
目的はヤヨイを失神させること。
大丈夫、自分なら上手くやれるはずだ。

イオリがそう自分に言い聞かせたのと同時、
ヤヨイは電撃に構うことなしに足を踏み出した。

ヤヨイ「ウアアアッ!!」

イオリ「……!!」

ヤヨイの拳を、イオリは横に躱す。
だが今回はそれで終わりではない。
狙いはガラ空きになったヤヨイの首筋、後頭部。
そこへ向けて……

イオリ「ごめんなさい、ヤヨイ……!」

ヤヨイ「ーーッ!!」

放った電撃は、見事ヤヨイの首筋へ命中した。
声にならぬ声を上げて動きを止めるヤヨイ。
膝が崩れ、拳を振り抜いた勢いそのままに、前のめりに地面に倒れていく。

やった、成功だ――
と気を緩めたことをイオリが後悔したのは、その一瞬後。
折れかけたはず膝が、ヤヨイの体を支えた。

イオリ「なっ……」

ヤヨイ「ア゛ア゛ア゛ア゛ッ!!!!」

瞬間、凄まじい衝撃がイオリを襲った。
声を上げる暇もなく吹き飛ばされ、壁に激突する。

イオリ「っか、は……!」

ぐらりと体が揺れ、地面に倒れこむイオリ。
辛うじて両腕での防御が間に合ったものの、
ヤヨイの能力の前では生身での防御などほぼ無意味。
遅れてやってくる両腕と全身への激痛に顔を歪ませる。
くらむ視界の先では、変わらず健在のヤヨイが、
唸り声を上げながらこちらへ歩み寄ってくる。

駄目だ、このまま寝ているわけにはいかない。
起きないと駄目だ。
やられてしまう。

イオリは必死に自分に鞭打ち、震える膝を痛む腕で支えながら立ち上がる。
そしてそれを待っていたかのように、ヤヨイが声を上げて襲いかかってきた。

ヤヨイ「ウアア! アアアアッ!!」

イオリ「っく、ッ……!!」

ダメージで鈍る体の動きを念動力で補いながら、
イオリは必死にヤヨイの猛攻を躱す。
しかし躱しながら、イオリの心は徐々に、薄黒くにごり始めていった。

自分は今、何のために攻撃を避けているのか。
避けてどうするのか。

そんなの決まってる、ヤヨイを正気に戻すためだ。
でも、どうやって?
気絶させるのはさっき失敗した。
あれでダメなら、他に方法があるのか。
あれ以上電撃の威力を上げるか?

いや、危険だ。
あれは本来なら間違いなく意識を失う威力で放った電撃だった。
それなのに、あれ以上威力を上げると、
ヤヨイの体に傷を負わせてしまうかも知れない。
ヤヨイを傷つけることなんて、自分にはできない。

ならどうする。
諦めてしまうか?
もう避けるのはやめて、ヤヨイの拳にこのまま身をゆだねてしまおうか……?

――絶望、諦観。
親友の豹変が、親友に襲われているという事実が、
イオリの精神にイオリらしからぬ感情を生じさせる。
その目からも少しずつ、光が失われ始める。

が、その時。

イオリ「……?」

頬に何かが触れた。
ヤヨイの拳を避けたのと同時に、頬のわずか一点に、何かが触れた。

イオリはほとんど無意識的にヤヨイから距離を取り、指でその『何か』を確かめる。
それは、血だった。
だが自分のものではない。
それは――

ヤヨイ「ウウ、ウウウウッ……!!」

――気が付かなかった。
一体いつからだったのだろう。
あまりに普段と違う、豹変した表情にばかり気を取られ、まったく気が付かなかった。

ヤヨイの両拳が、血に濡れている。
正気を失い、地面を、壁を、あらゆるものを殴り続けた結果、
ヤヨイは自分自身を傷付けていた。

……いや違う。
ヤヨイをここまで傷付けたのは……私だ。
私が中途半端だったから、私がただ逃げてばかりで何もしなかったから。
だから……。

イオリ「……ごめんね、ヤヨイ」

両手から電流が迸る。
激しく音を立てるその電撃はまさに、イオリの覚悟の大きさを現すものだった。

イオリ「今すぐ助けるから……! 絶対、目を覚まさせるから!!」

ヤヨイ「ウヴ……アアアアッ!!!」

イオリの叫びに呼応するように、ヤヨイも咆哮を上げて走り出す。
だがイオリは一歩も引かない。
その場に構え、両手をかざし、

イオリ「きっとかなり痛いけど、我慢しなさい!!」

ヤヨイ「ッ……!? ア゛ア゛ア゛ア゛ッ!?」

放たれた電撃がヤヨイの体を包む。
先ほどまでとは比べ物にならない強烈な電流が、ヤヨイの体に流れ続ける。

イオリ「うあああああああああああっ!!!!!!」

ヤヨイの悲鳴をかき消すように、
苦痛を堪えるような表情でイオリも叫ぶ。
そして数秒にも渡る電撃は……
ヤヨイの悲鳴が途切れたのと同時に終わりを告げた。

イオリ「ヤ……ヤヨイ!!」

糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちたヤヨイ。
イオリは慌てて駆け寄り、倒れこむようにしてヤヨイの体を支えた。

イオリ「ヤヨイ、大丈夫!? ヤヨイ!!」

腕の痛みなど忘れ、ヤヨイの体を揺すり懸命に声をかける。
するとほとんど吐息のような声と共に、ヤヨイはゆっくりと目を開いた。

ヤヨイ「……イオリ、ちゃん……?」

イオリ「……!」

ヤヨイ「あ、れ……? 私……何、を……」

ぼんやりとした目で宙を見つめながら、ヤヨイは記憶を辿るように呟く。
そんなヤヨイに、まずどんな言葉をかけるべきか。
とイオリが考えるうちに、ヤヨイはポツリと言った。

ヤヨイ「……夢、だったのかな……」

イオリ「え……?」

ヤヨイ「私ね……とっても、いい夢を見てたんだ……。
   イオリちゃんと一緒に、綺麗な青空を、びゅーんって、飛び回る夢……。
   まるで、自分の体じゃないみたいに……自由に、飛び回れて……。
   だけど……そっか。夢だったんだね……」

少しだけ悲しそうに、ヤヨイは笑う。
そしてイオリを見つめて、

ヤヨイ「でも……きっと、夢じゃなくなるよね……?
   私ね、ティーチャーリツコに、言われたの……。
   私が空を飛ぶのが、下手っぴなのは、病気のせい、だって……。
   でも、薬を注射すれば、上手になれる……私も、アイドルになれる、って……」

イオリ「……ヤ、ヨイ……」

ヤヨイ「えへへ……私、頑張るね……。きっといつか、アイドルに……。
   一緒に……アイドルに、なろうね……イオリちゃん……」

イオリは、すぐには答えられなかった。
ただ堪えた。
震える唇を、下がりそうになる眉を、懸命に堪えた。
そして、とても、とても優しい微笑みを浮かべ、答えた。

イオリ「もちろんよ……。一緒に、アイドルになりましょう……!」

ヤヨイ「……うん……ありがとう、イオリ、ちゃん……」

それきり、ヤヨイは言葉を発さなかった。
目も開けなかった。
力なく、眠るように、イオリの腕の中に抱かれていた。
そんなヤヨイを、イオリはそっと、だが強く、抱きしめた。

……自分たちは、アイドルになるために努力してきた。
アイドルを目指して、頑張ってきた。
でも、そのために……ヤヨイは、こんな目に遭っている。
そしてこんな目に遭っても、ヤヨイはまだ、アイドルに憧れ続けている。

これが自分たちの目指していたものなのか。
訳のわからない注射を打たれ、暴走させられ、
そうまでして目指さなければならないものなのか。

腕の中に感じるヤヨイは酷く軽く、酷く繊細で、酷く、傷ついている。
視界が滲む。
問わずにはいられない。

イオリ「……一体、アイドルって何なのよ……!」

イオリの問いは誰に答えられることもなく、
雲間から差す月明かりと共に、夜の闇へとただ静かに溶け入っていった。

今日はこのくらいにしておきます。
続きは多分また一週間後くらいになると思います。




マコト「――今だ、ユキホ!」

ユキホ「はい!!」

マコトの合図でユキホは手を振り下ろし、
初めと同じように、だがそれ以上の数の光の塊が放たれた。
しかし……

眠り姫「だから、ムダだって言ってるの分かんないかなぁ!」

眠り姫は迫り来る無数の光に向けて刃をかざし、
避けることすらせずにほんの一度、大きく柄を振った。
するとユキホの放った光は、ただのひと振りですべて虚しく四散した。

ユキホ「そんな……!」

マコト「ッ! 危ない!!」

叫んだマコトは、次の瞬間にユキホに襲いかかった斬撃を辛うじて光剣で防いだ。
だがその直後、抑えきれなかった衝撃が
マコトの体をユキホ諸共地面へと吹き飛ばしてしまう。

マコト「っぐ……!」

咄嗟にユキホの体を抱え、念動力で地面への激突を避けたマコトではあったが、
それでも勢いは殺しきれずに落着、数度転がった後にようやく二人の体は止まった。

ヒビキ「マコト、ユキホ!! こ、のぉおおおお!!」

気合を込めるように発せられたヒビキの叫びを、
眠り姫は薄ら笑いを浮かべて見下ろし続ける。
そして、ヒビキの周囲から大量発生した鳥獣達が飛びかかるのを
まるで埃でも払うかのように斬って捨てつつ肉迫し、
マコト達と同じように、ヒビキを地面に向けて蹴り飛ばした。

ヒビキ「ぅあっ! く……!」

マコト「ヒビキ! 大丈夫!?」

ヒビキ「だ……大丈、夫……!」

そう答えたヒビキではあるが、うつ伏せの状態から体を起こしたまま、立ち上がれない。
またそれはマコトとユキホも同様であった。

チハヤ「三人とも、大丈夫!? 怪我は!?」

唯一まだ吹き飛ばされていなかったチハヤがそばに降り立つ。
見る限りでは三人とも大きな怪我はしていないようだった。
だが地面に座り込んだままで立ち上がろうとしない。
マコトも、ユキホも、ヒビキも、限界が近かった。
肉体的な疲労ももちろんある。
しかしそれ以上に、精神が限界を迎えつつあった。

眠り姫と交戦しているうちにアズサの姿が消えてしまったことや
直前にリツコがアズサを羽交い締めにしていたことなど、
不安に心が揺さぶられ続けていた。

そして何より、知ってしまった。
自分達はそれなりに上手く能力を扱えている自信はあったし、
アイドルの最終候補に残ったという自負もあったのだが……
そんなものはただの幻に過ぎなかったのだと。

眠り姫「諦めてくれた? まあ、アイドル相手によく頑張った方だと思うよ。
    なんにも意味なんてなかったけどね。それじゃあそろそろ……」

四人がかりでも全く歯が立たない。
自分達とはまるでレベルが違う。
あれが――

眠り姫「みんな消えちゃえばいいって思うな!」

両手を掲げた眠り姫の周囲に、魔法陣のような図形が展開される。
その瞬間、皆は攻撃を予感した。
もはや抵抗することもできず、マコト、ユキホ、ヒビキは痛みに備えて身を固くする。
だが、

チハヤ「っ……!!」

ただ一人、眠り姫を見据えて立っていたチハヤ。
その彼女がかざした両手から、巨大な二重障壁が発生する。
そして青い光壁は見事、彼女たち全員を眠り姫の放った光線から守り抜いた。

三人「チハヤ!」「チハヤちゃん!」

名を呼ぶ声を背に受けたまま、チハヤは上空の眠り姫を見据え続ける。

チハヤ「――あれが、アイドルの力だというの……!」

その言葉は他の三人同様、眠り姫の力に驚くものであった。
だがその目は違う。
圧倒的力を目にしてなお、チハヤはまだ抵抗の心を失わずにいた。

眠り姫「……しつこいなあ。まだ諦めてなかったんだ」

光線の衝撃に煽られた火の粉を纏い、冷然としてチハヤを見下ろす眠り姫。
先程までのように嘲笑に歪んだ表情は既にない。

チハヤ「みんな……聞いて」

眠り姫から目を離すことなく、チハヤは背後の三人に呼びかける。
そして静かに続けた。

チハヤ「ここは私が足止めするから、みんなは逃げて。少しでも早く、少しでも遠くに」

ユキホ「え……!?」

マコト「なっ……何言ってるんだよ、チハヤ!」

ヒビキ「に、逃げるなら一緒に逃げようよ!
   チハヤを置いて逃げるなんて、そんなことできるわけないぞ!」

チハヤ「わかっているでしょう……? 誰かが足止めしないと、彼女からは逃げ切れない。
    そしてその役目を果たせるとすれば、多分、私しか居ない」

ヒビキ「で、でも、そんな……!」

マコト「チハヤだって分かってるはずだよ! 一人で残ったら、どうなるか!」

チハヤ「……大丈夫。私はやられたりなんかしない。それに……」

そこでチハヤはほんの一瞬後ろへ目を向け、僅かに微笑んだ。

チハヤ「みんなを守れるのなら、私がここに来た意味も、きっとあったんだって思えるから」

強い決意が込められたチハヤの言葉ではあったが、三人はやはり拒絶しようとする。
仲間を一人置いて逃げることなどできない、と。
が、その言葉を眠り姫の静かな声が止めた。

眠り姫「ねえ、何それ? お前、何を言ってるの?
   『一緒に逃げる』? 『みんなを守る』?
   面白いね。そうやってお友達と仲良しごっこする余裕がまだあるんだ」

その声色に三人は同時に視線を上げた。
そして、眠り姫の表情から、声から、全員が察した。
彼女が怒っているということを。

眠り姫「わかってるよね? どんなに仲良しごっこしたって、そんなの何の意味もないって。
   私がその気になったら、みんな消えちゃうんだよ?
   友達だとか、一緒にとか、そんなの、何の意味もないの」

先ほどアズサに向けた不機嫌そうな顔とも違う、明らかな怒り。
圧倒的強者の放つ負の感情に、チハヤは体がこわばるのを感じた。
だがそれと同時に、初めてチハヤは、
得体の知れなかった眠り姫に何か「人間らしさ」のようなものを見た気がした。

チハヤ「何を、怒っているの……?」

眠り姫「……うん?」

チハヤ「あなたが世界を壊そうとしていることと、関係があるの?
   何かに怒ってるから、世界を壊そうとしてる……そういうことなの?」

ヒビキ「チ、チハヤ、何を……!」

チハヤは眠り姫との対話を試みようとしている。
そのことに気付いたヒビキ達三人は、不安の色をより濃くした。
下手に刺激すれば何が起こるか分からない。
眠り姫の怒りが更に強まるかも知れないのだ。

眠り姫「変なこと言うね。私が何かに怒ってる? 別に何にも怒ってないよ」

チハヤ「……もし、『あの本』に書かれていたことが、本当にあなたのことなら……。
   あなたは昔、大切な友達と……」

眠り姫「別に何も無いって言ってるよね?
   もしかして、そうやって私と話してれば助けてもらえるって思ってる?」

チハヤ「違うわ! 私はただ……!」

懸命に訴えかけようとしたチハヤの言葉はしかし、
薙ぎ払うように振られた刃によって断ち切られた。
振った鎌を肩に担ぎ、眠り姫は怒りを宿した語調で言った。

眠り姫「もういいよ。分かりやすく教えてあげるから。
   お前が言ってたことも、お前達の頑張りも、全部全部、意味なんてないんだって」

眠り姫はゆっくりと巨大鎌を構える。
それを見た地上の四人は攻撃に備えて身構え――

眠り姫「はい、おしまい」

背後から聞こえたその声に振り向いた瞬間には既に、
刃がチハヤの首筋に向けて振られた。

チハヤ「ッ……!?」

大きく見開かれたチハヤの瞳。
そこに写っているのは、瞬時に自分の背後に回り込んだ眠り姫……ではなかった。
また、自分の首を切り裂く直前で止まった巨大な刃でもなかった。
他の三人も同様である。
彼女達は、眠り姫の凶刃を止めたモノ、そのものを見ていた。
そしてそれは、眠り姫もまた同様であった。

   「……そんなことないよ、ミキ。
   友達にも仲良しにも、頑張りにも……意味がないなんてことは絶対にない」

それは少女だった。
眠り姫のそれと似た武器を携え、
眠り姫のそれと対照的な白い装いを纏った少女が、
チハヤと眠り姫の間に立ち、刃を止めていた。

チハヤ「ハル、カ……?」

ぽつりと呟いたチハヤにヒビキ達は目を向ける。
ハルカと呼ばれた少女は眠り姫に対峙したまま、チハヤに答えた。

ハルカ「ごめんね、チハヤちゃん。みんなも……。こんなにギリギリになってごめん。
   でも、大丈夫……。この子は私が止めるから。
   だからみんなは早くこの学園から離れて……!」

それを聞き、眠り姫が動いた。
ハルカを目の前に、見開かれていた瞳は笑みに歪められ、

眠り姫「……あはっ!」

吐息のような笑い声を残し、
少女と眠り姫はまったくの同時に砂塵を巻き上げて宙へと飛び上がる。
そして上空で何度も何度も、光を纏った影同士がぶつかりあう。

もはや目で追うことすら難しいその戦いを
しばし呆然と見上げていた地上の四人であったが、
ハッと我に返ったようにヒビキが口を開く。

ヒビキ「チ、チハヤ! あの子、一体何者なんだ!? 知ってるのか!?」

チハヤ「……時々、この学園に遊びに来てた他校の生徒……。そのはずだけれど……」

マコト「『ハルカ』、って言ってたよね。
   いや、それより……あの子、眠り姫のことを知ってるみたいだった……!」

ユキホ「眠り姫のこと、『ミキ』って呼んでた……。
    で、でも、眠り姫は百年前にアイドルに選ばれたんだよね!?
    じゃあ、あのハルカっていう子は……!?」

突如現れた謎の少女。
眠り姫のことを知っており、しかもどうやら、
眠り姫と同等の力を有しているらしきその少女に、一同の頭は混乱しかけていた。
しかしそんな中、チハヤはぐっと拳を握り、決意するように口を開いた。

チハヤ「彼女が何者なのか、それを考えるのはあとにしましょう。
    それより……逃げるなら今しかないわ。
    ハルカが眠り姫を止めてくれている、今しか……」

ハルカと共に眠り姫と戦う、という選択肢は、確かにあった。
しかし、チハヤを含めて誰一人、それを選ぼうとはしなかった。
いや、選べなかった。
自分達ではハルカの足でまといになってしまうのだと、
考えるまでもなく悟ってしまっていたのだ。

マコト「っ……わかった。あの子の言った通り、すぐにここを離れよう……。
   でもまだ、イオリとヤヨイが残ってる! それにアズサさんも……!」

ヒビキ「わ、私、探してくるよ! 三人は先に逃げてて!」

ユキホ「え……!? で、でもヒビキちゃん……!」

ヒビキ「大丈夫! 私の能力を使えばきっとすぐ見つかるから!」

マコト「ま、待ってよヒビキ! 一人でなんて……!」

だがマコトの制止を聞かず、ヒビキは背を向けて駆け出した。
それを追おうとマコトも足を踏み出そうとしたが、その直前に思い出した。
今自分の腕の中で、ユキホが震えているということを。

恐らくヒビキ自身、あの眠り姫とハルカの戦いに突っ込んでいくようなことはしないはず。
しかしそれでも、ただ一人でイオリたちを探すのはあまりに危険すぎる。
放っておくことなどできない。
が、震えるユキホを戦いの渦中へ連れて行くことも
ここに置き去りにすることも、マコトにはできなかった。
そしてそんなマコトの胸中を察したか否か、

チハヤ「私も行くわ。彼女のサポートは私がするから、あなたたちは先に逃げていて」

そう言い残し、ヒビキの去っていった方向へとチハヤも駆け出した。
マコトは小さくなっていくチハヤの背を数秒、
拳を握って見つめたのち、ユキホの手を掴んで踵を返した。

ユキホ「え……ま、待ってマコトちゃん! 本当に私たちだけで逃げるの!?」

マコト「仕方ないよ……。大勢で行っても危険が増えるだけだ」

ユキホ「で、でも……」

マコト「気持ちはボクも同じだよ! でもボク達じゃ力になれない……!
   それにユキホ、ずっと震えてるじゃないか!」

ユキホ「っ……」

マコト「そんな状態で行ったって、ただ無茶なだけだよ……!
   だからここは逃げよう! 今はみんなを信じるしか……」

が、その時。
マコトの足は言いかけた言葉と共に止まった。
その目は大きく見開かれ、一点に固定されている。
ユキホもまた、マコトと同じように息を飲んで静止する。

前方に立つ人影が二人の体を止めた。
薄く笑って立つその人物に向け、
数秒の沈黙を経て、ユキホが震える唇を開いた。

ユキホ「タ……タカネ、お姉さま……」

今日はこのくらいにしておきます。
続きは多分また一週間後くらいになると思います。




二つの光が激しくぶつかり合っていた空は、今は静けさを取り戻している。
ハルカと、眠り姫。
今や月を覆っていた雲も、二人の強力な能力者の戦闘の余波によってだろうか、
薄くかき消され、大きな月の明かりが地表を照らしていた。
そしてその光の届く、校舎の屋根。
そこに今、二人は向き合い立っていた。

眠り姫「……待ってたよ、ハルカ」

ハルカ「帰ろう、ミキ……。ここは、私たちの居ていいところじゃない」

やはり牙を剥くような笑みを浮かべる眠り姫と、
険しいながらも真っ直ぐな目で正面を見つめるハルカ。
ハルカの言葉から数瞬置き、眠り姫は笑みを崩さぬままに言った。

眠り姫「『帰ろう』? 何言ってるの?
    私を置いてどこかに行っちゃったのはハルカの方でしょ?」

その時、僅かにハルカの表情が歪んだ。
苦痛を堪えるように寄せられた眉根は、眠り姫の目にはどう映っただろうか。

眠り姫「勝手だね。私は、ずーっとハルカを待ってたっていうのに」

ハルカ「……そうだね。だから、こうして迎えに来たの。
    約束を破ったことの、償いのために」

眠り姫「償い……? そんなのどうでもいいよ。約束っていうのも覚えてないし。
    それに、置いて行かれたことも別に怒ってないから。ただちょっと退屈だっただけ」

目を閉じて、眠り姫は一歩前に足を踏み出す。
それに応じてハルカも手にした両剣を構えた。

眠り姫「百年間……多分、ずっと夢を見てたの。ちゃんと覚えてないけど、大体わかるよ。
    私はハルカが居なくなった時から、ずっとこうして……」

瞬間、眠り姫の姿が消えた。
かと思えば直後、ハルカの上空から巨大鎌が振り下ろされる。

ハルカ「っ……」

躱して空へ飛んだハルカを眠り姫は見上げる。
そして跳躍の構えを見せつつ、眠り姫は叫んだ。

眠り姫「ハルカと、戦ってみたかったんだって!!」

言い終わるや否や、眠り姫はハルカに肉迫し、刃を振りかぶる。
ハルカは防いだが、その表情はやはり辛そうに歪んでいた。

ハルカ「ミキ……!」

眠り姫「帰る場所なんて、もうどこにもないの!
   私はこの世界をぜんぶ壊しちゃうんだから! もちろんハルカのこともね!!」

巨大鎌の刃の輝きが一際増し、
猛然と振られたその勢いのまま、ハルカは大きく弾き飛ばされた。
しかしすぐに空中で体勢を立て直して眠り姫に向き合う。
そして、強い意志を込めた瞳で真っ直ぐに眠り姫を見つめ、言った。

ハルカ「……そんなこと、させないよ。私はもう、約束を破りたくないから……!
    だからあなたを連れて帰る! 『眠り姫』なんかじゃない、本当のミキを!!」




イオリ「……何なのよ、あれ……。本当にあれが、アイドルだって言うの……!?
   それにハルカって子も何者なのよ!?」

ヒビキ「私たちにも、何が何だかわからないんだ! それより、アズサさんは……」

イオリ「私は見てないわ! 探すのなら急がないと……!
   ティーチャーリツコに連れ去られたっていうのが本当なら、
   アズサまでヤヨイと同じ目に遭わされるかもしれないんでしょ!?」

ヒビキ「そ、そうだ、本当に急がなきゃまずいんだよ……!
   あ、でもまずヤヨイを安全なところに連れて行って、それから、えっと……!」

マコト達と別れてからそう時間を空けず、イオリ達の元へ着いたヒビキとチハヤ。
彼女達は互いの情報を交換し、現状を把握した。
だがそのことが逆に皆の頭を混乱寸前に追いやっていた。
自分の身に起こったことだけでも整理が追いつかないのに、
離れていた仲間に起きたことも訳のわからないことだったのだから。

豹変したヤヨイ、リツコに攫われたアズサ、眠り姫の存在に、ハルカの登場――
これだけのことを同時に処理することなど到底できるはずもない。
最優先にするべきは恐らく、アズサの捜索。
またそれと並行して、気を失っているヤヨイを安全な場所まで避難させたい。

ヒビキ「え、えっと、じゃあ、イオリはヤヨイをお願い!
   私とチハヤはアズサさんを探しに行くよ! それでいいよね、チハヤ!」

が、そう言って振り返ったヒビキの目に写ったのは、黙ってじっと空を見上げるチハヤの姿。
ヒビキの声に気付いてすらいないのか、まったく反応を返さなかった。

ヒビキ「ねえ、チハヤ! チハヤってば!」

チハヤ「えっ? あ、ご、ごめんなさい……!」

再度呼びかけられチハヤはようやく我に返ったように返事をする。
ヒビキとイオリは眉をひそめ、チハヤの見ていた先にチラと視線をやった。

ヒビキ「二人の戦いが、気になるのか? でも私たちにはどうしようもないよ!
    あんなレベルの戦い、付いていけるわけがないんだ!」

イオリ「悔しいけど、ヒビキの言うとおりよ……!
    私たちは私たちでするべきことをするの!」

チハヤ「……私たちに、できることを……」

イオリの言葉を復唱したチハヤは、もう一度空を見上げる。
視線の先には、ぶつかり合う二つの光。
険しい顔つきのハルカと、『笑顔』の眠り姫。
チハヤは胸元で、片手を強く握る。
眉根を寄せたその表情は、それまでチハヤが見せたことのないものであったが、
彼女が今何を思っているのか、それを察する余裕は今のイオリとヒビキにはなかった。

イオリ「チハヤ、早く! 事態は一刻を争うんだから!」

ヒビキ「私たちはアズサさんを探しに行こう! ほら、行くぞ!」

チハヤ「っ……ええ、わかったわ。いきましょう……!」

二人に急かされ、チハヤはようやくハルカと眠り姫に背を向けてアズサの搜索へ向かった。
しかし瞼の裏には、どういうわけか強く焼きついていた。
ハルカと戦う眠り姫の笑顔が、チハヤの心を妙にざわつかせていた。




アミ「始まってしまったのね」

マミ「それとも、終わってしまうのかしら」

手を取り合って、双子は空を見上げている。
憐憫に満ちたその目の見つめる先にあるのは、眠り姫。

マミ「恐いわ、アミ。眠り姫が目を覚まして、私、とっても恐い」

アミ「私もよ、マミ。それに、とっても可哀想」

マミ「そうね……。眠り姫は目覚めたけれど、『あの子』はまだ眠ったまま」

アミ「目を覚ましてくれるかしら。そうすればきっと、この悲しい螺旋を終わらせられるのに」

マミ「終わらせてくれるのかしら」

アミ「それとも、また始まってしまうのかしら」

双子の少女は悲しげな顔で、眠り姫を見つめ続けた。




タカネ「ごきげんよう、ユキホ、マコト」

にっこりと笑い、首を傾けて挨拶するタカネ。
そして硬直したままの二人に向け、笑顔のまま続けた。

タカネ「これほどの素晴らしき夜に、二人でどこへ行こうというのですか?」

マコト「っ……ユキホ、下がって!!」

ユキホ「マ、マコトちゃん……!?」

ここでようやく、マコトの体が動いた。
光剣を構えて目の前のタカネを睨みつける。
タカネの発する異様な雰囲気に本能が警笛を鳴らしたのだ。
対して、タカネは殊更に悲しげな顔をして顔を伏せた。

タカネ「あらあら……悲しいですわ。そんな風に怖い顔をされて……」

が、その顔はすぐに上がる。
一転、妖しい笑顔を浮かべたタカネは、ユキホに視線を移し、

タカネ「貴女はそんな顔はしませんよね。ユキホ?」

マコト「何を言って……それより、ボクの質問に答えてもらうよ! 君は一体……」

しかしその時、マコトの視界にふっと影が写る。
反射的にそちらに目を向けたマコトは、その瞬間、思わず声を上げた。

マコト「!? ユ、ユキホ!」

後ろに立っていたユキホが、
まるでタカネにおびき寄せられるかのように、フラフラと歩いていく。
咄嗟にその手を掴んで引き止めたマコトだったが、
振り向いたユキホの表情を見て呼吸が止まった。

ユキホ「……? どうして止めるの、マコトちゃん」

それは今まで何度も見た、あの色のない表情だった。
マコトは声が出せなかった。
ただ、確信した。
いつからかユキホに起き始めていた異変、その元凶が、タカネにあったのだと。

マコト「ユキホに……ユキホに何をしたんだ!? タカネ!!」

タカネ「まあ、恐ろしい……! そのように怒鳴られては、
    怯えてしまってお話もできませんわ……ねえ、ユキホ?」

ユキホ「ダメだよ、マコトちゃん……。お姉さまに酷いことしちゃ」

マコト「……ユキホ……!」

マコトは、怒りと悲しみの入り混じった目でユキホを見、
そして、タカネを見た。
少し離れた位置で嘲るような笑みを浮かべているタカネ。
と、その時。
ユキホが突然、自分の手を掴んでいたマコトの手を、掴み返した。

マコト「!? ユキホ、何を……」

ユキホ「マコトちゃんも行こ? お姉さまのところへ」

マコト「ッ……!!」

ぐいと手を引かれ、マコトは全身から嫌な汗が吹き出るのを感じた。
反射的にユキホの手を払いのけ、まとわりつく汗を振り払うように力を入れて叫ぶ。

マコト「何が目的なんだ、タカネ! ユキホを操ってまで、一体何がしたいんだ!?」

タカネ「操るだなんて、酷い物言いですわ……。
    ユキホは愛する私のために協力してくれているだけだというのに。
    そうですよね、ユキホ?」

ユキホ「はい、お姉さま」

色のない表情のまま、ユキホはタカネに微笑みかける。
マコトはその返事を聞き、顔を見、
今にも泣き出しそうな表情で、しかし何より強い怒りを込めて、タカネに向かって叫んだ。

マコト「やめろ!! もうわかってるんだ! 今のユキホは正気じゃない!
   前から時々こんなふうになって……!
   君が何かしたんだろ!? 何のためにこんなことをするんだ!!」

タカネ「……ふふっ。少し、実験に協力してもらっているだけですよ。
   できれば貴女も一緒に来て欲しいのですが。
   協力者は多いことに越したことはありませんもの」

相変わらずの薄ら笑いを浮かべたまま、タカネは答える。
しかし要領を得ないのその回答と表情から、マコトは確信した。
タカネの目的は、やはり真っ当なものではないのだと。

マコト「誰が協力なんてするもんか……! 今すぐユキホを、元に戻すんだ!!」

タカネ「そうですか。では結構です」

あっさりと言い放たれたその言葉は、
怒りを宿したマコトの声色とは対照的に酷く冷たかった。
その声色にマコトは背筋が粟立つのを感じた。
いや、声色のみではない。
タカネの全身から滲み出るどす黒いオーラが、マコトの警戒心を最大限にまで高めさせた。

タカネ「協力を得られないのであれば仕方ありません。
    貴女にはここで消えてもらいましょう」

マコト「ッ……!!」

マコトが攻撃を決意したのはこの瞬間であった。
足を踏み出し、光剣を振りかざし、

マコト「はあああああああッッ!!」

全身全霊を込め、マコトはタカネに斬りかかった。
その正義の剣は、タカネを邪悪なオーラごと両断する……はずであった。

マコト「なっ……!?」

タカネ「ふふ……大したものですね。
    眠り姫との戦いで消耗していながらそれだけ動けるのですから」

妖しい光のうねりが、マコトの剣を掴むように止めている。
そしてその直後、一転、
光は猛々しく勢いを増したかと思えばマコトを包み込み、

マコト「ぐっ……!? うあぁああああぁああッ!?」

悲鳴を上げ、マコトは地に倒れ伏した。
全身を襲う痛みに荒い息を吐くマコトを、タカネは涼やかな表情で見下す。

タカネ「おや……やはり大したものです。あれを受けてまだ意識があろうとは」

マコト「っ、こ、の……!」

全身に力を入れ、マコトは起き上がろうとする。
しかし、数秒時間をかけて片膝をついたところで、ふっとその視界に影が差す。
見上げれば、タカネが目の前に手をかざしている。

タカネ「立ち上がらなくて結構ですよ。このままおわりにして差し上げますから」

マコトの視界が、先ほど見た妖しいオーラで埋め尽くされる。
そして防御も回避もする間もなく、衝撃が、マコトの体を襲った。

マコト「えっ……!?」

だが、その衝撃はタカネの手によるものではなかった。
タカネが攻撃するより先に、『横からぶつかった何か』がマコトの体を弾き飛ばしたのだ。
そしてその衝撃の正体に、マコトは地面に倒れ込んでからようやく気付いた。

マコト「ユ……ユキホ!?」

ユキホ「っ……!」

ユキホが、マコトの体に飛びついていた。
タカネの攻撃からマコトを守るかのように。

タカネ「……はて。なんのつもりですか、ユキホ?」

この時になってようやく、タカネの薄ら笑いは消えた。
ユキホはマコトの体から離れ、立ち上がる。
そして、両手を広げてマコトを背にして立った。

ユキホ「や、やめてください! マコトちゃんに酷いことしないで!」

マコト「! ユキホ……!」

それは、紛れもなくユキホであった。
マコトの知るユキホが今、マコトを庇ってタカネの前に立ちふさがっていた。

タカネ「私に楯突こうと言うのですか? ああ、とても悲しいですわ……。
   貴女は、もう私のことを愛していないのですね……」

ユキホ「そ、そういうことじゃありません! お、お姉さまのことは、今でも……!」

タカネ「ではユキホ、そこをおどきなさいな。ね、可愛いユキホ?」

ユキホ「い……嫌です。どきません……!」

タカネ「……」

ユキホ「わ、私には、お姉さまが何をなさろうとしているのかはよく分かりません……。
   でも、きっとお姉さまは間違ってます! 目を覚ましてください、お姉さま!
   また昔の、優しかったお姉さまに戻ってください!」

目には涙すら浮かべ、懸命にタカネに語りかけるユキホ。
だが、そんなユキホとは対照的に、
タカネの表情には一度消えていた笑みが再び戻っていた。

タカネ「……ふふっ。何を愚かなことを……。
   私は、昔から何も変わってなどいませんよ。
   貴女の知る私こそが偽りの虚像であった、ただそれだけのことです」

ユキホ「え……?」

タカネ「まさか自力で『解く』とは思ってもみませんでしたが……まあ良いでしょう。
   手駒として使えないのであれば、もう用済みです」

呟き、ゆっくりと片手を上げるタカネ。
その手のひらが自分へ向くのをユキホは、ただ呆然と見つめ……

タカネ「さようなら、可哀想なユキホ。何も知らぬ、哀れで愚かな小娘よ」

マコト「ユ、ユキホ! 避け――」

その言葉が発せられることも、マコトが立ち上がる間もなく、
手のひらから放たれた光がユキホの体の中心を貫いた。

今日はこのくらいにしておきます。
続きは多分またこのくらい空くと思います。

マコト「ユ……ユキホぉお!!」

糸の切れた人形のように、ユキホは地面に崩れ落ちた。
マコトは未だ痛みの走る体に鞭打ち、ユキホの上体を支え起こす。
腕の中でぐったりとしているユキホの体を強く抱きしめ、タカネを睨みつけた。
そんなマコトをタカネは冷たく見下ろし、

タカネ「私に敵意を向ける前に、ユキホを看取ってあげては?」

マコト「っ……!」

タカネ「そう、それで良いのです。貴女方はもうしばらくここに居なさい。
    『時』が来るまで、もう間もなくですから」

不可解な言葉を残して、タカネの姿は夜の闇の中へと消えていった。
しかしマコトにはその言葉の意味も、タカネのあとを追うことも、考えられなかった。

ユキホ「マ……コト、ちゃん……」

マコト「! ユキホ……!」

うっすらと目を開け、蚊の鳴くような声でマコトを呼んだユキホ。
その目の端から一筋、涙が流れる。

ユキホ「ごめん、なさ……い。私……迷惑かけ、て……ばっかり……」

マコト「そ……そんなことない! そんなことないよ!
   ユキホはボクを守ってくれたじゃないか!
   それより、ボクのせいでユキホが……!」

ユキホ「……思い、出したの……。私……あの日、お姉さま、に……会って……。
    マコトちゃんの……言うとお……り、だった……。夜……おね……さまに……」

マコト「ユキホ……! いいよ、もういい……!
   ボクの方こそ、もっと早く気付いてあげられれば……!
   ごめん、ユキホ! ごめん、本当にごめん……!」

ユキホ「あ……やまら……ぃで……わ……た、し……」

マコト「……ユキホ? ユキホ……!?」

薄く開いていた目が閉じた。
マコトが体を揺するのに合わせ、ぐらぐらと首が揺れる。
呼吸も、聞こえない。

マコト「ユキホ……! ユキホってば!! ねえ起きて! 起きてよユキホ!!」

しかしユキホが目を覚ますことはなかった。
動かぬユキホの顔に、雫が落ちる。

マコト「お願い……起きて、ユキホ……!
   ボク、まだちゃんと返事をしてないじゃないか……!」

ユキホの細い体を、力強く抱きしめる。
そして、震える声で、あの時答えられなかった返事を、
言えなかった言葉を、搾り出すように囁いた。

マコト「ボクもユキホのことが好きだ……! だからずっと一緒に居ようよ……!
   ずっと、一緒に……! だからお願いだ……目を覚ましてよ、ユキホ……!」

しかし薄く開かれたその唇は、ただ開かれているだけ。
もはやどうしようもない。
タカネが悪意を込めて放った一撃は、あっけなく、ユキホの命を奪ってしまった。

しかし、その時だった。

マコト「……!?」

突然、どこからか降ってきた光が倒れたユキホを直撃し、その体を包み込んだ。
マコトは一瞬、何者かの攻撃を連想した。
しかしすぐに気づく。
今ユキホを包んでいる赤い光には、
見た目の鮮烈さに反し、一切の悪意も敵意も感じない。
寧ろその逆。
そばにいるだけで、見ているだけで安心するような暖かさが、その光からは感じられた。
唐突に起きた現象にマコトの頭は疑問と困惑で満たされる。
だが光が徐々に薄れ、完全に消えてしまった直後。
マコトの疑問のすべては吹き飛んだ。

ユキホ「っは……!」

マコト「!? ユキホ……!」

それまでただ開かれているだけだった唇が動き、そして胸が上下し始めた。
マコトは慌てて、耳をユキホの口へ寄せる。
落ち着いた確かな呼吸音が繰り返されている。
止まっていたはずの呼吸が、再開されたのだ。

ユキホが蘇生した。
そのことにマコトは心から安堵した。
しかしそれからすぐに、少し前の疑問が蘇る。
つまり、ユキホの体を包んだ光の正体だ。

分からないが、状況から考えて、
あの光が死にかけていた……あるいは既に死んでいたユキホを蘇らせたに違いない。
どこかから飛んできた、あの光が……。
と、マコトがその光が飛んできたと考えられる方へ顔を向けた、その瞬間。

マコト「っ……!」

禍々しい緑色の光が、赤く輝く光を吹き飛ばしたのをマコトは見た。
吹き飛ばされた赤い光は校舎の一部を砕いた後地面に激突し、高く土埃が舞い上がる。
そして、見えた。
マコトだけではない。
少し離れた場所から、イオリも、チハヤも、ヒビキも見ていた。
眠り姫が、赤い光の少女――ハルカを、冷たい目で見下ろしているのを。

眠り姫「あーあ。私と戦ってるのによそ見しちゃうのがいけないんだよ」

ハルカ「っ……」

眠り姫「それに、『分ける』余裕だって無いって思うな。
    確かにすごい能力とは思うけど、分けちゃったらその分、
    ハルカの力だって減っちゃうんだし。
    誰かが死んじゃいそうだからっていちいち助けてあげてたら、ハルカ、負けちゃうよ?」

遥か上空からのその声は地上のマコトにも届いた。
そして理解した。
ユキホを救ったあの光は、ハルカのもの。
ハルカが能力を使って、
自らの……例えば生命力のようなものの一端を、ユキホに分け与えたのだと。

眠り姫「ハルカが負けたらどっちにしろみんな死んじゃうのに、意味無いってカンジ。
    だからもう誰も助けない方がいいよ……って、もう手遅れかな?」

静かにそう言って、眠り姫は片手をハルカに向けてかざす。
すると、少し前にチハヤ達を襲った緑色の光線がハルカに向けて放たれた。

ハルカ「く……!!」

眠り姫「……ほらね。この程度の攻撃を防ぐのもギリギリになっちゃった。
   せっかく楽しい戦いだったのに、もうおわりだね。つまんないの」

チハヤ「……!」

ヒビキ「……そんな……」

離れた位置で二人のやり取りを見ていたヒビキは、掠れた声で呟く。
足元から全身に這い登る怖気に、膝を折らないので精一杯だった。
それは正しく絶望。
詳細までは分からないが、ハルカの力が衰えてしまっていることは明らか。
唯一眠り姫と渡り合えていた彼女の敗北はつまり、
眠り姫の言うとおり、自分達全員の死を意味する。
アズサを見つけ出したところで……
いや、見つけ出す前に、全てが終わってしまうかも知れない。
ならどうする、僅かな望みにかけて全員で眠り姫ともう一度戦うか。

だが、ヒビキの足は動かなかった。
ヒビキだけではない。
マコトも、イオリも、自分たちの希望が潰える瞬間を
ただ指をくわえて見ていることしかできなかった。

眠り姫は浅く息を吐いたあと手元に目線を落とし、得物を構える。
巨大鎌の刃を以て、ハルカに止めを刺すために。
そして、ハルカに肉薄しようと体を傾けた……その時だった。

チハヤ「待って!!」

割って入ったその声は眠り姫だけでなく、
ハルカにも、離れて見ていたマコトやイオリ達にも届いた。

眠り姫「……?」

ハルカ「チハヤちゃん……!」

ヒビキ「チハヤ、何を……!?」

すぐ隣でチハヤの叫びを聞いていたヒビキは、
他の者と比べても一層驚きの色を濃くしてチハヤを見つめる。
だがそんなヒビキの視線を置き去りにして、チハヤはハルカに向けて飛んだ。
そして膝をついているハルカの前に降り立ち、眠り姫に向けて叫んだ。

チハヤ「お願い、やめて!! これ以上、ハルカを攻撃しては駄目!!」

親友をかばって立つようなその姿を見て、眠り姫の目元が、ぴくりと動いた。

眠り姫「は……? なに、何のつもり?
    ハルカを守ろうとしてるの? お前みたいな弱い子が……?」

チハヤ「っ……そうよ、でも私は……」

眠り姫「ぷっ、あはははははは!! お前、面白いね!!
    まだ私に勝つつもりで居るんだ!? いいよ、じゃあ守ってみたら!?
    お前みたいなのが私を倒せるのか、やってみたらいいよ!!」

チハヤを嘲笑い、眠り姫は一度下ろした鎌をもう一度構えた。
しかしその直後、今度はハルカの言葉が、眠り姫の動きを止めた。

ハルカ「違うよ、ミキ……! チハヤちゃんは、あなたを倒すつもりなんてない」

チハヤ「! ハルカ……」

眠り姫「うん……? 何それ。じゃあ、やっぱり諦めちゃってるってこと?」

ハルカ「そうじゃないよ……。チハヤちゃんは、あなたのことも、守ってあげようとしてる。
    助けてあげようとしてるの……。だよね、チハヤちゃん?」

ハルカの言葉に、チハヤは何も答えずにただ眠り姫を見つめ続ける。
そしてそれが肯定を意味しているのだと、眠り姫は気付いた。

眠り姫「何……? 面白いの通り越して、意味わかんないよ?
   私を助けようとしてる……? どういうこと? なんで?」

チハヤ「……あなたが本当に、あの本に書かれていた『女の子』なら……。
    絶対、もうハルカを攻撃しては駄目……!
    もしハルカの命を奪うようなことになってしまえば、あなたはもう、二度と救われない……!!
    だって……ハルカはあなたの大切な友達でしょう!?」

眠り姫「……」

――チハヤが眠り姫の表情に違和感を覚え始めたのは、
初めて彼女の顔にはっきりとした『怒り』が表れた、あの時からだった。
そして違和感は、ハルカが現れた時からより強く、濃いものになっていた。
ハルカと戦う眠り姫の笑顔に、チハヤは狂気以外の『何か』を感じ取り始めていた。
それから徐々にその『何か』は、ぼんやりとではあるが、
徐々に形を持ち始め、それがチハヤの心をざわつかせた。

チハヤ「お願い! もうこれ以上戦うのはやめて!!
    あなたはずっと笑って戦ってたけど、でも本当は……!」

眠り姫はハルカと戦いながら、笑っていた。
でも、だけど、それは笑顔なんかじゃなくて、本当は――

眠り姫「うるさいっ……うるさいよ!! 弱いくせに! 全然弱いくせに!!
    偉そうに知ったようなこと言わないで!!」

チハヤ「ッ……!!」

眠り姫「私と対等なつもり!? 冗談! 私はアイドルなの!!
    ただ選ばれただけのお前なんかとは違う!!
    言ったよね! アイドルっていうのは、私みたいに圧倒的な力を持つ者のことだって!!」

眠り姫の、初めての『怒声』。
これまでで一番の怒り。
その迫力にチハヤは思わず一歩、足を引いてしまう。
だが、そんなチハヤの手が、不意に優しく握られた。

ハルカ「……わかってるはずだよ、ミキ。アイドルっていうのは、ただ強いだけじゃない」

チハヤ「ハルカ……」

ハルカ「思い出して……。アイドルは、強いだけじゃなくて……!
    みんなを笑顔にするの! 方法は色々だと思うけど、でも!
    アイドルは、世界中のみんなを笑顔にするんだよ!!」

瞬間、チハヤは自分の中に、一陣の風が吹き込んできたような感覚を覚えた。
自分の心の淀んでいた、黒い霧のようなものが晴れていくのを感じた。

ハルカ「だからチハヤちゃんが選ばれたんだよ……!
    みんなの笑顔のために真剣に悩める、チハヤちゃんだから……!」

眠り姫「何、それ……! そんな戯言なんて聞きたくない!!
    もういいよ!! お前たち二人とも今すぐ私が消してあげるから!!
    それで証明してやるの……!! アイドルはただ一人、私だけなんだって!!」

眠り姫の体が、かつてないほど強烈な光に包まれる。
放たれればここに居る全員の命が消し飛ばされるほどのエネルギーが今、
眠り姫の両手に集約されていた。

だが、それを見るチハヤの目は落ち着いていた。
チハヤの目に映っているのはもはや、世界を滅ぼそうとする凶悪な敵ではない。

チハヤ「……きっと、止めるわ。あなたのためにも、きっと止めてみせる!!」

真っ直ぐに眠り姫を見つめるチハヤ。
その横顔を見て、ハルカは薄く微笑み、同じように眠り姫を見上げた。

手を繋いだ二人の体が浮き上がり、眠り姫と同じ高度まで上昇する。
その様子を地表の少女たちは固唾を飲んで見守った。
彼女達は直感したのだ。
眠り姫を止められるか否か……自分たちの運命は、チハヤとハルカに託されたのだと。
しかしその時、最も近くで見ていたヒビキの横から、不意に声がかけられた。

アミ「いけないわ、あの子達を止めて!」

ヒビキ「え……!?」

そこに居たのは同じ背格好をした少女二人。
唐突に現れた少女らにヒビキが疑問を呈する間もなく、
アミとマミはヒビキに訴えかけた。

マミ「あの子は自分の力を全部あげるつもりよ!」

アミ「危険だわ! 失敗すればまた悲しみが続いてしまうの!」

ヒビキ「な、何? どういう……」

だが、双子の言葉の意味を理解する時間も、問い直す時間も、
今、この場には存在しなかった。

眠り姫「あはっ! 準備はいいみたいだね! それじゃ、消してあげるね!!」

瞬間、閃光が走り――
眠り姫の最大の攻撃が、チハヤとハルカに向けて放たれた。

ハルカ「チハヤちゃん!!」

チハヤ「ええ!!」

それまでのチハヤであれば跡形もなく消し去るはずの緑の光。
だがそれに対してチハヤが取った行動は避けるでもなく、光壁を出すでもない。
ハルカと共に両手を前へかざし、そして……

チハヤ「くっ……!!」

眠り姫「!? 何……!?」

受け止めた――!
ヒビキ、イオリ、マコトは三人揃って息を呑む。
だが一番に驚愕し目を見開いていたのは、誰よりも眠り姫であった。

眠り姫「馬鹿な、まさか本当に受け止めるだなんて……!」

チハヤもハルカも、涼しい顔をしているわけではない。
全力を振り絞って眠り姫の攻撃に耐えているのはその表情からはっきりと分かる。
しかし今、確かに二人の力は眠り姫と拮抗していた。
ハルカの力が想像以上に残っていたのか?
いや、違う。
眠り姫は感じていた。
この力の根本となっているのは他でもない、自分が格下と嘲笑ったチハヤなのだと。

眠り姫「っ、この力……! お前もアイドルの器を持っていると言うの!?」

そしてそれを見上げていた双子の少女は確信した。
今新たな器に、アイドルの力が注ぎ込まれようとしているのだと。

アミマミ「駄目! 新たな眠り姫が生まれてしまう!!」

それが聞こえていたのだろうか。
それとも、チハヤの心情を慮ったのか。
ハルカは片手をチハヤに差し伸べ、優しく微笑んだ。

ハルカ「チハヤちゃんなら、大丈夫……!」

これまで何度も、すぐ隣から向けられたハルカの笑顔。
チハヤはその笑顔に、笑顔を返した。

そうだ……やっと気付いた。
やっと見付けた。
私は、ずっと分からなかった。
アイドルというものが何なのか。
自分のなりたいアイドルが、どんなものか。
でも、やっと見付けた。

いい子にしていれば、みんな笑ってくれた。
だから、だ言うことを聞き続けてた。
でもそれが本当にいいことなのか、わからなくなって。
何もわからなくなって……。
だけど、やっと気付けた。

私は、誰かを怒らせたり悲しませたり、したくなかった。
みんなに……笑顔で居て欲しかったんだ。

……ありがとう。
あなたのおかげでやっと、気付けた。
だから――

チハヤ「ハルカ……私、アイドルになるわ!!」

今日はこのくらいにしておきます。
次はまたこのくらい日にち空くと思います。

光がチハヤを包んだ。
ハルカが淡い赤色の光となり、チハヤの全身を取り巻くように包み込んだ。
そして変わっていく。
ブーツが、衣装が、装飾が、ハルカの淡い赤とチハヤの鮮やかな青とに彩られ、
手には今までなかった物が――ハルカや眠り姫の物とよく似た『武器』が、握られている。
閉じられた瞳が開かれる。
左目には、眠り姫と同様の真紅の瞳があった。

チハヤを包んでいた淡くも烈しい光が弾け、辺りは再び夜の闇に戻る。
しかしそれでも、チハヤの体は薄く光っているように見えた。

マコト「……あれが、チハヤ……?」

イオリ「まさかあの子、本当に……」

ヒビキ「アイドルに……なった、のか……?」

それはまさに『変身』であった。
チハヤは今、自らの決意と共に、親友に力を託され生まれ変わったのだ。
『アイドル』チハヤへと。

マミ「……もしかして、成功したの? アミ」

アミ「わからないわ、マミ……。わかるのはきっと、これから」

双子も含め、全員がチハヤの動向を見守る。
中でも眠り姫は、初めて警戒の色を浮かべて睨みつけるようにしてチハヤを注視していた。

眠り姫「ハルカが消えた……それに、その服の色。武器と、目の色も……。
   本当に、アイドルになったんだね。ハルカの力で」

チハヤ「……」

チハヤは答えずに、目を伏せて胸元に手を当てる。
確かに感じていた。
僅かな時間ではあったが深く同じ時を過ごせた親友の存在を、自身の中に。

  “私、あなたのこと忘れない”

口にすることなく想いを胸のうちに込め、
そして、薄く開いていた瞳をすっと閉じ、手に持っていた『武器』を動かした。

攻撃が来る。
誰もがそう思ったのと同時、チハヤはゆっくりと口を開いた。


  ずっと眠っていられたら
  この悲しみを忘れられる
  そう願い 眠りについた夜もある――


チハヤの口から流れ出たそれは、歌だった。
歌が、口元に添えられた『武器』を通して拡声され、広範囲に広がった。
優しく、しかし力強い、透き通った歌声が、遠く遠く響き渡る。
だがチハヤの突然のその行動は、その場の全員にとって不可解であった。
眠り姫も例外なく不可解さに眉をひそめた後、

眠り姫「ふ……あはははははは!! 何をするかと思ったら、歌!?
   その手に持ってるのも武器じゃなくてただ声を大きくするだけ!?
   意味わかんないよ! 何がしたいの!? あはははははは!!」

おかしくて堪らないというように笑い始めた。
また他の者にとっても、
笑いはしないものの抱いた感想は眠り姫のそれとほとんど変わらなかった。
この状況で歌を歌うなど、一体何を考えているのだ。
もしかして、やはり『アイドル』にはなれずに失敗してしまったのか。
皆の心に何度目か分からない絶望感が影を見せた……その時だった。

眠り姫「あははは……あ? あれ?」

眠り姫「あれ……? 何、え、なんで……?」

眠り姫の様子が変わった。
笑うのをやめ、顔に手をやって何か動揺しているような素振りを見せる。
初め、何が起きたのか分からなかった地上の少女たちであったが、
少しした後にようやく理解した。
眠り姫の両目から、大きな雫がポロポロとこぼれ落ちているのだ。

  ふたり過ごした遠い日々
  記憶の中の光と影
  今もまだ心の迷路 彷徨う

歌が響く。
頭と胸を押さえる。
何かおかしい。
かき乱される。
まさか、これは……

眠り姫「やめ、ろ……! その歌をやめろ!!」

叫び、眠り姫はチハヤに向けて猛進する。
肉薄し、刃を振ると、チハヤはそれを紙一重で避けた。
だが、歌は止まった。

眠り姫「あはっ……! 邪魔すれば止められるんだね、その歌!!」

チハヤ「っ……」

眠り姫「じゃあ何も問題ないね! 変なのも治ったし、このままどんどん邪魔して……」

だがその続きは眠り姫の口から出ることはなかった。

眠り姫「ッ……」

眠り姫の体が、動きを止めている。
そしてそれを成しているのが、地上から放たれる電撃であった。

イオリ「チハヤ!! さっさと続きを歌いなさい!!」

ヒビキ「! イオリ……!」

イオリ「最大威力でも、あと数秒動きを止めるので精一杯よ!! だから早く!!」

眠り姫「あと、数秒……!? そんなにもたせられるとでも、思ってるの!?」

イオリ「……!!」

ヤヨイに放ったものの数倍、イオリの出せる限界値の電撃であったが、
それを眠り姫は容易く弾き飛ばす。

眠り姫「そんなに消えたいなら、お前から先に……」

しかしイオリに向けられた眠り姫の視界は、突如発生した大量の影に遮られた。
見れば大小さまざまな種類の鳥が群れをなして眠り姫を囲っている。

ヒビキ「っ、はあ、はあ、はあ……!!
   どう、だ……! これなら更に数秒、稼げるでしょ……!?」

イオリ「ヒビキ、あなた……!」

ヒビキの様子を見れば、
これだけの数の鳥を創成するのがどれだけの負担になるのか想像に難くない。
だがその甲斐あって、ヒビキの時間稼ぎは一定の効果を上げていた。

  あれは儚い夢
  あなたと見た 泡沫の夢
  たとえ100年の眠りでさえ
  いつか物語なら終わってく
  最後のページめくったら――

眠り姫「ッ……!!」

まずい、また歌だ、どうする、これを聴き続けるのはまずい……!
焦燥にかられ、眠り姫はチハヤの姿を探すが、
飛び回る鳥類に視界を遮られてそれも覚束無い。

眠り姫「あああもう鬱陶しいなあ!!」

ヒビキ「っ!!」

痺れを切らし、眠り姫は標的を変えた。
鳥の群れの一端をなぎ払い、元凶たるヒビキを始末するべく猛進する。
瞬時に肉迫し、振りかぶられた刃がヒビキに迫った……が。

マコト「ぅあっ!!」

ヒビキ「ッ!! マコト!!」

間一髪、凶刃からヒビキを守ったのはマコトだった。
だが先の眠り姫との戦いで既に消耗し、
更にタカネの攻撃によるダメージも残っているマコトである。
一撃を受け止めることすら叶わず、敢え無く吹き飛ばされてしまった。
しかし、それでも、決して無意味などではなかった。
ほんの一瞬作られた隙をつき、再びイオリの電撃が眠り姫を襲う。
再び僅かな時間、動きが止まる。
それで十分なのだ。

眠り姫「っ、こ、の……!!」

直感していた。
チハヤの歌を止めてはならない。
眠り姫の様子だけではない。
チハヤの歌そのものから感じる『何か』。
それが、ヒビキに、マコトに、イオリに、直感させた。

イオリ「チハヤ……! 私はまだあなたをアイドルだなんて認めてない!!
   だから……認めさせてみなさいよ!!
   『歌を歌うアイドル』!! それがあなたなんでしょ!?」

――返事は、しなかった。
ただチハヤは歌い続けた。
イオリの言葉に応えるため。
自分を支えてくれる全てに報いるため。
泣いている少女を救うため。
チハヤはただ歌い続けた。

  眠り姫 目覚める 私は今
  誰の助けも借りず
  たった独りでも
  明日へ 歩き出すために

眠り姫「や、めろ……! やめ、て……!!」

  朝の光が眩しくて涙溢れても
  瞳を上げたままで

眠り姫「違う、私、は……ミキ、は……!!」




ミキ「――はあ、はあ、はあ……!」

ハルカ「お疲れ様、ミキ」

ミキ「! ハルカ!」

いつもの優しい声に顔を上げたら、そこにあるのは、いつもの優しい笑顔。
大好きな友達、ハルカ。

ハルカ「今日の能力訓練、すっごく大変だったよね。
    ミキ、大丈夫? なんだか今日は特に厳しくされてたみたいだけど……」

ミキ「そうなの! 前の授業でちょっと居眠りしちゃったからって、
  あれは酷すぎるって思うな。ミキ、ちゃんと頑張ってるのに」

ミキ「でも、ミキ平気だよ。このくらい全然へっちゃらってカンジ!」

ハルカ「そう……? 無理しちゃダメだよ?
    居眠りだって、遅くまで自主訓練がんばってたからだよね?」

ミキ「それを言うなら、ハルカだって同じなの。
  ミキの自主訓練、いっつもハルカも一緒に付き合ってくれてるでしょ?」

ハルカ「それはそうだけど、私はさっき厳しくされなかったし……」

ミキ「……だったら、今度の授業でハルカも一緒に居眠りするの!
  そしたら二人とも厳しくされてちょうどいいって思うな」

ハルカ「ええっ!? わ、私も一緒に!?」

ミキ「あはっ☆ 冗談だよ、冗談。
  ミキは平気なのにハルカがあんまり心配するから、ちょっとからかってみただけなの!」

ハルカ「な、なんだ……もう、ミキってば。でも平気なら良かったかな」

ほっとため息をついてハルカはニッコリ笑った。
ミキは、この笑顔が大好き。
ハルカの笑顔が大好き。
だからハルカにはずっと笑ってて欲しい。

ミキ「確かに最近、授業とか前よりちょっと大変になってきたけど、
  ハルカはなんにも心配する必要ないの。
  だって、ミキにはハルカが居てくれるんだもん」

ハルカ「ミキ……」

ミキ「ミキね、ハルカが一緒だったらどんなに大変なことでも頑張れるよ! だからヘーキ!」

ハルカ「……あははっ、じゃあ私、ずっとミキと一緒に居なきゃだね。
   それに私が居ないと、ミキずーっと寝ちゃってそうだし!」

ミキ「むー。それはあんまりだって思うな!
  ミキだって、そんなにずーっと寝てるわけじゃないの! 多分!
  あ、でも一緒には居てね? アイドルになっても、ずーっと一緒に居るの!」

ハルカ「うん! きっと楽しいだろうな、ミキと一緒にアイドルなんて。
   私たちが楽しいんだから、私たちを見てくれるみんなも、
   きっと楽しくなってくれるよね?」

ミキ「あはっ、ハルカって本当にそういうの好きだよね。
  みんなも楽しく笑顔にー、って。
  でも、ミキもみんなが笑ってくれてたら嬉しいし、なんとなくハルカの気持ちもわかるかな」

ハルカ「えへへっ、そうだよね。
    きっと私とミキなら、世界中の人を笑顔にできると思うの。
    だから二人で一緒に、アイドルになろうね!」

ミキ「うん!」

アイドルになって、みんなを笑顔にするのがハルカの夢。
だからミキも、ハルカと一緒にハルカの夢を叶えるの。
そしたらミキとハルカも、ずっと笑顔でいられる。
ずっと幸せで居られる、
そう思ってた。


  どんな茨の道だって
  あなたとならば平気だった
  この手と手 つないでずっと歩くなら




ハルカ「――え……?」

きょとんとしたハルカの顔。
そんなハルカに向けて、先生がさっきの言葉をもう一度繰り返す。

 「あなたがアイドルに選ばれました。おめでとう、ハルカさん」

ちょっとだけ遅れて、わっと歓声が上がる。
たくさんの笑顔。
たくさんの拍手。
「おめでとう」の声。
その全部を一身に受けるハルカ。

中にはきっと、悔しい思いや残念な思いをしてる子も居ると思う。
でも誰も、そんなことは言わずに、今はただハルカを祝ってあげてた。
それがハルカのすごいところ。
みんなハルカのことが大好きなんだ。

ミキ「ハルカ、おめでとうなの!」

ハルカ「……ありがとう、ミキ……!」

花が咲いたみたいな笑顔につられて、こっちまで笑顔になってしまう。
可愛らしい声に心がじんわりと温かくなる。

そうだ、『アイドル』に選ばれるっていうのは、きっとこういうこと。
……いつか、きっと。
ミキもいつかアイドルになって、そして、またハルカの隣に並ぶんだ。
だって約束したんだから。

でもそれまではほんのちょっとだけ、離れ離れになっちゃう。
だから、ハルカが『卒業』するまでの残り何日間で、できることを考えなくちゃ。
ハルカと一緒にいっぱい思い出を作る?
それより何かプレゼントを作る?

たくさん考えたせいで、その日の夜はなかなか眠れなかった。
でも、次の日の朝。
考えたことは全部、どこかに行ってしまった。




ミキ「――ふあぁ……あふぅ。おはよう、ハルカ」

次の日いつも通りに、目が覚めて一番に隣のベッドに挨拶した。
そしたら、起きるのを待ってくれてたハルカがにっこり笑って、挨拶を返してくれる。
それがいつもの朝だった。
でも、気付かなかった。
『いつもの朝』は、もう昨日で終わってたんだって。

ミキ「……あれ? ハルカ……?」

いつも居るはずのベッドに、ハルカは居なかった。
最初は、例えばお手洗いだとか、アイドルのことで先生に呼ばれたんだとか、
そんな理由で居ないんだって、そう考えた。
でも違った。

誰に聞いてもどこを探しても、ハルカは居なかった。

タカネ「――これだけ探しても見つからないとなると……。
   やはり、アイドルに選ばれた重責に耐えかね、脱走したのでは?」

ミキ「そんなことないの!
  ずっとアイドルを目指して頑張ってきたのに、逃げたりなんかするはずないの!」

タカネ「しかしそうは言っても……」

ミキ「それに、約束したんだもん! アイドルになっても、ずっと一緒だって……!
  ミキ、ハルカと約束したの! ハルカがミキとの約束、破るわけないよ!」

タカネ「……」

ミキ「まだ、探してないところはあるの……! ミキ、諦めないから!!」

でも……何日探しても、ハルカは見つからなかった。
ハルカはミキの隣から、居なくなった。


  気づけば傍にいた人は
  遙かな森へと去っていった
  手を伸ばし 名前を何度呼んだって

どうして?
ねえ、ハルカ。

ミキ『一緒に頑張ろうね。アイドルになっても、ずっと一緒にいようね。約束だよ』

ハルカ『うん、約束』

約束したのに。
どうして居なくなっちゃったの?
約束、したのに……。

  悪い夢ならいい
  そう 願ってみたけど
  たとえ100年の誓いでさえ
  それが砂の城なら崩れてく
  最後のkissを想い出に

ハルカが居なくなって何日経ったか分からない。
日にちを数える気も、何をする気も起きなかった。

夢に見るのはハルカとの楽しい毎日のことばかり。
でも目が覚めたらハルカは居ない。
毎日泣いて、泣いて……。

タカネ「ハルカに会いたいですか?」

会いたいよ。
そんなの会いたいに決まってる。

タカネ「ならば、アイドルになるのです。
   この薬を使えばアイドルになって……あなたの望みを叶えることができますよ」

本当?
本当にまた、ハルカに会えるの?

タカネ「もちろんです。さあ、こちらへいらっしゃい……」




 「――何!? 何が起きたの!?」
 「嘘……! ミキちゃん、なんで……!?」

あれ……?
ミキ、どうしたんだっけ。
何も、考えられない。
悲しい、痛い、嫌だ、苦しい。

 「力が、暴走してる……!? ミキさん、止まって! 止まりなさい!!」
 「駄目! みんな逃げて!! もう建物が崩れるわ!!」

全部夢だったらいいのに。
ハルカが居なくなったことなんて、全部全部、悪い夢だったらいいのに。

   『ならば、夢にしてしまいましょう』

え……?

   『辛いことも、苦しいことも、すべて夢にしてしまえば良いのです』

……全部、夢に……。

そうだね、それが出来たらいいよね……。
 できるよ。
……できるの?
 うん、できる。
でもミキ、よく分からないの。
 大丈夫。私ならできる。
本当? 全部、本当に夢にできるの?
 本当にできるよ。嫌なことも、悲しいことも、全部壊しちゃうの。
全部、壊しちゃう……。

 ハルカが居ない世界なんて、壊しちゃえばいい。
 そしたら全部、夢になる。
でもミキ、壊しちゃうのはヤだよ。
 ……そう。
眠っちゃえばいいって思うな。
眠っちゃえば、ずっと幸せな夢を見ていられる。
夢の中ならハルカと一緒に居られる。
 でも目が覚めたら?
目が覚めたら……。

目が覚めたら、壊しちゃおっか――

今日はこのくらいにしておきます
次も多分また日にち空くと思います




ミキ「……違う……違うの、ミキは……」

チハヤ「……」

地に両手をついて、ただ涙を流す一人の少女。
チハヤはもう歌ってはいない。
彼女の前に立ち、静かに見下ろしていた。

少女はすべてを思い出した。
今ようやく目を覚ましたのだ。
眠り姫ではない。
百年の眠りから初めて目覚めた少女が今、そこに居た。

ミキ「世界を壊すなんて……そんなの、ミキは望んでなんかない……。
  ただ……ハルカと一緒に居たかった……。それだけだったの……。
  なのに、どうして……? どうして……」

『どうして』――
ミキの繰り返すその言葉は、果たして何に向けられた言葉だっただろうか。
約束を違え、傍を去ってしまったハルカか。
それとも願いを違え、凶行に至った自分自身か。

いずれも単に自問自答するのみでは到底わかりえぬことである。
このまま何もなければ、ミキはいつまでも答えの出ない問いを繰り返していただろう。
だがここで、回想される記憶の中にあった一つの光景が、
ミキの呟きを止めた。

ミキ「……タカネ……」

チハヤ「……!」

ミキ「どうして……? どうしてタカネまでここに――」

しかし疑問と困惑に満ちたその声は次の瞬間、
悲鳴に変わった。

ミキ「っあ!? あぁああああっ!?」

突然、ミキの体が発光し出した。
同時に苦痛に顔を歪めて悲鳴を上げるミキに、それを見ていた少女らは動揺する。

ヒビキ「な、何!?」

イオリ「どうしたの!? 何が……!」

理解が追いつかずにただ困惑の声を上げるばかりのヒビキとイオリ。
ただその中で、マコトの見せた表情は彼女達と少し違っていた。
ミキの体を包む光に、マコトは見覚えがあったのだ。

マコト「まさか、タカネ……!」

イオリ「え……!? な、何、タカネ? タカネがどうしたって言うの!?」

チハヤ「っ……まずい……!」

ヒビキ「チハヤ、何か知ってるのか!? 何がどうなってるんだよ!?」

混乱と動揺を隠すことなく、口々に疑問を発するイオリたち。
だがチハヤがそれに答えるよりも、ミキの悲鳴が止む方が先だった。
仰け反っていたミキの上体がぐらりと揺れる。
そのまま後ろに倒れ込むミキを、チハヤは咄嗟に支え、同時に叫んだ。

チハヤ「私はタカネのところに行くわ! みんなはこの子をお願い!」

マコト「え!? ちょ、ちょっと、チハヤ……!?」

チハヤ「説明している暇はないの!
    ただ、この子はもう、眠り姫じゃないから……! だからお願い!」

そう言い残したかと思えば、チハヤは砂塵を巻き上げてその場を離れた。
マコトたちが抱いている一切の疑問を置き去りに、とにかく駆けた。
向かう先は旧校舎地下の最奥。
眠り姫が――ミキが眠っていたあの部屋である。

驚くべき速度で移動する中、チハヤは思考する。
今自分の中にある感情、記憶を整理する。
だがそれが済む前に、チハヤは目的の場所へたどり着いた。
そしてそこで見た光景は、チハヤの感情を激しく揺さぶった。

チハヤ「っ……!!」

タカネ「……おや。思ったよりも早い到着ですね」

薄い笑みを浮かべ振り返った少女は、チハヤの初めて見る人物であった。
だが、チハヤは知っていた。

チハヤ「……あなたが、タカネ……!」

タカネは答えず、ただ微笑んで首を僅かに傾ける。
と、ここでチハヤの視線はタカネからずらされた。
その背後、その頭上。
天井から突き出た巨大な木の根。
脈打つように点滅する、根に灯った多くの光。
そして、そこへ吊るされた、アズサの姿。

タカネ「なるほど……ふふっ。その力、どうやら融合を果たしたようですね」

チハヤ「あなたがハルカを……ミキを……!
    もうこれ以上好きにはさせないわ! アズサさんを放しなさい!」

嘲るような声と表情に、チハヤは眉根を寄せて叫ぶ。
しかしそれに対してタカネは、
おかしくて堪らないというように噴き出した。

タカネ「ふ、ふふっ……あははははっ!
   『好きにさせない』とは、随分な物言いですね。
   ハルカ如きの力を得てようやくアイドルになれただけの紛い物が……!」

チハヤ「っ……何を……」

タカネ「良いでしょう、アズサは解放して差し上げます。
   いずれにせよもう用済み。私の目的は成ったも同然ですから」

その意味をチハヤが理解するより先に、タカネの言葉に呼応するかのごとく、
木の根に点在していた光が、ドクン、と一際大きく脈打った。
タカネは妖しい視線を残しつつ背を向け、両手を開いて頭上を見上げる。

タカネ「時は来た……今こそ『デビュー』の時!」

瞬間、地面が揺れ始める。
地下全体が揺れ、天井からパラパラと破片が落ち始める。
崩落の予兆。
それは同時に、『始まり』の予兆であった。

天井や壁の崩落に伴い、縛り付けていた鎖が切断され、アズサは力なく落下する。

チハヤ「アズサさん!」

チハヤは即座に飛び、アズサの体を両手で受け止めた。
見た目には傷は浅い。
だがチハヤは、その体から伝わってくる感覚から、今のアズサの状態を感じ取った。
アズサの能力が、考えられないほど酷く弱まっているのだ。

アズサ「ぁ……チハヤ、ちゃん……? 私……」

チハヤ「喋らないで……! それより、今はここを出ます!」

返事を待たず、アズサを抱えたまま出口へ向けて高速で飛翔する。
時折落下する瓦礫を防ぎつつ、狭い通路を見事抜け、
そして月明かりの照らす外へと脱出した。
振り向けば、旧校舎が音を立てて崩れていく。
と言うより、地下へと沈み込んでいく。
まるで地の底へと飲み込まれていくように。

アズサ「そんな……一体、何が……」

チハヤ「っ……とにかく、みんなのところへ戻りましょう」




イオリ「! チハヤ、アズサ!」

ヒビキ「良かった、無事だったんだな!」

地面に降り立ったチハヤ達に気付き、イオリ達は声を上げた。
またチハヤも安堵の表情を浮かべながら、そっとアズサを地面に下ろす。

ヤヨイ「チハヤさん、アズサさん……!」

ユキホ「あ、あの、何が、どうなって……」

駆け寄った少女たちの中に、ヤヨイとユキホは居た。
地下室に向かっている間に目を覚まし、自力で来たのだろうか。
それともイオリ達のうちの誰かが連れて来たのだろうか。
細かなことは分からないが、とにかく全員がこの場に揃った。
そのことは、チハヤの不安を少なからず取り払った。

しかし、すぐにチハヤは気を引き締めなおす。
チハヤだけではない。
安堵できるような状況では到底ないことは、その場の全員が分かっていた。

マコト「チハヤ……。一つ、確認させて欲しい。
   全部の元凶は……本当に、タカネなの?」

緊迫した様子で訊ねるマコトと、
同様の表情を浮かべてチハヤの返事を待つ周りの皆。
不安と緊張のこもった視線を一身に受け、チハヤは静かに答えた。

チハヤ「……ええ。数年前にこの学園に通っていた、タカネ。
   彼女は、ハルカやミキが居た百年前にも……学生として生きていた。
   それが彼女の能力なのか、それとも別の何かなのかは分からないけれど……。
   そうやって百年以上もの年月を生き続けて、研究と実験を繰り返していたの。
   地下室で見付けた資料……『アイドル量産計画』の研究を」

ユキホ「そ、そんな……」

チハヤ「アズサさんをさらったティーチャーリツコの正体も、タカネだった。
   それもきっと、彼女の目的をなす為に……」

イオリ「なによ、それ。何のためにそんな……! アズサ、あいつに何をされたの!?」

アズサ「……私の、能力……『転送』を、無理矢理に応用、させられたわ……。
    地上でみんなが使ったエネルギーを、地下に、転送させられて……」

地面に腰を下ろして途切れ途切れに答えるアズサ。
能力を、限界を超えて無理に発動させられる……。
そのことが体にどれほどの負担がかけるのか、想像もできない。
だがアズサの話を聞き、
なぜタカネがアズサをさらったのか、推察に至ることができた。

ヤヨイ「そ、それって、みんなの力を集めてた……って、ことですか?」

ヒビキ「多分、そういうことだよね……。でも、なんで……?」

ユキホ「そ、それもアイドル量産計画のうちってこと?
    旧校舎が崩れたことと何か関係があるの……?」

得た情報から、皆それぞれタカネの目的を推測する。
だが……それを口にする前に、『それ』は姿を現した。

 「――ッ!?」

一同は息を呑み、崩壊した旧校舎へと目を向ける。
あの時、地下室の扉の奥から感じた眠り姫の気配……。
それを更にドス黒く、おぞましくしたような気配に、
少女らは内蔵が鷲掴みにされたような感覚を覚えた。
座り込みただ俯いていたミキの様子が変わったのは、その時だった。

ミキ「ひっ……!? 嫌、嫌ぁ……!!」

頭を抱え、何かに怯えた様子を見せるミキ。
『眠り姫』とはまるで違う弱々しいその姿に、
少女たちは困惑に僅かな憐憫を含めた視線を向ける。
だがそれも一瞬のこと。
皆すぐに気配のもとへと向き直った……その瞬間。

マコト「!? な、なんだ、この音……!?」

地の底から湧き上がるような、低く、ひどく濁ったような音が大気を震わせる。
それに共鳴するかのように地面が揺れ、
崩れた旧校舎の瓦礫が、姿を消した。
いや正確には、地面へ飲み込まれた。
地盤が崩落し、ぽっかりと巨大な穴があいた。
音は、その穴の奥から響いているようだった。

一体、あそこに何が……。
皆が一様に抱いた警戒心と疑問に、
数秒後、『それ』は自身の姿を現すことで答えた。

タカネ「さて、始めましょうか――終焉を」

それはタカネの声であった。
だが深淵から姿を現した『それ』を見た時、誰もタカネだとは思わなかった。

  ”怪物”

一言で形容するならまさにその言葉がふさわしかった。
服装はおろか皮膚の色すら濁った黒色へと変わり、
周囲には禍々しいオーラが触手のごとくうねっている。
それはマコトとユキホを襲ったものともミキを襲ったものとも違う、
混沌とした濁った輝きを放ち、
先程から聞こえてくる音は、そのオーラが発する怨嗟の声のようであった。

タカネ「お礼を申し上げます。貴女方がここで存分に力を使ってくれたおかげで、
   私は予定通りに『デビュー』することができました。
   この世に混乱と破滅をもたらすもの……真の、アイドルとして」

全くの別物として宙に浮くタカネ。
それを目にした瞬間、少女たちの体は完全に動きを止めた。
眠り姫と相対した時のように警戒態勢に入ることすらできない。
ただただ、射すくめられた。

それほどまでの力の差。
いや、力の差以上に、今まで感じたことのないほどの禍々しさを――
恐怖、絶望、憎悪、あらゆる負の感情が具現化したようなそのオーラを見て、
皆、ただ目を見開くことしかできなかった。

しかしそんな中でやはりチハヤだけは飲まれなかった。
ぐっと拳を握り、タカネを真っ直ぐに見上げ、睨みつける。
タカネはそんなチハヤの目線に気付いたが、
ふっと嘲るように息を吐いたのち、チハヤの後ろへと目を向けた。

タカネ「おやおや……そんなに怯えて可哀想に。
   やはりあなたはアイドルの器ではなかったようですね、ミキ?」

突然声をかけられ、びくりと肩を跳ねさせるミキ。
しかし怯え切ったその瞳の向く先は、タカネへと縛り付けられている。

タカネ「長きに渡り、良き夢を見ていたようですが……。
    しかし見なさい。これが現実です。世界の終焉……あなたの愚かな夢が招いた現実です」

チハヤ「っ……やめなさい! これ以上、この子を……」

だがミキに追い打ちをかけるような言葉を、チハヤは止めようとする。
しかしタカネは一瞥もくれず、

タカネ「教えて差し上げましょう。あの夜、ハルカを消したのは私です」

今日はこのくらいにしておきます。
次も多分日にち空くと思います。

ミキ「……え?」

タカネ「真、残念でした。
   あの日の夜、私の持ちかけた提案を断ったばかりか、
   愚かにも私の研究のすべてを通告しようとし……そして、消されてしまったのです」

その時、恐怖に支配されたミキの心に生じたものは何であったか。
驚き、困惑、悲しみ……あらゆる感情が浮かんでは消え、消えては浮かぶ。
ただその中に、親友の仇に対する怒りはなかった。
更に続いたタカネの言葉が、ミキの心からその選択肢を消してしまった。

タカネ「ミキ? あなたはハルカが約束を破ったのだと……
   ハルカに裏切られたのだと、そう思い込んでいたようですが、実際はその逆なのでは?」

ミキ「なに……え、何、が……?」

タカネ「あなたは、親友のことを最後まで信じることができなかった。
   本当に彼女のことを信じていたのなら、失踪の原因を探り、
   いずれは私の存在へたどり着いたでしょうに。
   しかしあなたはハルカに裏切られたのだと、
   勝手に嘆き、勝手に悲しみ、夢の中へと逃げ込んだ。
   そして、ハルカの願った世界の幸せを壊そうとした。
   つまり、あなたこそがハルカのことを――」

チハヤ「やめて!! もう、やめなさい!!」

瞬間、チハヤの体が強い光を放つ。
そしてチハヤは飛翔し、瞬く間にタカネに肉薄して得物を振りかぶった。
しかし――

チハヤ「っ、く……!!」

タカネ「……まあ、この程度でしょうね。所詮は紛い物なのですから」

チハヤの全力の攻撃を、タカネは片手で受け止めた。
散った火花こそ激しいものの、タカネの表情は涼しく、相変わらずの嘲笑を浮かべ続けている。
そしてそのまま、無造作に空いた方の手を上げたかと思えば次の瞬間、
チハヤは悲鳴を上げる間もなく後方へ弾き飛ばされ、砂塵を巻き上げて地面へ激突した。
皆は振り返り口々にチハヤの名を叫んだが、
その足は地に縫い付けられたように、誰一人として動くことはできなかった。
タカネはそんな彼女たちを満足げに見下ろしながら、

タカネ「言ったでしょう? これが、現実です。
   もはや終焉は免れません。世界は混沌に満ち溢れます。
   これが、愚かな小娘が抱いた愚かな夢の代償です」

ミキ「……ミキの、せい? ミキのせいで……こんなことに、なっちゃたの……?」

悪意に満ちたタカネの言葉は、混乱し弱りきったミキの心に十分以上に染み入った。
自分がハルカを信じなかったから。
だから、自分は暴走して、たくさんの人を傷つけて、
そして、世界が壊れてしまう。

ミキ「ミキが……ミキが、悪かったから……」

タカネ「ええ、そうですよ。すべてあなたのせいです」

愉悦に歪んだタカネの笑顔と声。
ミキの見開かれた目から涙が溢れる。
視線が下がり、ぐったりとうなだれる。
もう、何も見えない。
真っ暗だ。

ごめんなさい。
ごめんなさい、ハルカ。
ごめんなさい、みんな。

ミキが、あんな夢なんて見たから。
ハルカと一緒に居たいって、また会いたいって、
ただそう思っただけなのに……。
でも……それが、ダメだったんだ。
こんなことなら……こんなことなら、初めから……。

ミキ「え……?」

何かが触れた感触がしたのは、その時だった。
温かい何か。
絶望が心を染めていくのが止まった、そんな感覚。
黒く染まった視界に光が戻った。

地に付いた自分の手に、二つ、誰かの手が重なっている。
それを辿ってゆっくり目線を上げると、栗色の髪の毛の女の子が、手を握っていてくれた。
もう一つの手を辿ってみると、光を飛ばす能力の子が同じように手を握ってくれていた。

両方の肩にも、何か触ってる。
振り向くと、瞬間移動の人が、肩を抱いてくれていた。
正面に、誰かの足が見える。
光る剣の子と、動物の子と、電気の子が、前に立ってタカネを見上げていた。

タカネ「……それはなんの真似ですか?」

タカネの低い声が響く。
手を握る力と、肩を抱く力が、ぎゅっと強くなった。
まるで、守ってくれるみたいに。
名前も知らない人達が、守ってくれようとしていた。

タカネ「はて、分かりかねますね……。
   その娘は『眠り姫』。つい先ほどまで、貴女方を喜々として痛めつけていた張本人です。
   その眠り姫を、貴女方は庇うというのですか?」

イオリ「……庇うわよ。よく分からないけど、少なくとも……
   あなたが全ての元凶で、この子も被害者なんだって、なんとなく分かったから……!」

タカネの問いに初めに答えたイオリの声は、微かに震えていた。
恐怖を忘れたわけではないらしい。
だがその声色に、その瞳に、恐怖以上の強い意志のようなものが確かに込められている。

タカネ「被害者、ですか。そう思うのは構いませんが、
   それでも眠り姫が貴女方の命を奪おうとしたのは紛れもない事実。
   その娘は罪のない者を傷付けた、穢れ切った罪人。そこに何も変わりはないのでは?」

嘲りと悪意を持って吐き出される言葉。
突き立てた刃を捻られるような痛みにミキは眉根を寄せて唇を噛む。
しかし直後、肩をぐっと掴まれる感覚と、
これもやはり強い意思の込められた言葉が、その痛みを忘れさせた。

アズサ「確かに……私達はこの子と戦ったわ。でも、それは関係ない……!
   傷ついて泣いている子を庇ってあげられないような子は、私達の中には居ないもの!」

タカネ「……ふふっ。愚かなことです」

少女らの視線を一身に受けたタカネは、それでも嘲笑を崩さない。
アズサの懸命な言葉を一笑に付し、片手を向けて、

タカネ「どうぞ、庇うのならご自由に。その行為に意味があれば良いですね」

禍々しい光の塊を放った。
当たればその場の全員の命を肉体ごと消し飛ばすであろう攻撃。
しかしそれは、少女たちの目前、
青い光壁にぶつかり、爆散した。

チハヤ「……アズサさんの、言う通り。もうこれ以上、ミキを……。
   いえ、誰も傷付けさせはしない……!」

アズサ「! チハヤちゃん……!」

アズサに続いて皆後方を振り返り、口々にチハヤの名を呼ぶ。
良かった、無事だったんだ、と安堵したのはしかし一瞬のこと。
あの一撃で負傷したのだろう、
片腕を抑えて歩いてくるチハヤを見て、一同の表情は再びこわばった。
だがそんな皆に向け、チハヤは優しく微笑む。

チハヤ「大丈夫……たいした怪我じゃないから。
   私の防壁も、まだしばらくは保つはず。それより……」

そこで言葉を切り表情を改めたチハヤの視線を追い、皆はミキに目を向ける。

チハヤ「ミキ。あなたには伝えないといけないわ。
    あの日の夜、何が起きたのか……」

ミキ「え……」

チハヤ「ごめんなさい……少し、辛い思いをするかも知れないけれど……。
    でも、知るべきなの。あの時ハルカが何を思っていたのか、知って欲しい」

そう言って、チハヤは片手を前へ出し、掌を上へ向ける。
するとそこから、淡い赤色の光を放つ球が現れた。

チハヤ「ハルカの記憶……受け取ってもらえるかしら」

ミキは目を見開いてその光をじっと見つめた。
胸元で握った両手は不安を抑えるためであろうか。
それからしばらく後。
ミキはきゅっと唇を引き結び、頷いた。

チハヤ「……ありがとう」

光球が動き、ミキの体に吸い込まれていった。




――松明の火が灯る、薄暗い廊下。
人気のない校舎。
そこに、その人は立っていた。

ハルカ「どうしたんですか、タカネさん。
    こんな時間に呼び出すなんて……何か大事な用事ですか?」

タカネ「……ええ。とても重要なことです」

そう言って、タカネさんはにっこり笑った。
でも、なんだろう。
何か、いつものタカネさんと少し雰囲気が違うような気がする。

タカネ「まずは改めてお祝いの言葉を。この度は真、おめでとうございます。
   友人からアイドルが選ばれ、私としては大変喜ばしい限りです」

ハルカ「そんな……えへへっ、ありがとうございます。
    実はまだ、実感がない感じですけど……。
    目が覚めたら全部夢なんじゃないかって、今でもちょっと不安です」

タカネ「ふふっ……。安心してください。紛れもなく現実ですよ」

ハルカ「それで、えっと、用事っていうのは……?」

タカネ「はい。ハルカに、協力を依頼したいのです。受けていただけますか?」

ハルカ「協力……ですか? はい、私にできることなら!」

タカネ「そうですか。ではまず、これに目を通していただきたいのですが」

そう言うとタカネさんは、何か紙の束みたいなものを手渡してきた。
それが何なのか全然想像もつかないまま、私は受け取った。
でも多分、たとえどんな想像をしてたとしても、意味なんてなかったと思う。

ハルカ「……え……?」

何が書いてあるのか、理解できなかった。
いや、書いてあること自体は理解できたけど、でも……

ハルカ「な……なんですか、これ。何かの冗談、ですよね……?」

タカネ「冗談などではありませんよ。そこに書いてある計画、研究内容、全て事実です」

ハルカ「そんな……! こ、こんなの、許されるはずありません! すぐにやめさせないと!」

この時になってやっと、どうしてタカネさんがこのことを私に話したのかわかった。
きっと、私に計画を中止させるのに協力して欲しいんだ、って。
でも、違った。

タカネ「やめさせる……? なぜです? こんなにも素晴らしい計画なのに」

ハルカ「えっ……な、何を言ってるんですか! これのどこが……。
    ッ!! まさか、タカネさん……!」

タカネ「さて、本題に入りましょう。……ハルカ、この計画に協力してください。
   『アイドル』の協力があれば、私の研究はより早く……」

ハルカ「い、嫌です! こんなこと、協力できるはずありません!!」

タカネ「……即答ですか。まあ、予想通りといったところでしょうか」

ハルカ「このことは、先生達に報告させてもらいます!
    タカネさんも来てください! 今すぐに!」

そうは言いながらも、私は、タカネさんが大人しくついて来てくれるとは思ってなかった。
もし本当にタカネさんがこの計画に賛同しているのなら、
先生への報告なんて素直に応じるはずがない。
だから、多分拒否か、抵抗されるかも知れないとは思ってた。
つまり私は……タカネさんのことを何も分かってなかったんだ。

タカネ「ふふっ……思った通りの愚かしさですね。
   もう少し賢ければ、その分長生きできたものを」

ハルカ「え……?」

……気付いたら、知らない人がそこに立っていた。
見た目は確かに、タカネさんだった。
でも、知らない。
私はこんな人、知らない。
タカネさんじゃない。
私の知っているタカネさんによく似た人が……いつの間にか、目の前に立っている。

ううん、違う。
これがこの人なんだ。
今ここに居るこの人が、本当のタカネさんなんだ……。

タカネ「ではあなたではなく、ミキに協力してもらうことと致しましょう。
   多少時間はかかってしまうでしょうが、その方が確実ですからね」

ハルカ「っ……!!」

その瞬間、私は背を向けて走り出していた。
でも……ほんの数歩駆けたところで、私の全身は勢いよく床に打ち付けられた。

ハルカ「ぁ……か、はッ……!!」

痛い、苦しい、苦しい、痛い、痛い、痛い、苦しい、
何をされた、何があった、
攻撃、そうだ、タカネさんに、攻撃されたんだ、痛い、痛い……!!

足音、近付いてくる、
このままじゃ、駄目、駄目だ、ダメだ、

タカネ「……さようなら、ハルカ。愚かな小娘よ」

――その時目に映ったのは、タカネさんの手から出る、強い光。
耳に聞こえたのは、低く唸るような音。
でも視界全部を埋め尽くすその光の中に、音の中に、私は別のものを見て、聞いた。

  『一緒に頑張ろうね。アイドルになっても、ずっと一緒にいようね』

そう……約束したんだ。
ずっと一緒だって。
私は約束したんだ。

……ミキと、約束したんだ。
だから……!!

ハルカ「うっ……ああぁあああぁああああああああッッ!!!!!」

タカネ「っ!」

私の能力――自分の『生命力』を操る力。
その力を、最期に使った。
自分の命を丸ごと……つまり『魂』を、体から抜き取った。
それがただ一つ、タカネさんに殺されないための方法。

魂だけになれば、誰にも見えない。
誰にも感じ取れない。
だから殺されることもない。
だけど、何もできない。

それから百年かけて少しずつ力を集めて、体を作って、
やっと、元の力を取り戻すことができたんだ。

……ごめんね、ミキ。
約束破っちゃって、本当にごめん。
でも、待ってて。
きっとまた会いに行くから。
きっと、償うから……待っててね。




地に膝をつき俯くミキを、チハヤたちは黙って見守る。
タカネの防壁への攻撃は意外にも、初めに防いだ一発以降無いようだ。
そんな不自然なほどの静寂さの中、

ミキ「……ハルカ……」

絞り出したような掠れた声が、少女たちの耳に届いた。
両手を胸に当てて目を強く瞑るミキの姿は、祈りを捧げているようにも見える。
と、不意にミキの両手がすっと胸から離れた。
膝が地面から離れた。
そして、

ミキ「みんな……ごめんなさい。
  ミキ、たくさん酷いことして、傷つけて……本当にごめんなさい。
  それから、ありがとうなの……ミキのこと、タカネから守ろうとしてくれて」

上下の瞼が離れ、その先に見えた瞳……。
そこには、少女たちの知らない光があった。
眠り姫の瞳にはなかった。
タカネにただ怯えきっていた瞳にもなかった。
まだ淡く、儚い印象を受けるものの、
それが恐らくは本来の……ミキの瞳が持つ光なのだろうと、全員が感じた。
ハルカの記憶が、想いが、ミキの瞳に光を取り戻させたのだ。

ヒビキ「も……もう、大丈夫なのか?」

ミキ「……大丈夫なの。ミキはもう、ミキだから。
  だから今度は、ミキがみんなを守る番」

そう言うとミキは、手に武器を発現させる。
そして、青い防壁の先に見えるタカネを見据えた。

マコト「まさかタカネと戦うつもり……!?
   さ、流石に無茶だよ! いくら君でも、あのタカネ相手じゃ……!」

イオリ「っ……そうよ。あなたにはもう、『眠り姫』の時ほどの力はないんでしょ……!?
   いえ、たとえあの時の力が残っていたとしても今のタカネは……」

ミキの意志を察して、皆口々にタカネと正面から戦うことの無謀さを口にする。
口にはしていない者も、不安を色濃く写した目をミキに向けている。
しかしミキはタカネから目を離すことなく言った。

ミキ「そうだね……。『眠り姫』の力は、もうタカネにほとんど取られちゃった。
  でも、それでもみんなよりもミキの方が、力は残ってるの。
  ……ううん、もしそうじゃなくたって、タカネはミキが倒さなきゃいけないの。
  だって、こんなふうになっちゃったのは、やっぱりミキのせいだもん」

ミキ「それに、やらなきゃどっちにしろみんな死んじゃうんだし。
  だったら、戦った方が絶対いいの」

チハヤ「ミキ……だったら私も――」

一緒に戦う、と言いかけたチハヤの言葉を、ミキは首を横に振って止めた。
そして薄く笑って、

ミキ「チハヤさん……だよね。ダメだよ、怪我してるのに無理しちゃ。
  それにチハヤさんは、『歌を歌うアイドル』でしょ?」

チハヤ「……!」

ミキ「知ってるよ。チハヤさん、戦うのはあんまり得意じゃないんだよね。
  だから、戦う代わりに、みんなのことを守ってて欲しいの。
  それから、歌って欲しい。もう一度、ミキのために」

チハヤ「ミキ……」

次いでミキは、アズサに、ユキホに、マコトに、イオリに、ヒビキに、ヤヨイに、
ぐるりと目を向ける。

ミキ「みんなも、応援してね。そしたらミキ、きっと大丈夫。
  今までずっと一人ぼっちで立ち止まって、うずくまってばっかりだったけど……。
  今なら一人でも歩き出せるから。全然、怖くなんかないの」

ミキの言葉、そして視線を受けた皆は、やはりまだ不安げな表情を浮かべている。
ミキと共に戦いたい。
その想いはあるが、ハルカと『眠り姫』との戦い同様……
いやそれ以上に、自分が加わったところで足手まといになることは明らか。
戦うこともできず、だからと言って逃げることもできない。

そんな迷いを抱えた皆を尻目に、ミキはチハヤに向き直る。
今度は何も言わなかった。
ただ黙って、覚悟を決めた瞳でチハヤの目を真っ直ぐに見つめた。
チハヤはその視線を受け取り、そして、防壁を解除した。

瞬間、乾いた拍手が響く。
タカネが薄ら笑いを浮かべ、嘲笑を込めて手を叩いていた。

タカネ「真、感動いたしました。これからの悲劇――あるいは喜劇でしょうか。
   結末を彩るのにふさわしい、良き見世物をありがとうございます」

タカネを取り巻くオーラが一際大きくうねる。
怨嗟の声も、より深く低く響き渡り、

タカネ「さて……それではそろそろ始めましょうか。終焉の始まりを」

  「――っ……!?」

タカネのオーラが動いた直後、少女達は息を飲んだ。
いや、そうではない。
正確には、『息を飲めなくなった』のだ。

イオリ「なっ……何よ、これ……!?」

ヤヨイ「く、苦しい、です……!」

ユキホ「息が、急に……!」

ミキとチハヤ以外の全員が喉を押さえて喘ぎ出す。
一体何が――
突然の出来事に沸いた疑問と、周囲の濁った空気にチハヤが気付いたのは同時だった。

チハヤ「まさか……!」

直感的に、チハヤは改めて防壁を張り直した。
ただし先ほどとは違い、皆を囲むようなドーム状にである。
すると、息苦しさに歪んでいたイオリ達の表情が和らぎ、呼吸も整い始めた。

チハヤ「みんな、大丈夫!?」

マコト「う、うん、大丈夫……。ありがとう、チハヤ」

アズサ「でも、今のは一体……」

ヒビキ「も、もしかして、これもタカネが……!?」

呟くようなヒビキの声であったが、それは上空のタカネにも届いたようだった。
満足げに笑ってみせ、タカネは答える。

タカネ「これが、私とあなた方の差です。
   もはや私の前では、あなた方如きでは呼吸することさえ叶わない。
   ふふ……楽しみです。いずれ地表全てがこの瘴気に包まれるのですから」

タカネの周囲から発生する濁った空気。
彼女の言う『瘴気』こそが、少女達から呼吸を奪った元凶であった。
その事実は、少女達に現実を否応なく突きつけた。
タカネの言う通り力の差は歴然であり、
やはり自分達では今のタカネには手も足も出ないのだと。
だが、それでもまだ彼女達の心は、絶望に染まりきってはいない。

ミキ「そんなこと……絶対にさせないの! ミキ達は平気だもん!
  だからミキが、絶対にタカネを倒してやるの!」

この瘴気の中にあっても影響を受けていないミキ、そしてチハヤ。
二人の存在が、最後に残った一筋の光となって皆の心を支えていた。

タカネ「……ただ呼吸できるというだけで思い上がったものですね。
   良いでしょう。ではやってご覧なさい」

その言葉が、合図となった。
ミキは巨大鎌を構え、そして、叫んだ。

ミキ「チハヤさん、お願い!!」

猛然と上空へと飛び上がるミキ。
同時にチハヤは息を大きく吸い――

  戦いの果てに掴んだ
  荒涼の大地 未来の楽園
  鈍色の空を切り裂いて
  アナタと生み出す 鮮やかな世界

力強い歌声が大気を震わせる。
その歌声を受け、ミキの体の輝きが増した。
タカネはそれを見て醜悪な笑みを浮かべ、
触手と化したどす黒いオーラの一端をミキに向けて放つ。
その威力は、少し前までのミキであれば紙片の如く吹き飛ばされるほどの強烈なもの。
しかしミキは全身に力を込め、手にした巨大鎌の柄で、それを見事受け止めた。

ミキ「っ、く……ああぁああああ!!」

渾身の叫びと共に、触手は弾かれる。
そして弾いた体勢そのままに武器を振りかぶり、ミキはタカネに肉薄した。

タカネ「!」

振られた刃の切っ先は、タカネに届くことはなかった。
チハヤの時と同様、片手で受け止められた。
だがチハヤの時とは違い、タカネはその手にオーラを纏っていた。
つまり、完全な素手では受けきれないと、タカネは判断したのだ。

タカネ「……なるほど。これがチハヤの力、というわけですか」

アイドルとして覚醒したチハヤの歌は、想いを乗せて力を与える。
ミキを狂気から救ったこともそうだが、
気を失ったヤヨイとユキホの目を覚まさせたのも、実はチハヤの歌であった。
優しき者達の笑顔を願い、それを歌に乗せて実現させる。
チハヤの歌に対する想いと、皆の幸せを願う想いが、
アイドルとしてのこの能力をチハヤに与えた。

そしてそれは正しく、少女達にとって希望であった。
チハヤの歌により強化されたミキの力。
きっとこの二人ならタカネに勝てる。
皆そう思っていた。
この、数秒後までは。

タカネ「ふふ……良いでしょう。希望が大きければ大きいほど、その後の絶望もまた深い。
   私に楯突いた者の絶望する顔を眺めるのも、また一興というものです」

ミキ「っ!?」

タカネの口角が歪み、禍々しい牙がむき出しとなる。
それと同時、彼女の周囲のオーラが弾け、尋常でない数の触手に姿を変えた。
その数、十や二十では済まされない。
視界を埋め尽くすほどの触手はほんの一瞬動きを止め、直後、一斉にミキに襲いかかった。

咄嗟にミキは後ろに退き、タカネから距離を取った。
しかし触手は瞬時に反応してミキを追尾し、
四方八方、ミキを取り囲む形で襲いかかる。

ミキ「く……!!」

一つ目を、ミキは自らの武器で受けた。
二つ目は首を捻って躱した。
三つ目は足で蹴り飛ばした。
四つ目が来る前に、再び距離を取った。

が、すぐに追いつかれた。
そして一つ目は、二つ目は、三つ目は……。

マコト「な……なんだよ、あれ……! あんなの、キリがないじゃないか!」

ヒビキ「い、今はなんとか耐えてるけど、いつまでも続かないぞ……。
   このままじゃ、時間の問題だ……!」

マコトとヒビキの言う通りだった。
今は辛うじてタカネの触手を躱し、いなし、弾き返しているミキではあるが、
離れて見ていても目で追いきれないほどの猛攻である。
息つく間もなく繰り返され、
しかもその一撃一撃が、生身に当たれば肉をえぐり骨を砕く威力を持っている。

イオリ「っ……チハヤ! この壁を消して! 少しだけでいいから!」

チハヤは歌い続けながら、イオリに目を向ける。
必死な視線を受け、ほんの一瞬逡巡し、頷いた。
ドーム状に張られたの防壁のうち、イオリの目の前の一部分のみが開かれる。
それと同時に、イオリは電撃を発生させる。
そして、自分が今出せる最大出力の電撃を、タカネに向けて放った。

少しでもいい。
ほんの一瞬だけでもタカネの動きを止められれば。
そんな願いを乗せて放たれた電撃はしかし……

イオリ「!? 嘘、なんで……!」

タカネの動きを止めるどころか、ほんの僅か進んだところで儚く霧散した。
無残に散りゆく電撃の残像を瞳に写し、唖然と口を開く。
そんなイオリ達を一瞥し、ふっと鼻で笑った後、タカネは言った。

タカネ「アイドルに選ばれてすら居ない者の攻撃など、我が瘴気に掻き消えるのみ。
   身の程を弁えなさい。あなた方はそこでただ座して、
   希望の潰える瞬間を眺めていれば良いのです」

タカネが話している間も触手は絶え間なくミキを襲い続けている。
そうしてとうとう……そのうちの一つが、ミキの片腕をとらえた。

  the End of the Dream
  紡ぎ上げたエデンの末路は
  解け行く世界の終焉
  ああ取り戻せないこの現実は
  愚かな夢の代償――

ミキ「うああッ!?」

嫌な音に重なり、ミキの叫びが地上にまで届く。
それと同時、触手はぴたりと動きを止めて、ゆるゆるとタカネの周囲へと戻っていく。

タカネ「ふふ……もう、おしまいですね」

愉悦に歪んだ目線の先あるのは、腕を押さえて苦悶の表情を浮かべるミキの姿。
赤黒く腫れ、だらりと下がった白く細い腕を見れば、
たった一撃によってミキの戦闘力の大半が失われてしまったことは明らかだった。

一部始終は当然チハヤの目にも写り、息を飲んで歌を止めてしまう。
また他の者達も同様、目を見開いてミキとタカネを見上げ……
触手が再び動いたのは、その時だった。

ミキ「え……!?」

複数の触手が束になり、ミキに向かって真っ直ぐに伸びる。
そして瞬く間に、ミキの体に幾重にも絡み付いた。

ミキ「やっ……! は、離して!」

当然身をよじり抵抗するミキであるが、抜け出せるはずもない。
苦痛を感じるほど締め上げているわけでもないが、
負傷した方は元より、無事な方の腕も、厳重な拘束にぴくりとも動かなかった。

思わず、チハヤはミキの元へ飛ぼうとした。
しかし寸前で思いとどまる。
自分とタカネの力の差は歴然。
もしここを離れて自分がやられでもすれば、今皆を囲っている防壁が解けてしまう。
そうなれば自分のみならず、仲間達も皆……。
もはやこの命は、自分だけの物ではないのだ。
しかし、だからと言ってここで見ているだけでは、ミキがやられてしまう。
どうすれば……。

僅かな時間に思考を重ね、現状での最善策を模索するチハヤ。
しかしその思考に、静かなタカネの言葉が割って入った。

タカネ「案ずることはありませんよ、ミキ。
   まだあなたのことを屠るつもりはありませんから。
   もう一度眠り姫へと還るならば、あなたの命は奪わないでおきましょう」

チハヤ「……!?」

ミキ「っ……何、言ってるの……?」

苦悶の表情に疑問と警戒が入り混じる。
まったく、タカネの言動の意図するところが分からない。
だがその反応も想定済みだったのだろう、タカネは笑みを崩さずに続ける。

タカネ「実は、この世界を破滅へ導くには、私一人では少々時間を要するのです。
   しかし眠り姫の力があれば、不要に時間をかけることもありません。
   もちろん、要が済めばあなたには再び眠ってもらうこととなりますが、
   そうなればまた、幸せな夢を見ることができます。
   ……このような苦痛を味わうこともなく」

ミキ「っぐ!? ぅああぁあああああッ!?」

耳を覆いたくなるようなミキの悲鳴。
外側からは見えないが、ミキの体を拘束している触手が何かしたことは明らかである。

タカネ「さあ、いかがですか、ミキ。好きな方を選びなさい。
   このまま長き時間をかけて苦しみ抜いた果てに死ぬか、
   今一度眠り姫に身を委ね、幸福な夢の中で安らかに眠り続けるか」

ミキ「そんなの、決まっ……ぁぐぅ!? うぅううッ!!」

タカネ「……」

ミキ「はあ、はあ……ミ、キは……うああッ!! ああぅううあああッ!!」

一定の間隔を置いて絶え間なく聞こえ続ける、ミキの叫び。
苦痛を与え、休ませ、苦痛を与え、休ませ……。
ミキが頷くか死ぬかするまで、延々と繰り返すつもりなのだ。

『助けなければ』

その思いは、もうずっと前から少女達の頭の中で執拗なほどに渦を巻いている。
が、塗りつぶされる。
自分が行くことで、むしろミキの死を早めてしまうのではないか。
仲間の死を早めてしまうのではないか。
ミキを助けに行こうと足を動かそうとするたび、
あらゆる最悪の結末が浮かんでは消え、その足を止めてしまう。

そしてチハヤもまた、そんな無力な少女の一人であった。
どうすればいいのか分からない。
何が正解なのか分からない。

でも早くしなければ。
ミキが死ぬ。
みんなが死ぬ。
世界中の人が死んでしまう。

でも、何をすればいい?
分からない。
でも早くしなければ。
でも、でも、でも……!

焦燥にかられたチハヤの思考は何度も同じところを回り続ける。
呼吸は乱れ、目には涙すら浮かぶ。
頭には霞がかかり始める。
もはや思考も堂々巡りすらせずに完全に止まってしまっているのかも知れない。
つまりそれは、チハヤですら絶望へと沈み始めたことと同義であった。

しかし、その時。

  『――思い出して、チハヤちゃん』

霞の中で、声が聞こえた。
何も見えていない自分を導いてくれるように、はっきりと、でも優しく。

  『アイドルになる、って。そう言ってくれた時の、チハヤちゃんの気持ち』

……私の、気持ち。
アイドルになった時の、私の気持ち。
私は、どんなアイドルに……。

  『その気持ちを、思い出して。それを忘れなければ……チハヤちゃんなら、大丈夫だから』

そう……そうだ。
私は、みんなを笑顔に……。
私の歌で、みんなを笑顔にする。
そうだ……そのために、私は……!

今日はこのくらいにしておきます。
続きは明日投下します。
多分明日で最後まで行きます。




ミキ「――うううああッ……! うぅっ、ああぁあああ!!」

痛い、痛い、痛い痛い痛い……!
どうして、どうしてこんなことするの?
どうしてミキ、こんなに酷い目に遭ってるの?

タカネ「何を躊躇うことがあるのです。眠り姫となれば、幸福が訪れるというのに」

幸福……幸せ……?
眠り姫になったら、幸せになれる……?

タカネ「分かりますよ。あなたは罪滅ぼしのために私に楯突いた。
   親友との約束を破り、多くの罪に手を汚した、罪滅ぼし……」

そう、だよ。
ミキは、償わなくちゃいけないの。
たくさん酷いことしたから。
タカネの言う通り。
ミキの手、すごく、すごく汚れちゃったから。
だからせめて……

タカネ「しかし、もう理解したでしょう? 罪滅ぼしなど不可能。
   ならば忘れてしまえば良いのです。そうすれば罪悪感に苦しむこともないのですから」

……忘れ、ちゃう。
全部忘れちゃう……?
そしたら、もうこんなに苦しい思いも、しなくて済む……?

 そうだよ。もう忘れちゃえばいいんだよ。
もう、忘れちゃえば……。
 痛いことも、悲しいことも、辛いことも、全部、全部。
 また、消しちゃおうよ。
また、消しちゃう……。

 ハルカのこと、好きなんでしょ?
うん、好きだよ。
 でもここに居たって、もうハルカには会えない。
 でも夢の中ならまた会える。
 汚れちゃった自分のことも忘れて。
 大好きなハルカに、また会える。
大好きな、ハルカに……。

そうだ……。
ミキは、ハルカのことが好き。
大好き。
だからミキは、ミキは……。

タカネ「さあ、こちらへいらっしゃい……眠り姫よ」


  ――穢れ堕ちたアタシと
  闇に巣食うアナタの
  愛憎に揺れる天秤
  神の意思は……?

ミキ「そんなの……絶対、ヤ!!」

タカネ「っ!!」

この時初めて、タカネの表情が驚きに色を変えた。
ミキを締め付けていた触手が一瞬にして弾け飛んだのだ。
見ればミキの体はこれまでで一番の輝きを見せている。
いや、体だけではない。
瞳に宿る光も、初めに自分に向かってきた時とは比べ物にならないほど強く、強く輝いていた。

タカネは目を細め、下方に逸らす。
その先にはチハヤの姿。
迷いの無い力強さで、高らかに歌うチハヤの姿。

タカネ「っ……」

聞こえてはいた。
少し前からチハヤが再び歌い出したことに、気付いてはいた。
ただ、また無駄なことをと嘲笑い、無視した。
しかし……

ミキ「ミキ、約束したんだもん……! 世界中のみんなを笑顔にするって!!
  ハルカと約束したの!! だからもう、ミキは……!
  もう二度と! 約束、破りたくない!!」

明らかに力が増している。
『眠り姫』と比べるべくもない。
タカネは悟った。
今のミキの刃は、自分にも届き得ると。

タカネ「……しかし! それがなんだというのです!」

ミキの放つ光に対抗するように、タカネの身に纏う光も烈しさを増した。
鈍く、ドス黒く、しかし全てを飲み込みかねない強烈な光。
光は蠢き、そしてタカネの手元へと集約され……

タカネ「一片の塵すら残すことなく消してくれましょう! 愚かな小娘よ!」

ミキに向けて放たれたそれは、
邪魔者をこの世に一片の塵すら残さず消し飛ばさんとする破滅の光。
しかしその光に対してミキの取った行動は、防御でも、回避でもなかった。

ミキ「はあああああああああああッ!!」

気合を叫びに乗せ、武器を振りかぶり、ミキは真正面からその光に向けて突進した。
そして一瞬後、光と光はぶつかり合い、周囲に衝撃が広がった。

雷光の如く瞬いた閃光に、地上の少女たちは思わず声を上げて目を瞑る。
だが見逃すわけにはいかない。
すぐさま目を開き、改めて上空を見上げる。

ミキはタカネの最大級の攻撃に正面から対抗していた。
すごい、と感嘆の声を上げかけたのはしかし一瞬のこと。
ミキの表情に気付き、皆の表情も色を変えた。

ミキ「っ、くう……!」

タカネ「ふ……あははははっ! 真、愚かな娘です……!
   真正面からぶつかりなどせずに避けていれば、
   少なくともこうはならなかったものを!」

必死に苦悶の表情を浮かべるミキと、またも嘲笑を浮かべるタカネ。
その対比を見れば力の関係は明らかだった。
ミキの力は増したものの、やはりまだ一歩タカネには及んでいない。
正面からぶつけられる邪悪な力の塊に、ジリジリと身を焦がされていく感覚。
ミキは力を振り絞り、目を閉じて歯を食い縛ってそれに抵抗していた。

タカネ「所詮は紛い物の身……! 真のアイドルである私に勝てるはずもない!
   『世界中を笑顔にする』? ええ、見事でしたよ!
   あなた方の吐く戯言は実に滑稽で、存分に笑わせていただきました!」

ミキ「っ……!」

タカネ「アイドルとは、世界を混沌と破滅へと導くもの!
   それこそが真のアイドルなのです!
   笑顔だのなんだの、そのような戯言は無に帰すのみ……!」

タカネ「さあ、消えなさい! 紛い物の、アイドルもどきよ!」

もはや武器を支えるミキの両腕は震え、
闇に飲み込まれぬよう耐えることで精一杯に見えた。
だが、強く閉じられた瞼の奥で、ミキの瞳は未だ輝きを放ち続けている。

ミキ「違うっ……アイドルは、そんなのじゃない……!」

言葉を話すことすらままならぬ、そんな掠れたような声。
しかしそこには確かに強い意志が込められていた。
何より強い想いがあり、それは地上の少女達にもしっかりと届いた。

ミキ「アイドルは……! アイドルは、みんなを笑顔にするの……!
  たくさんの人を、幸せにっ……それが、アイドルなんだから……!!」

その瞳の輝き。
声を振り絞り歌い続けるチハヤも同様のものをたたえている。
もはや微塵も揺るがない。
ミキも、チハヤも、自分の信じる想いを胸に全てをかけて全力を尽くしている。

だが……それでも、それでも、ミキの光がタカネに飲まれかけていることは厳然たる事実。
このままではミキの消滅は必定。
足りないのだ。
タカネに勝つためには、まだ、決定的な何かが――

ヤヨイ「ミキさん!! 頑張ってくださいぃーーーーーーっ!!!!」

突如聞こえたその声は、攻撃に耐えるべく閉じられていたミキの瞳を開いた。
見れば地上で、まだ名も知らぬ少女が、自分を真っ直ぐに見つめている。

他の者がただ固唾を飲んで見守っていた中、真っ先にヤヨイが声援を送ったのは、
その幼さゆえの純粋さからであろうか。
あるいはただ一人『眠り姫』としてのミキを知らなかったゆえか。
いや、理由などどうでも良かった。
それよりも、ここで起きたある変化が、皆の目を引いた。

ヤヨイの体が光を放ち、その光がミキに向かって緩やかに流れていく。
すると――ミキの光が輝きを増した。
まるでヤヨイの力が分け与えられたかのように。

そう、それもまたチハヤの歌の力。
厳密に言えば、チハヤの歌とハルカの能力によるものであった。
ハルカの能力の一端である、『生命力の分与』。
それがチハヤの歌を介し、そしてヤヨイの想いと叫びに呼応して発動した。
『ミキの力になりたい』という心の底からの願い。
それが今、叶えられたのだ。

ヤヨイはもちろん他の皆も、そんなことは知る由もない。
しかしその場の全員が直感した。
自分が今、すべきことを。

ヒビキ「が……頑張れ! ミキーーーーーっ!!」

マコト「ミキ!! タカネに負けるなーーー!」

ユキホ「ミキちゃん、頑張ってぇーーーーーー!!」

アズサ「私たち、何もできないけれど、でも……!! お願い! 頑張って、ミキちゃん!!」

イオリ「ミキ……! あなた、約束ってのがあるんでしょ!?
   だったら、もっと……もっと、頑張りなさいよ!!」

皆、口々にミキへの声援を叫ぶ。
眠り姫ではない、ミキの名を叫ぶ。
それは少し前までのタカネであれば嘲っていた光景だろう。
なんと滑稽な。
戦うことすらできない無力な小娘達が、
薄氷のような希望にすがりつき、哀れにもただただ叫び続けている……。
そう一笑に付していただろう。
しかし――

タカネ「っ……まさか、これは……!」

皆の体から、光が流れていく。
光はミキを包み、急激に輝きを増していく。

力が流れ込んでくる。
いや、力だけではない。
想いが、願いが、祈りが、次々と流れ込んでくる。

……温かい。
そっか、そうだったんだ。

  『みんなも、応援してね。そしたらミキ、きっと大丈夫。
  今までずっと一人ぼっちで立ち止まって、うずくまってばっかりだったけど……。
  今なら一人でも歩き出せるから。全然、怖くなんかないの』

あの時ミキはああ言ったけど……違ったんだ。
ミキは、ミキは、もう……。

ハルカ『今まで一人にして、ごめんね。でも……もう大丈夫』

ミキ「ハルカ……」

ハルカ『ミキはもう、一人なんかじゃない。みんなが一緒だよ。それに……私だって』

ミキ「……うん」

  ――the Fate of the World
  猛り狂う奈落の咆哮に
  立ち向かう光の羽根

大きな翼がミキの背に現れる。
青く、綺麗で、力強い、どこまでも飛んでいけそうな大きな翼。
濁った光が、ミキに触れている部分から裂け、散り始める。
青い翼を携えた鮮やかな黄緑と、それを支えるように取り囲む赤。
もはや彼女を、彼女達を止められるものなど無い。

ハルカ『さ……頑張ろう、ミキ。もうちょっとだよ』

心の中にあるのは、感謝の想いばかり。
自分を支えてくれる全てに報いる、ただそれだけ。

……ありがとう、ハルカ。
ありがとう、チハヤさん。
ありがとう、みんな。

  さあアナタの牙打ち砕いて
  新たな時を奏でる愛に
  奇跡は芽生え始める――

ミキ「うあああああーーーーーーっ!!」

力強い叫びと共に闇を切り裂き現れた、眩い光。
目が眩むほどの眩さを持ったその光はしかし、
それを間近に見つめるタカネの両目に、閉じることを許さなかった。
タカネは最後まで瞳に映し続けた。
自分が嘲笑った全てが、悪を断ち切る刃となり迫っている、その瞬間を。

一瞬一瞬がコマ送りのように、ゆっくり、ゆっくりと目に焼き付いていく。
しかし体はぴくりとも動かない。
時間が凝縮されていく感覚。
タカネは悟った。
ああ、そうか。
これは所謂……走馬灯というものに、近いのかも知れない。

タカネ「……馬鹿な……」

それでもなお受け入れがたい現実に、ただの一言発した言葉。
直後、光の刃はその言葉ごと、
タカネの体を頭から真二つに両断した。

光の刃は、タカネの体を傷つけることはなかった。
両断したのは肉体ではない。

タカネ「っぁ……!!」

喉の奥から漏れ出たようなうめき声。
瞬間、タカネの全身が爆散した。
正確には、タカネを包んでいたオーラが尋常でない音を立てて飛び散った。
周囲に広がるその音は、まさに断末魔の叫び。
邪悪な力の終焉を告げる最期のうめき声。
そうしてどす黒いオーラが完全に飛び散ったあとに残されたのは、
姿かたちが元に戻った、タカネであった。
直後、タカネは緩やかに地へ落ちていく。

ミキ「はあ、はあ、はあ……」

ミキの体の輝きが少しずつ薄まっていく。
光の翼も、役目を終えたというように細かな粒となって四散した。
肩で息をしながら、ミキは落着していくタカネをただ見続けた。

チハヤは皆を囲っていた防壁を解いた。
やはり瘴気も全て消えている。
全員理解した。
今のタカネからはまったく力を感じない。
戦いは、終わったのだ。

やがてタカネは地に落着した。
仰向けに横たわるタカネを、少女達が取り囲む。
タカネはそんな少女らに目を向けることなく、
ただ薄く開いた瞳に空を映したまま、口を開いた。

タカネ「やはり……早めに消してしまうべきでした。
    貴女方を侮ったのは失策……真、悔やまれます」

その言葉を聞き、少女たちは微かに胸が締め付けられるのを感じた。
『何かの理由でタカネはおかしくなってしまっていたのではないか』
『あの濁ったオーラが消えれば、自分達と親しかった頃のタカネに戻るのでは』――
心のどこかではやはり、そんな淡い期待を持っていた。
だが違った。
本人の言っていた通り、あれこそがタカネの本性。
彼女はやはり今も、破滅と混沌を望むタカネのままだった。

期待を抱いていたのは、チハヤとミキも同様であった。
チハヤは直接タカネのことを知るわけではない。
ただ、ハルカの記憶からやはりタカネの優しげな姿を知り、他の皆と同じ想いを抱いていた。
そんな彼女達の内心をその表情から悟ったか、タカネは浅く息を吐く。

タカネ「よもや、私に情けをかけようというのではないでしょうね……?
   私は今でも、貴女方を葬り野望を叶えることを願っているというのに」

そう言って口角を上げたタカネを見、少女らは二の句が継げなくなる。
だが少し経ってから、ミキが静かに口を開いた。

ミキ「……どうして? どうしてタカネは、そんなことをしようとしたの……?
  世界を破滅に、なんて、どうして……」

タカネは、目線だけをミキへ向けた。
それから少しの間、黙ってミキを見続け、

タカネ「では、貴女方はなぜ皆を笑顔にすることを望むのですか? 皆の幸福を望むのですか?」

ミキ「え……?」

思わぬ問い返しに、ミキは返答に詰まってしまう。
だが初めから返事は期待していなかったのか、タカネは表情を変えることなく続けた。

タカネ「答え方は幾通りもありましょう。
   ですが、その答えには全て共通の理念があるはずです。
   『そうあるべきだから』『それが正しいことだから』、という理念が。
   私も、それと同じです」

ミキ「……それって、どういう……」

タカネ「つまり、理由などないのです。
   私にとっては世界は混沌に満たされるべきものだった……ただ、それだけのこと」

タカネの言葉を全て理解できたものが果たしてこの中に居るだろうか。
ただ全員、これだけは分かった。
自分たちとタカネとの間には、埋めようのない大きな隔たりがあるのだ、と。
そんな彼女の言葉になんと返すべきか皆迷った。
が……その迷いに答えが出るのを、時間は待たなかった

ミキ「っ!? タカネ、足が……!」

タカネ「……口惜しきことです……。
   やはり私の願いはもう、叶わぬようですね」

タカネの爪先が、ボロボロと崩れていく。
黒い光の欠片となり、徐々に徐々に上へと上がってきている。
力を失ったタカネの消滅……。
まったく想定していなかったことではないとは言え、やはり全員少なからず動揺する。
しかし当のタカネはというと、まるで取り乱しているようには見えない。
それどころか穏やかに笑い、
かと思えば爪先へ向けていた視線をふと外し、言った。

タカネ「こちらへいらっしゃい。アミ、マミ」

言葉と視線に誘導されるように、皆は一斉に目を向ける。
その先には、確かに居た。
双子と思しき少女が二人、佇んでいた。
皆が気付いたのと同時、
呼ばれた二人は同時に駆け出して横たわるタカネの脇にそっと腰を下ろした。

アミ「お母様……眠ってしまうの?」

タカネ「ええ、そうです」

マミ「でも、寂しくないわよね? だって私たちも一緒だもの」

アミ「私たちずっと一緒よ、お母様」

タカネ「……真、優しき子達ですね」

そう言って双子を抱き寄せるタカネ。
慈しみにあふれたその表情は、皆が慕ったタカネそのものであった。
頭を撫でられるアミとマミは、心地よさそうにタカネの胸へ顔をうずめる。
見ればいつからか、二人の体もタカネと同様に崩れ始めている。
と、タカネはアミとマミからチハヤへと目線を上げた。

タカネ「アイドル、チハヤよ。
   貴女はその歌の力で、やはり世界中を笑顔にするつもりですか?」

チハヤ「……はい。そのつもりです」

僅かな間を空けはしたが、迷いなき瞳で答えたチハヤ。
タカネはそんなチハヤの目を見つめ返し、

タカネ「これから先……私のように貴女の歌の届かない者も出てくるでしょう。
   それでも貴女は、歌い続けるつもりですか?」

チハヤ「もちろんです」

たった一言、チハヤは言い切った。
だが短い一言だからこそ、そこにはチハヤの覚悟がこれ以上ないほどに込められていた。
タカネは暫時黙してチハヤの瞳を見つめ続けたのち、ふっと目を閉じた。

タカネ「では、貴女の信ずる道を歩み続けなさい。愚直に、一心に……。
   そうしてこそ、私も少しは浮かばれるというもの」

チハヤ「……ええ」

タカネ「私はこれより、夢を見ることとします。さあ参りましょう、アミ、マミ。
混沌とした素晴らしき世界……そのような、夢の中へ」

アミマミ「はい、お母様」

そうして、タカネと双子の少女の体は完全に崩れ落ちた。
細かな灰となったタカネ達は、涼やかな風に吹き混ざり、
一片すらも残さず宵闇へと消え去った。

それからしばらく、誰も、何も話すことができなかった。
言葉にし難い感覚が皆を包む。
少なくともそれは巨悪を討ち滅ぼした達成感のような、活力に満ちたものではない。
そんな中、ミキがぽつりと呟いた。

ミキ「……タカネのことも、笑顔にしてあげたかったな……」

『世界中のみんなを笑顔に』。
ミキの願いの『みんな』の中には、タカネも入っていた。
またそれに近しい想いを、他の者も同様に抱いていた。
タカネの望む世界の破滅はなんとしても阻止しなければならなかった。
だが、彼女達は誰ひとり、タカネの消滅を望んでなどいなかった。

彼女の今際の言葉を聞く限り、自分達とは到底理解し得ないのだろう。
それは、頭では分かっている。
しかしやはり心情としては……
やはりタカネとも、以前のように仲間として歩み続けたかった。

タカネとの別れは、少女達の心に喪失感を生んだ。
が、それでも――

チハヤ「いつまでも、下を向いているわけにはいかないわ。
    だって私たちは……アイドルを目指すんだから」

チハヤ「今の私では、力が足りなかった……。でも、次はきっと。
    どんな人にでも届く歌を、私は歌ってみせる……!」

タカネの言うように、これから先、自分の歌の届かない者が出てくるかもしれない。
これに似た喪失感や悔しさに襲われることも、あるかもしれない。
だが、それでも、自分は決めた。
自分の歌で世界中を笑顔にしてみせると。
愚直に、一心に……信じた道を進み続けると。

ミキ「……チハヤさん……」

気付けば、力強いチハヤの声が皆の顔を上げさせていた。
タカネの消失を悔やむ気持ちは、まだある。
しかし、そうなのだ。
彼女達もまた、アイドルを目指す少女。
アイドルとは皆を笑顔にするものだと彼女達は知った。
辛さはある。
悲しさもある。
だがそれを乗り越え、輝く存在。
それが彼女達の目指す、アイドルなのだ。

そして、皆が前を向いたのを待っていたかのように、『その時』は来た。

ミキ「! そっか……もう、お別れなんだね」

ミキの体が淡く光る。
生じた細かな光の粒子が、少しずつ、少しずつ天へと舞い上がっていく。
ミキは理解していた。
自分が百年前の存在。
ここに居るべきではないのだと。
また他の皆も、目の前の光景とミキの言葉で理解した。
還るべき場所に、ミキは還ってしまうのだと。

ミキ「ねぇ、みんな……。最後に、みんなの名前、聞かせてもらってもいい?」

微笑みの中に僅かばかりの寂しさを加え、ミキは皆を振り返った。
その表情に、ある者は微笑みを返し、ある者はやはり悲しげな表情で、自らの名前を名乗る。
そうして一通りの名前を聞いたあと、
ミキは改めて目を向けて、静かに口を開いた。

ミキ「ヒビキ、マコト、ユキホ、アズサ、イオリ……。
  たくさん酷いことして、ごめんね。
  それから、ヤヨイ……。一番最初にミキのこと応援してくれて、嬉しかったの」

ミキを包む光が濃くなっていく。
そしてそれとは反対に、体が少しずつ淡く、不鮮明になっていく。

ミキ「みんな、ありがとう。ミキのこと、助けてくれて……。
  ミキはもうここには居られないけど、でも、寂しくなんかないよ。
  ミキは一人じゃなかったんだって、気付いたから」

そうして最後に、ミキはチハヤへ向き直った。
だがミキが別れの言葉を贈ろうとした直前、
チハヤは微笑み、静かに口を開いた。

チハヤ「そうね……。ミキは一人じゃない。何より、それを許さない子が、ここに居るもの」

ミキ「えっ……?」

チハヤの体が光を放つ。
皆の見慣れた青い光ではない。
優しく暖かな……赤い光。
光は集約され、形を成し、そして――

ハルカ「ずっと、待たせちゃってごめんね……。さ、一緒に帰ろう、ミキ」

ミキ「……ハ、ルカ……?」

優しく微笑むハルカが、そこに居た。
幻影などではない。
それは確かに、ハルカそのものだった。

ミキ「え……な、なんで? だってハルカは、チハヤさんと……。
  ハルカが居ないと、チハヤさんは、アイドルに……」

困惑した様子でチハヤに目を向けるミキ。
そんなミキに、チハヤはやはり穏やかに笑いかける。

チハヤ「ハルカは私に、本当の気持ちに気付かせてくれた。
   それだけで十分……。これからは、私が自分の力で、アイドルを目指すわ」

ミキ「チハヤ、さん……」

チハヤ「それに……私のせいで、ハルカに約束を破らせるわけにはいかないもの」

ミキ「え……」

その時、ミキの体が暖かさに包まれた。
未だ困惑の色を浮かべ続けるミキを優しく、強く抱きしめるハルカ。
そしてその耳元で、そっと囁いた。

ハルカ「ずっと、一緒だよ。これからは、ずっと……」

……それは百年間、待ち望んだ言葉。
何度も何度も夢に見た言葉。
その言葉が……ミキが無意識にかけていた感情の枷を外した。

だらりと下がっていた腕が上がる。
両目から大粒の雫が流れ落ちる。
ハルカに力いっぱい抱きつき、ミキは小さな子供のように、声を上げて泣いた。
そんなミキを、ハルカもまた静かに涙を流し、抱きしめ続けた。
二人の体が浮き上がる。
光の粒となり、天へ上っていく。

もしかするとミキは、泣き疲れて眠ってしまうかも知れない。
そのとき夢に見るのは、きっといつもの、ハルカとの夢。
でもそれはもう夢ではない。
目が覚めても消えることはない。
二人の友情は光輝き、そして――
約束は、永遠となった。

――気付けば空は白み、朝日が昇り始めている。
ミキとハルカが還っていった空を、皆しばらく眺め続けた。

ヒビキ「なんか……全部、夢だったみたいだな……」

マコト「はは……。流石に、色々ありすぎだよね……」

ヒビキの呟きを皮切りに、他の者もぽつりぽつりと口を開いたり、
緊張の糸が切れたように息を吐いたりし始める。
と、ここでイオリがチハヤに向いて言った。

イオリ「本当に、もとのあなたに戻ったのね」

チハヤ「ええ……。ハルカは、もうここには居ないから」

イオリ「……そう」

チハヤの横顔は寂しげでもあるが、どこか嬉しそうでもあった。
イオリはチハヤの想いをはかり、それ以上何か言うことはなかった。

イオリ「それはそうと……。これからどうするの?
   アイドルを目指すって言っても、この状態じゃ――」

と校舎の方を振り返ったイオリであったがその瞬間、目を見開き息を飲む。
その様子に気付いた他の者もイオリの視線を追い、イオリと同じ反応を見せる。
彼女らの視線の先にあったもの、それは……

リツコ「よ、良かった……! 皆さん、無事なようですね!」

ユキホ「ティ……ティーチャーリツコ!?」

マコト「ほ、本物の……本物のティーチャーリツコですか!?」

リツコ「……! ということは、私が監禁されていた間、何者かが私に成り代わって……。
   っ……不甲斐ないです。教師の立場でありながら、
   生徒の皆さんをみすみす危険な目に……!」

ヒビキ「本物だ……本物の、ティーチャーリツコだ……!」

アズサ「良かった……良かったです……!」

ヤヨイ「うぅ……うわぁーーーーん! ティーチャーリツコぉーーーー!」

それは間違いなく、正真正銘、皆の知るリツコであった。
曰く、チハヤをアイドルに推薦する旨の書状を送ったその日、
彼女は自室で突然意識を失ったらしい。
そして気付けばどこかの部屋に監禁されていたとのことだった。
つまり、チハヤが正式にアイドルに選ばれたと発表のあった日の数日前には既に、
リツコはタカネに入れ替わっていたことになる。

タカネがリツコを生かしていた理由は分からない。
自らの目的に利用するためだったのかも知れない。
ただ、とにかく、皆に慕われたリツコは確かにリツコとして存在していた。
そして今も生きている。
そのことを少女達は全員、心から喜んだ。

未だ事情が把握しきれていないリツコではあるが、
喜びの涙を浮かべて自分を取り囲む生徒たちを見て、自然と顔もほころぶ。
と、そんな彼女達の背後から、チハヤが静かに歩み寄った。

チハヤ「あの、ティーチャーリツコ。
   まだ何の説明もしないままに申し訳ないのですが……
   先に一つ、お願いしたいことがあるんです」

リツコ「チハヤさん……?」

皆が喜びに顔をほころばせる中、一人真剣な眼差しを向けるチハヤを、
リツコのみならず全員が不思議そうに見つめる。
その視線を一身に受けながらも、チハヤは物怖じすることなく真っ直ぐに言い切った。

チハヤ「今回、私はアイドルに選ばれました。それはとてもありがたいことだと思います。
   ですが……今回は、辞退させてもらいたいんです」

それを聞き、一同は驚きの声をあげる。
ただアズサとイオリは黙ってチハヤの言葉の続きを待った。
それはまたリツコも同様、視線で続きを促す。

チハヤ「……今日、実感したんです。自分はまだまだ、本当のアイドルには程遠いと。
   私を選んでくれた人が間違っていたとは言いません。
   ですが、私は……もう一度、一から始めたいんです!
   成り行きなんかじゃない、自分の意志で……!
   もっと、本気で、全力でアイドルを目指して、努力して!
   私はアイドルなんだって、自信を持って言えるようになりたいんです!
   だから……お願いします!」

そこまで言い切り、チハヤは深く頭を下げる。
リツコは黙ってチハヤの頭を見つめ、そして、静かに口を開いた。

リツコ「……その件に関しては既にお伝えした通りです。
   アイドルへの選抜は絶対。一度選ばれた以上、辞退はできません」

チハヤ「っ……」

その言葉に、チハヤは頭を下げたまま唇を噛む。
だが、次いでかけられた声がチハヤの視線を上げさせた。

リツコ「ですが……どうやらこのたび、学園で大変な事件が起きたようですね。
   事後処理などの作業により……
   長ければ一年ほど、デビューまでの期間が伸びそうです」

チハヤ「え……?」

視線を上げた先にあったのは優しげな表情。
目を丸くするチハヤに向けて、リツコは微笑みを浮かべて続けた。

リツコ「先ほどのチハヤさんの表情……この一年間で、初めて見たものでした。
   これでも、チハヤさんの内面まで深く加味した上で選考したつもりだったのですが、
   どうやら私は、貴女のことを何も知らないままに推薦してしまっていたようです」

チハヤ「ティーチャーリツコ……」

リツコ「……教え子が最終選考に残ったことで、私も少し焦っていたのかも知れません。
   チハヤさんの言う通り……貴女はまだ、より高みを目指せます。
   不完全なままでアイドルとして世に送り出すのは、私としても不本意です」

チハヤ「! では……!」

リツコ「はい。デビューまで時間をいただけるよう申請しましょう。
   ただし、伸ばせる期間は最大でも一年間程度だと思ってください。
   その期間内に、貴女の納得のいく自分になれていなければ、
   望まぬ形でのデビューとなるでしょうが……」

と、そこでリツコは言葉を止めた。
これ以上の念押しは不要。
チハヤは、きっと彼女の願いを実現させるだろう。
瞳の奥底に燃える強い意志は、リツコにそう確信させるのに十分だった。

リツコ「……さて、それでは、何があったのか説明してもらえますか?
   期間の延長にはそれが必要ですからね」




薄暗い部屋で、少女は目を覚ました。
白いシーツと対照的な黒い長髪は、暗い中でもよく映えて見える。

長髪の少女は、まず初めに目に映った見慣れた天井を眺めた。
少し経って体を起こすと、やはり見慣れた部屋が目に映る。
ベッドから降りて洗面所へ向かう。

顔を洗い、寝室に戻ってきたのと同時に鐘が鳴った。
起床の合図だ。
鐘の音は優しく、だがしっかりと部屋いっぱいに響き、
まだ夢の中に居た他の者達を呼び起こした。

マコト「ん~っ……今日もよく寝た……。って、チハヤ、もう起きてたの?」

チハヤ「おはよう、マコト。ええ、たまたま目が覚めて」

マコトに続き、続々と他の少女達も体を起こす。
顔を洗い、身支度を整えてから、食堂へ向かう。

ユキホ「チハヤちゃんがオススメしてくれた本、
   とっても面白くて、私、もう半分くらい読んじゃった」

マコト「そうそう、ボクもだよ! すごいなぁ、チハヤ。
   あんなにボクたちが好きそうな本を教えてくれるんだもん」

チハヤ「そう……良かったわ。気に入って貰えて」

アズサ「次の読書会が楽しみだわ~。今度は私のオススメもみんなに紹介しちゃうわね♪」

ヤヨイ「えへへっ、私もすっごく楽しみかなーって!」

ヒビキ「そうそう、本と言えば、
   この前読んだ本にすごく使えそうな能力の応用法が載ってたんだ!
   チハヤ、試したいからまた付き合ってよ!」

イオリ「あ、だったらちょうどいいわ。私もちょうど試してみたいことがあったの。
   チハヤ、相手しなさいよね! 次こそはあなたの壁を破ってみせるんだから!」

チハヤ「ふふっ……それじゃあ、破られないように頑張らないと」

そうこうするうちに少女たちは食堂につく。
朝日の差し込む窓辺にいつも通り立っていた女性が、振り返って微笑んだ。

リツコ「皆さん、ごきげんよう」

ごきげんよう、ティーチャーリツコ、と声が揃う。
食卓につき、和やかな雰囲気の中で食事が始まる。
昨日のこと、今日のこと、明日のこと、
休み時間のこと、座学のこと、訓練のこと、
どの話題も楽しげで、尽きることはない。

少女たちは今日も一日を精一杯に過ごす。
なりたい自分になるため、アイドルになるため、
そうして過ごす全ての時間はいつも充実し、
傍から眺めるだけで笑顔になりそうな、そんな活気に満ち溢れている。

そう、それこそがアイドル。
かつて、夢を見た少女たちの目指した、世界を笑顔にする存在。
辛いことはある。
苦しいこともある。
それでも、少女達の笑顔は輝き、世界を照らす。

彼女達が全員そろってアイドルとなる日が来るのも、きっと、夢ではないだろう。

これで終わりです。
付き合ってくれた人ありがとう、お疲れ様でした。

このSSまとめへのコメント

このSSまとめにはまだコメントがありません

名前:
コメント:


未完結のSSにコメントをする時は、まだSSの更新がある可能性を考慮してコメントしてください

ScrollBottom