望月杏奈「秘密の口づけ」 (54)
「うわぁ……酷い顔だな」
うん、と。昴さんの言葉に、心の中で同意しておく。
流石に声に出して同意しにくい……と言うより、したくなかった。
当の本人はそんな杏奈の胸中なんてまったく知らずに楽しそうに笑っている……むむ。
「うへへ…………。私が選ばれし戦士だなんて……」
百合子さんは楽しそう……。本当なら微笑ましいはずなんだけど、ね。
「いつからだ? こんなに百合子がヤバくなったのって」
「昨日から……、かな…………」
そう、昴さんの言う通り百合子さんはヤバイ……。
とても、ヤバイ……。
百合子さんはよく妄想する。それはもう事務所の皆にとっては慣れっこで、今更騒ぐことじゃない。
だけど、ここ数日で状況は加速していた。
なんというか…………妄想の世界に、より深く潜って行くようになった、みたい……。
「妄想の中身を垂れ流されるのもアレだったけど、垂れ流さない代わりに、これもこれでなー」
「そう、だね……」
そう、百合子さんは妄想の内容を口に出さなくなった――これだけなら、良かったんだけど、ね……。
ただ、一つ問題が。
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「妄想してる間に、その、アイドルとしてダメな顔をするのもな」
「アイドルどころか、人としてダメだと思う…………」
言えてる、と昴さんは言いながら百合子さんの頬をつねる。百合子さんはそれも気にせずにとても人様に見せられない表情を続けていた。
うへへ……、と。
言葉にするのは難しいけど、なんというかだらしなく、そして……下品(いやらしいという意味ではない)な表情。
表情筋がバグったみたいな、そんな感じ…………。
やっぱり……ヤバイ、ね…………。
とても見ていられなくて、ふと視線を逸らすと壁に備えられた時計と目が合った。
十二時五十八分。
百合子さんと杏奈のレッスンは午前だけだったからいいけど。
「そう言えば昴さん……。そろそろ、レッスンじゃ…………?」
「あっヤベェ。クリスマスライブに向けて特別レッスンあるんだった!」
サンキュー杏奈! と言い残して昴さんはレッスン室へ向けて飛び出して行った。
強く扉を閉めた音が大きくと、びくっとなってしまう。……昴さん、ガサツ。
それにしても、六月なのに……クリスマス…………?
一瞬だけ考えようとして、やめた。この事務所には考えないで、感じた方が良いことはいっぱい……。
それに……今はもっと考えることがあるから、ね…………。
「これが神風の聖剣……? えっ、私が名付けるの…………? どうしよう……うへへ」
「……はぁ」
りりーおぶういんど。
ぶるーむてんぺすと。
そんな呟きに混じってついため息をこぼしてしまう。
こんか表情、誰にでも見せられるものじゃ…………ないと思うけど、百合子さん……気にしてないのかな…………。
でも最近、プロデューサーさんは外回りで忙しいみたいで幸運にも百合子さんはこの表情を見られていないらしい。
そう、百合子さんの大好きな人……プロデューサーさん……。
「良かったね、百合子さん…………本当に。見られてたらドン引きされてたよ……」
「うへへ……かっこいい名前だって? 良かった……」
楽しそうでなにより、そんな風に思って杏奈は百合子さんにもたれかかる。
心配料だから、これくらい……ね?
鼻をくすぐるのはフローラルな良い香り。シャンプーの匂いなんだろうけど、違うのも混ざってる気がする。
嗅いでると落ち着いてくる…………そんな感じ……。
ふわふわして、百合子さんの近くだとついつい気が抜けて……。
「ふへへ…………」
「……ぐぅ」
遠くから声がする。
とても杏奈が好きな、そんな声。
内容はよく聞き取れなくても、杏奈のことをまどろみから引きずり出すには十分だった。
「これが全ての元凶の魔王……だけど、この聖剣があれば……ふへへ」
「…………ふわぁ」
どうやら杏奈の眠り状態を回復させたのは、百合子さんの妄想だったらしい……複雑。
また時計を見ると三時ジャスト、おやつの時間を指していた。
百合子さんは、二時間ずっと妄想し続けてたのかな…………と思ったら、杏奈が寝る前には無かった本が百合子さんの膝の上に乗っていた。多分休憩代わりに読書してたんだと、思う…………。
杏奈が邪魔で動けなかったんだよね……ごめんね、百合子さん…………。
「ふへへ……これなら、勝てる…………うひひ」
あっ、謝る気無くなったかも……。
それにしても、
「眠い……。今日、もう用事なかったような……あるような…………」
うーん……。どこか、頭が回ってないかも…………。
ふわふわして、気を抜いたら寝ちゃいそう。だけど、寝るのはともかく百合子さんの邪魔になるようにはしないように……。
ちらり、と目線をやる。
その先には百合子さんの顔があって、相変わらず酷い顔だった。それにしても百合子さんも、妄想に疲れたりしないのかな…………。
そんなに、妄想が楽しいのかな……。
杏奈……達といるよりも……。
「……眠い」
だから、何も考えたくなかった。というより、やっぱり……頭が動かないかも、です…………。
とりあえず立ち上がらねば、と思って頑張って立つ。が、貧血みたいにふらふらしたので無理をせず元の体勢に戻った。
また、百合子さんに寄りかかる。
立ちあがれなかったからね……仕方ないよね…………。
良い匂い、だけど寝ないようにしなきゃ。
そんなことを思いながら――しかし、うつらうつらとしていると、騒がしい足音が耳に届いて、はっとさせられる。
誰だろう。昴さんかな、海美さんかも。
もしくは、帰ってきたプロデューサーさん……?
そこまで考え、ついでに百合子さんの形容し難く、年頃の乙女がしてはいけない表情を見つめて、杏奈は気づいた。
「この表情をプロデューサーさんが見たら……ドン引きされちゃう…………」
プロデューサーさんはここ数日忙しかったから、百合子さんのこのどうしようもない表情を知らないはず。
そして、百合子さんは……その、プロデューサーさんのことが……好きなはずだから…………。
とても、会わせられない。
だから、ヤバイ。杏奈じゃなくて、百合子さんが。
「百合子さんっ……。起きて……」
「ふへへ……宝具ゲット、やったぁ……」
体を強く揺すって見たり、声をかけても百合子さんは一向に妄想の世界から戻ってこようとしない。
そして、そんな杏奈の無駄な抵抗をしている一方でその足音は近づいてきていた。
ヤバイ、ヤバイ。
こんな、あまりに酷い表情なんかで百合子さんを失恋させるのは流石にかわいそう…………。
でも、一向に正気に戻らない……。どうしたら…………。
むむ、眠い……。
頭がやはり、回らない。
とりあえずビニール袋とか、百合子さんの頭を覆えれば……だけど、見つからないし…………。
顔を覆う……そうか、仮面とか、そういうのでも良いんだ……まあ、無いけど…………。
百合子さんのことをお姫様抱っこしてみたり……重いよね、色々。それに杏奈はされたい側かも…………。
じゃあ、じゃあ。
扉の取っ手に手をかける音がした。もう時間は無い。
仕方ない、これをやるしか――。
頑張って立ちあがって、百合子さんの正面に向かい合って、百合子さんの肩を抱いて、そして。
口づけをした。
ゲームとかで知ったほど、劇的な感触は無かった。唇と唇が触れて、柔らかい感触がそれを撫でるだけ。
でも、これでプロデューサーさんが百合子さんのあの顔を見ることも無いはず――――。
ガシャン、機械が地面に落ちたような音がした。
名残惜しい感触を振り切って、振り返る。するとそこにいたのは、
「ああああ、あまりに、しし、衝撃的で、カメラを落としてしまいました……!」
「亜利沙、だったんだ……」
足音はプロデューサーさんじゃなかった。…………いや、そうだよね。忙しいはずのプロデューサーさんがたまたま百合子さんが変顔してる時に、たまたま帰ってくるなんてなかなか無いもんね……。
やっぱり、寝起きで頭が回ってないかも。
「あ、杏奈ちゃん」
「ん……? 何、亜利沙…………」
亜利沙の顔は真っ赤で、どこか驚いてるみたい…………。
どうかしたのかな……やっぱり、頭がうーん……。
「言いふらしたりしませんから! 写真も撮ってませんし!」
「え、あ、うん」
「私も、その、さっきの光景が飲み込めなくて! だから――失礼します!」
ダダダダ、亜利沙ってそんなに速く走れたんだ、なんて思うほどのスピードで亜利沙は出て行ってしまった。
そして、部屋には杏奈と百合子さんだけが残された。
百合子さんに目をやる、と。
「今の、亜利沙ちゃん? どうしたんだろう」
「百合子さん……目が覚めたんだ…………」
正気に戻った百合子さん。ソファの上で疑問符を浮かべてるみたいだった。
「うん、たった今。息が詰まったみたいな感覚があって、目が覚めたんだ」
「息が詰まった……?」
「なんだろうね?」
本当に疑問に感じているようなそんな反応。それは、百合子さんが……あの事を覚えていないっていうことかな…………。
息が詰まったって、多分杏奈のキスのせい……うん?
自分の唇を触る。触っても何か変化があるわけじゃ無いけど、でも触ってみる。
数分前までの感触を取り戻すように。
キスをした。
…………キスを、正気じゃない百合子さんに、しちゃった。
多分お互いに初めての、キスを……。
えっ……?
「杏奈ちゃん? いきなり顔が赤くなって――大丈夫?」
「寝ぼけてて…………頭が回ってなくて、でも……えっ……?」
大変なことを、杏奈はしてしまったのかもしれない。
いや、したのだ。
女の子同士なのに、百合子さんは普通にプロデューサーさんのことが好きなのに。
杏奈は。
………………。
……………………。
「おーい、杏奈ちゃーん?」
「ゆ、百合子さん…………。覚えて、ないの……?」
「え? 何が?」
覚えてない。そんな事実に一瞬だけ、安心して、すぐに罪悪感が押し寄せてきた。
百合子さんの、大事なファーストキス………。それを杏奈は、気づかれないようにして……奪っちゃった…………。
百合子さんはプロデューサーさんにあげたかったはずなのに……。
夜景の見える公園とか……そんな二人だけの空間で、きっとプロデューサーさんと、したかったはず…………。
なのに……。
杏奈はこの日、いけない子になった。
「ふへっ、ふひひ…………。新大陸? 行きますっ……」
「相変わらずだね…………百合子さん……」
別の日、事務所。
百合子さんの妄想癖は一向に良くならないで、今日もいつも通りアイドル失格の表情を晒していた。
でも……プロデューサーさんには、まだこの顔を見られてないみたい…………。百合子さん、ツイてるね……。
百合子さんの顔を見つめる。酷い表情だけど、瞳はキラキラと無邪気に輝いていて、よっぽど楽しい妄想だって杏奈にも伝わってくる。
不意に、唇に視線が触れる。
たった、数秒だけ杏奈のものになっていた。そんな百合子さんの一部。
本当は、百合子さんはプロデューサーさんに捧げたかったもの。
「結局……杏奈、言えなかった…………」
「覚醒イベント? 燃える展開…………ふふふ」
百合子さんは何も知らずに、楽しそうに呟いている。
そんな姿を見ていると、杏奈はますます自分がいけないことをしてしまったように感じた。
杏奈が……杏奈なんかが奪って良いものじゃなかったのに…………。
「ごめんなさい……百合子さん…………」
「ふへへ……」
やっぱり、聞こえてないよね…………。
でも、聞こえてたら杏奈はどうしたんだろう。全部話しちゃうのかな……うん、きっとそうだよね…………。
嘘はつきたくないもん、特に百合子さん相手には…………。
でも話したら、百合子さんは杏奈のこと嫌いになんだろうな……。
…………それは、嫌。
百合子さんに嫌われたら……杏奈は…………。
……なら、
…………バレなければ良い。
ドスドス、ここへ向かってくる足音が聞こえてきた。
都合が良い、そう思った。
「百合子さん、百合子さん…………。プロデューサーさん来ちゃうよ……」
百合子さんに声をかける。でも、百合子さんが正気を取り戻す様子は見れなかった。
うへへ、とだらしない声をだらしない表情から漏らしている。
なら、仕方ないね……。
他に手段がないからね…………。だってこうしないと百合子さん、好きな人にドン引きされちゃうもん…………。
だから……。
立ちあがって、百合子さんの正面に立つ。百合子さんと目が合うけど、きっと気のせい。その瞳は杏奈を映してないから…………。
ふと、胸が痛む気がした――気がしただけ、杏奈の中にある良心の最後の抵抗だと思う。
だけどそんなものよりも、杏奈は欲しいもん……。
ね? 百合子さん……。
「仕方ないから、ね…………」
足音が大きくなってくる。急がなきゃ……ね。
百合子さんに軽く抱きついて、そして唇を重ねた。
やっぱり想像していたものより、全然大したことじゃない。暖かくて、柔らかい。そんな落ち着く感触がするだけ。
だけど。
この時だけは百合子さんは、杏奈のもの。
誰にも渡せない、そんな数秒だから……。
「こんにちわー。……って、杏奈、百合子ちゃんに何してるの?」
明るい声。振り返らなくても誰が訪れたのかはすぐに分かった。
プロデューサーさんじゃなかったんだね、意外だね…………。
ともかく、入室したのは未来だった。
「別に……百合子さんの前髪に、ゴミが付いてたから…………」
「そっかー。てっきりちゅーしてるのかな、なんて思ったよ」
ちゅー。
つまり、キス。
未来のことだからこれで誤魔化せると思ってたけど、無理があったかも…………。
「ありえないよ……」
「そうかなー」
なんて言ってはいるけど、未来が本気でそれを疑っているわけじゃなさそうだった。
当たり前だよね……。だって、キスは女の子同士ですることじゃないもん…………疑う方が変、だよ……。
杏奈がしていることはいけないこと。
でも、杏奈はこうでもしないと……きっと…………。
………………。
「……うっ、うーん。あれっ、未来。来てたんだ」
「うん。ちょうど今、来たところー」
なんてことを考えていると、ちょうど百合子さんが正気に戻ったようだった。
やっぱり、キスをされると苦しいのかも……まあ、急に呼吸の邪魔をされるわけだもんね…………。
うん……。
「百合子さん……おはよう。長い妄想だったね……」
「あはは。最近本当に長いよね、私の妄想」
今日も一時間くらいは妄想をしていて、側から見ると百合子さんは危ない人だった。
でも百合子さんが楽しそうならそれで良い…………うん、きっと良いはず……。
『杏奈ね……? もっと、構って欲しいってな、って…………』
だから、そんな言葉を口にしないで心の奥底に沈めておく。百合子さんはきっと重く感じるだろうから。
百合子さんの一番の友達で、……親友で。
それ以上でもそれ以下でもない、それが百合子さんにとっての杏奈だから。
仕方ない、から……。
「杏奈ちゃんの隣だと、私安心しちゃうの」
百合子さんは不意にそんなことを言った。
「杏奈ちゃんは私が妄想ばかりしても、愛想を無くしたりしないで一緒に居てくれる気がしちゃって。……つい、ね?」
…………きっと、百合子さんはその言葉を深い意味で言ってるわけじゃない。
でも、杏奈はそれでも嬉しくなって、笑みを隠せなくなってしまう。
「あっ、杏奈照れてるー?」
「み、未来。うるさいっ……」
多分今の杏奈の顔は赤くなってて…………やっぱり、照れてるんだと思う……。
「あれ。もしかして今の私、結構恥ずかしいこと言った!?」
「いつものことでしょ」
「う、うん…………」
ひどいっ、と百合子さんが嘆く。いつも、そして特に最近は常に恥ずかしいことが口から漏れてるのに未だに恥ずかしがるのは少し不思議。
そんな百合子さんに、さっきの言葉への答えを返す。
「百合子さん……」
「あ、杏奈ちゃん」
動揺して変に思われないように声を出す。震えたり、恥ずかしがったり、頬を染めたりしないように。
自然に、百合子さんの親友として、言葉を放つ。
「杏奈はね……? 百合子さんから離れたりしないよ……」
続ける。
「だから、百合子さんも杏奈から……離れないでね…………?」
自然だったかな……。少しでも油断したら、杏奈のこの気持ちが百合子さんに届いてしまいそうで、怖い。
そして、この気持ちを受け止めてくれはしない百合子さんの、その反応を想像するだけでも怖い。
だけど、それは杞憂のようだった。
「もちろんだよっ。杏奈ちゃん! ずっと一緒だよ!」
いつもと同じような笑顔で百合子さんはそう言う。
そう、杏奈の……この、胸の中をぐるぐるしてる汚い感情なんて無縁な、そんな笑顔。
そう笑う百合子さんに、杏奈は抱きついた。
「わ、わっ。杏奈ちゃん」
「未来の、マネ…………」
ギュッ、と腕を回して抱きつく。
突然抱きついた杏奈を百合子さんは戸惑いつつ、けれどもしっかり受け止めてくれる。
だからついつい甘えたくなるけど、きっと全部がこう上手くいくわけじゃない。
だから……杏奈の、この感情を知られたら……きっと拒絶されちゃう…………。
百合子さんの瞳には……きっと、杏奈じゃない人が映ってるもん…………。
百合子さんはずっと一緒にいてくれて……離れていったりはしないだろうけど…………。
でも、近づいてくれは、しないんだよね……?
杏奈の元に来てくれることは……絶対に、ない…………。
なら……杏奈はそれで良い。
だから、その代わりに……あの時間だけは、杏奈が貰うから…………。
杏奈が唯一、百合子さんを自分だけのものに出来る、あの時間を…………。
それからも百合子さんの妄想癖は治らなかった…………都合が良い、ね……。
妄想する百合子さんの近くに身を寄せて、誰かが来たら百合子さんの唇を奪った。
回数を重ねても、キスの気持ちよさは杏奈には分からなかった。人の肌に触れている、それ以上の感触は無い気がした。
その分、百合子さんの大切なものを何度も何度も独り占めして、汚している。そんな事実が杏奈を苦しめて……その何倍も、杏奈は満足していた。
でも、問題もあった。
全員が全員、未来みたいに誤魔化せるわけじゃなかった。亜利沙以外にも何人かには杏奈と百合子さんがキスしていたことを知られてしまっている。
だけど、秘密にして欲しいって頼めば、皆広めないでくれた。
それは皆の優しさもあるだろうけど、どちらかと言えば……、
「女の子同士で恋愛なんて……スキャンダル、だもんね…………」
そんなことが外に漏れれば、きっとアイドル活動にも影響する。
だからこそ、見なかったことにしてくれたんだと思う。
本当は恋愛なんかじゃなくて…………百合子さんが、同僚に汚されてるだけなのに、ね……。
可哀想な百合子さん……。
でも、そんな日々が続くはずはなかった。
けれども、その終わり方は杏奈にとっては幸運な形をして表れた。
具体的に言えば、百合子さんは、妄想してトリップすることがなくなった。
だから、杏奈が百合子さんにキスをすることも無くなった。
…………杏奈が、百合子さんを自分だけのものに出来る機会も、無くなってしまった。
百合子さんが何も知らない間に、全部終わってしまったのだった。
カチカチとゲーム機のボタンをリズミカルに叩く。すると、液晶に映るキャラクターはそれに応じて滑らかに動き、連続した攻撃を放つ。
放たれたその猛攻。隣から、うわっ、うへぇ、なんて声が漏れつつ……結局反撃はなく、ゲームセットを迎えた。
パーフェクトゲーム! という表示が画面に浮き出る。
「流石、杏奈ちゃん。全然敵わないや」
「ん……これ、最近やりこんでるから…………」
でも悔しいー、なんて隣の――百合子さんはそう嘆く。杏奈はそんな光景を見ながら、百合子さんとこうして過ごすのも久しぶりだと感じていた。
レッスン終わりの夕方、そして気だるい体。でも、こうやって、一緒のソファに座ってゲームをすると……疲れも吹き飛んじゃうかも…………。
最近は全然、こういうことしてなかったからね……。
百合子さんの酷い妄想癖は、急に始まって……そして、急に終わった。
全ては元に戻った……杏奈の、この心以外は、ね…………。
あとプロデューサーさんも最近忙しさの山場を越えたのか、事務所でもよく見かけるようになった。
百合子さんのあの、酷い顔を伴う妄想癖も杏奈のあの歪んだキスも全ては無かったことになってしまったようだ。
もしかしたら、全部杏奈の夢だったのかも…………。
なんて、ね……。
「これで良いんだよね……、うん……」
「杏奈ちゃん?」
なんでもない、と返す。そっかー、と百合子さん。
つい、視線が百合子さんの唇に吸い寄せられる。瑞々しくて、少し前までは杏奈のものだった、それへ。
と、そう見つめていた時間は、杏奈が思っていたよりも長かったらしかった。
「……? 杏奈ちゃん、私の顔に何かついてる?」
「な、なんでもないよっ……」
慌てて視線を逸らす。不審そうな目を、百合子さんはしているかもしれない。
こういうのも、もうやめないとね…………。未練、なのかもだけど……。
杏奈のボーナスステージはもう終わっちゃった……。それを、自覚しないと…………。
そう、だけど。
この気持ちを抱いたまま過ごさなきゃいけないなんて、そんなの……辛過ぎる。
ずっとこのままなんて……。
何もかも隠さないといけないなんて、そんなのは――、
「杏奈ちゃん? ボーッとしちゃって、大丈夫?」
「あっ、う、うん」
と、声をかけられて杏奈は黒い思考の沼から引き上げられる。
いけない、いけない……心配させちゃったね……。
「昨日もこのゲームやってたから……少し、眠いかも…………」
そんなことを言いつつ、百合子さんの肩に寄りかかる。ソファと、百合子さんに体が沈んでいきそう。
眠い、そう声に出すと本当に眠気が押し寄せてきて、心地いい。
そう言えば…………あの日も、こんな風に、百合子さんに甘えてたね……。
初めてキスをした、あの日…………。
「ねえ、百合子さん…………」
「どうしたの?」
眠くて、どこか思考の歯止めが効いてないようだ。と、他人事のように感じながら口を開く。
これは未練で、それを断ち切るためだから…………。
「もう、妄想してボーッとすること…………ないの……?」
何を聞いているんだろう。そう、頭のマトモな部分が杏奈に言う。
仮に、百合子さんがまたああいう風になれば、自分はキスをするつもりなのか、と。
…………うん。
きっと、しちゃうよ……。
どうせ最後には誰かのものになっちゃうなら、手が届く内に、杏奈は…………。
「…………うん。ないよ」
でも、そんな都合のいい答えは返ってこなかった。
そうだよね……。あんなことまでした杏奈に、これ以上良いことなんてあるわけないよ…………。
そう思うと余計に寂しくなる。だから、百合子さんに身を任せて目を閉じる。
すると、百合子さんは話し始めた。
「実はね。最近は、妄想する暇がないくらい、考えちゃうことがあってね」
「ん……。そうなんだ…………」
妄想大好きな百合子さん。
そんな百合子さんも、考え事で頭をいっぱいにすることがあるなんて、意外かも…………。
そんなに熱中できるなら、きっとプロデューサーさんのことだよね…………。
……妬いちゃうね。
そんな時、部屋の外側から足音が聞こえてきた。
懐かしい……、というほど昔のことじゃないけど…………百合子さんを独り占めできたあの頃を思い出しちゃう……。
ドサドサと、そんな足音。今度こそプロデューサーさんかな…………。
百合子さんの好きな、プロデューサーさん。
それなら、杏奈、お邪魔かも……。帰ろうかな…………。
うん、そうする……。見ているのも、辛いから……。
「百合子さん……。杏奈、そろそろ帰ろうかな…………」
百合子さんの身体から伝わる心地よさも名残惜しいけど、仕方ないと思い切ろう。
窓ガラスからはオレンジ色の光が差し込んでいて、どこか寂しさの混ざったその色は杏奈のことを隠してくれそうだった。
「あっ、でもその前に。杏奈ちゃん」
「ん……? 何、百合子さん」
立ち上がろうとした矢先、百合子さんにそう言われる。
足音は近づいてきていて、少しでも早くここを離れたかったけど、耳を傾けてる。
「ちょっと。こっち向いて欲しいなーって」
「…………? うん……」
なんだろう。
杏奈の髪に……ゴミが付いてたりしてるのかな…………。
聞こえてくる足音は大きくなって、数秒もすればここに入ってくるみたいだ。
振り向いて、百合子さんに向き合う。すると、百合子さんは腕を杏奈の元へ伸ばす。
そして――――、
「んぅ――――――」
柔らかくて、火傷しそうなくらいの熱。
視界が覆われる。何も他に見えなくなって、支配されているようだった。
久しぶりの感触。
だけど似ていても、全然違う。
「――――百合子。それに杏奈、まだ帰ってなかったのか、って……は?」
プロデューサーさんの声がする。見えないけど、きっと驚いてるみたい。
そして、どれくらいの時間を挟んだか、足音が続いた。さっきまでとは違って、ここから離れていくものだ。
離れて、離れて。
そして、杏奈と百合子さんだけが残された。
「――――ぷはっ」
呼吸をすると、新鮮で冷たい空気が体に入ってくるようだった。それなのに、体はどんどんと熱を持っていく。
心臓は落ち着いてくれなくて、目の前の百合子さんにも聞こえそうなくらい騒がしい。
「ゆ、百合子、さん…………」
体が、自分のものじゃないみたいに落ち着かない。熱が体の奥から湧いてきて、杏奈はそれに冒されていく。
きっと、今の杏奈の顔よりは茹で蛸みたいに、真っ赤…………。
夢なんじゃないか、そう思った。
あまりに今が現実離れしていて、杏奈には何も納得することができない。
なんで、なんで…………。
「なんで、杏奈にキス、したの……?」
キス、それを言葉にするだけで杏奈の頭はくらくらする。さっきの数秒間を思い出して、悶えてしまいそうだ。
ちょっと声をかけられて、百合子さんの方を向いて、そしたら、強く体を抱かれて、口づけされた。
…………意味が、分からなかった。
「プロデューサーさんに、見られちゃってたよ……? 追いかけて、説明しないと…………」
百合子さんは、プロデューサーさんのことが好きなんだから…………、と続けようとした言葉は断ち切られた。
「……ずるいよ。杏奈ちゃんは」
「えっ…………?」
百合子さんはそう、呟く。
部屋はオレンジ色に染まっていて、百合子さんの表情もそれに違わず照らされていた。
「何も言わずにキスして……何にもなかったみたいに振舞って……」
「それなのに、時折、辛そうな表情を浮かべたりするんだもん」
驚愕で一瞬だけ、頭が真っ白になって。
そして、杏奈は、自分のしたことが百合子さんにバレていたことを察した。
いつから、なんだろう…………。
でも、それはきっと……重要じゃないよね……。
「…………ごめんなさい」
杏奈は、何かを話そうとして、見つけたのはそんな言葉だけだった。
何が起きてるかイマイチ飲み込めなくて、でも分かったことは百合子さんは杏奈の、アレに気づいていたこと。
もう手遅れなんだろうけれど、でも謝っておきたかった。
「本当は、杏奈なんかが奪っていいものじゃないのに…………」
「百合子さんは、プロデューサーさんのことが…………好きなのに……」
一度話し始めると……止まらなくて、杏奈は罪の告白をする…………。
きっと、これで杏奈と百合子さんの関係は終わるから…………そんな思いが、杏奈の後押しをしていた。
だけど、百合子さんはそんな杏奈の告白を否定も、肯定もしなかった。
「杏奈ちゃん。私、ちょっと前までみたいに、深く妄想することができなくなっちゃったんだ」
百合子さんは代わりに、そんなことを言う。杏奈はそれに耳を傾けることしかできなかった。
百合子さんは言葉を少しずつ吐き出して、杏奈は、いつもより回転の遅い頭を回して、少しずつ言葉を飲み込んでいく。
「だって、頭の中がいっぱいなんだもん」
百合子さんは続ける。
「ずっと、ずっと、杏奈ちゃんのことばっかり考えちゃうんだもん」
音が消え、時間が止まったのかと、そんなことを思ってしまった。時計の針の音すら聞き取れそうな、そんな沈黙。
その時、まだから差し込む夕日が雲に阻まれたのか、部屋を照らす橙色が薄くなった。
そして、気づいた。
「あ…………」
その時、百合子さんの表情を隠してくれていた夕陽が弱まって、そして、杏奈は見つける。
百合子さんもまた、ほおを紅潮させて、恥ずかしさに身を焦がしていたのだ。
「寝ても覚めても、杏奈ちゃんのことが頭から離れなくて…………私、変になっちゃったみたい」
嬉しいと、素直にそう思った。
百合子さんが、杏奈のことだけ考えてくれてる…………それを聞いて杏奈は自分が満たされていくのが、わかった。
杏奈の気持ちが、ただの一方通行じゃないんだと、そう思えたから。
不意に、とんっ、と肩を押されて、杏奈はソファの上に仰向けに押し倒される。そして、百合子さんは逃さないように、杏奈に覆い被さった。
百合子さん……近いよ…………。
でも…………すぐにそんなの気にならなくなっちゃう……。
ドキドキして……今ある目の前のことだけに夢中になって…………。
杏奈の好きな、百合子さんの匂いが降り注いで、今という時間から現実味がなくなっていく。
百合子さんと目が合う。少し潤んでいて、でも、どこか暗い感情を押し込んでいるような瞳。
「杏奈ちゃん……」
頭上から声が降る。
杏奈はそれを、目を逸らさずに受け止めるだけ……。
「責任、とってね」
うん、と返す暇もなかった。
すぐに視界が狭まって、そして、二人の影が一つになる。
「んっ………………」
今までの独りよがりなキスと全然違う。
重ねられた唇から、百合子さんの全てが伝わってくるみたい。熱も興奮も、全部杏奈の中に入ってきてしまう。
杏奈の体の奥底に炎があるみたいで、冷まそうと身をよじろうとするけど、百合子さんが杏奈のそれぞれの手に指を絡めていて、それも出来なかった。
動けない中で、感じるものは百合子さんだけで。
嬉しくて、苦しくて、熱くて、泣いてしまいそうな感情を煮詰めて。
「…………ぷ、はっ」
呼吸が苦しくなって、一度離れる。だけど、そんな少しの間すら勿体無くて。
「もう一回…………」
そう言ったのは、杏奈……? 百合子さん……? 分からないけど、答えはお互いに決まってた。
「うん……」
今度は杏奈から。
百合子さんに手を伸ばして、そして唇を重ねた。
蕩けるような熱がまた、身体に染み込んでいく。
部屋の外からは誰の足音もしない。だから、この時間に終わりはない。
二人だけの世界。興奮と熱。それらに、ただ沈んでいく。
おしり
いけない雰囲気が素晴らしいっすな
乙です
>>1
七尾百合子(15)Vi/Pr
http://i.imgur.com/MeJaqUS.jpg
http://i.imgur.com/MaIDoUK.jpg
望月杏奈(14)Vo/An
http://i.imgur.com/471KyIG.jpg
http://i.imgur.com/bEyC9bz.jpg
永吉昴(15)Da/Fa
http://i.imgur.com/Lkm1UeN.jpg
http://i.imgur.com/nAIotcp.jpg
>>8
松田亜利沙(16)Vo/Pr
http://i.imgur.com/N7EyoGm.jpg
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>>15
春日未来(14)Vo/Pr
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