佐々木千枝「百合と紫陽花に季節に」 (16)


一年に一度、誰にでも訪れる特別な日。

千枝にとって、それは6月7日にやってくる。


春色の桜に姿をひそめ、遠慮がちだった新緑の木の葉が息吹く頃。

百合と紫陽花の咲く並木道を、雨音と水たまりを弾く靴の音が彩る、そんな季節のこと。


アイドルになって、少しずつ、少しずつ忙しくなっていく毎日。

去年は、一昨年は、その前は。

一つずつ年を重ねるごとに、ちょっとだけ、千枝はオトナになっていく。

……なれている、つもり。


だけどオトナなあの人は、ある時こんな話をしてくれた。


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「オトナはさ、自分の誕生日なんて忘れてしまうこともあるんだよ」


ぽかんと、していたと思う。

事務所で開いてもらって、みんなにお祝いしてもらった誕生日会の帰り道。

千枝はその日、プロデューサーさんの運転する隣の席に座って、

……いつもよりちょっとだけ緊張しちゃって、いつもよりお話することが思い浮かばなくて。

そんな千枝を見かねたのか、プロデューサーさんはふと、軽く咳払いをしてから口を開く。


「一つオトナになった千枝ちゃんに、ちょっとオトナの愚痴を聞いてもらってもいいかな?」


そうしてプロデューサーは、千枝にとっては考えもしなかった、オトナの秘密を教えてくれたのだった。

何故か、……悪いことをしたかのように、申し訳なさそうに。


「お誕生日、忘れちゃうんですか? ……大事な日なのに、ですか?」

「本当に忘れるって意味じゃないよ? 仕事が忙しくてそれどころじゃないとか、祝ってくれる人がいないことだってあるし、そもそも年を取るのが嫌になってしまう人もいる。色んな理由が、色んな人にはある」


なんでだろう、千枝にはちょっと想像もつかなかった。

アイドルになって、プロデューサーさんと出会ってから、誕生日が早く来ないかなって、早くオトナになりたいなって、千枝にはそうとしか思えない。


「プロデューサーさんは、その……自分のお誕生日が、嬉しくないんですか?」

「嬉しいよ。すっごく嬉しい。でも、コドモの時ほどじゃないかなー」


しとしとと落ちる雨粒が、フロントガラスに当たってはワイパーに流されていく。

プロデューサーさんが見つめる先には、一体いつの季節が映っているのだろう。


「コドモの頃に祝ってもらった誕生日って、不思議と覚えているものなんだよ」

「プロデューサーさんは、どんなことをしてもらったんですか? プレゼントとか、どうでしたか?」

「プレゼントは、おもちゃが多かったかな。ケーキは毎年好きなものを買ってもらって……ロウソクの火は自分で点けさせて貰ってた」

「おお、オトナ…ですね?」

「そうかな? 今思えば、結構危なっかしいことだったような気もするけど、特にちっちゃい頃は」


自分のことなのに、信じられないよねーわがままだよねーと、どこか他人事のように話すプロデューサーさん。


「でも、……大丈夫だったんですよね?」

「親がちゃんと見ていてくれたからだろうねー」


ふと、初めて東京にやってきた時のことを思い出す。

灰色の街並み、狭い空。

どんよりと降り注ぐ雨の中を、ママが運転する車に乗って走り抜けていった、あの時。


――自分がアイドルになる、なんて。そんなこと、思ってもみなかったのに。

学校のクラスでも、目立つ方じゃなかったし、……新しい人と会うのも、得意じゃなかった。


プロデューサー、さん。

これから出会うというその人が、怖くなければと良いなって、ただそれだけを願っていた。


「千枝ちゃんはさ……お父さん、お母さんとあんまり会えなくて、淋しいかな?」

「えっと、その…さみしい、ですけど。でも、パパもママも、すごく千枝のこと応援してくれているので」

「うん、そうだね。今日もお祝いしたがっているはずだから、後でちゃんと電話してあげよう」

「そうですね、そうします、…えへへっ」


プロデューサー、さん。

そうして出会ったその人は、千枝が想像していたよりもずっと優しくて、頼りになって、オトナで……


今思えば、あの時の怖がりな自分は何だったんだろうって。

それがちょっとおかしくて、自然と笑みがこぼれてしまう。


「そうそう、前にも聞いたことあったかな? 千枝ちゃんがイメージするオトナって、どんな感じの人なのかな?」

「……むむ、難しい質問ですね?」


オトナ、オトナ。

千枝にとってその言葉は、ほとんど目の前の人と同じ意味を持つような気がする、けど。

いざ口に出そうとすると、ちょっとだけ恥ずかしい、かも。



「えっと、その…いろいろなことを知っていて、きっと失敗なんかちっともしなくて、……その、かっこいい人、ですかね…?」

「うーん、そっかー。それはオトナだなー!」



あはははは、とまるで漫画のように声が見えるほど、プロデューサーさんは楽しそうに笑います。

でも千枝には何がおかしいのかわからなくて、ちょっと戸惑ってしまいました。


ひとしきり笑った後、プロデューサーさんはお仕事の時のような真剣なまなざしで、千枝のほうをちらりと見ます。


「千枝ちゃんにとって、私はそういうオトナに見える? かっこいいかどうかは置いといて、失敗なんかちっともしない、立派なオトナかな?」

「見えます! 見え、……あれ、そうでも? あっ、いえ…その…」

「ははは、正直でよろしい!」


そうしてまた、プロデューサーさんはからからと笑いだしてしまうのでした。


「今日だって色々と失敗しちゃったし。いやー我ながらあれはないわー。ちひろさん、顔は笑っていたけど……あああ明日会うの怖いなー!」


あんまりにもプロデューサーさんが恐ろしそうに、だけどどこか楽しそうに言うので、千枝もつられて笑顔になってしまいます。


「えへへっ…プロデューサーは、オトナですけど…コドモっぽいところもあるんですね?」

「そうだねー。あーそうそう、千枝ちゃんにも叱られたことあったけ? オトナなんですから、もっとちゃんとしてくださいって」

「そ、それは…そんなことも、あったような…うぅ…」


「いやあ、色々あったねー。懐かしい懐かしい…」

目を細めて、しみじみと

懐かしい、そう言って貰えるほどの時間を、私はこの人と一緒に過ごしてきたんだなって。

「でもね、真面目な話。……君はこれからどんどんオトナになって、素敵な女性になる。そのお手伝いが少しでもできるのなら、これほどプロデューサー冥利に尽きることはないよ」


――どやあって顔です。

プロデューサーさん、まるでお仕事をやり切った時の杏さんのような顔です。

えっと。

……きっと、良いことを言ってくれたんだろうなって。

それは千枝にもわかるんですけど、その……


「あの、ごめんなさい。……みょうりって、なんですか?」

「ああ、ごめんね。冥利っていうのは、……冥利って何だろうね、改めて考えてみると」

「え、ええっ? プロデューサーさんも意味わかってないんですか?」

「いやいや、何となく意味はわかっているよ? その、……千枝ちゃんのプロデューサーで良かったなっててことだよ、あはは」

「ち、千枝も、プロデューサーさんが千枝と一緒にいてくれて、あの、とっても嬉しいです…よ?」

「お、嬉しいこと言ってくれるね。いやー流石は千枝ちゃん、わかってる! オトナだね!」

「も、もう!からかわないでください、千枝はその、ホントに…!」


――ホントに、そう想っているんです。とは言えずに。

上機嫌そうに笑うプロデューサーさんを見つめて、むすっと頬を膨らますことしか、千枝にはできなくて。

そうこうしている間に、窓の外、雨音の中からぼんやりと、千枝の住んでいる寮が見えてきて。


「――さて、着いたね。思ったより遅くなっちゃった。寮母さんに一声かけておかないと」


チカチカと音を立てて、プロデューサーさんが車を寮の駐車場へと寄せていく。

しとしとと、優しい雨が木霊する百合と紫陽花の季節。

一年に一度、誰にでも訪れる特別な日。


プロデューサーさんと過ごす、今年の6月7日が、そろそろ終わりを迎えようとしている。

もう、最初の頃のような不安はない。

だって、千枝はもう、色々なプレゼントを貰ってきたから。


そして、また来年も、その次も、ずっと先も。

プロデューサーさんが、千枝の傍にいてくれれば。

……ううん、傍にいられるような、オトナの女性に。


いつか、プロデューサーさんの誕生日を、コドモと時のように嬉しいって、そう言わせてあげられるような。

そんなオトナに、――千枝もきっと、なってみせるんだ。



「――そうだ。誕生日が終わっちゃう前に、これだけは言っておかないとね」


「千枝ちゃん。君に会えてよかった」

「生まれてきてくれて、ありがとう。アイドルになってくれて、ありがとう。――これからも、よろしくね!」



END

>>1

タイトル思いっきり誤字ってました

佐々木千枝「百合と紫陽花の季節に」

です。



千枝ちゃん誕生日おめでとうございます。間に合った。

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