【オリジナル】「治療完了、目をさますよ」【長編小説】 (1000)

GWということで、過去書いて完結した小説をまったり投稿していきます。
24話完結の、かなりの長編です。

ジャンルはサイコホラー。
残虐表現を多く含むため、一応R18指定とします。

まったり低速投稿なので、気長にお付き合いください。
また、投稿途中でも普通に討論など書き込んでいただいてOKです。

ワイワイ楽しんでいただけると嬉しいです。
地の文多め、普通の小説形式です。



第1話 劣等感の階段



巨大な「目」の下に、彼女は立っていた。
目を取り囲むのは、無数の目。
蠢く肉質な壁、壁、ピンク色のそれは建物や地面を覆っている。
ぶよぶよした浮腫のようなものがまとわりついているのだ。
そして、そこに埋め込まれているのは眼球。
血走った目がぎょろぎょろ動き、彼女のことを数千、数万も凝視している。
空は黒い。
どこまでも黒い。
その真上に、空全体を覆い隠すほどの眼球が、まるで太陽のように浮き上がり、あたりを照らしていた。

常軌を逸した空間。
普通でははかりえないような、そんな空間に、彼女は平然と立っていた。
年の頃は十三、四ほどだろうか。
長い白髪を、背中の中心辺りで三つ編みにしている。
可愛らしい顔立ちをしているが、その表情は無機的で、何を考えているのか分からないところがあった。

彼女は、眼前にぽっかりと空いた「穴」の前に進んだ。

穴は、肉の床が崩れ、内部に人間の体内に似たものが見える。
丁度食道を内視鏡で見るかのような感覚だ。
奥は曲がりくねって深く、よく分からない。

彼女は耳元に手をやった。
右耳の部分に、イヤホンつきの小型マイクがはまっている。
そのスイッチを動かして、彼女は口を開いた。

「ついたよ。この人の煉獄の入り口」
『OK、それじゃ、攻撃に遭う前にそこに入って、記憶を修正してくれ』

マイクの向こう側から、まだうら若い青年の声が聞こえる。

「…………」
『おい、汀(みぎわ)、聞いてるのか?』
「…………』

返事をせずに、彼女は周りを見回した。

いつの間にか、地面の肉質にも眼球が競り出して、
プツリ、と所々で音を立てながら、奇妙な汁を撒き散らしていた。
それら全てに凝視されながら、汀と呼ばれた少女は、
自嘲気味に、困ったように頭を掻いた。

「見つかっちゃった」

子供がかくれんぼで鬼に見つかった時のように軽い言葉だったが、
マイクの向こうの声は一瞬絶句した後、キンキンと響く声を張り上げた。

『すぐ戻れ! この患者はレベル4だぞ。入り口まで出てこれるか?』
「見つかっちゃったの。逃げられないの」

ゆっくりと、言い聞かすようにそう言って彼女はウフフと笑った。

その目は、声に反して笑っていなかった。
足元の眼球をブチュリと踏み潰し、彼女は両手を開いて大声を上げた。

「鬼さんこちら! 手の鳴る方へ!」

パンパンと手を叩く。

『こら、何してるんだ! おい、汀!』
「鬼さんこちら!」

ぶちゅり。眼球を踏み潰す。

「手の鳴る方へ!」

裸足のかかとが、肉壁にめり込む。
パンパン。また手を叩く。

瞬間、その「空間」自体がざわついた。
ぎょろりと空に浮かぶ眼球が、こちらを向く。
間を置かずに、汀を囲む壁から、眼球がまるで銃弾の雨あられのように吹き飛んできた。

汀は軽い身のこなしで、まるで曲芸師のようにくるりと後転してそれを避けた。

彼女が着ているものは病院服だ。

右から眼球が飛んできて、左の壁に当たって爆ぜる。
嫌な汁と血液のようなものが飛び散る。
まるでプチトマトを投げ合っているかのようだ。
汀を狙って、地面や壁から、次々と眼球が飛び出してきた。
くるくると少女は回る。
片手で地面を掴んで体を横に大きく回し、目の群れを避ける。

『遊ぶな!』

怒号が聞こえる。
今までぼんやりしていた表情は、まるで別人のように生き生きと輝いていた。
しかし、次の瞬間、眼球が一つ汀の脇腹に食い込んだ。
不気味な音を立てて爆ぜ、彼女の顔にパタタタッと音を立てて汁が飛び散る。
衝撃で汀はもんどりうって肉床を転がり、したたかに後頭部を壁にぶつけた。

「あうっ!」

小さな声で叫び声を上げる。

右脇腹で爆ぜた眼球は、ベットリとガムのように病院服に張り付き、次いでアメーバを思わせる動きで、ざわついた。
それが爪を立てた子供の手の形になり、汀の服をむしりとろうとする。
彼女は、口の端からよだれをたらしながら、しかし楽しそうにそれを払いのけ、また飛んできた眼球をくるりと避けた。

『お願いだからやめてくれ、汀。患者のトラウマを広げたいのか!』

「分かってる。分かってるよ」
『分かってないから言ってるんだ。汀、早く中枢を』

そこで汀はイヤホンのスイッチを切った。
そしてゴロゴロと地面を転がる。
彼女を追って、眼球たちが宙を舞う。
それを綺麗に避け、汀は、地面にぽっかりと開いた穴の中に飛び込んだ。



一瞬視界がホワイトアウトした。
次いで彼女は、狭い、四畳半ほどの真っ白い、正方形の部屋に立っていた。

何もない部屋だった。
天井に蛍光灯が一本だけついていて、バチバチと異様な音を発している。

薄暗い空間の、汀の前には肌色のマネキンのようなものがあった。
それは体を丸め、体育座りの要領で頭を膝にうずめていた。

大きさは一般的な成人男性程だろうか。
どこにも継ぎ目がない、つるつるな表面をしている。
頭髪はない。耳も見当たらない。

汀は無造作にその前に進み出ると、腰を屈めて、頭を小さな手で掴んだ。
そして顔を自分の方に向ける。

耳も、口も鼻もない。
ただ、一つだけ眼球がその顔の真ん中にあった。
眼球は虚空を注視していて、汀を見ようとしなかった。

汀は興味を失ったように頭を離した。
マネキンは緩慢に動くと、また頭を膝の間にうずめた。

「そんなに目が気になる?」

汀は静かに聞いた。

「あなたは、そんなに他人の目が気になるの?」

マネキンはゆっくりと頷いた。
何の音もない空間に、汀の声だけが響く。

「馬鹿ね」

汀はにっこりと笑った。
そしてマネキンの前にしゃがみこんだ。

「だから死にたいの?」

マネキンはまたゆっくりと頷いた。

「だから逃げたいの?」

マネキンはまた頷いた。

汀はまた微笑むと、その頭を両手で包むように持った。

そして眼球に、両手の親指を押し付ける。

「じゃあ見なきゃいいよ」

マネキンは痛がる素振りもみせず、ただ微動だにせず硬直していた。

「私が、あなたの目を奪ってあげる」

ぶちゅり、と指が眼球を押しつぶした。
そのまま指を、眼窟に押し込み、中身をかき回しながら汀は続けた。

「耳も、鼻も、口も、目も、そして心も閉ざして、逃げればいいよ」

眼窟から、どろどろと血液が流れ出す。

「私がそれを、許してあげる」

マネキンの手が動き、汀の首を掴んだ。
それがじわりじわりと、彼女の細い首を締め付けていく。
汀は、苦しそうに咳をしながら、ひときわ強く眼窟の中に指を突きいれた。

『ウッ』

部屋の中に、男性の苦悶の声が響き渡った。

マネキンの手がだらりと下がり、糸が切れたマリオネットのように足を広げ、壁にもたれかかる。
汀は拳を振り上げると、眼球がつぶれたマネキンの顔面に、何度も叩きこんだ。
血液が飛び散り、その度にビクンビクンと、魚のようにマネキンが震える。

やがて汀の病院服が、転々と返り血で染まり始めてきた頃、彼女は荒く息をつきながら、動かなくなったマネキンを見下ろした。
ダラダラと、原形をとどめていない顔面から血液が流れ出し、 白い床に広がっていく。
そして彼女は耳元のイヤホンのスイッチを入れ、一言、言った。

「治療完了。目をさますよ」



「……と言うことで、旦那様は一命を取り留めました」

眼鏡をかけた、中肉中背の青年が、柔和な表情でそう言った。
それを聞いた女性が、一瞬ハッとした後、両手で顔を覆って泣き崩れる。

「主人は……」

少しの間静寂が辺りを包み、彼女はかすれた声で続けた。

「主人は、何を失くしたのですか……?」
「視力です」

何でもないことのように、青年はそう言ってカルテに何事かを書き込んだ。

「視力?」

信じられないといった顔で女性は一旦停止すると、白衣を着た青年に掴みかからんばかりの勢いで大声を上げた。

「目が見えなくなったということですか!」
「はい。しかし一命は取り留めました。自殺病の再発も、もうないでしょう」
「そんな……そんな、あまりにも惨過ぎます……惨すぎます!」

青年は右手の中指で眼鏡の中心をクイッと上げると、またカルテに視線を戻した。
柔和な表情は、貼りついたまま崩れなかった。

「まぁ……後は区役所の社会福祉課にご相談なさってください。こちらが、ご主人が今入院されている病院です。面会も可能です」
「先生!」

女性が机を叩いて声を張り上げた。

「主人の目が見えなくなって、一体これからどうやって生活していけというんですか! 私達に、これから一体どうしろと……」

「ですから、それから先は私達の仕事の範疇外ということで。誓約書にありましたでしょう。命のみは保障いたしますと」
「それは……」
「脳性麻痺の疑いもありませんし、植物状態になったわけでもありません。ただ、『目が見えなくなった』だけで済んだという『事実』を、
私は貴女にお伝えしたまでです」
「…………」
「それでは、指定の口座に、期日までに施術費用をお支払いください。本日はご足労頂き、ありがとうございました」

話は終わりと言わんばかりに、青年は軽く頭を下げた。



散々喚き散らした女性を軽くあしらい、診断室を追い出した青年は、息をついてカルテをベッドの上に放り投げた。

八畳ほどの白い部屋だった。
見た目は普通の、内科の診断室に見える。
彼は、看護士もいない部屋の中を見回し、立ち上がってドアを開け、診察を受けにきた患者もいないことを確認すると、大きく伸びをした。
そして、診断室の脇にあるドアを開ける。
中はやはり八畳ほどのスペースになっており、ディズニー系統のカーペットや壁紙など、年頃の女の子のコーディネートがなされていた。

部屋の隅には車椅子が置かれ、端の方にパラマウントベッドが設置されている。
上体を浮かせた感じで、そこに十三、四ほどの少女が目を閉じていた。
テディベアの人形を抱いている。
腕には何本も点滴のチューブが刺されている。
青年はしばらく少女の寝顔を見つめると、白衣のポケットに手を入れて、部屋を出ようと彼女に背を向けた。

「起きてるよ」

そこで少女が、目を開いて声を発した。

青年は振り返ると、一つため息をついて口を開いた。

「汀、もう寝る時間だろ」
「隣が煩かったから」
「悪かったよ。もう寝ろ」
「怒らないの?」

問いかけられ、青年――高畑圭介は、少し考え込んでから言った。

「お前は立派に命を救っただろ。怒るつもりはないよ」
「そうなの。なら、いいの」

テディベアを抱いて、汀がにっこりと笑う。

そこには快活そうな表情はなく、げっそりとやせこけた、
骨と皮だけの少女がいるばかりだった。

汀は、上手く体を動かすことができない。
下半身不随なのだ。
左腕も動かない。
圭介が、彼女の生活のサポート、つまり介護を行っている。
他にもいくつかの病気を併発している汀は、一日の殆どを横になってすごす。
それゆえに、部屋の中にはテレビやゲーム機、漫画や本などが乱雑に置かれて、積み上げられていた。

「今度は何を買ってくれるの?」

汀がそう聞くと、圭介は軽く微笑んでから言った。

「3DSで欲しいって言ってたゲームがあるだろ。あれ買ってきてやるよ」
「本当? 嬉しい」

やつれた顔で汀は笑った。
それを見て、圭介はしばらく考えた後、発しかけた言葉を無理やりに飲み込んだ。

「…………」
「疲れたから、もう寝るね」

汀がそう言う。

彼は頷いて、ベッドの脇にしゃがみこむと、汀の手を握った。

「薬は飲んだか?」
「うん」
「無理して起きなくてもいいからな。目を覚ましたらブザーを鳴らせ」
「分かった」

汀の頭を撫でて、圭介は立ち上がった。
そしてゆっくりと部屋を後にする。
背後から少女の寝息が聞こえてきた。



その「患者」が現れたのは、それから三日後の午前中のことだった。
夏の暑い中だというのに長袖を着た、女子高生と思われる女の子と、その母親だった。
圭介は、座ったまま何も話そうとしない女の子と、青ざめた顔をしている母親を交互に見ると、部屋の隅の冷蔵庫から麦茶を取り出して、紙コップに注いだ。
そして二人の前に置く。

「どうぞ。外は暑かったでしょう?」

女の子に反応はない。

何より彼女の両手首には、縄が巻きつけられ、がっちりと手錠のように動きを拘束していた。
女の子の目に生気はなく、うつろな視線を宙に漂わせている。
圭介はしばらく少女の事を見ると、彼女の頬を包み込むように持って、そして目の下を指で押した。
反応はない。

「娘は……」

母親は麦茶には見向きもせずに、青白い顔で圭介にすがりつくように口を開いた。

「先生、娘は治るんでしょうか?」

「自殺病の第五段階まで進んでいますね。きわめて難しいと思います」

柔和な表情を崩さずに、彼はなんでもないことのようにサラリと言った。
母親は絶句すると、口元に手を当てて、そして大粒の涙をこぼし始めた。

「赤十字の病院でも……同じ診断をされました。もう末期だとか……」
「はい。末期症状ですね。言葉を話さなくなってからどれくらい経ちますか?」
「四日経ちます……」
「絶望的ですね」

簡単にそう言って、圭介はカルテに何事かを書き込んだ。

「ぜ……絶望的なんですか!」

母親が悲鳴のような声をあげる。

「はい」

彼は頷いて、カルテに文字を書き込みながら続けた。

「隠しても何もあなた方のためになりませんので、私は包み隠さず言うことにしているんです。自殺病は、発症してから自我がなくなるまで、およそ二日間と言われています。第四段階での場合です。今回のケースは、その制限を大きく逸脱しています」

彼は立ち上がってFAXの方に行くと、送られてきた資料を手に取った。
それをめくりながら言う。

「担当は赤十字病院の大河内先生からの紹介ですね。知っています。どうして入院させなかったんですか?」
「そ、それは……娘が入院だけは嫌だと言い張って……」
「その結果命を落とすことになる自殺病の患者は、全国で一日に平均十五人と言われています」

柔和な表情のまま圭介は続けた。

「日本に自殺病が蔓延するようになって、もう十年ほど経ちますが、一向にその数は減らない。むしろ増え続けています。そして、娘さんもその一人になりかかっています」

資料をデスクの上に放って、彼は椅子に腰掛けた。

「どうなさいますか?」

穏やかに問いかけられ、母親は血相を変えて叫んだ。

「どうって……ここは病院でしょう? 娘を助けてください!」
「それは、どのような意味合いで?」

淡々と返され、母親は勢いをそがれ一瞬静止した。

「意味合い……?」

「娘さんを元通りに戻すのは、無理です。自殺病第五段階四日目の生存確率は、およそ十パーセントほどと言われています。生かすことも困難な状況で、はいできましたと、魔術師のように娘さんを戻すことは不可能です」

「それじゃ……」
「しかし」

一旦そこで言葉を切って、圭介は眼鏡を中指でクイッと上げた。

「私どもは、その十パーセントを百パーセントにすることだけは可能です」
「どういう……ことですか?」
「命のみは保障しましょう。命のみは」

二回、含みを加えて言うと、圭介は微笑んだ。

「その代わり、娘さんは最も大切なものをなくします」
「仰られている意味が……」

「言ったとおりのことです。植物状態になるかもしれませんし、歩けなくなるかもしれない。しゃべれなくなるかもしれないし、記憶がなくなって、貴女のことも思い出せなくなるかもしれない。具体的にどうとはいえませんが」
「……そんな……どうしてですか?」
「娘さんの心の中にあるトラウマを、物理的な介入によって消し去ります。その副作用です」

端的にそう答え、圭介はデスクから束のような書類を取り出した。

「それでは、今から契約についてご説明します」
「契約?」

「はい。ここで見聞きしたことについては他言無用でお願いします。その他、法律関係のいくつか結ばなければいけない契約があります」
「…………」
「それと」

母親に微笑みかけて、圭介は言った。

「当施術は、保険の対象外ですので、その点もご承諾いただきたいのですよ」



「急患だ。即ダイブが必要だ」

車椅子を押しながら、圭介が言う。

そこにちょこんと乗せられた汀は、手元の3DSのゲームを凝視しながら口を開いた。

「今日はやだ」
「ゲームは後にしろ。マインドスイーパーの資格があるんなら、ちゃんと仕事をしろ」
「でも……」
「でももにべもない。ゲームは後だ」

そのやり取りをしながら、彼らは施術室と書かれた部屋の前に止まった。

母親が、真っ赤に目を泣き腫らしながら、立ち尽くしている。
彼女は車椅子の上で3DSを握り締めている小さな女の子を見ると、怪訝そうに圭介に聞いた。

「この子は……」
「当医院のマインドスイーパーです」

施術室の扉を開けながら、圭介は言った。
母親は絶句した後、圭介に掴みかかった。

「何をするんですか」

それを軽くいなした圭介に、彼女は金切り声を上げた。

「娘の命がかかっているんですよ! それを……それをこんな……こんな小娘に!」

汀が肩をすぼめ小さくなる。
怯えた様子の彼女を見て、圭介は白衣を直しながら、淡々と言った。

「……お母様は、待合室の方で待たれてください。マインドスイープはとても繊細な動作を要求します。この子を刺激しないでください」
「からかわないで! こんな子供に何が出来るって言うんですか!」
「…………」
「娘を殺したら、あなたを殺して私も死んでやる! ヤブ医者!」
「待合室の方に」

圭介はそう言って待合室を手で指した。

彼を押しのけ、母親は施術室に入ろうとした。

「私も同席するわ。娘を妙な実験の実験台に……」
「入るな」

そこで、圭介が小さな声で呟いた。

「何を……」
「二度同じことを言わさないでください。貴女が邪魔だと言っているんです」

ネクタイを直し、彼はメガネを中指でクイッと上げた。

「刻一刻と、娘さんの命は削られていきます。今この時にも、自殺を図る可能性が高い。あなたは、私達の施術を邪魔して、娘さんを殺したいのですか?」
「…………」

目をむいた母親を、無理やりに押しのけ、圭介は汀の乗った車椅子を施術室に押し入れた。

「その場合、殺人罪が適用されますので」

柔和な表情を崩さずに、彼は施術室のドアをゆっくりと閉めた。

「待合室で、お待ちください」

ガチャン、と重い音を立ててドアが閉まった。



「やれるか、汀?」

そう聞かれ、汀は小さく震えながら圭介を見上げた。

「やだ。私あの人の娘なんて治したくない」
「我侭を言わないでくれ。人の命を、救いたいんだろ?」

そう言って圭介は、汀の頬を撫でた。

「これが終わったら、びっくりドンキーにでも一緒に飯を食いに行こう。やってくれるな?」
「本当?」
「ああ、本当だ」
「うん、私やる。やるよ」

何度も頷いた汀の頭をなで、圭介は施術室の中を見回した。

十六畳ほどの広い部屋には、ところ狭しとモニターや計器類が詰め込んである。
その中心に、ベッドが一つ置いてあった。
先ほどの女の子が、両手足をベッドの両端に縛り付けられ、口に猿轡をかまされた状態で横たえられている。
そんな状態にも拘らず、女の子には特に反応がなかった。
汀はその顔を覗き込むと、興味がなさそうに呟いた。

「もう駄目かも」
「そう言うな。特A級スイーパーの名前が泣くぞ」

「だって駄目なものは駄目だもん」

頬を膨らませた汀を無視して、圭介は計器類の中から、ヘルメットのようなものを取り出した。
黒いネットで作られていて、顔面全体を覆うようになっている。
それを女の子に被せ、同じものを汀に持たせる。
そして、彼は汀の右耳にイヤホンとマイクが一体になったヘッドセットを取り付けた。

「何か必要なものはありそうか?」
「預かってて」

3DSを彼に渡し、汀はヘルメット型マスクを被った。
そして車椅子の背もたれに体を預ける。

「何もいらないよ」

「そうか。時間は十五分でいいな」
「うん」

そして圭介は、ラジオのミキサーにも似た機械の前に腰を下ろした。
それらの電源をつけ、口を開く。

「麻酔はもう導入してある。後はお前がダイブするだけだ」
「うん」
「この子の、『意識』の中にな」

含みを持たせてそう言い、圭介はにっこりと笑った。

「それじゃ、楽しんでおいで」
「分かった。楽しんでくるよ」

そう言って、汀は目を閉じた。



汀は目を開いた。
彼女は、先ほどまでと同じ病院服にヘッドセットの姿で、自分の足で立っていた。
動かないはずの、下半身不随の体で、足を踏み出す。

そこは、四方五メートルほどの縦長の空間だった。
螺旋階段がぐるぐると伸びている。
その中ほどに、汀は立っていたのだった。
古びた螺旋階段は、木造りで動くたびにギシギシと音を立てる。
閉塞的なその空間は、下がどこまでも限りなく続き、
上も末端が見えないほど伸びていた。

壁には矢印と避難場所と書かれた電光掲示板がいくつも取り付けられ、それぞれが別の箇所を指している。
良く見ると螺旋階段の対角側の所々に、人一人通れそうなくぼみが出来ており、そこに鉄製の扉がついていた。
汀は手近な避難場所と指された鉄製の扉を空けた。
中はただのロッカールームのようになっていて、何も入っていない埃っぽい空間だ。
そこから出て、扉を閉めてから汀はヘッドセットのスイッチを入れた。

「ダイブ完了。多分、煉獄に繋がるトラウマの表層通路部分にいるんだと思う」
『そうか。どんな状況だ?』

耳元から聞こえる圭介の声に、汀は小さくため息をついて答えた。

「上と下に、上限と下限がない通路と、横に隠れる場所。多分、何かから心を守ろうとしてるんだと思う。扉が一杯あるの。どれかが中枢に繋がってるんじゃないかな」
『お前にしては曖昧な見解だな』
「話してる暇がないからね」
『どういうことだ?』

そう言った圭介の声に答えず、汀は螺旋階段の下を見た。

黒い服を着た修道女のような女の子が二人、ギシ、ギシ、と階段をきしませながら、昇って来るところだった。
何かを話しているが、聞こえない。
顔も確認は出来ないが、マネキンではないようだ。

「トラウマだ」

そう呟いて、汀は近くの避難場所のドアを開けて、そこに体を滑り込ませた。
そして静かにドアを閉める。
ヘッドセットの向こうで圭介が息を呑んだ。

『強力なものか?』
「うん。かなり。見つかると厄介かも。昇ってくるから、多分下ればいいんだと思う」

しばらく息を殺していると、二人の女の子は、汀が隠れているドアの前を通り過ぎた。
声が聞こえた。

「でね、国語の小山田。美紀ともヤったらしいよ」
「えぇ? 本当? 何で美紀なの?」
「さぁねぇ。小山田って優しいじゃない。頼まれて仕方なくってことじゃないかな」
「何それウケる。自分から犯してくれって頼んだってこと?」
「バカの考えることはわかんないよ。小山田も災難だよね。よりにも寄って美紀なんかとさぁ」

声が聞こえなくなった。

汀はしばらくしてドアをゆっくりと開け、そこから体を静かに引き抜いた。
女の子達は、上に向かって歩いて行っている。
汀はそれを確認して、螺旋階段を小走りで下り始めた。

『慎重に行けよ。この患者は、レベル5だ』
「うん」

小声で頷いた汀の目に、また二人組の女の子達が上がってくるのが見えた。
先ほどと同じように、避難場所に隠れる。

「でね、国語の小山田、美紀ともヤッたらしいよ」
「えぇ? 本当? 何で美紀なの?」

同じ会話だったが、違う声だった。

「美紀ってさ、地味だし、頭も悪いし、何もいいところないじゃん。だから、小山田を味方につけようとしたんじゃないかな」
「えぇ? 最悪。小山田、あいつヤリ捨て名人なんだよ? 美紀、バカ見ただけじゃないかなぁ」
「カンニングの話もあったじゃない。あの時の試験の担当、小山田だったらしいし」

声が聞こえなくなった。
また、汀は窪みから出て階段を降り始めた。

『随分と明確なトラウマだな。珍しい』

圭介の声に、汀は答えなかった。

「ユブユブユブユブユブユブユブ」

突然、奇妙な呟きとともに、また女の子二人組が上がってくるのが見えたからだった。
隠れた彼女の耳に、雑音交じりの声が聞こえる。

「ユブ……ザザ……先生…………やめ……」
「ザザ……ユブブ……ブブ……なんで美紀なの?」
「美紀! 山内美紀! おとなしくしろ!」
「ユブ……ザザザ…………ユブユブ……」

汀はそれを聞いて、今度は隠れずに、螺旋階段の中央部分に足をかけ、そして女の子達をやり過ごすように飛び降りた。
猫のようにふわりと着地し、汀は息をついた。
そこで、彼女の耳に、螺旋階段全体に声が反響したのが聞こえた。

「ゆぶユブユブユブゆぶユブユブゆぶ」

上を見た汀が、一瞬停止した。
今まで昇った女の子達が、全員一塊になって汀のことを見下ろしていたのだ。
そして「ユブユブ」と全員が呟いている。
その女の子達には、顔がなかった。
顔面にあたる場所に、「敵」という刺青のような文字が黒く書いてある。

それを確認して、汀は螺旋階段の中央部分、その空間に飛び込んだ。
それと、女の子達が手に持ったバケツの中身を、下に向けてぶちまけたのはほぼ同時だった。
バケツの中身に入っていた液体が飛散する。
それが当たった階段が、ジュゥッ! と焼ける音を立てて黒い煙を発し、そして溶けた。
液体の落下よりも、汀の落下の方が間一髪で早かった。

どこまでも落ちていく。
まるで、不思議の国に行くアリスのようだ。
汀は溶けてくる螺旋階段を見上げ、そしてそのつくりが、下に行くほど雑になっているのを目にした。
ささくれ立って、ボロボロの階段になっていく。

そんな中、一つだけピンク色に光る電光掲示板があった。
汀はその矢印が指すドアを確認すると、螺旋階段の手すりに手をかけ、体操選手がやるようにクルリと回った。
そしてドアを開け、中に滑り込む。
そこで、彼女の視界がホワイトアウトした。



彼女は、映画館に立っていた。
薄暗い劇場は狭く、百人も入れないほどの小さな映画館だ。
そこに、全員同じ髪型をしたマネキン人形が、同じ姿勢で背筋を伸ばし座っていた。

ビーッ、と映画の始まりを示す音が鳴る。
汀は最前列の中央に一つだけあいた席に、腰を下ろした。
3、2、1とスクリーンに文字が表示され、そして古びたテーブが再生される。

そこには、今汀がダイブしている女の子の顔が、アップで映されていた。
泣きじゃくって、必死に抵抗している。

「先生! 先生やめてください! こんなこと……こんなこと酷すぎます!」

観客のマネキン達から、男の笑い声が、一斉にドッと漏れた。

「先生! 先生やめてください! こんなこと……こんなこと酷すぎます!」

また笑い声が溢れる。
汀は興味がなさそうに、連続再生される女の子の顔を見て、そして立ち上がった。
彼女が立ち上がると同時に、ザッ、と音を立ててマネキン人形が立ち上がった。
それを見て、汀はにやぁ、と笑った。

「鬼さんこちら! 手の鳴る方へ!」

パンパンと手を叩いて、彼女は手近なマネキン人形を殴り飛ばした。

およそ少女の力とは思えないほどの威力で、マネキン人形の首が吹き飛んでいき、スクリーンの中央に大きな穴を開ける。

『汀、今回は危険だ。遊ぶんじゃない!』
「あは、あはは!」

汀は笑った。

マネキン人形達が、彼女の四肢を拘束しようと動き出す。

<あは、アハハ!>

まるで汀の声を真似るように、マネキン人形達も笑った。

「やめられないよ! だって楽しいんだもん! 面白いんだもん!」

汀はそう言って、また手近なマネキン人形を殴った。
その胸部に大きな穴が開き、ぐらりと倒れる。

「私はここでは最強なんだ! 強いんだ! こんなに楽しいゲームって、ねぇないよ!」
『汀、しっかりしろ!』

圭介の声を聞いて、汀はハッとした。
そして動悸を抑えるように、胸を掴んで荒く息をつく。
なだれのように襲い掛かるマネキン人形達の手をかいくぐり、彼女はスクリーンに向かって飛び込んだ。
大きな音を立てて、布製のスクリーンが破れる。
向こう側に突き抜け、また汀の視界がホワイトアウトした。



気づいた時、汀はマネキン人形が所狭しと果てしなく投棄された、その山のような場所にうつぶせに倒れていた。
映画館のマネキン人形と同じように、全て同じ髪型をしている。
それらは腕をもがれたり、顔面を破壊されたり、全てがどこかしらを欠損していた。
共通しているのは、顔には「男」と書かれていること。

空には穴が開き、そこが汀が穴を開けた映画館のスクリーンらしく、ザワザワという騒ぎ声と笑い声が聞こえる。
少しして、汀は果てしなく広がる遺棄された人形達を踏みしめて、立ち上がった。

一箇所だけ、スポットライトが当たったように明るくなっている。
そこに、全裸の女の子が、何かを抱きしめるようにして膝まづいていた。
女の子の全身には、青黒い切り傷がついていて、そこから血がにじんでいる。
人形達を掻き分け、汀は女の子に近づいた。
そして、その頬を掴んで自分の方を向かせる。
やはり顔面はなかった。
そこには「嘘」と書いてある。

「全てを嘘にして逃げたいの?」

そう言って、汀はにっこりと笑った。

「全てを壊して、そうやって底辺で這い蹲っていたいの?」

女の子の反応はなかった。
汀は少しだけ沈黙すると、さびしそうに一言、言った。

「それが、一番楽なのかもしれないんだよ」

答えはない。

「全てを嘘にして、全てを否定して、一番下で這い蹲ってたほうが、幸せかもしれないよ」

女の子の存在しない眼窟から、涙が一筋垂れた。

「私がそれを許してあげる」

彼女はそう言って、女の子が大事そうに抱いていた、丸い玉を手に取った。
それは白く光り輝いていて、「真実」と書いてある。

「無理して真実になんて、気づかない方がいいよ」

また、汀は微笑んだ。

「だって、人間なんてそんなものだもの」

ぶちゅり。
丸い玉を、彼女は潰した。
どろどろとそこから血液が流れ落ちていく。

「治療完了。目をさますよ」

少し沈黙した後、汀はそう言った。



診察室で硬直している母親を尻目に、圭介は黙々とカルテに何事かを書き込んでいた。

「お話の意味が……分からなかったんですが……」

母親がかすれた声で言う。

「ですから、堕胎しました」

圭介は顔を上げることなく、淡々とそう言った。

「今現在、娘さんは赤十字病院の大河内先生のところで入院しています。詳しいお話は、彼からお聞きください」
「娘は……妊娠していたと言うんですか?」
「はい。正確に言うと、妊娠の極々初期だったと考えられます」
「どういうことですか!」

母親が絶叫した。
圭介は立ち上がった彼女に座るように促し、柔和な表情のまま、続けた。

「この事実は、もう娘さんの頭の中から消え去っています。それを掘り起こすのはそちらの勝手ですが、私はあまりオススメはしませんね」

「…………」
「自殺病の再発が考えられますから」

カルテに文字を書きながら、彼は続けた。

「娘さんは、小山田という教師に暴行を受け、彼の子供を孕んだ状態だったようです。私どもは、自殺病を快癒させるために、その原因のトラウマとなっていた子供を、記憶ごと堕胎させました」
「ひ……人殺し!」

立ったまま母親が悲鳴を上げる。
圭介は表情を変えずに、椅子に座ったまま肩をすくめた。

「一番大事なものをなくすと、そう言ったではありませんか。あなたもそれは同意しているはずです」

「でも……でも!」
「それに」

一指し指を一本立てて、圭介は言った。

「自殺病にかかった者は、決して幸福にはなれません。そういう病気なのです」
「なら……なら先生は……」

母親の目から涙が落ちる。

「どうして、娘を助けたのですか……」

圭介は母親から目を離し、カルテに判子を押した。

「命のみを保障するのが、私どもの仕事ですから」



びっくりドンキーの一番奥の席、そこに汀はちょこんと座っていた。
余所行きの服を着ていて、落ち着かない顔で周囲を見回している。
圭介がレジから戻ってきて、ピンクパンサーの絵柄が入ったグラスを二つ、テーブル前に置いた。

「買ってきた。一緒に使おう」
「おそろい?」
「ああ」

汀はそこで、やつれた顔でにっこりと笑った。

「ありがとう」

そこで店員……オーナーが歩み寄って、ゆっくりと頭を下げた。

「ようこそおいでくださいました、高畑様。ご注文は、いかがなさいましょうか?」
「いつものもので」
「かしこまりました」
「この子は肉は食べられませんから、メリーゴーランドのパフェを一つください。すぐに」
「はい。少々お待ちくださいませ」

オーナーが下がっていく。
汀は周りを見回すと、軽く顔をしかめた。

「何か……タバコの臭いがする」
「ここは禁煙席だよ。一番喫煙席から離れてる場所を選んだんだ。我慢しろよ」
「うん」

汀は、手に持った3DSを落ち着きなく弄り、そして一言呟いた。

「圭介」
「ん?」
「私、人、殺しちゃった」

圭介はそれを聞いて、何でもないことのように普通に水を飲み、笑った。

「それがどうした?」
「ん、それだけ」
「メリーゴーランドでございます」

そこでオーナーが来て、大きなパフェを汀の前に置く。

汀は打って変わって目を輝かせ、動く右手でぎこちなくスプーンを掴んだ。

「いただきます」
「残ったら俺が食うから。ゆっくり食えな」
「うん」

無邪気にアイスクリームとホイップクリームを頬張る汀に、圭介は淡々と言った。

「ま、患者の命を助けることは出来たんだ。上々だよ」
「上々?」
「ああ、上々だ」
「本当に?」
「ああ。本当だ」

圭介は微笑んで、手を伸ばして汀の頬についたクリームを拭った。

「お前は何も考えず、自由に楽しんでればいいんだ。それが、『人を助ける』ことに繋がってるんだから」
「私、あの子のこと助けられたのかな?」
「ああ、助けたよ」

頷いて、圭介は続けた。

「お前は、命を助けたよ」



暗い診察室の中、圭介は隣の部屋……汀の部屋の明かりが消えていることを確認して、携帯電話を手に取った。
そして番号を選んで、電話をかける。
今日の遠出で、汀はとても疲れているはずだ。
深い眠りに入っていることは確認している。

「大河内か」

汀に話しかけているときとは打って変わった、暗い声で圭介は口を開いた。

『こんな時間に何の用だ、高畑?』
「汀に投与する薬の量を増やしたい」
『いきなりだな。何かあったのか?』

ピンクパンサーのグラスに注いだ麦茶を飲み、圭介は続けた。

「今回のダイブの記憶を消したいんだ」
『堕胎の件か』
「汀がそれを気にかけている発言をした。今後の治療に関わってくるかもしれない」
『分かった。至急手配しよう』

「…………」
『高畑』

電話の向こうの声が、淡々と言った。

『汀ちゃんは、普通の、十三歳の女の子だ。それを忘れるなよ』
「普通? 笑わせるなよ」

圭介は暗い声で、静かに言った。

「化け物さ。あの子は」
『その化け物を使って仕事をしているお前は、一体何だ?』
「普通の人間さ」

電話の向こうからため息が聞こえる。

しばらくして、圭介は麦茶を飲み干してから、ピンクパンサーのグラスを置いた。

『いいか高畑、汀ちゃんは……』
「あの子は俺のものだ。もう赤十字のサンプルじゃない」

彼の声を打ち消し、圭介は言った。

「どうしようが俺の勝手だ」
『そのために、あの子自身のトラウマを広げることになってもか?』
「ああ。だってそれが、道具の役割だろ?」

圭介は、息をついて言った。

「俺は医者だからな」

携帯電話の通話を切る。
部屋の中に静寂が戻る。
圭介は、携帯電話を白衣のポケットにしまうと、
カルテに何事かを書き込む作業に戻った。
ピンクパンサーのグラスに入れた氷が溶け、カラン、と小さな音を立てた。



第2話に続く

第1話は以上です。
お疲れ様でした。

第2話は、本日5/6の夜間に更新予定です。
まったりお楽しみいただければと思います。

不定期更新ですが、よろしくお願いいたします。
m(_ _)m

お疲れ様です。
第2話の投稿をさせていただきます。

涙が落ちる。
土砂降りの中、立ち尽くしたその人は涙を流していた。

降っているのは雨ではない。
赤い。
どろどろした粘性の血液だった。
それが、バケツをさかさまにしたかのような猛烈なスコールとなって降っているのだ。

足元には血だまり。
コンクリートの地面は赤い血で着色され、五メートル先は見えない
その人は、両拳を握り締め、スコールの中、俯いてただ泣いていた。
壮年男性だろうか。
背丈は分かるが、スコールがあまりに強すぎるため、ずぶ濡れになったシャツとジーンズしか判別できない。

顔は見えない。
ただ、子供のようにスン、スン、と泣く声が聞こえる。
汀は血の雨の中、体中ずぶ濡れになりながら、その男性の目の前に立っていた。
男性の泣き声以外、スコールがあまりにも強すぎて何も聞こえず、何も見えない。
汀は口を開いて何事かを言おうとした。
しかし、スコールにそれを遮られ、諦めて口をつぐんだ。
少しして彼女は、血まみれになりながらヘッドセットのスイッチを入れた。
そしてかすれた声で呟く。

「ダイブ続行不可能。目を覚ますよ」



第2話 血の雨の降る景色



「今日はこれ以上は無理だ。汀ちゃんを家に帰してやれ」

そう言われ、圭介はしばらく考え込んだ後、苛立ったように部屋の中を歩き回り、ぴたりと足を止めた。

「患者の家族は何て言ってる?」
「相変わらず知らず存ぜずだよ」
「そうか……」

圭介の肩を叩いて、彼と同様に白衣を着た男性……大河内が続けた。

「この患者に入れ込むのは分かるが、少しは汀ちゃんのことも考えてやったらどうだ。肩の力を抜け」
「お前に言われなくても、それは分かってるよ」

柔和な顔立ちをした圭介とは違い、大河内は髭をもみ上げからアゴまで生やした、熊のようないでたちをしていた。
そこで、ガラスで覆われた部屋の向こう側……真っ白い壁と床、そして薄暗い蛍光灯の光に照らされた施術室の中で、車椅子の汀が、もぞもぞと動きにくそうに体を揺らすのが見えた。
圭介はため息をついて、彼女の方に足を向けながら呟いた。

「これで六回目のダイブ失敗か」
「元々無茶なダイブなんだ。特A級スイーパーでも難しいことは分かっていた」

大河内がフォローするように言う。

汀の前には、目を閉じて両指を胸の前で組んだ、白髪の壮年男性が眠っていた。
余所行きの服を着ている汀とは違い、こちらは病院服だ。
腕には栄養補給用の点滴がつけられていて、頭にはヘルメット型マスク、そして血圧や脳波を測定する器具が取り付けられている。
汀はそこで、強く咳き込むと、まるで溺れた人のように胸を抑えた。
急いで圭介が、施術室のドアを開けて駆け寄る。

「汀!」

呼ばれて、汀は動く右手でマスクをむしりとり、ゼェゼェと息を切らしながら、真っ青な顔で圭介を見た。

「圭介……吐く……」
「分かった。もう少しだけ我慢しろ」

備え付けられているバケツを大河内から受け取り、圭介は汀の顔の前に持ってきた。
そして背中をさすってやる。
何とも形容しがたい、くぐもった声を上げて、汀が弱弱しく胃の中のものを戻した。
しばらくしてやっと吐瀉感が収まった少女の頭をなで、圭介はその口をタオルで拭いた。

「限界か?」

問いかけられ、汀は落ち窪んだ目で言った。

「もう一回行けるよ。もう少しで見つかりそう」

「なら……」
「いや、今日のダイブはこれでお仕舞いだ」

圭介の声を打ち消すようにして声を上げ、そこで大河内が顔を出した。
彼の顔を見て、真っ青だった汀の顔色が少しだけ上気した。

「大河内せんせ!」

嬉しそうに彼女がそう言う。
大河内は朗らかに笑いながら、汀の小さな体を抱き上げた。
そしてその場をくるくると回ってやる。

「久しぶりだなぁ、汀ちゃん」
「せんせ、いつ頃来たの?」
「二回目のダイブの途中から見ていたよ」
「私が吐くとこも?」

圭介が呆れたように息をつき、水道に汀の吐瀉物を流している。
大河内は肩をすくめて、汀を車椅子に戻した。

「今日は、私も君達の病院に遊びに行こうかな」
「本当?」

汀が目を輝かせて、両手を膝の前で組んだ。

「圭介、大河内せんせが遊びに来てくれるって」
「ああ。で、患者はもういいのか?」
「どうでもいいよこんなの」

汀が端的にそう言って、左手で大河内の手を握る。

「せんせ、圭介がこの前、Wii買ってくれたの。一緒に毛糸のカービィやろ」
「うん、うんいいだろう。元気そうでとても安心したよ」
「汀、はしゃぐのはいいが、薬もまだ飲んでいないしダイブ直後だ。大河内も少しは考えてくれ」
「あ……ああ、すまない」

圭介は、はしゃいでいる汀とは対照的に、苦そうな顔をして彼女の車椅子の取っ手を持った。

「高畑、それじゃ今日は……」
「お前が顔を出しちまったから、汀の集中力が激減したよ。これ以上のダイブは無理だな」
「せんせ、手つなご」

汀がゆらゆらと細い、骨ばかりの右腕を伸ばす。

大河内は微笑むと、汀の手を掴んだ。

「私が下まで送っていこう。高畑は看護士を呼んで、患者の移動をさせてくれ」

圭介は一つため息をついて、ベッドに横になっている白髪の壮年男性を、横目で見た。

「分かった。汀、大河内先生に失礼のないようにな」

圭介から汀の車椅子を受け取り、大河内はゆっくりと動かし始めた。
汀は完全に圭介の事を無視し、大河内に、車椅子から取り出した3DSの画面を見せている。

「見て、せんせ。圭介に手伝ってもらって、今度のポケモンも全部集まったよ」
「おおそうか。早いなぁ。さすがは汀ちゃんだ」
「えへへ」
「お寿司でも頼もうか」
「本当? 私も食べる!」

二人を見送り、圭介は施術室の中の計器の一つを覗き込んだ。
そしてその数値を見て、苛立ったように頭をガシガシと掻く。
いつも柔和な表情は、極めて暗かった。



大河内が頼んだ寿司の出前を前に、汀は、自分の部屋で、彼とゲームに熱中していた。
それを興味がなさそうに見ながら、圭介が寿司を一つつまんで口に入れる。

「汀ちゃんは上手いなぁ」
「ここを、こう飛び越えるんだよ」
「こうか? それっ!」

子供のように騒いでいる大河内を呆れ顔で見て、圭介は手元にあった資料に目を落とした。
先ほどの壮年男性の顔写真と、経歴などが書いてある。

しばらくして、リモコンを振り疲れたのか、汀が息をついて、パラマウントベッドに体を預けた。
大河内もリモコンをテーブルに置き、彼女の汗をタオルで拭う。

「汀、少しはしゃぎすぎだ。休んだ方がいいぞ」

圭介が資料から目を離さずに言う。
汀はむすっとして彼を見た。

「全然疲れてないもん」
「まぁまぁ。歳のせいか、私のほうが先に疲れてしまった。少し休憩といこうか」

大河内がそう言って、寿司を口に入れる。

「汀ちゃんも食べるかい?」
「せんせが食べさせてくれるなら食べる」
「どれがいい?」
「うに」
「やめておけよ」

圭介が資料をめくりながら言う。

「また吐くぞ。クスリ注射したばっかだろ」
「うるさい圭介。さっきからブツブツブツブツ。邪魔しないでよ」
「はいはい」

肩をすくめた圭介の前で、大河内が小さくまとめたシャリとウニを、箸で汀の口に運ぶ。

「おいしい」

やつれた少女は笑った。
しかしその顔が、すぐに青くなり、彼女は口元を手で押さえた。

「ほらな」

慌てて大河内が洗面器を彼女の前に持ってくる。
そこに胃の中のものを全て戻し、汀は苦しそうに息をついた。
その背中をさすって、大河内がおろおろと圭介を見る。

「す……すまない。少しくらいならいいかと思ったんだが……」
「全く……人の話を聞かないから」

呆れた声で圭介は資料を脇に挟み、汀の吐瀉物が入った洗面器を受け取った。

「とりあえず、大河内も少し汀を休ませてやってくれ。俺は診察室にいるから」

バタン、と音を立ててドアが閉まる。
少し沈黙した後、汀はため息をついた。

「……圭介、怒ってる」

そう呟いた彼女に、大河内は口元をタオルで拭いてやりながら首を振った。

「疲れてるのさ。汀ちゃんも、そういう時があるだろう?」
「違うの。私には分かるの」

汀はそう言って、Wiiのリモコンを握り締めた。

「私が、役に立たないから……」

大河内が、発しかけていた言葉を飲み込む。

そこで汀は、突然右手で頭を押さえた。
強烈な耳鳴りとともに、彼女の視界が暗転する。
体を丸めた汀を、慌てて大河内が抱きとめた。

「汀ちゃん!」

汀の視界に、先ほどダイブした男性の、脳内風景が蘇る。
血の雨。
立ち尽くす男。
泣き声。
血だまり。
コンクリートの地面。
先の見えないスコール。
土砂降り。

――あなたは何をなくしたの?

汀はそう問いかけた。
答えは返ってこなかった。
何をなくしたのか、汀はそれを知りたかった。
何をなくして、どうして泣いているのか。
しかしスコールは、彼女のことを拒むかのように、
強く、強く降り、身体を粘ついた血液まみれにしていく。

――何をなくしたの!

汀は叫んだ。
何度も、何度も。
掴みかかって、男を揺さぶる。

そこで汀はハッとした。
聞こえるのは、泣き声。
しかし男の顔は。
ただ、笑っていた。

「…………っ」

頭を振り、汀が声にならない叫び声を上げる。
頭の奥の方に、抉りこむような頭痛が走ったのだ。

「高畑! 高畑、来てくれ!」

大河内が大声を上げる。
そこで、汀の意識はブラックアウトした。



「……悪かった。汀ちゃんの病状を、軽く考えていたよ」

診察室の椅子に座り、大河内がため息をつく。
圭介は資料をめくりながら、興味がなさそうに口を開いた。

「気に病むなよ。いつものことだ」
「…………」
「それに、お前は汀の中では『お父さん』でもあり、『恋人』でもあるんだ。多少はしゃいでゲロ吐いたって、あいつの精神衛生上プラスになってることは間違いない」
「だろうが……口が悪いぞ、高畑」
「そうか?」

顔を上げずに、彼は続けた。

「まぁ、起きた頃には忘れてるさ。それより見てみろ、大河内」

資料を彼に放り、圭介は椅子の背もたれに寄りかかった。

「あの患者の経歴だ」
「どこから取り寄せた?」
「世の中には『親切な人』が沢山いてね」

柔和な表情で彼は腕を組んだ。
大河内は資料に目を通してから、深いため息をついた。

「なぁ、この患者の治療はもうやめにしないか?」
「…………」

圭介は少し沈黙してから、言った。

「嫌だね。一度依頼された治療は必ず行う。それが俺の方針だよ」

「汀ちゃんを見ろ。負担がかかりすぎてる。この患者の治療をするには、十三歳では難しすぎると私は思うがね」
「でも、汀は特A級だ」
「天才であることは認めるよ。しかし、適材適所という考え方もある。これは、赤十字の担当に回したほうがいい」
「大河内」

彼の言葉を遮り、圭介は言った。

「汀にとって、お前は『お父さん』であり、『恋人』であるかもしれないけど、お前にとって、汀は『娘』でも『恋人』でもないぞ。俺も同じだ。入れ込みすぎているのはどっちだ?」

問いかけられ、大河内が口をつぐむ。

圭介は資料を彼から受け取り、テーブルの上に戻した。

「治すさ。汀は」
「…………」
「たとえそれが、家族から見放された、重度の『痴呆症』の患者であっても」
「痴呆症の患者は、精神構造が普通の人間とは違う。汀ちゃんに、それを理解させるのは無理だ」
「無理でもやるんだよ」

いつになく強固な声で、圭介は言った。

「それが、あの子の仕事だ」



汀が目を覚ました時、丁度圭介が点滴を替えているところだった。
汀は起き上がろうとして、体に力が入らないことに気がつき、息をついてベッドに体をうずめる。

「おはよう」
「おはよう、良く眠れたか?」

圭介にそう聞かれ、汀は軽く微笑んで首を振った。

「よく寝れなかった」
「遊びすぎたんだよ。お前達は、加減を知らないから……」
「加減?」
「…………」

圭介が、不思議そうに問い返した汀を見る。

そして少し沈黙してから、また点滴を交換する作業に移った。

「いや、いいんだ。別に」
「気になるよ。何かあったの?」
「大河内が来ただけだ」
「せんせが来たの?」

汀は、途端に顔を真っ赤にして圭介を見た。

「ど、どうして起こしてくれなかったの?」

どもりながらそう聞く彼女に、圭介はまた少し沈黙した後、答えた。

「お前、覚えてないだろうけど、昨日の夜かなり具合が悪かったんだ。どの道、クスリ飲んでたから話は出来なかったと思うよ」

「せんせ、ここに入ってきたの?」
「ああ」
「恥ずかしい……私、こんな……」

毛布を手繰り寄せて、汀は小さく呟いた。
彼女の女の子らしい反応を見て、圭介は小さく微笑んで見せた。

「大河内は気にしないだろ。お前の格好なんて」
「せんせが気にしなくても、私が気にするの」

まるで、昨日大河内とWiiで遊んだことを、いや、彼がこの部屋に来たことさえもを覚えていない風だった。
否、覚えていない風、なのではない。
覚えていないのだ。

圭介はこの話は終わりとばかりに、点滴台から離れると、隣の診察室に歩いていった。
汀が胸を押さえながら、俯く。
大河内と話せなかったと思ったことが、相当ショックらしい。
圭介はしばらくして戻ってくると、汀に写真のついた資料を渡した。

「これは覚えてるか?」

問いかけられ、汀は写真を覗き込んだ。
そして首を傾げる。

「誰?」
「覚えてないならいいんだ。今回の患者だ」

興味がなさそうに資料をめくり、しばらく見てから、汀はある一箇所を凝視した。

「ふーん」

と何か納得した様な声を出す。そして圭介に返し、彼女は彼を見上げた。

「それで、いつダイブするの?」
「今日は無理だな。お前の体調が戻り次第、ダイブしてもらいたい」
「いいよ。圭介がそう言うなら」

にっこりと笑って、汀は続けた。

「その人を助けることも、『人を助ける』ことになるんでしょう?」

問いかけられ、圭介は一瞬口をつぐんだ。
しかし彼は、微笑みを返し、頷いた。

「……ああ。そうだよ。お前が、助けるべき患者だよ」



「……そうか。一緒に遊んだ記憶が飛んだか」

赤十字病院の一室で大河内がそう言う。
彼は暗い顔で、腕を組むと壁に寄りかかった。

「ダイブした患者の記憶も、スッキリ飛んでた。お前の用意したクスリは、本当に良く効くな」

資料に目を通しながら圭介が言う。
大河内は反論しようと口を開けたが、言葉の着地点を見つけられなかったらしく、息をついて呟いた。

「クスリが強すぎる」
「それくらいが丁度いいんだ。あの子のためにも」

含みを込めてそう言うと、圭介はガラス張りの部屋の向こうに目をやった。

数日前のように、車椅子にマスク型ヘッドセットをつけた汀と、前に横たえられた壮年男性の姿が見える。
マジックミラーのようになっていて、向こう側からはこちらの様子を伺うことは出来ない。
汀はもぞもぞとヘッドセットを動かすと、車椅子の背もたれに体を預け、脱力した。

『準備完了。これからダイブするよ』

壁のスピーカーから彼女の声が聞こえる。
圭介は、壁に取り付けられたミキサー機のような巨大な機械の前に腰を下ろすと、そのマイクに向けて口を開いた。

「説明したとおり、その患者は普通の患者じゃない。重度のアルツハイマー型痴呆症にかかってる。普通の人間と精神構造が違うから、注意してくれ」
『大丈夫だよ。すぐに中枢を探してくるから』

「時間は十五分でいいな?」
『うん』

頷いて、汀は呟いた。

『ここ、赤十字でしょ? ……大河内せんせに会いたいな』

隣で大河内が軽く唾を飲む。
圭介は小さく笑うと、なだめるように言った。

「集中しろ」
『分かってるよ』
「これが終わったら、考えてやってもいい」

『本当?』
「ああ、本当だ」
『約束だよ』
「ああ、約束だ」
『うん、私頑張る。頑張るよ』

何度も頷く汀を、感情の読めない顔で見つめ、圭介は言った。

「それじゃ、ダイブをはじめてくれ」



汀は、古い日本家屋の中に立っていた。
床に、立っていた。

「うわっ!」

小さく叫び声を上げ、汀は真下に落下した。
ドタン、と受身を取ることも出来ずに、体をしたたかに打ちつけ、彼女はしばらくうずくまって、痛みに耐えていた。

『どうした?』

圭介の声がヘッドセットから聞こえる。
汀は息をついて、腰をさすりながら起き上がった。

「ちょっと失敗しただけ。何でもない」

そこは、上下が逆になった世界だった。
床が天井の位置にある。
反対に、天井が床の位置にある。
しかし、家具や電灯は、重力に逆らって上方向に固定されていた。

汀だけが、家屋の中、その天井に立っている。
先ほどは床の位置から落下したのだ。

息をついて周りを見回す。
タンスに、大きなブラウン管型テレビ。
足元の電球の周りには虫が飛んでいる。
障子は開いていたが、その向こう側は真っ白な霧に覆われていた。
そこは居間らしく、頭上にテーブルと座布団が見える。

奇妙な光景だった。
今にも家具が天井に向けて『落ちて』きそうな感覚に、汀は少し首をすぼめた。

「ダイブ完了。でも、良くわかんない」
『分からないってどういうことだ?』
「煉獄に繋がる通路じゃないみたい。トラウマでもないし。普通の、通常心理壁の中みたいだよ」
『何か異常を探すんだ』
「上下が逆になってるだけ。それくらいかな」

何でもないことのように汀は言うと、天井に立った。

そして彼女は、這うようにしてテレビの方に近づくと、頭上の床から垂れ下がるようになっているそれに手を伸ばした。
何度かピョンピョンとジャンプし、スイッチをやっと指で押す。
さかさまになっているテレビの電源がつき、砂画面が映し出された。
しばらくして勝手にチャンネルが変わり、汀の顔が映し出される。

「……?」

首をかしげて、さかさまに映っている自分のことを、彼女は見た。
黒い画面に、汀が立っているだけの映像。

またしばらくして、画面の中の汀の首が、パンッと音を立てて弾け飛んだ。
首のなくなった彼女の体が、グラグラと揺れて、無造作に倒れこむ。
汀は冷めた目でそれを見ると、手を伸ばしてテレビの電源を切った。

「訂正。通常心理壁じゃない。ここ、異常変質心理壁だ。H型だね」
『知ってる。そこから出れるか?』
「何で知ってるの?」

汀の質問に答えず、圭介は続けた。

『この患者は普通じゃないと言っただろ。中枢を探してくれ』
「……分かった」

汀がそう言った時だった。

ゴロゴロゴロゴロ……ドドォォーンッ! と、雷の音があたりに響いた。

「ひっ」

雷が怖かったのか、汀は息を呑んで体を硬直させた。
そして気を取り直して障子の向こうを見る。

パタ……パタタタタタタ……! と、連続的な音を立てて、何かが下から上に、『降って』きた。
それは、血液のように赤かった。
否。
血液だった。
上下がさかさまになった空間の外で、下から上に、血の雨が降っている。

それは途端に土砂降りになると、たちまちゴーッという耳鳴りのようなスコールに変わった。
汀の頭の上で、床下浸水したかのように、溜まった生臭い血液が、家屋の中に進入してくる。
狭い部屋の中、血液の波は一気にタンスやテレビを飲み込んだ。
テレビの電源が勝手につき、そこからけたたましい笑い声……男性の、引きつった痙攣しているような声が響き渡る。
汀は、頭の上から迫ってくる血だまりを見上げ、足下の天井を蹴って、障子に向かって走り出した。

その途端だった。
ぐるりと視界が反転し、彼女は、入ってきた時と同じように、血の海の中に頭から突っ込んだ。
上下さかさまになっていた空間が、突然元にもどったのだ。
床が下に。
天井が上に回転した。
小さな体を動かし、汀はもったりとした血液を掻き分けて顔を出し、息をついた。
しかし、ぬるぬると血液は彼女の体を沈み込ませようとする。
それに、どんどん血液は家屋の中に進入して、かさを増してきていた。
汀は成す術もなく、血の海に飲み込まれた。



気づいた時、彼女は一面の花畑の中に横たわっていた。

「……ゲホッ、ゲホッ!」

激しくえづいて、飲み込んでしまった臭い血液を吐き出す。
体中血まみれだ。

『汀、大丈夫か? 返事をしてくれ』

圭介の声に返そうとして、汀は自分を囲んでいるつたに手を伸ばし

「痛っ!」

と言って手を引っ込めた。

彼女がいたのは、真っ赤な薔薇が咲き誇る、一面の薔薇畑だった。
無数の棘がついたつたに囲まれ、彼女は起き上がろうとして、ビリビリと病院服のすそが破れたのを見て、舌打ちをした。

「……攻撃性が強すぎる」
『それが痴呆症の特徴だ。理性の部分のタガが外れてるからな』
「寒い……」

肩を抱いた汀の頭上、そこからプシュッ、と言う音がした。
良く見るとそこは広いビニールハウスで、天井にはスプリンクラーがついている。
そこから、勢い良く血液が噴出した。
たちまち豪雨となり、痛いくらいに汀の体を、生臭くて生ぬるいモノが打ち付ける。
たまらず、汀は足を踏み出して、薔薇の棘で全身を切り刻まれるのも構わず、走り出した。
スプリンクラーが強すぎて、息も出来ない。

『汀、何があった!』
「大丈夫! 何でもない!」

悲鳴のように答えると、彼女は近くの薔薇の茂みに飛び込んだ。
僅かに血の豪雨が防げる場所に、体中を切り刻みながら入り込み、小さくなって震える。
とても寒かった。

「何でもない……大丈夫。私やれるよ……」

か細く、ヘッドセットにそう言う。
圭介は一瞬沈黙してから、言った。

『頑張れ。俺はお前を、応援してる』
「分かった……」

頷いて、汀は近くの薔薇を手にとって、小さな手が傷つくのも構わず、それを毟り取った。

そして大きな棘を、自分の左腕、その手首につける。
グッ、と力を込めると、棘は簡単に柔肌にめり込み、たちまち汀の腕から、ものすごい勢いで血が溢れ出した。
痛みに顔をしかめながら、彼女はビニールハウスの地面……血が溜まってきたそこに、自分の血を垂らした。
ジュゥッという焼ける音がして、汀の血が当った場所が蒸発した。
左腕を掴み、血を絞り出す。

「そんなに血が好きなら……好きなだけ飲ませてあげるわよ。好きなだけね!」

もう一度汀は、自分の腕を棘で切り刻んだ。
ボタボタと血が垂れる。
汀の足元、蒸発した空間から、白い光が漏れ出した。
それが円形の空間に変わり、真っ白い光を放ち始める。
汀は、棘を掻き分けてそこに飛び込んだ。



病院服も破り取られ半裸で、体中に切り傷をつけた状態で、汀は高速道路に横たわっていた。
のろのろと起き上がり、空を見上げる。
曇り空で、黒い雲があたりに広がっている。
また血の雨が降るのも、時間の問題のようだ。

<死んじゃえばいいのに>

そこで、何も走っていない高速道路に、子供の声が響いた。

<お爺ちゃんなんて、死んじゃえばいいのに>

別の男性の声がした。

<お爺ちゃんは、死んだ方が幸せなのかもしれないよ>
<もうお爺ちゃんは、元にもどらないの?>
<お爺ちゃんは、幸せな世界に行ったんだよ>
<だから、ね>
<現実の世界の、この体は、さよならしよう>

キキーッ!
ブレーキの音が聞こえる。
汀は、慌てて振り向いた。

自分めがけて、巨大なトラックが迫ってくるところだった。
避けようとしたが、体が動かない。
小さな体は、ブレーキをかけたトラックにいとも簡単にはねられ、数メートル宙を待ってから、糸が切れたマネキンのように地面に崩れ落ちた。

『汀!』

圭介の声が聞こえる。
汀は、したたかにコンクリートに打ち付けた頭から血を流しながら、
ぼんやりと目を開いた。
そして、はねられた後だというのに、のろのろと起き上がる。

腕と足が異様な方向に曲がっており、満身創痍にも程があると言った具合だった。
トラックの運転席には、誰もいない。
今は停まっているそれを見て、彼女はゆっくりと振り返った。
ケタケタと、写真で見た壮年男性が笑っていた。
十メートルほど離れた場所に直立不動で立って、目だけは笑っていない顔で、笑っている。
ポツリ。
また、血が降ってきた。
汀は、荒く息をついて、彼に向かって口を開いた。

「……あなたに、輸血が出来なかった」

か細い声だった。

「事故に遭ったあなたは、宗教上の理由で輸血をしてもらえなかった」

ケタケタと男が笑う。

「だから、あなたは狂ってしまった」

血の雨が強くなった。

「麻痺が残った体で、あなたは段々と夢の世界に逃避するようになっていった」

汀は、男に向けてズルリと足を引きずった。
あたりに豪雨がとどろき渡る。
汀は、男の前に時間をかけて移動すると、その焦点の合わない瞳を見上げた。
そしてさびしそうに口を開く。

「あなたが探しているものは、もうどこにもないよ」

男は、いつの間にか笑っていなかった。
真正面を凝視している彼に、汀は続けた。

「元になんて戻れない。一度狂ったら、狂い尽くすしかないんだよ。この世は」

男が手を振り上げ、汀の頬を張った。
何度も。
何度も。
汀は殴られながら、悲しそうな顔で男を見上げ、そしてその手を、折れていない方の右手で掴んだ。

「でも、そんなのはさびしすぎるから」

男の目が見開かれる。

「私が、狂い尽くすことを、許してあげる」

血のスコールの中、汀は男を引き倒した。
そしてその上に馬乗りになり、まだパックリと開いている自分の左腕の傷口を彼の口に向ける。
ポタポタと、汀の血が、男の口に入った。
男が悲鳴を上げて、滅茶苦茶に暴れる。
それを押さえつけ、汀は血を彼の口の中に絞り出した。
しばらくして、徐々にスコールが止んできた。
やがて雲が晴れ、空に青い色が見えてくる。
晴れた空の下、汀は力なく横に崩れ落ちた。
男は、どこにもいなかった。
彼女はボロボロの体で、ヘッドセットのスイッチを操作して、呟いた。

「治療完了……目を覚ますよ」



「三島寛治。六十九歳。高速道路で、車から転落。その後、病院に運ばれるも、家族に宗教上の理由で輸血を拒否され、十分な治療が出来ずに体に麻痺が残る。後にアルツハイマー型痴呆症の悪化と自殺病を併発……か」

大河内は資料を読み上げ、それを圭介に放った。

「もっと早くこの資料を見つけてれば、ダイブは初期段階で成功してたんじゃないか?」
「それを汀に見せたのは、ただ単なる気まぐれだよ。規定概念がダイブに影響すると、余計な状況を招く恐れがあるからな」
「それにしても……やはり、見せるべきだったと俺は思う。七回もダイブする必要はなかったんだ」

汀の部屋で、大河内は立ったまま、すぅすぅと寝息を立てている彼女を見下ろした。

「ここまで負担をかけることもなかった」
「負担? 何を言ってるんだ」

圭介はピンクパンサーのコップに入れた麦茶を飲んで、続けた。

「仕事だよ」
「お前……」

大河内が顔をしかめて言う。

「口が過ぎる」
「そういう性格なんだ。知ってるだろ?」
「汀ちゃんにこれ以上負担をかける治療を行っていくっていうのなら、元老院にかけあってもいいんだぞ」

「脅しか?」
「ああ」
「…………」

少し沈黙してから、圭介は息をついた。

「やるんならやれよ。前みたいな失敗を、繰り返したいんならな」
「…………っ」

言葉を飲み込んだ大河内に、圭介は薄ら笑いを浮かべて言った。

「結果が全てだろ。所詮。元老院だって分かってるはずだ。今回のダイブだって、アメリカの症例二件を含めなければ、日本人で初のアルツハイマー型痴呆症患者の治療成功例として登録されたんだ。褒められはすれど、怒られるいわれはないね」

「人道的な問題というものがある」
「人道的……ね」

圭介はFAXの方に近づいて、資料を手に取った。

「じゃあ、最初からやらなければ良かったと、お前はそう言うのか?」
「ああ、そうだ」
「助けなければ良かったというのか?」
「助ける? お前、自分が何を言っているか分かってるのか?」

大河内が声を荒げた。

「自殺病を治しただけで、アルツハイマーは治っていない。それが、患者の幸福に繋がっているとでも言いたいのか!」

胸倉を掴み上げられ、圭介は、しかし柔和な表情のまま口を開いた。

「自殺病にかかった者は、決して幸福にはなれない。そういう病気なんだ。知ってるだろ?」
「俗説だ」
「じゃあ逆に聞くが、お前はあのまま、死なせてやった方が患者のためになるとでも言いたいのか?」
「…………」
「なぁ大河内」

圭介は大河内の手をゆっくりと下に下ろし、麦茶を飲んでから言った。

「俺達は医者だ」
「…………」
「そしてこの子は、道具だ」
「…………」
「それ以上でも、それ以下でもない」

大河内は少し沈黙してから、小さく言った。

「なら何故、ここまでする?」

汀の部屋を見渡す。
最新のゲーム機、雑誌、漫画、それらが所狭しと置かれた部屋の中で、圭介は肩をすくめた。

「必要だからさ」
「それだけとは、私にはどうも思えないのだがね」
「皮肉か?」
「それ以外の何かに聞こえたのなら、多分そうなんだろう」

大河内は息をついて、圭介に背を向けた。

「また来るよ」
「出来れば来ないで欲しいんだけどね」
「それは無理な相談だ」

大河内はドアに手をかけ、そして言った。

「私はその子の『父親』でもあり、何しろ『恋人』でもあるんだからな」
「…………」

圭介はそれに答えなかった。



びっくりドンキーの前と同じ席で、汀はゆっくりとメリーゴーランドのパフェを口に運んでいた。
その頭が、眠そうにこくりこくりと揺れている。
圭介はステーキを口に運んでから、汀に声をかけた。

「大丈夫か? 無理しなくてもいいんだぞ」
「久しぶりのお外だもん……無理なんてしてないよ……」

しかし眠そうに、汀は言う。

「この後、本屋さんに行ってね、ゲームセンターに行ってね…………ツタヤにも行って…………」
「そんなに回れないだろ」

「……何でも言うこと聞いてくれるって言ったのは圭介だよ……」

息をついて、圭介は手を伸ばして、汀の前からパフェをどけた。

「とりあえず、店を出よう。一旦車で休んだ方がいい」
「うん……」

頷いた汀を抱きかかえ、車椅子に乗せる。

「高畑様、お帰りですか?」

オーナーが進み出てきてそう聞く。
圭介は頷いて、苦笑した。

「この子がもう限界でしてね。会計は、後ほど」
「かしこまりました」

頷いた彼から、圭介はもうまどろみの中にいる汀に目を移した。
汀は、こくりこくりと頭を揺らしながら、小さく呟いた。

「圭介……」
「ん?」
「あのね……あのね…………」

少し言いよどんでから、とろとろと彼女は言った。

「ずっと、考えてたの……」
「何を?」
「何も分からないで死ぬのと……何も分からないで生きるのって……どっちが正解なのかな……?」

「…………」
「結局何も分からないなら…………何も出来なかったのと、同じじゃないかな…………」

圭介は無言で車椅子を押した。
そして店員達に見送られながら、駐車場に向かう。

「……俺にはまだ、よく分からないけど」

彼はそう言って、車のドアを開けた。

「生きていた方が、多分その方が幸せなんだろうと思うよ」
「…………」

「たとえ何も分からなくても、その方が……」

寝息が聞こえた。
彼は、眠りに入っている汀を見下ろし、息をついた。
そして小さく呟く。

「幸せだと、思うよ」

その呟きは寂しく、かすかな風にまぎれて消えた。



第3話に続く



お疲れ様でした。
次話は明日、5/7に投稿予定です。
雨が降って寒い地方もありますが、皆様も体調に気をつけてくださいね。
m(_ _)m


引き込まれる

お帰りなさいませ。
懐かしいなぁ…

皆様、こんばんは。
体調があまり良くなく、投稿が遅れてしまいました。

>>151
ありがとうございます。
引き続きお楽しみくださいね。

>>152
久方ぶりです。
完結まで今回は投稿します。
気長にお付き合いくださいませ。

それでは、第3話を投稿させていただきます。



第3話 蜘蛛の城



蝉の声が聞こえる中、汀は圭介に車椅子を押してもらいながら、木漏れ日の中を進んでいた。
夕暮れ近くの、気温が下がってきた頃、近くの公園まで散歩に出てきたのだった。
そこで、汀はふと、公園の木の下に目を留めた。

「圭介」

呼びかけられて、圭介が車椅子を止める。

「どうした?」

「あそこ」

右手で木の下を指差す。
そこには薄汚れた段ボール箱が置いてあり、夕立で濡れたのか、グショグショのタオルがしいてあった。
近づいて覗き込んで、圭介は顔をしかめた。
今にも死にそうなほど衰弱した、手の平ほどの大きさの白い子猫が横たわっていたのだ。

「圭介、猫だよ」
「ああ、猫だな」

興味がなさそうにそう言って、圭介は車椅子を道の方に戻そうとした。

「待って、待ってよ」

汀が声を上げる。

「何だ?」
「死んじゃうよ」
「それがどうした?」
「私の髪の毛と同じ色だよ」
「だから、それがどうした?」

淡白に聞き返した圭介に

「もう……」

と呟いて、汀は頬を膨らませた。

「この子を拾っていくよ」
「何で?」
「何でも」
「基本的に、何のメリットもないことはしたくないんだけど」
「メリットならあるよ」
「何だ?」
「癒されるよ」
「…………」

圭介はため息をついて、車椅子から手を離し、ダンボールに手をかけた。
濡れていて崩れたそれを破り、子猫を無造作に手で掴み上げる。

「……分かったよ。癒しは大事だからな」
「うん。癒しは大事だよ」

汀は、にっこりと、無邪気な少女の笑顔で微笑んだ。



汀の部屋の隅に、圭介が用意したケージが設置された。
しばらくは安静が必要と判断したので、やはり圭介が動物病院に連れて行き、それから綺麗に洗ってやってから、弱いドライヤーで乾かす。
子猫は大分衰弱していたが、温めたミルクなどを口に運ぶと、貪るように食べた。
体が自由に動かない汀は、猫の世話など出来ない。
ただ、徐々に回復してきて、妙に人懐っこいその猫を自分のベッドで寝かせることが多くなった。
猫も、汀の枕の右脇を定位置と決めたらしく、次第に我が物顔で眠るようになっていった。



数日後、圭介はくしゃみをした汀を、心配そうに見た。
そして言いにくそうに口を開く。

「汀。あまり猫を顔に近づけるな。その毛は、お前には毒だ」
「猫じゃないよ。小白(こはく)だよ」
「小白?」

問いかけられて、汀は頷いた。

「うん。小白」
「何で?」

猫……小白を抱きながら、汀は言った。

「小さくて白いから」
「…………」
「それに、毛なら平気だよ。慣れたし」

圭介は頭を掻いて、小白のトイレを掃除し始めた。
元々どこかで飼われていたのだろう。
トイレの場所もすぐに覚え、行儀もいい。
かなり、頭が良い猫のようだ。
喉を撫でられ、ゴロゴロと言っている小白を見て、 圭介は息をついてから言った。

「汀、猫で遊ぶのはいいが、仕事が入った」

「今日はやだ」
「我侭を言うな。マインドスイーパーの資格を持っているなら、ちゃんと仕事をしろ」

圭介はそう言って、立ち上がった。

「今回の仕事は凄いぞ。元老院から直々の依頼だ。その打ち合わせに行く」
「お外に行くの?」
「ああ。お前にも同席してもらう」
「私も、会議に出るの?」
「そうだ」
「どうして?」
「クライアントのたっての希望だからだ」

そう言って、圭介は小白の首の皮をつまみあげた。

猫は抗議するようにニャーと鳴いたが、彼は無視して無造作にケージに放り込み、その入り口を閉めた。

「小白!」

汀が慌てて、猫の方に手を伸ばす。
小白は汀の方に行こうとして、ケージの中で、檻部分に鼻を突っ込んでもがいている。

「猫で遊ぶのはお仕舞い。帰ってからまた遊べばいい」
「やだ! 小白も一緒に行くの!」

汀は、圭介を睨んで声を上げた。

「一緒に行くの!」
「我侭を言うな。元老院のお偉方も来るんだぞ」

「やだ! やだやだやだやだ!」

じたばたと駄々をこね始めた彼女をため息をついて見て、圭介は困ったように額を押さえた。
そして息を切らしている汀に、もう一度同じことを言う。

「元老院のお偉方も来るんだ。猫を連れて行くわけには……」
「小白が一緒に来なきゃ、私行かないもん!」

圭介の言葉を打ち消して、汀は大声を上げた。
こうなってしまっては、彼女は頑固だ。
圭介は一瞬、彼女を怒ろうと口を開いたが、すぐにそれを閉じた。
そして考え直して言う。

「……分かった。猫も連れて行こう」

「本当に?」

途端に顔をパッと明るくした彼女に、圭介は頷いてから言った。

「ただ、妙なことをしたらすぐに帰るからな」
「圭介、だから私圭介のこと好き」

圭介はそう言われ、汀から顔をそらした。
そして小白のケージの前にしゃがみこみ、猫を凝視する。
青い瞳の猫は、ニャーと威嚇するように彼に向かって鳴いた。

一瞬、圭介が何かを思いついた、という表情をして、口の端を吊り上げてニヤリと笑う。
汀はモゾモゾと動き出し、タンスから自分の服を取り出していたので、そのどこか邪悪な表情は見ていなかった。

「ああ、そうだな」

生返事を返し、圭介はケージの入り口を開けて、手を伸ばし、小白の首筋をむんずと掴んだ。



「遅くなりました」

圭介が車椅子を押しながら、長テーブルが置かれた広い会議室に足を踏み入れる。
既に、彼女達以外の人はそろっているらしく、水と資料が置かれた空間には、何も言葉がなかった。
汀は小さく肩をすぼめて、体を丸めている。
顔を上げようとしない。
その胸には、しっかりと、リードをつけられた小白が抱かれている。
リードの反対側は、汀の右手首に結ばれていた。
コツ、コツ、と万年筆でテーブルを叩いていた議長席に座っている老人が、二人を一瞥して、そして汀の抱いている猫に目を留めた。
しばらくそれを凝視する。
入り口で止まった車椅子の上で、汀は伺うように、チラッとその老人を見た。
そして慌てて、怯えたように視線をそらして小白を抱く。

老人は万年筆でテーブルを叩くのをやめると

「はじめよう。高畑医師と、マインドスイーパーは、そこの空いている席に」
「かしこまりました」

圭介が頷いて、汀の車椅子を、老人と対角側に移動させる。
老人が、沢山いた。
全員鋭い表情で汀を注視している。
そして老人の隣に、喪服を着た女性が座っていた。
女性は立ち上がると圭介に向けて会釈をした。

しかし、自分を見ようとしない俯いた汀を見て、言い淀み、議長席の老人に向かって声を発する。

「あの……マインドスイーパーというのは……」
「あそこにいる白髪の子供です」
「そんな……まだ、小さな……」
「特A級スイーパーです。無用な発言は慎んでいただきたい。お座りになってください」

女性に座るように促し、老人は圭介に向けて言った。

「高畑医師。君の上げている業績を、我々は高く評価している。今この場に、同席してくれたことを、まず感謝しよう」

そこで小白が、眠そうに、ニャーと汀に向かって甘えた声を発した。
老人達が顔を見合わせる。
圭介はその様子を気にした風もなく、頭を下げた。

「こちらこそ」
「資料は、事前に説明したとおりだが、一応形式として用意させてもらった。読んでくれたまえ」
「かしこまりました」

頷いて、圭介は目の前に置かれた分厚い資料にパラパラと目を通した。
そして写真と経歴が載っているページに目を留めた。
まだ若い青年の写真が載っている。

汀がそこで頭を上げて、写真を見た。
そして圭介に向かって小さく囁く。

「私知ってる。この人、この前死刑判決が出た人だ」

汀の細い声を聞き、喪服の女性が老人達を見る。
老人達は、汀の手の中で眠っている猫を見て不快そうな顔をしていた。

「黙ってろ」

圭介はそう言って、いきなりページを閉じた。
汀が叱られた子供のように、しゅんとして肩をすぼめる。

「今回のクライアントは、こちらの秋山早苗女史だ」
「知っています」

資料を自分の方に引き寄せ、パラパラと目を通しながら、圭介は議長席の老人に向けて言った。

「テレビでも随分と報道されましたから」
「話が早くて助かる。高畑医師には、今回、秋山女史の依頼を受けていただくことになる。よろしいか?」
「お受けしましょう」

会議室がざわついた。
老人達が全員、信じられないと言った表情で顔を見合わせ、何事かを囁きあう。

議長席の老人が、コツ、コツと万年筆でテーブルを叩いて、彼らを黙らせてから言った。

「意外だな。もう少し話を聞かなくてもいいのか?」
「お受けすると言っただけです。それ以上でもそれ以下でもありません」

圭介はそこで息をついて、資料を見終わったのか、目の前に放った。

「まずは、ご指名いただきました幸運に、心から感謝を述べさせていただきましょう。光栄です」
「光栄……か。君の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかったよ」
「先ほどから、随分と私情を挟まれる。私は医者としてここにいます。仕事をお受けすると言っただけです」
「そうか……そうだな」

頷いて、老人は続けた。

「今回のダイビング(治療)は、マスコミにも大きく報道されている。注目されている一件だけに、失敗は許されない。その意味は、理解していただけるな」
「はい」
「…………」

汀が更に小さくなり、ぎゅっ、と小白を抱く。

「よろしい。最初から説明を始めよう」

彼はそう言って資料を開いた。

「患者は、中島正一。二十八歳。無職。知っての通り、先日死刑判決が出た。最高裁への上告は、棄却されている」

圭介は興味がなさそうに、手を組んで言った。

「我々に、その死刑囚を救えと?」

「ああ、そうだ」

老人が、ゆっくりと頷く。

「三日前に自殺病を発症。現在、第六段階にまで差し掛かっている。赤十字のマインドスイーパーが三人、ダイブを試みたが、いずれも失敗に終わっている」
「失敗の要因は?」
「攻撃性のあまりの強さに、撤退を余儀なくされた」
「統合失調症ではないようですが」
「……第六段階を治療できるマインドスイーパーを保有していない。それを、私の口から言わせたいのか」

苦そうにそう言った老人に、圭介は柔和な表情のまま返した。

「まぁ、いいでしょう。それで、この場にこの子を呼んだ理由を教えていただきたい」

老人達がざわつく。

「余計な既成概念を入れると、ダイブに影響が出てきますので、早めに引き取りたいのですが」
「分かっている。こちらの秋山女史たっての希望だったのだ」

老人に促され、秋山と呼ばれた喪服の女性は、頷いて、潤んだ目を圭介に向けた。

「……娘は、中島に拷問され、殺されました」

勝手に喋りだした彼女を、圭介は一瞬だけ眉をひそめて見た。

「中島を助けてください」

秋山は頭を下げた。

「どうか、どうか助けてください」

彼女が握り締めているハンカチが、ギチ、と音を立てる。

「どうしてですか?」

圭介が、穏やかにそう聞いた。
何を聞かれたのか分からない、と言う表情で秋山が彼を見る。

「放っておいても死にます。死刑を執行させたいがためだけに助けたいのですか?」
「…………」
「娘さんを殺した殺人犯に、法の鉄槌を下したいがためだけに、助けたいのですか?」
「それの何が悪いんですか!」

ドンッ! とテーブルを叩いて、秋山が金切り声を上げた。

汀がビクッと体を震わせ、抱いていた猫が怯えて、彼女の服にもぐりこむ。

「娘が殺されたんです! 私の、たった一人の娘が! なのにその犯人が……やっと捕まえた犯人が、自殺病で勝手に死んでしまうなんて……」
「…………」
「これ以上理不尽なことってありますか? ありませんよ、ええありませんとも! 法の鉄槌を下したくて、何が悪いんですか!」

女性の声がしばらく会議室に響き渡っていた。
圭介は黙ってそれを聞いていたが、やがてクッ、と口元を押さえて、小さく笑った。

「何がおかしいんですか!」

掴みかからんばかりの剣幕の彼女に、彼は言った。

「あなたは法の鉄槌を下したいんじゃない。ただ単に、自分の中の鬱積した鬱憤を晴らしたいだけだ」

そう言って、圭介は冷めた目で秋山を見た。

「人はそれを、自己満足と言うんですよ」
「自己満足で何が悪いんです? 何がおかしいんですか!」

殆ど絶叫に近かった。
体を丸めて小さくなっている汀を一瞥して、彼女は高圧的に言った。

「あなたは仕事を請けるといいました。でも、それ以上私と娘を辱めると言うなら……」
「別に辱めてはいませんよ。思ったことを口に出したまでです。気に障ったのなら謝罪しましょう。そういう性格なので」

頭を下げずにそう言い、圭介は冷めた目のまま、微笑んでみせた。

「それに、レベル6を治療できるのは私達だけです。私は、『だから』仕事を請けることを決めました。あなたの個人的感情など、極めてどうでもいい」

切り捨てられ、秋山は呆然とその場に立ち尽くした。
そこで議席の老人が咳払いをし、圭介を見た。

「高畑医師。口が過ぎる」
「あなた方は根本的な勘違いをしていらっしゃる」

そこで圭介は、周りを見回し、秋山に目を留めた。

「自殺病にかかった者は、決して幸福になることは出来ません。そういう病気なのです。助ける、助けないはその人の主観に過ぎません」

「それは俗説だ」
「事実です」

メガネを中指でクイッと上げ、彼は続けた。

「ですが、請けましょう。報酬は指定額の三倍いただきます」

老人達が眉をひそめる。
議席の老人が、一拍置いてから聞いた。

「何故だ?」
「マインドスイーパーに余計な知識が吹き込まれてしまいました。診察費も、危険手当もいただかなければ、割に合いませんので」

「…………」
「それに、私の論文の学会発表の件も、宜しくお願いいたします。こちらから提示する条件は、以上です」

圭介はそう言って、資料を脇に挟んで立ち上がった。

「それでは、この子は一旦退席させます。秋山さん、マインドスイーパーに余計なことを吹き込もうとするのは、規定違反です。罰則を受けていただきます」

秋山が、一瞬間をおいてから、怒りで顔を真っ赤にする。

「何を……」

それを、手を上げて制止し、圭介は汀の車椅子を掴んだ。

「一旦失礼します」



会議室を出たところにある、中庭の隅で、汀は眠っていた。
木陰になっていて、爽やかな風が吹いてくる。
丁度日を避けられる場所に、圭介は車椅子を設置したのだった。
小白も、汀の手の中で、丸くなって眠っている。
汀は耳に、自分のiPodTouchから伸ばしたイヤホンをつけていた。
そこからは、流行の女の子達のユニットが歌っている歌が、やかましく流れている。



汀は白いビーチに座っていた。
白い水着を着て、波打ち際で足をぶらぶらとさせている。
そこがハワイだ、と分かったのは、彼女が好きな女の子達のユニットが歌っている歌のPVを、事前に見ていたからだ。
撮影場所は、確かハワイのはずだ。

辺りには誰もいない。
汀は立ち上がって、静かにひいては返す波に足を踏み入れ、その冷たい感触に、体を震わせて笑った。
カンカンと照っている太陽で、肌がこげるのも構わず、波音を立てて海に、背中から倒れこむ。

新鮮なその感覚に、汀は水に浮かびながら満足そうに息をついた。
そこで、ニャーという声がした。
汀が目を開くと、自分の体の上に、白い子猫が乗っているのが見えた。

「小白、あなたも来たの?」

驚いてそう問いかけると、小白はまた、ニャーと鳴いて、汀の腹の上で小さくなると、恐る恐る水に手をつけた。
そしてビクッとして手を引っ込める。

「びっくり。猫って夢と現実の世界を行き来できる生き物だって言うことは知ってたけど、実際にそんな例を見るのは初めてだよ」

ニャーと小白は鳴くと、また恐る恐る汀の腹の上から、水に手をつけた。

「大丈夫だよ」

そう言って、汀は小白を抱き上げると、体を揺らして立ち上がった。
小白はまたニャーと鳴くと、汀の肩の上に移動した。
そしてマスコットのように、そこにへばりつく。

「でも、何しに来たの? 一人でいるのは、やっぱり不安?」

問いかけて、汀は波打ち際の砂浜を、特に何をするわけでもなく、ブラブラと歩き始めた。
ニャーと鳴いた小白に頷いて、彼女は続けた。

「そうだよね。一人でいると、不安だよね。私も、圭介がいてくれなきゃ、おかしくなってると思うんだ」

足元の砂を、ぐりぐりとつま先でほじり、汀は呟くように言った。

「圭介には、感謝してるんだ……」

特に、小白の反応はなかった。
また歩き出し、汀は言った。

「今度の患者さんって、死刑囚なんだって。女の人を、拷問して殺したんだって。そんな人の精神構造って、どうなってるんだろう。ね、考えただけでワクワクしない?」

ニャーと小白が鳴く。

「あなたにはまだちょっと、早かったかな」

首をかしげて汀は続けた。

「沢山の人が、私に注目してる。あの頃から考えると、信じられないことなんだ」

彼女がそう言った時だった。

突然、脇に生えていた椰子の木から、ボッと音を立てて炎が吹き上がった。

「きゃっ!」

驚いて汀がしりもちをつく。
そして彼女は、小白を抱いて

「まただ……」

と呟いた。

「逃げるよ!」

悲鳴のように叫んで、彼女は走り出した。
無限回廊のように立ち並ぶ椰子の木に、次々と炎がついていく。
次いで、空に浮かんでいた太陽が、ものすごい勢いで沈み、あたりが暗くなった。

空に、赤い光がともる。
しかしそれは太陽の光ではない。
何かが燃えている。
灼熱の、光を発する何かが炎を上げて、空の中心で燃えていた。
熱い。
暑い、のではない。
体をジリジリと焦がすほどに、周囲の気温が上がりはじめた。
次いで、爽やかな色を発していた海が、途端にヘドロのような色に変わり、ボコボコと沸騰し始める。
夏のビーチは、あっという間に地獄のような風景に変わってしまっていた。
汀は、体を焦がす熱気に耐え切れず、小白を抱いたまま、しゃがみこんで息をついた。

「やだ……やだよ……」

首を振る。

「圭介! 助けて、圭介!」

顔を上げた汀の目に、たいまつを持った人影が見えた。
熱気で揺らめくビーチの向こう、二十メートルほど離れた先に、たいまつを持った男……何故か、ドクロのマスクを被った男が、反対の手に薄汚れたチェーンソーを持って、それを引きずりながら、近づいてくる。

「圭介!」

居もしない保護者の名前を呼んで、汀は泣きながら、はいつくばって逃げ始めた。

「やだ、来ないで! こっち来ないで!」

ドルン、と音を立ててチェーンソーのエンジンが起動し、さびた刃が高速回転を始める。

「やだ怖い! 怖いよぉ! 怖いよおお!」

絶叫して、汀はうずくまって目を閉じ、両耳をふさいだ。
ドルン、ドルンとチェーンソーが回る。
ザシュリ、ザシュリ、と男が足を踏み出す音が聞こえる。
そこで、汀は

「シャーッ!」

という声を聞いた。

驚いて顔を上げると、そこには全身の毛を逆立て、汀と男の間に四足で立ち、牙をむき出している子猫の姿があった。

「小白、危ないよ。こっちおいで、逃げるよ。小白……!」

おろおろと、汀がかすれた声で言う。
男は、さして気にした風もなく、また足を踏み出した。

「シャアアーッ」

小白が威嚇の声を上げた。
途端、白い子猫の体が、風船のようにボコッ、と膨らんだ。
それは、唖然としている汀の目の前でたちまちに大きくなると、
体高五メートルはあろうかという、化け猫のような姿に変わった。

小白が、汀の体ほどもある牙をむき出して、威嚇する。

「小白、駄目!」

汀が叫ぶ。
そこでドクロマスクの男は、たいまつを脇に投げ捨て、
チェーンソーを振りかぶって小白に切りかかった。
化け猫の眉間にチェーンソーが突き刺さり、回転する。
しかし、小白はそれに動じることもなく、額から血を噴出させながら、頭を振り、巨大な足で、男を吹き飛ばした。
人間一人が宙を舞い、燃えている椰子の木の群れに頭から突っ込む。

小白はニャーと鳴くと、震えて動けないでいる汀のことをくわえて持ち上げ、男と逆方向に走り始めた。

『汀!』

目をぎゅっと閉じた汀の耳に、どこからか圭介の声が聞こえた。
汀はそこでハッとして、自分をくわえて走っている小白に言った。

「圭介だ! 目を覚ますよ。小白もついてきて!」

目の前に、突然ボロボロの、木の板を何枚も釘で打ちつけた奇妙なドアが現れる。

それがひとりでに開き、中の真っ白な空間が光で周囲を照らした。
背後でチェーンソーの音が聞こえる。
振り返った汀の目に、人間とは思えない速度で、こちらに向かって走ってくる男の姿が映った。
小白は、それに構うことなく、誰に教えられたわけでもないのに、明らかに小さなそのドアに頭を突っ込んだ。
ポン、という音がして、汀が宙に投げ出される。
ドアの中の白い空間に、汀と、小さな姿に戻った小白が飛び込む。
そこで、彼女らの意識はホワイトアウトした。



「汀、起きろ。大丈夫か、おい、汀!」

切羽詰ったような圭介の声が聞こえる。
汀は真っ青な顔で、ものすごい量の汗を流しながら、目を開けた。

「け……圭介……?」
「すぐにこれを飲め。早く!」

圭介が、いつになく慌てて、汀の耳のイヤホンを引き剥がし、彼女の口に錠剤をねじ込む。
ペットボトルのジュースと一緒に、苦い薬が体の中に流し込まれる。
続いて圭介は、汀の右手を掴んで、ポケットから出した小さな注射器を静脈注射した。

「落ち着け。ここは現実の世界だ。俺がついてる。分かるな?」
「ここ、どこ……?」

はぁはぁと荒く息をついて、汀がそう聞く。
彼女の右手を、両手で強く握ってしゃがみ込み、圭介は言った。

「元老院だ。お前、俺が渡した薬を飲まずに寝たな? 何回繰り返せば気が済むんだ!」

怒鳴られ、汀は力なく頭を振った。

「……覚えてない。分かんない……」
「…………ッ」

忌々しげに舌打ちをして、圭介は深く息をついた。

「……少し目を離すとこれだ」

そこで、汀の服にもぐりこんでいた小白が顔を出し、圭介の手に噛み付いた。

「痛っ!」

小さく言って、圭介が慌てて汀から手を離す。

「ニャー」

小白が威嚇するように鳴く。

「この猫……!」

噛まれたところから血が出ている。
しかし汀は、小白を弱弱しく抱いた。

「ぶたないで……小白が、助けてくれたの……」
「…………」

圭介は傷を揉んで止血すると、頭を抑えてため息をついた。

「しばらく寝るな。俺がいいというまで起きてるんだ。できるな?」
「…………うん」
「帰るぞ。その生意気な猫も一緒にな」
「猫じゃないよ……小白だよ……」

そう言って、汀は小白の小さな体を、ぎゅっ、と抱きしめた。



次の日、汀は頭をふらふらさせながら、車椅子に乗っていた。
それを押しながら、圭介が半ばノンレム睡眠状態に入っている汀を、息をついて見る。
赤十字病院の入り口には、多数の報道陣が待ち構えていたため、裏口から入って、今、施術室へと向かっているところだ。
報道陣も、顔を出すことのないマインドスイーパーの姿を捉えようと必死だ。

早く施術室に汀を誘導したかったが、当の彼女が、単純に「寝不足」のために体調が不良であることに、圭介は頭を悩ませていた。
道具と一口に言っても、やはり人間は人間だ。
それに、汀は普通の女の子ではない。
そう、普通ではないのだ。

施術室の前には、大河内をはじめとした、多くの医者が集まっていた。
大河内がふらふらしている汀を見て、一瞬顔を青くする。

「汀ちゃん!」

声を上げて近づいた彼を制止して、圭介は周りを見回した。

「すぐにダイブに入ります。患者の容態を見るところによりますと、もう猶予がありません」
「…………容態は深刻だ。先ほど、事態が急変した」

大河内がそう言って、圭介と汀を施術室の中へと誘導した。
医師たちが、顔を見合わせて心配そうな表情をしながら、大河内の後に続く。

「急変とは?」

圭介が聞くと、大河内は機械的にそれに返した。

「赤十字のマインドスイーパーが二人やられた。患者も、このままステる(死亡する)確立が高い」
「マインドスイーパーがやられた時間帯は?」
「つい先ほどだ」

圭介達の脇を、鼻や口から血を流している少年と少女が、担架で運ばれていく。
大河内は歯を噛みながらそれを見送り、忌々しそうに呟いた。

「……精神世界で殺されると、現実の肉体にも多大なる影響が及ぶ。あの子達は、もうマインドスイープ出来ないかもしれない」

「無駄話をしている暇はない。早く準備に取り掛かかってください」

圭介は大河内の声を打ち消し、固まっている周囲に向けて、淡々と声を上げた。

「何をしているんです? レベル6の患者の治療には、皆さんの協力が要ります。患者に鎮静剤を投与してください。麻酔の量を二倍に。早く!」

圭介が、施術室のベッドに縛り付けられてもなお、ガタンガタンとそれを揺らしながら暴れている患者……死刑囚を見て、声を荒げる。
そこで、彼の隣に腰を下ろしてマスクを被っていたマインドスイーパー……十五、六ほどの男の子の口から勢い良く血が噴出した。

「三番、やられました! ダイブ続行不可能です!」
「すぐに回線を切れ! 一緒に引きずり込まれるぞ!」

中で医師や看護士達が、大声で喚いている。
吐血した少年は、ダラリと椅子に脱力すると、そのまま崩れ落ちた。

「ダイブ中のマインドスイーパーを、全員帰還させてくれ。邪魔だ」

大河内に圭介が耳打ちする。
それに対し、大河内は苦々しげに言った。

「駄目だ。意識的境界線が張られていて、元に戻れないらしい」
「どうして俺達の到着を待たなかった?」
「お前達こそ、施術予定時間を三時間も遅れてどうした? それに、汀ちゃんが到底、ダイブできる状態だとは思えない」

「できるさ。秘策を持ってきた」
「秘策?」

圭介はそこで、車椅子の後ろ部分に取り付けてあった小さなケージをあけ、中から小白をつかみ出した。

「ニャー」

鳴いた猫を呆気に取られて見て、大河内は声を荒げた。

「猫だと? お前、そんな科学的根拠のないまやかしに任せるって言うのか?」
「まやかしじゃない。偶然かどうか分からないが、この猫にはマインドスイーパーの素質があるらしい。最低でも汀の盾くらいにはなる」
「ふざけるなよ! レベル6の患者の治療に当らなきゃいけないんだぞ! それをお前は……!」
「無駄話をしている時間はないと言っただろう」

大河内を押しのけ、圭介は汀を暴れている死刑囚の隣の機械の前に設置した。
そして何度か彼女の頬をぴたぴたと叩く。

「起きろ、汀。起きるんだ」
「…………起きてるよ…………」
「これから治療を始める。出来るな?」
「……」
「汀?」
「…………できるよ」
「よし。今日はいいものを持ってきた」

そう言って圭介は、汀の手首に、小白の首に繋がっているリードを結んだ。

そして小白を彼女に抱かせる。
猫はすぐに汀の膝の上に丸くなると、顔を上げて、ニャーと甘えた声を出した。
それを見て、とろとろとした表情だった汀が、笑顔になる。

「小白も、一緒に行く?」

問いかけられ、猫はニャーと鳴いた。

「これは私達に対する冒涜だぞ、高畑」

大河内が肩を怒らせてそう言う。
圭介はそれを無視し、汀の耳にヘッドセットをつけると、マスク型ヘルメットを被せた。

「時間は十五分でいいな?」
「…………うん…………」
「端的にこの患者について説明しておく。まずは……」
「………………」

すぅ、すぅ、と言う寝息が聞こえる。
圭介は慌てて顔を上げ、声を張り上げた。

「五番、今すぐに接続してください! ダイブに入りました!」



汀は、いつもの病院服で暗い地下牢のような場所に立っていた。

「…………」

しばらく状況を理解できなかったのか、彼女はきょとんとして停止していた。
足元で、小白がニャーと鳴いた。
猫を抱き上げて肩に乗せ、汀は呟いた。

「どこ、ここ……?」

そこで、ボッと言う音とともに、壁の蝋燭に自然に火がともった。
薄暗かった部屋の中があらわになる。
そこは、錆と腐った血液、それと据えた何か生物的な悪臭が漂う、牢屋の中だった。

壁には磔台や、ソロバン型の器具、鞭、三角形の木馬など、大小さまざまな拷問道具が、綺麗に陳列されている。
部屋の隅には石造りの水槽があり、磔台が取り付けられた水車が、ガタン、ガタンと揺らめきながら回っていた。
しかし、それよりも異様だったのは、部屋の中、いたるところに白い糸がはびこっていたことだった。
触ると、粘って指に細い糸を引く。
まるで、蜘蛛の糸のようだ。
良く見ると、薄汚れた壁は、その糸が絡み合ってレンガのような形を作り上げているものだった。
鉄格子も、糸が寄り集まって出来ている。
十畳ほどの部屋の中を見回し、汀は、そこで思い出したかのように耳元のヘッドセットのスイッチを入れた。


「……圭介?」
『汀、時間がない。短く説明するから、すぐにその患者の中枢を見つけてくれ』
「私、ダイブしてるの?」
『そうだ。その患者はレベル6。死の一歩手前にいる。極めて危険な状況だ。精神構造も変化して、極Sランクの危険区域、変質形態Sの六乗と指定されてる。なるべく早くそこを出ろ』
「……分かった」

頷いて、汀は深呼吸して、足を踏み出そうとした。
そこで彼女は、ガチャリと音がしたのを聞いて、足元に目をやった。
汀の右足に、鉄枷がはまっていた。
鎖は壁に繋がっている。

汀は、何度かそれを引っ張って、動かないことを確認すると、ため息をついた。

「そう簡単にはいかないかも」
『どういうことだ?』

「捕まっちゃった。この人、対マインドスイーパー用のトラップを心の中に沢山設置してるみたいだね」
『極稀に、心への進入を許さない特異体質がいる。それがその患者だ。何とかしろ』
「最悪」

顔をしかめた汀の耳に、そこでズリ……ズリ……という何かを引きずる音が聞こえた。
小白が、毛を逆立ててシャーッ、と言う。

少しして、鉄格子の向こうに人影が見えた。
体中に包帯を巻いている。
全裸の男だ。
包帯の所々から血がにじんでいる。
男の手は、六本あった。
足も混ぜると、四肢ではなく、八肢だ。
わき腹から伸びた手で壁の糸を掴んで、
男はぐるりと向きを変え、汀の方を向いた。
その目、包帯から除く眼球がぎょろりと動き、口が裂けそうなほど広がる。
男は、四肢にそれぞれ、束にした三、四本ほどの包丁を持っていた。
黒いビニールテープで、包丁が無造作に束ねられている。

「トラウマを見つけたよ。見つけられたって言ったほうが早いかな?」

『すぐに離れろ』
「無理っぽい」

クスクスと笑って、拘束された汀は面白そうに言った。

「拷問って、一回受けてみたかったんだぁ」
『…………』

マイクの向こうの圭介が唾を飲んで、そしてため息をついた。

『……お前、俺を怒らせたいのか?』
「怒らないでよ……そんなつもりで言ったんじゃないよ」
『ならすぐに離れて、中枢を見つけてくれ』
「…………分かった」

シュン、として汀は男から目を離した。

男は鉄格子に手をかけた。
鉄格子がぐんにゃりと歪み、人一人通れそうな空間が開く。
そこから進入してきて、八肢の包帯男は、キキキ、と奇妙な声を上げた。

「折角だけど、私、おじさんの方が好みだな。若いと駄目」

そう言って、汀は強く、左腕を壁に叩きつけた。
ベコッ、とレンガのような壁が歪み、汀の足を拘束している部分が砕け散る。
足で鎖を引きずって、汀は笑っている男の方に足を踏み出した。

「それに、わざわざ好き好んで、嫌味そうなトラウマと戦うつもりもないし……ね!」

足を振って、鎖で男の顔面を殴りつける。
張り飛ばされ、男は簡単に床を転がり、壁にたたきつけられた。

汀は鎖を手で引きちぎり、それを脇に放り投げてから、鉄格子の空いた場所から外に出た。
そして、いくつも並んでいる牢屋の部屋の前を駆け出す。
少し行ったところに階段があり、その先のドアが開いていた。
そこに飛び込み、ゴロゴロと転がる。
起き上がった汀の目に、真っ暗な空が映った。
そこは、洋風の城の一角だった。
テラスになっていて、下が見えるようになっている。
近づいて下を覗き込むと、城は、ボコボコと泡立つ、ヘドロの海の中に建っていた。
どこまでも、果てしなくヘドロが続いている。
時々、トビウオのように、何か巨大なものが水面を跳ねるのが見えた。

いびつな城だった。
三角錐の屋根が所狭しと立ち並んでいる。
そこで、背後からキキキという笑い声が聞こえた。
振り返ると、包帯の八肢男が出てくるところだった。
否、一人ではない。
二人。三人。
四人。
合計四人の、同じ格好をした同じ背丈の男達が、綺麗に整列する。

そのうちの一人が、木造りの十字架に、両手両足を巨大な釘で磔にされた女の子を抱えていた。
女の子の手足は奇妙な方向に折れ曲がり、意識はないようだ。
汀と同じように、病院服を着ている。

「マインドスイーパーだと思うけど、見つけたよ。トラウマに捕まってる」

汀がそう言うと、マイクの向こうで圭介は少し考え込み、言った。

『救出できるか?』
「難しいんじゃないかなぁ」
『無理なら諦めて中枢を探せ』
「分かった」

淡々とやり取りをしている間に、蜘蛛男達が汀を取り囲む。
汀はそこで、十字架を担いでいる男に向き直り、ニヤァと笑った。

「何で近づいてこないの? ほら、私はここだよ」

パンパンと挑発的に手を叩いて、汀は言った。

「鬼さんこちら、手の鳴る方へ!」

男達が一瞬制止して、一斉に束ねた包丁を取り出した。
その目が円形に見開かれ、けたたましい絶叫を上げる。
凄まじい勢いで汀を囲む円が狭まり、彼女は振り上げられた包丁を、無機質な目で見つめた。
そこで小白が、シャーッ! と鳴き、汀の肩の上で、風船のようにボコリと膨らんだ。

「小白……」

驚いて呟いた汀を覆うように、小白はムササビを連想させる形に変形すると、彼女の代わりに全ての包丁を受けた。
しかしそれは突き刺さることなく、 キンキンキンキンと鉄にでもたたきつけたかのような金属質な音が響き渡る。

「凄いね小白! 私にはそんなことできないな!」

目の前の猫の頭をなで、汀は十字架を抱えている男を殴り飛ばした。
人一人が簡単に数メートルも吹き飛ばされ、壁にたたきつけられる。
転がった十字架を、女の子ごと拾い上げ、汀は外に向かって走り出した。
男達が絶叫を上げて追いすがる。
汀は、パラシュートのように広がった小白の両足を片手で掴んで、無造作に宙に体を躍らせた。
そこで、彼女達の意識は、ホワイトアウトした。



第4話に続く



お疲れ様でした。
次話は明日、5/8に投稿予定です。
本日は私の体調がすぐれないので、ここで失礼します。
m(_ _)m

小白すげえな

>>222
以降頼もしいパートナーになっていきます。
猫は一日の大半を夢の世界で過ごしますからね。

皆様こんばんは。
第4話の投稿をさせていただきます。



第4話 蝶々の鳴く丘で



圭介は、白衣のポケットに手を突っ込んだまま、病室をゆっくりと見回っていた。
その隣で資料をめくりながら、大河内が重い口を開く。

「こっちの区画は、もう駄目だ。お前の探してる適合者は、見つからないよ」
「駄目って、どの基準で駄目って言ってるんだ?」

問いかけて、圭介は感情の読めない瞳で、近くの病室を覗き込んだ。
ぼんやりと視線を宙に彷徨わせた女の子が、ベッドに横たわっていた。
鼻や喉にチューブが差し込まれ、いくつもの点滴台が設置されている。

「この子は?」

聞かれた大河内は、言葉を飲み込んでから答えた。

「……網原汀(あみはらなぎさ)、この病棟の中でも、特に重症な子だよ」

圭介は無造作に病室に足を踏み入れ、女の子に近づいた。
そして顔を覗き込む。
女の子に反応はなかった。
目を開いてはいるが、意識はないらしい。
人形のように顔が整った子だった。
その子の艶がかかった黒髪を撫で、圭介は言った。

「一番安定してるように見える」
「……バカを言うな。左半身と、下半身麻痺にくわえて、自殺病の第八段階を発症してる。もう長くはないよ」
「この子にしよう」

圭介は軽い口調でそう言うと、ポケットから、金色の液体が入った細い注射器を取り出した。

大河内が目をむいて口を開く。

「おい、高畑……本気か? 一番重症だって、さっき言っただろう。聞いていなかったのか?」
「狂っていればいるほど好ましい。第八段階? 最高じゃないか。それで、この子はそのまま何日生きてるんだ? いや……『生かされて』るんだ?」
「…………」
「答えろよ、大河内」
「…………三十七日だ」
「取引をしよう」

圭介はそう言って、女の子の点滴チューブの注入口に、注射針を差し込んだ。
そして大河内が止める間もなく薬品を流し込む。

「この子をもらっていく。その代わり、お前はこの子の過去を全て消せ」
「GMDが効くかどうかも分からないんだぞ! それに、もう長くはないと……」
「効くさ。そのために開発されたクスリだ」

淡々とそう言って、圭介はポケットに手を突っ込んだ。
そして背を向けて、病室の出口に向けて歩き出す。

「意識が回復したら、連絡をくれ」



汀と小白が目を覚ました時、彼女達は、ゆっくりと落下しているところだった。
小白がまるでパラシュートのようになって落下速度を低減しているのだ。

「猫って凄いねぇ。夢の世界では、私より無敵なんだ」

感心したようにそう呟いて、汀は下を見た。
何かが、草のように、果てしなく続く荒野の中突き立っていた。
真っ赤な夕暮れ景色に、光を反射して煌いている。
それは、日本刀だった。
柄の部分が土に埋まり、ぎらつく刃を上に向けている。

「……攻撃性が強すぎるよ」

呆れたように言って、汀はまだ磔にされている状態の女の子に構うことなく、十字架を下に向けた。

ゆっくりと落下していって、十字架の木が、日本刀の群れに切り裂かれながら、地面と垂直に着地する。
汀は十字架の上に、器用にしゃがみこんでいた。
ポン、と音がして小白が元の小さな猫に戻る。
猫が右肩にへばりついたのを確認して、汀は、もう少しで日本刀の群れに串刺しにされそうになっている、磔られた女の子に声をかけた。

「起きて。ね、起きて。もしかして死んでる?」

手を伸ばしてパシパシと女の子の顔を叩く。

「起きて」
「…………ッ!」

そこで意識が覚醒したのか、女の子は激しくえづいた。
グラグラと十字架が揺れる。

その上で器用にバランスを取りながら、汀は面白そうに続けた。

「拷問されたの? ね? どんな感じだった?」
『汀、赤十字のマインドスイーパーを救出したのか?』

マイクの向こうの圭介に問いかけられ、汀はヘッドセットの位置を直しながら、首をかしげた。

「うーん……助けたというか……助かってないというか……」
『どっちだ。はっきりしろ』
「動けないの。刀がいっぱいある」
『その子だけ帰還させることはできるか?』
「異常変質区域の中にいるから、無理だよ」
『なら見捨てて、お前と小白で中枢を探せ』
「…………」

汀はそれに答えず、周囲を見回した。

『汀?』

問いかけられ、汀は刀で体を切らないよう、注意して地面に降り立った。
そして手近な一本を手に取り、周囲の刀をなぎ払う。

「連れて帰るよ」

そう言った彼女に、一瞬沈黙してから圭介は言った。

『手負いなんだろう。無理だ。時間も残り少ない』
「だからって、置いていけないよ」
『いいか汀。お前の仕事は何だ?』

汀は少し考え、また近くの刀を、自分が持った日本刀でなぎ払った。

「人を、助けることだよ」

はっきりとそう言う。

圭介はまた少し沈黙してから、言った。

『……分かった。なら好きにしろ』
「好きにするよ?」
『ああ。でも、危ないと思ったらすぐに見捨てて中枢を探せ』
「もう危ない状況なんだけど……まあいいや」

ボコボコと地面が波打ち、汀を取り囲むように競りあがった。
一……二……三。
合計十三体の包帯を巻いた蜘蛛男の姿を形取り、それが先ほどまで彼女達を取り囲んでいたものと同じように、刀の群れの中を、体が切り刻まれるのもいとわずに動き出した。
切り傷がつくたびに、悲痛な声を上げる男達。
だが、その顔は笑顔だ。
とても嬉しそうに、悲鳴を上げている。

手に持っていた包丁を、それぞれ脇に放り投げ、手近な刀を、六本の腕に持つ。
刀と、刀を持った男達に取り囲まれ、汀は日本刀を構えて周囲を見回した。
そして、まだ磔られている女の子に、厳しい声で言う。

「起きなさい。あなたもマインドスイーパーなら、少しは私の役に立って」
「あなたは……」

か細い声でそう言うと、女の子は体中の痛みに、小さく声を上げた。
まだ、両足と両手の平が釘で木に打ち付けられており、血が流れ出ている。

「なぎさちゃん……?」

呼びかけられ、汀は怪訝そうに振り返った。

「なぎさ?」
「なぎさちゃんだよね……? あたし、岬(みさき)だよ。覚えてる? あたしだよ……!」

汀よりも少し年上の、どこか赤みがかったショートの髪の毛の女の子――岬は、青ざめた顔のまま、汀にそう言った。
汀は彼女から視線をそらして、近づいてくる蜘蛛男達を睨んだ。

「今トラウマに囲まれてるの。お話はあとでしよう。あと、悪いけどあなたのことは覚えてない。てゆうか知らない」
『チッ』

耳元のヘッドセットから、圭介が小さく舌打ちをしたのが聞こえた。

「どうしたの圭介?」

問いかけると、彼は一拍置いてから、何でもないことのように言った。

『いや、こっちの話だ。それより、トラウマに囲まれてると言ったな。そこはどこだと思う?』
「異常変質心理壁であることは間違いないと思うけど……中枢どころか、心の外壁にさえたどり着いてないことは確かだよ。十五分じゃ間にあわないと思う」

『間に合わせろ』
「……最悪」

毒づいた彼女の目に、後方の平原が、空ごと……つまりその空間そのものが、ブロック状になって、下方に向かって崩れ落ち始めたのが見えた。

「……訂正。間に合わせなきゃ。精神構造の崩壊が始まったよ。この人、もうじき死ぬね」
『知ってる。承知の上での治療だ』

そこで、汀の右後方の男が奇声を上げて宙に飛び上がった。
実に二、三メートルもふわりと浮き上がり、六本の刀で汀に切りかかる。
汀は、おぼつかない手つきでそれを一閃して弾いたが、小さな体が押されて後ろに下がる。
そこで、突き立っていた刀で背中をしたたかにこすってしまい、彼女は

「痛っ!」

と叫んで、一瞬硬直した。
背中からたちまち血が溢れて、流れ落ちる。

『どうした?』

圭介に対して

「何でもない。大丈夫!」

そう答えて、汀はまた切りかかってきた男の刃を避け、地面を転がった後、少女とは思えない動きで一気に間合いを詰めた。
そして男の首に、日本刀を突き立てる。
頚動脈を一瞬で切断したらしく、日本刀を抜いたところから、凄まじい勢いで血液が噴出し、汀に降りかかった。
返り血でドロドロの真っ赤になりながら、汀はトドメとばかりに男の胸に、もう一度刃を突き立てた。
それを抜くと、蜘蛛男の一人はビクンビクンと痙攣しながら、その場に仰向けに倒れた。
突き立っていた刀の刃が、後頭部から口に貫通して串刺しにする。
十二人になった男達は、血まみれの汀を見て、楽しそうに笑い声を上げた。
切られた蜘蛛男の体が、粘土のように溶け、地面に流れる。

それが、今度は二人の蜘蛛男の形をつくった。
一人から、二人に増えて十四人。

「キリがない……」

毒づいた汀の肩で、小白が威嚇の声を上げている。
そこで、地面に崩れ落ちた岬の声が聞こえた。

「なぎさちゃん、助けてくれてありがとう……早く、ここを抜けなきゃ……」
「私はなぎさなんて名前じゃないよ。それに、そんなこと言われなくても分かってる」

冷たくそう返し、汀は、無理やり足から釘を引き抜いている岬を見た。

「歩ける?」
「何とか……」
「トラウマと戦ってもキリがないから、逃げたいんだけど時間がないの。この世界はもうすぐ崩壊するし」

汀達の、数十メートル先の空間が、ブロック状になって崩れ落ちる。

「とりあえず、無理にこじ開けるしかなさそうだね……!」

汀はそう言って、足元の地面に刀を突き立てた。
男達が、その瞬間同時に絶叫した。
血走った目を丸く見開き、彼らがゆらゆらと揺れた後、同時に汀に切りかかる。
汀は、抵抗のある感触を感じながら、ズブズブと刃を根元まで押し込んだ。
そして力任せに、地面から飛び出た柄を踏み込む。
男達がまた絶叫し、汀が刀を突き立てた部分からおびただしい量の血液があふれ出す。
それを見た岬が、青い顔を更に真っ青にした。

「な……何してるの? 心理壁を直接傷つけたら、この人の体にどんな障害が残るか……」
「どうせ死ぬんだから関係ないよ」

そう言って、汀は血の出ている部分に足をたたきつけた。

ボコッと地面が歪み、ブロック状に抜け落ちる。
その先は、真っ黒な空間になっていた。
岬は、荒く息をついて涙を流しながら、折られた腕の骨を、力任せに元にはめているところだった。
彼女のもう片方の手を掴み、汀は言った。

「行くよ。逆にこっちが死ぬかもしれないけど、まぁそれって、運命だよね」
「割り切ってるね……」
「言われるまでもないよ」

軽く微笑んで、汀は岬を先に穴の中に投げ入れ、小白を抱いた。
彼女達は、ブロック状に空いた穴の中に飛び込んだ。
その瞬間、男達を飲み込むように、空間が崩れ落ちる。
彼女達の意識は、またホワイトアウトした。



気がついたとき、彼女達は打って変わって爽やかな、小鳥がさえずる丘の上に立っていた。
岬が体の痛みに耐え切れず、足元の草むらに崩れ落ちる。
彼女を一瞥してから、汀は木が立ち並んでいる丘を見回した。
蝶々が沢山飛んでいる。
それぞれ色や大きさは違ったが、共通していたことは、紙で出来ていたということだった。
近くの蝶々を一匹捕まえて、汀はそれを握りつぶした。
途端、周囲に青年の悲痛そうな声が響き渡った。

<僕はやってない! 僕は違うんだ。頭の中の人が命令したんだ!>

くしゃくしゃになった蝶々を広げてみる。
そこには、血液のようなもので雑に、先ほど流れた音声と同じものが書かれていた。
汀はそれを脇に放ると、もう一匹蝶々を捕まえようと、その場をはねた。

『汀、どうだ?』

圭介に問いかけられて、汀は言った。

「ダイブ、心理壁の中に進入成功したよ。」
『トラウマに囲まれてたんじゃなかったのか?』
「この人の心理壁を壊しちゃった。どうせ自己崩壊してる途中だったから」

それを聞いて、圭介は一拍置いてから深くため息をついた。

『お前……』
「廃人になるね。この人」

何でもないことのように言って、汀は面白そうに、紙の蝶々に囲まれながらくるくるとその場を回った。

「でも、いいじゃない。どうせ死刑で死んじゃう人だよ?」

『…………』
「圭介?」
『治療を続けろ。いいか、お前は人を救うんだ。そのためにダイブしてるんだ。分かるな?』
「圭介、私思うんだけどさ」

そこで汀は、ヘッドセットに向かって、困ったような顔をした。

「死刑で殺される人を治して、それで、救ったって言えるのかな?」
『ああ。お前は余計なことを考えず、救えばいいんだ』
「圭介、それは違うよ」

汀は淡々とそう言った。

「助けない方がいいよ、この人」

また近くの蝶々を一つ掴んで、握りつぶす。

<うるさい! うるさい! 僕は殺すんだ! あの女を……僕を笑った女を! 殺してやる! 殺してやる! 殺してやる!>

『どうして?』

圭介に聞かれ、汀は答えた。

「だって、屑は死んでも治らないもの」
『…………』

圭介はしばらく考え込んでいた。
が、断固とした口調で彼は言った。

『治せ』

汀は、また一つ蝶々を握りつぶした。

<誰も僕を分かってくれない、誰も僕を分かろうとしない。誰も彼もが僕を見下すんだ。僕は……僕は……>

そこで、突然木々の間に蜘蛛の巣が出現した。
蝶々達が、次々と網にかかっていく。

<僕は……僕は……僕は……>
<殺してやる! 殺してやるんだみんな!>
<血……ひき肉……>
<興奮する。絶叫を聞くと>
<僕を拒絶する声を聞くと、僕は生きている実感を得ることが出来るんだ>
<だから鳴いてよ。もっと、もっと鳴いて>
<誰か僕を分かってよ! 僕はここにいるよ!>
<どうして誰も分かってくれないんだ! 父さんも、母さんも……>
<僕は……! 僕は!>

<僕は、誰だ?>

最後の呟きは、ぐわんぐわんと丘に反響して消えた。

蝶々達は、動きを止めていた。
おびただしい数の蜘蛛が、カサカサと動いて蝶々達を食べ始める。
蜘蛛も、紙で出来ていた。

「この人は自壊を選択してる。生きてても、自分のことが何だか分からなくなってるよ」
『でも、治すんだ』
「どうして?」
『……俺達が、医者だからだ』
「医者?」
『医者は人を治す。それが、人を救うということだ。お前は目の前のことしか見ていない』
「…………」
『汀』

圭介は、彼女の名前を呼んで、優しく言った。

『人を、救いたいんだろう?』
「…………」

『沢山の人を、お前の手で救ってやりたいんだろう?』
「…………」
『目の前だ。そのチャンスを、お前の手で掴め。それは、お前の「踏み台」だ。それ以上でも、それ以下でもない』
「私……私は……」
「なぎさちゃん!」

そこで、うずくまっていた岬が大声を上げた。
ハッとした汀の足元に、紙の蜘蛛の大群が迫ってきていた。
岬が這って逃げようとしている。
小白は、汀の肩の上で、シャーッ! と毛を立ててうなった。

「貴方達が欲しいのは、これ?」

汀がニコリと笑って、蜘蛛達の前に、閉じていた右手を開いた。

そこには、いつの間に捕まえたのか、虹色の羽をした蝶々が一匹、握りこまれていた。

「あげてもいいよ」

『汀!』

圭介が大声を上げる。
汀は、動きを止めた蜘蛛達に言った。

「でも、自分が自分であるのか分からないままでいるのは悲しすぎるから」

彼女はそう言って、虹色の蝶々を、折り紙を元に戻すように、ゆっくりと開き始めた。
空間がざわついた。
蜘蛛達の口から、男の拒否を示す凄まじい絶叫が辺りに轟きわたる。

「私が、あなたにあなたの顔を見せてあげるよ」

折り紙を開く。
それは、顔写真だった。
赤ん坊の、写真だった。

「中島正一。それがあなたの名前。あなたは何にもなれないし、何かになれるわけでもない」

汀は、クスリと笑った。

「これから、殺されにいくの。それから逃れることは、多分できないの」

いつの間にか、おびただしい数の紙の蜘蛛は、足を上に向けて、硬直して死んでいた。
代わりに、丘の向こうがざわついた。
次いで、地面が揺れた。
ミキミキと木を押しつぶしながら、何かが地面の下から出てくる。
それは、体長十メートルはあろうかという、巨大な蜘蛛だった。
八つの赤い目を光らせながら、巨蜘蛛は地面を踏みしめ、汀の前まで移動すると、顔を屈めて蟲の口を開いた。

「シャーッ!」

小白が地面に降り立ち、風船のように膨らむ。
巨蜘蛛の半分ほどの大きさに変わった小白は、牙をむき出して蜘蛛を威嚇した。
その化け猫を制止して、汀は一歩前に進み出た。
そして赤ん坊の写真を、蜘蛛に突きつける。

「良く見て。これが、あなたよ。あなたは蜘蛛じゃない。あなたは人間。何の変哲もない、平凡で、ごくごく普通の何の力もない、無力な人間の一人よ」

巨蜘蛛が悲鳴を上げた。
嫌々をするように首を振った蜘蛛に、汀は淡々と続けた。

「あなたが思い描く現実なんて、どこにもない。誰も、あなたのことを理解なんて出来ない。あなたが、あなたを理解できないように。私も、あなたを理解することができない」
「危ない!」

そこで岬が悲鳴を上げた。
汀が気づいた時は遅かった。
蜘蛛が足を振り上げ、汀に向かって振り下ろしたのだ。
小白も、とっさのことで反応が出来ないほど、すばやい動きだった。
蜘蛛の足は、簡単に汀の背中を胸まで貫通すると、向こう側に抜けた。
そして地面に、まるで蟲のように、少女のことを縫いとめる。

「ゲボッ」

口から血の塊を吐き出して、汀は胸から突き出ている蜘蛛の足を見た。

「……ガ……あ……」
『汀、汀……どうした!』

彼女の声に、圭介が狼狽した声を上げる。
汀はそれに答えることが出来ず、鼻や口から血を垂れ流しながら、震える手で、赤ん坊の写真を前に突き出した。
そして、歯をガチガチと鳴らしながら、かすれた声で言う。

「良く……見て。これがあなたよ……誰も言わないなら……私が言ってあげる……」
「なぎさちゃん!」

岬が声を上げて、這いずって汀に近づこうとする。
汀は彼女に微笑んで、また血を吐き出してから、硬直している蜘蛛に、一言、言った。

「ただの人間のくせに……世界中で何百何億といる、ただの人間のくせに……」
『汀!』
「何を、粋がってるの?」

蜘蛛が絶叫した。
その長い絶叫は周囲に轟き渡り、丘をグラグラと揺らした。
たまらず目を閉じた汀の体を固定していた足が、フッと消える。
胸に大穴を空けて地面に崩れ落ちた汀の目に、空中に浮かんでいる、膝を丸めた赤ん坊の姿が映った。
汀は血を吐き出し、脇の小白に支えられながら赤ん坊の前に這って行った。
そして、写真を赤ん坊の頭につける。
白い光が辺りに走り、赤ん坊の姿が消えた。
同時に丘の蜘蛛の巣が消え、真っ白な蝶々達が周囲を飛び回り始める。

汀は小白に寄りかかって、ゼェゼェと息をついて、また血を吐き出した。

『良くやった、汀。戻って来い、早く!』

圭介がマイクの向こうで怒鳴る。
汀は、しかしそれに答えることが出来ずに、地面に崩れ落ちた。
そこに岬が到着し、彼女の体の上に倒れこむ。
そしてヘッドセットに向かって、叫ぶように言った。

「四番、五番、治療完了しました。目を覚まします!」



激しく咳をしながら、汀は目を開いた。
息が詰まり、呼吸が出来ない。
過呼吸状態に陥っている汀の口に、備え付けてある紙袋の口をつけ、圭介はその背中をさすった。

「大丈夫か? 落ち着いて、息を吸うんだ。しっかりしろ。ここは現実の世界だ」
「ゲホッ! ゲホッ!」

強く咳をした汀の口から、パタタタッ! と血が袋の中に飛び散った。

それを見て、圭介は歯噛みして汀の頭からマスク型ヘルメットをむしりとった。
そして車椅子から彼女を抱き上げ、出口に向かって走り出す。

「続いて、この子の処置に入ります! 私が病室まで運びます。早く準備を!」



「負担をかけすぎだ……」

数日後、自室のベッドの上で呼吸器を取り付けられ、意識混濁状態になって眠っている汀を見て、大河内が苦そうに口を開く。
あの直後、汀は意識を失い、まだ目を覚まさない。
大河内は圭介に向き直って、彼をにらみつけた。

「いい加減にしろよ、高畑。この子は人間なんだぞ。お前の『治療』は、この子に負担をかけすぎている」
「だが、結果的に中島は一命を取り留めた」

資料をめくり、壁に寄りかかりながら口を開く。
大河内は一瞬黙ったが、また苦そうに言った。

「秋山さんは訴訟を起こすつもりらしい」
「へぇ」

「中島は命は取り留めたが、自分が何をしたのか、何者なのか、全ての記憶を失っていた。そんな人間を断罪したところで、意味はないとさ」
「いいことじゃないか。元々この国は死刑廃止論者が多いんだ。この機会に、死刑について考える人が多くなれば法治国家としてのレベルアップが図れる」
「ふざけている場合じゃない」
「ふざけてなんていないさ。俺はいたって真面目だよ」

圭介はそう言って、資料を閉じた。

「レベル6の患者の治療に成功した例は、日本では初だ。これで、俺達は更に高みを目指せる。元老院も満足だろう」
「お前はそうやって、結果結果と……」
「だが、それが全てだ」

淡々と圭介はそう言った。

「結果を残せなければ、生きている意味も、存在している意味もない。過程なんてどうだっていいんだ」
「そのためにこの子を犠牲にしてもか。そうでもしなきゃ、お前の復讐は成し得ないとでも言いたいのか?」
「ああ」

簡単にその言葉を肯定し、圭介は鉄のような目で汀を見下ろした。

「精々働いてもらうさ。死ぬまで、俺の道具としてな。それが、この子の贖罪でもあり、義務でもあるんだ」
「…………」

大河内は無言で圭介の胸倉を掴み上げた。
そして、腕を振り上げ、彼の頬を殴りつける。
床に崩れ落ちた圭介を、荒く息をついて、大河内は見た。

「それがお前の本心か」

「……酷いじゃないか。大人のすることじゃないな」

頬を押さえながら、メガネの位置を直して圭介が立ち上がる。
彼は薄ら笑いを浮かべながら続けた。

「気が済んだか?」
「もう五、六発殴らせてもらわなきゃ、収まらないな。汀ちゃんのためにも」
「お前、勘違いしてるぞ」

圭介は小さく息をついた。

「治療は、汀が自分で望んでおこなっていることだ。俺が強制しているわけじゃない」
「騙していることは確かだろう。この子に真実を告げるんだ!」
「嫌だね。真実を告げたら、こいつは道具としての価値をなくす」

拳を握り締めている大河内の言葉を打ち消して、圭介は続けた。

「そういえば……岬とか言ったか? あの赤十字のマインドスイーパー」
「……その子がどうした?」
「目障りだな。関西総合病院にでも飛ばしてくれ」
「どこまでも最低な男だな……!」
「お前に言われたくはないね」

壁に寄りかかり、圭介は資料を脇に放った。

「さて、外道はどっちかな」

二人の男が睨み合う。
それを、ケージの中で小さくなって小白が見つめていた。



汀が目を覚ましたのは、それから一週間経った夜中のことだった。
しばらくぼんやりしていたが、苦しそうに呼吸器を外し、何度か咳をする。
そして汀は、ナースコールのボタンを押した。
しばらくして、寝巻き姿の圭介が、駆け足で部屋に入ってきて、電気をつける。

「汀、目が覚めたか」
「圭介……」

汀はぼんやりと答えて、首をかしげた。

「私、どうしたの?」
「急に具合が悪くなったんだ。それだけだ。気にするな」
「何だか、すごく疲れた……」
「無理するな。今、クスリを持ってきてやる」
「圭介」

汀は彼の名前を呼んで、言った。

「なぎさって、誰?」

問いかけられて、圭介は一瞬停止した。

「岬ちゃんって、私の友達だよね?」
「誰の話をしてるんだ?」

圭介は汀に向き直り、ポケットから金色の液体が入った注射器を取り出した。
それを汀の点滴チューブの注入口に差込み、中身を流し入れる。
そして彼は、微笑んで汀の白髪を撫でた。

「俺はそんな子、知らないな」
「夢に出てきたの。じゃあ、私の勘違いかな」
「ああ、お前の夢の中での出来事だよ」

圭介はそう言って、汀の手を握った。

「今日はゆっくり休め。お前、疲れてるんだよ」

「うん……」

頷いて、汀は圭介に向かって言った。

「ね、圭介」
「何だ?」
「私、また誰かのこと治したんでしょ?」

問いかけられ、圭介はしばらく押し黙った後、笑って頷いた。

「ああ」
「私、人を助けることが出来たの?」
「お前は立派に人を助けたよ。立派にな」
「嬉しい」

微笑んで、汀は呟いた。

「私、人を助けるんだ。もっともっと、沢山の人を……」
「ああ、そうだな」

頷いて、圭介は言った。

「俺は、それを出来る限り助けるよ」



女の子は目を覚ました。
ぼんやりとした頭のまま、周囲を見回す。
見慣れない病室。
見慣れない人達。
髭が特徴的の人が、にこやかに笑いながら、彼女に言った。

「私達が分かるかい? 分かったら、返事をしてくれないかい?」

女の子は頷いて

「……分かります」

と答えた。

髭の男性の後ろで、腕組みをしたメガネの男性が、壁に寄りかかって資料を見ている。

「私の名前は大河内。君の主治医だ。先生と呼んでくれればいい」

髭の男性に助けられて上体を起こし、彼女は猛烈な脱力感の中、ぼんやりと彼を見た。

「せんせ?」
「ああ、先生だよ」
「ここは、どこ?」
「赤十字病院だよ。君は、大きな事故に遭って、ここに運ばれてきたんだ。覚えてるかい?」

女の子はそれを思い出そうとした。
しかし、頭の中が空白で、何かガシャガシャしたものが詰まっていて、それが邪魔をして思い出せない。

「私……名前……」
「ん?」
「私の、名前……」

それが分からないことに、女の子は愕然とした。

大河内は少し押し黙った後、何かを言いかけた。
しかし後ろの青年が、資料を見ながら声を上げる。

「汀(みぎわ)だ。苗字は、高畑」
「たかはたみぎわ?」
「ああ。お前は、俺の親戚だ」

資料を閉じて、メガネの青年は彼女に近づいた。

「俺は高畑圭介。圭介と呼んでくれていい」
「私の親戚?」
「そうだ」
「お父さんと……お母さんは?」

問いかけられ、圭介は一瞬苦い顔をした。
しかしすぐにもとの無表情に戻り、彼女に言う。

「お前に、お父さんとお母さんはいないよ」

「いないの?」
「お前が小さい頃、事故に遭って他界した。それからずっと、お前は俺と二人暮しだ」
「私、どうしたの?」
「大型トラックに撥ねられたんだ」
「体が動かないよ……」
「右腕は動かせるはずだ」
「他のところは?」
「麻痺が残ってる。無理だろうな」
「高畑」

そこで大河内が圭介を制止して、口を開く。

「まぁ……まだ起きたばかりで分からないことが多すぎるだろうから、ゆっくり理解していこう、な? 私が、君のリハビリと訓練を担当させてもらうから」
「リハビリ? 訓練?」
「うん。大丈夫だ。少し頑張ればすぐによくなるさ」

問いかけに答えず、大河内は続けた。

「何か、流動食くらいだったら食べられるかな? おなかは減ってるかい?」
「全然減ってないよ……」

そこで汀(みぎわ)と呼ばれた女の子は、壁に取り付けられた鏡を見て、動きを止めた。
そこには、老婆のように髪の毛を真っ白にさせた女の子……ガリガリに骨と皮ばかりのやつれた姿をした子が映っていた。
動く右手で顔を触り、それから髪を触る。
白髪には艶がなく、パサパサとした感触が手を伝わってくる。

「これ……私……?」

目に見た事が信じられず、汀は呆然と呟いた。
その頭を撫で、大河内が言う。

「私は、今の髪の方が好きだよ。白い方が素敵だ」
「…………本当?」
「ああ、本当だ」

彼がニコリと笑う。
その後ろで、圭介が持っていた資料を、汀の膝の上に放った。
パサリと音を立てて薄い資料が、彼女の目に留まる。
表紙に、端的に
『Mind Sweeper 契約書』
と書かれている。

「お前はこれから、マインドスイーパーとして、俺と一緒に働くことになる。暇な時にそれをよく読んで、サインしておけ。重要な書類だから、なくすなよ」
「マインドスイーパー……って、何?」
「ワンダーランドに行ける職業だ。夢の国。行きたいだろう? 女の子だもんな」

皮肉気にそう言って、圭介は背中を向けた。

「それじゃ、また来る」

歩いていく圭介を見送り、汀は呟いた。

「あの人……怖い……」
「無愛想な奴なんだ。根はいい人間だ。信用してやってくれ」

大河内がそうフォローして、汀の手を握る。

「とにかく、一命を取り留めてよかった」
「せんせ、私、もう体動かないの?」

「そんなことはない。リハビリして、ちゃんと過程を踏めば段々動くようになってくるさ。今はただ、麻痺しているだけだよ」

圭介とは真逆のことを言い、大河内は優しく、汀のことを抱きしめた。
汀がびっくりしたような表情をし、しかし冷えた体に感じる人の体の温かさに、安心したように息をつき、大河内に体を預ける。

「泣かないで。一緒に治していこう。一緒に」

いつの間にか汀は泣いていた。
涙が、次々と目から流れ落ちていく。

「あれ……? あれ……?」

呟いて、汀は右手で目を拭った。

「どうして私……泣いてるんだろう……」

「人の心は難しいものだ。君がどうして泣いているのか、分からないけれど……」

大河内は汀から体を離して、また頭を撫でながら言った。

「これからは、私がついている」
「……うん」

涙を流しながら、汀は頷いた。
いつの間にか、彼女の病室の表札は、「高畑汀」となっていた。
振り仮名で、「なぎさ」ではなく「みぎわ」と書いてある。
その意味を、彼女はまだ知らない。



びっくりドンキーのいつもの席で、汀はチビチビとメリーゴーランドのパフェを食べていた。
圭介がステーキをナイフで切って口に運ぶ。

「でね、圭介。3DS、結局値下げしたんだって。ネットに書いてあったよ」
「もう一台欲しいとか言い出すなよ」
「使わないからいらないなぁ。それより、PSVITAが欲しい」
「あれの発売日はまだ先だろ?」

他愛のない会話をしながら、圭介はナイフを置いた。
そして汀の前に、一抱えほどもある包装された箱を置く。

「ほら、プレゼントだ」
「どうして?」

目を丸くした彼女に、圭介は笑いかけて言った。

「覚えてないだろうけど、お前、レベル6の患者の治療に成功したんだ。そのお祝い。前から欲しかったって言ってた、雪ミクのプーリップ(ドール=人形)だ。数量限定だから、手に入れるの苦労したんだぞ」
「圭介、大好き!」

そう叫んで、汀は包装紙を手荒に破いた。
そして中に入っている頭が大きいドールを見て、嬌声を上げる。

「わあ、可愛い!」
「大事にしろよ」

そう言って食事に戻った圭介に、汀は箱を抱きながら言った。

「ね、圭介」
「ん?」
「この前ネット見てたらね、死刑判決が出た人、あのさ、女の人拷問して殺した人」

それを聞いて、圭介の手が止まった。

「自殺病は治ったけど、死刑を取り下げるようにって、被害者の人たちが言ってるんだって。不思議だよね。どうしてだろ、って私は思ったよ」

圭介は何事もなかったかのように食事を再開して、そして彼女に微笑みかけた。

「人間って、不思議な生き物だからな」
「それで片付けるの?」
「だって、それが全てだろ」

彼はステーキを咀嚼してから、続けた。

「ほら、アイスが溶けるぞ」
「……うん!」

人形を大事そうに抱きながら、汀はパフェを食べる作業に戻った。
隣には、小白が眠っているケージが置いてある。
圭介はしばらく、感情の読めない無機質な瞳で彼女を見ていたが、やがて自分も、ステーキを食べる作業に戻った。



第5話に続く



お疲れ様でした。
次話は明日、5/9に投稿予定です。
気長にお待ちくださいませ。
m(_ _)m

皆様こんばんは。
第5話の投稿をさせていただきます。

「ダイブ続行不可能! マインドスイーパーが、精神区画内にて捕縛されました!」

ラジオのミキサー室のような部屋で、ヘッドフォンをつけた白衣の医師が大声を上げる。
大河内が青ざめた顔で、椅子に座っている十五、六歳程の少年を見た。
頭にはマスク型のヘルメットが被せられている。
そして、隣にはベッドが置いてあり、両手両足を四方に縛りつけられ、さるぐつわをかまされた女性が磔られていた。
女性の頭にも、マスク型ヘルメットが被せられている。

「馬鹿な……たかがレベル3の患者だぞ! どうして狙われた?」

いつになく強い語気で彼が言うと、計器を操作している別の医師が、焦った口調で言った。

「逆探知されます! このままでは、マインドスイーパーの意識が乗っ取られます!」
「切断だ! 全ての回線を緊急切断しろ!」

大河内が大声を上げる。

そこで、椅子に座っている少年の体が、ガクガクと揺れ、次いで鼻からおびただしい量の血液が流れ出した。
痙攣している少年の頭からマスクをむしりとろうとして大河内が近くの看護士に羽交い絞めにされて止められる。

「駄目です! 今切断したら、心理壁に重大な障害が残ります!」
「このままだと、どの道殺される!」

ゴパッ、と少年が血の塊を吐き出した。
そして、荒く息をつきながら、口の端を吊り上げて、およそ人間とは思えない形相で、ニヤリと笑った。

「……遅かったか……!」

大河内が、それを見て硬直する。

「はは……はは……はは……ははははは!」

少年が突然、高笑いをした。

そして生気を失った瞳で大河内と、周囲の医師たちを見回す。

「ごきげんよう、日本赤十字病院の皆さん」

体は動かさず、首だけがゆらゆらと揺れている。
声はガラガラとしわがれていて、まるで老人のようだった。

「僕の勝ちだね。今回も、君達の『負け』だ」

勝ち誇ったように少年は言うと、目を見開いて、また笑った。

「はは……次の『試合』はいつにしようか?」

「ふざけるなよ! 罪のない患者と、マインドスイーパーの命を奪って、何が目的だ!」

大河内が語気を荒げる。

「目的? 目的ねえ……」

少年は首をかしげ、そしてはっきりと言った。

「復讐と、趣味かな」

「こいつ……!」
「またね。今度はもっと楽しい戦場で会おう。それと」

少年が、体を揺らして笑った後、続けた。

「もっと、歯ごたえのあるマインドスイーパーを用意した方がいいよ。その方が、お互い楽しゴボッ!」

言葉の途中で、少年が盛大に吐血した。
そしてゆっくりと床に崩れ落ちる。
起き上がろうとした彼の目、耳、口、鼻、顔に開いている全ての穴から、バッシャァッ! と血が飛び散った。
それをモロに被り、大河内は、床で痙攣している少年を見た。
そして近づき、マスク型ヘルメットをむしりとり、歯を強く噛みながら抱き上げる。
男の子は、もう事切れていた。

力を失った亡骸を抱いて、大河内が血まみれの部屋を見回す。
誰も、言葉を発する者はいなかった。
ベッドに縛り付けられていた患者も、少年と同様の様子になって事切れている。

「……患者の脈拍、停止しました……」
「心理壁の崩壊を確認。復旧は不可能です……」

しばらくして、女性の看護士が、計器の前で小さな声で言う。
大河内は、少年を抱いて大声を上げた。

「何をしてる! 患者にAED! この子を即手術室に運ぶんだ!」



第5話 白い世界



びっくりドンキーの店内、客があまりいない隅の席で、汀はすぅすぅと寝息を立てていた。
その正面で、圭介が携帯電話を弄っている。
表情は硬い。
汀の右手にはリードがつけられ、彼女の膝の上には飲食店内だというのに、白い、小さな猫が乗って、丸くなって眠っていた。
しばらくして、オーナーに案内され、髭が特徴的な男性が顔を出した。
大河内だった。

「汀ちゃんは……寝ているのか」
「お前の到着があまりに遅いから、こんなところでクスリを投与することになっちまった」

小さな声で毒づいて、圭介が汀の隣を手で指す。

「座れよ」
「助かる」

頷いて、大河内は汀の隣に腰を下ろした。

そして

「この猫が、マインドスイーパーの力があるとかいう猫か。こんにちは、私は大河内だ。小白ちゃん」

そう言って、眠っている猫の頭を軽く撫でる。
オーナーが大河内の注文を聞いて、頭を下げて下がる。
そこで圭介は、暗い表情のまま大河内に言った。

「ここには来て欲しくなかった」
「急を要するんだ。元老院からの出頭命令をお前達が無視しなければ、私が出向くこともなかった」

眠っている汀を見て、そして彼は続けた。

「どうして無視した?」
「仕事が終わってここに来ることは、汀の中でとても大事なプロセスなんだ」

「過程は重視しないんじゃなかったのか?」
「それとこれとは話が違う。次元の違う話題を持ってくるな、苛々する」
「お前にしては珍しく荒れてるな」

大河内が、オーナーが持ってきたコーヒーに口をつける。

「うむ、美味い」
「ありがとうございます」

頭を下げてオーナーが下がる。
圭介はそれを冷めた目で見て、そして口を開いた。

「お前の用件は知ってる。断らせてもらう」
「話を聞きもしないで断るのか?」
「赤十字の問題は、赤十字で処理しろ。俺には関係がない。お前達の尻拭いで、大事な弾を減らしたくない」

「酷い言い草だな。何があった?」
「こっちのセリフだ」

吐き捨てて、圭介は息をついた。
そして水を口に運んで、飲み込んでから言う。

「汀の体調が思わしくない。今日のダイブも、想定していた結果を出すことは出来なかった」
「だが、成功したんだろう?」
「…………」

それには答えずに、圭介は足を組んだ。
そして大河内を、睨むように見る。

「そういうわけだ。引き取ってくれ」
「完全にご機嫌斜めだな」
「分かってもらえて嬉しい」

低い声でそう言って、圭介はまた一つため息をついた。

大河内はしばらく黙っていたが、かばんの中から資料を取り出して、圭介の前に滑らせた。

「……断ると言っただろう」
「赤十字の意向じゃない。この私、個人からの依頼だとしたら、どうかな」

圭介が顔を上げる。

「どういうことだ?」
「言ったままだ。私が、私個人の依頼として、患者の治療をお前達に頼んでいるんだ」
「何のメリットもないだろう」
「現在、赤十字病院は、自殺病患者にマインドスイーパーがダイブできない状態が続いている。もう三日だ。テロと言ってもいい」

その話が出た瞬間、圭介は知っていたらしく、顔をしかめた。

「いいじゃないか。供給過多な人口が減る」
「それが医者の言葉か」
「ああ」

圭介はまた水に口をつけ、言った。

「……で?」
「お前達に、救ってもらいたい人間がいる。自殺病は比較的軽度だ。だが、放っておけばいずれステる(死ぬ)」
「それは、どんな自殺病にでも言えることだろ」
「偽善者といわれるかもしれないが、この患者は助けたい。それに、お前達にとっても、悪い話ではないと思うが」

大河内にそう言われ、圭介は資料を手にとってめくった。
そしてしばらく各ページを凝視した後

「へぇ……」

と興味がなさそうに言って、資料をテーブルに放る。

「悪い話ではないな」
「無駄弾を撃たせるつもりはない。だが、貴重な一発になるはずだ」

「それだけじゃないだろ」

圭介は、そう言って自嘲気味に小さく笑った。

「お前達は……いや、『お前』はナンバーX(テン)と汀をぶつけたいんだ」

大河内はその単語を聞いた瞬間、サッと顔を青ざめさせた。

「……どこからその情報を仕入れた?」

たちまち低い声になり、身を乗り出した大河内に、圭介は薄ら笑いを浮かべながら言った。

「外道め。外見は父親面してても、結局の要点はそこか」
「どこから聞いたのかと質問をしているんだ」
「世の中には親切な人が沢山いてな」

圭介は水を飲んで、そして続けた。

「それだけのことだ」
「一度、お前の身辺を警察も交えて徹底的に洗う必要がありそうだな」
「元老院が許せば、勝手にやればいい」

挑発的にそう言い、圭介と大河内はしばらくの間にらみ合った。
しばらくして大河内がため息をつき、また資料を出した。
そして圭介の前に放る。

「ナンバーX。警察はそう呼んでいる」

そこには、汀と同じような白髪の、十七、八歳ほどと思われる少年の写真があった。
病院服姿で、名前を書かれたプレートを持っている写真だ。
名前の欄には「X」と一単語だけ書かれている。

「見ない顔だな」
「そこまでの情報はないのか」
「探りあいは止めよう。俺は、お前から得られる情報を一切信用していないからな。探り合いってのは、対等な条件で行うもんだ」

そう言いながら資料をめくり、圭介はしばらくして、大河内にそれを放って返した。

「で?」
「OK、最初から話を始めよう……」

コーヒーに口をつけ、大河内は続けた。

「先日、その少年が赤十字の施設を脱走した」
「へぇ、『施設』ね」

圭介は冷たい目で彼を見た。

「『収容所』の間違いじゃないのか?」
「喧嘩を売っているのか?」
「事実を述べたまでだ」
「…………その子に、名前はない。施設では十番目のXをつけられていた。つまり、GMDサンプルの第十号だ」
「…………」
「脱走を手伝った組織も、方法も分かっていない。警察が動いているが、公にしていない情報だ」
「だろうな」

息をついて、圭介は言った。

「つまり今の状況は、飼い犬に手を噛まれた状況と同じってことか?」
「……そうなる」

「傑作だな。赤十字の施設が、秘密裏に育てたマインドスイーパーに、肝心のマインドスイープを妨害されてるなんて、新聞社にこの情報を売りつけたら、いくらで食いつくだろうね」

大河内が顔を青くして、また身を乗り出す。

「やめろ。全てを台無しにしたいのか?」
「俺もそこまで馬鹿じゃない。冗談だ」

とても冗談とは思えない淡々とした声で圭介は言うと、水がなくなったグラスを見つめた。

「殺し合いをしろってことか」
「違う。汀ちゃんに、ナンバーXを説得して欲しいだけだ」
「説得?」

怪訝そうな顔をした圭介に、大河内は頷いた。

「赤十字は違うだろうが、私個人としては、ナンバーXを断罪する気も、咎めるつもりもない。ただ、これ以上罪を重ねて欲しくないんだ」
「随分と偽善的な台詞だな」
「何とでも言え。この状況を、それで収拾できるなら、俺は偽善者でもいい」
「だからこそのこの患者か」

最初に渡された資料を手に取り、めくりながら圭介が言う。

「合点がいったよ」
「請けてくれるか」
「充当手当ての五倍もらう」

圭介は感情の読めない瞳を彼に向けた。

「それでいいなら請けよう」

「……分かった。明日、ダイブを決行したい。赤十字のマインドスイーパーも、サポートにつける」
「邪魔になるだけだと思うが、やりたいなら好きにすればいい」

圭介はそう言って立ち上がり、汀の隣に移動した。
そして眠っている小白を無造作に掴み、ケージに放り込むと、リードを外して、それもケージの中に突っ込んだ。
彼はケージを腕にかけると、汀を慎重に抱き上げた。
彼女は、すぅすぅとまだ寝息を立てていて、起きる気配がない。

「待て。もう少し詳しく説明と打ち合わせをしたい」

「これ以上、汀の体を冷やすわけにはいかない。追加の情報があるなら、すぐに病院に戻って、うちにFAXするんだな」

圭介は頭を下げるオーナーに会釈してから、一言付け加えた。

「お前の情報は、信用しないけどな」

背中を向けて歩いていく彼を見て、大河内が深いため息をつく。
コーヒーをすすった彼に、店員が別のコーヒーを持ってくる。
それを制止して、大河内も立ち上がった。



「ナンバーX?」

きょとんとした顔で汀がそう言う。
圭介は汀の点滴を替えながら、それに答えた。

「ああ。そう呼ばれているらしい」
「テロしてるの?」
「そうらしい」

頷いて、彼は汀の前の椅子に座った。

「今日の診察は全て中止した。これから赤十字病院に向かうぞ」
「大河内せんせに会えるかな?」
「依頼主が大河内なんだ。嫌がおうにも会うことになるさ」

「ほんと? やだ、私こんな格好で……」
「気にするな。大河内も気にしないよ」
「せんせが気にしなくても、私が気にするの」

そう言いながら、壁の鏡を見て、櫛で髪を梳かし始めた汀に、圭介は息をついて、手元の資料を見てから言った。

「今回のダイブは、極めて危険なことになるかもしれない。小白を絶対に連れて行け」
「うん。小白も行くよね?」

汀に問いかけられ、隣で丸くなっていた猫は、分かっているのかいないのか、顔を上げてニャーと鳴いた。

「その、ナンバーXっていうマインドスイーパーが、勝手に回線に進入してきて、他の人のマインドスイープを邪魔してるんだ」

「話によるとな。どの程度の能力者なのか分からないから、危ないと思ったらすぐに帰還しろ。今回は、それが可能なフィールドを用意した」
「どういうこと?」
「これが、今回の患者だ」

圭介が汀の前に資料を投げる。
汀はその写真を見て、意外そうに呟いた。

「へぇ……赤ちゃん?」
「今回の対象は、生後一ヶ月の女児。自殺病の第二段階を発症してる。軽度だが、乳児だからダイブにはもちろん細心の注意をはらってくれ」
「いいの? ナンバーXっていう人は、患者も殺しちゃうんでしょう?」

問いかけられて、圭介は淡々と言った。

「ナンバーXは、どうでもいい。お前は、人を助けることに全力を注げばいいんだ。分かるな?」

「……うん。分かる」

汀はそう言って、髪を梳く手を止めた。
そして圭介を見て、はっきりと言う。

「私は、その人から、この赤ちゃんを守りながら、自殺病を治療すればいいんだね」
「分かってるじゃないか。決して、戦おうなんて考えるなよ」
「どうして?」
「…………」

無言を返し、圭介はクローゼットの中から、汀の余所行きの服を取り出した。

「行くぞ。用意を始めるからな」

汀はしばらく不思議そうな顔をしていたが、やがて自己完結したのか、頷いて服を受け取った。



十字病院の会議室で、汀は大声を上げた。

「せんせ!」

会議室に集まっていた多くの医師や、マインドスイーパーだと思われる、病院服の少年少女達が、一斉に汀を見る。
気にせず車椅子を進めた圭介を一瞥して、入り口で待ち構えていた大河内が、満面の笑顔で汀を抱き上げた。
そしてその場をくるりと一回転する。

「ははは、久しぶりだなぁ、汀ちゃん」
「せんせに会いたかったよぉ。せんせ、元気だった?」

大河内に抱きつき、猫のように頭を押し付ける汀。
その頭を撫でながら、大河内は彼女を抱き上げつつ、会議室の上座に移動した。

「元気だったさ。汀ちゃん、少し痩せたんじゃないか?」
「せんせに会えるから、しぼったんだよ」
「駄目だぞ、無理しちゃ。よぉし、今晩は、うまくいったら私のおごりで……」
「大河内、場所を考えろ」

圭介が大河内に耳打ちする。
大河内はそこでハッとして、慌てて汀を椅子に座らせ、そして自分はその隣に腰を下ろした。

「せんせ?」

不思議そうに汀が聞く。
大河内は彼女に笑いかけ

「ごめんな、汀ちゃん。あまり時間がないんだ。治療が終わったら、いろいろ話そうな」

と言った。

頭をなでられ、汀は頬を紅潮させて頷いた。

「うん、うん!」

圭介が大河内の隣に腰を下ろす。
大河内は咳払いをして、周りを見回した。

「……こちらが、先ほど説明した高畑医師と、マインドスイーパーです。特A級の能力者です。私が、個人的な要望でお呼びしました」

不穏な視線を向けている周囲の威圧感に、汀が肩をすぼめる。
車椅子に乗せられたケージの中から、小白がニャーと鳴いた。

「それでは、本日のダイブについて説明を開始します。難しい施術になると思われます。各マインドスイーパー、オペレーターは特に注意して聞いてください」

大河内はそう言って赤ん坊の写真が映し出された正面のスクリーンを、指し棒で示した。

「事前に説明したとおり、ダイブ対象者は、高橋有紀。生後一ヶ月の赤ん坊です。現在、比較的経度な自殺病第二段階を発症しています。自覚症状などはありませんが、年齢を考え即急なダイブと事前治療が必要であると判断しました」

そして彼は、下のほうに映されている、ナンバーXの写真を指した。

「赤ん坊なので、心理壁の構築もありません。トラウマの発生もないと考えられます。しかし、今回のダイブには、ほぼ確実に外部からのハッキングがあると考えられます」

小白がまたニャーと鳴く。
眉をひそめた周囲に構わず、彼は続けた。

「現在警察も身柄を拘束しようと捜索をしていますが、この男による精神攻撃の可能性が高い。皆さんには、可能な限り迅速に、患者の治療を行い、この男のハッキングを我々が阻止している間、退避していただきたい」

「大河内先生。その男は何者なんだね?」

そこで、座っていた壮年男性が口を開いた。

「先日、うちのマインドスイーパーが五人もやられている。それに今回の、この数のスイーパーだ。ただ事ではなかろう」
「ええ、ただ事ではありません」

大河内はそう答えて、ナンバーXの顔写真を指した。

「明確な正体はまだ分かっていません。サイバーテロリストの一派である可能性が高いと思われます」
「それだけの情報で、気をつけろといわれてもな……」
「こちらとしても提供できる情報があまりに少なく、対応が出来ない状態が続いています。しかし、今回のこのダイブは成功させたい」

彼は、息をついてから言った。

「こちらも、出来うる限りの対策と援助をします。では、詳しい内容に入っていきましょう」



汀は、淡々とした目で、眠らされている赤ん坊を見た。
赤ん坊の頭には、マスク型ヘルメットが被せられている。
そこは円形の部屋になっていて、中心部に赤ん坊がいる。
そして汀がその隣に、圭介が汀の脇の機械の前に。
他のマインドスイーパーは、それぞれ部屋の壁部にあたる場所に腰掛け、マスク型ヘルメットを被っていた。
総勢十一人のマインドスイーパー。
殆どが、十五、六の男女だ。
汀は眠っている小白を抱いて、そしてヘッドセットをつけてからマスクを被った
そこに大河内が近づいて、しゃがみこむ。

「汀ちゃん、危ないと思ったら、すぐに帰還するんだ」
「せんせ、これが終わったら、一緒に遊ぼう」

大河内の言葉には答えずに、汀は無邪気に言った。

圭介が顔をしかめて、大河内を睨む。

「汀、集中しろ」
「うるさい圭介」

圭介の言葉を跳ね除け、汀は動く右手を大河内に伸ばした。

「ね、約束。ゆびきりげんまん」
「分かった。約束しよう」

大河内が、汀の小指と自分の小指を絡ませる。
そこで圭介が立ち上がり、大河内を汀から引き離した。

「ダイブの邪魔だ。早く配置につけ」
「分かってる。だが、妙な胸騒ぎがしてな……」

大河内が小声で言う。

圭介は息をついて、彼の耳元で言った。

「仮に戦闘する羽目になったら、俺が直接回線を切る。得策のない話は嫌いだからな」
「それを聞いて安心した。頼むぞ」
「言われるまでもない。もらう分は働くさ。俺も、汀もな」

そう言って圭介は、背中を向けた大河内に代わって、汀の脇にしゃがんだ。

「余計なことは考えるな。いいか、精神世界でどんなジャックにあっても、動揺するなよ。俺が何とかする」
「分かってるけど……どうして、圭介も、せんせも、そんなに緊張してるの?」

問いかけられ、圭介は口をつぐんだ。

そして軽く笑いかけ、汀の頭をなでる。

「緊張なんてしていないさ。ただ、赤ん坊の意識の中に、十二人もダイブさせる施術は、世界初だからな。そのせいかもしれないな」
「大丈夫だよ。仮にどうにかなったとしても……」

汀は、冷めた目で赤ん坊を見た。

「少しくらいなら大丈夫でしょ」
「だな。気負わずに行け」
「うん」

彼女の答えを確認して、圭介は席に戻った。
そして声を上げる。

「一番、準備整いました。ダイブを開始します!」



汀は目を開いた。
彼女は、いや、「彼女達」は一面真っ白な空間に立っていた。
汀が少し離れたところに立っていて、他のマインドスイーパー達が固まってきょろきょろと周囲を見回している。
そこは、一面が白い珊瑚の砂浜のようになっていた。
足元には柔らかい砂地。
そして真っ白な空が広がっている。
水音。
そして、クラシックの優しい音楽がかすかに聴こえる。
汀は、米粒のような砂を、しゃがんで手ですくうと、サラサラと下に落とした。

風はない。
完全に無風だ。
しかし温かい。
足に擦り寄ってニャーと鳴いた小白を抱き上げて肩に乗せ、
汀はヘッドセットのスイッチを入れた。
他のマインドスイーパー達も、同じような動作をしている。

「ダイブ完了。周りの状況を確認したよ」
『どうだ?』

圭介に問いかけられ、汀はマイクの向こうの保護者に、肩をすくめてみせた。

「ただの、自然構築された無修正の白空間。本当に自殺病を発症してるの? ってくらい平和」
『そうか。中枢は……探すまでもないだろうな』
「うん」

汀は、先の空間に目をやった。

そこには丸い、一掴みほどの玉が浮いていた。
顔の位置にあるそれは、多少濁ってはいるが、ほぼ透明で、水晶のようだ。
中に、黒い墨のような紋様が浮いていて、それが形を変えつつ、徐々に広がってきている。
汀はその前に立って、少し考え込んだ。

「訂正。ちょっと難しいかも」
『どういうことだ?』
「中枢が剥き出しで置いてあるのは乳幼児によくあることだから、問題はないんだけど……中枢の内部まで、ウイルスが入り込んでるね」
『取り除けるか?』
「駄目元でやってみる」

そう言って玉に手を伸ばしかけた汀に、追いついたマインドスイーパーの一人が声をかけた。

「あ……あの!」

振り返った汀の目に、自分を見ている少年少女たちが映る。
中には、不穏そうな表情を浮かべている子もいた。
全員同じ白い病院服なので、判別がつけにくいが、明らかに汀に敵意を向けている子もいる。
汀は一歩下がって、自分に声をかけた女の子を見た。

「何?」
「私、片平理緒(かたひらりお)って言います。あなたが、高畑汀さん……なのよね?」

理緒と名乗った女の子は、車椅子状態とは違う汀と肩の上の猫を見て、少し戸惑った様子を見せたが、笑顔で手を差し出した。

「ご一緒できて、嬉しいわ。私、このチームのリーダーをしてるの。本当に猫を連れてるんだ。びっくりしました」

汀よりも一、二歳程年上だろうか。
しかし丁寧で優しい、おっとりした口調は、どこか落ち着いた風格を漂わせている。
灰色になりかけているショートの髪を、両側に編んでいる。
可愛らしい子だった。
しかし汀は、理緒が差し出した手を、顔をしかめて見ると、小さな声で返した。

「仕事中でしょ? 余計な手間をかけたくないんだけど」

汀の態度に、数人のマインドスイーパーが表情を固くする。
しかし理緒は、一歩進み出ると、優しく汀の右手を、両手で包み込んだ。
そしてニッコリと笑う。

「そんなことないですよ。挨拶も重要な仕事の一つです。あなた、会議室では一言も返してくれなかったから……」

そういえば、会議室でのマインドスイーパー同士の計画チェックで、何度も話しかけられたことを汀は思い出した。

しかし、彼女は理緒の手を乱暴に振り払い、そして言った。

「馴れ馴れしいのは好きじゃない」
「気に障った……? ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったんだけれど……」

理緒は少し表情を暗くしたが、すぐに笑顔に戻り、玉を指で指した。

「それ、私、上手に治療できます」
「……?」

怪訝そうな顔をした汀に、理緒は慌てて顔の前で手を振って続けた。

「あ……あなたが、もっと上手く治療できるなら、その方がいいですけれど……考えてる風だったので……」
「精神中核を触れるの?」
「はい。私、そのためにこのダイブに参加しました」

理緒が、花のような笑顔で笑う。

顔の前で指を組んで、彼女は玉に近づいた。

「綺麗な核。やっぱり、赤ちゃんの精神は凄く安定してて、強いなぁ」
「中核を無傷に素手で触れるスイーパーなんて、聞いたことないわ」
「触れます。ほら」

そう言って、理緒は手を伸ばし、汀が制止しようとする間もなく、丸い玉を両手で包み込んだ。
そして、つぷり、と音を立てて指を中に入れる。
どうやら鉱石質なのは外観だけらしく、ゼリー状らしい。
そのまま理緒は

「うん、うん……怖くないからね。大丈夫だよー」

と、子供に言い聞かせるように呟きながら、目を閉じた。
そして黒い筋を指でつまみ、するっ、と抵抗もなく引き抜く。

時間にして十秒もかからなかっただろうか。

「ほら、心配ない」

くるりと振り返って、理緒はニコリと微笑んだ。
彼女が手につまんでいた、黒いウナギのような筋が、塵になって消えていく。

「……驚いた。精神中核の奥に食い込んでたウイルスを、核を傷つけずに、素手で除去するなんて……」

汀が、思わずと言った具合で呟く。
それに、マイクの向こうで圭介が答えた。

『その子は、赤十字が保有している数少ないA級能力者の一人だ。治療には成功したのか?』

「私が来る意味あったの?」
『……特に問題がないようだったら、戻って来い。深追いする必要はない』
「どういうこと?」

それに、圭介が答えかけた時だった。
理緒が精神中核から引き抜いた黒い筋が、途中から千切れてポタリ、と地面に落ちた。
途端にそこがボコボコと沸騰をはじめる。

「トラウマ……?」

きょとんとして汀が呟く。

『何?』
「トラウマだ。何で……?」

汀が言っている間に、沸騰している地面の染みは広がると、直径一メートル程の円になった。
そこから、黒いゼリー状の物質が、沸騰しながら競りあがる。

「え……?」

ポカンとしている理緒の方に、蛇のようになった、そのゼリー物質は鎌首をもたげた。
次いで、その口が開き、凄まじい数の牙があらわになる。

「きゃあああああ!」

理緒が悲鳴をあげ、幼児の精神中核を抱いてその場にしゃがみこむ。

「何してるの!」

そこで、汀が動いた。
座り込んでいる理緒に駆け寄り、突き飛ばす。
そして地面をゴロゴロと転がる。
二人がいた場所に、黒い巨蛇が頭から着地する。

そのまま地面にするすると入り込み、蛇は姿を消した。

「あ……ありがとう……」

震えながら、理緒が口を開く。
それをかき消すように、汀は呆けた感じで立ち尽くしているマインドスイーパー達に怒鳴った。

「トラウマの攻撃が来る! 邪魔だから早く帰って!」
『汀、状況を教えろ。何故生まれたばかりの乳幼児の頭の中に、トラウマがあるんだ!』

圭介が声を張り上げる。

『回線を遮断するぞ!』

「駄目! 今遮断したら、中核を置いてトラウマを残しちゃうことになる!」
『乳幼児の頭の中にトラウマがあるわけが……ザザ…………ブブ…………』

そこで、圭介の声がかすれて消え、マイクの向こうからノイズが聞こえ始めた。

「圭介? 圭介!」

汀が声を上げる。しかし、ノイズの方が大きくなり、圭介の声を上手く聞き取ることが出来ない。

『ジャック…………遮断できな…………ブブ…………ユブ…………』

プツリ、と音を立てて通信が切れた。

「圭介…………?」

汀が呆然と言う。

「圭介、どうしたの? 圭介!」

マイクのスイッチを何度も動かすが、ヘッドセットは壊れたかのように全く動かなかった。

「応答してください! 先生!」

理緒も、泣きそうな声で叫んでいる。
他のマインドスイーパーも、口々に担当医のことを呼んでいた。
次の瞬間だった。
地面からぬるりと現れた黒蛇が、手近なマインドスイーパーをそのまま丸呑みにした。
耳を劈く絶叫が辺りに響き渡った。
蛇の腹の中で、飲み込まれた少年と思わしきものが、バキボキと砕け散る音が聞こえる。
遅れて、鎌首をもたげた蛇の口から、おびただしい量の血液が垂れ下がった。

「散りなさい!」

汀が大声を上げる。

しかし、マインドスイーパー達は、とっさの事態に対応できないのか、迫ってくる黒蛇に背を向けて逃げるのが精一杯だった。
近くにいた女の子の胴体が、半ばから噛み千切られる。
噴水のように辺りに血が飛び散る。
鞭のように、蛇が体を振る。
数人のマインドスイーパーが、数十メートルも吹き飛ばされ、頭から落下して動かなくなる。
また、一人飲み込まれた。

「ああ……あ……」

理緒が精神中核を抱いたまま、震えている。
小白が足元に降り立ち、シャーッ! と鳴いて風船のように膨らんだ。
そして体高五メートルほどの、巨大な化け猫になって蛇を威嚇する。

「逃げて! 早く!」

どこまでも続く白い砂浜に、逃げ場や隠れるところなどどこにもなかった。
マインドスイーパー達が蛇に、動かぬ肉片に変えられていく。
蛇は体の中のぐちゃぐちゃになった肉塊を吐き出すと、一人腰を抜かしてしゃがんでいた男の子の口めがけて、凄まじい勢いで突進してきた。
そして、明らかに大きなサイズであるというのに、全て男の子の体の中に吸い込まれて消える。

「ガッ!」

そこで、蛇を飲み込んだ男の子が奇妙な声を発した。
その目がぐるりと裏返り、血の涙が溢れ出す。

「み……汀さん! 汀さん!」

痙攣しながら立ち上がった男の子を見て、理緒が汀にしがみつく。
小白がうなり声を上げている。
汀は反応しないヘッドセットを地面に叩きつけると、理緒を庇うように立った。

「……あなたが……ナンバーX……!」
「はは! はははは! ははははははは!」

男の子が、血痰を吐き散らしながら叫ぶように笑った。
そしてその目がぐるりと元にもどり、彼は首をコキコキと鳴らした。

「トロイの木馬作戦。上手くいったかな」

男の子の体中のいたるところから、血が流れ出す。
それでも足を踏み出し、彼は口を裂けそうなほど開いて笑った。

「赤十字も、ピンポイントで僕が『偶然』選ばれた患者の中に隠れてたなんて、思ってもみなかっただろうね」
「ナンバーX? あの人……!」

理緒が悲鳴のような声を上げる。

「うるさいよ」

パンッ、と音がした。
汀の隣で、理緒がもんどりうって地面を転がる。
いつの間にか、どこから取り出したのか、男の子は拳銃を握っていた。
その弾倉を回転させて止め、彼はニヤリと笑った。

「銃……? どうして……」

汀が呟く。
肩を撃たれたのか、理緒がうめきながら立ち上がろうとしてまた、地面に崩れ落ちる。
彼女は、それでも中核を離そうとしなかった。

「あと五発」

もう一回弾倉を回してから、少年は走り出した。

「楽しもうじゃないか! 赤十字!」

飛び掛ってきた小白の頭を掴んで、くるりと曲芸師のように飛び越え、彼は一瞬で汀に肉薄した。
そこでハッとした汀が手を伸ばし、彼の銃を持った手を横に払う。

「一発」

パンッ! と弾丸が明後日の方向に発射された。
彼は体を回して、汀の腹に蹴りを叩き込んだ。
小さく悲鳴をあげ、汀が地面に転がる。
弾倉を回し、彼は地面に倒れた汀の頭に向けて銃の引き金を引いた。

「二発、三発」

パンッ、パンッ!
連続して銃声が聞こえる。

汀はそれより一瞬早く地面を転がり避けると男の子に駆け寄り、殴りつけた。
彼はそれを軽くいなして、銃口を汀の頭に向けようとする。
何度か、その応酬が繰り広げられ、今度は汀が男の子の頭を殴りつけ、後ろ蹴りを彼の腹に叩き込んだ。
地面に叩きつけられた少年は、しかし笑いながら、弾倉を回して銃の引き金を引いた。

「四発」

パンッ! と音がして汀の頬を銃弾が掠める。
すかさず汀は男の子に馬乗りになり、腕を振り上げた。

「あれ……?」

そこで男の子は口を開いた。

「なぎさちゃん?」

呼びかけられ、振り下ろしかけていた汀の手が止まった。

男の子はその隙を見逃さず、逆に汀の体を抑えると、彼女を引き倒し、馬乗りになった。
そして弾倉を回し、彼女の眉間に銃を突きつける。

「こんなところで会えたなんてびっくりだけど、さよならだね。残念だよ」

汀が必死に動こうとしているのを、血涙を流しながら見下ろし、彼は裂けそうなほど口を開いて笑った。

「アディオス。また会おうね、なぎさちゃん」

カチッ。
撃鉄が虚しく虚空を叩く音が響いた。

「あれ?」

男の子はそう言って、ポカンとした。

「運がいいね……失敗か……」

そこで汀の手が動いた。
彼女は一瞬で男の子の銃を指で叩き、回転させると、今度は自分の指にはめた。
親指で弾倉を回転させ、そして引き金を引く。
銃声がして、男の子の眉間を弾が貫通した。
崩れ落ちた男の子を蹴り飛ばし、汀は荒く息をつきながら立ち上がった。
小白が駆け寄り、よろめいた彼女を支える。

「凄い……精神世界で、あれだけ動けるなんて……」

理緒が唖然として呟く。

そこで、ヘッドセットの電源がつき、圭介の声が響き渡った。

『汀! 無事か!』

汀はしばらく呆然としていたが、やがてうっすら涙が浮かんだ目を手で拭い、ヘッドセットを拾った。
そして何度か深呼吸をした後、口を開く。

「一番、五番、治療完了。目を覚ますよ……」



「あーあ、負けちゃった」

雑然とした部屋の中、マスク型ヘッドセットをむしりとり、少年……ナンバーXは悔しそうに口を開いた。

「なぎさちゃんが相手じゃなぁ。ま、今回は不意打ちだったし、他人の体だったし、仕方ないか」
「何一人で割り切ってるんだい」

タバコを口にくわえた、白衣を着た女医と思われる女性が、彼の頭をカルテで叩く。

「痛っ。何すんだよ」
「お前、また赤十字のサーバーに侵入してただろ。やめろっつぅのが分かんないのか」

男口調で喋って、女医は顔をしかめた。

「いい加減にしないと、本当にブチのめすよ」

「ごめんごめん。今回が最後だって」
「それ、前回も聞いた」

ナンバーXはベッドの上から起き上がると、女医に向かって手を広げた。

「それより聞いてよ。なぎさちゃんが生きてたんだ」
「なぎさ?」
「あぁ、ナンバーⅣのこと」
「何?」

女医が聞き返して、そして考え込む。

「まさか、そんな……でも、考えられない話じゃ……」
「元気そうだったよ。髪の毛は真っ白になってたけどね。はは、僕とおそろいだ!」

そう言って、彼はくるくるとその場を回った。

「綺麗になったなぁ、なぎさちゃん。あの頃と変わらないと思ってたけど、神様は面白いいたずらをするね!」

「いいか、よく聞けよ」

女医はナンバーXの頭を掴んで、自分の方に向かせた。

「お前をあそこから助けてやったのは、こうやって好き勝手暴れさせるためじゃない。私達の『理想』を実現するための駒として、お前を『使ってやろう』って考えの下、手間隙かけて助けてやったんだ。お前、何か勘違いしてるんじゃないだろうな」
「勘違いなんてしてないさ。感謝してる。してるよ」
「してるならそのニヤケ顔をやめろ」
「分かる?」

ため息をついて手を離し、女医は椅子に腰を下ろした。
そしてタバコの煙を吐き出し、灰皿に突っ込んで火をもみ消す。

「赤十字への警告は十分過ぎるほどやった。お前も、満足しただろ? これ以上やると逆探知される可能性が高い。一旦ジャックをやめて、居場所を変えるよ」
「またかよ」

小さく毒づいて、ナンバーXはニヤケながら鏡に映った自分を良く見つめた。

「ま、仕方ないか」
「我侭言うな。それにしてもお前……」

彼女はふと動きを止めて言った。

「どうやって次の患者が赤ん坊だってつきとめたのさ?」

ナンバーXはニヤリと、およそ少年とは思えないほど口を開いて、不気味に笑った。

「ま、世の中には親切な人が沢山いるってことで」

彼は大きくあくびをして、部屋の出口に向けて歩き出した。

「それだけのことだよ」



びっくりドンキーの店内で、汀はぼんやりとした表情のまま、チビチビとメリーゴーランドのパフェを口に運んでいた。
その前でステーキを切りながら、圭介が口を開く。

「どうした? 気分でも悪いのか?」
「うぅん。そうじゃなくて……」

汀は言いよどんでから、伺うように言った。

「圭介は、夢の中の自分と現実世界の自分の区別がつかなくなったりすることってある?」

問いかけられて、圭介は軽く笑った。

「ああ、しょっちゅうあるよ」

「そうなんだ。普通のことなんだね」

汀も微笑む。
圭介はステーキを咀嚼してから言った。

「どうした? 嫌な夢でも見たか?」
「嫌なわけじゃないけど……夢の中では、私はなぎさって呼ばれてるの。そういう夢、よく見るんだ」

圭介の手が止まった。

「夢の中では、私はみっちゃんとたーくん……いっくんと一緒に、遊んでるの」

圭介は小さく微笑んで、ステーキを食べる作業に戻った。

「ただの夢だよ」
「そう……なのかな……?」

自信がなさそうに呟いた汀の目にそこで近づいてくる人影が映った。

「こ……こんにちは」

どもりながら、頭を下げる女の子。
理緒だった。
病院服ではなく、今時の可愛い女の子の服を着ている。
汀はきょとんとして彼女を見た。

「どちらさまですか?」

聞かれて、理緒もきょとんとして、そして圭介を見た。

「あ、あの……先生に、ここに来ればお二人に会えるって聞いて……」
「チッ」

小さく舌打ちをして、しかし圭介はすぐに柔和な表情に戻ると、彼女を案内してきたオーナーを見た。
そして視線を理緒に戻し、言った。

「君は……片平さんと言ったかな」

「は、はい! 高畑先生に名前を覚えていただいて、光栄です!」

勢い良く頭を下げる理緒。
舌打ちには気づいていないようだった。
圭介は汀の隣に座るように促し、ポカンとしている汀に言った。

「お前、覚えてないだろうけど、この前の仕事で一緒だったんだ。片平……理緒ちゃんだ。赤十字の、A級スイーパーだよ」
「そうなんだ」

微笑む汀。
精神世界と違ってやつれきっている彼女を見て、理緒はしばらく躊躇した後、彼女の麻痺している左手を、両手で包んだ。

「はい! 命を助けてもらいました。私、どうしてもお礼が言いたくて」
「言ってくれれば、こっちから出向いたものを」
「そんな……こちらからご挨拶に伺うのが、礼儀というものですよ」

そう言いながら、理緒はかばんの中に入っていた包みを取り出して、圭介に差し出した。

「どうぞ。上野駅で買ってきました。たまごプリンです!」
「気を使わなくていいのに」
「私、プリン大好きだよ!」

そこで汀が声を上げる。

「本当?」

理緒は圭介にプリンを渡し、汀に向き直った。

「……ね、お友達になりませんか?」
「友達?」

きょとんとして汀が聞き返す。

「うん。これも何かの縁ですもの。これからも、一緒にお仕事するかもしれませんし」
「汀でいいよ。理緒ちゃん」

そう言って、汀は素直に、理緒に右手を差し出した。

理緒は一瞬ポカンとした後、すぐに笑顔になってその手を握り返した。

「はい、汀ちゃん!」

その様子を、苦そうに圭介が見ていた。
彼は近づいてきたオーナーに、メリーゴーランドのパフェをもう一つ注文してから、水を口に運んだ。
溶けた氷が、カランと音を立てた。



第6話に続く



お疲れ様でした。
次話は明日、5/10に投稿予定です。
気長にお待ちくださいませ。
m(_ _)m

皆様こんばんは。
第6話の投稿をさせていただきます。



第6話 食肉マーケット



この幸せがずっと続くと思っていた。
何とはなしに、この楽しい時間がずっと続くと、ただそう思っていた。
たとえそれが、与えられて、何者かに造られた記憶であっても、それが真実だと思い込もうとしていた。

「いつか僕らは、離れ離れになるよ」

一面のクローバーの花が広がる平野で、円になって寝転んでいた少年の一人が口を開いた。
彼は手に沢山クローバーを持って、何かを作っている。

「どうしてそんな悲しいことを言うの?」

私は、彼にそう聞いた。

彼――いっくんは、淡々とそれに答えた。

「だって、ここは現実じゃないもん」
「ここが現実じゃないって、誰が決めたんだよ」

私の隣にいた少年――たーくんが、口を尖らせてそう言う。

「誰が決めたんじゃなくても、夢は夢さ。現実じゃない。現実は、もっとこう……ドロドロしててさ。もっと汚いところだろ?」

いっくんがそう言う。
そこで、たーくんの隣に寝転んでいたみっちゃんが口を開いた。

「そうだね。いっくんの言うとおりだと思うよ」
「みっちゃんはいっくんの肩ばっかり持つよな」

たーくんが呆れたように言う。

私達の髪の毛は、みんな同じ様に灰色になりかかっていた。
色素が抜けてきているのだ。
私は、一面のクローバーの香りを吸い込んで、そして呟いた。

「でも、ここが現実じゃなくても。私はここの方がいいな」
「どうして? 現実じゃないのに」

いっくんがそう言う。

「だって、みんながいるもん」

私がそう言うと、いっくんは小さく笑って、そして立ち上がり、手の中のものを、私の頭に被せた。
そしてみっちゃんの頭にも、同じように被せる。
それは、沢山のクローバーで編んだカチューシャだった。

「あ……ありがとう……」

みっちゃんの顔は真っ赤だ。

いっくんは、私達にも立つように促して、そしてしゃがんで一つ、クローバーを取った。
それを顔の前に持ってきて、くるくると回す。
四葉のクローバーだった。

「じゃあ、約束しようよ。もし僕達が離れ離れになったとしてもこの四つ葉のクローバーの葉を、一つずつ持って、ここに帰って来るって」

いっくんは、クローバーの葉をむしると、私達に一枚ずつ渡した。

「そして、また一緒に遊ぼう」

彼は、にっこりと笑って、続けた。

「約束だよ。忘れないでね。みっちゃん。たーくん……なぎさちゃん」



汀は目を覚ました。
体中、汗でドロドロだった。
荒く息をつきながら、ベッド脇の電灯をつけ、手の平を広げて見つめる。
そこには、夢の中のいっくんに渡された四葉のクローバーの欠片は、存在しなかった。

「夢……」

小さく呟いて、ため息をつく。
額の汗を拭って、脇に寝ている小さな猫、小白の頭を撫でる。
そして、彼女は水差しからコップに水を注いで、口に運んだ。



「今度の患者だ」

圭介がそう言って、薄い資料を汀の前に放る。

「また、赤十字との共同作戦になる。一応目を通しておいてくれ」

しかし汀に反応はなかった。
ぼんやりと資料を見つめ、口を半開きにして、うとうとしている。

「汀」

呼ばれて、彼女は、ハッとしてとろとろと圭介を見た。

「…………何?」
「クスリも飲んでないのに、寝るなよ。それに、これから出かける予定なんだ」
「どこに?」
「赤十字病院だ」
「……今日は行かない」

汀はプイと横を向くと、眠っている小白の方に頭を向けて、ベッドに横になってしまった。

「どうした? 具合が悪いのか?」
「うん」
「大河内も来るらしいが」
「行かない」

頑なにそう主張する汀に、圭介はため息をついた。

「……具体的にどこが悪いんだ? お腹か? 手が痛いのか?」
「頭が痛い」

弱弱しくそう呟いた汀の額に手を当て、圭介は顔をしかめた。
そして、汀の毛布を剥がし、彼女を仰向けに寝かせる。

「何だ……熱があるな。どうして起きた時俺に言わなかった?」
「…………眠い。寝ていい?」
「駄目だ、ちょっと我慢しろ」
「……うん……」

圭介はそう言うと、点滴を外し、汗で濡れた汀の服を、手馴れた動作で着替えさせ始めた。

「今日は、これじゃダイブは出来そうにもないな……」

小さく呟いた彼に

「出来ないよ……頭が動かない」

と言い、汀はおとなしくモゾモゾと圭介の差し出したキャミソールを被った。

「仕方ない。しばらく仕事はキャンセルだ。今クスリをもってくるから、おとなしくしてろ」
「うん……」

キャミソールを右手だけで着ながら、汀はまた横になった。
圭介がそこに毛布をかけてやる。
そして彼は体温計を彼女の口にくわえさせ、早足に部屋を出て行った。

――なぎさちゃん。

呼びかけた、夢の中の少年の顔が汀の頭にフラッシュバックする。

――約束だよ。

少年が笑う。

――僕と、君だけの約束。

汀は目を閉じ、苦しそうにその場に丸くなった。
頭がガンガンと、内側から金槌で叩かれているように痛い。

――僕らは、ずっと……。

凄まじい耳鳴りが彼女を襲った。

「来ないで!」

汀は、耳を塞いで叫んだ。

夢の中の少年は、しかし笑いながら、近づいてくる。
手を伸ばし、微笑む。

「こっち来ないで! やだ! やだぁ!」

首を振って怒鳴る。
男の子は、伸ばした手を開いた。
そこの上に乗っていたものは……。

「汀!」

圭介に耳元で怒鳴られ、汀はハッ、と目を開けた。
耳鳴りと強烈な頭痛は、いつの間にか消えていた。
代わりに、倦怠感と熱による頭の疼きが、じわじわとのぼってくる。
汀は荒く息をつきながら、目を剥いて圭介を見た。

「どうした? 寝るなと言っただろ。クスリを持ってきた。注射してやるから、もう少し我慢しろ」
「圭介」

汀はそう言って、右手で圭介の手を掴んだ。
痩せた彼女の手は、叩いただけで折れてしまいそうだった。

「私、最近おかしいよ。どうしていいか、分からないよ」
「出し抜けに何だ? ただの夏風邪だろ」
「なぎさって誰!」

そう叫んで、汀は圭介の手を強く引いた。

「誰なの? 私の頭の中に、私じゃない私がいる! 圭介、怖いよ。どうにかしてよ!」
「落ち着け。それは夢だと、前に言っただろ。それ以上でもそれ以下でもない」

「でも……でも!」
「なぎさなんて人間はいない。お前は汀だ」

圭介はそう言うと、汀の手を握り、落ちている体温計を拾った。

「汀。大事なのは、お前が誰かを助けたいと思う気持ちだ。違うか?」

冷静にそう言われ、汀は答えた。

「何を言ってるのか分からないよ! 話をすり替えないで!」
「すり替えてなんていないさ。はっきり言おう。お前、クスリの投与と、複数の患者へのダイブの影響で、記憶が混濁してるんだ。多分、それはお前が頭の中で勝手に作った幻想だ」
「幻想? 違うよ! だって、私、こんなにはっきりと……」
「幻想だ」

もう一度繰り返し、圭介ははっきりと汀の顔を見た。

「俺の言うことが信用できないのか?」

問いかけられて、汀は一瞬押し黙った。

そして下を向いて、小さく呟く。

「でも……」
「でも、じゃない。俺が幻想だと言ったら、それは幻想なんだ。現実じゃない。第一、お前は俺の親戚だと、前に言っただろう。お前は産まれた時から、高畑汀だ」
「じゃあ、じゃあ圭介はどうして、私のお父さんとお母さんの話をしないの? どうして?」

汀に食い下がられて、圭介は苦そうな顔をした。
そして彼女の腕に点滴の針を刺しながら、息をつく。

「前にも言っただろう。お前の親は、お前に話すに値しないって」
「意味が分からないよ! はっきり言って!」

「何を興奮してるんだ」
「もういい! 圭介の馬鹿!」

怒鳴って、汀は点滴を刺そうとしている圭介の手を振り払い、腕に刺さっていた別の点滴を、乱暴にむしりとった。

「出てって! ここから出てって!」

悲鳴のように絶叫して、手元にあったテディベアの人形などを圭介に投げつける。
圭介は呆れたようにそれを体に受けていたが、枕が顔に当たり、メガネが床に落ちたところで、足を踏み出した。
汀は涙でぐしゃぐしゃの顔で圭介を見ていたが、彼が形容しがたい、どこか辛そうな顔をしているのを見て動きを止めた。

「分かった。出て行くよ」

圭介はそう言うと、汀の脇にしゃがみこんで、また点滴を腕に刺した。

そしてメガネを拾い上げる。
彼は、黙ってそっぽを向いている汀に構わず、ポケットから出した金色の液体が入った注射器を、点滴の注入口に差し込んで、中身を流し込んだ。

「これを飲め。置いておくからな」

そう言って、圭介は大きな錠剤を何粒かベッド脇に置いて、白衣のポケットに手を突っ込んで部屋を出て行った。
汀はしばらく荒く息をついていたが、やがて圭介が置いていった薬を掴んで、無言でドアに向かって投げつけた。
彼女の剣幕に恐れをなしたのか、小白がケージの方まで避難して目を丸くしている。
汀は手で涙を拭うと、緩慢とした動作でベッドに横になった。



『やってくれたな……完全にうちの姫は反抗期だ』

携帯電話の向こうから、圭介の苦い声を聞いて、大河内は椅子をキィ、と鳴らして少し回転させると、含みを込めて笑った。

「はは、私が何をしたと言うんだ?」
『とぼけるなよ、外道が』
「言いがかりはよしてもらおう。だが高畑、これで良く分かっただろう」

大河内は自分の医務室の中を見回して、息を吐いた。

「人間の記憶を完全に消すと言うのは無理だ。そんな鬼畜の所業は、技が認めても神は認めんさ」
『生憎と俺は無神論者でね』

「気が合わんな。今度お前と、カトリックとプロテスタントの合判性について、議論をしたいと思っていたところなんだが」
『御免こうむる』
「つれんな」

大河内は喋りながら、目の前に座っている人物を見た。
病院内だというのに、タバコの煙をくゆらせている彼……男性は、メガネの奥の瞳をやけに光らせながら、大河内を凝視していた。
表情は変わらない。
無表情のままだ。

『重ねて言うが、外道と取引をするつもりはない。汀は俺のものだ』
「どうかな」

大河内は、柔和な表情で、電話の向こうに対してにぃ、と笑った。

「いずれ汀ちゃんは取り戻す。必ずだ」

『強気だな』
「お前にどんなスポンサーがいるのか分からんが、私にもそれは同様でね」
『へぇ、興味はないが』

そう言って、圭介は一拍置いた。
そして低い声で続ける。

『これ以上汀を刺激するなら、こちらにも考えがある』
「……脅しか?」
『それ以外の何かに聞こえたなら、きっとそれなんだろう』

電話の向こうで醜悪に笑い、彼は続けた。

『世の中には、親切な人が沢山いるからな』

プツリ、と音がして電話が切れた。
今までの会話は、全てフリーハンドで周囲にも聞こえるように流されていたのだった。

携帯電話をポケットにしまった大河内に、タバコの煙を吐き出した男性が口を開いた。

「……その様子だと、まだ、のようだな」
「…………」

無言を返した大河内に、男は続けた。

「大河内君。『機関』としても、これ以上の干渉は望ましくない、と考えている」
「承知しております」

頷いた大河内を見て、男はタバコを灰皿に押し付け、火を消してから立ち上がった。

「ナンバーズの回収を急ぎたまえ。君の将来と、現在と、過去のためにもな」

言い捨てて、男はかばんを持ち、ハットを被ってから一言付け加えた。

「あぁそれと、その高畑とかいう男」
「…………」
「やはり、正規の医師ではない。元老院が庇っているので、詳しい調査は続行できなかった……が、それだけは伝えておこう」

男が、早足で医務室を出て行く。
大河内は換気扇のスイッチを入れて回すと冷蔵庫からコーヒーの缶を取り出して、プルトップを空けた。

「知ってるよ……」

その呟きは、換気扇の音にまぎれて消えた。



汀の体調が回復したのは、それから一週間経ってのことだった。
しかし、いまだ微熱が続いている。
圭介は自分と話そうとしない汀の車椅子を押して、赤十字病院の廊下を歩いていた。
汀は、意識が朦朧としているのに加え、質問をのらりくらりとかわそうとする圭介に、苛立ちを覚えていた。
いや、何より苛立ちを覚えていたのは、意味不明な夢を繰り返し見てしまう自分自身についてのことだった。
その不安と憤りが、一番身近にいる圭介に当たっているだけなのだ。
ここまで連れてくるのにも一苦労した圭介は、大汗をかきながら会議室に足を踏み入れた。
中には子供一人しかいない。
そこで汀は、椅子に座って折り紙を折っていた女の子に目を留めた。

「理緒ちゃん……?」

自信がなさそうにそう呼びかけると、女の子は汀を見て、パァ、と顔を明るくした。

赤十字のA級マインドスイーパー、片平理緒だった。
彼女が立ち上がって、足早に近づく。

「汀ちゃん、大丈夫? 私、お見舞いに行ったんですよ。でも、汀ちゃん、その時寝てて……」
「うん、大丈夫……」
「熱、まだあるの?」
「うん……」

力なく頷いた汀の車椅子を、圭介は理緒に渡した。

「頼む。俺は行くところがある。君がケアしてくれ」
「は……はい! 分かりました!」

元気に頷いた理緒の頭を撫で、圭介は汀に一言かけようと口を開いた。
だが、汀が自分の方を向こうともしていないのを見て、口をつぐんで、会議室を出て行く。

「……どうかされたのかしら? 高畑先生」

理緒が不思議そうにそう呟くと、汀はぼんやりとした視線のまま口を開いた。

「知らないよ、圭介なんて」
「喧嘩中ですか?」
「…………」
「そ、そうだ。私、汀ちゃんみたいにいろいろ持ってないけど、折り紙得意なんです。いろいろ折ったから、見てください!」

話題を変えた理緒に、汀は表情を僅かに明るくして答えた。

「うん……」



「元老院の要請で参りました、高畑と申します」

圭介がそう言って、薄暗い部屋の中、円卓状になっている会議スペースの一角で椅子に座っている状態で頭を下げる。

「随分と遅かったではないか。予定を一週間も繰り越して、どういうつもりだ?」

赤十字の医師の一人にそう言われ、圭介は柔和な表情のまま、それに返した。

「別に、あなた方の道理に私が合わせるといった道理もないまででして」
「何を……!」

他の医師たちも眉をひそめる。

そこで、圭介と対角側に座っていた大河内が口を開いた。

「……時間が惜しい。打ち合わせを続けましょう。今回のダイブには、英国のメディアもかなり注目しています。一刻も早く結果が欲しい」
「それは、そうだが……」

医師の一人が口ごもる。
大河内はそれを打ち消すように続けた。

「今回の患者について、説明します。資料をご覧ください」

圭介が、興味なさそうに目の前に置かれた厚い資料をめくる。

「患者の名前は、エドワード・フレン・チャールズ。三十五歳。英国の王位第十五継承権を持つ、皇族の人間です」

医師達が、口をつぐんで大河内を見る。

「現在自壊型自殺病の第二段階を発症。それに加え、防衛型自殺病の第一段階を併発しています。英国の医療機関では治療が困難と判断され、一週間前、赤十字病院に搬送されてきました」

大河内は、周りを見回して続けた。

「二つの自殺病の併発に加え、英国では、自殺病の『完治』が望まれています。元老院は以上の点を鑑みて、今回、高畑医師との共同ダイブを要請されました」
「現在の患者の状況は?」

圭介がそう聞くと、周囲から鋭い視線が飛んだ。
それを無視して資料に視線を落とした圭介に、大河内は事務的に答えた。

「防衛型自殺病、第二段階症状前期兆候の確認がなされています」

「防衛型と自壊型の併発……」

そう呟いて、圭介は口の端を小さくゆがめた。

「……DID※か」 ※解離性同一性障害=多重人格のこと
「……ええ。古い言い回しになりますが、分析によると二重人格の症状が見受けられているようです」

大河内がそう言って、資料を見る。

「今回の施術には、赤十字のマインドスイーパー、片平理緒を同席させることにしました。個人的にも、高畑医師と親交が深く、連携が取れると判断してのことです」

そして大河内は資料をめくった。

「それでは、詳細なダイブの予定についてご説明します。十五ページをご覧ください」



施術室に汀と理緒が入ったのは、それから二時間程してのことだった。
汀は眠そうに、コクリコクリと頭を揺らしている。
その車椅子を押しながら部屋に入ってきて、理緒は困った顔で圭介を見上げた。

「駄目です……私が呼びかけても、返事をしてくれなくなりました」

圭介は理緒から車椅子を受け取り、汀の隣にしゃがんで、額に手を当てた。
その様子を、大河内と医師たちが心配そうな顔で見ている。
圭介はしばらく汀を触診していたが、やがて立ち上がって言った。

「ダイブ可能です。施術を開始しましょう」

汀の膝の上の小白がニャーと鳴く。
大河内が眉をひそめて近づいて囁く。

「どう見ても意識混濁状態のように見えるが」

「やれるさ。これ以上は待てない」

圭介は断固とした口調でそう言うと、汀の車椅子を、ベッドに縛り付けられている患者の脇に持っていって固定した。
理緒も、隣のベッドに横になる。

「今回の施術では、俺が二人のナビゲートを同時に行う。理緒ちゃんは、それでいいな?」

問いかけられて、理緒は頷いた。

「はい……でも、汀ちゃんが……」
「夢の中での運動性が落ちているかもしれないが、君がサポートしてやってくれ。トラウマが現れたら、こいつらに任せて君は中枢の治療に専念しろ」
「……わかりました」

理緒の頭を撫で、圭介は反応がなく、よだれをたらしている汀の耳にヘッドセットをつけ、無理やりにマスク型ヘッドホンを被せた。



汀が目を覚ました時、そこは沢山のスーツ姿の人が歩いている、巨大な交差点の真ん中だった。
スーツ姿の人々の顔には、モザイクのような紋様が浮いており、顔は見えなくなっている。
彼女は熱に浮かされた顔をしながら、それをぼんやりと見回した。
足元でニャーと鳴いた小白を抱き上げて肩に乗せ、汀はヘッドセットのスイッチを入れてふらついた。
そしてゆっくりとその場にしりもちをつく。

「あれ……」
『汀、聞こえるか?』
「…………」

マイクの向こうからの圭介の声に答えず、汀は苦い顔で周囲を見回した。

交差点のど真ん中でしゃがみこんでいる少女を気にかける人など、誰もいない。
皆、背筋をピンと伸ばし、話もせずにどこかへ歩き去っていく。
その光景が、ビル群を縫って、どこまでも続いていた。

「……やりたくないって言ったのに」

小さく毒づいた彼女に、圭介は淡々と答えた。

『贅沢を言うな。マインドスイーパーの資格があるんなら、仕事をしろ』
「現実の私の体調、最悪みたいだね。体が殆ど動かないよ」
『…………何とかしろ』
「それでどうにかなるなら、お医者はいらないんじゃない?」

冷たくそう返し、汀はゆっくりと立ち上がった。

体が、まるで水の中にいるかのようにもったりとしか動かない。
その様子を心配そうに小白が見ていた。
そこで汀は、人々を掻き分けてこちらに近づいてきた理緒を見た。

「汀ちゃん! 大丈夫?」

息を切らしている理緒がそう問いかける。
汀は息をついて彼女の手を握ると、頷いた。

「うん。現実の私の体が、あんまり良くないから、頭が働かないみたい。体が良く動かないから、サポートしてくれない?」
「はい! 分かりました!」

元気に理緒が頷く。

『その患者はDIDだ。二重人格だと推定される。つまり、精神世界の分裂が考えられる』

圭介が淡々と口を挟んだ。

『そして今回のダイブは、患者の「完治」が最大の目的だ。そのために理緒ちゃんを一緒にダイブさせた。精神中核をみつけて、ウイルスを除去してくれ』
「はい!」
「DID……こんな時に最悪」

汀がため息をつく。

「後日にすることは出来ないの?」
『無理だ。患者の精神分裂が進んでいる。これ以上放置すると、治療が不可能になる。中核が一つのうちに、何とかするんだ。そこはどこだ?』

汀が周囲を見回して、やはり苦そうに答える。

「無限回廊の中の一箇所だと思う。煉獄に繋がる道が見えないから、表層心理壁だね」
「汀ちゃん、見ただけで分かるの?」

驚愕の表情で理緒が聞く。
汀は頷いて、答えた。

「私、普通とちょっと違うから」
『…………』

圭介は少し沈黙してから言った。

「お前の体調が思わしくないから、時間は最大限伸ばして、十五分に設定する」
「無理だよ」
『それでもやるんだ。お前の使命を思い出せ』

汀は少し押し黙った後、足を引きずって歩き出した。

「……分かった」
「トラウマは……見られませんね」

理緒がそう呟く。

「だってここは、防衛型心理壁だもん」
「防衛型?」

きょとんとした理緒に、彼女に支えられながら歩きつつ、汀は息を切らしながら言った。

「いろいろ自殺病にはタイプがあるの。その中でも、防衛型は、意地でも精神中核に続く道を隠そうとするわ」
「そうなんですか……じゃあ、どうすれば……」
「こうするの」

汀は理緒から手を離すと、手近な男性と思われるスーツ姿の男の顔面を、思い切り殴りつけた。
もんどりうって倒れ、地面に叩きつけられてゴロゴロと転がる男。
唖然としている理緒の前で、汀は倒れた男に近づくと、無造作にその頭を踏み潰した。

「ギャ」

小さな叫び声が聞こえて、辺りに脳漿と、血液と、わけの分からない液体が飛び散る。

「汀ちゃん! それ、この人の記憶片だよ!」
「いいんだよ。ほら」

はぁはぁと息をつきながら返り血で血まみれになった汀は周りを見回した。
おびただしい数の、顔の見えない人々の動きが止まっていた。
そして、それぞれがぐるりと、汀と理緒に向き直る。

「ひっ……」

体を硬くした理緒の前で、人々は懐から、全て同じタイプの拳銃を取り出すと、コッキングして弾を充填した。
そしてザッ、と同じ動作で二人に拳銃を向ける。

「トラウマが出てこないんなら、トラウマの発生を誘発すればいいだけの話」
「そんな……ど、どうすればいいんですか!」
「こうする」

汀は手近な一人に一瞬で肉薄すると、腕を叩いてその拳銃を奪い取った。
そして、自分を狙っている近くの男女の頭部に、立て続けに発射する。
正確に銃弾は頭を抜けると、血液脳漿を飛び散らせながら、明後日の方向に飛んでいく。
汀に向けて、そこで大勢の人々が拳銃を発砲した。
小白が風船のように膨らみ、汀と理緒を覆い隠す。

実に二十秒ほども続いた銃撃が止み、硝煙の煙と、反響する銃声が止んだ頃、小白が体を振った。
バラバラと銃弾が地面に落ちる。
小白の体には傷一つついていない。

「あ……ああ……あ……」

ガクガクと震えて小さくなっている理緒を尻目に、小白の体の下から這い出ると、汀は言った。

「防衛型は、こういうときにすぐ逃げようとするから、見つけるのが簡単ね」

同じ動作で銃の弾倉を交換し、コッキングした人々の右後方、そこに、同じような顔が隠れている男が、人々の波を掻き分けながら逃げようとしているのが、遠目に見えた。

「欧米社会は銃を持ってるから嫌い」

そう言って、汀は逃げる男の頭めがけて拳銃の引き金を引いた。
パンッ! と血液が飛び散る。
ゆっくりと男が倒れる。
そこで、空間それ自体がぐんにゃりと歪んだ。
顔がない男女の姿が、徐々に消えていく。
空がいきなり夜になり、ビル群も消えていく。

「ここから転調みたいだね」

汀が息を切らしながら、しかし楽しそうに言う。
小白からプシューッ、と音を立てて空気が抜ける。
小さな猫に戻った小白を抱き上げる汀。
そこで、彼女達の意識はホワイトアウトした。



彼女達が次に目を覚ましたのは、肉と獣の臭いと、血の据えた臭いが交じり合った、不快な空気の滞った場所だった。

「何……ここ……」

平気そうな汀とは対照的に、理緒が鼻をつまんで顔をしかめる。
そこは、沢山のテントが並んでいる場所だった。
丸太のテーブルに、丸太の椅子。
そして、テントそれぞれには、血まみれのエプロンを羽織った、顔がモザイクで隠れた男性達がそれぞれ肉切り包丁を持って、『作業』をしていた。
少し離れた場所に、サーカスのテントのような場所が見える。
先ほどと同じように、スーツ姿の男が入り混じって歩き回っている。
しかし先ほどと違ったのは、幾人かがテント前のテーブルに座り、何かを、犬のようにがっついて食べていることだった。

「何かしら……」

理緒が鼻をつまみながら、近くのテントを覗き込み――。

「ひっ」

と小さな悲鳴を上げて、危うく卒倒しそうになった。
それを支えて、汀が笑顔で彼女のことを覗き込み、手を握る。

「どしたの?」

聞かれて、理緒は震える手でテントの中を指した。

「だ……だって……だって、あれ……」
「ん」

小さく相槌を打って、汀は軽く笑った。

「あれが、どうかした?」

理緒が震えながら指差した先。
そこには、天井から伸びた大きな鈎針で吊るし切りをされている、生物だったモノがあった。
否。
女性の、体だった。
頭部は舌を伸ばし、鼻や口から血を流し、目玉をひん剥いた状態で脇に投げ捨ててある。
首にあたる部分に鈎針が刺さっていて、時折肉切り包丁を持った男が、女の体を切り裂いて、『肉』を取り出しているのが見える。
良く見ると、テーブルに座って『肉』を貪り食っているのは、男の外見をした人だけだった。
女性はいない。
歩いている人の中にも、女性は見受けられなかった。

「汀ちゃん……!」

引きつった声を上げて、理緒が汀にしがみつく。
汀はそれを怪訝そうに見ると、息を切らし、熱で顔を赤くしながら、その場に手を広げてくるくると回って見せた。

「どうしたの? 面白いじゃない。こんなに狂ってなきゃ、楽しめないよ」
「楽しむ? 何を楽しむっていうんですか!」

ヒステリックに問い返した理緒に、汀は近くのテントを覗き込んで、面白そうに笑い、答えた。

「全部だよ。ほら、しっかりして。行こ」

手を引かれて理緒が、ふらつきながら狂宴の中を歩き出す。

まだ生きている女性もいるらしく、所々で、絞め殺す断末魔の声が聞こえる。
その度に耳を塞ごうとする理緒を、汀は不思議そうに見ていた。

「折角だから入ってみよ」

サーカステントの前について、汀は、係員と思われる男性を見上げた。

『汀、状況を説明しろ』

そこで圭介の声に邪魔され、彼女は頬を膨らませた。

「今、いいところなの」
『端的でいい』
「中核に近い心理壁の中に入り込んだよ。おそらく、この人の主人格だね。自壊型の特徴が見れる。前後左右トラウマだらけだよ! 以上報告終わり!」
『……残り十分だ。慎重に行け』
「主人格……これが……?」

理緒が、そこで震える声を発した。

「高畑先生、こんなのおかしいです! どうしてレベル2の人の心の中が、こんなに濁ってるんですか!」

悲鳴のような声を発した理緒に、汀は息をついて答えた。

「そっか。理緒ちゃんはDIDの人の心の中にダイブするのは、初めてのことなんだ」
「そうですけれど……」
『……DID患者は、既に何らかの強い心的外傷を受けて、精神分裂を起こしている。つまり、冒された主人格の方は、「もう既に崩壊している」状態なんだ。人の心は不思議なもので、そんな状態になったら、正常な人格をつくり、「自己」を保とうとする』

圭介はそう説明し、何でもないことのように言った。

『一般的なDID患者の主人格、その崩壊レベルを自殺病に換算すると、レベル7に相当する』
「な……っ!」

唖然と硬直した理緒の手を引いて、汀は受付の男に言った。

「Two Children and a cat, please!」

汀の肩の上で、小白がニャーと鳴いた。
顔にモザイクがかかった、ピエロ風の男は、チン、チン、チンと切符を切ると、それを汀に手渡した。
インクではなく、血液で「999」とプリントされている。

「これは……」
「持ってた方が良さそうだよ。悪魔の数字、欧米では『666』って言われてるけど、夢の世界では、それが反転して逆になるの」
「私、そんなこと知らない……マインドスイーパーの学校では、そんなこと教えてもらわなかったです。汀ちゃん、どうして……」
「早く。始まっちゃうよ」
「始まるって、何が……」
「ショーだよ」

目をキラキラさせながら、汀はそう言った。

「この人の心の中で、一番狂ってて、一番面白いショーが始まるんだよ!」



緊張のあまり過呼吸のようになりながら歩く理緒の手を引いて、汀は最前列に腰を下ろした。
周りには、手にフライドチキンのようなモノを持った、顔にモザイクがかかった男達が、ワーワーと意地汚い野次を飛ばしながら銀幕に向かって騒いでいる。

「やだ……怖い……怖い……」

震えている理緒の肩を叩き、汀は売り子の男が差し出してきたフライドチキンのようなモノを二つとって、彼女に差し出した。

「うん、味は悪くないよ」
「何食べてるの!」

悲鳴を上げる理緒。
汀はフライドチキンを頬張りながら、銀幕に向かって声を上げた。

「時間がないの! 早く始めてくれる?」

「汀ちゃん、こんなのおかしいよ。一度戻った方が……」

理緒の制止を無視して、汀はもう一つのフライドチキンを、銀幕に投げつけた。
薄い膜がバリンと破れ、次いで、陽気なオクラホマミキサーの曲とともに顔にモザイクがかかったピエロ達が出てきて、全くテンポのずれた踊りを踊り始める。

「あはは! きゃははははは!」

面白くもなんともない光景。
全員が全員バラバラの、意味のない踊り。
しかし汀は心底楽しそうだった。
呆然としている理緒の前で、ピエロたちが引っ込み、ドラムの音と共に、銀幕が上がった。
周りの男達の歓声が大きくなる。
ドラムの音とともに引っ立てられて、鎖を引きずりながら、次々と全裸の女性達が舞台上に現れる。

彼女達はオクラホマミキサーの陽気な曲と共に悲鳴や絶叫を上げながら、処刑人の服を着た男達に、一列に並べられた。
タン、タン、タン、と曲が終わる。
次の瞬間、客席の男達が立ち上がって、手に持った拳銃で、一斉に女性達を撃った。
理緒が絶叫して耳を押さえ、丸くなる。
汀は対照的に、目を輝かせて手を叩いて喜んでいた。
恐る恐る目を開けた理緒の視界に飛び込んできたのは、動かなくなった女性達だったモノと、飛び散った血液、体液だったもの、内臓だったモノ、良く分からない液体でべしょべしょになったぐちょぐちょの舞台だった。

「いやぁあああああ!」

理緒が悲鳴を上げる。

それを皮切りにして、またオクラホマミキサーの曲が流れ、ピエロたちが出てきてテンポ外れの踊りを踊り始めた。

彼らは、動かなくなった女性だったモノの一つを持ち上げた。
客席の男の一人が、声を上げる。
続けて沢山の男達が、値段を示す単語を口走る。
最後に手を上げた男のところに、ピエロ達は死骸を放った。
まだ生暖かいそれが、理緒の目の前にびちゃりと着地する。
四肢が無残に嫌な方向に曲がった女性の死体。
苦悶の表様に、怒り、憎しみ、全ての負の感情を込めた、醜悪な表情をしたそれの髪の毛を掴み、落札した男が、ずるずると「ソレ」を引きずりながら外に歩いていく。
またオクラホマミキサーの曲が終わり、女性達がぐちょぐちょの舞台の上に引きずり出される。
中には反抗する女性もいたが、問答無用で処刑人の持つ斧に頭をカチ割られて動かぬ人形と成り果てていた。

「嫌、こんなの嫌……嫌だ……嫌……」

癲癇の発作のように震えながら呟く理緒の脇で、ヒートアップした汀が騒いでいる。

「私にも銃! 銃頂戴! 銃!」

売り子から拳銃をむしりとり、女性の一人に狙いをつける汀。

「何してるの!」

理緒が悲鳴を上げて彼女を客席から引き摺り下ろす。
熱で真っ赤な顔をしている汀が、怪訝そうに彼女に聞く。

「どうしたの? お腹痛いの?」
「私がどうしたのって聞きたいです! 汀ちゃん、おかしいよ!」
「何が?」
「だ、だって殺されてるよ! 女の人が、銃で……きゃあああ!」

また舞台の上が銃撃され、女性達が崩れ落ちる。

ピエロ達が、今度はバラバラなコサックダンスをしながら、
死体を掴み上げる。
無残な落札が始まった。

「ちぇ、撃てなかった」

不満そうにそう言って、汀は頬を膨らませた。

「折角のDIDなのに、何が不満なの?」
「全部だよ! 汀ちゃん、早く中枢を探そ? 頭がおかしくなるよ!」
「おかしくなんてならないよ」

ニッコリと笑って、汀は言った。

「これ以上おかしくなったら、みんな困るもん」

絶句した理緒と、汀の耳に圭介の声が聞こえてきた。

『時間が差し迫ってる。早めに手を打て』
「手を打てって言われてもなぁ……」

汀はそこで始めて、困ったように周りを見回した。

「この人、過去に女性に酷い目に遭ってるね。多分母親だ」
『患者の過去は検索しないのが礼儀だ』
「知ってるよ」
『理緒ちゃんがお前についていけないそうだ。早く中枢を探せ』
「ついてけないって……何で?」
『いいから探せ』
「命令されるのは好きじゃない」
「汀ちゃん……お願い、本当に早く……」

動悸が治まらないらしく、理緒が胸を押さえながら言う。

その様子を呆れたように見て、汀は一言、呟くように言った。

「理緒ちゃん、マインドスイープするの何回目?」
「……私、今まで小さい子にしかマインドスープしたことなかったから……それに、こんな、世界全体がトラウマなんて、見たことも聞いたことも……」
「世の中にはもっとドロドロでグチャグチャなところもあるんだよ?」

首をかしげて、汀は銃を舞台の上に向けた。

「それに比べれば、これくらい」

パンッ、と彼女は躊躇なく引き金を引いた。
壇上の女性の一人が頭を撃ち抜かれ、白目を剥いて倒れる。

「どうってことないじゃない」
『汀、あと三分だ。カウントダウンを始めるぞ』

圭介の声を聞いて、汀はチッと舌打ちをした。

そこで売り子が近づいてきて、汀の前にしゃがむ。
小白の分までチケットを切って、売り子は理緒の前に屈んだ。

「理緒ちゃん、チケット」

そう言われ、理緒は悲鳴をあげた時にどこかに落としてしまったことに気がつき、青くなった。

「え……わ、私……」

次の瞬間、理緒の首に巨大な鉄枷が嵌められた。

「理緒ちゃん!」

汀が慌てて近づこうとするが、よろけて倒れてしまう。
舞台に引きずり上げられ、理緒は泣き喚いて首枷を外そうと抵抗していた。
やがて、首枷から伸びている鎖が、台に設置されて巻き上げられる。

それに、首吊り自殺のような形で吊り上げられ、理緒はオクラホマミキサーの曲の中、必死に体をばたつかせていた。

『どうした!』

圭介の声に、汀が青くなって返す。

「理緒ちゃんがトラウマに捕まっちゃった!」
『いつまでも遊んでるからだ。汀、時間がない。GDM―Tを注射するぞ。理緒ちゃんは無傷で助けろ』
「分かった!」

汀は緩慢とした動作で、舞台に向かって走り出した。
観客席の男達が、銃を構える。
オクラホマミキサーの曲が聞こえる。
ピエロ達が踊っている。

そこで、汀の体が消えた。
否。
地面を、床が砕けるほど強く蹴って、まるで弾丸のように理緒に向けて飛び上がったのだった。
残像を残しながら、およそ人間とは思えないほど速く汀は理緒に到達すると、近くの処刑人を殴り飛ばし、目にも留まらない勢いで斧を奪い、鎖を断ち切った。
理緒が地面に崩れ落ち咳をする前に、彼女は息を切らしながら彼女を抱き上げ、舞台裏に転がった。
銃撃が聞こえた。

「ゲホッ、ゲホ、ゲホッ!」

理緒が激しくえづく。
涙目で震えている彼女の脇で、汀は体を震わせると、盛大にその場に吐血した。

「みぎわ……ちゃん……」

首の鉄枷を外し、汀に這って近づく理緒。

汀は、真っ赤に充血した目で、彼女を見て、その肩を掴んだ。

『効果時間は十一秒か。良くやった』

圭介の声が聞こえる。

「そこ……」

汀が指をさす。
そこには、オクラホマミキサーを流していると思われる、古びたレコード機があった。

「壊して……早く……!」

タン、タン、タン。
と音楽が終わった。
顔を上げた理緒の背筋が、ゾッと寒くなった。
舞台に、男達が全員上がり、銃をこちらに向けていたのだ。
小白がシャーッ! と鳴いて威嚇する。
理緒は無我夢中でレコード機に駆け寄ると、それを引き倒し、レコードを床にたたきつけた。
そこで、彼女達の意識はホワイトアウトした。



汀は、理緒に支えられ、真っ白な空間に立っていた。
そこには、砂画面が映っている小さなブラウン管型テレビが一台、置いてあるだけだった。
周りには何もない。
どこまでも、何もなかった。

「寂しかったんだって」

汀は、荒く息を吐きながら呟いた。

「寂しいってことは、一番残酷なことなんだよ……」

彼女はそう言って、血痰を吐いてから、その場に崩れ落ちた。

「汀ちゃん!」

「早く……治療して……」

彼女に背中を押され、理緒はブラウン管型テレビの前に立った。
そして震えながら、そのダイヤルに手を伸ばし、回す。
慎重に回していくと、プツッ、という音がして青空が映し出された。

「怖くない……怖くないよ……」

自分に言い聞かせるようにそう言い、理緒はテレビ画面の中に手を突っ込んだ。
画面が水面のように揺らめき、手を飲み込む。
しばらくして、彼女は両手で持ちきれないほどの、黒いミミズを抱えて、画面から引きずり出し、嫌悪感で顔を真っ青にさせながら、それらを地面に叩き付けた。
プツッ、という音がして、テレビの砂画面が消え、真っ白になる。
汀はゴロリ、と地面に倒れると、ヘッドセットに手を伸ばし、言った。

「治療完了……二人とも、目を覚ますよ」



圭介は、朝、誰もいない診察室の中で、硬い表情で資料を眺めていた。
そこには、以前汀がダイブ中、助けたことがある少女の顔写真があった。
灰色の髪の写真と、赤茶けた髪の写真。
そこには、「加原岬」と書かれている。
圭介は携帯電話を取り出すと、どこへかコールして、口を開いた。

「…………やられたな。まさか、マインドスイーパーの意識を弄ってくるとは思わなかった」
『やっとそれに気づいたのかい。遅すぎるね。だから先手を取られるんだ』

電話の向こうの声は、明らかに面白がっているように、弾んだ声で続けた。

『加原岬、十五歳。以前、「そっち」のマインドスイーパーとは、死刑囚の頭の中でご対面したことがあるんだっけか』
「ああ」
『現在は関西総合病院にいるらしいけど、どうしてだか知ってるかい?』

問いかけられ、圭介は口元を醜悪に歪めて笑った。
しかし、抑揚なくそれに答える。

「知らんな」
『……そう。ならいいんだ』

電話の向こうの声はそう言って、端的に付け加えた。

『それじゃ。これ以上話すと逆探知されるから、次からは「鯨」の番号にテルしてね』
「分かった。それじゃ」

プツッ、と電話が切れる。
そこで圭介は、インターホンの呼び出し音が鳴ったのを聞いて、壁のモニターに近づいた。



「……汀ちゃんは、あれからずっと寝てるんですか?」

唖然として理緒が言う。
余所行きの、今時の女の子の服を着て、髪を綺麗に結っている。

「見ていくかい?」

そう言って圭介は汀の部屋のドアを開けた。
ベッドでは、やせ細ってやつれた女の子が、すぅすぅと頼りない寝息を立てていた。

「汀ちゃん……私のせいで……」
「一時的に脳の働きを活性化させるクスリを投与したのは、何も君のためだけじゃない。依頼を成功させるためだったんだ。気に病むことはない」
「高畑先生は……」

そこで、理緒は視線をそらしながら、小さな声で言った。

「高畑先生は、それでいいんですか……?」

問いかけられた圭介は、一瞬沈黙してから答えた。

「……患者を治すことは、汀が一番望んでいることだ。俺は、その助けをしているに過ぎない」
「でも……このままじゃ、汀ちゃん……」
「大丈夫だ。汀は絶対に死なせない」

圭介は目を細めて、汀を見た。

「絶対にだ」

その視線をちらりと見た理緒は硬直した。

どこか、言い知れぬ冷たさ……いつもの彼とは違う、異質の何かを感じ取ったからだった。

「あの……私、失礼します。これ……汀ちゃんが起きたら、渡してください」

そう言って、お土産のお菓子が入った包みを圭介に渡し、背中を向ける理緒。
そこで圭介は、しゃがんで汀の脇に置いてあった箱を取ると、理緒の肩を叩いて振り向かせ、それを渡した。

「持っていくといい。中に、ソフトも何本か入ってる」

それは、3DSの箱だった。
まだ新品と見れるものだ。

「そ、そんな……こんな高額なもの、いただけません……」

「そうでもないさ。別に気に病むことはない。汀が、君とやりたいゲームがあるって言ってたから、買ってきただけなんだ。あいつからのプレゼントだと思って、受け取ってやってくれ」
「…………あ、ありがとうございます……」

肩をすぼめて、小さな声でお礼を言う。
そこで彼女は、思い出したように圭介に聞いた。

「あの……」
「ん?」

柔和な表情をしている彼に少し安心したのか、理緒が続ける。

「私達が治療したあの患者さん……DIDは、治ったんですか?」
「……」

圭介は一拍置いてから、何でもないことのように言った。

「治ってるわけないだろう? その治療までは頼まれてない」
「え……」

絶句して、理緒は言葉を失った。
固まっている彼女に、圭介はにこやかに笑いながら言った。

「DIDをマインドスイープで治療するのは無理だよ。君達は、頼まれていた通りに、自殺病を完治させた。何か、問題があるかい?」
「で、でも……それじゃ、患者さんは……」
「理緒ちゃん」

理緒の言葉を遮り、圭介は言った。

「自殺病にかかった者は、決して幸せにはなれない。そういう病気なんだよ?」

言葉を返せないでいる理緒の前で、ドアを空け、彼は続けた。

「暑いだろうから、タクシーを呼ぼう」
「え……大丈夫です。それにお金が……」
「いいんだ。請求書は大河内にツケといてくれ」

圭介はそう言って、ニコリと笑った。

「それくらい別に、保護者ならしてくれてもいいだろ」

笑顔の奥に、どこか暗い場所がある表情だった。
理緒は何か言葉を発しかけたが、やがてそれを飲み込んで、小さく微笑んでコクリと頷いた。
汀のベッド脇で丸くなっていた小白が、大きくあくびをして、また目を閉じた。



第7話に続く



お疲れ様でした。
次話は明日、5/11に投稿予定です。
気長にお待ちくださいませ。
m(_ _)m

皆様こんばんは。
第7話の投稿をさせていただきます。



第7話 ありがとう



人が「死」を認識するのは、何歳の時だろう。
死を恐れるのは、何歳の時だろう。
そして、死を受け入れるのは、何歳になってからのことだろう。
それを知っている人、覚えている人は殆どいないことと思う。
そもそも死とは何なのか。
恐怖し、畏れ怒り危惧し、そして結果的に「何なのか」分からず、自己完結して紛らわそうとする。
そんな不確定的で未確定かつ流動的な要素。
そもそも要素であるのかどうかも分からないそれは、私達の頭の中、そのすぐ傍を常にたゆたっている。



汀は、壁を這っている小さな蜘蛛を、ぼんやりと見ていた。
どこから入り込んだのか、一センチくらいの茶色い蜘蛛が、一生懸命のぼろうとしている。
どこに向かっているのか。
上に行って、そして窓も開かないこの部屋のどこに隠れ、何を獲って過ごすつもりなのか。
汀の脳裏に、足を天井に向け、床に転がっている蜘蛛の姿がフラッシュバックした。
気づいた時、汀は動く右手を、強く壁に叩きつけていた。
ジーンと手が痺れる。
ぼんやりとした視線を手の平を広げて、そこに向けると、もはや飛沫と化した蜘蛛の姿があるばかりだった。

「どうした?」

扉を開けて圭介が入ってくる。
汀は小さく咳をしてから、手と壁をティッシュで拭いて、それをゴミ箱に捨てた。

「何でもない」
「具合が悪かったらすぐに言えよ。そうでなくても、最近お前は不調なんだ」
「……お外に出たいな」
「生憎と今日は土砂降りの大雨だ。気づかなかったのか?」

圭介がカーテンを開けると、外の土砂降りの景色が汀の目に飛び込んできた。
しかし汀は、それを一瞥しようともせずに、ぼんやりと繰り返した。

「お外に行こうよ……何か食べに行こ」

「今の体調と、この天気じゃ無理だ」
「退屈だよ」
「ゲームは? 漫画は?」
「そんな気分じゃない」

我侭を言う汀を、圭介は呆れたように見ていたが、少しして息をつき、言った。

「……なら、患者の診察をしてみるか?」
「え?」

汀はきょとんとして圭介を見た。

「でも、マインドスイーパーは、先入観をなくすために、患者さんのことはあんまり知らないほうがいいって……」
「比較的軽度なら、別に構わないケースもある。それに、お前の精神衛生も考えてな……」

少し表情を暗くした圭介を、汀は不思議そうに見ていた。
やがて彼女は頷いて、彼に言った。

「どうせ暇だし、やってみるよ」



「へぇ、あなたがねぇ。マインドスイーパーっていうのかい。小さいのに、たいしたもんだねぇ」

動く右手を温かい両手で包まれ、汀はきょとんとした顔で、その患者を見た。

「こんなに痩せて。ちゃんとご飯は食べてるのかい?」

優しい顔をした、老婆だった。

「え……あ……は、はい……」
「そうだ。飴ちゃん食べるかい? 今時の女の子が好きそうな飴じゃなくて、のど飴しかないけど、私は黒糖入りが好きでねぇ」

かばんの中から飴を取り出し、二つも三つも汀の手に握らせる老婆。
温かい言葉と行為の攻撃に、汀はついていくことが出来ずに、圭介に困った視線を送った。

しかし圭介は、壁にもたれかかって腕を組んだ姿勢のまま、軽くにやけただけだった。
圭介を頼りに出来ないと気づいた汀は、飴を片手で剥いて口に入れ、残りをポケットに入れた。
そして戸惑いがちに口を開く。

「あの……診察……」
「あぁ、そうだったね。今日はお嬢ちゃんと、お話が出来るんだってね。私の孫も、小さい頃はお嬢ちゃんみたいに可愛かったのよ。今では結婚して、太っちゃったけどねぇ」
「は、はぁ……」
「何歳なんだい? 髪は染めてるのかい? 駄目だよ、小さい頃に染めたら、髪が痛んじまうよ」
「十三歳です。髪は、薬の影響で……」
「あら、そうだったのかい。それは悪いことを聞いたね……」

老婆のペースに流されまいと、汀は無理やりに話題を変えた。

「あの……自殺病の治療に来られたと聞いたんですけれど……」

とても、自殺病を発症しているとは思えない、優しい雰囲気と、元気なオーラを発している女性だった。
それを聞いて、女性はしばらく目をしばたたかせた後、合点がいったように頷いた。

「ええ、そうなのよ。赤十字病院に行ったら、自殺病の第一段階初期とか言われて、もう困っちゃうわぁ」
「だ、第一段階初期……?」

汀はそれを繰り返して、カルテに目をやった。
圭介が書いた流浪なドイツ語が目に飛び込んできたが、当然汀には読むことは出来ない。

「それなら、投薬で十分治療できると思います。自覚症状もないみたいですし……赤十字の先生は、何て言っていましたか?」

戸惑いがちに汀がそう聞くと、老婆はにこやかに微笑んで答えた。

「それがね、どうも私は、自殺病の薬が効かない体質らしいのよ。困っちゃうわ、本当」
「は、はぁ……」
「よく聞いてみたら、ここの病院が一番スッキリ取り除いてくれるっていう話じゃないの。少し遠かったけど、来てみたっていうわけ。お嬢ちゃんと会うのは初めてだけど、高畑先生とは何回か診察でご一緒してるのよ」

ペラペラと、良く口が回るものだと言うくらい流暢に老婆は喋ると、バッグから小さなペットボトルを出して、その中のお茶を喉に流し込んだ。

「圭介……」
「ん?」

圭介を呼び、汀は彼の方に車椅子を向けた。

そして小声で言う。

「赤十字に回したら?」
「まぁそう言うな。息抜きも大事な仕事のうちだ。それより、お前の見立てではどうだ、『汀先生』?」

問いかけられ、汀は手元の資料に目を落とし、右手で器用にめくりながら言った。

「別にダイブしてもいいけど……話口調もはっきりしてるし、瞳の混濁も見られないし……情緒不安定な面も、確認されてないみたいね……投薬が出来ないらしいけど、放っておいても自然治癒するんじゃないかしら」

それを聞いていた老婆が、口を挟んできた。

「それでも心配じゃないの、頭の中に正体不明の病気がいます、なんてことはねぇ。できればすぐにはっきりとした状態に戻して欲しいの」
「でも……自覚症状がないんでしたら、放置していても問題はないと思いますけど……」

汀はボソボソとそう返すと、息をついた。

「一応ダイブしておきますか? 一応っていう表現はおかしいかもしれませんけど……ただ……」

汀は、そこでキィ、と車椅子を老婆に向けた。

「心の中を私に見られて、あなたはそれで構わないんですか?」

端的な疑問をそのまま口に出す。
老婆は、しかし笑顔でそれに頷いた。

「最初は、どんな子がくるのかと思ってたけれど、あなたみたいな可愛い子なら大歓迎よ。どうぞ、沢山覗いていってくださいな」

「はぁ……そうなんですか」

納得がいかない、といった風に汀が首を傾げる。
そこで圭介が汀の脇に移動し、デスクから書類の束を取り出した。

「それでは、契約の確認をしましょうか。それと、当施術は保険の対象外ですので、その点もご了承ください」
「ええ、分かっています。どうぞ、宜しくお願いします」

老婆が深く頭を下げる。
汀は、それを複雑な表情で見ていた。



汀は、施術室の中で、てきぱきと準備をしている圭介を見た。
老婆は、麻酔薬を導入され、ベッドに横になっている。
頭にはマスク型ヘッドセットが被せられているが、別段、手足を縛り付けられているという風な様子はなかった。

「絶対おかしいよ。圭介、何企んでるの?」

そう問いかけられ、計器を点検しながら圭介は返した。

「別に。何も」
「私がやらなくても、赤十字のマインドスイーパーで対処できる内容だよ。てゆうか、ダイブする必要がないと思う」

汀の膝の上で、白い子猫、小白がニャーと鳴く。

「ダイブする必要がないって、どこをどうしてそう判断するんだ?」
「だって……たかがレベル1でしょ?」

伺うようにそう聞いた汀に向き直り、圭介は続けた。

「たかが? レベル1でも自殺病には変わりないだろ。何嫌がってるんだ?」
「嫌がってなんていないよ。でも、わざわざ私が行く必要があるのかなって」
「汀、何か勘違いしてないか?」

圭介は壁に背中でもたれかかり、息をついた。

「お前は、人を助けたいんだろう? なのに、この人は助けなくてもいいって言うのか」
「助ける必要がないと思うだけ」
「それはお前の驕りだよ」

断言して、圭介は少しきつい目で汀を見た。

「お前、自分を何か特別な存在だと思ってないか? お前は、特A級能力者である前に、一介の、ただのマインドスイーパーだ。マインドスイーパーは仕事をしなきゃいけない。それがどんな患者であってもだ」
「……圭介は、それが本心なんだね」

そう言って汀は悲しそうに目を伏せた。

「何?」
「圭介は私のこと、道具としか見てないんだ。道具だから言うこと聞けってことでしょ? 道具だから、文句言うなってことでしょ?」

怒りではなく、悲しみが伝わってくる言葉だった。
圭介はしばらく押し黙っていたが、近づいて汀の頭を撫でた。

「すまん、少し言い過ぎた」
「…………」
「最近お前、情緒不安定だぞ。体調も良くならないしな。だから、単純に、『普通』の人間の心理壁を観光ついでに見て来い、っていうだけのつもりだったんだ。いらない邪推をするなよ。幸い、患者もそれに同意してくれてる。小白とダイブして、遊んで来い」
「……遊ぶ? 遊んでいいの……?」
「ああ。そのために用意したステージだ」

圭介は軽く微笑んで、汀にヘッドセットをつけ、マスク型ヘッドフォンを被せた。

「少し、それで頭冷やして来い。時間は四十分に設定する」
「え?」

汀が素っ頓狂な声を上げる。

圭介は頷いて言った。

「ああ。それだけあれば、十分遊べるだろ。外に連れて行けない代わりと考えてくれればいい」
「分かった。圭介、変なこと言ってごめんね。遊んでくる!」

汀が笑ってそう返す。
圭介は、計器前の椅子に腰を下ろし、少し表情を曇らせた。
しかしすぐに柔和な表情に戻って、言う。

「行っておいで」



汀は目を開いた。
そこは、巨大なトンネルのようになっている空間だった。
足元の小白を抱き上げて肩に乗せ、汀は周りを見回した。

「へぇ……」

そう呟いて、息をつく。
そして彼女は、ヘッドセットのスイッチを入れて口を開いた。

「ダイブ完了。さすが、精神崩壊が起こってない人の心の中って、綺麗ね」
『そうか。状況を教えろ』
「整頓された心理壁の内面に続く通路の中にいるみたい。トラウマに構築された世界じゃないね」
『今回のメインは観光だ。ゆっくりとしてくるといい』
「分かった」

頷いて、汀は散歩にでも行くような調子で歩き始めた。

ベートーヴェンの曲が聴こえる。
落ち着いた空気と、清涼感が漂う綺麗な場所だった。
トンネルは、全てジグソーパズルで出来ていた。
綺麗に全てのピースがはまっていて、そこには、老婆が観光で行った所なのか、
いろいろな景色が映し出されていた。
そこには必ず、同年代の男性と一緒にポーズをとっている老婆の姿があった。
それは、写真だった。
写真のジグソーパズルで構築されたトンネル。
思い出のトンネルだ。
汀は面白そうに笑いながら、手を広げてその場をくるくると回った。
足元もジグソーパズルだ。
どこに光源があるのか分からないが、ぼんやりと光っていて明るい。

「見て、小白。ハワイだよ、ハワイ。行きたいなぁ」

汀は、にこやかにピースサインをしている老人と老婆を見て、自分もピースを返した。

「私が生きてるうちに、行けるかなぁ」
『ハワイになら、夢の中で何回も行ってるだろ』

そこで圭介が口を挟む。
汀は頬を膨らませてそれに返した。

「夢と現実は違うの」
『そうなのか。お前の感覚は良く分からんが』
「本物は、もっとこう……違うんじゃないかなぁ。だって、この写真のお爺ちゃんとお婆ちゃん、笑ってるもん。こんなに楽しそうに、笑ってるもん」
『…………』
「私、こんなに楽しそうに笑えないな。ねぇ圭介」

汀は、裸足の足を踏み出して彼に問いかけた。

「私、大きくなったら大河内せんせと結婚できるかな」
『…………』
「結婚したら、普通にお母さんになって、普通に子供産めるかな」

圭介は、それには答えなかった。

汀は写真を覗き込んで、構わずに続けた。

「男の子がいいな。そして、女の子二人。せんせはなんて言うだろ。せんせは、忙しいから子育てできないかな。そしたら、圭介が手伝ってくれる?」
『…………』

圭介はまだ、押し黙っていた。

「圭介?」

ヘッドセットの向こうに怪訝そうに問いかけた汀に、圭介は口を開いた。

『汀、よく聞け。お前は……』
「ん?」
『……お前は……』

彼が言い淀んだその時だった。
突然、静かに鳴っていたベートーヴェンの音楽が消え、代わりに救急車のサイレンの音が鳴り響いた。
周囲も赤い光源になり、汀はハッとして周りを見回した

「トラウマだ。でもどうして……?」
『……トラウマだって? どのくらいのレベルの奴だ?』
「この人の心が警鐘を鳴らしてるくらいだから、外部からの外的衝撃が加わったってことだと思うけ……きゃあ!」

ズシンッ、とトンネル内に地震が起こった。
バラバラと写真のジグソーパズルが降って来る。
汀は、震度七ほどにも匹敵する地震に抗うことも出来ず、ゴロゴロと地面を転がって、したたかに頭を壁にぶつけた。
ザァァァッ! と雨のようにジグソーパズルが降って来る。
息も出来なくなり、目の前が確認できなくなった汀の手の中の小白が、ボンッ、と音を立てて膨らんだ。
そして傘のようになり汀の体を覆う。
ジグソーパズルの落下はとどまるところを知らず、天井、壁、床全ての写真が崩れ落ち、無残に雪のように積もった。
地震が収まり、時折パラパラとパズルが落ちてくる中、汀はもぞもぞとその中から這い出した。
体の所々が、パズルの角で切れてしまっている。

小白が空気の抜ける音を立てて元にもどる。
そこで、ドルンッ、とエンジンの音が聞こえた。
汀がジグソーパズルの海の中、サッと顔を青くして振り返る。
そして、彼女は目玉を飛び出さんばかりに見開いて、硬直した。
そこには、ドクロのマスクを被り、右手に錆びた巨大なチェーンソーを持った男がゆらりと立っていた。
ピーポーパーポーピーポーパーポーと救急車のサイレンが鳴り響いている。

「いやああああああああああああ!」

汀は、耳を塞いで目を閉じ、絶叫した。
エンジンの音は、チェーンソーが起動した音だったのだ。

『どうした、汀!』
「やだ、やだ、やだ、やだ!」
『落ち着け、何が……』
「やだやだやだやだやだやだ! いやあ! いやあああああ!」

完全にパニックになった汀は、パズルの海を抜け出そうともがいて、その場に盛大に転んだ。

しかしそれでも、全身をブルブルと震わせながら、這って逃げようとする。
男が、パズルを踏みしめて足を踏み出した。

ズシャリ。
ギリギリギリギリギリ。

チェーンソーの端が、壁に当たりそこを削り取る。
汀は両目から涙を流し、腰を抜かしてその場にしゃがみこんだ。

「あ……あああ……あ……あ…………」

言葉になっていなかった。
男がゆっくりと近づく。
小白が、男と汀の間に立ち、シャーッ! と牙を剥き出して威嚇した。
その体が風船のように膨らみ、全長五メートルほどの化け猫の姿に変わる。

『汀、トラウマか? まさかドクロの男か!』
「圭介! 圭介、か、か……回線! 回線切って! 助けて! 助けて! 助けてえええ!」

いつもの飄々とした威勢はどこに行ったのか、汀が泣き叫ぶ。

彼女は後ずさって逃げようとしたが、壁に追い詰められてしまっていた。

『分かった、今すぐに回線を……ブブ……』

そこで圭介の声がノイズ混じりになり、ヘッドセットから、砂画面の音が流れ出した。

『何…………ザザ…………これ…………ブブブ…………』
「圭介!」

汀の悲鳴が、虚しく響く。

「一分…………逃げろ……し……待って…………ブブ…………」

プツン、と音が消えた。
次いで、突然ヘッドセットからの音がクリアになった。
そして面白そうに笑う、少年の声が聞こえる。

『なぎさちゃん』

踊るようにその声は言った。

マスクの男が顔を覆うドクロの口元をめくり、裂けそうなほど広げた。
ヘッドセットと、マスクの男両方から、声が聞こえた。

『みーつけた』

そこで、小白がマスクの男に飛び掛った。
男がチェーンソーを振り回し、小白のわき腹をなぎ払う。
ドパッと鮮血が散り、小白が地面を、パズルを飛び散らかせながら転がった。
次いで男は飛び上がると、小白の脳天に向けてチェーンソーを振り下ろした。

「小白!」

汀が震えながら悲鳴を上げる。
そこで、しゃがみこんでいた汀の両腕に、壁から飛び出た鉄の枷が嵌められた。
あっ、と思う間もなく、彼女は壁に引き寄せられ四肢を磔られた。
首と両足にも枷がはまり、汀は涙をボロボロと流しながら、横に目をやった。
彼女は、縦にした棺のような場所に磔られていた。

そして、ドアを連想とさせる脇の部分には――。
沢山の長い針が、内側に伸びた棺の裏部分が見えた。
頼りなげに揺れている。
棺の扉が閉じたら、中にいる汀は、その沢山の針で串刺しになってしまう。
そういう寸法だった。
暴れることも出来ずに、汀はただ、呆然と体を震わせていた。
彼女の股の間が熱くなる。
あまりの恐怖に、小さな少女は、年齢相応に恐怖し、そして失禁してしまっていた。
マスクの男が飛び上がる。
そして小白の脳天にチェーンソーを突き立てる。
しかし小白は、頭を強く振ると、男を跳ね飛ばした。
飛ばされた男は、まるで無重力空間の中にいるかのように、天井に「着地」すると、そこを蹴って、小白に肉薄した。
そしてパズルの一つを手にとる。
それがぐんにゃりと形を変え、ジグザグの鋲のようになった。

男は、それを小白の腕にたたきつけた。
小白の右腕を鋲が貫通して、地面に縫いとめる。
もがく化け猫に次々と鋲を打ち込み、四肢を地面に磔にしてから、男はチェーンソーを肩に担いだ。
そして紐を引っ張って、ドルンドルンとエンジンを空ぶかししながら、ゆったりと汀に近づく。

「や……嫌あ…………」

口を半開きにさせて、ただひたすらに恐怖している汀に近づいて、男はマスクを脱いだ。

「ひっ!」

思わず顔をそらした汀の前で、男は

「あは……ははははは!」

と面白そうに笑うと、チェーンソーを脇に投げ捨てた。

汀が恐る恐る目を開くと、そこには白い髪をした、十五、六程の少年が立っていた。

「はは……あっはっはははははは!」

爆笑だった。
少年は腹を抱えて、汀が恐れおののいている様子を指差して笑うと、しばらくして、呆然として色を失っている彼女に、息をつきながら言った。

「はは……はははは……面白かった! なぎさちゃんがこんなに驚くなんてさ! どう? 似てた? 僕演技すげぇ上手いでしょ?」

少年――ナンバーXは汀の前をうろうろしながら、彼女の顔色を伺うように、チラチラと視線を投げてよこした。

「どのくらい似てた? 百点? 二百点? 僕は三百点は固いと思うんだけどな」
「だ……」

汀は小さく、か細い声で呟いた。

「誰……?」

まだ彼女の両目からは涙が溢れている。

ナンバーXは少しきょとんとした後、ポン、と手を叩いた。

「もしかして、僕悪いことしちゃったかな? そっか。GMDの副作用を忘れてたよ。うっかりしてた」

彼は顎に手を当てて考え込むと、せかせかと歩き回りながら言った。

「でもグルトミタデンデオロムンキールのA型だと仮に仮定したとしても、そこまで急激な記憶の喪失ってあるのかな? まぁ、なぎさちゃんなら、そんなこと関係ないよね!」

ナンバーXはそう言って笑うと磔られて失禁している少女の周りを伺うようにうろついた。
怖気が汀の背を走る。
何故、彼がこんなに怖いのか、それは汀には分からなかった。
しかし彼女は、あまりの恐怖と、嫌悪感に、彼の視線から何とか逃れようと、体を無理にねじらせて抵抗していた。
その様子をクスクスと笑いながら見て、彼は言った。

「無駄だよ。僕の空間把握能力と構築能力は、なぎさちゃんなら良く知ってるでしょ? 僕の『白金の処女(プラチナメイデン)』は絶対に破れない」

そう言って、ナンバーXは、キィキィと、わざと音を立てて針がついた扉を動かし、汀の泣き顔を楽しむと、怪訝そうに眉をひそめた。

「どうしたの? まさかおしっこもらすほど驚くとは思わなかったけど、僕はそんなこと気にしないよ? あ……! そうだ、この前、会ったことも忘れちゃってるか。てゆうことは、僕のことも分かんない? そんなわけないよね? ね? どう? 僕のこと思い出せない?」

ナンバーXが顔を近づける。
汀は、必死にそれから目をそむけようとした。
そこで、汀の脳裏に、今よりも少し幼いナンバーXの顔がフラッシュバックした。
笑顔で、右手に何かを包んでいる。
その何かを、差し出している。
笑顔で。

「い……」

汀は、引きつった声で、しゃっくりのように呟いた。

「いっくん……?」
「ほら来た! やっぱりなぎさちゃんだ! GMDなんてクソ喰らえだね! 僕達の絆に比べたら、そんなもん屁でもないさ! そりゃそうさ! 僕達は『前世から結ばれる運命にあった』二人なんだからさ! ね? なぎさちゃん!」

一人でヒートアップして騒ぐ、ナンバーX。
汀はそれを呆然と見つめ、しかし自分が、彼の名前以外思い出せないことに気づいて青くなった。
それ以前に、本当にいっくんというのか。
それは名前から取ったあだ名なのか、苗字から取ったものなのか。
いや、それよりも。

私達に、苗字なんてあったのか?

「……ッは!」

そこで、汀の右即頭部に凄まじい痛みが走った。
汀は、歯を噛み締めてそれに耐えながら、かすれた声を発した。

「あなたが……『いっくん』……?」

「ん? そうだよ。今更どうしたの?」
「な……なぎさって……誰?」

そう問いかけた彼女を、きょとんとした顔で見て、ナンバーXは答えた。

「君だよ」
「私……? 違う、私は……」
「あー、そういうのいいから。大事なのは過去や未来じゃなくて、今。今僕と君はこの空間に二人きりでいる。それが重要じゃないか。 なぎさちゃんが、自分のことを知らなくても、僕は全然構わない。だって、僕はなぎさちゃんのこと、何でも知ってるもん」

怖気の残るような台詞をすらすらと笑顔で言って、無邪気に彼は扉を動かした。

「だから、ね。ちょっとだけなぎさちゃんに痛い思いをして欲しいんだ。大丈夫。死にはしないから。『機関』が君の事を探してる。僕もだ。だから、君のいる位置を逆探知させてもらうよ」
「い……いや…………」

扉の針が迫ってくる。

訳が分からない。
分からないが。
このままでは、自分は殺されてしまう。
もがくが、「白金」と彼が形容した通りに、枷はびくともしなかった。

「大丈夫。すぐに済むから。痛いのはほんの五秒くらいさ」
「待って……!」

汀は悲痛な声を上げた。

「ん?」

扉を止めて、ナンバーXは汀の顔を覗き込んだ。

「どうかした?」
「一つだけ教えて……! お願い……私達に何があったの……!」
「…………」

彼は動きを止めて少し考え込んだ。
そしてポケットに手を入れて、クローバーの葉を一枚取り出した。

「持ってるでしょ?」

端的に問いかけられ、汀は首を横に振った。
ナンバーXは怪訝そうな顔をして、汀を見た。

「嘘ついてもすぐに分かるよ。これは特別な空間に続く鍵なんだ。『僕』が、『絶対に外れないように』なぎさちゃんの心の中に、縫いつけたじゃないか。忘れたとは言わせないよ?」

汀の脳裏に、ある光景がフラッシュバックした。

燃える家。
悲鳴。
断末魔の絶叫。
ドルンドルンと鳴り響くチェーンソーの音。
紙芝居のように揺らめく景色。
マスク。
頭蓋骨。
頭蓋骨の形をしたマスクを被った男。
血まみれのチェーンソーを持って、もう片方の手に、髪の毛を掴んだ人間の頭を持っている。
そう、頭部だけ。
その頭部は。

そこまで思い出した時、汀のヘッドセットの電源がついた。

『再アクセス完了。全ての設定をニュートラルにして自動構築開始。汀、聞こえるか?』
「圭介!」

汀が悲鳴を上げる。

「助けて、圭介!」
『もう大丈夫だ、サンプルZを投与した。効果開始まで、あと三秒』
「チッ!」

そこで、ナンバーXが扉を引いた。

「ごめん、なぎさちゃん! 君のためなんだ!」
「……!」

バタン。
ドアが閉まった。
強くそれを押し込み、息を切らしてナンバーXは歯噛みした。

「くそ……あの医者か! 僕のなぎさちゃんに……くそ! くそ!」

地団太を踏む彼。

汀は、その彼を、冷めた目で見つめていた。
後方、二十メートル程後ろに、彼女は立っていた。
今まで拘束されていた部分が、青黒いあざになっている。
いつの間に脱出したのか。
いつの間に枷を外したのか。
全く分からないほどの、一瞬の移動だった。
ナンバーXは、ポカンとした顔で汀を見ると、急いで白金の処女の扉を開けた。
中には、何も入っていなかった。

「え……」

呆然と呟き、彼は汀に向き直って、言った。

「ど……どうしたの? 何、したの?」
「…………」

汀は、妙に落ち着いた表情で彼を睨んでいた。

「なぎさちゃん! 君じゃないか! 僕の構築から抜け出せる人はいないって、褒めてくれたの、君じゃないか! なのに……なのにどうして? ずるいよ!」

喚くナンバーXの耳に、汀がスライドさせたヘッドセットから、圭介の声が流れて飛び込んできた。

『クソガキが』

汀が首の骨を、コキ、コキ、と鳴らす。
瞳は光を失っており、不気味な様相を呈していた。

『俺より早く鯨の居場所に気づくとは、たいしたもんだが、一手遅かったな』

汀が軽く笑って、見下したように彼を見て言う。

「マインドジャック……?」

ナンバーXが唖然として呟く。

「なぎさちゃんの意識を乗っ取ったな! ヤブ医者!」
『ジャリが。オトナへの口の利き方というものを、どいつもこいつも知らんらしい』

汀の口を通して圭介はそう言い、彼女の体を一歩、動かした。

汀の意識は、なくなっていた。
圭介はいつもの柔和な様子とは裏腹に、黒い声調子で続けた。

『いい加減にしろよ変態野郎。こいつは俺のものだ。誰にも渡しはしない』
「なぎさちゃんは僕のものだ! てめぇの玩具じゃねぇんだよ!」

ナンバーXが、そこで吼えた。

「なぎさちゃんを返せ!」
『面白いじゃないか。かかってこいよ』

汀が手を上げ、焦点の合わない瞳で彼を見て、挑発的に動かす。

「この……!」

ナンバーXはそこで走り出した。
そしてパズルの一つを掴んで、振る。
それがぐんにゃりと形を変え、リボルバー式の拳銃になった。

汀も走り出し、足元のパズルを手に取る。
それが同様に形を変え、刃渡り三十センチはあるかという、長大なサバイバルナイフに変わった。

「やめろ! なぎさちゃんの脳をこれ以上刺激するな!」

ナンバーXが怒鳴って、彼女の頭に銃を突きつける。
しかしその銃身を手で弾き、汀は、躊躇なくナイフを突きこんだ。
少年がそれを身をひねって避け、何回か宙返りを繰り返して距離を取る。
そして銃弾を連続して発射する。
次の瞬間だった。
汀は、キン、キン、キン、と言う金属音を立てて、目の焦点が合わないまま、目にも留まらない速さでナイフを振った。
彼女の後ろの壁に、それぞれ両断された銃弾が突き刺さる。

「てめぇ!」

ナンバーXが怒鳴る。

そこで、汀の体が消えた。
彼女は地面を蹴って、凄まじい勢いで加速すると、一瞬でナンバーXに肉薄した。
そしてナイフを横に振る。
身をかがめてそれを避けた彼の髪の毛が、途中から綺麗に両断されて散る。

「くそ……!」

毒づいた彼の拳銃が、汀の持つナイフと同じものに変化した。
それで斬撃を受け止めて、鍔迫り合いのような状況になりながら、ナンバーXは汀を押し返した。

「ふざけるなよヤブ医者……下衆め! その子は僕のものだ! 貴様のものじゃない!」
『今は俺のものだ』

汀が、目を細めてにやぁりと笑った。

『最高の玩具だよ』
「この……!」

ナンバーXが、汀を突き飛ばす。

しかし汀は猫のように地面をくるりと回ると、 無表情でナンバーXの喉笛に、ナイフを突き立てた。

「か……」

空気の抜ける音と共に、彼がよろめく。
ナイフを抜いて、汀はもう一度、ナンバーXの胸にそれを突き刺した。
そして彼を蹴り飛ばす。

『これでそのおしゃべりな口も、しばらくはきけないだろう。ウイルスを忍ばせてもらった。お前が使ったのと、同じ手だ』

汀の体から力が抜け、彼女はナイフを取り落とし、ずしゃり、と無造作にその場に崩れ落ちた。

『前に汀と遭った時に、接触ついでに、こいつの体にウイルスを付着させたな? それで位置を探知して、ジャックしやすそうな場所にダイブしたから、襲ってきたと言うわけか』

ヘッドセットの向こうで、圭介は醜悪に笑った。

『網を張っていた甲斐があったよ』

ナンバーXは、地面に倒れこんで、汀の方に手を伸ばした。

「な…………ちゃ…………」

その手が、パタリと力をなくして地面に崩れる。
しかし、水溜りのように広がった血液が、汀の方に流れ、彼女の足に触れた。
それを見て、ナンバーXはニヤリと笑い、そして動かなくなった。



汀が目を覚ましたのは、それから数分経ってのことだった。
彼女は目を開き、緩慢にその場に起き上がる。
赤く点滅している光源に照らされた、一面崩れたジグソーパズルだらけの空間だった。
地面には赤く血液が広がっている。
それが病院服を濡らしているのを見て、汀は慌てて体を触った。
そして股間の不快さに顔をしかめ、他に異常がないことを確認してから、ヘッドセットのスイッチを入れる。

「……圭介……?」
『起きたか。大丈夫か?』
「…………ううん。大丈夫じゃない……頭がガンガンする……」
『お前、トラウマと戦ってるうちに、記憶が飛んだんだよ。大丈夫だ。もう心配はない』
「トラウマと……?」

汀は自分の手を見た。
手の平がぐっしょりと血で濡れている。

そこで彼女は、地面に小白が横になっていることに気がついて、慌てて駆け寄った。

「小白……!」

小さな猫はプルプルと震えていた。

両手足から血が出ている。

「小白が怪我してる!」
『早く患者を治療して、戻って来い。小白もそうすればついてくるだろ』
「わ……分かった」

先ほどまでのことを全く覚えていないのか、汀は慌てて周りを見回した。

「異常変質心理壁は……」

彼女はそう呟き、少し離れた場所に、一箇所だけ崩れていない写真があるのを見た。
人間大のそれは、淡く白い光を放っている。

それは、巨大な鯨の絵の前に立っている老婆と老人の写真だった。
一つのジグソーパズルのピースとして、それが立っている。

「この人にとって特別なものなんだ……」

そう呟いて、汀は頭を抑えながら、写真の右半分にスプレーのようなもので殴り書きがしてある文字を読んだ。

「……どういうこと?」
『分からん。何かのトラウマだろう。消せるか?』
「やってみる」

汀はそう答え、頭を抑えてふらつきながら、その数字を手でこすった。
簡単にそれは消え、写真が輝きを増した。

「治療完了……目を覚ますよ……」

汀はその場に眠るように崩れ落ち、そこで意識を失った。



汀が出歩けるようになったのは、それから八日目のことだった。
彼女は、診察室のドアを開いて、にこやかな表情で座っている老婆を見て、表情を暗くした。
そして車椅子を自分で操作して、彼女の前に移動する。

「お待たせしてすみませんでした……」

かすれた声でそう言った汀を、老婆は心配そうに見つめ、そして彼女の右手を手に取った。

「どうしたの? こんなに手を冷たくして。無理して、出てきてくれなくても良かったのよ?」

汀は、そう言われてしばらく黙っていたが、やがてしゃっくりを上げたあと、ボロボロと涙をこぼした。
その様子を、圭介は壁にもたれかかり、腕組みをしながら、表情の読めない顔で見ていた。

「泣かないで。あなたは良くやったわ」

老婆に頭を撫でられ、汀はしゃっくりを上げながら言った。

「でも……私……私、あなたの記憶……思い出、全部消しちゃって……」

老婆は、全ての「思い出」をなくしていた。
具体的には、七年前に亡くなった夫との、旅行の思い出を全て、なくしていた。

「私、壊すことしか出来ない……私、人を治すつもりしてて、本当は人を壊してるのかもしれない……」

それは、圭介にも言ったことがなかった、汀の心の吐露だった。
圭介が顔を上げ、意外そうな顔をする。
老婆は、しかしにこやかな顔のまま、汀の手にのど飴を握らせた。

「あのねぇ、汀ちゃん」

彼女はそう言うと、微笑んだ。

「それは違うと思うわ」

「違う……?」
「あなたは、確かに私の中の、夫との思い出を壊したのかもしれないわ。私、何も思い出せなくなっちゃったもの。でもね」

彼女はそう言って、鯨の絵の前でポーズをとっている自分と、夫が写った写真を汀に差し出した。

「この思い出だけは、あなた、守ってくれたのよね」
「これ……」

汀は呟いて、そして写真を受け取った。

「これはね、交通事故で死んだ、私の息子が撮ってくれた写真なのよ。私の中で、一番大事な思い出」
「私……何もしてない」

汀は首を振った。

「私何もしてない。これは、あなたの思い出が強かったから、残っていただけの……」
「それでも……あなたが『守って』くれたことにかわりはないわ」

老婆はまた、微笑んだ。

「私には、それで十分なのよ」
「どうして……?」

汀は首をかしげてそう聞いた。

「思い出がなくなったんですよ……怖くないんですか? 苦しくないんですか……悲しくは、ないんですか? 私のことが、憎くはないんですか?」

老婆は首を振った。
汀は、また目から涙を落とした。

「どうしてそんなに、私に優しく出来るんですか……」

汀は、右手で顔を抑えた。

「優しくしないでください……私、本当に何もしてない……何も、私には出来なかった……」
「汀ちゃん」

老婆はそう言うと、彼女の肩を叩いて、そっと撫でた。

「大事なのは、『今』じゃないかしら」

そう言われ、汀はハッとした。
思い出せない。
思い出せないが……。
誰かが、そう言っていた気がする。

「過去の記憶がなくなっても、大事なのは今、何をして、これからどこに行くかなんじゃないかしら。私は、あなたに自殺病を治療してもらったわ。これで、心配なく『明日』に向かうことが出来るわ」

そう言って、老婆は汀に頭を下げた。

「本当に、ありがとうね」

汀はそれを見て、また涙を流し、手でそれを拭った。



「『機関』は、ナンバーズをどれだけ所持している?」

圭介は、汀が寝静まった夜中、携帯電話に向けて重い口を開いた。

『テルしてきたのが君で安心したよ。その様子だと、無事に番号は回収したみたいだね』

電話口の向こうの相手が、飄々とそう答える。

「質問に答えろ」
『機嫌が悪いね』
「……汀に、GMD―LSFを投与した。止むを得ずの処置だったが、重度の記憶障害を引き起こす可能性がある」
『あらら。それは迂闊な』
「お前が、剥きさらしの場所に番号を設置するからだ。ふざけるなよ……!」

押し殺した声で低く言った圭介に笑い声を返し、電話口の向こうの男は、軽く言った。

『まぁ、こっちも相応のリスクを負ってるから。君達にもリスクは背負ってもらわなきゃ。割に合わないだろう?』
「…………」
『聞きたいことがあったんだっけ? 機関が所持してるナンバーズは、三人だよ』
「三人……」
『現存してるナンバーズは五人しかいない。そのうち、関西総合病院の加原岬は、昨日の夜、病院から行方が分からなくなった』
「何……?」
『詳細までは分からないよ。ただ、その人数だけは情報として提供できるかな』

圭介は息をついた。
そしてピンクパンサーのグラスに注いだ麦茶を喉に流し込み、続けた。

「もう一人はどこにいる?」

『施設だろうね、多分』
「赤十字の虎の子か……」

そう呟いて、圭介は口をつぐんだ。

『さて、これからどうする?』

そう呼びかけられ、圭介は、口の端を吊り上げて言った。

「機関には、しかるべき贖罪をさせなければいけない。それに……汀にもな」

『そうだね。それが僕達に与えられたカルマなら、仕方のないことなのかもしれないね』

答えて、電話口の向こうの声は、続けた。

『じゃ、これ以上はなすと逆探知されるから、回線を切るよ。次は「河馬(ふぐ)」のところで待ってるよ』
「こちらから直接行く。それじゃ」

プツリ、と電話を切って、圭介は息をついた。
ピンクパンサーのグラスの氷が、カランと音を立てた。



汀はびっくりドンキーのいつもの席で、
ぼんやりとした表情のまま、膝の上の小白を撫でていた。
メリーゴーランドのパフェを半ば食べてしまい、することがなくなったのだ。

「圭介」
「ん?」

彼に呼びかけ、汀は続けた。

「死ぬってどういうことなのかなぁ」

ぼんやりと呟いた汀に、圭介はステーキを口に入れて飲み込んでから答えた。

「何もなくなることさ」
「本当に?」

汀は彼を見た。

「でも、あのお婆さんは、死んじゃった旦那さんのことを、心理壁が壊れても、ずっと覚えてたよ」
「…………」
「何もなくなるなら……思い出って一体何なんだろう」

圭介はフォークとナイフを置き、彼女をまっすぐ見た。
そして少し口ごもってから言う。

「汀、よく聞け」
「何?」
「思い出って言うのは、つまるところ幻だ。その人の心の中で、都合のいいように造られた幻想なんだ」
「…………」
「今お前を苦しめてる『思い出』も、言うなれば同じようなものだ。幻想だよ」

汀は小白を撫でながら言った。

「幻想……幻想なのかな」
「ああ、幻想さ」

「なら、どうして……」

汀は、言いよどんでから伺うように聞いた。

「あのお婆さんは、幸せそうだったの? 自殺病にかかった人は、幸せにはなれないんでしょう?」

圭介は複雑な表情で、汀から目をそらし、フォークとナイフを手に取った。
そして、呟くように言った。

「さぁな。自分が幸福ではないのに気づくことができない。それが、あの人にとっての『不幸』なのかもしれないな」



圭介と汀を、少し離れた席で、パーカーを目深に被って、ポケットに手を突っ込んだ少年が見ていた。
その目は殺気を帯びていて、今にも飛び掛りそうな衝動を圭介に向けていた。

「お客様、ご注文は?」

店員にそう聞かれ、彼は口の端を吊り上げて笑い、メニューの、メリーゴーランドのパフェを指した。

「かしこまりました」

頭を下げて店員が下がる。
彼は息をついて背もたれに体を預けると、携帯電話を手に取った。
弄って消音にしてあるのか、動画撮影のボタンを押して、気づかれない位置に立てかける。
そのカメラは、二人の方を向いていた。



第8話に続く



お疲れ様でした。
次話は明日、5/12に投稿予定です。
気長にお待ちくださいませ。
m(_ _)m

皆様こんにちは。
第8話の投稿をさせていただきます。



第8話 あの時計塔を探せ



動かない足。
動かない左腕。
自由にならない体。
全てが腹立たしかった。
汀は息をついて、そして目の前で折り紙を折っている理緒を見た。

「私も……折り紙やってみたいな」

右手で、グチャグチャになった紙を爪弾き、彼女は呟いた。
理緒は顔を上げ、そして微笑んで言った

「一緒にやろう?」
「一人でも出来るようになりたい」

時折、汀はこのように我侭を言い出すことが多くなっていた。
辟易まではしなくても、理緒も多少の気は遣う。
彼女は少し考えて、3DSを手に取った。

「じゃ、ゲームやりましょうか」
「……うん……」

元気なく返事をして、汀は扉の向こうに目をやった。

「高畑先生、遅いですね」

理緒が言う。
三十分ほど前、お菓子を準備するからと言って出て行ったきり、圭介はまだ戻ってこなかった。

「多分、何か仕事してるんだと思う。出ないほうがいいと思うな……」

汀がそう呟いて、ため息をつく。

「最近ずっと、圭介ああだから」
「そうなんですか……」

圭介は、汀の世話をしても、どこか上の空、といった具合が続いていた。
いつ頃からだったのかは分からないが、人の気持ちに鈍感な汀でも、多少の異常は察知していた。

「どうしちゃったんだろう……」

少女の小さな呟きは、ピンクパンサーのグラスに入った氷が、カランと溶ける音にまぎれて消えた。



圭介は、無言で病院前の郵便ポストを見ていた。
彼の両手からは、ボタボタと血が垂れている。
指を切ったらしい。
圭介は舌打ちをして、持っていた封筒をゴミ袋の中に突っ込んだ。
封筒の四隅に、綺麗にカミソリの刃が貼り付けられていた。
指に包帯を巻き、ゴム手袋をつけて郵便ポストの中をあさる。
彼がつかみ出したもの。
それは、断末魔の表情のまま固まった、猫の首だった。
野良猫らしく、薄汚れている。
血が半ば固まっているところを見ると、殺されたのはそう前のことではなさそうだ。
圭介は黒いビニール袋を何十かにして、無表情で猫の首を放り込み、そして縛ってからゴミ袋の中に落とした。

「クソガキが……幼稚な……」

小さく呟き、彼はゴミ袋を、脇のポリバケツに入れてふたを閉めた。
そこで彼の携帯が鳴った。
ゴム手袋を外して脇に放り、彼は痛めた指を庇うようにして携帯を取った。

「俺だ」

低い声でそう言うと、電話口の向こうの相手――大河内は、一瞬停止した後怪訝そうに聞いた。

『どうした? 汀ちゃんに何かあったのか?』
「残念ながら特筆することはないな。『近所』の餓鬼の悪戯に手を焼いていたところだ。お前と話す気分じゃない」
『いきなり大概だな。赤十字として、お前達に仕事を依頼したい』
「悪いが、今は……」
『あの「高杉丈一郎」が、自殺病にかかった』

大河内がそう言うと、圭介は電話を切りかけていた手を止めた。

「何?」
『お前なら、食いつくだろうと思ったんだがな』

圭介は、口の端を歪めて、いつの間にか醜悪に笑っていた。
しかし抑揚のない声調子で返す。

「治療はいつだ?」

『すぐにでも始めたい。汀ちゃんのコンディションがいいなら、連れてきて欲しい』
「分かった」

圭介は端的にそう言い、電話を切った。
ポタリポタリと、カミソリで切った傷口の包帯から血が染みて、地面に垂れている。
圭介は口の端を歪めて笑っている、異様な顔のまま、メガネを中指でクイッと上げた。

「はは……高杉が……?」

小さな声で呟く。

「傑作だ」



「今回の患者は、高杉丈一郎。四十一歳。自殺病の治療薬、GMDの権威として知られている、赤十字の物理学者です」

重々しい空気が流れている中、大河内が口を開く。
赤十字の重鎮達と、元老院の老人達、そして医師が集まっている薄暗い会議室の中で、彼は続けた。

「GMDを投与しましたが、自殺病の進行は止まらず、現在第四段階まで差し掛かっています。本人はマインドスイープによる治療を頑なに拒んでいますが、これ以上の放置は危険と判断し、ダイブに踏み切ることにいたしました」
「放置……ハッ、放置ね……」

面白そうに肩を揺らしながら、隅に座っていた圭介が呟く。

「高畑医師、何がおかしいんだね?」

医師の一人が眉をひそめて口を開く。

「これがおかしくなくて何がおかしいと思うんでしょうかね」

挑発的にそう返し、圭介は目の前の資料をテーブルの上に放った。

「高杉先生は、自分の自殺病治療薬、GMDが『効果がない』ことを、自分の体で立証してしまったわけだ。赤十字としても、元老院としても、これは何とも表沙汰にしたくない問題ですね」
「……効果がないわけではありません。防衛型の攻撃性が強く、投薬による解決が中々見受けられない『ケース』なだけです」

大河内が声を低くして圭介を睨む。

「成る程。では高杉先生はその稀有な『ケース』にかかってしまった、強い悪運の持ち主だと?」
「そうなります」

圭介の言葉を受け流し、大河内は周りを見回した。

「GMDは市販されている治療薬の中で、最も使われているものです。その開発者が自殺病にかかってしまい、GMDによる回復が見込めないという状況、これは先ほど高畑医師の指摘にもあったとおりに、表沙汰にはしたくない問題ではあります」

沈黙している周囲から視線を資料に向け、大河内は続けた。

「それでは、資料の十四ページをご覧ください。今回のダイブには、通常よりも更に神経を注ぐことにします。高畑医師のマインドスイーパーと、赤十字から二人のマインドスイーパーをダイブさせることにいたします」

僅かに部屋の中がざわつく。

「この子は……新入りかね?」

元老院の老人の一人が、写真を見ながら口を開く。
大河内は頷いて言った。

「はい。今回のダイブに必要な能力を持っています。A級能力者です」



赤十字病院の中庭で汀の乗った車椅子を押しながら、理緒は息をついた。
先ほどまでああだこうだと言っていた汀が、急に静かになったのだ。
何かと思って覗き込んでみると、コクリコクリとまどろみの中にいるようだった。
彼女の膝の上にいる小白も、丸くなって眠っている。
病院に行く前に圭介が薬を飲ませていたので、心配はないそうだ。

(何だかお姉ちゃんみたいだなぁ)

そう思って、理緒は木の陰に車椅子をとめた。
そこで、彼女は黒い服とサングラスのSP二人に囲まれて、小さな女の子が歩いてくるのを目に留めた。
背丈は汀や理緒よりも低く、金白色の長いウェーブがかった髪の毛を、腰の辺りまで揺らしている。
白い病院服だった。
彼女は無遠慮に二人に近づくと、きょとんとしている理緒を見て、そして頭を垂れている汀を、値踏みするように見た。
SPの二人は、腰に手を当て、女の子の両脇に陣取る。

「あの……」

理緒が戸惑いがちに声を上げると、女の子はそれを打ち消すように、体に似合わない大きな声で、はきはきと言った。

「片平理緒。十五歳。赤十字登録の純正マインドスイーパー、A級。性格はおとなしく消極的、リーダーシップはないが、人望を集めやすく、スタッフからの信頼も高い。成る程、聞いていた通りね」

自分のプロフィールを大声で読み上げられ、理緒が目を白黒とさせる。

「え……」
「そっちは、高畑汀。元老院が指定した、特A級マインドスイーパー。詳細は不明。ナンバーズの一人ね」

女の子はそう言うと、長い髪をくゆらせながら二人に近づいた。
そして、高圧的に、まどろみの中にいる汀の脇に立って見下ろし、鼻で笑う。

「何よ、障害者じゃない」

「あなた……何ですか、いきなり。失礼じゃないですか?」

理緒がおどおどしながら言う。
それも鼻で笑い、彼女は続けた。

「特A級スイーパーがどんな人間か、この目で見たかったら、わざわざ全ての仕事をキャンセルして『来てあげた』っていうのに、何? 日常生活も碌に送れないような、小娘じゃないの。それに猫? 馬鹿にするにも程があるわ」
「……馬鹿にしているのはあなたでしょう? 誰かは分かりませんけれど、汀ちゃんのことを悪く言うのは許せません」

理緒が眉をしかめて、彼女と汀の間に割って入る。

「誰ですか? ここは、関係者以外立ち入り禁止ですよ」

女の子はそれを聞いて、深いため息をついて、やれやれという仕草をした。
そして肩をすくめる。

「一緒に仕事をする人間のことくらい、調べておかないの? 日本人って」
「一緒に? どういうことですか?」

逆に聞き返され、女の子は目をぱちくりとさせた後、SPの一人に食って掛かった。

「どういうこと? 何で日本のマインドスイーパーが、私が来ることを知らないわけ? 一人は寝てるし!」

忌々しそうに汀を指差し、彼女が喚く。
SPの一人は、腰を屈めて女の子に流暢なフランス語で答えた。
それを聞いて、女の子もフランス語で返し、何度かやり取りをした後、彼女は苛立たしげにSPを突き飛ばした。
屈強な男が、それで揺らぐわけもなく、彼はまた手を後ろに回し、先ほどと同じ姿勢をキープした。

「……どうやら、連絡の行き違いがあったようね。私としたことが、とんだ誤算だわ」

彼女はまた深くため息をついて、頭を抑えた。
そしてSPのもう一人から薬を受け取り、口に入れて噛み砕いてから理緒を見た。

「私の名前は、ソフィー。フランソワーズ・アンヌ=ソフィーよ。フランスの赤十字から、今回のマインドスイープのために派遣されてきたわ」

腰に手を当て、見下すように理緒を見て、彼女は忌々しげに鼻を鳴らした。

「あなたと同じ、A級能力者よ」

ソフィーと名乗った女の子は、髪を掻き上げてから、物憂げに二人を見た。

「…………先が思いやられるわね」
「どうしてそんなに喧嘩調子なのか、私には良く分かりませんけれど……今回のお仕事でご一緒するんですね。宜しくお願いします。私、理緒っていいます。あ……ご存知でしたね」

そう言って手を差し出した理緒を無視して、ソフィーは汀の脇にしゃがみこんだ。

「起きなさいよ、特A級能力者。日本のマインドスイーパーは、挨拶も出来ないわけ?」
「汀ちゃんは、今薬で眠っています。あまり刺激しないでください」

理緒が、慌てて車椅子を遠ざけようとする。

そこで小白が目を覚まし、シャーッ! と鳴いてソフィーに噛み付いた。

「痛っ!」

小さくそう言って、彼女は手を引っ込めた。
うっすらと血が出ている。

「だ、大丈夫ですか?」

理緒が駆け寄ろうとするが、SPに止められる。
ソフィーは、涙をうっすらと目に溜めて、吐き捨てるように言った。

「ふん……精々私の足手まといにならないように気をつけることね」

きびすを返して、中庭を去っていくソフィーを、ポカンと理緒は見つめていた。

「……ナンバーズ?」

呟いて首を傾げる。
汀は、まだコクリコクリと頭を垂れていた。



汀は、きょとんとして目の前の、背の低い女の子を見上げた。
施術室で目を覚ました時、腕組みをした女の子が仁王立ちになっていたのだ。
脇で理緒がおろおろしている。

「やっと起きたわね、高畑汀。この私を二時間三十五分も待たせてくれるとは、いい度胸してるじゃないの」

鼻の脇をひくひくさせながら、女の子――ソフィーが言う。
汀は首を傾げて周りを見回した。
ソフィーのことは完全に無視していた。

「ここ……どこ?」

理緒にそう問いかける。
理緒はしゃがみこんで汀の頭を撫で、そして言った。

「赤十字の施術室です。これからお仕事ですよ」
「私、そんな話聞いてないよ」

それを聞いて、理緒は少し表情を暗くしたが、慌てて言いつくろった。

「急に決まったんです。汀ちゃん寝てたから、起こしちゃ悪いと思って……」
「やだ、帰る」

また我侭を言い出した汀に、理緒は息をついてから言った。

「どうして? 患者さんがいるんですよ」
「今日はそんな気分じゃないの。何か……むしゃくしゃする」
「でも、今日ダイブしないと患者さんが危ないんです」
「知らないよ、そんな赤十字の都合なんて」

赤十字の医師達に囲まれている状況で、汀が大声を上げる。

「帰る!」
「汀ちゃん、落ち着いて……終わったら一緒にゲームしよ? 折り紙も教えてあげるから……」
「やだやだ! 今帰る!」

駄々をこねる汀を、呆気に取られてソフィーは見ていたが、彼女はすぐに怒りの表情に代わり、バンッ、とテーブルを平手で叩いた。
それに汀がビクッと体を震わせる。

「とんだ侮辱ね……この私を前にして、よりにもよって『帰る』……? 一体どれだけの労力かけてここまで……」
「汀ちゃん、起きたのか!」

そこで大河内がゆっくりと施術室の中に足を踏み入れた。
汀が一瞬ポカンとした後、慌てて右手で病院服のしわを直す。

「せ……せんせ!」
「心配したぞ。高畑が汀ちゃんに薬を投与したって言ってたから、今日の施術が出来るかどうかも、分からなかったしな」

大河内はそう言って汀を抱き上げた。
汀は顔を赤くして、右手を大河内の肩に回した。
そして頭を擦り付ける。
車椅子に取り残された小白がニャーと鳴いた。

「せんせ、会いたかったよぉ。どうしてすぐ来てくれなかったの?」
「仕事が立て込んでいたんだ。悪かったな」

理緒が、大河内の出現で、とりあえずは安定を取り戻した汀を見て息をつく。

そこで大河内は、肩をわなわなと震わせてこちらを睨んでいるソフィーを目に留めた。
そして汀を抱いたまま、彼女に片手を向ける。

「紹介がまだだったな。こちらは……」
「フランソワーズ・アンヌ=ソフィーよ。よく勘違いされるけど、日本人とフランス人のハーフだから。高畑汀。会えて光栄だわ」

鼻の脇を吊り上げながら、彼女は目だけは笑っていない顔で汀に手を突き出した。
しかし汀は、大河内を盾にするように体をひねると、顔をしかめてソフィーを見た。

「……誰?」
「日本人は自己紹介も出来ないわけ?」

ソフィーがヒステリックに大声を上げる。
それにビクッとして、汀が小さな声で理緒に言った。

「理緒ちゃん、お家に帰ろうよ……」
「汀ちゃん、それは……」

言いよどんだ理緒の言葉を、やんわりと遮りながら大河内が口を開いた。

「ソフィー、最初から喧嘩腰なのはいけないな。ほら、二人とも怯えてしまっている」
「ドクター大河内。彼女達の態度は、とても仕事に向かう姿勢だとは思えません。そんな人達と、この私が一緒にダイブするなんて、考えられないことです。ナンセンスだと思います」

はきはきと大河内にそう言うソフィー。
大河内は、汀を車椅子に戻し、彼女の膝に小白を戻してから言った。

「この子達の解決した案件は、説明したとおりだよ。今現在、日本で一番確実な力を持っているマンンドスイーパーさ。どうか、仲良くしてやってくれないか?」

彼にそう諭され、ソフィーが眉をひそめて二人を見る。
大河内はその視線を無視して、汀に言った。

「フランスの赤十字から派遣されてきた、A級マインドスイーパーだよ。今回は協力して……」
「お断りします」

そこで、ソフィーが声を上げた。
医師たちがざわついて顔を見合わせる。

二人のSPにフランス語で何かを言い、しかし彼らに止められ、しばらく口論してからソフィーは向き直った。
そして、腕組みをして馬鹿にするように理緒と汀を見る。

「それでは、こうしましょう。私と、あなた達二人。どちらが早く患者の中枢を見つけることが出来るか、競争しましょう」
「ソフィー、何を言い出すんだ」

大河内が息をついて彼女の方を向く。

「今回は協力すると、契約書にも……」
「どうです? 競争、しませんか?」

ニヤ、と笑い、彼女はきょとんとしている汀に言った。

「それとも、二人がかりでも、私に敵わないんでしょうかね? 『特A級スイーパー』の高畑汀さん」

挑発的にそう呼びかけられ、汀は、そこで初めてはっきりとソフィーを見た。

そして眉をひそめて、彼女に言う。

「敵うとか敵わないとか、何の話をしているの?」
「実力に差があると、そう言いたいまでです。あなた達と、私には」
「面白いじゃないか。いいだろう。今回は競争だ」

圭介がそう言いながら、白衣を着て施術室に足を踏み入れる。
両手はポケットに突っ込まれていた。

「高畑……何を勝手な……」

大河内が止めようとしたが、圭介は柔和な表情でソフィーに向き直った。

「そんなに自信があるなら、一回挑戦してみてもいいんじゃないかな? フランスのマインドスイーパーさん」
「ドクター高畑……」

そこで、ソフィーは彼を汚物を見るような目で見て、吐き捨てた。

「元老院の子飼いと話すことは何もありません」
「つれないな。俺はただ、君を応援しようと……」

圭介はそう言いながら、包帯を巻かれた手を彼女に伸ばす。

ソフィーは怯えたように喉を鳴らすと、いきなり

「触らないで!」

と怒鳴って、その手を勢いよく振り払った。

「……ッ!」

圭介が顔をしかめて一歩下がる。
傷口を直撃したらしく、包帯にじんわりと血がにじんでいる。

「圭介……?」

不思議そうに、汀が口を開いた。

「どうしたの、それ……」
「……お前には関係ない」
「……圭介に何をしたの!」

汀が大声を上げて、ソフィーを睨みつけた。

豹変した彼女の調子に合わせることが出来ず、ソフィーは言いよどんだ。

「わ……私はただ、振り払っただけで……」
「圭介に危害を加える人は許さない……! 競争でも何でも受けてやるわ。あまりいい気にならないことね……!」
「ふ……ふん! 大概じゃない。後で泣き面晒しても、私は責任を取らないから」
「二人とも落ち着いて……」

理緒がおろおろしながら汀を落ち着かせようとしている。
大河内はため息をついて、横目で圭介を睨んだ。

「……どういうつもりだ?」

小声で彼に問いかける。
圭介は柔和な表情のまま、口の端を吊り上げて笑った。

「いや、何。フランスのマインドスイーパーとやらの『性能』を見てみたくてね」

彼の呟きは、大河内の耳にはっきりと届いた。

「それだけさ」

そう言った圭介を見て、大河内は息を呑んだ。
彼が、どこか暗い、表情の読めない不気味な顔つきをして、ソフィーを見下ろしていたからだった。
ソフィーと汀が睨みあう。
圭介は柔和な表情に戻り、汀の頭を、血が出ていない方の手で撫でた。

「あまり怒るな。俺は大丈夫だから。じゃ、準備を始めるぞ」
「高畑先生! 本当に競争なんて……」

理緒に頷いて、彼は続けた。

「ああ、勝った方には、ご褒美をあげよう」



ムスッとした表情のまま、汀は目を開けた。
そこは、地下室のような空間だった。
広さ十畳ほどの小汚い壁、床。
出口などはどこにも見られない。
天井には裸電球がゆらゆらと揺れながら、時折点滅しつつ光を発していた。

「汀ちゃん……」

どこかおどおどしながら、理緒が後ろから近づいてくる。

「どこですか、ここ……?」
「表層心理壁の、煉獄に繋がる通路よ」

そこで、はっきりとした声が、二人の後ろから投げつけられた。
汀の肩の上で、小白がニャーと鳴く。
振り返った二人の目に、腕組みをして高圧的にこちらを見ているソフィーの姿が映った。

「日本には馬鹿しかいないるのかしら?」
「フランスには礼儀知らずしかいないのね……」

汀が低い声でそう返す。

ソフィーは鼻を鳴らして、現実世界とは異なり、しっかりと自分の足で地面に立っている汀を見た。

「へぇ……『かたわ』のままダイブしてきたらどうしようかと思ったけど、そこら辺は特殊なのね、あなた」

平気で差別用語を口にし、ソフィーは眉をしかめた理緒に目を向けた。

「何ボサッとしてるの? マインドスイーパーなら、やらなくてはいけないことがあるんではなくて?」
「……あなたに言われなくても、分かっています」

理緒はそう言ってソフィーから視線を外し、ヘッドセットのスイッチを入れた。
汀も遅れてスイッチを入れる。

「ダイブ完了しました」
「…………」

無言でソフィーを睨んでいる汀の横で、理緒が圭介に状況を説明する。

『今回のダイブでは、俺が三人のナビゲートをすることになっている。だが、このダイブは「競争」だ。ひいきはしないから、そのつもりでな』

圭介がそう言うと、理緒が少し言いよどんだ後、言いにくそうに口を開いた。

「あの……先生。患者さんの命がかかっているんですよ? 競争だなんて……みんなで協力した方が……」
『出来るならそうしたらいい』

投げやりに圭介が言う。
突き放されて、理緒は何かをゴニョゴニョと呟こうとしたが、失敗して口をつぐんだ。
不満そうな彼女の脇で、ソフィーは足を踏み出すと、扉の一角に目をやった。
そこだけ、鋲が打ちつけられた扉のようになっていた。
壁に、手の平大の窪みがある。
正方形だ。
そして、床には薄汚れたルービックキューブが転がっていた。
色がバラバラになっている。
ソフィーがそれを拾い上げた途端、ガコンッ、という音がして四方の壁が一センチ程、三人に向かって『近づいて』きた。
そう、壁と壁の距離が、狭まったのだ。
理緒がビクッとして肩をすぼめる。
汀は、まだ暗い視線でソフィーを睨んでいた。
ソフィーはそれを意に関することもなく、ヘッドセットの向こうに言った。

「ドクター高畑。あなたのナビゲートを受けるのは心外だけど、この際仕方ないわ。一時的に会話をしてあげます」

『それは光栄だ』
「心理壁に繋がる道を開きました。次の指示をお願いします」

カチャカチャとルービックキューブを動かし、彼女は無表情でそれを壁の窪みに嵌めた。
色は、六色全て揃っていた。
また、ガコン、という音がして、今度は十センチ程壁と壁の距離が狭まる。

「汀ちゃん! 壁が近づいてきますよ!」
「当たり前のことをいちいち喚かないで」

理緒の悲鳴を冷たく汀が打ち消す。

「それじゃ、お先に」

ソフィーがニッコリと笑って手を振る。
シャコンッ、と音を立てて、鋲がかかっていたはずの扉が開いた。
向こう側は白い空間になっている。

「え……? ちょ、ちょっと待って!」

理緒が大声を上げる。
しかしソフィーは口の端を吊り上げて笑った後、壁からルービックキューブを抜いて、床に叩きつけた。

プラスチックが砕ける音がして、ルービックキューブがバラバラになる。
また、壁が今度は十五センチほど近づいてきた。
かなり狭くなった部屋を見回し、ソフィーは余裕の表情で白い空間に体を躍らせた。
次の瞬間、またシャコンッ、という音がして扉が閉まった。
そして鋲が内側からせり上がり、しっかりと扉を固定する。

「嘘……」

理緒が呆然として、砕けたルービックキューブに駆け寄る。
また、壁が狭まった。

「壊されちゃった……! これ、多分この人の心の中に入る鍵なのに……!」
「選別してるのね。マインドスイーパー用のトラップだわ。この患者、私たちのことをよく知ってる」

冷静に言う汀に、ルービックキューブの欠片を拾い集めながら、理緒が青くなって言った。

「汀ちゃん手伝って! これを早く直さなきゃ……」
「そんな必要はないよ」

汀は肩の上の小白を撫でてから、不思議そうに理緒を見た。

「どうして、この人の心が作ったルールに、わざわざ合わせなきゃいけないの?」
「でも合わせなきゃ扉が開かないんですよ。他に、どうすればいいっていうんですか!」
「こうすればいいんだよ」

汀はそう言って、扉の前に立った。
部屋はもう、二人が立っているだけでやっとといったくらいの四方の狭さになっていた。
汀は、軽く助走をつけると、右足を強く鉄の扉にたたきつけた。
凄まじい音がして、次いで部屋のいたるところから、血液が噴出した。
それを浴びて、面白そうに汀は何度も、何度も扉を蹴った。

「汀ちゃん、何してるの……やめて!」

血の雨を浴びながら、理緒が悲鳴を上げる。
しかし汀は、扉を蹴るのをやめようとしなかった。
そして、遂に鋲と扉の継ぎ目から、大量の血液があふれ出す。
それが溜まって、二人の腰までを血が覆い隠す。

「あは……あはははは!」

血のシャワーを浴びながら、汀は嬌声を上げた。
そして、十数回目の蹴りで、扉がひしゃげ、どろりと溶けた。

汀は、そこで理緒の手を掴んで、胸の高さまで上がって来た血液を掻き分けながら、歩き出した。

「行こ」
「汀ちゃん、これってまずいんじゃ……だって、心の表層心理壁を物理的に破壊してるわけだから……」
「知らないよ、この人のことなんて」

汀は簡単に言って理緒を切り捨てると、その手を引いた。

「早くしないと、あの女が一位取っちゃうでしょ?」

その無邪気な笑顔を見て、理緒は口を閉ざした。
言い知れない、何か邪悪なモノを感じたからだった。
しかし、体を包む生ぬるい血液の感触に、汀の手を握り返してしまう。
彼女にニッコリと笑いかけ、汀は白い空間に身を躍らせた。



気づいた時、汀達は、地上二十メートルほどの地点に立っていた。
足元はレンガ造りの堅牢な足場になっているが、手すりも何もない。
幅一メートルほどの足場だ。
コチ、コチ、コチ、コチといたるところで時計の音が聞こえる。
全てが狂っているような、不規則な時の刻み方が多かった。
不協和音が反響して、耳が痛い。
空はどんよりと曇っていて、今にも雨が降ってきそうだ。
理緒はあまりの高さに驚いてよろめき、汀に支えられて周りを見て、硬直した。
二人がいたところは、時計塔の頂上だった。
足元では直径三メートルはあろうかという巨大な時計が、二秒に一度ほど秒針を進めている。
見渡す限り、その時計塔の群れだった。
高さはまちまちで、装飾もまちまちだが、共通していたのは、それが『塔』であるという事実。
それが何百、何千と果てしなく広がっている。
空調音のようなゴウンゴウンという音は、時計の針が時を刻む、不規則な音が織り成す巨大な不協和音だ。

「何……これ……?」

理緒が唖然として呟く。
汀は鼻を鳴らして言った。

「防衛型の進行が進みすぎたせいね。理緒ちゃんは一度、入ったことあるでしょ? 防衛型。この中のどれが一つが正解なの。中枢に繋がる道の」

言われて理緒は、DID患者の中にダイブした時のことを思い出した。
その時も、同じような群れの中に一人だけ、中枢に繋がる道を持つ人間がいたのだった。

「じゃあ……今回も、この沢山の時計塔の中から『正解』を見つけなきゃいけないってことですか……?」
「察しがいいね。その通りだよ」
「でも……どうやって?」
「それを考えるのが、私達の仕事」
「あの……この前から気になってたんですけれど……」

理緒は汀を見下ろして言った。

「こういう場合、もし間違ったものを選んじゃったら、どうなるんですか?」

「さぁ? 死ぬんじゃないかしら」

汀は小白の頭を撫でて、肩をすくめた。

「わかんないな。私、間違えたことないもん」
「そんな……本当?」
「私も興味あるから、ためしに間違えてみたら? 多分、この塔はダミーだし」

そう言いながら、汀は、時計塔の起動スイッチと思われるレバーを引こうとした。

「ちょ、ちょっと待って!」

慌てて理緒がそれを止める。

「何?」

不満そうな顔をした汀に、理緒は汗を垂らしながら言った。

「もうちょっと考えよ? ね? もし爆発とかしたら、どうするの?」
「面白いよ」

理緒は深くため息をついた。

そしてヘッドセットのスイッチを入れて、圭介に呼びかける。

「高畑先生。患者さんの心理壁の内面に到達しました。指示をお願いします」
『入れたのか。まぁ、汀がいるんだから、問題はないだろう?』

さして意外でもなさそうに圭介が返す。
そこで汀がヘッドセットに手を当てて、圭介に言った。

「圭介、手、どうしたの?」
『お前には関係ないと言っただろ?』
「あの女にやられたの? 何かされたの?」

食い下がる汀に、圭介は一瞬沈黙した後答えた。

『さぁな。勝負に勝ったら教えてやるよ』
「高畑先生! ふざけている場合じゃ……」
『中枢をさがして治療してくれ。時間が差し迫っている。それより先に、ソフィーの方が治療に成功するかもしれないな』

圭介が挑発的にそう言う。

汀の目の色が変わった。

「私が勝つよ。フランス女なんかには負けない」
「汀ちゃん、目的は勝つことじゃ……」
『頼もしいな。その調子で頼む』
「高畑先生!」

理緒がおろおろしている脇で、汀は時計塔の扉に手をかけた。
そして引く。

「中に入れるみたいだよ」

理緒が答えるのを待たずに、彼女は時計塔の中に体を滑り込ませた。

「待って!」

慌てて理緒が後を追う。
時計塔内は、錆びた鉄製の螺旋階段が下まで伸びていた。
時計の内部がカッチコッチと音を立てている。
管理室だろうか。
一つだけ、ブラウン管型テレビが置いてある。
壁には、風車がついた時計塔の写真が貼ってあった。

「これを探せばいいんでしょうか……? でも、こんな何百何千ってある中でどうすれば……この前みたいに、逃げてく人を選別するわけにもいかないし……」
「多分、理緒ちゃんが言うとおり、これが正解の時計塔だね。この人の心の中で、重要なものなんだと思う」
「停止させればいいのかな?」
「うん。多分」

汀の肩の上で退屈になってきたのか、小白が大きな欠伸をする。
そこで、テレビがプツリと音を立ててついた。

「ひっ……!」

息を呑んだ理緒の脇で、汀は興味深そうにそれを見ていた。
そこには、豚のト殺場の様子が映されていた。
沢山の豚達が、機械で絞め殺されて断末魔の悲鳴を上げている。
無音だ。
しばらくして、テレビからノイズ交じりの、淡白な男性の声が流れてきた。

「アミハラナギサ、カタヒラリオ、フランソワーズ・アンヌ=ソフィー」
「なぎさ……?」

汀がそう呟いて、怪訝そうな顔をして頭を抑える。
不意に、右即頭部に頭痛が走ったのだった。

「次の犠牲者は、この三人です」

画面の中に、両手両足を天井から縛られ、吊るされた汀、理緒、ソフィーの姿が映し出される。

「わ、私……?」

理緒が震えながらそれを見ている。
豚の断末魔が聞こえ、プツリとテレビが消えた。

「ど……どういうこと……?」

唖然として、ペタリとその場にしりもちをついた理緒に、頭を抑えながら汀は言った。

「ただの異常変質心理壁の特徴が出ただけ。これ以上入ってくるなら、トラウマに触れるぞって警告を発してるの」
「それにしては不気味でしたけれど……」

そこで、二人は外からキィィィ! という豚の断末魔が聞こえてきて、顔を見合わせ扉を開けた。
時計塔と時計塔の間に、錆びた鎖と、巨大な滑車が出現していた。
時計塔の歯車から動力を得ているのか、数万の鎖がギチギチと音を立てる。
そこには、おびただしい数の肉を引っ掛ける鉤が釣り下がっていた。
その先には、まだ生きている豚。
豚が、首先を鉤に突き刺されてゆっくりと進んでいる。
時計塔の頂上には、ノコギリのようなものが高速で回転しており、豚たちは、生きたままそれに両断され、ゴロリゴロリと地面めがけて、真っ二つになって落ちていく。
どこから補給されるのか、豚の数は減ることがない。時計塔で切り刻まれて、出てくる時には新しい豚が補充されているのだ。
理緒は、間近で豚が真っ二つに両断され、その血液だか体液だか分からないものを間近で浴びてしまい、悲鳴を上げた。

「これで移動すればいいんだね」

しかし汀は表情一つ変えず、出てきたばかりの、まだ動いている豚につかまった。

「理緒ちゃんも。早く」

呼びかけられ、理緒は真っ青になりながら汀を呼んだ。

「駄目……行けない! 行けない!」
「どうして? 早くしないと……」
「私高いところ駄目なの! それに、このままついてったら、ノコギリで真っ二つになっちゃう!」
「その前に飛び降りればいいよ。大丈夫。ここは、所詮脳内イメージの世界だから」
「そんな風に割り切れないですよ!」
「いいから。ほら」

汀に無理やり手を引かれ、理緒は近くの豚に恐る恐る抱きついた。

「行くよ」

汀も同じ豚に抱きつき、鎖を手で掴む。

二人を乗せた鎖がゆっくりと動き、地上二十メートルの空中に躍り出る。
意識を失いそうになった理緒の手を掴んで、汀は面白そうに、時計塔と時計塔を繋ぐ、豚のト殺光景を見た。

「ふーん。そうなんだ」

空中に出て、周りを見回して、汀は呟いた。

「理緒ちゃん、目開けないと危ないよ」
「開けられない! 開けられない!」

首を必死に振っている理緒にため息をついて、汀は片手でヘッドセットのスイッチを入れて言った。

「圭介。ここ、D型の変質区域だ」
『そのようだな。先ほどソフィーからも同じ通信があった』

汀が頬を膨らませ、不満そうに言う。

「私の方が先に分かってたもん」
『そんなところでひいきはしない。何せ、ソフィーは「このため」に、フランスから連れて来られたんだからな』
「どういうこと?」
『彼女は、IQ190の超天才児だ。パズルを解くことは、何よりも、誰よりも得意なんだ』
「ゲームするうえで、チートはいけないと思うけど、まぁ、でもチートは単なるチートだよね」

汀が冷めた口調でそう言う。

彼女の目に、既にソフィーによって停止させられたのか、いくつかの時計塔が見えた。
それが上下左右対称の、幾何学的模様を描いている。
おそらく、紋様を描く時計塔を停止させた先に見える、中心のものが、あの風車のある時計塔なのだろう。
豚のト殺レールがそのルートになっているらしい。
うっすらと遠くに見えるそれを目を細めて見て、汀は歯噛みした。
そして目を閉じて震えている理緒を見た。
分が悪いのは、誰が見ても明らかだった。

「理緒ちゃんは、ここで待ってる?」

汀が釣り下がりながらそう聞く。
理緒は必死に豚にしがみつきながら、何度も頷いた。

「でも一緒に来ないと、治療した時に外に出れないよ」

汀は考え込んでため息をついた。

「いい加減慣れようよ。夢の世界って、大体こうだよ。理緒ちゃんがダイブしてた、子供の頭の中とは違うの。人間って、大きくなればなるほど汚れていく生き物だから」

まともに返事も出来ない理緒を見て、汀は回転ノコギリが迫ってきたのを見て、別の時計塔に飛び降りた。

「理緒ちゃん、降りてきて」

理緒にそう呼びかけるが、彼女は硬直してしまってそれどころではない様子だった。

「理緒ちゃん?」

問いかけた後、汀はサッと顔を青くした。
理緒がここまでの高所恐怖症だとは思わなかったのだ。

『どうした、汀?』

圭介に問いかけられ、汀は慌ててそれに返した。

「理緒ちゃんがまずいの。このままじゃ、真っ二つにされちゃう」
『どういう状況だ。いいか、理緒ちゃんは無傷で連れて帰れ。約束してるだろ?』
「わ……分かった!」

汀は頷いて、飛び上がった。

そして理緒の近くの鎖にぶら下がり、彼女に手を伸ばす。
回転ノコギリが迫っていた。

「理緒ちゃん、目を開けて! 早く降りないと、まずいよ!」
「……だ、駄目! 駄目なんです! 体が動かないの……腰が……腰が抜けちゃって……」
「理緒ちゃん!」

汀は慌てて、回転ノコギリから理緒を守る形で、その間に割って入った。
嫌な音がした。
汀の肩の上で、小白が驚いて声を上げる。

「……ッあぁ……あ……ッ!」

汀が苦悶の表情に顔を歪ませる。
彼女の左腕が、綺麗に肩口から両断されて、ボトリと時計塔の足場に落ち、転がって下に消えていった。
凄まじい量の血液が、彼女の肩口から噴出する。

「汀ちゃん……!」

理緒が目を開いて、驚愕の声を上げる。
汀は痛みに耐えることが出来ずに、鎖を離し、その場に落下を始めた。
理緒が無我夢中で手を伸ばし、彼女の右腕を掴む。
そして彼女は、悲鳴のような絶叫を上げると、汀の体を持ち上げ、豚から手を離し、転がって時計塔の足場に飛び降りた。
しばらく茫然自失して、荒く息をつく。
そして彼女は、肩口を押さえてうめいている汀に近づいて、震えながら、上腕が両断されてしまった彼女の傷口を見た。

「ど……どうしよう……! どうしよう! 高畑先生! 汀ちゃんが……汀ちゃんが!」
『どうした? 落ち着いて状況を説明してくれ』
「汀ちゃんの腕が、ノコギリで切られて、なくなっちゃった……!」
『何?』

圭介は思わず問い返して、慌てて言った。

『回線を遮断する。汀、聞こえるか? 返事をしろ』

「……圭介……私、まだやれる……大丈夫……」

病院服を右手で破りとって、腕の傷口を縛りながら汀はそう言った。
理緒が慌てて口を挟む。

「む……無理です! 汀ちゃん、戻ろう? このまま失血したら、現実世界の左腕も……」
「元々動かないんだから、どうでもいいよ……」

痛みに耐えながら汀がそう言う。
しかし圭介は、少し考えてから言った。

「駄目だ。回線を強制遮断する。二人とも、戻って来い」

彼の声は、断固とした調子で二人の耳を打った。
汀は歯噛みして、肩の傷口を押さえた。
とめどなく流れていく血液。
そこで、彼女達の意識はブラックアウトした。



第9話に続く



お疲れ様でした。
次話は明日、5/13に投稿予定です。
気長にお待ちくださいませ。
m(_ _)m

皆様こんにちは。
第9話の投稿をさせていただきます。

薄暗い部屋の中、少年三人は背中合わせに立っていた。
三人とも、白い病院服の所々が鋭利な刃物で切り刻まれ、血が流れ出している。
彼らの周りには、同年代の少年や少女達が、刃物で喉笛を切り裂かれ、無残な死骸となって転がっていた。

「通信が繋がらない……完全に遮断されたぞ!」

少年の一人がそう言う。
彼らは、手に何も持っていなかった。
ヘッドセットを地面に叩きつけ、もう一人の少年が言った。

「チッ。完全にジャックされてやがる。精神世界と現実世界が、これでもかと完璧に切り離されてる」
「大河内、何か構築できるものはないのか?」

大河内と呼ばれた少年が、青くなり震えながら言う。

「……出来ない……精神防壁が張ってある。石ころ一つ持ち上げられない……」
「しっかりしろ。ここであいつを倒さなきゃ、俺達もどの道犬死にだ」
「で……でも高畑……!」

高畑と呼んだ少年に、大河内は叫ぶように言った。

「丸腰じゃどうしようもないよ! みんな、完全に『殺され』た! 俺達も死ぬしかないじゃないか!」
「安心しろ、大河内、高畑。お前達は僕が必ず守る」

そこで、もう一人の少年が口を開いて、足を踏み出した。
そして腰を落とし、腕を体の横に回し、拳闘の構えを作る。

「腕一本になっても、お前達は僕が守る。高畑は僕のサポートを。大河内は外部との連絡通路を急いで構築してくれ。 一からでいい」

冷静に指示を出し、彼は周りを見回した。

一面、蜘蛛の巣だらけの空間だった。
時折、引きつったような奇妙な笑い声が暗闇に反響している。

「決して、何が起こっても慌てるな。僕が死んでも、お前達二人はすぐに現実世界に戻れ。分かったな?」

大河内が泣きながら何度も頷く。
そして、彼は空中の、目に見えないパズルピースを掴むような動作をして、それを見えないキャンバスにはめ込み始めた。
高畑が少年の脇で同じような構えを取り、低い声で聞く。

「……大河内はあの調子だ。何分もたせればいい?」
「二分……二分三十秒」
「最悪だな」

キチキチキチキチ。
金属のこすれる音がして、二人の前方に、奇妙な「物体」が現れた。

ドクロのマスクを被った人間の頭部。
そして、丸いボールのような体。
所々が腐食して崩れ、内部の歯車やチェーンが見えている。
ムカデのような足。
蟹股のそれらが、カサカサと蟲のように動いている。
手は、数え切れないほど巨大な、丸い体から突き出していた。
それらの手一つ一つに、ナタのような刃物を持って、振り回している。
また、キチキチキチキチと音がして、ドクロのマスクがこちらを向いた。

「スカイフィッシュのオートマトンか。でもどうして……」
「高畑、考えている暇があったら動け。来るぞ!」

少年がそう言って、こちらに向かって猛突進をしてきた奇妙な「物体」に向けて走り出す。
そして彼は、数十本の腕が振り回す鋭利なナタを一つ一つ、見もせずにかわすと、丸い胴体部分に、腕を叩き込んだ。
放射状の空気の渦が出現するほどの、早い拳速だった。

空気が割れる音と共に、 二、三メートルはある「物体」が数メートルは宙を浮き、足をばたばたさせながら、背中から地面に落下する。
大河内がそこで悲鳴を上げた。
振り返った二人の耳に、大量の、キチキチキチキチキチという、機械の部品がこすれる音が響く。
幾十、幾百もの「物体」が、こちらに向けて近づいてきていた。

「二分三十秒でいいんだな、坂月!」

高畑がそう言って腕を構える。
坂月と呼ばれた少年は、自分達を取り囲む「物体」の大群を見回し、一瞬だけ口の端を吊り上げて笑った。
しかしすぐに無表情に戻り、唖然としている大河内の頭を、ポン、と撫でる。

「いや、一分三十秒でいい」

彼の声に、大河内がすがるように言う。

「そんな短時間じゃ無理だ! 扉を作るのはいくら僕でも……」
「もう作らなくてもいい」

彼はまた、口の端を吊り上げた。

「スカイフィッシュ……僕を誰だと思ってる……」

彼は腰を落とし、醜悪に、舐めるように、呟いた。

「僕は、S級能力者の坂月。坂月健吾だぞ」



第9話 殺害領域



「汀ちゃん、しっかりして! 汀ちゃん!」

担架に乗せられて運ばれていく汀を、理緒が必死に追っている。
汀は、左腕を押さえて、意味不明な言葉を喚きながら、担架の上でもだえ苦しんでいた。

「痛い痛い痛い痛い痛い痛いー!」

彼女の絶叫が響く。
担架を押しながら、大河内が、看護士に押さえつけられている汀に口を開いた。

「すぐに痛みは消える。もう少し我慢するんだ!」
「せんせ……死ぬ! 私死んじゃう!」
「大丈夫だ死なない! 私がついている!」

大河内がそう言って汀の右手を握る。
担架を冷めた目で見ながら、施術室の扉に、腕組みをして圭介が寄りかかる。

そこに、冷ややかな瞳でソフィーが近づいた。

「……どういうことか説明してもらいたいですね、ドクター高畑」
「何だ?」
「どうして、私まで強制遮断されて戻ってきてしまったのかしら? これは、故意だとしたら重大な過失だと思うのですけれど」

彼女の脇に、黒服のSPが二人ついて、腰に手を回して圭介を見る。

「施術は中止だ。予期しない出来事は、この仕事にはよくあることだろう?」

飄々と返した圭介に、ソフィーはバンッ! と壁を平手で叩いて怒鳴った。

「私一人でも治療できました! ドクターだって仰っていたではないですか、これは『競争』だと。なら何故、そちらのマインドスイーパーがミスを犯した時点でやめさせられなければいけないのでしょうか!」

「君一人が治療に成功しても、何の意味もないんだよ」

そこでソフィーは、発しかけていた言葉を飲み込んで固まった。
圭介が、ゾッとするような冷たい目で自分を見ていたからだった。

「で……でも……」

言いよどんだ彼女に、圭介はポケットに手を突っ込みながら言った。

「それに、君一人ではこの患者の治療は無理だ」
「何ですって!」
「君の事は、よく知ってる。調べさせてもらったからな。この患者は、特異D帯Cタイプだ。その意味が分かるな?」
「え……」

一瞬ポカンとして、次いでソフィーは青くなった。

「Cタイプ……?」
「聞いていた『情報』と違ったかな?」

圭介がせせら笑う。

「……人でなし!」

そう叫んで掴みかかろうとしたソフィーを、SPの二人が押さえつけて止めた。

「この件は正式に元老院に抗議させていただきます。ドクター高畑。あなたはマインドスイーパーを何だと思っているのですか?」

歯を噛みながらそう言ったソフィーを、意外そうな顔で圭介は見た。

「ん? 天才なら、とっくに気づいていると思ったがな」
「茶化さないで! Cタイプの患者に、よくも私を一人でダイブさせたわね!」
「君達マインドスイーパーは道具だ。それ以上でもそれ以下でもない」

圭介はそう、冷たく断言すると、押さえつけられているソフィーの前に行って、ポケットに手を突っ込んだまま無表情で見下ろした。

「道具は文句は言わない。もし言ったとしても、それは道具の戯言であって、ただのノイズだ。道具はただ、俺の思うとおりに動いていればいい」

圭介はせせら笑いながら、鉄のような目でソフィーを見た。

「図に乗るなよ。道具」
「この……!」
「次のダイブは三時間後だ。精々『情報』を整理しておくんだな」

髪を逆立てんばかりに逆上しているソフィーを尻目に、圭介は施術室を出て行った。



「薬で眠らせてある。大丈夫だ。精神世界と現実世界の区別がつかなくなって混乱していただけだ」

大河内が、赤十字の病室でそう言う。
汀は、ベッドに横になってすぅすぅと寝息を立てていた。
寝る前によほど錯乱したのか、ベッドの上は乱れきっている。
それを丁寧に直しながら、理緒は涙をポタポタと垂らした。

「ごめんなさい……ごめんなさい……私が、もっとちゃんと出来てれば……」

圭介は一瞬それを冷めた目で見たが、手を伸ばし、理緒の頭を撫でた。

「気にするな。俺も確実なナビが出来なかった。君一人の責任じゃない」
「高畑先生……私、やっぱり……」

そこで言いよどみ、しかし理緒はおどおどしながら続けた。

「私、大人の人の心の中にダイブするの、向いてないんじゃないでしょうか……今回だって、汀ちゃんの足手まといにしかならなかったです」

圭介と大河内が、一瞬顔を見合わせた。
そして圭介は軽く微笑んでから言った。

「そんなことはない。君がいなければ汀を制御することは今よりもっと難しくなってる」
「……本当ですか……?」
「ああ、本当だ」

圭介はそう言って、理緒の手を握った。

「汀を頼む。この子には、ストッパーが必要だ。君のような」
「すみません……ありがとうございます……」

また涙を落とし、手で顔を覆った理緒を椅子に座らせ、大河内は圭介のことを、カーテンの向こうの隅に引っ張っていった。
そして強い口調で囁く。

「……まさか、ダイブを続行させるつもりじゃないだろうな?」
「察しがいいな。当然だろ?」
「二人とも、ダイブが出来る精神状態じゃない。ソフィーも協力する気が皆無だ。このプランは見合わせた方がいい」
「そうでもないさ」
「何を根拠に……」

大河内は、そこで入り口に立ってこちらを睨んでいるソフィーに目を留めた。
SP二人は、病室の入り口に立っている。

「……少し、話をさせて欲しいわ」

ソフィーはそう言うと、理緒を指差した。

「ドクター大河内、ドクター高畑、席を外してくださる?」
「え? 私ですか……?」

きょとんとして理緒がそう言う。
ソフィーは不本意そうに鼻を鳴らし、言った。

「他に誰がいるのよ」



圭介と大河内が病室を出て行き、ソフィーは椅子の上に無作法に胡坐をかいて、汀を睨んでいた。

「あ……あの……」

理緒が言いにくそうに口を開く。

「お話っていうのは……」
「とても不本意だけど、あなた達に協力を要請したいわ」

理緒はきょとんとして、彼女に返した。

「協力……? でも、私達とは競争したいって……」
「事情が変わったのよ。協力、するの? しないの? はっきりして」

ヒステリックに声を上げるソフィーを手で落ち着かせ、理緒は続けた。

「私としては、あなたのような優秀なスイーパーさんとご一緒できるのは嬉しいですけれど、汀ちゃんが何と言いますか……」

「こんなかたわ、何の役にも立たないじゃない。特A級なんて、聞いて呆れるわ」

彼女を蔑むようにそう言ったソフィーに、理緒は深くため息をついた。

「……めっ」

そう言って、彼女の鼻に、人差し指をつん、と当てる。
何をされたのか分からなかったのか、ポカンとして停止したソフィーに、理緒は言った。

「人を、『かたわ』なんて言ってはいけません。人を、馬鹿にしてはいけません。いつか自分にそれが返ってきますよ」
「こっ……子供扱いしないでよ!」

真っ赤になってソフィーが怒鳴る。
人差し指をそのまま自分の口元に持っていき、静かにするように示してから、理緒は汀の頭を撫でた。
小白が、汀の枕元で丸くなって眠っている。

「他人は、自分を映す鏡だって、私は小さい頃、私の『先生』に教わりました。怒っていれば怒るし、悲しんでいれば一緒に悲しんでくれます。それが、他人なんです。ですから、ソフィーさんは、もっと私たちに優しくしても、大丈夫なんですよ?」
「…………」
「それが、ソフィーさんのためになるのですから」
「……脅し?」

小さい声でそう聞いたソフィーに、慌てて理緒は言った。

「そ、そんなことはないです。そう受け取ってしまったのなら謝ります。私はただ……」
「まぁ、私を貶めようとしているわけではないことだけは評価してあげるわ」

腕組みをして、ソフィーは、この話は終わりだと言わんばかりに指を一本、顔の前で立てた。

「私達がダイブさせられようとしている人間は、D帯のCタイプ型自殺病発症患者よ」
「D帯? Cタイプ?」

「あなた、本当に何も知らないのね。そんなでよくA級スイーパーの資格を取れたものね。驚いて声も出ないわ」
「汀ちゃんも、この前気になることを言っていましたけれど……自壊型と防衛型とか……」
「ああ、日本ではそう言うのね」

ソフィーは頷いて、手を開いた。

「いい? 馬鹿なあなたに教えてあげる。自殺病は、大別して五つの分類に分けられるわ。一つは、通常、緩やかに進行していくAタイプ。緩慢型と言うわ」

指を一本折って、ソフィーは続けた。

「二つ目は、あなたがさっき言った自壊型。これは緩慢型が悪化したケースね。これにかかった患者は、精神分裂を起こし、結局は自殺するケースが最も多いわ。Dタイプよ。防衛型は心理的防衛壁が大きいタイプ。これがBタイプ」

すらすらと医者のようにそう言って、ソフィーはまた二本指を折った。

「そして、防衛型の反対、攻撃型。攻撃性が異常に強い患者の精神内壁のことを指すわ。これがEタイプ」
「そ……そうなんですか……」
「そしてCタイプ……まぁ、その中でもいろいろ種類があるんだけど、説明しても分からないと思うから、しない。とにかく、Cタイプは『変異型』という特殊な型が分類されてるの。その中でも、D帯Cタイプというのは、日本語で言えば『特化特異系トラップ優位性変異型』と言えるわ」
「どういうことですか?」

首を傾げた理緒に、髪をかきあげながらソフィーは続けた。

「簡単に言えば、マインドスイーパーに対する精神的トラップを、訓練によって心の中に多数植えつけた人間のこと。私達が最初に入った部屋とか、次に入った空間、異様に面倒くさい手順だったでしょ? 防衛型の特徴も出てるけど、ああいうのは、時間稼ぎをして私たちのタイムアップを狙ってくる、完全な意図的トラップなの」
「じゃあ、今回の患者さんって……」

「ええ。マインドスイープに深く関わっている人間で間違いないと思うわ。それだけに、危険性が急上昇するのよ」
「私達に対する対策を、知っているわけですからね……そういえば、中で私達の名前が呼ばれたような……」
「知ってるからよ。私達のことを。アミハラナギサって言うのは、気になるけど」

ソフィーは鼻を鳴らして、忌々しげに言った。

「それでも、私なら一人で出来ると思ってたけど、この患者、D帯ということは攻撃性も持ってるの。通常、D帯とCタイプが合わさった場合、専門のスイーパーでチームを組んで、十人単位のグループでダイブするわ」
「え……?」

思わず聞き返した理緒に、ソフィーは頷いた。

「私達、ハメられたのよ。あの高畑とかいう医者に。ドクター大河内も信用は出来ないわ」
「そんな……お二人とも、良い方々です」

狼狽しながらそう言った理緒を馬鹿にするように見下し、ソフィーは吐き捨てた。

「信じるのは勝手だけど、夢を見るのは結果を見てからにした方がいいと思うわ」
「お二人が私達を騙すなんてこと、ありません。ソフィーさんの思い違いです」

断固としてそう言う理緒を呆れたように見て、ソフィーは肩をすくめた。

「そう思いたいんなら、それでいいわ。時間がないから、話を進めるわよ。で、今回は、最低でも五種類の役割が必要になるの」
「五種類……?」
「まずは、トラウマ等の攻撃から、私達スイーパーの身を守る、アタッカーとディフェンサー。一番力のある、つまり脳細胞の働きが活発なスイーパーが役割に当てられることが多いわ」

眠っている汀を見て、ソフィーは続けた。

「この子みたいなね。言ってしまえば、一番重要な役割よ」
「他には……?」
「次は、トラップを解除する役割のリムーバー。この場合、私ね。そして治療を行う、キーパーソンが一人絶対に必要。この場合はあなた」

理緒を手で指して、ソフィーは続けた。

「最後はキーパーソンを守る、ファランクス(盾)が必要。それで、最低五人。通常は二人ずつ各ポジションに配置して、一つのチームとして運営するの。『危険地帯』へのダイブの場合はね」
「二人も足りませんけれど……」
「足りないのは七人よ。二チーム使うこともあるから、そう考えると二十七人の手数が足りないわ。圧倒的に、これは『私』をハメるためとしか思えないわ」

歯噛みして、ソフィーは言った。

「……最初に頭に血が昇ったのがまずかったわ。気づけばよかった……」
「…………」

彼女の勢いに圧倒されながら、理緒はおどおどと口を開いた。

「じゃ、じゃあどうすれば……」
「この猫は戦力に入れないとして、この子……高畑汀が、アタッカー、ディフェンサー、ファランクスの三つの役割を兼任するしかないわ」

「そんな……汀ちゃんは一人なんですよ?」
「でも、そのための『特A級』でしょ?」

せせら笑って、ソフィーは続けた。

「私達が仕事を完遂するためには、どうしても『守ってくれる人』が必要になる。だから、こうして馬鹿なあなたに説明をしに来たの」
「汀ちゃんが自分を犠牲にしてでも、私達を守らなきゃいけないって、そう言うんですか? この子は、私のせいで左腕が……」
「どうせ現実世界でも動かないんだから、関係ないじゃない」
「…………」

理緒が眉をひそめる。

「かたわは、かたわのままがお似合いよ」

ソフィーが鼻を鳴らしてそう言う。
そこで、理緒の手が飛んだ。
パンッ、と頬を叩かれ、ソフィーが唖然として目を見開く。

病室の入り口に立っていたSP二人が、急ぎ部屋の中に入ってきて、理緒とソフィーを引き離した。

「何するのよ!」

ソフィーが我に返って大声を上げる。
理緒は目に涙をためながら、押し殺すように言った。

「……協力は、お断りします。人の気持ちが分からない人とは、一緒に仕事はできません」
「何言ってるの? 説明したじゃない! あなた達に、あのパズルが解けるの? トラップを解除できるの? 二人じゃとても無理よ。私の力を使うしかないじゃない!」

色をなしてソフィーが怒鳴る。
しかし理緒は、SPの手を振り払って、ソフィーを睨んだ。

「あなたには出来ないかもしれない。でも、『私達』には出来ます」

理緒はそう言って、病室の入り口を手で指した。

「出て行ってください。汀ちゃんは、次のダイブまでゆっくり休まなきゃいけないんです。あなたも、休んだ方がいいと思います」
「ちょっと待ってよ。何いきなり怒って……」
「出て行ってください」

理緒は堅くなにそう言うと、汀の脇に腰を下ろした。

「手を出したことは謝ります。でも、お互いお仕事の仲間なのですから、これ以上お話しするのはやめましょう? お互いのためにならないと思います……協力は出来ませんが、応援はしています。お互い頑張りましょう」

目を合わせずに理緒がそう言う。
ソフィーはしばらく鼻息荒く彼女を睨んでいたが

「ふんっ!」

と言ってきびすを返した。

SP二人が慌ててその後を追う。

理緒は、ソフィーが出て行った後、
彼女を叩いた手の平をぼんやりと見ていた。

「汀ちゃん、私、初めて人のこと叩いちゃった……」

眠っている汀に、理緒はそう呟いた。

「誰でも、叩くと嫌な気分だね……」

彼女の呟きは、空調の音にまぎれ、やがて消えた。



三時間後、理緒は暗い表情で、うとうとと半分睡眠状態に入っている汀を乗せた車椅子を押して、施術室に入ってきた。
話しかけても汀の反応はない。
しかし、圭介が「ダイブは可能だ」と言っていたのを信じて連れてきたはいいが、理緒は心の中で葛藤していた。
近づいてきた大河内に、彼女は言った。

「先生、私一人でダイブします」

それを聞いた大河内は、身をかがめて彼女を見て、静かに言った。

「……無茶はやめるんだ。君一人でどうにかなる案件じゃない」
「でも先生……これじゃ、汀ちゃんが可哀想です。汀ちゃんは、道具じゃないんですよ」

その声を、部屋の隅で腕組みをして、壁に寄りかかっていたソフィーが聞いていた。
彼女は馬鹿にするように鼻を鳴らして、視線をそらした。
大河内はしばらく沈黙していたが、黙って車椅子を受け取ると、汀のダイブのセッティングを始めた。

「先生!」

すがるように言う理緒に、大河内は続けた。

「このダイブに移行する前、チームを組んで赤十字のマインドスイーパーが、二十人ダイブしたんだ」
「え……」
「全員、帰還できなかった」

そう言って、大河内は汀の頭にマスク型ヘッドセットを被せて、立ち上がった。

「是が非にでも、汀ちゃんと、君と、ソフィーの力が欲しい。そうじゃなきゃ、赤十字の子供達が、それこそ単なる『犬死に』で終わってしまう」

大河内の目は、いつもと違ってどこか冷たかった。

「それだけは避けてあげたい」
「そんな……私達は三人なんですよ!」
「分かっている。分かっていてのダイブなんだ」

そこで、圭介がポケットに手を突っ込んだまま、白衣を翻して部屋の中に入ってきた。
そして汀の意識がないことを確認して、ソフィーを歪んだ視線で見る。
慌てて視線をそらした彼女から理緒に目線をうつし、彼は首を傾げて言った。

「……どうした?」
「高畑先生。汀ちゃんをダイブさせるのは無理だと思います」

理緒がそう言う。しかし圭介は肩をすくめて、汀を手で示した。

「こいつがそう言ったのかい?」
「それは……でも……」
「大丈夫。汀はちゃんとやるよ。そういう奴なんだ。伊達に特A級は名乗っていない」

ソフィーにも聞こえるように、大声で彼は言うと、席について、理緒にも準備をするように促した。

「さぁ、二回目のダイブだ。今回は二十分に設定する」
「二十……?」

ソフィーがそこで声を荒げた。

「そんな時間で中枢を見つけるのなんて無理よ!」
「天才じゃなかったのか?」

冷たくそう返され、ソフィーは悔しそうに口をつぐんだ。
その握った手がわなわなと震えている。
大河内が、彼らの間に割って入った。

「口論をしている時間はない。ソフィーも準備をしてくれ。無理だと判断したら、今回も回線を強制遮断する。その点では安心してくれていい」
「ふん……安心ね」

ソフィーが吐き捨てるように言った。

「よく分かったわ。私には安心できる場所なんて、どこにもないってことがね」



ザッパァァァァンッ! と、凄まじい音を立てて、三人は頭から海に落下した。
一瞬何が起こったのか分からず、鼻から、喉からしこたま水を飲み、理緒は必死にもがいて水面に顔を出した。

「……ゲホッ! ゲホッ!」

もったりとした水の感触の中、飲み込んだ水を必死に吐き出す。
小白が風船のように長く膨らんで水面に浮いているのを見て、理緒はそこまで泳いでいって、尻尾に掴まった。

「た……助け! ゲホッ! 私、泳げな……!」

切れ切れに、少し離れた場所でソフィーが叫んでいた。
バシャバシャと水を撒き散らしながら、浮いたり沈んだりしている。
本当に泳げないらしい。

正確には、精神世界で出来ないことはないのだが、彼女の中によほど水に対する苦手意識があるのか、体が上手く動かないらしかった。

「……! 汀ちゃん!」

そこで理緒は汀の姿が見当たらないことに気がついた。
慌てて見回すと、澄んだコバルトブルーの水、底が見えない中、汀の体がゆっくりと下に沈んでいくのが見えた。
彼女は溺れているソフィーと、沈んでいく汀を見て、一瞬躊躇した。
しかし、すぐに膨らんでいる小白をソフィーの方に投げて叫ぶ。

「この子に掴まって! すぐ助けるから、頑張って!」

そう言い残して、理緒は水を蹴って海の中に潜った。
病院服が不快に体に絡みつく。
しかし何とか汀にたどり着き、彼女は背後から汀の体を羽交い絞めにし、力の限り水面に向かって足を動かした。

実に十数秒もかけて水面に顔を出す。
汀はぐったりとして反応がなかった。

「汀ちゃん! しっかりして!」

汀の体を揺らすが、彼女の口や鼻から、飲み込んだ水がダラダラと流れ出すだけで、目を覚ます気配はなかった。
視線を移動させると、イカダのような形になった小白の上に、ソフィーが大の字になって荒く息をついていた。
彼女は小白に向かって叫んだ。

「小白ちゃんこっち! 汀ちゃんの意識がないの!」

イカダの先っぽに小さく猫の顔と、側面に腕と足がくっついている。
小白は器用に尻尾を回して方向を変えると、スィーッ、と理緒たちに近づいてきた。

「汀ちゃんしっかり!」

反応のない汀に呼びかけながら、理緒は何とか小白の上に彼女を持ち上げた。

グラグラと猫ボートが揺れ、ソフィーが水を吐き出しながら悲鳴を上げる。

「高畑先生、聞こえますか! 高畑先生!」

パニックになっているソフィーをよそに、ヘッドセットのスイッチを入れて、理緒は大声を上げた。

『どうした? 状況を説明してくれ』
「海の中にいます! どうして前と場所が違うんですか!」
『前と同じ問題を出題する学者がどこにいるんだい? 汀の様子はどうだ?』
「意識がないみたいです! ソフィーさんも、泳げないみたいで動けないです!」
『……チッ』

圭介が小さく舌打ちをする。

『周りをよく観察するんだ。汀はじきに起きる。それまで耐えられるか?』
「やってみます……!」

頷いて、理緒は周りを見回した。

少し離れた場所に、小島があった。
人二人が寝れるくらいの、小さな浮き島だ。
小白の尻尾を引っ張ってそこまで牽引すると、理緒はソフィーに声をかけた。

「大丈夫ですか? しっかりしてください」
「私水は駄目……駄目なの……!」

震えながら、ソフィーは浮き島に這って進むと、その場にうずくまった。
理緒は意識がない汀を浮き島に移動させると、荒く息をつきながら自分も浮き島に登った。
ポタポタと海水を垂らしながら、彼女は周りを見回した。
そしてその視線が一点を凝視して止まる。
百メートルほど前方の海面に、巨大な穴が空いていた。
穴、としか彼女には形容できなかった。
正確にはダムの排水溝のような光景が広がっていた。
穴の直径は、五メートル前後。
今彼女達がいる浮島よりも、少し狭いくらいだ。
そこに向かって水が流れている。

浮島も流されていた。
近づけば近づくほど、引き込む力は強くなってくる。
小白が吸い込まれていることに気づいたのか、ポンッ、と音を立てて元の小さな猫に戻り、汀に駆け寄って、その頬をペロペロと舐めた。

「何……あれ……」

呆然として、流されている浮島の中、理緒は呟いた。
次の瞬間だった。
浮島がバラッ、と音を立てて崩れた。
それぞれが一抱えほどの立体パズルの形に分割され、流されていく。

『どうした!』

圭介の声に、パズルピースの一つに掴まりがら、理緒は悲鳴を返した。

「私達のいた島が、パズルになって崩れました! このままじゃ、穴に引き込まれます!」

『そこに引き込まれるな。おそらくトラップの一種だ』
「分かっています……でも!」

ソフィーが完全にパニックになって、パズルピースを掻き分けて浮き沈みしている。
小白がまた膨らみ、汀の体を支えた。
彼女達と浮島の破片が流れていく。
理緒は、ソフィーの方に手を伸ばした。
そこで、ソフィーが泣きながら叫んだ。

「結局こうよ! 結局、誰も助けてくれない! 私はずっと独りなんだ! こんなところで……こんなところに来ても……!」
『落ち着けソフィー。ダイブ中だ。正気を保て』
「うるさいうるさいうるさい!」

圭介に怒鳴り返し、近くのパズルピースに掴まりながら、彼女は血走った目で理緒を見た。

「おかしい? おかしいでしょ! この私が、水に入っただけで何も出来なくなるなんて……笑いなさいよ! どうせあんたも……」

そこまで叫んだソフィーの口元に、近づいた理緒が、そっと手を触れた。

「笑わないですよ。誰にだって怖いものはあります」

荒く息をついているソフィーに、理緒は続けた。

「この場を逃れましょう。協力しようとは言いません。でも、お互い『生き残る努力』をしましょう」
「努力……?」
「はい、努力です」

頷いて、理緒は言った。

「ソフィーさんに足りないのは、努力をしようとする気持ちです。人と仲良くしようとする努力、人を信じようとする努力、諦めない心を持つ努力。人のことを言えたものではありませんが、私も同じです。だから、私は生き残るために努力をします」

パズルピースを手に取り、彼女は近くの一つに嵌めた。
浮島の輪郭が一箇所だけ再生する。
ソフィーは、水の中でもがきながら、浮島の巨大立体パズルを完成させようとしている理緒を見て、口をつぐんだ。
そして理緒が中々パズルを嵌められないのを見て、ついに声を上げた。

「……右のピースを、左十字の方向のピースに、下から嵌めて。それから下のピースを、二メートル先のピースとさっきのピースとくっつけて」

理緒が少しきょとんとした後、笑顔になり

「はい!」

と頷く。
ソフィーの指示は的確で、短時間だった。
特に無理もなく理緒が、バラバラになった浮島を元に戻していく。
時間にして、一分もかからなかっただろうか。
驚異的なスピードで、直径五メートルほどの浮島を再構築させると、ソフィーはその縁に掴まりながら、理緒の手を引こうとした。

「早く、こっちに来て!」
「……分かってます……分かってますけど……」

引き込む力が強すぎて、理緒の片足が、穴の淵に入ってしまっていた。
もう完全に浮島は直っている。

しかし最後のピースを嵌めこんだ理緒の位置が悪かった。
丁度、穴の正面に来てしまっていたのだ。

「片平理緒!」

ソフィーが叫ぶ。
理緒の体の半分が、穴に飲み込まれる。
そして彼女を覆うように、浮島が穴を塞ぎ始めた。
穴の底は何も見えない。
暗黒の空間だ。
ソフィーが青くなって、浮島に這い上がろうとし……。
そこで、理緒の手を、浮島に打ち上げられていた汀が掴み、引っ張った。
間一髪で理緒が浮島に引き上げられ、浮島は、穴を塞ぐ形でスポンッ、とそこに嵌った。
海水の流出が収まり、流れが穏やかになる。

「汀ちゃん……?」

理緒が海水まみれに鳴りながら、呆然と呟く。
汀は、熱にうかされた顔で、耳までを赤くしながら、理緒を完全に浮島に引き上げ、しりもちをついて頭を抑えた。

「どこ……ここ……」
「良かった! 目が覚めたんですね!」

理緒に抱きつかれ、汀はきょとんとして、目をぱちくりさせた。

「どうしたの……理緒ちゃん?」
「怖かった……怖かったよ……」

震えながら泣いている理緒の背中に手を回し、汀が優しく撫でる。
左腕は、動かないようだった。
その様子を見て、ソフィーが浮島に這い上がりながら、高圧的な声を発した。

「よくも今まで暢気に寝てたわね……高畑汀。いえ、『アミハラナギサ』……」
「なぎさ……?」

そう呼ばれて、汀はソフィーを見た。

「あなた、何か知ってるの?」
「何も知らない。いいえ、その『何も知らない』ことが問題なのよ……」

荒く息をつきながら海水を吐き出し、ソフィーは続けた。

「世界中のマインドスイーパーで、私が知らない人はいない。でも、あなたの……いえ、正確には、この患者が認識したあなたの『アミハラナギサ』という名前だけは知らない。ということは……」
『暗転するぞ、気をつけろ!』

ソフィーの声を掻き消す形で、圭介が怒鳴る。
そこで、不意に空が暗くなった。
そして、パキパキパキと音を立てて、海水が一瞬で凍りつき始める。
数秒後、今まで温かかった空間は、極寒の北極のような世界になっていた。
どこまでも続く氷の地面に、吐く息が白く凍る、そんな異常な事態になっていた。
病院服一枚の少女達が、身を寄せ合ってガタガタと震える。

「な……何……?」

理緒が汀に抱きつきながらそう言うと、ソフィーが口を開いた。

「い……異常変質心理内面に入れたんだと思う……」
「二人とも離れて!」

汀がそう言って、小白を抱いた理緒とソフィーを突き飛ばす。
そして自分は右手一本で簡単にバク転を何度かして、五メートルほど後ろに下がった。
一瞬の差で、今まで彼女達がいた場所に、氷を裂く音がして刃渡り四十センチはあろうかと言うナタが三本、突き刺さった。

次いで、キチキチキチキチと機械のこすれる音がする。
汀が考える間もなく、地面に刺さったナタを右手で引き抜いて、走り出した。
そして、どこからか現れた「モノ」に対して勢いよく振り下ろす。
火花が散るほどの衝撃が汀を襲った。
歯をかみ締めてそれに耐える。
そして彼女は、四方八方から襲い掛かったナタの嵐を、身を軽くひねってかわした。
一メートルほどその「物体」から距離をとり……そして、汀は硬直した。
ドクロのマスク。
そして、ボールのような体に、ムカデのような足。
腕はでたらめな方向に、体のいたるところについていて、ナタをもっている。
そのドクロのマスクを見て、汀はナタを取り落とし、胸を押さえてよろめき、しりもちをついた。

「あ……ああ……」
「汀ちゃん!」

異物の目の前で座り込んだ親友を、理緒が慌てて呼ぶ。

「いや……いやあああ!」

右手で頭を抑えて、汀は絶叫した。

「いやだ! やだやだやだやだやだ!」

半狂乱になった汀に対して、その「物体」は、幾十ものナタを振り上げた。

「高畑汀! それはスカイフィッシュのオートマトンじゃないわ! それを模して作られたただの幻想よ!」

そこでソフィーが大声を上げた。

『なっ……』

マイクの向こうで圭介が息を飲む。

「しっかりして! あなたは、特A級スイーパーでしょう!」

ソフィーが怒鳴る。
そこで汀は、震えながら、自分に向けて振り下ろされたナタを、拾い上げたナタで受け止めた。

受け止めそこなったいくつかが、彼女の体に食い込む。
一瞬で血まみれになりながら、汀はゆっくりと立ち上がった。

「そう……私は特A級スイーパー……うっ!」

うめいてよろめく。
彼女の脳裏に、笑う白髪の少年の姿が映る。

――なぎさちゃん。僕達はずっと一緒だよ。

彼はそう言って、笑いながら手を私の頭に乗せた。

――だから、ね。二人で記憶を共有しよう。決して引き離せない二人の記憶。僕の記憶を、君にあげるよ。

燃える家。
チェーンソーの音。
ドクロのマスクを被った、血まみれの男。
その男が持っていたものは。
人の、頭部。
その頭部は――。

「……いっくん……?」

顔を上げた汀の目の先。
「物体」の更に二十メートル程先に、ポケットに手を突っ込んだ白髪の少年が立っているのが見えた。
彼は、手に長大な日本刀を握っていた。

「あ……」

汀が声を上げるより先に、その少年の姿が消えた。
少年は、ソフィーや理緒が視認さえ出来ないほどの速さで、「物体」を頭から両断した。
そして陽炎のようにその場に揺らめいて消える。
消える一瞬前、彼は汀の方を見て、醜悪に笑ったような気がした。
両断された「物体」が崩れ落ち、丸い、灰色の玉がその中からぬちゃり、と嫌な音を立てて浮き上がる。
血溜まりの中に立ち尽くしている汀に、理緒が駆け寄った。

「汀ちゃん……すごい……私、全然見えませんでした……」
「理緒ちゃん、今あそこに人が立ってなかった?」

少し離れた場所を指差した汀に、理緒は首を傾げて言った。

「誰もいなかったよ。私には、汀ちゃんがこれ……このトラウマを真っ二つにしたようにしか……」
「私が……?」
「片平理緒。時間がないわ。早く治療をして頂戴」

そこで、ソフィーが近づいて、震えながら言った。
理緒が慌てて頷き、浮いている灰色の精神中核に手を入れる。
そして数秒後、彼女はビチビチとはねる、ピラニアのような形の真っ黒い魚を掴みだした。
それを勢いよく地面にぶつける。
黒い墨があたりに飛び散った。

「高畑先生! 治療に成功しました!」

理緒が大声を上げる。

『…………』
「高畑先生?」
『いや、よくやった。三人とも。スイッチを切れ。こっちに戻すぞ』

一瞬の沈黙の後、圭介はそう言った。



びっくりドンキーのいつもの席で、眠っている汀の脇で、理緒はちびちびとメリーゴーランドのパフェを食べていた。
圭介がメモ帳に何かを書き込んでいる。

「あの……」

彼女がおどおどと口を開くと、圭介は顔を上げて、水を口に運んだ。

「どうした?」

聞かれて、理緒は言いにくそうに言った。

「本当は、聞いてはいけないんでしょうけれど気になって……私達がダイブした患者さんは、一体誰だったんですか?」

それを聞いて、圭介はメモ帳をパチンと閉じて、返した。

「もう『患者』じゃない。別に話してもいいことだから言うよ。名前は高杉丈一郎。赤十字の教授だ。君とは、親交が深いんじゃないか?」
「え……!」

それを聞いて、理緒は硬直した。

「え……? え?」

おろおろと周りを見回し、そして理緒は唾を飲み込んだ。
かなり動揺したらしかった。
それを端的な目で見て、圭介は続けた。

「知人の頭の中にダイブするのは、初めてのことかい?」
「そんな……嘘です! あんな世界が、『先生』の頭の中だなんて嘘です!」

理緒が立ち上がって大声を上げた。
汀の隣で眠っていた小白が頭を上げ、驚いたように彼女を見る。
圭介は肩をすくめ、そして言った。

「だけど事実だ。一皮剥けば、人間なんて、そんなもんだ。もっと深くまでダイブしなくて良かったな」

冷たくそう言って、圭介は水をまた口に運んだ。

「そんな……嘘……」

呆然としている理緒に座るように促し、彼女が力なく腰を下ろしたのを見てから、圭介は続けた。

「君も良く知っている通り、自殺病治療薬、GMDの開発者だ。この件は公にはしていないから、口外はしないように」
「先生が……先生がどうして自殺病に?」

すがるように理緒は圭介に言った。

「何かの間違いですよね? 冗談にしては酷すぎます!」
「冗談なんて言う訳ないだろ。俺は聞かれたから事実を述べたまでだよ」

またメモ帳を広げて何かを書きながら、圭介は言った。

「ま、高杉もこれで完治したんだ。意識が戻り次第、新しいGMDの開発に着手して欲しいものだな」

「高杉先生と知り合いなんですか? どうしてそんなに気楽でいられるんですか!」

理緒に声を荒げられ、圭介は息をついて、彼女を見た。

「自殺病には赤ん坊でもかかる。別段、その開発者がかかったとしてもおかしくはないよ」
「そんな……」

そこでオーナーが近づいてきて、圭介に何事かを囁いた。
圭介はまたメモ帳を閉じ、理緒に言った。

「議論は後でしようか。君にお客さんだ。外で待ってるらしい」



びっくりドンキーの駐車場に出た理緒の目に、ソフィーがSP二人に囲まれて、周囲の視線を意に介さずに、花壇のラベンダーを弄っているのが見えた。

「ソフィーさん……」

呼びかけて近づく。
ソフィーは鼻を鳴らすと、腕時計を見た。

「随分待たせるわね」
「すみません……あの、具合はもういいんですか?」

ダイブ先の極寒地獄で、実のところ理緒も体調があまり思わしくはなかった。
精神世界の影響は、現実世界にも多大に及ぶ。
まだ指先が凍傷になっているような、そんな幻の感覚にビリビリとした刺激が走っている。

ソフィーは髪をかきあげると、馬鹿にしたように言った。

「私を誰だと思ってるの? 体調管理も仕事のうちよ」
「はぁ……そうなんですか。それで、どうしたんですか?」

疲れた調子で言った理緒の顔を覗き込んで、ソフィーは言った。

「あなたこそ疲れてるんじゃないの?」
「ちょっと、いろいろありまして……」
「あなたを育てたドクター高杉が患者だったってこと?」

的確に言い当てられ、理緒は目を丸くした。

「どうして……」
「大概のことなら、私は知っているわ。あなたのおよびもつかないようなこともね」
「…………」

俯いた理緒に、ソフィーは続けた。

「インプラントって知ってる?」
「……インプラント?」

問い返した理緒に、ソフィーは頷いた。

「ええ。インプラント。ちょっと考えて分からない? マインドスイープでトラウマを除去できるなら、逆のことも可能なんじゃないかしら」
「…………?」
「つまり、トラウマの植え付けよ。それが心の中で芽を出して、自殺病を発症させる『種』になる。それがインプラント。国際的な犯罪よ」
「もしかして、高杉先生も……」

ハッとした理緒に、腕時計を見ながらソフィーは返した。

「私は、もう行かなきゃ。でもこれだけは言えるわ。あなたはとりわけ馬鹿そうだから、特別に教えてあげる。ドクター高畑と、ドクター大河内は絶対に信用しないことね」
「どうして……?」

「殺されるわよ」

ソフィーは冷たい目で理緒を見た。

「あなたも、あの子もね」

そこで圭介が駐車場に出てきた。
彼は、顔をしかめたソフィーを見て、包帯を巻かれた手を軽く上げた。

「やあ、天才少女じゃないか。具合はもういいのか?」
「あなたと話すことは何もありません」
「つれないな。君に『ご褒美』をあげようと思っていたところなんだが」

そう言って、圭介は持っていたメモ帳を、ソフィーに投げた。
SPの一人がそれを受け取り、ソフィーに見せる。
ソフィーの顔つきが変わった。

「……これ……」
「君はいろいろ知っているようだな。その人物を探してもらいたい。俺からの、個人的な依頼だ」
「あなたから……いえ、元老院からの依頼なんて、私が受けると思って?」

「君にとってプラスにしかならないと思うが。第一、君は知りすぎている。このまま日本に留まり続けるのも危ういくらいだ。眠れないだろう? 『スカイフィッシュの悪夢』を見るからな」

せせら笑った圭介に、ソフィーは顔を青くした。
よろめいた彼女を見て、理緒がおろおろしながら仲裁に入る。

「高畑先生、何だか怖いですよ……」
「ん? 俺はいつも通りだが」

軽く震えているソフィーを見て、圭介は言った。

「あの子はどうかな?」
「……分かった。で、探してどうするの?」

ソフィーが少し考えた末にそう言う。
圭介は軽く笑って、それに答えた。

「それは君の知るところじゃない」



汀は、ぼんやりと目を開けた。

「ん……」

小さく呟いて伸びをする。
そこで、彼女はうすく霞がかかった視界の先に、誰かが座っているのに気がついた。

「圭介……?」

呼びかける。
しかし、その人影は首を振った。
まだかなり眠いため、目が上手く開かない。
その人物は、目深にフードを被っていた。
彼……その少年は手を伸ばし、汀の右手に、何かを握らせた。
そして席を立ち、周りの客にまぎれて消えていく。
しばらくして圭介と理緒が戻ってきた。
汀が大きくあくびをして、圭介を見る。

「圭介、帰ろ」
「ああ、そうだな」
「ん……?」

そこで汀は、自分が何かを持っていることに気がついた。

「あら……! どこでみつけたんですか?」

理緒がそれを手にとって目を丸くする。
それは、四葉のクローバーだった。

「私、知らないよ?」

不思議そうにそう言う汀。

圭介は周りを見回し、舌打ちをした。
そしてオーナーに何事かを言い、汀の体を抱き上げる。

「理緒ちゃんも帰ろう。今日は家に泊まっていくといい」
「あ……はい!」

頷いて、理緒が四葉のクローバーをポケットに入れて、小白を抱き上げ、後に続く。
理緒が泊まっていくと聞いてはしゃいでいる汀の声が、段々聞こえなくなる。
汀の前にあったコップの水が、いつの間にか全てなくなっていた。
氷が溶けてカラン、と音を立てた。



第10話に続く



お疲れ様でした。
次話は明日、5/14に投稿予定です。
気長にお待ちくださいませ。
m(_ _)m

毎度毎度、独特の世界観に引き込まれます。
更新頑張ってください!

皆様こんにちは。
第10話の投稿をさせていただきます。

>>585
ありがとうございますm(_ _)m
完結まで投稿させていただきますので、一緒にお楽しみいただければと思います!!



第10話 衝動



雑然とした部屋の中、加原岬は目を覚ました。
腕には沢山の点滴がつけられている。
病院の診察台のようなものに寝かされていた。
しばらくぼんやりとして、起き上がろうとし、頭に頭痛が走り、彼女は点滴がつけられていない方の腕で、頭を押さえた。
彼女は、思い出そうとした。
今まで自分は、関西総合病院にいたはずだ。
こんな、タバコとアルコールの臭いがはびこっている部屋にいたわけがない。

「どこ……ここ……」

小さく震える声で呟いて、体を起こす。
そこで、診察台を覆っていたカーテンの向こうから、気だるそうな声が聞こえた。

「目が覚めた? 加原岬さん」

聞いたことのない声だ。
岬は、ベッドの上で起き上がり、毛布を手繰り寄せて体を硬くした。

「だ……誰ですか?」

どもりながら言うと、二十代後半と見れる、くたびれた白衣を着た、ぼさぼさの髪を後頭部で止めている女性が顔を出した。

口にはタバコをくわえている。
そこは、コンビニ弁当の残骸や、生活用品のゴミなどが雑然と積まれた、汚らしい部屋だった。
やけに沢山のパソコンがある。
そして、部屋の隅には、精神世界へのダイブに使用する器具が、無造作に投げ出してあった。
女性はしばらく値踏みをするように岬を見ると、頭をガシガシと掻いて、カルテを手に取った。

「特に問題はなし、と。『ラッシュ』を投与したから、記憶の混濁が見られると思うけど、じきにそれも治るわ」
「誰なんですか……? ここはどこですか!」

疑問が確信に変わり、異常を察知して岬が大声を上げる。
女性は軽く肩をすくめて、タバコの煙をフーッ、と吐き出した。

「まぁ慌てない。それにしても、単純に白髪を赤髪に染めてるとは思わなかったわ」

言われて、岬は頭に手をやった。

「何を言ってるんですか……? 私はずっとこの髪ですけど……」
「あぁ、記憶の中枢壁から弄られてるのね。まぁ大丈夫、その辺もおいおい治していくから」
「質問に答えてください! ここは関西総合病院じゃないんですか?」
「キャンキャン喚かないでよ。二日酔いで頭がガンガンしてるんだから」

軽くこめかみを揉んで、女性は椅子に座り、岬に向き直った。

「私の名前は、結城政美(ゆうきまさみ)……ここの場所は、訳があって教えてあげられないけど、関西総合病院じゃないことは確かよ」
「ど、どうして……? 病院の方ですか……?」
「そう見える?」

手を広げて見せてから、結城と名乗った女性はタバコを灰皿に押し付け、新しいタバコをくわえ、ジッポの火を慣れた手つきで移した。
そして息をついて、気だるそうに続ける。

「聞きたいことはいろいろあるだろうけど、まぁ詳しいことは、おいおいね」

そう言って彼女は、部屋の隅に設置してあるハンモックに近づいた。

そしてそこで仰向けになって眠っている少年の頭に軽く拳を叩きこむ。

「起きろ」
「……ッ!」

殴られた少年は、もんどりうって転がると、ゴミを蹴散らしながら床に転がった。
そして周りを見回し、口をパクパクとさせる。

「眠り姫が起きたんだよ。感動の再会シーンとやらを見せてくれ」

結城がそう言うと、少年……白髪の彼、ナンバーXはきょとんとして岬を見た。
そして嬉しそうな顔になり、口をパクパクとさせながら早足で近づく。

「あぁ、そいつヘマして、今一時的に喋れなくなってるけど、まぁ……分かるよね?」

結城に問いかけられるまでもなく、岬は目を丸くしてナンバーXを見た。
そして、慌てて服を直し、真っ赤になる。

「嘘……そんな……」

ナンバーXが岬の手を握る。
ニコニコしている彼に、岬は言った。

「あなた……いっくん……?」



汀の部屋の中で、汀と大河内は面と向かって睨みあっていた。
いつもは柔和な表情の大河内が、顔をしかめて、何かを必死に考え込んでいる。

「これだ!」

短く言って、手に持っているトランプを一枚、テーブルにパシンと叩きつける。

「ダウトだよせんせ」

汀がそう言って、ベッドの上に上半身を起こしている、自分の前に置かれたカードの中から一枚を取って放った。

「何ぃ!」
「大河内先生の二十七連敗ですね」

淡々と言って、理緒が壁のホワイトボードに得点を記入する。

「せんせ、もういいよ。もう休も?」

汀に静かに言われ、大河内は息をついて肩を落とした。

「何てことだ……私が、ここまで負けるとは……」

「汀ちゃんがカードゲームは強すぎるんです。異常な強さですから」
「知らなかった……汀ちゃんにこんな特技があったなんて……」

大河内が頭をわしゃわしゃと掻く。

「いやぁ参った! 降参だよ」
「まだやってたのか」

そこで圭介が、三人分のジュースが入ったコップをトレイに乗せて部屋に入ってきた。

「大河内。お前じゃ勝てないぞ。何せ、俺もまだ勝ったことがないからな」
「本当か?」

信じられないといった顔で大河内が圭介を見る。
彼は肩をすくめて、大河内と理緒にコップを渡すと、汀のベッド脇にある台に彼女の分のジュースを置いた。
そしてストローをさしてやる。

「汀に対してのテストをするのは初めてのことだから、戸惑うのも無理はないだろうが、こいつはまがりなりにも特A級だ。俺達じゃかなわないよ」
「うぅーん……」

大河内が悔しそうに考え込む。

汀はそんな大河内の様子をにやにやしながら見ていた。
そして口を開く。

「せんせ約束だよ。何でも言うことを聞くんだよ?」
「仕方ない。汀ちゃんには負けたよ。何が欲しい?」
「せんせが欲しい」

大河内を指差し、汀はにっこりと笑った。

「せんせと結婚したい」

その、あながち冗談とも取れない発言に、圭介以外のその場の二人が凍りつく。
大河内は頬に一筋汗を流し、しばらく口ごもった後、静かに聞いた。

「汀ちゃん、そういうのは大人になってから……」
「私もう大人だもん」

汀はそんな言葉を意に介さず、嬉しそうに言った。

「どこに住む? 私、田舎がいいな。せんせはどのくらい子供が欲しい? 私は三人くらいがいいと思うんだけど……」

カードゲームの勝負に負け、しかも十三歳の女の子と告白ついでに結婚することになっている大河内は目を白黒とさせた。
そして状況が上手く認識できないのか、目じりを押さえる。

「どうしたの?」
「汀ちゃん、女の子はね、十六歳にならないと結婚できないんです」

そこで、理緒が冷静に突っ込みを入れた。
汀は一瞬ポカンとすると、すがるように圭介を見た。

「本当?」
「本当だ」

端的に、点滴のチューブを交換しながら圭介が言う。

「じゃあせんせ、三年後に結婚しよ。約束だよ」

汀が手を伸ばして、小指を立てる。

「ゆびきりげんまん」

そう言って、無邪気に笑う彼女。

大河内は少し考え込んでいたが、やがてふっ、と笑い、その指に自分の小指を絡めた。

「……ああ、約束だ」
「うふふ」

よほど嬉しいのか、汀が満面の笑顔になる。
それを、表情の読めない顔で圭介が見下ろしていた。
彼の無表情に気づいた理緒が、ビクッとして発しかけていた言葉を止める。
それほど、圭介の目は感情を宿していなかった。



「……驚いた。私のことを好いていることは知っていたが、まさか結婚まで考えていたとはな……」

汀と理緒が寝静まった夜中、診察室の椅子に腰掛けながら大河内が言う。
圭介はピンクパンサーのグラスに麦茶を注ぎながらそれに答えた。

「俺はもう、耳にタコが出来るくらい聞かされている」
「人が悪いな。それくらい教えてくれてもいいじゃないか」
「生憎と、お前にそんな義理はないからな」

冷たくそう返し、圭介はグラスの中身を口に運んだ。

「安心しろよ。そんな未来は一生来ない」

圭介のゾッとするような冷たい声に、大河内の目が厳しくなった。
彼は腕組みをして圭介を見て、そしてせせら笑うように言った。

「……汀ちゃんと私の問題だ。お前がどうこうできる話じゃない」
「勘弁してくれ。俺にペドの趣味はない」

そう言って、圭介は続けた。

「……自殺病にかかった者は決して幸せにはなれない。それは、神が定めた摂理なんだ。汀も同様だ」
「そんなことはない。汀ちゃんは誰よりも幸せになる権利を持っている」

大河内がそう言うと、圭介はドンッ、と乱暴にグラスをテーブルに置いた。
そして歯を噛んで大河内を見る。

「どの口がそれをほざく」
「悪いが、お前よりも、私はあの子のことをよく知っていてね」

含みを持たせて笑い、大河内は続けた。

「それをお前に教える義理はないが」
「ふん……」

鼻を鳴らして、勝手にしろと言わんばかりに肩をすくめると、圭介はテーブル上の資料を手に取った。

「『裏』か」

そう言った圭介に、大河内はまだ視線を厳しくしながら口を開いた。

「ここは病院だろう? 患者のことは詮索しないのが礼儀だ」

「それでも、相応のリスクは負わなければいけないからな。最低限のことは知っておきたい」

圭介はそう言って資料をめくった。
そして呆れたようにため息をつく。

「いい加減、赤十字で処理しきれなくなった案件をこっちに回すのはやめろ。俺達は便利屋じゃない」
「お前が汀ちゃんを手放せば済む話だ」
「残念ながらそういう未来も一生来ないな」

大河内と目を合わせずにそう言って、圭介は資料を閉じた。
そして、それを放って大河内に返す。

「ダイブは明後日だ。だが条件がある」
「何だ?」
「理緒ちゃんをサポートにつける。赤十字から、あの子の管轄を俺に回せ」
「何だと?」

思わず腰を浮かせた大河内に、圭介は醜悪に笑いながら言った。

「元老院も承諾済みだ。あの子は、俺のものにする」

「高杉が黙っていないぞ」

「あいつは俺に多大な恩があるだろう。それに、『お前も』だ。形式上ではあるがな。忘れてもらっては困る。ギブ・アンド・テイクだ」

大河内は椅子に腰を下ろし、深く息をついた。

「……最初から狙っていたのか?」
「さぁな。だが、『役に立つ道具』は一つでも多い方がいいからな」

圭介はそう言って、グラスの中の麦茶を、一気に喉に流し込んだ。

「ここに住まわせる。おかげで、俺も大分動きやすくなるだろう」
「……変わったな。高畑」

大河内が呟くように言う。

「…………あの頃の私達は、もっと…………」
「昔の話は昔の話だ。それに、俺はまだ許してはいないからな」
「…………」
「お前と、坂月をな」

大河内が何かを言おうとして言葉に詰まる。
圭介は、話は終わりだと言わんばかりに立ち上がった。

「精々気をつけて帰るんだな」

含みを持たせてそう言って、彼は診察室を出て行った。



暗い夜道、大河内は息をついた。
もう夜中の十一時近い。
中央通りに出ないと、タクシーをつかまえられそうにもなかった。
電話をしてくるんだった……と若干後悔しながら、しかし中央通りはすぐ近いと思い直し、大河内はまた歩き出した。
しばらくして、彼は自分の足音に合わせて、もう一つ、足音が聞こえてくることに気がついた。
ハッとして立ち止まる。
足音も消えた。
あたりには人影がない。
街灯もなく、非常に薄暗い場所だ。
大河内はゆっくりと、横目だけで振り返り、少し離れた場所に、「何か」を持っている、少年と思しき人影が立っているのを見た。
彼はフードを目深に被り、表情を読み取ることは出来ない。
大河内はそれを確認する一瞬の間もなく、全速力で中央通りに向かって走り出した。
少年も、それを追って走り出す。

小柄な少年とは思えないほどの俊敏な動きだった。
彼は近くの民家の塀を蹴り、三角飛びの要領で大河内の目の前に転がり出ると、彼の首を掴んで、足を払った。
素人の動きではなかった。
大声を出そうとした大河内の口を塞ぎ、少年はフードの奥の瞳を、冷たくニヤリと笑わせた。
大河内の目に、フードから覗く白髪が見える。
そして次に、少年が持っていた、刃渡り三十センチはあろうかという長大なサバイバルナイフを目にした。
必死にもがく大河内を難なく組み伏せ、少年は、彼の腕をナイフで撫でた。
簡単に皮が切れ、血が流れ出す。
無言だった。
それが大河内の恐怖を更に煽った。
うめく彼の上腕までに切れ込みを入れ、少年はナイフを振り上げた。
そして――。



「せんせ! せんせえ!」

隔離された集中治療室内で、呼吸器をつけられ、目を閉じて横たわっている大河内をガラス窓の向こうから、汀は車椅子から転がり落ちそうになりながらも必死に呼んだ。
答えはない。

「…………」

険しい顔をして、圭介は虚空を睨んでいた。

「そんな……大河内先生……」

口元に手を当てて、理緒が震える声で呟く。

「……発見された時はこの状態だったそうだ。肺に達する刺し傷が三箇所。うち一箇所は、肺を貫通してるらしい。警察は総力を挙げて、犯人を捜している」

圭介は小さく舌打ちをした。

「……だから気をつけて帰れと言ったんだ……」

聞こえるか、聞こえないかの声で彼が呟く。

耳ざとくそれを聞きつけ、汀が圭介の服を掴んだ。

「圭介! 何か知ってるの? 犯人のこと、何か知ってるの?」
「……知らない。俺が聞きたいくらいだ」
「嘘だ! 圭介は何か知ってる……知っててせんせをこんな目に遭わせたんだ!」

半狂乱になって、汀がヒステリックに喚く。

「せんせが死んだら、圭介も殺してやる! 私が、私が絶対に……」

そこで汀の喉から、カヒュ、と空気の抜ける小さな音がした。
そのまま激しく咳き込み、汀は呼吸が出来なくなったのか、体を丸めた。

「汀ちゃん! 興奮しすぎです!」

理緒が青くなって、看護士が持ってきた紙袋を膨らませて、汀の口に当てる。
何度か深呼吸を繰り返し、汀はしばらくしてぐったりと車椅子に横になった。

「汀ちゃん? しっかりして。汀ちゃん!」
「刺激が強すぎたみたいだ。君は、ラウンジの方に行っててくれ」

荒く息を吐いて、視線をうつろに漂わせている汀の額に手を当て、圭介は冷静に懐から注射器を取り出し、それを汀の右手首に注射した。

そして理緒に、小白の入ったケージを渡す。

「少し寝かせる。大丈夫だ。汀は、時折ヒステリックになるんだ。起きた頃には冷静になってるだろ。小白を離さないようにして、近くで寝かせてくれ」
「高畑先生! 大河内先生が通り魔に遭ったんですよ!」

咎めるような声で理緒が言う。
圭介はメガネをクイッと中指で上げて、それに答えた。

「ああ、そうだな」
「高杉先生の時もそうでした……どうして、そんなに冷たくしていられるんですか! 汀ちゃんの気持ちを考えてあげても……無理やり眠らせるなんて! 誰だって……誰だって、自分の好きな人がこんな事件に遭ったら、冷静でいられませんよ!」
「君も少々ヒステリーの気があるらしいな」
「茶化さないでください!」

理緒は圭介に詰め寄った。

「大河内先生は大丈夫なんですか? 汀ちゃんに、いきなりこんなところを見せるなんて、どうかしてます! 幻滅しました!」

「いくらでも幻滅してくれて構わない。別に、俺は君達の機嫌を取るために生きているわけではないからな」

冷たく理緒の言葉を打ち消し、しかし視線はあわせずに、圭介は続けた。

「……手術は成功した。命に別状はないはずだ。今の医療技術を、信用するんだ」
「でも……でも!」
「俺がやったわけではない。憤りは分かるが、落ち着け、理緒ちゃん」

彼女の頭にポスン、と手を置き、圭介は言った。

「少し休みなさい。ここでいくら喚いても、大河内が良くなるわけじゃない」
「……私……聞きました」
「何?」

問い返した圭介に、理緒は小声で言った。

「高畑先生と、大河内先生が話してるところ、聞きました。汀ちゃんと大河内先生は、絶対に結婚できないって、高畑先生、断言したじゃないですか!」
「…………」
「自殺病にかかった人は絶対に幸せになれないって……どういうことですか!」

どうやら、手洗いに行こうとして起きたところ、彼らの会話を聞いていたらしい。
圭介はしばらく沈黙して、汀が眠っていることを確認してから腕を組んだ。
そして軽く笑う。

「何がおかしいんですか!」

理緒が声を張り上げる。

「特に何も。何も知らない君が、少々滑稽でね」
「こっけい……?」
「ああ。赤十字では教わらなかったのか? 『自殺病にかかった者は絶対に幸せにはなれない』……それは、神様が定めた摂理なんだよ」
「そんなこと、聞いたことありません! それに汀ちゃんが……」
「汀は、俺がマインドスイープで治療した『最後の』患者だ」

淡々とそう言って、圭介は冷たい目で理緒を見下ろした。

「え……」

口ごもった彼女に、圭介は続けた。

「いいかい。これからも人を治療していきたいと思うなら、覚えておけばいい。自殺病にかかった者は、絶対に幸福にはなれない。何度でも言う。絶対にだ」
「どうして……? どうしてそんなに酷いことを……」
「俺も昔、自殺病の患者だったからさ」

抑揚なくそう言って、圭介は吐き捨てるように呟いた。

「それ以上でも、それ以下でもない」



赤十字病院のラウンジで、理緒は汀と小白の乗った車椅子を、日のあたらない場所に設置し、一人、少し離れた場所で水を飲んでいた。
朝、大河内の事を聞きここに来てから、既に半日以上が経過していた。
圭介は顔を見せようとしない。
ここに放置されてからも、随分時間が経つ。
ある程度のお金は圭介に持たされていたが、汀がいつ目を覚ますか気が気ではなかったので、離れるわけにもいかなかった。
頭の中がグチャグチャだった。
寝不足と、疲労と、圭介に投げつけられた言葉の痛みが交互に理緒の胸の中を襲う。
深くため息をついた彼女の周りには、やはり診察を待っている患者や、食事をしている見舞い客などが沢山いた。
誰も、汀達を気にする人などいない。
そんな中だったので、理緒はいつの間にか隣に誰かが座っていることに気づかなかった。

「……?」

きょとんとして隣に目をやる。
そこには、灰色のフードを目深に被った、長袖の少年が座っていた。
理緒と同じくらいの年の頃だろうか。
彼は、売店で買ってきたのか、手にピルクルの瓶と、菓子パンを数個持っていた。
それを理緒に差出し、ぎこちなく笑う。

「た……た…………たっ……」

慎重に言葉を選ぶように、断続的に発音し、彼は息を吸って、そして一気に言った。

「た……べ……る?」
「え……あの……」

理緒はいきなりのコミュニケーションについていけずに、どぎまぎしながらそれに答えた。

「お、おかまいなく。私、大丈夫ですか……」

グゥ、と理緒のお腹が鳴った。

整った顔をしている少年だった。
髪の毛が白い。
同じマインドスイーパーだと気づいて、理緒は顔を赤くしながら、俯いた。

「お、れ……分、ある」

言語障害なのだろうか。
切れ切れに彼はそう言うと、にこやかな笑顔と共に、自分の分のパンを手で指した。

「あ……さから……いた。心配」
「ありがとうございます……」

小さな声でそう言って、理緒はパンを受け取った。



パンを口に入れ、多少は頭の中が整理できた理緒は、息をついて少年を見た。
もぐもぐとパンを食べている彼は、ぼんやりと外を見ている。
髪の毛が白くなければ、タレントにでもなっていそうな程、顔立ちが整っていた。
理緒でなくても、女の子なら誰でも意識はしてしまうだろう。
彼がこちらを向いたので、慌てて目をそらす。
ピルクルで残りのパンを喉に流し込み、彼女は男の子に聞いた。

「あの……お金、払います。お幾らでしたか?」
「いら……ねぇ。男、女……おごる、大切だ……と、思う。逆……おかしいな」

意外と理性的な喋り方をする人だ。
理緒は警戒心を解いて、しかし彼の手に千円札を握らせた。

「お礼です。私の気持ちだと思って、受け取ってください」

少年はしばらくそれを見つめていたが、やがて興味がなさそうに頷いて、ガサッ、とポケットに千円札を突っ込んだ。

その鳶色の瞳でまた見つめられ、理緒は顔を赤くして視線をそらした。

「あの……お名前は……?」

聞かれて、少年は言った。

「工藤…………一貴(いちたか)」
「一貴さんですね。私は理緒。片平理緒って言います」

手を差し出すと、一貴は気さくにそれを握り返してきた。

「同業者の方ですよね? どこでお仕事をされてるんですか?」
「ほ……っかいどう。出張……で」
「遠いところから……担当医の方は?」
「戻ら……ねぇ」

ヘヘ、と笑った彼に、理緒は微笑み返した。

「ふふ、おんなじですね」

一貴は頷いて肩をすくめると、眠っている汀に視線を移した。
そして口を開く。

「あの、子……」
「汀ちゃんのこと、ご存知なんですか?」

問いかけた理緒に、一貴は頷いた。

「有、名……特A」
「今ちょっと具合が悪くて……お話は出来ないんです」

目を伏せた理緒の肩を、彼は元気を出せよ、と言わんばかりにポンと叩いた。
そして立ち上がって汀に近づくと、その顔を覗き込む。
しばらく同じ姿勢のまま固まった一貴を、理緒は怪訝そうに見た。

「どうしました?」

問いかけられ、彼は肩をすくめた。

「残念……俺、ともだ、ち。この……子と」
「汀ちゃんのお友達だったんですか?」
「……う、ん」

頷いた彼の隣に行き、理緒は息をついた。

「羨ましいな……私の友達は、汀ちゃん以外、ほとんど『あっち』の世界に行っちゃった」
「…………」
「そこから助けてくれたのが、汀ちゃんなんです」

彼女は、黙っている一貴の方を見ずに続けた。

「だから私は、汀ちゃんに幸せになってもらいたい……自殺病にかかった人間は、絶対に幸せになれないなんて、嘘です。そんな酷いこと……私は信じられません」
「…………」
「工藤さんも、そう思いませんか?」

振り返った理緒の目に、汀を見て目を細めている一貴の姿が映った。
一貴は少し考えていたが、やがて頷いて、ニッコリと笑った。

「俺……たち。だいじょう、ぶ。医者、適当なこ、と、言う」
「そうですよね。そうなんだ。大丈夫。大丈夫だよ」

理緒がそう言って、眠っている汀の手を握る。

一貴はまたしばらく汀を凝視していたが、彼女が目を覚まさないことを確認して、チラチラと腕時計を見た。
そして理緒の肩を叩く。

「お、れ。行く。かたひ、らさん。これ」

彼が差し出したのは、メモ帳の切れ端だった。
そこには、ゼロと一の羅列がびっしりと書かれていた。
その不気味な紙片を受け取り、理緒が首を傾げる。

「何ですか?」
「この……子に、わたし、て。大事……すごく、大事な……もの。医者、し、んようできない。俺、たちのひ……みつ。約束」

勝手に理緒の手を握り、彼は手をひらひらと振って、足早に人ごみの中に消えた。

「あ……待って!」

慌てて後を追いかけようとした理緒が、小さくうめいて目を開いた汀を見て、歩みを止める。

「ん……」
「汀ちゃん! 目が覚めましたか?」
「ここ……どこ……?」
「…………」

大河内が大怪我をしたというくだりは、完璧に忘れてしまっているらしい。
それに愕然とした理緒の目に、圭介が手にビニール袋を持って、疲れた足取りで歩いてくるのが見えた。
慌てて、一貴から渡された紙片をポケットに隠す。
そこで彼女は、いつの間に折られたのか、小さく、鶴の形にされた千円札が手に握りこまれているのに気がついた。
それを見て、どこか顔を赤くする。
一貴の姿は、もうどこにもなかった。

「……どうした?」

袋に入った菓子パンやジュースをテーブルに並べながら、圭介が聞く。

「ああ、もう食べたのか?」
「え……? あ……はい。ごめんなさい……」

「いや、俺の方こそ、随分と待たせてすまなかった。大河内の容態は安定してる。問題はないだろう」
「圭介……? どこ……ここ……?」

緩慢とした動作で、汀がそう聞く。
圭介は彼女に、ストローを指したポカリスエットの小さなペットボトルを握らせて言った。

「赤十字病院だ。大河内が少し怪我をしてな。そのお見舞いに来ていたところだ」
「せんせが……? 私、お見舞いなんてしてないよ」
「したよ。大河内が、疲れただろうからもう帰れってさ」

淡々とそう返し、圭介は理緒が不満げな顔をしたのを無視して、パンを頬張った。

「理緒ちゃんも。こんな時で悪いけど、仕事だ」
「高畑先生……!」

理緒が小声で咎めるように言う。
しかし圭介は、パンをかじりながらそれに答えた。

「急患だ。今、ここの第三棟に運び込まれてる。放置すれば、あと二時間で死に至る」

「そんな……」
「汀、やれるか?」

問いかけられ、汀は頷いた。

「終わったら……また、せんせと会いたいな……」
「いいよ。約束する」
「うん……」
「……高畑先生!」

そこで理緒が、我慢できないといった具合で圭介の袖を引いて、汀から遠ざけた。
そして小声で彼に言う。

「何で嘘をつくんですか?」
「また汀を過呼吸にしたいのか?」
「私は……でも……!」
「君達はマインドスイーパーだ。資格があるなら仕事をしろ。『人を助ける』といった仕事をな」

冷たく言って、圭介は柔和な表情で汀を見た。

「行くぞ。ダイブは三十分後だ」



汀と理緒は目を開けた。
そこは、大雨が降っている高速道路の上だった。
一瞬でびしょ濡れになった二人が顔をしかめる。

『どうした? 状況を説明してくれ』

圭介の声が聞こえる。
汀と理緒がヘッドセットのスイッチを入れ、口々に何かを言うが、雨の音でそれはかき消されてしまっていた。

『聞こえないな……汀、どうにかしろ』

圭介の命令に頷いて、汀は足元で小さくなっている小白を抱き上げた。
そして理緒の手を掴んで、高速道路の脇に移動する。
そして親指を立てて、右手をピンと上げた。

(ヒッチハイク……?)

そのつもりなのだろうか。
精神世界で、しかもこの土砂降りの逃げ場がない中で何をしているのだろうと、理緒が目を丸くする。

そこで、凄まじい勢いで、赤い車が走り去った。
エンジン部分が大きく拡張されていて、さながらレーシング用の車だ。
それを追って、サイレンを鳴らしながらパトカーが三台走ってきた。
そのうちの一台が停まり、中から真っ黒いマネキンのような人間が出てくる。
黒いマネキンが、警官の制服を着ている。
二人だ。
表情はうかがい知ることは出来ないが、彼らは腕を立てている汀の前に屈みこんで、心配そうに口を開こうとして――。
そこで、一人が、汀に無造作に投げ飛ばされた。
もう一人が臨戦態勢を作る前に、汀は倒れた警官の喉に一撃を加えてからその警官の警棒を抜いて、まだ立っている警官のみぞおちに突き立てた。
時間にして五、六秒ほどのことだっただろうか。
警官姿のマネキンを二人とも締め落としてから、汀は唖然としている理緒の手を引いて、パトカーに乗り込んだ。
そして扉を閉め、膝の上に小白を乗せる。

「ダイブ成功。変質心理区域だね。かなり自殺病が進行してると思う」

猫のように頭を振って水を飛ばした汀の隣で、理緒が震えながら暖房のスイッチをつける。
そして彼女は、倒れている二人の警官を見た。

「汀ちゃん……あの人たち……」
「ただの深層心理の投影だから、気にしなくていいよ」

そう言って、汀は車のアクセルを踏んで、パトカーを急発進させた。

「きゃあ!」

理緒が悲鳴を上げて、慌ててシートベルトをつける。

「み、汀ちゃん! 運転できるの?」

六十キロ、七十キロ、次第に速度が上がっていく。
汀は、明らかに小さな体でギアを操作して、先ほど通過したパトカーに追いついてから、面白そうに笑った。

「やり方は知ってる」

「知ってるって……知ってるだけで運転したことは……」
「ないよ。当然でしょ?」

二台のパトカーを追い抜き、汀は更にスピードを上げた。
理緒がまた悲鳴を上げて、体を縮めて目を閉じる。
既に百二十キロ近く出ていた。
今は土砂降りだ。
ハイドロプレーニング、と呼ばれている。
タイヤと道路の間に水が入り込み、タイヤが空回りする現象だ。
その音を聞き、よく分かっていないまでも理緒は顔面蒼白になった。
当然だ。
自分より小さな女の子が、土砂降りの高速道路で百三十キロもカッ飛ばしていたらその隣に座っていて恐怖を感じない者はいないだろう。

「とめて! とめてぇえ!」

凄まじい勢いで流れていく周囲の景色についていくことが出来ずに、理緒が絶叫する。

『どうした? 状況を説明してくれ』

圭介が言う。
汀はまたギアを操作し、更に速度を上げてから言った。

「高速道路。多分防衛型の特徴だと思うけど、この人の精神中核が車で逃走中。この人、普通の人じゃないね。犯罪者だ」

汀の的確な指摘に、圭介が一瞬押し黙る。

「は……犯罪者?」

理緒が引きつった声を上げ、目をギュッ、と閉じて震えながら言った。

「私達、犯罪者の人の心の中にダイブしてるんですか?」
「それも普通の犯罪者じゃないね。警察に対して異常な警戒心を持ってる。多分何かの逃走犯だ」
『汀、仕事に集中しろ』
「分かってる」
「高畑先生! 犯罪者って本当ですか?」

理緒がヘッドセットに向けて悲鳴のような声を上げた。

「それも逃走犯だなんて……マインドスイーパーは、犯罪幇助はしちゃいけないんですよ!」

『君達はただ、精神中核を治療すればいい。仕事をするんだ』
「高畑先生も汀ちゃんも、おかしいよ!」

理緒はあまりのスピードに腰が抜けたのか、頭を抑えてその場にうずくまった。
百四十、百五十。まだ速度は上がっていく。
前方に、赤い車が見えてきた。
もはや気を失ってもおかしくないほどの恐怖が、彼女を襲っていた。
半狂乱になって、理緒はどこかに逃げ場はないかとパニックになって怒鳴った。

「とめて! とめてよ! 死んじゃうよ! やだ、こんな速いのやだあああ!」

車の速度計から流れる警告音が彼女の精神を削り取っていく。
汀は、しかし運転に集中していて理緒の相手をする暇がないのか、小白を彼女に投げてよこしただけだった。

「大河内先生が死にそうなのに、仕事なんてできません! 戻してください! 私、仕事できません!」

理緒が悲鳴を上げる。

「え……?」

そこで初めて、汀は理緒の方を見た。

「せんせが、死にそう?」
『二人とも、仕事に集中するんだ』
「出来ないです! 私は人間です! 人間って、心があります、機械じゃないんです! 二人ともおかしいよ! おかしいよ!」
「理緒ちゃん落ち着いて。落ち着いてその話をよく聞かせて」

汀が冷静に言って、震えて固まっている理緒を横目で見る。

『やめるんだ理緒ちゃん。終わったら俺の口から……』
「圭介は黙ってて」

圭介の声を打ち消し、汀は続けた。

「理緒ちゃん、すぐに怖いのは終わるから。大丈夫。私がいる」
「汀ちゃん……」

鼻水を啜り上げながら、理緒は、途切れ途切れに口を開いた。

「大河内先生が……通り魔に遭って……今、重篤な状態で……」
「圭介、本当? それ」

『…………』
「圭介!」

汀が怒鳴る。

『本当だ。犯人はまだ捕まっていない』

しばしの沈黙の後、圭介はそう答えた。

「私の記憶を消したのね……何で!」
『仕事があるからだ』
「戻る。すぐに戻る!」
『…………』
「この精神中核を捕まえたら、すぐにせんせのところに行く!」
『冷静になれ! 精神中核が外壁防御もなしに高速で逃走中なんだろう。慎重に行け!』
「知らない……知らないこんな犯罪者!」

汀は怒鳴って、更にスピードを上げた。

そして理緒に

「ぶつかるよ!」

と叫んでから、前方でエンジンを高速で回転させている赤い車の後部に、パトカーを衝突させた。
凄まじい衝撃が二人を襲う。

「きゃあああ!」
『やめろ汀! 患者を殺す気か!』

圭介が怒鳴る。
しかし汀は、それには答えずに、何度も、何度も車を衝突させた。
仕舞いには赤い車の後部タイヤがパンクしたらしく、それはぐるぐると道路をスピンしながらガードレールに激しくぶつかった。
そして何度も回転しながら、崖下に車が落ちていく。
パトカーをスピンさせながら急停止させ、汀はヘッドセットに向けて叫んだ。

「戻して! 早く!」
『…………』

圭介がマイクの向こうで歯噛みする。

ボンッ! という音がして、崖下で車が爆発した。
火柱が吹き上がる。

「圭介!」

ぐんにゃりと、景色……いや、「空間」それそのものが歪んだ。
まるでコーヒーにミルクを入れてかき混ぜるように、汀達を包む空間がドロドロになり崩れていく。

「精神中核の崩壊を確認。戻して!」

ヘッドセットの向こうから、圭介の舌打ちが聞こえた。
そこで、彼女達の意識はブラックアウトした。



「患者の死亡が確認された。死因はショック死だ」

圭介が淡々とそう言う。

「死んだ……?」

理緒が唖然として、その言葉を繰り返した。

「え……死んだ……? 死んだんですか……?」
「ああ、君達が殺したようなものだ」

端的にそう言って、圭介は表情の読めない無表情のまま、手に持った資料を脇に投げた。
大河内を見舞ってから、赤十字の会議室で、汀は圭介を睨んでいた。

「……知ったことじゃないよ」
「それでも特A級マインドスイーパーか。呆れてものも言えないな」

圭介は首を振り、立ち上がった。

「少しここで頭を冷やすといい。大河内は命は助かるが、君達が見放した命は大きい。それがたとえ、犯罪者のものだったとしてもな」

会議室の扉を閉めた圭介を目で追って、汀は唇を強く噛んで俯いた。

「死んだって……どういうことですか……?」

理緒がかすれた声を出す。
汀はしばらく沈黙していたが、やがて、小さな声で返した。

「……私が、精神の中核を、車ごと崖の下に落としたから。精神の崩壊は、脳組織の崩壊を誘発することもあるの……」
「私が……汀ちゃんに、大河内先生のことを話したから……ですか?」

汀は、また少し沈黙してから、首を振った。

「…………」
「汀ちゃん……?」

すがるように口を開いた彼女に、汀は両目から涙を落として、かすれた声で答えた。

「私が……殺した。カッとして……殺しちゃった……」



圭介は、日も落ちて、暗い診察室の中椅子に座って資料を見ていた。
理緒と汀は、隣の部屋で、泣き疲れて眠っていた。
今日起きた一連のことは、彼女達の年齢では、処理できる理解の範疇を超えていた。
睡眠を体が選んだとしても、それは無理のないことだった。
そこで、圭介の携帯電話が鳴った。
圭介が顔を上げて、一瞬止まった後それを掴む。
そして耳にあて、彼は言った。

「誰だ?」

電話の主は、非通知だった。

『久しぶりだな。高畑君』

しかしその声に、圭介は表情を変えて答えた。

「…………久しぶりですね…………」
『相変わらずクールだな。どうだ? 今回の失敗は、随分と堪えたんじゃないのか? 元老院もな』

「あなたには関係のない話だ」
『今回の失敗を、もみ消してやれると言ってもか』

電話口の向こうでタバコでも吸っているのか、息を長く吐きながら、相手はそう言った。
圭介はしばらく考え込んだ後

「あなたには関係がない話だ」

と、先ほどの台詞を繰り返した。
電話口の向こうの相手は、それに構わずに続けた。

『ナンバーⅣをこちらに引き渡したまえ。悪いようにはしない』
「お断りします」

圭介はせせら笑って、それに返した。

「あの子は俺のものだ。あなたのものじゃない。残念だったな」

醜悪に口の端を歪め、彼は吐き捨てた。

「つるむ相手を変えたいのは分かりますが、相手は選んだ方がいいですよ」

プツッ、と電話を切る。

そして彼は携帯電話をテーブルに投げてから、立ち上がった。
手洗いが一緒になっている洗濯室に入り、
理緒と汀の洗濯物を、洗濯機に突っ込む。
そこで、理緒の服のポケットに紙切れが入っているのを見て、圭介はそれに目を留めた。
ゼロと一の羅列が所狭しとかかれた紙。
そして、鶴の形に折られた千円札。
圭介は鼻を鳴らし、紙を自分のポケットに移した。
そして鶴の形を整えて、洗面台の上に置く。
それを見る目は、どこか笑っていて。
どこか、悲しそうだった。



第11話に続く



お疲れ様でした。
次話は明日、5/15に投稿予定です。
気長にお待ちくださいませ。
m(_ _)m

皆様こんにちは。
第11話、第12話の投稿をさせていただきます。



第11話 発狂非人道



ハワイのビーチで、岬は楽しそうに水を足で蹴っていた。
それを、椰子の木の下で膝を抱えていた少年が見つめている。
やがて岬は、水を蹴ることに満足したのか、足早に少年のところに戻ってきた。

「いっくんも来ないの?」

問いかけられて、彼……一貴は苦笑して口を開いた。
彼の喉には包帯が巻きつけられており、声はしわがれて、少しガラガラしている。

「俺はいいよ……もう、呆れるほど遊んだし」
「そうなんだ」

一貴の隣に腰を下ろし、岬は病院服の裾を直した。
そして、ジーンズにTシャツ姿の一貴を、不思議そうに見る。

「ねぇ、どうしていっくんは普段着でいられるの? 夢の世界では、単純なものしか具現化できないはずだよね」

問いかけられて、一貴は肩をすくめた。

「それは、医者が勝手に決めたルールだよ……所詮夢なんだ。やろうと思えば、何でもできる」

そう言って、彼は足元の砂を手で掴んだ。
そしてギュッ、と握り、手を開く。
そこには、クリスマスツリーの先端につけるような、キラキラと輝く、手の平大の星があった。
目を丸くした岬にそれを放って渡し、一貴は息をついた。

「こんなことも」

彼は砂の中に手を突っ込んだ。
そして中から、長大な日本刀を抜き出す。

「嘘……」

呆然としている岬を尻目に、一貴は日本刀の刃をじっと見つめた。

「『ここにある』と『錯覚』するんじゃなくて、『実感』するんだ。そうすれば、夢は現実になりえる」

それを聞いて、岬は自分も砂を握りこんで、目を閉じて何かを念じた。
そして手を開く。
しかし、そこにはただ、真っ白い珊瑚礁の砂があるだけだった。

「あたしには出来ない……」

残念そうに呟いた彼女に、一貴は日本刀を脇に置いて続けた。

「やり方は、おいおい教えていくよ。でも難しいかも。今も、頭の中のどこかで、『これは砂だ』って思ってるから変質しなかったんだ……」
「でも、砂は砂だよ」
「そうだね」

一貴がそう言った途端、日本刀と星が、サラサラと砂になって散った。

「コントロールだよ。夢の。何もかもを『思い込む』柔軟性が必要だ……訓練である程度は出来るようになると、思う……」

自信なさ気にそう言って、一貴は息をつき、喉の傷口を押さえた。

「まだ痛む?」

岬にそう問いかけられ、彼は頷いた。

「中々治らない……畜生。あの野郎……」

一瞬一貴の目がギラつく。

それを見て、岬は静かに彼の手に、自分の手を重ねた。

「落ち着いて。あたしがいるよ」
「……ああ、そうだね」

頷いて、また息をつき一貴は顔を上げた。

「そろそろ起きよう。結城が煩い」
「……何だよ……」

顔面をグーで殴られてハンモックから転がり落ちた一貴を、雑然と散らかった部屋の中で、結城は睨みつけた。

「岬をお前の夢の中に連れ込むなっつぅのが理解できないのか? お前の脳みそはバッタ以下かよ」

吐き捨てて結城は、勝手にダイブ機械の椅子に座っている岬を見て、頭を抑えた。
点滴をしている彼女は、まだ体をぐったりと弛緩させている。

「あと二時間は起きないぞ。薬まで勝手に使って……」
「別にいいだろ。てゆうか、毎回毎回こうやって強制的に起こすのやめてくんない? ……脳細胞が死滅するよ、割とマジで」

肩をすくめて、一貴は岬に近づくと、彼女に被せていたヘッドセットを取り除いた。

そして点滴の針を抜いて、彼女を抱え上げる。
一貴が、自分が寝ていたハンモックに岬を移動させているのを見て、結城はため息をついた。

「……で? その子の信頼は得られそうかい?」
「信頼も何も、僕達は元々、強い絆で結ばれてるんだ。それに岬ちゃんは僕に惚れてる。信頼を得るもクソもないよ」

淡々とそう言い、一貴は大きくあくびをした。

「……で? 僕を起こしたのは、相応のわけがあるんでしょ?」
「仕事だ」

床に座り込んだ一貴に資料を放り、結城は腕組みをして彼を見下ろした。

「そいつを、岬と二人で『殺して』欲しい」
「へぇ」

一貴が頭をぼりぼりと掻いて、写真を見た。

「いいの? 機関はもうちょっとゆったり活動していくものだと思ってたけど」

「今まではただの準備段階だ。本番はこれからだ」

結城は不気味に口元を笑わせながら、目を細めた。

「できるのかい? できないのかい?」
「多分、対マインドスイーパー用の護衛を連れてる。どれくらい強力な奴か知らないけど岬ちゃんは連れて行かないほうがいいかも」
「機関は、あの子の有用性も証明したいんだよ」
「そういうことなら別にいいけどさ。まぁ、責任はあんた達でとってね」

しわがれた声でそう言い、一貴はまた写真を見た。

「…………やっと一人目だ」

彼の呟きを聞き、結城は頷いた。

「ああ、そうだな」



「心に『ロック』をかけてもらいたい」

圭介にそう言われ、だだっ広い会議室の中、理緒はきょとんとして首を傾げた。

「ロック……? 鍵ですか?」
「そうだ。今回の仕事は、自殺病患者の心の中に潜るんじゃない。至って普通の、異常がない人間の心の中に潜る」

圭介はそう言うと、ホワイトボードに貼り付けた写真を指で指した。

「田中敬三(たなかけいぞう)……名前だけは聞いたことがあるだろう」

会議室には他にも数人医師や教授が参加しており、理緒の隣には、すぅすぅと寝息を立てている、車椅子の汀がいた。
彼女が抱いている猫、小白も寝ている。

問いかけられた理緒は、頷いて、少し考えた後言った。

「ええと……一年前に、警視庁を退任した警視庁総監のことですよね」
「正解だ。よく知っているな」

圭介は頷いて、視線を理緒に戻した。

「一時期、汚職などで随分と騒がれたからな。今は総監を退任して、警察学校の校長として働いている。来年定年だ」
「それで……その人の心の中に、鍵をかければいいんですか?」
「そうだ」
「あの……具体的に何をすればいいのか、全然分からないのですけれど……」

周囲の痛いほどの視線におどおどしながら理緒が言う。
圭介は頷いて、自分の席に座ると、手を伸ばしてホワイトボードに丸い円を書いた。

「仮にこれが人間の精神……つまり心だとする。それを最も端的に表した形だ」
「はい。そうですね」

頷いた理緒から視線をホワイトボードに戻し、圭介は続けた。

「人間の精神は何ヶ層かに分かれていて、中核はその中心にある」

彼は円の中にまた数個、なぞるように円を書き、そして中心に小さな丸を書いた。

「心……精神とは形がないものだ。でも、現に中核は存在する。じゃあその中核って何だと思う?」

聞かれた理緒は、しばらく考えてから答えた。

「その人そのものだと思います」
「正解だ。人間の存在そのものに形を定義することは出来ない。でも、物質としてこの世に存在している以上何かしらの核はなければいけない。それが精神中核だ」

圭介は息をつき、手元のペットボトルから水を口に運んだ。

「……それでだ、今回のダイブでは、いつも君達がやっているように、精神中核についた汚染を取り除くのではなく、逆に、取り除く前に行う『予防』をやってもらいたいんだ」
「自殺病の……予防が出来るんですか?」

素っ頓狂な声を上げた理緒を落ち着かせ、圭介は頷いた。

「まだ実際のところ、世界的にも成功した例はないが、理論的には可能なんだ。理論といっても単純明快なことだ。精神中核を、傷つけないように、何か強固なもので守ればいい」

円の中心の丸を、四角い線で囲んで、圭介は続けた。

「つまり君達が、常時自殺病のウィルスから中核を守っているような状態だ。だがそれが、実際は不可能なことだ。だから、何かを精神内で『構築』して、中核を入れる。それは金庫でも、アクリル製の箱でもいい。とにかく守れるイメージを作り上げる。これが予防だ」
「でも……精神世界内では、思うとおりのものは具現化できないんじゃ……」
「出来る例があるんだよ」

首を振って、圭介は言った。

「まぁそれは、おいおい話していこう。今日は二人の『訓練』だ。それに、心強い助っ人も用意した」
「助っ人?」
「隣の部屋で待ってるよ」

圭介はそう言い、ニッ、と笑った。



まだ眠っている汀の車椅子を押し、ぞろぞろとついてくる医師たちを尻目に理緒は訓練室と書かれた部屋の中に入った。
マインドスイープの訓練をする部屋だ。
彼女にとって、なじみが深い場所でもある。
そこで、四人のSPに周囲を固められたソフィーが、座って携帯を弄っているのが見えた。
彼女の目じりにはクマが浮かび、どこか不健康そうだ。
ソフィーは顔を上げて理緒を見ると、少しだけ安心したような表情になった。

「片平理緒。久しぶりね」

呼びかけられ、理緒もふっ、と軽く笑う。

「ソフィーさん。また日本にいらっしゃったんですか」
「ええ。今回のダイブに、私の協力がまた必要だって要請を受けてね。日本には他に人員がいないの?」

鼻の脇を吊り上げて馬鹿にしたように笑い、ソフィーは椅子に座ったまま腕組みをして理緒を見上げた。

「まぁ、一度一緒に仕事をした間だし、暇を縫って来てあげたわ。精々感謝しなさい」
「はい! またソフィーさんに会えて嬉しいです!」

ニコニコしながら理緒が頷く。

その実直な態度とは裏腹に、まだ眠っている汀を、ソフィーは腫れ物でも触るかのような顔で見た。

「この小娘……」

毒づいて、彼女は圭介を見た。

「ドクター大河内の件は聞いたわ」

理緒がそれを聞いて、ビクッと体を振るわせる。

「残念ね」
「ソフィーさん、大河内先生はまだ生きています。大丈夫です!」

声を上げた理緒に、ソフィーは何かを言いよどんで口をつぐんだ。

「そうね……失言だったわ」

彼女にしては珍しく肯定し、目尻を押さえる。

「大丈夫か? かなり疲れているように見えるが」

圭介がそう口を開くと、ソフィーは彼を睨んだ。

「あなたに心配されるようなことは何もありません」

「相変わらずつれないな。今回は、研究の意味もかねて、日本の赤十字委員会の方々が同席する。ソフィーは、それで構わないな」
「勝手にすればいいわ」

吐き捨てて、ソフィーは立ち上がった。

「この二人に、構築を叩き込めばいいわけね」
「よろしく頼む」

圭介はそう言って、ダイブ機を手で示した。

「今回は、汀の精神世界を借りる。過酷な環境だと思うが、三十分で何とかマスターしてくれ」



理緒が目を開けた時、そこは炎に包まれていた。
思わず悲鳴を上げて、しりもちをつく。
そこは、民家の中だった。
燃えて周りの家具が倒壊してきている。
不思議と熱さは感じなかった。

「何……ここ……」
「チッ……スカイフィッシュの悪夢……この子も浸食されてきてるのね……」

ソフィーが舌打ちをして、理緒の後ろで声を上げる。
理緒は振り返って、ソフィーに言った。

「スカイフィッシュ……? 何ですか、それ……?」
「あなたは知らなくてもいいことよ」

ソフィーはそう言って、周りを見回した。

「直に、本当に熱くなってくるわ。ここを出るわよ」
「汀ちゃんはどこにいるんでしょうか? 」

「多分逃げ回ってると思う。こんな状況でレッスンなんて……」

歯噛みして、ソフィーは息をついた。

「……贅沢は言わないわ」

そう言って、ソフィーは理緒の手を握った。
そして出口に向かって駆け出そうとして、動きを止める。
ドルン、というエンジン音が聞こえたのだった。
振り返ったソフィーが顔面蒼白になる。
それを追って振り返り、理緒はきょとんとした後、真っ青な顔になった。
それは、チェーンソーの刃が回転する音だった。
錆びた巨大なそれを持った男……ドクロのマスクを被った人間が、ボロボロで血まみれのシャツとジーンズ姿で燃える家の中から出てきたのだ。
身長は、百九十はあるだろうか。かなり高い。
小さな理緒やソフィーから見れば、まさに巨人だった。

『どうした? 汀はそこにいるのか?』

ヘッドセットから圭介の声が聞こえる。

それに答えず、ソフィーは震える手で理緒の手を掴み

「逃げるよ!」

と言って、家の外に向かって走り出した。

「な……何なんですか? 何で汀ちゃんの精神世界に、あんなものがいるんですか!」

走りながら理緒が声を上げる。
一瞬マイクの奥の圭介が沈黙し、押し殺した声で言った。

『汀はどこにいる? 早く合流するんだ!』
「どこにいるのか分からないんです! チェーンソー……チェーンソーを持った男の人が!」

理緒が悲鳴のような声を上げる。
男はゆっくりと足を踏み出した。
ソフィーと理緒は懸命に走っているが、一向に出口が見えてこない。
まるで無限回廊のように、燃える家の廊下が後ろに流れていく。

段々と炎が熱くなってきて、理緒は体を縮めて声を上げた。

「熱い……熱いよ……!」
「もっと熱くなる! 早く走って!」
『二人とも落ち着け。落ち着いて、そのドクロの男を撃退するんだ』

圭介の声に、ソフィーは素っ頓狂な声を返した。

「撃退? 撃退ですって!」
『そうだ。これは「訓練」だからな』
「ふざけないで!」

ソフィーが絶叫する。

「スカイフィッシュを撃退できるわけがないでしょう! 現に、夢の主が出てこないじゃない!」
『ふざけてなどいない。スカイフィッシュの悪夢に入り込んでしまったのなら、撃退するか、逃げるかしかない。夢の主がいない以上、夢を終わりにすることは出来ない。逃げるのが無理なら、戦うしかないだろう』

淡々とした圭介の声に、少女二人が次第に落ち着きをなくしていく。

走り続けているソフィーは、目に涙を浮かべながら、ゆっくりとこちらに近づいてくる「スカイフィッシュ」と呼ばれた男を見た。

「やだ……怖い……!」

ソフィーはブンブンと首を振った。

「怖いよ……怖い! お母さん! お母さん!」

恐慌を起こして喚き始めたソフィーの手を、理緒が一生懸命に握った。

「大丈夫、大丈夫です! 私がいますから! 落ち着いて!」
「助けて! 回線を遮断して!」
「汀ちゃんがいないと、扉が開きません。無理です! 落ち着いて、あれが何なのか私に教えてください!」

そこでソフィーが足をもつれさせてその場に盛大に転んだ。
慌てて理緒がそれを抱きかかえ、床に転がる。
二人は、震えながら、ゆっくりゆっくりと近づいてくる男を見た。

「あ……あれは……断片の集合体……」
「集合体……?」

ソフィーはなるべくスカイフィッシュの方を見ないようにしながら、続けた。

「心の中に溜まったトラウマの集合体……実在しないけどしてるものなの!」

意味不明なことを喚いて、ソフィーは近くに転がっていた燃える木片を手に取った。
その手がブルブルと震えている。

「いい? 一度しか言えない。夢の世界のものを『変質』させるには、『ここにある』と少しの疑念も挟まずに『思い込むこと』が重要なの。単純なら単純なものほど成功率は高いわ……!」

ソフィーが持っていた木片がぐんにゃりと、粘土のように形を変えた。
唖然としている理緒の前で、ソフィーは数秒後、小さな手榴弾を手に持って立っていた。
凄まじい集中力を要するのか、彼女は汗だくになっていた。
荒く息をつき、口でピンを引き抜き、ソフィーはそれを男に投げつけた。
そして理緒を突き飛ばして床に伏せる。
爆音が響きわたり、彼女達の背中を吹き上がった炎が撫でる。

「きゃあああ!」

理緒が悲鳴を上げて床を転がる。
ソフィーは、しかし爆炎の中、悠々とこちらに向けて足を進めてきているスカイフィッシュを見て、絶望的な顔で震え上がった。

「に……逃げなきゃ……!」

しかし腰が抜けて立てないのか、ソフィーはへたり込んだまま、ずりずりと後退しただけだった。
彼女は砕けている木片を手に取ったが、恐怖が集中力に勝ったのか、動けずにまた、変質させることも出来ずに、それを床に取り落とした。
ドルン、ドルンとエンジンの音がする。
チェーンソーの回る音。
足音。
それは、ソフィーの前で止まった。

「あ……」

何かを叫ぼうとして、失敗するソフィー。
男はチェーンソーを淡々と振り上げた。
理緒はそこで、訳の分からない言葉を叫びながら、近くの木片を手に取った。
そして、今にもソフィーを両断せんとしている男に、木片を手に体ごと突っ込む。
男の体がぐらりと揺れた。
理緒の手には、いつの間にか、彼女が料理の時にいつも使っているような、菜切り包丁が握られていた。
それが、根元まで男のわき腹に突き刺さっている。

理緒は荒く息をつきながら、震えて固まっているソフィーの手を掴んだ。

「逃げましょう! 早く!」
「う……うん!」

何度も頷いて、やっとのことでソフィーが立ち上がる。
スカイフィッシュは少女達に不気味に光るマスクの奥の瞳を向け、血があふれ出している脇腹の傷口から、包丁を抜き取った。
そして走り出した理緒に向けて、それを投げつける。
理緒の右足の腱が両断されて、彼女はもんどりうって床に転がった。

「片平理緒!」

ソフィーが悲鳴を上げる。
理緒は足を襲う激痛に耐え切れず、喚きながら地面をのた打ち回った。
ゆらりとスカイフィッシュが立ち上がって、こちらに歩いてくる。
ソフィーが理緒を守るように、震えながらスカイフィッシュの前に出る。
そして壁の木材を手で引き剥がして、頼りなく男に向けた。

「家の外に出て、早く!」

スカイフィッシュが手を振り、ソフィーの持つ木片を弾き飛ばした。
そしてチェーンソーを振り、ソフィーの肩に振り下ろす。

凄まじい音と、絶叫が響き渡り、ソフィーの血肉が周囲に飛び散った。
意識を失ったソフィーを蹴り飛ばし、スカイフィッシュは、倒れた彼女の頭にトドメのチェーンソーを叩き込もうとし――。
そこで、巨大な肉食獣の腕に吹き飛ばされ、数十メートルをも長い廊下を、ゴロゴロと転がった。
グルルルル、とうなり声を上げながら、化け猫に変身した小白が、スカイフィッシュを睨んで毛を逆立てる。

『どうした? 状況を説明してくれ! ソフィーのバイタルが異常値だ!』

圭介がヘッドセットに向かって怒鳴る。
しかし理緒は、泣き顔のまま地面にへたり込んで、自分を守るように四肢を固める小白を見た。
そして、家の入り口にうずくまっている汀を見て、叫び声を上げる。

「汀ちゃん! ソフィーさんが……ソフィーさんがやられちゃった! 助けて!」
『汀がいたのか! 汀、早く二人を助けろ!』

圭介の声を聞きながら、しかし汀は耳を塞いで、目をつぶり、震えながら首を振った。

「汀ちゃん!」

足から凄まじい量の血液を流しながら、理緒が這って彼女に近づく。
そしてその肩を強く振った。

「ソフィーさんは、私たちのためにここに来ました! あの男の人を倒せるのは、汀ちゃんだけです! だから目を開けて!」

しかし汀は、ただ震えるだけで反応がない。
その、いつもとは百八十度違ったか弱い様子に、理緒はハッとして手を止めた。
小白がまたうなり声を上げて、スカイフィッシュに体当たりをする。
大柄な男は、床を転がり、家の奥に消えた。

「小白ちゃん! ソフィーさんを連れてきて!」

理緒が声を上げる。

小白は、それを分かったのか、分かっていないでのことだったのか、ソフィーを口でくわえて理緒のところに後ずさりしながら戻ってきた。
そこで、また、家の奥から、スカイフィッシュがドクロのマスクを出したのが見えた。
一部が破れて、中身が見えるようになっている。

それを見て、理緒は一瞬停止した。

「え……そんな……」
『理緒ちゃん、どうした!』

圭介の声に、理緒は呆然として答えた。

「坂月……先生……?」
「…………!」

その名前を聞いた途端、マイクの向こう側に凄まじい緊張感が走った。
スカイフィッシュはボロボロで血まみれの服のまま、チェーンソーを肩に担いで、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。
圭介がそこで大声を上げた。

『汀がいるんだな? 脱出しろ! 訓練は中止だ!』
「わ……わかりました!」

理緒が悲鳴を返し、汀の手を握る。

「大丈夫だよ。大丈夫、私がいるから……」

慰めにもならないようなか細い声でそう言って、理緒は這いずって家の外に汀を誘導した。

小白がソフィーを離して、うなり声を上げた。
スカイフィッシュがこちらに、 ものすごい勢いで走ってくるところだった。
理緒は無我夢中でポケットに手を突っ込んだ。
そこで、カサリという音がして、何か紙のようなものが手に当たる。
それは、一貴と名乗った少年が、彼女に渡した、千円札で折られた鶴だった。
理緒は必死の形相で、それを掴んで、自分に向けてチェーンソーを振り下ろしたスカイフィッシュに向けて投げつけた。
閃光弾を爆発させたほどの、衝撃と爆音、そして光が周囲を襲った。
汀も理緒も、小白も、その場の全員が吹き飛ばされて家の庭に転がる。
理緒は泥まみれになりながら、砂場の上で体を起こした。
そのかすむ視界に、右半身が吹き飛んで、奇妙なモチーフのようになってグラグラと揺れて立っているスカイフィッシュがうつる。

「うっ……」

その姿を見て、理緒は猛烈な吐き気を催し、その場に盛大に胃の中身をぶちまけた。
スカイフィッシュはゆっくりと、力なく地面に転がった。
その服、肉、チェーンソーが溶けて、黒い水になって広がっていく。
骨だけになったスカイフィッシュが、徐々に砂になり消えていく。
それに伴い、家の火も消え、青空が顔を出した。

『ステータスが正常に戻った……! 全員強制遮断するぞ!』

圭介が怒鳴る。
その声を最後に、理緒の意識はブラックアウトした。



「一体……何が起こったんですか……?」

顔色を真っ青にして、理緒は点滴を受けながら、椅子に背中を丸めて座った。
圭介が息をついて、腕組みをして壁に寄りかかる。

「通常のスカイフィッシュなら撃退できると思った。だが、今回の奴は『変種』だ。ソフィーがやられたのも納得がいく」
「納得……?」

理緒は、隣のベッドで、呼吸器を取り付けられて、点滴台に囲まれて眠っているソフィーを見て、押し殺した声を発した。
SPの人たちが、入り口と窓を警護している。

「私たちをあんなところに送り込んでおいて、よく無表情でそういうことが言えますね」

理緒にしては珍しく、怒りを前面に押し出した口調だった。
圭介は押し黙ると、理緒の隣の車椅子でボーッとしている汀に目をやった。

「何とか言ったらどうだ、汀。お前の夢に変種が出てくるなんて、俺は初めて聞いたぞ」

「……言ったことないもん」

汀はかすれた声でそう言って、クマの浮いた目を圭介に向けた。

「勝手に私の夢の中にダイブしてきて、そういうこと言われるのって、結構心外だな」
「…………」

圭介は自分を睨んでいる理緒を見てから、息をついて肩をすくめた。

「……参ったな。完全に俺が悪者か」
「小白がいなきゃみんな死んでたよ」

汀が淡々とそう言って、膝の上で丸くなっている小白を撫でる。

「だから、私の夢に関わるのはやめようって言ったのに」
「高畑先生」

そこで理緒が口を開いた。

「どうしてスカイフィッシュっていうあのトラウマは、坂月先生の顔をしていたんですか?」
「さかづき?」

汀がきょとんとしてそれを聞く。

「汀ちゃん、知らないの……?」

怪訝そうに理緒が聞くと、汀は頷いて言った。

「誰?」
「赤十字病院のお医者さん。二年位前に、行方不明になったって聞いたけど……いい先生だったよ」
「見間違いだろう。混乱していたんだろ?」

圭介はそう言って、資料を持ち上げ、脇に挟んだ。
そして病室の外で溜まっている医師達を見回して、口を開いた。

「大丈夫です。二時間後にダイブを実行します」
「え……」

理緒と汀が目を見開いて、唖然とする。
理緒が素っ頓狂な声を上げた。

「二時間後って……ソフィーさんはショックで目を覚まさないし、私達、何のレッスンも出来てないです! それにこんな状態で……」

「ソフィーにやり方を教えてもらって、何回か変質を成功させたんだろう?」

圭介はそう言って、ポケットから出したものを理緒に放って渡した。
それは、千円札で折られた鶴だった。

「あ……これ……」

理緒がそれを受け取って、僅かに頬を赤くする。

「なら出来る。レッスンは無事に終了してるよ」
「出来るって……何の根拠があって……」

噛み付く理緒に、圭介は軽く笑ってから言った。

「経験則だよ」



医師達を連れて歩き去った圭介を見送り、理緒は深くため息をついて、頭をガシガシと、苛立ったように掻いた。

「高畑先生……別人みたい……」

呟くと、汀は小白を撫でながら、何でもないことのように言った。

「そう? 圭介はあんな感じだよ。本当は」
「本当は?」
「うん。あれが本性だと思う」

淡々とそう言って、汀は大して気にしていないのか、眠っているソフィーを一瞥した。

「私の夢なんかに入ってくるから……」
「汀ちゃん教えて。スカイフィッシュって何なの? あんなトラウマ、聞いたことも見たこともないです。どうして汀ちゃん達は、あれをあんなに怖がるの?」

聞かれて、汀は口をつぐんだ。
しばらくの沈黙の後、汀は呟くように言った。

「理緒ちゃんは、まだ毒状態じゃないから」

「どういうことですか?」
「毒状態。ゲームとかでよくあるでしょ? 毒になると、HPが段々減っていくの」

理緒と目を合わせないようにしながら、汀は小さな声で続けた。

「私も、この子も、もう『毒状態』なんだ」
「言っている意味が……分からないです」
「つまりね。マインドスイープって、すればするほど、マインドスイーパーのトラウマを広げるの。それは毒みたいに心に広がって、侵食して、成長していくの。スカイフィッシュはその投影。トラウマが強ければ強いほど、スカイフィッシュも強くなる。だから、私の夢に出てくるスカイフィッシュになんて、誰が何してもかなうわけがないんだ」

汀はそこまで言うと、理緒が持っている千円札の鶴を見て、怪訝そうに聞いた。

「……理緒ちゃん、何したの? それ、誰にもらったの?」

理緒は、そこで一貴の顔を思い出し、ハッとした。
そしてポケットをまさぐる。

「あれ……おかしいな。紙をもらったはずなんだけど……」

「紙……?」
「うん。赤十字病院で。工藤一貴さんっていう、マインドスイーパーの男の子にもらったの。汀ちゃんに渡してって言われたんですけど……」
「どんな紙?」
「ゼロとか一とか、沢山書いてありました」
「……夢座標だ」

汀は、そこでハッと顔色を変えた。

「多分圭介が持ってる。それ、多分夢座標だよ」
「夢座標?」
「マインドスイーパーが夢の中に入る時、座標軸を設定するの。その人、私と話したいことがあったんだ……」

そこまで言って、汀は理緒が言った名前を繰り返した。

「工藤……一貴……?」

「汀ちゃん?」
「いちたか……いっくん……?」

汀はそこで上体を起こし、理緒の手を掴んだ。

「理緒ちゃん。ダイブするよ」
「え……? で、でも私、夢の中で右足を切られちゃって、まだ上手く動かせなくて……」
「大丈夫。それより、もっと大変なことになるかもしれない。そうなる前に、その人のこと助けなきゃ」

汀はそう言って、歯を噛んだ。

「……圭介の思うとおりにはさせない……!」



理緒と汀は目を開いて、そして同時に短い悲鳴を上げた。
二人がギョッとしたのも無理はなかった。
ものすごい勢いで、落下していたのだった。
上空の雲の上に、彼女達はいた。
汀が落下速度で目を開くことも出来ず、手を広げて理緒の体を掴んで引き寄せる。
二人でもつれ合いながら落下する。
そこで、汀の肩にしがみついていた小白が、ボンッ、という音を立ててパラシュートのように膨らんだ。
それに減速され、二人は次第にゆっくりと落下していった。
しばらくして、ポスン、という音を立てて、二人が雲の上に着地する。
雲はまるで綿菓子のようで、きちんとした地面としての質感がある。
理緒は腰を抜かして、その場にしりもちをついて呆然としていた。
そして汀と顔を見合わせる。

『どうした? 状況を説明してくれ』

圭介にそう問いかけられ、汀はヘッドセットのスイッチを切って、脇に投げ捨てた。

それを見て理緒が慌てて口を開こうとして
――汀の手に、口をふさがれる。
汀は理緒のヘッドセットも同じように雲の下に投げ捨てた。

「何するんですか! あれがないと、私達帰還できないですよ!」
「タイミングが分からないだけで、圭介が強制遮断すれば元に戻れるよ」

そう言って汀は、お尻を叩きながら立ち上がった。

「早くしなきゃ。この座標のはずだよ。じゃなきゃ、こんな場所にダイブして出てくるわけがない」

理緒は自分の右足を見た。
腱の部分がズキズキと傷む。ケロイドが醜く、足のかかとまでに広がっていた。
よろめきながら立ち上がり、理緒はしかしすぐに崩れ落ちた。

「駄目……立てない……」
「私に掴まって」

汀の手に掴まって立ち上がり、理緒は雲の下を見て気を失いそうになった。

町が広がっている。
数百メートル下に。
雲は形を変えながら風に流されていく。
小白が下を見てニャーと鳴く。
その頭を撫でて、汀は言った。

「本当なら、町の方にダイブして出るはずだったんだよ。それを、圭介が夢座標の位置をいじったから、こんなことになったんだ」
「ど……どうすればいいんですか? この人、普通の人で、トラウマとかがないらしいですから……」
「トラウマがない人間なんて、赤ん坊くらいだよ。そこをくすぐれば、すぐ煉獄に繋がる道は開くと思う。問題は……」

そこまで汀が言った時だった。
不意に晴れた空が曇り始め、分厚く寄り集まり始める。
そして、ところどころで光が上がった。
それが雷だ、と分かったのは、轟音が二人の耳を打った後だった。
足元の雲から、凄まじい勢いで、土砂降りのスコールが降り注ぎ始める。
上空は晴れているのに、足元はスコール。
不思議な感覚だ。

「何が……きゃぁ!」

また雷が近くで鳴り、理緒が肩をすくめる。
それを支えながら、汀は言った。

「ハッキングだ。この人の心の中に、誰か進入したんだよ。だからこの人の心が警鐘を鳴らしてるの」
「だ……誰が……」
「工藤……一貴……」

汀はそう言って、ゆっくりと振り返った。

「いっくん」

そう言って、数メートル離れた場所に立っていた、白髪の少年と目を合わせる。
いつの間に現れたのか、白髪の少年、一貴はニコニコしながら汀を見ていた。
それを見て、理緒がハッとしてから少し顔を赤くする。

「あなた……」
「やあ、片平さん。また会ったね」

理緒に興味がなさそうに手を上げてから、一貴は汀に向けて両手を広げた。
彼の隣には、赤毛の少女……岬が立っていた。
ポカンとして汀を見ている。

「思い出してくれたんだね! すっごく嬉しいよ、なぎさちゃん!」

「……残念だけど、私はあなたのことは何も知らない。でも……」

汀の脳裏に、笑顔で何かを差し出す、小さい頃の一貴の顔がフラッシュバックする。

「あなたが、いっくんね」
「うん! 良かった。そこまで分かってくれれば上等だよ。なぎさちゃん、僕は君を助けに来たんだ」
「助けに……?」

怪訝そうな顔をした汀に、一貴は続けた。

「僕らに、君達の基本夢座標の位置を教えて欲しいんだ。それで、こっちから、君達の頭の中にハッキングが出来る。だから……」
「話してる暇はないわ。『いっくん』、すぐにここを出て」

汀が、彼の声を打ち消してそう言う。
一貴は一瞬きょとんとした後、首を傾げた。

「どうして?」
「赤十字病院が、あなた達のハッキングを察知してる。これは罠よ」
「ねぇ……なぎさちゃん? 何も覚えてないの……?」

そこで、一貴の隣で、おずおずと岬が口を開いた。

汀は面倒臭そうに彼女を見て、言った。

「言ったでしょ。私は何も覚えてない。だから早くここから……」
「あぁ、もう遅いみたいだ。でも想定の範囲内だよ」

一貴がそう言って、ニッコリと笑った。

「なぎさちゃんは、絶対にそこから助け出す。だから、少しだけ待ってて」

彼はそう言って、足元の雲に手を突っ込んだ。
そして長大な日本刀を掴み出す。

「変質……? あんな簡単に……」

理緒が呆然として呟く。
そして彼女は、小さく悲鳴を上げた。
彼女達の周囲に、いつの間にか赤十字のマインドスイーパー達が立っていたからだった。
取り囲むように十……二十……三十人ものスイーパーがいる。
彼らは一様に目に生気がなく、ぼんやりとした表情だった。

「何……これ……」

理緒が呟く。

「マインドジャックだ」

一貴がそう言う。

「最も非人道的な行為だよ」
『言ってくれるじゃないか』

三十人のマインドスイーパー達が、同時に言葉を発した。

「圭介……?」

汀が呟く。

「マインドスイーパーの心を、逆にマインドスイープでジャックして、操る手法さ」

一貴の声に、三十人のスイーパーたちは、同時に手を雲に突っ込んで答えた。

『おしゃべりはそこまでにしようか。汀、理緒ちゃん。小白を使って降りるんだ。この人の心にロックをかけろ。こいつらは、この人の中枢を破壊して「殺す」気だ!』
「え……」

理緒は青くなって一貴に向かって声を張り上げた。

「どうして? マインドスイープで人を殺したら、現実世界でも死んじゃうんですよ!」
「それがどうしたのさ? 仕事だからさ」

一貴は日本刀を肩に担いで、挑発的に、周囲を取り巻いているスイーパーたちを見回した。

「早くかかってきなよ。OBさん。じゃないと」

一貴の姿が消えた。
手近にいた女の子のスイーパーの喉に、次の瞬間、日本刀が突き刺さって、貫通して向こう側に抜けていた。
一貴はそれをずるりと引き抜き、女の子を蹴り飛ばした。
岬は呆然としている。
一拍遅れて、倒れた女の子の首から、凄まじい勢いで血が噴出した。

「皆殺しにするよ」

あながち冗談ではなかった。
考える間もなく、一貴は日本刀を一閃して、また近くにいたスイーパーの男の子を袈裟斬りにした。

返り血を浴びて、楽しそうに彼が笑う。

『チッ!』

二人も一瞬でやられたスイーパーたちが、雲の中から刃渡り三十センチはあろうかというサバイバルナイフを掴みだす。
一貴はそのドスとも言えるナイフの斬撃を刀で受けて、その場を転がった。
そして近くのスイーパーの胸に刀を突きたてる。
汀は、震えている理緒の手を掴んで

「行くよ!」

と叫んだ。
それを聞いて、周囲をスイーパーに囲まれながら一貴が叫ぶ。

「待って、なぎさちゃん!」
「患者を殺させるわけにはいかないわ! どうしてもやるっていうなら、相手になる!」
「なぎさちゃん!」

岬が、一貴から日本刀を受け取り、スイーパーの斬撃を受け止めながら声を張り上げる。

「あたしだよ! 岬だよ。何で分からないの!」
『行け、汀!』
「私は人の命を助ける! テロリストと話すことは何もないわ!」

汀はそう言うと、小白を小脇に抱えて、理緒の手を引いて雲の下に体を躍らせた。
理緒が一拍遅れて、ものすごい悲鳴を上げる。
小白がまた膨らみ、パラシュートのように広がった。
それを見て一貴が舌打ちする。

「いっくん、どうするの!」

岬が悲鳴のような声を上げる。
一貴は口の端を醜悪に歪めて、そして言った。

「なぎさちゃんは絶対に連れて帰る。そのためには……」

周囲を見回し、彼は言った。

「全員、殺す」



第12話 上野、アメ横にて



パラシュートのようになった小白が汀の背にしがみつき、汀が理緒を抱いたまま、二人はふわりふわりと夢の中の町に降り立った。
完全に腰が抜けた理緒がペタリと尻もちをつく。
茫然自失としている理緒に、汀はポンッ、と音を立てて元にもどった小白を肩に乗せながら言った。

「この人の煉獄に入って、中枢にロックをかけるよ。圭介が時間を稼いでる間に、行くよ。多分二、三分ももたない」

それを聞いて、理緒は電柱にしがみつきながら、何とか立ち上がって答えた。

「汀ちゃん……あの子達、助けなくていいの?」
「どの子達?」
「工藤さんたち! あんなに沢山のマインドスイーパーに囲まれて、殺されちゃうよ! 高畑先生、酷すぎます!」
「理緒ちゃん、何か勘違いしてない?」

汀はそう言って、押し殺した声で続けた。

「あの工藤とかいう男の子は、ナンバーXって呼ばれてるサイバーテロリストよ。意味不明なこと言ってるけど、私の知り合いなんかじゃない。ただ話をあわせただけ」
「でも……汀ちゃん、彼のこと『いっくん』って……!」

理緒にそう言われ、汀は頭を抑えた。
不意に、右即頭部に頭痛が走ったのだった。
そして脳内にある光景がフラッシュバックする。

――なぎさちゃん。
――僕達はずっと一緒だよ。
――だから、記憶を共有しよう。

夢の中の一貴が笑う。
彼は近づいてきて、閉じていた右手を開いた。
小さい頃の彼の姿が、大きくなった彼の姿とブレて重なる。

――入れ替えよう。
――僕と、君の……。

「汀ちゃん!」

そこで汀は、理緒に強く肩を揺さぶられて、ハッと目を覚ました。
いつの間にか地面に四つんばいになり、頭を抑えてうずくまっていたのだった。

「どうしたんですか? 大丈夫ですか?」

度重なる意味不明な事態に頭の処理速度が追いつかず、泣きそうになっている理緒の肩を掴んで、汀は荒く息をつきながら立ち上がった。

「大丈夫。やれる……」
「汀ちゃん……?」
「私は……人を助けるんだ。絶対に……誰も死なさない。誰も……一人も死なさない……人を助けるんだ……」

うわごとのように呟き、汀は唇を強く噛んだ。
血が、彼女の口元から垂れて地面に落ちる。

「行こう、理緒ちゃん」

そう言って理緒は、目の前に広がる東京都上野駅の光景を見回した。

「私たちは、人を助けるんだ」



そこは、東京都上野駅の、ヨドバシカメラがある、アメ横に繋がる通りだった。
沢山の人たちが行き来している。
一様に顔がない。
皆、携帯電話に向かって何事かを喋りながら移動しており、顔に当たる部分にはブラウン管がくっついていた。
ニュースや、この夢の主の記憶なのか、いろいろな情報が映し出されている。
歩いている人たちも一様に服装はばらばらだ。
共通しているのは、土砂降りの雨の中、片方に同じ赤い雨傘、そしてもう片方に同じ型番の古い携帯電話を持っているということだった。
汀は手近な一人を蹴り飛ばして傘を奪うと、理緒に手を貸して、ヨドバシカメラの中に入った。
店員も携帯電話に向かって何事かを話している。
蹴り飛ばした人は、しばらく倒れたままだったが、やがて、どこから出したのか、また赤い傘を懐から取り出し、何事もなかったかのように歩き出した。

「ズブ濡れになってばっかりだな……」

汀がぼやいて、傘をたたむ。
理緒は右足の痛みに耐えることが出来ずに、その場に崩れ落ちた。

そして汀に言う。

「汀ちゃん……私歩けない。足が、痛いんです……」
「私がおんぶしてあげる。掴まって」

そう言って汀は、軽々と理緒を背中に背負うと、立ち上がった。

「スカイフィッシュにやられた傷は治りが遅いの。下手したら治らないこともあるわ」
「…………」

理緒の脳裏を、左腕を両断されたソフィーの姿がフラッシュバックする。
口を開いた彼女を遮って、汀は歩いている人々の異様さを無視すれば、日常光景と変わらない中を見回した。

「ここ、どこ? 日本?」
「上野駅近くの、ヨドバシカメラの中です。どうして、こんな限定的な……」
「普通の人の心は大概整理されてるの。自殺病に冒されてないんなら、普通はこれくらいしっかりしてるものよ」
「中枢に繋がる道はどこでしょう……」
「それより、どうして上野なのか、心当たりはある?」

汀に問いかけられて、理緒は首を振った。

「分からないです……この人のこと、私達何も教えられてないから……」

「田中敬三だっけ。汚職で逮捕されかけたっていう……」
「うん……」

濡れている理緒が僅かに震えだす。

「寒い……」

体の調子が思わしくないのに加えて、彼女達は病院服一枚だ。
寒くないのは通常の理としておかしい。
理緒がダイブできるような状態ではないことを確認して、汀は彼女を背負い直し、ヨドバシカメラの脇から顔を出して、外を見回した。

「……多分、この人にとって思い出が深い場所なんだ。だからこんなに鮮明に再現されてる」
「この人たちは何なんですか……?」
「記憶の投影。前にDIDの患者にダイブしたときにいた人間と同じようなものだよ。気にしなくてもいいけど、今回は自殺病を発病してないから、むやみに殺すのは止めた方がいいね……」

震えている理緒を背負ったまま、汀は傘をさしてアメ横の通りに出た。

「あいつらと私が次に遭ったら、かなり激しい戦闘になると思う。理緒ちゃんは、早く中枢にロックをかけて」
「いいの? 汀ちゃん……」

理緒は言いよどんで、そして意を決したように言った。

「高畑先生は何かを隠してます。いえ……赤十字病院もです。あの子達、本当は……」
「味方だとでも言いたいの?」

汀は淡々とそれに返した。

「人殺しに親戚はいないわ」

言われて理緒がハッとする。
人の命を救うことに、汀が異様な執着を見せていることには、理緒も薄々感づいてはいた。
アメ横に出ると、強い雨の中、小白がクンクンと鼻を動かし、地面に降り立った。
そして二人を誘導するように、アメ横センタービルの中に走っていく。

「待って、一人で行っちゃ駄目、小白!」

汀がそう言って、傘を放り出し、慌てて後を追う。

センタービルの地下デパートに入っていく小白。
汀はそれを追って中に入った。
そこは、マレーシアなどの南国系統の輸入食品が売られている場所だった。
携帯電話に何事かを話している人たちが行き来している。
小白は、その中で一人だけ、砂画面のモニターを顔につけた人――店員だろうか、の前に座っていた。

「小白!」

汀が理緒を降ろして、慌てて小白を抱きかかえる。
目の前の砂画面の男は、ダラリと体を弛緩させて椅子に腰掛けていた。

「匂いだ」

理緒がそう呟く。

「小白ちゃんが、この人の匂いを感じ取ったんですよ! 多分、この人が煉獄に繋がる道です」
「でも、どうやって道を開けばいいんだろう」

汀がそう言って、砂画面の男を小突く。
反応はなかった。
しかしそこで、周囲を歩いていた人々の動きがぴたりと止まった。

そして携帯電話をゆっくりと降ろす。
一瞬後、どこから取り出したのか、全ての人が自動小銃を構えていた。

「変質……? 田中敬三さん、対マインドスイーパー用のトラップを作ってます!」

理緒が悲鳴のような声を上げる。
そこで、全員の顔のモニターが切り替わり、一貴と岬の顔が映し出された。
そこに赤いバツ印が表示される。

「圭介がやられたんだ……チッ。役に立たない……!」

汀が舌打ちをする。

「嘘……」

理緒は壁に寄りかかりながら、荒く息をついた。

「工藤さん、みんな殺したの……?」
「理緒ちゃん急いで! 私、あいつらと戦う!」

汀がそう言って、近くの人の自動小銃を奪い取って脇に挟んだ。

「急ぐって……どうしたら……」
「その人を『起動』させて!」

汀がそう言った途端だった。

凄まじい爆風が、地下デパートの中に吹き込んできた。
理緒が床を転がって悲鳴を上げる。
ソフィーが手榴弾を変質で形成した時の、三倍にも四倍にも当たる爆風だった。
次の瞬間。その場の人全員が自動小銃の引き金を引いた。
凄まじい炸裂音と、薬きょうを飛び散らせながら銃弾が吸い込まれていく。
理緒が耳を塞いで体を丸くする。
十数秒も爆音は続き、やがて硝煙が収まり、周囲がクリアになる。
汀が自動小銃を構えながら、前に進もうとした時だった。
銃弾が集中していた場所にしゃがんでいた人が、ゆらりと立ち上がった。
四方八方から浴びせられた銃弾は全て、その人の体に当って、まるで鋼鉄にぶち当たったかのようにひしゃげて床に転がっていた。
その人を見て、汀は

「……ひっ……」

としゃっくりのような声を上げて硬直した。
スカイフィッシュだった。
ドクロのマスク。
ボロボロのシャツにジーンズ。
血まみれの服。
そして、手にはチェーンソー。
スカイフィッシュはマスクを脱いで、脇に放り投げた。

その中にあったのは、一貴の顔だった。
一貴は震えている汀を見て、ニッコリと笑った。

「無理しなくてもいいよ。なぎさちゃん。君の中にある恐怖は、どうあがいても拭い去ることは出来ない。だってそれは、『僕が植えつけた』んだから」

一貴の背後から、岬が顔を出して、震え始めた汀を見る。

「なぎさちゃん……? あなた騙されてるよ。一緒に行こ。いっくんも、たーくんもいるよ」
「いっくん……たーくん……」

汀はズキズキと痛む頭を片手で抑えながら、呟いた。

「……みっちゃん……」
「とりあえずこれを渡しておくよ」

一貴が、血まみれになったヘッドセットを投げてよこす。
汀はそこにくっついていた刀で両断された耳を横に弾いてから、ヘッドセットを装着してスイッチを入れた。
そして押し殺した声で言う。

「役立たず。一瞬でも期待した私が馬鹿だった」

『……弁解はしない。汀、その人の心を守れ。そいつらの侵入元が特定できない』

圭介が憔悴しきったかすれた声で言う。

「分かってる」

汀はそう言うと、震えを押し殺して、小銃を一貴と岬に向けた。

「最後の通告よ。ここから出て行って。私、人は殺したくない」

それを聞いて、一貴は一瞬きょとんとした後、疲れたようにその場に腰を下ろし、胡坐をかいた。

「まぁ、話でもしようよ。ゆっくりとさ。そんなに震えてちゃ、いくら夢の世界でも、僕らに弾は届かないよ」

彼がそう言った時、周囲の人々が弾倉を交換し、また一斉に銃撃を始めた。
一貴がマスクを被り、岬を守るように立つ。
そしてチェーンソーを回転させ、大きく横に振った。
空中で銃弾がひしゃげ、バラバラと床に落ちていく。
一貴が一回転する頃には、銃撃が止んで硝煙が収まってきていた。
無傷の、スカイフィッシュの格好をした一貴と、岬がゆらりと立っている。
首の骨をコキコキと鳴らし、一貴は

「外野が煩いな」

と呟き、チェーンソーを振った。
それが長大な日本刀に変わる。
岬が壁にかかっていた鉄パイプを手に取った。
それがグンニャリと形を変え、ショットガンに変形する。
次の瞬間、二人が動いた。
夢の人々が銃撃をするよりも早く、一貴は日本刀を振って彼らの首を両断していく。
たちまちにあたりが血に染まる。
背後の人々をショットガンでなぎ払いながら、岬が声を上げた。

「なぎさちゃん、早く目を覚まして!」
「うるさい……うるさい!」

汀は頭痛を怒声で振り払うと、小銃を、手近な人を斬り飛ばした一貴に向けて引き金を引いた。
連続した射撃音と衝撃。
銃弾がばらけて、壁に当たり、一貴は悠々と体をひねってそれをかわした。

「仕方ないな……少し遊ぶとするか。ねぇ、久しぶりだねなぎさちゃん!」

日本刀で周囲の一般人を斬り殺しながら、一貴はたちまち汀に肉薄した。
小白を理緒のほうに投げて、汀は小銃で、振り降ろされた日本刀を受けた。
ギリギリと金属が削れる音がして、大柄な一貴に汀が押される。

「私は汀だ! 私をなぎさって呼ぶな!」

絶叫した汀に、一貴は裂けそうなほどマスクの奥の口を開いて笑ってから答えた。

「いいや君はなぎさちゃんだよ。これまでも、これからもね!」
「何してるの理緒ちゃん、早くして!」

汀が怒鳴って一貴を弾き飛ばし、壁を蹴って体を回転させながら、彼に向けてためらいもなく引き金を引いた。
一貴が目にも留まらない速度で日本刀を振る。
バラバラと両断された銃弾が床に転がった。
一面の血の海に呆然としていた理緒は、小白に指を噛まれて

「痛っ!」

と叫んで我に返った。
そして小白を抱きあげ、足を引きずりながらまだダラリと弛緩している砂画面の男に近づく。

「起動……起動させなきゃ。起動させなきゃ……」

顔の脇についている丸いスイッチを回転させる。
それは金庫のダイヤルのようになっていた。

「上野……金庫……そうだ!」

理緒の脳裏に、数年前騒がれた事件がフラッシュバックする。

裏金取引。
それが行われたと雑誌に報じられたのが、上野。
その日付は、四月十七日。
四、一、七とダイヤルを合わせ、理緒はボタンを強く押した。
ガピッ、という音がして、男の体が硬直し、モニターに白い球体が映し出された。

「核……見つけた……! この中だ!」

理緒はモニターに手を突っ込んで、水面のように手を飲み込んだそこから、中核を抜き出した。

「どうしよう……どうしよう……!」

パニックになりながら、彼女は這って出口に向かって逃げようとした。
そこで理緒は、汀が一貴の日本刀に肩を刺し貫かれ、悲鳴を上げたのを目にした。
そのまま壁に磔にされ、汀は激痛に歯軋りしながら、一貴を睨んだ。

『どうした? 汀がやられたのか!』

圭介の声に、一貴が喉の奥を震わせて笑う。

「だから無理だって。なぎさちゃんは僕には逆らえない。『そうできてる』んだ」

日本刀を手放し、一貴は悠々と理緒に向かって歩いてきた。
岬が、日本刀を手で掴んで抜こうとしている汀にショットガンの銃口を向ける。

「ごめんね、なぎさちゃん」

パンッ! と軽い音がした。
小白が鳴き声を上げたのとほぼ同時だった。
顔面を銃弾の嵐に打ち貫かれた汀が、ビクンビクンと痙攣し、原形をとどめていない頭部を揺らす。
パン、パン、と体に向けても岬は発砲した。
魚のように汀の体が跳ね、やがて動かなくなる。

『汀のバイタルが消えた……? 理緒ちゃん、どうした!』

圭介がマイクの奥で大声を上げる。
そのヘッドセットを踏み潰し、一貴は震えている理緒の前で、血まみれの姿でしゃがみこんだ。

「さ、それ渡してくれないかな?」

理緒がブンブンと首を振って、中核を強く胸に抱く。
ため息をついて、困ったように頭を掻き、一貴は手を振った。
パン、と理緒が頬を張られ、単純な暴力に唖然として床を転がる。
彼女が倒れた拍子に手放した中核を、岬が拾って、そしてニッコリと笑った。

「いっくん、もう帰ろ」
「そうだね」

頷いて一貴は、壁に縫いとめられた汀の前でおろおろしている
小白に目を止め、そして視線を、頬を押さえて呆然としている理緒に向けた。

「殴られるのは初めて?」

嘲笑するようにそう言って、彼は肩をすくめた。

「なぎさちゃんの精神はもらっていくよ。本当は君の夢座標も知りたかったんだけど、今回はなぎさちゃんだけで満足する。そろそろ僕達のハッキングも逆探知されるだろうし」

そう言って、一貴は動かない躯となった汀の、滅茶苦茶に破壊された胸に手を伸ばし、グチャリとかき混ぜた。
そしてかろうじて原形をとどめている心臓を掴みだす。

「どうして!」

理緒はそこで大声を上げた。

「どうして汀ちゃんを……」
「まだ殺してない。一時的に黙らせただけさ」

心臓をいとおしむように手でもてあそんで、一貴はニッコリと笑った。

「じゃ、そういうことで」

岬が一貴と目配せをして、手に持った田中敬三の中核を握りつぶす。
途端、精神世界がグニャリと歪んだ。
理緒はそこで、意味不明な声を上げながら、転がって近くの自動小銃を手に取った。
そして無我夢中で引き金を引く。
奇跡的に一発、銃弾が一貴の肩を貫通した。
彼が手を揺らし、汀の心臓を床にべシャリと落とす。

「あ……」

拾おうとした一貴に体ごとぶつかり、理緒は心臓を拾ってゴロゴロと地面を転がった。
そして踏み潰されてピーピーと音を立てているヘッドセットに向かって大声を上げた。

「回線を遮断してください! 早く!」

小白が走って来て、理緒の肩に掴まる。
歪んだ世界の中で、一貴が慌ててこちらに向けて手を伸ばし……。
そこで、理緒の意識はブラックアウトした。



肩を抱いて震えている理緒に近づき、圭介は彼女に温かいココアの缶を渡した。

「少しは口に入れたほうがいい」

そう言われて、缶を受け取り、プルトップを開けようとするが、理緒はそこでそれを取り落とした。
圭介が息をついて缶を拾い上げる。

「すまなかった。テロリストをこっちで抑えることが出来なかった。大損害だ」
「そんがい……」

理緒はそう言って、隣で鼻にチューブを入れられ、沢山の点滴台に囲まれている汀を見た。

「高畑先生はどうしてそうなんですか……汀ちゃんが、夢の中で殺されちゃったんですよ……」

理緒の言葉には覇気がない。
彼女は椅子の上で膝を抱えて、頭を膝にうずめてから呟いた。

「もうやだ……もうやだよ……」
「…………」

沈黙した圭介の後ろから、そこで聞き知った声がした。

「理緒ちゃん、無事だったか……!」

顔を上げた理緒に、看護士に支えられた大河内の姿が映った。

「大河内先生……!」

思わず椅子から降り、彼女は大河内に近づいた。

「起き上がって大丈夫なんですか? とっても心配したんですよ……!」
「もう大丈夫だ。多少声がかすれているがね……」

苦しそうにそう言い、大河内は、椅子に座ってココアの缶を開けて、中身を喉に流し込んだ圭介の胸倉を掴み上げた。

「お前……」
「先生、お体に触ります!」

看護士が慌ててそれを止める。
圭介は、しかし大河内に掴み上げられたまま、深くため息をついた。

「離してくれないか? 一度に三十人のマインドジャックをして、今尋常じゃないほど疲れてるんだ。これにこの失態だ。お前の相手をしている気分じゃない」
「この……外道め……!」

大河内が看護士を振り払い、圭介の頬に拳を叩き込んだ。

そして激しく咳をして床に崩れ落ちる。
殴られた圭介は、飛んだメガネを拾い上げると、頬をさすって起き上がった。
そして無表情のまま、固まっている理緒を見る。

「……今日はここに泊まっていきなさい。君の分の病室を用意させる。大河内も、部屋に戻った方がいい」
「高畑先生……!」

理緒はそこで圭介に言った。

「何だ?」
「訳が分からないんです……ちゃんと説明してくれませんか……?」

おどおどとそう聞いた彼女に、圭介は向き直ってから答えた。

「そんな義理はないね」
「高畑、卑怯だぞ……!」

大河内が肩を怒らせながら立ち上がる。
そして汀を手で指した。

「お前がいながら、どうしてここまで追い込んだ……! 罠にかけるつもりが、逆に撃退されるとは恐れ入ったよ! 元特A級スイーパーとは思えないな!」

それを聞いて、理緒は呆然として圭介を見た。

「元……特A級……? 汀ちゃんと同じ……」

圭介は眉をひそめて立ち、大河内に向き直った。
そして白衣のポケットに手を突っ込んで彼を睨む。

「部外者の前でその話をするな」

部外者呼ばわりされ、理緒が歯を噛んで口を挟もうと声を出そうとした。
それを手で制止し、大河内は息をつきながら圭介を睨んだ。

「何人犠牲にした? 何人の子供を殺した!」
「やっていることはお前となんら変わりはない。俺はその確立を上げただけだ」
「何だと!」
「大河内先生やめて!」

理緒が青くなって、殴りかかろうとした大河内を止める。

「誰がやってもこの結果になっていただろう。ナンバーXは、『変異亜種』だ」

圭介が淡々とそう言ったのを聞いて、大河内は手を止めた。

「何……?」
「俺達じゃ止められない。同じ変異亜種が必要だ。坂月のような」
「ふざけるな! スカイフィッシュへの人体変異なんて、もう起こらないと、当の坂月がそう言っていたでは……」
「その坂月はどこにいる?」

口の端を歪めて笑い、圭介は目を細めて大河内を見た。

「あの男を信用したいお前の気持ちは分かるが、無駄だと何回も言っただろう。人間はスカイフィッシュに変わる。それが、あの正体不明の物体の正体だ」
「お二人とも……一体何の話をしているんですか……?」

理緒が青くなってそう問いかけた。

「坂月先生が関わっているんですか? 私にも何が起きているのか、説明してください!」

悲鳴のような声を上げた理緒を、淡々とした目で圭介は見た。
そして椅子に腰を下ろす。

「……いいだろう。教えるよ。大河内も座った方がいい。死ぬぞ」

看護士に促され、大河内は息をつきながら、汀の脇に腰を下ろした。
圭介は看護士に出て行くよう、目で追い出すと、扉が閉まったのを確認して、理緒を見た。

「さて、何から話せばいい?」

唐突に問いかけられ、理緒は口ごもって下を向いた。

「え……あの……」
「さっき、俺もマインドスイーパーだったのかと聞いたな。その通りだ。大河内も、坂月もマインドスイーパーだった。それどころじゃない。今の赤十字病院を動かしている医者のほとんどが、マインドスイーパーの『生き残り』だ」
「生き残り……?」
「ああ」

テーブルに置いた、ぬるくなったココアを喉に流し込んで、
圭介は息をついた。

「生き残ってしまった者達の集まりさ。赤十字ってのは」
「お前は……あの時に全滅していれば良かったとでも言うつもりか……?」

大河内が押し殺した声を発する。
圭介は一瞬沈黙してから、大河内を見ずに淡々と言った。

「そうすれば、自殺病がここまで拡大することもなかった」
「…………」

大河内が言い返そうとして、しかし失敗して深く息を吐く。
そして彼は、頭を手で抑えた。

「図星を突かれたか? だから、俺はお前達を許さない」

圭介は裂けそうなほど口を広げて、笑った。

その顔に理緒がゾッとする。

「許せるか? 許せるわけがない。俺は、お前達を、絶対に、許さない」

舐めるようにそう呟いて、圭介はココアを喉に流し込み、クックと笑った。

「理緒ちゃんが遭遇したのは、紛れもないスカイフィッシュだ。もう既に人間じゃない」
「ど……どういうことですか?」
「スカイフィッシュは、元は人間なんだよ」

圭介はそう言って、理緒を見た。

「そもそも君は、あの得体の知れない化け物を、何だと思う?」
「何だとって……汀ちゃんは、トラウマの投影だって言ってましたけれど……」
「そういう認識なのか。だからやられるんだ」

圭介は小さくため息をついて、缶をテーブルに置いた。

「スカイフィッシュとは、DIDで分裂した人間の精神だ。分かるかい? マインドスイーパーは既に、DID(精神分裂病)にかかっている患者なんだよ」
「え……?」

呆然とした理緒に、抑揚なく圭介は続けた。

「君のような特殊な温室育ちとは、汀達が違うことは、いい加減理解できているだろう。マインドスイーパーは他人のトラウマに接触すると、それだけ要因不明のトラウマ……つまり、データで言うとデフラグし忘れたエラーのようなものを心に蓄積させていく」
「高畑……それは、実証されていない仮説だ」
「だが現実だ」

椅子をキィ、と揺らして、圭介は続けた。

「蓄積されたエラーは、されればされるほど強力なトラウマとなって心を侵食する。だから、強力なマインドスイーパーの夢に出てくるスカイフィッシュほど、夢の持ち主がかなうわけはないんだ。自分自身の恐怖心が分裂した、と言えばより分かりやすいかな」
「じゃあ……私が汀ちゃんの夢の中で見た坂月先生は……」

理緒がそう言うと、圭介は表情を暗くして声を遮った。

「それは君の見間違いだろう」
「でも、確かに私……」
「坂月の分身は俺が殺した。この手で確かに破壊したんだ」

そこで言葉をとめた圭介から大河内に、理緒は視線をシフトさせた。
大河内も俯いて、苦そうな顔をしている。

「……あの……じゃあ、工藤さん……」
「工藤?」
「あ、いえ……」

口ごもってから理緒は言った。

「ナンバーXという人は、どうして夢の中で自由に、スカイフィッシュになれるんですか?」
「精神が分裂しないまま、トラウマに侵食されたパターンだ。やがてはトラウマに食われて死ぬだろう。だが、それだけに力は強大だ。ありとあらゆる恐怖心の塊なわけだからな。夢の世界で、その変異亜種にかなうわけがない」
「じゃ……じゃあ、またハッキングされたら……」
「防ぐ手はないな」

圭介が息をついて、立ち上がった。

「そろそろいいかい? 俺も大分疲れた。休ませてもらいたい」
「高畑先生が操っていた、マインドスイーパーの子達はどうなったんですか……?」

恐る恐る理緒がそう聞く。
圭介は、ゾッとするほどの無表情で理緒を見下ろし、そして言った。

「全員、さっき息を引き取ったよ」

「……!」

言葉にならない悲鳴を何とか飲み込んだ理緒に、圭介は続けた。

「スカイフィッシュにやられた傷は治りにくい。それは、トラウマを直接マインドスイーパーの精神中核に注入されるからだ。毒のようなものだな。だから、スカイフィッシュに殺された人間は、もう元には戻れない」
「じゃあ……汀ちゃんは……」
「汀は、君の話によるとスカイフィッシュの変異亜種の攻撃でやられたわけじゃないんだろう? 連れていた女の子が撃ち殺したらしいな。なら大丈夫だ。あいつは『痛み』に対して頑丈だ。もうじき目を覚ますだろう」
「高畑先生! それでいいんですか!」

理緒が叫ぶ。
圭介は不思議そうに首を傾げた。

「何がだい?」
「沢山死にました! 汀ちゃんも酷い目に遭いました! 私もです! 患者さんも殺されてしまいました! 先生はそれでいいんですか? それでいいんですか!」
「いいわけがないだろう」

淡々と、圭介は無表情でそう返した。

「君はそれでいいのかい?」

逆に問いかけられ、理緒は肩を抱いて小さく震えた。

「私は……」
「…………」
「もう、やだ……」
「…………所詮子供か」
「馬鹿にしないでください! 高畑先生に、私の気持ちなんて分からないです!」

噛み付いた理緒を、ポケットに手を入れて見下ろし、圭介はメガネの奥の冷たい瞳で言った。

「ああ分からないな。道具に感情なんてないからな」
「道具……?」

理緒は顔を青くして立ち上がった。

「私は道具じゃない!」
「じゃあ何だ?」
「私は……私は人間です! 汀ちゃんも……人間です! 私達は、あなたと同じ人間です!」
「違うな。道具だ」

鼻でそれを笑い、圭介は続けた。

「俺達の庇護がなければ何も出来ない餓鬼の分際でよく吼える。世間も、常識も、何も分からないくせによく言う。俺達がいなければ何も出来ない存在のくせに、言うことだけは一丁前。要求することだけは一丁前」
「そんな……酷い……」
「酷くなんてないさ。ただ、そんな赤ん坊同然の君達が、出来ることはダイブだ。だがそれさえも、俺達の補助がなければ出来ない。汀に至っては、俺の介護がなければ生きていくことさえも出来ない。君達は人間になる前、それ以前に、道具なんだよ。まだ君達は、人間にはなっていない」

圭介の暴論を、理緒は足を震わせながら唇を強く噛んで聞いていた。
大河内がそこで歯軋りして立ち上がる。

「いい加減にしろよ……子供になんてことを……」
「だがそれが真実だ。『真実だった』だろ?」

肩をすくめた圭介から視線を離し、理緒はすがるように大河内に聞いた。

「大河内先生、何とか言ってください! この人……この人おかしいです!」
「…………」

「大河内先生!」
「……理緒ちゃん、今日はもう休むんだ。高畑と議論するのは時間の無駄だ」
「先生まで……そんな……」
「高畑、お前の気持ちは分かるが、理緒ちゃんに聞かせるべき話じゃない。子供を追い詰めるな! 同じてつを踏みたいのか!」
「そのてつを踏んだ俺から言わせてもらえれば、擬似愛情ごっこ程あくびが出るものはないね」

また鼻で笑い、圭介はよろよろしながら病室を出て行った。
黙り込んだ大河内に、すがるように理緒は言った。

「同じてつって……何ですか? 高畑先生はおかしいです! 大河内先生、何とか言ってください!」
「…………」
「愛情ごっこって……そんな、嘘ですよね? そんなのあんまりです……酷すぎます!」
「いいか、よく聞くんだ理緒ちゃん」

大河内はそう言うと、理緒に向き直った。
そして低い声で言う。

「君は、これ以上汀ちゃんと高畑に関わらない方がいい。赤十字に、私から申請しておこう。戻っておいで」
「質問に答えてください!」
「興奮しないほうがいい。お互い体力もかなり低下している」

理緒をなだめてから、大河内は続けた。

「今は元老院の方が力が強いが、君の意思が重要だ。赤十字も、人の意思を曲げることは出来ない。もとはといえば、この二人と君は他人なんだ。入れ込む必要はない」
「先生まで……そんな……」

愕然として理緒は、両手で顔を覆った。

「今更、汀ちゃんを見捨てることはできません……私、一人で逃げるなんてことできません……」
「君は優しいからな。だが、それとこれとは別の問題だ」

大河内はか細い理緒の声を打ち消し、続けた。

「逃げではない。自分の身を守るんだ。ソフィーも、高畑の計画で手痛くやられてしまっている。沢山の命も失った。安全な場所に避難するんだ。自分から、最も危ない場所に飛び込んでいくことはない」

大河内は息をついて立ち上がり、壁に寄りかかった。

「よく考えて決めてくれ。このままだと、君まで高畑に殺される」

ソフィーと同じ台詞を口にして、大河内は病室の出入り口に手をかけた。

「とにかく、私が来たからには高畑の好きにはさせない。今のところは落ち着いて、ゆっくり休みなさい」

「先生……」

理緒は顔を上げ、そして両目から段々と涙をこぼし始めた。
そして汀の手を握り、呟くように聞く。

「汀ちゃんは……ソフィーさんは、目を覚ますんですか……?」
「ソフィーは先ほど目を覚ましたと聞いたよ。面会できるほど回復はしていないが……汀ちゃんは、しばらくの間無理だろう」
「無理……?」
「精神が殺されると、肉体も一時的に仮死状態になる。それを投薬で無理やり生きながらえさせたのが、今の汀ちゃんの状態だ。頭の中でトラウマの整理がついて、ちゃんと現実が現実だと認識できるようになるまで、いくら頑丈だといっても相応の時間がかかる」

それを聞いて、理緒はあることに気がついて青くなった。

「あの……」
「何だい?」
「あのテロリストの子……ナンバーXさんは、汀ちゃんのことを狙ってました。でも、言ってたんです。私の夢座標も欲しいって……」

それを聞いて大河内は顔色を変えた。

「何だって……?」

「私も……狙われているんですか? 私の夢の中に、あの人たち、侵入してくる可能性もあるってことですか?」
「…………」
「先生!」
「……君は私達が全力をもって守る。安心して、ゆっくり休みなさ……」
「休めないです! 私の夢の中にもスカイフィッシュが出てきたら、私どうすればいいんですか? 汀ちゃんも……マインドスイーパーの子達もいない……小白ちゃんも私の夢には入ってこない……私、一人ぼっちじゃ……」

そこで理緒は、圭介がソフィーのことを

『眠れないだろう』

とせせら笑ったことを思い出した。
大河内は少し考えた後

「少し強いが……夢を見なくする薬ならある。汀ちゃんにも投与している薬だ。服用しすぎなければ副作用はない。それを急いで処方しよう」

と言った。

「怖い……怖いです……」

肩を抱いて震えだした理緒の頭を撫で、大河内は息をついた。

「君がちゃんと眠れるまで、私がそばについていてあげよう。大丈夫だ。マインドスイーパーは誰もが経験する。少し待っていなさい。すぐに戻ってくるから」

そう言って大河内は、足を引きずりながら部屋を出て行った。
理緒が、椅子の上で足を抱いて小さくなる。
しばらくして、彼女の泣き声が静かな部屋の中に響いた。



第13話に続く



お疲れ様でした。
次話は本日、5/15の夜に投稿予定です。
気長にお待ちくださいませ。
m(_ _)m

!!!生きとったんかいワレェ!?(感涙)

みなさんこんばんは。

>>716
おひさしぶり(?)です!!
なんとか生き残っておりました。
適度に相手していただけると喜びます。

第13話を投稿させていただきます。

燃える家の中に、理緒は座っていた。
その瞳は見開かれてはいたが、光を失い、焦点が合っていない。
彼女は崩れ、倒壊してくる家の中、壁に背中をつけて小さくなっていた。
しばらくして、ドルンというエンジンの音が聞こえた。
うつろな瞳のまま顔を上げた彼女の目に、ドクロのマスクと、ボロボロのシャツにジーンズ、そして巨大なチェーンソーを持った男の姿が映った。
しばらく、男と理緒はただ見詰め合っていた。

「…………殺して」

理緒はそう呟いた。

「早く私を殺して……」

光を失った瞳のまま、彼女は押し殺した声で叫んだ。

「どうしたの? どうしていつも、近づいてこないの? どうしてそこでじっとしてるの? 殺してよ、早く私を殺してよ!」

男は動かなかった。

ただチェーンソーを回転させて、こちらをマスクの奥の黒光りする瞳で見つめている。
理緒は頭を膝を抱き、そこにうずめてすすり泣いた。

「死にたいよ……死にたいよぉ……」

絶望しきったその声が、倒壊する家屋に響く。
顔を上げた時、そこには男の姿はもうなかった。
理緒はぼんやりとした表情のまま立ち上がり、燃える家の洗面所まで歩いていった。
そして、カミソリを手に取り、左手首に当てる。
そこには、沢山のためらい傷や、一文字の切り傷があった。
縫った痕もある。
彼女は腕に力を込めて、刃を細い肉に力いっぱい押し込んだ。
ブツリという嫌な音がして、皮、肉、血管、筋が断裂する。
何度も、何度も行ってきた行為。
もう慣れてしまった熱い感触。
血がたちまちあふれ出す。
意識が段々と薄れていく。

「やだ……やだよ……」

彼女はカミソリを取り落としながら、火が落ち着き始めた周囲を見て狼狽した。
そして腕から血を流しつつ、頭を抑える。

「やだ……もう起きたくない……起きたくない!」

火が段々と消えていく。
まるで、テープを逆再生するかのように。
理緒はその場にうずくまり、そして絶叫した。



第13話 涙



理緒は目を開いた。
そこは、いつもの変わり映えがしない病室の中だった。
明るい照明。
そして自分を囲んでいる機器と点滴台。
点滴を刺され過ぎて、肘の内側が真紫になっている。

「もう駄目かもしれない」

カーテンの奥から、圭介の声が聞こえた。
ああ、私のことを言っているんだなと理緒は、ぼんやりとした思考の奥でそう思った。

「マインドスイーパーの適正がなかったと考えるしかない。スカイフィッシュに打ち克つ力が、彼女にはない」
「だが、見捨てるにはまだ早すぎる」

大河内の声も聞こえた。
圭介はそれを鼻で笑い、押し殺した声で言った。

「使い物にならない道具に興味はない。お前が欲しいんなら、やるよ」
「大概にしろよ、高畑!」

椅子を蹴立てて大河内が立ち上がる。

「今の言葉は聞かなかったことにする。最後まで責任を持て! お前が原因なんだぞ!」
「声を荒げると、また起きるぞ」
「……ッ!」

歯噛みした大河内が、落ち着きなく部屋の中を歩き回る。
そこで、聞き知らない女性の、ゆったりとした声が聞こえた。

「喧嘩をしている場合? お二人とも、少し休んだ方がいいわ」
「ジュリアさん……」

大河内がそう言って深くため息をつく。

「……その通りだ。お見苦しいところを見せてしまった」
「あなた達がここでいくら喧嘩をしても、患者が良くなるわけではないわ」

ゆったりとした声だった。
患者?
それを聞いて、理緒は少し疑問に思ってから、
すぐに合点がいった。
そうだ。
私は今、患者なんだ。

「自殺未遂十一回。夢の中でも何度も死んでいるようね。自殺病の発症を確認。もうこの子の精神はボロボロよ。早々に手を打たなきゃ」
「ミイラ取りがミイラになるとは、まさにこのことだな」

圭介の声に、大河内の影が圭介の影の胸倉を掴み上げたのが、理緒の目に見えた。

「お前があの時に、あんなことを教えなければ……」
「お二人とも、出て行ってくださる?」

ゆったりと、ジュリアと呼ばれた女性がそう言う。

「もう起きているみたい。少し二人でお話をさせて?」

背の低い女性の影が、こちらに近づいてくる。
カーテンが開き、その隙間から、長い金髪を腰まで垂らした女の人が中を覗き込んだ。
二十代前半だろうか。
理緒と同じくらいの背丈だが、妙に落ち着いた雰囲気をかもしだしている。
白衣だ。
青い瞳。日本人ではないらしい。
目が大きく、人形のような女性だった。

彼女――ジュリアは落ち窪んだ目をした理緒と視線が合うと、ニッコリと微笑んで見せた。
大河内と圭介が黙って病室を出て行くのが見える。
ジュリアはカーテンの中に入ってくると、理緒の隣の椅子に腰を下ろした。
体を起こそうとした理緒にそのままでいいとジェスチャーで言ってから、彼女は口を開いた。

「私はジュリア・エドシニア。あなたを助けるために来た、マインドスイーパー治療班の一人よ」
「治療班……?」

理緒はかすれた声でそう言った。

「私、もう治療なんていい……いいです……」

泣き出しそうな顔でそう言って、理緒は血のにじむ左腕の包帯を見た。
ぐるぐる巻きにされている。
全て、ここ数日で切ったものだ。
ガラスを割って刺したこともある。
鏡を割って切り裂いたこともある。

鎮痛剤を投与されているので、あまり痛みは感じなかったが、所狭しと縫われている腕は、ジクジクと異様な感触を与えた。

衝動的に。
いや、そう言ってはおかしいかもしれない。
実に自然に。
理緒は、生きることがとてもつらくなった。

理由という理由はないのかもしれない。
ただ、つらかった。
その原因を考えるまでの余裕は、彼女にはなかった。
大河内をはじめ、周囲は自殺病の発症だといった。
どこから感染したのか、何が病因なのかは分からない。
心当たりが多すぎて、どうしようもなかったのだ。
汀が意識を失ってから、僅か三日で、理緒の心と体は、既に衰弱してボロボロになっていた。
ジュリアは理緒の手を握り、優しく語りかけた。

「死にたいの?」
「はい……」

頷いて、理緒は薄く目に涙を溜めながら続けた。

「夢の中に……あの人が出てくるんです。でも何もしない……私が死ぬのを待ってるんです……私もう疲れました。もう駄目……殺してください……お願いします……もう私を、これ以上苦しめないでください……」
「それはただの夢よ。現実ではないわ」
「現実か夢かなんて……誰も分からないじゃないですか。私、今ここにいることが現実かどうかも……分からなくなってきました」

理緒の目から涙が流れる。

「分からない……分からないんです……」

両手で顔を覆い、涙を流す理緒の頭を撫で、ジュリアは続けた。

「よく聞いて。あなたは自殺病にかかっているわ。無理なダイブを繰り返したせいで、スカイフィッシュ症候群に感染したの。即急に治療をしなければ、命が危ない」
「治療なんて……いいです……」
「生きる気力を、患者が持たないといけないわ。しっかりして」
「本当にいいんです……もう許してください……」

ひく、ひくと泣いて、理緒は体を脱力させた。

「薬なんて効かない……私もう眠れない……」

「あなたを絶対に助ける。そのためには、あなたの協力が必要なの」

ジュリアはそう言って、ベッドの上に腰を移すと、理緒の頭を抱いて引き寄せた。
久しぶりの人間の感触に、理緒が小さく息を吐く。

「…………」
「落ち着いた? あなたはまだ戻れる。戻れるうちに、帰って来なさい。私達が待ってるから……」
「私……帰れる……? 戻れる……?」
「ええ。あなたは帰れる。お家に、帰れるわ」
「あなたに……何が分かるんですか……」

落胆した声で、理緒は小さく呟いた。
言葉を飲み込んだジュリアに、彼女はかすれた声で続けた。

「私のお家は、赤十字病院です……お父さんもお母さんも死にました。親戚もいません……私は、一人ぼっちなんです……」
「そうだったの……」

ジュリアは強く理緒の顔を抱きしめると、ささやくように言った。

「でも、絶対に助ける。諦めないで。あなたも、あなたの友達も、私達が助けるから」
「私の……友達……」

光がなかった理緒の目に、少しだけ活力が戻った。

「私……友達がいる……」
「そう、あなたには友達がいるでしょう? 大事な友達。あなたが、命がけで守った友達がいる。見捨てて逃げることは出来ないんじゃなかったの? 聞いたわ。あなたは優しい子なのね……」
「ジュリアさん、私……」

理緒はジュリアの胸にしがみついて、涙を流した。

「汀ちゃんに会いたい……」



「……以上が今回のプランです。S級のスカイフィッシュに対抗するために、私もダイブに同席します」

ジュリアがそう言って、息をつく。
元老院と赤十字病院の医師達が集まっている、薄暗い会議室の中を、彼女は見回した。
後ろの方の席に圭介はいた。
興味がなさそうに足を組んで、ボールペンをカチカチと鳴らしている。
前の席に座っていた大河内が、咳をしてからかすれた声で言った。

「……テロリストの進入も考えられる。安易なダイブは危険を招く」
「しかし即急に救わないと……少なくとも片平理緒さんの命は、長く見積もっても、あと三日もつかもたないかです」

それを聞いて、医師達がざわめく。

「……沢山のマインドスイーパーがここで命を落としている。病院の見解としては、マインドスイープに対してかなり慎重にならざるをえないことは理解してもらいたい」

赤十字病院の医師の一人がそう言うと、同調するざわめきが広がった。

ジュリアは頭を抑え、軽く髪を手で梳いてから圭介を見た。
圭介は一瞬彼女と視線を合わせたが、すぐに視線をそらして横を向いた。
彼を睨んでから、ジュリアは元老院の方を向いた。

「ご老人方はどうお考えですか?」

問いかけられた元老院の老人の一人が、少し考えてから重苦しく口を開いた。

「……高畑汀と、片平理緒を失うのは、今の日本の医療業界にとって、重大な損失だ。できることなら……いや、確実に二人は治療しなければいけない」
「ありがとうございます」

ジュリアが頭を下げる。

「そのために私は、日本に来ました」
「しかし……テロリストの件が表立ち、今の日本ではマインドスイープを行える医師が、治療を自粛する流れになってきている。聞けば、テロリストの狙いは、高畑汀だそうではないか、なぁ高畑医師」

部屋の隅に立って、タバコを吸っていた初老の男性が口を挟んだ。
深く掘りが入った顔に、くぼんだ目をしている。
表情が読めない男性だった。
圭介は彼をちらりと見ると、資料をテーブルの上に投げてから口を開いた。

「その件に関しては、お話しする義理がございません」
「高畑医師! それはあまりにも粗暴がすぎないか!」

赤十字病院の医師の一人が、顔を真っ赤にして立ち上がり、怒鳴った。

「あなたの……いや、お前のせいで、何人のマインドスイーパーが死んだと思っている! いくら元老院所属とはいっても、これ以上の協力は我々としても……」
「静粛に」

大河内が低い声を発する。
彼が手を叩いたのを聞いて、医師達は圭介を睨みつつ、歯軋りしながら口をつぐんだ。
元老院に頭を下げ、大河内は続けた。

「お見苦しいところをお見せしました。ご老人方、どうか気分を悪くされないでいただきたい」
「良い。この度の一件に関しては、こちらにも非がある」

元老院の老人がそう言う。
圭介は興味がなさそうに、軽くあくびをして、椅子に肘をついた。

「……議題を戻してもよろしいでしょうか?」

ジュリアが周りを見回し、おっとりとした声で続けた。

「高畑汀さんの精神中核を持っているのが、片平理緒さんである以上、汀さんを助けるためには、理緒さんをまず救わなければいけません」
「何……?」

そこで初めて、圭介が狼狽したような声を発した。
彼はジュリアを見て、噛み砕くように言った。

「あの子が、汀の精神中核を持っているのか……?」
「先ほど本人から聞きました。ある程度落ち着かせて、断片的に聞いた内容ですが、間違いないと思われます」
「そんな重要なことを、何故今まで黙っていた……?」

押し殺した声で呟くように言った圭介を冷めた目で見て、ジュリアは続けた。

「目の色が変わりましたね、ドクター高畑」
「質問に答えて欲しい」
「聞かれなかったから答えなかったまでです。あなたは、あの子達に信用されていないのでは?」

公の場で嘲笑にも等しい侮辱を受け、圭介は軽く歯を噛んだ。
そして背もたれに体を預け、足を組みなおしてから口を開く。

「それは、そちらのご想像にお任せしましょう。議論の余地はありません」
「……そうですね。軽率な発言でした。とにかく、汀さんの精神中核を、理緒さんの精神内から抜き取って、元に戻さなければいけません。その施術を行いつつ、スカイフィッシュの相手をしなければいけません。私のチームが力を当てますが、卓越した技量を持つマインドスイーパーの力が必要です」

彼女がそう言うと、医師達の間にざわめきが広がった。
一人の医師が声を荒げた。

「私は協力を辞退させていただきます。これ以上、ラボから人員を消すわけにはいかない」

それに同調する人々の声を聞いて、ジュリアは手を上げて声を制止した。

「ドクター高畑、協力していただけますね?」

含みをこめて聞かれ、圭介は一瞬視線を揺らがせたが、狼狽したように彼女に言った。

「……私が?」
「はい。元特A級能力者、対スカイフィッシュ戦闘用マインドスイーパーの、あなたの力が必要です」

医師達が目を見開く。
元老院の老人達は目をつぶり、息をついた。

くっくと笑うタバコの男を横目に、圭介は苦々しげに言った。

「…………どこからその情報を入手したのかは分からないが、私はもうマインドスイープを止めました。ダイブは無理です」
「あの子達を、助けたくはないんですか?」

ジュリアに問いかけられ、圭介は発しかけていた言葉を飲み込んだ。
そして、しばらくして頭を抑え、目を隠す。
まるで、殺気を込めた視線を隠すように。
圭介はメガネをテーブルの上に置き、深呼吸してからジュリアに言った。

「……分かりました。ただし、ダイブの時間は五分とさせていただきます」
「ご協力感謝いたします。それでは今回のダイブの説明を始めさせていただきます」

ジュリアが頭を下げ、ホワイトボードを手で示した。
大河内が横目で圭介を見る。
圭介は爪を噛みながら、瞳孔が半ば開いた目でジュリアを睨んでいた。



薬で眠らせている理緒を囲むようにして、ヘッドセットに機器を接続したマインドスイーパー達が椅子に腰掛けていた。
ジュリアと圭介の頭にも接続がしてある。
暗い表情をしている圭介をちらりと見てから、計器を操作している大河内が口を開いた。

「第一段階のダイブは、時間を十分に設定します。いいですね、ジュリア女史」

問いかけられ、ジュリアが頷いた。

「時間が300秒を突破しましたら、何が起こっても強制的に回線を遮断してください。たとえ、この中の誰が帰還不能になってもです」

機器が接続されているマインドスイーパーは、黒人や西洋の人間など、いろいろな人種が混ざっているが、一様に二十代前半から後半の者達だった。

「目的はスカイフィッシュの排除。精神分裂を防ぐことです。また、外部からのハッキングが考えられます。防御手段を持たないので、スカイフィッシュ共々、この機会に駆逐します」
「分かりました。幸運を祈ります」

ガラス張りの部屋の向こう側には、沢山の医師達が腕組みをしながらこちらを見ている。
タバコを吸っている男も、無機質な目で圭介を見ていた。

「高畑、いけるのか?」

大河内に小声で問いかけられ、圭介は鼻を鳴らして、自嘲気味に笑った。

「さてな」
「さてな……って……お前、遊びではないんだぞ」
「また俺をあそこに送り込むのか。鬼畜共め」

くっくと笑い、圭介は大声を上げた。

「ダイブを開始してください!」

その右手が、かすかに震えている。
圭介は左腕でそれを押さえ込むと、大河内を見てニヤリとした。

「やるよ、俺は。お前みたいな役立たずとは違うからな」



理緒は目を開いた。
あたり一面血まみれだった。
そうだ、私は。
さっきまた腕を切って。
血が段々となくなって、体が段々と冷たくなっていくのを感じながら、気持ちよく眠りについたんだった……。
でも、どうして……。
どうして私はまた、起きてしまったんだろう。
そこまで考えて、理緒は左腕の深い切り傷から流れる血液を、必死に止血しているジュリアの姿を見た。
ジュリアは、彼女を守るように立っている他のマインドスイーパー達と目配せをすると、理緒のことを強く抱きしめた。

「私達が来たから、もう怖くないわ。大丈夫。早くこの悪夢から抜け出しましょう」

そこは、燃える建物の中だった。
病院の中だった。
理緒が現実か夢か区別がつかなかったのも無理はない。

彼女の病室と全く同じ景色。
しかし、窓の外の暗闇は、赤々と燃える、巨大なキャンプファイヤーのようなものに照らされていた。
豚の丸焼きのように、沢山の人間が足から吊るされて火にかけられている。
あたりには据えた悪臭が充満していた。
病室のいたるところも欠損して、燃えている。

「ドクター高畑は?」

ジュリアがヘッドセットのスイッチを入れて声を上げる。
ブツリ、という音がして大河内の声が返ってきた。

『ダイブにはあと二、三分ほどのイメージ構築の時間が必要だそうです。それまで、彼女を保護してください』
「何ですって……?」

絶句してジュリアが息を呑む。
彼女に、英語で他のマインドスイーパー達が口々に何かを言っている。

「……議論はあとでしましょう。とりあえず、ここを脱出します」

ジュリアはそれを手で払い、理緒を抱いたまま、病室から外に出た。
他のマインドスイーパー達も、ジュリアを囲むようにして部屋を出る。
そこで、ドルン、というチェーンソーの起動音が聞こえた。
ビクリとして振り返った全員の目に、暗い病室の廊下の向こう側に、ドクロのマスクを被った、大柄な男がゆらりと立っているのが見えた。

「いやあああああああああ!」

理緒が絶叫したのとほぼ同時に、ジュリアは無言で走り出した。
他のマインドスイーパー二人がしんがりを守るように立ち、壁に手をつける。
壁のコンクリートがぐんにゃりと変質して刃渡り十八センチほどのナイフに変わった。
スカイフィッシュがチェーンソーを振りながら走り出す。
黒人の男性が、壁を殴った。
コンクリートが砕け、手首までが中に入り込む。
そこから彼は拳銃を掴み出すと、スカイフィッシュに向けて数発、発射した。
飛び上がったスカイフィッシュが、もんどりうって床に転がる。
深追いはせずに、全員病院の出口に向かって走り出した。

「もうやだ! もうやだよう!」

理緒が首を振って泣きじゃくる。
ジュリアは病院の出口に到達すると、ロビーに出たことを確認して足を止めた。
そして息を切らせながら理緒に言う。

「よく聞いて、片平さん。私達大人は、あなた達ほど長時間、夢の中で動くことは出来ないわ。だから、お願い……あなたを助けさせて!」
「助かりたくない! やっと……やっと死ねるところだったのにどうして邪魔するの! やっと私、楽になれたところだったのに!」

癇癪を起こしたように喚く理緒の口に指を当てて黙らせ、ジュリアは言った。

「友達の精神中核。あなたが持っているんでしょう? 一緒に、友達を治しに行きましょう。死ぬのはそれからでも遅くはないわ」

理緒はそれを聞いて、押し黙った。

「汀ちゃんの……中核……」

理緒はポケットに手を入れた。

病院服の、血まみれになったそこから、ビー玉のような黄色く光る玉を取り出す。

「これ……」
「それを絶対に離しちゃ駄目。あなたの大事な友達は、それを壊されたら生きる屍になるわ」
「汀ちゃん……」
「高畑汀さんに、会うんでしょう! しっかりしなさい!」

ジュリアがそう言ったときだった。
彼女らの背後の天井に、ビシッと音を立てて亀裂が走った。
そして轟音を立てて崩れ落ちる。
慌てて距離をとったジュリア達の目に、無傷のスカイフィッシュが、床に着地して立ち上がったのが見えた。
恐怖のあまりに、声も出せずに理緒がジュリアにしがみつく。
不意を突かれた形で、拳銃を持っていた黒人の男性が、スカイフィッシュのチェーンソーに頭をカチ割られた。
あたりに絶叫と、血液と、脳漿と、よく分からない物体が飛び散る。
スカイフィッシュは倒れた男を蹴り飛ばすと、ドルンドルンと、血まみれのチェーンソーを鳴らした。

「ドクター高畑を早く!」

ジュリアが外に逃げながら、大声を上げる。

『今転送を開始しました! ダイブ開始まで十秒、九、八……』

スカイフィッシュが人間とは思えない動きで移動し、大きくチェーンソーを振った。
ナイフを持っていたマインドスイーパー達が、腹部を両断されて、驚愕の表情のまま二つになり、床に転がる。
一拍遅れて、あたりに噴水のように血の雨が降った。
スカイフィッシュは、ジュリアを守るように固まったマインドスイーパー達に向かって飛び上がり、チェーンソーを振り下ろそうとして――。
そこで、突っ込んできた人影に体当たりをされ、そのまま背後の壁に、ひびが入るほどの衝撃でブチ当たった。
人影……病院服を翻した圭介は、押し付けられたまま、チェーンソーの刃を回転させこちらに向けたスカイフィッシュの腕を、体全体で力を込めて押さえ、地面に転がっていた拳銃を蹴り上げた。
そして空中でそれをキャッチし、スカイフィッシュの眉間に当てて、何度も引き金を引いた。
そのたびに、ビクンビクンとドクロの男の体が跳ねる。
圭介は返り血でびしょ濡れになりながら、無言で、弾が切れた拳銃を横に振った。
それが刃渡り三十センチはある長大なサバイバルナイフに変質する。

彼はスカイフィッシュの喉にそれを突き立て、壁に磔にすると、一歩下がって、殺されたマインドスイーパー達が持っていたナイフを蹴り上げた。
そして一瞬でサバイバルナイフに変質させ、一気に二本、スカイフィッシュの両腕に突き立てて壁に縫いとめる。
ガラン、とエンジンが切れたチェーンソーが床に転がった。
スカイフィッシュは、それでも、体を刺すナイフの痛みが気にならないのか、ゆっくりと壁から体を引き剥がしにかかった。
圭介はその一瞬を見過ごさなかった。
彼は考える間もなくチェーンソーを拾い上げると、ロープを引っ張って起動させた。
そしてスカイフィッシュに回し蹴りを叩き込み、また壁に縫いとめると、その胸にチェーンソーを叩き付けた。
凄まじい高音の叫び声が、あたりに響き渡った。
あたりを骨片や血液、よく分からない生物の内臓が飛び跳ねる。
チェーンソーは時間をかけてスカイフィッシュの胸を貫通すると、コンクリートの壁に突き刺さって止まった。
それでもなお、スカイフィッシュはガクガクと震えながら、かすかに動いていた。
圭介は息をつき、汗だくになりながらその場に膝をついた。

「ドクター高畑!」

呼吸が困難になっている圭介に、マインドスイーパーの一人が駆け寄り、横にしてから何度か人工呼吸を行う。
しばらくして圭介は、自分に唇を合わせていた女性を押しのけ、ジュリアに目をやった。

「理緒ちゃんを……降ろせ!」
「え……ええ、分かってる。分かってるわ……」

ジュリアは頷いて、理緒をそっと床に降ろした。
腰を抜かして、ペタリとしりもちをついた理緒に、圭介は立ち上がって近づいた。

「時間がない……やるんだ、理緒ちゃん」

問答無用に彼はそう言うと、足元に転がっていたガレキを一つ手に取った。
それが拳銃に形を変える。

理緒に拳銃を握らせ、圭介はしゃがんで、まだ動いているスカイフィッシュを見た。

「いいか、心臓を狙うんだ。君が殺さないと、君のスカイフィッシュは死なない」
「先生達……どうして……」
「俺達もマインドスイーパーだったという話はしただろう」

理緒を突き放し、圭介は無理やり彼女の手を引いて立たせた。

「早く撃て! 何をしてる!」
「ドクター高畑! 乱暴はよして!」

ジュリアが間に割って入る。
それを鼻で笑い、圭介は言った。

「何だ、役立たずの一人か。ジュリア。仲間を盾にしてまだ生きているとは、見上げた根性だよ」
「あなた……! どうしてすぐにダイブしてこなかったの!」
「スカイフィッシュが動きを止める瞬間を狙っていた。何せ、俺は……」

そこまで言ってから言葉を飲み込み、圭介は理緒の手に自分の手を添えた。

「撃てないか? 引き金を引くだけでいい」
「で……でも……でも、あの人……まだ生きて……」

ブルブルと震えている理緒に、苛立ったように圭介は言った。

「あれは生き物じゃない。ただのイメージだ」
「私そんな風に割り切れない……割り切れないよ……」
「じゃあ君を助けるために死んだマインドスイーパーはどうでもいいっていうのか? 君は、それでもいいのかい?」

問いかけられ、理緒は動かぬ躯となったマインドスイーパー達を見回した。
そして彼女はぎゅっ、と目をつむり。
引き金を引いた。
スカイフィッシュがビクッと跳ね、動かなくなる。
銃を取り落とし、両手で顔を覆った理緒を抱きしめ、ジュリアが口を開く。

「よくやったわ。よく……」
「ジュリア、他のマインドスイーパーに理緒ちゃんを守らせろ。外に出るんだ」

しかしそれを打ち消し、圭介が言った。

『外部からのハッキングだ! 止められない、転送されてくるぞ!』

大河内の声が聞こえる。
息を飲んだジュリアの目に、先ほど殺したスカイフィッシュと同様の格好をした、しかしマスクはつけていない白色の髪をした少年の姿が映った。
一貴だった。
彼はチェーンソーを肩に担いで、動かなくなったスカイフィッシュを見てから唇を噛んだ。

「……何てことを……」

一貴は、地面のガレキを二本のサバイバルナイフに変え、前に進み出た圭介をにらみつけた。

「分裂精神を自分の手で殺させたのか!」
「それが『治療』だ」

圭介は淡々とそう言い、ナイフを構えた。

「あれが……ナンバーX……」

ジュリアはそう呟いてから、理緒を抱きかかえて病院の外に向かって走り出した。

他のマインドスイーパー達もそれを追う。
横目でそれを見て、一貴はパチンと指を鳴らした。
病院の出口がグンニャリと形を変え、コンクリートの壁になる。
足を止めたジュリア達の方を向いて、彼は言った。

「逃がさないよ。なぎさちゃんの精神中核は僕がもらう」
「それをさせると思うか?」

振り返った一貴の目に、二本のサバイバルナイフを振りかぶった圭介が飛び掛ってくるのが映った。
チェーンソーを振って日本刀に変え、一貴はそれを弾いて何度かバク転をして後ろに下がった。

そして地面に膝をついて刀を構えながら、苦々しそうに圭介に言う。

「ヤブ医者が……! 分裂精神を殺させるなんて、聞いたことがない!」
「少なくとも俺の方法はそうなんだよ」
「自分の精神の半分を喪失するってことだぞ! 患者を強制的に心身喪失させるのが、お前達のやり方か!」

理緒はそれを聞いて、呆然としてジュリアを見た。

「心身……喪失……?」

ジュリアが目をそむける。
彼女の服を掴んで、理緒は真っ青になって言った。

「どういうことですか? 私に何をさせたんですか!」
「教えてあげるよ、片平さん。こいつらは、君の感情の何かを壊させた。スカイフィッシュと一緒にね」
「どういう……こと……?」

一貴は歯を噛んで、サバイバルナイフを手に切りかかってきた圭介の攻撃を、軽くいなしながら続けた。

「スカイフィッシュは、その人の精神が分裂したものだ。だからそれは、感情そのものだといえる。スカイフィッシュを殺すっていうことは、確かに自殺病を防げるかもしれないけど、感情が変化したスカイフィッシュを自分の手で殺すということは……」

一貴が圭介に日本刀を振り下ろす。
圭介はそれを、二本のサバイバルナイフで受けた。

そのまま刀を押し込みつつ、一貴は怒鳴った。

「こいつらのような、『不完全な』人間になるっていうことなんだ!」
「言わせておけば……! 人間は元来不完全なものだ! 不完全なものを不完全に戻して、何が悪い!」

圭介がそう怒鳴り返し、一貴の腹に蹴りを叩き込む。

「ジュリア、何をしてる! 帰還の扉を構築させろ!」

怒鳴られたジュリアがハッとして、周囲のマインドスイーパー達と目配せをする。
数人のマインドスイーパーが目を閉じて、意識を集中し始めた。
それにあわせて、コンクリートの壁に、木造りのドアのようなものが浮かび上がってくる。
それを見て、一貴は舌打ちをした。

「させるかあ!」

叫んで起き上がり、圭介の足に日本刀を突き立てる。
太ももを貫通した日本刀は、そのまま肉を両断して、外側に抜けた。
圭介の太ももから凄まじい勢いで血が流れ出し、彼は膝をつき、そして――。
頭を抑え、髪をかきむしった。

「うああああ! うわあああ!」

突然恐慌を起こしたかのように叫びだした圭介を、ジュリアは青くなって見た。

「ドクター大河内! ドクター高畑のシナプスが危険域です、遮断してください!」
『やっているが、もうすこしかかる! あと三十秒ほど耐えてくれ!』
「はは! あははは! 時間切れか!」

日本刀をゆらゆらとさせながら、一貴は立ち上がって、圭介の頭を思い切り蹴り上げた。
舌を噛んだのか、地面に転がった圭介の口から、盛大に血が溢れ出す。

「若い頃にマインドスイープさせられすぎたせいで、脳みその伝達機構がイカれちまってるんだ! こうなればもう形無しだね」

もう一度一貴は圭介の腹に蹴りを入れ、うずくまって動かなくなった彼に、日本刀を向けた。

「待って!」

そこで理緒が声を上げた。
彼女はジュリアの手を振り払い、圭介に駆け寄ると、彼らの間に割って入り、手を広げた。

「……何してるの?」

一貴が呆れたように言う。

「理緒さん、戻って!」

ジュリアが叫んでいる。
理緒は震えながら一貴を睨みつけた。

「私の夢の中で、これ以上好き勝手しないで。もう、そっとしておいて。お願い」
「こいつは、君の大事な記憶か感情を殺させた奴だよ。庇う必要はないだろ」

そこまで言って、一貴は理緒の手をひねり上げた。
悲鳴を上げた彼女のポケットに手を突っ込み、無造作に汀の精神中核を掴みだす。

「これはもらっていくよ」

そこまで彼が言った時だった。
理緒は無言で一貴の日本刀を奪い取ると、力いっぱい横に振った。
一瞬、一貴は何が起こったのかわからないといった顔でポカンとしていた。
ボトリ、と何かが落ちた。
一貴が、汀の精神中核を握っていた手が、上腕から両断されていた。
加えて脇腹が斬られていて、噴水のように血が流れ出す。

「へぇ……」

一貴はクスリと笑うと、理緒から手を離し、よろめいた。

「君は……いざとなればやれる子なんだね……」

理緒はそのまま、一貴の胸に日本刀を突きたてた。
彼女のひ弱な力でも、簡単に刃は貫通して向こう側に抜けた。

「ごめんなさい……工藤さん……」

理緒の目から涙が落ちる。
一貴はゆっくりと後ろ向きに倒れながら、倒れ際、理緒の目を手で拭った。

「今のうちに泣いておくといい……」

ドサリ、と鈍重な音を立てて一貴が倒れる。

「多分もう、君は泣けない」

ゴポリと一貴が吐血する。
理緒は震えながら自分の肩を抱き、そして扉が構築されたのを見て、ジュリアに言った。

「治療完了です」
「……あなた……」

返り血で濡れた理緒は、どこか無機的な目でジュリアを見ていた。

「私の夢から、出て行ってください」

そこで、彼女達の意識はブラックアウトした。



理緒は目を開けた。
何度も何度も切り刻んだ左腕が、ジクジクと痛む。
右腕には点滴が沢山つけられていた。
体が重い。
頭が痛い。
右手で頬を触ると、泣いていたのか、濡れていた。
悲しい?
悲しかった?
何が?
よく分からなかった。
何が悲しくて、何をどう苦しくて、何故泣いていたのか、彼女は分からなかった。
そもそも、悲しいということはどういうことなのか。
苦しいというのは、どういうことなのか。
分からなくなっていた。
ぼんやりとした、霞がかかったような思考のまま上半身を、やっとの思いで起こす。
そこで、カーテンの向こうにいたらしいジュリアが、勢いよくカーテンを開けた。

「目を覚ましたわ!」

彼女が満面の笑顔で、理緒に駆け寄って抱きつく。
ジュリアは泣いていた。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

何度もそう呟くジュリアを、不思議そうに理緒は見た。

「何が……」

かすれた声でそう呟き、理緒は首を傾げた。

「どうしたんですか?」
「覚えてないの……?」

問いかけられ、理緒はまた首を傾げた。
部屋にいた大河内が、息をついて立ち上がる。

「……君は自殺病にかかったんだ。高畑がダイブして、その元凶を破壊した。もう大丈夫だ」

「高畑先生が?」

抑揚のない声でそう言った理緒を、大河内は沈痛な面持ちで見た。
そして、小さな声で言う。

「高畑は今、意識混濁状態になっている。集中治療室に入ってるよ」
「そうなんですか」

頷いて、理緒はニッコリと笑った。

「……で、汀ちゃんはどこですか?」

その、どこか壊れたような笑顔は、何故か狂気を感じさせるものだった。



第14話に続く



お疲れ様でした。
次話は明日、5/16に投稿予定です。

また、カクヨムに新作サイコホラー小説を毎日連載中です。
併せてお楽しみ下さい。

m(_ _)m

皆様こんにちは。
第14話の投稿をさせていただきます。

全てがスクリプトだったら、どんなに楽だろう。
全てが全て、決められたことだったら、どんなにか楽なことだろう。
だって、そのスクリプトの中でもがいて、苦しんで、喚いていたって、結局は独り、一人ぼっちであるという事実は変わらない。
スクリプトなら気が楽だ。
どんなに叫んでも、声が返ってくるわけはないのだから。

幸せそうな人たちがいた。
充実した生活を送っている人たちがいた。
隣の芝は青く見えるということわざがある。
それはことわざだが、えてして的を射ている。
でも、事実は事実だ。

スクリプトだろうがなんだろうが、周りを見回すと、人々は全て、ちっぽけな幸せを持って生きている。
必ず、持って生きている。
ならば。
ならば、そのちっぽけさえ持っていない自分は、一体何なんだろう。

生きてて楽しい? と頭の中の誰かが聞いた。
人生楽しい? と頭の中の誰かが聞いた。
楽しくはない。
楽しかったら、私は今ここにはいない。

そうだな。
苦しい、とは違うな。
悲しいな。
ただ、ひたすら、悲しいな。
それでも生きていってしまうであろう、私自身が悲しいな。

全てがスクリプトだったら、どんなに楽だろう。
そう考えて、また同じ結論にたどり着く。
私は袋小路の中に入り込んでしまっていた。
もう、出ることは出来ない。



第14話 凄く面白い



「はぁ、そうなんですか」

ぼんやりした声で理緒がそう言う。

大河内は身を乗り出して、彼女の肩を揺すった。

「どうした? まだ意識がはっきりしないのか?」
「私ははっきりしていますよ。問題ありません。先生こそ、何を戸惑ってらっしゃるんですか?」

人形のように淡々と理緒はそう言い、鳥かごに手を突っ込んだ。
それは、赤十字病院に住む子供達が飼っていたインコの籠だった。
沢山の人達の言葉を覚え、人気があったマスコット的存在だった。
特に可愛がっていたのは理緒だった。
彼女が圭介の病院で暮らすことになってからは、大河内が育てていたのだが、寿命か、昨日死んでしまったのだ。
仰向けになって硬直している小さなインコに、泣いているマインドスイーパーの子達もいる。
全員が、一番優しかった理緒がどうするつもりなのか、不安げな表情で見ていた。
理緒はぼんやりとした視線のまま、手の中で死んでいるインコを見た。
左腕には包帯が巻かれていて、長袖で隠れている。
右腕は点滴台を掴んでいて、いくつか、針が手の甲に刺さっていた。

「死んだんですか」

理緒は淡白にそう言って、左手でインコを掴み出すと、大河内に向かって差し出した。

「で、いつ死んだんですか?」
「いつって……今朝方だと思うが……」
「じゃあそろそろ腐り始めますね。捨てた方がいいと思います」

ニッコリと笑って、理緒は無造作にゴミ箱にインコの死骸を投げ捨てた。
彼女の凶行に、周囲が唖然とする。

「理緒ちゃん……!」

大河内が声を荒げかけ、部屋に入ってきたジュリアを見て、言葉を止めた。
ジュリアはゴミ箱から大切そうにインコを掴み出すと、紙に包んで胸に抱いた。

「片平さん、ちょっとお話があるの。お時間もらえるかしら」
「いいですよ」

インコを捨てた後だというのに、何事もなかったかのように理緒は頷き、ジュリアの後に続いた。
ジュリアは近くのマインドスイーパーの頭を撫で

「後で埋めてあげましょうね」

と言ってから、理緒の手を掴んだ。

そして大河内と目配せをして、部屋を出る。
大河内もそれを追う。
マインドスイーパーの一人が、そこで大河内に囁いた。

「理緒ちゃん、どうしたんですか? 何だか様子がおかしいです……」

大河内は不安げな顔でこちらを見ている子供達を見回し、立ち止まると、質問してきた子に微笑みかけた。

「何、今回の仕事はかなりのものだったからね。理緒ちゃんも、現実と空想の区別がまだついていないんだろう。しばらくああいう状態が続くと思うが、みんな優しくしてやってくれ」



ジュリアの研究室に入り、促されるままソファーに座って、理緒は息をついた。
急遽用意された研究室だったが、きちんと整理整頓がなされていて、所々に大きなぬいぐるみが飾ってある。
研究者の部屋というよりは、年頃の女性の部屋といった感じだ。
赤十字病院は、研究室といえども二、三の部屋に分かれているので、そこに宿泊することも可能だ。
生活感が出ていても不思議ではない。
大河内も後から入ってきて、部屋の鍵を閉めた。
それを確認して、ジュリアは、ミッフィーの大きなぬいぐるみを胸に抱いた理緒に目をやってから、
棚から取り出した桐の箱にインコを入れた。
大河内は立ったまま、ポケットに手を突っ込んで、神妙な顔つきをしていた。
ジュリアはぬいぐるみを弄りながら嬉しそうな顔をしている理緒に、口を開いた。

「片平さん。何か飲む? コーヒーは大丈夫かしら」
「ごめんなさい、私コーヒー駄目なんです」
「あら、そうなの。じゃあミルクを温めるから少し待っててね」

冷蔵庫から牛乳を取り出してカップに注ぎ、電子レンジに入れるジュリアを見てから、大河内は理緒に目を落とした。

「どうした……理緒ちゃん。君はそんな……何というか、人形のような子ではなかったはずだ」
「どういうことですか?」

きょとんとして聞き返され、大河内は言葉に詰まった。
そして小さく唇をかんで、理緒から目をそらす。

「いや……分からないならいいんだ」
「はぁ、分からないので、じゃあいいんですね?」

機械的に問いかけられ、大河内は悲しそうな顔で頷いた。
それが全く気にならないのか、理緒はジュリアが差し出した温かいミルクのカップを受け取り、口に運んだ。

「ありがとうございます」
「気にしないで。ドクター大河内はブラックでいいわね」
「すまないね」

手馴れた動作でバリスタを操作してカップをセットしてから、ジュリアは理緒の正面に腰を下ろした。

「片平さん。元老院から正式な決定が下されたわ。あなたは、これから特A級スイーパーとして扱われることになったわ」
「はぁ、そうなんですか」

どうでも良さそうに頷いた理緒に、ジュリアは続けた。

「特A級スイーパーは、日本には、あなたを含めて二人しかいないわ。もう一人は言わなくても分かるわね?」
「はい。汀ちゃんですね」
「嬉しくないの? 給与手当ても、待遇面も、今までとは段違いに良くなるわ」
「特には……別にそういう、大人の人の事情って、私、よく分からないもので」

淡々とそう言い、理緒はミルクを口に運んだ。
ジュリアが怪訝そうな顔で大河内を見る。
大河内はしばらく押し黙った後、ジュリアの隣に腰を下ろした。

「理緒ちゃん。だいぶ紹介が遅れたが、こちらは、ジュリア・エドシニア教授だ。今回は君達を助けるために、アメリカから派遣されてきた。私達と、昔仕事をしたことがある、元マインドスイーパーの一人だよ」
「とはいっても、私が出来ることなんて、普通のダイブだけだったんだけれどもね」

微笑んだジュリアに、ミッフィーの人形を抱きながら理緒は笑い返した。

「わざわざ私なんかを助けに来てくれて、ありがとうございます」
「よく聞いてくれ」

大河内は含みをこめてそう言うと、きょとんとした理緒を真正面から見た。

「君を助けるために、三人のマインドスイーパーが死亡した。高畑はまだ目を覚まさない。そのことについて、君はどう思う?」
「そうなんですか」

理緒は首を傾げた。

「死んだんですか」
「高畑はまだ死んではいないよ」
「他の三人は、どうして死んだんですか?」
「スカイフィッシュの攻撃を防ぐことが出来なかった。言うなれば、君の盾になったようなものだ」

どこか、大河内の口調に責めるような語気が混じってくる。
理緒は、それに全く動じることもなく、ただ淡々と言葉を口にした。

「はぁ、それはありがとうございます」
「ありがとう……?」

呆然とした大河内に、理緒は頷いた。

「いえ、私なんかのために命を落としてくれて、勿体無いなぁと。それだけです」
「悲しいとか、苦しいとか、心に来るものは何かないのかい?」
「うーん……」

理緒は、意味が分からないという顔をしてから、息をついた。

「特には……」

逆に困ったような顔をされ、大河内は深くため息をついた。

「ドクター大河内。その話題はやめましょう。この原因は、私達です」
「ジュリアさん、しかし……」
「この子を責めても何も変わりません。お気持ちは分かりますが……」
「責めているわけではない。責めるのなら、何も出来なかった私自身をだ」

大河内はもう一つため息をつき、バリスタの方に歩いていったジュリアを目で追った。

「ドクター大河内のサポートは完璧でした。目的も達成しました。確かに犠牲はありましたが、私達はそれを覚悟してこのミッションに臨みました。結果は上々です」
「上々……」

ジュリアからコーヒーを受け取り、しかしそれに口をつけずに、大河内は声を荒げた。

「人が死んでいるのに、上々はないんではないですか?」
「上々です。それ以外の言葉は、見つかりません」

大河内の言葉を打ち消し、ジュリアはため息をついた。
その悲しそうな顔を見て、大河内が言葉を飲み込む。

「惜しむらくは、ドクター高畑がタイムアップにより、テロリストの排除に失敗したことです。これから、テロリスト達は、より慎重な行動をしてくることでしょう」
「テロリスト……」

そこで、大河内はハッとして理緒を見た。

「理緒ちゃん、まさかとは思うが……君は、あのテロリストと知り合いなのか?」

問いかけられ、理緒は特に隠す気配もなく、元気に頷いてみせた。

「はい」

「何だって……?」

大河内の顔が青くなる。
ジュリアも息を呑んで、そして声を低くして理緒に聞いた。

「どこで会ったの?」
「少し前に赤十字病院で会いました。工藤一貴さんというらしいです。あの人、テロリストなんですね」
「工藤……一貴……」

そこまで言って、大河内は、自分が理緒に対して何も説明していなかったことに気がついた。
言葉に詰まった彼を横目に、ジュリアが言葉を引き継いだ。

「彼の型番はX、十番目のナンバーズよ」
「ナンバーズ?」
「少し前に、特A級からS級のマインドスイーパーには、ナンバーがつけられることになったの。ちなみに、あなたはナンバー14に当たるわ」
「そうなんですか」

特に感慨はわかなそうに理緒は言うと、大きくあくびをしてカップをテーブルに置いた。

「赤十字病院まで潜入してたのか……」
「監視映像を当たらせるわ。理緒ちゃん、いつ頃?」
「二ヶ月くらい前です」

「警備を強化させてくれ。今の奴らの狙いは理緒ちゃんだ」
「私、狙われてるんですか?」

首を傾げて、理緒は面白そうにフフフと笑った。

「何だか鬼ごっこみたいですね」
「理緒ちゃん、冗談を言っているんじゃ……」
「……そうよ、鬼ごっこ。命をかけて、あなたは鬼ごっこをしなきゃいけないの」

しかしジュリアが大河内の声を打ち消した。
彼女はやるせない表情で理緒を見て、悲しそうに呟いた。

「ごめんなさい……あなたを巻き込んでしまったのは、私達の落ち度だわ」
「どうして……謝るんですか?」
「分からなくてもいい。いいの……でも、謝らせて……」
「はぁ、そういうことなら……」

理緒は釈然としなさそうに頷いてから、小さく呟いた。

「汀ちゃんと遊びたいな……」

それを聞いて、大河内は一瞬押し黙った後、口を開いた。

「すぐに遊べるさ。君の力を使えば」

「本当ですか?」
「ああ。君が心の中に持っている、汀ちゃんの精神中核を、無事に彼女の中に戻せば、汀ちゃんは目を覚ます」
「それなら簡単ですね」

頷いて、理緒は微笑んだ。

「精神中核がない人間の心の中って、赤ちゃんと同じですもの」
「その通りだよ。汀ちゃんのダイブには、君一人で入ってもらいたい。私達は、外部からのハッキングを防ぐことに全力を尽くす」
「分かりました」

理緒は点滴台を適当に弄りながら、どこか焦点が合わない目で大河内を見た。

「で、いつダイブするんですか?」



もう既に準備がなされていたようで、理緒による汀へのダイブは、それから二時間後のことだった。
汀の横には、丸くなって眠っている小白がいる。
その頭を撫で、理緒は汀の手を握った。

「汀ちゃん……」

そう呟いて、彼女は口の端を吊り上げて、形容しがたい、人形のような冷たい笑みを発した。

「おそろいだね、私達」

その冷たい、感情が麻痺したかのような顔を見て、大河内が息を呑む。
ジュリアと他のマインドスイーパー達が、計器を操作しながら目配せをした。
そして彼女は口を開いた。

「片平さん、いい? 汀さんの精神中核を元に戻すだけの簡単な作業よ。精神中核を触れるあなたなら、一瞬で終わるはず。時間は三分間に設定させてもらうわ」
「いいですよ。それで」

理緒とは思えないほど、単純に、即決に彼女は言うと、自分でヘッドセットを被った。

「いいか、理緒ちゃん。精神中核を戻した途端に、精神世界が構築されて、汀ちゃんのスカイフィッシュが現れるかもしれない。そのときは、上手くフォローして逃げてくれ」
「はい」

頷いて、理緒はニッコリと笑った。

「まぁ、死んだらその時はその時でお願いします」



理緒は目を開いた。
そこは、いつかダイブした赤ん坊の意識にそっくりな空間だった。
白い珊瑚礁の砂浜に、真っ青な海、エメラルドブルーの空が広がる空間だった。
それ以外何もない。
波打つ水の音が周囲を包んでいた。
理緒は周りを見回した。
少し離れた場所に、びっくりドンキーのテーブルが、砂浜にポツリと置いてあった。

「ダイブ完了しました。精神中核を入れる箱を見つけました」

理緒の足元に、小白が擦り寄ってニャーと鳴く。

「小白ちゃんも見つけました」

そう言った理緒は、ヘッドセットからノイズ音しか返ってこないのに疑問を感じ、何度かスイッチを操作した。
しかし、ヘッドセットから反応がない。
壊れた……ということは考えられない。
これはイメージで作られた特殊な器具だ。

現実のものではない。
外的衝撃が加わったわけでもないのに、故障ということはありえないのだ。
考えられる原因は三つ。
外部からのハッキングか。
オペレーションを行う側に何らかの不具合が生じたか。
そして最後に、『時間軸の不一致』か。
理緒は、ぼんやりとそんなことを考えながら、小白を抱き上げて胸に抱えた。
通信が使えなくなって、普通だったら取り乱して泣き叫ぶところを、理緒はいつもの彼女とは百八十度違い、冷静極まりない頭で整理していた。
先ず一つ。
外部からのハッキング。
その兆候はない。
次に二つ目。
これは、ダイブしている側の自分にはどうすることもできない。
ダイブ時間内に、回復してくれることを祈るばかりだ。
そして問題の三つ目。
おぼろげに、昔医師に聞いたことのある事を思い出す。

「時間軸の不一致かぁ……」

口に出して呟く。
夢を見ていて、たった五分寝ただけなのに、何時間も経っていると感じたことはないだろうか。
その現象だ。
つまり、精神世界内の時間軸が安定せず、現実世界の一分が何十時間になったりもすることがある。
あくまで体感的なものであり、そんな患者は極めて稀だったのだが、理緒は随分前に、時間軸が現実と精神で合致していない赤ん坊の治療を行ったことがあった。
そのときも、このように通信が使えなくなった。
その時の症例に、よく似ている。
理緒はしゃがみこみ、足元の砂を手に取った。
そして、ゆっくりと下に落とす。
砂は、落ちなかった。
ある程度の塊になって、空中に留まっている。
いや、見えるか、見えないかの速度でものすごくスローモーションに落ちている。
海の波はきちんと動いて時間を刻んでいるため、不思議な光景だ。
理緒は、小さくクスリと笑うと、あたりに砂を撒き散らした。
まるで星空のように、彼女を取り囲んで白い珊瑚礁砂が空中に静止する。
小白がニャーと鳴いて、砂を手でカリカリと掻いた。

「こんなところにずっといたんだ。何年じっとしてたの?」

砂の落ち方から見ると、推定一分あたりが百倍ほどの長さに延長されているようだ。
どことなく老猫のようになっている小白に、理緒は穏やかな顔で聞いた。
言葉が分かるのか、小白はニャーと鳴いて目を伏せた。

「そっか。早く起こしてあげなきゃね」

病院服のポケットから、黄色に輝く汀の精神中核を取り出し、理緒はニッコリと笑った。
そう言って理緒は、びっくりドンキーのソファーに腰を下ろした。
そしてメニューを広げる。
そこには何も書いていなかった。
精神中核をつまんで、メニューの中にポトリと落とす。
中核はドロリと溶けると、たちまち白いメニューの中に広がった。
それが写真や文字を形作り、たちまち食事メニューを形成する。

瞬きをした次の瞬間だった。
そこは、びっくりドンキーの店内だった。
いつも汀達が座っている席だ。
目の前には、山盛りのメリーゴーランドのパフェ。
理緒の目の前には、汀がぼんやりと、定まらない視線で腰を下ろしていた。
小白がニャーと鳴いて、汀に駆け寄る。
理緒は嬉しそうに笑って、スプーンを手にとって、パフェを口に運んだ。

「おはよ、汀ちゃん」

呼びかけられ、汀は目を開き理緒を見た。
そして、信じられないといった顔で、自分の顔や胸を触る。
全くの健康体。いつもの病院服だ。

「理緒ちゃん……?」

怪訝そうにそう聞いて、汀は珍しくどもりながら言った。

「わ……私、私……確かに撃ち殺されて……」
「汀ちゃんは死んでなんていないよ。一時的に仮死状態になっただけ。何も問題はないの」
「理緒ちゃん……?」

いつもの喋り方と違い、淡々と口を開く理緒に、不思議な目を理緒は向けた。

「……誰?」

しばらく考えて、汀はソファーから腰を浮かせて、身構えた。
理緒はきょとんとしてから、左腕に巻いた包帯を見た。

「ああ、これ?」

あっけらかんとそう言って、理緒は包帯を解いた。
凄まじい量の切り傷が、痛々しい様相を呈していた。
まだ血がにじんでいる縫い傷もある。
呆気に取られた汀を尻目に、ケラケラと笑いながら、理緒は言った。

「私、自殺病にかかっちゃって。スカイフィッシュ症候群っていうのかな? それでね、治してもらったんだけど、どこか頭のネジが抜けちゃったみたいで、みんな変な顔するの」
「スカイフィッシュ症候群……? 嘘……!」

立ち上がった汀を淡々とした目で見て、理緒は続けた。

「嘘じゃないよ。何だかね、起きてからずっと、頭の奥のほうに、何かがつっかえてる気がするんだけど、何だか分からないの。私、おかしい?」
「心神喪失……圭介に何をされたの!」
「スカイフィッシュを、私の手で殺したんだよ」

理緒の言葉に、汀は絶句して手で口を抑えた。

「そんな……嘘……そんな、酷い……酷すぎる……」
「一貴さんもそう言ってたけど、私は普通だよ? でも、私を助けるために三人もマインドスイーパーが死んじゃったんだって。ね、汀ちゃん。お金とか請求されるのかな?」
「理緒ちゃん……理緒ちゃん」

言葉に詰まり、汀はよろよろと理緒に近づくと、その体をぎゅ、と抱きしめた。

「汀ちゃん……?」
「理緒ちゃん!」

汀は強く唇を噛んだ後、両目から涙を流した。

「ごめん……ごめんなさい……私、私、たった一人の友達なのに……友達なのに……!」
「友達だよ? 私達はずっと、友達じゃない?」
「私、理緒ちゃんに何もしてあげられない……もう理緒ちゃん、元に戻れない……私のせいだ……元老院が、私のせいでそんなことさせたんだ……!」
「何泣いてるの? 汀ちゃん、ちょっとおかしいよ?」
「うう……ぐっ……」

何度かしゃっくりを上げて、汀は理緒に背中を撫でられながら息を整えた。
そして、ニッコリと笑っている理緒と顔をつき合わせる。

「大丈夫。汀ちゃんは私が守るよ。だって、私達、友達じゃない」

それを聞いて、汀はサッと顔を青くして周囲を見回した。
いつの間にか、ガヤガヤとしていた周囲の声がピタリと止まっていた。
行きかっていた人々の動きも停止している。
まるでDVDを一時停止させたかのような感覚だ。

「え……」
「まだ時間軸が元にもどらない……汀ちゃん、私に任せてね?」

可愛らしく首を傾げて笑う理緒の背後にいた人間の体が、風船のようにボコリと膨らんだ。

「いや……いや……」

耳を押さえて首を振った汀の前で、次々と人々の体が膨らんでいく。
服が弾け、肉が飛び散り、血液が吹き荒れ、まるで脱皮するかのように、人間の皮の中から、ズルリと奇妙なモノが這い出してきた。
まるで玉のような胴体に、ムカデを連想とさせる足が沢山ついている。

胴体から伸びる体には幾十もの腕。
腕にはそれぞれナタが掴まれている。
ドクロのマスク。

「スカイフィッシュのオートマトンだ……」

震えながら汀はそう呟いた。
五十は下らないだろうか。
血の海と化したびっくりドンキーの店内に、その奇妙な生物がカサカサと動き出す。

「オートマトン……?」

聞き返した理緒に、汀は過呼吸になりかけながら答えた。

「理緒ちゃんだけでも逃げて……分裂型スカイフィッシュは、自分のダミーを無限に作り出せるの……」
「逃げる? どうして?」

全く恐怖を感じていないのか、理緒はニコニコしながら前に進み出た。

「汀ちゃん、私のこと嫌い?」
「理緒ちゃん! 遊びじゃないの! 死んじゃうよ!」
「答えて」

理緒はそう言って、手にコップを持った。

それがぐんにゃりと形を変え、出刃包丁に変わる。

「変質……」

呆然と呟いた汀に、理緒はもう一度問いかけた。

「汀ちゃんは、私のこと嫌い?」
「違うよ……私、私……理緒ちゃんのこと、大好きだよ……」
「私もだよ」

満足そうに頷いて、理緒は悠々とオートマトンに対して足を進めた。
一瞬後、理緒の体が掻き消えるようにして視界からなくなった。
オートマトンの首が飛んだ。
理緒が、知覚することも出来ないほどの動きで、地面を蹴り、自分の身長ほども飛び上がったのだった。
ゴロンゴロンとオートマトンの首が転がる。
それは汀の前まで転がっていくと、ケタケタと哂って、爆散した。
血まみれになりながら硬直した汀の目に、あろうことか、天井に『着地』した理緒の姿が映る。
理緒は重力を完全に無視した動きで天井を蹴ると、落下ざまに、近くにいたオートマトン、三体の首を、回転しながら抉り斬った。
そこには、怖い怖いと震えていた少女の姿はもうなかった。

あったのは、ただ機械的に敵を駆逐する。
それだけの、プログラムのような存在。
またオートマトンの首が転がる。
汀でさえも知覚出来ないほどの動きで、理緒はオートマトンの首を切り落としていく。
敵は、全く反応できていなかった。

「やめて……」

しかし、汀は小さく、震える声でそう言った。
目を見開き、ニコニコと笑った理緒が、壁に『着地』する。
その鼻から、タラリと鼻血が垂れた。

「理緒ちゃん死んじゃう! やめてえええ!」

オートマトンの一体が、腹部まで両断されて地面に転がる。
そこで、ザザッ、という音がして理緒の耳についているヘッドセットの通信が回復した。

『片平さん! 状況を説明して!』

踊るようにオートマトンの首を切りながら、理緒は息を切らすこともなく言った。

「分裂型スカイフィッシュとかいうのに囲まれてます。沢山殺しましたけど、キリがありません」
『殺した……? あなたが……?』

絶句したジュリアの声に、理緒はあっけらかんと笑った。

「あはは! 面白いですね! 夢の中って、こうやって動くものだったんだ!」
「理緒ちゃん駄目! 脳を過剰に動かすと、本当に死んじゃう!」

両方の鼻の穴から血液を垂れ流している理緒に、泣きながら汀が叫ぶ。
それを聞いて、ヘッドセットの向こうで大河内が大声を上げた。

『理緒ちゃん、脱出するんだ。ダイブの時間はあと二分だ。分裂型スカイフィッシュは、本体を倒さないと何の意味もない』
「でも、でも先生! 面白い!」

正気を失ったように笑いながら、理緒はオートマトンの頭に包丁を突き立てた。

「人を殺すのって、凄く面白い!」
『理緒ちゃん、脱出しろ!』

大河内が怒鳴る。
しかしそれに構わず、理緒は暴れ続けた。

『強制的に切断しますか?』

ジュリアの声に、大河内が息を切らせながら答える。

『駄目です! 汀ちゃんの精神が安定していません。今切断は出来ません!』

汀は、ガチガチと歯を鳴らしながら、飛び散った血液でぬるりとぬめるテーブルに手をついて、腰を抜かしたまま、何とか立ち上がった。
そして、よろよろと理緒に向かって歩き出す。
理緒が、地面を滑りながら汀の脇に移動した。

「待っててね汀ちゃん! すぐに皆殺しに……」
「理緒ちゃん」

汀は、そっと理緒の肩に手を回し、抱き寄せた。

「そんなに……無理しなくてもいいんだよ」

耳元で、そっと囁く。
理緒は少しの間きょとんとしていたが、目を手でごしごしとこすった。

「あれ……? 血が目に入ったかな……」

理緒は泣いていた。
自分でも何故か分からないのだろう。
混乱しながら、理緒は目を拭う。

「あれ……? あれ……?」
「帰ろ。もう、帰ろ?」

汀にそう言われ、理緒は深く息をついて、自分達を遠巻きにしているオートマトンを、名残惜しそうに見回した。

そして包丁を脇に投げ捨てる。

「分かったよ。汀ちゃんがそう言うんなら」
「小白。帰るよ」

汀がそう言って、小白を床に放る。
ポン、という音がして、巨大な化け猫に変わった小白の背に乗り、二人の少女は、手を絡ませあった。

「汀ちゃん……どうして泣いてるの?」

泣笑いながら理緒がそう聞く。
血まみれの顔でそう聞く。
汀はしゃっくりをあげながら、自分の顔を両手で覆った。
小白がオートマトンを薙ぎ倒しながらびっくりドンキーの出口に向かって走り出す。
そして、扉に向かって体当たりをした。
そこで、彼女達の意識はブラックアウトした。



「どういうことなの、せんせ……?」

汀はかすれた声で、ベッドに横になりながら大河内に向かって言った。

「汀さん、それは……」
「あなたとは話してない……」

ジュリアの声を打ち消し、汀は俯いたままの大河内に問いかけた。

「嘘だよね……? せんせが、そんな酷いことさせるわけないよね? 理緒ちゃんを、壊すわけないよね?」

すがるようにそう言われ、しかし大河内は答えずに、汀の隣に腰を下ろした。

「理緒ちゃんには少し眠ってもらった。理性的な話が出来るような状態ではないからね……」
「せんせ!」

悲鳴を上げた汀に、大河内はつらそうな顔で答えた。

「全て、ジュリアさんが説明したとおりだよ、汀ちゃん。君を助けるために、私達は、片平理緒ちゃんの精神を壊した」

それを聞いて、汀は唖然として言葉を飲み込んだ。
しばらく葛藤してから、彼女は大河内を涙目で睨んだ。

「……人でなし……!」

押し殺した声は、大河内の心を直撃したらしかった。
言葉を発しようとして失敗した彼の肩を叩き、ジュリアが首を振る。
そして彼女は口を開いた。

「私達を、どんなに非難してくれても構わないわ。それだけのことをしたのですもの。でも、現にあなたも、片平さんも無事に生きています。その事実を、厳粛に受け止めてください」
「…………」

言い返す気力がないのか、汀は俯いて唇を噛んだ。
しばらくして、彼女はぼんやりと呟いた。

「……圭介は?」
「片平さんを助けるために、スカイフィッシュと戦って、シナプスの臨界点を超えたために、意識不明の重態よ。深追いしたのが悪かったの……」
「殺してやる……」

汀が、小さく呟いた。
その不穏な言葉に、ジュリアと大河内が息を呑む。

「工藤一貴……あの男、殺してやる……」

ギリ、と歯が鳴るほど噛み締め、汀は動く右手を力いっぱい握り締めた。
彼女の脇で眠っていた小白が起き上がり、怪訝そうにその顔を見上げたほどだった。

「汀ちゃん……滅多なことを言うものではない。それに、ナンバーXは特異なタイプだ。君では殺せない」

大河内が息を吐いてから言った。
汀は口の端を歪め、そして続けた。

「出来るよ。私もスカイフィッシュになればいいんだ」
「汀さん、それはいけない!」

ジュリアが青くなって叫んだ。
そして汀の肩を掴んで、強く引いた。
悲鳴を上げて硬直した汀に、ジュリアは押し殺した声で言った。

「あなたを助けるために、沢山の人が死にました。沢山の犠牲を払っています。それで、あなたがスカイフィッシュ変異体になったら、元も子もない。医者としての私達と、あなた自身を愚弄する気ですか!」
「離してよ……」

「いいえ離しません。あなたは人を殺すために、マインドスイーパーになったんですか? 違うでしょう! 人を助けるためにマインドスイーパーになったんでしょう!」

耳元で怒鳴られ、汀はハッとしてジュリアを見た。

「人を……助ける……」
「ええ……ええ! そう。あなたは人を助けるために、マインドスイーパーになった。違う?」
「どうしてそれを知ってるの?」

問いかけられ、ジュリアは一瞬置いて汀から目をそらし肩から手を離した。
そこで大河内が、汀の隣に移動してジュリアを見た。

「私も聞きたいな。高畑が元特A級のマインドスイーパーだったことは、私達と元老院しか知らない極秘事項だったはずだ。どうしてあなたがそれを知っていた?」
「それは……」
「昔一緒にダイブしたことがあると仰っていたな。いつ、どのような案件か聞いてもいいだろうか?」
「…………」
「黙秘するのか?」

いつになく厳しい口調で問い詰める大河内を見上げ、そこから目をそらして汀は歯を噛んだ。

「あなた……誰なの?」
「私は……」

ジュリアはしばらく考えてから答えた。

「……私は、『機関』から派遣されてきました。ナンバーズの回収を目的としています」
「機関……だって?」

大河内が唖然として色を失う。
ジュリアは表情を変えず、大河内を見た。

「知っているのですか? ドクター大河内」
「…………」
「今度はあなたが黙秘ですか……まぁいいでしょう。私の受けている任務は二つ。ナンバーズの保護、そして敵対するナンバーズの排除です。そのための手段は問いません」
「言うことを聞かないマインドスイーパーは殺してこいってこと?」

汀が小さな声でそう聞く。
ジュリアは寂しそうに微笑んで、答えた。

「ええ。今回は『失敗』しました。しかし、片平理緒さんを特A級スイーパーに認定し、ナンバーズに迎え入れることに成功しました。機関は、その功績に大きく喜んでいます」

「機関って何? 私達をどうするつもりなの?」

汀がそう問い詰める。
しかしジュリアは椅子を立ち上がると、出口に向かって歩き出した。

「逃げるの?」

挑発的に言葉を投げつけられ、彼女は足を止めた。
そして振り返らずに言う。

「……今はゆっくり休んでください。お話は、後ほどゆっくりとさせてもらいます」

部屋を出て行くジュリアを見送ることしか出来ず、汀はまた歯噛みした。
それを見て、大河内が口を開きかけ、しかし言葉を出すことに失敗してまた口を閉じる。
彼は息をついて、髪をガシガシと、困ったように掻いた。
そして汀に言う。

「機関というのは、赤十字病院を統括している、元老院と対を成す組織だよ。世界中の病院は、機関と元老院が統括してる。機関は研究側、元老院は実習側だ。言うなれば、機関は病院側のラボだよ」
「人体実験を行ってるの?」

汀にそう問いかけられ、大河内は口をつぐんだ。

「せんせ、どうして私に隠し事をするの? 私のこと、嫌いになっちゃったの?」

すがるように汀に言われ、しかし大河内は答えなかった。
汀の目に涙が盛り上がる。
大河内は唇を噛んでから、小さな声で言った。

「汀ちゃんのことが嫌いになったんじゃない。ただ、世の中には、子供は知らない方がいいこともあるんだ」
「私はもう子供じゃない!」

ヒステリーを起こしたように甲高い声で怒鳴った汀を見て、大河内は首を振った。

「……すまない。君はもう、十分に大人だったな。でも、知らない方が幸せなことは、世の中に沢山あるんだ。汀ちゃんには幸せになって欲しい。だから、知らないでいて欲しいんだ」

「せんせのお話が難しくてよく分からないよ……」
「それでいい。だから、汀ちゃんは、そのままでいてくれ。殺したいなんて、悲しいことを言わないで、ナンバーXも助けてあげることが出来る人になるんだ」
「あの人を……助ける?」
「患者を助けるのが、医者の役割だろう?」

問いかけられ、汀は唇を噛んだ。

「そんな風に……割り切れないよ……」

彼女の呟きは、空調の音にまぎれて消えた。



凄まじい音を立てながら、一貴が、岬の持っている洗面器に胃の中のものをぶちまけた。
赤黒く、血が混じっている。

「いっくん……いっくん!」

青くなって岬が一貴の名前を呼ぶ。
その様子を見ながら、結城が息をついた。

「先生、いっくんが……いっくんがまた血を……」
「分かってる。見れば分かることをキャンキャン喚かないでよ、うっとおしい」

髪の毛を後ろでまとめ、結城は一貴の背中をさすった。

「おい、お前また言うことを聞かずにダイブしたな。隠し事が出来ない体なんだよ、お前は」

一貴は答えようとしたが、またくぐもった声を上げて吐血した。
深くため息をついて、結城はポケットから出した注射器の中の金色の薬を、一貴の右上腕に刺して押し込んだ。

「少し我慢しろ。すぐ良くなる」

彼女が言った通り、一貴の真っ青な顔に、しばらくして血色が戻り、彼は体を弛緩させてベッドに倒れこんだ。

「いっくん!」

岬が、慌てて洗面器を台に置いて、彼を抱きとめる。

「いちゃつくなら別のとこでしてくれないか?」

かったるそうに呟いた結城を睨んで、岬は言った。

「いっくんがこんな調子だって言うのに……どうしてそんなに冷静なんですか!」
「自業自得だろ。こいつは、自分で望んで自分の命を縮めてるんだ。あたしの知ったこっちゃないね」
「先生!」
「うるさいな……また一貴がどうかしたの?」

そこで、別の少年の声がした。
岬が青くなり、一貴を守るように、彼に覆いかぶさった。

「た……たーくん……」

カチュン、カチュン、と金属の音を立てながら、中肉中背の、白髪で猫背な男の子が部屋に入ってきた。
目にはくっきりとクマが浮いている。

「起きたのか、忠信(ただのぶ)」

呼ばれて、忠信と言われた少年は、突っ伏している一貴と岬を見てから、手に持っていた、刃渡り十五センチほどのバタフライナイフを、器用に指先でくるくると回し、曲芸師のように空中に放り投げ、見もせずに折りたたんで手に掴んだ。
忠信は、岬を見てから呆れたように言った。

「みっちゃん、まだ俺のこと警戒してるの?」
「仕方ないだろう。とりあえずナイフを仕舞え」

結城にそう言われ、忠信は腕を振り、一瞬でバタフライナイフの刃を出すと、結城の眼前にそれを突きつけた。

「……俺に指図すんじゃねぇよ」
「いいや指図するね。お前らが生きていられるのはあたしのおかげだ。自覚しろ、クソガキ」
「言ってくれるじゃねぇか、クソババァ」

睨み合う二人を横目に、岬は強く一貴を抱き寄せた。
そして、視線が定まらない彼の耳元でそっと囁く。

「大丈夫。あたしが守るから……大丈夫」

忠信は岬を見てから、ナイフを一閃して結城の白衣の胸を切り裂いた。
力加減をしたのか、服がめくれ、彼女の下着が露になる。

「それとも、あんたが俺の相手をしてくれるってわけ?」
「いい加減にしろよ……」

結城が歯を噛む。
彼女をおちょくるようにナイフをひらひらと振ってから、彼は音を立てて刃を回転させ、それを仕舞った。
そしてカチョカチョと揺らしながら、岬を見る。

「何、その目」
「た、たーくん……危ないよ……?」
「いいねその目。抉り取りたいくらいだ」

そう言って無邪気に笑い、彼は結城に言った。

「で、一貴はまた失敗したの?」
「見ての通りだ」

ぶっきらぼうに結城がそう返す。
忠信はニヤリと裂けそうなほど口を開いて笑った。

「分かった。じゃあ次は俺が行くよ」
「何?」

岬も驚いたように顔を上げる。

「いい加減、おイタが過ぎるんじゃないかな、なぎさちゃん。俺がきっかり殺してくる」
「駄目だよたーくん! なぎさちゃんは、あたし達の大切な……」
「大切な……何?」

無機質な表情で、忠信はバタフライナイフを回転させ、岬の頭に当てた。
岬が震えながら一貴に抱きついて目を閉じる。
忠信はニヤニヤと笑いながら、岬の背中をナイフの刃でなぞりつつ、言った。

「……ああ、そう。大切な友達だからね」

彼のどこか狂ったような言葉は、しばらくの間空中を漂っていた。



第15話に続く



お疲れ様でした。
次話は明日、5/17に投稿予定です。

また、カクヨムに新作サイコホラー小説を毎日連載中です。
併せてお楽しみ下さい。

m(_ _)m

乙です。

理緒ちゃん…すっかり立派なマインドスイーパーになって(白眼)

最後はみんな幸せになるんだよな
なると言ってくれ

皆様こんにちは。
第15話、第16話の投稿をさせていただきます。

>>805
人格の半分を壊されてしまった理緒は、感情を欠落してしまいました。
永遠にロストしてしまったそれに、彼女はもう気づくこともできません。
悲しいことに、理緒の主人格はこの時点で殺されてしまったことになります……。

>>807
24話完結で、最後まで終わらせることには成功しております。
ぜひ最後の投稿までお付き合いくださいm(_ _)m



第15話 あなたを治療する



「B級とA級のマインドスイーパー達がダイブできない状況が続いているわ。あなたたちに『治療』をお願いしたいの」

会議室に集められた少女達がジュリアを見ていた。
理緒は、大事そうに汀の車椅子を持っている。
汀は、どこか暗い瞳でジュリアを睨んでいた。
その膝には小白が丸まって眠っている。
最近、とみに眠っていることが多くなった。
まだ子猫だというのに、あまり活発な動きをすることがない。
大河内は、汀の精神世界の中で長時間過ごしすぎたためだと言っていたが、それも汀の心を暗くしている一つの要因だった。

「何よ……完全なテロ行為じゃない。医療行為の妨害なんて、信じられない……」

その隣の椅子に腰掛けた、ソフィーが口を開いた。
彼女は、左肩から下をギプスで固定して、三角巾で首から吊っている。
汀の精神世界でスカイフィッシュに斬られてから、彼女の左腕は機能しなくなっていた。

「フランスの赤十字は何て言ってるの?」

ソフィーがジュリアにそう問いかけると、彼女は頷いて資料をめくった。

「今は、ソフィーさんの身柄の安全を確保することを最優先に、ということよ。だから、危険なダイブは当然あなたには避けてもらうわ」
「相手は、日本の赤十字のセキュリティを潜り抜けて、精神遠隔操作までしてきて、強制的にダイブしてくるのでしょう? ネットワークを通じてマインドスイープする機構がある以上、その脅威はどんな状態でも避けることは出来ないわ。今、狙われているこの二人をマインドスイープさせることが一番危険だと、私は思うのだけれど」

ソフィーに指差され、汀が眉をひそめる。
ジュリアが少し考えて答えた。

「そうね……でも、こうしている間にも、一般外来の自殺病患者の死亡数は増えていくばかりだわ。一定以上の成果が期待できるマインドスイープを行えるスイーパーは、あなた達しか、現状残っていないの」
「フランス赤十字から、増援の派遣は?」

「世界中に要請しているわ。警察も本格的に動いてる。ここ数日の辛抱だと思うけれど、私達が医者である以上、目の前で苦しんでいる人を助けなければいけない使命は変わらないと思うの。だから、あなた達の意思に任せることにしたわ」

ジュリアがそう言うと、ソフィーは鼻を鳴らして馬鹿にしたように笑った。

「ていのいい言葉ね。結局はダイブを強制したいんじゃない」
「そう受け取るならそれでもいいわ。汀さん、片平さんはどうかしら?」

汀はしばらくジュリアを睨んでいたが、息をついて答えた。

「……私は人を助ける。重篤な患者からダイブしていくわ」
「汀ちゃんが行くなら、私も行く」

理緒が微笑みながら頷く。
ジュリアがそれを聞いて、安心したように息をついた。
しかし汀は、低い声で続けた。

「人体実験をしたいなら、いくらでもすればいい。あなた達の思惑には乗らない」
「……どういうことかしら?」
「とぼけるつもり?」

ジュリアと汀が数秒間睨み合う。

そこで部屋の扉を開けて、大河内が入ってきた。

「重度の患者が、また死亡した。今日助けられる見込みがあるのは、あと三人だ。早くしてくれ」
「二人とも、行きましょう。私達しかダイブできないなら、どの道ダイブしなければ患者は死ぬわ。たとえ中が『戦場』になったとしても、仕方がないことだと思う」

ソフィーがそう言う。
汀はしばらく考えて

「……そうね」

と呟き、表情を暗くした。



「僕らの記憶を共有しよう」

いっくんがそう言った。
私達は、手を繋いで円を作り、その花畑の中に立っていた。
四葉のクローバーが無限に広がるその空間に。

「共有……ってどういうこと?」

みっちゃんが首を傾げる。
いっくんは笑い、そして続けた。

「この先、何かがあって、僕らの中の何かがどう狂うか分からない。だから、僕らは、今のままの僕らでいられるように、忘れない一つの記憶を共有するんだ。そうすれば、離れ離れになっても、また会ったときに思い出せる。お互いのことを」

たーくんが苦笑しながらそれに続けた。

「一貴と話したんだけどさ、俺たちはいつ離れ離れになるか、いつここに集まることが出来なくなるか、分かんないらしいんだ。特に、なぎさちゃんなんてそうだろ?」

問いかけられ、私は頷いた。

「うん……」

みんなと会えなくなる。
この世界が、現実ではなくなる?
そう考えるだけで、私の胸は張り裂けそうだった。
だから、私は乗った。
彼の、悪魔の提案に。
分かってはいた。
分かってはいたはずなのに。
私は、孤独でいるよりも、その「恐怖」を共有する道を選んだ。
みんなを忘れないように。
いつか、きっとまた。
ここで、みんなと遊べますようにと、単純な願いのために。
だから、私は。
笑って、いっくんの手を握った。

「いいよ。同じ夢を見よう」
「私も。いっくん達と同じ夢を見れるなら、悪夢でも構わない」
「俺も、それでいいよ」

みっちゃんとたーくんがそう言う。
いっくんは頷いて、そして目を閉じてから言った。

「僕は今から、みんなの心の中に僕の記憶……僕の悪夢の元を埋め込む。最初はそれに苦しむだろうけど、身を任せるんだ。悪夢に逆らおうと考えずに、悪夢になるんだ。このように」

いっくんの体がざわつく。

髪がひとりでに風になびいたように逆立ち、服が体に巻きついて形を変える。
髪の毛はドクロのマスクに。
病院服は薄汚れたジーンズとシャツに。
思わず後ずさった私達を見回して、いっくんは息をついた。

「そう怯えなくてもいいよ。すぐに見慣れる」

瞬きする間に、いっくんの姿は元に戻っていた。
彼は、私達の手を握りなおすと言った。

「さぁ、僕と同じところに、みんなも早く来るんだ。待ってるから。ずっと」



「高畑汀!」

フルネームで名前を叫ばれ、汀はハッとしてその場を飛びのいた。
今まで汀が立っていた場所に、首狩り鎌のような、巨大な、湾曲した鎌が突き刺さった。

「汀ちゃん!」

理緒が大声を上げて、汀を引き寄せて地面を転がる。
鎌がザリザリと音を立てて地面を抉り、脇に大きく振られたのだった。
二人の頭の上を、鋭く尖った鎌が通り過ぎる。

「え……? え!」

汀は動揺しながら周囲を見回した。
今に至るまでの記憶が全くない。
頭に残っているのは、一貴の声。
そして岬、もう一人……忠信の顔だった。

「思い出した……私……?」

そう呟く。

「ドクタージュリア、高畑汀の意識が戻ったわ!」
「汀ちゃん、来るよ!」

頭を振って無理やり現実に照準を合わせる。
いや、「夢の中」に意識を集中させた。
巨大な鯨が浮かんでいる。
一頭、二頭……三頭。
真っ赤に着色された、気味の悪い空に、ひれを動かしながら浮かんでいる。
あたり一面、人間の首が据えられていた。
十字架を象った墓標の前に、人間の頭部が無造作に置かれている。
そのどれもが舌を出し、目を見開き、無残な様相を呈していた。
全て日本人だ。
汀達は墓地の中にいた。
どこまでも、果てしなくその墓地が続いている。
そして目の前には……奇妙なモノがいる。
鯨人間とでも言うのだろうか。
巨大な鎌を持った、頭部だけが鯨の男が、髭歯をむき出しにして笑っている。
上半身は丸出しで、下半身は血まみれのシーツのようなものでくるまれている。
鯨人間は、手近な人間の頭部を掴むと、口の中に入れた。
バリ、ボリ、と良く分からない液体を飛び散らせながらそれを咀嚼する。
汀の肩にくっついていた小白が、シャーッと声を上げた。

「私、意識を失ってたの?」

慌てて立ち上がり、鯨人間から距離を取る。

理緒が頷いて、近くの人間の頭部を蹴り飛ばして、墓石を手に掴んだ。
墓石が形を変え、出刃包丁に変わる。

「三十秒くらいかな。大丈夫。汀ちゃんはじっとしてて。私があれ、ブッ殺してくる!」

そう言って、ソフィーが制止しようとする間もなく、理緒は鯨人間に踊りかかった。

「片平理緒! どうしたの? 様子がおかしいわ!」
『片平さんは人格欠損を起こしているわ。二人とも、彼女が暴走しているようだったら止めて!』

ジュリアの声が耳元のヘッドセットから聞こえる。
丁度そこで、理緒が包丁で鎌を受け止め、横に吹き飛ばされた。
人間の頭部を巻き込んでゴロゴロと転がりながら、理緒が墓石にしたたかに背中を打ち付ける。
しかし理緒は、それに全く構うことなく、地面を蹴ってすぐに鯨人間に肉薄した。
そして自分に鎌が振り下ろされる直前に、鯨人間の首に、包丁を突き立てる。
どう、と音を立てて鯨人間が倒れた。

「きゃははは! あはははははは!」

狂ったように笑いながら、理緒は何度も、何度も、倒れた鯨人間に包丁を振り下ろした。
やがて包丁を突き立てられているモノが痙攣し、動かなくなったところで、やっと汀は理緒に追いつき、血まみれの彼女を引き剥がした。

「理緒ちゃん、もう死んでる! 死んでるよ!」

荒く息をつきながら、理緒は返り血で真っ赤になった顔で汀を見て、ニコリと笑った。

「汀ちゃんもやろうよ。人殺しって楽しいんだよ」
「酷い……赤十字に何をされたの?」

ソフィーが、動かない左腕を庇うようにして走って来て口を開いた。
問いかけられ、汀は目を伏せた。
ソフィーが舌打ちをして、汀の胸倉を、右腕で掴み上げる。

「……何とか言いなさいよ! こんなの片平理緒じゃないわ!」
「汀ちゃんに何してるの?」

そこで、ゾッとするような低い声で、理緒が呟いた。

彼女は焦点の合わない目でソフィーを見ると、立ち上がって包丁をゆらゆらと振った。

「汀ちゃんに何してるの?」

もう一度問いかけられ、ソフィーは汀から手を離して、理緒に言った。

「……あなたはダイブできる状態じゃない。ドクタージュリア。すぐに片平理緒の接続を切ることをオススメするわ」
『そこは異常変質心理壁の中よ。すぐには切れないわ!』
「理緒ちゃん、落ち着いて」

汀は慌てて、ソフィーを守るように立った。
そして理緒の肩を掴んで、力を込める。

「落ち着いて。この子は敵じゃないわ。私を守ってくれたんでしょう? ありがとう。だから、少し落ち着こう、ね?」
「私は落ち着いてるよ」
「落ち着いてないから言ってるの。包丁を手から離して」
「分かった」

ガラン、と音を立てて包丁が手から離れ、地面を転がる。

息をついた汀とソフィーの目に、しかし二人が反応できるよりも早く、鯨人間の持っていた鎌を掴み上げた理緒の姿が映った。
身を守ることも出来ずに、ただ呆然とその鎌が振られるのを見送る。
奇妙な手ごたえと共に、断末魔の声が上がった。
ソフィーの後ろに立っていた、先ほどの鯨人間と全く同じ形のトラウマが、袈裟切りに両断されて地面にドチャリと着地した。
周りを見回した二人の目に、十……二十体近くの鯨人間がこちらに、鎌を持って近づいてくるのが映る。

「トラウマに囲まれてる……」

ソフィーが歯噛みする。
顔についた鯨人間の血を手で拭いながら、汀は理緒の落とした包丁を拾い上げて、腰のバンドに刺した。
そして口を開く。

「理緒ちゃん、無駄に殺してもキリがない。少し待って。ソフィー、中枢への扉を持ってるトラウマを特定できる?」

名前を呼ばれ、ソフィーは頷いた。

「挙動がおかしいトラウマがいる。左後方の、三十メートル先の鯨」

丁度それが、足元の人間の首を口に入れて噛み砕いたところだった。

「おかしいってどこが?」
「他のものは規則的に動いてるのに、あれの動きは不規則だわ」
「聞いた? 理緒ちゃん、殺すならアレにして」
「うん。汀ちゃんがそう言うならそうするよ」

理緒は微笑んで、鎌を構えて、こちらに向かって踊りかかってきた鯨人間達を見回した。

「ま、どの道皆殺しにしそうだけど」

楽しそうにそう、彼女が言った時だった。
凄まじい爆音、そして熱風が彼女達を襲った。
とっさに小白が化け猫の形に膨らみ、汀達を覆い隠す。
蛇のように、飛び掛ってきた炎は周囲を舐めると、瞬く間に墓地を火の海にした。
鯨人間達が苦しそうに咆哮を上げ、火に飲まれていく。

『外部からのハッキングよ! 回線を緊急遮断するわ。遮断まで残り二分!』

ジュリアの声が聞こえる。

「いつもいつも対応が遅い!」

汀が、ところどころ焦げた小白の皮の下から這い出て、怒鳴る。

ソフィーが歯を噛んでから言った。

「それは違うわ、高畑汀。ドクタージュリア達は、私達とテロリストを交戦させたいのよ。そんなことも分からない?」

言われてから、汀は言葉を飲み込んで歯軋りした。

「……どこまでも最低な奴らね……!」
『…………』

ジュリアが押し黙る。
そして、しばらくして彼女は、ノイズ交じりの音声と共に言った。

『ハッキング対象は、一人のようよ。三人で協力して撃退して頂戴。患者の命を第一優先に』
「詭弁を」

ソフィーが鼻で笑う。

「日本赤十字は患者の脳をバトルフィールドに使う集団ね! 医者ってみんなそう!」
「その通りだよお嬢さん。赤十字病院のそれが本来の姿さ」

そこで、落ち着いた声が周囲に響いた。

熱気から汀達を守るようにしていた理緒が立ち上がり、首を傾げる。

「あれ……? 工藤さんじゃない」

彼女の呟きに、マイクの向こう側が緊張するのが分かる。
ソフィーが特定した鯨人間……既に事切れているその死体をズルズルと引きずりながら、背の高い猫背の少年が、墓地の向こうの火を掻き分けて、姿を現した。
ぼさぼさの白髪をしている。
目は鷲のように尖っていて、眼光が異様に鋭い。
口元はだらしなく開いていて、ガムでも噛んでいるのか、クチャクチャと音を立てていた。
右手にはバタフライナイフを持っていて、カチャン、カチャン、と音を立てながら、刃を出したり引っ込めたりを繰り返している。

「やあなぎさちゃん。殺しに来たよ」

どこか狂気を感じさせる、ゆったりとした口調でそう言うと、彼はドサッ、と鯨人間の死体を放り投げた。

「あなたは……忠信君……たーくん……?」

汀が呟く。
忠信と呼ばれた少年が、にっこりと微笑む。
そこで、彼女達の意識はホワイトアウトした。



チク、タク、チク、タク、と鳴る、巨大な古時計が空中に浮かんでいる、四方が白い空間に四人は立っていた。
人一人分くらいの大きな時計だ。
広さは正方形に十メートルほど。
汀は、目が開くと同時に、腰にさしていた理緒が変質させた包丁を抜き放って、振り下ろされたバタフライナイフを受け止めた。
耳鳴りのような音がして、汀と忠信が互いに反対方向の壁に向かって吹き飛ばされる。
汀は、体を反転させて壁に「着地」し、軽く蹴って床に下りた。
忠信は壁を蹴り、何度か床を転がってからゆらりと立ち上がった。
長い髪の奥で、鷲のような目を鈍く光らせながら、彼はバタフライナイフを何度か開閉させた。

「最初は何がいいかな。そうだ、服を剥ごう」

ブツブツと、小さい声で忠信は呟き始めた。

「下着だけにするのがいいな。うん、それでいこう。女が服を着てるのには虫唾が走る」
「たーくん……? たーくんよね? どうしたの? 私……私だよ」

自信がなさそうにそう言って、汀は、口をつぐんだ後、続けた。

「私、なぎさだよ! どうしてあなた達は、私を攻撃してくるの!」

「うん、君がなぎさちゃんだって言うことは知ってる。そんなのは周知の事実だ。俺が今考えているのは、君の服をどう剥ぐかということと」

バタフライナイフを回転させ、指先で回してから、
彼はそれを掴み、刃先を理緒とソフィーに向けた。

「他の二匹をどうしようかなということだ」
「気をつけて、高畑汀。あのテロリスト、精神崩壊を起こしてる挙動があるわ」
「……分かった」

ソフィーが押し殺した声で言う。
汀は頷いて、そして眉をひそめて前に進み出た理緒を見た。

「理緒ちゃん下がって。相手が悪いわ」
「汀ちゃんは前に出ることはないよ。私が全部やるから」
「相手が悪いわ。おそらくS級のスイーパーよ」

理緒が服を破り取る。その一片が形を変え、出刃包丁に変質した。

『……二人とも、片平さんを止めて!』

マイクの向こうでジュリアが声を荒げる。

しかし制止を聞かずに、理緒は駆け出すと、無造作に忠信に肉薄した。
そして包丁を突き出し……体をひねって避けた忠信に、躊躇なく胸にバタフライナイフを叩き込まれた。

「か……」

目を見開いて体を硬直させた理緒を面白そうに見て、口の端をゆがめた忠信は、二度、三度と彼女の胸にナイフを突き刺した。
そのたびに理緒の体が痙攣する。
ゴボッ、と理緒が血の塊を吐き出した。

「理緒ちゃん!」

汀が走り出す。

忠信は理緒を片手で、汀に向かって投げ捨てた。
弾丸のように飛んできた理緒を真っ向から受け止め、汀は背中から床に叩きつけられ、反対側の壁に勢いよく頭をぶつけた。
小さくうめいて体を丸めた汀の手の中で、理緒はガクガクと震えながら立ち上がろうとし、しかし鼻と口から血を噴き出して、その場に崩れ落ちた。
徐々に彼女の目の光がなくなっていく。

「どいて!」

ソフィーがそこで怒鳴って、理緒を汀から引き剥がした。

そして自分の病院服を破りとり、理緒の胸の傷口を手で抑えて、止血を始める。

「ドクタージュリア! 片平理緒がやられたわ! 彼女の意識が消える前に、回線を緊急遮断して!」
『…………』
「ドクタージュリア!」

ジュリアの返事がないことに、ソフィーが悲鳴のような声を上げる。
考える間もなく、忠信が腕を振った。
その瞬間、彼の腕がまるで鞭のように伸びた。
ゴムの玩具のように、腕が伸び、七、八メートルは離れている汀に向かってバタフライナイフを掴んだ手が飛んでくる。
汀は包丁でそれを受けて、忠信の体に向けて走り出した。

「左肩だ」

忠信がそう言って、伸びた腕を振る。
それがしなり、汀の後ろから、彼女の左肩にナイフが突き刺さった。
うめき声を上げて、もんどりうって床を転がった彼女の目に、シュルシュルと音を立てて戻っていく忠信の手が見える。

「……自分の体を変質させてるの……?」

ソフィーが呆然と呟く。
ボコリ、と忠信の体が風船のように膨らんだ。
病院服の背中が割れ、中から肉を裂き、無数の「腕」が姿を現す。
まるで、さかさまになった蜘蛛のような姿だった。
そのおぞましさにソフィーが硬直する。
まるで千手観音のように、合計十六本の腕を背中から生やした忠信は、それら全てにバタフライナイフを持ち、一斉にシャコン、と刃を出した。
そこで、か細く息をしていた理緒の体が、まるで蜃気楼のように、フッと残像を残して消えた。
彼女だけ、夢の世界から、強制的に回線が遮断されたのだった。

「私達には、あの化け物を撃退しろってこと……?」

ソフィーがマイクに向かって悲鳴を上げる。
ノイズ交じりのマイクの向こうから、ジュリアの声がした。

『残り一分三十秒で回線を遮断するわ。それまでもたせて』
「ふざけないで! 早く切りなさい! 人命救助保護法に違反してる!」
『…………』
「ドクタージュリア!」

ブツッ、と音がして、通信回線が切れた。
ソフィーが呆然としてヘッドセットを取り落とす。

忠信が奇妙な笑い声をあげて、背中の腕を大きく振った。
全てが先ほどのように伸び、しなり、鞭のように汀に斬りかかった。
雨あられのように、四方八方から襲い掛かるバタフライナイフにどうすることも出来ずに、汀は体のいたるところを突き刺され、一瞬で血まみれになった。
しかし、自分の顔面を狙ってきた一本の腕、その手首を正確に掴んで止めると、力の限りそれを引っ張った。
忠信の体が宙に浮き、人一人が重機に引っ張られたかのような衝撃で汀に向かって引き寄せられた。
汀は拳を固め、こちらに向かって飛んでくる忠信の顔面に向かって、それを突き出した。
奇妙な音がした。
汀の手首からと、忠信の首からだった。
衝突の勢いが強すぎたのだ。
吹き飛ばされ、向こう側の壁に激突し、ずるずると床に崩れ落ちた忠信を目にし、汀は手首を押さえてうずくまった。
右腕が、おかしな方向に曲がっていた。
忠信がそこで、甲高い声で笑いながら立ち上がった。
伸びていた腕がすべて元にもどり、背中でわさわさと動く。

「やっぱりなぎさちゃんだ! そういうところ好きだなぁ! ひゃはは!」

曲がっていた首を、自分の手で掴んで、不気味な音と共に元の位置に戻す。

しばらく首を回して感触を確かめると、忠信は汀に言った。

「やっぱり下着は駄目だ! 全裸に剥こう! そのほうが君にはお似合いだよ!」
「……あなたを『治療』するわ」

汀はそう言って、右腕をダラリと垂らしたまま、立ち上がった。
そして、残った左腕で包丁を構える。

「治療? 僕を? どうして?」
「あなたが患者で、私が医者だからよ」

汀はそう言って、地面を蹴った。
その姿が掻き消え、一瞬で忠信に肉薄する。
知覚することも難しいほどの速度で動いたのだった。

「おやすみ、たーくん……」

寂しそうに汀は呟いた。
包丁は、正確に忠信の心臓を貫いていた。

「あ……?」

忠信は呆然としてそれを見つめ、やがて鼻と口の端から、おびただしい量の血を流し始めた。

「何だよ……? 何してんだよ……」

そう呟いた忠信の背中の腕が動き、汀の体がバタフライナイフでめった刺しにされる。
衝撃で汀の小さい体が後ろに弾かれ、彼女は床にナメクジのように血の跡を光らせながら、転がった。
ソフィーが慌てて汀に駆け寄り、彼女を抱き起こす。
忠信の背中の腕がゆっくりと消えていき、彼は胸に突き刺さった包丁を抜こうと必死になっていた。

「くそ……抜けねぇ……何だこれ! 抜けねぇ!」

怒号と共に吐き出された血が飛び散る。
汀は荒く息をつきながら立ち上がろうとして崩れ落ち、ソフィーに支えられながら口を開いた。

「……あなたの精神中核を……もらっていくわ……」
「俺に何をした!」
「その包丁にウィルスを仕込ませてもらったわ。精神中核に到達してる。もう抜けない」
「くそっ! 勝ったつもりか!」

忠信が包丁を抜くのを諦め、バタフライナイフを振って汀に向かって走り出した。
そこで、彼女の肩に乗っていた小白が膨れ上がり、化け猫の姿になった。

「小白、やっていいよ」

化け猫が腕を振り上げる。
それを呆然と見上げた忠信の頭に、巨大な腕が振り下ろされる。

奇妙な声を上げて、まるで蟲のように人間一人が叩き潰される。
すぐに元の姿に戻った小白の頭を撫で、汀は地面を這って忠信だったモノに近づいた。
そして、包丁を抜き取る。
そこには、まだ脈動している心臓が突き刺さっていた。

「テロリストの精神中核を捕縛。理緒ちゃんが行動不能のため、患者の治療を中断……目を覚ますよ……」

汀がそう言って、血を吐き出して崩れ落ちる。
そこで、彼女達の意識はブラックアウトした。



「忠信を緊急搬送! 絶対に死なせるな!」

結城が怒鳴っている。
あたりには、忠信が吐き散らした血液が散らばっていた。
怯えた顔で、岬は一貴にしがみついて、辺りをバタバタと騒がしく移動している沢山の病院関係者達を見ていた。
一貴が、ベッドに横になりながら、手を伸ばして岬を引き寄せる。

「大丈夫だよみっちゃん。なぎさちゃんは、忠信を殺したりしない」
「たーくん……やられたの……?」
「だから僕はとめてたんだ。なぎさちゃんには、忠信じゃ勝てない。スカイフィッシュの悪夢に取り込まれた人間じゃ、勝てないんだ」

一貴は軽く咳をすると、呼吸器をつけられ、担架で搬送されていく忠信を見た。
忠信の手からバタフライナイフが落ちて、床に転がる。
意識はない様子だった。

「たーくん……一体どうしちゃったの……」

恐る恐る岬がそう聞く。

「悪夢に負けたんだ。精神が壊れかけてた。このままじゃ、どのみち現実の世界でも犯罪者になるところだ。僕も……人のことは言えないけど」

自分の手を見つめ、一貴は点滴をむしりとった。
そして岬に支えられながら、ベッドから起き上がる。

「なぎさちゃんに会って、忠信の精神中核を取り戻さなきゃいけない」

それを聞いて、結城が素っ頓狂な声を上げた。

「精神中核を抜き取られた……? そんな芸当が、ナンバーⅣに可能なのか?」
「基本的に、僕にできることはなぎさちゃんにも、みっちゃんにも、忠信にもできる。そう考えた方がいいね。早くしないと、忠信の精神中核から情報を抜き取られるよ」
「チィ!」

舌打ちをして、結城は足早に忠信を追おうとして、近づいてきた人影に、足を止めた。
それは、どこか暗い顔をした、タバコを吸っている男だった。

「あんたは……」

言いよどんだ結城に、タバコの男は煙を吐き出して、壁に寄りかかりながら口を開いた。

「……貴重なサンプルを駄目にするとは。君の管理責任を、一度問いた方がいいな……」
「サンプル……?」

岬が顔を青くして、一貴の横に隠れる。
それを面白そうに見てクスリと笑い、男は一貴に目をやった。

「久しぶりだな、ナンバーX」
「久しぶりですね、教授。いや、今はGDと呼んだ方がいいでしょうか?」

どこか皮肉気にそう言った一貴に、軽く笑いかけてから、男は続けた。

「私は、今はただの『喫煙者』だよ。そう呼んでくれればいい」
「何の用ですか? 今、大事なところなんですが」

結城が喫煙者に低い声で言う。
彼はタバコをふかしてから、それに答えた。

「赤十字が、ナンバーⅠの使用を解禁しようとしている」
「何……だって……?」

それを聞いて、一瞬意味が理解できなかったのか、結城が目を白黒とさせる。
一貴は深くため息をついて、ベッドに腰を下ろした。

「そうなれば、君達はお仕舞いだ。理想とやらも実現できずに、このテロも幕を閉じる」
「全力で阻止する必要がありますね。あなたはどうお考えですか?」

一貴がそう言うと、彼は頷いてから手に持っていた資料を放った。
それが床に落ちる。
結城が拾い上げて、そこに載っていた写真を見た。

「こいつは……」
「高畑圭介。本名、中萱榊(なかがやさかき)……元老院お抱えの、医者ということになっている」
「何度か交戦しましたよ」

一貴が写真を横目で見て言う。
頷いて、喫煙者は続けた。

「彼の力は強力だ。単体でS級スカイフィッシュを撃退する程の能力を持っている。出来うることなら、目の届かない場所で遂行したい。ゆえに、赤十字中枢へのダイブを行い、即急にナンバーIの起動を阻止する」
「それが機関の選択ですか」

結城が苦い顔でそう言うと、彼は笑ってタバコをふかした。

「何のために君達を遊ばせていたと思うんだ。今、この時を利用しなければ、何の意味もない」
「……わかりました。やりましょう」

一貴がそう言うと、岬が青くなって彼の袖を引いた。

「いっくん駄目……駄目だよ。死んじゃうよ……」
「大丈夫。僕は死なない。絶対に。死なない」

自分に言い聞かせるようにそう言って、一貴は喫煙者を見た。

「僕がやります」

決意を含んだ声は、しかしどこかかすれていて、力が含まれていなかった。
喫煙者はそれを聞いて、ニコリと微笑んでみせた。



第16話 Impossibility



まだ空が青く見えていた頃。
まだ、全てに色がついて見えていた頃。
俺はあの子の手を握り、握り返された力に対してそっと微笑んだ。
時折このようなビジョンを見る。
時折。
このような、夢ではない記憶を見ることがある。
目の前の骸骨を見つめて、圭介は静かに言った。

「もう俺の前に現れるな。君は死んだんだ」

骸骨は笑った。
ケタケタと音を立てて。
そして崩れて落ちた。
圭介は立ち上がり、服の埃を払った。
白い病院服以外何も纏っていない。
夢の中か……そう思って息をつく。
何が起こったのか思い出そうとするが、頭の中が何かに引っ掻き回されたようにぐちゃぐちゃで、思い返すことが出来なかった。

これは、おそらく……。
誰かのスカイフィッシュと戦闘した後の様だ。
灰色に見える世界の中で、圭介は周りを見回した。
全てが色をなくしたかのように、灰色だ。
町並みだった。
圭介と汀が住んでいる東京都八王子の町並みだ。
人が行きかっているが、それらは圭介が、まるでいないかのように横を通り過ぎていく。

(俺の夢世界の中で目を覚ましたのか……)

自分の夢の中で目を覚ますという矛盾。
誰しもが一度は体験したことがあるだろう。
半覚醒と自分たち医者は呼んでいるが、そんな状態になった時、一番危険なのが、スカイフィッシュ、つまり悪夢との遭遇。
対抗手段を持たない場合、致命的になり、自分の夢に食い殺されてしまう危険性も高い。
しかし圭介は、気にしていないかのように首の骨を鳴らし、小さくため息をついて歩き出した。

「榊(さかき)?」

後ろから声をかけられ、圭介は足を止めた。
そしてゆっくりと振り返った。
数十メートル離れた場所に、一人だけ色がついた女の子が立っていた。
圭介と同じような病院服。
長い赤茶けた髪の毛をくゆらせ、にこにこと微笑んでいる。
圭介は彼女に向き直ると、行きかう人々の中で口を開いた。

「……真矢(まや)、君は死んだんだ。もう、俺の夢の中には出てこないって、約束したじゃないか」
「死ぬ? 死ぬってどういうこと?」

真矢と呼ばれた女の子は、ニコニコしながら足を踏み出した。
圭介がそれを見て、一歩後ずさる。

「私みたいになること? 記憶の断片になること? それとも……忘れ去られてしまうこと?」

謎かけのように、ポツリポツリと問いかけ、少女は足を止めた。
そして息をついて圭介を見る。

「どうしていつも逃げるの? 榊、私のこと、嫌いになっちゃったの?」

「違う。君の事は絶対に助け出す。だけど、それとこれとは話が別なんだ」

圭介はそう言って歯を噛んだ。

「……ここは、俺の夢の世界で、君がいていい場所じゃない。分かってくれ、真矢。君の優しさは俺を殺す」
「あなたの言っていることは難しくて、私よく分からない……」

真矢は悲しそうな顔を伏せ、そして足元の小石をつま先で蹴った。

「折角榊が困ってるから、私の力を貸そうと思ったのに」
「やめろ。誰も、君に助けてほしいなんて言ってないぞ」
「榊はいつもそう。図星を突かれると慌てるんだ。困ってるんでしょ、今? なら、私の力が必要じゃない?」

圭介は押し黙り、そしてまた一歩後ずさった。

「すまない。真矢。今は……君の相手をしてる場合じゃないんだ」

そのままきびすを返し、圭介は反対方向へ走り出した。

真矢は一瞬呆然としたが、すぐに顔を歪めると右手を圭介の方に伸ばした。

「逃さないよ、榊」

彼女の右腕がボコボコと泡立ち、次いで、肘の部分から先が溶けて飛び散った。
そこから凄まじい勢いで渦を巻いた黒い水が噴出する。
水は辺りの人を巻き込んでゴウッ、と回転すると、周囲の建物や車を飲み込んで、それでも尚増え続け、圭介に向かって巨大な津波となって襲いかかった。

「真矢……」

圭介は立ち止まると振り返り、自分に向かって覆いかぶさってくる津波を見上げ、そして絞りだすように言った。

「……また来る」

彼は右手を広げて意識を集中させると、パンッ、と地面を叩いた。
地面に光が走り、真っ黒い鉄の扉がアスファルトの上に横たわるように出現する。
圭介はその扉を無理矢理引き開けると、その中の漆黒の空間に体を踊らせた。



「ドクター高畑、聞こえますか? 聞こえたら視線を横に動かしてください。私の声が、聞こえますか?」

機械の音。
点滴台。
薄暗い天井の照明。
白い壁、白い天井。
そして、静かだが耳に障る女性の声。

「ドクター高畑?」
「……うるさいな……」

苛立ったように呟き、かすれた声で圭介は続けた。

「聞こえてる」
「良かった……体に異常を感じませんか?」
「…………」

それには答えずに、圭介は少し離れたところに停まっている車椅子の上で眠っている汀と小白、そしてぼんやりとした表情でソファーに腰掛けながら、頭にヘッドフォンをつけて3DSのゲームをやっている理緒を見た。
理緒の顔には、ゾッとする程表情がなかった。

それを感情の読めない瞳で一瞥してから、圭介はベッドの上に体を起こそうとして、右足の痛みに思わず呻いた。
彼をベッドに押し戻しながら、ジュリアが慌てて言った。

「あなたの右半身にはまだ麻痺が残っています。精神がスカイフィッシュに斬られています。いくら回復速度が異常とはいえ、まだ動かない方が懸命です」
「……戻ってくるんじゃなかったよ」

そう呟いて圭介はベッドに体を預け、クックと笑った。

「また戻ってきた。俺の意思には関係なく」
「…………」

ジュリアが少し沈黙してから立ち上がり、圭介にシーツをかけてから問いかけた。

「何か飲みますか?」
「今何時だ?」
「先ほど夜の八時半を回りました」
「汀をベッドで寝かせろ。その子はデリケートなんだ」
「汀ちゃんの心配ですか? いえ、『道具』のお手入れというわけですか?」

ジュリアに冷淡な目で見られ、圭介はそれを鼻で笑った。

「それがどうした? 何だ、汀を壊したら、お前が責任をとってくれるとでも言うのか?」
「この子はそう簡単には壊れませんよ。もう大人ですから」
「違うな。まだ子供だ。これまでも、これからもな」

含みを込めてそう吐き捨てると、圭介はジュリアを瞳孔が開いたような目で見た。

「理緒ちゃんはどうした?」
「予定通り、重度の心神喪失状態ですが、生命活動に異常はないわ。マインドスイーパーの能力も良好。あなたが目覚める一週間前に、特A級スイーパーに昇格してる」
「そうか」

どうでもよさそうにそう返し、圭介はこちらを一瞥もせずにゲーム画面を見つめて指を動かし続ける理緒を見た。
そしてまたジュリアを見て繰り返す。

「汀をベッドで寝かせろ」
「……分かったわ。そうせっつかないで」

頷いてジュリアは汀を抱き上げると、少し離れた場所に設置されていた簡易ベッドにそっと寝かせた。

点滴台を移動させ、彼女の身体に毛布をかけるところまでを確認し、圭介はそこでやっと息をついた。

「状況は?」
「……テロ活動は停止しているわ。でも、日本中のマインドスイーパーが治療を自粛している流れが広がってる。自殺病患者の死亡数が、ここ3日で過去二年の死亡記録を上回ったわ。赤十字病院に対するデモも起きてる」
「いいことだ。供給過多な人口が減る。赤十字も、この機会に馬鹿な一般大衆への対応を考えればいい」
「それが医者の言葉ですか」

呆れ返ったように言い、ジュリアは小さく呟いた。

「変わりましたね……私の好きだったあなたはもう……榊君……」
「俺をその名前で呼ぶな、アンリエッタ」
「……お互い様ではないですか?」
「…………」

どこか淡々とした、冷たい調子で返したジュリアを無視し、圭介は続けた。

「変異亜種は?」
「まだ現れていないわ。
機関は、この隙に多数の自殺病患者を治療するために、ナンバーI(ワン)システムを起動することを決めたわ」

「何?」

大声を上げた圭介に驚いたのか、緩慢な動きで理緒が顔を上げる。
それを横目で見ながら、圭介はジュリアに詰め寄った。

「機関は何を考えてるんだ! 元老院は何を言ってる!」
「使えるものは使うというのが、今回の元老院と機関の決定よ。あなたがどうこうできる問題じゃないわ」
「お前……!」

ジュリアの服を掴み上げようとして、圭介が体の痛みに顔をしかめ硬直する。

「それでよくのうのうと機関に尻尾を振っていられるな……!」
「…………」

叱られた子供のように、ジュリアが圭介から視線を離して下を向く。
圭介は歯を噛んで畳み掛けるように言った。

「自分に都合が悪い話になると聞かなかったフリをするのは昔から治ってないな。腐った癖だ」
「……あの事件は……悪かったと思ってる。
あなたと……真矢ちゃんと、健吾君。私が全部悪かった。悪かったと思ってる……」
「…………」

かすれた声で絞りだすように呟いたジュリアに、圭介が押し黙る。

「だから、だから機関の派遣要請を受けたの。あなたにもう一度会うために。榊君、私を許せない気持ち……私と、健吾君に対する憎しみはよく分かるわ。でも、健吾君はもう……それに、真矢ちゃんも……」
「アンリエッタ!」

圭介が大声を上げる。
理緒が顔をしかめて3DSから視線を離し、ヘッドフォンを頭から降ろして首にかけた。
そして圭介に抑揚が感じられない声をかける。

「あぁ、高畑先生、生きてたんですか……」
「……理緒ちゃん……?」

彼女の異様な雰囲気に、原因は分かっているものの、圭介は戸惑った声を発した。

「動かないから死んだと思ってました。良かったです。私、あんまりお金持ってないので」
「……心神喪失にしては感情の起伏がなさすぎるな。ちゃんと薬は与えてるのか?」

押し殺した声で囁いた圭介に、ジュリアは小さな声で返した。

「ええ。治療段階で精神の汚染が進みすぎていたと考える他ないわ」

「高畑先生、それよりこれ見てください。汀ちゃんに言われてポケモンやってたんですけど、この先に進む方法が分からないんです」

そう言って立ち上がり、3DSを差し出した理緒と圭介との間に割って入り、ジュリアは彼女を押しとどめた。

「片平さん、高畑先生は今起きたばかりで、ゲームが出来る状態じゃないの。自分の部屋に戻ってもらえるかな?」
「嫌です。私は汀ちゃんと一緒に遊ぶんです」

はっきりと拒否の声を発し、理緒は歪んだ、良く分からない表情で微笑んでみせた。

「……私まだ眠くないので」
「汀さんにはさっき薬を投与したの。落ち着いて聞いて。あなたにもお薬をあげる。よく眠れるお薬よ。だから、今日はもう寝ましょう?」
「……嫌です。私は汀ちゃんと一緒に遊ぶんです」

さっきと同じセリフを繰り返し、理緒は面倒くさそうにジュリアを睨んだ。

「邪魔をするんですか?」
「邪魔をしているわけじゃないの。片平さん、落ち着こう?」
「私は落ち着いてます」

そこで圭介は、長袖から除くジュリアの細腕が痣と引っかき傷だらけなことに気がついた。
よく見ると、化粧に隠されているが顔にも傷がついている。

「説得しても無駄だ。GMDの三十五番を投与しろ。早く」

右手で3DSを持ちながら、左手でジュリアの腕を掴もうとした理緒を見て、圭介は声を上げた。
そこでジュリアがハッとして、逆に理緒の腕を捻り上げる。
小さく悲鳴を上げた理緒の首に、ジュリアはポケットから出した小さな注射器の、一ミリにも満たない針を突き刺して、中身を流し込んだ。
問答無用の行動だった。

「……私に何をしたんですか!」

理緒が首を抑えながら後ずさる。
彼女は忌々しそうにジュリアを見て、繰り返した。

「そこをどいてください。私は汀ちゃんと一緒に遊ぶんです!」
「聞く耳を持つな。精神崩壊した人間を説得しても無駄だ」

圭介が上半身を無理矢理に起こしながら口を開く。

「精神崩壊?」

理緒が怪訝そうに繰り返して圭介を見た。

「私がですか?」
「他に誰がいる?」
「私は正常ですよ。異常なのは高畑先生の方じゃないですか?」

あっけらかんとそう言われ、圭介は一瞬言葉に詰まって理緒を見た。

「……何?」
「ですから、異常なのは私ではなく、あなただと言っただけです」

理緒はニィ、と笑って続けた。

「異常者に異常者扱いされたくありませんね。心外です」
「片平さん……! 高畑先生はあなたの命を救った恩人ですよ!」

咎めるようにジュリアが声を荒げる。
理緒はそれを聞いてケタケタと笑うと、小馬鹿にするように彼女に言った。

「何ですか? あなたとは話していません。それとも昔の男の前で格好つけたくなりました?」

ジュリアの顔から血の気が引いた。

「……何ですって?」
「あら? 図星でした?」
「聞いてたのね……この子!」

思わず手を振り上げたジュリアの目に、理緒が不気味な無表情でクローゼットを開け、自分のバッグを開いたのが映った。

「ちょうどいいや。これ買ってきたんです」

ずる、と理緒が嬉しそうに中から肉切り包丁を取り出したのが見えた。

「エドシニア先生、生きてる人間ブッ叩いたらどんな感触なのかな? 教えて下さいます?」

挑発するように包丁をゆらゆらさせた理緒を見て、圭介が歯噛みする。

「……お前はどんな管理をしてるんだ」

呆れたようにジュリアに向けて呟き、圭介はため息をついてから理緒に言った。

「医者に刃物を向けるとは何事だ。少なからずとも、君も医者の端くれだろう。それとも、単なる快楽殺人者に堕落したいのか?」

「でも先生、人を殺すってすごく楽しいんですよ? 知らないんですか?」
「知らんな」

冷たくそう返し、圭介は左手を伸ばしてベッド脇の緊急ナースコールのボタンを押した。
数秒も経たずに、バタバタと足音が聞こえて黒服のSPと白衣の看護師達が病室に駆け込んでくる。
彼らは理緒を見て一瞬ギョッとしたが、さすがに対応が早かった。
すぐに理緒はSP達に取り押さえられ、壁に押し付けられた。

「離してください……! 離して……」

そこで、声を上げた理緒の体から、いきなり力が抜けて、彼女はグッタリとその場に崩れた落ちた。

「……効果が確認できるまで二分三十秒か。かかりすぎだ。もっと強い三十六番を投与しろ」
「で、でも……この子の脳細胞が……」
「それで殺されたら元も子もないだろう!」

圭介に怒鳴られ、ジュリアが小さくなる。

圭介は小さく咳をすると、近くの看護師に言った。

「その子は私がいいと言うまで部屋から出さないでください。心配ない、出れないと分かれば静かにしてる。拘束することはできないから、私の名前を使って至急元老院からマインドスイーパー管理用のSPを四人雇ってください。その子の身の回りの世話をさせます」

頭を下げて下がった看護師を見送り、圭介は連れ出される理緒からジュリアに視線を戻した。

「……呆れてものも言えないな」
「…………」

唇を噛んだジュリアに、彼はかすれた声で続けた。

「大河内を呼んでくれ。話がある」



「……そうか」

片手にコーヒーの缶を持ちながら小さく呟いた大河内に、圭介は珍しく声を荒げた。

「分かっているのか? 聞こえなかったか? 機関を止めろと言ったんだ」
「何故それを私に言う?」

薄暗い病室の中で、ジュリアは腕組みをして壁にもたれかかり、二人の会話を聞いていた。
圭介は横目でチラリとジュリアを見てから、大河内に押し殺した声を発した。

「白を切るつもりか……お前が機関と、いや、『GD』と繋がっていることはもう分かっているんだ」

ジュリアがハッとして息を呑む。
顔を上げた大河内の表情を見て、圭介は言葉を止めた。
大河内は薄ら暗く笑っていた。
その不気味な表情を見て、圭介が色をなす。

「何がおかしい……!」
「いや、何。お前が狼狽したところを見たのは、坂月君が死んだ時と、真矢ちゃんが死んだ時以来だと思ってな」
「この……!」

圭介がいきなり上半身を起こして、大河内の胸ぐらを掴み上げた。
大河内が持っていたコーヒーの缶が床に転がり、中のコーヒーが床にぶちまけられる。
それを気にする風もなく、大河内はゆっくりと圭介に言った。

「お前も私も、病み上がりだ。お互い乱暴はやめようじゃないか」
「答えろ……! お前、知ってたな。テロが起これば、機関がナンバーIシステムを起動させることを、知っていて今まで黙っていたな!」
「お前らしくもないな……落ち着けよ、高畑」
「腐れ外道が……!」

吐き捨てて大河内を殴りつけようとして、圭介は体中の痛みに顔をしかめ、腕を止めた。
大河内は手を放して体を丸めた圭介をしばらく見ていたが、やがて白衣のポケットに手を突っ込んで、軽く喉を鳴らして笑った。

「……私の口からは一言も言っていない。全て、お前の憶測だ」
「……何ィ?」
「だが、汀ちゃんは必ず取り戻す。その言葉は今も昔も変わらないよ。ジュリア先生も、よく覚えておくといい。その子は、私のものだ」

挑発的にそう言って、大河内は冷たい麻痺したような目で、簡易ベッドで眠っている汀を見下ろした。

ジュリアが青ざめた顔で足を踏み出し、大河内を見上げた。

「……どういう意味ですか? あなたは、赤十字病院所属の医師ではないのですか?」
「…………」
「ドクター大河内、答えてください」
「教えてやるよ。そいつはおそらく、お前の所属している『機関』の更に上層部から、数年前に赤十字病院に派遣されてきた、諜報員の一人だ」
「え……」

呆然としたジュリアに、口を挟んだ圭介は苦虫を噛み潰すように続けた。

「組織の名前はGD。元素記号ガドリニウムの略だ」
「GD……東(あずま)機関ですか!」
「知らなくてもいいことを知っているということは罪だな。なぁ高畑?」

大河内は奇妙に歪んだ笑みを圭介に向けた。

「有り体な反論をさせてもらうとすると……証拠はあるのかね? 私が、そのGDとやらの諜報員であるという証拠が」

大河内は汀の簡易ベッドによりかかり、ゆっくりと続けた。

「そもそも機関のマインドスイーパーが知らされていない組織が存在するのかい? そして私は、仮に存在するとして何を諜報させられているんだい? 答えてもらおうか」
「ナンバーIシステムの後釜を探しているんだろう。汀はそのターゲットになっているだけだ」

押し殺した声でそう言った圭介の言葉を聞いて、大河内は発しかけていた言葉を飲み込んだ。
そして引きつった笑みを返して口を開く。

「憶測だ」
「生憎と世の中には親切な人がたくさんいてね」

圭介は冷たい無表情で大河内を見て、鼻を鳴らした。

「その親切な人達は、お前の思っている以上に強い」
「その言葉をそっくりそのままお前に返すよ」

淡々と言った大河内と圭介が睨み合う。
そこでピピピとジュリアが持つ携帯端末から、小さな呼び出し音が鳴った。
彼女が耳にはめていたイヤホンを操作し、口を開く。

「はい……はい。分かりました。準備を進めます」

イヤホンの通話を切り、彼女は大河内と圭介を見た。

「言い争いはそこまでにしていただきましょうか。明日の朝、八時間後の午前六時にシステムの起動を行うわ。重篤な患者十五人の『治療』を行う予定よ」

それを聞いて、大河内と圭介はそれぞれ全く違った表情を浮かべた。
大河内はジュリアの方を見て、ニッコリと優しそうに微笑んでみせた。

「良かった。これで十五人の尊い命が助かる」
「ふざけるな!」

圭介は顔を真っ赤にしてドンッ、と壁に拳を叩きつけた。

「それは治療じゃない! 精神のロボトミーだ! 『殺人』だぞ!」
「汀ちゃんが起きるぞ」
「話をすり替えるな!」
「聞いて、ドクター高畑。ナンバーIシステムの起動はもう避けられないわ。でも、患者の『被害』を最小限にする方法はある」
「…………」

黙り込んだ圭介に、ジュリアは淡々と言った。

「その時のために、汀さんを育ててきたのでしょう?」
「何だと?」

大河内の顔から血の気が引いた。

「何の話をしているんだ? ナンバーIシステムの起動が成功すれば、もう汀ちゃんや理緒ちゃんがダイブをする必要はなくなる! それどころじゃない、世界中のマインドスイーパーが……」
「成功なんてしない。そう出来てるんだ。現に、坂月は死んだだろ!」
「本当の意味では死んでない! 坂月君はまだ生きてる!」

大河内と圭介が怒鳴りあう。
今度は大河内が圭介の胸ぐらをつかみ上げ、彼の顔を怒りの表情で覗きこんだ。

「……汀ちゃんをシステムにダイブさせるつもりだな? ……そんなことはさせないぞ! 彼女を第二の坂月君にするつもりだな!」
「吠えてろよ。まだ汀は俺のものだ」
「私の……私のこの五年間を全て無にするつもりか?」

声を震わせながらそう言った大河内に、
圭介はニヤリと歪んだ笑みを返した。

「お前の五年間なんて、俺にとっては病室に紛れ込んだちっぽけな蜘蛛ほどの価値もないんだよ」
「やめてください、ドクター大河内。ドクター高畑は先ほど目が覚めたばかりなんです」

ジュリアに手を掴んで止められ、大河内は圭介から手を離した。

「元老院は、システムの暴走を防ぐために、汀さんとの共同ダイブを命じています」
「くっ……」

歯噛みした大河内に、圭介は突然引きつったような奇妙な、甲高い笑い声を投げつけた。

「はは……はははは! つくづく運が無いなァ、お前って男は! だがそれが現実だ。いい機会だ。機関、お前らがそういう形で挑戦状を叩きつけてきたんなら、俺達はそれを叩き潰すまでだ」
「…………」

ドンッ、と大河内が歯ぎしりをしながら壁に拳を叩きつける。

「喧嘩を買ってやるよ」
「この……卑怯者が……!」

睨み合う大河内と圭介。
少し離れたところでバスケットの中に起き上がっていた小白が、爛々と金色に輝く目で彼らを見ていた。



無理矢理に起こされた汀は、白衣を着て松葉杖をついた圭介を見て、しばらく狼狽していたが、やがてボロボロと涙をこぼし始めた。

「圭介……良かった。死んじゃったかと思った……」
「理緒ちゃんと同じことを言う。さすが友達だな」

圭介は淡々と言って、汀の隣の椅子に腰を下ろした。

「まだ右半身に麻痺が残ってるが、大丈夫だ。心配をかけたな」
「うん……心配したよ」
「……話は後からしよう。生憎と俺は、まだ後遺症のお陰でダイブが出来ない。いきなりで悪いが仕事だ。やってくれるか?」

問いかけられ、汀は僅かに憔悴した顔を彼に向けた。

「仕事? でも、私テロリストの子に、精神をかなり傷つけられちゃって、夢でも現実でもまだうまく動けないの」
「何? テロリストと交戦したのか? どうなった?」

身を乗り出した圭介に、汀は少し言い淀んでから答えた。

「……精神中核を捕まえた」
「何だって? 早く情報を抜き取るんだ!」

圭介に押し殺した声で言われ、汀は首を振った。

「警察の人とか、病院の人にもそう言われたけど……断った」
「え……?」
「私、医者だから。患者の情報は守秘義務があるから」
「そんな事言ってる場合じゃないだろう? 医療機関のラインを狂わせてるサイバーテロリストの情報だぞ。一刻も早く情報開示するべきだ」

圭介がゆっくりと諭すように言う。
しかし汀は、またふるふると首を振った。
こうなった彼女は頑固だ。
ため息をつき、圭介は肩を落とした。

「……分かった。だが、病院側がお前を告訴したら、裁判所が仲介に入って強制的に情報開示を迫る場合がある。その時は、お前の身が危ない。素直に引き渡せ」
「嫌だよ。そうなったら私はもう、ダイブをやめる」
「…………」

圭介は歯噛みして、しかし口をつぐんだ。

そして壁の時計を見て、汀の顔をのぞき込んだ。

「瞳孔の拡散はないな。その話も後だ。今からダイブできるか?」
「ダイブはできるけど、役に立つかどうかはわからないよ……」
「できればいい。理緒ちゃんもつける。お前に、治療中枢エリアにダイブしてもらいたい」
「治療中枢エリア?」

問い返した汀に、圭介は頷いて続けた。

「マインドスイープは全て、一つのコンピューターから伸びたネット回線を使って行われている。今回ダイブするのは、そのすべての回線をまとめているコンピューターの中に作られた、仮想夢空間の中だ」
「そんな所があるの?」
「ああ。そこに、ウィルスが入り込む。お前と理緒ちゃんには、それを破壊してもらいたい」
「圭介、話が早すぎて何が何だか分からないよ」
「簡単に言おう。赤十字病院は、コンピューターに多数の患者の脳を接続して、中にウィルスを送り込もうとしている」
「え……どうして?」

圭介は低い声で言った。

「ロボトミーって知ってるか?」
「うん、前頭葉を物理的に切り離して、患者の精神病を治療する方法だよね……でも、患者は前頭葉がなくなるわけだから、障害を持っちゃうっていう……」
「それと同じだ。ウィルスは患者の夢の中で、自殺病に汚染された『区画』をそれごと破壊する。精神を欠損させて自殺病を消し去る。それが今から赤十字が行おうとしてる『治療』だ」
「…………」
「赤十字は止まらない。お前にはそれを、出来るだけ阻止してもらいたい」
「……どうして?」

単純な疑問を投げかけられ、圭介は引きつった表情を彼女に返した。

「どうしてって……そんな施術、理に反してる。患者の人格までもを否定して……」
「圭介達が理緒ちゃんにやったことと、何が違うの?」

圭介が、言葉に詰まった。

「答えて圭介。どうして理緒ちゃんは助けてくれなかったのに、今回は助けようとするの?」
「理緒ちゃんを助けなかったわけじゃない。最善を尽くした結果だ」
「嘘。圭介は何かを隠してる。私に何かをさせたいんだ。だから理緒ちゃんを見捨ててまでも私を呼び戻したんでしょ?」

圭介は少し言い淀んでから、何ともいえない悲しげな、それでいてやるせなさそうな瞳を汀に向けた。

「全てお前の憶測だ。汀、お前は人を助けたいんだろう? なら、マインドスイーパーとしての役割を果たせ」
「友達一人救えないのに……ダイブする意味ってあるのかな?」

ポツリと汀が呟いた。
圭介はしばらく沈黙した後、汀の隣にそっと資料を置いた。

「ダイブは今から一時間後だ。その気があるなら目を通してくれ」
「…………」
「お前に任せる。来るも、来ないも。ダイブをするも、やめるもお前の自由だ。勿論今ここでリタイアしたって、俺はお前を責めたり怒ったりはしない。これからも、お前のサポートはし続けるつもりだ」

汀は口をつぐんで圭介を見た。
その目に涙が盛り上がる。

「卑怯だよ……」
「俺は昔から卑怯なんだ。すまないな……」

圭介は何ともいえない表情のまま、汀をそっと抱き寄せて頭を撫でた。

「俺は行かなくちゃ。残念だが、お前とゆっくり話してる暇はない」

「ダイブするの?」
「お前が出来ないなら、俺がダイブしてでも止める」
「…………少し、考えさせて」
「分かった。来る気があるなら、資料には目を通しておいてくれ。その方がいいと思う」

圭介は立ち上がると、松葉杖を鳴らしながら病室に鍵をかけ、出て行った。
汀は隣で眠っている小白の頭を撫でてから息をついた。
少しして、病室の鍵がゆっくりと開いた。
汀が顔を上げると、薄暗い廊下から、ひょろ長い影が滑り込んだのが見えた。
圭介ではない。

「……誰?」

まだ頭がぼんやりしていてはっきりしない。
うすけた視界でそう呟くと、人影は懐から煙草の入った金属製の箱を取り出し、蓋を開けて中身を一本つまみ上げた。

「すまないね……どうも習慣づいてしまって、くわえておかなければ落ち着かない。安心したまえ。病床のレディーの前で火はつけない」
「誰なの!」

馴れ馴れしいしゃべり方にゾッとして、汀は大声を上げた。
そしてナースコールのボタンに手を伸ばし……大股で近づいてきた男に、自由な右手と口をそっと抑えられて、目をむく。

「静かに。私は、君のためになることを教えに来たんだ」
「…………」
「静かにしてくれるなら、要件だけを伝えて二分でここを去る。煙草も吸わない。この手も放そう。君は聡い子だ。分かるね?」

煙草臭い息。
咳き込みかけた汀は、慌てて何度も頷いた。
男は手を放し、安心させるように汀から数歩距離をとった。
そして椅子に軽く腰を掛ける。

「…………誰?」

押し殺した声で問いかけた汀に、男は言った。

「喫煙者と呼んでくれ。名前は教えるに値しない」
「ここは関係者以外立入禁止よ。出てってくれるなら、人を呼んだりしないわ」

右手を伸ばしてナースコールのボタンを掴み、脅すように汀は言った。

喫煙者と名乗った男は、息をついて軽く肩をすくめた。

「私は君の主治医、高畑君といささか旧知の仲でね。簡単に言うと友達のようなものだ」
「圭介と……?」
「ああ。何度か会ったこともある」

フゥー、と息を吐いて喫煙者は続けた。

「昔話をしよう、何、簡単な昔話だ。一分で終わる」
「…………」
「今から十年前、赤十字病院に数人の優秀なスイーパーがいた。そのうちの二人はS級に達するほどの、非常に強力な適性能力を持っていた」
「…………」
「一人の名前は坂月健吾、もう一人の名前を松坂真矢と言う」
「坂月……」

繰り返してハッとする。
理緒が呟いていた言葉。
自分の夢の中に出てくるスカイフィッシュと同じ顔をしているという、赤十字の医者。

「坂月君と仲が悪い特A級スイーパーもいた。犬猿の仲というわけだ。その子の名前は、中萱榊(なかがやさかき)…君の、よく知る人だ」
「私の……?」

頷いて微笑み、喫煙者は続けた。

「中萱君と、坂月君は同時に松坂君のことを好きになってしまった。しかし間の悪いことに、松坂君は自殺病を発症。マインドスイーパーとしての任務を行うことができなくなるばかりではなく、日常生活や、会話でさえも困難な生ける屍になってしまった」
「…………」
「中萱君と坂月君は必死になって松坂君を治療する方法を探した。先に治療法を見つけたのは、坂月君の方だった。彼は松坂君の治療に独断であたり……失敗した」

淡々と続け、喫煙者は息をついた。

「失敗して坂月君は死んだ。そして同時に、松坂君も死んだ。中萱君は悲しんだ……とても、とても悲しんだ。そして憎んだ。私達、原因を作った大人を」
「…………」
「しかし大人は、松坂君と坂月君、S級能力者がそのまま『死んだままでいる』ことを許さなかった。ここまで喋れば、君ならこの後どうなったか、想像がつくんじゃないかな?」

いつの間にか、汀は真っ青になっていた。

彼女はガクガクと震える肩を動く右手で強く抑えた。
床に、カランカランと音を立ててナースコールのボタンが落ちる。
クククと笑って、喫煙者は立ち上がった。

「ナンバーIシステムの正体が分かったかい? 変異亜種と言われるスカイフィッシュの正体が分かったかい? 汀君。君はどちらにもなれるし、どちらにもならなくてもすむかもしれない。そして同時に、君は選択しなければいけない」
「…………」
「君は一体、何になりたいんだね?」
「私は……」

汀は、額に大粒の汗を浮かべながら呟くように言った。

「私は……大きくなって、普通に結婚して……」
「…………」
「大河内せんせと結婚して……子供は三人以上つくって……」
「…………」
「小さな病院開いて……沢山の人を助けてあげて……」
「…………」
「幸せな……生活を…………」
「無理だな」

汀の言葉を端的に打ち消して、喫煙者は息をついた。

汀はそれを聞いて、目を見開いた。
停止した彼女に、静かに、畳み掛けるように彼は言った。

「『運命』がそれを許さないさ」
「…………」
「覚えてないのかい? 汀君。いや、網原汀(あみはらなぎさ)君。君が何をしたのか。坂月君、松坂君、そして中萱君に対して何をしたのか、まだ思い出せないのかい?」
「私は……」
「…………」
「沢山の人を助けて……」
「…………」
「幸せに、なるんだ……!」

ギリ……と歯を噛み締めて汀は振り絞るように言った。
その必死の視線を受けて、喫煙者は息をついて懐からサングラスを取り出した。
そして薄暗い中だというのにそれを顔にはめ、立ち上がる。

「長居をしてしまった。汀君。君の贖罪を全うするために。いや、『沢山の人を救うために』……行くんだ。君は、ダイブを続けなくてはいけない」
「…………」
「私からの助言は、以上だ」

喫煙者が去った後も、汀は大分長いこと呆然としていた。

葛藤。
恐れ。
苦しみ。
混乱。

様々な状況と感情が彼女の頭の中を引っ掻き回していた。
しかし。
彼女は時計の針が朝六時を指すのを見て、ハッとした。
そして資料を引き掴む。
汗を振り飛ばし、汀はかたわらの小白に叫ぶように言った。

「行くよ、小白。私達は、人を救うんだ……!」



第17話に続く



お疲れ様でした。
次話は明日、5/18に投稿予定です。

また、カクヨムに新作サイコホラー小説を毎日連載中です。
併せてお楽しみ下さい。

m(_ _)m

追いついた

自殺病は心が癌になるようなもの?

高畑先生の専門は何科って言うんでしょう?

以前はKarte.20で落ちたと思ってたんだが完結してたの?

皆様こんにちは。
第17話の投稿をさせていただきます。

>>876
いらっしゃいませm(_ _)m
そのような表現が一番近いかと思います。
心が徐々に腐敗していき、いずれは生きる気力を失い死に至ります。
圭介や大河内達の専門は精神外科です。

>>877
以前はそこまでしか書いていませんでした。
今回は最初から校正をし直し、完結の24話までございます。
ぜひお楽しみいただければと思います。



第17話 ロボトミープログラム



自殺病の原因は分かっていない。
そもそもウィルスとはただの呼称であり、明確な定義があるわけではない。
マインドスイーパーが夢の中で見ている景色が本当のことかどうかも判然としない中、これが原因だと特定できる要素は、ない。
それ故に自殺病を防ぐことはできない。
かかってしまった人間は、ごく普通に、生きることがつらくなる。
それが悪化していき、仕舞いには生を放棄するようになる。
自壊的な破滅思考に頭の中を蝕まれ、それに耐え切れなくなり、自我が崩壊し。
自我の崩壊と共に、肉体も生命活動を止める。
そういう病気だ。
いや。
そもそも自殺病を病気と定義していいものかどうか、それさえも怪しい。
ただの集団ヒステリーの一つなのかもしれないし、流行的な誘導催眠なのかもしれない。
しかし現にそれにより人は死に。
今も、死のうとしている。



圭介は多数の赤十字の医師達が準備をしている中、大河内と睨み合っていた。
彼は松葉杖を苛立ったように鳴らすと、大河内に向けて言った。

「ヘッドセットを渡せ。医療業務の執行妨害だ」

大河内は圭介のヘッドセットを、握りつぶさんばかりに掴んでいた。
歯を噛みながら、彼は、その様子に唖然としている周囲の中で、押し殺した声で圭介に言った。

「……頼む。今回のダイブだけは遠慮して欲しい。これには未来が……沢山のマインスイーパー達の未来がかかっているんだ。理緒ちゃんだって治せるかもしれない。他の重度で、もう手の施しようがない患者だって……」
「知るか。ヘッドセットを渡せ。これは最後通告だ」

哀願するように言った大河内に、淡々と圭介は告げた。

「三十秒待ってやる。それ以上俺の業務を妨害するなら、元老院の拘束規定事項により、お前の身柄を一時的に拘束させてもらう」

圭介の背後から、黒服のSPが数人立ち上がり、大河内を取り囲む。

しかし大河内は、ヘッドセットを離そうとしなかった。

「……大河内。俺は思うんだ」

圭介は静かに口を開いた。

「大多数を救うために、一人を犠牲にするのは、医療行為と言えるのかな」
「必要な犠牲だ。いや……犠牲ではない。礎だ。そう、礎なんだよ、高畑。真矢ちゃんも、坂月君も礎になったんだ。それを使って何が悪い! 助かるんだぞ、沢山の人が! 第一お前だって理緒ちゃんを犠牲にした!」
「……ああ、そのとおりだな。だがそういう風に正当化するのは、俺達のエゴだよ」

圭介はニヤついたような、しかし悲しそうな歪んだ奇妙な表情のまま続けた。

「俺達は一介のエゴイストに過ぎない。救世主にはなれない。創造主にもなれない。誰かを助けるなんて、救うなんて、所詮そいつの自己満足、主観的な感情論でしかないんだ。お前はそれを押し付けることで自己を保とうとしているだけだ」
「だが、それで助かる人が、幸せになれる人が、感謝する人がいる!」

大河内はSPに取り押さえられながら喚いた。

「高畑! お願いだ、そっとしておいてくれ! 見なかったふりをしてくれ! 汀ちゃんだけは……」
「……もう遅い」

部屋の自動ドアが開き、そこで息を切らして車椅子を片手で操作してきた汀が、倒れこむようにして中に滑り込んだ。
転がり落ちかけた彼女を、慌ててジュリアが支える。

「……汀ちゃん……」

大河内が息を呑んで、そして大声を上げた。

「ここを出るんだ! 君が来ていい場所じゃない!」
「……せんせ、私、ダイブするよ……」

ゼェゼェと息を切らしながら汀は言った。

「駄目だ汀ちゃん! 君にはまだ早すぎる!」

SPの一人が、懐から出した拘束用の簡易手錠を大河内にはめる。

汀は悲しそうな顔でそれを見ていたが、ジュリアの手を振りほどいて車椅子を操作し、大河内に近づいた。

「大丈夫だよせんせ……私、救ってくる。だって、私、医者だもん」
「汀ちゃん……」
「だから、少しだけ待ってて欲しいの」
「君がダイブすることは想定の範囲内なんだ。でも、その先を君は……」
「全部知ってるよ」

ポツリと呟くように言った言葉を聞いて、圭介も大河内も、ジュリアも顔を上げた。

「私、全部知ってる。早すぎないよ」
「……思い出したのか?」

圭介に問いかけられ、汀は彼の方を一瞥したが、すぐに近くの医師を見上げて言った。

「早く私を接続して。理緒ちゃんを連れてきて。ダイブする!」



汀と理緒は目を開いた。
そこは、どこまでも広がるリノリウムの真っ白い床だった。
病院だ。
数百メートル先は暗闇に包まれて見えなくなっている。
天井には薄暗い蛍光灯。
どれも切れかけて、ジジ……と音をたてている。
壁には無数のドアが見て取れた。
部屋の中は暗い。
覗き窓からは中を伺うことはできない。
閉塞感に首をすぼめ、汀はヘッドセットに手をやった。

「ダイブ完了。ここが治療中枢?」
「汀ちゃん……私、何だかおかしい。体がうまく動かない……」

理緒が苦しそうに言う。
顔には大粒の汗が浮かんでいて、息が荒い。

『古びた病院のイメージのはずだ。理緒ちゃん、君にはGMDという薬が投与されている。一時的に脳の動きを抑えているが、落ち着いて対処すれば、君の能力なら切り抜けられる』

ヘッドセットから圭介の声が聞こえる。
今回は小白はダイブしてこなかった。
回線が複雑すぎて、ここの夢座標を見つけられなかったせいだと思われる。
理緒はしばらくふらついて歩こうとしたが、やがてペタリとその場にしゃがみこんでしまった。

「大丈夫、理緒ちゃん……?」

心配そうに顔をのぞき込んだ汀に、理緒は泣きそうな顔で言った。

「ごめん、汀ちゃん。私今回役に立てないかもしれない……頭が痛いの……」
「大丈夫。その分私が動くから。だって、私達、友達じゃない」
「私のこと嫌いになったりしない? 汀ちゃんの役に立てない私のこと、捨てたりしない?」
「大丈夫だよ。心配しないで」

理緒の手を握って一生懸命語りかける汀だったが、彼女の体も傷だらけだった。
忠信のナイフでめった刺しにされた傷がまだ塞がっていない。

『時間がない、動け汀。その空間は虚数をはらんでる。十二分に気をつけろ』
「虚数空間なの?」
『接続先がない入口は、虚数だ。存在しないが存在すると仮定された接続先に飛ばされる。下手なドアを開けて中に飛び込んだら、一生出てこれない可能性がある。理緒ちゃんをうまく誘導してやってくれ』
「分かった」

おそらく、この無数に繋がる部屋の入口が、マインドスイープの入り口。
ここを通って、スイーパーはそれぞれの人間達の頭の中にダイブするのだ。
汀は足を引きずりながら、理緒の手を引いて歩き出した。

「全部ドアが閉じてる……」

呟いた汀に、圭介が言った。

『日本中のマインドスイーパーが治療を自粛しているせいだ。今回の患者達の夢座標を読む。その場所に移動しろ』
「うん」
『お前達のいる仮想空間を一階だとすると、三階の奥に固まってドアが開いている部屋があるはずだ。そこに侵入しようとするものを、お前達の判断で、危険因子だと判断したら、出来るだけ撃退してくれ。抜けられて中に入られたら、患者の頭の中まで追いかけて行かなければいけない』
「分かった」

頷いて、汀は階段を登りはじめた。
そこで理緒が足を止めた。

「どうしたの、理緒ちゃん?」

そう言った汀の手をいきなり離し、理緒は彼女を突き飛ばした。
銃声がした。

『どうした!』

圭介の声がヘッドセットから響く。
もんどり打って床を転がった理緒は、右肩を抑えながら立ち上がろうとして失敗し、声にならない悲鳴を上げた。
しかし何とか壁の手すりにつかまりながら上半身を起こし、立ち上がる。
手すりがぐんにゃりと形を変え、重厚な肉切り包丁に変化した。

「テロリスト……! 狙われてる!」

理緒は細い声を振り絞って、左手で肉切り包丁を目にも止まらない速さで振った。
キンッ、という金属音が鳴り響き、理緒が殴り飛ばされたかのように吹き飛んでまた床を転がる。
彼女の頭を狙ってきたと思われる銃弾が弾かれて、壁に突き刺さった。

「うう……」

頭痛が酷いのか、理緒がよろめきながら立ち上がってふらつく。

「圭介! 『T』を理緒ちゃんに投与して、早く!」

汀が踊り場にしゃがみ込みながら大声を上げる。

『無理だ! 彼女に今「T」を投与したら、ショックを引き起こすぞ!』
「このままじゃ理緒ちゃんが死んじゃう!」

また理緒が包丁を振り、銃弾を弾き飛ばしたが、その勢いで吹き飛ばされて壁にたたきつけられる。
ズルズルと力なく床に崩れ落ち、理緒は糸が切れたマリオネットのように倒れこんだ。

「理緒ちゃん!」

どこから銃弾が飛んでくるのかわからない状況だったが、汀は慌てて立ち上がると理緒に駆け寄ろうとして……理緒がそこで右手を自分に伸ばし、手を広げているのを見た。

「来ないで……」
「理緒ちゃん、でも……!」
「行って。私は大丈夫だから」

理緒は憔悴した顔で笑ってみせた。

「また後で、遊ぼうね……」
「理緒ちゃんを置いていけない!」
「早く……! 人を助けよう。一緒に」

理緒がそう言って、よろめきながらまた立ち上がる。
撃たれた肩からボタボタと血が流れ落ちていた。

「汀ちゃんが行けば、沢山助かるんだよね? だから、行って。すぐに追いつくから」
「…………分かった。絶対に、絶対に死んじゃ駄目だよ、理緒ちゃん!」
「うん……分かった」

汀が走って階段を登り、向こう側の暗闇に消える。
理緒はそこで、足音が近づいてくるのを見てそちらに無表情を向けた。
長大なスナイパーライフルを肩にかついだ、赤毛の女の子が少し離れた場所で足を止めた。
岬だった。

「……驚いた。三発も止められて何をしたのかとおもったら、包丁で弾き返したの……?」

驚愕した声で呟く彼女に、理緒は低い声で言った。

「テロリストね。そこで待ってなさい。ブチ殺してあげる」
「あなた……片平さんよね。片平理緒」

岬はそう言って、足を止めた理緒を馬鹿にするように、鼻を釣り上げてみせた。

「なぎさちゃんにまかせて、この前みたいに脇で震えているのがお似合いじゃないかしら」
「大きなお世話よ」
「そう、残念ね。こんなところじゃなければ、私達いい友達になれたような気がするのだけれど」
「…………」
「ごめんね」

岬はスナイパーライフルを軽く振った。
ズンッ、というなにか巨大なものがリノリウムの床を砕いて落ちた。
理緒の目が見開かれる。
良く分からない。
分からないが、あれは危険なものだ。
心の中の本能的な何かが警鐘を鳴らす。
理緒は知らなかったことなのだが、岬の脇には戦車に搭載されるような、巨大な自動機関銃が出現していた。
その銃口が一人でに理緒の方を向き、きしんだ金属音を立てる。
モーターが回転し、大人の指ほどもある銃弾が瞬きする間に何百発も理緒に向けて発射された。
銃弾の雨ではない、嵐が壁を砕き、ドアを砕き、天井の蛍光灯を爆裂させて薙ぎ飛ばしながら理緒に向けて襲いかかる。

理緒はそれより一瞬早く壁を蹴ると、三段跳びの要領で天井を蹴って、まるでネズミのように、およそ人にはできない動きで身を翻した。
そして銃弾の嵐をかいくぐり、まだ壁を吹き飛ばし続ける機銃の脇を通過して、空中を体を丸めてくるくると回さりながら、岬に肉薄した。
肉切り包丁が振り下ろされた。

「……速い……ッ」

岬が悲鳴のような声を上げて飛びすさる。
その肩を浅く包丁がかすめた。
しかし威力は絶大で、岬は病院服ごと腕を袈裟斬りに斬られて、もんどり打って床に倒れた。
理緒は無表情で床に降り立つと、まだけたたましい音と作動音を立てながら銃弾を発射し続ける機銃の操縦席に立った。
そしてハンドルを操作して、銃口を力任せに動かし始める。

「……戻れ!」

自分を撃とうとしていることに気づいて、青くなるより先に岬が叫ぶ。

理緒の足下の自動機関銃がパッと幻のように消えた。
床に崩れ落ちた理緒の目に、どこから取り出したのか、巨大なショットガンを手にした岬の姿が映る。
彼女は理緒が反応するよりも早く銃をコッキングすると、照準をつけずに何度も引き金を引いた。
散弾が前方に飛び散り、床を飛んで避けようとした理緒の右手と右足が、ボロ雑巾のように吹き飛ばされた。
ゴロゴロと床を転がって、理緒は震えながら大量の血液を吐き出した。
何発か散弾が胸を抜けていて、病院服に赤い色が広がっていく。
岬は無表情で理緒に近づくと、頭を足で踏んでまた銃をコッキングした。

「さよなら。生きてても辛いだけだろうから、私が引導を渡してあげる」

理緒の目から段々と光がなくなっていく。

「汀……ちゃん……」

うわ言のように呟いて、理緒は動く左手で、少し離れた場所に転がっている肉切り包丁を拾おうと手を伸ばした。
岬がそこにむけて勢い良く足を振り下ろす。
骨が砕ける音がして、理緒は悲鳴を上げた。

「残酷な殺し方はあんまりしたくない。抵抗しないで」

理緒の頭に銃口を向け、岬は呟いた。

「じゃ……」

何かを言おうとした時だった。
理緒は、床に落ちていた薬莢を砕けた左手で掴んだ。
それがぐんにゃりと形を変え、リボルバー式の拳銃に変化する。
あ、と思った時には遅かった。
一瞬の差で、理緒が引き金を引いた。
岬の体が宙を舞い、彼女は額からおびただしい量の血を流しながら、何度か床をバウンドしてから転がった。
そして鼻から血を垂れ流して動かなくなる。
理緒は、しかし拳銃を取り落とし、右手と右足がなくなった体で、そのままうつ伏せに倒れこんだ。

「汀ちゃん……」

彼女は小さくかすれた声で呟いた。

「高畑先生が新しいゲーム機買ってくれるんだって……一緒に遊ぼう……だって……」

目から生気がなくなっていく。

「私達……友達じゃ……」

そこで、理緒は動かなくなった。



階段を駆け上がる汀は、三階に踊りだすと、そのまま足を引きずりながら手すりを掴んで走りだした。
おびただしい数のドアが脇にある。
暗い病院のどこまでも続く廊下を走りながら、汀はヘッドセットに向かって声を発した。

「圭介! 見つからない、患者達の意識に続く部屋が見つからないよ!」
『…………』
「圭介、どうしたの?」
『何でもない。理緒ちゃんがテロリストと交戦を開始した。彼女のバイタル監視に集中する。患者の部屋はすぐに見つかるはずだ。焦るな』

歯噛みしてヘッドセットの通話を切り、汀は廊下の角を曲がった。
そこで彼女は、十数メートル離れた向こう側に、長大な日本刀をダラリと下げた一貴が立っているのを目にした。
ただでさえ暗がりなのに、凶器を構えて異様な雰囲気を醸し出している。
その脱力したかのような姿に、汀は立ち止まって大声を上げた。

「そこをどいて、いっくん! 私はシステムを止めに行かなきゃいけないの!」

「……分かってる」
「あなた達の目的は何なの? 単純な医療テロが目的じゃないでしょ!」

汀の声に、一貴はつらそうに顔を歪めた。
そして何か言葉を発しようとして失敗し、激しくその場に咳き込む。
左手で口元を抑えて、一貴は何度か餌付くと手の平に広がった血液の痕に目を見開いた。

「……病気なの?」

汀が一歩を踏み出す。
一貴は寂しそうに笑うと、ヒュン、と日本刀を振った。

「残念ながらね。でも自殺病じゃない」
「私は医者よ。あなたを助けてあげたい」
「なぎさちゃんが僕を? ……嬉しいけど、君には無理だよ」
「やってみなきゃ分からないわ」
「君の大切な人を、大切な人達を殺しかけた僕を助けようとしてくれるの?」

静かに問いかけられ、汀は足を止めた。

「……大河内せんせを刺したのは、あなたね」
「うん。腹が立ってさ。君は僕のものなのに、あいつは君を自分のものにしようとしてる。殺しそこねたけど、状況が一段落したら、高畑とかいう医者諸共息の根を止めるつもりだよ」
「…………」
「ごめんね……なぎさちゃんをすぐに助けてあげられない。僕はまだ、それほど強くない」
「いっくんは大きな勘違いをしてるよ」

汀はまた一歩を踏み出し、静かに言った。

「勘違い?」
「ええ。あなたは、私を無力でひよこみたいな存在だと思い込んでる。だから自分が守らなきゃって、思ってくれてるんでしょ? でも私はもう、産毛は抜けてるの。大人よ。一人で歩けるし、一人で鳴ける」
「…………」
「大河内せんせのことが好きなのは、自分の意思。圭介に協力してるのも、自分の意志。あなた達のことを半分以上忘れてるのは悲しいけど、私はそれを乗り越えて前に進むつもりよ」
「なぎさちゃん……」
「だから邪魔をしないで。私が前に進むのを止めないで。私は、沢山の人を救うんだよ」

汀は言い終わると、一貴の目の前で足を止めた。
そして頭一つ分くらいも違う彼のことを、まっすぐ見上げる。

「大丈夫。私は医者よ。怖がらないで。いっくんのことも、すぐに救ってあげる」
「なぎさちゃん……僕には……」

言い淀んで、一貴は日本刀を握る手に力を込めた。

「……時間がないんだ。君がこの領域に到達するまで、待っていられる余裕が無い。だから、僕からもお願いだ。僕を救ってくれるんなら、忠信の精神中核を置いてここからすぐに立ち去って欲しい。今回は何もしない。約束するよ」
「…………」
「じゃなきゃ、僕は、今度こそ本当に君を……殺さなきゃいけなくなる」

数秒間汀と一貴は見つめ合った。
悲しそうな、やるせなさそうな目をしている一貴と対照的に、汀は目を爛々と輝かせ、強い芯をはらんだ視線をしていた。
汀と一貴の手が、同時に動いた。
日本刀を横薙ぎに振りぬいた一貴の腕を、汀が掴んでぐるりと体を反転させる。
次の瞬間、頭一つ分くらいも体格が違う男の子を、小さな汀は軽々と背負って投げ飛ばした。

床に背中からたたきつけられ、一貴が空気を吐き出す。
汀はそのまま拳を固めると、力いっぱい一貴の顔面に振り下ろした。
ドッ、というおよそ人間が発せられる音ではない異様な重低音をさせて、一貴の頭がリノリウムの床にめり込む。
放射状の衝突痕が床に広がった。
もう一度拳を振り下ろそうとした汀の手が止まった。
ざわざわと一貴の髪がひとりでに動き、彼の顔面を覆い隠す。
それはドクロのマスクを形作って定着した。

「駄目……もうスカイフィッシュになっちゃ駄目だよ!」

必死に声を絞り出した汀の前で、マスクをつけた一貴が手を伸ばす。
それに首を掴まれて、汀の小さな体がサバ折りのように曲がり、簡単に押し戻された。
上半身を起こし、一貴はもう片方の手で日本刀を構えた。
それを汀の額にピタリと当てる。
汀は呼吸ができなくなっている状況の中で、手を伸ばして反射的に日本刀の刃を手で掴んだ。
肉が切れ、ずるりと皮がめくれて血が溢れ出す。
一貴は汀の首を締めながら、彼女が押し戻そうとする日本刀を、力の限り押しこみ始めた。
血と脂で滑り、日本刀が少しずつ汀の額にめり込んでいく。

「いっくん……」

汀は、目にうっすらと涙を溜めながら、小さく言った。

「私は行くよ。ごめんね……」

バキィッ、と音がした。
汀の頭蓋骨が砕けた音ではなかった。
一貴の日本刀が、半ばから砕け散っていた。
汀は折り取った日本刀の先端部分を掴むと反転させ、一貴の胸に深々と突き刺した。

「がっ……」

異様な声を上げて、マスク姿の一貴が硬直する。
胸を抑えて、彼はよろめいて、どうとその場に崩れ落ちた。
汀も激しく咳をして、一貴に覆いかぶさるように倒れこんだ。
忠信にやられた切り傷が全て開いていた。
血まみれになっている汀を、一貴は震える手でそっと抱いた。

「……だいぶ、無理してたみたいだね……」
「いっくんこそ……」

「行きなよ。患者が待ってるんでしょ? その結果、君が不幸になるとしても、それは君の選んだ未来だ。後悔しなければ、僕はそれでいいよ……」
「後悔しない……私、行ってくる……」

汀は一貴に押されて、よろめきながら立ち上がった。
そこで、彼女達はパチ、パチ、パチ、と乾いた拍手を聞いて、顔を上げた。
拍手を発していた対象を目にして、一貴の目が見開かれる。

「まずい……もう起動してたのか……!」

彼がそう言って、胸に折れた日本刀を突き立てた状態のまま、汀を庇うように無理矢理に立ち上がり、腕を振った。
両手に二本の日本刀が出現してギラついた光を発する。

「……何……」

一貴はペタ、ペタと足音を立ててこちらに近づいてくる人影を見て、小さく呟いた。

「真矢先生……?」

呟いた先には、真矢と呼ばれた白衣の女性が立っていた。
長い赤毛に、整った顔をしている女性だった。
しかしどこか無機的な笑顔が張り付いていて、薄暗い照明に照らされて、かなり不気味な雰囲気を醸し出していた。
真矢は一貴と汀から少し離れた場所で足を止めると、白衣のポケットに手を突っ込んだ。
そして口の端を歪めて笑い、感情の感じられない目で二人を見る。

「……誰かと思えば、工藤くんと網原さんじゃない。久しぶりね」
「誰……?」

汀が小さく呟く。
一貴は少し言いよどむと、くぐもった声を返した。

「ナンバーIシステムの正体だよ。あれは虚像。システムにアップロードされた、昔のマインドスイーパーの、意識の断片だ」
「……赤十字……『機関』と『元老院』が、マインドスイーパーの意識だけを切り離して、夢世界に閉じ込めたって……そうすれば、生身の人間をダイブさせる必要はなくなる。それがナンバーIシステムの正体ね……」

汀は真矢をまっすぐ睨みつけ、続けた。

「大人が考えそうなことだわ。ねぇ圭介!」

ヘッドセットの向こうに汀が大声を上げる。
圭介はしばらく沈黙していたが、やがて押し殺した声をそれに返した。

『汀、議論をしている暇がない。工藤一貴、聞こえているか?』

「…………」

一貴は血液混じりの涎を口の橋から垂らしながら、それに答えた。

「聞こえてる」
『一旦停戦としようじゃないか。どうやら、お前の目的は俺達の目的と被るようだ。ここで汀と争わせてもいいが、お前にとって、それはあまり得策とは言えないだろうな』
「…………」

一貴は忌々しそうに歯噛みして、低い声で圭介に向かって言った。

「分かった。だが今回だけだ。条件がある。岬ちゃん……片平さんと一緒にいた女の子の精神中核に手を出すな。やられたんだろ?」
『…………』

圭介は一拍置いて、続けた。

『約束しよう』
「なぎさちゃん、これを」

一貴は汀に日本刀を一本渡すと、ふらつきながら自分の刀を構えた。

刃を向けられ、真矢がポケットに手を入れた姿勢のままニヤニヤと笑った。

「あらあら……無理はいけないわよ、工藤君。そんなに血を吐いて、血を流して、あなたの体も精神も、悲鳴を上げてるわ」

真矢は足を踏み出すと、悠々と一貴に近づいて、手を伸ばした。

「なぎさちゃん、説明は後だ! こいつに触られるな、全ての精神情報をスナーク(読み取り)される!」

一貴は飛び退いて、足を踏みしめると真矢に向かって日本刀を大上段に振りぬいた。
しかし、斬撃は振り切らないまま途中で止まった。
真矢が伸ばしていた手で、日本刀の腹を簡単に親指と人差指で掴んで、止めたのだった。

「くっ……」

歯を噛み締めた一貴の両腕の力を、細い腕の女性は片手で簡単に押し戻すと、大して力を込めている風はないのにあっさりとひねりあげた。

「ダメじゃない。大人に刃物を向けちゃ」
「なぎさちゃん離れて!」
「そういうことをするお馬鹿な子には……お仕置きが必要ね」

真矢がパッ、と日本刀から手を離した。
次の瞬間、彼女は一貴の方に手を伸ばし、口をすぼめて勢い良く空気を吐き出した。
それが竜巻のような渦を巻き、途端に轟音を立てて燃え上がった。
炎の渦が目にも止まらない速度で一貴に襲いかかる。
一貴はそれを見て、頭を抑えて体を丸めた。
ざわざわと彼の体から水蒸気のようなものが立ち上り、一拍後、彼はボロボロのシャツにジーンズ、チェーンソーというスカイフィッシュのいでたちに変わっていた。
彼は唖然としている汀に、チェーンソーを持っている方とは逆の手を突き出すと、とっさに大きく振った。
そこから防火マットのような黒い大きな布が出現し、汀の体を覆い隠す。
次の瞬間、二人を巨大な爆発が襲った。
病院の廊下、壁、天井が吹き飛んで、辺りに轟音と爆煙、そして砕けたコンクリートによる土煙が吹き荒れる。
数秒後、爆風が収まった空間で、一貴は回転するチェーンソーの刃で顔面を隠した姿勢のまま、深く息をついた。

体の所々が焦げて、まだメラメラと燃えている箇所がある。
真矢と一貴達の間の廊下が、スッポリとなくなっていた。
バラバラとガレキが落ちていく。
虹色のゲル状になったものが詰まっている空間が、砕けた病室の間から見える。
二階と四階に繋がる廊下と天井がなくなっていた。

「チィ……虚数空間なのか……!」

歯噛みした一貴に、真矢はフフフと面白そうに笑って答えた。

「そう、その先はどこにも繋がっていない暗黒の空間。そこに落ちれば、意識をもう引き上げることはできないわ」

真矢の体が、かげろうのように揺らいで消えた。

「治療の邪魔をする愚か者の子供は、無限の虚無に落ちて、自然消滅するまで後悔すればいい」

一貴のすぐ後ろから声が聞こえ、スカイフィッシュ状態になった彼は、マスクの奥の瞳を光らせながら振り向いた。
その瞬間、真矢は変質してチェーンソーが変化した、振りぬかれた一貴の日本刀を、また掴んで止めた。

そしてためらいもなく「虚数」と言った虹色の空間に、刀ごと彼を投げ飛ばそうとする。

「その手を離しなさい」

そこで、押し殺した汀の声が響いた。
チャリ、と金属音がして、真矢の背後から刀が伸びて、彼女の首筋につきつけられる。

「私は本気よ、意識だけのマインドスイーパー。彼の刀から手を離しなさい」
「あらあら……網原さん。少し見ない間に、すっかり大人びちゃって」

面白そうにフフフと笑い、真矢は一貴の刀から手を離し、白衣のポケットに手を突っ込んだ。
軽く目を閉じて、一貴と汀に刀を突きつけられながら、しかしそれを全く意に解していないように、彼女は続けた。

「自殺病は完全に治ったみたいね。良かった」
「自殺病……?」

汀はそう呟いて、怪訝そうな瞳を真矢に向けた。

「私のこと……?」

「なぎさちゃん、聞く耳を持つな! こいつはただの意識の集合体、プログラムの塊だ!」
「人間の意識なんてプログラムのようなものよ。所詮機械で制禦できる。あなた達子供には、難しすぎる話かもしれないけど」
「僕は子供じゃない……!」

一貴はそう吠えて、日本刀を振りかぶった。
金属音がして、火花が散った。
真矢が、いつの間に何を変質させたのか、一貴のものと全く同じ日本刀を片手に持って、彼の斬撃を受け止めていた。
瞬きをする間に、今度はもう片方の手でも同じような日本刀を構築して汀の刀を受け止め、彼女は二人のマインドスイーパーを簡単に押し戻し始めた。

「患者の治療を、邪魔しないでもらえるかな?」
「させるか! 僕の目的はあんたの消滅だ!」

一貴がそう叫んで日本刀を持つ手に力を込める。
マイクの向こうで圭介が息を呑むのが汀には分かった。
しかし、真矢の力は物凄く、両腕に力を入れて踏ん張っていても、徐々に体が押されて後ろに下がっていく。

「網原さん、あなたは自殺病にかかって全ての記憶と過去を失ったようね」

真矢はそう言ってまたくぐもった声で笑った。

「私は自殺病になんてかかって……」
「まだそれは思い出していないのね。いいわ、教えてあげる……」

一貴を吹き飛ばし、彼が床に開いた大穴を飛び越えて壁にぶつかり、もうもうと土煙を上げてめり込んだのを確認し、真矢は汀の刀も簡単に捻り上げて吹き飛ばした。
汀はくるりと回って壁を蹴り、床に降り立った。
そして真矢を挟んだ対角側で、一貴が床に崩れ落ちて大量に血を吐き出したのを見る。

「いっくん!」
「おっと、動かないほうがいいよ」

真矢がそう言って、日本刀を振った。

「ただのスカイフィッシュと小娘ごときに、どうせ私は止められない」

彼女は両腕に、自分の身長よりも大きな連装機銃……つまるところガトリング銃を構えていた。
本能的に危険を察知した汀がその場に停止する。

「……網原さんは生きてる『私』が、最後に治療した重度の自殺病患者。だから私も覚えてる」
「なぎさちゃん……自殺病にかかってたのか……」

無理やり起き上がろうとした一貴に無数の銃口を向け、真矢は引き金を引こうとして……。

「やめて!」

汀の叫び声で、指を止めた。
いつの間にか、汀は両手で小さな短銃を構えて真矢に向けていた。
そのちっぽけすぎる抵抗を受けて、真矢は面白そうにまたフフフと笑った。

「何、それ。せっかくの夢の中なのに、そんなものくらいしか具現化できないの?」
「あなたのしようとしてるのは、治療じゃない! 患者の精神内に入って、完全に区画……理性ごと自殺病のウィルスを破壊するつもりなんでしょ? そんなことはさせない! 私を惑わせようとしても無駄よ!」
「別に惑わせようとしてるつもりもないし……あなた達じゃ止められない。だって『私』はもう既に、患者の中に入っているのですもの」

汀の背後から声が聞こえ、彼女は慌てて振り返ろうとして、
首を掴まれ、壁に叩きつけられた。
空気を吐き出した汀の目に、少し離れたところでガトリング銃を構えている真矢と……自分のことを壁に押さえつけている真矢が映る。
一貴の脇にも三人目の「真矢」がどこからか現れていて、彼を羽交い絞めにして首を押さえつけていた。

「ど、どうして……」

呟いた汀に、もがきながら一貴が怒鳴った。

「こいつらはプログラムだ! いくらでも複製がきくんだ、早く抜け出して!」

「あなた達の精神を、麻痺させてもらうわ」

三人の真矢が同時にそう言って、ニヤリと醜悪に笑う。

『くそ……汀、「T」を投与した! 効果時間の間に何とかしろ!』

圭介の声がマイクから響く。
押さえつけられていた汀の姿が消えた。

「え……」

呆然とした背後の真矢の首が、落ちた。
凄まじい勢いで血液が噴出し、辺りの壁を真っ赤に染める。
崩れ落ちた首なし死体に構うことなく、汀は地面を蹴って、片手に日本刀を持ち、もう片手に短銃を持ちながら飛び上がった。
実に人間には不可能な程の勢いで、彼女は床に開いた大穴を飛び越えがてら、一貴を押さえつけている真矢に短銃を向けた。
次の瞬間、汀の銃が火を吹き、二人目の真矢がもんどり打って地面に倒れた。
そのまま汀は、目にも留まらぬ勢いで日本刀を振りかぶって、反応が遅れているガトリング銃を構えている真矢に振り下ろした。
袈裟斬りに斬られて、三人目の真矢が胸から血を吹き出しながら崩れ落ちる。
荒く息をついて膝をついた一貴の脇に着地して、汀は四つん這いになり、ものすごい勢いで胃液を吐き出した。
血が混じっている。

「なぎさちゃん!」

慌てて一貴が汀を助け起こす。

汀は体を細かく痙攣させて震えながら、一貴を吐き出した血と胃液で濡れた手で掴んだ。
そして自分の方に向けて引き寄せる。
一貴の背後から伸びた手が、彼の首を掴もうとしていた。
手が空を切り、一貴は振り向きざまに日本刀で、背後から来た四人目の真矢を斬り飛ばした。
しかしそこで、汀と一貴、二人の目が見開かれた。
彼女達はいつの間にか、ポケットに手を突っ込んだ数十人の真矢に囲まれていた。
彼女達全員が一斉にポケットから拳銃を取り出し、二人に向ける。

「今患者全員の『治療』を『私』が開始したわ。あなた達は間に合わなかった。タイムオーバーね」

数十人が一度に口を開く。
巨大なスピーカーからの音のようにウワンウワンと響く真矢の声の中で、汀は悲鳴のような声を上げた。

「どうすればいいの! 増殖するプログラム相手じゃ勝ち目がない!」
『分裂してるのか……! 汀、そこから離れて帰還しろ!』
「でも患者が……」
『もう止められない! 安全な場所まで逃げろ! 回線を強制遮断するまでの時間を稼げ!』

圭介が怒号を発する。

『真矢! 満足か……お前はそれで、満足なのか!』

数十人の真矢は、圭介の声に反応するでもなくフフフと不気味に笑った。

「大丈夫、なぎさちゃんだけは逃がす。僕以外の奴に君が殺されるなんて、そんな未来まっぴらごめんだ!」

一貴はそう怒鳴って、壁を背にしながら汀をかばいつつ立ち上がった。
その時だった。
不意に数十人の真矢の動きが一斉に止まった。

「くっ…………電力供給量が圧倒的に足りない…………」

一人の真矢がそう呟くと、別の彼女が続いた。

「全てのシステムを一時凍結。強制切断、ラインの暗転を確認」
「システムのシャットダウンを開始。切断まで残り三十秒」
「駄目……また、また暗闇は嫌……やっと出れたんじゃない……やっと外に出れたんじゃないの? 私をまたあそこに閉じ込めるの? 私のことを、また閉じ込めるの……?」

真矢達が肩を抱いて銃を取り落とし、絶叫するように苦しみ始める。

「榊……健吾……助けて! 私また戻りたくない!」
『…………』
「圭介!」

呆然としていた圭介に、マイク越しに汀が怒鳴る。

『回線を強制遮断するぞ!』

ハッとして圭介が叫ぶ。

「待って、なぎさちゃん!」

慌てて一貴が汀に向かって手を伸ばした。
汀はそれを握り返そうとして……その姿がフッと消えた。
沢山の真矢は、いつの間にか消えていた。
一貴はしばらくの間停止していたが、やがて目の前で一人に戻って、肩を抱いてしゃがみ込み、震えている真矢に近づいた。

「……真矢先生、お久しぶりです。夢の中で、前は何度もお会いしていましたね。僕に、変質のイロハを叩きこんでくれたのも、あなただった」

真矢の体がピシピシと音を立てて石灰のように白い塊になり、崩れて落ちていく。

「……まだ、システムは未完成なんだ……いける……」

一貴はニヤァ、と口を裂けるのではないかと言わんばかりに開いて、パンッ、と壁を平手で叩いた。
そこに古びたドアが出現する。
それを開き、彼はクックと笑い呟いた。

「なぎさちゃん、すぐに迎えに来るからね……」

一貴が扉の中の黒い空間に体を踊らせる。
そこで、天井の蛍光灯が一斉に、音を立てて消えた。



「そんな……システムエラー……ダウンだと……?」

大河内が呆然と呟いて、膝をつく。
圭介はそれを冷めた目で一瞥してから、周囲に声を張り上げた。

「片平理緒さんの手術を開始してください! 治療術式は中止だ! 患者の脳接続を全て切るんだ!」
「馬鹿な! システムは完璧だったはずだ!」

大河内が後ろ手に手錠をかけられたまま、大声を上げる。
圭介は頭からヘッドセットをむしりとると、それを床に叩きつけた。
そして大河内に近づいて、ためらいもなくその腹に無事な方の足の爪先を叩き込む。

「ドクター高畑! 何をするんですか!」

ジュリアが慌てて彼を抑えて止める。

「よくも……よくも真矢を……」

ギリギリと歯を噛み締めながら、圭介は殺気を帯びた視線を大河内に落とした。
しかし彼はそれ以上言わずに言葉を押し殺すと、無理やりにそれを飲み込んで背中を向けた。



圭介は薄暗い病室の中で一人、備え付けの電話の受話器を手に取り、しかし思い直してそれを元の位置に戻した。
そして懐から携帯電話を取り出し、窓際に移動してからダイヤルする。
しばらくコール音が鳴り響き、やがて人を食ったような朗らかな調子の青年の声が聞こえた。

『やあ、大変だったようじゃないか。聞いてるよ』
「…………」
『機関は彼女とテロリストを交戦させようとする筋書きまでは組んでいたけど、まさかシステムが自壊してダウンするとまでは予想できなかったようだ。大騒ぎだ』
「……知ってたな。ナンバーIシステムの凍結が解除されたことを。何故俺に黙っていた!」
『僕は君の協力者であって、奴隷じゃないからね。聞かれてもいないことを答える義理はない』

淡々と冷たく返され、圭介は口をつぐんだ。

『相変わらず真矢ちゃんのことになると見境なくなるな。今回の君の軽率な行動で、網原汀という大事なコマが、自分自身の持つ贖罪の意味に気づき始めてる』
「…………」
『冷静になれよ、高畑。僕達が「真矢」と呼んだ人間はもう死んだ。僕のように』

クックと笑い、電話の向こうの声は続けた。

『僕達は生きてはいない存在だ。人間の本質が肉体になるのなら、もうとっくに死んでる。いつも思うよ。僕達って、一体何なんだろうって』
「…………」
『高畑……いや、中萱(なかがや)、僕は君のことが嫌いだ。大前提として、それを忘れないでもらいたいね』
「坂月……」

歯ぎしりして声を絞り出した圭介に、電話口の向こうの青年は面白そうな笑い声を返した。

『おっと、「中萱榊」という名前はもう捨てたんだっけか? あの頃もそう言ってたな……君はいいよな。そうやって自分に都合の悪いものを全て僕達に押し付けて、自分だけはのうのうと安全な場所に居続けようとする。腐った根性だ』
「…………」
『だから真矢は死んだんだよ。僕も、それに巻き込まれた。君は一加害者の一人であって、被害者面をしてほしくないものだ』

坂月と呼ばれた声は、淡白な調子で吐き捨てた。

『網原汀にすべてを悟らせるのはまだ早い。テロリストとも、もう接触をさせない方がいい。あの少年は、知らなくてもいいことを知りすぎてる。多分真矢のコピーが教えたんだ』
「……コピーでもいい。真矢を助けたい。協力しろ」

押し殺した声でそう呟くように言った圭介に、少しの沈黙の後坂月は言った。

『僕に助けを求めるなんて、君も相当追い詰められてるな』
「するのか、しないのかどっちだ」
『……いいよ。真矢ちゃんのことは、僕にも責任がある。赤十字グループの思うとおりにはさせない』
「…………」
『網原君を、テロリストが動きを止めている隙に「三十五番のエーゲ海」にダイブさせるんだ。そこで、僕は彼女と話をしたい』
「分かった」

圭介はそう言うと、ブツリと一方的に電話を切った。
そして苛立ったように携帯電話をベッドに投げ捨て、どっかと椅子に腰を下ろす。

病室の隣に、ガラス張りの無菌室が設置されている。
精神と肉体の傷は、時として連動することがある。
そこには体中いたるところに包帯を巻かれた汀と理緒が、
多数の点滴と機材に囲まれて静かに眠っていた。
中にはまだ医者や看護師が動いている。
そこで圭介は、入り口のベルが短く鳴ったのに気がついて立ち上がった。
そして松葉杖を鳴らしながら鍵を開ける。
そこには、SPも連れずに青い顔をしたソフィーが立っていた。

「何だ……君か」

呟いた圭介に、ソフィーはぶっきらぼうに手に持った資料を差し出した。

「随分前にあなたに依頼された人間の、夢座標の位置を割り出したわ。受け取って」
「天才にしては随分遅かったじゃないか」
「私も暇じゃないから」

髪をかきあげ、ソフィーは嘲るように圭介を見た。

「……あなたも随分悪趣味なことするわね。他人の夢座標を勝手に割り出すのは、犯罪よ」
「だが医者ならばそれが許される」

暗い表情のまま、圭介は資料をめくって目を通した。

ソフィーが一瞬それを見てビクッとした程、不気味な表情だった。

「……成る程、『三十五番のエーゲ海』か……」

圭介はそう呟いて、ソフィーに目をやった。

「なぁ、暇なら俺達のことを手伝わないか?」
「暇じゃないわ。もう金輪際こんなことはご免よ」
「つれないな……君のその左腕を治してやれると言ってもか?」
「え……?」

スカイフィッシュのチェーンソーで斬られてから、機能しなくなっている自分の腕をソフィーは見た。

「……どういうこと?」
「とりあえず中に入れ。話はそこでしよう」

圭介は戸惑うソフィーを招き入れ、小さく笑った。

「赤十字を、ただじゃ済まさない。君も個人的に恨みがあるようだな。協力体制といこうじゃないか」
「…………」
「俺達の『治療』の開始だ」

暗がりで圭介の表情をよく見ることができない。
だがソフィーは、彼の目を直視することができなかった。
それほど圭介の目は、激しい殺気と狂気を帯びていて。
およそ常人がすることのできない表情をしていたからだった。
眠っていた小白が頭を上げて、彼のことをじっと見上げた。
汀の腕に繋がれた点滴が、ピシャンと水滴を落とした。



第18話に続く



お疲れ様でした。
次話は明日、5/19に投稿予定です。

また、カクヨムに新作サイコホラー小説を毎日連載中です。
併せてお楽しみ下さい。

m(_ _)m

乙です。

高畑医師はムチャクチャに見えるが意識して読み返すとちゃんと統一感がある。愛と正義の持ち主で、タフでアツくて孤独で、本当ならヒーローなんだよなあ。薄暗い目つきとか醜悪な笑顔さえしなければ。

それに比べて大河内。ヒゲの風上にも置けん奴。


汀が4だから高畑は3番目かと予想する

皆様こんにちは。
第18話の投稿をさせていただきます。

>>924
圭介の行動には一貫した基本理念があり、また、彼は一つの目的の為に全てを動かしています。
このお話は、「高畑圭介」という存在の戦いのお話でもあります。
彼の行動は理緒と同様に精神を欠落しているがゆえのことなのですが、物語のもう一人の主人公でもあります。
クライマックスまで是非お楽しみ下さい。

>>925
仰る通り、圭介もナンバーズの一人です。
汀達はナンバーズの二期生にあたり、圭介、坂月、真矢がナンバーズ一期生になります。
大河内も過去マインドスイーパーでしたが、ナンバーズではないので大幅な感情欠落はないというわけです。

今回の途中から2スレ目に移行させていただきます。
引き続きそちらでもお楽しみいただければ幸いですm(_ _)m



第18話 不思議の国のアリス



赤十字病院の会議室に集められた医師達が、全員暗い表情で何かを考え込んでいる。
それを見回し、ジュリアが口を開いた。

「海外からのマインドスイーパーの協力をとりつけることができました。この機会に、赤十字病院協同で大規模な治療を開始します」
「これでやっと一安心か……」

老人の一人がそう呟くと、医師達と反対側の席の老人達が、口々に安堵の呟きを発して顔を見合わせた。

「しかしシステム復旧の目処が立っていない以上、安易に治療を行うのは危険です! まだテロリストの排除にも成功していないんですよ!」

大河内が声を荒げて口を開く。
彼と反対側の席で、圭介が睨み殺さんばかりの視線を、大河内に向けていた。
ジュリアが冷静な目で大河内を見て、口を開く。

「対スカイフィッシュ変種用のマインドスイープ部隊も編成済みです。常時アクセス可能な環境を構築し、テロリストの侵入が確認でき次第送り込みます」
「くっ……」

歯噛みした大河内に、元老院の一人が静かに言った。

「大河内君。システムの起動はまだ早すぎたんだ。マインドスイープの完全な機械化は、理論的には可能だが、時代がまだそれに追いついていないのかもしれない」
「何をおっしゃいますか! システム化は十二分に可能なはずだ!」
「冷静になりたまえ」

大声を上げた大河内の声を打ち消し、老人は続けた。

「君の報告書には目を通させてもらった。ナンバーIシステムの起動、運用に際して、正体不明の致命的なエラーが三千九十八箇所も発生していたそうではないか。そんな不確定な代物に、赤十字病院の名を冠して治療を任せるわけにはいかんな……凍結だ」

「エラーはプログラムにはつきものです。それに、ナンバーIシステムは学習プログラムを組み込んであります。一度エラーを起こした問題は即急に解決して……」
「聞こえなかったか。ナンバーIシステムは凍結だと言ったのだ」

老人がゆっくりと繰り返す。
安堵の色を浮かべる医者もいたが、殆どが暗い顔をしていた。
大河内が言葉を飲み込んで、腕組みをして俯く。
そこで圭介が口を開いた。

「つきましては政治的、医療的に今後重要なポストとなりえる患者を優先的に治療しようと思うのですが、宜しいでしょうか」

元老院の老人達は表情を変えなかったが、医者達は違った。
色をなして、顔色を変えて圭介を見た者もいる。

圭介は薄ら笑いのような微妙な表情を浮かべながら、それを見回して続けた。

「何、私の保有しているマインドスイーパーの弾には、限りがあるもので」
「しかし現在、高畑汀、片平理緒という二人の特A級スイーパーは、システムへの干渉とテロリストとの交戦で行動不能になっていると聞く。どうするつもりだね?」

老人に聞かれ、圭介は横目でそれをみてから手元の資料に視線を落とした。

「フランソワーズを使わせていただきます」
「ほう……フランソワーズ・アンヌ=ソフィーか。フランス赤十字が首を縦に振るとは思えんが」
「振ります。いついかなる場合でも、マインドスイープには『本人』の意思許諾が必要になるはずです。今回の協力は、本人の強固な意思による、自主的な要望です」
「解せんな……」

別の老人が押し殺した声を発する。

「だが……君がフランソワーズ君を使って治したい患者とは一体誰だね?」
「話が早くて助かります」

そう言ってから、圭介は資料をテーブルの上に放った。

「患者の名前は白坂純一。重度の自殺病を発症し、現在七日目。放っておけばあと一両日中に死に至ります」
「しかし……」

そこで黙って聞いていた医師の一人が口を開いた。

「他にも重篤な患者は多数いる。高畑医師、あなたが今仰った患者は、私達が知らない一般外来の患者だ。ここは赤十字病院に急患で運び込まれた患者を優先すべきではないのか?」
「……私に、あなた方に合わせる道理はないわけでして」
「口が過ぎるぞ!」

ドン、とテーブルを叩いて別の医師が怒鳴り声を上げる。

「……先程も言った通り、協力者であるフランス赤十字のA級マインドスイーパー、フランソワーズの自由意志を尊重した結果です」

圭介がゆっくりとそう言うと、テーブルを叩いた医師が怒鳴った。

「どうせお前の誘導だろう!」
「静粛に」

そこでジュリアが手を叩いて場の注目を集めた。

「世界医師連盟の承諾も、既に取り付けてあります。高畑医師のチームに、まず私達は協力することになります」
「何だと!」

医師達が色めきだった。

明らかに敵意を向けている者もいる。

「モグリ医者風情が、我々よりも優先されるというのか!」

医師の一人が大声を上げると、それに同調する声が次々に上がった。
圭介はそれに興味が無さそうに小さく欠伸をすると、鞄からiPadを取り出した。
そして電源をつけて、表示されたカルテに目を通す。

「失礼。最近は紙のカルテですと偽装される恐れがありましてね。世界医師連盟から、今回の患者に関しての資料は全てデータで送られてきています」

周囲のざわめきを完璧に無視して、圭介は続けた。

「白坂純一、四十五歳。重度の不眠症を患っている患者です。投薬により眠りを深くし、いわゆる『夢』を見ないように調整されているそうです」

「統合失調症の治療薬を投薬されているのか?」

元老院の老人がそう問いかけると、圭介は頷いてカルテを読み上げた。

「強度のジプレキサなどが投薬されていますね。抗鬱剤に加え、アナフラニールなども試されているようです」
「一応聞いておこう。この非常事態に、何故その患者なのだね?」

落ち着いた声の老人に聞かれ、圭介は一拍おいてからiPadをテーブルに置いた。

「この患者は、対マインドスイーパー用の精神防壁構築訓練を受けている、『初期治療』の生き残りです」

彼がそう言うと、驚きのざわめきが広がった。

戸惑った声で老人がそれに返す。

「何だと……? ということは、赤十字病院の『実験』の……?」
「そうなりますね」

興味が無さそうに言って、圭介はカルテにまた視線を戻した。

「外部に漏れると困る話だとは思いますが……恐れながら、元老院のご老人方や日本赤十字病院の方々は、これから慎重に発言された方が良い。私は世界医師連盟の依頼で動いています」

そう言って圭介はiPadを操作した。
そして全員に見えるように、画面を表に向ける。
通話中のアイコンが点滅していた。
それを見て、場の全ての空気が止まった。

今までの会話は全て、どこの誰かと分からない人に対して流されていたことになる。
いや。
分からない人ではない。
医師も、元老院の老人達も、全員が察した。

「……申し遅れましたが、世界医師連盟の会長、アルバート・ゴダック氏と通話が繋がっております」

圭介は薄ら笑いを浮かべてそう言ってから、iPadの画面を見えるように、スタンドでテーブルの上に立てかけた。

「さて……話し合いを続けましょうか」



「高畑汀と片平理緒はまだ意識が戻らないの?」

不安げにそう問いかけられ、圭介は松葉杖を鳴らしてから答えた。

「汀はさっき目が覚めた。しかしダイブできるかどうかは危ういな……夢傷(むしょう)が体中に開いてる。精神の傷つきようがかなり強い」

※夢傷=夢の中で傷ついた場所が、痣になったり皮膚が裂けたりすること

「片平理緒は?」
「集中治療室に移動させた。もう、意識は戻らないかもしれないな」

淡々とそう言った圭介を睨みつけ、ソフィーは押し殺した声を投げつけた。

「あなたは人間じゃない……高畑汀と片平理緒が可哀想だわ!」
「可哀想? 何がだ?」

圭介は壁に寄りかかって息をつき、鼻を鳴らした。

「俺は自由意志を尊重しているだけだ。君達マインドスイーパーには、何一つとして強制したことはない」
「よく言うわ、詭弁よ! 私達が子供であることをいいことに、あなたは自分にされたことと同じことを返しているだけよ!」

ソフィーに刺すように言われ、圭介は口をつぐんだ。
そしてポツリと、小さな声でそれに返す。

「ああ……そうかもしれないな」

「…………」

言葉を飲み込んだソフィーに資料を投げて渡し、圭介は軽く咳をしてから言った。

「とりあえず、汀に会わせよう。同じ現役マインドスイーパーの君の方が、あいつがダイブ可能かどうか判断できそうだ。どうも……俺にはよく分からない」
「分からない……?」
「ああ。俺にはどうも、君たちのことはよく分からなくてな」

自嘲気味にそう言って、圭介は松葉杖をついて病室の外に向けて歩き出した。



汀は、腕中にいくつも点滴を刺され、鼻にカテーテルを深く差し込まれた状態で、ぼんやりと宙を見ていた。
しばらくして、病室のドアが開いて圭介が入ってきたのを見て、言葉を発しようとして失敗する。
鼻から入ったカテーテルが喉に到達しており、喋ることができなくなっているのだ。

「また吐くぞ。落ち着け」

圭介に言われて、汀は息をついた。
体中に膏薬が貼り付けてあり、包帯には血が滲んでいる。
交通事故に遭った後のような無残な姿になっている汀を見て、ソフィーが息を飲んだ。

「酷い……」

そう呟いて、彼女はキッ、と圭介を睨んだ。

「ダイブできるわけないじゃない! 彼女は重病人よ、夢傷に冒されすぎてる!」
「見ただけでよく分かるな。さすが天才は違う」
「からかわないで! どういう神経してるの!」

ソフィーが無事な右手を伸ばして、視線を向けようとしない圭介の服の袖を掴みあげた。

「あなたこの子の保護者でしょう! 私は、彼女にダイブを強制するようなら、医師連盟にありのままを報告するわよ!」

汀が、そこで軽くえづいて指を伸ばした。
圭介がiPadを操作してあてがうと、汀は表示されたキーボードを指で操作し始めた。
程なくして彼女の意思を表示する書き込みが出来上がる。

『ダイブできるよ。次の患者は?』
「何を言ってるの!」

ソフィーがヒステリックに叫んで、汀に覆いかぶさるようにして大声を上げた。

「拒否権を行使しなさい! このままじゃ、あなたは殺される!」
『私はダイブできる。精神世界なら、普通に動ける』
「そういう問題じゃ……」
『邪魔をしないで』

表示された言葉を見て、ソフィーは口をつぐんだ。
そして圭介の服から手を離し、疲れたように椅子に腰を下ろす。

「……邪魔をしているわけじゃないわ。気に障ったなら、謝る」
『心配してくれてありがとう。でも動けるから、大丈夫』

時間をかけて文字を入力し、汀は圭介の方を見た。

『痛み止めをちょうだい』

「これ以上は投与できない。眠れなくなるぞ」
『いいよ』
「駄目だ」

端的に汀の言葉を打ち消し、圭介はため息を付いて頭をガシガシと掻いた。

「ソフィーにも言ったが、俺にはどうも、お前がダイブできる状態かどうか判断がつかない。ちなみに、赤十字の医師の見解は、お前は二ヶ月間絶対安静だ」
「…………」

無言を返した汀を見て、圭介は続けた。

「死ぬぞとは言わない。それは覚悟の上のことだろうからな。だが、俺から一つ言わせてもらうとすれば、お前はこのままではスカイフィッシュになってしまう可能性がある」
「ど……どういうこと?」

ソフィーが声を震わせて呟くように聞く。

圭介は彼女を横目で一瞥してから、投げやりにそれに答えた。

「何という事はない。過去に同じような症例があっただけだ」
「人間がスカイフィッシュになるとでもいうの? 意識だけが肉体から切り離されて、夢世界の中で生きるだけの存在になるとでも?」
「その通りだ。人間はスカイフィッシュに変わる」

何でもない事のように圭介は言うと、ソフィーを意外そうな顔で見た。

「天才ならとっくに気づいていると思っていたがな」
「馬鹿にしないで! それが事実だとしたら、マインドスイープを続けることで、悪夢の元を量産していることになるじゃない!」
「その通りだ。スカイフィッシュは、元々はマインドスイープさせられすぎた人間が、『ある記憶』を共有することで変質したものだからな」

唖然としたソフィーに圭介は続けた。

「ナンバーIシステムは、その応用だ。人工的にスカイフィッシュに相当するプログラムを創りだしたに過ぎない」
「スカイフィッシュは……何かの策謀で創られた人工的なものだとでも言いたいの?」

ソフィーにそう問いかけられ、圭介はしばらく沈黙してから汀に向き直った。

「どうするんだ、汀。一気に死ねるなら余程いい。死ねなくなるぞ」

端的にそう聞かれ、汀は充血した目をiPadに向けた。
そして指先を緩慢に動かして文字を打ち込む。

『私は人を助けるよ。スカイフィッシュにもならない』
「この通りだ」

肩をすくめた圭介に、ソフィーはしばらく考えこんでから息をついて、言った。

「……分かったわ、高畑汀。あなたの意思を尊重して、次のマインドスイープに同行してもらうわ」
「いいのか?」
「そういうふうに誘導したいんでしょう。どういう作意があるか分からないけど、私も死にたくはないから」

ソフィーはそこで、何とも言えないやるせないような視線を汀に向けた。

「ごめんね……」

聞こえるか聞こえないかの声でそう呟くと汀が端的にそれに返した。

『気にしないで。いいよ』

「……それじゃ、今回のダイブについて説明する。危険地帯へのダイブになるから、十分注意して聞いてくれ」

圭介が、感情を感じさせない瞳で二人を見る。
ゾッとする程の無表情だった。

「二人共、再起不能になられては俺も困る。だから今回は防衛策を張らせてもらう」
「防衛策?」

怪訝そうにソフィーに問いかけられ、彼は頷いて続けた。

「好きな武器を持たせてあげよう」



ソフィーは目を開いた。
そこは、波にゆらゆらと揺れるボートの上だった。
水が苦手な彼女が、思わず身を固くして中央のマストにしがみつく。
病院服に裸足。
いつもの夢世界での格好だ。
ボートは誰も操縦していないのに、エンジンがかかっていてゆっくりと進んでいる。
青い海だった。
さんさんと照りつける太陽が薄着の体を焼く。

「……ダ、ダイブ完了。夢世界への侵入に成功したわ」

ヘッドセットを操作して引きつった声でそう言ったソフィーに、マイクの向こうの圭介が口を開いた。

『どうした? 状況を説明してくれ』
「ボートの上にいるわ。どこまでも海が続いてる。不眠症って聞いてたけど、この抑揚のなさは、まだ夢に入りかけててレム睡眠状態ね……麻酔が弱いんじゃないかしら」
『すぐに麻酔の投与量を増やす。ノンレム睡眠……つまり「夢」に入る前に、汀の治療を頼む』
「ええ、分かったわ」

頷いてソフィーはボートの上を見回した。
沢山のブルーシートにくるまれた荷物が積んである。
今回のダイブに際して、かなりの数の人間が動いていた。
実際にダイブしているのは汀とソフィー二人だけだったが、日本赤十字病院中の医師による情報機器の管制。

そして、テロリストの襲撃に備えて海外で多数の対スカイフィッシュ用の訓練をされたマインドスイーパーが待機させられていた。
テロリストの侵入が感知されたら、即回線を通して夢の中に送り込まれる仕組みになっている。
それだけではなかった。
今回は、ダイブに至るまで実に六時間半もの準備時間がかかっている。
夢の世界の座標軸を安定させ、ジュリア達特殊なマインドスイーパーがダイブ。
そして、患者の夢の中に、代わる代わる変質させた「道具」を設置するというものだった。
多数の機銃がブルーシートの中から覗いている。
武器もあったが、ソフィーが何よりまず飛びついたのは、大きな救急セットだった。

そして彼女はセットを引きずりながら、ボートの隅で弱々しく丸くなっていた汀に近づいた。
小白がボートの隅で丸くなって眠っている。

「高畑汀、意識はある? 応急だけど処置をするわ」

そう呼びかけると、汀は熱で真っ赤になった顔でソフィーを見た。

「ダイブ……成功したの?」
「ええ。傷を見せて。夢の中で治療しなきゃ、現実のあなたの夢傷は、何時まで経っても治らないわ」
「うん……」

体を動かして、小さく悲鳴を上げた汀の体を見て、ソフィーは息を飲んだ。

「何……これ……」
『どうした?』

圭介に問いかけられ、ソフィーは歯噛みしてそれに答えた。

「簡単に言うわ。夢傷が化膿してる。このままじゃ腐って、現実の体の内臓疾患に結びつく危険があるわ」
『その程度のことは分かってる。何のために君をダイブさせたと思ってる? 道具はあるはずだ。患者が夢を見始めるまで、汀の処置を済ませるんだ』

舌打ちを押しとどめ、ソフィーは簡潔に圭介に返した。

「……了解」

汀の傷は、殆どが膿んで真紫の膿に汚れていた。

まだ血が流れ落ちている傷もある。
夢の中でここまで傷ついているのだ。
動けていることが……いや、現実世界でまだ「生きて」いられていることが不思議な程の傷だった。

「どうしてこんなになるまで放置していたの……!」

ガーゼに消毒薬を吹き付け、ソフィーが膿を拭き取り始める。
消毒薬が当たった傷口が、ジュッと音を立てて白い煙をあげる。
汀は押し殺した声で悲鳴を上げた。

「我慢して」

ソフィーが短く命令し、次々と膿を拭き取り、傷口を露出させていく。
体中に開いた刺し傷が潮風に触れ、たまらず汀は、体を断続的に痙攣させながら、しゃっくりのような声を上げた。
ソフィーが消毒薬とガーゼを大量に消費しながら、汀の様子に気をかけることなく、機械的に処置をしていく。
キシロカインの注射液を汀に投与し、ソフィーは深い切り傷を縫い始めた。

「すぐに済むから……」

局部麻酔が効いてきたのか、汀の呼吸が安定してくる。

「早くして……」

汀に必死に懇願されながら、ソフィーはあらかた傷を縫い終わり、膏薬を塗りつけたガーゼをそれぞれの傷口に当てた。

そして強く包帯を巻き始める。
程なくして、体中に包帯を巻いた姿で、汀は両目に大きく涙を溜めながら息をついた。

「よく耐えたわ。あなた、本当に痛みに対して鈍感なのね。ショック死しててもおかしくないのに」

呆れたようにソフィーが言う。

『終わったか?』

圭介に問いかけられ、ソフィーはため息をついてそれに答えた。

「キシロカインを投与したから、しばらくは動けないはずよ。そうじゃなくても、骨に達してる傷もある。動けない、じゃなくて『動かしちゃいけない』状態ね」

『……聞いたか、汀。戻ってこい』

圭介が少し考えこんでから汀に呼びかける。
しかし彼女は、額に浮いた汗を手で拭ってから、ソフィーの服の裾を手で掴んだ。

「痛み止めを打って」
「馬鹿なことを言わないで……」

それを振り払って、ソフィーは軽蔑するように汀を見た。

「痛み止めを打っても、夢の中の傷よ。根本的な解決にはならない」
「大丈夫。痛みさえなければちゃんと動ける……!」
「分からない子ね……足手まといだって言ったの。あなたのエゴで、助けられる患者一人潰すつもり?」

ソフィーに鼻を鳴らされ、汀は口をつぐんだ。

「あなたの夢世界での治療は完了したわ。もうこの患者へのダイブは私に任せて、後退して頂戴」
「圭介、私に『T』を投与して」
『何……?』

思わず聞き返した圭介に、汀はヘッドセット越しに言った。

「要は脳が動けばいいのよね。私にクスリを投与してよ。そうすれば私が仕事を……」

パァン、と音がした。
ソフィーに頬を殴られた汀が、呆然として体を硬直させる。

次いで襲いかかってきた痛みに、彼女は悲鳴を上げて丸まった。

「いい加減にしなさい……!」

吐き捨てるように言って、ソフィーは続けた。

「私ね、そうやって自分だけがいい気分してる奴って一番嫌いなの。自分しか治せないとか、どうせそんなこと思ってるんでしょ!」

肩を抱いて痛みに震えている汀の前にしゃがみこんで、ソフィーは言った。

「これだけで動けなくなってるような状態で、何か助けになるとは思えないわ。ドクター高畑、患者が夢に入る前に、彼女の回線を強制遮断して」

『……分かった。汀、回線を切るぞ』
「嫌だ、戻らない!」

汀は引きつった大声を上げた。

『聞き分けてくれ。お前、本当に大変なことになるぞ』
「大河内せんせは? せんせと話をさせて!」
『…………』
「圭介!」
『分かった。今、替わる』

圭介が短く言って、通信を操作する。
程なくして、汀は通信の向こうから聞こえてきた大河内の吐息に、顔を輝かせて口を開いた。

「せんせ……せんせ! どうしてお見舞いに来てくれなかったの? 私寂しかった!」

彼女の声を受け、大河内はしばらく沈黙した後、静かに答えた。

『汀ちゃん、仕事中だ。私用なら、話は後で聞くよ』
「現実では私喋れないんだよ? せんせ、私せんせに聞きたいことがあるんだ」

汀は段々尻すぼみに小さくなっていく声で、しばらく迷った後言った。

「せんせは、私のこと嫌い? 嫌いになっちゃった? だから来てくれなかったの?」
『すまない、汀ちゃん。ダイブ中だ。通信を切る』
「せんせ!」
「高畑汀、いい加減に……」

彼女のヘッドセットをむしりとろうとしたソフィーの腕を、汀が不意に掴んだ。

そして荷物の中からサバイバルナイフを抜き出し、ソフィーを後ろ手に締めあげてから首にナイフを当てる。

「な……何を……」

青くなったソフィーに

「ごめん……ちょっと話をさせて」

と囁いて手を離してから、汀は続けた。

「私まだせんせのこと好きだよ、大好きだよ! だから、せんせが私をスカイフィッシュにしたいんだったら、私のことをシステムにしたいんだったら、私せんせの思う通りになるよ!」

『…………』

マイクの向こうで、大河内が絶句して言葉を失う。
汀はナイフを脇に構えて、腰を浮かせながら言った。

「だからせんせ、教えて? あなたの目的は何なの? 機関は、『GD』は何をしようとしてるの?」
『…………』

大河内は、しかし答えようとしなかった。
ブツリと音がして、通信が大河内から圭介に切り替わる。

「せんせ!」

大声を上げた汀に、冷静な圭介の声が刺さった。

『気が済んだか? 強制遮断するぞ』

「せんせとお話させて! 私には要求する権利がある!」
『ない。この状況ではお前の意思よりも患者の命が優先される。たくさんの人に迷惑をかけて、何をしてるんだお前は』

口をつぐんだ汀に、淡々と圭介は続けた。

『それに、大河内の身柄は現在医師連盟に更迭されてる。現場の指揮権は俺にある』
「そんな……」

言葉を失った汀に、ソフィーが言った。

「分かった? 何もかもが全て自分の思うとおりになるとは思わないことね」
「せんせは何も悪いことをしてないじゃない!」
『駄々をこねるな。大河内の行為は医師連盟規定に違反してる。これ以上干渉させるわけにはいかない。それに、お前はそれ以上のことは知らなくてもいい』
「…………」
『戻ってくると一言言えば、お前がさっき言った言葉は聞かなかったことにしよう』

取引とも言える言葉を聞いて、汀は歯を噛んだ。
しかしそこでソフィーが、ハッと顔を上げた。
そして青くなってヘッドセットの向こうに声を張り上げる。

「患者がノンレム睡眠に入るわ! それに何だか様子がおかしい!」

海が、段々と荒れ狂い始めた。
小さなボートがまるで木の葉のように、波の上をふらふらと揺れる。
小白がそこで目を開けて、汀の足に擦り寄った。
汀はサバイバルナイフを縁に突き立てると、小白を抱いて口の端をニィ、と歪めた。

「C型の異常変質区域だね」

ソフィーが悲鳴を上げてマストにしがみつく。

辺りにモヤのような白い霧が立ちこめ、たちまち周りが暗くなった。
汀はよろめきながらヘッドセットに手をやり、言った。

「私が、治してあげてもいいよ」
『どういう意味だ?』

圭介に問いかけられ、汀は喉を軽く鳴らして答えた。

「取引しようよ圭介。ソフィーじゃ、この患者を治療できない。いくら装備を持っても、未経験者一人で、対マインドスイーパー用の訓練をされた、不眠症患者の治療は無理だわ」
『…………』

沈黙した圭介に、ソフィーは唇を噛んで押し殺した声で言った。

「……やっぱり……何かあると思ったけど、最初からこの子を使うつもりで、私にこの子の治療をさせるためにダイブさせたわね!」
『俺は君達の自由意志を尊重している。何一つとして強制はしていない。不躾な物言いは止めてもらおう』

圭介は静かにそれに返すと、汀に向けて言った。

『……で、だ。お前から要求してくるとは珍しいな。確かにその患者は、特別な事情を持つ不眠症患者で、夢という空間それ自体が安定しない。物理法則が通用しないから、普通のマインドスイーパーでのダイブは無理だ。何だ? 気づいていたのか』
「私を誰だと思っているの」

馬鹿にしたように呟き、汀は続けた。

「大河内せんせを解放して。私がこの患者の治療に成功したら、せんせにかけた更迭を、圭介に責任をもって解いてもらいたいの」
『嫌だね。犯罪者の肩を持つほど、俺は落ちぶれてはいない』
「圭介の好き嫌いは聞いてないの。やるの? やらないの? ちなみに私は、せんせが助からないなら、別にこの患者が死んでも死ななくても構わないわ」
『そう来たか……汀、お前が今発言したことは、かなり重要なことだぞ。子供だからといって何でも言っていいというわけではない』
「私は子供じゃない!」

押し殺した声で叫んだ汀に、ソフィーがなだめるように小さな声で言った。

「高畑汀、患者の命を盾に取る行為は、テロリストと何ら変わらないわ。馬鹿な真似はやめて」
「私は自分の正当な権利を行使しているだけよ」

『やれやれ……厄介だな。まさかダイブ中にへそを曲げられるとは思わなかった』

圭介がため息をつき、しかし変わらない調子で続ける。

『…………いいだろう。だが責任をもってその患者を完治させろ。他人に責任を要求するのなら、お前にも責任が発生する。その単純な理屈は分かるな?』
「……うん」
『危なくなったら「T」を投与するが、それまでは何とか我慢しろ。ソフィー、気休めでいい。汀に痛み止めを投与するんだ』
「……分かった」

頷いて、ソフィーは揺れるボートの上で救急箱から取り出した薬を、汀の腕に注射した。

「……効かない」

呟いた汀に

「当たり前よ。時間差があるし、ただ痛みを拡散させるだけの薬よ」

と返し、ソフィーは波が治まってきたのを見て息をついた。
数秒後、フッ、と嵐直前の様相だった海から、映像をぶつ切りにしたかのように、静かな、波一つない大海原に変わった。
霧がだんだん引いていき、真っ暗な海が眼前に広がる。
空には星ひとつない、完全な暗闇だ。
汀が荷物の中から手探りでライトを取り出して光をつける。
そして前方を照らして、動きを止めた。

「気をつけて。その傷で海に落ちたりなんかすれば、確実にショック死するわ」

近づいてきソフィーも前を見て息を呑む。
先端が見えないほど大きな、コンクリートと思われる壁が海を寸断していた。
とろとろとボートがそちら側に進んでいる。

「何これ……こんな巨大な拒絶壁、見たことない。まさか、これがこの人の心を守る障壁なの?」
「マインドスイーパーに対して、防御型の心理壁展開で侵入を防ごうとしてるね。でも人間の心だから、必ず穴があるはず」
「どうやってこれを越えて中に入ればいいのかしら……前の患者みたいに、パズルになってたら楽だけれど……」
「あの患者は、私達を誘い込んで殺す待機型の心理壁を持ってた。パズルはその、逃さないための一環ね。こっちのほうが単純な分楽だわ」

呟くように言って、汀はボートの先端がコンクリートの壁にコツンと当たったのを確認し、オールを持って歯を食いしばりながらボートを壁に横づけにした。

「どうするの? 完全に心への侵入を拒否されてる」
「何事にも偶然って言うことはないんだ。私達がこの場所に止まったのは、この患者の意思でもあるの」

汀はライトを口にくわえて、壁を手探りで触り始めた。
遠目だと分からなかったことだったのだが、壁には三十センチ四方くらいの穴が所狭しと開いていて、中には仏像が掘り込んである。
その不気味な光景に息を呑んだソフィーの耳に、圭介の声が響いた。

『患者のバイタル安定を確認した。ダイブのカウントダウンを開始する。二十分でどうにかしてくれ』

「ちょっと黙ってて」

汀が冷たくそう言って、近くの仏像を手でつかみ、引っ張る。

「これじゃないか……」

そう言って、また別の仏像を引っ張る。
しばらくそれを繰り返すと、不意にガコン、と言う音がして、反応した仏像がはまっていた穴が、ひとりでに開いた。
中は数メートル、トンネルのようになっているが……。
小さい。
三十センチ四方の穴しか開いていない。
体全部を通すには小さな穴を見て、ソフィーが舌打ちした。

「高畑汀、意味が分かる?」
「何となく。この人の職業は細工職人。多分伝統工芸品の……仏像かな、それを作ってる。仕事は好きだけど、仕事それ自体がトラウマになってるみたいね。奥さんを早くに亡くしてるみたい。それが原因かな……」

呟きながら、汀は背後をライトで照らした。

「どうしてそこまで……」

唖然としたソフィーが停止した。
彼女が悲鳴を上げてマストにつかまる。
背後の海に、何か巨大なモノが立っていた。
全長にして三百メートルは超えるだろうか。
身長百五十にも満たない彼女達にとっては、規格外の大きさだった。

『どうした?』

圭介に問いかけられ、汀が小さく笑いながらそれに答える。

「別に。心を守ろうとしてるガーディアンっていうの? それがいるだけ」
『障害は排除して進め』
「分かってる」

ソフィーが悲鳴を上げたのも無理はなかった。
巨大な影は、人間の形をしていたのだ。
いや。
違う。
背後に数十本の腕を生やした三面の化物。
千手観音のような姿をしたそれは、脇についている二本の腕、その指先にそれぞれじょうろのようなものを摘んでいた。
そこから水滴が海に落ちる。
すると、海がボコボコと沸騰をはじめ、たちまち周囲を真っ白な煙が覆った。
熱気で息をすることも困難になり、汀とソフィーは口を手で抑えて、ボートにしゃがみこんだ。

「高畑汀、一旦退却しましょう! あれが動き出したら、太刀打ち出来ないばかりか、このボートはすぐに熱湯に転覆するわ!」

ソフィーが悲鳴のような声を上げる。

しかし汀は首をふると、三百メートル近い巨体がゆっくりと足を踏み出しはじめたのを見て、面白そうに笑ってみせた。

「あはは、たーくんみたい」
「ちょっと、聞いてるの!」
「ちゃんとマスト掴んでなきゃ本当に落ちるよ」

端的に汀がそう言った瞬間、足を踏み出した千手観音の体に押された巨大な波がボートを襲った。
小さなボートが巨大な津波に飲み込まれる……とソフィーが体を固くした時だった。

「クリアできないゲームって結構あるけど、付け入る隙のない人間の心って、あんまりないんだよね」

汀はそう言って、襲いかかる熱湯の津波に、先ほど開いた穴から取り出した仏像を向けた。

仏像の顔に、女性の写真が貼り付けてある。

「いいの? あなたの奥さんは、私達を通してくれるつもりみたいだけど」

津波が、まるで映像を一時停止させたかのように止まった。
汀とソフィーに覆いかぶさる寸前で停止している。
汀は肩の小白を撫でてから続けた。

「時間がないから、相手をしてる暇がないの。追ってくるなら追ってきて」

彼女は仏像の手に当たる場所にはめ込まれた小さな瓶を摘みとった。
中には透明な液体が入っている。
それを半分口の中に流し込んで、汀はソフィーに瓶を押し付け激しく咳き込んだ。
ソフィーも、慌てて瓶の中身を口に流しこむ。

猛烈な苦味と、なんとも言えない臭みが口の中に広がった。
思わずえづいたソフィーの体が、みるみるうちに縮んでいく。
汀も同様だった。
数秒後、彼女達は十数センチほどの大きさになって、ボートの上に立っている小白の背中に乗っていた。

「ちゃんとつかまって。行くよ、小白」

ソフィーと小白に汀が言う。小白がニャーと鳴いてジャンプし、コンクリートの壁の穴に飛び込んだ。
悲鳴を上げてソフィーが小白の毛にしがみつく。
そこで、彼女達の意識はホワイトアウトした。



汀とソフィーが目を開けた時、彼女達は座礁して横転した船の縁に転がっていた。
体の痛みに呻き声を上げている汀に、慌ててソフィーが近づいて助け起こす。

「高畑汀、しっかりして! やっぱり無理よ!」
『どうした? 状況を説明してくれ』
「ドクター高畑! 高畑汀だけでも強制遮断して! 無理よ、このままじゃ本当に死んでしまう!」
『汀は死なない。あとおよそ十五分で治療を完了させれば済む話だ』
「あなた……!」

一転して冷たい調子で断言した圭介に、ソフィーが息を呑む。
そして彼女は激高した。

「……あなた達はおかしい! ドクタージュリアも、ドクター大河内も、あなたも! 人の命を道具とも思わないあなた達はおかしい! そんなの医者じゃないわ。高畑汀、あなたも例外ではないわ!」

肩を掴まれて汀が悲鳴を上げる。
ソフィーは彼女の鼓膜が破れんばかりに大声を上げた。

「何のためにダイブするの? 自分の命や、大切な人の命や、大切なはずの命さえ大事に出来ない人が、何かを救えるとは、何かから救われるとは到底思えないわ。いいえそんなはずはない! あなた達は狂ってる! 狂ってる人が、狂ってることをやって、当たり前のように幸せやその結果を望むのは間違ってる!」
『ソフィー、時間がない。文句があるなら戻ってきた後聞こう』

圭介が淡々と言う。
絶句した彼女に、汀が冷たい視線を投げつける。

「離して」
「帰還しなさい。目の前で人が死ぬのを、医者として見過ごすわけにはいかない」
「分からない子ね……このままじゃ、あなたも死ぬよ」

「患者の命を助けてから死ぬわ」
「多分それさえも無理。無事に、あなたと私が揃って帰還するためには私の力が必要なはず。言い争ってる暇が惜しいわ」

彼女達が転がっていたのは、どこまでも広がる果てしない砂漠だった。
赤茶けた細かい砂が、風一つ吹かない平野に広がっている。
どこまでもどこまでも続く。
地平線が見えない。
天空にはメラメラと燃える火の玉が無数に浮かんでいた。
熱い。
暑い、のではなく熱い。
皮膚から白い煙が立ち登り始める。
小白が汀の方の上で弛緩して、舌を出して細かく呼吸をはじめた。
日差しを遮るものが何もなく、風も吹かない状況だ。
熱気がダイレクトに皮膚を焼く。

「このままじゃ私達、こんがり焼かれて勝手に唐揚げになっちゃう」

汀がクスクスと笑いながら言う。
ソフィーは歯噛みして汀から手を離し、何か役立つものは無いかと横転した船の荷台を漁り始めた。

「逃げるよ。手を貸して」

そこで汀が鋭く呟いた。
え、とソフィーは呟きかけ、空を見て硬直した。
いきなり暗くなった、と思ったら、先程の千手観音がいつの間にか後ろに出現して、彼女達を見下ろしていたのだった。
両目からボダボダと褐色の血の涙のようなものを流している。
それが落ちた地面が、ドッジュゥ! という不気味な音を立てて真っ黒に沸騰した。

「ひ……」

スカイフィッシュに睨まれた時に似ていた。
ソフィーの体から力が抜け、失禁しそうに腰から下の感覚がなくなる。
震えて尻餅をつき、後ずさったソフィーの手を、汀がしっかりと掴んで引いた。

「早く! あれの目を見ちゃだめだよ!」

そこでハッとしてソフィーは手近なハンドガンを掴み、汀を支えて、よろめきながら走りだした。

「ど……どうしてあなたは平気なの!」

息を切らしながら問いかけたソフィーに

「……慣れた!」

と端的に返し、ソフィーは肩にしがみついている小白に言った。

「しっかりつかまってて!」

小白がニャーと鳴く。
ソフィーに支えられながら、汀は手に持った仏像の、もう片方の手に掴まれている小瓶を手に取った。

「これしかないの……?」

吐き捨てるように呟く。
それを横目で見て、ソフィーが走りながら口を開いた。

「さっきの……小さくなる薬?」
「うぅん。さっきのはなくなった。これは反対側の手に握られてたやつ」
「じゃあ……」
「この人はアリス症候群の可能性が高いね。ものの大小が分からないんだ。不眠症の副産物なのかどうかまではわかんな……きゃあ!」

そこで汀が、砂につんのめって前に倒れこんだ。
それを支えようとしたソフィーも足を取られて盛大に転がる。

「う……」

体中の痛みに硬直している汀が、しかし自分達を踏み潰そうと足を上げた千手観音を見上げる。
そしてソフィーが持っていたハンドガンを奪い取り、小瓶の中身を振りかけた。

「アリス症候群なら、逆にそれを利用してやればいいだけの話……!」

――不思議の国のアリス症候群。
そう呼ばれている。
日常生活を送るにあたって、ものがいきなり大きく見えたり、小さく見えたりする疾患だ。
原因は脳の一部が炎症を起こしているせいだと言われている。
特に子供に起こりやすく、遠い記憶でそのような体験をしたことがある人も、少なくはないのではないだろうか。
酷い時には蚊が何十センチの大きさにも見えたり、逆に人の頭部がなくなって見えることもあるらしい。
汀が液体を振りかけたハンドガンが、次の瞬間、ぶくぶくと風船のように膨らんで膨張をはじめた。
そしてたちまち、車よりも大きな……戦車のようなサイズになって、ズゥン、と砂に沈み込む。

「唖然としてないで手伝って!」

汀に怒鳴られて、ソフィーが慌てて空に向けられた銃口から弾丸を発射せんと、一抱えほどもあるトリガーに手をかける。
汀とソフィー二人が力の限り引いて、そして撃鉄が降りた。
パンッ、という軽い音がした。
しかし音に反して、発射された人間大の銃弾は空気を裂いて飛んでいき、千手観音の足を貫通して空の向こう側へと抜けていった。

「うわ……」

小さく呟いた汀の目に、ぐらりと後ろ向きに倒れこんだ観音像が映る。
足の傷口からおびただしい量の血が垂れてきて、小白が瞬時に傘のような形状になり、汀とソフィーを守った。
血が当たった小白傘の表面が、ジュゥ、という音とともに白い煙を発する。
倒れこんだ千手観音は、しかしそのまま倒れたわけではなかった。

空中でみるみるうちに小さくなり、たちまち人間大にまで圧縮されて、ドチャリと地面に崩れ落ちる。

「お……終わり……?」

ホッとしたようにソフィーが呟く。
しかし汀は、巨大な銃口を千手観音に向けて動かそうと体に力を入れた。

「まだ……終わってない!」

彼女の体に巻かれた包帯に、ものすごい勢いで血が滲み始める。
汀の馬鹿力とも呼べる力に押されて、天を向いていた銃口が横にスライドして、千手観音の方を向いた。

「引き金を……」

そこまで汀が言った時だった。
倒れこんでいた千手観音の姿が消えた。

そして、反応できていなかった汀の体が宙を舞った。
実に五メートル近く放物線を描いて小柄な体が舞い、地面に叩きつけられる。
もんどり打って頭を押さえ、汀が地面を引っ掻いて悶え回る。
何が起こったのか、とソフィーが理解するよりも早く、砂煙を舞い上げながら千手観音が、車にも負けない勢いで移動するのが見えた。
空中を僅かに浮遊している。
時速にして九十キロ近くは出ているだろうか。
観音像は汀のすぐ上に移動すると、無数の腕を振り上げて、満身創痍の汀に向けて力の限り振り下ろした。
小白がとっさに反応したのか、風船のような姿に変わってそれを受け止めるが、殴られた勢いに負け、ボコボコと変形しながら汀を巻き込んでまた吹き飛ばされた。
ゴロゴロと小さな女の子と猫がバラバラに地面を転がる。

「お……おかしいわ! こんなの、強すぎる!」

引きつった声をソフィーが発する。

少し沈黙して圭介が押し殺した声で言った。

『ガーディアンと戦闘中なのか? 汀のバイタルが異常値だ』
「相手の姿が見えない! 人間の想像力の限界を超えてる!」
『ガーディアンとはそういうものだ。物理法則が通用しないと言っただろう。野生のスカイフィッシュのようなものだと思え』
「どうやって……きゃあああ!」

そこでソフィーの脇を観音像が走り抜けた。
彼女の体が空気圧に負けて吹き飛ばされ、砂の上を転がる。
見ると、汀はうつ伏せに倒れこんだままピクリとも動いていなかった。
小白が近づいてその頬をペロペロと舐めている。

『汀のバイタルが消えた……ソフィー、早くガーディアンを倒して治療を完了させろ!』

遂に汀の体と精神に限界が訪れたらしかった。

分かっていたことなのだが、ソフィーが青くなって息を飲む。

「私一人じゃ……」

そこで、彼女はゾクリと悪寒を感じて振り返った。
背後の、数十センチも離れていないところに千手観音が浮いていた。
悲鳴を上げたソフィーの頬に、鞭のようにしなった腕の一つが突き刺さる。
そのまま少女は地面に頭から叩きつけられた。
殴られた、そう感じる暇もなく、ソフィーは無我夢中で手を伸ばした。
そして指先に硬い感触が当たったのを感じて、それを掴む。
汀が取り落とした仏像の一つだった。
そこの顔に当たる部分に貼ってあった女性の写真を手で剥がし、口の中が切れたのか血が混じった唾を吐きながら、彼女は叫んだ。

「あなたの奥さんを殺したのはあなた自身……仕事じゃないわ! その罪の意識から逃げ出そうとして、どんなに私達を痛めつけても何も変わらない!」

「…………」

千手観音の動きが止まった。

「奥さんの死因はわからないけど、あなた、死に目に仕事をしてて立ち会えなかったの? そうなのね? だから精神を病んで……こんな不毛な世界になったんだ!」

彼女の糾弾に、千手観音は僅かに後ずさった。

ソフィーは押し殺した声で叫んだ。

「現実を見ましょうよ! あなたの見ている景色は大きくも小さくもなくて、等身大の、あなたの奥さんと同じ景色よ!」

千手観音が身を捩り、口を開いて不気味に絶叫した。
ソフィーは手に持った写真を観音像に向けて投げつけた。

次の瞬間、写真が一瞬真っ白く光り火柱を吹き上げた。
それに巻き込まれて、千手観音が身を捩りながら段々と砂になっていく。
荒く息をついたソフィーの目に、今まで観音像がいた場所に、ビー玉のようなか細い精神中核が浮かんでいるのが見えた。

「……ガーディアンを撃退したわ。精神中核を確認……」
『了解した。すぐに治療班を向かわせる。君達は帰還してくれ』

圭介の淡々とした声を聞いて、ペタリと尻餅をついてソフィーは呟いた。

「治療……班?」
『精神中核の汚染を除去できるチームは用意した。君達の仕事は、ガーディアンの撃退だ。よくやった』

クックと笑って、圭介は付け足した。

『ご苦労様』

そこでソフィーは、ひらひらと先ほど爆裂したはずの女性の写真が舞い落ちてきたのを見た。
それが裏向きに、パサリと砂の上に落ちる。
そこにはエーゲ海の青い海原と、右下に「No,35」という表記が見て取れた。
左上に、ゼロと一の羅列が書いてある。

「夢座標……?」

そう呟いたところで、ソフィーの意識はブラックアウトした。



第19話に続く



お疲れ様でした。

1000埋まりませんでしたね。
次回からは次スレを立てて、そちらで連載を続行させていただきます。

次話は明日、5/20に投稿予定です。

また、カクヨムに新作サイコホラー小説を毎日連載中です。
併せてお楽しみ下さい。

m(_ _)m

乙です
ソフィーがだんだん可愛いくなっていく。ソフィーも偽名なのかな?


スカイフィッシュはマインドスイーパーの職業病のようなもので、他人のトラウマに接触し過ぎた事から良くないモノが精神内に蓄積した結果というのが定説だったが、どうやらその話も雲行きが怪しくなってきた、という理解でいいですか?
しかもスカイフィッシュは感染する?

こんにちは、皆さん。
本日から次スレに移動します。

【オリジナル】「治療完了、目をさますよ」2【長編小説】 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssr/1495260271/)

>>995
ソフィーは本名です。
フランス赤十字に大事に育てられてきました。
しかしマインドスイーパーが、全て病院に住んでいることにはまた別の意味があります。

>>995
スカイフィッシュは職業病的な側面もありますが、その発生などは少し複雑になっています。

マインドスイーパーが他人のトラウマに接触しすぎて、DIDを起こし恐怖心として分裂したものがスカイフィッシュ。
そのオリジナルスカイフィッシュを作り出したのが、ナンバーズ一期生のS級能力者、坂月健吾です。
そしてスカイフィッシュは真矢のように分裂し、マインドスイープネットワークを通して他者に感染します。

>>995
つまり、自殺病の治療でスイープネットワークに接続されると、その時点でスカイフィッシュに感染する可能性があります。
スカイフィッシュが全て同じ形をしているのも、そのような訳です。

スレ2で始まる最終章は、そのスカイフィッシュとの戦いになります。

どうぞ次スレでも楽しくお付き合いいただければと思います。
よろしくお願いしますm(_ _)m

 ⇒ To be continued...!!

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