岡部「離合集散のアンフィビアン」 (332)
以前立てたとあるSSの書き直し。
良ければお付き合いください。
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真新しい携帯電話から──
ピリリリリ
着信音──
ピリリリリ
見たことのない番号。
誰からだろう。
出たくない。
ピリリリリ
だが止まりそうもない。
出たくない。
けれど、出なくちゃいけない気がして──
ピリリリリ
意を決して指に力を込める──
その時、みんなぐにゃりと揺れ始める。
空と地面が逆さまになり、立っていられなくなる──
女性「ちょ、ちょっと!? 大丈夫!? しっかりして!」
ごめん……なさい……。
Chapter 1『分離喪失のデジャヴュ』
──熱い。
からだが──
あたまが──
煮えたぎる熱湯の中にいるみたいだ。
ボコボコと湧き上がる泡が産まれては消え、産まれては消え──
延々と繰り返される。
見覚えのない記憶の泡が産まれては消え、産まれては消え──
延々と繰り返される。
永遠にも感じられる時間。
まゆり……。
たすけられない?
たすけるってなんだ?
このまましぬ?
しぬ? だれが……?
熱はやがて引いていく。
暗く冷たい海の底に沈んでいく。
深い深い、光の差し込まない、心さえも凍てつく奈落へと。
無意識に息が漏れる。
また──泡。
泡の中には見覚えのある顔。
くりす。
くりす?
くりすって──
──だれだ?
そこで泡はぷつりと割れた。
2000年 1月14日
自然に、ごく自然に目が開いた。
自分が何をしていたのかわからなかったが、どうやら眠っていたようだ。
倫太郎「……」
目を開けると最初に、灰色の天井が目に入った。
電気はついていない。
灰色の天井と灰色の壁。
昼間のようだけどどこか暗い。
倫太郎「…………」
なんだか体がおかしい。
なんとも言えないおかしさに不安を覚えて、横になったまま手を上げてまじまじと見てみる。
小さな手。
いつも見慣れた自分の手。
だけどどこか懐かしいような、小さな──手。
倫太郎「あれ……?」
女性「え……? ……あっ!」
横で女の人の声がした。
すごく驚いてるみたいだ。
女性「良かった。目を覚ましたのね、倫太郎くん」
倫太郎「……あ、叔母……さん? あれ……ぼくは……」
叔母「あなた一ヶ月も熱にうかされてて……もう大変だったのよ」
叔母……うん、叔母さんだ。
最後にあったのはいつだっけ?
すごく懐かしい。
叔母「でも、もう大丈夫だからね」
叔母さんは僕の手をぎゅっと握って擦る。
それが気持ち悪いというわけじゃないけど、その大きな手に握られてるのがおかしい気がして──
倫太郎「ねえねえそんなことより聞いてよ!」
すぐに叔母がきょとんとした顔をする。
体を起こ──そうとするが思った以上に時間がかかった。
やっとの思い体を起こし大げさな手振りで話し始める。
倫太郎「夢を見てたんだ、すごく長い夢」
倫太郎「ぼくが大人になるまでの夢!」
叔母「え、えっと……?」
さっきまで見ていたんだ、よく覚えている。
倫太郎「それでね? けんきゅうじょをつくって、たくさんなかまもいて!」
そう。ラボメンは常に味方で──
倫太郎「ぼくがリーダーで、あくのきかんとたたかってて!」
そう──
倫太郎「それで……それで……あれ?」
──どうしてだろう。
それ以上思い出すことができない。
何かしなくてはいけない気がするのに思い出せない。
代わりに涙がポロポロと出てきていた。
倫太郎「ぼく……なんで……。おかしいな、夢の話なのに……」
叔母「……大丈夫、叔母さんが付いてるから……」
倫太郎「ねえ……まゆりは? まゆりに会いたい」
叔母「まゆ……り? 誰かしら」
ふとまゆりのことを思い浮かべたら涙が止んで落ち着いた。
泣きたいけど、泣いていてはダメな気がした。
男性「……友だちかなんかだろう」
いきなり男の人の声がしてビクっとなる。
狭い部屋の中の扉の近くに男の人が立っていた。
今気づいた。
義叔父さんだったかな?
それより、ここはどこなんだろう。
やけに白い──というよりは全体的に灰色だ。
家具とかもない。
叔母「でも、2000年クラッシュの直後だし……今は東京中が混乱してて……とても友達と連絡なんて……」
2000年クラッシュ……。
なんだっけそれ。
義叔父「日本、いや世界中も大混乱だ」
叔母「そうよね……こうして病室でゆっくりできるのだって運がいい方だもの」
義叔父「何が2000年だ、何がミレニアムだ」
義叔父「全く2000年クラッシュのおかげで最悪の年明けだ」
2000年……?
いまって2000年だったっけ?
20…………。
義叔父「そのせいで義兄さんたちの葬儀もいつになるか──」
そう……ぎ……?
叔母「ちょっとあなた!」
義叔父「まだ8歳だ、葬儀の意味なんて分からんさ」
倫太郎「ねえ、お父さんとお母さん死んじゃったの?」
叔母「え、え!? す、少し遠くに行っちゃっただけよ」
倫太郎「今、でも今、そうぎって……」
義叔父さんが気まずそうに目をそらした。
倫太郎「うそだ、うそだよ。夢の中では二人ともずっと生きてて……」
ずっと。
倫太郎「店番店番って口うるさいけど……これからもずっと……」
そう、ずっと。
倫太郎「うそだうそだうそだ……」
近くにいるはずだった。
叔母「倫太郎くん……」
まゆりも──
倫太郎「なんだよこれ……」
みんなも──
叔母「倫太郎くん……大丈夫、大丈夫だから……!」
もうひとりの自分を上から眺めているような気分だった。
やがてゆっくりと離れていく、離されていく。
ゆっくりと──
そこから先のことはよく覚えていない。
無事に退院して数年が過ぎた。
町は徐々に復興し始めていたが、2000年クラッシュは俺たちの生活を大きく変えた。
町を歩くとどこか暗い顔している大人たち。
薄暗く活気の少ない町。
思い描いていた未来とは全く違っていた。
そんな中でも大人たちとは違い、子供たちはある程度適応していた。
ざわざわと騒がしい教室内。
その日の夜には、どれも忘れられているような話ばかり飛び交っている。
昨日見たテレビの内容。
くだらない世間話。
中学に上がってもそれはさほど変わらない。
ただ、その中でも輪に馴染めない奴はそれなりにいた。
両親や友人を亡くした奴はそういう傾向にあったが、御多分にもれず俺もそうだった。
最初は俺も馴染もうとした。
が、ダメだった。
周りの奴らみんなガキに思えたし、下世話な話に付き合う気にもなれなかった。
俺だって、そういった感情を露骨に出していったわけではなかったが、隠しきれなかったのか、はたまた感じ取られていたのか。
みんな俺から離れていった。
俺の境遇からか、むき出しの敵意を向けられることはなかった。
ある一定の距離を置かれるだけで済んだ。
俺も距離を置いた。
表面上は理解のあるクラスメート。
裏ではただの他人。
言わずともそんな関係が保たれていた。
カリカリとペンの走る音だけが聞こえる。
テスト中の静かな時間は良い。
ただただ無になれるから。
居場所なんて気にせずに無になれるから。
終了を告げるチャイムの音とともに教室がざわつき始める。
嫌な時間だ。
少年A「なあ岡部、問3の選択、Bだよな」
倫太郎「Cだったかな」
少年A「うそ! まっじかよ! 絶対教科書で見たって! 直前にさ!」
倫太郎「教科書通りと見せかけた引っ掛けだな、あれは」
少年A「うわ! 最悪……」
少年A「ま、学年1位のお前が言うならそうなんだろうな……」
成績は悪くなかった。
必死に勉強しているというとそうでもない。
ただ分かるだけだった。
最初から知っているかのように。
少年A「あ、俺トイレ」
倫太郎「分かった」
トイレか……俺も行っておこう。
だが少し遅れていく。
用は一人で足したい。
席を立ったそいつの背中を見送り、ざわついた教室の中でまた無になろうとする。
入口の前まで来ると話し声が聞こえた。
また誰かトイレでたむろっているのか。
苦手なんだがな、そういう中で用をたすのは。
少年A「問3の選択、B!! と見せかけてCなんだなこれが」
少年B「は? いやいや、それはないって」
少年A「ところがどっこい、教科書通りと見せかけた引っ掛けなのよ、あれが」
少年B「まじかよ、俺ミスったわ……」
少年C「つかそれ岡部の受け売りだろ、さっき聞いてたぞ、俺も」
少年A「げっ……聞いてたのかよ」
少年B「また岡部か」
少年C「というかあいつ、いつ勉強してんだ? あいつがまじめに授業聞いてるとこ見たことないんだけど」
少年A「だよな、それ俺も思ってた」
少年B「カンニングでもしてんじゃね、さすがにおかしいと思ってたし」
少年A「いや、教師に賄賂だろ!」
少年C「無くはないよな。ずっと1位はな……」
少年B「それで調子乗ってるとしたら痛すぎだろ」
少年C「たまに予言じみたこと言ってたよな」
少年B「そうそう、あいつの口癖、”なんか見覚えがある”だったからな、痛すぎ」
少年A「いてーいてー! はははっ」
倫太郎「…………」
分かっている。
こういうものだということは分かっている。
皆、表の顔と裏の顔を使い分けて生きていくんだ。
だから大した衝突もなく平和に生きていけるんだ。
だから自分を壊さず生きていけるんだ。
でも今の俺には仮面なんて被れない。
上手く被ることができない。
──“被る理由がない“
その夜、両親の死後世話になっている叔母夫婦の家で夕食を取っていた。
叔母夫婦、そしてその一人息子。
彼らと一緒にいる時間もあまり好きではなかった。
俺はここでも馴染めずにいる。
もそもそと食事を取っていると、ふと懐かしいフレーズが耳に入った。
テレビ「連れてなど行かせぬぞ! 貴様はこの私の人質なのだからな!」
青年「はははっ!」
それを見ながら叔母夫婦の一人息子が笑っている。
今流行っているドラマだ。
最新話の放映で、見たことがないはずなのに、なぜかとても懐かしく感じた。
そんな言葉、聞いたことがないはずなのに、心にぽっかり穴が開いてしまったような感覚。
同時に無性に恥ずかしくなって、次第にその独善的な態度にイラついてきた。
倫太郎「くだらない……ただの厨二病じゃないか」
青年「は?」
倫太郎「……何がマッドサイエンティストだよ、痛いんだよ!」
青年「おいおい……なにテレビにケチつけてんだよ」
青年が箸を叩きつけて俺を睨む。
義叔父「おい、食事中だぞ、二人とも」
青年「…………」
叔母「ちょ、ちょっと倫太郎……いきなりどうしたの?」
倫太郎「あ……いや……」
見かねた叔母夫婦が仲裁に入り、俺は我に返った。
倫太郎「……すみません」
青年「……」
青年「意味分かんね」
青年は吐き捨てるようにボソっと呟くとテレビに向き直った。
気まずい空気の中、マッドサイエンティストがバカみたいに高笑いしていた。
数時間後。
食事を終えた俺はすぐに、眠ってしまおうと布団に潜り込んだのだが……。
眠れない。
なんであんなテレビにイラついた?
いつもなら流すのに。
なぜか見たことがあるような。
ここ数年、よくそんな感覚に陥る。
なんだよ……何なんだよコレ。
デジャブってやつなのか?
まゆり……まゆりは今どこで何をしてるんだ。
2000年クラッシュの後、行方が分からなくなっていた幼馴染の少女を思い出す。
あの無邪気な笑顔を思い出したら胸の奥がズキンと痛み、その痛みが指先まで走り抜けた。
眠れない。
喉の渇きを潤すため体を起こし、暗闇の中を歩く。
ふとリビングから光が漏れているのに気づいたが、すぐに通り過ぎ、台所を向かおうとしたその時──
『もう限界だっつの』
イラつきを隠せない青年の声。
『でもねぇ……』
『俺だって我慢してんの、でもあいつはいつまで経っても塞ぎこんだままだし、暗いし笑わねーし』
『今日の晩飯んときだって聞いたろ? 事あるごとにわけわかんねーことばっか言ってさ』
『そう言うな、倫太郎も両親を無くして辛い思いをしてきているんだよ』
『2000年を境に色々と変わってしまって、混乱してるのよ……』
『でももう何年経った!? 俺だって友達亡くしてたりしてんだよ!』
『最近は言わなくなったけど、最初の頃はまゆりがどーとかこーとか煩かったよな!』
『俺だって、あの頃は辛かったんだぞ!?』
『論点がずれてきている、ともかく倫太郎はまだ中学生だ、追い出すなんてとてもじゃないができない』
『そうよ、少なくとも中学卒業までは……ねぇ』
倫太郎「……っ」
分かってた。
俺の居場所は……ここじゃない。
学校にも……家にもないんだ。
翌日、俺は学校には行かず、記憶の奥底に眠る町へと赴いていた。
俺の目の前には、萌えの町である秋葉原には似ても似つかない古臭いビル。
記憶を頼りに来てみたが……本当にあったんだな。
来たことなんてないはずなのに。
倫太郎「大檜山ビル2階……空き部屋、か」
顎を上げると、窓に貼られている紙が目に入った。
倫太郎「……ははっ、ははは」
期待とは裏腹な結果に、乾いた笑いがこみ上げてくる。
ここに来ればまゆりに会えるかもしれない、そう思っていた。
会えるわけがない。
俺の居場所があるかもしれない、そう期待していた。
あるわけがない。
当たり前だよな……。
俺にはもう居場所もないし、家族も、幼馴染もいないんだ……。
男「おい、何してんだ店の前で。客か?」
倫太郎「え? あ、いや……おっ、俺は……」
突然声をかけられたせいなのか、うまく話すことができない。
立っていたのは190cmはありそうな筋肉質の大男。
ずっと2階を見上げていたから目の前にこんな大男が立っていたのに気づかなかった。
男「んだよ、ガキか。客って訳じゃあなさそうだな」
倫太郎「俺はガキじゃ……」
周りの奴らは皆ガキだと思っていたから、ガキって言われたことに腹を立て、否定しようとする。
男「ガキだろ、高校生……ってとこか?」
倫太郎「……中学生です」
俺ってやっぱり老けているのか?
男「マジかよ、にしては大人しいな。最近の中坊っつったらギャーギャーと騒がしいのによ」
倫太郎「……」
今のはフォロー……されたのか?
男「で? ここらじゃ見ない顔だし、うちの客でもないみてーだけどよ、なんの用だ?」
この人と話しているとなんだか不思議な感覚に陥る。
恐ろしいような、落ち着くような……。
恐ろしいのは、見た目のせいかもしれないが。
だが、この人ならば、何か知っているかもしれない。
倫太郎「……ここの2階って、ずっと空き部屋なんですか?」
男「あん? そうだけどよ」
倫太郎「なんだかここ、すごく懐かしくて……俺の居場所だった……そんな感じがするんです」
男「居場所? 変なこと言うじゃねーか」
倫太郎「……俺には居場所がないんです、家にも学校にも」
地面に視線を落とし、ぼそぼそっと呟く。
変だな。
いつもはこんなこと、会ってすぐの人に話したりはしないのに。
男「なんだよ、家にも学校にもいたくねえってか?」
少し我に返って、ゆっくり頷いた。
男「ったく、贅沢だなおい。帰る家があるーってのは、それだけで幸せなんだぜ」
男「それを分かってて居場所がないとか言ってんのか?」
倫太郎「……」
男「……なぁ、真冬のマンホールの中──いや、ガキにする話じゃねーな」
倫太郎「……?」
男「おい、おめーどっから来たんだ? 家は?」
倫太郎「中野……でも、本当は……池袋」
中野は叔母の家。
池袋は……。
男「池袋……っていやー、2000年クラッシュで特に被害がでかかった……」
男は何かに気づいたようにハッとして──
男「悪かったよ……」
男「……おめーみてーなガキにも色々あるってわけだ」
男「本当にすまなかった、この通りだ」
男が頭を下げて謝ってくる。
ぎゅっと閉じられた瞼が、本当に申し訳ないと思っていることを物語っていた。
そんなに謝られてもこちらとしてもバツが悪い。
倫太郎「……」
男「俺は天王寺裕吾。おめー、名前は?」
てん……のうじ……。
やはり、なんだか懐かしい。
倫太郎「……かべ」
天王寺「おーいおい、聞こえねーよ」
倫太郎「岡部……倫太郎」
天王寺「なんだと? 岡部倫太郎?」
倫太郎「……はい」
天王寺「なぁおめぇ、鈴さん……橋田鈴って知ってるか?」
はしだ……はしだ……すず……?
倫太郎「聞いたことは……あるような」
天王寺「……そりゃそうだよな、仮に会ったことあるっつっても覚えてるわきゃねーよな……」
倫太郎「……?」
天王寺「いや、こっちの話だ」
橋田鈴……。
どこで耳にしたんだっけか。
天王寺「なあ岡部、おめー今日からうちでバイトしねーか」
倫太郎「え? バイト?」
天王寺「っつってもまだ中坊だからよ、実質手伝いみてーなもんだ」
天王寺「もちろん謝礼もそれなりに出してやる。そんで、おめーが中学卒業したら、ここの2階、格安で貸してやるよ」
倫太郎「え……?」
天王寺「そうだな、家賃1000円でどうだ?」
1000円?
家賃は収入の3分の1くらいが好ましいって聞いたことあるような……。
倫太郎「……中学生の俺でも分かるくらい安いですよねそれ。いや、それとも、1日1000円とかですか?」
天王寺「んなわけねーだろ、月だよ月」
天王寺「あぁでも、ブラウン管ちゃんを壊したら、家賃アップな」
倫太郎「……」
天王寺「どうする? 自信なかったら断ってもいいんだがな。欲しいんだろ? 居場所ってやつが」
欲しい。
俺の居場所が──
倫太郎「いえ、やります、やらせてください」
天王寺「へへっ」
決意を伝えると天王寺はニカっと笑い、隣のビルの自販機で──
倫太郎「……?」
天王寺「ほらよ」
1本の缶ジュースを投げ渡される。
ひんやりしていて心地が良い。
倫太郎「これって……」
天王寺「マウンテンジュー、ガキは好きだろ? こういうの」
その体躯に似合わぬ温和な笑顔。
見た目との差が激しいが、不思議と心地はいい。
倫太郎「だから俺はガキじゃ……」
天王寺「いいから飲んどけって」
倫太郎「……」
缶を開けようとプルタブに指をかけ力を込める。
その瞬間ブシューっと泡がこぼれ落ち──
倫太郎「あ、あぁっ……」
咄嗟に零れ落ちるジュースをすすった。
天王寺「おいおい、何してんだ、ったく」
いや、炭酸を投げて渡すあなたもどうかと……。
倫太郎「……美味い」
天王寺「そうか、そりゃ良かった」
ポン、と肩を叩かれ笑顔を向けられる。
それは先ほどとは違い、どこか淋しげな笑顔だった。
こうして俺は、手伝いとしてブラウン管工房に出入りすることなる。
とは言え、時代の流れはブラウン管テレビよりも液晶テレビ。
工房の手伝いは忙しさとは無縁だった。
たまに来る貧乏そうなお客の接客の他は、店内の掃除、店長の娘である綯の世話ばかり。
それでも俺は、家に帰らない日もあるほどこの場所に入り浸った。
居場所を求めて。
記憶の奥底にある、この場所を求めて──
Chapter 1 『分離喪失のデジャヴュ』END
Chapter 2 『焦躁のサクリファイス』
2006年 12月
天王寺「んじゃ俺はちょっと遠出するからよ。綯の世話と店番、頼んだぞ」
倫太郎「いってらっしゃい、店長」
天王寺「言っとくが綯に手ぇ出したら殺す」
軽トラックのウィンドウから太い腕を出しビシィと指をさす天王寺。
倫太郎「だ、出しませんよ……」
出せるわけがない。
というか俺はロリコンではない。
小さくなる軽トラックを眺めていると──
綯「ねーねー、バイトのお兄ちゃん。今日は何して遊ぶの?」
倫太郎「ごめんな綯。今日は店内の掃除、しときたいから……」
綯「そっかー……じゃあ私、一人で遊んでるね」
倫太郎「あぁ、あんまり引っ掻き回すと危ないから、気をつけろよ」
綯「うん!」
そう言って、とことこと店の奥に入っていった。
物分りの良い子で実に助かる。
さて、と……。
倫太郎「よっ……」
テレビ重っ……。
片付けを終え店番をしていると、大柄の男が店内にのしっと踏み入ってきた。
外は夕暮れで赤く染まっており、逆光のため男の顔はよく見えない。
天王寺「帰ったぞー」
綯「あ、お父さ〜ん!」
天王寺「おー、よしよし。いい子にしてたか綯〜?」
綯「うん!」
倫太郎「お帰りなさい、店長」
天王寺「おう、どうだ? 客は来たか?」
倫太郎「いえ、今日は一人も……」
天王寺「……かー、世知辛ぇなぁ」
倫太郎「それじゃあ俺、帰りますんで」
天王寺「おい、今日はうちで飯食って行けよ」
帰り支度をしていたら急に呼び止められる。
倫太郎「え、でも……」
天王寺「遠慮すんなって、シュークリームも買ってきてるしよ」
綯「わーい! ありがとうお父さ〜ん!」
倫太郎「じゃあ、お言葉に甘えて……」
天王寺「んじゃ車用意してるから、店閉めといてくれや」
天王寺「しっかしおめーもたくましくなったな」
倫太郎「そうですかね」
自分の腕を見てみる。
天王寺のように太くはないものの、至る所に凹凸が浮かび引き締まって見える。
天王寺「会った頃なんて、ひょろっひょろしてやがってよ。あー、おい、肉食え肉」
倫太郎「はい、頂きます」
綯「お父さん、シュークリーム!」
天王寺「おいおい、だめだぞ綯〜、デザートは食後って決まってんだよ」
綯「え〜」
温かい。
久々の温かい食卓。
天王寺「おいこら岡部。肉ばっか食ってんじゃねえ! 野菜も食え!」
倫太郎「はは、どっちなんですか」
天王寺「こっちの煮物も絶品だから食えっつってんだよ」
胸の奥が暖まるような時間が流れている。
俺の居場所が確かにここにあった。
俺の求めていた場所とは──少し違うが。
倫太郎「それじゃあ俺はそろそろ帰りますね。ごちそうさまでした」
天王寺「おう、送ってってやるよ」
倫太郎「でも、そこまでして頂くわけには……」
天王寺「おめーの老け顔なら夜道歩いてても大丈夫だろうが、まだ中学生だろ? いらねぇ遠慮すんなって」
倫太郎「……はは、酷いですよ、それ」
天王寺「うるっせぇ、男はなぁ、ちょっとくれー老けてたほうが貫禄あんだよ!」
なるほど、そう自分に言い聞かせてるんですね。
倫太郎「じゃあ、お言葉に甘えます」
天王寺「最初っからそういやいいんだよ」
物言いは厳しいが、確かな優しさがそこにあった。
天王寺「ったく、また信号まちかよ……」
ゆるやかに振動する車内。
イラつきを隠せない様子で天王寺が呟く。
外はもうすっかり日が暮れ、車通りも人通りも少なくなり始めている。
天王寺「おい、もうすぐ高校受験だな。勉強はしてんのか」
倫太郎「いえ、あんまり」
天王寺「おいおい、高校浪人とかシャレになんねーからな、やっとけよ?」
倫太郎「大丈夫ですよ、学校の授業はちゃんと受けてますし」
天王寺「まあ、落ちたときは正式にうちのバイトとして雇ってやるからよ、ははっ」
あの店で正式にバイト、か。
暮らしていけるのか?
そんなことを考えながらウィンドウごしに外を見ると歩道に白い影が揺れていた。
あれは……女?
あの女は……っ!
目の奥にずっしりとのしかかる鈍痛に、思わず頭を押さえる。
うぅ……。
どこかで、どこかで見たことが……。
天王寺「おい? どうした岡部」
天王寺「ったく冗談だよ、本気にすんなって」
倫太郎「て、店長! ここまでで結構です!」
天王寺「あ、おい!?」
車のドアを乱暴に閉め、走りだす。
気づけばその女を追いかけていた。
天王寺「おい、岡部! おめ、どこに──」
天王寺の声が遠く響いていたが、追わずにはいられなかった。
さっき道を歩いてた女……どこかで……!
どこだ、どこへ行った!
確かこっちの方向に……。
冷たい風を切って走る。
どれほど走り回ったのだろうか。
息は切れ、筋肉はきしみ、心臓は悲鳴を上げている。
真冬だというのに汗が止まらない。
焦りも──止まらない。
倫太郎「はぁっ……はぁっ……」
見失ってしまったため、辺りを闇雲に探すしか方法がない。
倫太郎「くそ……どこに……」
見たことあるんだ……どこかで!
気になる……会って話がしたい……。
倫太郎「はっ……はぁっ……ふぅっ……」
倫太郎「はぁっ……も、もう……」
限界だ、走れない。
膝に手をつきゼイゼイと息をする。
倫太郎「…………」
落ち着いたら急に諦めの気持ちが浮かんでくる。
──帰ろう、そう思い顔を上げ瞬間──
倫太郎「──あ」
女は公園のベンチに仰向けに寝ていた。
俺は急いで女の方へと走りだす。
倫太郎「お、おい! こ、こんなところで寝てたら風邪を……」
女の手は組まれ、まるで──
女「……」
死んでいるように見えた──
倫太郎「なぁ……」
近づくに連れ心臓の鼓動も近くなる。
ドクドクと脈打つ血が俺の中を駆け巡っている。
恐る恐る体を揺さぶってみた。
すると女の脇に置いたあった何かが音を立てて落ちた。
ん? なんだこれ。
す、睡眠薬!!?
女「……」
大変だ……! で、電話! 救急車!
ズボンのポケットから携帯を取り出すと着信が着ていることに気づいた。
着信……店長!
すぐに通話ボタンを押す。
天王寺『おい、岡部! おめー今どこに──』
倫太郎「店長! 大変なんです! 人が! 人が倒れてて!」
天王寺『は? お、おい、そりゃ本当──』
倫太郎「せっかく会えたのに! ど、どうしたら──」
ダメだ。
どうしたいいのか分からない。
どうしたら救えるのか俺にはもう、分からない……。
天王寺『落ち着けって! あー、とりあえず場所を言え』
倫太郎「……あ…‥え、えっと……こ、公園! ○○公園……!」
天王寺『分かった、そこで大人しく待ってろ』
ぶつっと通話が切れ、ものの数分後に天王寺が乗った軽トラックのライトが近づいてきた。
〜病室〜
医者「もう心配要りませんよ、飲んだ睡眠薬の量はたいしたことはありませんし」
医者「最近のは安全性が高いので、大量に飲んでも吐いてしまうんですよ」
天王寺「そ、そうか、そりゃ良かった」
その言葉を聞き、ほっと胸を撫で下ろす。
良かった……。
医者「それより、この寒さの中ずっと眠っていたら本当に危なかったかもしれませんね」
天王寺「ったく、自殺なんてバカなことしやがる」
医者が出ていった後も俺はその場に居続けた。
この場は任せてお前は帰れ、と言われるかと思ったが天王寺は何も言わずに俺と一緒にいてくれた。
いつもの俺じゃない、そう感じ取ったのだろうか。
女「う……」
ベッドで死んだように眠っていた女が呻き、目を開ける。
倫太郎「あ……」
天王寺「お、目が覚めたようだな」
女「ここ……は」
天王寺「残念ながら病院だ。こいつがいなきゃ今頃あの世だったろうがな」
倫太郎「……」
女「……」
天王寺「俺は医者を呼んでくる。少しの間任せたぞ、岡部」
そう言って静かに病室を出ていく天王寺。
取り残された俺たち。
この女には聞きたいことがある。
女「おか……べ」
倫太郎「なぁ、お前に聞きたいことが──」
女「どうして?」
質問を遮られ、面を食らってしまっていると──
女「どうして死なせてくれなかったの!?」
倫太郎「お、おい!」
女「どうして! どうしてどうして!」
声を荒げてベッドの上でジタバタする女。
殴りかかってきたりする様子はないものの、どうしていいのかわからず声をかけることくらいしかできない。
天王寺「何があった!」
外にこの声が漏れていたのか、勢い良く扉が開かれ天王寺と看護師が入ってくる。
看護師「下がってください!」
女「どうしてよぉっ……!!」
倫太郎「……っ」
女の悲痛な叫びを聞いていると居た堪れなくなってくる。
俺のしたことは、間違いだった……のか?
遅れて医者が入ってくる。
医者「とてもじゃないが話せる状態じゃありません。今日はもうお帰りになってまた後日……」
天王寺「な、なんだってんだよ一体……」
翌日、助けた女の病室にて。
倫太郎「…………」
女「…………」
長い沈黙──
倫太郎「なぁ……」
女「…………」
倫太郎「…………」
女「帰って」
倫太郎「……っ」
女「帰って……帰ってよ!」
倫太郎「……分かった」
こんな状態じゃ、まともに話せないよな……。
倫太郎「また……来る」
女「来なくて……いいっ……」
倫太郎「……」
その翌日も俺は病室にいた。
建前は見舞い。
本音は──
聞きたいから──
前に俺と会ったことがあるんじゃないか、と。
ただそれだけ。
それだけの理由で──
倫太郎「……」
女「……」
倫太郎「なぁ、聞いてもいいか」
女「…………」
静まり返った病室で言葉を投げかけるも、すぐに静寂の渦に飲み込まれ消えてゆく。
どれほどの時間を無音が支配しただろう。
実際にはたいして時を刻んでいなかったのかもしれない。
女「どうして」
ふと、女がポツリと呟いた。
倫太郎「え……」
女「どうして助けたりなんかしたの」
疑問ではなく追及。
だが、どう応えればいいのかわからない。
倫太郎「それは……人が倒れてたら助けるだろ……」
倫太郎「それに……聞きたいことも……あったし……」
女「そんな理由で……そんな理由で助けたの?」
女「人の生き死にを左右させておいて、そんな理由で!?」
女「それだけの理由で……」
倫太郎「そんなつもりじゃ……」
違う、それだけの理由なんだ、きっと。
でも……。
女「人助けができてあなたはそれで満足でしょうね……でも私は……っ」
女はそれ以上続けなかった。
押し殺した嗚咽だけが、俯いた俺の耳に鳴り響き続けた。
2007年 1月
俺は年が明けてからもその女の見舞いに行くべく病院に通っていた。
前々から陥る不思議な感覚を解くヒントになるかもしれない。
そう思ったから。
でも、何か別の感情があることに、今は気づかなかった。
倫太郎「……もうすぐ、退院できるんだってな」
女「……退院したところで、どうしようもない」
俺には顔を向けず、病室の窓から鈍色の空を眺めたまま女は言う。
話し声に抑揚がなく、本当に生きている人間なのか怪しくなってくる。
女「どうすることもできない。どう生きていけばいいのかも、分からない……」
女「家族もいない……私には……居場所がないの……」
倫太郎「……」
居場所か。
倫太郎「気持ちは、分かるよ」
女「……適当言わないで」
倫太郎「俺もそうだったから」
そう。
俺も──
倫太郎「2000年に両親が死んだが、幸いなことに叔母夫婦に引き取られて面倒見てもらえた」
萌郁「……」
倫太郎「だけど、想像してた未来はまるで違っていて……」
倫太郎「窮屈だった、俺の居場所はここじゃないっていつも思ってた」
女「その場から消えてしまいたい、って思ったことは、ないの?」
ふいに女がこちらを見ていることに気づいた。
以前向けていたような敵意に満ちた目はしていない。
今は──捨てられた子犬のような瞳。
倫太郎「もちろん、あるさ」
倫太郎「それでも、生きてさえすれば考えも環境もいずれ変わる」
倫太郎「きっかけがなんであれ、居場所を作ることだってできる」
倫太郎「どこかに居場所はあるんだ。きっと、誰にでも……」
これは紛れもなく本音だ。
やはり人が死ぬのは見たくはない。
知っている人間であればなおさらだ。
この女と俺だって、少なからず関わりを持ってしまっているのだから。
倫太郎「もちろん、お前にだって……」
倫太郎「だから……死ぬだなんて、悲しいこと言わないでくれ」
女「……」
倫太郎「って、中学生なんかにお説教されても腹立つよな……」
女「え……」
倫太郎「ん?」
女「あなた……中学生だったの……? てっきり、年上かと……」
倫太郎「なんだよそれ」
女「見た目より、老けてる、から」
またか。
せめて大人っぽいと言ってくれ。
女「ふふ……」
倫太郎「あのな……」
女「……桐生、萌郁」
倫太郎「え?」
萌郁「私の、名前」
入り口の前で確認済みなんだが。
まあいい……。
倫太郎「岡部倫太郎だ」
萌郁「ありがとう、岡部くん……もう少しだけ、頑張ってみようかな」
病室を後にし、ロビーを歩く。
いつも通り人であふれていた。
2000年クラッシュは様々な形で爪痕を残している、と改めて実感させられる。
そうだ。
あいつが退院すること、店長にも伝えないとな。
それにしても、前向きになってくれたみたいでよかった。
少しでも記憶の謎を解く鍵になる話を聞ければいいんだがな。
じゃないとあいつを助けた甲斐も──
って何を考えているんだ俺は!
違う、そうじゃない! そんな理由で助けたわけじゃない……!
あれは夢、夢なんだよ……!
俺は……俺は……!
倫太郎「うぅっ……」
女の子「あの……大丈夫ですか?」
ロビーの隅っこでうずくまる俺に女の子が声をかけてくる。
倫太郎「あ、あぁ……心配要らない。少し立ちくらみが──」
──え?
女の子「んー?」
目を疑った。
信じられなかった。
俺に声をかけてきたその少女は──
倫太郎「まゆり……? まゆりじゃないか!」
まゆり「え? どうしてまゆりの名前……」
倫太郎「よかった、無事だったんだな!」
その小さな肩を掴み安堵の念を反芻する。
よかった……本当に……よかった。
もう会えないかもって思っていた。
まゆり「い、痛いよ!」
肩を掴む手に力が入っているのに気づく。
倫太郎「あ、わ、悪い……」
まゆり「え……えっと……」
倫太郎「なあ、覚えてないか? 俺のこと。ずっとまゆりのこと探してたんだよ!」
まゆり「え? んーと……?」
んー、と唸り、顔を強ばらせながら考え込むまゆり。
数秒後その顔がパッと輝き──
まゆり「あー! 岡部くんだぁー!」
倫太郎「そうだよ、岡部だよ!」
まゆり「なつかしいなぁ……小さい頃はよく遊んだよね〜」
倫太郎「あぁ、そうだなっ……」
倫太郎「……っ」
ふと頬に熱いものが流れるのを感じた。
まゆり「え? あ、あれ? 岡部くん……?」
倫太郎「え? い、いやっ……な、なんでだ……」
倫太郎「よくわからないけど、まゆりの姿を見たらなんか……」
今も変わらぬその笑顔を見ていたら自然に涙が零れてくる。
あぁ、本当によかった。
まゆり「もう、大げさだよ〜」
倫太郎「ははっ……ま、全くだ……」
倫太郎「でっ、でも、どうして病院にいるんだ?」
まゆり「……」
刹那、今までの楽しそうな笑顔ではなく、悲しげな笑顔になる。
病院。
病院……。
まゆり「ねえ岡部くん、座って話そうよ。久しぶりに会えたから話したいこともいっぱいあるし」
倫太郎「あ、あぁ……」
それから俺たちは今まであった出来事を語り合った。
まゆりが話した内容は次の通りだった。
2000年クラッシュでまゆりの両親が亡くなったこと。
それに伴い上野にいる叔母に引き取られたこと。
叔母は優しく、まゆりを本当の娘のように可愛がってくれたこと。
そして──
まゆりは今、完治の難しい病気を患っている──
倫太郎「見舞い、来るからな」
まゆり「うん」
倫太郎「がんばれよ」
まゆり「うん、ありがとう。岡部くん」
そう言って俺は足を踏み出す。
まゆり……。
明るく振舞っていたが、目を見れば分かる。
まゆりは今、とても苦しんでいる。
だったら俺は、苦しみから救ってやりたい。
あの笑顔を守りたい。
連れてなんて行かせない。
そう、心に誓ったんだ。
──あれ?
いつの話だ?
2ヶ月後 2007年 3月
まだ肌寒さを感じる春の午後。
珍しく空が青く、雲が白い。
俺は今、大檜山ビル2階の扉の前にいた。
天王寺「よく頑張ったな。2階は好きに使えや」
倫太郎「ありがとうございます、店長」
天王寺「言っとくけどよ、晴れて1人暮らしだからって、いきなり女連れ込むんじゃねぇぞ高校生!」
倫太郎「そ、そんなことしませんって……」
天王寺「しょっちゅう萌郁の見舞いに行ってたじゃねーか」
顔を近づけて薄ら笑いしてくる。
倫太郎「それは……別にそんな関係じゃないですよ、それに……」
天王寺「それに?」
倫太郎「勉強も忙しくなるでしょうし、そんな暇ありません」
天王寺「へぇ、おめーが勉強? これまで勉強してるとこなんざみたことねーのに」
倫太郎「……俺、医者になりたいんですよ」
天王寺「医者……そりゃあれか、例の幼馴染のためってやつか」
倫太郎「……はい」
天王寺「叔母夫婦への恩返しにもなるな。高校の学費、出してもらってんだろ?」
倫太郎「はい、本当に頭が上がりません」
天王寺「まっ、頑張れや、立派な志だ」
まゆりが苦しんでいるなら助けてやりたい。
そのために俺はここにいるんだから。
難病を患っているというのであれば俺が……。
俺が治してやる。
2007年 5月
今日もまゆりの見舞いのため病室へと向かう。
なんの話をしてやろうか。
最近できた友人の話でもしてやるか。
あいつはとても変なやつだが不思議とウマが合う。
そんな心持ちで扉を開けると──
倫太郎「まゆり元──」
るか「あ、こ、こんにちは……岡部さん」
倫太郎「あ、あぁ。こんにちは」
まゆりの傍らに、漆原るかが椅子に腰を落としていた。
まゆりのクラスメートで、よく見舞いにも来てくれている。
俺が見舞いに来るようになってから知り合った。
彼女も以前から知り合いだったような気がする。
ここ数年そんなことばかりだ。
いい加減気にするのもやめないとな。
まゆり「……あ、岡部くん。いつもごめんね」
心なしか、元気が無いように思える。
ケンカでもしてしまったんだろうか。
倫太郎「いや、構わない。それより、悪いのか? 体調」
まゆり「ううん、そういうわけじゃないんだけど……」
るか「……」
まゆり「ちょっとだけ疲れちゃったから眠るね?」
倫太郎「そうか……それじゃ仕方ないよな」
まゆり「ごめんね? せっかく来てくれたのに」
申し訳なさそうにするまゆり。
そんな顔されるとこっちまで申し訳なくなる。
まゆりには笑顔でいてもらいたいのに。
るか「……それじゃあボクも……これで」
倫太郎「……」
病室を後にし、2人廊下を歩く。
まゆりとるかのただならぬ表情が気になり、立ち止まって尋ねてみる。
倫太郎「なぁ、どうしたんだ。今日のまゆり」
るか「……」
倫太郎「何か知ってるんじゃないのか? よかったら教えてくれないか」
るか「で、でも……」
倫太郎「頼む、教えてくれ。まゆりの力になりたいんだ」
るか「え、えっと……ボク、病室の前でまゆりちゃんの叔母さんとの会話……聞いちゃって……」
倫太郎「え?」
るか「き、聞くつもりはなかったんですけど……ボク……」
ザワザワと。
倫太郎「いいから詳しく聞かせてくれ!」
るか「は、はい! それで、その……」
るか「思った以上に入院費の負担が重いみたいで……」
胸騒ぎ。
るか「まゆりちゃんの叔母さんもお金を借りてまで頑張ってはいるみたいなんですが……」
るか「これ以上の入院は難しいかも……って話……らしい、です」
ドクン──
倫太郎「そん……なっ……」
るか「うぅ……」
倫太郎「国とか自治体はなんとかしてくれないのかよ! そういう制度とかあるんだろ? なぁ!」
るか「それがその……全額を公費負担でというわけにはいかない、とか……そうおっしゃってました……」
倫太郎「なん……だよそれ……」
入院できなくなったらまゆりは──
まゆりはどうなるんだ?
どうする……バイトを増やすか?
でもそうすれば勉強がおろそかに……。
いや、そんなの関係ない。
入院費が払えなくなってからじゃ手遅れなんだ
そうだ。
俺が今できることをしろ──
──現実は甘くなかった。
俺はただの学生。
当然働ける場所、時間は限定される。
それでも、もがくこと以外に術を知らない俺は、ガチガチのスケジュールの中、バイトと勉強に明け暮れていた。
が、そんな生活が長く続くわけはなく──
約半年後、2007年12月
倫太郎「……」
7時にブラウン管工房を出たら、10時まで次のバイト……。
綯「ねえ……」
少し遅れることを伝えないとな……。
綯「……」
幸いこの店は忙しくない。仕事がない時は勉強させてもらおう。
綯「ねえ……顔色悪いよ……?」
ん? あぁ……綯か……いたのか。
倫太郎「今俺は忙しい、悪いが一緒に遊んでいられ──」
倫太郎「うぐっ……」
強烈な吐き気がした。
立ちくらみと動悸が止まらない。
綯「お、お兄ちゃん!?」
倫太郎「はぁっ……はぁっ……な、なんでもない……」
倫太郎「なんでもないから、あっちに行っててくれ」
なんでもないわけがない。
が──
くそっ……圧倒的に時間が足りない……これじゃ金も足りない。
なんでまゆりなんだよっ! まゆりが何かしたってのかよっ!!
倫太郎「……」
店長は出張中……1時間は戻ってこないだろう。
机の引き出しを開くと、店の金が目に入った。
今なら……。
盗むのか? この金を? 俺に良くしてくれた店長から?
それでいいのか? 本当にいいのか?
でも、そうしないとまゆりは……まゆりはっ……!
倫太郎「……」
天王寺「おい、おめー何してんだ」
倫太郎「──!?」
気づけば腰に片手を当ててずっしりと構える天王寺が背後にいた。
倫太郎「店長、なんでもう戻って……」
天王寺「あん? この時間に戻るっつったろうが」
もうそんなに経っていたのか?
天王寺「それよりなんだ? 金なんか握りしめて。そりゃおめーの金じゃ……ねーよな?」
倫太郎「こ、これはっ……そのっ……」
天王寺「……はぁ」
天王寺はやれやれと言った面持ちで深くため息をつく。
倫太郎「……」
天王寺「見なかったことにしてやるからさっさとその金しまえ」
倫太郎「店長……」
天王寺「遊ぶ金欲しさじゃねーってことは俺がよくわかってる」
天王寺「あれだろ? 例の幼馴染のためってやつだろ?」
倫太郎「……はい」
天王寺「ただし、もうその幼馴染とやらのために頑張るのはよせ」
倫太郎「え……?」
天王寺「そうしねーと、おめーまでぶっ倒れちまう」
倫太郎「で、でも! それじゃあまゆりは──」
まゆりはどうなる?
俺の稼ぎがなければすぐに入院費用が底をついて──
天王寺「岡部、なんでそうしてまで必死になる。他所の事情に口出ししてんじゃねえ」
倫太郎「でもまゆりにはもう……! まゆりを助けられるのはっ……!!」
天王寺「……岡部」
天王寺「おめー、人を殺す覚悟、あるか?」
倫太郎「……は?」
天王寺「その幼馴染のために、人を殺す覚悟あるかって聞いてんだ」
倫太郎「ひ、人を……?」
ころ……す?
倫太郎「……」
天王寺「……」
俺が……人を?
天王寺「へっ……」
天王寺「そこまでの覚悟がねーならもうやめとけってこった」
──いや。
天王寺「冗談だよ、忘れろや」
──ある。
倫太郎「ある」
天王寺「あ?」
倫太郎「あります……」
倫太郎「俺はまゆりを助けるためなら……」
天王寺「おい、岡部……」
倫太郎「目的のためなら手段は……選ばない!」
そう、まゆりのためならこの身を地に落とそうとも構わない。
天王寺「……ったく、冗談のつもりだったのによ」
天王寺「今のおめーは銀行でも襲いかねねぇ」
倫太郎「……」
天王寺「いいか、聞いちまったらもう戻れねーぞ」
天王寺の表情が今まで見たことのない険しいものに変わる。
倫太郎「……はい」
倫太郎「俺はもう──」
引き返せない。
その日、俺は天王寺裕吾の裏の顔を知ることになった。
ラウンダー
SERN
FB
父親のように慕っていた人物の意外な一面。
しかし、それを受け入れるのに時間は要らなかった。
まるで最初から知っていたかのように。
気づけば空は闇に染まり、深い黒が広がっている。
覗き込めば吸い込まれそうなほどの深淵。
誰かが言った。
深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ、と。
ひとりビルの屋上でその空を眺め続けていた。
どこからともなく、白く輝く一輪の花が舞い落ちてくる。
まるで闇に飲み込まれていった者が流した雫のように。
こうして俺は、ラウンダー”地を這う者”としてこの身を堕とした。
身を裂くような寒さの中、しんしんと雪の降るの日のことだった。
Chapter 2 『焦躁のサクリファイス』END
今日はここまで
Chapter 3 『自己防衛のファケレ』
2008年 2月1日
相変わらず休憩時間の教室というものは騒がしい。
高校へ上がろうがそれは変わらない。
至「岡部氏岡部氏」
隣の席の友人、ダルこと橋田至が話しかけてくる。
倫太郎「なんだ」
至「最近休みがちだったけどだいじょぶ? 風邪?」
倫太郎「そんなんじゃない」
ラウンダーの任務のせいで休んでるなんて言えるはずがない。
至「あのさ、今日カラオケいかね? アニソン三昧」
倫太郎「悪いが他をあたってくれ、今日は用事がある」
至「ちょ、またすかー! 付き合い悪いっつーの!」
倫太郎「橋田、お前に付き合ってる暇はないんだ」
至「はいはい、厨二病厨二病、厨二病は不治の病」
倫太郎「だからそんなんじゃないって言ってるだろ」
至「つーか橋田っていい加減よそよそしいっつーに」
至「そろそろダルって呼んでくれても、いいのよ?」
橋田が身を捻らせながらのたまう。
気色悪い。
倫太郎「橋田は橋田だろ」
至「もう! 岡部氏って呼んであげないんだからね!」
倫太郎「一向に構わん」
至「ぐはー、岡部氏デレなさすぎ……」
こいつと話しているのは、嫌いじゃないがな。
今日は用があるんだ。
大事な用が。
〜病室〜
幼馴染の待つ部屋への扉を開け、いつもの言葉をかける。
倫太郎「まゆり、元気か?」
まゆり「あ、岡部くん、いつもごめんね〜」
俺の姿がその瞳に映った瞬間、まゆりがぱあっと笑顔を輝かせる。
荒んだこの世界で、唯一そこだけ切り離されたような空間。
倫太郎「いいんだ、俺には見舞いに来ることしか出来ないしな」
まゆり「学校やバイトも忙しいんでしょ?」
倫太郎「そんなにたいしたことじゃない」
まゆり「でも、無理はしないでね? まゆりなら大丈夫だから」
倫太郎「……それを言うなら、俺だって……大丈夫だ」
まゆり「……えっへへ。岡部くんは、優しいねぇ〜」
倫太郎「……っ、そんなんじゃない! 俺はただ──」
まゆりの笑った顔が見たいだけ、なんて恥ずかしいことは言えない。
倫太郎「そ、そうだ! 今日はまゆりにプレゼントを持ってきたんだ、誕生日だろ?」
まゆり「ええー!? 覚えててくれたんだぁ。嬉しいな〜」
倫太郎「ほら、開けてみろ」
まゆり「わ〜、ありがと〜!」
まゆりは嬉々として箱を開ける。
喜んでくれるといいんだが。
まゆり「……っ」
倫太郎「その髪留め、まゆりに……似合うかと思って……」
まゆり「……」
倫太郎「どうした? 気に入らなかった……か?」
気のせいかまゆりの顔が強張っている。
好みに合わなかった……か?
まゆり「……っ、ううん! そうじゃないの。とっても嬉しいなーって思ってたんだぁ」
倫太郎「そ、そうか」
ならいいんだが。
まゆり「うん! ありがとう、岡部くん。大事にするね、えへへ」
倫太郎「気に入ってくれてよかった」
そういえば……そろそろFBからの定時連絡が入るな。
倫太郎「じゃあ俺はそろそろ……」
まゆり「え? もう行っちゃうの?」
倫太郎「ゆっくりしていきたいとこなんだが、これからバイトでな」
まゆり「そっかぁ……それじゃあ、仕方ないよね……」
倫太郎「また来るからな」
まゆり「うん、それじゃ、またね、頑張ってね」
倫太郎「あぁ、まゆりもがんばれよ」
病院を出て携帯電話の電源ボタンを入れる。
どうせいつも通り、偵察任務だろう。
しばらくして、手のひらに振動が伝わってくる。
俺は通話ボタンを押し──
倫太郎「こちらM3」
FB『M3、任務だ』
FB『我々を嗅ぎまわっている連中が、ある場所に潜伏してるとの情報が入った』
FB『本日ヒトキュウマルマルに奇襲を仕掛け殲滅する』
倫太郎「……っ」
殲……滅っ……。
FB『殲滅はアルファチームが担当する』
FB『M5の調べによると奴らの人数は5人』
FB『仕留め切れずに逃亡を図られる可能性がある』
FB『考えられる脱出ルートはα、β、γの3つ』
FB『殲滅作戦開始とともに、おめーにはγ地点に待機してもらう』
FB『万が一、連中が逃亡してきた場合……』
FB『……殺れ』
FB『……必ず仕留めろ』
倫太郎「……っ」
FB『どうした、不安か?』
倫太郎「い、いえ」
FB『気休め程度だが……γが脱出ルートとして使われる可能性は一番低い』
FB『ヒトハチマルマルに□□に集合、詳しいことはM5に聞け』
倫太郎「……了解」
FB『油断するなよ』
倫太郎「……分かっています」
ツーツーと繰り返される機械音をしばらく聞いていた。
力なく終了ボタンを押し、音を止める。
倫太郎「……」
殲滅……。
俺が?
いや待て、まだそうと決まったわけじゃない。
俺が手を下さなくても任務は完了する、きっとそうだ。
道の真中で携帯を右手にぼーっと突っ立っている俺に、道を行く人々からの視線が集まる。
考えても仕方がない。
覚悟はしていたはずだ、こんな日が来ると──
作戦は単純。
敵地に乗り込んで奇襲。
俺はその取りこぼしを殲滅すればいいだけの話。
殲滅すれば……。
殺せば……。
M5「以上で作戦の説明を終わる。何か質問はないか」
肯定を意味する沈黙。
M5「よし、それではM6はα、M3はγ、俺はβ地点にて待機」
M5「アルファチーム、殲滅に移行しろ」
「「「了解」」」
都心を離れた郊外。
そのまた外れの林の奥にコンクリートの廃屋が佇んでいる。
周りは草木に覆われていて日が照らず、薄暗い。
俺は茂みの中で、その建物を遠目に息を忍ばせていた。
倫太郎「……」
アルファチームが乗り込んだのは1分ほど前だ。
そろそろ始まるはず。
突如、パララララと小気味のいい音が遠くこだまする。
同時に悲鳴、怒声。
息が止まりそうになる。
始まった!
パララララ
自動小銃の音。
人の命を奪っている音。
早く終われ……終わってくれ!
倫太郎「……」
どれほどの時間が経っただろうか。
辺りはいつの間にか静まり返っていた。
倫太郎「……止まっ──」
声に出していたことにハッとして手で口をふさぐ。
口に手を当てて気づいたが手が震えていた。
震えが止まらない、くそっ……こんなときに!
来るな……来ないでくれ、誰も来ないでくれ!
早く……早く殲滅完了の連絡をくれ……お願いだ!
倫太郎「……」
ザー……ザー
インカムのイヤホンからノイズが響いてくる。
──『こちらアルファチーム、目標5人全員の殲滅を確認した』
倫太郎「……ふぅー……」
殲滅完了の言葉とともに大きな息が漏れた。
刹那──
タッタッタッタッタ
倫太郎「──!」
足音!?
タタッ
倫太郎「……ぁ」
1人の男が廃屋から駆け出してくる。
ラウンダーではない。
見覚えのない男。
目標か!?
男「はぁっ……はぁっ……」
なんだ!?
一体どうして……!
全員死んだんじゃなかったのか!?
男「はぁっ……はぁっ……ちくしょう! なんだってこんなことに……」
男は俺が隠れている地点の数メートル先で激しく狼狽している。
どういうことだ?
情報になかった仲間!?
それとも目撃者か!?
男「はぁ……はぁ……警察を……」
……まずい!
『万が一、連中が逃亡してきた場合……』
『……殺れ』
『……殺れ』
『……殺れ』
頭の中で電話越しの低く冷たい声がこだましている。
──そしてまた、声がした。
……殺れ
俺は陰から勢い良く飛び出し──
両手で銃を握り──
指に力を込め──
男「──!?」
あああああっ!!
パーン
甲高く乾いた銃声が耳の中で鳴り響いていた。
それはまるで、なにかが弾けたような音で。
弾け飛んだのは俺の心のなかにある“なにか”だったのかもしれない。
引いた。
引き金を。
撃った。
銃を。
人を。
──この俺が。
男「かはっ……!」
倫太郎「はぁっ……はぁっ……」
男「うっ……! ぐぁぁっ……!」
男「あぁっぁああっ!」
男が苦しそうにのたうち回っている。
うぅ、ま、まだ生きてるじゃないか……。
俺はジタバタと身をバタつかせる男から目を離せないでいた。
どうした、撃てよ
倫太郎「!?」
また、どこからともなく、声がした。
まだ死んでないぞ
まゆりのためなんだろ
なんでもできるんじゃなかったのかよ
倫太郎「う……」
うわああああああああああああああ。
ああああああああああああああああ。
パーン
男「がぁっ!」
気づけば再び引き金を引いていた。
倫太郎「あああああ!!」
何度も。
何度も何度も。
何度も何度も何度も。
カチカチと弾切れを知らせる音に気づいたのはラウンダーの仲間に手を掴まれてからだ。
M7「よせ、もう死んでいる」
倫太郎「……! はっ……はっ……」
倫太郎「うっ……ぁっ……がぁっ……」
M7「こちらM7、情報にない仲間か……もしくはねずみがいたようだ」
M7「問題ない、M3が始末した」
M7「余計な心配は無用だM3。一般人だったとしても警視庁への根回しはFBが行なってくれる」
倫太郎「うぅ……ぁ」
自宅へ戻ると電気も付けずにソファにへたり込んだ。
うっすらと輪郭の見える家具。
ごく稀に走り抜ける車の音。
暗くて、静かだ。
倫太郎「…………」
殺した……俺が。
ぐちゃぐちゃになるまで……。
胴体に1発、顔面に5発。
男の顔は、親しい人間が見ても判別不可能なほど破壊されていた。
いや、破壊した。
──俺が。
覚悟はしてたことだ。
分かってたんだ、いつかこんな日が来るって。
でも──
俺は……俺は……。
閉じられたカーテンの隙間から漏れる月明かりが俺の足先を照らす。
やめてくれ。
俺を照らさないでくれ。
その光の筋から逃げ出そうとするものの、動く気力もない、動きたくもない。
ガチャリと扉の開く音が遠くに聞こえる。
誰か入ってきたみたいだ。
でも、もう誰だっていい。
奴らの仲間が殺しにこようが、警察が捕まえに来ようが、どうでも……。
結局俺は覚悟なんて出来なかったんだな。
どうだ、人を撃った感想は
再び、どこからともなく声がした。
お前か? 入ってきたのは。
「あの……」
どうだ、人を殺した感想は
倫太郎「……誰だ、お前」
「え? あの……覚えて、ない?」
俺はお前だよ
久しぶりだな
「桐生、萌郁……」
倫太郎「あぁ、お前か。久しぶりだな」
萌郁「あ、うん……」
倫太郎「何しに来た」
萌郁「え? ご、ごめん、迷惑だった……かな。遊びに来てもいいって、言ってたから」
お前、このままじゃ壊れるぞ
なれよ、俺に
鳳凰院凶真に
萌郁「あの、岡部くん……?」
鳳凰院凶真の仮面を、被れよ
俺ならお前を助けてやれるんだ
倫太郎「……早く助けてくれ」
萌郁「おか……震えてる」
どうした、震えてるぞ
倫太郎「寒いんだ、とんでもなく寒いんだ」
寒さのせいだけじゃないだろ
早く被れよ、ペルソナを
萌郁「岡部くん……!」
さっきまで氷のように冷たかった手に熱が戻ってくる。
倫太郎「あ……」
血が巡る。
……暖かい。
いつの間にか誰かに手を握られていたようだ。
萌郁「岡部くん……っ」
顔を上げ声の主を探る。
萌……郁……?
桐生……萌郁……。
萌郁「私、君に、助けられた……」
萌郁「君のお陰で、生きる意味、見つけられたの」
萌郁「ねえ、全部話して……。君が抱えてる物、私にも背負わせて……」
萌郁「……今度は私が、あなたの力に、なりたい」
萌郁……。
俺は……。
倫太郎「……俺は罪を犯した」
萌郁「え……」
倫太郎「誰かのためとはいえ、誰かを……殺したんだ」
萌郁「おか……」
ずっと逃げてきたのに。
ずっと目を背けてきたのに。
倫太郎「……」
萌郁「……」
視線を落とす。
すでに手の温かみは失われている。
ああ、寒いな……。
ふと──体中がふわりと包まれるような温もり。
萌郁「背負うよ……」
萌郁「私も、岡部くんが抱えてる物、背負う」
倫太郎「……」
こんな俺でも受け入れてくれるのか?
俺は暖かな感触と柔らかい匂いに誘われるように、萌郁をきつく抱きしめ返した。
それに呼応するかのようにきつく、きつく、痛いほどに抱きしめ返される。
今はただ、その痛みも俺を罰してくれているようで心地よかった。
俺の罪が受け入れられたようで心地よかった。
やれやれ
まあいい
いつでも呼ぶがいい
俺は常にお前のそばにいる
俺は──お前なのだからな
あの1件からしばらく経った。
復旧の目処がたたぬまま荒廃し続ける町中。
耳にかざした携帯から伝えられる任務の通達。
倫太郎「……了解」
倫太郎「ええ、分かっていますよ」
倫太郎「俺はそんなヘマなどしません、では」
通話を終え、空を見上げる。
空気が淀んでおり、昼間だというのにどこか薄暗い鈍色の空が広がっていた。
吹きすさぶ灰色の風が、俺の視線の先をひとしお霞ませる。
耳にかざした右手をおろし、荒んだ空気の立ち込める町中で、歩き出す。
暗中模索。
ここは先の見えぬ──未知の世界。
闇に覆われた暗黒の世界。
倫太郎「FBからの連絡が入った、これから次の現場へ向かう」
萌郁「……了解」
あの後、ラウンダーに引き入れ、共に行動している萌郁からの視線を背中に感じる。
萌郁「……あの、岡部く──」
倫太郎「仕事の時は岡部と呼ばないでくれ」
萌郁「ご、ごめん……なさい」
倫太郎「行くぞ、M4」
萌郁「了解……M3」
そう、俺は仮面を被る。
暗黒の世界で、暗黒のペルソナを。
今だけは……岡部ではない。
俺の名は 我が名は
鳳凰院凶真
Chapter 3 『自己防衛のファケレ』 END
Chapter 4 『暗中のメテンプシュコーシス』
2年後 2010年 2月2日
いつもと違い静まり返った教室。
受験を控え、周りの者が一心不乱に自学自習に励む中、俺は机に突っ伏していた。
俺はもうすぐ高校を卒業、さらに大学への進学が決定済みだ。
任務は、可能な限り学校を優先する形で与えられてきた。
ラウンダーであることをカモフラージュするには真面目で優等生の岡部倫太郎の仮面が望ましい。
そうすることによって、幾つもの難事を処理してきた。
ラウンダーの任務は多岐にわたる。
潜入、窃盗、……殺人。
だがどれも冷静にこなしてきた。
俺はもう引き返せない。
至「ねえねえ岡部氏岡部氏、僕達もいよいよ卒業っすなー」
至「また一緒にクラスになれて嬉かったお」
至「主に宿題見せてくれたり宿題見せてくれたり、後は宿題見せてくれたり」
至「大学でもよろしくおながいします。フヒッ! サーセン! 少しは自分でやりますはい」
倫太郎「橋田、今俺はものすごく眠いんだ、話しかけないでくれ」
至「ええー? 何? もしかして徹夜でネトゲしてたとか?」
なわけないだろ。
至「……」
至「ちょ、無視すんなし」
倫太郎「少なくともお前が考えてるようなことじゃないとだけ言っておく」
至「3年になって厨二病がちょっとはマシになってるかと思いきや、加速してた件について」
断じて厨二病などではない。
出席と睡眠のための登校を終え、いつもと変わらぬ道を行く。
寂しがっているだろうか、あいつは。
昨日は急な任務が入ってしまい、顔を出すことができなかったからな。
〜病室〜
扉を開けるといつもと変わらぬまゆりの横顔。
少しうつむき加減の横顔。
倫太郎「まゆり、元気か?」
まゆり「岡部くん……」
帰ってきたのは浮かない返事。
まゆりは俯いたまま。
おかしいな、いつもならここで笑った顔を見せてくれるのに。
倫太郎「ん? どうしたんだ? 調子、良くないのか?」
もしかして昨日来れなかったことでへそを曲げられたか?
まゆり「岡部くん……まゆりね、聞いちゃったの」
倫太郎「……?」
まさか──
まゆり「まゆりの入院費……払ってくれてたの、岡部くんだったんだね……」
倫太郎「……」
こちらを向かずポツポツとつぶやいていたまゆり。
やがて俺の方を向いて言った。
まゆり「全部、叔母さんから聞いたよ?」
まゆり「ねえ、もうやめようよ……。岡部くんの気持ち、すごく嬉しいけど……」
まゆり「岡部くんずっと無理してた……よね」
胸の奥がチクリと痛んだ。
思わず目をそらしてしまう。
倫太郎「そんな……こと……」
そんなこと、ない。
まゆり「このままじゃ、まゆりの知らない岡部くんになっちゃう気がして、怖いの……」
まゆり「もう大丈夫だから……私、岡部くんの重荷になりたくないよ……」
重荷?
重荷だって?
倫太郎「そんなことない!」
まゆり「……っ」
倫太郎「そんなことない、重荷だなんて考えたこと無い」
まゆり「なんで、どうして私のためなんかに……」
倫太郎「なんかじゃない、お前がいたから今の俺がいるんだ」
倫太郎「お前に会いに行こうと思わなかったら、俺は恩人に会うことはなかった!」
倫太郎「きっと今も、自分の居場所を掴めないまま、どこかを彷徨ってたかもしれない」
倫太郎「決めたんだ! どんなことを犠牲にしてもお前の笑顔を守るって!」
まゆり「岡部くん……」
倫太郎「だから……重荷になってるだなんて思わないでくれ……」
倫太郎「俺はそんなことっ……一度も思ったことはない」
まゆり「……ホントに?」
倫太郎「あぁ、本当だ」
涙に濡れた瞳を見て、しっかりと頷く。
まゆりはうつむき、しばし沈黙したかと思うと──
まゆり「……まゆりは愛されちゃってるねぇ……えっへへ……」
眉尻は下がっているものの笑顔でそう言ってくれた。
その顔を見た瞬間安堵の気持ちで胸が満たされ、自然に笑みが零れる。
倫太郎「……はは」
そう。
この笑顔を守るためなら俺は神をも冒涜してみせる。
なんにだってなってやる。
お前は嘘まみれだな
倫太郎「──!?」
また、あの声。
ふいに深い闇の中に引きこまれたような感覚に陥る。
ここは……。
辺りを見回しても広がっているのは闇だけ。
本当はずっと逃げ出してきたのに
反響する声。
幾重にも重なりぶつかり合い、どの方向から発せられたものなのか検討もつかない。
いや──
方向という概念すらあるかどうかも分からない。
本当はずっと目を背けてきたのに
なんの……ことだ!
底知れぬ不快感に焦りを感じつつ辺りを見回し続けていると──
ゆっくりと視界の中央に白が形成されていく。
ボンヤリと白く光る靄。
ごまかすことなどできん
俺はお前なのだからな
忘れるな、2010年 8月15日を
何を言って──
まゆり「岡部くん……?」
倫太郎「はっ……」
遥か高い上空から飛び降りたような感覚。
意識が引き戻され、身体に結びついた。
ここは……病室、か。
まゆり「だ、大丈夫? やっぱり、無理してるんじゃ……」
手のひらに汗が滲んでいて気持ちが悪い。
その汗をズボンでぬぐいつつ、気遣うまゆりに伝える。
倫太郎「む、無理なんかしてないさ」
まゆり「でも、バイトもすっごく大変……なんだよね?」
倫太郎「そ、それはっ……」
うまく思考が働かない。
発すべき言葉が見つからず口ごもる。
まゆり「もしかして危ない事……とかしてない……よね?」
倫太郎「……大丈夫だ、心配するな!」
倫太郎「金は……金は……そう、発明品を売って工面してるんだ」
咄嗟に出てしまった言葉──
これはあながち嘘でもない。
まゆり「そうなの?」
特許を出願しようとしていた技術を盗み出すという任務も実際にはあった。
恐らくその技術を独占し、資金を潤わせてるのだろう。
資金があればラウンダーの勢力拡大にもつながる。
だがその真実をまゆりに教えるわけにも行かない。
倫太郎「ほら、俺って理数系には強いだろう?」
倫太郎「画期的な発明品を売ってるんだ。小さいけど研究所だってある」
まゆり「そうなんだ〜、岡部くんってやっぱりすごいねぇ〜、えっへへ〜」
倫太郎「そうだ、まゆりもラボラトリーのメンバーに加わるといい」
まゆり「ええー!? いいの〜!? まゆり、何もできないよ?」
倫太郎「心配するな、まゆりはいるだけでいいんだ」
そう。
ずっと、俺のそばに……いるだけで……
まゆり「ラボラトリーのメンバー……ラボメンかぁ……えへへ」
まゆり「見てみたいなぁ……ラボ」
倫太郎「だったら早く元気になれよ?」
まゆり「うんっ」
倫太郎「それじゃ俺はそろそろ帰るからな」
まゆり「岡部くん……」
扉を開けようとドアに手をかけたところでまゆりに呼び止められた。
倫太郎「ん? どうした?」
まゆり「ありがとうっ」
倫太郎「……あぁ」
病室を後にして病院の廊下を一人歩く。
倫太郎「ふふ……」
まゆりの笑顔……俺は守れるだろうか、いや、守ってみせる。
自我を自由にコントロールし
心の中の善と悪を完全に分離させ
それぞれ独立させたつもりだろうが
まゆりがお前のそばから姿を消した時
お前はどうなってしまうのだろうな
倫太郎「……」
2010年 5月15日
俺は自宅を未来ガジェット研究所と称し、任務の片手間、発明に勤しんでいた。
まゆりにああ言ってしまった手前、嘘のままにしておくわけにもいかない。
ならば真実にしてしまえばいい。
至「んんんんんんん〜〜……」
3人目の所属研究員である橋田が腕を組みながら唸りを上げている。
ちなみに2人目はまゆりだ。
倫太郎「どうした。腹でも痛いのか?」
至「いや、なんつーか。……岡部氏さぁ、ゴミ量産してどうするん」
倫太郎「な、なんだと!」
今ちょっと、カチンと来た。
至「はっきり言ってセンス無さすぎっしょ……オモチャの光線銃にリモコン仕込んだだけって、アリエンティ」
こいつ、言わせておけば……!
倫太郎「ぐっ……橋田貴様、この俺を怒らせるとどうなるか分かっているのか……!」
至「はいはい、厨二病厨二病」
こいつ殴りたい。
だがあまり邪険に扱うわけにも行かない。
こいつの工学的知識は我がラボに必要だ。
もっとも、本人はハード面よりソフト面の方が得意とのことだが。
倫太郎「大体、前に誘った時には即断ったくせに、どういうつもりだ」
至「だって、秋葉の──それもメイクイーンの近くにあるなんて聞かされてなかったんだもの!」
倫太郎「メイクイーン……」
メイクイーン・ニャンニャン。
秋葉にあるメイド喫茶である。
橋田に連れられて一度だけ行ったことがある。
至「あ、良かったらこれから一緒にどう?」
倫太郎「結構だ」
至「ぐはー! 即答すか。つかなんでよー! フェイリスたんに会いに行こうず」
倫太郎「だからそのフェイリスが苦手なんだよ、俺は……」
倫太郎「あいつと話してると疼くんだよ──」
至「股間ですねわかります」
倫太郎「頭の奥の深い部分が、じくじくと」
HENTAI発言はスルー。
倫太郎「思い出したくない何かが渦巻いている感覚に陥るんだ」
至「だめだこいつ、はやくなんとかしないと」
倫太郎「……」
至「まあいいや、じゃあ僕はこれで」
倫太郎「あぁ……」
至「ふひひ、もうすぐ誕生日だしフェイリスたんにイベントお願いしちゃおうかな〜」
至「もうすぐ僕の誕生日だし。あ、大事なことなので2回言いますた」
倫太郎「……」
至「ってスルーかよ!」
至「これはもう、フェイリスたんに癒されてくるしかないかも分からんね」
揺れる巨体がドアの奥に吸い込まれ、扉が閉められる。
俺はテーブルの上で散乱している発明品に目を向け、1人物思いに耽っていた。
どこか懐かしいような気持ち。
だが──
倫太郎「俺に発明の才能はないようだな……」
ゴミ認定されたガジェットたちを見ていると同時に残念な気持ちも浮かんだ。
2010年 7月28日
俺と橋田はATFエレベーター内で上の階へと登っていた。
大学の特別講義のために課外授業に出席しなければならなかったのだ。
倫太郎「おい橋田、バナナがゲル状になる理由はまだ分からないのか」
至「全くもってイミフ、つーか僕だけに任せてないで岡部も調べるべきだろ常考」
倫太郎「俺は色々とやることがあるんだ」
至「ったくもー! あなたいつもそうやって言い訳ばかり! 今日だって集合時間に1時間も遅れてきて!」
倫太郎「気色悪い、殴りたくなるからやめろ。それに、昼前メールしただろ、遅れるって」
至「は? 昼頃? 着てないけど」
倫太郎「何……? いや、確かにしたはず」
至「だから着てないっつに」
倫太郎「携帯貸せ!」
至「あ、ちょ!」
橋田の腕からサッと携帯を掠めとり、ボタンを指を動かす。
倫太郎「ない……消したのか?」
至「んなことするわけねーじゃん、つかプライバシーの侵害だお」
倫太郎「……なぜだ? 電波障害か?」
至「あーでも、そういや5日くらい前に遅れるとか来てた希ガス」
倫太郎「は? 5日前?」
至「でも講義に行くってなったの一昨日だから覚えてる訳ないだろ常考!」
ポーン
かみ合わない会話に戸惑いを覚える俺の耳に、目的の階に到着したことを知らせる軽快な音がこだました。
同時に鉄の扉が割れ、飛び込んでくる光に目を細める。
ゆっくりと鮮明になっていく視界の先にその人物は柱を背に立っていた。
倫太郎「……ぁ」
倫太郎「紅莉栖……」
気がつくと俺は──
その女を強く強く抱きしめていた。
特別講義が終わり町中を1人歩く。
橋田は寄るところがあるといい途中で別れた。
あつい。
日は照りつけていないものの、じっとりとした熱気がまとわりつき汗が滲んでくる。
俺はそんな中、特別熱を持った頬を擦りながら自宅への帰路を踏みしめていた。
あの女……全力で殴りやがって。
『馬鹿なの!? 死ぬの!?』
まだヒリヒリする。
……くそ、いつもの俺ならこんなことには。
今日の俺はどうかしている、さっさとラボに戻ってゆっくりしよう。
ふつふつと湧いてくるいろんな感情を捨て去るよう足早に歩いていたが、ふと、大檜山ビルの前に人影があるのに気づき歩みを止めた。
天王寺「おう、岡部か」
倫太郎「もう閉店ですか、今日は早いんですね」
天王寺「今日はバイトの面接があってな」
倫太郎「バイト? こんな客も来ない店にバイトとは物好きな」
天王寺「おめぇが言うなや」
女「おっはー」
天王寺「……」
倫太郎「……っ」
この女……?
どこかで……。
いやよそう、またいつものあれだ。
それよりおっはーとは、また古い。
女「あれ? 流行りの挨拶じゃなかったっけ?」
倫太郎「まさか、バイトというのは……」
天王寺「そのまさかだ」
天王寺「名前は」 鈴羽「阿万音鈴羽」
天王寺「年は」 鈴羽「18」
天王寺「志望動機は」 鈴羽「ブラウン管が好きだから」
天王寺「採用」
倫太郎「まて、これはコントか?」
鈴羽「そういう君は……誰?」
天王寺「岡部ってんだ、この上を間借りしてるバカだよ」
倫太郎「岡部倫太郎だ」
鈴羽「……ふーん」
天王寺「ま、お互い仲良くしろや」
そう言って天王寺は店内へと消えた。
ふいに右手が目の前に差し出される。
倫太郎「なんだ」
鈴羽「握手」
倫太郎「あぁ」
よく見ると年頃の女の手にしては、傷が多く、荒れている。
お世辞にも綺麗な手とは言えない。
が、今時そこまで珍しいことでもない。
俺の手だって傷だらけで、汚れている。
差し出された手をひと通り観察した後、同じように右手を上げる。
握手。
お互いの手を握りその場、もしくは今後の社交を誓う儀式。
しかしこの場のそれは違った。
倫太郎「……っ」
およそ握手とは思えないほどの強靭な圧力が加えられる。
心なしか俺の手がミシミシと軋みを上げているようだ。
こいつ……。
身長差があるせいか──
はたまたこの女が俯き加減であるせいか──
その表情は前髪に隠れていて、見て取ることができない。
ただ、俺の手を伝い、この女が身震いしているのが分かった。
その震えが止まったかと思うと顔を上げ──
鈴羽「よろしく、岡部倫太郎」
不敵な笑みと共にそう告げると、その女──阿万音鈴羽も店内へと消えていった。
牧瀬紅莉栖といい、阿万音鈴羽といい、なんなんだ……一体。
2010年 8月6日
あれから数日が経った。
俺は今M4こと桐生萌郁のアパートにいる。
雑然とした部屋。
空のインスタント食品の容器。無造作に転がっている缶。積み上げられた雑誌。
片付けられない女。
倫太郎「悪いな、邪魔して」
萌郁「急に、どうしたの?」
倫太郎「今日、泊めてくれ」
萌郁「え? ……うん、いい、けど」
倫太郎「ラボに人が押しかけててな。うるさくて敵わん」
今、俺の部屋には橋田、紅莉栖、鈴羽、るか、フェイリスが入り浸るようになっている。
ATFでのセクハラ行為の追及のためにラボを訪れた紅莉栖を筆頭に、ブラウン管工房バイトの鈴羽。
2人は過去へメールを送れる装置、電話レンジの仕組みの解明のためラボメンとなった。
そしてまゆりからラボのことを聞いて加わったるか。
フェイリスは橋田が連れてきた。
奴らと一緒にいると、目の奥がずしりと痛む時がある。
が同時に不思議な心地よさも感じてしまう。
今では皆、まゆりとも面識があり仲良くやってくれている。
まゆりも友達がたくさん増えた、と喜んでいた。
しかし──
ったく、あいつら、俺の部屋だということを忘れやがって……。
思い出したらだんだんと腹の底が煮えたぎってくる。
萌郁「マウンテンジュー、持ってくるね」
倫太郎「あぁ」
萌郁「ケバブも、あるから、一緒に……食べよ?」
手渡されたケバブを受け取り、ゆっくりとかじる。
すぐに香ばしい肉の味が口の中に広がった。
いつも通りのその味を咀嚼し、口内に残る肉を炭酸で一気に流しこむ。
倫太郎「ふー……」
萌郁「……岡部くん、なんだか、最近、変。何か、あった?」
倫太郎「なんでもない」
萌郁「疲れてる? 任務にも、身、入ってない」
倫太郎「なんでもないって言ってるだろ! 少し、黙っててくれ」
こいつからそんなことを言われて腹が立ち、声を荒らげてしまう。
萌郁「……っ、ごめん、なさい」
倫太郎「……」
違う、そうじゃない。
俺の部屋を占領するラボメンに腹が立ったわけではない。
任務のことについてダメ出しされたことに腹が立ったわけでもない。
焦っているんだ。
──まゆりの命がもう長くないことを知ってしまったから。
早くDメール……電話レンジの仕組みを解明して過去を──
今を──未来を変えなくては。
──拳に力がこめたその時だった
俺の携帯が振動をはじめる。
倫太郎「……FBから? 定時連絡の時間ではないはずだが」
萌郁「え?」
不思議に思いつつもボタンに触れる指に力を込める。
倫太郎「……こちらM3」
FB『M3、ヘマったようだな』
倫太郎「……? なんのことです?」
FB『今、お前を探ってる奴らがいる。俺んとこにも聞き込みに来やがった』
倫太郎「……っ!」
FB『恐らく相手はユーロポールの捜査官だ』
倫太郎「なぜ……バレたんだ」
FB『知らねぇよ。いつも冷静なおめーらしくもねーミスだな』
FB『このことは本部には内緒にしといてやる』
FB『ともかく、自分のケツは自分でふくこった。サポートはしてやる』
倫太郎「……了解」
通話を終え、今までの任務を思い返す。
どこでヘマをした?
分からない──が、考えても仕方がない。
萌郁「……FBは、なんて?」
倫太郎「俺の正体がバレたかもしれない。相手は……ユーロポールの捜査官」
萌郁「……っ」
倫太郎「殺すしか無い、今捕まるわけにはいかない」
萌郁「岡部くん。私も、力になる」
倫太郎「……勝手にしろ」
8月15日 17:00
時計を確認するとまだまだ明るい時間帯のはずだった。
しかし、ここは日の照らないガード下。
薄暗く、人も車もめったに通らない。
物陰に潜みつつ目標である捜査官をこの目で確認する。
男は電話に向かって何かしゃべっていた。
仕事道具のナイフを抜き、刃を見下ろす。
使い古された白刃がキラリと光り、俺の表情をボンヤリと浮かび上がらせた。
俺は──
鳳凰院凶真。
再び男の方に目をやり、跳びかかるタイミングを図る。
男「……おい、応答しろ、おい」
甘いんだよ
この俺を出しぬいたつもりか?
男が後ろ向き背中を晒した。
恨みはないが、死ね
跳びかかり、奴の首にナイフを突き立てるべく脚に力を込め──
ズキリ
──ようとした瞬間、ここのところ頻発している頭痛に目を細める。
倫太郎「……ぐぅっ!」
……くそ、こんなときにっ。
俺は……俺はまゆりのためにも、立ち止まるわけには……いかないんだよっ!
襲いかかる頭の痛みを振り払いながら一瞬で間合いを詰め──
男「──!?」
背後から、逆手にナイフを持った右腕を男の首に巻きつけを勢い良く突き刺した。
ズッ
男「ぁ……が……」
ナイフは男の左の首筋を赤く染めている。
倫太郎「ふっ!」
右腕を引くと、大量の赤が飛沫を上げた後、ボタタタと、地面を濡らした。
男の背筋がぴんと伸び、びくびくと痙攣しだす。
男「あ……ぁ……ぁ」
男「…………」
まもなく男は倒れ、ピクリとも動かなくなった。
倫太郎「はぁ……はぁ……」
倫太郎「ふぅうぅ…………」
横たわる死体を眺めながらできるだけ音を立てないように深くゆっくりと息を吐く。
なかなか呼吸が整わない。
俺は一体、いつまでこんな事を続ければいいんだろうな。
ズキ
また、頭痛。
ズキッ
より強烈な──
今までで一番強烈な──
倫太郎「あぐっ──!?」
8月15日 17:04
世界が廻っている。
世界が歪んでいる。
その中心に俺が居た。
俺が俺を見ている。
俺も俺を見ている。
その後ろでかつて見た光景が早送りのように映しだされていた。
それは度々思い起こされた“夢の残滓”。
俺は螺旋を描くように徐々に近づいてくる“世界”から目が離せないでいた。
声が──した。
冷淡で抑揚のなく、たどたどしい喋り声。
萌郁「ええ、そう。FBの予想通り、相手は、捜査官だった。……ユーロポールの」
萌郁「大丈夫。……2人とも、始末した」
はっきりと聞こえてくるのに、頭に入ってはこない。
声は俺に対して発せられているものではない。
萌郁「……目標αは、ガード下。目標βは、そこから離れた、路地に、死体、転がってる」
萌郁「……了解」
世界が近づき──
やがて──
──ズキン──
激しい痛みとともに、俺と世界はひとつに同化した──
萌郁「……M3、目標ブラボーも、排除してきた。後始末は、FBが。私たちは撤収を」
倫太郎「……萌郁、桐生……萌郁」
萌郁「!? 初めて、名前、呼ばれた。こういう場では、本名呼ぶのは、まずいわ。コードネームを」
倫太郎「それより……なぁ」
萌郁「……?」
倫太郎「”思い出した”んだ、全部──」
そう、全部──
それは遠い遠い、決して交わるはずのなかった2日後のこと。
世界線変動率 0.571046%
2010年 8月17日 17:00
薄暗いラボの開発室の中、俺は携帯を握りしめ唇を強く噛んでいた。
もうすぐ、まゆりが死ぬ。
まゆりを救うためには最初のDメールのデータを消し、β世界線へと飛ばなくてはならない。
だがβ世界線にいけば、今度は紅莉栖が死ぬ。
なんでだよ……なんでなんだよ……こんなの、ひどすぎるだろっ……。
何かまだ、手があるはずだ! 諦めるな!
紅莉栖を見殺しになんて……俺にはできない!
俺は世界に抗う……!
だがどうすればいい。
ありとあらゆる可能性を考えても、答えは見つからなかったじゃないか!
倫太郎「ダメだ! 考えてる暇はない、そろそろタイムリミットだ! ここは一旦タイムリープして──」
『逃げるの?』
かつて投げつけられた言葉が頭の中で反響する。
倫太郎「……」
『逃げたって、苦しくなるだけよ!』
『何度タイムリープしたって、1%の壁は超えられない!』
やってみなきゃ、わからないだろう……!
俺はここまで来るのに皆の思いを犠牲にしてきた!
過去も未来も変えてきた!
携帯を握り締める右手に力が入り、肉が食い込む。
鈴羽……。
こんな時鈴羽がいてくれれば、どれだけ心強かったか。
鈴羽だったら何と答えてくれただろうか。
鈴羽は言っていた──
『何十年かに1度、世界線が大きく変動する大分岐のような年があるんだ』
『湾岸戦争があった1991年、2000年問題があった2000年、そしてタイムマシンが開発された2010年』
2000年……。
今ここで、俺がタイムリープに付いて回る48時間の限界を超えたらどうなる?
『48時間を越えて跳躍すると、脳の物理的な状態の齟齬が大きすぎて障害を引き起こす可能性がある』
障害……。
いや、天王寺綯は48時間を繰り返してきたとはいえ、15年後から来たと言っていた。
人格も15年後の綯だった……はず。
なら……俺にだって……!
『障害を引き起こす可能性がある』
倫太郎「くっ……」
俺が初めて携帯を手にしたのは、1999年の誕生日に買ってもらった時。
届く。
──2000年に。
──あの時代の鈴羽に。
確か誕生日の夜、急な発熱で倒れたはずだが……。
大丈夫。
鈴羽は2000年の6月ごろまでは生きているはず。
成功したら必ず鈴羽とコンタクトを取るんだ!
10年もあれば何かしら対策が見つかる、きっと……見つけてみせる。
携帯の画面に落としていた目線を開発室の奥に佇むそれに向ける。
電話レンジ──タイムリープマシン。
設定完了……番号は……確か……。
記憶を頼りに、生まれてはじめて手にした携帯の番号を打ち込んだ。
ゆっくりと、確実に。
倫太郎「1999年への跳躍……」
ヘッドフォンを装着し、固唾を飲んで心に刻む。
『忘れないで』
倫太郎「紅莉栖……俺はっ……」
『あなたはどの世界線にいても1人じゃない』
倫太郎「お前もっ……」
『──私がいる』
倫太郎「助けるっ!!」
その瞬間、世界が琥珀色に包まれ、波打つように歪み始める。
天と大地は入れ替わり、立っていられなくなる──
Chapter 4 『暗中のメテンプシュコーシス』 END
今日はここまで
俺の記憶が正しければこのSSは書き直しになるのかい?
間違いなく他のまとめで見た記憶ガガガ
ともあれ乙です。元々好きなSSだったんで期待してますぜ
>>138
そうです
展開が大きく異なるわけではないですが最後まで見ていただければ嬉しいです
Chapter 5 『暗黒回帰のハイド』
世界線変動率 2.746051%
2010年 8月15日 17:05
すべて思い出した。
そういうことだったのか。
あの夢の正体も、記憶の正体も。
倫太郎「全部、あったことだったんだな」
……俺はα世界線からこの世界線にたどり着いた。
まゆりと紅莉栖、どちらかを見殺しにするという選択を回避するために。
その結果が、これだ。
全身の力が抜け、乾いた笑いがこぼれてくる。
倫太郎「はは、ははは……」
萌郁「ど、どうしたの? 何を思い、出したの?」
倫太郎「俺の10年はなんだったんだろうな。タイムリープして……こんな、冗談みたいな世界線で……」
萌郁「M3……? タイム……?」
倫太郎「俺がやったことと言えば2000年問題を引き起こし──」
まゆりの両親、俺の両親を含め、多くの人間を死に追いやり──
まゆりを苦しめただけ──
倫太郎「そしてまゆりも結局助からない……助けられない」
倫太郎「ははは……」
萌郁「M3、しっかりして、よく、わからないけれど」
倫太郎「……」
倫太郎「…………」
倫太郎「……待てよ?」
冷静になって考えてみるとおかしい、腑に落ちない。
タイムリープしたところで世界線を大きく変動させることはできないはず。
にも関わらず、俺のいたα、βにも似つかない世界線へと変動を遂げた。
ヒラリ
頭の中を、ぼんやりと青い輝きを放つ蝶が羽ばたいていく。
バタフライ・エフェクト──
仮に。
仮にだ。
10年の歳月を遡るというタイムリープが世界線を大きく変えることができるとしても──
1999年12月14日に跳躍した後の俺は、記憶の通り、その後1ヶ月の発熱に倒れ──
気がついた時、記憶のほとんどはモヤがかかったような状態に陥り、単なる夢だったと思い込んだ。
──おかしいじゃないか、俺は過去を変えるような行動は起こしていない。
重要なのは2000年問題が発生した時、俺は“以前の世界線と同様に”発熱に倒れていた、ということ。
違いといえばせいぜい、倒れて病院に運ばれる時間がやや早まった程度。
なのになぜ世界線が変わった?
それも、2000年問題が引き起こされるほどの大分岐。
俺のタイムリープそのものがファクターだったと?
──いや、そう考えるのは早計すぎる。
ともかく紅莉栖……それに鈴羽の意見も聞きたい。
あいつらならば力になってくれる。
俺はラボの方を向き直し地面を蹴──
ろうとするが腕を掴まれる。
萌郁「……待って、M3!」
倫太郎「触るな」
掴む手を乱暴に振り払い、ラボへの道を急ぐ。
今はもたもたしていられない。
萌郁「っ……どこへ、行くの? FBからは、待機命令がっ……」
血相を変えた萌郁の声が背中に届いたが、俺の心には届くことはなかった。
8月15日 17:26
大檜山ビルに向かって淡々と走り続けて約20分。
ビルの前に人影があるのに気づいて残り数十メートルを一気に駆け抜けた。
人影の正体は──
倫太郎「紅莉栖」
紅莉栖「ぁ、お、岡部っ……」
倫太郎「よかった、お前に頼みが……」
鈴羽「噂をすれば……ってやつか」
腕を組み、物影から姿を見せる鈴羽。
鋭い視線。
好都合だ。
だが長々と説明してる暇はない。
ここは単刀直入に行かせてもらう。
倫太郎「鈴羽、お前はタイムトラベラー……だよな? お前にも頼みがある」
鈴羽「っ……なんであたしが、タイムトラベラーだって知ってんの!?」
倫太郎「なんでって……」
一瞬、鈴羽の目が大きく見開かれる。
どう説明しようか考えていると、鈴羽の目が俺を睨みつけ──
鈴羽「確かに、ラボメンのみんなに話した。岡部倫太郎以外のラボメンにはね」
倫太郎「なに?」
どういうことだ?
俺以外だと?
鈴羽「お前はあたしの情報をどうやって手に入れた? 内通者か?」
あからさまな憎悪に満ちた目。
これまでもどこか内に秘められた嫌悪を向けられていると感じることはあった。
が、もはやそれは剥き出しの敵意と変わり俺を貫く。
紅莉栖「鈴羽、やめて……。ただでさえ私、何を信じていいか……分からなくなってるのに……」
鈴羽のナイフのような言葉に紅莉栖が頭を振って俯く。
鈴羽「岡部倫太郎、一緒にいた桐生萌郁って女は、何者なの?」
倫太郎「あいつは……」
鈴羽「ラウンダー?」
倫太郎「……」
否定は、できない。
鈴羽「肯定ととって構わないみたいだね」
まずいな、後手に回っている。
ともかく説明を──
紅莉栖「そんなことより! 何かいうことはないの?」
それまで俯いていた紅莉栖が顔を上げて言う。
悲痛な顔。
その顔が俺の思考を鈍らせる。
倫太郎「……なんのことだ?」
紅莉栖「何も言わないつもり!?」
倫太郎「俺のことはどうでもいい」
紅莉栖「見たのよ、さっき、ガード下で」
倫太郎「……っ!」
倫太郎「見たって、何を……」
鈴羽「お前が、ユーロポールの捜査官を殺す所だよ」
倫太郎「それはっ……」
鈴羽「服に血が付いてるよ」
倫太郎「待ってくれ、説明すると長くなるが──」
紅莉栖「ねえ岡部、全部嘘だったの? 私たちを騙してたの?」
倫太郎「とにかく説明させてくれ、Dメールを使うなりして世界線を変えれば──」
紅莉栖「使うってどうやってよ! 電話レンジの仕組み、まだ解明してないのに!」
紅莉栖「放電現象がいつ起きるかも不明確でしょ!?」
倫太郎「その原因は、42型ブラウン管TVだ。あれが付いてる時だけ──」
鈴羽「なぜ、それを知っている」
紅莉栖「ぁ……」
鈴羽「あたしたちは電話レンジの仕組みについて、この1週間ずっと話し合ってきた」
鈴羽「岡部倫太郎、お前も含めてね」
倫太郎「確かに、そうだが……」
鈴羽「そこでは何も言わなかったくせにさ」
鈴羽「今のはまるで……最初から知っていたような口ぶりじゃん」
紅莉栖「わかってて黙ってたの?」
倫太郎「違う! 信じられないかもしれないが──」
鈴羽「お前は嘘まみれだね」
倫太郎「──っ」
鈴羽の冷たく鋭い敵意がズキリと胸の奥に突き刺さる。
鈴羽「あたしがいた2036年でもそうだった」
鈴羽「嘘と裏切りだけで世界を手に入れたお前はさ」
鈴羽「その嘘を塗り重ねるために、数多の命を奪い続けてる」
そんな──
俺が?
鈴羽「だからあたしはタイムトラベルして来たんだよ、未来を変えるために」
倫太郎「だったら話は早い、今すぐ世界線を変えよう。こんな世界線は誰も望んじゃいない」
紅莉栖「あんた……あんた……なんであんなこと……」
紅莉栖「ねえ、あの子……まゆりはもう長くないんだから、もう悲しませるような真似は……やめてよ……」
倫太郎「紅莉栖、頼む、信じてくれ。俺は別の世界線から来た。なかったことにすれば……α世界線に戻れば……」
そう、α世界線に戻れば──
倫太郎「……っ」
α世界線に戻ったところでまゆりは助からない。
まゆりを助けるためにはそこからさらにβ世界線へと移動しなくてはならない。
しかしそうすれば今度は紅莉栖が──
紅莉栖「警察を……呼ぶわ」
倫太郎「紅莉栖。やめろ、そんなことしても無駄だ。意味が無い」
紅莉栖「あんたはそうやって、自分のしたことを嘘で覆い隠していくのね」
──やめろ。
紅莉栖「次は……」
──やめてくれ。
紅莉栖「次は私も殺すの!?」
────ああああ。
その刹那、ガララと小石が転がるような音が耳に飛び込んでくる。
鈴羽「スタングレネード!?」
次の瞬間、空気の入った袋がはじけたような音と共に強烈な光──
そしてキイイイインと甲高い音が辺りを飲み込んだ。
萌郁「岡部くん!」
乱入してきた萌郁に手を引かれるまま走り続けて数分。
やがて足を止めた萌郁は俺の手を離し、こう告げた。
萌郁「あそこには近づかない方がいい、もう正体、知られちゃったから……」
そんなことはどうでもいい。
倫太郎「まゆりに……まゆりに会いに行ってくる……」
萌郁「岡部くん……」
今はただ、まゆりの顔を見たかった。
8月15日 18:13
陰鬱な雰囲気立ち込める病院。
薄黒く汚れた仄暗い扉。
守るべき幼馴染の名前。
当たり前のようで当たり前ではない世界。
俺はこんな世界の扉を開けてしまったのだ。
俺はまた、まゆりを苦しめていた。
倫太郎「まゆり……」
まゆり「あ、岡部くんだぁ」
そんな俺にたいし、まゆりは満面の笑みで迎えてくれる。
るか「岡部さん、今日はもう来ないかと思いましたよ。椅子どうぞ」
倫太郎「まゆりっ……」
まゆり「岡部くん……どうしたの?」
倫太郎「……なんでもない」
まゆり「……今日の岡部くん、なんだかとっても悲しそうだよ……?」
倫太郎「いや、本当になんでもないんだ」
るか「……あ、ボ、ボク、飲み物買ってきます」
るか「まゆりちゃんはオレンジジュース、岡部さんはマウンテンジュー、ですよね」
まゆり「ありがとう〜、お願いするね?」
倫太郎「あぁ、頼む……」
るか「そ、それじゃあ行ってきますね」
ただならぬ雰囲気を察したのか、るかが慌てて病室を出ていく。
俺は用意してくれた椅子に腰を下ろした。
倫太郎「相変わらず、この病室には写真がいっぱい飾ってあるな……」
まゆり「うん、こうしてるとね〜。なんだか昔を思い出して、ほわほわ〜って気持ちになるのです」
倫太郎「はは、懐かしいな。この遊園地よくいったよな」
まゆり「え? 行ったのは、1回だけだよ?」
倫太郎「あ……そうか、そうだったよな」
まゆり「岡部くん?」
この世界線では、そうだったか。
倫太郎「……」
まゆり「私ね? 岡部くんにはすごく感謝してるんだよ」
まゆり「まゆりのこと色々気にかけてくれて、髪留めもプレゼントしてくれて、入院費まで出してくれて」
まゆり「本当にね、どれだけ感謝しても、足りないのです、えへへ」
倫太郎「……なあ、その髪留め、ちょっと見せてくれないか」
まゆり「あ、だめっ!」
まゆりが、伸ばした俺の手から逃げるように仰け反った。
倫太郎「……え?」
まゆり「ごめんね……」
まゆり「この髪、医療用のウィッグだから……」
まゆり「……もうまゆりの髪は殆ど残ってないのです」
倫太郎「……」
まゆり「治療の副作用、でもね? そのおかげで、クリスマスまでは生きていられるかもって希望が出てきたんだぁ」
まゆり「クリスマスにはサンタさんに、もう少し時間をくださいって、お願いしようかな」
倫太郎「あぁ……がんばれよ……」
まゆり「うんっ」
その笑顔が悲しくて。
倫太郎「……少し、風に当たってくる」
見ていられなくて。
みんな俺から離れていく……。
わかってるんだ、これも全部自業自得だって。
こうなったのも俺が不用意に過去を改変したせいだ。
倫太郎「でも、こんなの……きつすぎるだろっ……」
何か、何かあるはずだ……世界線を元に戻す方法が。
冷静になれ。
今までだってそうしてきたじゃないか。
8月16日 14:51
あの後、俺は萌郁のアパートに逃げるように転がり込んでいた。
夜通し考えていたのは世界線が変動した原因。
この世界線から抜け出し、元いた世界線に戻る方法。
だが一夜明けた今でも、解決策が思い浮かぶことはなかった。
萌郁「……ただいま」
迂闊に外を出歩けない俺の代わりに動いていた萌郁が戻ってきた。
萌郁は、帰ってくるなり心配そうに俺の顔を覗きこんでくる。
萌郁「岡部くん……大丈夫? 顔色、すごく悪い……」
倫太郎「あぁ、……問題、ない」
頭が割れそうだ。
混在する記憶、離れていくラボメン。
萌郁「おか……べくん……」
助けられない……まゆり。
……いや、考えろ。
世界線を戻す方法を……。
2000年問題、2000年問題さえどうにかできれば……。
その時、俺の携帯が畳を鳴らした。
半ば反射的に通話ボタンを押し、携帯を耳に当てる。
倫太郎「……もしもし」
FB『……M3か?」
倫太郎「……はい」
FB『……仕事だ』
聞こえてきたのは冷たく低い声。
電話の主であるFBこと天王寺裕吾は続ける。
FB『未来ガジェット研究所のタイムマシンを抑えろ』
倫太郎「……っ」
FB『抵抗してきた場合は殺しても構わん』
FB『ただし、開発者の2人は殺すな。確保してSERNに連行する』
倫太郎「……」
紅莉栖と橋田のことだ。
倫太郎「なんとか……なりませんか」
FB『質問は受け付けない』
FB『作戦開始は3時間後だ』
FB『M3とM4は先行し、アルファチームとして突入しろ』
FB『バックアップとしてブラボーチームが応援に入る』
FB『お前らはタイムマシン確保を最優先だ』
倫太郎「……」
解決策が見つからないままタイムマシンを持っていかれる。
それはなんとしても阻止したい。
が、どうしていいのかわからない。
FB『……はぁ』
FB『迷ってんならよ、今決めろや。どっちにつくのかな』
FB『覚悟がねーなら選ばないことを選べ、流されろ、従え』
倫太郎「……いえ、問題は、ありません」
FB『……』
そう告げると、通話がブツリと切れ、一定のリズムを刻む電子音が俺の耳にこだまし続けた。
倫太郎「……」
萌郁「FBは、なんて?」
倫太郎「ラボのタイムマシン……電話レンジを回収しろ、と」
萌郁「……そう」
どうする。
電話レンジが回収されてしまえば、過去改変を行うことができなくなる。
それはつまり俺はこの世界線から移動することができなくなるということ。
いや……鈴羽のタイムマシンを使えばあるいは……。
しかし……過去への一方通行。
どちらにしても、今の鈴羽は、俺に電話レンジもタイムマシンを使わせる気はないだろう。
ならばどうすればいい。
考えろ。
倫太郎「…………」
そもそも、Dメールで大分岐ような変動を起こせるのか?
この世界線に来てしまった原因も分からないのに?
仮に、起こせたとしてもDメールによる事象のコントロールは難しい。
2000年問題を阻止するとなればなおさらだ。
となると、かなり強引ではあるが──
倫太郎「萌郁、俺を助けてくれるか?」
萌郁「え? もちろん、岡部くんのため、なら」
倫太郎「今から言うことをよく聞け」
俺は、立ち止まるわけにはいかない。
犠牲にしてきた全ての思いのためにも。
俺はもう、逃げるわけにはいかない──
Chapter 5 『暗黒回帰のハイド』END
Chapter 6 『哀心迷図のカイン』
私の知るあなたは、ジキル博士ではなく、ハイド氏だった。
彼が私に見せる顔は仮面。
彼は私を必要としてるわけじゃない。
本当に必要してるのは別の誰か──
萌郁、俺を助けてくれるか?
そう言って彼は私に協力を求める。
嬉しかった。
私を必要としてくれたこと。
私の名前を呼んでくれたこと。
それだけでこの世界に、私の生きる意味があった。
けれど──
萌郁「そんなっ、そんなことしたらっ……過去を変える前に岡部くんが……死んじゃう……」
どうやら岡部くんは過去を変えるために無茶をしようとしている。
そんなこと危ないことは絶対にだめ……。
倫太郎「大丈夫だ、俺は絶対に死なない」
倫太郎「この世界線での俺は2036年時点でも生きている。つまり今の俺はどうやっても死ぬことはない」
世界線……? 2036年……?
何を言っているの?
萌郁「よく、分からない……」
倫太郎「不死身ってことさ」
萌郁「冗談は、やめて」
倫太郎「奴らラボメンに信用してもらうには誠意を見せる必要がある」
萌郁「でもっ、わざわざそんな危険な真似しなくてもっ」
倫太郎「誠意を見せるにはどうしたらいいか」
いつも私に見せる鋭く強い眼差し。
その両の瞳に迷いの色は一切ない。
倫太郎「命をかけることだ」
彼ははっきりと言い切った。
昨日の狼狽していた彼が嘘のよう。
倫太郎「俺は1人でもやる」
萌郁「……」
私は……どうしたいんだろう。
彼の望みが叶ったら、私と彼との関係はどうなるの?
過去が変わるってどう変わるの……?
それでも、私は──
萌郁「分かった……私、やる……」
倫太郎「すまない、お前には辛い選択をさせることになる」
萌郁「謝らないで、本当に辛いのは、岡部くんだと、思うから」
倫太郎「辛くなどない、俺がやらなきゃダメなんだ」
萌郁「どうして、そこまで……」
倫太郎「俺には世界線を変えてしまった責任がある」
萌郁「責任……?」
倫太郎「だからこそ、俺じゃなきゃ……ダメなんだ……」
倫太郎「お前こそ、なぜ俺に力を貸してくれるんだ? FBも裏切ることになるんだぞ」
萌郁「……岡部くんは、私に生きる意味、くれたから」
萌郁「私にとって、FBは父、岡部くんは……兄のような、もの」
萌郁「いえ、兄以上の特別な、存在」
倫太郎「……」
そう──
萌郁「岡部くんの……力に、なりたい」
ただ、それだけ──
8月16日 16:32
約2時間後、私たちは未来ガジェット研究所と外を隔てる扉の前に潜んでいた。
耳を澄ませば人の声が聞こえてくる。
それも複数もの声が重なり合っていた。
萌郁「……」
倫太郎「よりによって、ほぼ全員集合とはな」
岡部くんは目を閉じ、少し逡巡したかと思うと。
倫太郎「……時間はない、このまま作戦開始だ」
萌郁「……岡部くん」
もしかしたらこれが最後の会話になってしまうかもしれない。
そう思うといてもたってもいられなかった。
萌郁「キス、するね」
そっと唇を重ねて、すぐ、離す。
普段内気な私からは考えられない行動。
これくらい、赦されるよね……。
倫太郎「──んっ、おまっ、何を」
萌郁「……終わったら、ケバブ、もう一度一緒に、食べたいね」
倫太郎「……」
いきなりこんなことして、怒ったかな。
今更自分のしたことに驚き、心臓の鼓動が、早くなる。
全身が脈打っているのを、感じる。
倫太郎「作戦通り、最初に俺がラボに入りあいつらと話をする。萌郁はタイミングを見計らって……頼む」
気が気でない私を傍目に、彼は何事も無かったかのように淡々と話を進めた。
その落ち着いた声の響きが私の心を静めてくれる。
気を引き締めなきゃ。
萌郁「了解」
私がそう言うと彼は一度だけ頷き、扉の奥に吸い込まれていった。
「岡部!」
「うおぉう、びっくりしたぁ!」
「岡部さん!」
「倫太郎!」
「何しに……来たの?」
「みんな、聞いてくれ」
……始まる……。
できるの? 私に……。
岡部くん……岡部くん……。
岡部……くん!
「捜査官を殺したのも、今捕まるわけにはいかなかったからだ」
「まゆりを助けるためだったんだ、信じてくれ」
「まゆりをっ……だしに使わないで!」
「岡部さん……すごく悲しそうな目……してます」
「倫太郎……嘘は言ってないニャ……」
「嘘だよ、そんなことあるはずがない」
「で、でもフェイリスたんのチェシャーブレイクは……」
「こいつは2036年では自らを神格化し、鳳凰院凶真と名乗ってる。さっきもそう言ったでしょ」
「嘘なんかじゃない。こんな世界線は変えなきゃいけない……そう思っている!」
「……みんな、俺が……信じられないのか?」
合図の言葉……。
岡部くん……!
恐怖、不安、抵抗。
すべてグッと飲み込んで勢い良く飛び込み、できる限り声を張り上げる。
萌郁「動くな! 全員両手を上げろ!」
銃を構えて飛び込んできた私に全員の視線が注がれる。
鈴羽「ラウンダー!?」
るか「ひっ……じゅ、銃!?」
すぐさま1人2人と手を上げ始める。
その中でも岡部くんとおさげの女性──阿万音鈴羽さんだけは手を上げない。
紅莉栖「岡部、これは一体……」
倫太郎「……」
萌郁「タイムマシンはSERNが回収する」
萌郁「開発者の牧瀬紅莉栖、橋田至……岡部倫太郎は付いてきてもらう」
フェイリス「倫太郎も!?」
萌郁「抵抗するのなら、容赦はしない」
至「ちょ、ど、ど、ど、どういうこと? 岡部はラウンダーを裏切ったってこと?」
鈴羽「……」
萌郁「抵抗するのなら容赦はしない、もうすぐ仲間もくる」
倫太郎「萌郁、無駄だ。こっちには鈴羽と俺がいる」
紅莉栖「岡部……」
倫太郎「俺は電話レンジを渡す気はない」
萌郁「……喋るな! 手をあげろ!」
るか「お、岡部さん、ダメです……撃たれちゃいます……」
倫太郎「俺は、電話レンジを使って、過去を変える!」
全身が強張っていくのを感じた。
岡部くん……!
岡部くん岡部くん岡部くん……!
私は引き金にかけた指に力を込め──
フェイリス「り、倫太郎……ダメ……」
萌郁「……」
倫太郎「……」
岡部くんのために、岡部くんのために……。
岡部くんを──
撃──
…………。
ダメ……やっぱり撃てない……。
そう悟った瞬間、指から力が抜けていくのを感じた。
鈴羽「茶番だね……」
鈴羽「……はっきり言いなよ岡部倫太郎。目的は何?」
倫太郎「……何のことだ」
鈴羽「何を企んでいる?」
倫太郎「手厳しいな……」
鈴羽「今の君はどうやっても死なないからね」
鈴羽「ラボのみんなを信用させてDメールを送ろうったってそうは行かないよ」
倫太郎「なにを、バカな……」
萌郁「しゃべるな! 撃つぞ」
倫太郎「……」
撃てないと分かった今でも銃身を下げずにいた。
岡部くんの計画のために、私に出来る精一杯の演技。
彼はそんな私に目配せする。
──撃て、と。
岡部くん……私には、できないよ……。
突如、背後で何かが素早く動く気配がした──
続いて数人の巨躯な男たちが室内へと転がり込んでくる。
至「わああ! な、なに!?」
紅莉栖「きゃ、きゃああ!」
突然の乱入に悲鳴が鳴り響いた。
男たちが握っている自動小銃が黒く光りを放っている。
M5「裏切ったようだなM3」
M6「M4、開発者は殺すなとの命令だ」
ブラボーチーム!?
そんな! 早すぎる!
なんで? どうして!?
鈴羽「くっ……! 増援か!」
至「わああ、やめて、撃たないで!」
M7「開発者3名の他は──」
銃口がゆっくりと開発とは無関係の人間に向けられる。
るか「ひっ……」
フェイリス「ぁ……」
鈴羽「くそ……!」
倫太郎「やめろ……」
M7「必要ない」
倫太郎「やめろおおおおおおお!!」
咆哮と共に矢のように飛び出した岡部くんは3人の少女の前に大の字で立ちはだかる。
ほんのわずか遅れてパララという音と共に銃弾の雨が彼の体に突き刺さった。
倫太郎「が……! はぁ……」
M7「くっ!」
M6「チッ、バカが」
対象外の人間を撃ってしまったことですぐさま引き金を離す男。
しかしすでに岡部くんの体からはおびただしい量の血が流れ出している。
岡部くんは膝をつき、ゆっくりと倒れていった。
萌郁「うそ……そんっ……なっ……」
岡部くん──!!
鈴羽「……っ」
紅莉栖「岡部──いや、いやぁぁ!」
倫太郎「…………」
るか「岡部さん! 岡部さぁん!! 死なないで……死なないでぇぇ!」
M5「M4、タイムマシンを回収しろ」
萌郁「……」
仲間の声が遠くに聞こえた。
アパートを出る前、彼が言った言葉が思い返される。
『大丈夫だ、俺は絶対に死なない』
『この世界線での俺は2036年時点でも生きている、
つまり今の俺はどうやっても死ぬことはない』
『よく、分からない……』
『不死身ってことさ』
倫太郎「うぅっ……」
──でも、あなたは今にも死んでしまいそうで。
つま先へと伸びてくるおびただしい量の血がそう訴えていた。
M5「M4!」
萌郁「いやぁぁぁぁ!」
気づけば岡部くんを撃った男に銃弾を打ち込んでいた。
そうしたところで岡部くんが助かるわけではなかったが、体が勝手に動いていた。
激しく仰け反り、血を吐いてその場に倒れる男。
M7「がはっ!」
M6「な、M4……貴様!」
M5「裏切るのか!」
襲撃者の視線が裏切り者である私へと向けられる。
その隙をついて阿万音さんが素早く銃を抜き──
鈴羽「くっ……よく分からないけど、とにかくこいつらを──」
ダーン ダーン
M6「ぐぁっ……!」
1人に銃弾を2発。
至「わぁぁ!」
M5「くそっ!」
すぐさま自動小銃が火を吹き、阿万音さんを襲う。
が──彼女は獣のような身のこなしでその銃弾を掻い潜り反撃する。
ダーン
1発の銃弾が男の肩を撃ちぬく。
M5「ぐっ……うおぉぉっっ!」
照準が乱れ、辺りを穴だらけにする弾丸の雨。
響き渡る悲鳴と怒号。
紅莉栖「いやあああ!」
至「おぁあぁ!」
るか「きゃあぁ!」
フェイリス「も、もうやめてぇーっ!
鈴羽「はぁっ!」
M5「うがっ!」
阿万音さんの接近を許した男の顎に掌底が入り、男が天を仰ぐ。
倒れこむ男の頭に容赦無い1発。
そして、先ほどの時間が嘘のような静寂が訪れた。
立ち込める血と硝煙の匂い。
鈴羽「……ふー、なんとか……片付いたみたいだね」
阿万音さんの一言で我に返る。
あ、あ……。
お、岡部くんは……!?
萌郁「おかべくん!」
すぐに彼の元に近寄り、うつ伏せに倒れる彼を抱きかかえる。
出血量が、ひどい。
萌郁「岡部くん! しっかりして岡部くん!」
倫太郎「う……」
抱き起こすと苦しそうに小さく呻く彼。
そしてポツリポツリと呟く。
倫太郎「……ばか、だな、それじゃ、さくせんのいみ、ないだろ」
眼の焦点はあっておらず、喋り方も弱々しかったが、かろうじて意識はあるようだった。
フェイリス「倫太郎! 死んじゃいやぁぁ!」
倫太郎「しんぱい、するな……おれは、しなない」
紅莉栖「救急車、早く……救急車!!」
倫太郎「ま……まて、くりっ……すっ……」
助けを呼ぼうとする彼女を静止し、精一杯言葉を紡ぐ。
倫太郎「よぶな……きいて、くれ」
るか「でも、このままじゃ岡部さんが!」
倫太郎「たのむ、よばないでくれ……いまは……」
鈴羽「……とにかく、応急手当を。誰か車を用意して、この場所はもう危ない」
至「で、でも、誰も免許持ってなくね……?」
萌郁「わ、私が……近くに、車停めてある……」
鈴羽「……お願い」
8月16日 16:50
近くに停めてあったライトバンを急いで走らせ、大檜山ビルの横につけ2階へ向かった。
仰向けに寝かされている岡部くんからの顔からは血の気が引いて真っ青になっている。
萌郁「車、用意して、きた……」
鈴羽「ありがと……さ、運ぶよ。手伝って、橋田至」
至「お、おう……」
倫太郎「うぐっ……」
彼は阿万音さんと橋田さんの2人に肩を貸してもらい、苦しそうに呻きながらもなんとか歩き出す。
るか「岡部さん……死に、ませんよね? 大丈夫、ですよね?」
紅莉栖「今はなんとも言えない……奇跡的に一発も急所に当たってないけれど、出血が多すぎるわ。意識があるのが不思議なくらいよ」
鈴羽「大丈夫、こいつは死なない。絶対にね」
フェイリス「こんなに血だらけなのに……?」
鈴羽「アトラクタフィールド理論、世界線の収束ってやつ。生存が約束されてるんだ」
紅莉栖「ね、ねえ、電話レンジはどうするの?」
そうだ。タイムマシン。
彼がこうまでして守ろうとしたもの。
なら私も守らなきゃ。
萌郁「大きめのバンだから、全員乗っても、余裕、ある」
鈴羽「持っていったほうがよさそうだね」
8月16日 18:25
外に出ると、厚い雲が太陽の光を遮り、辺りは陰りを帯びていた。
暗雲垂れ込める灰色の空とまとわりつく湿気が雨の息吹を感じさせる。
逃げるように未来ガジェット研究所を出た後、私たちはラジオ会館内の8階にいた。
阿万音さんの指示だ。
ここならば彼女の用意してある武器や装備があるという。
岡部くんは、応急手当を受けている途中で気を失ってしまった。
阿万音さんは、大丈夫だと言ったけれど、胸が押しつぶされそうだった。
辺りは静まり返っており、嫌な沈黙が場を支配している
時折応急手当の作業音がするだけ。誰も言葉を発しようとしない。
周りを見回すと、壁を突き破って頓挫している機械が目に入る。
薄暗く、はっきりと視認することができない。
光源は窓ガラスから差し込む灰色の光と阿万音さんが持ってきたハンドライト。
ラジオ会館に人工衛星が突き刺さったのは、つい数週間前だ。
当時は大騒ぎだったが、進まない調査に次第に皆の興味は薄れていった。
牧瀬さんが大きく息をつき、一言口にする。
紅莉栖「ひとまず、応急手当は終わったけど……」
とは言ったものの、巻かれた包帯にどす黒く広がる数々の赤がボンヤリと目に映る。
傷の深さを物語っていた。
るか「や、やっぱりちゃんと病院に行ったほうが……」
鈴羽「だめだよ。こんな銃槍、医者に見せたら怪しまれちゃう」
フェイリス「でもこのままじゃ倫太郎が!」
鈴羽「だからさっきも言ったじゃん。こいつは死なない。世界線の収束によって生存が約束されているから」
紅莉栖「鈴羽がそういうのなら、わ、私は信じるわ」
世界線の収束……。
岡部くんも言っていた。
彼は、今の時点では不死身だと。
でもこんなに弱々しくて、今にも死んじゃいそうなのに……。
至「ぼ、僕達これからどうなっちゃうん? つ、つかラウンダーのおねーさんは一体……」
萌郁「……」
鈴羽「はぁ……」
阿万音さんが大きくため息をつく。
鈴羽「もう訳がわからないよ」
萌郁「……」
倫太郎「うぅっ……」
萌郁「あ、お、岡部くん!」
るか「岡部さん!」
フェイリス「目を覚ましたの!?」
倫太郎「ここは……俺は一体……」
紅莉栖「ここはラジ館内。あんた、フェイリスさん達を庇って撃たれたのよ」
倫太郎「……さすがにダメかと思ったが、やはり世界線の収束によって死は免れたということか」
倫太郎「それより、みんな怪我はないのか」
るか「は、はい……岡部さんのお陰で」
フェイリス「倫太郎が庇ってくれなかったらどうなっていたかわからないよ……」
倫太郎「そうか。危ない賭けだと思ったが良か──」
倫太郎「うぐっ……」
まだ体が痛むようで、岡部くんは顔をしかめて小さく呻く。
紅莉栖「無茶しやがって……バカ……」
倫太郎「ふ……お前らが話を聞かなかったせいだろう」
紅莉栖「……それについては……謝るっ……」
牧瀬さんはきまりが悪そうにそっぽを向きボソボソっと言った。
全然謝ってるようには見えない。
鈴羽「説明して岡部倫太郎。一体、何をしようとしている」
鈴羽「世界線の収束によってお前の死は否定されるにしても、あんなの……無茶すぎる」
倫太郎「言っただろう、まゆりを助けるため、だと」
るか「ボクたちを庇ったのは……どうして……」
倫太郎「知らん、体が勝手に動いていただけだ」
フェイリス「倫太郎……」
倫太郎「ともかく……未来の俺がどうかは知らないが、今の俺はそのためだけに動いている」
萌郁「……」
倫太郎「そのためなら手段は選ばない、そう決めたんだ」
紅莉栖「岡部……」
鈴羽「……全部話して。信じるかどうかは別だけど」
倫太郎「……あぁ」
岡部くんは、時折痛みに顔を歪めながらも冷静に話してくれた。
彼の持つ能力のこと。
その能力で幾つもの世界線を漂流したこと。
α世界線では、椎名さんが世界に殺される運命にあったこと。
IBN5100を使いα世界線からβ世界線に移動することで、椎名さんを助けようとしたこと。
そして”クラッキングを実行することができなかった”ため、タイムリープの限界を超え、この世界線に来てしまったこと。
今の目的は、2000年問題を阻止し、α世界線を戻ること。
倫太郎「掻い摘んで話せばこんなところだ」
岡部くんは、まだ満足に動かせないはずの上半身を起こして壁にもたれ掛かっている。
額からは汗が流れ落ちており、やはり辛そうだ。
紅莉栖「ふむん……」
至「それが本当だったらラノベ作家になれると思われ!」
るか「ボク、何がなんだか……」
鈴羽「リーディングシュタイナーなんて能力、信じがたい話だけど……」
鈴羽「世界線をまたいでも記憶が継続する力を、本当に持っているのだとしたらお前の話に矛盾はない」
フェイリス「り、倫太郎は嘘を言ってないのニャ、た、多分……」
鈴羽「確かに、世界線をまたげば椎名まゆりを助けることができるかもしれない」
鈴羽「でも、この世界線でも彼女は近いうちに、死ぬ」
倫太郎「だから、それを回避するために──」
鈴羽「結局、お前は何がしたかったんだ」
阿万音さんは岡部くんが喋り終える前に冷たく言い放った。
疑問をぶちまけたのではなく、責め立てるように。
倫太郎「……っ」
鈴羽「いたずらに世界線を変えて、数多の人間を死に追いやって」
鈴羽「かと思ったら、今度はそれをなかったことにしようとしている」
鈴羽「ちょっと勝手すぎるんじゃない?」
鈴羽「この世界線に幸せを見出している人はどうなる? その人の気持ちを考えたことは?」
萌郁「……」
倫太郎「そ、それはっ……」
鈴羽「お前が世界線を不用意に変えたことによって不幸になった人間は少なからず、いる」
鈴羽「今までも、これからも、ね」
彼女は、反論もできず口ごもる彼に対し、お構いなしにまくし立てる。
紅莉栖「ちょ、ちょっと鈴羽、言い過ぎよ……」
そんな彼女に対し、牧瀬さんが止めに入った。
鈴羽「……確かに、ちょっと言い過ぎた。不本意だけど……謝罪する。ごめん……」
制止が入り、我に返ったのか、目をそらしながら謝る阿万音さん。
ポリポリと頭をかいてバツが悪そうにしている。
そのまましばらく何かを考えこみ──。
再び語りはじめた。
鈴羽「……実際は、あたしのやろうとしてることも同じなんだよね」
鈴羽「あたしも……未来を変えるために2036年からやってきたんだから」
鈴羽「この……タイムマシンを使って」
阿万音さんが壁に突き刺さっている機械を見て呟く。
未来!?
タイムマシン!?
じゃあ、阿万音さんって未来人だったんだ。
倫太郎「鈴羽……」
他の皆は最初から知っていたようで、特に驚く素振りを見せたりすることはない。
なんだか、私だけ仲間はずれみたい。
鈴羽「ごめん、思わず頭に血が上っちゃったよ」
鈴羽「あたしも、ずっと葛藤があったから……」
鈴羽「こんな世界なんて変えてやる! なんて思っててもさ」
鈴羽「時々分からなくなるんだ。一部の人間の思いだけで変えてもいいのかって」
鈴羽「今、この時を幸せに生きている人達のことを思うと、どうしても……ね」
尻すぼみになる言葉の終わりと共に阿万音さんが顔を伏せた。
阿万音さんの想いにどう応えればいいのかわからないようで、皆黙りこんでしまう。
嫌な沈黙が支配していた。
そんな中、私は暗い床を眺めながら、彼女の言葉に考えを巡らせていた。
萌郁「……」
世界線が変動してしまったら、私と岡部くんの関係はどうなってしまうのだろう。
少なくとも、今までのようにはならないよね……。
もしかしたら、彼と出会ってすらいないかもしれない。
彼に聞くのは簡単。
でも、聞くのは、怖い……。
鈴羽「信じる信じないにしても、あたしは未来を変えなきゃいけない」
阿万音さんが顔を上げ、切り出した。
倫太郎「鈴羽……やってくれるのか?」
鈴羽「それがレジスタンスの仲間たちや、父さんとの約束でもあるからね。あたしはやるよ」
倫太郎「父さん……そういえば、お前は父親の正体について知っているのか?」
鈴羽「え? あー……うーん」
倫太郎「なんだ、煮え切らない反応だな」
鈴羽「……」
倫太郎「……」
岡部くんと阿万音さんは橋田くんをチラっと見たかと思うと、再びお互い視線を交わす。
その2人の反応に橋田くんの頭には?が浮かんでいる。
至「う、うえぇ?」
鈴羽「はぁ……あたしの父さん、カッコ良かったんだけどな」
倫太郎「ふ……なるほど」
小さくため息をつき、ぼそっと呟く阿万音さん。
それを見て、目を閉じくすりと笑う岡部くん。
なにかしら、この分かり合ってますオーラ。
……ちょっと悔しい。
倫太郎「それで、未来を変える方法についてだが……なにか策はあるのか」
少し和やかな雰囲気になったかと思うと、一転、岡部くんは本題を切り出した。
阿万音さんは少し逡巡した後──
鈴羽「んー、それがさ、世界線を変える鍵は岡部倫太郎が握ってる、としか聞いてないんだよね」
紅莉栖「岡部が?」
鈴羽「そ。でも実際にどう握ってるのかは分からない。岡部倫太郎を抹殺することなのか、再起不能にすることなのか」
倫太郎「おい……」
鈴羽「……冗談だって」
鈴羽「ともかく、レジスタンス内ではそういうことになってたんだ」
鈴羽「でも、2036年では容易に接触できなかった。迂闊に近づけば、命が幾つあっても足りなかったからね」
紅莉栖「だから2010年にタイムトラベルを?」
鈴羽「そう。レジスタンスの前身である未来ガジェット研究所が設立された年」
鈴羽「そしてその創設者である岡部倫太郎がどのようにして研究所を設立し、どのようにして裏切っていくのか、この目で見たかった」
倫太郎「俺がラボメンを裏切る、か……」
倫太郎「そんなこと、俺は絶対にしない」
鈴羽「……」
倫太郎「と、言いたいところではあるが、未来から来た鈴羽が言うのであれば、そうなのだろうな……」
紅莉栖「……」
るか「……」
至「……」
フェイリス「……」
岡部くんの自虐的な独白に、皆再び押し黙ってしまう。
岡部くん自身も辛辣な表情をして目をつむっていた。
るか「……」
るか「でっ、でもっ……岡部さんはボクたちを庇ってくれましたしっ!」
るか「2000年問題を阻止するために色々動きまわっててっ!」
至「る、るか氏?」
るか「それも全部まゆりちゃんのためで……」
るか「まゆりちゃんのそばにいる岡部さんは本当に優しくて……」
るか「う、上手く言えないけど、ボク……ボク……っ」
漆原さんが涙声になりつつも必死に訴えかけてる。
るか「ボクは……岡部さんのこと……信じてます、から……」
倫太郎「……」
鈴羽「漆原るか……」
フェイリス「そ、そうニャ! フェイリスも倫太郎のこと信じてるニャ!」
フェイリス「誰がなんと言おうと、ラボメンは血の盟約によって固く結ばれているのニャ!」
フェイリス「ラボはどれだけの時間が過ぎようとも倫太郎の居場所なのニャ!」
倫太郎「……るか……フェイリス……」
紅莉栖「彼女らの言うとおりよ。こんなことに巻き込んでおいて1人いなくなるなんてそうは問屋がおろさないんだからな!」
至「ま、まあラボがなければこうして3次元のおにゃのこたちと戯れることも無かっただろうし、感謝は……してるお」
紅莉栖「あんたは早急に出てった方がいいかもね」
至「ちょ! それはひどくね?」
倫太郎「紅莉栖……橋田……」
至「べ、別に、ダルって呼んでくれてもいいんだからね!!」
倫太郎「……考えておこう」
至「そこはいいですともだろ常考!」
紅莉栖「はいはい、ワロスワロス」
鈴羽「あっはは……」
温かい空間。
岡部くんを中心に形成された光りあふれる空間。
暗いラジオ会館内でそこだけ輝いている。
そして私だけ、切り離されたかのように暗がりにいた。
ラボメン──かぁ。
良い、なぁ……。
私だけ輪に入れず──
私だけ置いてかれるようで──
悲しくて、苦しくて──
彼らが皆、遠くに行って──
彼が離れていって──
私の居場所が──
また──
倫太郎「……俺の認識によればα、β世界線とこの世界線の違いは、2000年クラッシュの発生の有無に起因する」
萌郁「……っ」
ポツポツと語り出した岡部くんの声が私を現実へと引き戻す。
いけない、また考え込んじゃってた……。
紅莉栖「つまり、2000年問題を阻止すれば、世界線は変わるってこと?」
倫太郎「恐らくそうだ。現に2000年問題が起きなかった世界線を経験しているからな」
至「2000年問題が起きなかった世界線があるん? 想像できんわな」
フェイリス「確かに、そうニャ」
るか「ボクたちの中では、当たり前の認識ですからね……」
紅莉栖「2000年問題……」
紅莉栖「年号を2桁で管理しているコンピュータが、2000年を1900年と誤認してしまい、処理を続行できなくなる問題のこと」
萌郁「表向きは、ね」
紅莉栖「え? ど、どういうこと?」
萌郁「え、えっと……」
口を挟んだ私に牧瀬さんが勢い良く詰め寄り、思わず目をそらし、口ごもってしまう。
倫太郎「……昨日、2000年問題について詳しく調べたところ、1つの疑問点が浮かんだ」
見かねた岡部くんが淡々と話を続ける。
痛みはまだあるはずなのに、岡部くんは本当にすごいと思う。
倫太郎「なぜ2000年問題を防げなかったのか、だ」
倫太郎「萌郁の調べによると、SERNは1999年時点において、ワクチンプログラムの開発に成功している」
るか「あ……確かに、ボクも聞いた事あります。だから昨日……」
萌郁「そう、岡部くんに頼まれて、あなたに話を、聞きに行った」
倫太郎「……話を戻すぞ」
るか「あ、ご、ごめんなさい」
萌郁「……」
怒られちゃった。
倫太郎「ワクチンがあったにも関わらず、壊滅状態の地域がいくつもあった。かと思いきや、被害の少ない地域や、全く無傷な地域だってあった」
フェイリス「ワクチンプログラムを使わない、もしくは使えなかったとかはないのかニャ?」
倫太郎「おかしいと思わないか、世界規模で懸念されたバグだぞ」
倫太郎「少なくとも、甚大な被害が予想されるコンピュータへは最優先でワクチンが当てられたはずだ」
フェイリス「言われてみれば、確かにそうだニャン」
倫太郎「そして、被害の地域にバラつきがあること、このことから1つの結論を導き出すことができた」
至「つまり、どういうことだってばよ」
萌郁「薬を作ってから毒をまく、SERNの常套手段」
萌郁「いえ、その薬こそが、毒、だったのかも」
紅莉栖「ええっ!? ちょ、説明しろ!」
倫太郎「被害の大きい地域には、必ずといっていいほど名高い研究所が設立されており」
萌郁「2000年クラッシュ後は、どれも、再起不能な状態、だった」
倫太郎「研究の分野は主に素粒子物理学や物理工学系」
鈴羽「それって、もしかして……」
倫太郎「あぁ、2000年クラッシュは、誤作動などではなく──」
倫太郎「ニセのワクチン──いや、ウィルスによって人為的に発生させられたものだったのかもしれない」
萌郁「目的は、タイムマシン研究を行わせないため……」
紅莉栖「そんな……」
牧瀬さんは信じられないと言った表情をしている。
倫太郎「SERNはエシュロンを使い、全世界のタイムトラベルに関する情報を集めている」
倫太郎「これはどの世界線においても共通なはずだ」
倫太郎「すなわち、SERNは大小問わず、タイムトラベルについて研究している機関を監視──」
倫太郎「研究の進行を脅威に感じたSERNは機関にニセのワクチンを掴ませ、潰した」
倫太郎「以上が2000年問題に関する俺と萌郁の推察だ」
萌郁「もちろん、カムフラージュだったり、経済の壊滅を目的として潰された地域もあったかも、しれない」
萌郁「事実、2000年クラッシュ後、アメリカの経済は第6位まで落ち、代わりに欧州の国々が上り詰めてきた」
フェイリス「確かに、2000年以降の経済はヨーロッパが引っ張ってきていると言っても過言ではないニャン……」
紅莉栖「もしそれが真実だとしたら、許せない……」
紅莉栖「本当に……許せない」
強い憤りを隠し切れない牧瀬さんは、繰り返し怒りの言葉をつぶやき、肩を震わせている。
倫太郎「もう1つ分かったことがあるが、ワクチンプログラムの開発にあたった人物は自殺している」
萌郁「責任を感じて、なのか、消されたのかは……わからない」
鈴羽「なんてこと……」
至「うわー、SERNパネェっす……マジパネェっす……」
鈴羽「だとすると、未来を変えるには──」
鈴羽「クラッキングを仕掛け、SERNの動向を探りつつ2000年問題の計画を頓挫させる」
倫太郎「そうだ」
倫太郎「……が、やれるか?」
鈴羽「オーキードーキー、なんたってあたしは……」
そう言いかけて言葉を止める阿万音さん。
視線の先には橋田くんがいる。
鈴羽「いや、なんでもないや」
至「お、おう……?」
さっきからなんだろう、この2人。
何かあるのかな?
鈴羽「ともかく、2036年の技術でSERNを出しぬくよ!」
倫太郎「もっとも、今語った推察が当たってる証拠はどこにもないがな」
鈴羽「ま、2000年問題さえ防げばいいんでしょ? だったらあたしはやるよ」
鈴羽「たとえ今の推察が当たってなくとも、他に原因を究明して未然に防いでみせる」
はっきりと言い切った。
力強い意志を持った瞳。
命をかける、そういった岡部くんと同じ目をしていた。
倫太郎「そうか……」
倫太郎「ならば、SERNのサーバー内にクラッキングを仕掛けるためにIBN5100も必要になってくる」
倫太郎「恐らく、2000年クラッシュの計画は最重要機密に近い扱いだろうからな」
鈴羽「とーなると……1999年じゃなくて──」
倫太郎「ああ、IBN5100を確実に入手するために、1975年に跳躍したほうがいい」
鈴羽「うげっ、35年前?」
倫太郎「気が引けるか?」
鈴羽「まあね。でも、それがあたしの使命だから」
使命──
その重みとは相反して、柔らかく笑いながら阿万音さんは言った。
鈴羽「さて、と。そうと決まったらグズグズはしてられない、早速過去へ飛ぶよ」
倫太郎「待ってくれ、最後に……」
鈴羽「ん?」
倫太郎「話を……謝っておきたい奴が、いる」
鈴羽「謝罪? 世界線が変われば、記憶が残ることはないけど……」
倫太郎「それでも、一言言いたいんだ、苦しい思いをさせてしまったお詫びを」
それって、もしかして……。
倫太郎「……まゆりと話をさせて欲しい」
鈴羽「椎名まゆり? ……でも、今の君が出歩くのは……」
るか「あ、でしたらボク、病院から電話してくれるよう頼みにいきましょうか?」
倫太郎「いいのか?」
るか「はい、ボクにできることと言ったら、これぐらいしかありませんから……」
フェイリス「ニャニャ、だったらフェイリスも行くニャン、ルカニャンを一人にしていくわけには行かないニャン」
至「あ、だったら僕も」
倫太郎「橋田、お前はここにいてやれ」
至「えー、なんでさー! か弱い乙女2人を出歩かせるなんて紳士のやることじゃないお!」
るか「あの、ボクたちでしたら、大丈夫なので……歩いて10分も掛かりませんし……」
紅莉栖「やんわりと断られてる件について」
至「ぐはー……」
倫太郎「じゃあ頼んだぞ」
るか「任せてください!」
倫太郎「2人とも俺を信じてくれてありがとう、礼を言う」
フェイリス「フェイリスは最初から倫太郎のこと信じてたニャン!」
鈴羽「謝罪の次は謝礼か。全くあの鳳凰院凶真からこんな言葉を聞けるとはね」
……そうよね。
岡部くんにとっては、椎名さんを助けるためにやってきたんだものね……。
最後に、私に何か言ってくれるのかな……なんて思っちゃった。
何期待してるのかしら、私ってば。
漆原さんたちがラジ館を後にし、再び静寂が訪れた。
曇り空を割って差し込む光がわずかに赤く染まり始めている。
鈴羽「にしても、世界線を変える鍵は岡部倫太郎が握ってるだなんて……よく分かったなぁ、誰だか知らないけれど」
解決の糸口が見つかったおかげか、少しだけ明るい口調で阿万音さんが切り出した。
倫太郎「俺の能力を考えれば、そこに行き着くのは難しいことではないだろう」
至「でもそれっておかしくね?」
至「岡部のリーディングシュタイナー……だっけ? それを知ってるのって、限られた人だけじゃん? 例えばボクらみたいな──」
倫太郎・紅莉栖「あぁ、なるほど」
至「んぇ?」
鈴羽「ともかく、これでレジスタンスの創設者に顔向け出来るよ」
倫太郎「創設者……とある世界線において創設者は俺だったりしたんだが、この世界線では誰なんだ? 気になるな」
鈴羽「君が創設者ぁ〜? バカも休み休みいいなよ、冗談にもなんないって」
倫太郎「くっ……俺が動けないのをいいことに……」
鈴羽「うちの創設者はね、天才的頭脳で鳳凰院凶真の策略の数々を打破してきた、そりゃもう、すっごい切れ者なんだから」
倫太郎「ほう、それは興味深いな」
鈴羽「おかげで、数ある反体制組織でもうちほどの勢力を持った組織は他になかった」
鈴羽「おまけにその創設者は女性。聡明で凛としてて、みんなの憧れの的だったらしいよ」
至「うひょー! 女ボスktkr」
紅莉栖「へぇ……すごい。尊敬しちゃうわね」
萌郁「……」
すごい人……岡部くんと対等に渡り合うなんて……。
倫太郎「御託並べはほどほどにしろ。で、誰なんだ」
鈴羽「……えっと、それが、実際に会ったことはないんだ」
それまで自慢げに語っていた彼女はきまりの悪そうな顔をして頭をかく。
倫太郎「なんだ、知らないのか」
鈴羽「ある年を境なかなか表舞台には出て来なくなっちゃったから……」
倫太郎「レジスタンスという立場を考えれば不思議じゃないな」
鈴羽「コードネームは世界的に有名なんだけどね……」
紅莉栖「へぇ、なんて言うの?」
鈴羽「栗悟飯」
紅莉栖「ぶっ!」
栗……ご飯?
倫太郎「……」
至・鈴羽「ん?」
萌郁「……?」
鈴羽「……ある時、彼女はネット上でSERNの悪事の数々を暴露をするんだ」
鈴羽「操作される為替レート。盗まれて独占される技術。謎の死を遂げる政治家や技術者たち」
鈴羽「暴露を皮切りに、対SERNの組織が次々と生まれていった」
鈴羽「世界的に有名な、英雄の名前だよ!」
紅莉栖「へ、へーそう、英雄、英雄ねえ……」
自慢げに言う阿万音さんとこめかみに指を当て囁やく牧瀬さん。
その横で岡部くんがくっく、と小さく揺れている。
とその時ブーブーと携帯が振動し始めた。
岡部くんが携帯を取り出し、おぼつかない指で通話ボタンを押し携帯を耳に当てる。
倫太郎「……もしもし」
まゆり『岡部くーん、こんばんは〜』
携帯から無邪気で明るい声が漏れてくる。
辺りの静寂のせいかはっきりと聞き取れた。
倫太郎「あぁ……元気にしてたか?」
岡部くんは目を細め、慈しむような声で問いかける。
任務の時の岡部くんからは想像もできない優しい声。
まゆり『うん、今日は体調すっごくいいんだぁ』
倫太郎「わざわざ電話してもらってすまない。本来なら、俺から会いに行くべきなのに」
まゆり『ううん、そんなの全然気にしなくていいよ〜、いつもお世話になってるのはまゆりだもん!』
倫太郎「……はは、今日のまゆりはホントに元気そうだな」
まゆり『……そういう岡部君は……なんだかとても辛そうな声だけど、大丈夫〜……?』
倫太郎「いや、なんでもない。少しマウテンジューを飲み過ぎて腹が痛いだけだ」
まゆり「あはは、岡部くんってば好きだもんねぇ〜、マウンテンジュー」
声の調子や、息づかい、言葉と言葉の間から察したのか、岡部くんを気遣う椎名さん。
そんな椎名さんに余計な心配をかけまいと嘘をつく岡部くん。
この2人は本当に強い絆で結ばれている。
私の入り込む余地なんて、ないんだなぁ。
倫太郎「……まゆり」
ほんのわずか間をあけ、岡部くんは椎名さんの名を呼びかける。
まゆり『ん〜?』
倫太郎「病気、治るといいな」
まゆり『……うん、そうだね』
倫太郎「それじゃあ、切るな。いきなり電話なんかかけさせて、悪かった」
まゆり「ううん、気にしないで? 嬉しかったよ」
倫太郎「本当に、ごめんな……がんばれよ」
まゆり「え? う、うん、岡部くんも、頑張って」
倫太郎「あぁ……」
そう頷いて彼は通話を終えた。
倫太郎「ふー……」
今まで痛みを堪えていたのか、岡部くんは大きく息をつくと同時に顔をしかめた。
紅莉栖「全く、まゆりが相手となると人が変わったみたいに優しくなるんだから」
倫太郎「うるさい、少し黙れカメハメ波」
カメハメ波、という言葉が出た瞬間牧瀬さんの顔色が変わる。
暗くてよくわからないが、多分変わった。
紅莉栖「なっ!? ちょ! あんたっ! それ、それをどこでっ!」
と同時に疑問をぶつけるかのように岡部くんの肩に掴みかかる。
倫太郎「ぐぁっ! き、貴様! 俺に触るな! いて、いてて!」
紅莉栖「こっ、答えなさい! ハリー!!」
ユッサユッサ
だ、だめだよ牧瀬さん。
そんなに揺らしちゃ岡部くんが……。
倫太郎「や、やめろ! 殺す気か! あぅぐっ!!」
至・鈴羽「……?」
牧瀬さんの暴走が収まって十数分後──
鈴羽「よっと」
準備が必要、と言ってこの場を離れていた阿万音さんが戻ってきた。
鈴羽「さてっと、今度こそあたしは行くね」
至「阿万音氏〜、もう行っちゃうん?」
鈴羽「早く世界線を変えないと……きついでしょ、体」
紅莉栖「そうよね……途中から忘れてたけど、体中穴だらけだもの……岡部ってば」
至「穴……?」
橋田くんが何か言ったかと思うと、牧瀬さんの鋭い視線が彼を射抜く。
彼は何を言っているのだろう。
倫太郎「忘れるな。まあ、これくらい、大したことはないがな」
鈴羽「……今なら分かる気がするよ」
倫太郎「……?」
そう言って岡部くんの方を向く阿万音さん。
目を細め、ポツポツと語りはじめた。
鈴羽「今の君はさ、2036年での悪逆非道の限りを尽くした鳳凰院凶真とは似ても似つかない」
鈴羽「ただひたすら椎名まゆりを救うことに必死になってる」
鈴羽「……見てて危なっかしくなるくらいね」
倫太郎「……」
鈴羽「椎名まゆりを救うためならいかなる手段も問わず行動するペルソナ」
鈴羽「その仮面の下で膨れ上がった悪意の塊」
鈴羽「きっと2036年の君はそれを抹殺しようとしていたのかな」
鈴羽「──椎名まゆりを殺した世界を否定することで」
倫太郎「……我ながら迷惑な話だ」
ぼそっと呟いた岡部くんを見て阿万音さんがふっと微笑む。
鈴羽「それじゃ後は任せたよ、岡部倫太郎」
鈴羽「あたしは手助けするだけ。椎名まゆりを救うのは君だよ」
倫太郎「あぁ……頼んだぞ」
至「阿万音氏〜! 頑張れよ〜、僕たち見てるからな〜!」
紅莉栖「いってらっしゃい、鈴羽」
萌郁「……頑張って」
鈴羽「ふふ……」
皆の声援を背に受ける鈴羽が振り向き、こちらを見て微笑んだ。
かと思うとすぐに向き直りタイムマシンに乗り込む。
倫太郎「…………」
ハッチが閉じ、しばらくすると、タイムマシンから静かな唸り声が上がり始める。
同時に、薄暗い室内を目が眩むほどの光りで照らすタイムマシン。
世界が、変わる。
岡部くんと私の関係も……変わる。
岡部くん、今あなたは何を思っているの──?
誰のことを考えてるの──?
Chapter 6 『哀心迷図のカイン』 END
今日はここまで
Chapter 7 『自己喪失のアポティヒア』
紅莉栖……すまない。
俺はこれから、お前を見殺しにする選択をしなくてはならない。
結局、俺がやってきたことはお前の言うとおり、逃げだった。
許してくれ……。
そして萌郁……お前にも申し訳ないことをした。
最初はただ、お前を利用していただけなのかもしれない。
記憶を取り戻す鍵。
単なる仕事仲間として──
でも今はただの仲間じゃない。
まゆりや紅莉栖たちと等しく大事な仲間だ。
お前も俺のことを特別な存在だと言ってくれた。
その気持ちを俺はなかったことにしてしまう。
今の関係をなかったことに──
俺は、萌郁の方を見ずにボソリと呟いた。
倫太郎「ありがとう、萌郁。さようなら……また、会おう」
萌郁「……」
その言葉が届いたか、定かではなかった。
タイムマシンから発せられる音によって打ち消されてしまったのかもしれない。
同時に、強烈な光とともにタイムマシンが消え、再び暗闇と静寂が辺りを支配した。
鈴羽……
すまない……
萌郁「行っちゃった、ね」
至「阿万音氏ぃ〜!」
紅莉栖「あら、やけに残念そうね、橋田」
至「マジレスすると、他人って気がしなかった件」
紅莉栖「告白しとけばよかったのに。時間を超えた恋愛なんてロマンティックじゃない?」
至「ちょ、超えるのは次元だけでおkだお!」
紅莉栖「はいはい、ワロスワロス」
倫太郎「……」
ふと、強烈な既視感に襲われ、呆然としてしまう。
それを察してか萌郁が俺に声をかけてきた。
萌郁「どうしたの、岡部くん、浮かない顔、して」
倫太郎「いや、なんでも、ない……」
確かに……俺は物理的タイムトラベルで生じる世界線の変動を経験したことはない。
しかし、鈴羽が過去に飛んだ時点でイレギュラーが生じ過去は変わるはず。
鈴羽が2000年問題を阻止したのであれば、リーディングシュタイナーが発動しなくてはならない。
だというのに──
至「2000年問題かぁ、不謹慎ながらも当時は少しwktkしてますた、サーセン!」
萌郁「本当に、不謹慎……」
紅莉栖「ねえ岡部、ちょっと……いい?」
何か引っかかる、という様子で紅莉栖が近づいてくる。
倫太郎「……紅莉栖も気づいたか」
紅莉栖「うん……鈴羽がタイムトラベルした時点で過去は変わり、今も変わる」
紅莉栖「なのに今私たちは”2000年問題が起こったこと”を覚えている」
倫太郎「そのようだな」
紅莉栖「リーディングシュタイナーを持っている岡部ならともかく、私たちも覚えているってことは──」
紅莉栖「過去は変わっていない……」
タイムマシンが消えた跡にひとしずくの雨粒がポツリ。
そのしずくがゆっくりと弾け飛び、灰色の床に消えていった。
これは……この状況は……。
失敗した
まゆりは助からない
倫太郎「……っ」
コツ
コツ
コツ
しんと静まり返った空間に異音が飛び込んできた。
音の正体は、一歩一歩踏みしめるような足音。
その足音に混じって、ポツポツと大粒の雨が1滴、2滴と空から降ってくる。
倫太郎「……誰か来る」
至「フェイリスたん達じゃ?」
倫太郎「いや、この足音は……」
コツ
ポツ
コツ
ポツ
コツ
ポツポツポツ
倫太郎「……」
止まる足音。
強まる雨足。
次第に豪雨が天井を激しく叩きはじめる。
ザァァァァと耳障りな音が響き渡り、暗闇の中からぬっと見知った顔が表れた。
天王寺「よう」
足音の主は──天王寺裕吾──FBだった。
萌郁「FB……!」
紅莉栖「店長さん!?」
天王寺「裏切ったみてーだな、M3、M4」
至「ちょ! ど、どういうことなん!?」
倫太郎「FB、俺達の上司で──」
萌郁「──ラウンダー、よ」
紅莉栖「そんな……なんで店長さんが……」
天王寺「まさかとは思ったが、ホントに裏切るとはな」
倫太郎「……」
やはり、すでにバレていたか。
FBという男を侮っていたようだ。
天王寺「ったく、ボロボロじゃねーか」
俺の傷を見て天王寺が呆れ顔で独りごちる。
どうする気だFB──いや、それよりなぜここが分かった?
天王寺「しかしやってくれたぜ、片付けるの大変だったんだぜ、死体」
天王寺「まぁ……おめーは目的のためなら手段は選ばない男だからな」
目的のためなら手段は選ばない……か。
萌郁「FB……どうして、ここが……」
天王寺「うちのバイトはここにいねーのか?」
天王寺「病院にはいなかったから、こっちに居ると思ったんだがな」
──病院?
倫太郎「ま、まさか……フェイリスとるかを!?」
天王寺「おめーにしちゃ無用心だったな、M3」
倫太郎「くっ……」
まずい。
このままでは──
天王寺「さあ、タイムマシンの在り処を教えろ。研究所から持ちだしたんだろ?」
天王寺「言わなきゃ……わかってるよな」
語調が変わる。
深く低い声。
倫太郎「この……罪のない人間にまで手を──」
言いかけて口ごもってしまう。
今の俺にこの続きを言う資格はない。
倫太郎「……っ」
天王寺「そうだな。おめーがそれを言えるはずねーよな」
紅莉栖「岡部……ど、どうするの?」
萌郁「……っ」
おろおろと困惑した紅莉栖の横で、萌郁の右手が微動した。
そんな萌郁に対し制止の声をかける。
倫太郎「萌郁、よせ」
天王寺「わーかってねーみてーだなM4、銃を降ろせ」
天王寺「おめーにゃ撃てねーよ」
この暗闇の中でも萌郁が何をしようとしたのか分かったようだった。
どうする、どうすればこの場を乗りきれる。
天王寺の目的は電話レンジ。
渡してしまえば過去改変ができなくなる。
この場を萌郁と俺が抑え、紅莉栖と橋田にDメールを送ってもらうか?
負傷したとはいえ2人がかりならば……。
いや──
鈴羽がどうなったのかわからない以上、闇雲にDメールを送るのは得策ではない。
必死に考えを巡らせる俺に対しさらに追い打ちがかかる。
天王寺「俺が戻らなかったら他のラウンダー達に命令が通達するように仕向けてある」
天王寺「この先は言わなくても分かるだろ? 幼馴染がどうなるか、ってな」
非情なまでの用意周到。
じりじりと追い込まれる。
砂時計の中の砂が落ちるように、不可逆の檻の中へと。
倫太郎「くそ……!」
倫太郎「……分かった、渡す……渡すから……誰も、傷つけないでくれ……」
萌郁「岡部く……ん」
天王寺「それでいい」
これでDメールを送ることは叶わなくなった。
抵抗すればまゆりやフェイリス、るかも傷つく。
どうしようもない。
そして放っておけばまゆりは死ぬ。
どうしてだよ……なんで俺から奪うんだよ……。
倫太郎「結局あなたも、目的のためなら手段は選ばないというわけかっ……!」
倫太郎「俺はあなたのことを尊敬していた! 感謝していた! なのにっ……!」
打開策が見つからず、感情に訴えかけることしかできない。
いや、もはや今まで押し殺していた感情が溢れ出しているだけだ。
今まで俺がやってきたことが無駄になってしまったから。
でも分かっている。
天王寺という男はこんなものでは動かない。
裏切り者である俺の言うことに耳を傾けたりはしない。
ああ……。
俺はなんのためにここまで……。
天王寺「……はぁ」
やれやれ、と言った感じで大きくため息をつく天王寺。
天王寺「おめーらが裏切ったこと、本部には内緒にしといてやる」
天王寺「開発者の2人もすでに逃げたって報告してやる」
天王寺「だから今後、俺に近づくな。別の地域でイチからやり直せ」
本来ラウンダーを裏切れば命はない。
感情に流されないはずの天王寺の最大限の譲歩。
天王寺「甘ぇな、俺も……」
倫太郎「……」
だが──
そんなの……意味が無い。
俺だけ別の場所でやり直したって意味が無い!
俺だけ逃げたって意味が無い!
俺の居場所はそんなところにない!
天王寺「おいM4、案内しろ。タイムマシンの場所まで、な」
萌郁「……は、はい」
萌郁は促されるまま、天王寺と一緒に暗闇に消えていった。
ああ、これは罰だ。
きっと罰なんだ。
まゆりを助けるためとはいえ、罪のない人間に手をかけてきた報いだ。
誰かの命のためとは言え、誰かの命を犠牲にしてはいけなかったんだ。
だから世界は俺にこんなに辛く当たるんだ。
また……みんな俺から離れていく……。
罪悪感、絶望感、むりょくかん、いたみ、くるしみ……。
ザァァァァァァァ……
ヴ……
ザァァァァァァァァ……
ヴー……
ザァァァァァァァァァ……
ヴーヴー……
朦朧とした意識の中で土砂降りの雨が頭の中を駆け巡る。
激しい土砂降りに打たれ、ラジオ会館が震えて哭いていた。
.
..
...
────
───
──
声が聞こえる。
──くん!
──かべくん!
名前を呼ばれている。
萌郁「岡部くん!」
気がつくと、その場から消えていたはずの萌郁の顔が目の前にあった。
倫太郎「……っ。俺は……一体……」
至「おねーさんと店長が階段降りてった後、放心状態だったお……」
倫太郎「そうか……」
萌郁「携帯、見て」
倫太郎「……?」
俺は、萌郁に言われるまま携帯を取り出す。
メールが着ている?
From:M4
Sub:
本文:FBが後で御徒町の家に来いって
私たち2人に内緒の話があるみたい
倫太郎「……」
紅莉栖や橋田には聞かれたくない話なんだろうか。
見回すと、紅莉栖の姿がないことに気づく。
倫太郎「そういえば……紅莉栖はどこへ?」
至「あぁ、まゆ氏のとこに行くって言ってたお」
倫太郎「あいつ……!」
倫太郎「橋田、お前は紅莉栖のことを頼む。FBはああ言っていたが紅莉栖の身が心配だ」
至「え、ええ!? まだ危ないん!?」
倫太郎「わからないから頼んでいるんだ」
至「う、えっと……オーキードーキー!」
橋田は不安を隠せない様子だったが、やがて顔を引き締めると承諾の言葉とともにドタドタと走っていった。
残された俺と萌郁。
萌郁「それじゃ、岡部くん……肩」
倫太郎「あぁ、たの──うぐっ!」
萌郁の肩を借りて立ち上がると上半身に激痛が走った。
萌郁「ごめん、なさい……まだ、痛むよね」
倫太郎「……大丈夫だ、気にするな」
8月16日 19:52
夕暮れ時をわずかに過ぎた頃。
萌郁が運転するライトバンを降りると雨はすでに止んでいた。
零れ落ちる残り雨がポツリ、ポツリとあちこちで音を立てている。
外はもう暗闇が支配しており、空に広がるのは紺の水彩をにじませたような薄い雲。
明かりが灯る天王寺の家を尋ねると天王寺が笑顔で迎えてくれた。
天王寺「来たな」
倫太郎「一体どういうつもりです? 近づくなと言ったり、来いと言ったり」
天王寺「まあ座れや岡部、萌郁もな」
萌郁「……さ、岡部くん、座って……」
倫太郎「あぁ……ぐぅっ……」
畳の上に腰を下ろすと、やはり激痛が走り、声が漏れる。
天王寺「ったく、何発撃たれてやがんだ。ホントに死ぬぞバカ野郎」
倫太郎「問題はないですよ、この世界では俺は死ぬようにはなっていない……」
天王寺「……? まあいい、話ってのはつまり、あれだ」
天王寺「これを……」
言って1枚の封筒を俺に差し出してくる。
倫太郎「手紙……?」
天王寺「今日になったらおめーに渡すように言われてたんだよ」
倫太郎「……これは……この手紙は……橋田鈴から!?」
受け取って裏を見るとそこには橋田鈴、と書かれていた。
橋田鈴。
世界線が違えど、跳躍後の鈴羽の偽名。
天王寺「ったく、よりによってなんで今日なんだか」
やはり、この世界線でもFBは鈴羽の世話になっていたようだ。
出会った時にFBがこう言っていたのを覚えている。
『なぁおめぇ、鈴さん……橋田鈴って知ってるか?』
因果はある程度収束するということか。
例え大分岐によって変動した世界線でも……。
天王寺「茶、淹れてくるからよ。読んでろや」
天王寺はそう言ってすくっと立ち上がり、台所へ消えていった。
倫太郎「……」
既視感。
呼び起こされるのはかつての絶望の記憶。
読むのが……怖い。
おそるおそる手紙を取り出し、折りたたまれた手紙を広げ、文章へと目をやる。
そこに書かれていたのは──
────────────────────────────────────────
岡部りん太郎様
おひさしぶりです。あまねすずはです。はしだいたるの娘です。
あなたにとっては、つい数時間前以来のことかもしれない。
今は、西暦2000年の、6月13日です。
これをあなたが読んでいる、だいたい10年前ということになります。
結論だけ、書く。
失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した
あたしは失敗した失敗した失敗した失敗した
あたしは失敗した失敗
────────────────────────────────────────
────────────────────────────────────────
今は、西暦2000年の、6月14日です。
これをあなたが読んでいる、大体9年前、10年前になります。
失敗した。
ワクチン、いや、ウィルスが配布される1999年12月15日15時
それを無害なプログラムへと改ざんするために、あたしは14日、SERNサーバー内クラッキングを仕掛けることにした
訳あってクラッキングは15日の朝にした
でも問題なかった、間に合ったはずなんだ
あたしは確かにクラッキングに成功した
でも失敗した
あたしは確かにウィルスを改ざんした
でも失敗した
それがSERNにバレた形跡もなかった
でも失敗した
恐怖の大王は落ちた
予言より半年も遅れて
────────────────────────────────────────
────────────────────────────────────────
失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した
あたしは失敗
何が原因なのクラッキングはうまくいかなかったいやうまくいったはずだった
ゴメン
ゴメンね
あたしは、なんのためにこの歳まで生きてきたんだろう
────────────────────────────────────────
────────────────────────────────────────
あたしの計画は狂ってしまった。
その原因を、この半年考え続けていた。
そして、わかった。
12月14日と15日の間に、何者かがあたしのPCに忍び込んだ。
いや、盗み見たんだと思う。
そしてあたしの用意したプログラムを有害なプログラムへと書き換えた。
あたしはあの日、クラッキングを仕掛けなければならなかったんだ。
あの日を逃したらダメだったんだ。
でももう遅い。
たくさん。
たくさんたくさんたくさんたくさん後悔が浮かんでくるけれど、もう、遅いんだ。
ゴメン。
ゴメン。
ゴメン。
こんな人生は、無意味だった──
────────────────────────────────────────
倫太郎「……」
手紙に連なっていた絶望の数々。
タイムマシンに乗り込む前の鈴羽の笑顔が思い起こされて胸が張り裂けそうだった。
ああ……。
やはり、俺はまた鈴羽に絶望を味わわせて──
天王寺「茶入ったぞ。まっ、ゆっくり飲んでけや。話すのは……最後になるだろうからな」
萌郁「……っ」
倫太郎「……」
天王寺「どうしたんだよ、固まっちまって」
テーブルに湯のみを起き、再び腰を下ろした天王寺が言う。
倫太郎「FB……鈴……橋田鈴とはどういう関係だったんで……」
天王寺「……昔、世話んなった人だよ」
懐かしそうに目を細める天王寺。
だがその顔に笑みはない。
倫太郎「あなたは……橋田鈴の正体──いや、使命を……ご存知ですか?」
天王寺「……」
鈴羽の使命──
2000年問題の阻止──
だが何者かが鈴羽の計画をぶち壊した。
その何者かというのは──
天王寺「なんのことだ?」
倫太郎「……邪魔したのはあなたなのか?」
ラウンダーの基本的な任務内容はIBN5100の捜索。
およびSERNに仇をなそうとする人間の監視、排除──
ならばFBがその“何者か”である可能性だって──
天王寺「その手紙に何が書いてあるのかわかんねーけどよ、もう終わったことだろ?」
倫太郎「終わったことだと……?」
倫太郎「橋田鈴は……そんなことをさせるためにあなたの世話をしたんじゃない!」
倫太郎「あなたが邪魔をしなければ彼女は使命を全うできたんだ! なのに──」
天王寺「お前に何が分かる! お前に鈴さんの何が分かるってんだ!」
俺の言葉に対し、激昂を隠さずその先を遮る天王寺。
倫太郎「……」
恐らく、FBは知っている。
鈴羽の使命を。
──直感は疑念へと変わる。
恐らく、FBは知っている。
1999年12月14日と15日の間に何があったのかを。
倫太郎「分かるさ……彼女はさっきまで、ほんのさっきまで近くにいた」
天王寺「何言ってやがる!」
倫太郎「彼女はタイムトラベラー。橋田鈴は……阿万音鈴羽は……」
倫太郎「ずっとあなたのそばにいたんだよ……」
天王寺「なっ……」
天王寺「鈴さんがうちのバイトだと!?」
倫太郎「話してくれませんか?」
天王寺「……何をだよ」
倫太郎「あの日……1999年12月14日に何があったのかを」
天王寺「聞いてどうする」
──疑念は確信へと。
倫太郎「鈴羽は……未来を変えるために……変えるためだけにっ……タイムトラベルして自分の時間を犠牲にしたんだ、なのに……!!」
天王寺「……」
天王寺「……鈴さんには悪いと思ってるよ。だがな、俺にはどうすることもできなかったんだ」
俯き、懺悔の言葉を口にする天王寺。
先ほどまでの勢いはすでにない。
倫太郎「……後悔してるんだな?」
──確信は解決の糸口へと。
ここまでくれば、後は──
倫太郎「ならば過去にDメールを送るんだ、そうすれば鈴羽もあなたも救──」
天王寺「過去を変える? 次は綯の命まで危険に晒せってのか」
下を向いていた天王寺が顔を上げ俺の顔を睨みつけた。
それまでの空気が一変し、音を立てて崩れた。
天王寺「SERNを裏切ればどうなることくらい……痛いほどわかってんだ、俺はよ」
倫太郎「だが……!」
天王寺「綴……綯の母親はSERNに殺された、俺のせいでな」
萌郁「……っ」
天王寺「ここまで言えばもう分かるだろ。俺のことはともかく、綯まで巻き込むわけにはいかねえんだよ!」
倫太郎「し、しかし、綯は世界線の収束で命は保証──」
いや、世界線が変われば無事だという保証は、ない。
天王寺「もう話す気はねえ! 茶飲んだらさっさと帰れ」
天王寺「もう、二度と面見せんな」
痛烈な拒絶。
剥き出しの敵対心。
愛する娘を危険に晒す選択肢を提案した俺に対し、容赦無い視線が突き刺さる。
倫太郎「それでは鈴羽が……報われない……あんまりじゃないか!」
まゆりも……救われない。
その場から立ち去ろうとする天王寺の背中に声を投げかけるも、虚しく響くだけだった。
失敗した。
このままでは鈴羽も絶望を味わったまま死ぬ過去は変わらず──
まゆりも近いうちに死ぬ。
──刻々と近づいてくる死に恐怖しながら。
そんなの、見ていられない。
こんな世界は──
ほんとうの世界じゃない
ならば
否定しなければいけない
胸の奥から黒い感情が体を突き破り渦巻いてくる。
それは糸のように俺を縛り付け、体を埋めていく。
「電話……?」
こんな世界は
なかったことにしなければいけない
「こちらFB……」
壊さなければいけない
「……」
俺は──
Chapter 7 『自己喪失のアポティヒア』END
今日はいったんここまで
続きは18時前後に投稿予定です
Chapter 8 『恩讐のディーレクトゥス』
俺は──
俺は変わったか?
なあ、鈴さん。
俺が命を受け、秋葉の町に赴いてから数ヶ月立った頃、ふと尋ねたことがある。
その時のやりとりは今でも鮮明に思い出すことができた。
『なあ鈴さん』
『ん?』
『あんた、なんで縁もゆかりもない俺にここまで親身にしてくれるんだ?』
『そうだね……』
『人は巡り巡って誰かに親身にしてもらうことになってる』
『だから君もいずれ誰かに親身にしてあげる事だよ』
『……』
だから俺は、こいつらをどうにかして救ってやりたかった。
鈴さんや綴が俺にしてくれたように。
萌郁「FB……?」
天王寺「……いや、問題はない。……了解した」
そう言って携帯をしまう。
任務用の携帯に、想定外の人間からの電話──
きっと茫然自失としていたのだろう、俺は。
萌郁が俺を心配そうに見上げていた。
萌郁「大丈夫……?」
天王寺「……大丈夫だ、それより──」
──迷いは、もう捨てた。
天王寺「研究所に行くぞ」
萌郁「え?」
天王寺「タイムマシン、持ってな」
倫太郎「な……に?」
吸い込まれそうなほど深い黒をしていた岡部の眼。
──その眼に“再び”光が宿る。
天王寺「おら、何呆けてんだ。さっさと行くぞ」
8月16日 20:30
薄暗く、狭い室内。
無数の弾痕とツンと鼻を刺激する血の匂い。
乱射された銃のせいで電球がやられてしまっているようだ。
壊れてしまった電球は、もう二度と輝かない。
天王寺「……」
倫太郎「なぜラボに電話レンジを……?」
天王寺「送る準備、してくれや……」
萌郁「もしかして……」
天王寺「そう、送るんだよ、Dメール。過去の俺によ……」
倫太郎「でも、なぜいきなり……」
天王寺「もうな、流されんのはやめたんだ」
倫太郎「……その前に、話してくれませんか、あの日のことを」
倫太郎「1999年 12月14日に何があったのかを──」
天王寺「……分かった、よく聞いとけよ」
そう──
話さなきゃならねえ。
ずっと、後悔してきたから。
1999年 12月14日
寒空の中を歩いていた。
身を刺すような寒さの中でも人々の顔には歓喜と熱気に満ちあふれている。
雑踏が耳の中を支配していて騒がしいが、それも悪くない。
顔を上げるとほんの少しだけ乾燥した青が広がっていた。
俺がこの町──秋葉原──に訪れてから2年が過ぎていた。
ピロロロロ
突如、ポケットに押し込んだ携帯電話から安っぽい電子音が鳴り響いた。
すぐに人気のない場所へと移り、対応する。
天王寺「こちらM2」
男『私だ』
通話口から無機質な男の声が聞こえてきた。
俺への指示はすべてこの男から下される。
天王寺「……」
男『仕事だ。要観察者、橋田鈴が所持しているPCをなんとか探ってほしい』
天王寺「……なんだと?」
男『彼女は何年も前から我々SERNにハッキングを仕掛けてきている、目的は全く不明だ』
俺が秋葉に赴いた理由。
1つはIBN5100の捜索のため。
そしてもう1つの理由が橋田鈴の監視だった。
男『ハッキングはここ最近止んでいたが、彼女はすでに我々の最重要機密を掴んでいる』
男『近いうちに何かを……仕掛けてくる可能性がある』
天王寺「何を……仕掛けるんだ?」
男『……』
男『……それが分からないからこうして君へ電話している』
SERNがIBN5100を集めて何をしようとしているのか、俺たちには知らされていない。
もちろん鈴さんが何をしようとしているのかも知らなかった。
鈴さんは、いったい何をしようと……?
男『要観察者は今、どこにいる?』
天王寺「要観察者は……病院だ」
男『病院? 体調でも崩しているのか?』
天王寺「いや……どうもついさっき、目の前で知らねえガキが倒れたらしく、付き添ってるらしい」
男『……』
天王寺「今日はもう戻らないかも、そう言っていた」
男『好都合だな』
男『M2、君はこれから、要観察者の自宅に向ってくれ』
天王寺「……了解」
男『30分後、コンピュータに精通しているM1をそちらに向かわせる』
男『彼がPC内のデータを探っている間はサポートに回って欲しい』
男『時間はあまり残されていない。万が一要観察者が戻ってくることがあれば……殺せ』
天王寺「……りょ、了解」
男『以上だ』
今になって、この対応。
前に一度、男に対し、ハッキングを仕掛けるような人間をなぜ放っておくのか聞いたことがある。
そういった相手に対し、SERNはいつも強硬手段に出ていたからだ。
すると男は、彼女が独自に行なっている研究がSERNと同様の研究である、と言った。
彼女の研究の成果はSERNと同等か、それ以上とも。
SERNは欲していた、鈴さんの研究の成果を。
SERNは恐れていた、鈴さんの研究の進行を。
そして鈴さんは、SERNに対し何かを仕掛けようとしていた。
それを脅威に感じたSERNが俺に命令を下したんだ。
30分後、俺は電話で言っていた男と合流し鈴さんの自宅に忍び込んでいた。
男はぶつぶつと独り言を言いながら鈴さんのパソコンをいじり回している。
M1「……これは驚きました!」
男が手を止め、感嘆の声とも驚喜の声とも取れぬ声を上げた。
天王寺「何か……分かったのか」
M1「彼女はどうやら2000年クラッシュを防ごうとしてるみたいですよ」
天王寺「2000年クラッシュ? コンピュータが誤作動を起こすっていうあれか」
これが鈴さんのやろうとしてること?
だが、だったらなぜこんな秘密裏にやる必要がある?
天王寺「でもよ、そんなの個人で防げるもんなのか?」
M1「なるほど、あなたは知らされてないのですね」
天王寺「……?」
M1「内緒ですよ?」
顔を近づけて嬉しそうに耳打ちしてくる。
まるでガキみたいな男だ。
天王寺「あん?」
M1「SERNは2000年クラッシュを人為的に引き起こそうとしてます」
何……?
人為的……だと?
M1「バグを防ぐためのワクチンは実はウィルス」
M1「そう、薬だと思って飲んだら毒だったっていうオチですよ、愉快でしょ?」
天王寺「……っ」
ケラケラと笑う男。
本気で言っているのかこいつ。
M1「そのウィルス──アンゴルモアが明日ばら撒かれる予定なんですが、どうやらターゲットはこれをクラッキングで改ざんしようとしてるみたいです」
M1「アンゴルモアに非常に似通ったプログラムがあったので、気になって覗いてみたのですが中身はなんのことはない……誤作動のごも起こさせない様な欠陥品でした」
天王寺「つまりす──彼女は、SERNサーバー内のウィルスを改ざんして、2000年クラッシュを阻止しようと……?」
M1「でしょうね」
M1「きっとハッキングで情報を覗き見た際に計画に気づき、未然に防ごうとしたんでしょう。健気なことです」
M1「この計画はSERNの最重要機密」
M1「アクセスしてもIBN5100がなければ解読不可能な場所に眠っていますからね」
だから鈴さんはIBN5100を必要としていたのか?
だったらSERNと同様の研究ってのは一体何だ?
SERNが欲していた鈴さんの成果ってのは一体?
SERNは2000年問題なんて起こしてどうしようと?
次々と疑問が湧いてくる。
M1「にしても、このような形で防ぐつもりとは、意外でした」
M1「てっきりワクチンプログラムでも作っているものだとばかり。いや、覗かせてもらって正解ですよ」
天王寺「……なあ……SERNは……2000年クラッシュなんて起こしてどうしようってんだ」
M1「それは、あなたの知る必要の無いことです」
天王寺「……」
M1「不安ですか? 大丈夫、この地域はさほど被害が出ないと思いますよ」
天王寺「おい……そりゃどういうことだ」
M1「ちょっと喋りすぎました、怒られてしまいます」
そう言って男は所持していたパソコンのキーボードを慣れた手つきで操作し始める。
嬉々として踊るように乱舞する指。
M1「これでよしっと」
天王寺「……何をした」
M1「無事に2000年クラッシュが起こるようにしただけですよ」
天王寺「……無事にって、おい……」
M1「念のため、後で上にも連絡しておきましょう」
2000年クラッシュの被害は各国でも懸念されている。
予想外の被害の大きさに大混乱が起こる可能性だってある。
そうなればこの町だってただじゃ……。
鈴さん……俺はどうしたら……。
あんたには世話になった。
恩を讐で返すような真似はしたくない……。
M1「変な気は起こさないほうがいいですよ。最近お子さん、生まれたんですよね?」
俺の迷いを察したのか男が釘を差してくる。
天王寺「くっ……」
綯や綴を危険に晒すわけには、いかねえ。
それから2週間もの間。
俺はずっと葛藤していた。
鈴さんはきっと、自分の計画がSERNにバレたとは思ってないだろう。
年が変わる前にすべて打ち明ければどうにかなるかもしれない。
しかし裏切ったことがバレれば俺はもちろん、綴や綯の命が──
そんな思いを胸に抱えたまま迎えた新年──
──2000年 1月1日
恐怖の大王は予言の半年遅れて落ちた。
星は赤く染まった。
日が照らしていくように、ゆっくりと染まっていった。
たくさん、人が死んだ。
結局俺は、覚悟を決めきれなかった。
水が上から下に行くように、流された。
選ばないことを──選んだ。
Chapter 8 『恩讐のディーレクトゥス』END
今日はここまで
Chapter 9 『収束流転のデスペディーダ』
8月16日 20:52
長く重苦しい沈黙がラボ内を支配している。
俺も萌郁もソファに腰がけたまま言葉を発しなかった。
明かりのない室内と差し込む街灯の逆光で、天王寺の表情を窺い知ることはできない。
倫太郎「……」
萌郁「……」
天王寺「今のが1999年の話だ」
天王寺「ったく、何年経っても忘れるこたできねえなぁ……」
天王寺は力なく自嘲気味に笑う。
そんな調子もあってか、いつもの巨躯な輪郭が、ひと回り小さく見えた。
萌郁「FB……大丈夫? 震え、てる」
天王寺「大丈夫だ。昔を思い出したからちっとばっかしこみ上げてきただけだ」
萌郁「そう……」
倫太郎「店長。あなたの奥さんがSERNに殺されたのは自分のせいだ、とおっしゃっていたが……」
倫太郎「もしや2000年クラッシュの被害に……?」
天王寺「……違ぇよ」
天王寺「あの後──鈴さんの死後──遺品を整理してたら鈴さんが使ってたPCが出てきてよ」
天王寺「その中身を見れば鈴さんの人となりってやつがわかるかもって思っちまったんだろうな」
天王寺「驚いたよ。まるで俺がPCを見ることがわかってたように、俺へ当てた文書がありやがった」
天王寺「その文書の中には俺への言葉──そしてIBN5100の隠し場所が書いてあった」
倫太郎「IBN5100の……隠し場所……」
天王寺「そこで何を思ったか俺はIBN5100を使ってSERNにハッキングを仕掛けた」
天王寺「今更どうこう出来るってわけじゃなかったがな」
天王寺「ただ流されるままに操り人形としてしか生きていけない自分が嫌だったんだろうよ」
萌郁「FB……」
天王寺「ハッキングはバレた。SERNの最重要機密を知ったせいもあり、罰として綴を連れて行かれ──」
天王寺「俺が殺したようなもんだな、まったく」
そう言うと背中を見せ、窓の外を眺める天王寺。
必死に堪えているのだろう。
その震える背中が痛々しい。
天王寺「もっとも──」
天王寺「SERNは俺や綯を監視することはあっても、俺たちを殺すことはしなかった」
天王寺「ラウンダーとしての能力。IBN5100を見つけたのと2000年クラッシュの計画に一役買った功績を鑑みたんだろうな」
天王寺「むしろラウンダーを束ねる指揮官のポジションを与えたくらいだ」
倫太郎「皮肉なこと……ですね」
天王寺「2000年以降、欧州の影響力は高まり、ラウンダーの勢力も拡大していったからな」
天王寺「人手不足、ってやつだ」
天王寺「ったく、委員会の連中もタチが悪い」
天王寺「……」
数秒ほど間があり、天王寺がこちらを振り返って俺の名を呼ぶ。
天王寺「──なぁ岡部」
倫太郎「……なんです?」
天王寺「人間がどれだけ科学を進歩させようと、所詮ただの人間だ」
天王寺「決して神のようにはなれねえ」
倫太郎「……?」
天王寺「そんで俺は、今からその神になりそこなったただの人間を救うためにも覚悟を決める」
天王寺「後は、上手くやってくれることを願うだけだ」
倫太郎「一体、何を……」
天王寺「年寄りの戯言だよ、聞き流せや」
ポンと肩を叩かれ、どこか淋しげな笑顔を向けられる。
その笑顔はこの世界線で初めて天王寺に会った時のそれと似ていた。
──居場所を求めて彷徨っていた俺に一筋の光をくれたあの時と。
電話レンジの設定は済んだ。
42型ブラウン管も点灯済み。
Dメールの文面も天王寺と2人で考え、打ち込みが終わっている。
倫太郎「では放電現象が発生したらメールを──」
天王寺「なぁ岡部、別の場所から送ることって出来んのか?」
倫太郎「可能ですが……」
天王寺「なら俺は、下に行ってブラウン管を眺めながら送ることにするよ」
倫太郎「……分かりました。それでは2階が激しく揺れだしたら、メールの送信をお願いします」
天王寺「ああ」
萌郁「……私、FBと一緒に、いる」
出ていこうとした天王寺の後を萌郁が追いかける。
倫太郎「……萌郁?」
俺が呼び止めると、立ち止まった萌郁はこんな言葉を零した。
萌郁「さっき、岡部くんからは聞いたから、お別れの言葉」
倫太郎「そうか……今度こそ、本当に別れになるんだよな」
萌郁「名前……呼んでくれて、嬉しかった」
倫太郎「……さよなら……萌郁」
萌郁「うん……さよなら、岡部くん、また……会えるんだよね」
倫太郎「……ああ」
だが、今の萌郁と会うことは二度とない。
ありがとう。
そして──
すまない、萌郁。
倫太郎「……店長も、色々とすみませんでした」
天王寺「へっ、おめーが頭下げるたぁな」
倫太郎「まだガキだった俺に良くしてくれたこと、感謝しています」
天王寺「……気にすんなよ」
天王寺はこちらを向かず、背中越しにそう呟き、萌郁と共に玄関の闇へと消えていった。
俺は顎を上げ、目を閉じてこの10年を思い返す。
色々──あった。
俺は、今日という日を忘れはしないだろう。
この世界線の未来は今日で終止符を打たれる。
そして再び、元の世界線へと流転するんだ。
α世界線から、この世界線へと変動した理由。
それは、2000年問題を防ごうとしてくれていた鈴羽を、皮肉にも俺が邪魔してしまったことだったようだ。
恐らく、2000年クラッシュの計画自体はα世界線においても存在していた。
IBN5100を手にし、ハッキングにてその計画を掴んだ鈴羽。
その鈴羽が、皆の知らないところで防いでくれていたのだろう。
タイムリープ後、“鈴羽と必ず接触する”という俺の想い──
それがタイムトラベラーである鈴羽の行動を狂わせ、少しずつ、少しずつ世界の因果が狂い出した。
──糸がほつれていくように。
最初はほんの些細なことだったとしても、ほつれは瞬く間に拡がり、やがて取り返しの付かない事態へと陥る。
──かつての世界線でそうだったように。
ふと体中がじくりと痛んだ。
忘れかけていた痛みに顔が歪む。
俺が逃げてきたばかりに色々な人が傷ついた。
だがそれも今日で終わりにしないといけない。
想いを──痛みを胸に刻みつけて。
ほつれた糸は、縫い合わせなければいけない。
──それにしても。
なぜ店長はいきなりDメールを送ろうなどと?
電話を取る前は頑なに拒んでいたはずだが……。
──電話!?
もしかして──
「は、はろー……」
突然、扉がゆるやかに開く音がして、見覚えのある人物が半身を覗かせた。
ためらいがちに言葉を発するその人物はやがて俺を認識したかと思うと──
紅莉栖「あ、岡部……!」
倫太郎「紅莉栖……どうしてここに……」
紅莉栖「あの……店長さんの家に行って、綯ちゃんに聞いたら、ラボに行くって言ってたから……」
倫太郎「なに? 店長の家に行ったのか?」
紅莉栖「いや、あの……」
紅莉栖「はあ……隠してもしょうがないわよね……」
倫太郎「……?」
紅莉栖「これ……見て」
ぼんやりと光る携帯のディスプレイを差し出しながらそう呟く。
画面には表示されていたのは──
From:chris-m@docono.ne.jp
Sub:
本文:タイムリープ
From:chris-m@docono.ne.jp
Sub:
本文:マシン作って
From:chris-m@docono.ne.jp
Sub:
本文:岡部を助けて
これは、まさか──
倫太郎「……送信日時が未来の日付になっている!」
紅莉栖「そ。Dメール。未来から……」
紅莉栖「送ったのは多分……私……」
紅莉栖「タイムリープマシンの構想自体は、すでに私の頭の中にあったから……。さっき抜けだしてパーツを買ってきたの」
倫太郎「お前……電話レンジを改良するためにラボ……店長の家に?」
紅莉栖「電話レンジを改良してタイムリープも出来るようにしたいって言えば、店長さんも了承してくれるかなって思って」
倫太郎「……全く、無茶を……。お前は今、ラウンダーに追われてるかもしれないんだぞ」
紅莉栖「だって、あんたの力になりたかったんだもの……」
倫太郎「紅莉栖……」
こんな俺のために力になってくれる紅莉栖を見て、遠い過去の記憶が思い起こされる。
『忘れないで』
『あなたはどの世界線にいても1人じゃない』
『──あたしがいる』
その頼もしさと──
その愛おしさと──
これから俺がしようとしていることへの申し訳なさで──
胸の震えを抑え切れない。
同時に床を蹴り、力いっぱい抱きしめていた。
紅莉栖「ふぇっっ!?」
倫太郎「……すまない、紅莉栖」
俺はこれから、お前を……。
お前を見捨てる選択をしなくちゃいけないんだ。
なのに、お前は……そんな俺に力を貸してくれる。
俺を助けてくれる。
倫太郎「すまない……」
倫太郎「どうしてお前なんだよって思ってた……」
紅莉栖「おか……べ?」
本当は見捨てたくないのに。
だから逃げてきたのに。
より一層力を込め、紅莉栖の存在を確かめようとする。
体中の痛みとぬくもりが紅莉栖の存在を証明していた。
倫太郎「お前はここにいるのに……」
倫太郎「俺はお前を……助けられない……」
ほんとうに、すまない。
──敗北宣言。
紅莉栖「よく、分からないけれど……」
俺の胸に顔を埋めたまま紅莉栖がポツポツと呟く。
紅莉栖「最初会った時も、こうやって、いきなり……抱きしめられたのよね」
倫太郎「あぁ……そうだったな」
紅莉栖「ふふ、あんたってばホントに強引なんだから」
倫太郎「今度は、殴らないんだな……」
紅莉栖「当たり前、でしょ」
紅莉栖の両腕がゆっくりと俺の背中に回る。
触れるか触れないかというくらいの優しい抱擁。
紅莉栖「だって今のあんた……こっちが痛くなるくらい弱々しいんだもの……」
───────────────────────────
天王寺「ったく、いつもイライラさせられてたあの揺れを待つ日が来るたぁ夢にも思わなかったぜ」
萌郁「FB……過去が変わったら私たちの関係、どうなるの、かな」
天王寺「……さあな」
萌郁「また、会える、よね」
天王寺「そうだといいな」
萌郁「FB……」
萌郁「FBは……私にとって、父みたいな存在、だった」
天王寺「……俺もお前のことは娘みたいに思ってたよ」
萌郁「ごめん、なさい」
萌郁「裏切るような、真似、して」
天王寺「何謝ってんだ」
天王寺「……そうさせちまった俺が謝りたいくらいだよ」
───────────────────────────
───────────────────────────
紅莉栖「電話レンジ、改造しなくていいの?」
倫太郎「問題ない。近いうちに完成されるマシンを使って跳躍してきた人物がいる」
倫太郎「その人物がすでにDメールを送るために待機している」
紅莉栖「……そっか……ちゃんと、力になれたんだね、私」
倫太郎「あぁ、お前の作ったマシンの出来はガチだった」
倫太郎「ありがとう、紅莉栖」
紅莉栖「とっ、とと当然でしょ! なんて言ったってこの私が手がけたんだからっ!」
───────────────────────────
───────────────────────────
萌郁「覚えてる? 綯ちゃんがみんなで一緒に海に行きたいって言った時」
天王寺「はは、忘れもしねーよ。あの時、頑なに拒んでたな、岡部」
萌郁「そ……海なんて、子供の行くところ、だって」
天王寺「実際には泳げねえからだったんだよな。おめーの方がガキだっての」
萌郁「ふふ、岡部くんの、数少ない欠点」
天王寺「……あぁ、あん時は傑作だった」
萌郁「また、行けるといいね、海」
天王寺「……ああ」
───────────────────────────
───────────────────────────
電話レンジが小さく唸り始めて十数秒、レンジから激しい放電が始まった。
レンジを置いた床がミシミシと悲鳴を上げている。
倫太郎「放電現象、始まった……」
紅莉栖「岡部……目、閉じて」
倫太郎「え? なぜ……」
紅莉栖「いいから、早く閉じなさいよ!」
倫太郎「あ、あぁ……」
───────────────────────────
────────────────────────────
2階から轟音が鳴り響き、同時にビル全体が激しく揺れ出した。
頭上からはパラパラと埃や塵が舞い落ちてくる。
天王寺「……来たか」
萌郁「……」
天王寺「……」
お互い見つめ合い、声には出さず頷いて──
────────────────────────────
────────────────────────────
言われたとおりに目を閉じると、ゆっくりと柔らかな吐息が近づいてくるのが分かった。
紅莉栖「……」
唇に触れる柔らかい感触。
唇に紅莉栖のぬくもりを感じた。
顔が離れるのを感じ、瞼を開ける。
倫太郎「紅莉栖……」
紅莉栖「キス……だけだから……!」
顔を伏せ、震えた声で強がる紅莉栖。
やがて顔を上げたかと思うと、目尻から光るものがはらりと落ちた。
その涙の煌めきが切なくて。
────────────────────────────
────────────────────────────
To:future-gadget8@hardbank.ne.jp
Sub:
本文:選択しろ
流されるな
綴のためにも
「頼んだぞ……1999年の俺……」
指に力が──
込められ──
「さようなら、私のお父さん」
「きっとまた、会おうね……」
────────────────────────────
────────────────────────────
突如、周りの景色が琥珀色に包まれ、ぐにゃぐにゃと揺れ始める。
平衡感覚は失われ、立っていられなくなり──世界は音もなく崩れだした。
──やがて世界は元の形へと収束する。
Chapter 9 『収束流転のデスペディーダ』END
今日はここまで、明日の朝か昼辺りにまた
Last Chapter
俺は今、深淵の中に溶け込んでいる
“俺”が今、深淵の中に佇んでいる。
もう1人の“俺”は、ぼんやりとした光を纏っていた。
──叢雲に覆われて朧気に煌めく月のような。
白く霞む“俺”の背中の向こうで、世界が闇を覆い尽くしていく。
──ゆっくりと。
──パズルのピースが組み合わさっていくように。
やがて世界は形作られていき、その姿を取り戻す。
意識と身体は絡み合い、1つになる。
“俺”と俺は1つになる。
ここ……は?
閉じられていた瞼を開く。
ラボの開発室のようだ。
目の前には紅莉栖、世界線が変わる前と同じ光景。
だが、体中の痛みは消えていた。
倫太郎「紅莉栖……」
あの日からずっと変わらない愛しい人の名前を呟く。
紅莉栖「岡部……あんたは選ばなくちゃいけない。分かってるはずよ」
紅莉栖は腕を組み、真摯な眼差しで俺を見つめている。
その口から力強い言の葉が紡がれていく。
紅莉栖「あんたにとっては辛いことだろうけど──」
紅莉栖「流されず、選択しなくちゃいけない」
倫太郎「あぁ……分かっている」
紅莉栖「まゆりか……私か……」
紅莉栖「2人共選ぶなんて都合のいい解は……ない」
はっきりと言い切った。
それ以外の選択肢はない──と。
倫太郎「……分かっている」
戻ってきたんだな。
すまない……みんな。
俺が逃げだしたばかりに。
2人のどちらかを選ばなかったばかりに。
色んな思いを犠牲にしてしまった。
辛い思いをさせてしまった。
傷を負わせてしまった。
でも俺はもう逃げない、選ぶよ。
俺は──
覚悟を決める。
流されず──
選択する──
その時、ドアがガチャリと鳴り、まゆりが姿を現す。
10年ぶりに見た、元気な幼馴染の姿。
その姿が、俺の胸を打った。
その痛みが、10年の重みを実感させた。
倫太郎「まゆりっ……!」
感極まってしまい、名前を呼ぶ以外、言葉を紡ぐことができない。
ただただ、その顔が見れて嬉しかった。
そのまゆりの、笑顔を守るためにも──
俺は──
俺はっ──!!
まゆり「ずるいよクリスちゃん」
紅莉栖「ま、まゆり!?」
紅莉栖はまゆりが来ることを知らなかったのか、驚きを隠せずにいる。
まゆり「まゆしぃもその話に加わる権利はあるのです……」
まゆり?
まさか──
まゆり「まゆしぃはもっと、オカリンとクリスちゃんと、みんなと話し合ったほうが、いいと思うよ……」
と眉毛を下げながら言いづらそうに告げるまゆり。
──聞いてしまったのか!?
るか「そ、そうですよ! こんなの、ず、ずるいですっ」
フェイリス「凶真はフェイリスを選ぶのニャ! 2人は前世からのつよ〜い絆で結ばれてるニャン!」
続けて、るかとフェイリスが慌てて上がり込んできた。
紅莉栖「ちょ! おま! い、いつから……!」
ん?
なんだこれ。
鈴羽「そもそも牧瀬紅莉栖と椎名まゆり、2人から選ぶって前提がおかしいんだよね」
萌郁「そう、抜け駆けは、だめ」
対して、鈴羽と萌郁が悠然と上がり込んでくる。
鈴っ! 鈴羽!? 鈴羽だ!
なんでここいるんだよ。
お前はすでにタイムトラベルしてるはずじゃ……。
倫太郎「おい鈴羽。お前はSERNのディストピアを回避するために1975年に飛んだはずでは……」
鈴羽「え? SERN? ディストピア? なにそれ」
俺の問いにきょとんとした様子で答える。
会話が噛み合っていない。
これはもしや……。
紅莉栖「と、というか、ぬ、抜け駆けなんて、してないわよ!」
鈴羽「いや、してたね、絶対」
萌郁「確率を2分の1まで高めて、あわよくば、選ばせる」
るか「そ、そんなの、よくない、です……」
フェイリス「汚いニャンさすがクーニャンきたないニャン」
紅莉栖「だっ、だからそれは岡部が話したいことが……って、その……」
まゆり「みんなぁ、だめだよぉ……オカリンが困っちゃってるよ〜」
まゆり「オカリンの気持ち、考えてあげようよ〜……」
紅莉栖「まゆりの言うとおりね!」
フェイリス「フェイリスたちを除け者にして選ばせようとしてたのはどこの誰かニャーン?」
鈴羽「そうだよー!」
るか「ボ、ボクだって、岡部さんに……」
萌郁「選ばれ、たい」
「オカリン!」 「岡部!」 「岡部……くん」 「岡部さん!」 「凶真ぁ〜!」 「岡部倫太郎ーっ!」
みんな俺の近くに寄ってくる。
わかっているんだ、これも全部自業自得だって。
こうなったのも俺が不用意に過去を改変したせいだ。
倫太郎「でも、こんなの……きつすぎるだろっ……」
交錯するのは──
──底知れぬ不安と。
──計り知れない希望。
まゆり「あれ〜……オカリン、どうして泣いてるの……?」
心配する瞳。
いぶかる瞳。
困惑する瞳。
狼狽える瞳。
微笑する瞳。
驚倒する瞳。
12の瞳の中で白衣の男が涙する。
ここは先の見えぬ──未知の世界。
でも──
きっと──
眩しくて見えない──光明の世界なんだ。
世界線変動率 3.081060%
Last Chapter『比翼恋理のジキル』END
Epilogue 『異世界線のアナザーヘブン』
8月18日
昨日、10年ぶり──俺の主観では──に池袋の実家に戻ってみた。
そこには遠い昔に見た元気な両親の姿があり、思わず目頭が熱くなる。
が、必死に堪えた。
知る必要のないことだから。
ただ俺は一言、随分放ったらかしにしてすまない、とだけ伝えた。
もっとも、両親は何を勘違いしたのか”だったら店番を頼む”と言ってきたのだったが。
秋葉にも違いはあるだろうかと、歩きながらあちこち眺めてみる。
街を行き交う人々はかつてのように様々な顔を覗かせていた。
その表情は、2000年問題の爪痕が深く残ったあの世界線よりも随分と明るい。
10年ぶりに我が身を包む白衣がひらひらと舞う。
歩を止め、顔を上げると、淀みない青空が眩しく広がっていた。
その眩しさに霞むあの暗黒の世界線の日々。
まるであの日々が夢だったのかのように思え、俺は目を細めた。
だが、皆の記憶に無いとは言え、俺の中で罪が消えることはない。
だから今度は償って行こう。
この世界線に誇れるように。
そんなことを考えながら、俺は再び歩き出したのだった。
鈴羽「うーっす、岡部倫太郎ー」
倫太郎「鈴羽か」
ブラウン管工房前のベンチに腰を掛け、暇そうにしている鈴羽が俺に声をかけてくる。
俺にはこの世界線での記憶が無い。
鈴羽から、それとなく聞き出してみる。
これまでどう過ごしてきたのか──
──なぜ鈴羽がタイムトラベルしてきているのか、を。
鈴羽「それで父さんってば、コミマの中心で萌え萌えキュン! だもんね、あはは!」
倫太郎「……それは見てみたかったな」
鈴羽「え? 君もいたじゃん」
倫太郎「え? あ、そ、そうだったな」
どうやら俺は橋田とその嫁の仲を取り持ったらしい。
──こいつの存在を消さないために。
そのお礼に未来の情報を1つだけ教えると言ってくれた。
──安心した。
未来ではディストピアも構築されず、鳳凰院凶真も、ラボの皆と仲良くやっているらしい。
ありがとう、鈴羽。
これで肩の荷は完全に降りた。
鈴羽「君ってば一昨日辺りからどこかおかしいよー? 悪いもんでも食べた?」
倫太郎「昨日お前が持ってきたゲテモノ料理のことなら、それだな」
倫太郎「……」
フェイリス「おかえりニャさいませ〜、ご主人様! あ、凶真ぁ〜!」
メイクイーンのドアをくぐり、騒がしい店内へと忍び込むと、フェイリスが目敏く俺を見つける。
俺はこの場所が苦手だ。
俺の居場所ではない、そう思っていた。
だが──
フェイリス「それで〜、凶真は冥界より召喚されし黒き堕天使、4゜Cの策略からフェイリスを守ってくれたのニャ!」
倫太郎「当たり前だ。俺の目の黒いうちはそんな奴の好きになどさせん」
フェイリス「ニャフフ、凶真はフェイリスの王子様なのニャ!」
倫太郎「俺は王子様などではない! あえて言うならば、地を這う者!」
そう言いながらビシィっと腕を交差させる。
このやりとりも随分久しぶりだ。
と言っても、俺にとっては記憶のみが存在するだけなのだが。
たまにはこういうのも悪くない。
もう居場所を失う恐怖に怯えなくてもいいのだから。
フェイリス「ニャハハ、これでこそ凶真なのニャ!」
倫太郎「困ったことがあれば、いつでも呼ぶがいい」
倫太郎「るか」
るか「あ、お、岡部さん! こんにちは!」
るかは神社の境内で掃き掃除をしていた。
相変わらず巫女装束が似合っている。
竹箒を持つその姿はとても可憐で、思わず見とれてしまう。
るか「それで、岡部さんはボクの修行に付き合ってくださって……」
るか「信じて素振りを頑張れば、清心斬魔流 の奥義を会得できる、と……」
倫太郎「あぁ、そうだ。信じていれば何事も乗り越えられる」
るか「はい……、ボク、頑張ります」
俺の言葉に素直に頷くるか。
純粋なその瞳に吸い込まれそうになる。
そういえばこの世界線のるかは男なのだろうか?
いや、よそう。
るかは俺のことを慕って付いてきてくれる。
俺のことを信じてくれる。
男だとか女だとか、そんなことはどうでもいい。
るか「と、ところで岡部さん。もう心配事は解決したんですか?」
倫太郎「ああ、世界は救われた。我らラボメンの活躍によって、な」
倫太郎「邪魔するぞ」
萌郁「あ、岡部くん」
事あるごとに上がり込んでいた萌郁のアパートを尋ねる。
相変わらず部屋が雑然としていた。
空のインスタント食品の容器。無造作に転がっている缶。積み上げられた雑誌。
片付けられない女。
あの時の俺はこんな状態の部屋が嫌いではなかった。
綺麗にしてあると、うす汚れた俺が入ってはいけないと思ってたから。
倫太郎「相変わらずだな」
萌郁「……また、片付け手伝ってくれる?」
倫太郎「……ああ、もちろんだとも」
倫太郎「それと、ケバブ……買ってきた。終わったら、一緒に食おう」
約束を守れてよかった。
今度は俺が、再びこいつの力になってやろう。
もうペルソナを被る必要はないのだから。
萌郁「そう言えば新作の小説、書こうと思う。意見、聞かせて欲しい」
倫太郎「ほう? どんな物語なんだ?」
萌郁「訳あって悪の組織に身を落とした男の人と、それを救おうと躍起する、女の話」
倫太郎「……悪くない内容だ」
至「オカリーン! ハーレムとか許さない、絶対にだ!」
倫太郎「おい、何の話だ」
ラボに戻るなり暑苦しい巨体がものすごい勢いで詰め寄ってくる。
橋田至、マイフェイバリットライトアーム。
α世界線においても、あの世界線においてもタイムマシンを作り上げ、歴史を動かした男。
もしかしたら、俺なんかよりずっと苦悩があったのかもしれない。
倫太郎「なあ橋……ダル」
至「ちょ、ハシダルって、変なあだ名つけんなし」
倫太郎「というかお前にはすでに阿万音由季という彼女がいるだろう」
至「それとこれとは話が別! ラボでラブチュッチュ*6とか無理! 死ぬ! 僕が死ぬ!」
それにしてもこの男、相変わらずノリノリである。
あの世界線においてもこのノリでいくらか救われていたのかもしれない。
そして、おまえがいてくれたからこそ、俺はこの世界に来ることができた。
一言労ってやるべきかもしれないな。
倫太郎「……ダルよ、貴様がいてくれたからこそ俺はこの境地にたどり着くことができた。感謝するぞ」
至「うは、オカリンのデレktkr! だがハーレムは許さない。絶対に。絶対にだ。大事なことなので二回言いました」
紅莉栖はパソコンの前で椅子に腰を下ろし、分厚い洋書に目を通している。
ラボは静かで、時折ペラっとページをめくる音以外聞こえてこない。
時間が優しく過ぎていく。
ずっと追い求めてきた何気ないラボの日常。
紅莉栖「ちょ、ちょっと岡部……」
倫太郎「なんだ?」
紅莉栖「あんまり、見ないでよ……なんなのよ、一体」
倫太郎「いや、なんでもない」
サイエンシーに論文が載った天才少女。
気が強すぎるのが玉に瑕だが、幾度と無く俺を地の底から救い上げてくれた女。
紅莉栖「ったく、私のホテルに泊まったからって、そっ、”そういうこと”はま、まだ、ダメなんだからな!」
倫太郎「は?」
紅莉栖「だからイヤラシイ目つき禁止!」
俺の視線から逃げるように、赤く染まった顔を分厚い洋書で隠してしまった。
な、なに!? ホテル!?
泊まったのか!? 俺が? 紅莉栖と!?
ポカン、と口を開けていると──
まゆり「いいなー、まゆしぃも一緒に泊まりたいなー」
俺の横で裁縫に集中していたまゆりが会話に加わってくる。
倫太郎「それは、どっちと……だ……」
まゆり「それはもちろん、どっちともだよ〜、えっへへー」
倫太郎「……なるほど」
まゆりらしい答えと満面の笑みが俺に送られる。
この笑顔に何度励まされてきたか。
俺はようやく、こいつの笑顔を守ることが出来た。
まゆり「またみんなでプールにも行きたいねえ〜」
倫太郎「なん……だと?」
プール!? また、だと!? 行ったのか!?
勘弁してくれ。
体を動かすのは得意なんだが水泳だけは唯一ダメなんだ。
残念ながら俺は水陸両用ではない。
紅莉栖「岡部がかわいそう、また溺れるわよ」
洋書からひょっこり顔を出した紅莉栖がからかうように言う。
やっぱり溺れたんだな。
がっくりと項垂れていると肩に暖かい手が乗ってくる。
まゆり「大丈夫だよ〜、今度こそ泳げるようになるよオカリン!」
倫太郎「そうだと願いたいが……」
まゆり「だからまた行こうね〜!」
紅莉栖「そ、その時は私も……お、教えてあげるわよ、泳ぎ」
倫太郎「それでは、その時はお願いしようか」
どうもこの世界線の俺は色恋沙汰にかまけていたようだ。
やれやれ。
この世界線に適応していくのは骨が折れそうだな。
ならばっ!!
俺が変わってやらんこともない!
スイーツ(笑)どもなど
軽くいなしてやろうではないかっ!
フゥーハハハッ!!
それも悪くない。
が──遠慮しておく。
そ、そうか……
俺に仮面はもう必要ない。
俺を信じてくれる人たちがいて──
俺の居場所がそこにあり──
俺を平和な未来が待っているから──
雑踏から少し離れた場所。
色々な思い出の残る居場所。
倫太郎「ここも変わることはないんだな」
俺は今、天王寺宅のドアの前にいた。
様々な思いを胸に、呼び鈴を鳴らす。
倫太郎「こんにちは」
天王寺「おう、岡部じゃねえか、どうした」
倫太郎「いえ、たまたまた近くによったもので」
天王寺「そうか、まあ上がれや」
FB……天王寺裕吾。
居場所を探していた俺を救ってくれた恩人。
俺に家族のぬくもりを与えてくれた第二の父。
綯「オカリンおじさん、こんにちは……」
倫太郎「綯、俺はおじさんではない」
怯えた表情で後退りする綯の頭ポンと手を乗せ、言う。
すると、より一層顔を強ばらせる小動物。
綯「ひぅっ……」
天王寺「こら岡部! 綯をビビらせてんじゃねえ! 殺すぞ!」
すかさず俺の耳に怒号が鳴り響いた。
相変わらず娘を溺愛しているようだ。
あまり変わっていないようで安心した。
天王寺「ったくよぉ、いつもこれだ。今度綯をビビらせたら家賃アップな」
倫太郎「はは、それは横暴ですよ……」
綯「あ、お母さん!」
──え?
綯の声の先には1人の女性。
「あら、そちらの方は?」
天王寺「あぁ、工房の2階を間借りしてる岡部ってんだ」
倫太郎「あなたは…………」
「いつも主人がお世話になってます」
綴「天王寺綴です。よろしくお願いしますね、岡部くん」
呆けて言葉を続けることができない俺に暖かな笑顔を向けてくれた。
天王寺がかつて吐き捨てるように連ねた悔恨の言葉が呼び起こされる。
『綴……綯の母親はSERNに殺された、俺のせいでな』
瞼を閉じ、思考を駆け巡らせる。
だが考えるまでもない。
感じればいい。
そうだ。
この人たちも俺と同じように──
倫太郎「変えることが、出来たんですね……」
天王寺「あん?」
倫太郎「いえ、なんでもないですよ」
差し込む陽光に照らされ煌めく一家。
見る者の胸を暖かくする光景。
そんな光景を目の前に、誰に言うでもなく、心のなかでそっと呟く。
これも──シュタインズゲートの選択だよ──
Epilogue 『異世界線のアナザーヘブン』END
これで完結です
長々とお付き合いいただき有り難うございました
前のSSも読んでくれた人もいたようで感激です
また投稿した際はぜひお付き合い下さると嬉しいです
このSSまとめへのコメント
このSSまとめにはまだコメントがありません