「風魔の息吹」 (178)

・歴史小説風SSです。

・あくまで素人が書く歴史小説風SSなので歴史的背景は大雑把もしくはフィクションになっています。

・地の文たっぷりで読み辛い事も予想されます。

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    《凪》


 まず、序章として春秋戦国の創成期に忽然と現れたとある忍者集団の事を語っておきたい。

 その忍者集団とは、俗に"風魔"と呼ばれる一党の事である。

 相模国足柄郡の足柄山の山中を縄張りとし、諜報活動や後方攪乱で大いに活躍したと言われている。

 その始まりは定かではなく、伊勢盛時(北条早雲)が後北条家勃興の際に突如として現れたと言われている。

 後北条氏は百年に渡って栄え、五代目・北条氏直の代に刻の天下人であった豊臣秀吉の小田原征伐によってついに没落するのだが、その間の隆盛を風魔は支えた。

 風魔一党を語る上で欠かせない人物の事も述べておこうと思う。

 風魔一党は、頭領が代々"小太郎"と称すのが決まりであるのだが、歴代小太郎の中で特に有名で、伝説的な人物である五代目"風魔の小太郎"を紹介する。

 "身の丈七尺二寸(2m16cm)、筋骨荒々しくむらこぶあり、眼口ひろく逆け黒ひげ、牙四つ外に現れ、頭は福禄寿に似て鼻高し"と言う異相だったと伝わっている。

 大いに誇張されている事だろうと思うが、風魔一党や小太郎への恐怖心が人々に伝わり、まるで風神の様な異相を想像させるほどに風魔一党が脅威的な集団だったかと言う事を示していると思う。

 しかし、その風魔は過去に吹く風となってしまった。


 慶長八年(1603)、後北条氏の没落により行き場を失った風魔一党は、盗賊に身を落として江戸の町を荒らし回っていた。

 しかし、高坂甚内と言う一人の盗賊に風魔一党の隠れ家を関東一円の整備に乗り出していた徳川家に密告され、五代目"風魔の小太郎"は捕縛・処刑されてしまった。

 荒涼としていた関東に吹いていた一迅の風は、夜明けと共に凪となったのである。

 しかし、凪はいつまでも続くものではない。

 風は微かに吹き、新たな時代の枝葉を揺らしはじめていた。

短いですが今日はここまで。あくまで歴史小説・歴史愛で書いてますから至らなかったらすいません。

書き溜めてますから月曜日から順次あげてく予定です。

よろしくお願いします。

    《風招き》



 寛永十四年(1637)の夏は酷く暑かった。

 黙っているだけでも汗が吹き出し、大粒の滴がぽたぽたと下に落ちる。

 山野を歩けば、それはもう水をかぶった様にずぶ濡れになってしまうほどだった。

 そんな暑さにも関わらず、わざわざ相模国足柄山にわざわざ足を踏み入れている男がいる。

 背は五尺七寸(約173cm)ほどでたくましい。
 総髪で年は三十歳くらい、無精髭を生やしており、佩している刀の柄に肘を乗せて顎髭を撫でている。

 精悍な面付きだが、口角をあげてニヤついているから締まりがなく、片目は塞がっている。

 この男、名を"柳生十兵衛三厳"と言う。

 徳川幕府で兵法指南役を仰せつかっていた柳生但馬守宗矩の嫡子であり、事実上の大和柳生藩二代目藩主である。

 柳生家累代の記録"玉栄拾遺"に『弱冠にして天資甚だ梟雄、早くに新陰流の術に達し、其書を述作し玉ふ』と記されるほどの剣の達人でもある。

 しかし、二十歳の時に勘当(諸説あり)され、小田原の阿部正次に預けられる事になった。

 その後、諸国放浪の旅に出、山賊退治や武者修行を気儘にして大和の柳生庄に戻るのである。

 勘当された理由について様々に噂はされているが、要因の一つとしてこの男の"あく"の強すぎる性格があるのは間違いないだろう。

 この十兵衛という男、生来"ものぐさ"な性格であった。

 十兵衛が大和国の柳生城に住む様になってから整備を怠り、打ち捨てられた荒れ寺の様になっている。

 そんな荒れ寺状態の柳生庄に、畿内中の荒くれ共や浪人が十兵衛に剣を教わりたいと集うのだが、いつも決まって

「おうおう、教えてやろうとも」

 と言うだけで、縁側に寝そべり煙管をくわえ紫煙を燻らせているだけ、興が乗れば自ら木剣をとって相手にする事もあるのだが、ほとんどそんな素振りを見せない。

 それがかえって荒くれ共や浪人を調子つかせており、"待っていれば教えて貰える"と思わせ、勝手に柳生城のあちこちで稽古をしている。

 そんな有りさま故に、柳生庄に住まう住民から『まるで盗賊の砦みたいだ』と噂される始末。

 天下の柳生にとってはあまり喜ばしくない噂にも関わらず、十兵衛は気にもせず怠惰な姿勢を崩さなかったのである。

 さて、柳生十兵衛という男がどれだけ"ものぐさ"かは分かってもらえたと思うが、この十兵衛の不思議なところは"ものぐさ"なくせに、好奇心を向けられる事や関心事にだけは類い稀なる積極性を発揮する事であった。

 十兵衛が相模国足柄山に足を踏み入れているのも、その性癖が発動したせいであった。

 一月前に柳生城に不審な手紙が投げ込まれたのである。

 たまたま、十兵衛が拾って開いてみたところ『風神様がお呼びだ。足柄山に来い』とだけ書かれていた。

 なんと怪しい手紙だろうか。
 宛名も差出人の名も書かれていない。
 ただ、風神が呼んでいるから来いとだけ、かろうじて読めるほど粗末な文字で書かれている。

 普通の者ならどこぞの子供の悪戯だと思い破り捨てるだろう。

 しかし、十兵衛はこの手紙に強い興味を示した。

 宛名が書かれていないのに、この手紙は自分に宛てられたものだと思い込み、手紙をもって自室に閉じ籠ったのである。

短いですが今日はここまで。かなりおっかなビックリで投稿してます……。

 十兵衛は、手紙とにらみ合いメッセージの意図を探ってみた。

 "風神が呼んでいる"とはどういう事だろうか。
 "風神"は風の神の事で間違いないだろうが、なぜ風神が足柄山に来いと言うのだろうか。

 十兵衛が小田原の阿部氏に預けられていた事は既に述べた。
 故に、十兵衛は相模国の地理に多少明るい。
 相模国の足柄郡の山に呼ばれている事は、すぐにピンと来たが故に不思議に思った、どうにも"足柄山"と"風神"と言う二つの言葉の関連性が見えないのである。

 龍田神社に来いと言うのならわかる。 龍田神社は、古くから風の神として祀られ龍田の風神と称されるほど有名な神社である。

 しかし、龍田神社ではなく遥々相模国の足柄山まで来いとはどういう事であろうか。

 おそらく"風神"とは人物の事をさし、その風神を語る某が足柄山に待ち受けているのだろうと十兵衛は推測した。

 そこまで推測できれば良い。
 あとは行動し、手紙の意図を探るのみである。

 "ものぐさ"な性格が、これ以上の思考を阻み、十兵衛の好奇心を大いに煽る手紙が行動を促したのだ。

 次の日、十兵衛は『暫し出かける』とだけ記し、玄関に置き手紙して姿を眩ました。
 思えば十兵衛のこの置き手紙も大概であろう。
 せめて、どこへ行くか書かねば失踪と言う事になってしまうではないか。
 十兵衛の"ものぐさ"な性格も、不審な手紙も質の悪さは変わらないのかもしれない。

 そういう訳で、十兵衛は足柄山の山道を歩いている。

 手紙の通りに足柄山に来たが、何か起こる様子もなく、ただ夏の新緑を物見遊山に来たかの様な形になっていた。

 しかし、十兵衛はそれならそれでと言う気分でいる。

 足柄山全体を風が吹き抜け、気分が悪くなるほど暑い夏に涼を感じさせてくれる。
 十兵衛は相模国足柄郡と言う土地に大した魅力を感じてはいなかったが、この山は好きになれそうな気持ちでいた。

 余談になるが、足柄山は江戸時代後期に"金時山"と呼ばれる様になる。
 足柄山は、別名猪鼻嶽とも呼ばれていたのだが、坂田金時がこの山で山姥に育てられた事から童話で有名な金太郎伝説発祥の地とされ金時山と呼ばれる様になった。

 坂田金時と言えば、源頼光四天王として勇名を馳せた人物で、四天王の仲間と共に鬼の首領である酒呑童子を倒したと言う伝説もある。

 足柄山の無骨な景色を見ていれば坂田金時が、伝説的な勇者なのも納得できそうである。

 十兵衛はそういった情緒や趣には鈍い人物ではあるが、身につけた剣士と言う衣が足柄山に宿る伝説的な気迫を感じさせていた。

「熊と相撲をとったと言う物語もあながち嘘ではないかもな」

 締まりのない表情を更に綻ばせ、足柄山に満ちる清い空気を吸い込んでみる。

 風が奏でる木々のざわめきや、鳥獣の鳴き声に耳を傾けてもみた。

 すると、ふと不自然な音が十兵衛の耳に入り込んでくる。

「お前が柳生十兵衛か」

 明らかに人の声で、しかも年端もいかぬ少女の様であった。

「そうだが、そこもとが風神……かな?」

 十兵衛には、声の主の居場所がわかっている。
 十兵衛は、所謂"達人"と呼ばれる領域に登り詰めた人間である故に、気配と言うものを読むのは呼吸をするように容易い。

「"凪"は違う。風神様は頭領だ」

 声の主は甲高い声をあげて否定する。
 どうやら、風神をさす人物は声の主ではなく、"頭領"という人物らしい。
 声の主は、自らを"凪"と呼んだ。

「では、風神の子か?降りてきて姿を見せてはもらえぬだろうか」

 十兵衛の背後、木立からガサガサと音がする。
 無論、十兵衛は気配を読んでいたので動じずに髭を撫で締まりのない表情でその音を聞いていた。

「柳生十兵衛、こっちを向け」

 "凪"と名乗った少女と思われる人物は、不遜な口調で十兵衛に振り向く事を促した。
 十兵衛は、顔だけをそちらに向ける。

「ほう、思ったより可愛らしい童だ。風神の子だと思っておぞましい異相を想像したのだがな」

 十兵衛の言う通り可憐な少女であった。
 健康的に焼けた肌、吸い込まれそうなほど黒々として澄んだ瞳、年の頃は八つか九つ程度の少女が十兵衛を射ぬかんばかりに視線を注いでいる。

「凪は凪だ。風神様の子ではない」

 凪は十兵衛を警戒しているらしかった。
 睨み付けるように視線を注ぎながら、一定の距離を保っている。

「風神の子ではない……か。まぁ、よい。それで、なぜわしを呼んだのかな?」

 振り返り、凪と視線を合わせるために身を屈め、優しい声色で問う。
 ものぐさな男のくせに、子供との接し方は心得ているのか。

 十兵衛は、子供に泣かれる事が一番苦手だった。
 子供と言うのは、機嫌を損ねれば話の通じない獣と同様であると考え、それが甚だ面倒だと思っている。
 故に、自然と慇懃なまでの接し方をしてしまうのだった。

今日はここまで。風魔と言いつつまずは十兵衛のエピソードをぶっこみました。

あと前作はショタでしたが今回はロリでお送りします(ゲス顔)

「風神様が前に敵わぬのは柳生十兵衛くらいだと言っていた。だから風神様を助けてやれるのはお前しかいない」

 凪は後退りをして答えた。
 どうやら、十兵衛の接し方が怪しく感じたらしい。
 しかし、睨み付けるような視線は変わらない。

「さっきから風神様、風神様と言っているがそれは誰だ?お前の親か?」

 十兵衛は首を傾げて訊ねる。
 十兵衛は屈強な男であるが、そんな男がおどけた様な所作をすると滑稽だ。

「風神様は親ではない。凪に親はない。風神様は頭領だ。さっき言っただろう」

 凪は苛ついたのか、声を荒げて答える。
 山中と言う事と、凪の風体のせいか子猿に見えなくもない。

「その頭領とは何者だ?悪いが得体の知れない者を助けろと言われても困るのだがな」

 この言葉は建前である。
 手紙の差し出人を見つけ、メッセージの意図も人助けと分かった故に十兵衛の好奇心は薄れてきているのである。
 つまり、凪の依頼を断るつもりでいた。

 これは十兵衛の性格の厄介な所で、好奇心が薄れ出すと次第にものぐさな性格が表に現れ、どうしようもなく気だるくなってくる。

「しょうがないなぁ……訊いて驚くなよ?頭領とは風魔の小太郎様だ」

 凪は胸を張って言ってみせた。
 その名がとても誇らしい、そう言いたげな様子だった。

 しかし、十兵衛の反応は違う。
 足柄山中全体に響く大笑を発した。

「な、なぜ笑う。風神様の事を笑うのは凪が許さないぞ」

 凪は十兵衛の様子に、顔を真っ赤にして憤慨していた。
 しかし、十兵衛は腹を抱えて笑い続けている。

「良いか?風魔とは四十年近く前に滅亡した一族だぞ?しかも頭領の小太郎は処刑されている」

 よほどおかしかったのか、十兵衛は涙を流していた。
 確かに風魔と言う忍者集団は、今から三十四年前に滅亡している。
 その風魔一党の頭領が生きていて自分を呼んでいる、と言うのは冗談にしかならず、そんな冗談を誇らしげに言う凪は滑稽でしかならなかった。

「いやはや、良い冗談を言うものだな」

 十兵衛が涙を拭き凪を見ると凪はその大きな目に涙をいっぱいに溜め、頬を膨らませていた。

「あ、おい、泣くな。わしが悪かった」

 時すでに遅し、と言った所か。
 凪はその小さな体のどこから出るのかと不思議に思うほど、大きな泣き声を上げて泣き出してしまった。

「お前なんか風神様に殺されてしまえばいいんだ」

 凪は大粒の涙を滝の様に流しながら、十兵衛に思いつく限りの罵詈雑言を浴びせる。
 十兵衛は眉を八の字にして、思いつく限りの甘い言葉を吐いて凪をなだめていた。

「分かった。お前の言う事を信じよう。だから泣くな、な?」

 柳生十兵衛ほどの達人でもどうやら、子供には敵わないらしい。
 半刻もの間、十兵衛は凪の機嫌をとるのに勤しんでいた。

「やれやれ、やっと泣き止んだか」

 子供の持つエネルギーは膨大なようだ。
 十兵衛はすっかり疲れはて切株に腰を下ろしたが、凪はなに食わぬ顔で十兵衛を睨み付ける仕事についていた。

「十兵衛が悪いのだぞ。風魔が滅亡したなんて言うから」

 この少女は、なんでここまで風魔にこだわりを持つのか。
 凪は、風魔と頭領の小太郎を崇拝している様子でもあった。

「なぁ、もしやお前は風魔一党の縁者なのか?」

 凪は、得意気に言い放った。

「凪は風魔だ。そして風神様の一番弟子なのだぞ」

 もはや反論すまい、十兵衛は凪の言う事をにわかではあるが信じる事とした。

 十兵衛の脳内は、後悔と言う思考に支配されている。
 好奇心のせいで積極性を発揮し、相模国は足柄山くんだりまで来たが、その結果が自称風魔の少女に振り回されている。

 しかし、もはや引き返す事は出来ない。
 ならば、このまま凪に振り回され続けてやろうと考えた。

「分かった。お前の言う通りにしてやろう」

 困り果て、淀んでいた顔も締まりのないニヤついた元の表情に戻っている。
 実は、凪が頑なに敬う仮想風魔に、多少の興味もあった。
 まぁ、十兵衛の性癖が発動するほどではないが。

「ならば着いてこい。風魔の村に行く」

 凪は、十兵衛を睨み付ける険しい表情から愛らしい笑顔に変わった。

 十兵衛は、凪に続いて山を降りてやっと思い出した。

 足柄山は、風魔一党が根城としていた山であり、相模国は風魔が仕えた北条氏が治めた国なのだ。

 十兵衛は、運命や天運と言ったものを信じる手合いではないが、奇妙な縁があることは疑いようがない。

「なぁ、凪よ。風魔の小太郎とはまさにお前の言うように風神のような異相らしいが」

 ちょこまかと歩く小さな風魔に訊ねてみた。
 微かに好奇心が弾み出している事を認めての質問である。

「風神様は優しくて大きいぞ。しかも強いのだ」

 誇らしげにふんぞり返る小さな風魔。
 十兵衛は、いつもの締まりのない表情で頷いた。

今日はここまで。リピーターさんが居てくれるのはめちゃくちゃ嬉しいですね。

前回より敷居を上げてしまったとちょっと後悔してましたが読んでくれてる方がいるのをモチベーションに頑張ります。



 寛永十四年は猛暑ではあるが、例年にないと言うほどではない。
 しかし、肥後国天草諸島では死活問題であった。

 この肥後天草諸島は、寺沢堅高が領する唐津藩に属する。
 唐津藩は年貢の負担が重く、百姓がいくら働いても二束三文であった。

 この年、特に天草諸島では、この夏の暑さも手伝い、過労または現在でいう熱中症や熱射病の被害者が百姓の間で増加していたのである。

 藩にとっては深刻な問題であるはずなのだが、藩の働きがいまいちで領民の間で不満が募りつつあった。

 そんな天草諸島の一つに、大矢野島と言う島がある。

 この大矢野島に、益田四郎と言う若者がいた。
 物腰が柔らかく、その穏やかな気性が雰囲気から伝わってくる。

 また、端正な面付きで中性的な印象を受け、聡明で、優れた教養を身につけた美少年であった。

 この益田四郎と言う少年は、大矢野島の島民から大変な人気がありカリスマ性と言うものも備えていた。

 更に、まったく傲ったところがないと言う気持ち悪いほどに隙のない人物である。

 彼の人間形成には、この国では異質な宗教が関係している。

 四郎はキリシタンであった。洗礼名をフランシスコと言う。

 彼の父は関ヶ原の戦いで敗れ、打ち首となったキリシタン大名の小西行長の遺臣・益田甚兵衛であり、母は敬虔なキリシタンであった。
 彼の出生を紐解いてみれば、彼のカリスマ性も納得できなくもない。

 小西氏が滅亡し、浪人百姓に没落したとはいえ元は大名家に仕えた臣の子である。
 他の者にはない資質が備わっていても不思議ではないだろう。

 しかし、四郎にはそれだけでは片付けられない神秘的なところもあった。

 簡単に言えば、海を歩いただとか盲目の少女を治したとか言われている(荒唐無稽なため、大まかに述べるだけに留める)。

 このキリシタンの少年のもとにも、唐津藩の抱える問題が例外なく起きていた。
 四郎は、その事にとても心を痛めていたのである。

 いくら働いても追い付かず、おまけに日照りが続いて実りは期待できない。
 それでも働く事しかできず、働けば働くほど死が近くなる。

 このどうしようもなく窮した事態に、何も出来ずにいる事に悔しく思っていた。

「母上、お体の方はいかがでございましょうか」

 四郎の母も無理をして体を壊していた。

「大丈夫ですよ。いくらか楽になりました」

 言葉とは裏腹に血色は悪く、顔も窶れている。

「……そうですか。あまり無理をなさらず」

 いくら隠そうとも、四郎には母の状態がわかる。
 また、四郎の母も無駄だとはわかっている。
 しかし、親心で四郎には無駄な心配はさせまいと敢えて隠す事にしていた。

 四郎はそんな母の機微が手にとるようにわかり、それが嬉しくも心苦しくもあった。

「心得ております。しばし出かけきます故、母上はくれぐれも安静にしていてください」

 慈しみが深い四郎には母一人を家に残すのは辛いが、働かねば母に精がつくものを与える事はおろか、生活すらままならない。

 聡い四郎には、この時期は胸が張り裂けそうな思いでいた。

 信仰は大きな心の支えであった。
 四郎は敬虔なキリシタンではあったが、この時期はより深く信仰していた。

 ロザリオを肌身離さず、朝晩のお祈りは欠かした事がない。
 四郎ほど慈悲深い少年が惨状を目の当たりにしても正気を保っていられるのは、一重に信仰心のおかげと言っても過言ではない。

 しかし、他の領民は違う。
 元はキリシタン大名が治めた地であり、土地柄キリシタンが多くはあったが、信仰心が薄い者も居たし宗教に興味のない者もいた。

 そういう者は、心の拠り所がなく精神的な均衡を保ち難い。

「た、助けて!誰か助けて!!」


「どうしたのですか?」

 四郎のもとに一人の少年が駆け寄ってきた。
 ろくに食事をしてないせいで痩せ細り、ボロ切れを身に纏っている。

 ただ事ではない事が一目でわかった。
 肩口から血を流し、ボロ切れが赤く染まっているのである。

「大変だ……手当てをしなければ」

 少年は涙を流しながら四郎の着物の裾を掴み、懇願するように叫んだ。

「おいらは、おいらは良いんだよ!早く母ちゃんを止めてよ」

 少年はほとんど錯乱して、同じ台詞を絶叫するように繰り返した。

「落ち着いて。私をあなたの母のもとに案内してください」

 四郎の言葉は、美しい琴の音色の様に少年の心に染み込んだ。

今日はここまで。察しの良い方は気づいていると思われますが四郎は某魔界転生しちゃうあの四郎です。

四郎は小説等の印象しかないないですが嫌いなので酷い目に合わせちゃおうかなと(ゲス顔)

乙乙。
益田四郎の洗礼名はジェロニモじゃなかったかうろ覚え。

この時代のこの土地は、家を建てれば戸口銭、子供が産まれれば頭銭、死人が出れば穴銭を取る増税狂乱の渦中。
穴銭は現代では死亡消費税と言うな。


「母ちゃんがおかしくなって……おいらを殺して食べるって……父ちゃんはキリシタンだったからキリシタン狩りでお役人に連れていかれちまって……おいらも頑張って働いたんだけど……食い物なくなって」

 信仰心の厚いキリシタンにも、もちろん苦がある。
 幕府の意向により、キリシタンは迫害されていた。
 特に、この唐津藩と肥前国の島原藩ではその活動が盛んであった。

 この少年には、藩が抱える闇が無慈悲に、それも一度に被さってきたのだった。

「大丈夫、大丈夫ですよ。神はあなたを見捨てはしないでしょう……安心なさい……」

 四郎は少年を優しく抱き締めていた。


「私をあなたの母のもとへ連れていってください。私があなたの母を元通りにしてみましょう」

 少年は涙にまみれていた。四郎の頬にも、一筋の美しい涙が伝わっていた。

 不幸を不幸と片付ける様な事をしたくはない。
 敬虔なキリシタンであれば、いつしか神の救いがあると信じて生き抜く事ができるが、そうでない者には難しい。
 ならば、自分が神の言葉を説く事でいくらか救いになるかもしれない。

 四郎は、この少年から話を訊いた時にそうしようと心に決めた。

「ここだよ。お兄ちゃん、母ちゃんを助けておくれよ!おかしくなってもおいらは母ちゃんが好きなんだよ」

 少年の悲痛な叫びは、確かに四郎のもとに届いている。
 だからこそ、四郎はとても優しい笑みを浮かべて頷いてみせた。

 とても人が住めるとは思えないほど家屋が痛み、風に吹かれるだけで歪な音がする。

 別に珍しくはない。それほど、人々の暮らしは困窮しているのであった。

「私は益田四郎と言う者です。少し話をいたしましょう。苦しい暮らしの中でも人と人が交わる事で何か救われる事があるかもしれない」

 四郎が戸に手をかけると、家の中から血の匂いがした。
 隙間から覗くと、少年の母とおもしき女性が自ら命を断っていたのであった。


「そんな……こんな事が……」

 四郎は十六歳の若者である。
 乱世の血生臭い出来事が多かった時代ならば、いくら少年と言えど多少の心構えをしていただろう。
 しかし、そんな時代はとっくに終わっている。
 十六の少年には、ショッキングな場面であった。

「兄ちゃんどうしたんだい?母ちゃんは?」

 しかし、四郎は真っ先に少年の事を考えた。
 この無慈悲な現実を目の前に、少年も母のあとを追うかもしれない。
 キリシタンでは自殺は禁じられているが、少年はキリシタンではない。

「あなたのお母様は……」

 四郎は血の気が引け、上手く口が回らずにいる。

 なんと言ってやれば少年を幸福へ導いてやれるのか、四郎にはまったくわからなかった。

「兄ちゃん……?大丈夫かい」

 少年の真っ直ぐで綺麗な瞳が、四郎の体を縛り付ける。
 自分が現実を突きつけてしまえばこの少年の瞳は、絶望色に濁ってしまうだろう。
 しかし、隠し通す事などできようはずもない。

「あ、あなたのお母様は……み、み、自ら……」

 止めどなく溢れる涙はなんの涙か。
 自分の無力さに対してか、神が与え給う試練の過酷さにか、少年の心情を汲み取ってか、四郎にはわからなかった。

 四郎の鮮やかに赤い唇が、一つの残酷な言葉を紡いだ。

「自ら……命を断ちました……」

 四郎は、逃げる様に少年のもとを立ち去る。
 膝から崩れ落ち、茫然自失としていた少年にかける言葉が見つからない。
 四郎は自分の心が、そして少年の心が崩れる音を訊いた。

「無力だ……私は、何もできない……私は」

 慟哭をあげながら少年から逃げるように、無慈悲な現実と言う地獄から逃げるように走った。

 ちょうど夕凪と呼ばれる風が止まる時間帯であった。

 四郎は、どんな辛い事があっても海から吹く風を浴びて神に祈れば救われる気がしていた。
 だが、風は吹かない。

「私は、どうすれば良いのですか……私はどうすれば……」

 今の四郎には、静寂ほど残酷な仕打ちはない。


「そこもとはお優しいのですな」

 静寂の渚から声が聞こえた。
 しわがれた低い声だが、四郎には神が遣わした使者の声に思えただろう。
 振り返ると一人の男が立っていた。

「益田四郎時貞殿であられますな?」

 初老か、いや、もっと若く見える。
 年老いた背格好だが、面付きは油が乗り血色がとても良く、老人とは思えない。
 だが、しわがれた声や挙措動作が年老い過ぎている。
 不思議な男であった。

「あなたは……何者なのですか……」

 泣き腫らした目で男を見ると、男は優しく微笑んだ。

「某は森宗意軒と言うしがない浪人にござる」

 四郎の知らない名であった。

「まるで地獄でござった。飢餓や病の蔓延は抗いようのない事もあれど此度は否にござる。明らかに治める者の怠慢……それのみならず異教の者を害す事に心血を注ぐ始末」

 森宗意軒の語り口は、一定の音程を奏でながら四郎の耳に届く。
 四郎の頭には、見てきた以上の悲惨な映像が浮かび、強い衝撃を与えた。

「もはや人の諸行とは思われぬ。その様な悪鬼羅刹らを野放しにして民草は……神の子らは救われる事がありましょうや」

 森宗意軒は、四郎の耳に口を寄せて囁く。

「立ち上がりませ、お導きくださりませ。某がお手伝いしましょう。藩を、幕府を打ち倒しなさいフランシスコ」

 気がつけば、森宗意軒の姿はなく、再び吹き始めた風が四郎の髪を撫で付けているだけであった。

今日はここまで。


>>47
最初はジェロニモだったけど一時表向きだけ棄教した後にフランシスコに変えたんですよね

そこらへんの事情は宗教用語も絡んで難しくなりそうなのでフランシスコで統一って事で

乙なり。

森宗意軒なんてマイナーな人まず知らないだろ。教科書にも映画にも出て来ないし。



 下総国、ほぼ常陸国に面している辺りに古河と言う土地がある(現在の茨城県古河市)。
 古河は、古くは万葉集の時代より渡良瀬川の渡し場と栄えていた場所であった。

 その古河には関東足利氏、所謂"古河公方"が御所を構えていた。
 元は、古河城を御所としていたのだが、最後の古河公方"氏姫"が古河城本丸より南東へ1km程度離れた鴻巣(こうのす)の地にある御所に移ってから、その舘を御所としていた。

 "鴻巣御所"または"古河公方舘"と通称されている。

 その鴻巣御所より、更に1km弱離れた場所に地元の民ですら認知されていないような村があった。

 その村を知るものからは"風間村"と呼ばれている。

 風間村は、どこにでもある様な農村であった。
 一段と暑いこの年の夏でも村の者は、いそいそと農耕に従事している。

 降り注ぐ夏の日射しを全身に浴び、黒々と日焼けしている村人の中に一際目立つ若者がいた。

 まず、目を引くのはその体躯である。
 六尺三寸(191cm)はありそうな身の丈で、手足が長く、良く鍛えられている。

 この時代の人間では珍しい類いの体格だが、更に目を引くのは髪の色であった。

 他の村人が、黒々とした日本人らしい髪をしているのにも関わらず、その若者は鮮やかな鳶色なのである。
 切れ長で涼やかな目元、普通より大きめの口、髪色のみならず様々な部位が日本人離れしていた。

 この若者、村人からは"かざおき"と呼ばれていた。

 風招きと言う言葉が由来である。
 風招きとは、読んで字の通り風が招く事を言うのだが、かざおきが居ると不思議と心地よい風が吹くために村人からそう呼ばれているのである。

 かざおきは、不思議な若者でもあった。
 例えば、いつもの様に農作業を終えて一休みをしていたら、かざおきがふと呟いた。

「もうじき嵐になる。今日は切り上げた方が良い」

 気持ちよいばかりに晴れ渡っていると言うのに何を言うかと、村人は怪訝に思ったが、かざおきが言う通り四半刻もしないうちに大粒の雨が降り出し、風もともなって嵐になった。

 山間に住む人間や、漁師が風から天候を読む能力を得る事はある。

 だが、平野の風間村の人間がそういう能力を得るとは不思議な事である。

 しかも、かざおきの予言はいちいち的確で、ほとんど予言者の様であった。

 かざおきは決まって言う。

「風が語りかけてくる。俺はその言葉を訊いているだけさ」

 ほとほと不思議であるが、そんな所もひっくるめかざおきは村人から愛されていた。
 人柄がとても爽やかで芯が強く、よく働く、その体格もあって頼もしげにも思われていた。

 風間村には長がおらず、何かあれば大人が集まって評定と言う形をとるのだが、その中心に二十歳を少し越えたくらいのかざおきが据えられているのを思えば信頼の度合いがわかる。

 それに風間村の人間は皆、風のつく名前や苗字故に、"風招き"と言う名前は縁起が良い。
 かざおきが人気なのも然るべし、と言った所だった。

 この日も、かざおきは近隣の農作業を手伝い、汗を流している。
 すると、とある人物がかざおきに近づいていった。

「かざおき、ちょいと良いか」

 村の最長老、風巻紅雲斎と言う人物であった。

「紅雲斎のじい様か。ああ、ちょっと待ってくれ」

 紅雲斎は、老齢の割には体格が良く、威厳漂う人物である。
 故に、自然と村人からは敬われているのだが、かざおきだけは対等な態度をとっていた。

「うむ、ではその仕事が終わったらわしの屋敷に来い」

 風間村、そのほぼ中心に紅雲斎の屋敷がある。
 農村にある屋敷に似合わず堀が掘られ、塀もなかなか堅牢に作られている。
 中世的な匂いが強い武家屋敷の様であった。

「紅雲斎のじい様、用ってなんだ」

 この紅雲斎の屋敷は、度々会合の場所として使用されかざおきにも馴染みがあった。

「来たか。まずは近う寄れ」

 屋敷と言っても、そこまで本格的に構えてある訳ではなく、中は農村の家々を広くした程度であまり変わりはない。玄関があり、土間があり、板敷きがある。
 その板敷きの中央に、紅雲斎は単座していた。

 紅雲斎は、齢七十をいくらか過ぎている。
 だが、動きは機敏で体力もある。
 血色も良く、年輪の様に深く刻まれた皺も衰えではなく、威厳と円熟さを演出していた。

 そんな紅雲斎が険しい顔をして座っていると、まるで老練の武将に睨み据えられている様でつい畏縮してしまう。

 しかし、かざおきは涼しい顔で対面に座ってみせた。

「じい様、もとからのおっかない顔がもっとおっかなくなってるぞ」

 どうやら、この若者は肝がすわってるらしい。

「お前がのうのうとし過ぎなだけだ。もう少し威を見せぬか」

 まるで、祖父と孫の様な雰囲気を感じる。

 事実、そういう関係性である。かざおきは幼くして父を亡くし、齢が十を越える頃に母を流行り病で亡くしている。

 それからは、かざおきの父と旧知の仲だという紅雲斎に育てられた。
 紅雲斎は、かざおきを厳しくも暖かく育て、今や実の家族の様な関係性にまでなっている。

「爺、俺に何か話があるんだろ」

 かざおきは、団欒を楽しむ様に言った。
 だが、紅雲斎は頷くと険しい顔で腕を組み思案している。

「正直、お前に話すか迷った……。お前は否と言うであろうし、今更この生活を捨てる事になろう事を言って何になるかとも思う」

 かざおきは、紅雲斎が何を言わんとしているか何となく察しがついたらしい。
 ため息を一つ吐くと、腕を組み低く呟いた。

「なぁ、爺様。俺は小太郎を継ぐ気はないよ。だいいち太平の世に風魔が吹く隙間があるかい?」

 驚くべき事だが、かざおきがさらりと言った事がこの村の事実である。

 "風魔"、今から四十年ほど前に滅亡した忍者集団だという事は序章で詳しく述べた。

 しかし、その滅亡と言うのも頭である五代目風魔の小太郎の死によって離散したと言う意味であり、風魔の血族は確かに生きている。

 この風間村は、その風魔の血族が寄り合ってできた村なのであった。

 そして、もうひとつ。

「しかし、誰かが小太郎を継ぐとしたらお前しかおらん。お前は五代目小太郎の遺児なのだ」

 異相で知られ、風魔の象徴とも言うべき五代目小太郎の遺児こそ"かざおき"と言う若者の正体であった。

「そんな事はわかってるさ。親父殿の事をほとんど覚えちゃいないが偉大な人だって事はみんなの話を訊けばわかる。ただ、俺がそんな大袈裟な名前を継ぐ必要が今の世にあるのかい?」

 かざおきの言う通りである。仕えていた北条氏は乱世の露と消え、天下は徳川の名に治まっている。
 安寧の世に風魔が現れたとあっては、かえって世を乱すだけだ。

今日はここまで。

>>60
すいません。魔界転生で有名だと思ってつい普通に扱いましたが、よく考えれば映画はあくまでも四郎が黒幕ですもんね……。

次の章で詳しく説明しますが軽く森宗意軒について補足説明をば

元は小西行長の奉公人で天草四郎を島原の乱のリーダーに仕立てた人です

ちなみに魔界転生では若い頃忍術をやってて魔界転生ってすげぇ術作っちゃったから幕府を相手に凄いことやっちゃおうって企んだ人です

 しかし、紅雲斎には何か譲れない理由があるらしい。
 かざおきを見据えると、重く響く声で重大な言葉を紡いだ。

「お前の父であり我ら風魔の象徴であった五代目を死に追いやった輩の居場所を突き止めた」

 かざおきの目の色が、にわかに変わる。

「どういう事だ?高坂甚内は死んだはずだろう」

「確かに高坂甚内は死んだ。わしらがヤツを追い詰めて討った」

 紅雲斎は、六十年近く風魔の忍びとして四代目、そして五代目の小太郎に仕えていた現在最古参の風魔の忍者であり、四十年近く前の風魔滅亡に直面し、風魔を滅亡に追いやった高坂甚内を討った一人であった。

 仇を討った当人が、仇が居ると宣うとはどういう事であろう。
 紅雲斎は、かざおきが言葉を発しようとしたのを遮る様に言葉を続けた。

「だがな、ヤツは駒でしかなかったのだ。ヤツの裏で糸を引いていた輩がおるのだ」

 かざおきは、口を挟むのを止めて紅雲斎の話に耳を傾ける事にした様だ。
 紅雲斎の目を、真っ直ぐ見つめている。

「我ら風魔は盗賊などしていない。する必要がない」

 "風魔は盗賊に落ちぶれた"と言うのが、世間に伝わる話であった。
 しかし、風魔最長老の紅雲斎は否定する。

「我ら風魔は北条氏滅亡の後、古河公方であらせられる氏姫様のご厚意により鴻巣御所の警護を仰せつかっていたのだ」

 古河公方氏姫とは、最後の関東足利氏である。
 正式な名は伝わっておらず足利氏の姫で、氏姫または氏女と呼ばれている。

 この氏姫、第五代古河公方の足利義氏と、後北条氏三代で相模の獅子と言う異名をとった北条氏康の娘との間に生まれた子であった。
 つまり、後北条氏の血縁者である。

 本来ならば、北条氏の血縁として小田原征伐のさいに命を落としていただろうが、幼き頃に弟の嫡男・梅千代王丸がすでに他界しており、古河公方を継ぐ事により難を逃れたのである。

 この氏姫、幼き頃は小田原城に住んでいたため風魔とも顔馴染みがあった。
 しかも、年の近かった五代目小太郎が護衛役として近習していたのである。

 風魔との縁が、とても深い人物であった。

 その氏姫が、行き場を無くした風魔を引き受けたと言う話も不思議ではない。

 事実、かざおき達が住まうこの風間村は、氏姫が御所としていた鴻巣の御所とは目と鼻の先であった。

「そんな我らが江戸の町にわざわざ出向いて盗賊などするか?」

 確かに、信長の時代に打ち倒された将軍家の血族とは言え、未だ豊臣の世であった頃の首都は京であり、関東は田舎で中世的な雰囲気を残していた。
 その関東では、将軍家を尊ぶ風潮がまだまだ強かったために古河公方と言えば、新興の天下主よりずっと偉かったのである。
 その様な名誉をわざわざ棒に振る必要はない。

 しかも、傭兵団的な意味合いが強かった伊賀や甲賀と言った忍者集団とは違い、一つの家に仕え続けた風魔である。
 義と言う忍者には、おおよそ不要でありそうな感情が強い。

「我らには盗賊などする意味合いがまったくないのだ。しかし、その噂は流れてしまった」

 紅雲斎は、過去の記憶から沸き上がる感情を押し殺しながら話を続けた。

「汚名を着せられた我らは氏姫の許可を得て江戸の町で調べ高坂甚内の事を突き止めた。それより我ら風魔と高坂甚内の一味との戦いが始まった」

 その戦いは、関ヶ原以後より始まっている。
 高坂甚内も元は忍者で、関ヶ原の戦にも参戦したが、その後に扶持を無くして落ちぶれたと言う。

 その戦いも慶長八年(1603)、つまり関ヶ原の戦より三年後に五代目小太郎の処刑によって終わった。

「訝しい事ではないか?なぜ高坂甚内がいきなり我ら風魔に牙を剥いた。なぜ牙を剥く必要があった」

 かざおきは、低い声で呟く。

「なるほど……誰かにつかわれていたと言う事か」

 紅雲斎は深く頷いた。

「誰がどの様な目的でかは未だにわからん、がその一旦を担っていた輩の尻尾を掴んだ」

 かざおきが深くため息をついた。

「俺の知らない所で随分な苦労していたんだな。まったく……年寄りのくせに」

 思ったよりかざおきの表情は明るい様子だった。


「決心してくれたのか」

 紅雲斎は、かざおきに期待の眼差しを向ける。

「小太郎は継がないよ。ただ、爺様の苦労に報いようと思っただけだ」

 かざおきは、あくまでも爽やかな口調で言ってみせた。
 この様に言われては口を挟もうにも挟めない。

「わかった。無理強いはせぬわ」

 紅雲斎は厳しい表情ながらも納得してみせた。

「で、どこに行けば良いんだ?」

 かざおきが己の依頼に肯定的な態度をとっているにも関わらず、紅雲斎の表情は険しいままであった。

 おそらくは、危地に赴く事になろう事を危惧しての態度であろう。

 子を送り出す親の気持ちと言った所である。


「場所は……肥後国天草」

 かざおきは、険しい顔の紅雲斎に笑みを向ける。

「爺様、俺は五代目小太郎の子なんだろ?だったら大丈夫さ。海の風が地の風が天の風が俺を守ってくれる。それに物見に行くようなものだしな」

 紅雲斎は、かざおきの顔を見つめた。

 精悍ながら涼やかな面つきの若者は、いつの間にか青年の顔に変わっている。

「似てきたな……小太郎様に似てきた」

 険しい顔を綻ばせ、かざおきの肩に手をおいて紅雲斎は目を瞑った。

「爺様の気持ちは良くわかってるよ。だから、俺がちゃんと片を付けてくるさ」

 紅雲斎にとって風魔とは青春であった。
 そして、五代目小太郎は紅雲斎の心をくすぐる清風であった。

 悔やまれて仕方なかったのであろう。

 青春を貶められ、心をくすぐる清風をみすみす止められてしまった事が、老いてなお悔やまれたのだろう。

 それが四十年近くの刻が経っても紅雲斎の思考を支配し、突き動かし続けた。

 そして、ついに一つの成果を得た。

 だが、同時に迷いも生まれる。
 老いた体では、その成果を昇華させて後悔を晴らすまでの結果を得られそうにない。

 この思いを託すならば、かざおきしかいないが彼を、言わば私怨に巻き込んで良いものか。

 もっともらしい言葉を並べようが彼は、自らの風を吹かせる器である。

 だが、彼は頷いてくれた。

 それが、彼にとっての同情だったとしても紅雲斎には嬉しかった。

 まるで、自分が尊敬し慕った五代目小太郎が応えてくれたように思われたのであろう。

「かざおき、すまぬ。わしの勝手で……誰も望んでおらぬのにのう」

 かざおきは、大きな口をいっぱいに広げて笑った。

「爺様も本当の年寄りになったか?これも風の導きさ。多分、俺が爺様の頼みを断っても行く事になったろうよ。天草の風が俺を呼んでるのさ」

 不思議な若者であった。

 笑えば清風が吹いた様な清々しい気分になる。

 いつだったか、とある村人が彼を風神と呼んだ事があった。

今日はここまで。次でやっと次章に入ります。

名調子も乙でござる。

古河公方てな言葉はメジャーかな?授業でも聞き流す所では?

    《凶風》



 十兵衛は、小さな風魔と共に鴻巣の辺りを歩いていた。

 凪が言う風魔の村、つまり風間村までは歩いて四半刻ほどであろう。

 なのにも関わらず、凪の表情がだんだん暗くなって来ている事に十兵衛は訝しく思った。

「なぜその様な面をする。もうすぐ風魔の村なのだろう?嬉しくはないのか?」

 凪は、か細い声で十兵衛に答えた。

「爺様に出掛けると言って来なかったのを思い出した。凪はきっと爺様に怒られる」

 なるほど、爺様とは凪の保護者で凪は十兵衛を迎えに出向く事を伝えて来なかったらしい。
 その事について叱責されるのが憂鬱だったようだ。

 どうやら、この少女はそそっかしい性格であるらしい。

 宛名のない手紙も、出掛ける事を告げずに家を飛び出してしまった事もそういう性格ならば説明がつく。

 と言うより、己のそそっかしさを少女本人が今こうして悔いている。

「風魔の子も人の子だという事か」

 十兵衛は、短いながらも凪と共にし凪の異常さに驚いていた。

 子供らしい。実に子供らしい。良く動き、良く遊び、様々な物に興味を示し、感情も大人の数倍は起伏が激しい。

 だが、一切の疲労を見せない。相模国から鴻巣まで決して子供には楽ではない旅路でも、常に十兵衛の先を歩く。

 子供の体力の範疇ではない。
 剣の道を極め、尋常ならざる修練を重ねた十兵衛は、普通の大人の数倍は体力がある。
 だが、その十兵衛以上に体力があるのではないかと思われるほどであった。

 故に、十兵衛は風魔とは化物で、凪は化物の子なのではないかと思った。
 心底そう思っていたわけではないが、そう思う以外に凪の体力の異常さを自分に納得させる理由がなかった。

 故に、凪が年相応の心配をする様子を見て『風魔の子も人の子か』とつい呟いたのである。

「十兵衛ついたぞ。風魔の村についた」

 気が付けば、風間村についていた。
 なんの事はない。家屋が相応に並び、田園や畑が見える普通の農村である。

 十兵衛は、いつものしまりのない顔で顎ヒゲを撫でる。
 この十兵衛の癖は、スポーツ選手などが精神統一のためにする決まった行動、所謂ルーティンと言うものと同じものである。

 つまり、十兵衛は意識的にか無意識でかは分からないが、精神統一を必要とするような緊張をしていた。

「十兵衛、なにを突っ立ってる。早く来い」

 凪に促されたが、ワンテンポ遅れて反応を見せた。

 十兵衛をここまで緊張させるものは何か、と考えると明らかにこの村が原因であろう。
 柳生十兵衛と言う達人は、理詰めで出来上がったのではない。言わば、天才と言われる部類の人間である。

 十兵衛の父である但馬守宗矩が昔、弟子の一人に『十兵衛に勝つ自信はあるか』と言う愚かな質問をされた事がある。

 その時、但馬守宗矩は『わしは十兵衛が木剣で向かってくるならば容易く返り討ちにする事ができる。だが、真剣を持って向かってくるならば死を覚悟する事になる』と答えたと言う。
 これは、真剣勝負によって発揮される十兵衛の生存本能の高さを評した言葉であるだろう。

 そして、それはどこまでも動物的な感覚であった。"獣の本能"と言って良いだろう。

 その十兵衛の中の獣が、風間村に漂う空気を敏感に嗅ぎとったのだろう。

 凪は十兵衛を引き連れ、とある屋敷の前まで来た。

 風巻紅雲斎の屋敷の前である。

「どうした。入らぬのか」

 凪は、戸口の前で挙動不審な動きを見せるばかりで、戸に手をかけようとしない。

 余程、叱られるのが怖いらしい。

「十兵衛にわからぬのだ。怒った爺様は鬼より怖い」

「そそっかしく飛び出してしまったお前が悪いのだ。観念しろ」

 十兵衛が戸に手をかけようとすると、凪は小さな手で袖を掴み阻止する。

「これ、引っ張るな」

「だったら止めろ。凪は心の準備をしておるのだ」

 凪と十兵衛が押し問答をしているのを村人は、怪訝な目で眺めていた。

 凪と十兵衛が押し問答をしていると、戸が開いた。
 戸口の前で、騒ぎ立てれば何が起きたかと様子を確かめに出てくるのは当たり前だろう。

「喧しい!何事か!!」

 凪は、十兵衛の袖を掴んだまま固まってしまった。

「凪か。お主は今までどこに行っておった!!畑の手伝いもせずに遊び呆けておったのだろう」

 凄まじい声量であった。
 戦場鍛えの声で怒鳴られては、大の大人でも胆が縮み上がってしまうだろう。

 子供の凪には恐怖でしかなかった。

「違うもん。十兵衛を迎えにいっただけだもん」

 ついには泣き出してしまった。
 大粒の涙を、大きな眼から溢れるばかりに流し、泣き声も甲高い。

 十兵衛は耳を塞ぎたい思いであった。


「まったくお主と言うものは女子ならば慎ましやかな行動を」

 老人の説教は長い。十兵衛は、それを骨身に染みてしっている。
 剣聖・上泉伊勢守より印可を承り、新陰流の嫡流を継いだ十兵衛の祖父・柳生石舟斎の高弟に木村助九郎と言う者がいる。

 柳生四天王の筆頭に列せられる柳生剣士の中でも屈指の実力者だが、この木村助九郎がとにかく十兵衛に世話をやき、ものぐさな十兵衛を耳にたこができるくらい諌めてきた。

 故に、十兵衛は子供の泣き声と同等に老人の説教が苦手である。

「御老体、それくらいにしてやってもらえぬだろうか」

 十兵衛が、つい耐えかねて紅雲斎の説教を中断させた。

「道中、凪も己のそそっかしさを悔いて反省していた。どうか許してやってはくださらぬか」

 紅雲斎は、十兵衛の言葉を聞いて一旦心を落ち着かせた様であった。

「見苦しいところをお見せして申し訳ない。して、そこもとは何者でござろうか」

 慇懃な様で、明らかに十兵衛を警戒している。
 どこにでもある農村のようで、その実、この風間村と言う村は謂わば風魔の残党の隠れ里の役割を果たしている。

 故に、突然の来訪者に警戒しても仕方ない。


「某、柳生十兵衛三厳と言う者にござる」

 紅雲斎は、開いた口がふさがらなかった。

 凪が連れて来た来訪者は、自分を梟雄で名を馳せる柳生十兵衛だという。
 確かに、隻眼であるところや風貌は伝え訊いたところと一致する。

 そして、何よりも十兵衛にまとわりつく雰囲気がただ者ではない。

 しかし、にわかには信じがたい。

「とりあえず、中へ。凪も入れ」

 紅雲斎は、無用な情報を村人に与えぬために自分の屋敷へ招き入れた。

 十兵衛には様々な噂があるが、その一つに松平伊豆守信綱に見出だされ隠密同心として、幕府に仇なす者を誅勠したり不穏分子を解体させる役目を担っていると言う噂がある。

今日はここまで。

>>86
古河公方は授業とかでもさらっと流すところですね

まぁ、このSSでもそれほど重要なワードじゃないので軽く説明するだけにしておきました。

ただ、最後の関東足利氏である氏姫の庇護を受けてたから風魔は白だよと言う事を説明するために敢えて出しました。

まぁ、軽く流してくださいwwwただ、改めて調べてみるとなかなか面白いですよ

 確かに、十兵衛は松平伊豆守に気に入られてはいるが、それだけだ。

 いくら、相手が松平伊豆守であれ、十兵衛ほどの怠け者がその様な役目を引き受けるはずがないし、十兵衛の動力源である興味が向けられる事ではない。
 つまりは、噂に過ぎない事である。

 紅雲斎も噂をまるっきり信じてるわけではないが、村に要らぬ不安や動揺が伝わるのも困る。

 村の最長老として、村人の事を慮っての事であった。

「大したもてなしはできませぬが御容赦くだされ」

 紅雲斎は、十兵衛を座らせ自分は十兵衛の対面に座った。
 凪は手馴れたように自分の足を拭っている。


「して、なぜ柳生十兵衛ともあろうお方がこの様な何もない村に?どうやら凪が連れてきた様でございますが」

 向き合う十兵衛と紅雲斎の間に、なんとも言えない緊張の空気が流れている。

 もし、十兵衛が風魔の村と言う事で幕府に通達するつもりであるならば殺す腹積もりを紅雲斎は持っているし、十兵衛もなんとなくだが察している。

 まずは、噂は噂だという事を明確にしなければならないが、その証拠は十兵衛にはない。

 故に、十兵衛は正直に事の詳細を話す事にした。

「一月ほど前でござるが、この様な手紙が柳生城に届けられましてな」

 まずは、例の手紙を差し出した。

「その手紙を読んでみたが、甚だ不審でありまする故に逆に興味をそそられましてな」

 紅雲斎が険しい顔で手紙を読んでいる間も、調子を変えずに喋り続ける。
 出来るだけ沢山の情報を与え、あくまでも敵ではない事を宣伝するしかなかった。

「凪、こっちに来なさい」

 紅雲斎は、手紙に一通り目を通すと凪を近くに呼び寄せる。

「これは主が書いたのか」

「そうだ。凪が風神様のために書いたのだぞ」

 とりあえずは胸を撫で下ろし、出来るだけ情報を得ようと耳をそばだてる。
 もちろん興味本位である。


「風神とはかざおきの事よな?なぜかざおきのために柳生殿を呼ぶ必要がある」

「風神様は敵がいないから小太郎にならないと言った。だから風神様が認めた十兵衛が敵になったら小太郎になると思ったのだ」

 子供ならではのめちゃくちゃな理論だというか、突拍子な発想なこと甚だしい。

「この馬鹿者が!!わざわざ敵を作るなぞ愚かなどころではない。お主は、柳生殿とかざおきが血水にまみれ戦う姿を見たいのか」

 突然の怒鳴り声に、凪は蛇に睨まれた様に固まり、またじわじわと涙を大きな目に溜めていく。

「あ、これ、御老体。あまりお叱りなさるな」


「なりませぬ!!柳生殿ほどの御方にご迷惑をかけたのです。この馬鹿者には叱責のみならず相応の罰も必要になりましょう」

 紅雲斎の剣幕は凄まじく、十兵衛が何を言っても聞きそうにない。
 十兵衛は、困り果てた様子で見ているしかなかった。

「第一かざおきは用向きで天草に出向いておる。二月は帰らぬであろう」

「風神様いないの?凪、せっかく頑張って十兵衛連れてきたのに」

 どうやら、凪には叱責の理由がいまいちわかってないらしい。
 十兵衛は、半ば呆れ返っていた。

「賢しい子だとかざおきは誉めておったがとんだ馬鹿者よな!!お主はもう厩の子ぞ!!出ていけ」

 凪は大泣きに泣き、風巻屋敷から出ていってしまった。
 引き留めて欲しかったのか、すばしっこい足取りは潜め、牛歩のように緩やかであった。

「度々、お見苦しいところをお見せして申し訳ない」

「いえ、未だ子はおりませぬ故、良い躾の手本を見たりと得をした気分でおります」

 もちろん嘘である。十兵衛は、紅雲斎が凪を叱りつけている間、辟易していた。

 木村助九郎と言う者が、十兵衛を良く諌めたと言う事は既に述べたが、この紅雲斎と助九郎が十兵衛にはまるっきり重なって見えたのである。

 十兵衛は、無意識の苦笑いがしばらく消えなかった。


「あの馬鹿者はどうせ……この村の事を話しておいででしょう」

「風魔の村と言うことですかな?」

 紅雲斎は頷き、筋道たてて丁寧に風間村が出来た経緯を話はじめた。
 風魔の歴史は、十兵衛が生まれる以前に閉じている。

 十兵衛は風魔については、なんとなく知ってる程度である故に、紅雲斎の語る歴史は面白くて仕方なかった。

「柳生殿……いえ、十兵衛殿は信用におけるとな勝手な判断故にお話いたしました。どうぞ、他言無用のほどお願いしたい」

「心得ておりまする。ご安心なされよ」

 十兵衛の風魔への興味は、この村に来てから膨れていく一方である。


「何もない村ではございますが滞在していきなされ。この屋敷を宿所となされるが良いでしょう」

「かたじけない」

 十兵衛は、黙って厚意を受け入れる事にした。

「そうそう、ひとつお尋ねしたい事がござる」

「なんでもお尋ねくだされ。この風巻紅雲斎、出来る限りお答えいたしまする」

 この言葉に、多少は信用されていると確認した十兵衛は、一度だけ頷いて言葉を紡ぎ出す。

「凪が言う風神様についてお聞きしたい」

「あやつが言う風神様とはかざおきと言う若者でござる。人柄爽やかで良く働く良き若者でございますよ」


「それで、なぜ凪はあそこまで慕っているのでござろうか」

 凪と出会った当初からの疑問であった。
 何かあれば口をついて"風神様"と宣う。親愛や尊敬と言うよりも、ほとんど崇拝と言って良い。

「凪は孤児にござる。あやつが三つの時、足柄山に捨てられ泣きわめいていたところをかざおきに拾われ、それ以来あのなつきよう。此度の事もかざおきのためを思っての事にござろう」

 なるほど、それであの崇拝にも近い慕い方に納得がいく。

「かざおきと言う方に会ってみたいところでございますな」

 十兵衛は気づいていた。
 凪のみならず、紅雲斎がかざおきの名を出す時にも親愛の情がこもっている。

 十兵衛は、かざおきに対して大きく興味を持ち始めている。

 凪のみならず紅雲斎が、親愛を持って頼りにしている人物とはどういう人物なのか。

 凪の場合は、単純に自分を救ってくれた人物に対しての感情だと説明がつくが、紅雲斎ほどのある種の達人的な雰囲気を持った人物からも慕われているとなると、ただの好人物と言うわけではあるまい。

 人を惹き付けるのは、それ相応の才気でなくてはならないだろう。

 十兵衛の中で組み上がりつつあるかざおきの人物像は、十兵衛の興味を強力に惹く人物であった。

 しかし、かざおきは天草に出向いている。
 十兵衛とかざおきの出会いは無い物に思われた。

今日はここまで。改めて歴史物の難しさを痛感しています……



 厩の藁の山、その上に膝を抱え凪が佇んでいた。

 紅雲斎の説教がよっぽど堪えたのか、正に意気消沈であった。

「やれやれ、お前も忙しいやつよな」

 凪がふと顔を上げると、十兵衛が立っていた。

「紅雲斎殿もお前のためを思えばの叱責なのだ。それは分かっておろうが」

「違うんだ。前に爺様が凪の名前は忌み名だって言ってたから凪の事が嫌いなんだ」

 凪と言うのは風が止まる朝夕の時間帯の事を言い、風の名を冠している風魔にはあまり縁起が良い言葉とは言えない。

「そんなわけなかろう。お前が憎ければ叱るなどありえぬわ」


「本当に?じゃあ、なんで爺様は凪の事をあんなに怒るの?」

「それはお前がそそっかしいからよ。少しは考えて事を起こさねばな」

 十兵衛の慰めに気を持ち直して来たのか、凪の表情がだんだん明るくなってくる。
 ここら辺が、凪の良さでもあるのだろう。

「凪は考えたぞ。爺様は風神様が小太郎になれば良いと思っているのだ。前に風神様に小太郎になれとすすめておったしな」

「そういう気持ちはあるにはあるのだろうがお前のやり方がいけなかった。わしとその風神様を戦えばどちらか死んでしまう。風神様が死ねば凪はわしを恨むであろう」

 凪はきょとんとした可愛らしい表情をし、小首を傾げている。
 どうやら、凪は『十兵衛を敵にする』と言ったのを喧嘩相手にする程度に考えていたらしい。

「風神様は負けないぞ。大きくて強いから十兵衛みたいな怠け者は一捻りだぞ。」

 十兵衛は苦笑するしかなかった。風神様、つまりはかざおきを最優先事項に置きすぎるばっかりに理解力が乏しくなる様だ。

「まぁ、良いわ。とりあえず今回の事は良くなかったと言う事だ」

「分かった。あとで爺様に謝る」

 この素直さは実に子供らしい。実際、凪は同年齢の子より幼く見える。


「そういえば、お前はなぜ風神様と崇めるのだ?聞けばかざおきと言う名らしいではないか」

 かざおきに対して興味を持った十兵衛は、紅雲斎や村人からなんとなくかざおきの事を訊いていた。
 風を読む能力に長けているらしいから、そこを子供から見れば風を呼ぶ神秘的な存在と認識しても仕方ない。

 しかし、凪の言い分は違った。

「凪が小さい頃に足柄山で泣いているとびゅうと強い風が吹いたのだ。怖くて目を瞑ったのだが目を開けると風神様がいて優しく笑ってくれたのだぞ」

 親に捨てられ心細く、見知らぬ地にいる不安に苛まれている時に現れた救世主。その救世主が現れる時に演出したのが風であった。

 その時に、稲光が走れば雷神様と呼んだであろう。つまりは、偶然の産物であった。

 しかし、凪にとっては本当に風神が救ってくれたと思うほどに強く印象付けられたのである。

「大きくて強くて優しくて……凪は風神様が大好きなのだ」

 凪の信仰心は、言わば子供の純粋さが生んだもので、大人の世界ではいまいち言い表す言葉がない。
 近いもので言えば、愛情であろうか。

 十兵衛は、しまりのない表情で二度、三度頷いた。

「そうかそうか。それほどの人であれば会ってみたいのう」

 十兵衛の中でも、かざおきと言う人物が魅力的な人間像で完成しつつある。


「凪、戻るか。紅雲斎殿も本心で出ていけと言ったのではないし、こういう事は早く謝るに限る」

「分かった。でも、爺様は許してくれるかな」

 不安そうに俯く凪を厩から出し、風巻屋敷に戻るように促す。

 十兵衛も幼い頃、凪と同じ様に叱られ厩に逃げ込んだり、道場に隠れたりした。

 そんな事をしていても事態は収集できずに、長引くだけである。
 頭が固くなりつつある老人には、素直な態度をとった方が可愛げがあると見られ、許され易い。

 十兵衛が幼い頃に身につけた小賢しい知恵である。

「大丈夫であろう。心配するな」

 風間村には、良く風が吹く。地理的な条件でなのか、はたまた気候的な条件でなのかは、分からない。

 だが、良く涼しい風が吹いている。

 村人は、その風を信仰の対象ともしたし、恩恵ともした。

 その風が、今は止まっている。

「十兵衛、なんか怖い」

 凪がふと呟いた。

「怖い?紅雲斎殿がか?」

「違うのだ。分からないが、何故か怖いのだ」

 凪の表情が暗くなり、小刻みに震えているようにも見える。
 はじめは、紅雲斎と顔を合わせる事に対しての憂鬱さから駄々をこねているとも思ったが、どうも違うらしい。


「大丈夫か?」

 凪の機微を十兵衛は知ることが出来ない。何に怯え、何を恐れているのだろう。

 とりあえず、風巻屋敷で凪が何を感じたのか聞こうと屋敷の戸口前までくると、紅雲斎と誰かの話し声が聞こえる。

「天草で不穏な動きあり。おそらくは大きな戦いが起こるものと」

「それは戦と言う事か?」

「いえ、おそらくは一揆。しかし、どうやら稀にみるほど規模まで膨れ上がるものかと」

 風雲、急を告げる。

 かざおきが、過去の遺恨を断つために向かっている肥後国天草で大きな戦いの兆候があると言う事を話していた。


「……かざおきは天草に向かっている」

「追いかけましょうぞ。このこと伝えねばかざおきも巻き込まれるやも」

 紅雲斎にこの情報を知らせたのは、紅雲斎自らが放った者であった。
 天草に潜むと言う風魔滅亡の黒幕を探るために忍ばせた者である。

「かざおきの足に追いつく者なぞ居らぬ。が、捨て置く事などできぬ。準備を整え人数を揃えるしか」

 紅雲斎と配下の者の話を十兵衛と凪は、外で聞いてしまった。

 凪の機微は、この事を予感してなのか。

「十兵衛!!風神様が大変だよ!!行かなきゃ」

 凪は、今にも泣き出しそうに十兵衛の袖を掴み訴えていた。

 十兵衛は、凪が取り乱して喚くのを止めようとした。
 しかし、凪はよほど衝撃的だったらしく、十兵衛の言葉も耳に入らない様子であった。

「凪、落ち着け。ちゃんと話を聞こう。」

「十兵衛!!助けてよ風神様を助けてよ!!」

 おそらく、僅かに聞こえた話の内容を不穏な雰囲気と己の予感とで、極端な理解をしてしまったのだろう。

 かざおきが危険だと言うわけではなく、危険かもしれないと言う事なのだが、凪の頭の中ではどちらでも構わなかった。

「喧しい!!何をしておる」

「爺様!!風神様が危ないんでしょ!!助けに行かないと!!」

今日はここまで。ちょっと凪は泣きすぎですね


「訊いておったか」

「いや、凪が何やら怖いと申すものでいかがしたものかと屋敷に来たらどうやらお客人と話されておったようで」

 紅雲斎は、凪が目いっぱいに涙を溜めて見つめてくる様子を見て深くため息をつく。

「凪、中に入りなさい。柳生殿にもお話いたしましょう。話して何になると言うものでもありませぬが」

 未だ断片的な情報のみで、大事に至っているわけでもない。紅雲斎はあくまでも冷静な様子であった。

「なぁ、大丈夫なのかな?」

「今からそれを聞くのだ。しっかり話を聞こうぞ。もし、何かあればわしも手をかす」

 十兵衛は、第三者として客観的に紅雲斎から話を聞いていた。

 雰囲気に飲まれれば第三者と言えども、多少の気の惑いがあるものだが、十兵衛はまったく冷静である。
 さすが、梟雄・柳生十兵衛と言ったところであろう。

「ふむ、訊いた限りでは確かに乱の兆しがありと見えまする。だが、暫しの猶予がございましょう。その間に連絡をするのが吉でござろう」

「風神様は助かるのか?助かるの?」

「助かるも何も未だ事が起こったわけではないわ。少し落ち着け」

 紅雲斎もさすが老練の士と言ったところか、落ち着き放っている。


「こちらも情報を掴んでいると言う事は情報の規制が甘いかわざと流したか。どちらにせよ用事に越した事はありませぬでしょう」

「なれば、人数を揃えるのは得策ではありませぬ。腕が立つ者を行かせた方がよろしいと存ずるが」

 紅雲斎とその配下の者、そして十兵衛の話している様子を見て安心したのか凪の表情に安堵の色が戻ってくる。

「しかし、以前の風魔ならば誰に行かせても安心できたが」

 実際、今の風魔に以前ほどの熟達した忍の技術を持つ者は少なくなって来ている。
 以前の風魔を知らぬ若年層が増え、歴戦の者が老いている証拠であった。

 万全を期し、慎重に事を運ばねばならない。
 兆候は確かにあるらしいが、情報によれば藩は未だ何も掴んでいない様子、向こうもそれなりに用事して動いているのだろう。

 だとすれば、多少の違和感や異物を見つければ徹底した行動に移るかもしれない。

 それに乱の兆しにばかり目が行きがちだが、天草には風魔の仇敵が潜んでいるかもしれないのだ。
 もし、その仇敵が風魔が潜入している事に気づけば、乱の主導者に何か働きかけるかもしれない。

 簡単な様で、繊細な行動を強いられていた。

「なれば某をお使いくだされ」

 突然の十兵衛の申し入れに紅雲斎や配下の者はおろか、凪でさえ驚きを隠せない。

「お待ちくだされ。柳生殿ほどの御方であれば事も上手く運びましょうが、これは我らの問題であり柳生殿を巻き込むわけには」

 確かに、言ってしまえば十兵衛は部外者である。わざわざ首を突っ込む必要も手助けしてやる義理もない。

「しかし、役者が不足している御様子。役に立つならば使って損はないでござろう?」

 もはや説明する必要もないであろう。十兵衛の例の性癖である。
 かざおきに興味を持ちはじめた所、そこに重なって面白そうな事件が起きた。

 十兵衛にとって首を突っ込むにたりえる条件など、己が面白そうだと判断するだけで十分なのだ。

 柳生但馬守宗矩と言う大剣豪の嫡子と言う立場に生まれ、己も達人の域に達しながらも怠惰を愛し、自らの興味が囃し立てるならば平気で危地にも飛び込む。
 その様な理から外れた様な生き方が、十兵衛を梟雄たらしめている所以であろう。

「わかりもうした。ならば柳生殿にお頼みいたそう」

 柳生十兵衛の梟雄が顔を出したならば、もはや誰も否を突き通せない。
 妖気とも言う様な迫力が、十兵衛の無茶苦茶な言葉を頑として押し通すのである。

「お任せあれ」

 いつもならば、しまりのないと表す表情も、今は梟雄で名を馳せた松永弾正のごとき悪相に見えた。


「では参るといたしましょう。あ、そうそう、某はかざおきなる者を知らぬ故に人を貸していただきたいが」

「もう行かれると言うのでござるか。いろいろ準備も必要となるのでは」

「善は急げ悪は延べよと申すではございませぬか」

「急がば回れとも申しまするぞ」

 梟雄十兵衛を諌める事はほとんど不可能と言って良いだろう。
 にやにやと顎ヒゲを撫でる十兵衛に、焦って慎重を期すべきだと諌める風魔の老人とその配下の様子は、物語にすれば面白そうな画であった。

「十兵衛!!十兵衛が行くなら凪が行くぞ」

 興奮したように凪が叫んだ。

 紅雲斎は、頭を抱えてしまう。

「よせ、おそらくは尋常な事にならない匂いがする」

「じゃあ、なんで十兵衛は楽しそうに笑っているんだ」

 さすがに凪は連れて行けないと諌めようとしたが、十兵衛は痛い所をつかれた。

「別に楽しくないぞ?これから危ないかもしれない場所に行くのだぞ」

「そんな事はわかってる。だけど、凪は風神様が心配なのだ。風神様の助けになりたいのだ」

 どうしても行きたいのか十兵衛相手に凄んでみせたり、紅雲斎に懇願してみせたりする。

「爺様、お願いだよ。凪は風神様の役に立ちたいのだ」

 一瞬、その場が静まりかえる。

 凪は、大きな目をいっぱいに開いて大人達を澄んだ瞳に映し込んでいた。

「柳生殿の……」

 先に口を開いたのは、紅雲斎であった。

「柳生殿の足手まといになってはならぬぞ。分をわきまえ出過ぎた事をするのではないぞ」

 紅雲斎から出た言葉は、十兵衛に同行する事を了承する言葉であった。

「紅雲斎様、よろしいのですか」

「もはや止めても聞かぬよ。柳生殿、役に立たぬ足手まといならば捨て置いて構いませぬ」

 真っ先に反対するだろうと思っていた紅雲斎のまさかの言葉に、凪は驚いていた。

 十兵衛は、笑って頷いた。

「凪は行っていいの?」

「ああ、その代わりわしの言う事をちゃんと聞くのだぞ」

 凪は、震えていた。

 今さら怯んだ。と言うわけではなく、喜びをどう表現して良いか分からないと言った具合である。

「凪よ。柳生殿の言う事を良く聞き、かざおきをしっかり助けるのだぞ」

「うん!!凪、頑張るぞ」

 子供は、みな風の子と言う。今は西にいる風神が呼び寄せたと言うのなら、凪は純然たる風の子であろう。

 同行するは、梟雄・柳生十兵衛。天草の地で、二人はいかなる風を感じるのだろうか。

今日はここまで。書き溜めが書き溜めにならないスピードで投稿してしまったために書き溜めが尽きたので次の更新は火曜日か水曜日になります。

読んで下さりありがとうございます。



 天草の地の凄惨な状況は変わらない。もはや、変わりようがないほどに惨い状況だという事である。

 一方で、変わったところがある。

 一月ほど前ならば目を覆いたくなる様な惨状を天運だとする諦めの風潮があったが、今や諦めは怨嗟や義憤に変わり、それらの感情は政府に対して向けられつつあった。

 それらの感情は、もともと人々の心に植えられていたのだが、あまりの事に芽生える事はなかった。

 しかし、それらの感情に水をやり、肥料をやり、丹念に育て上げた男がいた。

 その男、名を森宗意軒と言う。

 この森宗意軒の仕事は、いまいち地味な様で尋常な事ではない。

 突如現れ、人々がひた隠しにしていた感情を呼び起こす様な事を宣えば不信感を抱かれる事になる。
 惨状に耐えに耐えた人々の心の容量は非常に狭くなっており、不信感で埋めてしまえば怨嗟や義憤の芽吹く場所はなくなる。

 故に、まずは人々の心の容量を減らしてやる事をする必要があった。

 わざわざ手土産を持って一戸々々訪ね、談笑をして帰るだけの事もあれば、しばらくその家に滞在し懇切丁寧に現状の異常さを分かりやすく話してやった事もあった。

 そして、今こうして宗意軒の感情栽培は成果を挙げつつある。

 この森宗意軒、尋常ではない仕事をやってのけたわりに名は知られていない。
 これだけの才気を持つならば、藩の役人としてもやっていけるだろう。

 もちろん名が知られず、一介の浪人無勢でいるのには理由がある。

 森宗意軒こと森三左衛門は、以前キリシタン大名である小西行長の奉公人であった。

 文録・慶長の役の際に、小西行長の船宰領(船頭)として朝鮮に渡航する。
 しかし、途中で難破し三左衛門は南蛮船に助けられ、南蛮に行くことになった。

 その後、オランダにも行き西洋の空気をたっぷり浴びて、六年から七年の歳月を過ごす。
 そこから中国にも行った。西洋の先進的な思考や感覚を身につけた三左衛門は、中国にも馴染み入廟老と言う者に火術や外科治療、火攻めの法などを伝授した。

 異文化を知る事で、受け入れる事と与える事がどれほどの財産になるのかを学び、日本に戻る。

 異国の風土や文化に触れ、先進的な感性を身につけた三左衛門は、自分のこの体験が主のためになると喜んですらいた。

 しかし、三左衛門が帰った国は彼の知る国ではなくなっていた。

 主君の小西摂津守行長は既に刑死。更に、天下は徳川の手中に納まりつつあった。

 絶望感と何故もっと早く主の元へ帰れなかったのかと言う後悔を抱き、高野山に籠る。

 そして、大阪の陣が始まった。

 主の無念と仁義を胸に、真田方へついて奮闘するも大阪の陣は徳川方の勝利となり、三左衛門は命からがら逃げ落ちた。

 その後、浪人に身を落として現在に至る。

 彼の境遇は、もはや不運であるとしか言い様がない。しかし、宗意軒となった三左衛門はその不運ですらも受け入れた。

 それは、寛容さと言う言葉とはまるで違う。

今日はここまで。お待たせした上に短くて申し訳ありません。

 その森宗意軒は、自分の仕事を半ば終えたいま、常時益田から天草に姓を変えた四郎の傍らにいた。

「四郎殿はまた海を見ておいでなのですな」

 既に八月に入り、暦の上では秋なのだが、水面を反射する日の光と潮騒は、未だに夏の情緒を感じさせる。初秋の趣きは、ほとんどないと言って良い。

 そんな天草の水平線を眩しいのか目を細め、遥か彼方を四郎は眺めていた。

「宗意軒様……えぇ、この景色が好きなのです」

 四郎は微笑んでは見せたが、その微笑みには憂いの影が見える。

「確かに、まことに良い景色でございますなぁ」

 四郎の母は、先日亡くなった。

 病を患っていた事もあったが、その病を悪化させ死に到らしめたのは何の事はない栄養失調であった。

「戦が無くなり天下は治まったと言うのに何故、未だに悲しみが蔓延しているのでしょうか」

「安寧を手に入れてしまえば人は腑抜けるものにございます。腑抜ければ怠惰を好み、怠惰を得れば悪となる。悪は人を苦しめる事にございますれば」

 四郎は、宗意軒の言葉に耳を傾けながらも遥か彼方を見つめ続けている。

「これだけ良い風が吹き、海が綺麗なこの地にも悪が蔓延っている……のですか?」

 宗意軒は踵を返し四郎に背を向ける。

「目を向ける場所が違えば景色も風も変わるものでございますよ」

 四郎は目を瞑り、宗意軒が眺めている景色を見ようとしない。わざわざ見なくても、目を瞑れば瞼の裏にその景色は鮮明に浮かんでくる。

「それでも……それでも……私は」

 四郎の頬に、一筋の涙が伝う。人々を苦しめているのは権威と言う名の人、だけど四郎は人を恨む事が出来ない。

 四郎がキリシタンで、その教えが寛容さと慈悲を説いてるからと言う事もあるが、四郎の精神的な構造が人を憎む事を善しとしない。

 例え、肉親を全て無くしてもである。

「貴方はそれで良い。貴方は救世と断罪の象徴にございますれば貴方は変わってはいけない」

 四郎は、宗意軒が何をしようとしているか知っていた。
 それは四郎を先頭に立たせ、権威に対して乱を起こそうと言う事である。

 しかし、四郎はそれを止める事が出来なかった。

 四郎はそれを望んでいなくとも四郎が愛する人々は、心の奥底で望んでいるからである。

「また、行かれるのですか?」

 去ろうとする宗意軒の背中に四郎は言葉をかける。

「行かねばなりますまい。某の役目でございますれば」

 四郎は太陽が沈んでも尚、宗意軒の背中を見つめ続けていた。

 翌日、宗意軒は島原半島と天草諸島のほぼ中央に位置する湯島にいた。

 この湯島に、乱を企てる首領者達が集り談合をしていた事から談合島と言う通称で呼ばれている。

「お待たせいたしましたな」

 湯島の外れのあばら家を集会所にし、そこに足の踏み場も無いほどに人が集まっている。

「宗意軒殿、お待ちしておりましたぞ。さっそく始めましょうぞ」

 宗意軒は、天草諸島の島民のみならず島原半島の武士身分から百姓身分に転じて、地域の指導者的な立場になっていた旧有馬氏の家臣達にも声をかけ、組織化を促していた。

 この反乱軍の規模は、信じられないほどに膨れ上がっている。

 爆発したのであれば、未曾有の大一揆になるであろう。

「そろそろ動こう。もはや人数は十分過ぎるほどに揃った」

「いや、より確実に成功させるためにはもっと増えた方が良い」

「しかし、これ以上時間をかけるならば藩に勘づかれるのではないか?幕府まで動き出せば厄介だぞ」

 この談合中、宗意軒は目を瞑ったまま黙っている。
 みな、あくまでも声を潜めながら熱論を繰り返し、計画内容を密にすべく勤めていた。

「宗意軒殿のお考えもお聞きしたいと存ずるが」


「やはり慎重を期すのが吉にございましょう。二月後の二十五日、計画を決行しましょうぞ」

「かなり具体的な数字ですな?何か謀があるのですかな?」

「なに、大したことではござらぬよ。ただ、この企てを成功に導くために必要な事にござる」

 宗意軒は脂ぎった若い顔に皺を寄せ、目一杯笑って見せた。

 宗意軒は、とても感情の豊かな男であった。喜怒哀楽が直ぐに顔に出、声や言葉、挙措動作にも出る。

 故に、人情味があるように見え、人心を掴み易い。談合に集まった一揆の首領達も宗意軒が言うならば、と言う気分があり皆、頭を振った。

 深夜、幾艘かの舟と人影が夜陰に紛れ、遠方に消えた。一揆の首領達である。

 未だに藩や幕府には察知されてない様子ではあるが、用心に用心を重ねて湯島での談合は早朝に集まり、深夜に解散する決まりとなっていた。

 集会所と化していた湯島のあばら家には宗意軒だけが残っている。

「宗意軒よ。首尾はどうかな」

 集会所の暗がりから声が聞こえる。その声は、集会所の中央に単座する宗意軒に話しかけていた。

「上々と言ったところでございましょう。しかし、未だに四郎は迷いを拭えぬ様子でございます」

 月明かりが集会所の壁の隙間から射し込み、闇に人の姿が浮かび上がる。

 年の頃は、宗意軒よりずっと若いように見える。

「四郎は象徴の役割さえ果たせば良い」

 肌の色は青みがかるほど白く、切れ長な目をしているが、その目は刃の様に鋭い。

「ならば、一切の心配には及ばぬでしょう」

 宗意軒は、自分よりずっと若い男に恭しく接する。まるで、主従の関係の様でもあった。

「宗意軒よ。お主の悲願もいよいよ成ろうとしている。だが、抜からずに一層励めよ」

「あなた様より命を助けられしおり抱いた悲願。あなた様の力添えを無駄にせぬためにもこの宗意軒、命をとして働く所存にございまする」

 宗意軒が平伏すると青白い肌の男は、闇に溶けるように姿を消した。

「もはや待ったは効かぬところまで来ている。今は亡き摂津守様の御為にこの企てを必ずや」

 宗意軒は、一人ごちると集会所から出て夜の海に消えた。

 どうやら、宗意軒が企てているこの乱の背後には、もう一段階暗い闇がありそうであった。

 四郎どころか組織化している反乱分子も知らない闇。その闇は、宗意軒と宗意軒が敬っている様子である青白い肌の男しか知らない。

 妖気とも言うべき不穏な闇は、膨れ上がる反乱分子に比例して着々と大きくなっているようであった。

今日はここまで。関係ないけど最近やっと漫画版魔界転生を読みましたがやっぱりせがわまさき先生の描く十兵衛はカッコイイですわ



 四郎は、いつもの様に海を眺めている。

 四郎は母が亡くなってからと言うもの、以前よりずっと痩せた様に感じる。
 天草諸島全体に広がっている飢餓が四郎の身に降りかかっている事もあるだろうが、それ以上に心理的な要因がある様だ。

 四郎の心の安らぎは、大矢野島の岬から眺める景色くらいのものであった。

 故に、毎日の様に岬を訪れて景色をただただ眺めている。

 この日は、いつも傍らにいる森宗意軒もおらず、四郎一人きりであった。

 いくらかましになったとは言え、まだ肌を焼くように太陽の日が照りつける。

 この日は風もなく、残暑厳しいせいで初秋なのに真夏の様に暑い。

 四郎は喉の渇きに耐え兼ね、一旦岬を離れようとした瞬間であった。

 ぐらりと目の前が回る様な目眩に襲われ、足元が覚束ない。

 なんとか前に進もうとするが、ふらついてろくに前に進めず、身体が岬の崖へと寄ってしまう。意識も朦朧とし、いよいよ崖下へと落ちそうになった瞬間であった。

「危ないな。大丈夫か?」

 四郎は、足がかろうじて崖っぷちにかかってる状態で、身体は宙に出ている。その状態で止まっていた。

「ああ、涼しい風が……」

 四郎はそのまま気を失った。

 心地よい風が四郎の頬をなでる。暑さにやられたからか、いつもよりずっと涼しく感じた。

 ゆっくりと目を覚ます。すると、傍らには見覚えのない人物が座っていた。

「起きたか。塩を舐めろ」

 差し出された大きな手には、塩が乗せられている。四郎は言われるがままに、塩を一つまみして口に含んだ。

 身体が塩分を欲していたらしく、極上の旨味に感じる。四郎は、また一つまみして口に含む。

「よし、じゃあ水を飲め」

 今度は水筒を手渡された。四郎は、それを受け取るとゆっくりと喉に流し込む。

 冷たい水が、身体に染み渡る感覚がした。


「太陽にあてられた時は塩を舐めるんだ。水を飲むだけじゃ駄目だ」

 不思議な感覚だった。岬で海を見ていたら身体に異常をきたし、崖から落ちそうになって落命を覚悟した。

 身体がほとんど宙に投げ出された感覚を覚え、いよいよと悟ったら涼風が吹いて気を失った。
 気づけば、木陰に自分の身体があり、見知らぬ大男が看病してくれている。

 神秘的な出来事のようにも思えた。

「あなたは……」

「俺はかざおきと言う者だ。故あって天草に来たんだがあまりに暑くて海で泳ごうとしたところでお前を見つけたんだ」

 かざおきは、驚異的な速さで天草に到着していた。

 忍者は一日に四十里(約160km)を駆けると言うが、かざおきは五十里近くを駆ける。およそ尋常ではない速さと体力と言えよう。

 肥後についた後、かざおきなりに動き、様々な情報を得た。しかし、かざおき自身が納得する情報はなく、正攻法な諜報活動から、かざおき特有の動物的と言うか感覚的な諜報活動に切り替えた。

 そして、天草に何かを感じて訪れたところで四郎を発見したわけである。

「ここら辺の方じゃありませんよね?」

「ああ、俺は鴻巣から来た。下総だな」


「それは遠方からのおいでなのですね?私は益田四郎と申します。助けていただいてありがとうございました」

「なに、気にするな。そんな事より、この島には良い風が吹くな」

「えぇ……海から吹く風は本当に心地よい。しかし、今日は風が無かったのに」

 四郎は、不思議な感覚に少し戸惑っている。かざおきが四郎を助けてから絶えず風が吹き続け、陰鬱だった心が晴れた様な気分になる。

 まるで、立ち込めていた暗雲を風が吹き飛ばすような感覚である。

「さて、俺は行くとする」

「もう行かれるのですか?」


「ああ、一応やらなきゃいけない事があるんでな」

「また……会えますか?」

「さぁ?ただ、ここから吹く風は気に入った」

「私は、いつもここにいます」

「そうか」

 かざおきは爽やかな笑顔を浮かべ頷くと、背を向けて去っていった。

 かざおきが去った途端に風が止まる。

「不思議な方だ……心根が爽やかで吹き抜ける涼風の様な」

 かざおきは、四郎が今まで会ったどの人物とも違った類いの人間であった。

 四郎が今まで出会った人間は、だいたい心に壁があった。それは、この土地の現状から鑑みるに仕方ないのかもしれない。

 長い間の災難により積み上げられた怨嗟や義憤、悲壮感などが心に自然と壁を築いていた。

 しかし、かざおきの心は開けっ広げで、風が吹き抜ける様に爽やかである。

「風招き……まさにあの方にふさわしい名ですね」

 四郎は、かざおきに興味を持った。この天草の地に立ち込める暗雲を、かざおきと言う男が吹き飛ばしてくれるかもしれない。

 四郎の直感ではあるが、この短い間にかざおきと接して現に四郎の心は僅かに晴れた。この直感を確実なものにするためにもっとかざおきと話してみたい。

 興味と言うより期待みたいなものであった。

 かざおきは四郎と別れた後、島を一回りして島の様子を見て回った。

 悲惨な事この上なく、屍も十分に処理できずに腐臭までが漂っている。

「道中、いろいろ聞いてはいたがこれほど酷いのか」

 さすがのかざおきも表情が歪む。

「ちょっと良いか?本当に酷い有り様だが、本当に藩は何もしちゃくれてないのかい?」

「アイツらはわしらの命なぞ露ほども思っちゃいねぇのさ。悪党となんら変わらねぇよ」

 生気を失っているのに妙に光る目、強く怨みが籠った言葉にかざおきは違和感を持った。憔悴しているくせに妙な気概がある。

 ここまでの惨状、憔悴しきって精神的な疲弊もただ事ではないと思っていたが、島民達は意外にも士気が高い。

 まるで、何か強力な希望があるかのよう。

「キナ臭いな……」

 些細な事かも知れないし、別段悪い事ではないのかもしれない。だが、かざおきは妙に気にかかるキナ臭さと違和感をどうしても無視出来なかった。

「探ってみるか。もしかしたら爺様の欲しい情報が手に入るかもしれん」

 かざおきが察知した通り島民達は、宗意軒の提案した一揆を大きな希望として見ており、それが危うくもある。

 計画そのものが瓦解する可能性がないわけではない。失敗する可能性もある。

 どちらにせよ、天草の人間達には白刃の上を渡る様な危うい賭けでしかない。なのに、人々は危うい希望を狂信的に崇拝して士気を高く保っている。

 それにすがり付いている。その裏には、宗意軒の後ろにいる青白い肌の男の陰謀が見え隠れしている様子であった。

 さて、草木も眠る丑三つ時である。忍者が暗躍するにはちょうど良い時間帯であった。

「森宗意軒……この男について探る必要があるな」

 かざおきは、日中の聞き込みで宗意軒の事までは掴んでいた。

今日はここまで。昨日は更新できず申し訳ない。

転職してからちょっとずつ忙しくなって来たのでたまに更新出来ない事があります。すんません。

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