紬「失恋は青春のはじまり」 (80)
子供の頃からパーティーやコンクールなどで大人の前に立つことが多かった。
大人達は私に、ただニコニコと笑っていることを求めた。
幸か不幸か、私は彼らの要求に応えることができてしまった。
不機嫌なときもでも、泣きたいときでも、パーティーはあった。
そういうときでもニコニコ笑わなければならない。
私はいつしか、余計な感情を心の底に閉じ込める術を覚えた。
いつでもニコニコと笑っていられるように。
それが理由かは定かではないが、私はしばしば自分の本当の気持ちに気付けないことがある。
今回もそうだった。
夏休みに入る少し前のこと、私は失恋した。
気づいた時には、既に失恋していたのだ。
期待
◇
六月も終わりに近づいたある日のこと。
唯ちゃんから呼び出された。
内容は恋愛相談。
相手は、りっちゃん。
私は澪ちゃんに探りを入れて、りっちゃんも澪ちゃんに恋愛相談していることを突き止めた。
後は唯ちゃんに「両想いらしいよ」と伝えて、私の仕事はおわり。
唯ちゃんはりっちゃんに告白し、無事結ばれた。
二人が付き合っても、特に変わったことはなかった。
二人とも軽音部では相変わらずだったし、澪ちゃんのほうも特別何も変わらなかった。
私は昔、唯ちゃんには澪ちゃんがお似合いだと思っていた。
でも、付き合っているのを実際に目にすると、りっちゃんともお似合いだなと思った。
二人は一緒にいると、本当に楽しそうなやり取りをしていて、こっちまで笑顔になってしまう。
◇
夏休みに入る前日、部活が終わった後のこと。
部室にノートを忘れていたことに気づいた。
明日から夏休みなので取りに戻ることにした。
階段を昇ると部室から物音が聞こえたので、私はこっそり覗きこんだ。
中にはりっちゃんと唯ちゃんがいた。
二人はしばらく何か話した後、キスをした。
女の子同士のキスを見るのははじめてだった。
ずっと見てみたいと思っていたから、とても興奮した。
唇をくっつけるだけの軽いキス。
でも、ふたりとも幸せそうだった。
十分堪能した後、私は踵を返した。
ノートのことは既に忘れていた。
5人居るからややこしくなるんだ
誰でもいいから呼んで来い
階段を降りている途中、頬が濡れていることに気づいた。
最初、意味がわからなかった。
手で涙を拭っているうちに、わかってしまった。
私は自分でも気づかないうちに唯ちゃんに恋をして、失恋していたのだ。
いつ始まった恋なのか。そんなの全然わからなかった。
ただ、流れ落ちる涙が、失恋したという確かな事実を示していた。
家に帰っても、涙が枯れることはなかった。
「私は唯ちゃんのことが好き」
言葉にするとしっくりきた。
それからまた涙が流れた。
理解してしまうと、もう悲しい気持ちでいっぱいだった。
唯ちゃんの一番大事な人に自分は絶対になれないと思うと、涙が留めなく流れた。
私の目の前には薄いモヤがかかり、それは決して晴れることがないように思えた。
◇
夏休み、フィンランドに帰省する父と母と菫達を見送った後、私は自分の部屋に閉じこもるようになった。
家の者には宿題をやっていると嘘をついた。
私の嘘を咎める者はいない。
部屋の中でじっとしていると、仄暗い闇の中にいるようだった。
少しずつ自分が駄目になっていく自覚はあった。
その自覚が心地よかった。
怠惰に溺れていく自分に浸っているのが心地よかったのだ。
平沢憂を名乗る少女からメールが送られたきたのはそんなときのことだ。
『どこか遠くへ行きませんか』
あずにゃんも泣いてるよ……(;ω;)
憂紬キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
超絶支援
◇
唯ちゃんに妹がいるのは知っていた。
しっかりした妹だというのもりっちゃんや澪ちゃんから聞いていた。
以前唯ちゃんが赤点をとってしまったことがある。
その時、みんなで唯ちゃんの家に行き、勉強会をしたそうだ。
その時りっちゃんと澪ちゃんは憂ちゃんに会ったらしい。
ちなみに、私は家の用事があったので行けなかった。
姉や妹がうっかりものだと、もう一方はしっかり者になる。
その感覚は判るつもりだ。
私にも菫がいる。
だから私が憂ちゃんに出会った時、一番に驚いたいのは、そのしっかりした性格ではなかった。
平沢憂から唐突なメールをもらった後、四、五のメールをやり取りして、一度会うことになった。
場所は最近できた大衆向けの喫茶店。
アイスコーヒーを飲みながら待っていると、やけに周りの声が大きく聞こえた。
それぞれどんなことをしゃべっているのかは聞き取れない。
けど、みんな必死にしゃべっている。
よく見てみると、私と同じぐらいの年齢の人もいた。
急に怖くなった。
唯ちゃんの妹はどうして私にメールを贈ったきたんだろう。
私は何を言われるんだろう。
思案に耽っていた私は、彼女の接近に気づくことができなかった。
気配を気づいた時には、既に目の前に彼女が立っていた。
「ことぶきつむぎさんですよね?」
私は絶句した。
彼女の顔は唯ちゃんそのものだったから。
彼女は驚いている私を見て、続けた。
「平沢憂です。いつもお姉ちゃんがお世話になっています」
そう言って彼女はにっこり笑い、頭を下げてから、向かい側の席に座った。
私はもう心臓がバクバクいってどうしようもなかった。
憂と名乗る少女は唯ちゃんにしか見えなかった。
やわらかな髪、まゆげの形、目、鼻、そのどれをとっても唯ちゃんだった。
笑い方は少し違うけど、それも「唯ちゃんの新しい一面」にしか見えなくて。
私はどうしようもなく興奮していた。
心臓の音が五月蝿い。
まるで目の前の少女に恋してしまったみたいに、彼女から目を離せなかった。
頭ではわかってる。
私が好きなのは唯ちゃんで、目の前の少女は唯ちゃんに似てるだけだと。
でも心は、目の前の彼女を唯ちゃんそのものとして感じている。
彼女が不思議そうな顔でこっちを見ている。
そうだ、はやく何か話さないと。
私は自分の心をなんとか閉じ込めることにした。
……パーティーのときみたいに。
私はできるだけ自然にニコニコと笑いながら、彼女に話しかけた。
「はじめまして、ことぶきつむぎです。
あなたが憂ちゃん?」
初対面って事はみんな一年の時のお話か
ふむふむ(´・ω・`)
「はい」
「そう。よろしく。
それで、さっそく本題に入ってもいいかしら?」
「あ、はい。
私と遠くに行って欲しいんです」
「遠くって……例えば?」
「どこでも」
「どこでもって、北海道とか沖縄とか?」
「はい」
「それは旅行にいこうってお誘いなのかな?」
「そうです」
「どうして私と?
憂ちゃんと会うのは今日がはじめてよね」
「ことぶきさんのことはよく知っているつもりです。
お姉ちゃんがいつもことぶきさんの送ってくるメールを見せてくれましたから」
「そうなんだ。
けど、知ってるからって、一緒に旅行に行く理由にはならないと思うのだけど」
「その……。
仲良くなりたいと思ったからじゃ駄目ですか?」
私の言葉に、少し不安そうに顔を曇らせた彼女。
閉じ込めていた感情がドアを叩く。
こんなのズルい。
唯ちゃんと同じ顔で、こんな表情をされたら、私に断れるわけない。
顔が綻ぶのを必死にこらえながら、手帳を取り出した。
「いつ頃がいいかな?」
私の言葉を聞いて、憂ちゃんはにっこり笑った。
◇
家に帰って、ベッドの上に横になる。
私は自分のことがわからなくなってしまった。
私が好きだったのは、唯ちゃんの容姿だったのだろうか?
ううん。そんなわけない。
登校するとき、私の手をとって歩いてくれた唯ちゃん。
私のお茶とお菓子を本当に喜んで美味しいと言ってくれた唯ちゃん。
ムギちゃんはあったかいねと言って私に抱きついた唯ちゃん。
そんな唯ちゃんだから私は恋をしたのだ。
ケータイを取り出す。
待受には唯ちゃんと私のツー・ショット。
この写真を見ていると、心が沈むと同時に、胸の高鳴りを感じる。
きっと彼女はこの写真と同じなんだ。
唯ちゃんと同じ姿形をしているから、唯ちゃんと同じものだと錯覚してしまうだけ。
彼女――憂ちゃんは私の手をひいてはくれないし、私に抱きついたりもしない。
笑い方だって全然違う。
憂ちゃんがただの似せものだとわかると、私の心は軽くなった。
憂ちゃんが仲良くなりたいというなら友達になろう。
旅行だって普通に楽しんでやろう。
素直にではないけれど、かろうじでそう思えるぐらいには、私は前向きになれた。
◇
青春十八切符というものがあると彼女から教えてもらった。
五枚綴りで一万千五百円。
一枚で普通列車などに一日乗り放題。
私達はこの切符を使って旅行することにした。
目的地は私の家が管理している別荘。
別荘といってもロッジと呼んだほうがいいような小さなところ。
大きなところや立地のいいところは人気があって無理だった。
比較的小さなここだけは最後まで残っていた。
◇
私たちは駅前で待ち合わせ、列車に乗った。
乗り換えは二回の予定だ。
列車の中では、憂ちゃんの話を聴いた。
中学校生活のこと、いつも両親がいなくて家事をしていること。
彼女はとても話し上手で、会話が途切れることはなかった。
唯ちゃんからも聞いていたことだが、憂ちゃんは本当に出来過ぎた中学生のようだ。
炊事洗濯掃除ゴミ出し。
家のほとんど全部を切り盛りしているのに、それを自慢気に語ろうとはしない。
それらの作業は彼女にとってあたりまえのことで、大変だという意識がそもそもないようだった。
そして気になったことがもう一つ。
憂ちゃんは唯ちゃんのことをほとんど話さなかった。
もしかしたらと思っていたけど、彼女は私が唯ちゃんを好きだったと知っているようだ。
失恋した私を慰めてくれるために、今回の旅行を計画してくれたのかもしれない。
そう思うと、憂ちゃんが大きな存在に思えた。
姉へ恋して恋敗れた者へのアフターフォローをする妹。
ちょっと出来過ぎたこの妹は私に何をもたらしてくれるのだろうか?
一頻り話した後、一回目の乗り換え駅に着いた。
乗り換えはスムーズにすすみ、次の電車でも席に座ることができた。
席を確保した後、「少し時間があるので、飲み物を買ってきます」と言って憂ちゃんは出て行った。
帰ってきた彼女は緑茶のペットボトルとアイスを2つ持っていた。
1つ私に渡し、彼女はアイスを舐めはじめた。
楽しそうにアイスを舐める憂ちゃん。
無邪気な笑顔は唯ちゃんのそれよりもあどけなくて、私はどぎまぎしてしまう。
急に憂ちゃんと目が合い、私は慌ててアイスの袋を開けてごまかす。
アイスはひんやりしていて、甘かった。
◇
この旅はなんだか不思議な感じだ。
この前まで会ったこともなかった友だちの妹と旅行に行き、横に座って二人でアイスを食べている。
でも、決して悪い心地はしない。
憂ちゃんといると、暗い気持ちはどこかにいってしまう。
彼女に対応するのに精一杯で、暗いことを考える余裕がなくなってしまうのかもしれない。
私は少しだけ彼女に感謝した。
列車が出発してしばらくすると、憂ちゃん眠ってしまった。
眠っているときの彼女は、本当に唯ちゃんと同じに見える。
こちらに少しだけ寄りかかる形で眠る憂ちゃん。
肩から伝わる体温が心地よい。
ふと、思い出してしまった。
以前にもこんなことがあったなって。
部室のソファに唯ちゃんと2人で腰掛けてお話していて。
たくさんおしゃべりしていると、唯ちゃんがうつらうつらしてきて。
そのまま唯ちゃんは私に肩を預けて眠ってしまった。
……懐かしい、想い出。
憂ちゃんを見ていると、確かに唯ちゃんの妹なんだと思う。
外見だけじゃなくて、もっと内側の部分でも唯ちゃんとつながった存在なんだって。
憂ちゃんが眠ってから30分ほど。
ちょっとしたトラブルがあった。
車内放送が流れ、しばらくの間電車が停止する旨を伝えたのだ。
にわかに騒がしくなる車内。
その喧騒で彼女も起きてしまった。
「ことぶきさん……?
あ、私、寝てしまって……」
「おはよう、憂ちゃん」
「なんだか車内がざわついてるみたいですけど」
「事故でしばらく停車するんだって」
「そんな……。
どうしよう」
「……?」
「乗り換えが……」
青ざめる憂ちゃん。
確かに電車が遅れると、乗り継ぐ予定だった電車には乗れなくなる。
でも……。
私は携帯を取り出し、乗り換え検索サイトを開いた。
今回の旅行を計画するときに使ったサイトだ。
画面を憂ちゃんに見せながら、
「えっとね、三十四分以内の遅れなら、この駅で降りて、この列車に……
三十四分以上の遅れだったら、この駅で降りて、この線を使えばいいんじゃないかしら……
これにも乗れないぐらい遅れちゃったら、その時また考えましょう」
憂ちゃんは目をこすって、液晶画面とにらめっこした。
それから、
「ことぶきさんって頼りになりますね」
と言ってくれました。
四十分ほど遅れて、予定とは違う、少し大きな駅で降りました。
少し大きいと言っても、売店が二つあるだけの寂れたところでしたが。
この駅で私たちは少し遅めの昼食をとることにしました。
私はおにぎりを2つ、憂ちゃんはパンを一つ買って、ベンチに座ります。
憂ちゃんは中にクリームの入った細長いパンをちぎりながら食べ始めました。
美味しそうに食べる憂ちゃん。
私がじっと見ていることに気づくと、彼女は私に一口ちぎって差し出してくれました。
私は手で受け取り、ぱくりと食べました。
ただの菓子パンだけど美味しかった。
私も自分のおにぎりに海苔を巻き、半分憂ちゃんにあげました。
彼女は両手でおにぎりをにぎって、口に運び「おいしい」と言ってくれました。
食べ終わったあと、彼女の口の周りに海苔がついていることに気づいたので、ハンカチで拭ってあげました。
何をされたかわからず、きょとんとする憂ちゃん。
「海苔がついていたよ」と教えてあげると、顔を赤らめました。
それから、私の顔を見て憂ちゃんは笑いました。
なぜ笑ったのか私がわからないでいると、彼女はハンカチを取り出し、私の口元を。
「ことぶきさんもです」と屈託なく笑う憂ちゃん。
顔が熱くなっていくのを感じて、私は拗ねたふりをしてそっぽを向きました。
このとき、私ははじめて憂ちゃん自身に触れた気がした。
唯ちゃんの影としての憂ちゃんではなく、憂ちゃんを憂ちゃんとしてはじめて感じた気がしたのだ。
お昼ごはんを食べてから、列車に乗り、目的地の駅で降りて、しばらく歩いた。
別荘に着いたのは夜八時。
夜ご飯は途中のスーパーで買ったソーメンを食べた。
長時間電車で揺られて二人共疲れてしまい、手のこんだものを作る余裕はなかった。
冷蔵庫の中には飲み物と氷が入っていたので、二人でキンキン冷えたソーメンを食べた。
少し早い時間だったけど、その日はそのまま眠った。
今回の旅は二泊三日。何も急ぐことはない。
……急ぐもなにも、なんの目的もない旅行だけど。
◇
次の日、私たちは朝早く目覚めた。
歯を磨きシャワーを浴びた後、観光ガイドに載っていたおいしいパン屋さんへ行った。
パン屋さんにはイートインがあり、私たちは一番人気の米粉パンと、コーヒーを買って席に座った。
ほんのり甘い、いいにおいのするあたたかなパンが食欲を唆る。
私と憂ちゃんは同時にパンにかぶりついた。
「あ、これ」
「うん」
「とってもおいしいです」
「ほんとうにおいしいわ!」
「どうやって作ってるんだろう」
「憂ちゃんはパンも焼くの?」
「はい。お姉ちゃんが好きだから
……ぁ」
言ってから、しまったという顔をする憂ちゃん。
私もなんだか居た堪れない気持ちになる。
唯ちゃんのことを思い出したことより、こんな風に気を使わせてしまっているのが、嫌だった。
でも、顔に出してはいけない。
私はまた心を閉じ込めて、軽く微笑んでから、会話をつなげることにした。
「そうね。唯ちゃんの好きそうな味よね。
自然な甘さで……。
今度美味しいレシピを探してあげるわ」
「いいんですか?」
「ええ。
……ためだもの」
会話が途切れ、私はコーヒーに口をつける。
憂ちゃんも私に続く。
けど、憂ちゃんはすっぱそうな顔をした。
「コーヒーは苦手?」
「はい……。
あまり家では飲まないんです」
「そう……ちょっと待ってて」
私は店員さんに頼んでミルクと砂糖をもらってきた。
「はい、憂ちゃん」
「……ありがとうございます
ことぶきさんって気配り上手ですね」
「うふふ。
軽音部ではお茶係をやってるのよ」
「知ってます」
「憂ちゃんはうちの高校に来るのかしら?」
「たぶんですけど……」
「なら、高校生になったら軽音部に遊びに来て。
とっておきの紅茶をごちそうするから」
私は気を張って、出来るかぎり大人っぽく振舞った。
そうしないといけない気がしたから。
朝ごはんを食べた後、ハイキングコースを歩いた。
憂ちゃんが野鳥図鑑と双眼鏡を持ってきてくれていたので、野鳥を探しながら森をめぐった。
まだ早い時間だったこともあり、朝の森は爽やかに澄んでいて、木々の囀りが耳に心地よかった。
鳥の声を聴いては、双眼鏡を覗きこみ、図鑑で確認した。
「これかな?」「うーん、こっちじゃないかな……」と二人でやり取りするのはなかなか楽しい。
憂ちゃんには音楽の素養もあるみたいだ。
鳥の鳴き声を聴いては「あれはファかな」とか「ソシャープですね」なんて言ってた。
憂ちゃんは絶対音感の持ち主らしく、全部当たっていた。
もし彼女が軽音部に入ってくれれば、一緒に作曲できるかもしれない。
太陽がのぼり、汗が滲んできた頃、私たちは近くのレストランに避難して、昼食をとった。
それから、また森へ向かった。
このあたりはレジャー施設も少なく、山と森ぐらいしか見るところがない。
ショッピング施設ならあったけど、それより森を歩きたかった。
二人で森を歩いていて、改めて気付いたことがある。
憂ちゃんは本当に気の利く子だ。
二人の歩幅は違うのだが、歩調を合わせることでぴったり私の横についてくる。
私が少し疲れてくると、歩調を落とすし、もっと疲れてくると「少し休みませんか」と言ってくれる。
森とはいえ、夏の熱気はかなりのもので、シャツは汗でしめっていた。
それでも、私たちは歩き続けた。
特に目的はなかったけど、歩いているだけでなんとなく楽しかった。
横目に憂ちゃんを見ると、彼女の表情も明るかった。
憂ちゃんも私と同じように感じてくれているなら嬉しいな、と思った。
どれくらい歩いただろうか。
前方から水の音が聞こえてきた。
歩みを進めるとどんどん音は大きくなった。
やがて開けたところに出た。
目の前には滝があって、滝壺の周りに水辺が広がっている。
「いいところにつきましたね」
「ええ、涼しくて気持ちいいわ」
「ちょっと休みませんか」
「そうね」
私はペットボトルのお茶を取り出して飲もうと思ったけど、既に空だった。
憂ちゃんもお茶を飲んでいたけど、私に気づいて、
「どうぞ」
「いいの?」
「はい」
私は憂ちゃんからペットボトルをうけとり、口をつけた。
間接キスだったけど、心地良い疲労感のおかげで、面倒なことは考えずに済んだ。
ペットボトルを返した後、私は水辺に近づいた。
魚でもいないか、水の中を見てみたかったのだ。
水辺のすぐ傍にある大きな石に乗った時、事故は起きた。
いきなり石がぐらついて、私はバランスを崩して――落ち
覚悟した瞬間、逆側から服を思い切りひっぱられた。
憂ちゃんだ。
彼女が引っぱってくれたおかげで、私は水に落ちずに済んだ。
そのかわり、私は憂ちゃんを押しつぶす形で倒れてしまった。
「ありがとう憂ちゃん。
ごめんね、すぐにどくから」
「あ、はい」
私は立ち上がり憂ちゃんに手を差し出した。
手をとる憂ちゃん。
でも、立った瞬間、顔が苦痛で歪んだ。
「……ん」
「足をいためてしまったのね。
私のせいで……ごめんなさい」
「いいんです」
「人を呼びましょうか?」
「少し休めば大丈夫だと思いますから」
不可抗力とはいえ、自分のせいで憂ちゃんを傷つけてしまった。
私は憂ちゃんに背を向けてしゃがみこんだ。
「乗って」
「えっ……?」
「おぶっていくから」
「そんな、悪いです。
私、軽くないですし」
「私が毎日持ち歩いてるキーボードの重さ、知ってる?」
最初は渋っていた憂ちゃんだけど、最終的には諦めて乗ってくれた。
憂ちゃんは思ったとおり、それほど重くはなかった。
森とはいえ、整備された道なら、彼女を背負っていてもなんなく歩いて行くことができた。
歩き始めてしばらくしてから、憂ちゃんが口を開いた。
「……ことぶきさん」
「なぁに?」
「本当に重くないですか?」
「ええ」
「そっかぁ」
「……」
「……」
「ね、ことぶきさん」
「なぁに?」
「つむぎさんって呼んでもいいですか」
「ええ」
「……」
「……」
無言が続いたけど、居心地の悪さはなかった。
憂ちゃんのやわらかない体温を背中で感じる。
熱くなった背中から汗が流れるのがわかった。
憂ちゃんは私の背中にぴったり顔をくっつけている。
汗くさくないか、それだけが気がかりだった。
でも、憂ちゃんは何も言わないでくれた。
憂ちゃんを背負ったまま、結構な時間歩いたと思う。
私たちは無事別荘に戻ってきた。
ソファに憂ちゃんを座らせ、本当に治療が必要ないのか聴いてみたけど、「いいです」と言われてしまった。
腫れも酷くないようだったので、私もそれ以上は言わないことにした。
それからシャワーを浴びた。
汗をかいた後のシャワーは心地よい。
汚いものが全部落ちていくみたいで。
私があがった後、憂ちゃんもシャワーを浴びた。
どうやら足も大丈夫そうだ。
シャワーから上がったあと、私は買い物へ言った。
買ってきたのは憂ちゃんから頼まれたもの。
夕ごはんは憂ちゃんがオムライスを作ってくれた。
ふわふわのたまごとケチャップがほどよく絡んでとても美味しかった。
テレビを見ながら少しお話していると、いい時間になったので、私たちは眠ることにした。
◇
電気を消して、ベッドに入ったけど、なかなか眠れなかった。
私はベッドから出て、一番小さな電気をつけた。
冷蔵庫から氷を取り出して、コップに入れ、ジュースを注いだ。
ソファに座り、暗い部屋で飲むジュースはいつもより美味しい気がした。
リラックスしながら、今日のことを思い出してみる。
早起きして、美味しいパンを憂ちゃんと一緒に食べて、それからたくさん歩いた。
私が水に落ちそうなところを憂ちゃんが助けてくれて、その時、憂ちゃんが怪我をしてしまった。
私は怪我をした憂ちゃんを背負ってここまで戻ってきた。
それから憂ちゃんは美味しい夜ご飯を作ってくれた。
思う。
今日は唯ちゃんのことをほとんど考えなかったなって。
朝ごはんの時少し思い出しただけで、今の今まで忘れていた。
もちろん唯ちゃんのことを鮮明に思い出すことはできる。
その顔は、憂ちゃんの顔と同じだ。
そのせいなのか、他に理由があるのか、ケータイを取り出して待ち受け画面を見つめても、暗い気持ちにはならなかった。
突然、後ろから声をかけられた。
「……つむぎさん?」
「憂ちゃん……。
もしかして、起こしちゃったかな?」
「なんだけ目がさめちゃって……。
それ、お酒ですか?」
「ぶどうシュース。
憂ちゃんも飲む?」
「いただきます」
憂ちゃんが私の横に座る。
コップを渡すと憂ちゃんは両手で持って飲み始めた。
私がもう一つグラスを用意するために立ち上がろうとすると、憂ちゃんに裾を引っ張られた。
「……もう少し、ここにいてください」
「……うん」
「……」
「……」
「つむぎさん、今回の旅行どうでしたか?
その……遠慮無くどうだったか教えて欲しいです」
「楽しかったよ」
「本当ですか?」
「ええ」
「良かったぁ……」
「憂ちゃんは、私が唯ちゃんのことを好きだったって知ってたんだよね?」
「……。
なんとなく、ですが」
「ごめんね。気を遣わせちゃって。
私を慰めてくれるために誘ってくれたんだよね?」
「それは違います?」
「そうなの?」
「確かに知っていましたけど、違うんです。
私はありがとうって言いたくて、
その気持を伝えたくて誘ったんです」
「ありがとう?」
「はい。
つむぎさんはお姉ちゃんにいつもメールを送ってくれましたよね。
『明日は小テストだけど大丈夫?』とか、
『体操服忘れないように気をつけて』とか、
『午後から雨がふるから、傘を忘れずに』とか」
「うん。送った」
「そのメールをいつもお姉ちゃんは嬉しそうに私に見せてくれたんです。
『ムギちゃんがこんなメールをくれたんだよ』って。
だから、そんなつむぎさんに、ありがとうって言いたくて……。
だから誘ったんです」
「そうだったんだ」
「はい」
「……」
「……」
ただ、ただ、憂ちゃんの気持ちが嬉しかった。
唯ちゃんとの絆はちゃんとあったんだよ、無駄じゃなかったんだよって教えてもらえた気がして。
涙は流れなかったけど、泣きそうになった。
その表情を憂ちゃんに見せるのは嫌だったから、立ち上がろうとした。
すると、また憂ちゃんに裾をひっぱられた。
「憂ちゃん?」
「……」
憂ちゃんは何も言わずにこっちを見ている。
私たちは見つめ合った。
憂ちゃんは髪をほどいていて、本当に唯ちゃんそのものだ。
でも、もう唯ちゃんの似せものとは思えない。
この子は憂ちゃんだ。
気が利いて、優しくて、私に「ありがとう」と言ってくれた憂ちゃんなのだ。
憂ちゃんの瞳はまだ私の瞳を射抜いている。
その唇は水分を含み、やわらかに見える。
思わず、キスを思い浮かべてしまった。
あ、
気づいてしまった。
私は、この子のことが、
好きなんだ。
憂ちゃんと出会って過ごしたのはほんの僅かな時間。
だけど、そんな時間の中で、私は……。
でも、そんなの……。
昨日までは確かに唯ちゃんのことが好きだったのに、そんなの――。
私が逃げるように立ち上がろうとすると、また袖をひかれた。
そして……憂ちゃんにキスされた。
「……どうして?」
「好きだったんです」
「ほとんど会ったことなかったのに?」
「お姉ちゃんに優しくしてくれました。
だから好きになったんです。
変でしょうか?」
「わからない。
けど私、憂ちゃんには何もしてあげてないよ」
「お姉ちゃんに優しくしてくれてるつむぎさんを好きになったんです。
それに……私にもとっても優しかったです。今日だって。
つむぎさんは私のこと……」
「私は……」
思うことはたくさんある。
唯ちゃんのこともある。
でも偽らざる気持ちが一つだけある。
私は憂ちゃんのことが好きだ。
そして、この気持を閉じ込めるのは無理そうだ。
憂ちゃんはじっとこっちを見ている。
その瞳には希望と不安が入り交じっているように思えた。
私は憂ちゃんの唇を見つめて、
そっとキスをした。
憂ちゃんの唇を感じながら思う。
今度は手遅れにはならずに済みそうだなって。
初めてのキスはやわらかくて。
ほんのり甘い、ぶどうジュースの味がした。
◇
翌日。
朝ごはんを食べた後、電車に乗って帰ることにした。
今回はトラブルもなく、無事目的地の駅までつけそうだ。
青春十八切符を見ると、判子が四つ押されている。
一日、一人だけなら使うことができる。
これを使って一人でどこかに行ってみるのも面白そうだ。
ううん。新たに切符を買えば、二人でも。
……あとから憂ちゃんに話してみよう。
そんなことを考えていると、電車は私たちの町に着いた。
この電車を降りれば、今回の旅もおしまいだ。
荷物を持って降りようとすると、憂ちゃんに右手をひっぱられた。
ひっぱられるまま出口に向かうと扉が閉じていた。
この電車は押しボタン式のようだ。
憂ちゃんがボタンを押す。
閉まっていたドアが開いた。
二人一緒に電車を降りる。
久しぶりの町は、いつもより眩しく見えた。
おしまいっ!
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