姫川友紀「チョコに託した想いの形」 (57)



 プロデューサーたる者、もう少しアイドルを労わったほうがいいと思う。


 事務所にやってきた担当するアイドルの顔色が優れない。声も元気がない。

 いつもは元気いっぱいなあの子、一体どうしたのか。

 そんな子に、開口一番こう言った。


「どうした、二日酔いか?」


 そんな問い、プロデューサーとして失格ではないか。

 評価できることは、プロデューサーが担当アイドルのことをよく理解していることだ。

 あたしは事務所のソファーに仰向けになりながら、頭にかかる靄に流されるように眼をつむっていた。


 別に飲みすぎる気はなかった。

 家だし、一人だし。

 ただ帰りがけにスーパーでビールの新商品を見かけたのだ。

 お試し価格ということで、だいぶ安くなっていた。
 
 だから夕食代わりの総菜と一緒に籠へ放り込んだ。一本じゃなくて六本セットを。

 別に一日で消費する気はなく、何日かに別けて飲む気だった。

 これでもアイドル。レッスンの前日に飲み過ぎるなど言語道断だ。
 
 そのあたりは弁えている。

 ところが、朝に目が覚めるとその六本が空になっているだけでなく、お兄ちゃんからもらった日本酒の一升瓶も半分くらい無くなっていた。

 残ったのは気だるい体と重い頭。



 弁えているつもりだが、ついやってしまうこともある。





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 しかも、そういう時に限って妙に早く起きてしまった。

 このまま寝直したら、中途半端に寝て遅刻なんてことになりかねない。

 重い体を引きずって、あたしは事務所にむかったのだった。

 そして出迎えた言葉が「二日酔いか?」だ。

 たとえ事実でも、労りが欲しかった。

 この寒い中、あたしは頑張って事務所に来たのだから。

 そういう時に限って、不幸は重なるもので。


「というか、なんで友紀事務所に来たんだ?」

「はあ?! レッスンに決まってるでしょ?」

「レッスン休みになったぞ。連絡したろ?」


 あたしは目を丸くした。スマホを見たが着信はもちろん。メールもメッセージも新着アイコンはついていなかった。


「っていうか……返信もあったんだけど……」


 なにを馬鹿なことを言っているのか。文句を言いながらも、なんだか嫌な予感。

 スマホを操作して、確認する。

 確かにあった。

 しかもプロデューサーの言うように返信していた。


 シンプルに一言。



『わきった!』



 誤字ってた。だが誤字でも返信は返信だ。


 送った時間を見ると真夜中。完全に酔っぱらってる時間だった。

 重い頭が、さらに重くなった。






 つまりあたしは、返信した事実をすっかり忘れていたのだ。

 酔ってるときは楽しいけど恐ろしい。なにをしでかすか分からない。

 そう考えれば、問題が誤字だけだったのはむしろ幸いだった。


 そのまま帰るのもしんどいので、事務所で少し休んでいくことにしたのだった。

 あたしは顔を横に向ける。テーブルの上には、一本の飲み物が置いてあった。

 プロデューサーは仕事で事務所を出たが、その直前に買ってきてくれたものだ。

 気が利かない出迎えだったけど、こういうことをするなら、チャラにしていいかな。

 微笑みながらその飲み物に目をむけていたが、ぼやけた背後で扉が開いた。

 入ってきたのは、元気な二人の声。


「だからね幸子ちゃん。もっと勢いが重要なんだよ!」

「美羽さん。すいませんがその結論に至った経緯が曇りガラス並みに不透明なんですが」

「おいしいお菓子で京都組には敵わないと思うんだ。だからこう、ドーンなのをさ」

「周子さん家もチョコはカバーしてないと思いますよ」


 片方の子は、黒髪を後ろでお団子に縛っている元気な女の子。

 もう一人は小さく跳ねた髪にちょっと垂れ目がちな瞳がとってもカワイイ女の子。



 美羽ちゃんと幸子ちゃんだ。





 最初にあたしの存在に気付いたのは美羽ちゃんだった。


「あ、ユッキーさんお疲れ様です!」

「お疲れ、美羽ちゃん。それに幸子ちゃんも」

「おまけみたいに付け足さないでくださいよ」


 不満げに言った幸子ちゃんは、それから首をひねった。


「というか友紀さん、なんで横になってるんですか?」

「いやあ、これには深いわけがあるんだよ……」

「それはいったい?」

「まさか深酒で二日酔いですか。深いわけ……深いさけー……深ざけ……的な!」

「美羽さん、二重の意味で馬鹿言わないでください。いくら友紀さんだからって……」


 言いかけて、あたしの苦笑を幸子ちゃんの瞳がとらえた。


「……まさか本当に二日酔いですか?」

「いやあ……あはは」

「まったく、なってませんよ。二日酔いで事務所に来るなんて!」


 腕を組みながらちょっと怒った様子の幸子ちゃん。

 だけど、その口調は本気で怒っているようには思えず、怖さより愛嬌があった。





「そんな状態でレッスンや仕事ができるとお思いですか!」

「今日は両方とも休みだからへーきへーき」

「あれ、じゃあなんでユッキーさん事務所に?」

「いやあ……」


 不思議そうな美羽ちゃんの横で、幸子ちゃんがなにか気付いたように声を上げた。


「まさか二日酔い故にカワイイボクが恋しくなって会いに来たんですね! まったく、仕方がありませんねー。特別に撫でてもいいですよ?」

「はいはい、かわいいかわいい」

「おなざりに言わないでくださいよ」

「幸子ちゃんかわいー」

「ってなんで美羽さんが撫でるんですか!」


 不意打ちカワイイに驚いていたが、その腕を振り払わないのは幸子ちゃんらしい。

 頭を撫で続けながら、美羽ちゃんが改めて聞いてきた。


「で、実際はなんで事務所にいるんですか?」

「いやあ、行き違いというか。レッスンが中止になったのを忘れてたというか」

「レッスンする気で来たんならやっぱり駄目じゃないですか。あと美羽さん、撫でかた雑になってますよ」





 
 体を起こすと、二人もあたしの向かいに腰かけた。


「それで、入ってくるときになに話してたの? 京都組がどうこうとか言ってたけど」


 あたしの問いに、美羽ちゃんが前のめり気味に答えた。


「それはですねユッキーさん。チョコなんです!」

「チョコ?」

「バレンタインですよ、バレンタイン!」


 それはあたしも分かってた。

 バレンタインは明日だ。

 このタイミングでチョコと言われればそれしか思いつかない。

 ただ、それが冒頭の会話とまるで結びつかなかった。

 美羽ちゃんを引き継ぐ形で、幸子ちゃんが口を開いた。


「さっきレッスンで紗枝さんと周子さんの二人と一緒だったんです」

「もちろん私も」

「この流れで居なかったら驚きですよ。で、その時にバレンタインの話題になったんです。
 プロデューサーにチョコをあげるのかって。まあ、普段からお世話になってますから。
 カワイイボクから貰えばどれほどプロデューサーが喜ぶか考えるまでもありませんし」

「でも普通にあげるのも捻りないよねーって周子さんが言ったんです」

「ボクとしてはチョコをあげるのに捻りが必要なのかは疑問ですがね……」






「で、そこで丁度、二つの組に別れてることに私が気付いたんです」


 美羽ちゃんが言葉を途切る。どうもこちらに答えてほしいようだ。少し考えてから、あたしは言った。


「京都と非京都?」

「それだけじゃないんですよ……」


 美羽ちゃんは満足げに微笑んで、力強く言った。


「あたしたち、同い年なんです! 京都組と我々フォーティーンズの戦いなんです!」

「その言い方だと他の同世代巻き込んでいるようですけど、普通に二対二ですからね」


 疲れたように幸子ちゃんが息をつく。


「それに周子さんと紗枝さんが悪乗りして、どっちのチョコがいいかプロデューサーに味比べしてもらおうということになったんです。
 ボクとしては、普通にあげてもいいと思うのですが……」


 幸子ちゃんは真面目だから、感謝の印を示すはずが遊びみたいになったのが納得いかないようだ。


「ですが」と気を取り直したように幸子ちゃんは言った。

「勝負となるならば、カワイイボクだって手は抜きません。さっそくその作戦会議をしているのです!」

「なんだかんだ幸子ちゃんも乗り気なんです!」

「みんなと遊べるもんねー」


 からかうようにあたしが言うと、幸子ちゃんは動揺したように目を丸くした。


「な、なにを言ってるんですか! 別に皆さんと遊べるから本気になってるわけじゃありませんよ!?」


 口では否定していたけど、あながち的外れでもなさそうだ。





 幸子ちゃんの様子を見ながら美羽ちゃんは優しく微笑んでいたが、不意にあたしに訪ねてきた。


「そういえば、ユッキーさんはプロデューサーにチョコあげるんですか?」

「え、あたし?」

「あれ。もしかしてあげる気がないとかですか」

「いやあ……別になあ……」


 誤魔化すように笑ったあたしに、美羽ちゃんが提案した。




「それなら、私たちと一緒に作りません?」







 正直、断ろうと思った。




 だって、チョコをプロデューサーの為に作らなくていいと思ったから。

 でも意外にも、その案に幸子ちゃんも賛成してきた。


「せっかくの機会なんです。感謝の気持ちを目に見える形で示すのは大事ですよ!」


 幸子ちゃんの言っていることは最もだ。他意がなくても、日々の感謝を表す。

 それだけの為にチョコをあげるのは悪いことじゃない。

 結局、二人に押し切られる形であたしもプロデューサーのチョコを作ることに。



「それはいいんだけどさ。なんであたしん家なの?」


 今、あたしの家ではチョコの準備が粛々と進んでいた。

 あたしの家はアパートの一室。

 少し前までお兄ちゃんと二人暮らしをしていたから、狭いくはない。

 でもキッチンに三人で並ぶと、流石にぎゅうぎゅうだった。

 中心に立つ幸子ちゃんが言った。


「それぞれの家庭の事情もあるのです」

「あたしの家の事情は無視かな?」

「友紀さんは一人暮らしなんだからいいじゃないですか! カワイイボクを招き入れられる名誉を感じて結構ですよ!」





「迷惑でしたか?」


 ここにきて美羽ちゃんの良心が傷んだのか。

 幸子ちゃんの頭越しにあたしを見てくる視線に、なんだか申し訳なくなる。


「迷惑ってわけじゃないけどさ……」


 まあ、家に上げたのはあたしだ。ここでうじうじ言うのはあたしらしくない。


「いいよ。分かった。こうなったらあたしたちで、プロデューサーをぎゃふんと言わせるチョコ、作っちゃうぞ、おー!!」

「おー!」


 拳を上げたあたしに、元気よく同調してくれた美羽ちゃん。

 私達の間で。


「声大きいですから。ご近所迷惑ですよ……」


 と、幸子ちゃんは言った。





 作ることにしたのは、生チョコだった。

 正直、あたしたちでも作れるか不安だったけど。


「大丈夫ですよ。結構簡単に作れるようですから」


 と、幸子ちゃん。レシピはチェック済みらしい。決めたのは幸子ちゃん。美羽ちゃんは不満があるようだ。


「もっとこう……奇抜なのがいいんじゃない? 京都組はきっと、餡子とかで作ってくるかもだよ!」

「それは単なる羊羹です。いいですか、こういうのはシンプルなのがかえって有効なんですよ。
 それに、カワイイボクが作るのですから、どんなものでもかわいくなるに決まってるじゃないですか!」

「あっ、イタチ型のチョコとかどうかな。板チョコから作ったイタチチョコ! かわいいし面白い!」

「却下です」


 和気あいあいな二人を眺めながら、あたしも加わって三人でチョコを作った。

 幸子ちゃんの言うとおりだった。思っていたよりも簡単に準備を終えた。

 生クリームをお鍋で温め、刻んだチョコの入っていたボールに流し込む。

 それを泡だて器でかき混ぜ、バットに流したら終了。

 あとは一時間、冷凍庫で冷やせば完成だった。


 あっけないくらい。美羽ちゃんの言うこともなんだかわかった。


「もうちょっと工夫したらどうかな……ビールいれるとか!」

「それは後日一人でどうぞ。これに入れたら怒りますからね」




 待つ間、あたしたちは居間でのんびりすることに。

 テレビのチャンネルを回していると、あるニュースで春キャンプのことを扱っていた。


「あ、ユッキーさん野球ですよ野球」


 リモコンを持っていた美羽ちゃんが手を止めて言った。


「キャンプってことは、もう練習してるんですよね。野球が始まるのっていつからでしたっけ?」

「開幕は四月だけど……オープン戦はそろそろだよ。今からすっごい楽しみ!」

「へえ、このキャンプ地って宮崎なんですね」


 画面のテロップを見て幸子ちゃんが言った。

 あたしは頬が緩む。


「そうなんだよ。キャンプ地ってうちの近くにあってさー。キャッツの選手たちと交流とかしたんだ!」

「ああ、だからキャッツのファンなんですね、友紀さん」


 その時のことを思い出す。父に連れられて初めてキャンプ場に行ったことを。

 父は熱心な野球ファンじゃないけど、近くだったし、変わった経験を子供たちにさせたかったんだと思う。

 あたしは別に深く考えていなかった。

 お出かけするし、アイスでも買ってもらえたらいいなとか、そんなことを考えていたと思う。


 でも、キャンプ地についた時に聞こえてきた音。



 それはあたしの人生を決める音だった。




 車から降りた瞬間だった。

 まだ小さかったあたしは、おぼつかない足取りで車から降りるところだった。

 その音を聞いた瞬間、あたしは強張って、音の方に顔を向けた。

 なんの音か分からなかった。工事現場から聞こえる機械の音のようだったけど、それよりも優しく、鋭く聞こえた。

 どよめきの中で同じような音が二度、三度と聞こえてきた。

 そしてあたしの目はとらえた。宙に浮かぶ、とても小さな点を。


 打ちあがった、白く眩いボールを。


 あの時とキャッツのキャンプ地は変わっていない。

 テレビに映る風景は、遠い昔の景色と重なった。

 画面は切り替わり、次の話題へと移った。



 野球のチアガールの特集だ。





 もう一つの球場の主役として、あるチアガールに一年間密着取材を行っていた。


「大変そうですね」


 美羽ちゃんは頬杖をかきながら感心したように言った。


「私、チアガールのことよく知りませんでしたけど、色々と苦労があるんですね」

「他人事みたいですけど、ボクたちアイドルも似たようなものですよ」


 横目に美羽ちゃんを見ていた幸子ちゃんに、あたしも頷く。


「そうそう。華やかな舞台の裏では、数多くの苦労や涙が流れているものなんだよ。
 でもそれを乗り越えた価値は凄いだろうねえ。球場の視線を集める感覚。
 なにより立場は違えど、同じ球団の仲間として選手とグラウンドに立てるなんて。
 ファンにとっては何事にも代えられないだろうな~」


 思わず唸るあたしに、幸子ちゃんが言った。




「そんなに言うなら、なんで友紀さんはチアガールにならなかったんですか」





「えっ?」

「えー、私はユッキーさんがアイドルでよかったよ。幸子ちゃんは違うの?」

「ボクだって嫌とは言っていません! ですけど、友紀さんは野球が好きじゃないですか。
 それなら、アイドルよりもまずチアガールになることを考えるのが普通じゃないですか? 
 友紀さん運動神経は悪くないですし」

「まあ、そうだね」


 幸子ちゃんの言葉に美羽ちゃんも納得した様子だった。

 それから、二人があたしに目を向けた。その答えを求めて。



 あたしはあっさりと言った。


「いやあ、チアガールってさ。片づけに時間かかると試合後に飲み行けないでしょ?」

「お酒なんですか?」


 呆れるように幸子ちゃんが肩を落とした。


「野球観戦にはビールがつきものじゃん! それを抜きにはあたしはできないね!」


「ええー……」



「でも、ユッキーさんらしいといえばらしいですね」


 苦笑していた美羽ちゃんの隣で、幸子ちゃんは不服そうに口をとがらせていた。


「確かにらしいといえば、否定できないほどらしいですけど……うーん」

「それより、そろそろいい時間なんじゃない?」


 あたしは壁にかかったキャッツ印の時計を見上げた。幸子ちゃんもつられて見上げる。


「本当ですね。じゃあ、そろそろ取り出してみましょうか」

「やったー、あっじみタイム~」

「うまくできてるか不安ですね……うー、まー、くってみるしかないですけど!」

「ボクとしては美羽さんの行く先の方が不安ですよ」


 やいやいと話しながら、あたしたちは冷凍庫へ向かう。




 テレビでは、ドームで演技をするチアガールが映し出されていた。




 チョコはうまくできていた。

 当然だ。レシピ通りに作っただけだから。

 それでも手作りは格別だった。

 ついつい手が進んで、あやうくプロデューサーに渡す分まで手を付けるところだった。


 美羽ちゃんたちはあたしのアパートを後にした。

 これからラッピングを探すためにデパートに行くという。

 誘われたけどあたしは断った。ちょうどいい箱を持ってるからと言って。


 一人になると、とたんに部屋の中が静かになった。

 日は傾き、窓から差し込む色は淡いオレンジに変わっていた。

 テレビに映るバラエティの番組の笑い声が室内に響いていた。

 あたしはチョコを見下ろしていた。テーブルの上でお皿に並べられていたチョコを。

 きれいに切ったつもりだけど、よく見ればまっすぐに切れていない。かくかくと歪んで台形のようになっていた。

 一つつまんで口に運ぶ。甘い香りが口に広がる。おいしいけど、甘すぎる気もした。

 プロデューサーは、もうちょっと苦いほうが好きなんじゃないかな。


 あたしはキッチンへ向かった。冷蔵庫を開ける。


 並んでいた缶ビールの山をどかすと、奥から小さな袋が出てきた。

 なんとなく袋を取り出して、中を開ける。

 入っていたのは綺麗にラッピングされた箱。




 チョコだった。




 プロデューサーの為にチョコを作らなくていいと思っていた。

 だって、もうプロデューサーの為のチョコを買っていたのだから。

 二日酔いの原因が、このチョコだなんて誰がいえるか。

 素直にチョコは買ってあると二人に言えばよかったのだと思う。

 だけど、言えなかった。そして言えなかった理由は、見当がついていた。

 チョコをあげようと思ったのは、きっと二人とは意味が違う。

 感謝の印だけじゃないから。


 誤魔化しようがないほど、それをあたしは自覚していた。



 あたしはプロデューサーが好きだった。



 問題は、自覚しながらそれに対してあたしが全く対処できていないこと。

 見たことのない変化球に戸惑う打者のように、あたしは硬直し、バットを振ることすらできない。

 振らないとアウトにしかならないと分かっていながら、振ってアウトになることを恐れていた。

 箱を見下ろしながら、あたしは小さく息をついた。


(なんだか似てるな、今の状況)



 あたしは思い出した。少し前のあたしを。

 アイドルになる前の、あたしのことを。





 二月十四日。バレンタイン。



 恋人たちを祝福するような、雲一つない青空。

 なんてことはなく。

 薄い雲がどんよりとはった薄暗い日だった。

 いっそ雪でも振ればロマンチックだが、天気予報を見た限り、その可能性は限りなくゼロだった。

 中途半端な天気は、あたしの心を表しているみたい。

 駅から降り立ったあたしは、人ごみのなか空を見上げながらそう思った。

 肩から掛けたバックには、チョコを忍ばせていた。

 それを意識すると、バックの肩ひもを持つ手に力が入った。


 結局、買ってきたチョコを持ってきた。


 だが、本当に渡す気なのだろうか?

 他人事みたいにあたしは考えた。

 持ってきたのだから当然渡すのが筋だ。

 でも、同時にあたしはこっちを持ってきたことを少し後悔もしていた。


 手作りの方を持ってくればよかった。


 同じチョコだ。渡すならどっちも同じのはず。

 でも、こもっている感情が違うように思えた。




 チョコを手に入れた時の感情の問題だ。

 買ってきたチョコを渡すということは、とても大事な感情を伝えるということになる。

 それを渡すよりも、手作りチョコを渡したほうがいいんじゃないか。

 単なる感謝の印として。

 いや、いっそチョコなんて渡さなくていいんじゃないか。

 いやまて、持ってきたんだから渡さないと。

 しかし。

 だけど。

 思考が堂々巡りしているうちに、あたしは事務所にたどり着いた。


 広いロビーに入ると、壁の一面で作業員の人がなにか点検をしていた。

 そういえば、入り口の大きな垂れ幕を付け替えるという話を聞いていた。その作業をしていたのだろう。

 その前に貼ってあったのは、シンデレラライブの写真をつなぎ合わせたものだった。


 端っこにちっさくだけど、映っていたのがちょっと嬉しくて、スマホで写真を撮って家族にも送っていた。


 両親は喜んでいたけど、お兄ちゃんは端っこと馬鹿にしていた。



(チョコ、お兄ちゃんには送らなくてよかったかも……)






 今日はレッスンの為にやってきた。休みじゃないと、ちゃんと確認済み。

 悶々とした気持ちは晴れぬまま、事務所を進んでいく。

 仮にこれが他人からの相談なら、あたしははっきり意見を述べられるだろう。

 だが、自分のこととなると、そうはいかなかった。

 監督業と一緒だ。傍から采配の非難するのは簡単だ。

 でも、実際に自分がなったら決めるのが極めて困難。不安や疑心暗鬼で、正常な采配を振るえなくなる。

 なにが正しいのかわかるようになるには時間が必要だった。


 だがあたしは就任一年目。


 そういうとき、必要なのはコーチ陣のアドバイスだ。

 ところが野球チームと違い、あたしは一人。意見を乞うコーチを誰も雇ってはくれていない。

 相談する相手を探せばいいのだろう。

 でも恥ずかしいことに、今のあたしは誰かにそのような相談をする勇気がなかった。


(それなら……ともかく経験を積むしかないか)


 当たって砕けろ。やけ気味にそう考えた。




 盗塁だってなんだって挑戦しなければ成功しない。

 しかし、盗塁を決めるにも細かい駆け引きが必要だ。

 駆け引きの為には、まずは心を落ち着かせること。

 プロデューサーのいる部屋までは距離があった。心を落ち着かせる時間は――


「おう友紀」


 背中からの声に、ドキリとして体が硬直した。


 プロデューサーだ。

 でも大丈夫。ここは一度。深呼吸をして――



「どうしたんだ?」

「きゃっ!?」


 いつの間にか傍までやってきていたプロデューサーが、横からあたしの顔を覗き込んでいた。

 びっくりして、反対の壁際に跳ねるように移動した。

 顔がかっと熱くなる。

 なにが盗塁か。盗塁どころか、よそ見でけん制アウトではないか。

 プロデューサーは目を点にしていた。


「大丈夫か友紀?」

「べ、別に? どうして?」

「いや、だって声をかけても立ち止まって振り返らないし、それでそれだろ」


 と、壁に張り付いたままだったあたしをプロデューサーは指さした。

 あたしは壁にもたれかかりながら、頭をかいた。


「い、いやあ。ちょっと考えごとしてて。そんなときに急に声をかけられて驚いちゃったんだよ。
 だからプロデューサーのせいなんだからね」

「微妙に理論が破綻してないかそれ」




 
 両手を腰に添えながら呆れるように笑った。

 プロデューサーの手にある綺麗なピンクの包みが目に入った。

 あたしの視線に気づいたのか、プロデューサーはそれを持ち上げた。


「ああこれ、響子からのバレンタインだよ」

「響子ちゃんから?」

「今日は用事がないのに、渡すためにわざわざ寄ってくれたんだ。日頃の感謝の印って」

「へえ……」


 持ち上げられた包みにあたしの目は引き寄せられる。

 綺麗な装丁だった。

 真っ赤なリボンとそろいの色のハートのシールが貼られている。

 ちょっと派手にも見えるけど、響子ちゃんらしい丁寧で几帳面な可愛らしさを感じられた。

 あたしでは、とてもでないがここまでできない。


 胸の奥がチクリと傷む。

 バックを持つ手が汗ばんできた。


「あのさ、プロデューサー」


 包みから目を離すと、プロデューサーと目が合った。心臓がばくばくと高鳴った。


「あのね」


 声が裏返っていたのを、自分でも嫌というほど意識してしまった。






 強張った喉を無理やり鳴らしたせいだ。


 緊張が喉から吐き出て耳から戻ってくる僅かの間に、何倍にも膨れ上がって頭の中を乗っ取った。


 頭が真っ白になって耳鳴りがしてきた。


 
 あたしは言葉を吐き出せず、珍妙な間が出来上がる。


 それがさらにあたしを焦らせて、胸を高鳴らせて、思考をかき消していった。


 プロデューサーが奇妙な表情で見つめてきていた。

 顔にはペットショップでナマケモノを見つけた時のような好奇心と疑問が浮かんでいる。

 あたしにはそう思えた。


「あたし……――」


 それでも必死に言葉を紡ぎだして。


 あたしは伝えた。



「これからレッスンがあるんだ!」

「お、おう……」


 そう答えるプロデューサーを待たずに、あたしは小走りにその場を後にした。

 プロデューサーがどんな顔をしているのか。見るのも怖く、振り返れなかった。




 更衣室に着いた頃には、あたしはすっかり気落ちしていた。

 情けない。余りにも不自然な立ち去り方だった。

 確かに間が悪かった。百歩譲って渡さなかったのはまだいい。チャンスはまだあるだろうし。


(でも、あの立ち去り方は駄目でしょ……)


 完全に不審に思われただろう。

 もしかしたら、あたしの想いにも。

 そう考えると、抜け落ちていた頬の熱さがとたんに蘇ってくる。

 いや、まさかそんなことはない。

 だけどここまで、うまく渡せないなんて。

 チョコを買った日の嫌な予感が、見事に的中したわけだ。



 新作のビールを買った日、あたしはこのチョコも買った。

 ビールを籠に入れて上機嫌でいると、角のバレンタインコーナーが目に入った。

 あたしはなんとなく、だけど吸い寄せられるようにそこへ行った。

 有名なお菓子屋さんと提携して展開をしていて、思ったよりも立派。お値段も立派だった。


 その中でも特に高いのを手に取る。

 これ一個買うのに、このビールがどれくらい買えるのかな。

 籠の中に納まったビールを考え、意地悪な笑みを浮かべていた。


 だけど、ふと。


(プロデューサーは喜んでくれるんじゃないかな)


 そんな考えが頭に浮かんだ。






 どれほど睨めっこしていたのだろう。

 まあ、こういうのを自分で買ってみるのも悪くない。意外とお酒に合うかも。

 そんな独り言をつぶやきながら籠に入れた。


 自分で食べる気なんか、さらさらないくせに。


 家に帰って、ビニール袋から取り出して、不安がじわじわと心を撫で始めた。

 それを振り払うようにお酒に口をつけたが、かえって不安を煽るだけ。それをかき消すためにさらにお酒を飲んで。


 結果があの日の二日酔いだった。

 それを思い出すと、恥ずかしさと虚しさがどんどんと強まっていった。



 
 そんな状況でレッスンを受けても、うまくいくはずもなく。

 トレーナーさんからはさんざんに言われてしまった。


「はあ……」


 レッスンを終えたあたしは、休憩所のベンチに座りながら息をついた。

 こういうことが重なると気分も重くなってくる。ロッカーに入ったチョコが、さらなる重しになっていた。

 なんで、好きなのにうまくいかないんだろう。




 それは好きだからだ。

 好きだからこそ、うまくいかない。

 あたしは、痛いほど理解していた。





 持っていたスポーツドリンクを一気に飲み干し、ゴミ箱に投げ捨てる。

 でも、せっかく持ってきたのだからチョコを渡さなければ。


「よしっ」


 自分を奮い立たせるように言うと、体を伸ばしながら立ち上がった。そこで、


「きゃっ」


 短い悲鳴と共に、なにかが床に滑りおちる音が聞こえた。

 そちらを覗いてみる。通路に散らばった書類を、一人の少女がしゃがんで集めていた。


 トレーナーさんだ。

 正確にはトレーナー姉妹の末っ子ちゃん。

 新人のトレーナーなので、ルーキートレーナー、ルキトレちゃんとか、ルキちゃんと呼ばれていた。


「大丈夫?」


 あたしも近づいて書類を拾うのを手伝う。


「あ、ありがとうございます、姫川さん」


 書類をまとめ上げると、結構な高さになった。胸元で抱えたら、顔まで隠れるくらい。


「これ、ルキちゃん一人で持ってたの?」

「姉さんから運ぶように言われて……二つに分けて運べば良かったです」


 床に積み上げられた書類の山を見て、ルキちゃんは息をついた。






「それなら、あたしも手伝おっか?」

「え、悪いですよそんな……」

「いいっていいって」


 申し訳そうなルキちゃんを横目に、書類の上から半分を持ち上げた。

 この量なら、また途中で落としてしまうかもしれない。それを見過ごすわけにはいかなかった。


 決して、プロデューサーを探すのを引き延ばせるからではない。


「では、お言葉に甘えて……」


 ルキちゃんは微笑んだ。彼女にしても、手伝ってもらうのはまんざらではないようだ。

 書類を運び込んだのは、トレーナーさんたちが使っている事務室だった。

 指示された通りに、あたしはその束を机の上に置いた。


「ありがとうございます、姫川さん」

「いいって、これぐらいさ」


 頭を下げてから、ルキちゃんは書類を一つ一つ確認しながら分類を始める。

 あたしも自分が持ってきた書類を改めて手に取る。レジュメだ。

 一番上にアイドルのプロフィール。身長や体重。めくって二枚目を見ると、次は運動テストの結果。

 文香ちゃんは意外と握力があるらしい。




 どうも、アイドルたちの細かいデータが乗っているようだ。


「ああ、駄目ですよ姫川さん。それは一応機密情報なんです」

「いいじゃん。あたしは部外者じゃないんだから」

「まあ、そうかもしれませんけど」


 言いながらも、ルキちゃんはあたしの差し出した書類を受け取った。


「この書類はなんなの? なにかの会議で使うの?」

「レイ姉さんが見るんですよ。ああ、うちの長女の。レイ姉さんは、パソコンで管理するより、こういう紙で管理するほうを好むんで」


「ほら」と、ルキちゃんは書類をめくってこちらに見せてくる。機密情報ではないのだろうか。

 下の方の書類には手書きで細かく色々と書かれていた。


「でも結局は、パソコンでも管理してるんで。定期的にパソコンの方にデータを手打ちで入力しなきゃいけないんですよ」

「え、この量を?」


 あたしは書類の山を見る。恐らく、アイドル全員の情報が書かれているのだろう。

 その苦労を考えると、ため息をついたルキちゃんの気持ちも十分理解できた。


「そうなんですよ……まあ、今回はたまたま全員ではありますけど、普段はもっと少ない人数ですし。
 一から打ち直すわけじゃないので、見た目よりは簡単なんですけどね」


あたしたちのレッスンの内容などは、こうやって日々組み立てられているのか。

 そう思うと頭が上がらない。


 感謝の半面、懐かしさもあった。




「あたしも高校時代、似たようなことやってたなー」

「姫川さんがですか」

「うん、あたしほら。高校時代は野球部のマネージャーだったから」


 思い出すと笑みがこぼれる。あの頃のこと。

 一生懸命頑張る選手たちをフォローして、早起きして手伝ったり準備をしたり。

 ……まあ、いつも早起きしていたかと言われれば、あれだけど。


「凄いですね。全部一人でやってたんですか?」

「いやあ、あたし以外にもマネージャーはいたから。でも、こういうデータをまとめてトレーニングを考えたのはあたしかな」


 もっとも、それも監督と相談しながらだけど。

 でもあたしの提案がそのまま通ることもあった。

 たまにやりすぎちゃって、自主トレの提案をすることもあって。







  マネージャーはいいよな。自分でやらなくていいんだから。








「……ねえ、ルキちゃん」

「どうしたんですか?」


 分類を再開したルキちゃんに、あたしは尋ねた。


「ルキちゃんって、アイドルになりたいって思ったことはないの?」

「うーん、そうですね。興味はありますけど、私は今はトレーナーの方があってるって思いますね。トレーナーはトレーナーのやりがいがありますし」


 その言葉は嘘ではないようだった。

 書類を整理するその姿一つをとっても、どこか喜々としているように見えた。

 普段の姿を思い出しても、姉に怒られて落ち込んだり、厳しい表情をすることはあっても、嫌がっている様子は思い出せなかった。

 ふと、ルキちゃんのデスクマットの間に挟まっている紙に気付いた。

 日々の反省や注意点を書いているようだった。

 どんなことが書いてあるのかな。好奇心からあたしはその紙を覗き込んだ。

 可愛い文字で『メモはしっかり!』『スケジュール管理も大事な仕事!』『ジュースは美味しい方がいい!』。

 最後の文には別の文字で『そんなことはない』と書き添えられていた。

 そんなとき、ルキちゃんが尋ね返してきた。



「姫川さんはどうだったんですか」

「あたしはなりたかったよ。野球選手に」



「でも女の子じゃ野球選手にはなれないしさ。まあ仕方ないよね」


 書類を整理する音が止まっているのに気付いた。

 顔を上げると、ルキちゃんが書類を手にちょっと驚いたように目を見開いていた。

 まるで、聞いてはいけないことを聞いてしまったかのように。


「ごめんなさい、私。考えもなしに……」


 どうやらあらぬ心配をかけさせてしまっていそうだ。あたしは慌てて言った。


「いやいやいいって。最初に聞いたのはあたしの方なんだから。気にしなくてさ」


 本音だった。どちらかといえば、ついこぼしてしまったあたしの方が悪い。


「それにマネージャーが嫌だったわけじゃないしさ。ほら、ルキちゃんも言ったように、マネージャーはマネージャーの面白さがあったし。
 一生懸命な人を応援するのって楽しいじゃん!」


 こちらも本音だったのだが、かえって言い訳がましくなってないか。

 ちょっと焦ったけど、ルキちゃんは顔を綻ばせてあたしに同意してくれた。


「本当ですよね。皆さんが頑張ってると、あたしも頑張らなきゃって。負けてられないって。姫川さんのレッスンとかも見てて思いますよ!」

「本当? いいよ、どんどん厳しくしちゃって大丈夫だから」

「あら、そうですから? ならレイ姉さんにも伝えときますよ。ワンツーマンのレッスンがしたいって」

「あ、あはは……それは……遠慮しとこうかな……」


 いたずらっぽい笑みを浮かべたルキちゃんに、あたしは苦笑を返した。
 






 そのあとも少し、ルキちゃんとなんでもない話をした。


 おかげで、心がいくらか軽くなった。


 覚悟を決めて、あたしはプロデューサーのいるはずの部屋へ向かった。


 扉の前で小さく息をつく。次は表意をつかれても、ちゃんと渡そう。

 その覚悟はできている……はずである。


 あたしは意を決して、扉を開ける。

 すると、目の前に人が立っていた。どこかにでかけようとしていたのだろう。


 プロデューサーではなく、アシスタントのちひろさんだった。


 彼女は急に開いた扉に驚いていたようで、あたしを見つめていた。

 目を丸くしながら、ちひろさんは言った。


「どうしたんですか友紀ちゃん?」

「どうしたって、なんで?」

「なんだか険しい顔をしてますけど」

「えっ、そんなことないよ?」


 と、言いながら、あたしは思わず顔に手を当てる。変なところはない。はず。普段より顔が火照ってるぐらいだ。


「もしかして、プロデューサーさんに用ですか?」

「それは、その……」





 まさか全て見抜かれてたり。ちひろさん、鋭いところがあるし。

 でもその顔に張り付いていたのは、すでにいつもの優しい笑みだけだった。

 少しだけ申し訳なさそうに眉を曲げた。


「でしたら、ここにはいませんよ。今は別の場所でお仕事中みたいです」

「あ……そうなんだ」


 あたしはがっくりと肩を落とす。せっかくの覚悟がにゅるりと胸の奥から抜けていった。

 とぼとぼとした気分で、あたしはちひろさんが開けてくれていた扉から部屋にはいる。


「でも、お仕事が終わったらここに来ると思いますから、待っていたら如何ですか? ポットにコーヒー残ってますから、よろしければ」

「うん、ありがとうね」

「頑張ってくださいね」

「うん……うん?」


 あたしが振り返ると、すでに扉が閉められていた。なにを頑張れというのか。

 もしかしたら……やっぱりばれてる?

 あたしは恥ずかしくなったけど、考えてみればバレンタインでプロデューサーを探しているとなれば、当然そのような考えに至るだろう。

 事務所の他の子だってプロデューサーにあげているのだ。


 あたしは、そのうちの一人でしかない。


 わかっていたことなのに、今更心が暗くなる。


 こんなことで落ち込んでも仕方がないのに。




 
 
 チョコのせいだろうか。今日は一日中調子が変だ。


 自分自身を、自分ですらつかみきれていない。

 完全に調整不足だった。もっとみっちり練習を重ねるべきだった。


(どう練習すればいいかは知らないけどさ)


 あたしはため息を漏らした。今日はよく漏れる。

 ソファーに深く腰掛けながら、あたしは先ほどのルキちゃんとの会話を思い出した。


 正確には、その会話の中で思い出した一つの言葉を。


 高校時代、あたしはあたしなりに夢中になってマネージャーの仕事をした。

 ドリンクの準備とか、そういうのはあたしは得意じゃなかったけど、応援では一番の声を張り上げていた自信はあった。


 それから、練習メニューを考えたり。


 頭を使うのも得意じゃない。

 でもあたしなりに本とかで勉強してトレーニングのことを色々調べていた。


 ずっと野球を見てきたから、それぞれの子の苦手なことを見抜くことは得意だった。

 基礎体力がたりないならそれ用の。投げ方が安定しないならそれ用の練習という風に。


 あるとき、同級生の男の子が腕を骨折してしまった。

 休んでいる彼が仲間に置いていかれないように、あたしは彼の為に、腕を使わないで済むようなメニューを作って手渡した。

 お昼の休み時間の廊下だった。


 今思えば、彼は野球が好きだったけど、そこまで熱心って訳でもなかった。

 怪我をちょっとした休養のように考えていた節があった。

 あたしの手渡したメニューを見て、彼は漏らした。




「マネージャーはいいよな。自分でやらなくていいんだから」






 あたしたちの横を、女子が通りぬけていった。

 彼女たちの笑い声が廊下に響いていた。

 悪気のあった言葉じゃないのは分かっている。軽口の一つに過ぎない。

 あたしだって笑って言い返した。



 それなのに、その言葉はいつまでもあたしの耳に張り付いて、離れなかった。



 事務所の扉が開いた。

 あたしはどきりとしながら、体を起こす。

 でも、プロデューサーではなかった。

 入ってきたのは色々と正反対な二人。


「ほら、言ったやろ。変にひねらん方がええって……」


「でも相手には美羽ちゃんいたじゃーん。しかも相方は幸子ちゃん。絶対変なの出してくると思ったんだけどなー」


 片方の子は長い髪に、雅な和服をきっちりと着た大和なでしこな女の子。

 もう一人は短めの銀髪にラフで、だけどセンスのある服の着こなしをしている。


 紗枝ちゃんと周子ちゃんだ。


 あたしに気付いた周子ちゃんが、指さしてきた。


「おっ、出たな。第三のフォーティーン」


「第三の? なに言ってるの」




 首を傾げたあたしに、紗枝ちゃんが説明する。


「幸子はんから聞きましたでぇ。一緒にチョコを作ったって」

「そう。あたしら京都組はちゃんと二人で考えたのに、フォーティーンチームは助っ人ありってずるいぞ~」

「せやけど……友紀はんは助っ人というよりは……ふふっ」


 意味深げに微笑んでいる紗枝ちゃんにあたしは眉間にしわを寄せた。


「ちょっと紗枝ちゃん。なに言おうとしたのー?」

「なんでもありゃしまへんよー。でも、普段は家で食事をとったりするんかなー? とおもて」

「あー、いまちょっと馬鹿にしたでしょ!? こう見えてもひとり暮らししてるんだから。家で食事だってするって」

「あ、美羽ちゃんが冷蔵庫、総菜とビールばっかって言ってたよ」

「うぐっ……」


 周子ちゃんの言葉に、あたしは口ごもる。


「となると、ゆっきーがいてハンデになっても、アドバンテージにゃなんないかー」


 あっはっは、なんとも軽い調子で周子ちゃんは笑った。


「あ、あたしだって色々やったよ。場所を提供したり……」


「したり?」と、首を傾げる紗枝ちゃん。


「冷凍庫を貸してあげたり……」

「場所を提供しただけって言わない、それ?」


 なにも言い返せなかった。確かに一緒にキッチンに立ってたけど、殆ど見ていただけだった。




「まあ、そんな幸子はんチームに負けたのはうちらの方やけどねぇ」

 と紗枝ちゃんが言った。

「あ、もう勝負やったの?」

「そう。厳粛なる審査の結果、あえなくしゅーこちゃん率いる京都チームの敗退となったわけ」

「チョコにげんこつせんべいを入れたらそうなります。硬くて食べられたもんやあらへんってプロデューサーはん、呆れてましたわぁ」

「策士策に溺れる。だねー」

「うちは溺れた周子はんに引きずり込まれた形ですぅ」


(ってことは、二人ともプロデューサーにチョコをあげたってことだよな)


 話を聞きながら、当たり前のことを考えた。どんどん先を越されているのが、少しだけ心を急かさせた。


 そんな時に、周子ちゃんが不意打ちのように言った。


「そういやゆっきー。ちょっといい」

「どうしたの?」



「ゆっきーって、なんでチアガールになんなかったのよ?」


「えっ」


 唐突な質問に、あたしは驚いた。

 あのことを思い出した直後に、その話題がでるなんて。






「なんでいきなり」


 あたしは努めて冷静を装おうとした。

 自分でわずかに気付けるぐらいに微かだが、語気に動揺の響きがあった。

 周子ちゃんが言った。

「いやあ、勝負したときに色々聞いたんだけどさ。その時に幸子ちゃんが言ったんよ。
 「なんで友紀さんはチアガールにならなかったんでしょうか」って」

「えー、幸子ちゃんにも説明したって。片づけで遅くなったらビールが飲めないからって」

「それも聞いたけど、二人とも納得してない感じだったし」

「二人とも?」


 眉間にしわをよせる。


「幸子ちゃんだけじゃなくて、美羽ちゃんも?」


 あの時、疑問を持っていたのは幸子ちゃんだけのはずだ。少なくとも美羽ちゃんは納得していた。

 周子ちゃんの言葉に、紗枝ちゃんも頷いた。


「ええ。よー考えてみたらーとか言うとりましたけど。友紀はんはお酒も大好きやけど、なによりも野球が大好きなはずー、って」

 誤魔化すのも忘れて、ただ驚いていた。

 あたしが思っている以上に、周りのみんなはあたしのことを理解しているようだ。


 それは淡い高翌揚感と、冷やりとした恐怖感を伴っていた。


 あたしのことを理解してくれている嬉しさと、心のうちの秘密すら覗き込まれているのではないかという疑心。



 誰にも言っていないあたしの小さな秘密を。

 あたしがチアガールにならなかった理由のことを。








「お前、チアガールとかどうなんだ」



 それはお兄ちゃんの言葉だった。


 お兄ちゃんは、仕事の都合で東京までやってきていた。

 あたしもそれについてきて、一緒に暮らしていた。

 共同生活といっても、生活費の殆どがお兄ちゃんだよりだった。

 あたしはちょっとバイトをしながら、野球観戦を楽しんでいた。


 なんといっても、それが目的で東京に出てきたのだから。


 そんなあたしに呆れてはいても、怒ることはしなかったお兄ちゃん。

 だからそれは、単なる提案の一つだった。

 お兄ちゃんのパソコンをのぞいてみると、チアガールの募集ページが映っていた。


 チアガール。

 それはあたしがいつも遠くから見ている風景のなかの一つ。

 乗っている写真には、青空の下の中球場のグラウンドで踊っているチアガールたちが映っていた。

 すぐに返事はしなかったけど、布団にもぐりこんだあたしは、そのことについて思案していた。



 悪い提案ではないかもしれない。


 普段から応援するのは好きだ。ならば、より近くで応援したほうがいいんじゃないか。


 なによりも、夢のグラウンドに立てる機会だった。

 挑戦してみる価値は、あるのかもしれない。





 その日の夢は、文字通りにグラウンドに立っている夢だった。

 いつも客席からしかみていない球場で、あたしは可愛いチアの衣装を着て踊っている。

 あたしの踊りにお客さんたちもノリノリで。

 そんな時に、あの言葉が聞こえてきた。





  マネージャーはいいよな。自分でやらなくていいんだから。





 あたしの体から血の気がさっと引いた。それから無性に腹が立ってきた。

 なんでその言葉が聞こえてくるのか。

 あたしだって、こんな形でグラウンドに立ちたくなんかない。


 あたしが本当に立ちたかったところ。それは。



 気が付けばあたしは一人だけだった。広い球場のなかで、ぽつりと佇んでいた。

 誰もいなくなった球場で、あたしはマウンドの方を見た。




 そこから見たマウンドは遠くにあった。


 とても、とても遠くにあった。





 目が覚めたあたしは、朝食の準備をしているお兄ちゃんに言った。


「考えたんだけどさ。チアも片づけに時間がかかると、試合後にお酒飲みにいけないかもじゃん。そう考えるとさ、やっぱりあたしは、一観客でいいかな」


 ぎこちない笑いを浮かべて、そういった。

 お兄ちゃんはもしかしたらあたしを説得してくるんじゃないか。

 そう思ったけど、そっけない言葉だけで、この会話は終了となった。



 プロデューサーにスカウトされる、少し前のことだった。






「友紀はん?」


 紗枝ちゃんの声に、あたしは我に返った。

 見ると、紗枝ちゃんは不安そうにあたしの顔を覗き込んでいた。


「どないしあはったん、急に黙り込んで?」

「あー、うんうん。なんでもないって。で、チアだっけ? 別に深い意味はないよ。本当に幸子ちゃん達にいった通りだから」


 あたしは当初の言葉を言い通す。最初に使ってから、ずっと使い続けている言葉。

 周子ちゃんのことだから、もっと食い下がってくるかも。

 そう思ったけど。


「ふーん。そっ」


 あっさりと言って、それ以上深く聞いて来なかった。

 拍子抜けして、あたしは少し驚いた。紗枝ちゃんも同じだったようだ。


「周子はん、えらい簡単に引き下がりましたな。友紀はんの言葉、信じるん?」

「んー、まあね。人って色々あるもん」

「ちょっと待ってよ。それって信じてないって言ってるようなもんじゃん」

「ホントホントー。信じてるって。かわいいシューコちゃんが信じられない?」

「かわいいって……」

「そうそう、褒めて褒めてー」


 周子ちゃんはあたしの隣に座ると、犬みたいにすりすりと身を寄せてきた。






 呆れたように紗枝ちゃんが笑った。


「あらあら……周子はんが幸子はんになってもうた」

「……もう、しかたないなー。ほら、かわいいかわいい」


 あたしは周子ちゃんの頭を撫でた。

 幸子ちゃんにやるときより、少しだけ遠慮して。


「……なんだか、ちょっと妬けますわぁ。仲間はずれな気分やわー」


 拗ねるように口を尖らせた紗枝ちゃんに、あたしは言った。


「可愛がってほしがってるんだから、紗枝ちゃんも可愛がればいいじゃん」

「そーそー。紗枝はんもかわいがってくりー」

「もう……仕方あらへんな。はい、かいらしいかいらしい」


 年上にやるのは恥ずかしいのか、ちょっと照れながら紗枝ちゃんは周子ちゃんの頭を撫でた。


「もう、こんなところを幸子はんに見られたら、妬いてまうかもしれへんな」

「そうなったら、しゅーこちゃんが美羽ちゃんと一緒にかわいがってあげるから問題なしだよー」

「うちらに撫でられながら?」

「そっ。そしてその幸子ちゃんがゆっきーの頭を撫でる。幸せの永久機関だねー」

「うちと美羽はんがはみ出てるけど?」

「細かいことは気にしなーい」





 あっけらかんと言った周子ちゃんに紗枝ちゃんは息をついた。

 それから思い出したように聞いてきた。


「そういえば、友紀はんはプロデューサーはんにチョコレート。お渡ししたんどすか?」


 紗枝ちゃんの質問に、あたしはどきりとする。


「どうしてあたしがプロデューサーに?」

「どうしてって……チョコ、幸子はん達と一緒に作ったんやろ? プロデューサーはんにあげるためちゃいますの?」

「まあ、そうだけどさ」

「? まあええけど。もし渡す気なら入口のロビーに行ったらええと思うよ。プロデューサーはん。そこにいるはずやから」

「ロビーに?」


 なんでプロデューサーはそんなところにいるのか。

 仕事とちひろさんは言っていたはずだけど。誰かを待っているのだろうか。

 幸子ちゃんと違い、流石にうっとうしくなったのか、撫でてくる腕をどかしながら周子ちゃんは言った。


「そうそう。あれ凄いよねー。ゆっきーがちょっと羨ましいよ」

「ほんまになぁ」


 頷きあっていた二人だが、当のあたしにはまるで意味が分からなかった。


「あたしが? どうして」

「あれ、友紀はんは知らへんの?」


 紗枝ちゃんが驚いたように言った。


 周子ちゃんもびっくりするように見上げていたが、口元が不敵につりあがった。



「なら、いってみー。凄いよ、ホントに」





 そう言うならばと、あたしは入口に向かうことにした。

 別にプロデューサーにチョコを渡すためではない。

 持ってきてはいるけど一応だ、一応。

 気づけば空を覆っていた雲は少なくなり、その合間から目が痛くなるほどの夕焼けが差し込んでいた。

 そのまばゆさが、窓を通してあたしの歩いている廊下を照らしていた。

 ロビーにたどり着く。

 ロビーも同じように、出番の遅れた太陽がお詫びをするみたいに強くオレンジに照らされていた。

 壁にかけた垂れ幕の付け替えは終わっていた。

 出入りする人影もなくロビーは静まり返っていた。


 あたしは息を呑む。

 今回の柄は、大きく四つの場面がフューチャーされていた。


 舞台で歌うニュージェネレーション。

 ファンの感謝イベントで握手をする奏ちゃん。

 ポーズを決めて写真撮影に挑んでいる久美子さん。



 そしてあたし。


 夜空の下、スポットライトの眩い輝きに照らされていた。

 客席を溢れんばかりに覆い尽くすお客さん。

 青々と茂った芝。


 野球のグラウンド。


 そして一番手前に、あたしが立っていた。



 あたしが、グラウンドに立っていた。





 片手を天高く突き出し、グラウンドに向けて叫んでいる。


 いつかの始球式の時の写真だった。


 始球式を終えて戻る直前。嬉しくなったあたしは振り返って、大きく叫んだ時のだ。



 あたしは立ったのだ。自分にとって夢の舞台であった場所に。

 それは子供の頃に描いていた方法とは違ったかもしれない。

 だからといって、満足しなかったわけではない。

 写真に写っていた自分を見れば分かる。



 その横顔は自分でも恥ずかしくなるくらい、嬉しさに満ち溢れ輝いていたから。



 今思えば、チアガールになるのも悪くはないと思う。


 でもあの頃はそうじゃなかった。

 野球が好きだったから、どう近づけばいいか分からなかった。

 叶わない夢と向き合えず、好きだったのにどこかで距離を取ろうとしていた。

 だけど、こうして笑ってグラウンドに立つことができた。

 それもアイドルになれたから。


 あたしがアイドルになったわけ。


 それは。




「テーマは、『それぞれの場所で輝くアイドル達』」






 振り返ると、そこにはプロデューサーが立っていた。

 垂れ幕を見上げていたが、視線があたしと重なる。


「どうだ。凄いだろ」

「凄いけど……あたし知らなかったんだけど」

「秘密にしてたからな」

「許可とか、前もって言っとくべきじゃない?」

「嬉しくないのか?」

「まさか、嬉しいに決まってんじゃん」


 プロデューサーはあたしの隣まで来る。二人でまた垂れ幕を見上げた。

 プロデューサーには驚かされてばかりだ。初めて会った時もそうだった。

 あたしがアイドルだなんて想像もしてなかった。

 だからこそ、深く考えないでアイドルになった。

 でもまさか、アイドルの仕事で野球の仕事を貰えるなんて。

 予想外だったけど、だからこそあたしは改めて、野球と向き合えるようになった。


 そしていつしか、アイドルも野球に負けないぐらい好きになっていた。


 二つの好きが重なって、その両方が何倍にも好きになっていって。


 好きなものを一層好きにさせてくれて、さらに別の好きなものまで与えてくれて。


 ほかにも、いろんなものを与えてくれて。



 だからあたしは、なによりも伝えなければならないことがあった。






 あたしはバックからチョコを取り出した。

 今までドキドキしていたのが馬鹿らしくなるくらい、簡単にチョコを差し出した。


「はい、プロデューサー。バレンタイン」

「お、おう」


 プロデューサーは面食らったように瞬きをしていた。


「あれー、喜んでくれないの」

「嬉しいけど……えらくあっさりだな」

「なに、どうやって渡してほしかったとかあるの?」

「別に……」


 プロデューサーはあたしから顔をそらしながら、頬を掻いていた。

 そんな反応が楽しくて、あたしはニヤニヤしてしまう。



「なんだよ」

「べっつにー」


 あたしは、ステップを踏むように前へ移動して、プロデューサーに向き直る。


 垂れ幕を背に、正面から真っすぐと。



「プロデューサー」


 今伝えたい、精一杯の言葉を。




「アイドルにしてくれて、ありがとう」






 それが今、一番に伝えたい言葉だった。


 それを伝えるべきだと思った。

 たとえ、自分のもう一つの想いが届くことがなくても、貴方に届けたかった。


 届かないのは辛いけど、届かなくてもあたしは前に進めるって分かってるから。


 だから自然と笑みがこぼれた。


「そのチョコは、そのお礼だよ。あたしをここまで連れてきてくれた、そのお礼」

「ここまで来れたのは、お前の――」

「ああ、もうそう言う話はなし。言われなくても分かってるんだから」


 素直に受けとってくれればいいのに、こう言う時でもプロデューサーは謙虚というか。


 どこまで行っても、プロデューサーだ。


「今日はバレンタインデーなんだから。大人しく受け取ってよね、感謝の印」


 プロデューサーはしばらくあたしを見つめてたけど、観念するように肩を下ろした。


「ああ、そうだな。ありがとうよ」


 気持ちを表すように持ち上げて、それからふと、なにかに気付いたようだった。


「これって、既製品か?」

「文句言わないでよ」

「文句じゃないけど……」 


 プロデューサーは、なにかを言いあぐねているようだった。

 あたしは、はと思い当たる。


「ああ、美羽ちゃんと幸子ちゃんから聞いたの?」

「まあ……そうだな」


 気まずそうに視線を逸らした。紗枝ちゃん達も知っていたのだ。

 たぶん、あたしが手作りチョコを一緒に作ったことをプロデューサーも耳にしていたのだろう。


「手作りより、そっちのチョコの方が美味しいと思うよ?」

「まあ、そうかもだけど」

「うわっ、本人を前に酷くない?」

「先に言ったのはそっちだろ」

「あはは、確かに」







「それで……手作りのどうするんだ?」


「あれのこと? 気になるの」

「……まあ」

「別に、家に置いてあるけど」


 それからあたしは、からかうように言った。


「なに。欲しいの、あたしの手作り?」

「くれるのか」


 なんでそう欲しがるんだろう。


 あたしは笑うのをやめて、改めてプロデューサーの顔を見た。


 よく見れば、プロデューサーの顔は微かに赤くなっているようだった。


 え?

 ちょっと待って。


 顔が熱くなった。


 鼓動の音が痛いほど鼓膜に響いてきた。



「それは――」





 ドアの開く音に、あたしは体をこわばらせた。

 見ると、従業員の一人が戻ってきたところだった。

 ここは正面出入り口なのだ。

 今まで誰も通り掛らなかったのが不思議なのだ。

 あたしは誤魔化すように明るく言った。



「ま、まあ機会があればね」

「お、おう」


 二人の上げた空々しい笑い声が、ロビーに響いていた。




同時にふたつのバレンタインユッキスレが…



 部屋に戻るプロデューサーに、あたしもついていった。

 道すがら、プロデューサーからチョコの受け取り具合を聞いたりした。


「うわ、けっこう貰ってるね。モテる男は流石だねー、この」

「仕事上の義理だよ、馬鹿」


 部屋に着くと、周子ちゃんと紗枝ちゃんの姿はもうなかった。
 
 部屋にはあたしとプロデューサーだけだった。


「ところでプロデューサー。そのチョコ……食べたりとか……しない?」

「ここでか?」

「いやあ、けっこう高かったんだよね。あたしも味見したいなー、なんて」

「おいおい」


 呆れながらも、プロデューサーはチョコを開けてくれた。

 あたしはポットに残っていたコーヒーを淹れる。

 少ない量を二人で分けたから、小さなマグカップでも半分ぐらいしか満たされなかった。

 テーブルのたチョコは、奇麗な箱におさまっていた。


「おお、美味しそう。プロデューサーはどれ食べる?」

「どれでもいいよ」

「そうはいかないよ。これはプロデューサーにあげたチョコなんだから」

「……じゃあそうだな。これ貰うよ」

「えー」

「おい」

「冗談冗談」






 プロデューサーが選んだのは、奇麗なコーティングに金粉のついたチョコ。

 あたしはその隣に入っていた黒くて丸いチョコを選んだ。

 口に運ぶ。色に反してとても甘い風味が広がり、さらに中からイチゴソースが溢れだした。


 それを味わいながら、あたしは尋ねた


「……ねえ、プロデューサー。本当に手作りチョコ欲しいの?」

「……くれるなら」

「どんなのでもいいの?」

「まあ、食えるなら」


 あたしはコーヒーを飲んだ。苦味が口の中でチョコとまじりあった。

 唇を舐める。


「ふうん」



 あたしはそう呟くと、身を乗り出した。


 呆然としているプロデューサーの顔に、ゆっくりと近づいて行き。



 あたしは、プロデューサーの唇に唇を重ねた。





 甘苦いチョコの香り、痺れるような柔らかなぬくもり。






 離れると、プロデューサーは眼を丸くしていた。



「どう、あたしの手作りチョコ?」



 プロデューサーの答えを待つ間もなく、あたしは身をひるがえした。

 恥ずかしさが雪崩のごとく襲ってきて、顔が一気に熱くなった。



「ちゃ、ちゃ、ちゃんとしたのは今度あげるから!」


 言い訳じみた言葉を吐き出しながら、あたしは部屋から勢いよく飛び出した。




「お、おう! 待ってるからな!!」


 部屋の中から、間の抜けた大声が返ってきた。

 あたしは思わず笑ってしまった。

 それからなんだか泣きそうになった。
 
 悲しい訳でもないのに、溢れだしそうなこの涙はなんなんだろう。

 でも今は、その意味も理由も考えず走り抜けた。

 火照りと、口の中に残ったチョコの甘さを感じながら。









――姫川友紀「チョコに託した想いの形」《終》

ゆっきー、バレンタインイベント上位報酬おめでとう。

乙。ユッキかわいい。


良かった

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