モバP「橘さんが卒業する日」 (17)

 橘さんはありすちゃんだけど、ありすちゃんではない。

 あるいは、橘さんはありすちゃんだけど、ありすちゃんではなくなったと言うべきか。言葉遊びのような呼称問題は、「大人」に手を伸ばすありすちゃんを象徴している。

 橘さんは名前で呼ばれるのを嫌がった。ありすちゃんと呼んでいた頃は、橘です、とよく訂正されたものだ。理由を聞けば子供っぽい名前だからなんてため息混じりに答えていたが、本当に嫌だったのは名前で呼ばれる行為そのものにあったことを、ぼくは見逃さなかった。きっと名前は関係ない。理由にできたからそうしただけで、たとえば日本人にありふれた名前だとしても、どうにか上手い具合に理由を作って訂正してきたことだろう。

 簡単な話、同級生が名前で呼び合っていたから、大人が苗字で呼び合っていたから。そういう形式に憧れただけなのだと思う。

 微笑ましい抵抗だ。可愛らしい背伸びだ。ただ、思春期の子は気難しくなるもので、ぼくたち大人には些細に思えることでも、彼女たち子供にとっては重要な出来事である場合も多い。

 そしてそれは誰しもが経験する。ぼくだってそう。だから、ぼくは笑わなかったし、笑えなかった。

 いずれにしても、十二歳のアイドル橘ありすを子供扱いしていたのは初めのうちだけで、担当してから数ヶ月が経った頃には本人の希望どおり、ぼくは橘さんを大人扱いすることにした。

 こうして三年前。小学校を卒業した橘さんは、ありすちゃんを卒業した。



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 仕事を終えた夕方に小会議室を借りた。テーブルに、どさっと橘ありすの三年と少しの軌跡を広げる。

 硬めの椅子に腰を下ろして、アルバムをぺらぺらとめくると写真の移り変わりとともに懐かしさを覚えた。赤いランドセルは紺色のセーラー服に変わり、次第に背が伸び胸は膨らみ、身体つきと顔つきは「子供」から現在の見慣れた橘さんへと変化していく。

 出会った頃の橘さんはありすちゃんと呼ぶに相応しい容姿をしており、大人っぽくはあったけど大人らしさではなく、結局のところ子供だった。もちろんいまだって子供だ。しかし、小学生と中学生の境界には大きな隔たりがあるように思う。

 自意識の芽生えと確立。自己と他者の分離。そう言った精神的な誕生と成長を迎える時期が中学生なのだから、それまでと同じにはいかないだろう。まあ、女子は男子より早く思春期を迎えるらしいが、やはり一つの区切りとして大きな意味合いを持つはずだ。

 中学生になり橘さんは女の子になった。内外合わせて、明確に。

 そしてぼくは橘さんを大人扱いすることにしたのだった。

 アルバムをめくりながら、写真の撮られた時期を四つに分類する。ひとつはデビュー前からデビュー直後、小学校時代。以降は中学一年生から三年生まで、それぞれの期間をカテゴリー分けしていく。

 大まかに分けてから、選定作業を始める。なるべく各カテゴリーに偏りが出ないよう考える。三十分ほど続けて、ぼくは項垂れた。削る写真を選べなかったから。

「思い出補正だよね、これ」

 橘さんのご両親は多忙な方で、橘さんのライブ含むイベントにまともに参加できたことはない。その是非については考えない。橘さんの家族の問題であり、ぼくが首をつっこむ話ではないだろう。

 ただ、せめて知ってほしいとは思う。橘さんの成長の過程を。アイドルとしても、ひとりの女の子としても、彼女の成長の過程を知ってほしい。どんな気持ちでここまで頑張ってきたのか、知ってほしい。

 よし、と意気込んで写真に向き合う。ぼくにできることは少ないけれど、できることをしよう。

 そうして写真を手に取ったとき、ノックの音が二度響いた。

 今日はこの会議室が使われる予定はないはずだけど。首をかしげてみる。理由は思いつかない。考えてもダメなら返事をするしかない。

「はい、どうぞ」

 ドアが開いて、ダッフルコートを腕にかけた制服姿の橘さんが部屋に入ってきた。彼女はさも当然というふうにぼくの隣に腰を下ろした。どうやら中学校から直接来たらしい。しかし、彼女はオフなのだ。わざわざ訪ねて来る理由がない。

 やっぱり理由はわからなくて、ぼくは首をかしげた。

「ちひろさんに聞きました。なにをしているんですか?」

「え……ああ、うん、アルバムを作ってるんだ」

「アルバム?」

「うん。ほら、ぼくからの卒業祝いだよ。橘さんのご両親にね。あと間に合えばライブ映像をまとめたDVDも作ろうかなと考えてる」

 「橘さん」のあたりで眉がぴくりと動いたのを、ぼくは見逃さなかった。

「迷惑だった……?」

「あっ、いえ」ハッとしたよう言うに橘さん。忙しそうに首を横に振っていた。どうやらなにか考え事をしていたらしい。「迷惑だなんてことは……むしろありがたいというか……嬉しいです」

「そう? それならいいけど……、あっ、もちろん橘さんの分は別に用意するから安心してね」

「ありがとうございます……」

 複雑そうな表情だった。嫌というより、なにか別なことを気にしている感じ。そのなにかはわからないけれど、少なくとも迷惑でも嫌でもなさそうなので、ぼくはほっと安堵した。

「それで、橘さんはなにしに来たの? 今日はなにもないよね」

 気になっていた疑問を投げかける。すると橘さんはわかりきっていたと言わんばかりの勝ち誇った顔をする。昔と比べて表情豊かになったものだと、机の上の写真を見ておかしくなった。

「用がないと会いに来てはダメですか?」

「つまりぼくは暇つぶし相手なのか」

「そ、そうじゃなくて! むぅ」

 むっと頬が膨らんだ。その仕草は可愛らしくて、ありすちゃんと呼ぶほうが似合いそうだった。橘さんは恨めしそうに睨みながら言う。

「……自主レッスンのメニューをトレーナーさんに相談しに来たんです」

「なるほどね。ついでに挨拶に来てくれたわけだ。ありがとう」

「ついでじゃないのに……」なんて不満そうに呟いて橘さんはため息を吐いた。

 まあ最近は卒業式のためにスケジュールを空けているから会えていなかったし、様子を見にきてくれたのだろう。

「時間あるなら、写真選ぶの手伝ってよ。帰りは送るからさ」

 そう言うと表情はぱぁっと明るくなった。こうして一緒にいてくれるうちが華だよなぁ、なんて父親みたいなことを考えてみる。結婚すらしていないのに父親気分を味わって、ぼくはますます結婚できなさそうだ。

 ウエディングドレスを着た、ありすちゃんだった頃の写真を手に取る。「待てますか」なんて言ってくれたのを思い出して、なおさら父と娘みたいだと笑った。

 共同作業のおかげもあってか、それから一時間ほどで写真選びは終わった。

「私ももう高校生です。つまらないことに拘るのはやめました」

 帰りの車中、後部座席に座る橘さんは唐突にそう言った。ルームミラーに短く視線をやると、真剣な眼差しとぶつかった。どうやらここからが本題らしい。

「早く大人になりたかったんです。でも、そう思うことがなにより、子供の証明みたいなものでしたね」

「そう気づけたことは大人への第一歩だね」

「大人になるっていいことばかりじゃありませんね」

「ぼくは子供に戻りたいよ」

 ふふっと、橘さんは笑う。ぼくとしては冗談のつもりではなかったけれど、笑ってもらえるのならそれでいい気がした。

 その笑顔はちょっと大人びて見えた。

「ねぇ、プロデューサーさん、私はもう気にしませんよ」

「うん? なんの話」

 信号が赤く灯る。ゆっくりブレーキペダルを踏んで白線にぴったり止める。

「呼び方です。べ、べつにありすと呼んでもいいでしゅよ」

「…………」

「……いいですよ」

 走行音に掻き消されていた喧騒が入り込んで、無言の車内を際立たせた。沈黙は十秒ほど続いて、橘さんはうぅぅと唸りだす。少しして信号が変わった。アクセルペダルを踏むとやけにエンジン音が大きく聞こえた。

「なにか言ってくださいよ!!」

「うん、橘さんは可愛いなぁと思って」

「またそうやって子供扱いして!」

 けらけら笑うと、橘さんはため息をついて応えた。

「まったくプロデューサーさんは。……それで、そう、呼び方です。昔は橘ですと訂正しましたが、いまは気にしません。どうぞありすと呼んでください」

「いや、いいよ。それこそもういまさら変えるのもね」

「えっでも、ほら……仲悪いと思われてしまいますよ? 苗字で呼び合うより自然です」

「いまさらだよ。そう思う人はいないって」

 仲睦まじいとか尻に敷かれていると、ぼくと橘さんの関係は形容されている。その上で名前で呼び合えば勘繰られそうだ。うちのプロダクションはアイドルとプロデューサーの距離が近いので、勘繰られても問題はないけれど。

「……ありすで、いいじゃないですか……」

 特別拘りはないのでどちらでも構わない。ただ、だからこそ、わざわざ変える必要性も見つからなかった。

 最後の右折をして、橘さんの自宅前に車を停めた。エンジンを切って車から降りる。外に出ると凍てつく風が顔に痛かった。車体左側に回り、後部座席の扉を開く。ぼくは手を差しだした。

「お姫様、到着しました」

「アリスは冒険をしましたが、姫にはなりませんでした」

 不貞腐れたみたいに橘さんは顔を背けた。

「ぼくは魔法使いだよ。ガラスの靴を用意するんだ。橘さんをお姫様にするためにね」

「そこは王子様になってほしいですね。白馬に乗って迎えに来てくれればいいんです」

「王子は城で待ってるよ」

「……そうですね。私が迎えに行かないといけませんね」

 不承不承といった感じに、ぼくの手を取ってくれた橘さん。その細く柔らかい手は、ぼくのよりずっと温かい。離れていくのが名残惜しく思うほどに。

「アルバムは卒業式が終わったら取りに行きます。連絡するので待っていてください」

 橘さんが家の中に入るまで見届けた。扉を閉める間際小さく手を振ってくれたので、ぼくも小さく手を振り返した。

 卒業式当日、昼過ぎに会社のロビーで待ち合わせた。

 やってきた橘さんは、目尻が赤くなっていた。きっと卒業式で泣いたのだろう。改めて橘さんが中学を卒業したのだと思うと、三年と少しつきあってきたぼくにも感慨深いものがあった。

「卒業おめでとう、橘さん」

「ありがとうございます」

 完成したアルバムとDVD、菓子折りと手紙を入れた紙袋を手渡す。それからもうひとつ、小さな紙袋を渡した。

「こっちは橘さんへのプレゼント」

「……開けてもいいですか?」

 うなずくと、橘さんは紙袋から円筒型の箱を取り出し、優しく開けた。中にはピンクゴールドの腕時計。アクセサリー代わりにもなる大人らしいデザインをしている。

 橘さんは驚いてから、ぼくの顔を見て破顔した。

「あ、ありがとうございます」

「サイズは合わないかもだから、近いうちに一緒に合わせに行こう」

「はい!」

 喜んでもらえて良かった。

 と、笑顔を見せてすぐに「でも」と橘さんは切り出した。

「ひとつ不満があります」

 思いもよらない言葉にぼくは焦る。デザインが露骨すぎたのか。いや、橘さんがそこに不満を言うとは思えない。

 ぼくはどうしたのと首をかしげた。

「名前、ありすと呼んでもらってません」

「えっ、そこ重要?」

 これが良くなかった。思春期の子供には些細なことが重要であることが多い。わかっているつもりだったのに、ぼくは失念していた。

 わなわなと震えた橘さんは手に持った荷物を床に置いて、

「いつになったら下の名前で呼んでくれるんですか!」

 号泣した。まじ泣きだった。

「もーーーー!!」

 言葉にならない声がロビーに木霊する。周囲の人の視線がぼくに突き刺さる。どう考えてもぼくが泣かせた構図になっていた。受け付けのお姉さんがギロッと睨んでくる。

 きっと卒業式を終えて感傷的になっていたのだろう。そして感情的にも。いやしかし、泣くほどか? 考えてみると混乱する。

 とにかく泣き止んでもらわないと。

「わかったからわかった。ありすちゃん、これから呼ぶから」

 時すでに遅し。うわぁぁんと泣き続けるありすちゃん。どうにでもなあれ、とぼくはありすちゃんの頭を撫で続けることしかできなかった。

 それから五分後、泣き止んだありすちゃんと車に移動した。走りだした車内にはなんとも言えない空気が漂う。

 気まずい。なにかを話さないと。そう思っても言葉がうまくでてこず、口をぱくぱくさせるだけだった。

「あの……ごめんなさい」

 先に口を開いたのはありすちゃんだった。気を使ってくれたのだろう。申し訳なく思う。

「いや、ぼくこそごめん。そんなに気にしているとは思ってなかった」

 喜んでいるとも思わなかったけれど、まさか泣くほど嫌だったとは想像していなかった。まあ、今日でなければ泣きはしなかったかのかもしれない。でもありすちゃんにとって重要であることには変わりない。

 ありすちゃんはうぅと恥ずかしそうに唸った。

「違うんです。嫌だったわけじゃなくて……、ただちょっと距離を感じたんです」

「距離?」

「初めは気を使ってくれたんだな、って嬉しかったんです。やっと大人扱いしてくれんだって。でも、段々苗字で呼ばれると余所余所しく感じて……」

 きっと年齢を重ねて、精神的にも落ち着いた頃に色々考えたのだろう。周囲のアイドルとプロデューサーは気軽に名前で呼び合っているのだ。不安に思ってもおかしくはない。

 ぼくは努めて優しい声音で応える。ありすちゃんの不安を払拭する。

「そっか。うん、まあ、わかっていると思うけど、ぼくはありすちゃんを嫌っているとか、そういうことはないから。むしろ好きだよ。気づかなくてごめんね」

 確かに三年半年近くを一緒に過ごしてきた相手に苗字呼びされたら距離を感じるのかもしれない。了承を得ていたとしても、続けていけば不安が過るかもしれない。思春期は不安定な時期なのだ。都度確認をしていくべきだった。気持ちが変わってもおかしくはないと、自分の経験からもわかるはずなのに。

 つまるところコミュニケーション不足だ。ぼくは大人なのだから、もう少し気にかけるべきだった。

 反省は脳内をぐるぐる回る。事故を起こさないように、気持ちいつもよりゆっくり走った。

「好き、ですか……もう一年を切りました。約束、守ってくださいね」

 スピードを落とすと、ありすちゃんは唐突にそう言った。思春期の子供の言葉は意味深で難しい。

「約束? なんの話」

「待ってくれるって言ったじゃないですか」

 ブライダル撮影のときの会話を想起する。ありすちゃんは頬を赤らめて言った。ぼくはなんと答えたか。思いだそうにもでてこない。

 応えに詰まっていると、後部座席からため息が聞こえた。

「いいんです、無理だとわかってますから。年を重ねるにつれて、十六歳はまだまだ子供だと思い知らされました」

「えっ、待って。あれ、本気だったの」

「本気です。いまも」

 泣いたからか開き直っているらしい。言葉に付随する意味を理解して、それでもなお、ありすちゃんは堂々と言った。

 だとしたら、ぼくはしっかり答えるしかない。それが大人としてのあり方だ。

「ごめん。さすがに結婚はできないよ。法的に許されてもさ」

「それは私と結婚できないという意味ですか?」

「歳の差がありすぎる」

「いまどき十二歳差なんてありふれてますよ」

「……そうなんだけどさ。少なくともいま、ありすちゃんは子供だろ。悪いけど、恋愛対象にはならない」

 悪意的な言い訳。だけど、事実ぼくは大人でありすちゃんは子供だ。それもまだ中学生。どんなに言い繕ってもこの構図は変わらないし、この構図が変わらない以上恋愛対象にはならない。無責任な言葉は避けたかった。

 そうですか。ありすちゃんはなんでもなさそうに言う。その声音はどこか楽しそうに聞こえて、ぼくは困惑する。

「この先もずっと恋愛対象外ですか? たとえば私が二十歳になっても、もしくは大学を卒業しても、ずっと対象外ですか?」

 難しい質問だった。

 それは、

「どうだろう。正直、そこまでは考えてなかったから」

「でしょうね。つまり、可能性はあるということです。だから改めて言います。待っていてください。私が大人になるまで、待っていてください」

 あまりに自信満々な言い草に、ぼくはおかしくなって吹き出した。

「もし対象外のままだとして、その頃にはもう三十五歳だよ。結婚できなかったらどうしてくれるんだ」

 ありすちゃんは笑う。自信満々に笑う。

「そのときは、私が結婚してあげますよ」

 やっぱりおかしくなって僕も笑った。

 最後の右折をして、ありすちゃんの自宅の前に車を停めた。エンジンを切って車から降りる。外に出ると優しい日差しが気持ちよかった。車体左側に回り、後部座席の扉を開く。ぼくは手を差しだした。

 ありすちゃんはぼくの手を取って車から降りる。向かい合うとなんだか気恥ずかしい。

「私はもう高校生です。つまらないことに拘るのはやめました。子供っぽいと思うことも、恥ずかしいからと躊躇うこともやめにします。だから覚悟してください。絶対に振り向かせてみせますから。見ていてくださいね」

 不敵に微笑むありすちゃん。ぼくはうなずく。

「うん、見てるよ。ぼくはありすちゃんのプロデューサーだからね」

「ふふっ、では失礼します。今日はありがとうございました」

 ありすちゃんが家の中に入るまで見届けた。扉を閉める間際彼女は微笑んでくれたので、ぼくは小さく手を振り返した。

 扉が閉まってからぼくはため息をつく。ありすちゃんの笑顔があまりにも大人びていて、不覚にもときめいてしまったから。

「これは手強そうだ」

 五年後、ぼくはありすちゃんの父親気分ではいられないかもしれない。最後の笑顔を思い出して、心のなかで呟く。

 ありすちゃんを卒業して三年。ありすちゃんは中学校と同時に橘さんを卒業して、ありすちゃんになった。

終わり。

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