P「輿水幸子は無数に存在する」 (160)

そこそこ長いです。あとSF考証してません。

人を選ぶ内容かもしれませんが、お付き合いいただけますと幸いです。

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1481111726

 俺の人生は幸子のためにある。

 輿水幸子というアイドルを育むことこそが俺の生きがいであり、命そのものだ。
 全人類が輿水幸子に溺れ、その渦の中心で俺は彼女を足下から見上げる。
 そんな未来を夢想して日々を生きている。プロデューサーとしての本懐だ。

 幸子と出会ってから未だ半年。ようやく道を歩み始めたところ。未来絵図に辿り着くのはまだまだ先のことだ。
 どういうルートを通ってゆくのかすら、まだ決まってはいない。

 幸子は莫大な可能性を秘めている。
 幸子の才能は高さだけでは表現できない。
 高さでなく、幅なのだ。
 多岐にわたる選択肢を、幸子は持っている。

 例えば清純派アイドルとして売り込んでも良い。
 小悪魔アイドルとして売り込んで良い。
 はたまた芸人じみたキャラでもいけるだろうし、歌唱力を武器に孤高のアイドルを気取るのもアリだろう。
 なんならユニットを組んでリーダーを務めさせるのも良い。

 デビューを目前に控えた今の時期、まだ幸子はどの色にも染まっていない。
 方向性は俺のプロデュース次第だ。
 本心では俺なんかに務まるとは思えない大役だが、務まると信じなければ幸子に失礼である。
 だからこそせめて全力で。輿水幸子の第一のファンであることに誇りを持ち、プロデュースには己の全身全霊を注ぎ込む。

 まだまだ幸子は成長途中だ。
 俺はそんな幸子の手となり足となり、プロデュースに己の全てを捧げる今の生活が、心底楽しくて堪らない。

 課長との打ち合わせを終え、小会議室を出る。

 打ち合わせの内容は、幸子の初シングルの販促について。
 デビュー当初は、輿水幸子という名前を消費者に覚えさせなければ話にならない。
 事務所所属のアイドルがパーソナリティを務めるラジオへの出演、地方のショッピングモールを回るミニライブツアー。

 まずは正統派キュートアイドルとして、『可愛さ』を武器に闘っていくつもりだが、やはり確固たる方向性はそろそろ決めておかねば。すでに遅すぎるくらいだ。
 素の幸子に一番近い形が理想ではあるが――それがアイドルとして上を目指すための最適解とは限らない。
 少しのズレは許容しよう。
 幸子本人の希望も重要だ。

 白い壁紙に挟まれた廊下を歩き、執務室へと急ぐ。
 今後の方針を話し合うため、幸子を待たせてしまっているのだ。
 課長との打ち合わせの前からだから、そろそろ痺れを切らしている頃だろう。

 ああ、ほら、噂をすれば幸子から着信だ。

「もしもし、悪いな幸子、少し打ち合わせが長引いて――」

『そんなことは良いですから早く来てくださいっ! 大変なんですっ!』

「どうした? 何かあったのか!?」

『助けて! 助けてくださいプロデューサーさんっ! 早くしないとボク――』

「落ち着け幸子。まずは状況を教えてくれ。幸子はまだ、執務室にいるんだな?」

『そうですよっ! か、カワイイボクのピンチなんですから、急いでください! プロデューサーさんっ!』

 強がる余裕はあるようでほっとする。生死に関わるような大事ではないらしい。
 自室へ戻るにはエレベーターよりも階段を使う方が早い。
 金属製の重い扉を開け、非常階段を駆け下りる。

「待ってろ幸子、すぐに戻るからな。泣くんじゃないぞ」

『ふ、ふふーんっ! 泣くわけないじゃないですか。全然ボクは怖くなんか――』

 幸子の声を最後まで聞き取ることはできなかった。

「あ」

 階段を踏み外したことで、スマホが俺の手からこぼれ落ちたからだ。

 奈落へ落下してゆくスマホを眺め、視界がスローモーションに移り変わっているのに気付く。

 ばちばちと眼前に光が舞っているのは、どうやら後頭部に受けた衝撃のせいらしい。

 眼鏡がどこかへ吹っ飛んでゆく。

 何が起こっているのかを理解する前に意識は薄れ、どうやらこのまま俺は死んでしまうらしいと悟った。

 死んでいなかった。生きている。

 視界に移るのは白い天井。それと豆電球。
 全身に重み、頭の後ろには柔らかなざらざらとした感触を覚える。
 俺は布団と毛布をかけられ、ベッドに横たわっていた。

 病院に運ばれたのかと一瞬思ったのだが、すぐにそうではないと気付く。
 ここは明らかに俺の部屋だ。
 事務所の執務室でなく、正真正銘の我が家。
 部屋の状態が朝起きた時と少し違って見えるのは、あれから何日か経過しているからか。

 不思議に思いながらも体を起こす。
 壁時計は午前7時を指していた。
 眼鏡をかけ、枕元で充電されていたスマホで日付を確認すると、9月23日。
 なるほど、階段から転げ落ちた日から一週間が経過している。

 階段ですっ転んで天国行きなんていう間抜けな事態にはなっていないようで、まずは胸を撫で下ろした。
 しかし、とはいえ一週間だ。
 何が何やらわからないが、幸子にも事務所にも迷惑をかけているだろうし、まずは連絡を入れなければな。

 電話帳から幸子の連絡先を選択し、スマホを耳元へやる。

 コールの間、ぼんやりと壁を眺めると、そこにA2サイズほどの、幸子のポスターが貼られていた。
 スポットライトに照らされ、ステージ上で目映く輝く表情は、まさしく俺と幸子の目指したアイドルそのもの。
 自然と口元が緩むのを感じるが、しかしそんなポスターを製作した覚えはない。
 そもそも幸子はまだ、ステージに立った経験すらなかった。

『プロデューサーさん? どうしました?』

 ああ、耳慣れた幸子の声が嬉しい。

「心配かけたな、幸子。いま目覚めたところだ。まずはお前に報告しなきゃと思って」

『……えーっと、プロデューサーさん、逆モーニングコールですか? もしかして笑うとこです?』

「いや、冗談で言ってるわけじゃなくてだな」

 真面目な調子で返されると、こちらがおかしなことを言っているのかと錯覚してしまう。

「ああそうだ、俺のいない一週間、何があった? 大変だったか?」

『はい? やだなー、プロデューサーさん、ずっといたじゃないですか。特に最近はソロライブの準備で忙しかったんですから、いなくなったりなんかしたら困りますよ!』

「……ソロライブ?」

『え、いやあの、やっぱり冗談ですよね? ボクの、輿水幸子の単独ライブに決まってるじゃないですか! しかも今日! ふざけてたりして、遅刻なんてしたら許しませんからね!』

 ソロライブというのは、まさか、地方のショッピングモールを回る、例のリリースツアーのことを指しているのか?
 いやさすがの幸子もそこまで自惚れてはいないだろう。

 首を捻りながらも、確かに遅刻はまずいと思い、シャワーを浴び、バスタオルを腰に巻き付け歯を磨く。

 すっきりした頭で考えるに、これはもしかして、記憶喪失とかいう奴なのか。
 だとしたら今後の幸子の活動にも支障をきたすほどの事態だが。
 とにかくまずは幸子がライブと言っているのだからライブ会場に向かわなければ。

 車を走らせ、事務所へ。
 幸子から可愛い小言をぶつけられながらも、スケジュールを確認し「はははそんな馬鹿な」と喚きつつも、さらに会場へ。
 馬鹿なのは俺の方だった。

『輿水幸子 シンデレラの舞踏会 2017』

 その看板は、武道館の入り口に堂々と掲げられていた。

「やっぱりここに来ると、実感してしまいますねえ、プロデューサーさん?」

 隣の幸子が瞳を潤ませる。

 俺が階段から転げ落ちたのは、2016年9月16日。
 あれから実に、1年が経過している。

 ――まったく、長い記憶喪失である。

 ライブは盛況のうちに幕を閉じた。
 幸子の歌う曲は俺の知らないものばかりだったが、終始、俺の目からは涙が溢れて止まらなかった。

 ライブが終わって、あのポスターのように光り輝く表情で楽屋へと戻ってくると、幸子は開口一番「次はドームですね!」などと宣った。
 気が早いと返してやると「フフーン、このボクですからねえ、来年の今頃には叶ってるはずです」と頼もしいことを言ってくれる。プロデューサー冥利に尽きる。

 ともかくよく頑張ったな、と激励の意味を込めて頭を撫でてやると、幸子は顔を赤くして、再び瞳を潤ませた。

 武道館を後にすると、事務所で身内だけのささやかな打ち上げパーティを行い、俺はライブの高揚感を引きずったまま帰路についた。

 ――ドームライブ。
 幸子にはああ言ってしまったが、本当は俺だって、近い将来には実現できるだろうと確信している。
 一アイドルが、武道館での単独ライブを成功させたのだ。
 あの熱狂は明日にもニュースサイトを駆け巡るはずである。
 そして一般層へ、老若男女へと伝染し、いつかは日本全国へと。
 その日が訪れるのが、本当に楽しみだ。

 自宅のベッドへ横になると、いつの間にやら俺は眠ってしまっていたようだった。

 雀の鳴き声がかすかに聞こえ、起き上がると、カーテンの隙間から朝日が差している。

 部屋の中を見回すと、雑多に散らかったスーツや酒瓶。こじんまりとした液晶テレビに、こたつと座椅子。
 こんな景色に見覚えはないし、鼻につく部屋に染みついた体臭も俺のものではない。

 更にくんと臭うと、その中に心地よい柑橘系の甘い香りがあるのに気付いた。
 香りの元を辿り、右隣の方向へ目を向けると、そこに幸子が眠っている。

「…………」

 俺の横で、幸子が眠っている。
 布団から覗く肩口から察せられるに、どうやらその下は裸のようだった。

 自分の体を見るとどうやらこちらも裸らしい。
 恐る恐るベッドを降り、誰の部屋だか知らないが勝手にシャワーを借りて、床に落ちていたスーツに着替えた。
 さすがにトランクスや靴下なんかは、新しいものをタンスから拝借した。

 幸子はシャワーの音で目を覚ましてしまったらしく、寝ぼけ眼であくびをしている。
 よし、この様子なら押し切れるか。

「幸子! 朝だ! 事務所に行くぞ!」

 俺が叫ぶと、びくり幸子は体を震わす。

「あ、おはようございます、プロデューサーさん。……あれ、あの、な、何もなかったかのように振る舞ってますけど、き、昨日のこと、ボクはばっちり覚えてますからね!?」

 まあ、無理だよな。

 どうやら俺は担当アイドルに手を出してしまったらしい。

 真っ赤になった幸子は「後ろ! 向いててください!」と叫び、スーツと同じく床に落ちていた下着やワンピースを拾い着替えた。
 居心地が悪かったのか、少しの間もじもじと目を泳がせていると、そのまま「顔を洗ってきます」と洗面所の方へ飛んでいった。

 以前、同僚で担当アイドルと恋愛関係に至った奴がいるのだと聞いたことはあった。
 その時は俺も憤りを覚えたものだったが、まさか自分が同じ道を辿ってしまうとは。

 幸子でそういう方面の妄想をした経験がないといえば嘘になる。
 男なのだから仕方ない。
 ましてや、あんなに可愛い相手だ。毎日毎日顔を合わせていれば、自然と考えもする。

 とはいえ、実際に手を出すかといえば、話は別だ。

 アイドルは、恋愛をしてはならない。
 理由は明白。ファンがそれを嫌うからだ。

 アイドルが男と付き合えば、それはファンに対する裏切りと取られてしまう。
 もちろん全員が全員ではないだろう。
 幸子がどこの誰と付き合おうと構わない、と言ってくれるファンも当然いる。
 しかし、一点に陰りがあれば、そこから闇は広がる。
 アイドル活動を続ける上で、スキャンダルは御法度だ。

 それがどうして、こんな事態に陥ってしまっているのか。

「はあー……」

 ベッドに腰掛けて項垂れていると、洗面所から戻ってきた幸子に声をかけられる。

「どうしてため息なんてついてるんですか?」

 幸子は不安げな表情を浮かべている。

「ま、まさか、昨日のこと、プロデューサーさんにとっては、遊びだったってことですか? ただの勢いで? ボ、ボクにあんなこと……」

 最後の方は身を震わせながら言葉を吐き、今にも泣き出してしまいそうだったので、俺は慌てて「遊びなんかじゃない、本気だ」と返す。
 すると幸子は目尻に涙を浮かべつつ「な、なんだ、まぁ当然ですよねボクですからね」と嬉しそうに笑った。

 とにかく、やってしまったのだ。
 過ぎ去ったことを後悔しても仕方がない。

 問題は、ここからどう振る舞うかだ。
 幸子とプロデューサーが関係を持ってしまったからとて、大衆にバレなければスキャンダルにはならない。
 隠し通せば良いのだ。

 だとしたら、第一に考えなければならないのは、ここからどう幸子を自宅へ(あるいは事務所へ)と送り届けるのかだが。

「なあ、幸子、ここってどこだか知ってるか?」

「え。そ、それって、ボクのこと試してます? プロデューサーさんのおうちじゃないですか。……自分で連れ込んだくせに、もう」

「…………」

 おかしいな、明らかにここは俺の部屋ではないのだが。
 俺の部屋はもっと片付いているし、転がっている酒瓶はビールが主。俺はビールより日本酒派だ。

 まさか、また記憶喪失か?
 こたつに置かれていたテレビのリモコンを取り、電源ボタンを押すと、ちょうど朝のニュース番組が放送されている。
 表示された日付は、

「2016年……? 11月13日……?」

 戻っている。戻っているぞ。

 昨日は2017年だったはずだ。間違いない。
 武道館ライブ、確かに2017年だった。

 時間が跳躍するのはまだわかる。俺の記憶が飛んでいるだけだ。
 しかし、巻き戻るとはどういうことだ。
 昨日のあれは、夢か何かだったのか?
 いやだとしたら、今のこの状況こそが夢なのか?

 お約束とは思えど頬をつねろうとしてみたが、肉が少なく難しい。
 代わりに手の甲へ爪を立ててみると普通に痛かった。夢ではないのだろう。

 よし、こうしよう。
 昨日のあれは夢。今は記憶喪失。
 つまり俺は9月13日から2ヶ月間、記憶をなくしてしまっていただけなのだ。
 その間に家は引っ越し、酒の趣味も変わったのである。

 スーツの内ポケットに手帳があったので、本日のスケジュールを確認すると……予定はゼロ。
 どうやら今日は幸子も俺もオフのようだ。

 床に転がっていたガス代の明細書から住所を確認すると、スマホ(パスワードは『1125』だった。わかりやすい)のアプリを使ってタクシーを呼ぶ。

「幸子、30分後にタクシーを呼んだ。それまでに帰り支度を済ませておいてくれ」

「ボク、もう帰らなきゃ駄目なんですか……?」

「スキャンダルになったらまずいからな。悪い。どうせ明日にもまた会えるさ」

 スケジュール帳にも、明日は新曲の収録日と記されていた。

 幸子はそれでもまだぐずぐずと不満を口にしていたので、「せめて朝飯くらい食べてくか?」と言ってみると、不満が止まり、「はい」と短く返ってきた。

 米を炊く時間はなかったが、冷凍ご飯を見つけたのでそれをレンジで温め、ついでにウインナーと卵をフライパンで焼く。
 こたつで向かい合ってそれらを黙々と食べていると、ちょうど幸子が箸を置いたところでチャイムの音が聞こえてきた。

 財布から一万円を抜き出し、幸子へ手渡す。
 タクシーの扉が閉まる直前に「また来ても良いですよね?」と幸子が問いかけてくるので、俺は「その時は俺が迎えに行く」と返した。
 幸子は満足そうな笑みを残して去って行った。

 さて、幸いにして、今日は日曜日だ。
 わけのわからないことだらけだが、一旦全てを忘れて、昼寝でもしよう。

 再びスーツを脱ぎ捨て、パンツ一枚になる。
 些か冷えるので暖房のスイッチを入れ、そのまま俺は布団を被って眠りについた。

 目覚めた場所は、事務所の執務室だった。

 目の前にはノートPCがあった。
 手前には飲みさしの缶コーヒー、そして山と積まれた書類。
 
 執務室の照明は灯っているが、窓の外は暗く、妙に静かであることから、今が夜中であることが察せられた。

 伸びをして首を回すと、上半身の至るところから小気味の良い音が聞こえた。
 随分と長い間眠ってしまっていたらしい。
 しかし瞼は重く、疲れが溜まっているのがわかる。

 腕時計を見ると、午前3時。
 なるほど、仕事をするような時間帯ではないな。

「何故、俺はこんなところにいる」

 2017年2月10日と、ノートPCのスクリーンセーバーには表示されている。

 手の甲に爪を立ててみるがやはり痛みはある。

 記憶喪失の線はもはや消え去った。許容範囲を超えている。
 そもそも、これまでもおかしかったのだ。
 俺が記憶を失っているだけなのだとすれば、幸子が俺にそのことを伝えてくれていたはずだろう。

 ……ここは本当に、俺の執務室なのか?

 仕事用のデスク、ノートPC、書類棚、観葉植物。
 来客用のガラス机と、対面に置かれたブラウンのソファが一組。

 確か俺の記憶では、ソファは黒かったはず。
 やはり、ここは俺の部屋ではないのか。

 内ポケットから手帳を取り出し、近日のスケジュールを確認する。
 2月11日に『142'sバレンタインライブ』とある。
 142'sというのは、なんのことだ? ユニット名か?
 
 スクリーンセーバーからホーム画面へと戻り、デスクトップを漁る。
 と、『バレンタイン』と簡素な名前のつけられたフォルダへのショートカットを見つけたので、それをダブルクリックした。

 フォルダに置かれた画像ファイルをビュアーで開くと、並ぶ三人娘の姿が現れた。

 各々が特徴的なポーズを取り、ラッピングされたチョコレートを持っている。真ん中は幸子だ。
 おそらくこれはバレンタインイベント用の販促ポスターだろう。

 上部には『カワイイボクと142's』と書かれている。
 やはりこれはユニット名。
 142というのは、彼女らの身長を示しているのだろう。
 幸子のプロフィールも身長は142cmとしている。

 幸子の両脇の二人のうち、金髪の子には見覚えがある。
 ウチの事務所に所属している、名前は白坂小梅とかいったはずだ。
 反して、もう片方の、デスメタルの衣装の子には心当たりがない。
 こんなもの一度目にしたら忘れないはずだ。間違いない。

 ――少し情報を集めるか。朝までにはまだ時間がある。

 缶コーヒーの残りを全てぐいと飲み干すと、俺は身を乗り出し、PCのディスプレイにかじりついた。

 ノートPCから収集できる情報はあらかた集め終わった。
 PCに保存された画像、資料だけでなく、ネットサーフィンを行い各ニュースサイトの履歴なども漁った。

 そして出した結論は一つ。
 ここは、俺の元いた世界ではない。

 俺は眠る度に、意識だけ並行世界へと移動しているのである。

 移動しているのは、あくまで意識だけ。肉体は俺のものではない。
 この世界には元々、142'sを担当するプロデューサーが存在していたはずなのだ。

 142'sは、俺のいた世界で幸子が初シングルをリリースすることになっていた九月の終わり、同日にデビューしている。
 それから142'sは、各々の強烈なキャラクター性が功を奏し、期待の新人アイドルユニットとして界隈を賑わせているようだ。
 当然ながら、それは俺が企画したものではないし、今後も3人をユニットデビューさせる予定はなかった。
 
 この世界の俺が徹夜仕事をしてまで事務所に残っていた理由も判明した。
 幸いにも、TODOリストがデスクトップに置かれていたのだ。
 表計算ファイルの作成時刻は、前日夕方17時。
 リストに記載されていたタスクは2桁に及んでいた。
 これだけの作業量を残していれば、徹夜もやむなしだろう。

「さて、どうするか」

 俺が並行世界を移動していることはわかった。
 では、どうすれば元の世界へ帰還できるのか。

 ただただ日々を過ごしていれば、眠るごとに世界を移動できるのだから、いつかは帰還できる?

 いや、それは事態を甘く見過ぎだろう。
 俺の僅かなSF知識を総動員してみるに、確か並行世界というのは無数に存在するものだったはず。
 星の数ほどの世界の中から俺の望むものを掴み取るなどというのは夢見ごとだ。

 何か手を打たなければならないのは確実なのだが。

 ――しかし、その前に、どうしても気になることがある。

 目の前のディスプレイに表示されたタスクリスト。
 片付けたものには全てチェックが入れられているのだが、一つだけ、チェックの付いていないものが残っている。

『バレンタインイベント、142'sのトーク台本作成』

 どうしてこんなに大事な仕事を最後に残してしまったのか。馬鹿なプロデューサーだ。

 イベントは明日。これを手付かずで残しておけば、幸子たちはイベントでのアドリブを余儀なくされる。
 トークは20分だ。これだけの長さを、デビューして間もない新人アイドルがこなすのは困難だろう。
 きっとどこかでボロが出てしまう。

 大事なイベント。
 ようやく軌道に乗り始めたユニットの晴れ舞台。
 失敗するわけにはいかない。

 空が白み、腕時計の示す時刻は7時30分。
 今日は金曜日、平日だ。幸子たちが事務所へやってくるのはおそらく17時頃となるだろう。
 だとすれば、残された時間は10時間弱。
 十分に構想を練っても余りある時間だ。

 イベント資料。
 ニュースサイトやSNSから得られた142'sのイメージ。
 そしてターゲットとするファン層。

 情報を更に収集し、整理し、会場を訪れたファンの最も期待する内容を想像する。

 プロデューサーの本領発揮だ。

 用を足す以外では執務室を一切出ず、ぶっ続けで作業に没頭すること8時間。
 トーク台本は出来上がった。
 途中、昼食を持ってきてくれた事務のちひろさんには頭が上がらない。

 肉体疲労、精神疲労。両者がのしかかり、俺の体はソファへと沈み込んだ。
 頭を使いすぎて、脳みそから湯気でも出ているかのようだ。
 仕事を終えた開放感や達成感もあるのだろう、このままだらりとしていればすぐさま眠りに誘われるはず。

「し、親友……ど、どうしたんだ……」

 ふと聞き覚えのない声に顔を上げてみれば、そこに一人の少女が立っていた。
 両手でキノコの生えた原木を抱えている。

「あぁ……あー」

 親友というのは俺のことだろう。
 俺にとっては初対面の相手ではあるが、こいつの顔はこの数時間で嫌というほど眺めてきた。メイクがなくともすぐに気付ける。

「輝子、来てたのか」

「親友……げ、元気がなくて……まるで私みたいだぞ……」

「アイドルがそんな調子でどうする」

 心配をかけるわけにもいかない。
 そうやって俺が苦笑してみせると、輝子はつられて「フヒ」と笑ってくれた。

「幸子と小梅はまだ来てないのか?」

「わ、わからない……けど、昨日、約束したから……もうすぐ来ると思うぞ……」

「約束?」

「あぁ、親友……。ま、待ち合わせをしたんだ……」

「おはようございまーす! カワイイカワイイボクの登場ですよーっ!」

 輝子の答えに間髪入れず、幸子の挨拶が聞こえてきた。
 扉を開け執務室へ入ってきた幸子は、学校帰りにそのままやって来たのか制服に身を包んでいる。
 後ろには白坂小梅の姿もある。

 142's全員集合だ。予想よりも早かったな。

 俺は立ち上がり、印刷しておいた台本を三人それぞれへ手渡す。
 各メンバーごとに、台本には赤で注意書きとアドバイスを入れておいた。

「明日のバレンタインイベント。3人のトークがあるのは知ってるな。これはその台本だ。各自、念入りに確認して打ち合わせておくように。きちんと話し合ってな」

「本番では、これをそのまま読めば良いんですか?」

 幸子から質問が飛ぶ。
 おそらく幸子がリーダーを務めているのだろう。

「台本はあくまでトークの流れを書いたものだ。そっくりそのまま読む必要はない。アドリブを入れたくなったら自由に入れろ。その方が142'sの得意分野だろう。俺では想像のつかないことをやってくれるからこそ、お前らは魅力的なんだから」

「フ、フフーン! さすがプロデューサーさん、よくわかってますね!」

「エ……エリンギくんを連れて行っても良いか……?」

「良いぞ」

「ホ、ホラー映画の話、たくさんしても良い?」

「良いぞ」

 俺が言うと、二人とも晴れやかな顔をする。
 幸子は「ホ、ホラー映画の話はボク的には少なめにして欲しいですけど」とぼそぼそ呟いている。

 この様子なら安心だな。あとは三人で、何とでもできるだろう。
 プロデューサーの役目はあくまでサポート。
 本番に臨むのはアイドルの仕事だ。

「じゃ、俺はちょっと休憩してくる。すぐに出られるようにしておくから、訊きたいこととか、相談事があれば携帯に連絡をくれ。遠慮はいらないからな」

「ゆっくり休んでてください。その間にボクたちだけでばっちり打ち合わせておきますから! なにせ、このボクですからね!」

 頼もしい幸子に別れを告げ、俺は事務所の仮眠室へ。
 俺の世界とは場所が違ったがどうにか見つけられた。

 スマホを枕元に転がし、ベッドへ横になる。

 次にこの世界で目覚めるのは俺ではないが、ここまでフォローしておけば、あとは上手く進められるだろう。

 目を瞑り、すぐさま俺は眠りに落ちた。

「お休みのところごめんね。そろそろお店閉めちゃおうと思うんだけど」

 顔面に皺の刻まれた年配の女性が、俺の顔を覗き込んでいた。

 直後に、頭痛と酩酊感に襲われる。
 重い頭を持ち上げ辺りを見回すと、どうやら俺は居酒屋のカウンターで眠っていたらしい。
 おそらくは、この、ママと話し込んでいる最中に寝てしまったのだと思う。

「俺、どのくらい眠ってました?」

「たっぷり4時間。普段ならあたしも家に帰って寝てる時間だね」

 壁時計を確認すると、深夜の2時。
 全力で謝ると、ママは「愚痴りたいこともたまにはあるでしょ、仕方ないよ」と笑った。
 反応からして、どうやらこの体とママは顔馴染みらしかった。

 店の前へとタクシーを呼び、ママへ別れを告げると、ドアを閉める間際、彼女は気になる言葉を吐いた。

「それじゃ、幸子ちゃんのこと、頑張んな。絶対に諦めちゃ駄目だよ」

 どうにも違和感が残る。

「諦めちゃ駄目? 何を?」

 免許証に記された住所へと送り届けられ、シャワーを浴びベッドへ寝転がっても疑問は拭えない。

 ここで眠ったら、俺はこの世界との関わりを失ってしまう。
 確認だけでもしておかなければ。

 酒の匂いの残るスーツをハンガーで吊るし、代えのスーツをクローゼットから取り出し羽織る。
 再びタクシーを呼び事務所へ。
 セキュリティカードをかざしてビルへと入り、執務室を探し出す。
 PCのパスワードを1125で解除する。

 デスクトップを漁ると、幸子の身に起こった事態はメモ帳へ雑多にまとめられていた。

 幸子は、一週間以上も前からアイドル活動を休止し、自宅へと引き籠もっていた。

今日はここまでにします。

ありがとうございます。元気出ます。

戻りましたので、再開します。

 この世界のプロデューサーは、幸子を芸人アイドルとして売り出すことを決めた。

 芸人アイドル。そのこと自体に間違いはなかった。

 幸子のバラエティ向きな性格は、数多のテレビ番組に重宝された。
 一応アイドルという体は保っているが、ドッキリで無人島へ連れて行かれたり、ヘリから飛び降りたり、蛇と触れ合ったり両腕を拘束されておでんを食べさせられたり、やっていることは芸人と変わらない。
 それでも幸子は芸能人として一定の地位を築きあげていた。
 世間から愛を注がれていた。

 けれど、幸子はそのことに疑問を抱き続けていた。
 アイドルは、こんな仕事をするものなのか。
 目指した場所は本当にこんな場所だったのか。

 芸人アイドルとしての仕事が、実のところ嫌いなわけではなかった。
 嫌な部分ももちろんあれど、それも自分が人気者だから仕方のないことと捉えていた。
 幸子の美点だ。

 しかし最近は、段々と心に隙間が生まれてきてしまっていた。

 そこに、二つの事件が起こった。

 まず、幸子は、ネット上での自分の悪評を目の当たりにしてしまった。

『アイドル輿水幸子と一般的な芸人との比較図』
『もはやアイドルではないよなw』
『実際、そこらの女芸人の方が可愛い』
『正直もうフェスには来ないで欲しい』
『他のアイドルに失礼!』
『歌と踊りで勝負できないんだから仕方ないでしょw』
『割り切りって大切ですよね』

 悪意のあるもの、ないもの。
 そのどれもが幸子の心に突き刺さった。

 もちろん、幸子に好意的なファンもいた。
 しかし幸子に、そちらへ目を向ける余裕はなかった。

 次に幸子は、通っている中学でいじめに遭った。

 原因は、幸子の芸人アイドルとしての活躍。
 世間が幸子を『いじっても良い存在、無茶をさせても良い存在』と認識している。
 そんな幸子を、身近なクラスメイトは放っておけるはずがない。
 彼らは世間のイメージそのままに幸子をいじり倒した。

 初めは幸子も、テレビ番組の延長として、それを受け入れた。
 おそらく初めはクラスメイトの方も単なる親愛の裏返し、遊びのつもりだったのだろう。

 けれどエスカレートしたいじりは、いじめへと至った。

 幸子はただただ、トイレへ閉じ込められた。
 ゴミを投げつけられ、筆記用具や靴を隠された。
 そうして幸子は、学校での居場所をなくした。

 一つであれば耐えられた。そう幸子は言っていたのだという。

 けれど、アイドルとしての存在を見失い、学校での居場所も失い、幸子はどこにもいられなくなった。

 心の拠り所は自宅だけ。

 外の世界では、幸子は有名人だ。
 出会う人出会う人が幸子を芸人アイドル輿水幸子として認識する。
 幸子は内に籠もるしかなかった。

 ここまでの事態の把握に、どうやらプロデューサーは一週間を要したらしい。
 幸子の両親や事務所の面々に話を聞き、どうにか得られた情報だ。

 それからプロデューサーは幸子の通う中学で担任の教師と面談をし、幸子の自宅で面会を断られ、やけ酒へと至ったのだった。

「あぁまったく、どうしてこんなことになるまで……」

 この世界のプロデューサーは、どうやら無能らしい。

 俺だったらもっと早くに察知できていただろう。
 幸子に異変があれば、すぐさま気付く自信がある。

 どれだけ気丈に振る舞っても、幸子は14歳の女の子だ。
 心は脆く崩れやすい。

 このままでは、幸子は終わってしまう。

 二度と表舞台に返り咲けない。
 下手をすればこの先、人生に活路を見出すことすらできなくなってしまうかもしれない。

 俺が、何とかしなければ。

 俺は幸子のプロデューサーだ。
 そして、どんな世界でも幸子は幸子だ。輿水幸子だ。

 俺は幸子を応援する義務がある。輝かせなければならない。
 それが俺の生きがいだ。命そのものだ。

 この世界のプロデューサーになど任せておけるか。

 俺がやる。俺が幸子を取り戻す。

 再びアイドルの世界へと、立たせてやる。

 まず俺は、幸子の通う中学へ殴り込みをかけた。
 いや、殴り込みといっても腕力に頼ったわけではない。大人の俺は、舌戦だ。

 担任教師との面談を取り付け、いじめを見過ごした事実を糾弾し、諭し、少しばかり脅してやり、味方につけた。

 次に、幸子のクラスのHRへ顔を出した。
 俺の登場にはみな驚いていた。

 当初は幸子へ親愛の情を持っていたクラスメイトだ。
 どこかで歯車が狂っただけなのだと思う。
 だから俺は、罪悪感を煽ってやることにした。

 幸子の現状を、話せる範囲で全て話してやったのだ。
 幸子の身に起こったこと。それが世間に及ぼす影響。その責任が、彼ら自身にあるということ。
 全て語りきかせてやった。

 彼らもどこか他人事だったのだろう。
 俺の登場に、そして俺の言葉に、どれだけ異常な事態が起きているのか、自分たちのしでかしたことをようやく認識できたらしい。
 帰り際に、数人の女生徒から泣きながら謝られた。
「泣くくらいなら初めからやるな」と言っておいた。

 なんとかこれで、幸子の帰る場所は確保できただろう。
 幸子が再び登校を始めても、同じ結果を辿りはしない。

 問題は、折れた幸子の心を治す方だ。

 こちらに関しては、乱暴な手段は使えない。
 ただただ、幸子と話すしかない。
 すでに引き籠もりはじめて一週間だ。時間が解決する保証はない。

 俺は幸子の自宅を訪問した。
 現れた幸子の母親は疲れきった表情で、俺の顔を見ると少しだけ眉をひそめる。
 しかし、頭を下げて頼み込むと、家の中へは入れてくれた。

「幸子は部屋へ籠もりっぱなしなんですか」

「……ええ、外に出るのは、お手洗いとお風呂くらいですね」

 居間に通され、お茶を出してもらう。
 口をつけると、熱いお茶が体に沁みた。

「食事はどうされてますか」

「私が運んでいます。少し経つと部屋の前にお盆が置かれるので取りに行っているのですが、食事は半分ほどしか減っていません」

「俺に、幸子と話をさせてください」

「昨日も言いましたでしょう。幸子本人が拒んでいます。私からは許可を出せません」

「なるほど、幸子から許可をもらえば良いわけですね」

 俺は残ったお茶を飲み干し、立ち上がった。
 お茶は舌が焼けるような熱さだったが、気合いを入れるにはちょうど良い。

「ちょ、ちょっと待ってください。あの子に、何かするつもりですか」

「部屋の前から呼びかけるだけです」

「……あの子を、追い詰めないでください」

 母親の声は怒気をはらんでいる。
 幸子が引き籠もってしまった責任の一端は俺にあると思っているのだろう。
 まさしくその通りだから言い逃れをするつもりはない。
 確かに、芸人アイドルとして幸子を売り出すことに決めたのは、この体、このプロデューサーだ。

「俺は、幸子を救いに来たんです。追い詰めなんかしませんよ」

「ですが――」

「幸子が望むなら、今やっている仕事は全てやめさせましょう。路線を変更します。芸人アイドルから、正統派アイドルへ。幸子なら、どんな方向性でもやっていけますから」

 それで母親は口をつぐんだ。認めてくれたのだろう。

 俺は階段を上がり、『さちこの部屋』と木製のボードの提げられたドアの前に立つ。

 深呼吸。息を整えて、口を開く。

「幸子、俺だ。無理矢理連れ戻しに来たわけじゃない。まずは、お前と話をしにきた」

 返事はない。まぁ予想はしていたことだ。

「幸子のクラスの連中と会ってきた。ボコボコにしてきたよ。もちろん拳じゃなくて、口八丁でな。これであいつらはお前と対等な位置に立つ。初めの内は妙に優しくされたりして気持ち悪いだろうが、しばらくすれば自然な間柄におさまるだろう」

 反応はなくとも、言葉は続ける。

「さっき、お前のお母さんにも言ったんだが、お前はもう、今みたいな仕事をしなくて良い。これまでだってお前が拒絶していたわけじゃないのは知ってる。でも、どこかで俺には甘えがあったんだと思う。お前が拒絶しないから、それに甘えていたんだ。だからこれからは、まずは幸子の希望を尊重する。正統派アイドルがやりたいなら、正統派アイドルに。歌と踊りで世間を魅了してやろう。幸子ならできる。お前はそれだけのポテンシャルを持ってるんだ」

 眠ってしまっているのかもしれない。
 そんな不安を振り払い、言葉を続ける。
 まだ夕方だぞ。起きているに決まっている。きっと、聞いてくれているはずだ。

「だから、お前が心配するようなことは何もない。再開するのはすぐじゃなくて良い。気持ちが落ち着いてからで良い。ただ、話だけでも、返事だけでもしてくれないだろうか」

 そこで一分ほど待ってみた。が、やはり沈黙は保たれたまま。
 まぁ、俺が言葉を投げかけるだけで出てこられるなら、とっくに解決していた話だ。

「出てくるまで、ここで待つよ」

 持久戦だ。
 俺は幸子の部屋の前に腰をおろし、あぐらをかいた。

「食事やトイレ、風呂に入る時はドアをノックしてくれ。顔を合わせたくないのなら、その間だけ、ノックの音で俺は扉の前を離れる」

 生理的欲求の隙を突くような、卑怯な真似はしない。
 そしたら、幸子の心はきっと俺から離れていく。

 背中をドアへ預ける。
 これでノックがあればすぐに気付けるだろう。

 物音一つない部屋の中を想い、俺は静かに闘いを始めた。

 そして日が暮れ、さらに夜が明けるまで、ノックの音は計3回だった。

 俺はノックの音を耳にすると、すぐさま立ち上がり、幸子へ「どくぞ」と声をかけてから隣室へと移った。
 ドアの開閉音がして、しばらくし、二度目の開閉音を耳にした後に、幸子の部屋の前へと戻る。
 それを3回繰り返した。

 ノックがあったということは、幸子は俺の話を聞いていたということだ。
 それ自体には嬉しさを覚えた。

 ノックとは別に、幸子の母親が一度、夕食を持ってやってきた。
 その時も俺は隣室へと避難していた。
 当たり前ではあるが、俺の分の夕食はなかった。

 幸子が俺の存在を忘れ去らないよう、定期的に幸子へ声はかけるようにしていた。
 もちろん夜間帯は避けた。
 しかし、いまだ幸子からの返事は一度も得られていない。

 廊下の突き当たりには小窓がある。
 そこから差す朝の日差しが、鋭く俺の目を襲った。

 眠れば俺は世界から縁を切られてしまう。
 裏を返せば、眠らなければ良い。
 一晩しか経っていない今、まだまだ余裕は残っている。

 幸子が目覚めたらしく、ドアの向こうからひたひたと足音が聞こえる。
 控えめにノックの音が聞こえたので、俺は「どくぞ」と声をかけて立ち上がった。
 隣室で開閉音を耳にして、およそ30分後に二度目の開閉音。俺は部屋の前へ戻る。

 しばらくして、幸子の母親がやってきた。
「夜通しそこにいたんですか」と訊かれたので「用を足す以外は」と答えると、食事をいただけた。旨かった。

 食事を終えると正午を迎えていた。時間だけは腕時計で確認している。

 突然にスマホが騒々しく音を立て始め、見れば上司からの着信である。俺が事務所へ出社しないためだろう。
 事務所へは、仕事のために行くものだ。今の俺にとっては、これが仕事。であれば、事務所へ向かう意味はない。
 俺はスマホの電源を切った。

 やがて夜になった。
 再び幸子の母親が現れ、二人分の食事を持ってきた。俺と幸子の分だ。
 俺は隣室でそれを食い、その間にドアの開閉があった。

 深夜3時頃にノックの音があった。
 足音からノックまで少し間があったので、何かしらの迷いがあったのだろう。
 俺は「どくぞ」と声をかけ、隣室へと移動した。
 再び開閉音があったのでドアの前へと戻ると。

「……もしかして、プロデューサーさん、寝てないんですか」

 ついに、向こう側から声が聞こえてきた。

 俺は感情を押し殺し、ドアへ向かって「そうだ」と短く答える。

「どうしてですか」

「ノックの音が聞こえなくなるから」

 嘘ではない。それも理由の一つだ。

「……早く諦めてください」

 はっきりとした声があった後、柔らかな足音が聞こえた。
 ベッドへと移動したのだろう。

「俺が諦めることはないよ」

 そう答えて、腰をおろす。
 
 これは単なる意地。特別な策のない、感情に訴えるだけの行動である。
 馬鹿な策かもしれない、幸子にとっては良い迷惑かもしれない。
 けれど、現状を変えるにはこれくらいしかやれることが思いつかなかった。

 それでも、進展はあった。ようやく実り始めた。
 俺の行動に意味はあったのだ。

 二度目の夜が明け、さらに変化があった。

「プロデューサーさん、どいてください」

 ノックではなく、幸子が、直接声をかけてくれるようになったのだ。

 昼の間も、めげずにドアの向こうへ話しかけ続けた。
 しかし、返事はなかった。
 声を発してくれるのは、俺をドアの前からどかす時だけだった。

 三度目の夜。眠気が限界を迎え始めた。

 うとうとと眠りが深くなってゆくなか、「ここで眠れば幸子を救えない」と自分を奮い立たせた。
 それでも瞼の重みが消え去らないので、俺は胸ポケットのボールペンを手の甲に突き刺した。
 鈍い痛みがじわじわと広がり、それでなんとか眠気を耐えることができた。

 朝方、4時になって、控えめなノックの音があった。

 状況が悪化してしまった。
 声からノックへと戻ってしまったのだ。

 俺は落胆したが、そうではなかった。

「プロデューサーさん、もう、十分です」

 震えた幸子の声。
「どくか」と問うと、幸子は「少しだけ」と答えた。

 俺は立ち上がり、ドアの前のスペースを空ける。

 部屋の中から現れたパジャマ姿の幸子は瞳を潤ませていた。

「ごめんなさい、プロデューサーさん、ボクのために、こんなに……頑張らなくても良かったのに」

「プロデューサーの義務みたいなものだから、気にするな」

 俺が言うと、幸子はぼろぼろと涙を零した。
 弱々しく駆け寄ってくるので、抱きしめて頭を撫でてやると、「臭いです。お風呂に入ってください」と怒られた。

 物音で幸子の両親を起こしてしまわないよう気をつけながら、風呂を借りた。
 数日ぶりに浴びたシャワーは実に爽快だった。

 再び階段を上り、幸子の部屋で、ベッドに背を預けて幸子と横に並んで座る。
 ぼーっとした時間が流れ、やがて過ぎ去ったのを見計らい、俺は口を開いた。

「今までの仕事、辛かったか」

 そう切り出した俺に、幸子は小さく「いいえ」と答えた。

「それでもお前は、もうあの仕事をしなくても良い」

 俺の言葉の後には、沈黙があった。
 幸子なりに考え込んでいるのだろう。
 俺はその時間を邪魔してはならない。
 納得のゆくまで考えさせる。幸子自身に選択させる。俺の言葉で、惑わしてはならない。

「……きっと、あのボクも、ボクなんだと思うんです」

 途切れ途切れに、辿々しく幸子は語り出した。

「この部屋で、一人でいる時、ずっと考えてました。本当に、みんなはボクのことをアイドルだと思ってくれてるのか、て。ボクは、幼稚園の頃からずっと、アイドルになりたかったんです。いえ、なれると信じてました。実際、その通りにも、なりました。なったはずでした」

「うん」

「でも、ネットの書き込みを見て、ボクの考えてた方向と現実はずれていたんだって気付きました。ボクの目指してたものと、ボクのやってることは、全然食い違ってました」

「ああ」

「取り返しはつきませんでした。クラスのみんなも、ボクのこと、芸人だって言ってました。それでボクはどうしようもなくなって、この場所へ、逃げたんです」

「言い訳に聞こえるかもしれませんけど、ボクもただ逃げてたわけじゃないんですよ。芸人じゃなくなれば良いのかな、て。もし仮にアイドルに見えてないんだとしたら、アイドルだって思ってもらえるようにすれば良いのかな、て。ここに籠もっている間も、他のアイドルの動画を観て、研究してたんです。ボクの目指すアイドル。その場所へ辿り着く道程を探してました。頑張ってたんです。心は確かに折れましたけど、粉々にまではなってません」

「……なんてったって、ボクですからね」と、冗談めかして言った幸子は優しげに笑う。

「……でも、きっちり心は折れてましたから。だからって外に出ようとは思いませんでした。どうせ無駄だと思ってました。事務所に戻るなんて、考えられなかったんです」

 幸子はそこで一度言葉を止めた。
 表情を確認しようと首を回すと、幸子の顔もこちらへ向いている。

「プロデューサーさんがやってきてから、言葉を聞いてから、少し考え方が変わりました。しなくて良いって言われたことが、本当にしなくて良いことなのか、疑問を持ちました。そしたら、これまでの仕事に少しだけ愛着が持てました」

「ゆっくり、段々と、飲み込めてきました。芸人みたいなことをしてるんだから、芸人と呼ばれるのは当たり前です。でもそれもボクなんです。ボクの一部です。批判する人はいても、そんなボクを好いてくれる人だってたくさんいるって、気付いたんです」

 だから。そう幸子は挟むと。

「ボクは、今のボクをもう少し続けてみようと思います。もう少しだけやってみて、それでも先が見えてこなければ、その時になってから、ボクのアイドル像に変化をつけてみようと思います」

 にこりと、幸子は笑う。

「だからプロデューサーさん、これからも、アイドル輿水幸子をよろしくお願いしますね」

 ああ、幸子。

 お前は、なんて強いんだよ。

 誇りに思う。俺はお前のプロデューサーで良かった。
 これまでに幾度もそう思ってきたけれど、今度ばかりは、これまでより一層、強く強くそう思う。

 湧き出る涙を抑えきれず、返事をできないでいると、

「カワイイボクの頼みですよ? 断るわけないですよね?」

 と言葉があったので、俺は「もちろんだ」と返した。
 それで幸子の瞳からも再びぽろぽろと涙が零れだした。

 ――それからお互い、涙が落ち着くまでにしばらくの時間を要した。

 涙が涸れ果て、感情が落ち着いてしまうと、どっと眠気と疲れが襲ってきた。
 ぴくりとも体が動く気がしなかった。

 幸子に「寝るわ」と伝えると「光栄にもボクの膝枕を使うことを許可しますよ」とありがたいお言葉をいただく。
 その通りにさせてもらった。

 肉体は限界に達していたが、満たされた想いは俺に幸せを感じさせた。

 この世界の幸子との別れは、そういう風にして訪れた。

 旅は、続いた。

 一つ、二つ、三つ四つ五つ六つ七つ八つ――――百を超えた辺りで渡り歩いた世界の数をかぞえるのをやめた。

 アイドルにすらなれていない、見習いの幸子。
 KBYDというユニットでセンターを務める幸子。
 天狗になって、他のアイドルに駄目出しばかりしている幸子。
 女優に転身した幸子。
 小日向美穂とキスをする幸子。
 佐久間まゆから逃げ回る幸子。
 箱入り幸子という設定で、演劇にあけくれる幸子。
 アイドル業が上手くいかず、寮を出て実家に帰ろうとする幸子。

 どの世界でも幸子は幸子で、けれども幸子は多種多様な姿形をしていた。

 俺はプロデューサーだ。幸子をサポートするのが俺の仕事だ。

 どの世界の幸子も俺は応援し続けた。

 見習いの幸子にはデビューへと至るための道程を示した。
 天狗になった幸子は叱責し、生来の幸子へと引き戻した。
 小日向とキスする幸子は、周囲にばれないよう策を講じた。

 幸子のためになら、俺は喜んで命を差し出す。
 彼女のために俺の人生はある。

 様々な幸子と出会い別れ、それでも次の世界にはまた新たな幸子がいた。新鮮だった。

 別れがあったとしても構わなかった。
 一日限りでも、俺が働いた成果を幸子に残すことができれば。
 俺が幸子のために人生を捧げたという事実こそが重要だった。
 俺の存在する意味がそこにあった。生きている実感が得られた。

 俺は幸子を求めた。

 輿水幸子は無数に存在する。尽きることはない。

 この世界の幸子とはこれで終わりかと名残惜しくも、次はどんな幸子と巡り会えるんだろうと胸を弾ませる。

 幸せだった。命を燃やしている感覚があった。

 けれどある時。

「あれ?」

 ふと、立ち止まって考えてみて、違和感を覚えた。

 ――そういえば、元の世界の幸子は、どんな姿をしていた?

続き、明日にします。

たぶん明日終わります。

再開します。

なんとか今日中に終わらせるつもりです。

 目覚まし時計の音に起こされる。

 伸びをして見回してみると、ここがこれまで見てきた無数の部屋の中で、飛び抜けて異質であることに気付いた。

 一面の壁、びっしりと埋め尽くされた幸子幸子幸子。
 枕も、シーツも布団も、机にも椅子にもPCにも書棚にも、そこに並んだ書籍の数々も全てが全て輿水幸子に染められていた。

「ええ……?」

 いや確かにプロデューサーなのだから幸子のことは好いていて当然だ。
 しかしここまで突き抜けているというのは、さすがに如何なものだろう。
 以前にもあったように、一線を越えてしまいかねない。
 
 少し引いてしまいながらも、今後の彼のプロデュースが悪い方向へ向かわないよう、今夜はこの部屋を徹底的に片付けようかと心に決める。

 枕元のスマホを見ると、今日は2016年12月23日、祝日だ。

 続けてスケジュール帳を開いてみると『クリスマスライブ』とある。
 きっと幸子のライブだろう。
 だとすれば、俺も今日一日は忙しくなるはずだ。さっさと幸子と合流しなければな。

 机の上に放られていた財布から免許証を取り、名前や年齢を確認。
 さらにその中から社員証を探すのだが――。

「ないな……」

 社員証は高確率で財布の中というのがパターンなのだが。

 それならスーツのポケットだろうかと探すのだが、驚くことに、部屋にスーツが一着もない。
 まあカジュアル志向の事務所なのだろうと今度はビジネスバッグを探すが、それらしきものはなく、リュックサックが幾つか見つかるだけ。
 玄関口に置かれていたものを漁ると、中からはクリスマスライブのチケットが出てきた。

 会場は、渋谷に新設されたライブスペース。
 キャパシティは500人程度で、ライブスペースにしては少し大きめだ。

 他にも情報を得られないか、リュックサックの中のものを引っ張り出してみる。
 が、サイリウムや綺麗にラッピングされた小箱なんかしか見つからない。
 後者は幸子へのクリスマスプレゼントだろう。

 時刻は11時30分。
 ライブの開演は17時だから、まだまだ時間はある。
 先に事務所へ寄っておくべきだろうが、まずは事務所の場所を調べなければならない。

 ――考え方を切り替えよう。
 プロデューサーでなく、幸子の方の情報を調べることにする。
 幸子の所属事務所を突き止めれば、イコールでそこが俺の所属事務所でもあるのだから。

 デスクトップPCを起動し、幸子の名前でgoogle検索を行う。
 と、すぐさま所属事務所の公式サイトが見つかった。
 概要ページから住所を確認する。

 できるだけビジネス寄りの服をクローゼットから見繕う。
 さらにリュックサックの中身を手頃なバッグへ詰め替え、俺は確認した住所へと向かった。

「輿水幸子のプロデューサー兼マネージャーを務めています、国近と申します。ご存じかと思いますが、今日はクリスマスライブで忙しいのです。お帰りいただけますか」

「……は?」

 受付でごねること数十分、現れた男は俺の顔を見るなり、しかめ面でそう言い放った。

 プロデューサーは俺だ、と叩き付けてやりたかった。

 しかし、言葉に引っかかりを覚え、思考を巡らせている内に、理解できてしまった。
 幸子一色の部屋も、所属事務所の情報が落ちていないのも腑に落ちる。

「――俺は、幸子の、一ファンに、過ぎないんですね」

「残念ながら」

 訝しげに眉をひそめつつも常識的な言葉を吐く彼は、なんとか穏便にこの場をおさめようとしているのだろう。

 俺もプロデューサーだ。
 プロデューサーだった。
 彼の気持ちはわかる。

 俺は「失礼しました」と言葉を残して、事務所を去った。

 呼吸をすると胸が苦しくなった。
 恋する乙女でもあるまいに。実際はそんな可愛らしいものではない。
 苦しみは全くおさまらず、段々と息が切れてくる。
 ぜえぜえ、と出る音をどうにか抑え、電車に乗ると頭痛を覚え始めた。

 幸子に囲まれた部屋へと戻り、ベッドへ横になる。
 天井に張り付けられた幸子の顔が視界に入り、俺は目を瞑る。

 俺は、幸子のために人生を費やすと誓った。

 けれど、プロデューサーでない俺は、どうやって幸子にこの身を捧げれば良いのだ。

 瞳を開けると、再び幸子の顔が映る。

 この部屋の主は、何を思って、部屋を幸子で彩ったのだろう。
 幸子への愛が為せる技か。
 しかし、愛の方向が歪んでいるのではないか。病的とさえいえる。

「……クリスマスライブ、行くか」

 いくら俺はプロデューサーではないとはいえ、幸子から遠ざかるのは嫌だ。

 身を起こし、ジャケットを脱ぎ捨てパーカーを羽織る。
 サイリウムやチケットをバッグからリュックサックへと詰め戻す。

 部屋を出ると、寒々しく雪が降っていた。
 ホワイトクリスマスだなあ、とふと思ったのだが、今日は23日。イブは明日だ。
 明日の幸子は、どこで何をして過ごすのだろう。

 寒さを覚えて、一度部屋に入りコートを着る。
 電車に乗り渋谷で降りると、開演まで時間があったので、手近なカフェでスマホをいじって、この世界での幸子の情報を集めた。

 開場が近くなり、ライブスペースへと向かうと、熱心なファンが幾人も列を作って待っていた。
 その中の一人が、俺の顔を見て、手を振ってくる。

「おおっ! イイワカさん! 遅いじゃないですか!」

 この体は、仲間内ではイイワカと呼ばれているらしい。
 俺は彼に「すみません、少しお腹を壊してしまって」と返すと、列の最後尾に並ぶ。

 開場を待っている間、ファンの会話に耳を傾けると、彼らがどれだけ幸子を好いているかがわかった。

 ファンとして。
 ガチ恋の相手として。
 自分の娘のように感じてしまって。

 愛の形は様々だったが、それらの想いは、正真正銘、本物だった。

 やがて開場、そしてクリスマスライブの開演が訪れた。

『みなさん! カワイイカワイイボクの登場ですよ! メリークリスマース!』

 声はスピーカーを伝って。
 幸子が現れる。

 きらきらと輝くサンタ調の紅白衣装に身を包んだ幸子は天使そのものだ。自称ではない。

 舞台に幸子が登場した直後、トークもなしに伴奏が流れ始めた。
 俺の知った曲、どこかの世界で耳にした、幸子の持ち歌だ。

 幸子は、この世界ではデビューして1年と少し。
 アイドルとしての道程、最序盤を走り終えたところだ。
 パフォーマンスはまだまだ成熟したものとは言えない。

 けれど、場は熱狂に支配されていた。
 隣から前から後ろから、コールが聞こえる。声援が聞こえる。
 必死な表情で叫ぶ彼らの目線は、舞台上の幸子へと集中していた。
 俺が彼らの顔を観察していることなど、気付いてもいない。

 俺も舞台上の幸子へと視線を戻す。
 光り輝く幸子の表情。
 その隣に俺は立っていない。
 こんなにも遠くから、眺めることしかできない。
 俺は、一ファンに過ぎないのだから。

「あぁ……なるほどなあ」

 突然、理解できた。
 どうしてこの男の部屋が幸子色に染められているのか。

 あれが、こいつなりの応援だったのだ。
 幸子のグッズを大量に購入すれば、活動資金を提供すれば、それだけ幸子は高みへと上ってゆける。

 俺が幸子へ人生を捧げているのと同様に、こいつも人生を捧げていたのだ。
 全力を注いで、幸子を応援していた。
 自分に出来る限りのサポートをしていた。
 プロデューサーでなくとも、できることはあったのだ。

 気付くと俺は、張り裂けんばかりの声量で高く叫んでいた。
 その声はこの場にいる誰にも劣ることはない。

 けれど同時に、勝ることもない。

 想いが強いのは俺だけではなく、こいつらだって同じなのだから。

 2016年12月9日。
 次の世界で俺はプロデューサーへと戻っていた。

 事務所には幸子がいる。
 当たり前に思っていた景色をどこか他人事のように見てしまう。
 貪欲に旅をしていた頃の情熱が消えてしまったのだろう。

 ぼうっとそのまま眺めていると、幸子は「ど、どうかしましたか、プロデューサーさん」と恥ずかしげに目を逸らす。

 すぐさま気付いた。
 幸子は、このプロデューサーに惚れているのだ。
 そしてきっとこいつは、幸子の想いに応えていない。

「あ、そうだ」

 わざとらしく、幸子が手を合わせる。
 ソファの陰から何かを拾い上げ、それを背中に隠し、忙しげに歩み寄ってくる。
 さらに、じっと俺の顔を見上げる。

「プロデューサーさん、昨日はどうもありがとうございました」

 幸子は珍しく頭を下げているが、あいにく昨日の俺は俺ではなかった。

「……あー、俺、何かしたか」

 幸子は「え」と目を丸くしたが、すぐさま、

「そ、そんな何でもないことみたいに言いますけど、プロデューサーさんがあそこまで頑張ってくれたこと、ワタシは嬉しかったんですよ」

「ワタシ?」

「……どうかしましたか?」

 幸子の一人称が、『ボク』から『ワタシ』に変わっていた。

 いや、変化ではない。
 初めから『ワタシ』なのだ。
 一人称が『ボク』だというのは、俺が見てきた世界の幸子がたまたまそうだっただけだ。
『ワタシ』の世界もあって当然だろう。
 この世界にはこの世界の幸子がいる。

「何でもない。幸子にそう言ってもらえるなら、頑張った甲斐があったな」

「ホントですか!?」

 途端に笑顔になる幸子が眩しくて、俺は思わず目を細める。

「あ、そ、そのー。えーっと、ですからワタシも感謝してるんです」

 幸子は目を泳がせ、再びこちらへ視線を戻すと、

「ほら、プレゼント、プレゼントですよ! ありがたく受け取ってください!」

 背中から取り出したのは、赤いリボンで包装された小箱。
 昨日のこいつが何をやったのかはわからないが、幸子がここまでするほどの何かをやり遂げたのだろう。

「あぁ、ありがと――」

 と、プレゼントへ手を伸ばそうとしたのだが、待て、俺よ。
 頑張ったのは俺じゃない。
 昨日の俺、この世界のプロデューサーだ。

 どうして手柄を横取りにできる?

 幸子の向ける好意は俺宛てじゃない。
 プレゼントを受け取る資格があるのは俺じゃない。

「やっぱり、悪いな、受け取れない」

 この世界が一つの舞台なら、俺は単なる観客に過ぎない。
 俺はこの幸子のプロデューサーじゃない。
 この世界にはこの世界のプロデューサーがいるのだ。

 ……あぁ、そうだ。
 気付いてしまった。勘違いをしていたのだ。

 今までの世界だって同じだ。

 俺は無数の世界を旅して、それぞれの幸子を救ってきた。
 それが俺の使命だと思っていた。

 だが、救う役目を背負っていたのは俺じゃない。
 俺と同等の想いを持った誰かが背負っていた。
 それを俺は、横から掠め取っただけだ。
 ただ、世界を荒らしただけだ。
 その行為は、罪と呼ばれるべき代物だろう。

 自分だけが特別だと思い込んでいた。
 そうではなかった。俺は俺だ。
 無数の内の一つ。一つの世界の、一人のしがないプロデューサーだ。

 幸子を愛しているのは俺だけじゃない。
 幸子は、みなに愛されている。
 無数の世界に生きる幸子は、それぞれの世界で、ファンにプロデューサーに全国民に愛されている。
 輿水幸子は、アイドルなのだから。

「え、な、なんで……?」

 幸子は笑顔から一転、涙で瞳を潤ませる。

「なあ、幸子」

 目の前にいる、こいつは、紛れもなく輿水幸子だ。

 けれど、輿水幸子は無数に存在する。

 無数に存在するからといって、全てが俺の担当アイドルなわけではない。

 俺の幸子はただ一人だ。
 俺の、元いた世界の、輿水幸子。
 俺が、俺だけがプロデュースをしていた、あの輿水幸子。

 あの幸子に、会いたい。

「長い言い訳を、聞いてくれるか」

 言葉は自然と口から漏れ出た。

 幸子はこっそりと目尻の涙を拭った。

「い、言い訳ですか……ま、まぁ、カワイイワタシですから、聞いてあげなくもないです」

 俺は「ありがとう」と礼を言うと、ソファへ移動し、幸子と向かい合って座った。
 机の上には、お膳立てされたかのように紅茶のカップが二つ置かれている。先ほど幸子が煎れていたものだ。

「さあ、どうぞ、プロデューサーさん」

 すました顔の幸子に促される。
 俺は紅茶で舌を潤すと、

「――事の始まりは、きっと俺が階段から転げ落ちたところからだろう」

 ゆっくりと、旅の記憶を語り始めた。

「以上が、俺がお前のプレゼントを受け取れない理由だ」

「――あの、ごめんなさい、プロデューサーさん。す、少し整理させてください」

 幸子は俺が話を終えるまで紅茶に口をつけなかった。
 カップへ手を伸ばす暇もなく、俺が話を進めるたびに表情を目まぐるしく変化させる幸子は、見ていて飽きなかった。

「つまり、貴方は、ワタシの知ってるプロデューサーさんじゃないってことですか?」

「よくわかってるじゃないか。そういうことだ。中身はな」

「……むー、しょ、小説みたいですね」

 幸子が右手で頭をおさえる。
 知恵熱を出されてはたまらないので、「難しく考えなくても良いよ。明日になったら忘れてくれて構わない」とフォローしておく。

 世界を旅する俺の存在を話すのは、これが初めてだ。

 事実を明かすのを禁じていたわけじゃない。
 これまでは、その必要がなかっただけだ。

 俺が幸子に全てを話すことに決めたのは、幸子へ誠意を見せるため。
 泣くほどの想いを抱えた幸子を適当な嘘で誤魔化したりはしたくなかったからだ。

 いや、もしかしたら俺自身、洗いざらいを幸子へ語って楽になりたかった、というのもあるのかもしれない。
 だとしたら、幸子への誠意を言い訳にして、俺はひどいプロデューサーだなと思う。

「――まぁだから、プレゼントは明日のこいつに渡してやってくれってことだ。今日の俺は別人だからな。いや、別人とはいえ、今日一日、仕事はきちんとこなすから安心してくれ」

「い、いえいえ、それは良いんですけど!」

 幸子は顔を伏せ、そこでようやく、カップに残った紅茶を口に含んだ。
 紅茶はもう冷めてしまっているだろうに。

 幸子は再び顔を上げ、凜とした表情を見せる。

「でも、プロデューサーさんは、これからどうするんですか?」

「……どうするって?」

「さっき、自分で言ってたじゃないですか。色んな世界への旅は、やりたくてやってることじゃないんですよね。元の世界には、戻りたくないんですか?」

 戻りたい。
 そりゃあ戻りたいさ。

 でも、あの幸子。たった一人の、俺の担当アイドル。
 彼女のことを、俺は忘れてしまっている。

 どれだけ頭を悩ませても、脳裏に浮かぶ幸子は、きっと元の世界の幸子ではない。

 星の数ほどの幸子と俺は出会ってきた。
 最初の幸子の記憶など、とうに上書かれてしまっている。
 もはや俺は、元の世界に戻ったとしても、そこが俺の世界だと気付けないかもしれない。

 ――それに、俺如きがそんな希望を語るのには、おこがましさすら覚える。

「プロデューサーさん?」

「……戻りたくないと言えば嘘になるが、すでに諦めているんだよ。お前には関係のない話だろうし、気にするな」

 俺が言うと、幸子は僅かに眉間へ皺を寄せた。

「気にしますし、諦めている理由が知りたいです」

「だから、関係ないだろ、この世界のお前には」

 話は終わりだ。俺は立ち上がる。

「ほら、今日も仕事をしないと――」

「フフーン、残念でした。今日、ワタシはお仕事ありませんよ」

 座ったままの幸子が言うので、俺は仕方なしにスケジュール帳を開く。
 確かに、スケジュール帳には幸子に関する予定が何も書かれていない。

「ん? じゃあ幸子はどうして事務所に来てるんだ?」

「あ、そ、それは、そのー、ですね」

 と、所在なげに机へ置かれた小箱へと視線を落とす。

 ……ああ、プロデューサーへプレゼントを渡すためか。

 今思い出した、みたいな演技までしていたくせに。
 それじゃあこの世界のプロデューサーにはお前の考えが全部ばればれじゃないか。

 スケジュール帳を再び確認してみると、俺の予定も午後まで入っていない。
 2時間は猶予がある。

「とにかく! ほら、カワイイワタシが暇をしてるんですよ! プロデューサーさん、こういう時はどうすべきか、わかってますよね」

「……ずるいよなあ、それ」

 プロデューサーだからな。そう言われると弱いんだ、俺は。

「じゃあもう少しだけ、会話に付き合ってもらおうか」

 俺が言うと幸子は不敵に笑う。

「ふふっ、仕方ないですねー。プロデューサーさんのお話、あんまり面白くないんですけど、我慢してあげます。あ、紅茶煎れなおしてきますね」

「俺がやる。幸子は座ってろ」

 立ち上がりかけた幸子を制して、俺は机上のカップを手に取った。

読んでる方いますか?
すみません、少し休憩します。

23時頃にまた再開。

すみません、再開します。

「じゃあ、元の世界のワタシのこと、思い出したら良いんじゃないですか?」

「簡単に言うよな、お前……」

 俺はすでに元の世界の幸子のことを忘れてしまっている。
 帰る手段には見当がつかないし、もし帰れたとしても、元の世界だと気付かないかも。
 そうやって心情を吐露した末に、幸子の返した言葉が先のものだ。

「仮に、元の世界の幸子をはっきり思い出せたとして、だからといって元の世界へ戻れるわけじゃないだろう。意味のないことだ」

「……じゃあ、ワタシがプロデューサーさんと同じ立場になったとして、ワタシに同じこと言えますか?」

「いや、それは――」

 じとっと目を細めて言う幸子に、俺は言葉をつまらせる。
 幸子はそんな俺を見て、にやにやと笑みを浮かべた。

「ふふっ、少しずつわかってきましたよ。プロデューサーさんはこうやってからかえば良いんですね。いつもからかわれてばかりだから、勝機が見えたみたいで嬉しいです」

「この世界のプロデューサーと俺は別人だぞ」

「性格はけっこう似てますからね。同じ手段は通用すると思います」

 涼しげに幸子は紅茶をすする。小悪魔めいてきたな。

「とにかく、やれることはやるべきですよ。意味がないわけないです。意味はあります」

「……まぁ助けになろうとしてくれてる幸子の言葉を無下にはしないけどな。それじゃあ、どうやって思い出す? 闇雲に考えても駄目だったぞ」

「プロデューサーさんは、自分のことになると本当にポンコツですねえ」

 幸子は「はー、やれやれです」とため息をつき、

「今のワタシと、元の世界のワタシ。どこか違うところはないですか? 違和感を覚えたところとかです。足し算じゃなくて、引き算をしてみましょう」

 あぁ、それならすぐに思いつく。

「一人称だ。俺の中で、幸子の一人称は『ボク』と決まっている。お前は『ワタシ』だ」

「え、ワタシ、ボクっ娘だったんですか?」

「なるほどー、ボクっ娘のワタシ。それもカワイイかもしれませんねえ……」

 は、と気付き、幸子は咳払い。

「えーっと、そ、その意気ですよ、プロデューサーさん。これで、元の世界のワタシは、ボクっ娘だったってことがわかりました。はい。他はないですか?」

 言われるがまま、幸子の顔を眺めつつ、頭を捻ってみる。
 ――しかし、

「ごめん。思いつかない」

「……うーん、仕方ありませんね」

「本当に、悪いと思ってる。ここまで手伝ってもらいながら。でも俺は今更、元の世界に戻れるだなんて思ってもないし、戻るつもりもないんだよ」

 無数の世界に関わっておいて、プロデューサーの役割を奪っておいて、今さら元通りに戻れるだなんて虫の良い話だ。
 このまま漂い続けることが、その代償だろうと思う。

「いえいえ、何をやさぐれてるんですか。まだ希望はありますし。この世界で思い出せないなら、また別の世界で思い出せば良いんです」

「別の世界で?」

「はい。別の世界には、またその世界のワタシがいるんですよね。そのワタシと、元の世界のワタシを、また比較してみれば良いじゃないですか」

 そしたらまた、違和感を覚えるかもしれません。と、幸子は続ける。

「そうやって引き算を続けていって、可能性を潰していった先に、元の世界のワタシがいるはずです。元の世界のワタシに、プロデューサーさんが気付けないはずないじゃないですか。違和感を探すんです。大丈夫です。気付けます。……考えて、考えて、それでも本当に違和感を覚えないなら、きっとそこが元いた世界ですよ。そう認定しちゃうんです。決めちゃうんです」

「引き算を、続ける……」

 この世界の幸子は、元の世界の幸子とは違う。
 何故なら一人称が違うから。

 また次の世界でも。
 例えば、髪型が違う。話し方が違う。声が違う。
 一つ一つを虱潰しに検証する。

 幸子は幸子であっても、俺の幸子ではない。
 そうやって異世界の幸子を否定していく。
 それが元の世界の幸子を知ることに繋がる。
 記憶を辿り、他の全ての幸子を否定して、たった一人の幸子を選び取る。

「引き算の結果は、絶対に忘れないでください。積み重ねが重要です」

 鍵が、外れた気がした。
 じわりと呼吸が楽になるのを感じた。

 幸子の言う方法は、元の世界へ戻れる具体的な方法ではないかもしれない。

 けれど、そうか。まだ希望はあるのか。

 永遠に漂い続けるものと思っていたのに。

「幸子、俺は、戻ることができるのか」

「はい。プロデューサーさんは、帰れますよ」

「……しかし、ここまで他の世界に迷惑をかけておいて、都合が良すぎやしないか」

「迷惑だと思ってる人なんて、きっと貴方以外にいません。そう思うんだったら、他の世界のワタシに確かめてみたら良いんです」

 幸子の言葉が、心に滲んだ。

 ここまで言うのだ。信用しなくてどうする。
 幸子を信じられなくては、それこそプロデューサー失格だろう。

「さあ、善は急げです。もう寝ちゃいましょう」

「……うん? まさか、ここで?」

 尻の下、ソファを俺が指さすと、

「そうです。カワイイワタシが子守歌を歌ってあげますよ。感謝してくださいね」

「…………」

「い、嫌そうな顔をしないでください。ほら! 寝てください! 寝るんです!」

 わーわーと幸子が騒ぐので、俺は慌てて靴を脱ぎ、ソファへ横になる。
 二人がけの小さなソファなので体は半分はみだしているが、感触は柔らかく、心地よかった。

「さあプロデューサーさん、目を閉じてください。もう、何も考えちゃ駄目ですよ。心を安らかに、目を覚ましたら、また頑張れば良いんですから」

 そう前置きをして、幸子は小さな声で歌い始めた。

 アイドルの生歌を耳にしながら眠れるなんて贅沢な体験だよなあ、と思いつつ目を瞑る。

 ゆるやかに、鬱屈した考えはかき消され、幸子の歌声だけが脳内に響いた。

 ベッドの上で目覚めて、事務所へ行くと、幸子が川島瑞樹と談笑を交わしていた。

「あ、プロデューサーさん、おはようございます。今日のボクもカワイイですよね?」

「ああ、今日の幸子も可愛いな」

 俺が言うと、幸子は少しだけ間を空けて、

「え、ええ、あの、ありがとうございます」

 照れと戸惑いの入り交じった表情に違和感を覚え、「どうかしたか?」と問う。
 しかし、幸子は「い、いえ、何もありませんけど?」と否定の言葉。
 流しておくことにする。

「あら、収録の時間ね。私そろそろ行かなくちゃ」

 腕時計に視線を落とし、川島さんがそう口にする。

「あれ? もうそんな時間ですか?」

「ええ、幸子ちゃん、またお話しましょう」

 川島さんは、幸子と俺に手を振り、軽やかな足取りで部屋を出て行った。

 残された幸子は俺の顔を見ると、「代わりにプロデューサーさんがボクとのお話に付き合ってくださいね」と。
 俺は頷き、先の世界でそうしたように紅茶を煎れると、二つのカップへ注ぎ、それを机上に置いて幸子の向かいに座った。

「プロデューサーさん」「幸子」

 声がハモった。
 幸子から話すよう右手で示すものの、幸子は「プロデューサーさんから話してください」と強い口調で返してくる。
 俺は改めて口を開いた。

「突然だけど、少しだけ、俺の助けになってほしいんだよ」

「……助け、ですか?」

「俺はこの世界の人間じゃない。肉体はお前の知ってるこの世界のプロデューサーだが、この精神は、別の世界から旅してきた、別の世界のプロデューサーなんだ」

 ぽかんと口を大きく開く幸子に、構わず説明を続ける。

 10分ほどかけて話を終える頃には、幸子は口を閉じていた。

「だから幸子。この世界のお前のことを俺に教えてくれないか」

 うんうんと頷きながら、幸子は答えを返す。

「なるほど、謎が解けましたよ」

 会話が繋がっていない。
 不思議に思い真意を問おうとするも、その前に幸子が言葉を繋げた。

「ボクはプロデューサーさんに質問をしようとしていたんです。でも、その答えは、今、貴方が聞かせてくれました」

「質問?」

「はい。プロデューサーさんは、普段はボクのことを『輿水』と呼ぶんです」

 ……あぁ、確かに、今の俺は『幸子』と呼んでいるな。
 先ほどの戸惑いはそれが原因か。
 いきなり下の名前で呼ばれたら、そりゃあ不思議に思うだろう。
 別世界の人間だから呼称が違うのだと、納得したわけだ。

 それで話は終わりかと思いきや、さらに幸子は言葉を続けた。

「……でも、以前にも数日間だけ、プロデューサーさんはボクのことを『幸子』と呼んでいる時期がありました。あの時も疑問に思っていたんです。その理由が今日わかりました」

 数日間だけ、『幸子』と呼んでいた?

 無意識のうちに口に出していたのだろう、幸子は「はい」と応える。

「知りたいなら、ボクのこと教えてあげます。ボクはかつて、芸人アイドルというレッテルを貼られていました。ヘリコプターから飛び降りたり、ヘビと闘ったりとかしてたからです。それでその、色々ありまして、自宅に引き籠もっていた時期があるんです」

「……まさか、お前」

「今日のプロデューサーさんに会えて、嬉しいです。ようやくあの時のお礼が言えます。あの時のプロデューサーさんの行動のおかげで、ボクは救われたんです。プロデューサーさん、ボクを引っ張り上げてくれて、本当にありがとうございました」

 目元に涙を浮かべて笑う幸子は、かつて俺が出会った相手。

「プロデューサーさんは『他の世界の邪魔をした』なんて言ってましたけど、そんなことありません。ボクを救ってくれたじゃないですか。ほんの少しの間だけでも、貴方はボクの、ボクたちのプロデューサーだったんです」

 そう続ける幸子の言葉に、救われたのは、むしろ俺の方だった。

 幸子は、前の世界の幸子と同じように、ソファに寝そべる俺へ向かって子守歌を歌ってくれた。
 柔らかな歌声は、俺の精神を癒やした。

「ボクと再会したってことは、道程を戻れているってことだと思います。このまま、根気よく続ければ、貴方は元の世界へ戻れます」

 目を瞑り意識を失う直前で、幸子は歌声を止め、優しくささやいた。

「ボクのことだけじゃなくて、プロデューサーさんはプロデューサーさん自身のことを思い出してください。ボクのことを『幸子』と呼ぶのが貴方です。貴方は一人しかいません。ボクを探すのと同じように、自分を探すんです。他の世界のボクも、きっとプロデューサーさんのことを助けてくれます」

 後半の言葉は、あまり耳に入ってこなかった。

 けれど、最後の言葉だけは、鮮烈に覚えている。

「ありがとうございます。そしてさようなら、プロデューサーさん」

 そして目を覚まし、次の幸子に出会う。

「少しだけ、俺の助けになってくれ」

 無数の幸子に助けを求め、自分だけの幸子を探っていく。
 自分自身を探っていく。

「ユニットデビューはしていない」
「一緒にフレンチ喰った記憶はない」
「小日向とは出会ってすらいなかった」
「執務室、ここじゃなかったな」
「パーカーを着ているところは見たことがない」
「事務所の名前が違う」
「武道館ライブはまだだ」
「興水幸子」
「自宅は山手線の外側だ」
「ラジオのパーソナリティはやっていない」
「俺、眼鏡をかけてたよな」
「オーディションでなく、街中で声をかけたのがきっかけだった」
「つけている香水が違う気がする」

 移動した世界の数は、やはり百を超えた。
 そのどれもに、何かしらの違和感を覚えた。

 しかし、次第に違和感が小さくなっていくのを感じていた。

 幸子の言葉通り、俺は、道を戻れていたのだ。

 そして辿り着いた世界。

 自宅の住所、内装に違和感なし。
 事務所や執務室の配置に違和感なし。
 幸子の経歴、話し方、服装、顔に違和感なし。

「どうですか? ボクは今のプロデューサーさんに違和感なんてないですけど、プロデューサーさんは何か指摘するところ、ありますか?」

 俺は幸子の言葉に頷くと、返事をかえす。

「幸子の髪型、外ハネが10度ほどきついかな?」

「え? そんなレベルですか?」

 再び眠りにつき、目覚めた場所。

 白く無機質な壁面に囲まれた、階段の踊り場。

 そこで俺は倒れていた。

「つ……っ」

 後頭部に鈍い痛みを覚え、右手をやると、ぬるりとした感触。
 見れば手のひらが赤く湿っていた。
 後頭部の肉が割れているのだ。
 大事には至らないだろうが、病院に行っておくべきだろう。

 ポケットからスマホを取り出そうとして、そこに手慣れた感触がないのに気付く。
 それに、視界も妙に不明瞭だ。

「あ、眼鏡がないのか」

 床を這い回り探すと、俺の黒縁眼鏡は階段の手すりに引っかかっていた。
 両耳につるをかけ、レンズを通した世界は鮮明に写る。

 その状態で辺りを見渡してみたのだが、スマホは見当たらず。
 ……まぁ、事情を話して幸子に借りれば良いか。

 壁に『14』と数字が掘られているのを見つける。
 執務室は13階だからすぐ下だ。
 かんかんと高い音の鳴る階段を降り、重い金属製の扉を開くと、そこにはさらに木製の扉。俺の執務室だ。

 ノックをしてドアノブを捻ると、すぐさま俺の耳に耳慣れた声が届いた。

「お、遅いじゃないですか、プロデューサーさん! カワイイボクの一大事に、どこで何をしてたんですか!」

 その姿、その声、その仕草が自然と体に馴染んだ。
 比較をする必要すら感じなかった。

 暖かな感情が、胸の内を支配した。

「あの、黒い生き物ですよ! Gで始まる例の生き物が現れたんです! は、早く退治してください!」

 あまりにも俺の心情と不釣り合いな幸子の台詞に、思わず呆れてしまう。

「お前……そんなことで……」

「な、何ですか、その目……。ボ、ボクみたいなカワイイ女の子がGに襲われても良いっていうんですか」

 まぁ良いんだけどな。
 俺はお前のプロデューサーなんだから、そのくらいはお安いご用だ。

「ゴキブリ、どこに出たんだ?」

「ギャー! その言葉を口に出さないでください! 必死で言わないようにしてたのに!」

 騒々しく喚く幸子を背に、机の上に放られていた新聞紙を丸め、執務室の中を隅々まで探す。

「早く! 早くしてくださいプロデューサーさんカワイイボクが困ってるんですよ早く早く!」

「いやだから今探してるだろ、大人しくしてろ」

「できませんね! 全然無理です! 敵ですから! Gは敵!」

 他の世界の幸子だったら、こうも騒々しくはないだろう。
 そう思うと、この喚き声も愛しく感じられる。

 観葉植物の裏に黒い影を見つける。
 すかさず新聞紙を叩き付けると、一撃でヒット。
 無数の世界を旅して、俺も伊達に経験値を積んでいたわけじゃない。

 そのままゴキブリを新聞紙で包んでゴミ箱へ放り込む。
 幸子は「ふー、アイドル輿水幸子、危機一髪でしたね」と大きな息を吐いた。

 ――さて。

「なあ、幸子」

「はい? どうしました? G退治のお礼なら割となんでもするくらいの気持ちですけど」

 笑顔になった幸子へ、俺は言葉をかえす。

「ちょっとそこのソファで寝てみても良いか?」

「どういうことですか、プロデューサーさん……」

 幸子は引き気味の表情でそう絞り出した。

 これまでの世界でしたのと同じように、再び俺はソファへ横になった。
 幸子に子守歌をリクエストしたら「仕方ないですねえ」と応じてくれた。幸子は優しい。

 目を瞑る。

 今ここで眠って再びこの幸子に出会えたら、それでようやく旅の終わりだ。
 夜まで待つのは嫌だった。
 一刻も早く終わりを迎えたい。

 幸子の歌声は、心地良く耳に響いた。
 さすがアイドル、さすが幸子である。

 けれど気持ちは落ち着かず、心臓の動悸は激しくなる一方だ。

 理由はわかっている。

 ……怖い。怖いのだ。

 再び、俺の幸子と、唯一の俺の担当アイドルと別れてしまうのが、怖い。

「ごめん、幸子、眠れない」

 声が震えているのがわかった。
 情けないものだと思う。
 けれど、もし駄目だったらと思うと、どうしたって堪えきれなかった。
 涙すら目元に滲んでいる気がする。

 ふいに歌声が止み、額に柔らかな感触を覚えた。

「何か嫌なことでもあったんですか、プロデューサーさん」

「……何もない。しかし、これからあるかもしれない。不安なんだ」

「子供みたいですね……。でもまぁ、そんな時もありますよ」

 甘い香りが鼻を刺激する。
 声が天井から落ちてきた。

「大丈夫です。こんなにカワイイボクがついてるんですから」

 額が薄く湿る。

「――安心して、眠ってください、プロデューサーさん」

 その声は、再びメロディを奏で始めた。

 しばらくは動悸が激しいままだったが、やがて、どれくらいの時が経ったのか、ようやく気分がおさまっているのに気付いた。
 かすかに聞こえる歌声は、まだ続いていた。

 世界が遠のくのを感じ、暗闇に飲み込まれる。
 意識が没していく。

 目を開けると、ぼんやりとオレンジ色の照明が灯っていた。

 長く眠っていたのだろう、目やにが気持ち悪く、右手で目元を拭った。

 頭を持ち上げると、窓の外に夜闇が広がっているのが見えた。
 ぽつぽつと街の光が点在している。

 ひやりと背中が寒くなって、そういえば季節は冬にさしかかっていたなあ、とふいに思った。
 けれどそれは俺の世界の話であり、旅の中では春夏秋冬、様々な季節を巡っていたのだった。

「プロデューサーさん」

 名を呼ばれ、振り向くと、そこに輿水幸子が座っていた。

 目、鼻、口、輪郭、髪型、手足、服装に至るまで、彼女の全身を観察する。

 違和感は、なかった。

 自然と嗚咽が漏れた。
 寝起きのためか声は掠れていた。

 それでも、どうしても幸子と言葉を交わしたくて。
 証明をしてやりたくて。
 俺は気力でもってむせび泣くのを我慢し、声を振り絞った。

「ただいま、幸子」

「はい。おかえりなさい、プロデューサーさん」

 そう言う幸子の笑顔に、防波堤はいともたやすく決壊した。

終わり。

読んでくれた方、ありがとうございました。
なんとか三日間で終わりました。

スレ投稿、二作目でした。

ありがとうございます……。

スレ立てる前、あんまりウケないだろうなあと、だいぶ不安でした。

HTML化依頼出してきます。



最後の世界でPは頭から血流したままG退治したん?
そこが気になって夜しか眠れない

>>132
G退治したし、そのまま寝てますね。
まー、大した怪我ではなかったということで。

一作目を教えてくれろ

>>146
まだいますか?

これです。
時子様「豚とダンス」 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1475588389/)

貴殿の全作品のURL教えてけろ……幸子も時子もとても良かった。

>>156
ありがたいことです。

こちらから、どうぞ。
オリジナル多めですが。
http://www.pixiv.net/member.php?id=231841

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