黒野玄武「鷺は白」鷺沢文香「天は玄」 (204)




「舞う」ことは「無い」こと。




「無」というのは、本来は踊る様を表した文字でした。


飾りを付けた衣の袖をひるがえし、“舞う”様。

舞の原字は無なのです。




“ない”という現実で形を持たない概念を表すために、“BU”の音が仮借され、「無」の漢字がそれにあてられて。

……無という字は元の「踊ること」から「存在しないこと」を表す字に変わり果てました。



身の丈に合わないステージの上で踊る私は、私ではないようで。


あるいは鷺沢文香も無に近づいているのかもしれないと…………そんな想念が流れて……揺蕩い、そして沈んでいきました。


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黒野玄武・鷺沢文香
http://i.imgur.com/ydm5Dh0.png




――ワアアァァ…



文香「…………」


目に焼きついた鮮やかな数々の光。

熱を持った身体と、浅く早い呼吸。

会場から溢れた熱気が私の体に刻まれて……色濃く躍動しています。


――ライブの感慨。



美波「おつかれさまっ! 文香さん! はい、タオルどうぞ」

文香「美波さん……ありがとうございます。あの、どうだったでしょうか……? あのような表情や仕草は……今まで縁遠いものだったので十全にできていたか……」

美波「うん! とっても良かったですよ! ふふっ、普段の文香さんからは見れない表情でしたけど……だからこそかな、とっても新鮮で。新しい文香さんを見れた気分です」

文香「新しい、自分ですか。確かに……まだ自分があのように踊ったのか、まだ現実味がありません」

美波「でもステージの文香さんはちゃんと輝いてましたよ。まぶしいくらいでした」

文香「そ、そうですか。では、少しは成長できているのですね……私も」


美波「ステージの上の文香さんは、その、すごく変わってますよ!」

文香「変わって……?」

美波「あ、いや! すごく素敵な表情を見せているってことです! 現実味がないって言ってるけど……あの表情が文香さんの成長の証なんじゃないかな?」

文香「成長の証。確かに今までにないことをしていると……今までやったことのないことをしていると……そういった変貌の感触は、あります」

美波「ステージで『変わってる』って感覚があるんですか?」

文香「変わっている、というずばりそのままの感慨かどうかは……判然としません。しかし……お客さんの皆さんから贈られる、あの光の一部になろうと努めているうちに……精神が遠くなる感覚が訪れることが」

美波「あ、なんだかその感じわかるなぁ。アイドルとしての自分になりきるっていうか」

文香「美波さんもステージの上で変わるのですね」

美波「そうみたい。前にもね、言われたことがあるの。なんだかステージの上だと別人みたいだって」

文香「そうなのですか……」



文香(別人……のような自分)


自分が変質し。

その『別人』が観測され……そして……。



美波「とにかくお疲れ様! 明日はオフでしたよね。しっかり休んでくださいっ」

文香「はい……ありがとうございます。しかし明日は、大学の課題を終わらせなければ……」

美波「文香さん……真面目なのは本当に文香さんのいいところだと思うけど、ライブの後ぐらいもっと気を抜いてもいいと思う。無理しないでね」


文香「あ、いえ……申し訳ありません。気遣いを。しかし、好きな課題ですから……精神の安寧に寄与する効能もありまして……」

美波「ああっ、そうなんだ! そうだよね。課題と言ってもいろいろありますよね……文香さんにとってはいいことなんだ。じゃあ、えっとがんばってくださいね!」

文香「は、はい……えっと……がんばり、ます」


文香(美波さんにまた余計な心配をかけてしまいました。しかし書に対する評論のようなものですから……)


あの課題は、好きです。……負担にはなりません。

黙々と考え、行間を推し量り、テーゼを紐解くあの時間は救いにも感じられるものでした。


文香(救い……? 私は、なにを……?)





――『……鷺沢文香は本が好きで、今も本を読んでんだろう?』


――『不動の定点があるじゃねえか』





文香(――あ)


瞬時、連想されるように脳裏によみがえったのは叔父の書店で聞いたあの人の言葉。



文香(どうして……?)



なぜ思い出してしまったのか。ここで思い出さなければならないのか。

その時の私は……自分の心の機微すら測りかねていたのでした。

とりあえず、書くと決めるために導入だけ投下しました。
文香さん誕生日おめでとうございます。

今回は玄武くんと文香さんと本と本当の自分の話。

いつもよりは読みづらい部分があるかもしれませんがよろしくお願いします




夜道。ほんの少しの雨の気配。

抱えた本の重みは、外に零れた私自身の体の重みのようにも思われました。



これから……私は本を読みます。





誰も見ていない所で、一つの木が倒れた際の音を知るものはいなくとも、その木自身だけはきっと――





――

――――



文香「………………なるほど」


ぱたむ、と読み終えた本を閉じます。


文香(……とても、興味深かった)



心地の良い余韻。

書から流れてきた知識と見識が、私の頭と胸に緩やかな痺れを刻んでいます。


読書とは読んでいる瞬間にしかないものでありますが……この読了した瞬間の充足も、今この瞬間にしかありえないものでしょう。

手を止めて、受け取った情報と情感とを反芻します。そうして一通り浸ったあと、思考に跋を入れました。『良き書であった』、と。


……芽生えていくのは、新たな興味。得た知識にまつわる、さらなる情報を得たいという気持ち。



文香(次はなにを読みましょうか……)


そうして少し日に焼けた小口を満足感とともに眺めているうちに、現実がようやく背中を押しました。


文香「……は」



文香「私は……なんという」



課題のためにギリシア悲劇の文献を当たろうと、私はいくつかの書籍を机に持ちこみました。

そして、まずは概略をなぞり、課題と関連深そうなところに当たりをつけようとした……はずだったのです。


それが……


文香「……すべて読破してしまうまで手を止めないとは」


病膏肓とはこのこと。





文香「…………」


しばし、自分の課題に対する集中力のなさを反省します。


しかし……しょうがないとも思いました。見識が乏しい以上、どれが自分にとって有用かを断ずることは軽々にできようはずがないのですから。


文香(いえ)



これは逃避したのでしょうか。また、本の世界へと。

本を読む私。

鷺沢文香のルーティン。

いつもの自分を再演して……私は、きっと私であることを……



文香「……また」


揺らぐ思考がとりとめのない想念を呼んで循環する、その前に押しとどめます。


文香(課題です。課題を)


文香(ギリシア神話の変奏としてのギリシア悲劇……王女メディアの愛憎と屈折。ヘクトールとアンドロマケー。とりわけ興味が出た箇所といえば……そのあたり)

文香(エウリピデスとその作品について、掘り下げるべきはそこ……)



文香「……出かけましょう」


昨日の夜から取り掛かり、起床後すぐに続きを読み進めて……午前中には読了できたのでまだ時間はあります。今日という日を不毛に終えてはなりません。


……胸に不可思議なざわつきを覚えながら、装いを軽く整えて、外へ。



私は私に与えられた課題をするのです。

――――学期末までの長期的な課題なので急ぐ必要はないとはいえ。

私は一つの道に決意を持って邁進するということに、どうにも不得手な部分があるようで……そこに懸念を抱いていました。



文香(確かな意志を持って、進まなければ……)










しかし。


確かな意志など、持ちえたためしがあったかどうか――――


――

――――


古書の香りに浸りながら、私は書架の前にいました。


足を運んだのはとある古書店。




文香(一人で入るのに抵抗がないのは、未だにこうした書にまつわる施設だけ)


ブティックや化粧品店などにも挑戦してはみましたが、場違いだという意識は拭いがたく……。

いつかはそうした抵抗も消えるのでしょうか。


文香(そのためには奏さんや美波さんにもっとご教授願わなくてはなりませんね。そう……変わりたいと願うのならば)


文香「…………」


文香「鷺沢、文香は……本の虫」





文香「はっ」

文香「いけない、本を……」





静謐な空気を湛えている空間で、一人で本を渉猟します。





文香(……キープ)


文香(これも、良き書ですね……)


文香(興味深いタイトル。必要ですね。おさえておきましょう)


文香(あ、これは以前読み逃してしまった書……こんなところで。僥倖です)




まるで水槽を巡る魚のように。私は書架を間を回ります。


おのずと刻まれていた、それは慣習で。

己が性質に引かれるまま、私は本の世界に深く潜っていきました。



文香「……――――」



文香(以前とは配置が変わって……こちらには学術書)


文香(あちらのワゴンは)



渉猟した書の数はいつの間にか増えていました。……不思議な事にまたたくまに増えていました。


けれど書の重たさは、まだ見ぬ書への期待が忘れさせていて。私はさらに本を求め、入口近くのワゴンへと足を運びました。






そのワゴンにあったのはしかし……


文香(あ、これは)



目に入ったのは、ユーモラスに踊る大きなひらがな、カラフルな絵が載せられた表紙。光沢のある大判サイズの本の群れ。



文香「絵本……」



よくよく見れば、ワゴンの縁には『絵本フェア』とある小さなポップがありました。


大きく絵本はここだと表記されていれば足を運ぶ前に気づけたでしょうに。



文香(フェアならもう少し大々的にした方がいいのでは……主張が足りない気が)


もう少し大きな張り紙で絵本フェアと銘打ち、ポップは各種作品に対してたくさん用意する……

子どもを対象とするのならば、いっそのことワゴン自体店先に出して目にしてもらう機会を増やすなど。


絵本フェアだという情報はあまりに控えめで、もっと主張する手段があるように思われました。



文香(あ……)



『主張が足りない』。そんなことを、気にするなんて。

私が、気にするなんて。


どうなりたいか、どうすべきか……そうしたことになにかを指摘できる立場なのか








――「失礼。ちょっとよろしいですか」


文香「あ……っ! は、はい。塞いでしまって申し訳ありません。どうぞ……」



近づいてきた男性に声を掛けられ、私は慌てて引きさがりました。

男性は絵本を手に取り、真剣な表情で検分を始めます。




――「…………」


文香(…………あら?)





そこで気付きました。


細く締まった体。高い身長。本を向けられた鋭く強い視線。

この男性は。








文香「玄武、さん……?」


玄武「っと、いや俺はただの――――って、文香さんじゃねえか」




書架に満ちる静謐な空気に、少しのさざ波が立ちました。


――……



文香「……絵本も読まれるのですね」

玄武「いや、手前自身の為に見てるわけじゃあねえんだが」

文香「……贈り物、でしょうか?」

玄武「ああ、そんなとこさ。世話になった家に送りたくてな。小さい連中に読める本を探してんだ」

文香「お世話になったところに……そうですか。だから絵本なのですね」

玄武「相棒、朱雀のヤツがいりゃあ、ちぃっとは選別が捗るんだけどな。あいにくアイツまたテストで赤点食らっちまって……こうして一人絵本探ししてるのさ」

文香「……お一人で、ですか。それは……大変です」


玄武さんはしなやかな腕を伸ばし、その指先で緩やかに絵本の背表紙たちを撫でています。


玄武「しかし、あれだな。できれば小さい連中が楽しめるような本にしてえと思うんだが。見当が正しいか判然としねぇ」

文香「そうですね。絵本は……私もたまに触れるのですが、子ども達の機微に応えるような作品とはどのようなものか、見当がつきません」

玄武「自分にとって役立つ本か、楽しい本かしか判断できねえんだよな。……ま、だから巡り合わせの妙に頼ってみようと思ったんだがな」

文香「巡り合わせ……?」


玄武「フラッと入った店に、珍しくも絵本のフェアが行われてた。合縁奇縁さ。なにかしら意味ある出会いと見るのも悪かねえだろう?」


……合縁奇縁。


文香「確かに、古書店で絵本フェアとは……思えば、非常に珍しい取り合わせですね」

玄武「児童書の類は古書業界には出回りにくいからな。子ども相手の本だから、必然保存状態が良好とはいかねえし……」

文香「はい……叔父の店にもあまり絵本はありません。そもそも扱いをしていない店も多いと聞きます」

玄武「そう。だからこうした珍しい出会いは大切にしねぇとな」

文香「……力になれずに、申し訳ありません」

玄武「………………あん?」 


玄武「なんだって謝るんだい? 今までの話の流れに文香さんが謝ることなんざ一握たりともなかったと思うんだが」

文香「いえ、あの……絵本探しについて助言や手助けをできれば良かったのですが……それは、どうも叶わないようで……申し訳なく」

玄武「おいおい。被ってない責任にまで慮って意気阻喪になるこたぁねえじゃねえか」

文香「書については、力になれることもあるかと思ったので……少し、恥ずかしさが」

玄武「文香さんには十分感謝してるさ。いつも本を貸してくれるしな。こんなナリの俺に。文香アネさんと呼ばせてもらいたいくらいだ」

文香「あ、姐さん、ですか…………任侠ものの風情ですね」

玄武「事務所のアニさん方は受け入れてくれたんだが。どうだい、文香アネさん」


文香「え……」


玄武「…………」

文香「…………」


文香「も、申し訳ありません。さすがに、そうした呼び名は今までに経験がなく……」

玄武「はは、そうかい。それじゃあ一旦引っ込めておこう」

文香「はい。……は、もしや…………これは、冗談?」

玄武「いや本気さ。敬意は持ってるし、それに感謝も示してえと思ってる」

文香「感謝、ですか。私に……」

玄武「ところでよ、文香さん。結構買い込むんだな。『メデイア』、『救いを求める女たち』……エウリピデス関連の本が多いな。ギリシア悲劇が好きなのかい?」

文香「あ、これは……その……課題の為の資料でして。……ですが一つの書として、とても興味深く読んでいます」

玄武「そうなのかい。資料としても、思わず読みこんじまうよな。俺もソポクレスの『オイディプス王』からギリシア悲劇に入ったからわかるぜ」

文香「はい……! ソポクレスの作品はギリシア悲劇の象徴だと思います」

玄武「やりがいのある良い研究テーマだと思うぜ。さすが文香さんだ」

文香「いえ、ですが……研究テーマはギリシア悲劇に限定したものになるかは、まだ」

玄武「ん? ギリシア悲劇に立脚したテーマじゃねえのか?」


文香「今、考えているのは……非常におおまかなのですが、『文学作品に見られる女性の価値について』……で」

玄武「……」

文香「『あるいは女性が示す人間の価値』、といったところになる、でしょうか……?」


玄武「…………如臨深淵。深淵に臨むが如きテーマだな」

文香「あの、玄武さん。どうでしょう…………やはり私では力不足に終わるテーマだと思われますか」

玄武「文香さんがダメなら、他のどんなヤツが書いたってダメさ。――ああ。文香さんらしいテーマだと思うぜ」

文香「……本当、でしょうか……」

玄武「全力で力いっぱい書けば、そこに真実は宿るもんだ。やりがいは間違いなくある。ただやるだけやりゃあいいさ」

文香「そう……ですね。結果の如何を問わず、書き記したという足跡は……すでに結果と呼べるもの。課題ですから、もちろん完成を目指さなければなりませんが」

玄武「そのテーマを選んだ動機だってあるんだろう? その興味があるうちは悪いもんになるわけがねえ」


文香「……このテーマを選んだのは、そうですね……近代文学の教授が投げた一つの問いがあるからなのでしょう」

玄武「問い?」

文香「ついぞ、答えを示されなかった問いですが。教授はこの問いの答えが気になるのなら、文学における女性の描写を顧みてみよとおっしゃって……」

玄武「へえ、教授が」

文香「口ぶりから、もっと読書するよう学生たちへ誘導するための言葉に過ぎなかったようにも思われましたが……私は、それが気になったのです」

玄武「どんな問いだったんだい?」






――『ロリータ』におけるハンバート・ハンバートはなぜ悪人か。




今回はここまで。お待たせして申し訳ないです
色々不安はありますが、書き進んでいこうと思います

876コラボは楽しかった! 事務所間のつながりが描写されると本当に嬉しい

少量、投下します


玄武「――――」




玄武「…………文香さん。それは――――」

文香「……? 玄武さん?」




――「おや、鷺沢さんの所の姪っ子さんじゃないかね」



玄武「っと……」

文香「え……あ、店長さん。お久しぶりです」

店長「いらっしゃい。今日は店番をしてないんだね」

文香「そ、そうですね……今日のところは……オフなので」

店長「ああ、お仕事が忙しいんだってね。たまの休みぐらいゆっくりしなきゃだ。しかしアイドルとはねえ……活躍してるようで叔父さんもうれしいだろう。なにしろ特典を」

文香「いえ。あの……その話は。叔父のあれは……もう。反対したのですが」

店長「嫌なのかい? まあ気恥ずかしいか。えっと、それで、目当ての本は見つかったかい?」

文香「はい。相変わらず品揃えが充実していて……素晴らしいです」

店長「そうかそうか。そりゃよかった。いいのが最近手に入ってね。……おや」

玄武「ここの店長さんですか。見させていただいています」


店長「おっと、他のお客さんもいる前で失礼を」


玄武「絵本のフェアなんか古書店ではめずらしい。児童書も扱っているとは」

店長「あー、はは。まあ交換会で出てたんでね。たまにはと。それじゃレジにいるんで、ごゆっくり」

玄武「押忍」

店長「文香ちゃんも総重量があんまり重くならないうちにね」

文香「は、はい。そうですね……気をつけます」



文香「ふう……」

玄武「店長さんと知り合いだったんだな」

文香「はい。というより叔父の知り合いですね。昔……叔父は店長さんと経営員もいっしょにやったことがあったと聞いています」

玄武「文香さんの叔父さんの店も古書店だし、組合仲間だったのか」

文香「はい。長い付き合いのようで姪である私にもよくしてくださいます。本で紡がれた絆というのは、貴いものですね」

玄武「……ああ」

文香「あの玄武さん。先ほどなにか言いかけられた気がするのですが……」

玄武「いや……」


玄武「………………文香さんは、教授から示されたその問いに対して、ギリシア悲劇から何かを掬おうとしたんだろう? そこで得られた有用な視点ってのはどんなもんかなって思ってよ」

文香「視点、ですか。そうですね。明確に定まっているわけではないのですが……掘り下げるべきだと思うのは、アテネの人々が持っていた『婦徳』についての共通認識でしょうか」

玄武「婦徳。女性の道徳か」



文香「紡がれた歴史と、綴られた劇の中で女性の価値についての見識を得られればと、そう思います」

玄武「ギリシアの婦徳……国王の意志に反してまで、敵だった兄を弔ったアンディゴネーの精神は心打たれたが。そういう類かい?」

文香「はい。アンディゴネーは、宗教的義務と法律への服従をどちらを優先すべきか……そのせめぎ合いの中、人倫を示した偉大な人だと思います。とても覚悟のいる行為であったでしょうに」

玄武「ありゃアンディゴネーの方に正義がある。俺もそう確信してるぜ。自分の意志で正義を示せる女性だったってな」

文香「自分の、意志……しかし、それは」

玄武「うん?」

文香「自己正義を示すなど、そういった女性の意志というものは……アンドロマケーにおいてはむしろ封印すべきものだったようです」

玄武「アンドロマケーは英雄ヘクトールの妻だったな。意志を封印したってかい?」

文香「はい。『トローアデス』において、アンドロマケーはこう語るのです。『わたしは、世間でいう女の道とやらを、懸命に守ってきました』と」


文香「女性が家を空ければ悪い評判が立つので、気持ちを押し殺して、ひたすらにひきこもっていたのだと――――」


玄武「……無になることが女の道だと」

文香「そうです……」


逡巡から滲んだ、かすかな空気の強張りが一瞬私たちの間に漂いました。

玄武くんはその中で、一つの所作を為しました。

厳粛に思考を巡らせるような、小さな頭の振り……


その仕草で。

……彼が今、己の中のギリシア物語に向き直ったのだとわかりました。



玄武「『イリアス』じゃあ妻の存在をそこまで気にしなかったが……まだまだ視界が狭いな俺は。戦争に行く男がいりゃあ、家を守る女がいる、か」

文香「はい。女性は家を守るもの。政治に参画し得ないもの。善きものであれ、悪きものであれ、どんな噂をも男の口にされぬことを己の誇りとする。それが女性が背負った要請であって」

玄武「……男社会への阿りだな」

文香「……はい。しかし、その貞淑と安寧こそが婦徳だとされたのです……私は、あの時代においては女性の存在は希薄であったという印象がぬぐえません」



玄武「アンディゴネーは牢で自ら命を断った……」

文香「メデイアにしても男性には理解しえないものの象徴である魔術を扱い、その荒れた心境で災禍をばらまく存在として描写されました――制御しえない厄介なものであると」


玄武「しかしアリストパネスは『女たちの平和』で――――おっと、この場所じゃふさわしかねえかな」

文香「『女たちの平和』、ですか」


文香「確かにあの話では女性は男性との同衾を排し、性こ…………あっ…………えっと、その」

文香「…………非常に、たくましい手段で女性が男性に対抗していますね……」

玄武「……ああ。だがあれも言ってみりゃ対抗文化。風刺家アリストパネスによるエウリピデスへのカウンターカルチャーだな。女が弱いという主流に対する諧謔だ」

文香「………はい………」

玄武「恥ずかしがらねえでくれ。流してくれ。悪かった」

文香「いえ、その……はい……失礼しました。年下の方に……えっとどこまで直截的な表現をしてよいか迷ったもので……」

玄武「言及しなくてもいい。文香さん」

文香「……すみません」

玄武「あー、だから赤くならねえでほしいんだが。喋喋とするのは一旦小休止しないか? とりあえず会計するしよう」

文香「……そうですね。気付けばこんな話を長々と。玄武さんも絵本探しに来ていたのに、申し訳ありません」

玄武「全然構わねえさ。こういう話は楽しいもんだ。すげえ勉強になった、流石に読書量が違うな文香さんは」

文香「そう、称賛されるほどのものでは……私は、ただ……本の虫だというだけですので」



店長「――高尚なお話してたねぇ君たち。学生のころの私じゃあ絶対チンプンカンプンだったよ。あははは。まあ今でも半分も理解できてないけど」

文香「…………お、お騒がせしました」

玄武「聞かれてたか。声は小さかったはずだが、店内が静かすぎたな……」


店長「この絵本だね」

玄武「どれもおもしろそうで。しかも美品だったで悩みましたが、それで頼みます……っと」


文香(あら、玄武さん……?)


玄武さんは封筒を取り出し、そこから紙幣を抜き取り、店長さんに支払いました。


文香(……お財布代わり?)



店長「文香ちゃん。次どうぞ」

文香「はっ。……すみません、お願いします。んっ……」


わずかな惑いを噛んだその時に声が掛けられ、私は抱えた書の固まりをレジの机に置こうと引き上げました。

……しかしその際、慌てたために、一番上にあった書、『透明な対象』がずり落ちました。


文香「あっ……」


すべらかに重力に流されゆく書――そこに手が伸びてきて。


玄武「おっと。平気かい」

文香「すみません……っ」


落ちかけた本は玄武さんに受け止められました。

そのまま本は持ち直され、丁重な動作でもって机に付されます。


文香「……」

玄武「……ん?」

文香「……玄武さんは、本に優しいのですね」

とりあえずここまで
書いては消し、書いては消ししてます…
考え方変える努力が必要ですね

お待たせして申し訳ありません。まだ期待してくださっている人がいることが本当にありがたいです
やれることしかできないですね

少し投下します


玄武「……」

文香「……?」


玄武「反射的に手が伸びただけさ。ほら、会計しなって」

文香「はい。……そうですね」



玄武さんはなぜか顔をそむけて隣の書架を検分し始めました。

……私も会計をしなければ。


店長「ふふ。そっちの彼は知り合いかい? 見てくれでびっくりしちゃったけど、本の扱いを見て分かった。いい人みたいだね」

文香「はい。善き人です……好きなのです」

店長「んんっ!?」

文香「本が好きなのです、玄武さんは」

店長「ああ、はいはい。そういうこと…………そりゃそうだ。叔父さんもびっくりしちゃうとこだ」



文香「一度速読する様を見て、書を読み捨てているのでは、と誤解してしまいましたが……それは多くの書に触れてゆくうちに獲得したものであると、今ならば……――」


文香「――――」

店長「ん? どうしたの」

文香「すみません……なんでもありません」

店長「……そうかい? はは、まあ言葉はね、時の流れ物だからねぇ……じゃあ、はい。会計していくね」




『わかります』、とそう言葉を紡ごうとしました。

しかしその瞬間に口は固まりました。



文香(『わかる』などと言えるのでしょうか……)



所作から判断した事が、はたして本当に真実であるかという疑問。

帰納による蓋然性の導出と、経験則による主観の線引き。


そうあってほしいという願望が介在していないと言い切れません。

なにしろ……当人の口からその確証を得たわけでないのですから。


文香(しかし……)


玄武さんの方を目を向けました。

本を小脇に抱え、また新たな本に視線を落としている彼は……やはり、書を愛好する人の姿で。


文香「…………」


文香(これは共感、と言うべきもの?)



……それならば、言語すら不要。ル・セミオティックの概念でもって人は相互理解を為せるというあの一節は真実であって…



玄武「ん? どうした文香さん……会計は終わったのかい?」

文香「はっ」

店長「ん、これが最後の本。ピッと……はい」


慌てて、財布を出して支払いを済ませます。

いけません。

この考えばかりが先走るくせは……どうにも治りません。

それは、止まっていることと何ら変わりはないことです。


玄武「しかしよ、店長さん。ここの品揃えは圧巻だな。この棚なんか聊斎志異があるじゃねえか。すげえもんだ」

店長「うわ! お目が高いね! そっちの棚は入れ替えしたばっかりさ。それもまだ途中だけどね」

玄武「途中ってことは、稀覯な本がまだまだあるってことかい? そりゃあぜひお目にかかりたいもんだな」


店長「や、本棚整理の完了はまだまだでね。人がいないもんだから。あはは、年を取る度入れ替え作業が遅くなって……」

玄武「残念だ。いや――そうだ店長さん。良かったら、ここにいる黒野玄武を役立ててくれねぇか。力になるぜ」

店長「え?」

玄武「いや差し出がましく響いたら申し訳ねえ。ただまだまだ入れ替えるべき本があるってんなら、整理すんのは一人じゃ重労働だろう? 一助になりたいと思ったんだ」

店長「あはは。ありがとう気持ちは嬉しいよ。でもいいよ。じっくりやろうと思ってるしね。楽しみでもある」

玄武「そうですか。フ、俺としたことが、店長さんから書店業の醍醐味を奪っちまうところだったか」


文香(……玄武さん)


店長「あ、でも普通に物理的な入れ替えは手伝ってほしいかも……わりかし真剣に」

玄武「単なる持ち運びだけでも喜んで。そん時は呼んでくれれば馳せ参じる。この黒野玄武、良書との縁を紡いでくれた恩義は忘れねえ」

店長「熱いなぁ……君、生涯文系の僕としては圧倒されるばかりだけど…………でも、君の本に対する熱意は伝わったよ。んー……」

玄武「……?」

店長「よし! 君、ちょっと奥へ来てくれる? 文香ちゃんもおいで。大丈夫大丈夫、この時間になるとお客さんあんまり来ないから」

文香「え――」


――

――――


レジの裏から続く店の奥。

その広めの通路には積み上げられた本の束が溢れていました。そして更に奥にある机には……積み上げたりされていない本がいくつか、厳選されたように並べられていました。

特別に丁重に扱われていると、その態様から知ることができます。


古書店の裏側。叔父の店のそれとは少し雰囲気が違い、その差異に新鮮味を覚えました。


しかし、何より私の気を惹いていたのは……束になりそびえる本、机に並ぶその書たちが醸すその気配で。

手垢もなく、日焼けもない、無垢のままの古い本……久しく人の手に取られることがなかった書の透明な存在感が、私を吸い寄せていました。


未知を湛えた宝箱のような気配のそれ。

頭の奥に抗いがたい衝動が湧きあがります。


――「読んでみたい」



文香「これは……」

店長「最近手に入れたお気に入りさ。さあ見てごらん」


文香「はい。そ、それでは、少々……」

玄武「……失礼して」


文香(これは……新思潮の……)

文香「……」

文香「…………――――」



玄武「すげえな。本のそうそうたる顔ぶれもそうだが……保存状態もいいじゃあねえか」

店長「ここにあるのは全部最近引き取ったものでね。そこから厳選した品物」

玄武「どこかの愛好家が引退でもしたのかい?」

店長「うーん、そんなもんかな。まぁちょっと理由(ワケ)あって引き取った本さ」

玄武「値札が付いているのと、付いてないのが混在している……今付けている最中か」

店長「そういうこと」

玄武「まだ店に出してない本をどうして俺たちに?」

店長「あんなに買ってくれたしね。本に対して熱心に話せる若者がいるのは嬉しいし。……気になったのがあれば売ってもいいよ」

玄武「……! 店長さん、感謝します。銘肌鏤骨――その心意気、気遣い確かに心に刻んだ。運びたい本があればいくらでも手を貸すぜ」

店長「お、大仰だね」

文香「――は。…………あ、あの、私からも、感謝を。ありがとうございます」

店長「叔父さんの店に対抗できてる? あはは」

文香(また……キープする本が増えてしまいそう……)



私たちはまた書を探し始めました。

……潜るように、あるいは息をするかのように。



文香(丁重に扱わなければ……店長さんが厳選した、売り物になる本なのですから)


店長さんもいつまでも店を空けているわけにはいきませんし、あまり時間をかけることも避けるべきでしょう。

しかし、目移りもすれば没入もしたくなります。



文香(抗いがたい。玄武さんはどうでしょう?)


玄武「……おいおい、この本は」

文香「あ……決められたのですか?」

玄武「ああ、これは手元に置いておきてえ。けどな……」

文香「なにか……?」

玄武「――すまねぇ、店長さん。ちょいと聞きたいことが。構わねぇかい?」

店長「おっと、なんだい? もうちょっとしたら店に戻るけど、今ならかまわないよ」


玄武「この本、是非お譲り願いたい。値段は」


店長「あれ? そこらへんの本は昨日、結構急いで値段付けたはずなんだけど。値札ない?」


文香「『青狐』……」

文香(火野葦平…………戦前からの作家)



玄武さんが取った古めかしい本に記されたその著者名。

名前は知っていますが、読んだことはない作家でした。

確か『新青年』のメンバーだったはずです。井伏鱒二や山田風太郎といっしょに載っている一覧を見たことがありますから。



店長「ちょっと高いよ。1万5千円。ほら値札も貼ってある」

玄武「いや、その値段であるはずがねぇと思ったもんで。――“兵隊”まで載ってるんだが」

店長「兵隊? まさか……。見せてくれる」

玄武「無削除版ってこたぁケタも変わる」

店長「ちょ、ちょっと待ってて。眼鏡取ってくる」


店長さんは慌てたように母屋の方に駆けていきました。



文香「“兵隊”……この詩ですか?」

玄武「ああ。これさ。検閲で削除された“兵隊”が収載されてるんだ、この版は」

文香「検閲――」



広げられた詩集に向かい、私たちはいっしょに覗きこみました。

紙は色褪せて、文字にも掠み。しかしその詩は……確かにそこに綴られていました。



玄武「『兵隊なれば、兵隊はかなしきかなや――きみはなし、花はなし』」




文香「確かに、載っています……世に広まったのは削除版の方なのですね」

玄武「ああ。これはな、戦意を高揚するような歌じゃねぇってんで、検閲にあって……潰されちまったんだ」

文香「するとこれは無削除版。……この詩は検閲を免れた、と」


文香「……」


この書は。

自分を保てたと、そう言えるのでしょうか。

私よりもよほど長く自分を曲げることなく、消されることなく。




――――――“いまはただ夢だにあだし。”



文香「夢のように儚いとは……哀しくて、痛々しくて……虚しさが溢れる詩……」


玄武「そう。殴られるみてぇに伝わってくる。――『虚しい』」

文香「戦時に削除されてしまったのですね……確かにこれは、望みが風化し、潰えていくそんな兵士の切なさがあります……」

玄武「そうだ。戦犯作家ともそしられた火野だが、戦後どう責任を取るか模索した益荒男でもあった。この詩は火野のその意志の足跡――」

文香「…………半世紀以上前の、思い……」

玄武「貴重に過ぎらぁな。この詩集、売るとしたらもっと“さや”が取れるだろ。あの値段じゃあ流石に受け取れねぇよ」

文香「………………それは敬意、でしょうか」


私の言葉に、玄武さんは不意を突かれたように目を少しだけ見開きました。


玄武「そうだな。店長さんから騙し取るような真似はしたくねぇ……自分の元に置く本だ、そこは筋を通したいと思うぜ」


文香「そうですね。誠実は……人の持つ尊い美徳です」

玄武「ああ。まっとうに生きねえとな」



玄武さんは詩に向かい、その文章を指で辿っていました。

それは一連の詩が記された紙面から、触れるか触れないかのわずかな距離を空けた、敬意の空隙を作りながらのもので。

その所作で以て……玄武さんにとって「筋を通す」対象が本当には何であるかを私は察したのでした。



文香(玄武さん、あなたは)



……この本に込められた想いこそを。





――

――――



店長「失礼。ホントに無削除版だよ。一番先に確認しなきゃいけないところだ。疲れたんだな。すまないね」


眼鏡を携えて『青狐』を確認した店長さんは、気恥ずかしげに頭を掻きました。


玄武「控えめながらも知的な輝きを残すチタン加工のあしらい。いい眼鏡っすね」

店長「おおっ、わかる? 高かったんだ……って、それよりこの本の値段だね」

文香「無削除版となると、やはり価値が変わりますね」

玄武「おそらく軽く10万以上はいくだろうな。カバーも付属してて、日焼けもそんなにしてねぇから」

文香「10万円以上、ですか。先ほどの価格の10倍……」

店長「そうだね。値段を付け直すとしたらやっぱり10万以下で売るわけにはいかないかな」

玄武「わかりました。それで結構です」

店長「それでも買うんだね」

玄武「押忍。決めちまったんで」


迷いのない言葉。

やるべきだという意志に満ちた言葉。……頭が、揺れる心地。


文香「…………」


店長「11万。いや、んー、10万5千円でどうだい」

玄武「ありがてえ限り。…………そんで、取っておいてもらうってのは」

店長「うん。わかった。取っておくよ」

玄武「感謝します。手持ちがねえもんで、助かります」


文香(あら……? 先ほどの封筒には)



玄武「……うしっ、購入できることになった。ふ、こいつは武者震いにも似た震えが足から立ち昇っちまうな。まだ手元に置けるわけじゃねえんだが」

文香「おめでとうございます。良き書との出会いは得難いものですから。しかし、その……お金の方は」

玄武「ああ、最悪、眼鏡貯金を切り崩さねえといけねえかもな。いや、番長さんがありがてえことにまた新しい仕事を持って来てくれたから……そうだな、2週間後にはきっと手に入れられるさ」

文香「そうなのですか……」

玄武「リース用に持っといてもいいだろうに、譲っていただけるたぁ本当にありがてえ。人の縁さまさまだな。改めてありがとうよ文香さん」

文香「この件については、私など。……店長さんのお計らいですから」

店長「いや、言っても商売だからね? でもまぁ、君みたいな子なら本望かな。この本にとっても、この本の持ち主だった人にとっても」

玄武「押忍。そんな言葉を頂戴できるたぁ恐縮の限り――――しかし、先刻、理由(ワケ)あって最近引き取ったもんだと聞いたんですが、一体どんな仔細で?」



文香「……そうですね。奥にあった書は最近手に入れられたと。あのような稀覯な本ばかりをどのような機会で……?」


店長「ああ」


店長さんは複雑な表情を浮かべました。

残念だという感情に、不心得者と自分を責めるような忸怩たる思いが滲んでいて…………それは哀しみの風貌でした。





店長「……とある個人図書館がね、閉鎖されることになったものだから」


文香「え」





――――図書館が、閉鎖?



今回の投下は終わりです
プロミにセカライにミリ4thに、今年に入ってから消化しきれないほどの衝撃をもらって
私も書こうと思ったものぐらいは描き切れるようにしたいと思います

お待たせして申し訳ありません

少しだけ投下


店長「もともと良い家柄――元華族だとか貴族だとか、まぁそういう人が邸宅で開いてた図書館でね。財産を少しずつ使いながら、改築したりして続けてたんだけど……もう閉めるってことになって」

玄武「運営が難しくなっちまったのか」

店長「まぁこんなご時世だし、どこも運営費が逼迫してるしね。館長が亡くなったら、負債があるのも明らかになって、家族さんたちが財産整理がしたいって言って――あ、喋り過ぎかな」

文香「資金もなく、続けられる人がいなくなり、…………運営を取りやめると」

店長「そうだね。運営終了の運びとなった。まぁ、まだ閉鎖となってはいないけど、すでにいくつかの蔵書は売却していってて、この店でもいくらか買い取らせてもらったんだ」

文香「あのような、稀覯本もあったのにですか?」


……信じられませんでした。あのような貴重な古書を丁重に保存しているような、そんな真摯な図書館が潰える運命にあるとは。


店長「あれはね、設立者のコレクションだったものなんだよ。価値があったものから今の家族さんが売りに出したの。価値がそこまでのものは鑑定の後、交換会に流れたはずさ」

玄武「……図書館から零れおちた財産だったのか」


ふぅ、と店長さんは物憂げな溜息をつきました。


店長「……どこにでもある話なのかもしれないけど、嫌だね、なんか世間が汲々としてるみたいで」

玄武「それで店長さんが本を引き取ったのか。蔵書は全部買い取るのかい?」

店長「まさか。売りに来られたものだけ。僕だってあの図書館は好きだったし――あんまり閉鎖の時期を早めたくはないしね。でも困ったよ。よろしくお願いしますって何度も頭を下げられて……こっちが恐縮しちゃった」




文香「あの、まだ閉鎖はなされていないのでしょうか……?」

店長「一応まだ開いてる。ホントに一応。まだ今の館長さんだって続けたいって言ってるから。個性的な設備もあって愛着ある人も多いしね」

文香「続けられるよう、願いますが」

店長「うん……でも、設立者の宝物みたいな本を売り払って運営費用に充てるっていうのはね……」



……それは、末期の振る舞いと表現されても仕方がないもの。



文香「…………」




視線を落とした先、『青狐』のその表紙に手を伸ばします。

しかし、伸ばしたところでそれはあくまで物言わぬ書物でありますが……


そこに情緒を、意味を見出すことは人の業。


かつてどこかの蔵書に在ったという過去を、しかして今ここにあるという軌跡を。

知ってしまえば思わずにはいられません。




他の多くの蔵書も、この本と同様の道を辿るのでしょうか。


かつて在りし図書館の記憶も遠くになって



文香(現実の要請の前に、忘れ去られゆく――)


――――――



玄武「文香さん」

文香「……っ」



ふっと夜闇ではない影が私をよぎっていきました。

過ぎていった車のライトが車道側を歩く玄武さんを照らしたためだと、そんな当たり前のことに顔を上げて初めて気付きます。



玄武「足取りがずいぶん重てえみたいだが。そっちの本も持つぜ?」

文香「いえ、大丈夫です……ありがとうございます」

玄武「悲しい話を聞いちまったな。だがまぁ、ひとまず前を見据えていこうじゃねえか」

文香「……はい。考える前にまずは歩かなければ、ですね」

玄武「ああ。戦利品が今回は中々上等なんだ。いっそ意気揚々と浮足立っても、今回ばかりはいいんじゃねえか」

文香「ふふっ……そう、ですね。ありがとうございます。確かに僥倖に恵まれたその帰路です。凱歌などは挙げられませんがもう少しくらい、意気揚々とするべきなのでしょう……それぐらいでちょうどいいのかもしれません」

玄武「ああ、その通りだ文香さん」



文香「玄武さんもあの『青狐』を後日引き取られるのでしたね」

玄武「ああ。支度金ができたらすぐにでも。読んでみたいってんならお貸しするぜ?」

文香「それは……率直にとても、うれしいです。よろしければ是非」

玄武「おう約束しよう。男、黒野玄武に二言はねえ。元々文香さんのおかげみたいなもんだしな」


文香「そんな、ですから私など…………あの、玄武さん」

玄武「うん?」

文香「……いえ、すみません。なんでもありません」

玄武「なんだい? 聞きたいことがあるってんなら聞いてくれていいぜ」

文香「しかしお金のお話ですので不躾かと……」

玄武「そうした躊躇ができるってことは、文香さんが下世話な人間じゃないってことだが。……不躾になんて思わねえさ。話してくれ」

文香「そ、そうでしょうか。では、その、青狐を買う段で封筒のお金は使えなかったのですか?」

玄武「封筒……」



絵本を購入する際、玄武さんは紙幣を封筒から取り出して支払いをしていました。

そして取り出される際には、1枚だけではなく他何枚かの紙幣が追従して引き出されていて…
封筒に内在している紙幣の、その量が少なからぬものであると見受けられました。

あのお金を使えば、すぐに購入することができたでしょうに。


玄武「ああ見られちまってたか。……どう言ったもんかな。封筒にあるのは、朱雀との金なんだよ」

文香「朱雀さん、との?」


玄武「番長さんが回してくれたクイズ番組の優勝賞金なのさ。フ…ッ、朱雀がいなきゃあ負けていたかもしれねえな」

文香「賞金……なるほど。しかし、それでは玄武さんのものでもあるのでは」

玄武「そりゃあ、主な使い道を決めちまったんでね」

文香「使い道とは……絵本を買うことと、おっしゃっていましたね」

玄武「ああ。だが絵本に限定はしねえ。子ども達が楽しめる本ならいい。それを買うための金ってとりあえずは決めちまったんだ」

文香「お世話になった家に贈ると」

玄武「よく覚えてるな。その通り」


文香「それは……きっと報恩の物語があるのですね」

玄武「……ん」

文香「素晴らしいと、思います」

玄武「な……っ、おいおい文香さんよ」

文香「……玄武さん、あなたは恩を返したいと動いて……立派です。それほど果断に私は動けないと思いますから」

玄武「…………」

文香「本を読むという行為を重ねてきた過去は共通するものもあるでしょうに……ここまで在り方に差が。貴方の隣にいると、我が身の至らなさばかり感じてしまいます」


――対比のように。


と私が言葉を結んだその時、

その沈黙を引き取るように、玄武さんは月を見上げました。


玄武「そうか……立派かね、俺が」



虚空に問うような、それはかそけき言の葉でした。


都会の空は黒く、昏く。星の輝きを捉えることは適わないようでありましたが……

その黒にこそ、玄武さんはなにかを見出そうとしているように私は感じたのでした。



――黒。

――玄。


黒野玄武さんの色。




文香「暗いですね。ここは。いえ、暗いというよりは……むしろ、『黒い』と言った方が正鵠を得た表現でしょうか」

玄武「もう少し歩きゃあ、ちっとは賑やかな往来に出る。そこを通り過ぎたら文香さんの古書店だったな」

文香「叔父の、店です……私は、アルバイトも辞めてしまった身ですから」

玄武「ああ、アイドルになったから、続けられなくなっちまったんだったか。だが、たまに手伝ってるんだろう? 前だって」

文香「はい。以前の手伝いの時には玄武さんにも手伝っていただきました……。もう一度、感謝を」


玄武「いやいや、だからこちらこそ、だ。本を貸してくれる礼もできたし、書店の仕事もさわりだけさせてもらっただけだが面白かったぜ。良い経験ができた。――『人に与えて、己いよいよ多し』、ってな」

文香「そう言っていただけると救われます。孔子……いえ。老子でしたね。その格言は」

玄武「その通りだ文香さん。響いてくれるか、嬉しいぜ」

文香「玄妙……」

玄武「ん?」

文香「言葉の巡り合わせを感じます。符号の様な」

玄武「符号、かい?」

文香「孔子も老子も……『玄聖』と称されます。得が高い、優れた人には、“玄”という字を当てます。……玄武さんもまた、その字を」

玄武「玄……ふむ、老子の玄学は一度目を通してみてえと思うくらいには憧れてるが。……なるほど、玄で繋がるってかい?」

文香「ふさわしいのでは?」

玄武「……そう言葉にされると、面映ゆくて仕方ねえが」

文香「玄は奥深い、深遠なおもむきを指す言葉です。……私が評するのもはばかられますが、感じます。玄武さんを指す言葉として適切であると」

玄武「あー……あのよ」

文香「はい」

玄武「――――言葉が思考に先立つのは危ういぜ」




文香「それは……」

玄武「俺は、そこまで達していねえ。今は……今でこそ、プロデューサーさんのお陰で覇道を歩けちゃいるが、アイドルになる前なんか……俺は本当に」

文香「……」


玄武「ただの、ガキだったからよ」


文香「――そんな、ことは」




紡ごうと思った言葉は、絡まって喉の奥で留まりました。

私は目の前の彼の過去に言及する術がないことに思い至って。


……綴る言葉も持たないまま。

私はまた戸惑って、固まりました。





すうっと夜の風が、わずかに開いてしまった私たちの間を抜けていき、

無音の波紋が玄武さんの黒の輪郭を小さく揺らしていきました。


とりあえずここまでです
なんとか書く時間を取りたいのですが申し訳ない


玄武「尊敬してるぜ。孔子……いや、孔子先生方は。敬意の重複すらためらわねえ」

文香「孔子、老子の“子”は『先生』という意味合いで、そこからさらに敬意を重ねる、とは……最高敬語のようですね。そこまでとは……」

玄武「ああ。だから名前からまっすぐに関連付けられるのも照れちまうし参っちまう。ちったぁお手柔らかに頼むぜ文香さん」

文香「私の評価は、不快でしたでしょうか」

玄武「いや、むしろ恐懼感激の極みではあるんだが。文香さんにも幽玄って表現が似合いそうだがな」

文香「幽玄ですか。お仕事で、そう評されるように骨を折った覚えはありますが……」

玄武「しかし、ああ、なるほどだ」

文香「……?」

玄武「その通りだな、文香さん。…………俺と文香さんじゃあ在り方が違うんだな」

文香「やはり、そうなのでしょうか」

玄武「いや、それも当然か。なにしろ『鷺』は白の象徴だって話だ。さっきの名前の話で言えば対極ってことになるな」

文香「鷺は白……そう言われれば」

玄武「『鷺は洗わずしてその色白く、染めずして烏は黒し』――鷺の漢字にある“路”の字の元は露。白鷺はまさしく白露の如く、か」

文香「白――」


玄武「ああ、文香さんは白だ」



白……。


白と評されるとは……

いえ、しかし。そう、そうなると……私は


文香「それでは私は白の、文、ということになるのでしょうか。……架された名の意を汲むのならば」


玄武「そうなるな。……しかし文か。それも示唆的ではあるんじゃねえか? さっきの言葉を借りるなら、巡り合わせを感じるぜ」

文香「それは名に込められた、イメージの照応の話でしょうか」

玄武「ああ。文は『あや』――綾に通じて、きらびやかなものを表す。アイドルには良い名前だと思うぜ」

文香「そう言われると、率直に……名前負けしているように感ぜられてしまうのですが」

玄武「俺は“武”だしな。こっちにしたって“文”とは対極だ。左武右文といかねえとだが……いや、良い名前だよ文香さん」

文香「……しかし。私は、その名にふさわしい振る舞いができているとは」


それに、『文』の意はそれだけでなく


文香「……」

玄武「ん?」

文香「白の文……白紙の書であるということについては、否定できないと思います。しかし、名の輝かしさには少々気遅れが」

玄武「そう感じるのかい?」


文香「……玄武さんは口上で、朱雀さんとともに名乗りを上げられると聞きました」

玄武「ああ、そうだが」

文香「『“氷刃の玄武”こと黒野玄武』……そう声高らかに宣言されると」

玄武「っと、知ってくれてんのかい。広まってきてるならありがてえことだな」

文香「……私はそのように雄々しく自分の名前を張り上げたことはありません。ライブ等では紹介の時間を取っていただきますが、そこでも力強く自分の名前を発せているとは……」

玄武「張り上げればいいもんじゃねえさ、真実、大事なのは伝えるその心根なんだからよ」

文香「はい……わかっています。しかしアイドルになる前から、私は玄武さんの様な振る舞いを取れたような記憶がありません。……そのような人間ではなかったものですから」

玄武「あのよ、俺なんかに――」


玄武「いや。考えてみれば……そこじゃねえな。名を叫ぶよりなお大事なことは……名を呼ばれることだ」

文香「え……」

玄武「文香さんだって声援を集めてるだろう? アイドルやって嬉しいことは、ファンの純真無垢な声援を耳にすることができるってそこんところさ。一等ありがてえのは……ああ、そこだ。感じてるだろう?」

文香「………………名が呼ばれること」


名を呼ぶ人がいること。

自分の名が他者によって熱が通うこと。


ああ、それは――――

その領域に至っては、自身と他者が不可分であって。



文香「はい。与えられた名が、輝きを得る、その瞬間の感慨は…………充足と感動に心が鮮やかに染まっていくようで……」



自分の声が遠く感じました。

紡いだ言の葉が、夜に放られ、落ちていっているような……そんな心地が暫時、胸をかすめて。


そこにまた声が降りました。



玄武「ああ。俺も名前を確かに心に刻ざまれるあの瞬間が……たまらねえほどうれしいさ」



夜闇に浮かびあがる薄い街の明り。

そのただ中を歩く彼の影は、想いの重みに横溢するがごとく、ことさらに濃く光に映えて。



玄武「名前をつけてくれた人と、その名に命をくれた人、その名の通りに導いてくれた人を思わずにいられねぇ」



遠いものを見るように目を細め、玄武さんはそう確固とした声で告げました。

……誰にか、告げた様にそう響きました。




文香「…………」




私からの反響のその音色。



文香「…………その通り、かと」




名を呼ばれることは、そこに通う想いを受けること。

嬉しかったのならば。飲み込まなければならないのです。






文香「その通りだと大いに同意します」




私は――玄武さんとは違うのでしょう。




文香「……やはり、まぶしく思います」


――

――――




玄武「っと、ここいらだな。今日はおかげさんで楽しめた」

文香「はい。今日のお話は……非常に意義深いものであったと、そう思います」

玄武「そうかい。取り組んでるっていう課題にほんの少しでも力になれたってんなら、光栄なことだな」

文香「課題の核に対する重要な示唆を、もしかしたら頂けたかも知れません」

玄武「おう。それならいいんだが、でもよ、序盤での気付きは結末に色を変える場合が多いぜ?」

文香「確かに……それはそうですね。ミスリードではなくとも、読み始めに感じた意味合いはページを進めるうちに変わりゆくものですから……結局、なにも判然としないまま、であるということも」

玄武「ま、文香さんなら心配要らねえと思うがな」

文香「そ、そう思われるのはなぜでしょうか」

玄武「全身全霊。本気でやってるからだ」

文香「そのように、映るものでしょうか」


文香「玄武さん。実を申せば、自分が本気なのかどうかすらも、私にはわからないのです」

玄武「……だってなら俺が保証してやるさ。あんなに本を渉猟して、考察も気合い入れてやってんだ。十日一水の覚悟を見たぜ」

文香「それならば、判然としない藪の中でも希望が持てるのですが……」


玄武「すげぇな――自分すら関心の埒外に置いてんのにあそこまで本を読めるのか。一体どれほど……」



文香「玄武さん……?」


玄武「おっと、流石に時間だな。朱雀のいねぇ日にここまで舌を回すことになるたぁな。そろそろ俺は」

文香「あ、お帰りでしょうか……中でお茶をお出ししようかと」

玄武「いや、そこまで気を遣ってもらうとかえって恐縮だ。ただでさえ稀覯な本と出会わせてもらったってのによ。それに文香さんは今から課題じゃねぇか」

文香「課題、ですか。確かにあるのですが……」

玄武「そもそもアイドルなんだ。迷惑かけるわけにはいかねえ。それにちっと俺は野暮用があるんでな。すまねぇな文香さん」

文香「……御用がお有りで」

玄武「ああ、見回りに朱雀の様子を見ねえとだ。……舎弟の間にゴタゴタの気配もありやがるし、そこもナシだけつけとかねぇと。こじれちまったら、ただでさえ容量が圧迫されてる朱雀の頭にまた負荷をかけちまう」

文香「それは……なんとも。その、侠気が濃い話ですね」

玄武「大した話でもねぇさ。舎弟たちも性根はいいヤツらだし、朱雀も……やるときゃ、ちゃんとギリギリでもやる男だからな。書店にはまた顔を出させてもらうよ」

文香「それでしたら。はい……お待ちしています」


文香(あら? 確か店頭には……)




玄武「それじゃあな。文香さんなりの課題への答え、楽しみにしてるぜ。完成の暁には是非聞かせてくれよ」

文香「はい……はい……! そうですね、今日は、お互いお別れとした方がいいでしょう。あの……それで、できれば、こちらに来る時は御一報をいただけると、幸いに思うのですが……」

玄武「ん? 確かにそれは必要だな。――よし」


――


玄武「失礼するぜ文香さん、体をいたわること忘れねぇでいてくれ」

文香「はい。体調管理にも心を配らねばと、思います」

玄武「課題のせいか、少しばかり疲れてるように見えるからよ」

文香「……そのようです。あの、玄武さんも……お気をつけて」

玄武「ああ。事故なんかに遭ったら番長さんや事務所にでっけえ迷惑かけちまう。気を付けるぜ」

文香「……え?」


玄武「それじゃあ、な」




お別れ。

……彼はまた夜の中に身を進ませていきました。






――私でもあのように。

一人で進み切る気概を持てるでしょうか。


彼の背中を見つめている中で、そんな想いが胸中に湧いて。

そこに……切ないような感情がもう一つ、霞のようになぜだか散っていきました。




――

――――

―――――





文香(ここで……冒頭の言葉を……)

文香(――このような、結びでいいでしょうか)


最後の言葉をレポート用紙に連ねていき、評論の課題をひとまず書き上げて終わらせます。


美波さんに言った方の『今日終わらせなければいけない課題』は、無事仕上がったとしていいでしょう。

……実は、大学の方で半分ほどはできあがっていた状態だったので、そこまでの労力は必要ともならなかったのですが。



そう。実際に玄武さんにお茶を振舞ったとしても、そして、そこでまた長くお話ししたとしても問題無かったのです。

“あちらの課題”の完成はまだまだ日が必要なものでした。


『文学作品に見られる女性の価値について』。

その課題は多くの研究の時間が必要なもので、一朝一夕にできるものではなく……むしろ今の段階では、議論の対手を得て様々な観点を得ることの方が大事であったかもしれません。




文香(ですが、玄武さんにも予定がありましたし……)


なにより。


文香(ポスターを見られるのは……)




文香「…………」



アイドルとして装丁された鷺沢文香を映すそのポスター。限りなくお嬢様に近い私……

映されたそんな風采に感じ入った叔父が、店内に張り出しているそれはまた、お客様に特典としても配られているようです。


集客効果はあるのでしょう。しかしアイドル同士とはいえこれを、玄武さんに見せるのは……


文香(気恥ずかしさが、拭えず……10枚ほどサインを入れるその時に、留まっておくべきだったのかも)



妖艶、優雅……受け取られたお客様からそのような評価をされたと、叔父の口から聞きました。

そのように、思われるよう振舞えたのも、私が書架に囲まれた閉じた世界を脱し、新たな道を進んだ故のもので。

これもまた白紙たる私が得た新規の色合いなのでしょう。

得た色。色を纏ったということならば、地金である深層の本質は今だに白でしかないのかもしれません。



文香「………………」




白紙――鷺は白。

私を表記し、特定させる『鷺沢文香』という符号。




――『文は『あや』――綾に通じて、きらびやかなものを表す。アイドルには良い名前だと思うぜ』




果たして玄武さんはご存じだったのか……



文は文様。飾りに通じ、文(かざ)る意に繋がります。


しかし、それは『見かけ、うわべをかざる』という意味合いでもあって。

名前に使えば、上辺を飾ることが転じて、情欲が強まる要素となり得るそんな字でもある――と。



妖艶。優雅。色香…………情欲。




鷺沢文香がそのように見られることに。

鷺沢文香はなにを言うべきであるのか――――



文香「本当の、姿とは」



それは、削除されえぬものであるのか

閉鎖されうるものであるのか。




名前の意味合い。存在の印象。



ロシア帝国の貴族として生を受けたナボコフはロシア革命後に西欧に亡命し、やがてはアメリカに帰化した経歴を辿りました。

それゆえ彼はロシア語・英語を操るバイリンガル作家であり、『不思議の国のアリス』をロシア語に訳した『不思議の国のアーニャ』など、他作家の作品の翻訳をも手掛けています。



文香(アリスがアーニャ。私にとっては……諧謔めいたものを覚える、二つの名前。いえ、ともかく)


ナボコフは、自作においても自己翻訳を行いました。

その際に登場人物の名前もやはり変更することがあって。

その言語圏に沿った意味合いを読み解くことで、ナボコフ自身が作品における登場人物にどのような役割を企図しているかを思料することもできるのです。




訳し方……表現が変われば、やはり存在そのものも変わりうる……? 主題の変奏は、主体の変化と果たしてなりえてしまうのか。

しかし。ナボコフの著作に見出すべきは……


文香(あるいは誤読されうる、自己……という主張)



とりとめのない思考が、一つの方向を向いていき……


私は、再び机に向かいました。……書くことができたように思えたのです。



――

――――

315プロ




朱雀「――っしゃあああああ!! 終わりッッ!!!」

玄武「――完、了ッ!!」



朱雀「ぜっ、ハァ……チッ、同時かよぉ。やるじゃねえか玄武よぉ!」

玄武「はッ……ハッ、こっちも安心したぜ。ここんとこ先生方との勉強ばっかでなまってんじゃねえかと気がかりだったからな……腕立て伏せ勝負の決着はひとまず預けるぜ」

朱雀「おうよッ! 次の勝負は負けねェからな! 覚悟しとけよ!?」

玄武「ハッ、言われなくても男たるもの行住坐臥戦いの覚悟はできている――次の勝負は補習開けだ」

朱雀「…………おうよ」

玄武「てめえ、朱雀。いきなりしぼんでんじゃねぇか」

朱雀「そうは言ってもよォ…………スーガクはどうにも気が滅入るぜ……」

玄武「少しでも理解できるように道夫アニさんが手ほどきしてくれてんだろうがよ。あれか、俺の解説ノートの方が不満か?」

朱雀「いやッ! ありがてぇよ! あれでまぁ、ちっとはわかったとこあるからよ」

玄武「やりゃできるだろうが、お前は。……逃げねえ男だって信じてるぜ」

朱雀「あー、おう! 玄武にそうまで言われちゃ逃げらんねえっての!」


にゃこ「にゃー!!」


朱雀「おっ! にゃこ、応援してくれんのかァ!? ははッ! ありがてーぜ!」



紅井朱雀
http://i.imgur.com/vUrhAf9.jpg


玄武「こりゃ、にゃこの信頼も裏切るわけにはいかねぇな」

朱雀「おう! 補習のテストぐらいなんとでもしてみせらぁ!」

玄武「番長サンも心配してくれてたぜ。ありがてぇこった。裏切るんじゃねえぜ、信頼は大事なもんだからな――――」


にゃこ「んにゃー!」

玄武「ッ!? てめ、にゃこ……ックショイ! はなれ……ックショッ!」

朱雀「おおー? にゃこどうしたッ!? 玄武、大丈夫か!?」

にゃこ「にゃっ」

玄武「……は、ハァ。いきなりなにしやがるんだ、にゃこ。俺の猫アレルギーをわかっちゃいねえのか……」

にゃこ「ニャッ!」

朱雀「お、どした。にゃこ? オレを守るみてえに前に……」


にゃこ「……」

玄武「……」


玄武「…………そういうことか。あんまハッパ掛け過ぎても朱雀を信頼してねえってことになるな」

朱雀「あん?」

玄武「目を見て分かったぜ。にゃこのやつ、お前の努力ぶりを見てたもんだから、ヘンな追い詰め方すんなって怒ってやがる」

朱雀「おおっ、そうなのか、にゃこよぉ?」

にゃこ「にゃ」

玄武「……悪かったな、にゃこ。そして朱雀。お前は逃げねえどころか、やり遂げる男だよな」


にゃこ「にゃー!」

朱雀「お、気にすんなってよ! そっか、にゃこ俺のがんばりを見てくれてたか。……まー、あれだぜ? 玄武。オレはやる男だからよ!」

玄武「おう、相棒! そこは承知してるさ」

朱雀「ただ、よ。またわかんねぇとこがあったら教えてくれよ」

玄武「フ、そこは任せな」


朱雀「あ! それとだ!」

玄武「あん?」

朱雀「玄武!! お前も、なんか困ってたら話してくれよなッ!」

玄武「…………ああ。手を借りてぇ時は、言うさ。まあ目下の問題はやはり、お前の補習テストだがな。やり遂げてくれんだろう? 今回も」

朱雀「それは――――おうっ! よし、ここで改めて宣言しといてやらぁ! オレは、補習テストを、ぶっ倒す!! だからよぉ、期待しててくれや!」

玄武「いい宣言だ! よし! そんなら今から模擬試験だ! いくぜ朱雀ッ!」

朱雀「……お、オオッ!! やってやらぁ!」


……

…………


一希「……ん、テーブルで勉強か」

玄武「押忍、一希アニさん! ……朱雀とな。今終わったところなんだが」

朱雀「お、お、押忍……こっから家帰って、復習しねぇと……」

玄武「おう。流石相棒。良い心がけだ。無事終わったら、パンケーキ食いにいくの付き合ってやるからよ」

朱雀「玄武よォ、言ったな! 絶対だかんな! よし、やってやるぜェー!! バーニンッッ!!!」

にゃこ「にゃっ!」


朱雀「そんじゃ先に帰るぜ、ダッシュで! もうひとふんばりしてくらぁ、またな玄武! 一希サン!」

玄武「ああ、気張れよ!」

一希「……お疲れさまでした」






玄武「騒がしくしちまって申し訳ねぇな、一希アニさん」

一希「いや、構わない。それだけ全力で……“真面目”だということだからな」

玄武「全力か。フッ、確かに。相棒は全力でやってっから、あんなに声も熱くなるのかもな」

一希「熱さをもって日々を一意専心、全うする――それは称賛されるべきことだ。……きっと自分の人生を歩むというのはあれぐらいでちょうどいい」

玄武「そうだな。生きているか、死んでいるかわからねえ生き方よりも、朱雀の生き方は正しいって思うぜ」

一希「…………まさしく。その通りだ。本当に」


九十九一希
https://i.imgur.com/JRAaD1N.jpg


一希「神速一魂はその生命の持つ熱さが明瞭だ。ユニットの歌にも発露しているほどに」

玄武「そうかい?」

一希「ああ。ユニットによって違った特色。刺激を受けているよ」

玄武「そうだな、違うユニットのアニさん方と仕事をやらせてもらってるが、ありゃあ勉強になる。メンツが違えばこそ得られるもんは多種多様だ……輝アニさんや一希アニさんには本もお勧めしてもらっちまってるしな」

一希「本を勧めるのは、おれ自身の趣味でもあるが……前に勧めた本はどうだった?」

玄武「図書館で見つけて読んでみたぜ。時間を忘れて読みふけっちまった。構成が巧みで、何より……難関を乗り越えるための行動の、その細部が圧巻だった。ありゃあいい」

一希「それは良かった。図書館で忘我するほど読書に耽る、か……気付いた時には閉館時間。そういった経験はおれも何度もしている」

玄武「ははっ、やっちまうよな」

一希「ああ、図書館は時間が早く進む」

玄武「だが、あれもなんとも充実感があって、愉快な経験だ。熱中するほどの本を読んでのことならなおさらな。朱雀にも味わわせてやりてぇもんだ」

一希「そうだな……おすすめの本や図書館でもプレゼンする機会を事務所内で作れないだろうか。おれも本の楽しさを、知ってもらいたい」

玄武「図書館、か…………そりゃ良い考えだ。図書館ならおれももっと幅広く登録しておきてえしな」

一希「PV撮影で訪れた図書館は、レトロだったが蔵書が大変素晴らしかった……」

玄武「一希アニさんの太鼓判ならなんとしても行ってみねえとな。そうだな、アニさんには――『植物園きのこ文庫』ってとこ、合ってんじゃねえかと思うんだが」

一希「あそこには行ってみたいと思っている……とても。京都にあるからそこまで軽く足を運べないが、いつかは。そういえば京都出身、だったか」


玄武「あー、そうだが。どっかで書いたのを覚えてたのかい?」

一希「記述を覚えるのは、得意だから」

玄武「京都から横浜へ、ずいぶん遠くに移り住んだものさ」

一希「生きていた領域を替えるというのは……やはり、難事だっただろうか」

玄武「男の人生だ。そうしなきゃあならねえ時もあるさ。――それにそのおかげで相棒に出会えたんだ」

一希「そうか……」

玄武「大体、理由あってアイドルになってんなら、新しい世界への踏み出しはここのアニさん方だってみんな堂々とやってんだ。珍しくもねぇ。一希アニさんもそうだろう」

一希「おれは、どうだろうな。踏み出す時にも親類に後ろ髪を引かれていたかもしれない。……ああ、引かれてなかったと言うことはできない、だろうな」

玄武「…………」

一希「その時は大吾のような形で繋がりを消化できていなかった。前、話した直央さんも、母親にアイドルをやれと言われたそうだが……おれがアイドルになった経緯はそのような形ではなかったから」

玄武「…………そういうのは当然あるもんだろう。経緯はどうあれ、一希アニさんも、直央もまぶしいアイドルやってるじゃねえか」

一希「それは――」


志狼「あれ? なおのハナシしてんの?」

一希「あ、志狼さん」


橘志狼
https://i.imgur.com/eyaCrWq.jpg


玄武「あー、そうだが。履歴書の情報でも覚えてたのかい?」

一希「記述を覚えるのは、得意だから」

玄武「京都から横浜へ、ずいぶん遠くに移り住んだものさ」

一希「生きていた領域を替えるというのは……やはり、難事だっただろうか」

玄武「男の人生だ。そうしなきゃあならねえ時もあるさ。――それにそのおかげで相棒に出会えたんだ」

一希「そうか……」

玄武「大体、理由あってアイドルになってんなら、新しい世界への踏み出しはここのアニさん方だってみんな堂々とやってんだ。珍しくもねぇ。一希アニさんもそうだろう」

一希「おれは、どうだろうな。踏み出す時にも親類に後ろ髪を引かれていたかもしれない。……ああ、引かれてなかったと言うことはできない、だろうな」

玄武「…………」

一希「その時は大吾のような形で繋がりを消化できていなかった。前、話した直央さんも、母親にアイドルをやれと言われたそうだが……おれがアイドルになった経緯はそのような形ではなかったから」

玄武「…………そういうのは当然あるもんだろう。経緯はどうあれ、一希アニさんも、直央もまぶしいアイドルやってるじゃねえか」

一希「それは――」


志狼「あれ? なおのハナシしてんの?」

一希「あ、志狼さん」


橘志狼
https://i.imgur.com/eyaCrWq.jpg


玄武「レッスン終わらせてきたんだな」

志狼「おーうバッチリだぜ、げんぶのあにき! んで、なおがなんだって?」

一希「いや……真面目にがんばっているな、とそういう話をしていた」

志狼「えー、オレだってマジメだぜ!? なおだけじゃねーよー?」


玄武「志狼よ、宿題はもうすませたのか?」

志狼「え、あー……なおのヤツがあっちで今やってるから、マネしたくねーなって……そうだ! すざくのあにきは? ヒッサツワザ教えてもらいにきたんだよ!」

玄武「朱雀は先に帰ったぜ。勉強しに、な」

志狼「えーっ、ベンキョー!? マジ!?」

玄武「今までここで勉強してたんだ」

志狼「すざくのあにきも学校の勉強すんの?」

玄武「そりゃあするだろ。力押しだけじゃあ天下は取れねえんだ」

志狼「そうなのか……あ! げんぶのあにきも、なんかすげーいっぱい本読んでるけど、テンカ取るのに必要だからなのか!?」

玄武「…………そりゃ、わりかし難しい問いだな」

一希「向き合って自分の損になることはないものだ、本というのは。……教科書などは苦手に思ってしまうかもしれないが」

志狼「ニガテだよ~……あんなの」


一希「そうか。しかし――」

志狼「……でも、やっぱ逃げてちゃダメなもんなんだろ?」

玄武「おっ」

志狼「うー…………テンカ取るくらいにビッグになるためには、やっぱり一日もサボれねーな」

一希「志狼さん?」


志狼「ワリ、やっぱオレも宿題やってくる! ちゃんとやってるってプロデューサーにも言っちまってるし!」

玄武「志狼。――ああ、そうだ。よく言った!」

志狼「すざくのあにきがちゃんとやってんなら、オレもやんなきゃじゃん! それに負けてらんねーし! ありすのヤツにフマジメだのなんだの言われんのムカつくしな!」

一希「わからないところがあったら、こちらで教えられると思う。遠慮なく聞きに来てくれ」

志狼「おう、サンキュ! かずき! げんぶのあにき!」








一希「志狼さんもまっすぐだな」

玄武「気持ちのいいヤツだ。高志有勇――曇りがねえ。あいつも俺と似たようなものなのかもな」

一希「似ている、か」

玄武「相棒はまっすぐなヤツだ。だからこそ志狼も一つの目標にしてんだろう。…………朱雀の男気に惹かれてるのは、俺もなんだ。なればこそ道を違えねえ」


一希「……道を示してくれた光だから、か」

玄武「……ああ」

一希「それは、おれにもある」

玄武「涼と大吾のことかい?」

一希「そうだ。2人とユニットを組めて、良かった……」


一希「プロデューサーにも支えられて、仲間から影響を受けて、今おれはここにいる。まぶしく思えるものが多いよ」

玄武「なんだか、かしこまった話になっちまったな」

一希「そういえば……そうだ。少し、感傷的になってしまっていたのか」

玄武「……感傷――――――――そうかも、な」


玄武「いや、一希アニさんとは気が合うからか妙に話題がすべっちまう」

一希「……確かに雑談ではないかもしれないな。キャラクターの根本の話と言える、かも。キャラクターはその世界にいる他者との相互の干渉によって形作られるという作劇論――」



一希「人をまぶしく思うのは、自分にはない輝かしいものを持っているが故なのだから」



玄武「……」





――――『……やはり、まぶしく思います』




玄武「――それも、勘違いかもしれねえがな」


一希「…………? どうかしたのだろうか」

玄武「……本当のところは、やっぱり知ってみなきゃあならねえか」

一希「なに?」

玄武「すまねぇな。さっきの図書館の話に戻るが、俺も――行ってみてえ所があるよ」


>>139連投ミスです

今回の投下はここまでです。
長らくお待たせしています。

あふれる情報の処理を真面目に考えなければ


――

――――



オープンカフェ



文香「………………」


ありす「文香さん……? あのぅ」

文香「あ、ありすちゃん。声をかけてくれていましたか……失礼しました、気付かずに」

ありす「い、いえ! いいんです。本に集中していたんですよね」

文香「はい。少し調べ物がありましたので……。ありすちゃんはお仕事を終えられたのですね。お疲れさまでした」

ありす「はい。お疲れさまです。でもお仕事と言っても、今日は以前撮ったグラビアのチェックだけでしたから」

文香「そうでしたか。それではグラビアの方は無事に?」

ありす「はい。無事、クールに、ロジカルにこなせたと思います……! ……あの、見本をいただいているんです。文香さん、見てくれますか!」

文香「私が見ていいのですか? それでは一旦こちらの本は置いておいて……」


文香「……」パラッ

ありす「……」ドキドキ


文香「…………」

ありす「…………え、えっと、何度か撮ったんですけど割と、最後にはうまくいったと」


文香「とても……可憐ですよ」

ありす「!」

文香「まなざしには意志の強さが垣間見えて……それでいて口元の微笑みは自然な柔らかみを持っていて。とても魅力的ですよ、ありすちゃん」

ありす「っ! あ、ありがとうございます!」


橘ありす
https://i.imgur.com/vL6N4kZ.jpg

速水奏
https://i.imgur.com/nKlTXDJ.jpg




ありす「えへへ……文香さん、とても魅力的なグラビアを撮っていましたから。私もがんばらなきゃって思っていたんです」

文香「魅力的、ですか。そのように、映ったのなら光栄ですね」


奏「――実際がんばっているわよね。この前のライブも、ずいぶんレッスンこなしてたじゃない?」


文香「奏さん……」

ありす「おつかれさまです!」

奏「おつかれさま。私もコーヒーいただくわ。……って、文香。そのコーヒーもう冷めちゃってるじゃないの」

文香「あ……これは、確かに、冷めてしまっています、ね」

奏「また読書に没入してたのね。じゃあコーヒーは2つ頼みましょうか」

ありす「いえ! 3つお願いします。私はブラックで」

奏「ありすちゃんもブラック? ふふ、背伸び?」

ありす「せ、背伸びではなく。二口くらいは……その、大丈夫なので」

奏「淑女の仲間入りってことね。わかったわ」

――

――――


ありす「ふーっ、ふーっ……大丈夫。……苦くても、大丈夫。私は志狼くんみたいな子どもじゃないんです……大丈夫」

奏「文香も次は温かい内に飲まないと」

文香「はい。次こそは、冷めないうちに飲むよう努めます。カフェの本懐を、取りこぼすわけにはいきませんから」

奏「いや、そこまで力入れることでもないでしょうに。……やっぱり面白いわよね。文香って」

文香「面白みを、感じられますか? 私に」

奏「そう、面白いわ。私はそう感じる。前のグラビアみたいな『綺麗な文香』もとってもいいと思うけど……そういうところもね、いいところ」

ありす「綺麗でしたよね。本当に。ネットを見てもいっぱい評価されてました」

文香「ありがたいことです……プロデューサーさんや、スタッフさんに感謝ですね。……感謝、です」



文香「…………」

ありす「文香さん、どうかしましたか? 少し顔色が悪いような……」

奏「レッスンの疲れが出たのかしら?」

文香「いえ、大丈夫です……」

奏「じゃあ勉強疲れ? 美波が心配してたわよ。課題までがんばってるみたいだって。そういえばなにを読んでいたの。

文香「あ……」

奏「油圧、構成……えっと、これ専門書よね?」

ありす「えっ。どうしてそんな本を」

奏「文学の方だけじゃなくて工学にも興味があるの?」



文香「えっと、少し、舞台装置についての理解を深めようかと」

ありす「舞台のことまで勉強を? すごいです……! 私も、やった方がいいでしょうか」

文香「そんな。これは私の……そう、趣味のようなもので。必要性のことを言えば、それは無いと……」

奏「頭に情報詰め込み過ぎたら疲れない? 気晴らしになってるのならいいけど、必要性が無いのなら急ぎで読まなくてもいいんじゃない?」

文香「……それは」

ありす「あのっ、読みたいというのは、衝動なんです奏さん。文香さんにとって読書はもう生活の一部なので抑えられるものじゃないんですよ。そうですよね?」

文香「ありすちゃん。……確かに、読むべからざる本の選別など私は行いませんね。目に映ると際限がなく手に取ってしまうので……悪癖、なのかもしれません」

奏「止められるものじゃない、か。なるほど」

文香「やはり呆れますか?」

奏「なんでよ。枷をつけられないものってあるわよ。わかったわ、読書についてはもう止めない」


奏「……ただ、本当に疲れてるなら休息だって大事だから。それは忘れないで。それだけ、ね」

文香「心配り、ありがとうございます。奏さん。……ありすちゃんも」

ありす「い、いえ!」

奏「ふふ、そんなにあらたまるものでもないわよ」



――


――――






文香(心配をかけてしまっているのかも)

文香(でも……。これは、あくまで私一人が接している事柄なので――)



――

――――



玄武(『まぶしく思う』)




なんだってあんな風に俺のことを言ったのか。


……いくらなんでも持ちあげすぎだぜ、文香さん。




――――



文香「…………」



電車を降りて、街を一人歩みます。

落ち着いた雰囲気を醸す街並みに目をやりながら。



静穏な空気の寄る辺。

それは土地に根付いた――由緒、とでも呼ぶべき街の歴史。



どこか格調高ささえ醸成された街にあって、その空気に完璧に同調するようにかの図書館はありました。



文香(やっぱり素敵…………)




ルネサンス様式に準じた重厚な外観。

しかし軒にはところどころに窓や壁を護る庇があって、和風建築の温かみも残しています。

広い庭のささやかな木立に物静かに建っているそのあり方は、そのまま荘厳なる街の映し身のように。


威容を誇っていると表現するよりかは泰然と土地に根差しているような、それはかつての華族の残滓。


文香(…………やはり。やはり、閉鎖されて、ほしくない)




文香(今日は人が多いみたい?)


庭の道を進み、門の前の二つのライオン像のところで少し立ち止まります。にぎわいの気配を感じたからです。


――閉鎖間際と知らされたこの私設図書館。

今日はお客さんがここに多く足を運んでいるようです。



文香(よかった……)



利用客が増えたところで図書館である以上、直接的な利益には成りえません。

……なので、それにより経済的困窮が解決して閉鎖が免れる、ということにはならないでしょうが、それでも。

惜しむ人が多くいるというのは、この図書館の存在した意味があったということですから。



文香「きっと、意味は」



開け放された扉を進み、館内へ。



――歴史を湛える、荘重な空間。

壁際に配置された木製の建具が、そのつややかな表面に照明からの光を柔らかく跳ね返し、館内をどこか茫洋な色に染めています。


整然と並べられた書架は、大時代的な威厳さえ携えた剛毅な金属製。

それが群れとしてこの領域に果てしなく連なって、書の回廊を形作っています。


しかし館内に圧迫感は感じません。

書架の一つ一つは小ぶりで、そしてあるべき場所へ品よく収まって見え、それが設えられた書物机や、枯淡した風情の板張りの床との調和を崩していないからでしょう。



文香(あるいは……可動する床の工夫で書架の高さが抑えられているおかげかも)



荘厳さを見せながらも親しみ深く……

落ち着いた雰囲気の中に温かみが見られるこの場所は、本が眠る大きなゆりかごのような風情でした。



文香(しかし、今日は)


来館した人達がざわめいて、少しその雰囲気を賑々しいものに変えています。

今日はここまで

帰還


「……空はこの天窓から覗けるんじゃないか?」

「……本棚にレリーフみたいな飾りついてるじゃない」

「……壁を叩いてもなんかありそうじゃないな」


館内に軽く響く声を耳にしながら、受付を通り過ぎて書架の群れへ。


天窓を仰ぐ人。

剛毅な書架の枠を撫でる人。

壁に触れてなにやら思案している人。


本を読んでいる人の方がここからは少なく見えました。書架の奥に進みゆくにつれ、人の姿は少なくなっています。

この図書館は小さな本棚の配置によって、漫然と歩いていてはいつの間にか前方を本棚に囲まれている、といった状況になったりもします。

興味深い本が並ぶ誘惑の小路。私にとっても忍耐がいる場所です。

しかし、今はいささかその誘引の力が欠けてしまっていました。


……本が少ないのです。


文香「……」

足を止めて、あちらこちらの空白を確かめるように見渡しました。


書架には空きが目立ち、身を立たせることができずに横倒しになっている書が散見されました。

上段の棚に一冊も収められていない書架も多くあります。書架の空白は傷のようで。痛々しくも映ります。


図書館という書が蝟集しているはずの空間が晒している、みずからの密度の欠損。

『運営中止』、『財産整理』――――この図書館は閉鎖前の状況なのです。


文香(寂しい……)


事情を承知していて、その上で何度か来ているのに。

私は幾度かの、胸に湧いた寂しさを払うのに骨を折りました。

本が無くなるのは、そのまま本とともに合ったこの図書館の歴史と意味が薄まってゆくこと。

その喪失と終末の空気は、肌で感じられるものでした。……それは私にとってあまりにも直截に心境を揺らすものでした。


文香(いけない)


沈んだ目線を上げて前を見ます。歩みもそのまま前へ。ただ、寂しい思いに耽りに来たわけではないのです。

……そう思った時、小さくかすれた硬い音が耳に届きました。


文香「え」


上げた視界をその音の方向に移すと、古色なフォントで『ヤングアダルト』と銘打たれた一つの書架が目に入りました。

断続的に並んでいる本の古壁の先、そのまま足を伸ばして奥まった場所のそちらを見遣ると。

そこには一人の……中学生ぐらいの少年がいました。


『ヤングアダルト』という区分の名称はいささか古めかしく響くものではありますが、

それでもかの少年はその区分が対象とする年代であり、そこにいたのは自然なことだと言えましょう。


それでも視線が釘付けになったのは。

床に下ろしたエナメルの大きなバッグになにかを詰め込んでジッパーを閉めるその彼の所作が、妙に忙しなかったからでした。


奇妙な緊迫の気配。

室内なのに帽子をかぶったままの彼は大きなバッグを抱え直し、書架と書架の間から目を遣る私に気付くこともなく、ヤングアダルトの棚から離れていきます。


文香「……?」

文香(今のは。影になって判然としなかったけれど、バッグの中のあれは)


見えたのは紙の束……本の天地の部分でした。


文香「…………」



歩み去る少年の背中を見つめたままの私の頭が情報を整理します。

今、彼は本をバッグに詰めて持っていきました……それは重い不穏な印象を伴うものでした。


私は思わず少年がいたヤングアダルトの棚へと近づいていました。この図書館の書架の上部には振られた番号が彫られていますが、そこには十五とありました。

対象年齢層と照応したかのような番号を持つその棚も、図書館の現況通りやはり所々に空きがありましたが……中でも一際目立つ空白が、ちょうど私の目線の高さに晒されていました。


空き具合は、文庫本の厚みからすれば5巻から7巻分ほどでしょうか。

その「空白」が目立っていたのは……この棚の他の「空き」とは違い、左右の本が少し前に引き出されていたからです。


文香(大掴みに本を取られた巻き添えにあったかのよう――――)


これは今の図書館の現状でも、違和感を覚えるものでした。

……空きが目立っても、身を立たせることができずに横倒しになっている本が散見されていても。空きが目立つのは本が処分されていっているからであり、横倒しもその物理的な結果に過ぎません。

だから疑問に思ったのです。このように中途半端に引き出された状態を。……これは大雑把に書の束を抜き出さなければ起こり得ないこと。


文香(先に聞こえた小さくかすれた硬い音。まさしくあれは取り出す際、本を書架の縁や天板に当てた特の、かこんとした音で……)


ここにあった本を、あの少年はがばりと取ってしまったのでしょうか。そしてそのままバッグの中に詰めて、運んでいった。なぜそんな……?


文香(いえ。もしかして、本の整理を手伝って……? でも、あのバッグは私物のような?)


ざわめく胸に手を当てながら私は少年の姿を探しました。

出入り口へと何気なく歩いていく少年の背中。悠々としているようにも感じられる歩き方でした。


文香(本をバッグに詰めたまま、そのまま外へ? それは――)

文香(あの棚は周囲から目撃されにくいところ……今の図書館であれば『本が抜けている』という状況も発覚しにくく)


疑念が背筋に登り、私は暫時固まってしまいました。

彼の進路の先の受付も目に入ります。出入り口付近に設えられた、貸し出しを行う受付。…………そこで、私はもしかしてと思いました。



『多くの本を一度に借りたいけれど、持ち運びが不便なので私物のバッグで運んでいる』。

今はそのような状況なのでは、と。



それなら……やり方が不審と誹りが来るものであるかもしれませんが、なんでもない話です。

それならば、これは杞憂が先走っただけという、私らしい思考の小さな失敗談として消化できます。


そうであってくれればと、思いました。


気づけば私は固唾を飲んでいて。離れた少年の動向を……バッグの中に収められたこの図書館の本の行末を……注視していたのでした。


受付へと迫っていきます。


文香「……っ」


受付の前には今、3人ほど人が並んでいます。借りるつもりであるのなら、その列の後ろにつくはずでしたが。


文香(あ――!)




果たして、少年はその列に目を遣ることもなく受付を通り過ぎていきました。



そのまま出入り口に自然な態様で足を早めた彼は、やがて私の視界の外へと消えてゆきました。


文香「……」


今のは――――本をそのまま持っていってしまわれたのでは?


文香「…………っ、これは、どういう――」


目の前で起きた一連の出来事を私は適切に捌くことができず、頭には混乱が湧きました。



図書館の本をバッグに詰めたまま受付を通さず外に出てしまう。そのようなことを行う合理的な理由とは?

いくらこの図書館が閉館間際の状態にあるといっても、書をそのまま取り放題にしているなどということは無論ありません。

むしろ……少しでも存続させるために稀覯本を自ら売りに出しているのです。本の処分の手伝いであっても、まずはバックヤードに運ぶでしょう。



文香(それなのに何の声もかけず、足早に)



混乱する頭で、私は1つの帰結に至ります。


あの子はいけないことを、したのでは。私はいけないことを、目撃したのでは――


思い至った、眼前の出来事のその性質。……しかし、それはあの少年が本をバッグに詰めたと分かった時にすぐに類推できたことでした。


私の今の混乱の理由は――自分自身にありました。『目撃した私がどうすればいいか』、見当がつかなかったからです。

いえ、分かってはいるのです。このような状況でやらなければならないこと。やったほうがいいこと。



追わなければ。引き止めなければ。誰かに話さなければ――

思いがあり、懸念があり……戸惑いが膨れ上がった私は、暫時その場で固まったのです。



困惑を抱えたまま、逼迫したものを胸に覚えて、私は焦りを自覚しながらも思考を必死でまとめていました。

具体的なことが決まっておらず、指針のない惑いが、私の頭を占領しています。


文香(まずは……まずは)


まずは引き止めて、確認することが必要でしょう。

誰かに話をしていたずらに事を大きくするよりその方がいいはずです。

なにより彼は足早に歩み去っていっているのです。今動かなければ、引き止める機会も逸してしまいます。


文香(まずは足を止めてもらって、お話して……)


そこで、どのような展開になるでしょう。


文香(話を聞いてもらえず……逃げ去られたら?)

文香(もっともらしい理由を作られて話された時は、私はそれを判別できないのでは?)

文香(語気を荒らげられたなら……バッグの中身を確認することも叶わず、そのまま押し切られてしまうのでは?)


不安とともに様々な可能性が一気に湧いて、私の思考を塗りつぶします。


決断を迫られた時、行動を求められた時、浮かんでしまう躊躇や懸念と言ったものが……今も。


文香(本当に間違いだったなら、この上ない迷惑で……)


そう、間違いだという可能性もあって。

そのように後悔する結果が待っているかもしれないのなら動くのも得策でないのでは……などという思いも湧いてしまって――



――――けれど。私は足を踏み出していました。無意識の内に。



外から見ればわたわたとしているような有様で。

まったく落ち着けていないと自分でも分かるような緊張ぶりで。


それでも数秒後には私は少年の後を追い、図書館を出ていたのです。



……なぜだか、どうしても看過できなかったのです。

最近知ったばかりの図書館であっても。そこが近々閉鎖されるであろうという状態であっても。


書が奪い去られていくことが。

この『書の集いの場』を構成していた一部が無くなっていくことが。


図書館を出ると、正門前の、2つのライオン像のあたりを通り過ぎようとしている少年の後ろ姿が目に映りました。

石畳を蹴って、ほとんど駆け出しながら私はその後を追います。

正門を出られたら……もっと引き止めにくくなるでしょう。



いえ、これはすでに、声を掛けるべき局面――

焦りが背中を押すように、私は声を上げようとして。


文香「ま……」


それでも喉から発せられたのは、かすれ切った声ならぬ音でした。

息を呑んでいたから? どうしてこの身はこのように拙いのか……


文香(本当に、もう……!)


息を吸い込んで、吐いて。喉の奥で咳ばらいをして。再び目線を先へと合わせました。

例え拙くとも、声を上げなければいけない時は……




文香「待って、くださ――――!」







――――「おい、そのまま出るんなら止めなきゃならねえぞ」




文香「っ!」



ぎこちなく固まる喉から声を絞り出すその時、透徹した男性の声が被せられました。


私より後ろから発せられたその声は、緊張を持って響き――



少年「え……!?」



正門前で、少年の足を縫い留めたのでした。




その場で止まった私の横合いを、後ろから男性が抜けていきます。迷いのない足取りで、少年へと一直線に進んでいくその人は背が高く…………見覚えのある姿でした。


文香「!」



玄武「ずいぶん大量に本を詰めたな。受付を通さなかったようだが……うっかり忘れちまったのか?」

少年「あっ、違……えっと……これは」

玄武「忘れちまったんなら今から戻れ。そういうことでもねえんなら、話を聞きてぇな」

少年「あ、あ……」



文香(あの人は、玄武、さん……!?)


どうして、ここに。

しゃがみこんで少年に目線を合わせた玄武さんは、問いかけを続けます。


玄武「俺の言ってること分かるか?」

少年「え……え、えっと、うん……」

玄武「落ち着け。聞いてるだけだ。……話せるか?」

少年「うん……」

玄武「……」

少年「…………」

玄武「どうしてこんなことをしたんだ?」


文香(あの店長さんのお話を聞いて。私と同じようにこの図書館に……)


少年「じ、自分のものにしようとかじゃなくて…………ご――」

玄武「ああ」

少年「ごめんなさい…………」


玄武さんが登場した驚きに固まった私は、急に目の前で広がったやり取りを、半ば呆けたように眺めていました。


文香(なるほど。まずはああして『本を詰めたまま受付を通さなかったこと』を既成事実として、そこから理由を問うようにすれば、本題をそのまま進められて……)

勉強になる……、と私は妙な感慨を持ちました。


文香(しかし、この状況はどうしたら?)


決意めいたものを覚えて、必死に足を踏み出したつもりでしたが……出る幕がありませんでした。

それは取り去られた本の行く末を思えば、心からの安堵をもたらすものでしたが。

如何せん――所在ない私が、ここにぽつねんと残ってしまいました。



文香(『自分がいないまま』、事が進む――……)

文香(目撃情報を持っている立場なのだから、私も、ここで声を掛けた方が良い……そう……このタイミングで………………といっても、どのタイミングで)



玄武「――――じゃあ行くぞ。それは自分の口から言わなきゃ駄目だぜ」

子供「う……、っ」

玄武「ついていってやるさ」

文香「あの……」

玄武「ん?」

文香「よ、横合いから失礼します。よろしければ私も、なにかご協力させていただければ、と。…………玄武さん」

玄武「……っ!? 文香さん、かい?」


進み出た私に、玄武さんは驚いて。

私は今のタイミングで出てきたのは駄目だったかもしれないと、そんな思いを抱きました。また、益体も無く。

今回の投下はここまでです

書けなくなったり消えてしまったり、遥かな時間が経ってしまいました。すみません。
終わりまで書きます。

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