若林智香のファンになった男性の話。 (12)

 いつものように、電車に揺られる。

 朝早くに起きて、夜遅くまで会社で仕事。家に帰って寝て、また会社。

 そんな繰り返しの日々で、私は疲れきっていた。

 休日がないわけではない。楽しみもないわけではない。

 だが、それで疲労が完全に取り除かれるかと言うとそういうわけではない。

 毎日毎日、少しずつ少しずつ、疲労は蓄積していく。

 結婚でもしていれば『誰かのために頑張ろう』という気持ちになったのだろうか。

 頑張る理由を見つけられたのだろうか。

 私にはそれがない。ただ漫然と生きている。

 そんなおぼろげな不満を抱えて、今日も電車に揺られている。

 それほど大きな悩みというわけではない。ただ、なんとなく……そう、なんとなく、そう思うことがあるというだけ。

 きっと誰もが持っている、日常に対する不満。それと同じだ。

 ただ疲れだけがたまっていく日々に対して不満を覚えて、でも、すぐに忘れてしまう。

 そんなことを考えている暇なんてないと自分自身に言い聞かせて、すぐに仕事に向き合ってしまう。



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 それがいいことなのか……はわからない。

 だが、そうしないといけないということはわかる。

 その問題に真面目に向き合っても、解決できる気がしないから。

 だから、私はもうそのことを考えないようにする。そのために、少し、周りを見る。

 朝の通勤電車。人は多いが、満員電車というほどではない。

 私と同じくスーツに身を包んだ男性と女性、それから学生。

 ちょうど私の前に立つ少女も学生だろう。制服に身を包んだ、かわいらしい少女。

 自分の学生時代を思い出して、こんな少女と話すようなことはほとんどなかったな、と思う。……むなしいが、それだけだ。ただ、それだけ。

 それだけしか思えないのは、私の性格が影響しているのだろうか。

 それとも、精神が疲れきっているということを示しているのだろうか。

 ……まあ、いいだろう。そんなことを考えていても仕方ない。

 私は目蓋を閉じた。

 なんだか、ひどく眠い。

 目蓋を閉じているだけでも、少しは……。

 ……。

 ……。

 ……。

「……の……で……?」

 どこかから、声が聞こえる。

「あの……おり……じゃ……」

 心地よいまどろみの中、遠くから、少女の声が聞こえてくる。

 これは、いったいなんだろう。

 これは、いったい――

「あの!」

 瞬間、パッと目を開く。目の前には、一人の少女。

「――駅ですっ。降りる駅……でしたよね?」

「あ、ああ」

 まだはっきりとしない意識のまま、私は答える。目の前の少女は朗らかに笑い、

「それじゃ、降りましょうっ! アタシも、ここが降りる駅なのでっ」

 私の手をとり、すみませんと言いながら電車を降りた。

 その時には……具体的に言えば、手をとられた瞬間から、私の意識ははっきりとしてきており、はっきりとしてきたからこそ、今の自分の状況がよくわからなくなっていた。

 自分より一回り近くは年下だろう少女に手をとられて電車を降りる……冷静になって考えると、なんだか変な絵面である。それを恥ずかしいと思うより前に嬉しく感じてしまっている自分に気付いた時は自分はそこまで女に飢えていたのか、と自己嫌悪さえ覚えた。

 しかし、言い訳するわけではないが、その少女はかわいかった。腰まで届くほどに長いポニーテールが印象的で、朗らかに笑うその表情は見ているだけで元気がもらえそうなほどである。

「ふぅ……間に合いましたねっ」

 声とともにポニーテールまで弾ませて、少女は笑う。

「ああ。……ありがとう。君のおかげで、寝過ごすことがなかったよ」

 私は軽く頭を下げて、礼を言う。

「いえ、どういたしましてっ」

 ……しかし、優しい子だな、と思う。私が彼女と同じ立場だったとしても、彼女と同じようなことをしたとは思えない。降りる駅が違うかもしれない、自分の記憶が絶対というわけではない、今日はこの人も違う駅で降りるのかもしれない……適当に理由を付けて、結局声をかけるようなことはしなかっただろう。

「本当にありがとう。それじゃあ、また」

 私はそう言って、彼女と別れようとした。いつまでも彼女と話していては、彼女にも迷惑だと思ったからだ。

 だが、その時――そう、その時だった。

 彼女は私に向かって、元気に笑って。


「はいっ。いつもお疲れ様ですっ! 今日も一日、がんばりましょう!」


 そんなことを言って――そんなことを言われて。

 私は、救われたような気持ちになった。

 ああ、そうか、そうだったんだ。

 私は、これを求めていたんだ。

 ずっとずっと、その言葉が、ほしかったんだ……。

 私の胸に、熱いものが溢れてきた。それは涙となってこぼれそうになったが、なんとかこらえた。

 ただ、私は笑みをつくって、

「ありがとう! 今日も一日、がんばろう!」

 彼女に向かって、そう言った。

 すると彼女は嬉しそうに笑って、


「はいっ!」


 と言った。

 それから。

 私は彼女からもらった元気で、がんばることができるようになった。

 以前とは違って、明るい気持ちで。

 嫌なこともないわけではない。折れそうになることもないわけではなかった。

 でも、彼女の言葉を思い出すと、もう少しだけがんばろうという気持ちになれた。

 通勤電車で彼女と会うと、話まではしないが、会釈をしあう程度の関係にはなっていた。

 しかし、ある日を境に彼女のことを見ないようになった。

 どうしたのだろうか、と少し心配になりはしたが、それから一ヶ月もしない内に理由がわかった。

 彼女と同じ学校の制服を着ている学生たちが話していたのだ。自分たちの学校のある生徒が、アイドルとしてデビューした、と。
 私は悟った。それは彼女だ。そしてすぐに、天職だな、と思った。彼女なら、すごいアイドルになれるだろう、と。

 その予想は間違っておらず、それから数ヶ月で彼女のことはテレビでも見るようになった。

 今日もその番組が放送される。私は急いで仕事を終わらせて、なんとか放送時間までに帰ることができた。

 テレビをつけると、ちょうど番組が始まったところだった。

 私はテレビの前に座り、画面を見る。

 がんばれ……がんばれ。

 彼女のことをよく知りもしないのに、私はそんなことを思っていた。

 その時、気付いた。

 私は、彼女を応援したい、と。

「さあ、今日のゲストは『応援アイドル』として話題のこのアイドルです!」

 私は、彼女の――

 
「若林智香、がんばる人の姿を見るのが大好きですっ! みなさんのこと、応援しちゃいます!」


 ――ファンなんだ、と。






「若林智香のファンになった男性の話。」 終


終わりです。ありがとうございました。

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