梓「嵐の夜に」 (34)

こんなときに、こんなところで、こんなひとに会うなんて、思ってもみなかった。

ずいぶん、重そうだな。

バス停のベンチに腰掛けたわたしの、手前に抱えられた黒いリュックを見て律先輩は言った。
厚い雲に覆われてほの暗い真昼の空とは無関係な、いつもと変わりない気の抜けた調子だった。
わたしは黙ったまま、リュックをぎゅっと抱きしめていた。


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風がびゅうびゅうと吹きすさび、バス停の庇がガタガタと音を鳴らしている。
からんからんと乾いた音を立てて空き缶が道路を横断していく。
街路樹はざわざわとひっきりなしに揺れて音をあげ、それに合わせるようにわたしの髪も左右に踊る。

わたしが来る前からベンチに座っていたおじさんは、さっきからずっと貧乏ゆすりを続けている。
しばらくして、時間通りにやってこないバスにしびれを切らしたらしく、せわしなさそうにベンチから立ち上がり、電話をかけながら庇の外に出て行った。

ふたりきり。

律先輩は、半人分くらいのスペースをあけてわたしの隣に腰を降ろした。

「映画、観に行こうと思ってさあ。こんな日だから空いてると思って」

台風、来てるんですけど。バカなんじゃないの、この人。
口には出さず、薄く細めた視線だけを向けた。

接近中の台風13号は、今夜近畿地方に上陸する。
まだ雨は降りだしていないとはいえ、風は相当に荒っぽい。街路樹の周囲には折れた枝葉がちらばって、風に飛ばされて道路にまで散っている。こんな天気だからせっかくの休日の午後だというのに、街を行く人影はまばらだ。道路に行き交う車も少なく、閑散としている。

律先輩はさっきから、右手に持ったビニール傘を、こんこん、とリズムよく地面に叩きつけていた。風の音よりよっぽどやかましい。わたしはこれ見よがしにため息をついた。バス来ないなー、遅れまくりじゃねーか、道混んでねーのになんでだよ…と律先輩は言った。どうやらわたしのため息の意味を勘違いしたらしい。

「弟も誘ったんだけどさ、アイツ怖がって来ないんだよ。ビビりだよな。
 澪はさ、夏期講習だって。台風の日にも勉強だぜ? 学校だって台風なら休みなのにだぞ? まったくご苦労なこって」

ご苦労なのは律先輩の頭ですよ。
それも口に出さず、わたしは視線を先輩から背けた。

ようやくバスがやってきた。

勢いよく立ち上がった律先輩が、風にあおられてすこしよろめく。思わず鼻で笑ってしまい、気づかれて睨まれた。
頬を赤くした律先輩に頭をくしゃっとされた。

「ほら、行くぞ」

「行く、ってどこへですか」

「映画」

「行きませんよ」

「いいじゃん。どうせ、ヒマなんだろ」

「ヒマじゃないです」

「じゃあどこ行くんだ」

「別に」

「行こうぜ」

有無を言わせず左手を掴まれ、そのままバスに引っ張り込まれた。
ブー、とブザーの音が響き、扉は閉まった。

バスの中でも、わたしたちはふたりきりだった。(運転手さんを除けば)

車内真ん中からやや後ろくらいのふたりがけの席。そこに座った律先輩の後ろの席に腰を下ろす。
律先輩は身体ごとよじって後ろを振り返り、どうして隣に座んないんだよ? と不満そうに言った。

「梓、もしかしてわたしのことキライ?」

「…荷物があるからですよ」

おろしたリュックを隣の席に置きながらわたしは答えた。

「貸切状態なんだぜ? 取られる心配なんかないだろ。こっちに座ればいいのに」

「さっきの質問に答えていませんでしたね」

「?」

「キライじゃないけどうざいです」

律先輩は黙って首を引っ込めた。

ガラガラに空いた道路をバスは快調に走っていく。どうしてこんなに空いているのに、乗客もいないのにあんなにバスが遅れてきていたのかわからない。予定時刻通りなら律先輩に遭遇することもなかったのに。

そのあとも乗客はわたしたち以外誰もいなかったけれど、バスは停留所を無視せずきちんとすべての場所で停車した。
止まるたび、扉が開くと風の鳴る音が激しさを増しているのがわかった。


バスを降りると、雨粒が頬に触れた。
少し小走りでアーケードの下へ駆け込む。
停留所から映画館まで、この街一番の繁華街を通る。
いつもなら行き交うひとの群れに押されて満足に進めないことさえあるというのに、嘘のように人通りがすくない。
変わらないのは繁華街の呑気なテーマソングだけだ。時代遅れの歌謡曲がむなしく響いている。
すでにシャッターの降りている店舗もある。
最近できたばかりのラーメン屋の店内は無人で、古くからある洋装店はまっくらで中が見えない。ガラス越しに眺めた眼鏡屋はキラキラとまばゆいけれど、おじいさんがふたり、退屈そうにあくびをしているだけだった。

「ゴーストタウンみてーだな」

おじいさんを見てそれを言うのは失礼だと思います。

きまぐれなひとというのか、変わり者というのか、熱心な映画ファンというのか。
台風がやってくるというのに映画を観にやってくる変わり者はわたしたちだけではなかった。
そこまでして映画観たいかな。こんな日くらい、家でDVD観てればいいのに。

はい、これ。と、わたしに何の相談もなしに作品を選んでチケットを買ってきた律先輩がその片方を手渡してくる。
元から観たい映画なんてなかったし、なんだっていいといえ、勝手さに腹が立たないといえば嘘になる。けれどおごってくれるみたいだし、さすがに文句は言えないな…と思ったわたしはチケットを見てその考えを改めた。

A列。一番前。

「……席、埋まってたんですか」

「ん? この回ふたりだけっぽいぞ」

迫力満点だろー!と嬉しそうな笑顔。
わたしは気力が萎えてなにもいう気になれなかった。

☆☆☆


思い切って手紙を出したその翌日、約束した時間の五分前。グラウンドの端にある、大きな樹の下に足を運ぶと、もうすでに、その人は樹にもたれかかるようにして待ってくれていた。わたしの姿に気がついて小さく手を振る。わたしも振りかえす。沈みかけた太陽が長い影をつくっている。その影に隠れて表情がよく見えない。

「すみません、遅れてしまって」

「遅れてないよ。わたしが早く着いちゃっただけ」

影から踏み出した唯先輩の横顔を夕日が照らす。頬が赤く染まっている。わたしの頬もこんな風に赤くなっているのかな。それだったら都合がいい。いや、こんな状況になって恥ずかしがってることがバレようがバレまいが関係ない。さすがに唯先輩だってわたしが今からなにをしようとしているか、わかってるに決まってる。

自分の気持ちを、どうやって、どんな言葉で伝えようか。なんどもなんども、眠れなくなるくらい考えたはずの言葉が出てこない。何十回も書き直した手紙をようやく手渡して、あんまり早く着いて先に待ってると逆に引かれるかなと考えすぎて時間ぴったりにここにやってきて、今目の前に唯先輩がいて。たった一言、たった一言なのに。

黙りこくったままのわたしを目の前にして、唯先輩はなにも言わずただじっと、やさしい表情で見つめてくれていた。いつもお茶してるときのダラけた雰囲気とも、ギターを無我夢中で弾いているときとも違う。見たことのない表情で。

刻一刻と空の色が変わっていく。
さわさわとグラウンドの土の上に揺れていた木の葉の影も、少しづつ闇に溶けていく。
唯先輩がわたしの手を取り、歩き出した。

とっくに閉まっていた校門をえいやと乗り越えて校舎を出る。唯先輩はいつもと逆の方向へ歩き出した。なにも尋ねずに後をついていく。
暗闇にぼんやり光る黄金色に色づいた田んぼの横目に、いくつもの赤トンボが浮かぶ道を並んで歩いた。もう一度手を繋ぎたいな、と今度は自分から手を伸ばしたけれど、すこし前を歩く唯先輩の右手には届かなかった。

唯先輩はどこを目指しているか、そもそも目的地があるのか、気分のままとしか思えないような歩き方で、ぐにゃぐにゃと角を曲がって進んでいった。月が空に昇る頃になって、わたしはようやく気がついた。先輩はわたしが話し出すのを待っているのだと。

あずにゃん。

それまでずっと無言だった唯先輩が、振り返ってわたしの名前を呼んだ。

わたし、ずっと考えてて。あずにゃんから手紙もらってからずっと考えたんだ。
でもうまく考えがまとまらなくて。なんて言っていいかわかんなくて。

どうしてもわかんなくて答えが出なくて、こんなところまできちゃった。唯先輩はかるく笑顔をみせた。

そこはゆるやかな坂道になっていた。
心臓がばくんばくんと音を立てているのは坂道を登ってきたせいだけじゃもちろんない。月明かりに照らされた唯先輩の顔を真正面から見れなくて、うつむいた。りーんりーんと鈴虫のきれいな音色が聴こえる。
天気予報ではもうすぐ台風がやってくるといっていたのに、今夜は嵐の予感なんて微塵も感じさせない、静かな夜だった。

「ごめんね、遅くまで付き合わせて」

「いえ…呼び出したのはわたしですから…」

「そっか。そうだったね。それに明日は休みだし。ちょっとくらい遅くなってもいっか」

ここまで悩んで考えてくれるだけでうれしかった。
だからわたしがちゃんと言葉にしてきもちを伝えなきゃ…!

そう思って顔をあげた瞬間、わたしの目に映ったのは唯先輩の涙だった。

「……ごめんね」

かすれたような声でその言葉を聞いた途端、わたしの身体の中の何かがぐらぐらと揺れて崩れていくのを感じた。
そのまま坂を転げ落ちていくような感覚を覚えて気がつけばわたしは全力で走り出していた。

☆☆☆


めっっちゃ、おもしろかったなぁー!!
…と鼻息を鳴らしながら律先輩が両手をあげた。
今ここにいるのがわたしじゃなくて唯先輩だったら、きっとふたりでテンションあがりまくってはしゃぎながら映画の話で盛り上がるんだろうな。
でもここにいるのは唯先輩じゃないし、それにわたしを誘ったのは他ならぬ律先輩なので、映画で高揚して盛り上がった気持ちに同調しなくたって、わるいのはわたしじゃなくて律先輩だ。

まぁ映画は面白かったけど…。

怪獣が光線を吐いて街を破壊するシーンを見て、正直胸がスッとした。
もし今のわたしに光線を吐き出す能力があれば、きっとその力で世界を滅ぼしてしまうだろう。
フられたくらいでそんなふうに考える自分がひどく子どもじみてるなんてわかっているけれど、今はもう、目に映るもの全部が憎たらしかった。
月曜日がやってくるのがいやだ。どんな顔して唯先輩に会えばいいのかわからない。台風で学校が壊れてしまえば登校しなくて済むけれど、今夜中には近畿地方を抜けるらしい。ねぇゴジラ、どうかその光線で学校を壊してくれない? …そんなの無理に決まってる。だからわたしは逃げ出すことに決めた。背中にリュックを背負って、今日、この街を出る。そして誰もわたしのことを知らないところへいく。それから…。

「あずさー?? どしたー???」

わたしの目の前で律先輩が右手をぶんぶんと振っている。
はっと気がついて笑ってごまかそうとしたけれど顔が固まって表情がつくれない。なんでもないです。そう無愛想につぶやいてわたしは早足で歩き出した。律先輩もあわてて後ろからついてくる。

外に出るまでもなく、一階に降りてくるとものすごい雨の音が、館内に響いていた。
リュックの中から折りたたみ傘を取り出してじっと見る。アーケードの下にいる間はいいけれど、バス停まではしばらく歩かないといけない。はげしい雨風に吹かれれば、こんなちっぽけな折りたたみ傘くらい、簡単にふっとばされてしまいそうだ。けれどいまさら憂鬱な気持ちに浸ったところで何がどうなるわけでもない。傘が折れて多少濡れるくらい仕方ない…多少なら。

「思ってたよりずいぶんはげしいな」

律先輩はあくびを噛み殺しながらそう言った。

「なぁ梓。これから予定ある?」

「ちょっと駅まで」

ターミナル駅まで行って、そこで高速バスに乗るつもりだった。
行き先は特に決めてない。どこだっていい。東京でも、名古屋でも。北陸でも四国でも、ここじゃないところなら、どこへだって。

「思ったより早く降りだしたからさ。ちょっと雨宿りしていかね? 映画に付き合ってくれたくらいだし、急ぐわけじゃないんだろ?」

「まぁ…急ぐってわけじゃ…でも雨宿り…ってどこで」

その辺のカラオケボックスとかでいーじゃん。そう言って律先輩はわたしの左手首を掴むとぐいぐいひっぱっていく。あっ、ちょっとひっぱらないでください自分で歩けますから! そお? ならいいけど。律先輩はニンマリ笑って手を離した。

どれくらいここにいるつもりですか?
雨がマシになるまで。
は? そんなこと言ったらいつになるかわかりませんよ。
だってこんなに雨降ってたらぜったい濡れるじゃん。

律先輩はマイクをぎゅっと握りなおし、モニターを向き直った。イントロが流れ始める。
台風の日に出かけたらこうなるなんて、はじめからわかってたことじゃないですか。アホですか。知ってたけど。

閑散としたアーケード街の入り口あたりのビルに入り、そこの一階で受付を済ますと、わたしたちはエレベーターに乗って3階まであがった。
こんな台風の日に働いているアルバイトの人たちは、一体どうやって帰るつもりなんだろう。けれどわたしたちだってひとのことは言えない。

歌い終わった律先輩はコーラの入ったコップを手に取り、一気に飲み干した。

「梓も好きな曲入れろよ」

「あ、はい」

「折半だから歌わないと損だぞ」

「は?」

「お、次の曲始まる」

ムカついたので連続で10曲入れてやった。

歌えば喉が渇いて、喉が渇けば飲み物が欲しくなり、なにかを飲めばトイレに行きたくなり…
部屋の外からも止むことのない雨と風の音が聞こえてくる。勢いは弱まるどころかますます強まるようだった。

「なくなってたから補充しといた」

いがらっぽいガラガラ声で律先輩が言った。
満杯の烏龍茶が入ったコップがふたつ、テーブルに並んでいる。
トイレから戻ったばかりだというのに、わたしは烏龍茶を手に取り口につけた。つめたさがのどをうるおしていく。

歌い疲れたらしい律先輩はあおむけにソファーに寝っ転がり、ケータイをぽちぽちといじっている。

「雨、どう?」

「まだけっこう降ってますよ」

「そっかぁ」

「いつまでここにいるんですか」

「雨がやむまで」

「やまないですよ。たぶん朝くらいまで」

「じゃあ、朝までいる」

「バカ言わないでください。明日学校でしょ」

「早朝に家帰って着替えて出ればいいだろ。いま、親にメールしたし。わたしはそうする」

「じゃあわたしは帰ります」

「ほんとに帰んの? どこに?」

「……」

「台風ってさぁ、好きなんだよね」

びゅうびゅう風が吹いて、ざぁざぁ雨が降って、いろんなもんがぜーんぶ吹き飛ばされて流されてぶっ壊されてくみたいでさ、なんかさぁ、すっきりするっていうか、わくわくするっていうか。

「不謹慎ですね」

「まぁーな。でもさ。台風が行っちゃった後のさ、すこーんと晴れた空とさ、木の枝とかごみとか散らばった道路とかさ、ああいうの見るのもなーんか好き」

「わかんないです」

「そっか」

律先輩はそのまま、目を閉じた。
わたしは律先輩の足元にちょこんと腰掛けて、テーブルの上の烏龍茶を手に取った。

「歌ってすこしは気ぃ晴れた?」

「………!」

「こーんな台風の日にさ、そんなでっかいリュック背負ってバス停に一人で座ってりゃ、なにかあったのかも~って思うに決まってるだろ」

わたしは何も答えなかった。
今日一日の自分の行動が子供じみていたことに、いつも子供っぽいとバカにしてた律先輩のほうがわたしなんかよりずっと大人だったことにむかっ腹が立って、リモコンを手に取りやたらめったらに曲を入れた。

やかましいイントロが流れ出し、眠りかけた律先輩が眉を八の字に曲げて顔を起こす。

「ここ、カラオケボックスですから。歌うところですから」

「へーへーわかってるよ。でも朝早くでるからな。適当なところで切り上げて寝とけよ。梓も明日は学校だろ」

モニターに歌詞が表示されて、歌い出そうとしたのに声がでない。マイクを持つ手がぶるぶると震えて、いつしかわたしは自分が泣いていることに気がついた。
ガンガンと室内に響く音楽の中、わたしは声をあげて泣いた。
気がついているのかいないのか、それとももう寝てしまったのか、律先輩は目を閉じたまま、じっと動かなかった。

ゆさゆさと身体を揺すられているのに気づいて目を開くと、前髪を垂らした律先輩がそこにいた。
寝るときは外してるっつーの。わたしが目を覚ますと、恥ずかしそうに顔を背けてカチューシャをつけた。

ビルの外に出ると、雲の合間から日差しが差し込んでいた。眩しく思わず目を背ける。
晴れたなぁ。晴れましたね。いま何時ですか? いま? えーっと…ちょうど6時。バス動いてますかね? たぶんな。家帰ってシャワー浴びてそれからすぐ学校か…。律先輩は憂鬱そうに呟いてちいさくあくびをした。

「迎えに行きます」

「いーよ、別に」

「行きます。だってそうじゃないと律先輩、二度寝して遅刻するでしょ」

「しねーよ!」

「してくださいよ、二度寝。起こしてあげますから」

たまには一緒に、学校行きましょうよ。

律先輩は呆れたように頷くと、じゃあ遠慮なく二度寝するよ。そう言って笑った。わたしもつられて笑顔になる。

「律先輩、わたしも、好きかもしんないです」

「え? なに?」

大通り沿いをバスが走っていくのが見えた。

「あっ、バス来ましたよ! 急ぎましょう!」

「おいっ、ちょっと! さっきなんて言ったんだよ??」

雨上がりの道に、きらきらと雨粒が光っていた。


おわり

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