男「ここにいたんだ」 (329)


「……ねぇ、みんな、遅くない?」

 放課後。午後5時。

 開けっ放しの古びた窓からは、風は入ってこない。
 代わりに、運動部の掛け声や吹奏楽部の演奏の音が冴え冴えと響いてくる。
 それに混じって、ハワイアンな雰囲気の弦楽器の音。

 詳しいことは知らないが、うちの高校にはプレクトラムアンサンブル部、という部活があるらしい。
 弦楽器の音の正体。

 この高校に通い始めて一年が過ぎたが、プレクトラムアンサンブルなるものがどんな楽器か見たことはない。

「……うん、たしかに」

 俺はサイズの合わない机に肩肘をついて、ちらりと目を横にやりそう答えた。

 女子。夏服。暑いので胸元をパタパタと扇ぐ。……見えそうで見えない。無念。

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 返事が来たのに安心したのか、イチは頬をにへっ、と緩めて、窓枠にもたれかかった。

 イチ。

 初めて話した時(高校に入って初めに話したのはイチかもしれない)、イチゴオレを飲んでいたので、そう呼ぼうとしたら、

「私の名前、イチゲ」

「上半分同じじゃん」

 ということがあったので、そのままイチと呼んでいる。
 ちなみに名前の漢字は、四季の夏を『ゲ』とよんで、『一夏』らしい。変わった名前。

「だよねー、みんなどうしたんだろ」

 みんなを探す、というよりは何か面白いものはないか、という風に窓から身を乗り出し、左右をキョロキョロと眺める。

 が、ここはLの字の校舎の隅の部屋なので、左側には廊下の窓が見えるだけだろう。
 正面にも、そこそこの広さの中庭が見えるだけ。

「みんな遅いのはいつも通りじゃない?」

「いつもなら部長がいるじゃん?」

「あぁ、たしかに……」

 その部長も、今日はなんだか遅い。部室の鍵が開いていたので、一度は来たんだろうけど。


「……なんもないなぁ」

 イチがつまらなさそうに項垂れる。今日は風が吹かないので、長いポニーテールも、心なしか萎れているように見えた。

「あ、そうそう、聞いてよ」

 なにを、と返事をすると、元気がないなぁ、と返ってくる。

 暑いのにお前が元気すぎるんだよ。

「渡部と山下さんのカップルがいるでしょ?」

「へぇ」

 残念ながら誰のことかさっぱりわからない。そもそも文系と理系では校舎が違うのだ。イチは文系、俺は理系。

「まあその二人が付き合ってんだけどさ」

「ふむ」

 適当に相槌を打っておく。

「さっきね、階段の影でちゅーしてた」

「まじか」

 俺の周辺にそういう友人はいない。たぶん本当に知らない人だろう。

「いつ頃?」

「昼休みくらい」

 その時間といえば、俺は先生に呼び出されて職員室にいた。渡部、山下と比べてみると虚しくなってくる。

「妬ましいな」

 うちの高校の風紀が乱れちゃうわ。そもそもキスするくらいなら家でいくらでもすればいいのに。
 いや、よく考えたらキスするのにどこか適しているのかなんて知らない。どこが正解なんだろう。


「羨ましいの?」

「そりゃ少しは……」

 ……と思ったが、よく考えれば俺も階段でちゅーしたい! とは思わない。そもそもそういうチャンスに巡り会えたことがないので、想像もつかない。

「うわぁー……」

 イチがわざとらしく自分の両肩を手で抱いて怯えるフリをした。背中でポニーテールが揺れる。

「いや、しないし」

 こういう時は大げさに反応してはいけない。悪い方向にテンションを上げてしまうと面倒くさいことになる。

「そんな度胸ないもんねー」

 そういうわけでもない。と弁解したかったが、たしかに、俺は階段でキスをするような度胸はなかった。

「……じゃあ、イチは羨ましいの?」

 今度は逆に聞いてみる。
 イチはんー、と言いながら天井を眺めて、少し考える仕草をした後、

「高校生のうちにやってみたいことランキング第158位」

「要するに?」

「……特にしたくはない、かな」

 イチは答えた。

 会話が途切れる。

 椅子を傾けて、後ろに伸びをすると、少し目眩がした。寝不足かもしれない。


 窓から風が入る。部室は風通しが悪いので、イチはありがたそうに両手を広げて、少ない風を受け止めた。

「俺に風がこないんですけど」

「弱肉強食だよ」

 そう言われると、なんだか反抗する気も失せる。サイズの合わない背もたれに体重を預けて、下敷きで顔を仰いだ。

 少しはマシになるが、それでも暑いことに変わりはない。湿気た空気が髪を撫でる。

 イチは、長いポニーテールを揺らす風が止むと、またさっきと同じように窓枠にもたれかかった。涼しそうな顔しやがって。

「ちーちゃんは何か言ってた?」

 窓際から離れると、トッ、トッっとつまづくように移動して、イチは定位置の(言いにくいな)椅子に座る。

 この部室は教室を横に切ったような変な間取りをしているので(だいぶ昔に改築した時に余った部屋らしい、おかげでタイムスリップしたような古くさい教室だ)、
 机は2列しか並んでない。
 横に5個ずつで、合計10個。

 部員は少ないので数は足りてる。

 俺は入り口から1番離れた2列目の席に座っていたが、彼女の定位置はその前の席だった。近い。

「いや……今日は会ってない」

 イチはふぅん、と返事をすると、いつもそうしているように、背もたれにお腹をつけて座る。
 向かい合わせになる。距離が近い。照れる。

 というか、こんなに暑いんだから離れて座ればいいのに。彼女はどんな時も、基本、この席に座る。

「そっかぁー……」

 イチはつまらなさそうに唇を尖らせた。

 ……やはり、見えそうで見えない。

 角度の問題で、俺の位置からはギリギリ制服の胸元を覗くことができない。
 ここで立ち上がれば完璧なのだろうが、あいにく、俺にはその程度の度胸もなかった。

 制服の設計をした人は何を考えていたのだろう。
 胸の谷間が見えそうで見えない。おしるこ缶(あの、自動販売機で売ってるタイプの)に残ってしまった最後の一粒のようなむず痒さ。

 多感な男子諸君を弄ぶようなデザインにするくらいなら、いっそ全く肌が見えない制服のほうがマシだ。
 座っている女子のそばを通る時、いつも気にしなければならない、こちらの身にもなってもらいたいものだ。

 そう考えている間も、視線はギリギリのラインからは離されることはなかった。

「おやおや、そんな距離でお二人は何をされているのですか」

 声のした方を向くと、ナナコのいたずらっぽい表情が目に入った。窓の向かいにある、半開きの入り口から、ひょこりと頭を覗かせている。

「なっちゃーん!」

 待ってたよ、と言わんばかりのテンションで、イチが両手を広げてそう言うと、ナナコは「そう思ってましたよ」と満足げに頷いて、部室に入ってきた。


「遅かったね、何してたの?」

「校内に迷い込んでしまったカナブンを窓の外に出していました」

 ナナコは不思議な人だ。

「なっちゃん虫嫌いじゃなかったっけ?」

「嫌いですよ」

「どうやって出したんだ……?」

「ちりとりと小箒で頑張りました」

「頑張ったねー」

 ナナコは不思議な人だ。

 ナナコは、同じ部活の、同学年。二年生。が、あまりにも身長が低いのと、その口調のせいで、いまでもよく一年生と間違われる。前にそのことを言ったら、
「好きなアーティストと同じ152cmなので、満足です」と言いながらそっぽを向いた。少しは気にしているらしかった。それ以降は言わないようにしている。

 ナナコは背伸びをして、肩からかけた荷物を机の上に置いた。入り口近くの、後ろの列。俺と線対称の位置。
 カバンは床に置きたくないタイプ。ストラップが汚れるのが嫌らしい。
 
「ところで、お二人は何をしていたのですか?」

「何もしてなかったね」

「何もしてなかったな」

 二人で声を揃えてそう言う。本当に何もしていなかった。強いて言うなら、イチの高校生のうちにしておきたいことランキング第158位を聞いた。


「そうですか」

 少しつまらなさそうにカバンから水筒を取り出すと、ナナコは湯気が立つお茶を一口飲んだ。

「こんな季節に、熱いお茶?」

 イチが、椅子の上で足をプラプラと揺らしながら聞く。

「暑い時にこそ暑いお茶なんです」

 ナナコは時々年寄りみたいなことを言う。
 魔法瓶のフタがキュッ、と音を鳴らして締まる(魔法瓶って字面が面白い気がする)。

「でも、ナナコは寒い時も熱いお茶だよな」

 要は、お茶は熱い方が美味しいんです、とナナコは水筒をカバンにしまった。トテトテとこちらに歩いてきて、跳ねるようにしてイチの隣に座る。

「ひまですね」

「ひまだね」

 女子二人が口を揃えてそう言う。結局人が増えたところで、することが無いのに変わりは無いのだ。
 だが、女子二人と狭い部屋。贅沢は言ってられない。

「何か面白いこと言ってくださいよ」

 ナナコが無茶なことを言い出した。
 こちらを見上げるその目には、別に期待なんかこもっちゃいない。多分、本当に適当に言っただけだろう。

「そのフリって、もう『お前面白いこと言えねぇだろ』と同じ意味を持ってると思う」

「随分ひねくれてるね」

「何しろ俺はこのフリをされて面白いことを言えた人を見たことがない」

「私はありますよ」

「まじで?」

「いついつ?」

「あれは5年前の夏……」

「ごめんやっぱいいわ」

「なんなんですか!」

 一通り話した後、結局何も話すことがなくなって三人とも黙る。

 趣味なんてみんなバラバラだし、クラスも違う。共通の友達は部活のメンバーくらい。

 そもそもこの部活には、ここにいる三人と、あと三人しかいない。

 窓からささやかな風が流れてくる。初夏の緑の匂い。
 夏が楽しみだ。

 イチがあくびをかみ殺す。
  
「なにか問題出して」

 イチがぐだっと手を伸ばしながら呟いた。

「そうですね、なにかください」

「うーん……」

 問題と言われても、そうすぐ思いつくものでもない。

「有名どころくらいなら……」

「暇が潰せればなんでもいいです」

「じゃあ問題」

 二人が背筋を伸ばした。どういう理屈だ。

「正直村と嘘つき村に続く道があります。
 二つの村に続く道には、それぞれ正直な答えと嘘の答えしか言わない住人が、自分の村に続く道に立っています。
 どちらがどちらかはわかりません。
 一度だけ質問ができます。なんと質問すれば正直村に行けるでしょうか?」

 クイズとか出すときって、なぜか敬語になる。なんでだろう。

「聞いたことある……」

「でも、答え聞いたことないんですよね」

 二人が考え始める。


「『右は正直村?』?」

「違う」

「それだと『はい』『いいえ』の両方が返ってきますよ」

「あー」

 イチはまた考え込んだ。
 ポニーテールが揺れる。小さな風が頬を撫でた。

 どこからか聞こえていたプレクトラムアンサンブルの音が途切れた。

 ……クイズって、出す側は暇なんだよなぁ。

「『こちらの道は正直村ではありませんか?』はどうですか?」

「どっちが嘘つきかわかんないからダメだね」

「うー……」

 二人はまた黙り込む。回答は何回を極めているようだ。

「何かヒント!」

「ヒントね」

 こういう場合、間違えて答えを言ってしまわないようにしないといけないので、答えを探すより逆に難しかったりする。

「……ごめん、ヒントなしで」

「えぇ……」

 二人は不満そうな顔をしたが、また真面目に考え出した。
 こういう問題って、考え始めると面白いんだよなぁ。

 窓の外に目をやると、まだ日は高いようだった。最近は日が沈むのも遅くなってきている。もうすぐ夏だ。

「……あ、いま何時?」

 不意に、イチが口を開く。
 この部室には、不便なことに掛け時計がない。

「俺腕時計持ってない」

 ナナコの方に目をやると、長袖の夏服を着た左腕を軽く捲って、小さな腕時計を確認していた。

「いま5時半です」

「もうそんな時間かぁ……」

「部長来ないと鍵閉められないじゃん」

「だよねー、どうしよ」

 下校時刻は6時。それまでに部長が帰ってこないと、鍵を開けたまま帰ることになってしまう。
 別にそれでもいいのだけれど、部長は必ず鍵を締めるようにしているので、開けっ放しで帰るのは少し気が引ける。

「……俺、部長探してくるよ」

 ここにいてもすることないし、と、椅子を引いて立ち上がる。

「帰ってくるまでに答えを探し出す!」

 イチは躍起になっていた。本気になるのはいいことだ。

 財布とスマホだけポッケにつっこんで、出入り口に向かう。

「いってきます」

 振り返ると、腕を組んで塾考するナナコと、こちらに手を振るイチが見えた。

「生きて帰ってきてね」

 ……部長は一体何者なんだ。

 しかし、部長の居場所と言っても、どこにいるのか検討もつかない。

 イチもナナコも部長も、基本会う時は部室。三人とも文系棟だから、俺とは教室も遠いし。

 俺と同じ理系棟には、理数科のチヨがいる。
 理系棟の、理数科というのは、理系の中でも順位の高い生徒を集めたクラス。
 そのクラスだけちょっと進んだ勉強をしてる。

 つまり、賢いやつらの集まり。

 みんな部活に入らず、勉強ばっかりしてる感じの。

 そんなクラスにうちの部員がいるんだから、いかにうちの部活の負担が少ないかよくわかる(いいことかどうかはわからないけど)。

「……ふむ」

 闇雲に部長を探すより、チヨを探して部長の居場所を尋ねた方が早いかもしれない。

 もしかしたら、何か聞いてるかもしれないし。

 生徒会室の前を通って、理系棟に続く渡り廊下に出る。いままでいたのは文系棟。

 文系棟と理系棟は同じ造りだが、理系棟のように実験やらなんやらのスペースがいらないので、文系棟は余りの部屋が多くなっている。

 渡り廊下に続く扉を開けると、ひんやりとした鉄の感触が手のひらに伝わってくる。

 扉を開けると、顔に風が吹いてきて、少し目を細めた。

 ここ、三階の渡り廊下は、青空天井となっている。つまりは天井がない。

 天気のいい日は気持ちよさそうだが、風が強い上に、日差しを直に浴びるので、あまり長居する生徒はいない。

 一人を除いては。

 そして、彼女は今日もそこにいた。

「やあー」

 彼女の「やあ」は、少し滑舌が悪い。目はパッリチ開いているのに、寝起きの人と話しているような気分になる。
 
「今日もここにいたんだ」

「こなたはここが好きですからねー」

 こなた、というのは彼女の前ではない(らしい、そもそも俺は彼女の名前を知らない)。

 前に尋ねたら、
「え?」 と、とぼけた顔をされたので、それ以来尋ねたことはない(『こなた』ってのは昔の人の一人称らしい。ウィキペディアに書いてあった)。

 まあ変な子なのだ。

 ちなみに、名前を聞いても教えてくれなかったので、こちらからも「こなた」と呼んでいる(意味を考えるとおかしいが、そもそもいまの若者で「こなた」なんて使う方も十分変わってる)。


「こなたは喉が渇きました」

「そりゃ、こんな風の強いところにいたらね」

「せんぱい、ジュースおごってくださいー」

「いやだよ」

「冗談ですー」

 ……この子の冗談は本当なのか冗談なのかわからないことが多い。

 「まあ、私は飲めませんしー」と、よくわからないことを言って、こなた(この子のことね)は床に座り込んだ。

 ……あんな姿勢なのに、ぱんつは見えない。女子って不思議だ。

「……俺、女子の下着がどうして見えにくくなってるのか調べてみようかな」

「夏休みの課題研究ですかー?」

 というか、見たいんですか? と、こなたがスカートの裾を少しつまんだ。

 違う。そうじゃないんだ。

 風がこなたの髪を撫でる。今日は風が少ない日だが、ここは相変わらず、いつも通りの風が吹いている。

 渡り廊下の下には、二つの校舎に囲まれた中庭が見えた。真ん中には大きな池があるが、残念ながら水は張られていない。
 枯葉がたまっている。もうすぐ夏なのに。

 こなたは、肩くらいの長さの黒髪を手で押さえると、「千陽せんぱいなら、教室にいましたよー」と呟いた。

「そうか、ありがと」

 それじゃあまた、と歩き出すと、こなたは「それではー」と手を振る。その仕草は小さくまとまっていて、なんだか不思議な感覚を覚えた。

 理数科の教室には、こなたの言う通り、チヨがいた。

 チヨはこちらに気がつくと、「あ……」と呟いて、驚いたように固まった。教室には、チヨ以外誰もいない。

 チヨも、イチやナナコと同じく、同じ部活で、さっきも言ったように、二年生の理数科クラス。

 理数科というのはどうやら受験の形式が違ったらしく、推薦入試で入学した生徒が入れる仕組みらしい(最近そのことを聞いた)。
 その話を聞いてわかるように、チヨは勉強もできるし、よく気が利く。

 この間、部長に、
「わたし、ちーちゃんとなら結婚できる気がする」
と言われて、顔を耳まで赤く染めていた。

 少しだけオレンジ色をした陽射しが、陽に焼けたカーテンを照らす。窓が一つだけ空いていた。

「なにしてたの?」

「えっと……」

 チヨは一瞬目を泳がせてから、それから「……居残り?」と首をかしげる。

 なぜ疑問系? ……まぁ、人に言いたくないこともあるだろう。そっか、と返事をして、頷いておいた。

 彼女は安心したように、胸に手を添えてホッ、と一息つく。
 チヨは他の同級生の方々に比べて、胸が豊かだ(伝わりやすい表現が出来なくて申し訳ない、そこまで長い間見つめる度胸がないのだ)。

「そうそう、部長見てない?」

「部長?」

「うん、なんか鍵は開いてんのに部室にいなくてさ」

「うーん……今日は、会ってないなぁ」

 ごめんね、とチヨは申し訳なさそうに謝る。チヨが謝ることはないのに。
 
「チヨは今日、部活くるの?」

 いそいそと荷物を鞄に詰める小さな背中に、それとなく尋ねる。
 別に今日は何か活動するわけじゃないし、時間もないんだから無理して顔を出す必要は、ないし。

「んー……どうしよう……」

 そんな大したことでもないのに、チヨは手を止めて悩む。

「……みんなは、いるの?」

「部長以外はね」

 静かな部屋に声が響いて、チヨはそれに驚いたように少し肩を縮める。

 ……いつも遠慮がちな人ではあるが、今日はやけにオドオドしている、というか、自信なさげというか。
 何かあったのだろうか?

 だが、それを尋ねるとチヨはもっと動揺してしまうだろうから、何かあった? は飲み込んでおいた。

 たまたまそういう日なんだろう、と自分に言い聞かせておく。

「チヨが知らないってことは、部長は完全に行方知らずか……」

「ご、ごめんね……?」

 いやだから謝ることじゃないって。
 苦笑いしながらそう言うと、チヨは「あー……うぅ……」と俯いてしまった。

 少し強めの風が、一つだけ開いた窓から入り込んでくる。日に焼けたカーテンがふわりと膨らんで、窓際に佇むチヨの頭を撫でた。

 彼女は乱れてしまった髪を左手で押さえながら、窓を閉めた。風が止む。

「生徒会室……とか、どうかな」

 チヨが、思いついたように呟く。

「生徒会室」

 たしかに。考えてもなかった。
 部長は暇な時、生徒会室に遊びに行くことがある。
 さっき目の前を素通りしてきたけど、そこならいるかもしれない。

「うん、生徒会室寄って、それから部室に行かない?」

「そうするか」

 時刻は五時三十五分。行ったところで何があるわけでもないが、一応顔は出しておきたいのだろう。俺も荷物を置いてきたのでそのまま帰ることはできない。

「……ところで、部長に、何か用事があるの?」

 両手でカバンを持ったチヨが、横に並んで尋ねてきた。歩きながら答える。

「あの人いないと、鍵閉められないからさ」

「あー、なるほど……」

 チヨがコクコクと頷いた。

 渡り廊下を通った時には、こなたはいなかった。もう帰ったのだろうか。

 文系棟に続く扉を開けると、屋内の方がちょっぴり涼しくて驚いた。

 空調は付いていないのに。

 でも夏の廊下って何故か涼しい気がするよな、なんでだろう、と考えながら歩いていると、生徒会室の扉が勢いよく開いた。

 チヨが驚いて立ち止まる。

「……あれっ、二人とも!」

 そう言いながら元気よくこちらを振り返ったのは、

「……部長」

 部長だった。チヨの想像通り、生徒会室にいたようだ。

「奇遇だね!」

 奇遇も何も、あなたを探していたんです。

「探しましたよ……」

「えっ、どんくらい?」

「……五分くらい?」

 それほど探していたわけでもなかった。

「部長、何か生徒会に、用事でも……」

 チヨが遠慮がちに質問しようとすると、部長がよくぞ聞いてくれた、と言わんばかりの勢いで答えた。

「そうそう、会長にね、夏休みどうすんの、って聞かれてさ」

「夏休み、ですか」

 そういえば、来週には終業式か。夏休みはもうすぐだ。

「何かする、って、部活で?」

「そそ、ウチも一応部活動だし、たまには活動しないと、って」

 一応、って……。

「去年は、たしか……」

 チヨの言葉に、去年の夏休みを思い返す。

 河原のゴミ拾い。公園のゴミ拾い。校庭のゴミ拾い。……ゴミ拾いばっかだ。
 世の中、道がごみ捨て場だと思い込んでるやつが多すぎる。

「ゴミ拾いばっかりしてたね、たしか五回くらい? というか磨いたり拭いたりの掃除はしなかったねー、せっかくだし今年は何か変わったことでもしてみる?」

 部長は話すのが大好きだ。こちらが適当に相槌を打っておけば、たぶん一日中お喋りが止まることはない。

 なるほど、と、チヨはコクコクと頷いた。

「……で、何かするんですか?」

「んー、それは話し合ってから決めよっか。
私はどっちでもいいし」

「そうですね」

 じゃ、戻ろう! と、部長は元気よく歩き出した。
 1日の終わりに、どこからそんな元気が湧いてくるんだろう、この人。

「夏休みかぁ……」

 チヨの呟きがどこか憂いげだったのが、やけに印象に残った。


「ただいまー!」

 部長が建てつけの悪い扉を勢いよく開く。何故だか、この人は毎回、扉を全開にする。

「……やは」

「……おかえりなさいませ」

 イチとナナコが力なく机に伏せていた。

「……何か、あったの?」

 チヨが不安そうに尋ねたが、原因は一目瞭然だった。

「……わかりませんでした」

「頭がこんがらがってむり……」

 部長が、「え、なに?」と俺と二人の顔を交互に見る。

「答え言おっか?」

「まだ待ってください!」

 ナナコが起き上がった。

「……家に帰ってから教えてください」

 ナナコの目は赤くなっていた。そんなにか。

「何してたんだい、二人とも?」

 部長が空気を読まずにスキップで近づいて、二人の肩をたたく。

「あいつが変に難しい問題出してきたんです」

「答えないと、私たち……」

 疲れと謎のテンションで二人はおかしくなっていた。
 俺か。俺が悪いのか。


「んまっ、お疲れなのはわかるけどさ」

 そう言うと、部長が軽快に黒板の前に移動する。
 チヨは教卓の前の二列目、自分の定位置にカバンを置いて、ストンと腰掛けた。

「珍しく話があるから、ちょっと席に着こうか!」

 部長が両手をパン、と鳴らすと、凹んでいたイチとナナコも「はーい……」と自分の席に移動した。
 ……こういうところは、この部活の、というか部長の良いところでもあった。

「部長ー、話とはなんでありますでしょうか」

 俺の前の席で、イチが質問する。切り替えが早い。

「よくぞ聞いてくれた!」

 みるからに嬉しそうな顔になる。部長は顔に出やすい人だ。

「みんなも知っての通り、来週末から待ちに待った、夏休みだ!」

「そうですね」

「夏休み」

「そんなものもありましたね」

 夏休み……といっても、課外授業、という名目で学校に行かなければならないことが、少なくはない。
 といっても午前だけか、午後だけ、のどちらかなんだけど。

 でもやっぱり朝起きるのは変わらないし、本格的な休みはお盆くらいだ。

 部長のテンションに対しあまり盛り上がっていない俺たちを見て、チヨは焦ったように、

「お、おおー!」

 とリアクションをとって見せた。
 部長が満足げに「うむ」と頷く。

「去年の夏休みはほとんど活動は普段と変わらなくて、たまに集まってだらだらしてたまーにゴミ拾いする、くらいだったけども」

 イチが、「そうだったねー」と呟く。
 
「せっかくの夏休み! ホコリ高き『清掃部』として、何か普段とは違うことをしようではないか!」

 清掃部。

 俺たちが所属している部活の名前だ。
 三年生一人、二年生四人。一年生は今のところいない。

 主な活動は、名前の通り校舎や校庭など、学校の敷地内の普段は掃除しないような場所の清掃活動。
 たまに近所のゴミ拾いなんかにも参加しているので、近所の(特にご年配の)方々からのウケが非常にいい。

 何故こんな部活動があるのかは謎だが、廃部にならないということは、そこそこ役に立っている、ということだろう。

「ほこり、あったらいけないんですけどね」

「ほこり、誇り、埃……」

「日本語って難しいよね」

 ……女子三人は、比較的どうでも良さげな雰囲気だった。
 俺から部長に質問する。

「何か、やりたいものとかあるんですか?」

「ない!」

 はっきりと意思を伝えられるのは立派なことだと思う。……時と場合によるけど。


「ないって……どうするんですかー」

 ナナコが足を伸ばして、力なく口を開く。

「ホースで校舎内の水洗いとか?」

 イチが何も考えてなさそうな顔でそう呟く。

「それは、ちょっと……」

 チヨが自信なさげに俯く。

「…………」

 ……変わったことなんて言われても、そうそう思いつくものでもない。流石にホースで校舎内の水洗いはないし。

「まっ……まあ、今日は伝えるだけ伝えて、また明日みんなで意見出し合おう!」

 部長がそう言うと同時に、下校の予鈴が鳴った。すごいタイミング。

「帰って考えてみます」

「予定、合わせないと……」

 一応、みんな考える気はあるようだった。同じことを思ったのか、部長もホッと胸をなでおろしていた。

 みんなが帰る支度を始める。

 窓の外に目をやると、もう日が傾いていて、辺りはオレンジ色に染まろうとしている。
 日が高くなったとはいえ、本格的な夏はもう少し先のようだ。

 窓の真正面の奥に見える渡り廊下に、人影が見えた気がしたけど、視線を向けると消えてしまった。気のせいか。

「何してるの、帰ろ?」

 ボーッとしていると、イチが顔を覗き込んできた。……近い。

「おう」

 財布とスマホがあるのを確認して、重たいカバンを持ち上げる。

「おーい二人とも、ちゅーするのは勝手だけど鍵閉めちゃうよー!」

「してないですよーう!」

 部長の子供みたいなからかいに、イチが子供のように返事をしていた。

 後ろでナナコがクスクスと笑っている。チヨは腕時計で時間を確認していた。

 ……どこからか、プレクトラムアンサンブルの音色が響いている。

 俺は窓を閉めて、部室を後にした。

 

つづく。

「あ、忘れ物」

 下駄箱で靴を履いている時、ふと、机の引き出しの中に筆箱を忘れていたことを思い出す。

「あらら」

 部長が少し離れた下駄箱からこちらを見て、困ったように眉を下げる。

「ごめん、先帰ってて」

「はーい」

 脱ぎ掛けた上履きを履き直して、踵を返す。廊下は夕日に染まっていて、下校の時間が近いことを告げていた。

「また明日ねー」

「ばいばーい」

 後ろから掛けられた声に、また明日、と返事をする。
 聞こえてくる話し声はいつも通りで、なんだか少し安心した。

 階段を駆け上がって、自分の教室に戻る。

「先輩!」

 机の引き出しを覗き込むと、後ろから声をかけられた。湿気を吹き飛ばしてくれるような、爽やかな声。

「……コヨミちゃん?」

「はい! その通りです!」

 振り返ると、おどけて敬礼のポーズをした、小さなポニーテールを揺らす女の子が目に入った。

「一度教室に寄ってみて正解でした!」

 そう言って快活に笑っている女の子は、カラタチコヨミ。一個下の後輩。
 生徒会に所属している。庶務、つまり雑用らしい。一年生だから。
 少し前からこんな感じで話しかけられたり、話しかけたりすることがある。

「どうかしたの?」

「ここならいるかな、って」

 立ち上がって尋ねると、コヨミちゃんではなく、その後ろから教室に入ってきた声が答えた。

「ねえちゃん」

「やっぱりここにいたんだ」

 ねえちゃんだ。

「一緒に帰ろう」

「おう」

 ちなみに、この人は別に俺の姉ではない。

 乙坂音絵。
 オトサカ、ネエと読む。だからねえちゃん。
 俺と同じ二年生で、コヨミちゃんと同じ、生徒会役員。

 家が隣で、小さい頃からよく遊んだりしていた。
 淡々とした口調は、男女隔てなく話しやすい。

 窓が閉まっていることを確認して、教室の入り口で待つ二人の元へ急ぐ。

「なんで突然?」

「いや、昨日カップラーメン切れたし、なんか買わないと」

 ねえちゃん(繰り返し言うが、姉ではない。彼女の名前だ)は歩き出しながら、そう言った。

 ねえちゃんの母と俺の母は、それこそ姉妹のように仲がよかった。だから、多忙な乙坂母に変わって、俺の母が面倒をみることがよくあった。
 今でもこうしてよく話す。

 三人で並んで階段を降りる。下校のチャイムがなったが、別に急ぐことはなかった。生徒会の役員が二人もいることだし。

 夕方になってからは、昼間ほどの暑さは感じなくなっていた。歩けば湿気も和らぐ。過ごしやすい季節だ。

「そういえば、サランラップ切れてたね」

「買っとかなきゃな」

「忘れないでね」

「ねえちゃんも」

「うん」

「……お二人は、付き合っていないんですよね?」

 俺とねえちゃんの間を歩くコヨミちゃんが、伺うようにそう尋ねる。

「うん、それはない」

 二人で即答したのがほぼ同じタイミングで、少し笑った。

「あれだよあれ、ウェスターマーク効果ってやつ」

「そ、そういうものですかね……?」

「そういうものなのだよ」

 そういうものだ。ねえちゃんに対しては、一度もそういう感情を持ったことはない。

 決して顔のつくりが飛び抜けて個性的、というわけではないんだけど(むしろ美人だし、胸だってないわけじゃない)。

 こう言うと失礼なように聞こえるかもしれないが、ねえちゃんからも面と向かってそう言われたことがあるので、お互い様だ。
 問題は括弧の中のことについては言われなかったことくらい。


「でも、ウェスターマーク効果って仮定らしいよ」

「あんたはそうやってすぐ揚げ足をとる」

「へへへ」

 少しおどけて後ろ頭をかくと、ねえちゃんは、はぁ、とため息をついて、コヨミちゃんが楽しそうに笑った。

 三人で、夕日がオレンジ色に染める坂道を降りる。季節外れの白い紫陽花。

 そういえば最近はまともな料理してないな、とふと考えた。
 今日は簡単なものでも作ろうか。

「ねえちゃん、何か食べたいものある?」

「アクアパッツァ」

「……なんだそれ」

「言ってみただけ」

「先輩、料理できるんですか?」

「少しはね」

 母も父も、俺たちが小学校に上がったあたりから急に仕事が忙しくなったので、必然的にそうなった。

「ねえちゃんができれば楽になるんだけど」

「人には得手不得手があるのだよ」

「まあね」

 それは仕方がないことだ。俺だって苦手なことはあるし、ねえちゃんにできて俺にできないことなんて山ほどある。

「できないのも個性のうちですよね」

 コヨミちゃんは、たまに道徳の教科書みたいなことを言う。
 もうこの制服姿にも見慣れたけど、まだ入学して約三ヶ月。まだ中学生と大して変わりはない。

 そう考えると、高校生ぽく見える時期っていつなんだろう、と思う。

 中学生の時は高校生はみんな高校生、って感じに見えたし、小学生の時なんかは中学生ですら大人に見えた。
 でも、前は大人に見えた高校一年生も、今では子供にしか見えない。

 結局、年上から見れば自分より下なんてみんな子供みたいなものなのかもしれない。
 
 そうこう考えている間に、長い坂道を降りたところにあるスーパーに辿り着いた。
 大きくも小さくもない、中くらいのチェーン店。でも必要なものはだいたい揃う。

「お金持ってきた? 私ジュースくらいしか買えないよ」

「こんなこともあろうかと」

 いくらかは持ってきている。こう言う風に帰り道で寄ることが週に4回はある。……ほとんど毎日。

「んじゃ寄ってこうか。コヨミはどうする?」

「私も行っていいんですか?」

 そう尋ねるコヨミちゃんは、ねえちゃんというよりは俺に聞いているようだった。

「百円までな」

「子供扱いしないでください……」

「やった」

「ねえちゃんは自分で買いな」

「けち……」

 自動ドアが開くと、少し冷えすぎた空気が足首辺りを包んだ。野菜コーナー、って感じの匂いがする。

 三人でどうでもいいような話をしながら、適当に食材になりそうなものをカゴに放り込んでいく。

 この時間だと、まだ置いてあるものも多くて助かる。夜になってから慌てて来ると、たいてい目ぼしいものは売り切れているので、夕食の材料を買おうと思ったら、学校の帰りに来るのがギリギリくらいだ。

「アイスでも買うか」

「奢ってくれるの?」

「じゃあ、今度奢ってね」

「……覚えてたら」

「お前絶対忘れんなよ」

 アイスの並んでる棚の前に立って、一人用のアイスを適当に選ぶ。歩きながら食べるというのに、ねえちゃんはわざわざ食べにくいカップのアイスを選んだ。

「コヨミちゃんは?」

「私もいいんですか?」

「もちろん」

「……じゃあお言葉に甘えて!」

 そう言うと、コヨミちゃんは1番安いわけではないけど、高くはない、普通のアイスを選んだ。

「というかねえちゃん、それしろくま……」

「美味しいからね」

 1番高いやつだ。
 今度奢ってもらう時は俺もそれにしよう。

 ちらほらと学校帰りの生徒が並んでいるレジの後ろに並んで、ササっと会計をすませる。
 ねえちゃんは忘れずにアイスのスプーンを貰っていた。

 三人で並んで、アイスを食べながら道を歩く。この時間だと歩いても汗は滲まなくて、少し肌寒いくらいだった。風が気持ちいい。

「先輩、買った荷物持ちましょうか?」

「いいよ、そんなの」

 でも奢ってもらっておいて……とコヨミちゃんは食い下がったが、まあまあ、と言うとまた前を向いて歩きだした。

 女子の後輩に荷物を持たせるのは、なんとなく気がひける。

 交差点の信号がやけに長かったので、信号が青くなるのを待っているうちに、俺とコヨミちゃんはアイスを食べ終えてしまった。

 二人で他愛もない話をして時間を潰す。生徒会のこと、俺の部活のこと、テストが近いこと。

 ねえちゃんは食べにくそうな小さいスプーンで、しろくまくんをチマチマと食べていた。

 信号が青になる。
 コヨミちゃんが少し残念そうな顔をする。

「私、家あっちなんで!」

 ゴミ持って帰りますよ、と言ってくれたので、そこは甘えておいた。
 悪いね、と言って食べ終わったアイスの棒を渡す。
 気にしないでください! と、コヨミちゃんは笑って受け取った。

「じゃあ、また明日ねー」

「はい! また明日!」

 コヨミちゃんはおどけたように敬礼のポーズをすると、くるりと振り返って、走って行ってしまった。後ろ髪がぴょこぴょこと跳ねていた。

 信号が変わっちゃうよ、とねえちゃんが横断歩道を渡りだしたので、置いて行かれないようについていく。

 川沿いの道を歩く。
 水面が夕日を反射して眩しかったけど、なんとなく夏だなぁ、って感がして、わくわくした。遠くで鳶が飛んでいる。

「コヨミちゃん、最近よく一緒に帰るな」

「……そう?」

 そんな気がする。
 人数は多いほうが楽しいから、嫌ってわけじゃないけど、
 コヨミちゃんは友達と帰ったほうが楽しいんじゃないだろうか、とは思う。

「まあ他の友達は運動部とかなんでしょ」

 ねえちゃんは、川に架かっている橋を眺めながら、そう答えた。

「まあそれならいいんだけどさ」

 それからしばらく静かになる。

 二人も黙ったままだけど、今更そんなことで気まずくなるような仲でもない。
 むしろ話している時間のほうが多い、ってのは、よっぽど気が会う奴でもない限り難しいだろう。

 だから、そんないつも通りの沈黙の中、土手沿いの道を二人で歩いた。
 ねえちゃんは歩くのが少し早いので、それに置いて行かれないように気持ち早めに歩く。

「コヨミちゃん、どう思う?」

「……まあ、可愛いんじゃない?」

 唐突に訊ねてきたので、少しだけ焦って、当たり障りのない答えを返しておく。

「ふぅん」

 まあよく考えてみれば、あながち嘘でもない。よく懐いてくれるし、ねえちゃんと同じくらい、顔だって整っている方だ。
 何より、歳下の知り合いなんてあまり多くないから、後輩がいるのは少し嬉しかったりもする。

「でも、なんで突然?」

「別に?」

「なに、ヤキモチでも焼いてんの?」

「だったら私ははっきり伝えるね」

「たしかに」

 乙坂音絵は、そういう人だ。

「それに私、ウェスターマーク効果っての本当に信じててさ」

「俺もあながち嘘でもないと思ってる」

 そんな何でもないような話をしているうちに、あっという間に家に着いた。
 家から近い高校を選んで正解だった。登下校が楽。

「じゃあ私、一回荷物置いてくるね」

「おう、三十分くらいしたらできるから」

  はーい、と返事をすると、ねえちゃんは自分の家の鍵を開けて、中に入っていった。
 俺も、その隣の家の玄関に手をかけ、扉を開ける。ただいま、と言うと、
 あたりまえだけど、返事は返ってこなかった。誰もいないんだし。

 ……なんだか今日は、長い1日だった。

「あー、いい匂いするー」

 ねえちゃんが我が家の玄関を開けたのは、丁度料理が出来上がった頃だった。

「飲み物の準備してー」

 冷蔵庫を開きながら、ねえちゃんが鍋の中を覗き込む。

「もしかして、まじでアクアパッツァ?」

 お茶をコップに注ぎながら、ねえちゃんが尋ねてくる。
 母は帰ってくるのが遅いので、同じ食卓を囲むことはほとんどない。

「うん、ネットで調べたら簡単そうだったから」

「すげー」

 魚とあさりと玉ねぎ等諸々。ニンニクを入れたほうが美味しいと思ったけど、明日も学校なのでやめておいた。

 皿に魚を並べていく。

 食卓に料理が並んだ。ご飯と味噌汁と、魚料理。我ながら頑張ったと思う。

「いただきます」

 ねえちゃんが机の向かいに座って、料理に手をつける。机は妙に広い。

 いただきます、と呟いてから、アクアパッツァなるものに手をつける。
 料理したのは自分だからある程度想像はついてたけど、まあ予想通りの味だった。


「美味しい?」

「美味しい」

 ねえちゃんは当たり前のようにそう答えてくれたので、本当にそう思ってんのか? と少し不安になった。

「カップラーメンとかより何倍も美味しい」

「微妙な褒め方だな」

 まあどちらにせよ、昨日の晩ご飯よりは美味しかったようで安心した。

「私これ魚にハマりそう」

「たまに食べると美味しいんだよな」

「だよね」

 毎日食べてると飽きるけど、たまに食べると美味しい。何にでも言えることだけども。

 その後は二人で中身のないような会話をして、テレビのニュースを見ながら、いつも通りに夕食を済ませた。

 ねえちゃんは食器を洗った後、「ご馳走様でした」と言って、隣の家へ帰っていった。
 
 部屋に音がしなくなる。

 謎の寂しさ。

 さて、風呂にでも入ろう。そう思って洗面所に向かう。

 頭と身体を洗って、冬場よりは少し低めの温度の浴槽に浸かる。

 今日のことを思い返しす。

 心なしか、男子とほとんど話していない気がした。話していたのはほとんど女子か。

 というか、よく考えるとそこまで男友達も多いというわけではなかった。だからと言って女友達が多いわけでもない。

 ……なんだか虚しくなって、すぐに風呂から上がった。

 ベットに倒れこんで、枕に顔を埋める。

 このまま寝てしまおう、と思って目を閉じていると、机の上のスマホが小さな振動と共に、誰かから連絡が来ていることを知らせてきた。

 起き上がって、手帳型のケースを開く。
 通知が一件。コヨミちゃん。

『アイスごちそうさまでした!』

 ……律儀。
 わざわざそんなことでお礼しなくてもいいのに。それとも、アイスくらいでもLINEを送るのが普通なのだろうか。

『こっちこそ、一緒に帰れて楽しかったよ』

 当たり障りのない(と、思う)返信をしておいて、そういえばイチ達に答え送らなきゃな、と思い出す。

 『清掃部』と書いてあるグループをひらく。

『さっきの答え』

 すぐに既読がつく。早え。

『正直村はこちらですか、と聞いたらあなたははいと答えますか?』

『うーん……?』

『あー』

 ナナコは早くも理解したようだった。

『あー、納得!』

 と、イチ。わかっていただけたようでなにより。

『何それ……?』

 と、チヨ。

『後で問題送るよ』

『あ、クイズなんだ』

 打つの早いな。すごい早さで返信が飛び交っている。


『そういえばみんな、何かやりたいことある?』

 と、静かになったところで、部長が問いかけた。
 そういえば今日、部長が夏休みのことを話していた気がする。休み中の活動について。

 去年は、いつも通り地域の清掃活動に参加して、ちょっとゴミ拾いをした。

 そういえば、夏休み中、一度だけ校舎の窓を拭いて回った記憶もある。珍しく顧問が顔を出した日だった。
 たしか登校日だったか。

『キャンプとか』

『どこでやるんです?』

『部長んちの庭』

『蚊がいっぱいいる』

『迷惑にならない……?』

 迷惑も何も、もはや何部かわからなくなってしまう。ワンダーフォーゲル部か。

『部長のうち以外だとどこがある……?』

『適当に山の中とかですかね』

『最近は、熊が多いらしいよ』

『熊って人食べるのかな?』

『どうでしょう』

『私が倒す』

『さすが部長ですね』

『かっこいい……』

 スマホを閉じても通知は鳴りやまなかったので、電源を切って、充電コードに繋いでおいた。
 明日も平日なのに、あいつらは暇なのだろうか。まあ俺も似たようなもんか。

 部屋の電気を消して、ベットに倒れこむ。

 それから、薄い布団にくるまった。


「ねえ、ちゅーしよう」

 いつもの席で、いつもの席に座っているイチが、俺の方を見ながらそう言う。

 部室。夕方。
 夕日は信じられないくらいオレンジ色をしていて、部室はまるで絵画のようにオレンジ一色に染められていた。

 窓の外には鳶が飛んでいる。

「何を言ってるのでありますか」

 照れているのか、俺は、いつもとは口調が違った。心なしか声が少し上ずっている。

「だって、そういう気分なんだもん」

 イチが後ろ向きに椅子に座っているせいで、一つ後ろに座っている俺との顔の距離はだいぶ近い。
 風が吹くと、イチの髪がふわりと揺れて、シャンプーのいい香りがした。胸がドクンと脈打つ。

「えっと……」

 突然キスを迫られても、さくらんぼ系男子である俺には、どう対処するのが正解なのかわからない。
 中庭に目をやると、窓は閉まっていた。

「私じゃダメ?」

 ほんの少しだけ上目遣いのイチの瞳は、心なしか少し涙で潤んでいた。
 その涙も、オレンジ色に染まっている。

「そんなことは、ない……と、思う」

 目をそらして、挙動不審になりながらそう答えるのが精一杯だった。

「それでも男の子ですか」

 いつの間にいたのか、ナナコがため息をついている。……ため息をつくと幸せが逃げる、という。
 右を向くと、よくわからない距離にナナコは立っていた。近くもないし、遠くもない。
 部室は不思議な空間になっていた。

「そう……だよ?」

 部長の隣に立つチヨも、ナナコに加勢するようにそう言う。

「でも、あの子はどうすんのさ」

 教卓の前に立つ部長は、チヨの髪をいじりながら訊ねてくる。
 チヨはくすぐったそうな顔をしているが、嫌がる様子はない。

「あの子って……?」

 気がつくと、俺は渡り廊下にいた。青空天井。身体全体で夕陽を浴びる。
 腕も制服も、オレンジ色に染まっていて、幻想的ではあった。

「さすがに、気づいていないわけではないでしょー?」

 手すりに腰掛けたこなたが、水の張られていない池を見下ろしながら、そう呟く。
 辺りを見渡しても誰もいなかったので、多分俺に言ったんだろう。

「こなたは全部知っていますよー」

「俺のスリーサイズとか」

「それは興味ないですね……」

 こなたは肩まである髪をオレンジ色の風になびかせながら、こちらを振り返った。
 スカートがぱたぱたと風に吹かれる。

 こなたと目が合う。

「なんなら見てみます?」

「ぜひ」

「冗談ですよー」

 残念だった。

 ただ、見せてもらうのと見えるのは、何か違う気がしたので、まあいいことにしておく。

 渡り廊下から見える教室の窓は、すべて閉まっていて、部室の窓もぴしゃりと閉じられていた。
 どの教室にも人影は見えない。見えるのは陽に焼けたカーテンだけだった。

「先輩!」

 最近よく聞く声に、ハッと我に帰り振り返ると、想像した通りの人物が立っていた。

 コヨミちゃんは、こちらに歩いてきながら訊ねてくる。

「お一人で何をされてたんですか?」

 手すりに目をやると、こなたはどこかへ消えていた。
 コヨミちゃんに視線を戻す。

「まあ、男には一人でたそがれたい時もあるんだよ」

 ポッケに手を突っ込み、目を細めながらそう言う。が、多分、かっこよくはなかった。

「そうなんですか」

 よく見ると、コヨミちゃんは中学校の制服を着ていた。なんとなく既視感。デジャヴ。

 というか違和感。しばらく見つめていると、コヨミちゃんだけオレンジ色に染まっていなかった。

「そんなに見つめられると勘違いしちゃいます」

 コヨミちゃんが頬を染める。周りが全てオレンジなので、それが本当に頬を染めているのか、自信はなかった。

「……あの、先輩」

 突然、真面目なトーンで話を切り出すコヨミちゃん。

 風が止む。中庭の草木も物音ひとつ立てていない。

 まるで、これからコヨミちゃんが話すことを、一語一句聞き逃すまい、と言わんばかりに。


「……先輩は、気づいていないんですか?」

 なんのこと、と尋ね返そうとしたら、

 あたりが白黒になった。

 コヨミちゃんは時間が止まったように固まっている。

「私はだいたい理解してるつもりだけど」

 向こうから、ねえちゃんが歩いてくるのが見える。

 さっきまでオレンジ色だった空間が白黒になっている中、ねえちゃんだけは綺麗なオレンジ色を放っている。

「知らんぷりしてないで、それなりの態度を示してあげた方がいいんじゃない?
 宙ぶらりんは一番、嫌だと思うよ」

 何を、と尋ね返そうとしたが、身動きが取れず、声を出すこともできなかった。

「まあ、そこはあんたの気持ち次第だけどね」

 はぁ、という表情でねえちゃんは立ち止まって、その場で霞んで消えてしまった。
 風が吹いて、世界はオレンジ色に戻る。

「……なんの、こと?」

 さっきのねえちゃんの言葉を思い出しながらも、俺はコヨミちゃんに訊ね返した。

「だから、その。ええと……ああ、もう!」

 コヨミちゃんはしばく唸った後、覚悟を決めたように、俺の右手を手に取った。
 両手で右手を握ると、少し力を抜いた後、ギュッと強く握りなおして、俺の目を見た。

「あの、先輩!」

 オレンジ色の風が吹く。

 コヨミちゃんは耳まで真っ赤に染まっていだ。見間違いではないようだ。

 その光景に、何故か俺は罪悪感を覚える。

「私、先輩のこと……」

 そこまで聞き取れたところで、目が覚めた。

つづく。

乙です。
>>28 >>10で部活のメンバーがここにいる三人とあと三人と言ってるのに>>23で三年生一人と二年生四人と言ってる、六人から五人に減ってるのが気になったもんで。

 金曜日。

 朝だ。

「いただきます」

 適当なジャムを選んで、均等になるようにパンに塗る。

 母は一時間ほど前に家を出ていた。夜遅く帰ってきて、朝早く出る。仕事は相変わらず忙しいようだった。

 別に不満はない。

 時刻は七時半。

 朝は時間が余るから、できれば十分でもジョギングができればいいのに、と、ふと思う。
 が、思うだけで実行に移さないのがいつものことだ。

 そういえば電源切ったままだったな、と思い、スマホの電源を入れる。

 今日は金曜日か。今日を乗り切れば明日と明後日は休み。そう思うと、少しは頑張ろうという気になれた。

 ゆっくりと朝の支度をする。

 今日もいい天気だ。学校がなかったら布団を干したいくらい。

 歯を磨いて、顔を洗って、制服に着替える。ベルトを締めると、少し気合が入ったようた気がした。

 玄関を開ける。

 今日も1日が始まった。

 教室に入ると、ちらほらと人がいるだけで、まだ生徒は多くはなかった。

 自分の席に座ると、隣にユウキが座ってきた。そこはお前の席じゃないだろう。

「思ったんだけどさ」

 ユウキは深刻そうな顔で話を始めた。何か相談でもあるのだろうか。

「図書室って異世界っぽくない?」

「いや別に」

 少しでも心配しかけた自分がアホらしかった。どういうことだよ。

「いやいや、漫画とかの影響じゃなくてな? ほら、図書室とかって不特定多数の人がくるわけだろ? だから……」

 ユウキは少し考える仕草をする。それが真剣な表情なところが、またアホらしかった。

「付箋に『未来のお前が危ない。今日の放課後、渡り廊下に来てくれ』って書いて、本に挟んであったりとか」

 ユウキの肩越しに、今日の予習をしながら顔をしかめている、委員長女子が見えた。

「あったらワクワクしない? というかやりたい」

 なんでそんな得体の知れない発想ができるんだ。見つけた人ビビるわ。
 でもちょっと笑ってしまったのが悔しかった。どうしてこんなくだらないことで笑えるんだろう。

「本が汚れないんだったら好きにすればいいんじゃない?」

「だよな、やってみるわ」

 本当にやるのか。

 こういう時のユウキは有言実行なことが多いから、多分、本当にやるんだろう。少なくとも付箋に書くところまではやるはず。本が汚れないといいけど。


 ユウキが黙ってしまったので、俺も荷物の整理をする。

 あ、古典の教科書忘れた。

 ……朝の教室は騒がしい。教室の至る所で生徒が固まって、ワイワイと騒いでいる。
 こういう場合、集まってワイワイしているのは女子が多い。男子は割と静かに話をしてたり、その日の課題を終わらせてたりする。

 委員長みたいな例外もいるけど。

 委員長女子は、相変わらず顔をしかめていた。今日は朝から俺たちが席の近くで会話しているからだろうか。

 たぶん、俺とユウキは彼女に嫌われている。
 なんというか、チャラチャラしてると思われてる。誤解だ。

 俺もむしろチャラチャラしてるのは苦手だ。

 が、そう思われても仕方がないことに、ユウキは雰囲イケメンだった。悔しいことに(いや雰囲気だけだし、悔しいこともないんだけど)。

 だからクラスでの立ち位置は悪くはない。

 中学生の時から何度か告白された話を聞いたことがある。しかしどれも全員、「やっぱりなんか違った」と言って、一ヶ月以内には彼の元を離れる。

 迷惑な話だとは思うが、たしかに、と思ってしまう節はあった。
 ユウキは、仲のいい相手には、奇行を見せることが多々ある。

 思いつく範囲で紹介すると、
 学校に通販サイトで買ったエロ雑誌を持ち込む(中学二年生)。
 女子の水泳の時間に授業を抜け出して覗きに行く。携帯を持って(中学三年生)。
 高校の女性教諭(31)の靴の臭いを嗅ぐ(去年)。

 三つめのは、流石に俺もひいた。

 これだけでも十分戦えるレベルだが、これはまだ氷山の一角。
 彼はそういう人物だった。

「あの、真壁くん……」

 と、後ろから控えめな声がかけられる。

 振り返ると、今ユウキが座っている席の持ち主が、申し訳なさそうに声をかけていた。

 前髪を分けて、おでこを出した髪型の、おとなしげな女の子。メガネ。
 ザ、図書委員、という感じ。と言うか図書委員だった。

「あ、ごめんごめん」

 ユウキは片手軽く上げて謝りながら、席の持ち主に椅子を返した。

 女の子は少しためらいながら机の中に厚い本をしまい、落ち着かなさそうに腕時計を確認していた。

 ユウキは自分の席に帰っていく。

 至って普通の朝だった。

「最近、校内でスマホを使う生徒が多いそうです」

 と、きいちゃん先生は開口一番そう言った。ウチのクラスの担任。

 この高校は基本的に、敷地内ではスマホの使用は禁止となっている。にも関わらず、休み時間なんかにポチポチと弄っている人数は少なくはない。

「見つけたら没収するからね」

 というか俺にも心当たりがあったので、若干焦った。

「まあ、職員室で私たちが使ってんの見られてるのに、それで止めるってのもどうかと思うけどね」

 だったら見逃してよ! とユウキが声を大にして言ったが、彼の発言は先生によって黙殺された。

 ちなみにユウキは一昨日没収されていた。

「それと、昨日、駅前あたりで不審者が出たらしいんで、気をつけるように、とのことです」

 きいちゃん先生と呼ばれる彼女は、愛称から受ける印象とは違い、別に若くはない。多分今年で三二くらい(ユウキ調べ)。

 別に可愛げがあるわけではないし、下の名前に『きい』が付いているわけでもないのに、何故か「きいちゃん」と呼ばれる。

「ちなみに不審者、イヤホンをした女子生徒に後ろから抱きついた後、走って逃げたらしい。怖いね」

「それ俺かもしれないっす」

「ついに真壁を警察に突き出す時が来たか」

「すみません冗談です」

 こういった冗談もきちんと相手にしてくれる先生。ウチの高校では珍しいタイプの先生だ。

「というか、襲われそうな道でイヤホンして歩いてるのもどうかと思うけどね。防犯意識がなんとやら」

「本当は襲われたいんだろ? みたいな」

 その一言に、教室が静まり返る。ユウキに女子からの冷ややかな視線が注がれる。
 可哀想な子。

「それはエロ本の読みすぎっていつも言ってるでしょ」

「俺、エロ本なんか買ったことないっす」

「その辺落ちてないの?」

 それ、今となっては都市伝説ですよ。最近はそんなもの見る機会は滅多にない。

「へぇ、そうなんだ……カルチャーショック」

 きいちゃん年寄りくさーい、と、どこからか女子が囃し立てる。
 そういうことを言う奴に限って、高校のうちから濃い化粧をしてたりする。大人になってから肌が荒れるぞ。

「いいの、若いうちにすることは楽しんだから、今は年寄りくさいことを言って楽しむ時期なの」

 きいちゃんはたまに変なことを言う。が、堂々としているあたりはかっこいいと思う。


「きいちゃんまだ二十歳でいけますよ」

「なんだ真壁、今日は冗談が下手だね」

「冗談っす」

「冗談かよ」

「冗談です」

 冗談ってなんだっけ。ゲシュタルト崩壊。

「今日はテンション高いな、真壁」

 真壁の隣に座っているイケメン君が、彼に向かって笑いながらそう言う。
 流石サッカー部キャプテン、よく声が通る(関係あるかどうか知らないけど)。

「金曜日だからな、世界が輝いてみえる」

 そうだ、今日は金曜日。
 あと数日で夏休みだ。


「先輩!」

 昼休み、男三人で寂しく弁当を広げてると(寂しくない)、背後から元気な声をかけられた。

 イケメン君が俺を見て、悟ったような目をする。

「お前……裏切ったのか」

「いや、そういうんじゃないし」

 彼は箸を落としながら、失望したような顔で俺を見てきた。
 ユウキが彼の肩を優しく叩く。

「俺たち、頑張ろうな」

「おう……」

 イケメン君はイケメンなのに、付き合ってるどうのこうのという浮いた話はほとんど聞かない。
 弁当はいつも一人で食べてるか、たまに俺たち二人と一緒に食べている。

 グラウンドで見かけるイケメン君は活発で、いつも誰かと話しているのだが、教室ではかなり静かで、まるで別人のようだ。

 同じクラスに彼と同じサッカー部の部員がいないのが原因なのだろうが、流石に先生もクラス分けの時に、もう少し気を配ってくれてもいいと思う。(ただでさえ彼は、三年生のいないサッカー部で立派に部員を務めているのだから。)

 以前にそのこと(クラスにサッカー部がいないこと)をイケメン君に話したら、

「別に気にしてないし、俺、一人好きだからさ」

 と苦笑いしていた。
 人は見かけによらないものだ。


「……先輩?」

「あっ、ごめん、ぼーっとしてた、コヨミちゃん?」

「はい! コヨミです!」

 振り返ると、コヨミちゃんがそこに立っていた。制服のネクタイはピシッと整っている。さすが生徒会。

「しかも下の名前呼びかよ……」

 今度はユウキが凹んでいた。
 凹むことないだろうに。

「……お取り込み中でしたか?」

「いや、そんなことないよ」

「私たちとは遊びだったの!?」

 ちょっと黙ってなさい。

「えっと……」

「いいよ、気にしないで」

 コヨミちゃんはちょっと気まずそうに頬をかいた。
 イケメン君は知らない後輩の登場で静かになってしまったが、ユウキはこういう時も基本、黙ることはない。
 良くも悪くもムードメーカー。

 ちなみにいまのは悪い方だ。

「なんか用事でもあった?」

 理由もなしにわざわざ先輩の教室に来たりしないだろう。
 少なくとも俺には、用もなしに部長なんかの教室に入る勇気はない。他学年の教室って、なんか入りにくい。

「はい、会長が呼んでたので、伝えようと思って……」

「会長?」

 生徒会長。
 言わずもがな、生徒会の部長、会長だろう。

「俺を呼んでたの?」

 部長じゃなくて?

「はい、その……部活のことで、ちょっと」

 コヨミちゃんは左右に目を左右に泳がせながら、曖昧にそう答えた。彼女も用件は聞いていないんだろうか。

「わかった、弁当食べたら行ってみるよ」

「はい! お願いします!」

 元気よく返事をすると、コヨミちゃんは逃げるようにして走って出て行った。

 やっぱり、先輩の教室は怖いよな。


「俺、食べ終わったら出かけるわ」

「逢い引き?」

 イケメン君が憂いを帯びた声で尋ねてくる。

「コヨミちゃんじゃないよ」

「コヨミちゃん! 聞いたか、今! 下の名前で!」

 ユウキが、俺とイケメン君を交互に見ながら狂ったようにそういう。
 教室から少し痛い子を見るような目線が向けられる。やめてくれ。俺たちまで巻き添えを食らう。

「まあまあ」

 イケメン君が口を開いた。

「他の人に彼女がいようがいまいが、俺たちに彼女がいないのは変わらないよ?」

「む、たしかに」

 ユウキはふむ、と頷いて、食事に戻った。
 俺も一応頷いておいた。弁当を食べる。

 その後は特に目立った会話はなかった。

 ところで、ウチの高校にも、生徒会というものがある。
 ねえちゃんやコヨミちゃんの入ってる、生徒会。
 他の高校がどうかは知らないけど、ウチの生徒会は他の部活と同じくくりになっている。

 野球部、サッカー部、テニス部、清掃部、生徒会、みたいな。

 つまり、生徒会の部長が、生徒会長、ということになる。

 だからなのか、部長繋がりで、ウチの部長と生徒会長は割と仲がいい。
 他の部活から浮いているモノ同士。というのは失礼かもしれないけども。

 部長は、よく生徒会室に遊びに行ったりする。昨日もそうしていたように。

 普通の男女ではさすがにわざわざ話すために生徒会室に行ったりしないだろう。

 ……と、イチとチヨとナナコの三人は何度か疑っていたようだが、部長は聞かれるたびに、「あいつ? だからそんなんじゃないって! ただの友達!」と、笑いながら答えていた。
 部長はねえちゃん並みにはっきりとモノをいう人なので、嘘ではないだろう。

 二人はそういう関係ではない。

「……やっぱり脈なしかな?」

「まあ、会長については何も言ってませんでしたね」

 そうだよなー……、と言って、椅子の上で伸びているのが、我が校の会長であった。

「なんでだろう……?」

「あの部長さん、そういうのに興味あるの?」

 と、長机の上でパソコンをいじっているねえちゃんが尋ねてきた。
 次の話し合いに使うプリントを作っているそうだ。

「何というか、自由人、って感じですよね」

 コヨミちゃんはねえちゃんの隣で作業を眺めていた。

 俺は扉の前に立ったまま、椅子の上でうなだれる会長に質問をする。

「また何か言ってみたんですか?」

「うーん……」

「何か言ったというか、遠回しに言っただけだよね」

 やっぱりねえちゃんは、パソコンから目を離さずに話す。
 話はちょっとぶれるけど、同時に二つのことができる人って賢そうに見える。

「遠回しって?」

「好きです、みたいなのを琵琶湖の水全て使って薄めたような表現」

「ほぼ水じゃん」

「ほぼ水なんですよ」

 女子二人と後輩による言葉の棘で、会長はさらに沈んだ。目に見えて凹んだのがわかる人だ。

 会長は部長のことが好きだ。ライクじゃなくて、ラブの方。
 部長の周辺にいる男子はあまり多くはなかったので、数少ない男子である俺は、会長から相談や話をされることがたまにあった。

 そして大抵、相手にされなかった、と沈んでいる。
 彼はオクテなのだ。良く言えば。

 悪く言うとヘタレでもあった。


「……それで、用事ってそれだけですか?」

「冷たいなぁ!」

 会長は勢いよく上半身を起こし、イスを転がして(パソコンルームとかに置いてあるやつ)、俺の元へ近づいてきた。
 机の上に手を伸ばして、裏向きにしておいたあったプリントを手に取る。

「これ、渡しといてもらえると助かる」

 そう言って彼が手渡してきたのは、生徒から要望があったので文系棟一階の窓を掃除して欲しい、との旨が書いてあるプリントだった。きちんと生徒会の印鑑も押してある。

 基本的に清掃部の活動は、このように生徒会や顧問から依頼を受けてのモノとなっている。(響きだけ聞くとかっこいい。)

「部長に、でいいんですよね?」

「他に誰かいるの?」

 ねえちゃんにため息をつかれた。
 一応確認したかっただけです。

「うん、それで頼む」

 助かるよ、と会長は爽やかにお礼を言った。
 こういうところはかっこいい人なのに。


「それでは、また」

 生徒会室を出て行こうと扉を開けると、ねえちゃんの隣から待ったがかけられた。

「先輩! 帰りはいつ頃になりますか?」

「部活次第だけど……まあ、昨日と同じくらい?」

 早く終わったとしても、あのメンバーなら下校時刻まで残ってだらだらするだろう。そんな気がした。

「わかりました!」

 コヨミちゃんがおどけて敬礼のポーズをとった。同じように真似をして返すと、嬉しそうに笑った。

「今日の晩御飯は昨日買っておいたやつ?」

「うん、チンするだけの買っといた」

「はーい」

「じゃ、また」

 会長がこくんと頷いた。

 扉を閉める。

つづく。

>>48すみません。
>>10は『ここにいる三人と、あと二人』の間違えでした……

 放課後。

「ふふふ、私が優勢ですよ」

「ど、どうかな……?」

 部室に行くと、ナナコとチヨがオセロをしていた。リバーシブル。

「何してんの……?」

「見て分かりませんか?」

「オセロ」

 それはわかる。
 どこからそんなもん持ってきた。

「家から持ってきました」

 と、ナナコは自慢げに胸を張った。

「でも、今日は生徒会から、コレきてるよ」

 そんなナナコに、昼休みに会長から受け取ったプリントをペラリと見せる。

 チヨは、久しぶりだね、と呟いて、またオセロ盤に黒を置く。
 ナナコは何度か腕時計を確認した後、
 あー、でも、部長くるまでもう少し時間かかりますし、と言って、またオセロ盤に視線を戻した。

 二人の邪魔にならないよう、静かに盤面を見ると、角を二ヶ所とっている白、つまりナナコがが圧倒的に有利に見えた。
 だがチヨは落ち着き払っている。
 オセロなんてどうでもいいと思っているのか、それとも何か秘策でもあるのか。

 自分の定位置にカバンを置いて、窓を開ける。イチのカバンはあるので、一度はここにきたようだった。

「イチは?」

「自販機に行ってくる、って、言ってたよ」

 清掃部は基本的に、こんな感じでぐだぐだと時間を過ごす。
 そもそも掃除が熱心にしたくて、この部活に入ったやつなんて、いるのだろうか。

 部員が少ないから、金曜日以外は出欠は自由だから、楽そうだから、諸々と理由はあるだろうが、結局、掃除大好き! なんてやつはいない(と思う)。

 俺だって、誰かに誘われなければ、ユウキのように帰宅部だったのだ。
 そう考えると、この部活大丈夫なのかな、という気にはなる。


 ナナコがあっ、と声をあげる。
 ふふふ、とチヨの静かな笑い声が聞こえてきた。

 盤面を覗き込むと、角は白なのだが、それ以外の周りはすべてチヨの黒で埋め尽くされていた。

「やりますね……」

「オセロは、妹たちといつもしてるからね」

 チヨがいつになく得意げだった。ナナコは顎に手を当て次の手を考えている。が、どう見ても詰みだった。

 チヨ、オセロ好きだったんだ。

 窓の外を見ると、空は雲で覆い尽くされていた。空が青いのって気のせいだったかな、と思ってしまうほどの白。
 オセロ盤とは大違いだ。

 どこからか吹奏楽の演奏の音が聞こえてきた。耳を傾けてみるが、なんの曲かはわからなかった。

 プレクトラムアンサンブルは曲なのかどうかすらわからなかった。

 ふと、話し声が聞こえてきて、振り返る。
 入り口には部長とイチが立っていて、ちょうど部長が半開きの扉を開けようとしているところだった。

 ガタン、と音を立てて扉が開かれて、オセロの石(石? ……なんて呼ぶんだろう)がカタカタと揺れる。

「おはよう!」

「やは」

「もう昼ですよ」

 カバンを肩にかけ、元気よく挨拶をした部長と、いつも通りの、気の抜けた挨拶をしたイチ。
 部長は基本寄り道をしてくるので、部室に来るのは、大体最後。

 我が部は自由が売りだ(売ってないけど)。

 あっつー、と、制服の胸元をパタパタと扇ぎながら、イチが窓際に近づいてきた。

「週に一度の楽しみ」

「いちごオレか」

 イチの右手には、紙パックのいちごオレがあった。

「金曜日だかんね」

 彼女は決まって毎週、金曜日の放課後はいつもいちごオレを飲んでいる。
 一週間頑張ったご褒美、らしい。

 イチはポニーテールを揺らして窓枠にもたれかかった。いちごオレには水滴がついている。

「あ、部長、会長から……」

「ん?」

 鼻唄を歌いながらオセロを覗き込んでいた部長に、会長から預かったプリントを手渡す。
 部長はしばらく黙って見つめたあと、よぉし、と言って手を叩いた。

「今日は何ですか?」

「文系棟一階の窓拭き!」

「またあそこ……」

「じゃ、パパッと終わらせよっか!」

 部長がそう言うと、全員、はーい、と返事をして、それぞれ準備を始めた。

「あ、待って、最後の……」

 チヨが呼び止めたので、全員がオセロの盤面に注目する。
 ナナコは項垂れていた。

「これが最後の一手になるけど……」

 私の勝ちだね、と、チヨが呟く。
 盤面は四ツ角以外、ほぼ真っ黒だった。

「……あとでもう一回お願いします」

 ナナコは再戦を申し込んだようだった。

「もちろん」

 チヨは得意げに答えた。

 運動部の掛け声がよく響く。

 玄関口から外を見ると、サッカー部の一年生が掛け声に合わせてランニングをしているのが見えた。よくあんなに走れるな。

 サッカー部の掛け声に合わせて、プレクトラムアンサンブルの演奏の音も聞こえてくる。
 どこで演奏しているのだろう。未だに彼らの姿を見たことはない。

「よっこら……せっと」

 水を入れたバケツに、数滴だけ食器用洗剤を入れて、よくかき混ぜる。

「新しい雑巾使います?」

「うん、前の汚いし」

「窓が汚れたら元も子もないからね!」

 今日の雑巾担当は、ナナコとイチと部長だった。
 三人は白い雑巾を洗剤を溶かした水で絞り、汚れた窓を拭き始めた。

 ここ、文系棟一階の窓は、理系と文系、両方の下駄箱があるために(理系棟は実験室なんかが多いため、下駄箱は合同となっていた)、砂やゴミが舞いやすい。
 よって、最も汚れやすい箇所だった。

「というか、なんで掃除担当の人は窓拭きしないんだろう?」

 清掃部があるとは言え、他の高校と同様、この高校にも掃除の時間は普通にあった。
 まあ、高校生の掃除時間なんて、ホウキを持っておしゃべりする時間みたいなものだけど。

「まー、雨の日とかでもないと窓は拭かないからねー」

 だから、こうして汚れの目立つ箇所は、定期的に清掃部が掃除をしている。

 が、清掃部というのは他の学校ではあまり聞かない部活動のようだった。
 違う高校に進学した知り合いなんかに聞いてみると、みんな揃って「なんだその部活」という。

 他の高校はどうしているのだろう? 汚れた場所とかはそのままなのかな。

 配管の上の埃とか、窓の汚れとか、ロッカーの中とか……この部活に入ってしまった今となっては、気になって仕方がない。

 他の高校を知らないので、そこがどうなっているのかは、よくわからなかった。

「はい、スクイジーお願い」

 イチにそう言われて、俺も窓の前に立つ。
 スクイジーというのは、よく窓を拭いてる人なんかが使っている、T字型のあれだ。百均なんかでも探せばある。

 清掃部の窓拭きは、基本的に二人一組で行う。
 一人が食器用洗剤の溶けた水で絞った雑巾で窓を拭いたあと、もう一人がスクイジーで洗剤を拭き取る、という流れだ。
 これで驚くほど綺麗になるから、初めてやったときは感動したのを覚えている。

「ねえ」

「なに?」

 窓を拭きながら、イチが話しかけてくる。
 返事をしながらスクイジーをグイッと下ろすと、窓の向こう側が鮮明に見えた。すげえ。

「このあとのちーちゃんとなっちゃんのオセロ、どっちが勝つと思う?」

「チヨじゃない?」

 イチはごしごしと窓の汚れを拭いていた。 
 俺は窓の端に残る洗剤の残りをタオルで拭き取っていた。

 お互い、窓に反射する顔を見るだけで、目は合わせない。窓拭きをしているときは基本こうして話をする。

「じゃあ私はなっちゃんね」

 え、何が、と尋ねようとしてイチの方を振り帰ろうとすると、窓の奥の渡り廊下にこなたが見えた気がした。

「じゃあ外れた方がさ、夏休みの間、朝のラジオ体操に通おうよ」

「……なんで?」

「健康にいいでしょ?」

 いやまあ健康ではあるけども。

「高校生が行くと不審者と間違われるんじゃ……」

「そこが罰ゲーム」

「罰ゲームなのか」

 でもまあ断るのもなんだか微妙な気がして、一応「うん」と頷いておいた。

 大丈夫。チヨなら勝ってくれるさ。

「滑稽にも毎朝早起きしてラジオ体操に通うイチの姿を想像すると楽しみになってくるよ」

「ふふふふ、それはこっちのセリフだよ」

 渡り廊下に目線を戻すと、そこにはやっぱりこなたはいなかった。気のせいだったのか。
 ……あとで行ってみよう。


「あ、そうだ、みんな!」

 担当の窓を拭き終えたらしい部長が、元気よく窓から離れて、両手を叩いた。
 みんな振り返って、なんだなんだと部長を見る。

「夏休みのことなんだけどさ!」

「あー、考えてないです」

 ま、いいよそれは、と部長は自分で続きを促した。

「清掃部の活動って、別に学校内じゃなくてもいいんだよね?」

 部長はくるりと俺たちを見渡して、首を傾げた。

 いや、あなたが部長なんですから。
 イチと顔を見合わせる。

「まあ確かに……ゴミ拾いとか、学校の敷地外でもやってますね」

「河原とか、学校、関係ないもんね」

「でしょ!」

 部長は嬉しそうに頷いた。

 だからさ、と続ける。

「みんなで、私のおばあちゃんに遊びに行こうよ!」

「……は?」

 みんなのこころがひとつになった。

「……どういうことですか?」

 ナナコが訝しげに尋ねる。

「部長のひいおばあちゃんち?」

「そう!」

 部長は両手を合わせて、説明を続ける。

「私の家ね、毎年、いとことか親戚がおばあちゃんちに集まって、広いお家を掃除とかしてるの。
 けど、今年はみんなの予定が合わなくて、業者に頼もうかー、って話になりそうだったんだけど!」

「……なりそうだったんだけど?」

「せっかくなら、清掃部のみんなで合宿みたいにして、大掃除しようよ!」

 部長は両手を広げて、そう提案した。

 イチの方を見てみると、露骨に楽しみそうな顔をしている。

「……楽しそう」

「え、でも、おばあちゃんに迷惑かかるんじゃ……」

「ああ、それなら大丈夫! おばあちゃん、その間に旅行行ってくる、って!」

 アクティブなおばあちゃんだ。

「なら私行きたい!」

「楽しそうですね!」

「うん! 行こうよ行こうよ!」

 女子二人は乗り気のようだった。イチとナナコ。
 まあ確かに、修学旅行の話とかしてても一番盛り上がるのは、この二人だし。

「えっと……」

「ちーちゃんはどう?」

 隣に目をやると、部長の提案にはほとんど反対しないチヨが、珍しく今日は返事を燻っていた。

「えっと、ちょっと考えてもいいですか……?」

 珍しいこともあるもんだな、と思う。

 部長は別に気を悪くすることもなく、話を続ける。

「じゃあえっと、決定じゃなく、保留が一人と、あとはみんな……」

 部長が目を合わせてきたので、軽く頷いておいた。

「行けるのは今の所四人!」

 部長と、イチと、ナナコと、俺。

 俺は、なるべく部活には参加したい。
 ねえちゃんの晩御飯が気がかりではあったが、その辺り弁当とかで頼むとしよう。夏休みだし、大丈夫なはず。

「じゃあ、夏休みの部活動はそういうことにしよう!」

「はーい」

 最後にササっと仕上げで窓を拭いて、片付けを始める。

 イチは、部長やナナコと、「期間とかは、また決まったら連絡するってことで!」と、わいわいと楽しそうに話を進めていた。

 夏休みかぁ、と呟くと、夏が一歩近づいていたような気がした。

 窓拭きの片付けが終わった後、みんなまだ帰らないようなので、なんとなく暇つぶしに校舎内を歩いていると、足は自然と渡り廊下に向かっていた。

 そしてそこには、いつも通り、

「せんぱい、もうすぐ夏休みですよ」

 こなたがいた。
 手すりの上からこちらを振り返っている。

「そんなとこに座ってたら、落ちるぞ」

「恋に?」

 中庭にだよ。

 こなたはコロコロと笑って、それからストンと滑らかな動きで手すりから降りた。もちろん渡り廊下の方に。


「夏休み、好きなの?」

「ええ、夏休みは、みなさん自由ですからね」

「自由」

 自由です、と、こなたは頷いた。

 肩まで伸びた髪が、風でサラサラと揺れる。
 たしか、校則では肩まで伸びたら結ばないといけないんじゃなかったっけ。
 渡り廊下によくいるなら、先生とかに見つかってもおかしくなさそうだけど……

「せんぱいは、夏休み、お好きなんですよね?」

「そりゃ、人並みには」

 夏休みが嫌い、って人を、俺はまだ聞いたことがない。
 いるんだろうか? そんな人。

 ただ、生活習慣が乱れてしまうのは難点ではある。そう考えると学校って大事なんだな、と思う。

「夏の空気というか、匂いとか、すごいなつー、って感じがしますよねー」

「あー、なんかわかる気がする」

 昼過ぎに遠くの方から聞こえてくる鳥の鳴き声とか、と言ってみると、こなたは楽しそうに笑った。

「あとあと、お店に入った時のー、ザ・冷房、って感じとかですね」

「わかる、あれいいよな」

「……というか、前もこんな話、しましたよね」

「……そういえばそんな話もしたな」

 なんだかんだで、結局夏って、毎年同じようなことを繰り返すだけな気がする。

 今年こそ宿題を早めに終わらせて、思いっきり遊ぼう、と考えながら、結局、最終日にまとめてやったり。

 今年こそ川原でも散歩しよう、と思いながらも、結局、一緒に遊ぶ人がいなくて川には近づかなかったり。

 彼女つくろう、とか男だけで話して、結局、彼女のかの字もないまま夏が終わったり。


「せんぱいは、この夏は何か予定がありますかー?」

「予定かあ」

「そう言えば、部長さんの祖母のお宅にお邪魔する、とか言うのは……」

「あれ、言った?」

「……はい、いいましたよー」

 俺、その話、こなたに話したか……?

 ……まあこなたが知ってるってことは、話したんだろう。こなたの顔を見てると、そう納得した。

「……そういえばせんぱい、部室に戻らなくていいんですか?」

「え?」

「ほら、オセロの勝負」

「あ」

 完全に忘れてた。
 イチと賭けをしてたんだっけ。

 まあ、心配しなくてもあの様子なら、チヨは勝ってくれるだろう。
 さっきも盤面はほとんどチヨのものだったし。

「せんぱい、ラジオ体操、楽しみですねー」

「不吉なことを言うんじゃない」

 じゃあ、また月曜日、と言ってから、渡り廊下を立ち去る。
 さよならー、と、こなたの声が聞こえた。あの子はいつまであそこにいるんだろう。部活には入ってないみたいだし。

 ……というか、さっきのこなたの「ラジオ体操、楽しみですねー」が、地味に不安になってきた。
 軽い気持ちで引き受けたけど、大丈夫だろうか。チヨってオセロ強かったよな?

 早く部室に行ってみよう。大丈夫。チヨを信じよう。

「勝ちましたー! はっはーい!」

 部室に戻ると、俺が今が一番聞きたくなかったセリフが聞こえてきた。

 部長がオセロ盤を覗き込んで、「おお、四つ角全部取ってるじゃん」なんて言ってる。

 え、どっちが?

 恐る恐る机の上のオセロ盤に目をやると、心なしか白が多い気がする。
 いや待て。気のせいかもしれない。

「負けちゃった」と、さして悔しくもなさそうにチヨが照れ笑いをしている。

「一対一かぁ」と、部長がチヨの頭に手を置いていた。チヨがくすぐったそうな顔をする。

 ……残念なことに、気のせいではなかったようだ。

「どうかした?」

 入り口で立ち止まっていると、部長が声をかけてくれた。

「いや……なんでもない」

 一か八か、イチが忘れていることを願い、なんでもない風を装って、部室に入る。
 ……イチだけに(面白くない。自分で言っといてなんだけど)。

「なんでもなくないよね?」

 イチがニヤニヤと笑いながら窓際からこちらを見ている。
 ちくしょう。忘れてなかったか。

「夏休み、ラジオ体操ね」

「まじかよ……」

「え? なにが?」

 チヨがきょとんと見上げてきたが、答える気力はなかった。

 ラジオ体操……朝六時だっけか。

 起きるのはまあいいとして、小学生の中に混じるのは中々不安だった。
 一人だけ高校生。

 いやでも、地域のお年寄りとかが参加してるかもしれない。だとしたら気持ち的にすごく楽になるんだけど。


「……一応聞くけど、一回でいいんだよな?」

「ううん、夏休み全部」

「夏休み全部」

 そんなに行けば小学生の顔見知りができてしまう。それはそれで楽しそうだけども。

「せめて……一週間とか」

「黙り給え、敗者は負けを背負うものだよ」

「誰なんだよお前」

 まあ……予定もないし、健康にも良さそうだし……何より、ここで約束を反故してしまえば男が廃る(ただでさえ廃りかけてるのに)。
 罰ゲームは受けることにしよう。

「え、ラジオ体操いくんですか」

「一緒に来る?」

「行きませんよ」

 仲間を増やそうとしたが、だめだった。
 部長もチヨも目を合わせてくれなかった。

 イチがけらけらと笑ってる。

 ……夏休みは、思っていたよりも規則正しい生活になりそうだった。

つづく。


「俺、ラジオ体操通うことになった」

「不審者だ」

 土曜日の昼過ぎ、つまり金曜日の次の日、俺たちは男三人で、机の上のポテトをつまみながら、どうでもいいような話に花を咲かせていた。咲いていないかもしれない。

「なんでラジオ体操?」

「罰ゲーム」

「へー」

 イケメン君は割とどうでも良さげに相槌を打った。聞いたのお前だろ。

「ふむ」

 大通りの、ちょっと奥の道にある、寂れているようで寂れていない喫茶店。

 明らかに俺たちに合わないような、静かな雰囲気。
 見つけたのは最近で、ユウキが突然、

「大通りの奥に、幼女が接待をする、すばらしい喫茶店がある気がする……」

と言って俺を連れ回した挙句、二時間かけて辿り着いた喫茶店だった。

 近道をすれば、交差点から十分で着く。

 ちなみに、接待をしていたのは気の良さそうなおじさんだった。


 なんで突然探そうとしたの、と聞いたら、「夢のお告げがあった」と言われた。
 これもユウキの奇行のうちに入るだろう。

「二人はなんか予定ある?」

「部活」

「彼女つくる」

 夏休みは忙しそうだ。ユウキなんか特に。

「あとあれだ、カブトムシ捕まえたいよな」

 ユウキは多忙だ。

「わかる、毎年カブトムシカブトムシって思いながら夏が終わるんだよな」

 イケメン君も、同じようなことを考えていたようだった。

 というか俺も捕まえようとしたことはある。
 去年はバナナ買うところまではいったけど、山まで行くのが面倒くさくて、結局家の庭にバナナを吊るしたら、よくわからない虫がいっぱい集まっていた。

 気持ち悪かった。

 触れなかったので、ねえちゃんに片付けてもらった。

「もうその『夏が終わる』って響きだけでノスタルジックな気分になる」

「わかる」

 喫茶店の入り口に掛けられた風鈴が、チリン、と音を鳴らす。
 振り返ってみると、エアコンの風が当たっただけだった。

「カブトムシって最近いるのかな」

「最近見てない」

「夏じゃなかったからな」

「じゃあ空飛ぶスカイフィッシュで妥協するかあ」と、ユウキ。

 難易度が跳ね上がった気がする。

「空飛ぶスカイフィッシュ」

「逆に飛ばないスカイフィッシュとか見たことねえわ」

 飛ぶスカイフィッシュは見たことあるのか。

「まあ結局、ただのハエだったんだけどな」

「探したのかよ」

「うん、真壁兄弟三人でカメラ構えて探した」

 一度会ってみたいものだ。ユウキの兄弟。


「え、真壁、兄弟いるの?」

 イケメン君が珍しく反応する。
 そういえば、同じクラスになってから兄弟の話はしていなかった。

「うん、弟が二人」

「奇遇だな、俺は妹が二人」

 イケメン君にも下の子がいるらしい。それは初耳だった。

「羨ましいな呪われろ」

 直接呪おうとしないところがユウキらしい。

 また風鈴が鳴った。涼しげな音色。

「なら、もし全員の兄妹が集まれば、この喫茶店、半分は埋まるね」

 イケメン君は、栗色の髪の毛を揺らして、店内を見渡した。
 地毛らしい。頭髪検査があるたびに先生に疑われるので「黒に染めようかな」と、最近話していた。

「集まる必要なくない?」

「確かに」

 そして俺たちが集まる必要も、特にはなかった。せっかくの休みなんだから。

 それでもなぜか、夏休みに入る前の最後の休み、と思うと、寝て過ごすのも勿体無い気がして、ふと呼びかけたら、全員ここへ集まった。

 何が勿体無いのかと聞かれると、なんと答えていいのかわからなくなるけど。

 でも三人ともここへ来たんだから、そこそこ同じような考えではあるんだろう。

「……することないな」

「うん」

 でも、集まったところですることも、話すことも、なかった。

「……帰るか」

「帰るか」

「帰ろっか」

「……誰がポテト代払う?」

 今日、俺たちが二時間弱粘ったのに対し、注文したのはコーラ三杯とポテト二皿だけだった。
 これならファーストフード店に行けばいいのでは、と思われそうだが、俺たちはあの雰囲気が苦手だった。

 だからそういう意味では、ここはちょうどよかった。

「前回はユウキが払ったな」

「学校帰りの時か」

 というか、休みの日に集まったのは初めてだ。
 いつもここに来るときは、学校が早く終わる日の、放課後なのがほとんどだった。というかこの喫茶店に来たのがまだ二、三回目。

「二人が払ったのか」

「まだ払ってないのお前?」

「俺だわ」

 俺だった。

「じゃあ会計してるから先行ってていいよ」

 ごちでーす、と椅子から立ち上がり、風鈴を鳴らして二人は出て行った。

 俺たちに気を遣ってくれたのか、マスター(俺たちはそう呼んでる、かっこいいから)はカウンターの奥の部屋に引っ込んでしまっていた。
 あの奥がどうなっているかは、見たことがない。見る機会もないと思うけど。

 すみませーん、と声をあげた後、手元にベルがあったことに気付き、念のため鳴らしておく。

 はーい、すぐいきまーす、と聞こえてきた声は、男性のものではなかった。女の子の声。

 少し驚いて、え、本当にユウキの言う通り……と思いかけたところで、その声が、どこかで聞いたことあるモノだと気付いた。

「すみません、お待た……」

 申し訳なさそうな、でも気さくな笑顔には、見覚えがあった。

 向こうも、ハッと固まっている。

「……先輩?」

「……コヨミちゃん?」

「迷惑でしたか?」

「そんなことないよ」

 喫茶店から少し歩いたところにある、小さな公園。そこのベンチに、俺とコヨミちゃんは座っていた。

「にしても、コヨミちゃん、バイトしてるの?」

「バイトというか……お手伝いです」

「お手伝い」

 会計の時、店員として出てきたのはやっぱりコヨミちゃんだった。
 まさかこんなところで会うなんて思わなくて、お互い、動揺した。

 が、冷静に考えれば高校生なんだからバイトしててもおかしくないし、俺が普通にお金を払うことに変わりはない。

 俺は三人で食べたポテトとコーラの代金を払った後、出口で待っていた三人と、トボトボと目的もなく歩き、十分程したところで、「……帰るか」とイケメン君がポツリと呟いたところで、解散した。

「また月曜日ー」と、暗に日曜日は会わないという事を言ってるかのような挨拶をした後、
 俺たちはバラバラの方向に歩き、俺は一人で公園に向かった。

 で、そこでコヨミちゃんからLINE。「今から暇ですか?」

 うむ。

 というわけで、たまに話す後輩と二人、暑い公園で、よくわからない雰囲気の中、
 蝉の鳴き声を聞くことになっていた。

 二人で自動販売機のやけに高いジュースを買って、ベンチでくぴくぴと飲む。


「こんなすぐ抜けてきて大丈夫だったの? シフトとか……」

「あ、妹に代わってもらったので大丈夫です」

「妹?」

「はい、中二と小学六年の妹が」

 まじか。会ったことない。

 そんな歳の子がいるなら、ユウキの夢のお告げも、あながち間違いでもなかったのかもしれない。

「まあお手伝いするは休みの日だけですし、お客さんが来れば、叔父さんがすぐに向かいますけどね」

 それでも、そんな小さな子がお手伝いなんて、珍しい気がする。

「いつからお手伝いしてるの?」

「こっちに引っ越してきた時、ですから……」

 コヨミちゃんがちらりと俺の方を見た。
 目があって、すぐ逸らされる。

「去年くらいからですね!」

「え、コヨミちゃん、そんな最近引っ越してきたんだ」

 俺がそう言うと、コヨミちゃんがえぇ……という顔をした。

 えぇ……

「……今中二の妹が、中学にあがるのに合わせてきたんです」

「あー、そういうこと」

 ということは、コヨミちゃんは中三で引っ越してきたのか。
 受験が始まる時期に転校なんて、環境が変わるから勉強も大変だろうし、修学旅行なんかも楽しみきれなかっただろうに。


「親の転勤でもあったの?」

「その……家の事情で」

 コヨミちゃんが、少し俯き加減に、呟くようにそう言った。

 ……ミスった。

 ごめん、と謝ると、「いえいえ、気にしないでください!」と、いつものようにおどけて敬礼のポーズをしてくれた。

 ……危ない。

「夏休みは、生徒会って何かあるの?」

 話題を逸らそうと、他の方向に話を振ってみる。

 コヨミちゃんはパッと顔を上げて、いつも通りの声音に戻って答えてくれた。

「夏休み入ってすぐと、最後の方は何回か学校に行かなきゃですけど、真ん中の方はずっと休みです!」

 コヨミちゃんはさして気にしていないような様子で(希望的観測かもしれない)、そう答えてくれた。
 よかった。さっきのは落ち込むような話題ではなかったようだ。少なくとも目に見える範囲では。

「そうなんだ」

 じゃあ、同じ生徒会役員の、ねえちゃんも、ってことか。
 なら晩御飯はいつも通りの時間。


「先輩は、清掃部でしたよね?」

「うん」

「清掃部って、夏休みも何かするんですか?」

「あー、今のところは、合宿……くらいかな?」

「え、合宿ですか」

 清掃部が? ……とでも言いたげな表情。

 合宿、なのだろうか、あの場合。

 まあ、部活動で泊まりがけをするんだから、合宿と言えないこともないだろうけど……部長の祖母の家を掃除するだけだから、部活動とも言い難い。

「……まあ、合宿じゃないとも言える」

「なんですかそれ」

 クスクスと、コヨミちゃんは笑いながら、缶ジュースの飲み口を口元に当てた。

 俺もジュースを一口飲む。うん、ぬるい。

 夏は冷たいジュースを買ってもすぐぬるくなるからいけない。ずっと冷たいままで保っておける缶でもあればいいのに。

 いや、いっそ、作るか。それで会社を起こす。お金入る。モテる。よし、そうしよう。

 ……暑いと、夢の中と大して変わらないようなことを考えてしまう。

 わんわんと響く蝉の声が、俺を嗤っているように聞こえた。

 たまに、頭の中を誰かに覗かれてないか不安になること、あるよね。

 ……俺だけじゃないよね?

「あ、ところで先輩」

 コヨミちゃんが、缶ジュースから口を離して、缶をベンチに置いた。

 カラン、と乾いた音が響く。

 もう飲み干したのか。

「明日……その」

 と、何かを言いかけて、コヨミちゃんは口籠る。右手は缶を握っている。

 蝉の声が響く。

「明日?」

 尋ね返すと、コヨミちゃんは「やっぱりなんでもないです!」と言って、勢いよく立ち上がった。
 ジャリっ、と地面を踏み鳴らして、こちらを振り返る。

 手に握られたアルミ缶は、少し凹んでいた。

「じゃ、私、妹達が待ってるんで、帰ります!」

 おう、またね、と言うと、コヨミちゃんは駆け足で公園の入り口に走っていった。

 俺は缶ジュースに口をつける。ぬるい。

「あ、コヨミちゃん」

 ふと、この間の帰り道を思い出して、走っていきそうだった背中を呼び止める。

「え?」

 キョトン、とした表情で、振り返るコヨミちゃん。

「……それ、持って帰ろうか? 俺の方が家近いし」

 と、右手に握られた、少し凹んでいるアルミ缶を指差す。

「……いえ、大丈夫です!」

 コヨミちゃんは、では! とおどけて敬礼のポーズをすると、曲がり角を曲がって、あっという間に、見えなくなってしまった。

 公園には、俺と、セミの鳴き声だけが残った。

つづ……けても大丈夫?
見てる方いらっしゃいますか?


 次の日は、セミの鳴き声の代わりに、雨の音が街を包んだ。

 部屋の中でも湿気が伝わってくる。

 でも、家に一人しかいないのにエアコンを使うのも、なんだか勿体ない気がした。

 リビングの窓の外に目をやると、庭の花壇に植えてある(もとい、生えている)ミントが、虫に食われた葉を雨粒に叩かれ、下を向いていた。

 ミントって、お菓子作りする人でもないと、それ程使い道がないんだよなぁ。香りが強いし。

 香りが強いといえば、この前、イケメン君が持っていた制汗剤もキツかった。
 なぜか、妹がプレゼントしてくれたから使ってみたらしいのだが、なんというか、ファンシーな雑貨屋みたいな匂いがした。

 男二人でイケメン君の周りに群がり、匂いを嗅いでは「うわキッツ!」というのを教室の隅で何度か繰り返す。
 今考えると、端から見れば異様な光景だっただろう。

 ふと、壁にかけてある時計に目をやると、短い針が一を指していた。もう昼過ぎか。

 そういえばまだ昼ごはんを食べていない。  

 家に何も食べるものはなかった。

 金曜日にカップラーメンでも買っておけばよかった、と今更ながら後悔する。

 コンビニでも行くか。

 小雨になっていたので、自転車でも行けそうな様子ではあったが、折角なので、暫く使っていなかった傘を使うことにした。

 玄関の鍵を閉めて傘を開くと、骨組みの部分が少し錆びていた。……まだ折れないよね?

 コンビニまでの、静かな道を歩く。小雨といえど、外出する気を削ぐ天気ではあったので、人とすれ違うことはなかった。車もあまり見なかった。

 途中で通る橋の上から川を見下ろすと、少し水位が上がっていて、河原が見えなくなっていた。

 今飛び込んだら流れすごいんだろうな。

 想像したら足元がヒヤっとした。

 案の定、コンビニにはあまり車は止まっていなかった。
 まあ、日曜日だし、雨降ってるし。

「やは」

 突然耳に飛び込んできた、聞き慣れた声に、傘を上げてみると、コンビニの軒下に、イチが立っていた。

 左手にコンビニのロゴマークが印刷された、ビニール袋。

 デジャビュ。なんか似たような光景を見たことある気がする。

 ……まあこんな光景くらいどこにでもあるだろう。

「何してんの?」

 傘を閉じながら、自動ドアが開かないようにイチの隣に立つ。

「傘ないからさ、待ってるの」

「傘忘れたの?」

「忘れたというか、うん」

「そうか」

 貸そうか? と、骨組みの錆びた傘を差し出すと、イチは首を振った。今日もポニーテール。

「ねえちゃんの傘に一緒に入れてもらうから」

 そう言いながら、イチがコンビニの店内を指差す。

「へえ、姉ちゃんいたんだ」

 仲のよろしいこと。
 でも、わざわざ狭いのに、同じ傘を使うことないのに。片方のは壊れでもしてるんだろうか。

「あぁ、いや、姉じゃなくてね?」

 納得しそうなところで、イチが口を挟んできた。

 ……姉ではない?

 聞き覚えのあるフレーズ。
クラスが変わったり、進学するたびに、俺がいつも言っているセリフだ。

「ってことは……」

 後ろで開く自動ドアを振り返ると、ビニール袋をぶら下げた女の子が、少し驚いた顔で俺を見ていた。
 ビニール袋の中はおにぎりが数個。

「あれ、何してんの」

「ねえちゃんこそ」

「あれ、知り合い?」

「話してなかったっけ?」

「初耳……」

 ねえちゃんが立っていた。

「というか、知り合いだったんだね」

「何というか、お互いね」

「お互いというか何というか」

 コンビニで適当に食べ物を買った帰り道、イチ、ねえちゃん、俺の三人で並んで、雨の降る道を歩いていた。

 俺が三人分の荷物を持って、二人が同じ傘に入っている。
 二人が入るんだし、食べ物が濡れると困るし。

「家が隣とか、漫画みたい」

 霧雨とも言えそうな小雨の中、イチはねえちゃんの隣で、そう呟いた。

「漫画みたいに部屋を行ったり来たりとかはないけどね」

 ねえちゃんがそう答えて、付け足す。

「というか玄関が一番入りやすいし」

「ね」

「ふうん」

 イチは適当に相槌を打つと、前を向いて、ねえちゃんに遅れないようにてくてくと歩いた。
 ねえちゃんは歩くのが速い。


「ところで、二人はなんかしてたの?」

 あまり見る組み合わせではなかったので(というか初めて見る組み合わせだ)、少し気になって、尋ねてみる。

 イチは手ぶらに見えた。

「ねえちゃんに、宿題手伝ってもらってた」

「……悪い人がいる」

「そういう意味じゃなくて、わからないところを教えてたの」

 ねえちゃんはため息をつきながら、俺の方を見てそう言った。
 イチがからからと笑う。

 それからは、くだらない会話をしながら、三人で家路を歩いた。
 雨が降っていたので、行きよりも靴は濡れていたけど、足取りはずっと軽かった。

 会話が途切れて、雨の音が響く。セミの鳴き声は、今日は休みのようだった。

「そろそろ部屋片付けた方が良くない?」

 ふと思い出して、ねえちゃんに尋ねる。

「あー、お願いしようかな」

「え?」

 イチが少し前に出て、ねえちゃんと俺を交互に見た。

「部屋片付けるって、誰の?」

「私の」

「ねえちゃんの家の」

 ねえちゃんと乙坂父は、放っておくとすぐ部屋を散らかす。
 本人たちは「散らかしてるんじゃなくて、使うから置いてるの」と言ってはいるが、明らかに使わないようなものも、リビングに置いてあったりする。

「……なぜ?」

 イチは眉の端を下げて、訝しげに尋ねてきた。

「習慣と言うか、そんな感じ」

 持ちつ持たれつ、だ。
 俺は掃除が嫌いではないし、乙坂家は掃除が苦手だ。そして、ねえちゃんは見られて嫌なものがあるようなタイプでもない。

「だから掃除してるの」

「ふーん」

 イチはちょっと不思議そうな顔をした。

 思えば、昔ユウキに話した時もそんな顔をされた気がする。
 いや、ユウキの時は「掃除はしないけど変わってくれ」と言われたんだったか。流石に目的が目的だったので、普通に断っておいた。たぶん冗談だろうし。

「なら私も手伝うー」

「いいの?」

「課題、かなり進んだしね」

 夏休みが始まる前から進めるとは感心だ。俺も急がねば。

「じゃ、ねえちゃんち帰ったらご飯食べて掃除」

「うん」

「助かる」

 家に着くと、そこだけは普通に片付いているダイニングで軽く昼食をとったあと、三人で部屋を片付けた。

 流石にねえちゃんの部屋は自分でやってもらうので、リビングだけだったが、服やら下着やらよくわからないストラップなんかが散らばっていた。

「だってお土産ってもらっても使うことないし」

 たしかに、微妙なデザインのストラップを貰ったところで、自分はその土地に思い出なんかない。
 使う気にならないのは少し共感できた。

「テレビ大きいなー」

 イチが羨ましそうに大きな壁掛けテレビを見ていた。
 たしかに、この家の電化製品は、なんとなくよさげなものが揃っている。
 乙坂父の稼ぎがよろしいのがよくわかった。

 だいたい片付いたところで、雨が止んだので、イチが帰った。

「また明日」

 また明日、とは、帰り際の寂しさを紛らわしてくれるいい言葉。

 明日も会える安心感。

 残っていた洗濯物をねえちゃんと二人で畳んで、タンスにしまうのをお願いしたところで、棚の前に落ちている写真立てに気づいた。

 拾い上げてみると、今より少し幼いねえちゃんと、小学生くらいの女の子が笑顔で写っていた。二、三年前くらい?
 背景には山が広がっている。田舎の風景。

「これ、誰?」

「あー、私の従姉妹」

 私に似て可愛いでしょ? と、冗談を言うねえちゃんに、写真立てを手渡す。

「最近会ってないなー」

「どこにすんでんの?」

「田舎」

「見りゃわかる」

 まあ遠いところだよ、と、ねえちゃんは写真を棚の上に戻した。

 それから、俺の家に移動して、簡単な晩ご飯を食べた。
 そうめん。すぐできて便利。

 シャワーを浴びて、ベッドに倒れ込む。

 目を瞑ると、一瞬で眠りに落ちてしまいそうだったので、明日の準備を軽く済ませてから、布団に包まった。

 夜は、雨も止んで、どこからか虫の鳴き声が聞こえてきた。ザ、夏の夜。

 明後日から、夏休みだ。

 その日はよく眠れた。

 翌朝、目が覚めた時、やけに長い夢を見ていたように感じた。が、内容は一切覚えていない。たまにあるよね、こういうこと。

 少し起きるのが遅れたので、急ぎめに制服に着替える。

 玄関を出た時、やけに軽いカバンに違和感を覚えた。

 いつもは教科書とか入ってるのに、今日はプリントを入れるファイルと、財布だけ。荷物が軽いと、なんだか遠くに行けそうな感覚になる。

 夏休み、せっかくだし、一人旅でもしようかな、と思った。青春18きっぷでも買って。

「どうしよう」

 教室に入ると、ユウキが不安そうな顔で近寄ってきた。

「カバン忘れた」

 忘れたのか。

「いや、今日はいるもんないし、と思ったら忘れてて……」

 でもまあ困ることはないんじゃない? と言うと、ユウキは安心したようにため息をついて、図書委員の子の席に座る。

「どういう状況で忘れたんだよ」

「弟と鬼ごっこしてたら……」

 彼はため息をついた。

「家の外に行けばいいのでは、と思って、一番下の弟を残してもう一人の弟と二人で逃げてきた」

 学校にか。
 そろそろユウキの親がかわいそうになってきた。

 教室の目線も、なんだかかわいそうなものを見る目になっていた。

「あ、おはよ」

 ユウキが教室の入り口に向かってそう言う。目線を向けると、いつも通りの荷物を持ったイケメン君が入って来ているところだった。


「今日そんなにいるもんある?」

「いや、部活の道具とかさ」

 部活動に入っていると荷物が増えて大変だ。

 ……そういえば俺も部活動に入っていた。危うく忘れそうになる。

「そういえば、今日坂道でカブトムシ見つけたよ」

「マジか」

 イケメン君が荷物を置きながら頷く。

 どこにいたんだろう。特に何があるわけでもないけど、せっかくなら見ておきたかった。

「見た?」

「見てない」

 俺は首を振った。
 ユウキも見てなかったようで、悔しそうに拳を震わせていた。

 そこまで?

 三人でワイワイと騒いでいると、いつも通りの時間にチャイムが鳴った。
 
 きいちゃんがやってくる。

「ホームルームを始めます」

 夏休み前最後の学校が始まった。

「じゃあね、皆さんもね、夏休みに怪我とか事故とかすることなくね、勉強もしっかりするように。
 夏休みが明けた頃にね、またここに全員が揃うことを、楽しみしてますからね」

 じゃあ、私からは以上です。

 校長先生がそう言って、ツヤのある頭を前に傾けると、一年生の方から「おぉー……」と声が聞こえた。

 ウチの高校の校長は、話が驚くほど短い。と言うよりは、伝えたいことを絞る。なるべく絞って、本当に必要なことだけを口で話す。

 他のことは、だいたいプリントなんかに印刷して、その他のプリントと一緒に配布する。

 確かに、その方が興味がある人は読むし、もともと話を聴かないような奴らは読まない。
 話を聴かない人までが、暑い中立っているよりは、よっぽど建設的だ。

 賛否はあるが、俺はこの校長のやり方が嫌いではなかった。

「では次に、生徒会長からです」

 そうアナウンスが告げると、先程まで校長がいた壇上に、会長が歩いて行った。

「夏休みですね」

 生徒会長は生徒会長で、短いわけではないが、決して退屈な話をする人ではなかった。

「そういえば去年、高校生の花火の音がうるさい、って、近所の方から苦情が来たんですよ」

 堅苦しい話し方はせず、砕けた話し方をする会長は、他学年からも人望を集めていた。
 集合してもなかなか並ぼうとしない時でも、この人が指示を出すと、だいたいみんな言うとおりに動く。

 会長はあんな人でも、できる人ではあったのだ。

「だから今年のウチの高校は、線香花火だけにしましょう」

 壇上から、少し冗談めいた口調で会長がそう言うと、生徒の三分の一くらいが、困ったように笑った。

 悪くない雰囲気。集団の前に立つと、会長はすごい人だった。
 部長の前に立つとヘタレなのに。勿体無い。

 でも以前、部長は、「人前であんだけ話せるってすごいよなぁ」と、会長を褒めていた。

 彼のいないところで、だけど。

 生徒会長の話が終わると、なんのために歌うかよくわからない校歌を、全校生徒で歌ったり聞き流したりして、それぞれの教室に戻った。

 帰り際、女子の先輩と一緒に話していた、部長に出会う。

「暑いねー、熱中症で倒れるかと思ったよ。あ、今日は部活ないからね、部室来ても誰もいないと思うよ」

 わかりました、と頷くと、そそくさとその場を離れる。

 知らない女子の先輩はなんだか苦手です。

 自販機の前で、ナナコを見かける。

 今部長に言われたことを伝えようと思ったが、こちらに気づいてないのか、下を向いて早足で文系棟の中に入っていってしまった。

 他に特に用があるわけでもないし、まあ後でもいいか。

 廊下を歩いていると、涼しい廊下に、いつもより大きい気がするセミの声が、細く響いていた。

 教室に戻ると、きいちゃんから配られた配布物で、ファイルが一杯になった。
 手ぶらで来なくてよかった。

「犯罪だけはしないでね」

 きいちゃんからの切実なお願いだった。

「じゃあ、夏休み楽しんでください」

 その一言で、夏休みが始まった。

 夏休みに入ったその日の、学校の雰囲気。

 透明感があるというか、すっきりしているというか。
 みんなの目に輝きが見えた。

 が、だからと言って夏休みに入ること以外に変わりはない。

 いつものように、ユウキはふらっとどこかへ消えて、イケメン君は部活に行った。
 隣のクラスのチヨは、理数科だけの進学講座みたいなのがある、と言って、また講堂に集合していた。

 進学。考えただけで頭が痛くなる。

 なんとなく誰かと話したくて、部室に向かってみたけど、残念ながら、扉の鍵は閉まっていた。

 当たり前だ。さっき部長もそう言ってたし。

 誰か知り合いと出会うことを期待しながら、下駄箱から校門へ向かう。
 あわよくば、一緒に帰る人を捕まえたかった。

 と、見慣れた後ろ姿。
 先輩後輩に見える。ポニーテールが揺れていた。

「やは」

「どうも」

「おう」

 イチとナナコが並んでいた。


「ちーちゃん見てない?」

「進学講座だって」

「なるほど」

「明日からラジオ体操だね」

「あ、忘れてた……」

「ふふふ」

 少し、二人の邪魔をするのは悪いかな、と思ったけど、二人はすんなりと俺を会話に入れてくれた。

 なんというか。

 こそばゆいというか、くすぐったいと言うか。

 慣れない。
 人との距離感をつかむのが、あまり得意じゃないんです、僕。

 よくよく考えてみれば、俺は集団の中に自分から入っていくことが、あまり得意ではない。

 教室では、いつもユウキがくだらない話を切り出すし、イケメン君が不思議なことを呟いてたりして、それに俺が返事をする。

 部室に行った時も、自分からするのは挨拶くらいで、話しかけられるのを待っている。

 なんだかなぁ。

 別に、それで困っているわけではないのだけれど。

 感覚的に、餃子のタレの中に、ラー油を入れる、みたいな。
 油ってどれだけ混ぜても解けないよね。あんな感じ。

 ……わかりにくいな。

 つまり、そういうことだった。

 三人で並んで、紫陽花の並んでいる坂道を歩く。
 季節外れ。というか、もうほとんど咲いていない。

 背中で聞こえるグラウンドの声は、心なしか、いつもより楽しそうに聞こえた。
 遠くの方から少し聞こえてくる、プレクトラムアンサンブル。

「あっつーい」

 イチが胸元をパタパタと仰ぐ。

「暑いですねぇ」

 ナナコが気の抜けた返事をする。

「夏だからな」

 流れを汲んで、俺もぽつりと呟く。

 ここはこれで合ってるはず。
 ……なんて、最近は考えなくても、よくなってきたんだけど。

「それに、夏休み始まりますし」

「夏休みかぁ」

 少し前を歩きながらそう呟いたイチは、思いの外あまり楽しそうではなかった。

「夏休み、好きじゃないんですか?」

 同じことを感じたのか、ナナコがイチを見上げて尋ねる。

「んー、好きじゃないわけじゃないけどさー……」

 イチは、何か、言いあぐねているようだった。
 というよりは、言うかどうか、迷っている。

「ナナコはどうなの?」

「私ですか?」

 歩幅が短いので、俺たちより少し早足のナナコが、今度は俺を見上げる。

「私はほとんど家の手伝いですからねー、嫌いじゃありませんけど」

「……家の手伝い?」

「はい、お店をやっているので」

 お店の手伝い、と言えば。

 コヨミちゃんもそうだった気がする。

 もしかして。

「……ナナコって、妹、いたりする?」

 もしそうなら、偶然というか、不思議なことになる。

「いえ、弟ならいますが……」

 力が抜ける。
 まあ予想通りといえば予想通りだが、ちょっぴり残念でもあった。

「どうかしたんですか?」

「いや、こっちの話」

 そうですか、と返事をすると、ナナコは興味なさそうに前を向いた。

 イチは落ち着かなさそうにポニーテールを撫でている。

 黙って歩く。

 自転車置き場までくると、ナナコが「今日私チャリなので」と言って、自転車の群れの中に飲み込まれていった。

 手を振って、イチと二人で歩く。

 黙って歩いていると、いつの間にか、俺の方が少し前を歩いていた。
 いつもは俺の方が遅いのに。

 振り返ってイチを見ると、はっ、と顔を上げて、横に並んだ。

「どうかしたの?」

 悩み事でもあるのかと、一応声をかける。

 ここで悩み事を明かされても、自分にはなんとかする技量なんて、残念ながらないんだけど。

「あー、えっと……鍵、忘れちゃって」

「鍵」

 技量がどうこうの問題じゃなかった。

「きょうだいとかいないの?」

 いれば、今日は帰るの早いし、鍵は開くと思うけど……

「……いない」

 詰んだ。

「……どこか寄って、時間潰すか」

 そう提案すると、イチはこくんと頷いて、また歩き出した。

 少し歩調が遅くなったので、それとなく合わせると、いつもより景色がゆったりと流れて見えた。

 昼前の日差しを、川がしつこいほど反射する。
 土手沿いに並ぶ桜の木から、耳をつんざくようなセミの鳴き声が響いた。

 セミの鳴き声ってかなり大きいはずなんだけど、何故だか、耳を塞がなくても平気。
 なんでだろう。そういう音波とかあるのかな。

 俺の家とは反対方向になるけど、なんとなく流れで橋を渡って、どちらからともなくコンビニに寄って、適当に飲み物を買ってまた歩く。

 イチはいつも通り、紙パックのいちごオレだった。

 公園に入る。
 誰も人はいなかったので、木陰になっているベンチに並んで座った。

 ここでも、やっぱりセミの声は響いていた。まるで頭の中から直接聞こえているような音量。でも、嫌いではなかった。

 公園の隅にある、こじんまりとした遊具は、太陽の熱で陽炎が見えた。
 卵とか落としたら少し焼けそう。

「暑いね」

「暑いな」

 ゆっくりとジュースを飲む。

 同じ値段で買っても、急いで飲むより、ゆっくり飲むほうが得しているような気分になる。……なんか嫌な奴みたい。

 セミの鳴き声に混じって、鶯の鳴き声が聞こえてきた。

 姿は見えないけど、公園のどこかにはいるらしかった。どこから聞こえてるんだろう。

 いつの間にか、二人とも黙り込んでいる。

 こんな時に、気の利いた、面白いことが言えれば良いのに、と思った。

 俺は、もともとあまり話せる奴でもないし。

 ねえちゃんといる時ですら、だいたい話を切り出すのはねえちゃんだ。

 ユウキは普通にこういうのは上手だし。
 イケメン君も、話そうと思えば話せる人だ。部活では後輩とよく話してるし。

 なんだかなぁ。

 劣等感。

 勝手に劣等感を抱かれている人達からしたら、迷惑かもしれないけど。

 なるべく、会話が続くように努力はするんだけど、なかなか上手くはいかない。

 今年の夏は、それを直そう。

 でも、去年の夏はほとんど人と会わなかったし、今年もそうなら、
 直すのは無理かもな。

 セミの鳴き声が、俺を笑っているようにも聞こえた。頭の中を覗かれているような。

 自意識過剰。

 口をつけたジュースは、もうぬるくなっていた。

「……どうかした?」

 イチが、ポニーテールを揺らして、顔を覗き込んでくる。

「なんでもない」

 ……なんでもない。

 遠くから聞こえてきた子供の笑い声が、どこかふわふわとしていて、夢の中を歩いているような錯覚を抱いた。

つづく。


 翌朝、目が覚めた時、イチとの賭けに負けたことを思い出した。

 ラジオ体操。

 別にラジオ体操が嫌なわけではないが、夏休み初日の朝っぱらから負けたことを思い出すのは、出鼻を挫かれたような、複雑な気分になる。

 が、前々から朝の時間を使って運動をしたい、と思っていたので、いいきっかけではあった。

 軽く運動ができるような服装はないか、とタンスをひっくり返してみる。
 しかし、残念ながらジャージなんて便利なものは、中学校の指定のモノくらいしか持っていなかった。かなりキツイ。

 仕方ないので、普通にいつもの私服に着替えて、靴を履く。

 運動する格好ではないな。まあ、ラジオ体操だし、そこまで動くことはないだろう。

 朝の空気は、予想の倍以上に澄んでいた。なんというか、無駄なものがない、というか。透明に見えた。

 どこかで鳴いている鳥と、起きたばかりのセミの鳴き声を聞きながら、公園までの道を気分よく歩く。

 誰ともすれ違わないので、本当にラジオ体操あるのかな、と不安になる。

 だが、荷物がないぶん、学校に行く時よりも足取りは軽かった。

 昨日も来た公園の前で足を止めると、予想に反して、思ったよりも人はいた。

 ……が、全員小学生。

 俺ここにいちゃいけない気がする。

 うん、帰ろう。一応来るには来たんだし、イチもわざわざ確認したりしないだろう。
 朝のジョギングにもなったし。

 踵を返して元来た道を戻ろうとした時、後ろから声がかけられた。

「すみません、ここから一番近い高校はどこですか?」

 振り返ると、大きな水色のキャリーバッグに、小学生くらいの女の子。
 少し大きすぎる、麦わら帽子を被っていた。

「……え?」

「ですから、一番近いところにある高校を教えてくださりませんか?」

 慣れていないような敬語だった。
 白いタンクトップに、短パン(ジーパンのやけに丈の短いやつ。なんていうんだろう)。
 どこか見覚えのあるような顔をしていた。

「えっと……よかったら、送っていこうか?」

 こんな時間から、キャリーバッグを引きずって道を尋ねる……恐らく、旅行というよりは、家出だろう。

「いえ、道を教えていただけるだけでいいです。もう六年生なので」

 知らない人に簡単に歳を教えちゃダメだぞ。

 が、ここで何か余計なことを言って、胸元の防犯ブザーを鳴らされると非常に困るので、大人しく簡単な道のりを教えた。

 警察に届けようかとも考えたが、もし仮に家出だとしても、これだけの荷物を持って、防犯ブザーも用意してるくらいだし、少々心配はいらないだろう。

 教えた道は、これから通学や通勤で人通りが増える道路だ。

「……覚えられる?」

「覚えられる……です」

 それはよかった。

 覚えられるというのなら、それを信じよう。別に、俺に止める義務なんてない。

 いつか、誰かが言っていた気がするーー小学生でも、物事を本人なりに考えた上で行動してるんです。

 女の子は、ありがとうございます、と小さな頭をさげると、体に似つかわしくない大きなキャリーバッグを転がして、曲がり角の奥へ消えていった。


 一番近い高校、というのは、言わずもがな、俺たちが通っている学校だった。
 あんな歳(小六と言ってたっけ)の子が、高校に何の用があるんだろう。

 もしかして、あまりにも勉強ができすぎて、高校に編入したい、とでも言うのだろうか。
 だとしたらあの子は天才なのか。羨ましい限りだ。

「やは」

 ……さて、そろそろ家に帰るか。無駄に居座って、これからここを通る人の邪魔になってはいけない。

 公園を背に、そのまま歩き出そうとすると、背中を強めに突かれた。

「……今なんで無視した」

「朝から同級生に会うなんて、幻聴なのか、と思いまして……」

 振り返ると、少し不貞腐れた顔のイチが立っていた。
 七部丈のジャージのズボンに、同じくジャージの半袖の上着。
 頭の後ろについているポニーテールは、いつもより少し上の方に付いていた。

 ……がっつり運動する格好。

「何してるの、始まっちゃうよ?」

「いや、それより……」

「なにさ」

「……なんでイチまで?」

「だって、ちゃんと来てるか、確認しないとだよ」

 どのみちお互い罰ゲームじゃないか。

 そう言い返そうとしたが、イチは当たり前のような顔をして公園に向かうので、黙って付いて行った。
 よく見ると、ジャージも真新しいものに見えた。着ているというより、服に着られてる。

 公園に入ると、いつも座るベンチの真向かいにある、少し小高くなっている場所に、子供会の班長か何かだろうか、しっかりしてそうな子がラジオをセットして準備をしていた。その周りに、ちらほらと七、八人。

 あの中に入るのか、と気後れしていると、イチがベンチに腰掛けた。

「ここでしようよ」

 ああ、なるほど。
 確かに、言われてみれば、(数回だけ行ったことのある)ラジオ体操の記憶の中では、近所の年寄りなんかは、少し後ろの方で体を動かしていた覚えがある。今はいないけど。

 ここなら問題ないな。

 納得していると、班長の子が、ラジオのスイッチを入れた。
 イチと少し距離をとって、ノイズの混じった声に従って身体を動かす。

 実際に動いてみると、覚えのある動きばかりだったので、昔はやってたんだなぁ、としみじみ感じた。

 不規則なセミの声を聞きながら、規則正しく体を動かす。

 思ったよりも息が切れて、ズボンのベルトで腰の骨が痛かった。これならもうちょっと伸びる服の方がいいな。

 予想以上に体力を使うラジオ体操を終えた後、スタンプを貰う子供達を背に、二人で公園を出て、あたりをぶらついた。

「今日なんか予定ある?」

 イチは、いちごオレのストローを伸ばしながら答えた。

「特にー、家には誰もいないかな」

「そっか」

 そのまま特に会話もなく、晴れた朝の川面を、橋の上から眺め下ろしていた。
 朝日が反射して眩しい。

「あ、ねえちゃんからLINEだ」

 イチがそう言いながらスマホを取り出したので、俺のスマホも見てみると、二分前にメッセージが届いていた。……全然気付かなかった。

『ちっさい女の子みなかった?』

 ちっさい女の子。
 一瞬、さっきの麦わら帽子の女の子が頭の中をよぎる。

『どんな?』

『服装はわかんないけど、小学校中学年くらい』

 返信はすぐに来た。

 隣のイチに目をやると、同じ、というような表情で、スマホの画面を見せてきた。

『ちっさい女の子見てない?』

『どうかしたの?』

『従姉妹の女の子が家出して私の家に来ようとしてるらしいんだけど、私の家、どこにあるか知らないはずなんだよね』

 イチの質問に、ほとんど俺への返信と同じタイミングで返信をしていた。

 打つの早え。

 それにしても、家出って。

 ……家出。
 麦わら帽子の女の子、キャリーバッグ。

 ねえちゃんの家を知らないけど、家出をしてこの近くまで来ている、従姉妹。
 道がわからないので、高校までの道のりを教えて欲しい、と、麦わら帽子の女の子。

「……俺、さっき見たかも」

「え?」

 麦わら帽子の女の子は小学六年生、と言っていた。
 ねえちゃんが探しているのは小学校中学年くらいの女の子。

 こんな夏休み序盤から家出をするような子なんて、そうそういないだろう。

『歳、いくつ?』

 返信はすぐに来た。

『背が低い十二歳』

 十二歳。十二歳といえば、誕生日が早めの子であれば、小学六年生か。

「…………」

 ストライク。

 ねえちゃんの従姉妹、学校に送ってしまった。

『今学校にいるかも』

『なぜ……?』

 ……理由は後で説明しよう。とりあえず、迎えに行かねばならまい。
 ねえちゃんが探している、ということは、従姉妹の女の子の親から連絡があった、ということだろう。

 それに、学校から移動してしまえば、もう居場所はわからなくなる。

「イチ、学校行こう」

「夏休み初日から?」

 高校生ですから。

 スマホをポケットにしまって、早足で学校に向かう。
 イチは少し立ち止まってねえちゃんに返信を送った後、駆け足で後ろから付いてきた。

 学校には、夏休みだというのに、思ったよりもたくさんの人がいた。

 イチに麦わら帽子の女の子の服装を簡単に教えて、校門で別れる。

 まず、グラウンドでイケメン君。

「麦わら帽子被った、水色のキャリーバッグ運んでる小学生くらいの女の子みなかった?」

「見てないよ」

 部活をしていて、校門の方には目を向けてなかったらしい。

カブトムシなら今朝見かけたけど、とイケメン君は付け加えた。
 カブトムシに好かれてるのか。

 礼を言って、そこを立ち去る。

 下駄箱で、ユウキに出会う。

「麦わら帽子で、水色のキャリーバッグ持ってる、小学生くらいの女の子みなかった?」

「ぜひ出会いたいくらいだけど、ここは小学校じゃないね」

 まあ確かに。
 高校で小学生を探すというのも変な話だ。

 なんでここにいるのかはわからないが、礼を言って、校舎の中に入る。

 廊下で、図書委員の女の子に出会う。

 あんまり話したことはないけど、一応知り合いだし、尋ねることくらいはできる。

「麦わら帽子の、水色キャリーバッグ持ってる女の子みなかった?」

「見てない……な」

 そもそも直前まで委員会があったらしい。
 お疲れ様です。

 また見かけたら連絡をする、と言ってくれたので、助かります、と他の場所へ向かう。

 またしても廊下で、今度はきいちゃんに出会う。

「夏休み初日から廊下を走り回るほど学校が好きだったのね」

 あらぬ誤解をされてしまう。

「いえ、女の子を探していて……」

「女の子?」

 きいちゃんが怪訝そうな顔をする。

「はい、麦わら帽子の、水色キャリーバッグを持って家出をしている女の子です」

「……悩みがあるならなんでも聞くからね」

 きいちゃんは肩をぽん、と叩くと、職員室へ入ってしまった。
 ……次会った時は、きちんとねえちゃんから説明をしてもらおう。


 他に知り合いがいないか考えて、自分の友達の少なさに愕然とする。
 ほとんど同級生の知り合いなんていないな。

 先輩や後輩なら、まだ……

 生徒会室に向かって、会長とコヨミちゃんに出会う。

「お久しぶりです!」

「久しぶり」

 コヨミちゃんは元気そうだった。久しぶりってほどでもないけどな。

「どうかしたか?」

 会長が飴を投げながら尋ねてくる。

 キャッチして、事情を話す。

「麦わら帽子の水色キャリーバッグを探していて……」

「ちょっと何言ってるかよくわからないな……」

 会長が困ったように頬をかく。

 コヨミちゃんも不思議そうな顔をしている。

 少し考えて、言葉足らずだった、と咳払い。
 説明を付け加える。

「えっと、ねえちゃんの従姉妹がこの辺りで迷子になってしまって、この高校に来てるはずなんです。
 もしそれっぽい子見かけたら、連絡してもらえると助かります」

 二人はなるほど、と頷いた。わかってもらえてよかった。

 では、と生徒会室を出ようとすると、コヨミちゃんが、ご一緒しましょうか? と立ち上がった。

 別に、二人いたからといって、大きく変わることはないだろう。

 遠慮しとくよ、ありがとう、と礼を言って、生徒会室を立ち去る。

 会長は困ったように笑っていた。


「緊急事態」

 ねえちゃんは口を開いた。

「従姉妹が家出をしてしまった」

 イチと俺はうん、と頷いた。

 校外から、ランニングをしてきたであろうサッカー部が、走りながら校門を通り抜けていく。
 学校の周りを走ってきたのだろうか。暑いのに頑張るなぁ。

 あれから、学校中を探し回ったが、女の子を見た、という人は一人もいなかった。
 イチの方も収穫はなかったらしい。

 ねえちゃんが学校に来たので、イチと合わせて三人で、校門のそばの石に並んで座っていた。

「いや、前から田舎から出たい、とは言ってたんだけど、まさか電車でここまで来るなんて……」

 ここも十分田舎だけどな。
 というか小六の女の子が、田舎が嫌、って。
 まあ気持ちがわからないわけではないけど……

「なんでウチの駅で降りたの? もう何駅かいけば、街中に出るのに……」

 確かに、ここから電車で一時間ちょっと揺られれば、地方都市の街中に出る。
 そこまで行けば、高い建物もあるし、歩き回っても畑なんて見当たらない。

「私が住んでるのがわかってたから、一緒に住まわせてもらおうと思った……とか、かな」

 ねえちゃんは目線を彷徨わせながら、左手で髪を耳にかける。

「…………」

 焦っている時の仕草だ。

「でも、小学六年生の子がどうやって住所を調べたの……?」

 イチの質問に、ねえちゃんは首をかしげるだけだった。

 が、今はそんなことはどうでもいい。

 田舎とはいえ、その女の子からすれば、初めて来た土地だろう。
 俺たちにとっては慣れ親しんだ簡単な道でも、女の子にとっては巨大な迷路だ。早く見つけてあげないと。

 ねえちゃんは一見、いつも通りの淡々とした様子に見えるが、よく見ると、明らかに動揺している。
 髪は整っていないし、目線が落ち着かない。

 まあ無理もないだろう。十二歳の女の子が、自分を頼って電車に乗ってここまで来たのに、迷子になってしまって、連絡を取る手段すらないのだ。

 誰だって焦る。

 どうにかしないと。

 そわそわしているイチに目配せをして、もう一度探しに行こうと、立ち上がる。
 イチにはねえちゃんと一緒に行動してもらおう。焦っている人は一人にはしておけない。

 と、ねえちゃんに声をかけようとしていると、後ろから声がかけられた。

「おーい」

 イケメン君だ。


 他のサッカー部と同じように、ランニングをしてきたのか、少し汗をかいている。

 ……の、少し離れた後ろに、女の子が一人。

 麦わら帽子に、水色のキャリーバッグ。

 ねえちゃんが、あっ、と声を上げる。

 女の子はこちらを見ると、はっと驚いた顔をした後、ほっと気が緩んだ表情に変わった。

 ねえちゃんが立ち上がって、一瞬、走り出しそうになった後、早足で女の子の元へ駆けていく。

 女の子はどうしたらいいかわからないようで、視線を彷徨わせながら、麦わら帽子の向きを整えた。

 ねえちゃんが女の子の前に立って、片手を振り上げる。

 その肩は、少し震えていた。

「あ」

 イチが思わず声を上げる。

 女の子が肩を竦める。

 イケメン君が焦って止めようとする。

 が、間に合わず、ねえちゃんは、女の子にむかってーー手を、頭の上に、ポン、と置いた。

 女の子は、叩かれると思っていたのか、拍子抜けしたように肩の力を抜いていた。

 イチとイケメン君が、ほとんど同じタイミングで胸をなで下ろす。
 俺もそうだった。

 よかった……ここでビンタなんてされたら、どんな顔をしたらいいかわからなくなってしまう。
 一回目を離してしまった、俺にも責任はあるわけだし。……後で謝っておこう。

 ねえちゃんはぐりぐりと麦わら帽子を撫でた。

 その後、ねえちゃんは、女の子の親に連絡を入れて、家へと帰った。
 とりあえずは見つかってよかった。

「家に帰ったらお仕置きタイムだよ」

「えー……」

 本当にえー、という顔をする女の子の頭を、ねえちゃんが軽く叩いた。麦わら帽子がずれる。
 肩を落としてキャリーバッグを引きずる後ろ姿が、ねえちゃんそっくり。

 イチは、ちょっと用事、と、校舎の中へ消えていった。

 イケメン君と並んで、さっきのお礼を言う。

「外周走ってたら、チャリ置き場の辺りでウロウロしてたの見つけてさ」

 もしかしたら、と思って、連れてきてくれたらしい。

「声かけるの緊張したよ」

 そう言って、遠慮がちに笑った後、彼は部活に戻った。

 ランニングのついでに、迷子の女の子を助ける。
 やっぱりイケメン君は、することもイケメンだった。

「見つかってよかったですねー」

 不意に声をかけられて、振り向くと、校門の上に、制服を着たこなたが座っていた。

「危ないよ」

「おっとー、これは失礼」

 こなたは、まるで足と地面が、磁石のように引き合っているかのように、滑らかな動きで地面に降りた。

 肩まで伸びた髪をなびかせながら、こちらに歩み寄ってくる。

 ……あれ? どうしてこなたは見つかったことを知ってるんだろう?
 さっきあの場にいたっけ?

「……見てたの?」

「嫌だなぁ、いませんぱいが話してくれたじゃないですかー」

 話したっけ。
 そもそも、女の子を探していたことも……

「せんぱい、校舎の中を走り回ってる時、渡り廊下で、こなたにも尋ねてきたでしょー」

 そう言われてみれば……そんな気がする。

 なるほど、渡り廊下からなら、校門のあたりを見渡せないこともない。
 だから見つかったのも知ってたのか。

 納得。

「よかったです」

 こなたも納得したようだった。

 なんか、以前もこんなことがあった気がする。なんでだろう。二周目感。

「そういえば、せんぱい、ラジオ体操は行きましたか?」

「行ったよ、思ったより疲れた」

「はは、ですよね」

 あれって案外長いんですよねー、と、こなたは笑った。
 たしかに、思ったよりも長かった。

 それからしばらく、こなたとくだらない話をしていた。
 本当に、大した中身もない井戸端会議。

 こなたと話していると、ずいぶん古い友人と話しているような気分になる。俺、いつからこなたと知り合いなんだっけ。

 出会ったときのことは覚えているけど、どういう状況だっだか、細かく聞かれると、ふわふわとしていることに気付く。

「では、またいつかー」

 そう言って、こなたは消えた。

 なんか、不思議な気分。でも、もやもやとはしなかった。
 もうすでに解決している、そんな気分。

 家に帰ると、空が少し曇り始めていた。

 何も植えていないプランターの裏に置いてある鍵を取り出して、玄関の扉を開ける。

 人気のない家に向かってただいま、というと、なんとなく寂しくなった。

 なんだかなぁ。

 夕方頃、夕飯の用意をしていないことに気づく。

 リビングのテレビは、主婦向けの通販番組を垂れ流していた。ウォーターサーバー。
 なんとこれ、冷水、熱湯に加えて、常温のお水も出るんですよ! と男性が紹介している。
 それなら水道水でいいじゃん。

 そういえばあの女の子は、どうしたんだろう。今頃親に連れられて、家に帰っているところだろうか。

 無責任だけど、なんとなく可哀想な気がした。
 夏休みだから、ってのはよくわかるし、旅してみたい気持ちもよくわかるし。
 まぁ、本当に無責任なんだけど。

 やるせなくなって、ウォーターサーバーをこれでもか、と褒めちぎるテレビの電源を落とした。

 スマホでaikoのカブトムシを聴く。

 なんだか気分が乗らなくて、すぐに止めた。

 時計の針の音が響く。

 喉が渇いたので、冷蔵庫を開けてみたが、残り少ない麦茶以外、何も入っていなかったので、水道水をコップに入れて飲んだ。

 ぬるい。
 ウォーターサーバー、買おうかな。

 なんと常温のお水も出るみたいだし。

 ソファに座って、ぼーっと窓の外を眺める。
 夏の昼は長い。まだ外は明るかった。

 そういえば、課題、やならいと。読書感想文とか、放っておくと後々面倒になる。

 と、玄関から話し声。

 母が早く帰ったのと思い、おかえりーと声をかける。
 が、返ってきたただいま、という声は、ねえちゃんの声だった。

 続いて、おじゃまします、と聞き覚えのある声。

 ……あれ?

 立ち上がって、玄関まで迎えに行く。

 ねえちゃんと、例の女の子が並んで立っていた。

「夏休みの間、ちょっとだけ、こっちに泊まることになった」

「お泊り」

 ……女の子の親から、お許しが出たということだろうか。

「ちょっと長めになるけどね」

「お世話になります!」

 すっかり元気になった女の子と、いつも通りのねえちゃんを交互に見て、なんだか笑いが出る。

「なんで笑った」

 並んで立つとそっくりだ。

「いや、なんとなく」

 女の子がクスクスと笑う。
 
 なんにせよ、見つかってよかった。

 その上、すんなりと(怒られたかもしれないけど)お泊りも許可がおりて、女の子の冒険も無駄にならなくて済んだし。

 女の子はちょっとだけそわそわしながら、遠慮がちにねえちゃんの後ろについて、リビングに入っていく。

 でもまあ、なんというか。

 こっちまでワクワクしてくる。

 普段と違うことが起きると、夏休みなんだな、と実感する。

 外では、相変わらずセミが鳴いていた。

つづく。

 翌朝、起きてからリビングに行くと、まだ五時半だった。

 はええ。老人かよ。

 でも、外では昼と変わらないくらい、セミが大声で鳴いていた。
 これで目が覚めない人がいる、って、よく考えたらすごいよなぁ。こんなに大声で鳴いてるのに。

 カーテンを開けて、しばらく外を眺めていると、時間がもったいない気がして、とりあえず顔を洗う。
 服を着替えて、ラジオ体操に行く準備をする。
 といっても、スマホと財布くらいしかいらないけど。

 ちょっと早めに出て、散歩でもするか。

 靴を履いて、玄関の戸をそっと開ける。
 と、玄関先に女の子が立っていた。

「おはようございます」

 おはようございます。随分と早いね。

 聞くと、目が覚めてしまったのはいいが、ねえちゃんはまだ起きない上に、
 今日は生徒会で学校があるそうなので、俺に相手してもらおう、ということだった。

 スマホを見ると、一応ねえちゃんから連絡は来ていた。

『むむたを贈る。ひと夏のアワァンチュールを提供したげて』

 とのこと。
 寝ぼけながら打ったんだろう。単語がめちゃくちゃだ。

 アワァンチュールとはアヴァンチュールのことだろうか。俺は小三の女の子を相手に何をするんだ。

 あと、『むむた』。女の子の名前だろうか。多分これも、打ち間違えてるけど。

 そういえば名前、まだ聞いていなかった。

 女の子の方を見ると、来たのはいいが、たいして話したこともない高校生相手に、どうすればいいか戸惑っているようだった。

 麦わら帽子の向きを整えている。

「……とりあえず、ラジオ体操行こうか」

 間を持たせるために、一先ずこれからの予定を伝えた。

「朝はこっちもやることは変わらんのんじゃね」

 女の子は拍子抜けしたように答えた。
 ……方言的に、住んでいるところはここからあまり遠くはないようだった。

 まあ、ここも大概田舎ですし。
 朝から遊べるお店なんて空いてないですし。


 女の子……いつまでも女の子、と呼ぶのもどうかと思うので、ムギちゃんと呼ぶことにする。
 麦わら帽子がやけに似合っているので。

 ムギちゃんと並んで公園へ向かう。

 ムギちゃんは俺の少し離れた左側をついてきた。こうして横で歩かれると、ちょっと可愛い。変な意味じゃなく、純粋に。

「お兄さんは、お姉ちゃんと結婚するん?」

 唐突に尋ねてくる。

「しないよ?」

「え、でもあれみたいな、あの……い、いず……」

 許嫁か。
 いや、違うけど。

「だって、一緒にご飯食べてるし、家事とかも……」

 ……その辺りの事情は、なんというか、そうなるべくしてなったのだ。お互い、家庭の中に足りないものを補い合う感じで。

 が、ムギちゃんにそんなことを説明しても仕方あるまい。

 当たり障りのない返事をしておこう。

「結婚する候補だよ」

「わお」

 発言してから、当たり障りのありまくる表現をしていることに気づいた。

 ムギちゃんは嬉しそうに目を輝かせている。そういう話が気になりはじめる年頃だよなぁ。

 ただ、その安易な発言のおかげで、ムギちゃんと俺の間にあった壁が溶けたようで、話すときの距離感は少し縮んだ。

 お互いのことを聞き合う。
 家の周りのこととか、学校のこととか、友人のこととか。

 ムギちゃんは俺の話を聞いて目を輝かせた。徒歩で学校に行けるのは羨ましいことらしい。

「たまに近所の男の子がもぐら捕まえとるよ」

 ムギちゃんの話も、俺からすれば少し楽しそうだった。子供が少ないから地域みんなが仲良しだったり、夜中に普通に猪や猿が出たり。
 一番近い店が、歩いて一時間弱の酒屋らしい。
 なんか物語の世界みたいだ。

 公園に着いたのは、早めに出たにもかかわらず、昨日と同じ時間だった。

 イチと出会う。

「この人もお嫁さん候補?」

 そんな言い方するんじゃありません。

「なんの話?」

「この子と結婚について話してた」

「まじか」

 ムギちゃんはクスクスと笑っていた。

 三人で並んで、少し小さめの音で流れるラジオの声に合わせて体を動かす。
 ムギちゃんのタンクトップからチラチラ袖の中が見えて、気まずかった。

 ……小学生だからね?

 体操が終わると、三人でジュースを買って、ベンチでセミの声を聞いていた。

「どっか行きたいです!」

 ジュースを飲み終わったムギちゃんが、ベンチから元気よく立ち上がる。

 この辺りで、こんな朝早くから遊べる場所なんてあるだろうか。
 ゲームセンターとか、昼前にならないと入れないし。

「……駄菓子屋、とか」

 安く大量のお菓子が手に入るいいところ。
 それに、今なら夏休みだし、あの人もいるかもしれない。

 ムギちゃんは目を輝かせた。
 それを見たイチも嬉しそうに笑う。

 よし、と立ち上がる。

 駄菓子に向かうことになった。

 ……後になって、このことが、あんなに感謝されるようになるとは、思ってもなかったけど。

 ちなみに、この辺りの地域で言う駄菓子屋とは、『そらを』の事を指す。
 そらを。店の名前だ。

 まあ、その名の通り、空尾さん家が切り盛りしている小さい店だ。

 近所の小学生なら、一度はお世話になったことがあるはずだ。
 俺も、昔はよく百円を握らされて行ったものだ。

 ところであの店のお爺ちゃん、元気かな。
 だいぶ歳をとってたみたいだけど、もう何年も行っていないので、様子は分からなかった。

「ここ?」

「ここだね」

 あいにく、まだ営業はしていないようだった。
 シャッターが降りている。

 昔はもっと早くからやっていたような気がするんだけど。何年も経てば変わるものか。

 イチが何やらスマホをいじっている。

「もうすぐ開くよー」

 スマホを閉じて、イチがムギちゃんに話しかける。

「え?」

「え?」

 ムギちゃんと顔を合わせて、首をかしげる。ネットに営業時間でも載っていたのだろうか。

 三人で並んで待っていると、後ろから声がかけられた。

「人の家の前で何突っ立ってるんですか」

 振り返ると、ムギちゃんほどではないけど、背の低い女の子。

 ……ナナコ。

「……なんでこんな朝っぱらから?」

「私のセリフですよ!」

 そう言い捨てると、ナナコは背伸びをしながら、シャッターを上に押し上げた。

「空尾……ナナコ……あっ」

「え、知らなかったの?」

 普段呼ぶことがないのでピンとこなかったが、ナナコの苗字は空尾だ。
 ということはつまり、

「ここは私の家ですよ」

 ……つまり、空尾菜々子の家は、駄菓子屋だったのか。

『はい、お店をやっているので』

 そういえば、夏休みに入る前に、そんなことを聞いた覚えがある。
 このことだったのか。

「逆に知らなかったんだね……」

 同級生の間では有名らしい。

 ……だって、同級生で話す人なんて、そんなにいないし。限られた人しかほとんど話さないし。

「ところで」ナナコが振り返る。「その子はどちらの娘さんですか?」

「どちらかといえばお兄さんの方かね」

 誤解を招くようなことを言うんじゃない。まださくらんぼ系男子だよ。

「ねえちゃんの従姉妹。夏休みだからお泊りに来てる」

 ナナコはなるほど、と頷いて、重たい店の引き戸を開けた。

 壁のように並ぶ駄菓子屋。
 ワクワクする。

「三百円までな」

 ムギちゃんは嬉しそうに走っていった。
 イチが隣に立って、手の届かない商品を取ってあげている。一応土台はあるんだけどな。

「いっつも店番してるの?」

 気になって尋ねる。
 こんなことしてるの、全く知らなかったし。

「いえ、夏休みに入ってからですよ」

 ナナコは答えた。

 曰く、お爺ちゃんの具合が悪くなって入院しているので、先週あたりから店は休業していたそうだ。

 だが、お父さんお母さんは普段の仕事があるので、さすがに店番を変わることができず、代わりにナナコが夏休みから店番をしているらしい。

「まあ、弟と交代でやる予定なんですけどね」

 高校生なのに大変だな……とは、言わないでおいた。
 多分、本人たちの中では折り合いはついているのだ。細かい事情を知らない俺が、口を挟む問題でもない。


「何か買わないんですか?」

 そう勧められて、改めて棚を見渡す。
 お菓子の並びは、昔とほとんど変わってない。

 せっかくなので、昔よく食べていた、棒状のゼリーのような駄菓子を買った。
 美味しいわけではないけど、何故かよく買ってたんだよな。

「はい、十円です」

「すげえな、値段覚えてるのか」

 十円玉を一枚、ナナコに手渡す。

 なんか、千円札を出すより、こういう小さいやり取りの方が、買い物してる、って気分になる。なんでだろう。

「まあ、小学生になったときから、たまにお手伝いはしてましたからね。流石に一人で任せられるのは初めてですけど」

 そう言ってレジにお金を入れるナナコの手つきは、確かに、手馴れたものだった。

 が、やっぱり、ナナコが店番してるところなんて、初めて見た。

 覚えがないのか、タイミング的に会わなかったのか。
 それとも、小学生になってからは、あまり来てなかったのだろうか。

 いつから来なくなったのか、その辺りはよく覚えてない。

 それから、ムギちゃんとイチの会計を済ませて、軒下のベンチで、みんなで買ったお菓子を食べる。

 ムギちゃんがいくつか分けてくれた。

 駄菓子って味が濃い。

 ふと気になって、ナナコに尋ねる。

「そういえば、部長のお婆ちゃん家の合宿は来れそう?」

「行けますよ」

 よかった。

 そういえば、弟がいる、って言ってたっけ。そこを交代でなんとかしてもらうのかな。

 チヨはどうなんだろう。

 折角なら大勢で行きたいし、後で聞いてみよう。

 と、思ったところに、ショートボブの女の子が歩いてくる。チヨだ。

「あれ、こんなところで、奇遇だね」

 チヨの後ろには男の子と女の子が一人づついた。
 チヨそっくりの女の子と、寝癖が立ったままの、眠たそうな男の子。

「妹と弟、いたんだ」

「うん、双子だよ」

 へえ。双子。

 双子でも男女別々なんてこともあるんだ。

 女の子の方はチヨそっくりで、まるでそのままチヨが幼くなったような顔立ちだが、男の子の方は似てはなかった。
 たぶん、お父さん似(チヨがお母さん似とは限らないけど)。

 男の子の方が眠たそうにしていたので、まだ起きたばかりなのだろう。

「こんな朝早くからどうしたんですか」

 ナナコが店の奥から出てくる。

「妹に、追い出されちゃって」

「妹」

「うん、今年受験で……」

 昨日、双子が家の中で騒いで集中できなかったので、静かに集中したいから、ということらしかった。

「行き場に困って、ナナちゃんちなら、時間潰せるかなって」

「みんなウチをなんだと思ってるんですか」

「駄菓子屋」

「合ってますけど……」

 まあ、買うなら是非、と、ナナコは店の奥に引っ込んでいった。
 やっぱり、会計以外にも何かすることはあるのだろうか。

 ムギちゃんの方を見ると、早速、双子の女の子の方とお喋りしていた。
 やっぱり同年代だと話しやすいらしい。


「チヨ、合宿これそう?」

「んー、実は、明後日から、私たちもおばあちゃんのお家に、行くかも……」

「あ……それも、まさか」

「うん……妹が集中しやすいように」

 そっかー、と、イチは残念そうにポニーテールを撫でた。

 まあ、受験なら仕方ない。

 ごめんね、とチヨが申し訳なさそうに言う。

 なんでチヨが謝る。

 気まずくなる。こういう時になんて声をかけたらいいかわからない。

 一周回ってユウキが羨ましいくらいだ。

 横に目をやると、壁にもたれかかっていた、双子の……たしか、ナナコはハルくんとなーちゃん、と呼んでいたか。

 壁にもたれかかっていたハルくんの首元に、ムギちゃんが冷たいラムネ瓶を押し付けて、驚かせていた。

 ……よく初対面でそれができるな。

 田舎の子供恐るべし。

 ハルくんは驚いて目が覚めたようだった。

 ムギちゃんはけらけら笑っていた。
 なーちゃんも、つられてクスクスと笑っていた。

「この後、予定、ある?」

「某国の大統領と面談……」

「特にないかな」

 基本的に暇ではある。

「暑い」

 イチが服の胸元をパタパタと仰いだ。

「暑い、ね」

 今日は風が吹かない。

 子供達の方も、よく見ると額に汗が浮かんでいる。

 暑い。

「……帰るか」

 人が大勢いるのは嫌いじゃない。

 一人でいるより何倍もマシだ。ウサギも寂しいと死んじゃうみたいだし。

「なんかして遊ぼうやー!」

「何する?」

 普段は一人の家に沢山の人がいる、ということは、嬉しいものだった。

 女の子二人はテンションが高めだった。
 ムギちゃんは昨日も来た、ということもあり、だいぶ慣れているようだった。

「なんでもいいよ」

 ハルくんの方も目が覚めたようで、二人の会話に混ざってないようで混ざっていた。

「来て大丈夫だった? 何か予定とか……」

「そんなものは」

 ない。

 むしろ来てくれてよかった。
 エアコンを付ける大義名分ができる。

 部屋に腰を落ち着けてしばらくすると、子供達が暇になったようで、何か遊んで、と要求された。

 部屋の奥から人生ゲームを持ってくる。

 昔のモノなのに、新品のように新しい。

 イチ、ムギちゃん、チヨ、なーちゃん、ハルくん、俺。合計、六人。
 人生ゲームをするには丁度いい人数かもしれない。あまりやったことはないから相場がわからないけど。

 俺の家のゲームなのに、ルールはほとんどわからなかった。

 イチとチヨに教えてもらいながら進める。

 説明書を貸して、とハルくん。
 ハルくんは活字が得意なようです。

 ムギちゃんは感覚でルールを覚えていった。
 なーちゃんはある程度理解していたようで、つまづいたムギちゃんを手助けしていた。

 人生ゲームなのに、他のプレイヤーからの介入がある。人生って案外そういうものかもしれない。

 結果は、一位がハルくんで、最下位がイチだった。
 一位はともかく、イチが負けたのは意外だった。得意そうなのに。

「名前で判断するんじゃない!」

 別にそういうわけではないけども。

 チヨはくすくすと笑っていた。


 子供達は第二回戦をはじめていた。
 ムギちゃんが、ハルくんに負けたのが悔しいらしい。
 なーちゃんは困ったように笑っていた。

 イチとチヨはテーブルについて話をしていた。
 昼ごはんはどうする、と二人に尋ねる。何も考えてないようだった。

 仕方ないのでそうめんを茹でる。なぜか夏場はそうめんが溜まる。去年のモノが余っていた。

 チヨが隣に並んで、手伝ってくれた。

「突然押し掛けちゃって、ごめんね」

 チヨは、人数分の安物のお椀に、めんつゆを注ぐ。手馴れてる。

 そんなことないよ、と、湯気の上がる鍋を見つめる。
 押しかけられるというか、俺が呼んだわけだし。

「一人じゃ、どうしようもなかったから、助かった」

 確かに、きょうだいとはいえ、子供二人の暇をつぶすとなると、難しいところもあるだろう。
 俺たちも子供といえば子供だけど。

 なーちゃん達の方を見ると、イチも途中から人生ゲームに参加していた。
 人生ゲームに途中から参加、とはあまり聞くフレーズではないが、まあ転校生的なニュアンスで済まされたのだろう。いいことだ。

「あの子達も、楽しそうで、なにより」

 チヨは安心したように笑っていた。

 そうめんを水で冷やして、ダイニングのテーブルに食器を並べる。


「昼ごはんだ」

 子供達は、普段とは違う家での食事に、テンションが上がっているようだった。どこに座るかキャッキャと盛り上がっている。

 ちょっとその気持ちわかる。

 子供達は四角いテーブルの一角に収まって座った。
 その歳から女子に挟まれるハルくんが羨ましくてたまらない。

 異様に広かったこのテーブルが、初めて満員になったのを見た。

「いただきます」

 味はまあまあだった。まあ茹でただけだし。

 昼食が終わったら、みんなでWiiをして遊んだ。リモコンは四つしかなかったから、交代でリモコンを握ることになったけど。

 もう何年も電源をつけてなかったけど、いざやってみると楽しいものだった。
 ムギちゃんは初めてWiiに触ったらしく、操作がぎこちなかった。

 夕方頃になると、チヨは疲れてしまったようで、ソファでぐだっと寝転がっていた。
 気の抜けた顔。

 新たな一面。

 イチはムギちゃんと最下位争いをしていた。
 なーちゃんはたまに気を遣ってムギちゃんに負けてあげていた。

 サイレンが鳴ると、チヨが「帰ろう」と双子に声をかけた。
 実際に双子が帰る準備を始めたのは、それから五分後だった。

「また来ていい?」

 なーちゃんがそう言ったので、もちろん、と返事をした。
 ムギちゃんも嬉しそうな顔をした。
 ハルくんは庭のひまわりを眺めていた。

 四人が帰ると、ムギちゃんと二人、手持ち無沙汰になる。

 仕方ないので、ねえちゃんを探そうと、二人で通学路を歩く。
 そろそろ帰ってくる頃だろう。

 信号の長い交差点で、ねえちゃんを発見する。ムギちゃんが元気よく手を振る。

 三人で、ファミレスに行って夕食を済ませた。安くてそこそこ美味しい。便利。

 ムギちゃんはレジ横のおもちゃコーナーを眺めていた。
 ねえちゃんがまた今度ね、とムギちゃんの頭に手を置いた。

 家の前で、二人と別れる。

 玄関を開けると、ただいま、という声が、誰もいない家に響いた。

 なんだかなぁ。

 なんというか。

 さっきまでゲームをしていたスペースを見ると、やけに広く感じた。

 なんというか。

「……咳をしても一人」

 言い得て妙。昔の人は考えたものだ。

 セミの声が遠くから聞こえてくる。

 一人で風呂に入って、課題終わってないなぁあ、と考えた。やらねば。

 その後、部屋に入って、教科書を開いた後、明日朝起きてからやろう、と自分に言い聞かせて、ベットに飛び込んだ。

 そんな感じで、一日が終わっていった。

つづく。

登場人物多くてこんがらがってきた
人物表頼む

>>143
今のところの人物表、というか一覧です。並べただけです。

〈清掃部〉

イチゲ
チヨ
ナナコ
部長

〈生徒会〉

生徒会長
コヨミ
ねえちゃん

〈その他〉

ムギちゃん(ねえちゃんの従姉妹)
ハル(チヨの弟)
なー(チヨの妹)

ユウキ
イケメン君
きいちゃん(先生)
図書委員の子
委員長

こなた

 夏休みといっても、ウチの高校には課外授業と言う名の補習がある。

 俺は呼ばれていた。

 教室にはいつもの半分ほどの人数しかおらず、雰囲気もいつもほど堅苦しいものではなかった。

「夏休みまで授業しないといけないのか……」

 きいちゃんは授業の最後にため息をついた。それを鬱陶しく思われないのが、この先生のいいところ。

 授業といっても、二時間しかないので、終わるのはいつもの何倍も早い。
 参加していたほとんどの生徒は、すぐに部活や教室の移動で帰ってしまった。

 教室に残ったのはチヨと俺と、それからユウキだった。

 イケメン君は部活を優先したらしい。

 一瞬沈黙が降りるが、話題ならあった。

「なーちゃんとハルくんは?」

「今日は、家でお留守番」

 妹さんはおばあちゃんの家に泊まっているので、多少は騒いでもいいようだ。

 というか、あれくらいの歳なら普通に友達と遊んでいてもおかしくなさそうだけど。
 そう考えてから、自分にその頃友達がいたのかどうか不安になってきた。

「誰、それ?」

 ユウキとチヨは一応、顔見知りではあるらしい。
 ただ二人で話しているところはみたことない。友達の友達、という感じだろうか。

「私の弟と妹、双子の」

「へえ、双子か」

「あと、妹も、もうひとりいるよ!」

 チヨは自慢げにそう答えた。

「なんて名前?」

「ヒメ」

「知らないなぁ」

「知ってたらすごいよ……」

 最近、チヨがよく喋る気がする。
 いや、前から無口だったわけではないのだけれど、なんというか。
 自信がついた(?)、というか。いい傾向(俺は何様だ)。

>>147
ごめん、ミスった……見なかったことにしてください

 翌日、思いついたようにイチが言った。

「ラジオ体操、来なくていい気がする」

 朝の公園で、俺達は頷いた。
 その一言で、それ以降の俺の夏休みの睡眠時間が延びたことは言うまでもない。

 おそらく人生最後のラジオ体操を終えた後、イチとムギちゃんと、三人で俺の家に帰る。
 ねえちゃんは今日も学校だった。

「文化祭の準備がある」

 生徒会役員は忙しそうだ。

 朝の教育番組を三人で眺めていると、玄関の方から話し声が聞こえてきた。

 ムギちゃんがパタパタと走っていく。

「おはよう」

「おはよう」

 玄関を開けると、チヨきょうだいが並んでいた。

 ハルくんは今日は眠そうではなかった。でも寝癖立ってるぞ。

 六人でリビングに自由に座り込んで、昨日のように交代でゲームをする。
 俺とチヨはすぐに飽きて、子供三人とイチが競っているのを後ろから眺めていた。

「なんかね」

 チヨが話し始める。


「二人が、やっぱり、おばあちゃんち行きなくない、って」

 双子に聞こえないようにしているのか、ちょっと、声が小さめだった。
 いつも小さいけど。

「……と言うと?」

 聞き逃さないように、少し耳を澄ませる。

「えっと、昨日、帰ってから、お泊りの準備させようとしたら、ハルが、『姉ちゃんが行けばよくない?』って」

 たしかに、受験勉強がしたいなら、むしろチヨの妹さんだけが祖母の家に泊まった方が、効果はある気がする。
 誘惑するものもなくなるし。

「そしたらね、妹が、『たしかに』、って」
 
 それで、明日からの予定だった、双子とチヨの田舎合宿は、中止になったらしい。
 ということは、

「部活の方の合宿……もといお泊まり会は、来れそう?」

「うん、たぶん、ね」

 窓の外ではセミが鳴いていた。今日は窓を開けているだけで涼しい。

 庭のひまわりが風に揺れていた。

 散歩したい気分。朝もしたけど。

「あ、当たりだ」

 ゲームを休憩していたなーちゃんが、そう呟いた。
 駄菓子の当たりが出たらしい。
 そらをに持っていけばもうひとつ同じお菓子がもらえる。

「行きたい!」

 ムギちゃんがそう言うので、子供達三人を連れて、そらをまで出かけることになった。

 大勢で押しかけても迷惑かも、ということで、イチとチヨは家に残ることになった。

「子供四人で楽しんでおいで」

「俺も子供かよ」

 イチの冗談(であることを祈る)を背に、家を出る。

 ムギちゃんは麦わら帽子を被っていた。

 三人の後ろを、離れすぎないようについて歩く。
 普通の道を歩いても面白くないので、普段は通らない河原を歩いた。

 石が多くて歩きにくい。
 でも川の近くにいるせいか、かなり涼しかった。

 橋を渡って、住宅街を歩く。

 河原とは打って変わって、蒸し暑い道だった。
 だが、どこにいてもセミの声の音量は変わらない。不思議。

 駄菓子屋そらをに到着する。

「昨日ぶりですね」

 ナナコはお菓子の当たりと商品を交換しながらそう言った。

 百円まで選んでいいよ、と言うと、三人はそれぞれカゴを持ってお菓子の棚を眺めはじめた。

「兄弟、いましたっけ?」

 ナナコには、ムギちゃんがどういう経緯でここにいるのか、昨日話してある。
 なーちゃんとハルくんとは元々知り合いだったようだ。

 当たりの交換のついでに、買い物をしてしまう。お菓子メーカーの思う壺だった。

「や、いないけど」

「そうですか。子供の扱いがお上手ですね」

 珍しく褒めてくれた。雨でも降るのかもしれない。

「……台風でもくるのかな」

「値上げしますよ」

 切実な嫌がらせだった。

 その後、会計を終わらせて(もちろん定価で)、ムギちゃんの提案で公園に寄る。
 珍しく、人っ子一人いなかった。

 三人が遊具の方に駆けていく。さすがにそんな体力はなかったので、ベンチで待っていることにした。

 セミの声が身体に響く。

 暑さで頭がぼーっとする。ちょっと心地いい。

「夏休み、満喫してますかー?」

 いつの間にか、隣にこなたが座っていた。

「まあ、そこそこ」

 なぜか制服。補習かなんかの帰りだろうか。

「それくらいが一番いいんですよねー」

 こなたは足を伸ばして、大きく伸びをした。
 びっくりするくらい白い脚。まるで日に当たったことがないようだ。

「『今超楽しい! 不満とかない!』……なーんて人は、たぶん何かを捨ててしまった人です」

「うーん……」

 ひねくれているようだけど、わからないでもなかった。

 夏休みって、満喫しだすと、ちょっと学校が恋しくなる。
 けど、学校に行ってる間は、ひたすら休みが待ち遠しい。

 二律背反。アンチノミー。

 なんだかなぁ。

「ところでー、合宿の方は、結局どなたが行かれるんですかー?」

「えっと」

 イチと、俺と、チヨと、ナナコと、部長。

 男女比が夢のような割合だ。ふへへ。

「子供だけは作らないでください、とお母様にも言われてるでしょー」

 つくらないよ。
 そんな度胸があれば先に彼女できてる。

「あれ、こんなところに小学生眺めてる不審者が! どうしたの?」

 公園の入り口の方に目をやると、自転車に乗った部長がいた。
 上下ジャージ。部長らしい。

「僕は怪しいものではありません」

「そう言う人ほど怪しいんだよなぁ……」

「なら僕は怪しいものです」

「どちらにせよ怪しい事はわかった」

 自転車を停めて、ベンチに歩み寄ってくる。

 ハルくんが一瞬こちらを振り返ったが、すぐに目線をそらされた。
 俺の知り合いと思ったのだろう。まあ知り合いなんだけど。

「真面目な話、あの子達は知り合い?」

「そりゃそうですよ」

「はは、そうだよね。弟とか妹いたっけ? 聞いた事ないけど……」

「や、あれです、友達の従姉妹と、チヨの下の子達です」

「なぁるへそ」

 部長は相変わらずお喋りだ。

 つられて俺もよく喋ってしまう。不思議。
 人の性格は周りの人にも影響される。

「課題終わった?」

「まだですよ、終わってんのイチくらいでしょう」

「あの子は要領いいからね、確かに終わってそう。キミも大概要領良さげだけど」

「買いかぶられてますね」

「私はアサリが好きだな」

「僕も貝類の中ならアサリですね」

「かいかぶってるね」

 部長はケラケラと笑った。まるで暑さを感じていないかのようだ。

「部長、なんか用事があったんですか?」

「んんや、家に居づらいから逃げてきちゃっただけ。お客さん来ててね。……古くっさい家だから」

 苦笑い。

 自分の家、というか家庭の話をすると、部長はいつもこの表情を見せる。

 部長の家は、昔からある由緒正しい(?)家系だった。
 江戸時代(あたりだったと思う、たぶん)、この辺りを統治していた家。旧藩主。苗字を言えば、このあたりで知らない人はいないのではないだろうか。

 この公園ではないが、この辺りにある大きな公園の名前にも、その苗字が使われている。
 つまり、部長からすれば自分の苗字の公園があるのだ。

「キミはこの子達の付き添い?」

「まあ、そんな感じです」

 部長は自販機でコーラを二つ買った。

 片方を全力で振っている。

「はい、あげる」

「ありがとうございます」

 コーラを受け取る。
 部長が嬉しそうにこちらをみている。

 開ける。泡が噴き出す。
 
 部長は満足気に笑っていた。

 ハルくんが「何してんの……」と呆れていた。
 いつの間にか、三人はベンチの近くまで来ていた。

「キミたちもジュース飲むかい?」

 子供達も一本ずつ飲み物を買ってもらっていた。俺は泡が引いたコーラを飲む。

 部長は羽振りがいい。

「ありがとうございます」と、ハルくんはみんなより少し大人だった。二人もそれを真似てお礼を言う。

 ベンチに座ろうとしたが、人数が多すぎて座りきれなかった。

 もう三人も遊び疲れたようなので、ジュースをちびちび飲みながら、帰路を歩く。

「部長も来ます?」

「行く行く!」

 二つ返事とはまさにこの事だ。

 部長は自転車を手で押しながら歩いた。
 荷物は特に持っていないようだった。

 家に帰ると、イチとチヨのおかえりー、という声で迎えられた。
 帰った家に人がいるというのは、ちょっと嬉しい。ニヤける頬を抑える。

 部長は、女子二人がいることに驚いていた。

「夏休みに入ったからって女子を侍らせておるのかこのヤロウ」

「人聞きの悪い」

 チヨは落ち着かなさそうに髪を撫でた。

 子供達が汗をかいていたので、チヨが「着替え、持って来ればよかったね」と、濡れたタオルで拭いてあげていた。

「チヨ、お姉ちゃんだな」

「そう、かな」

 手を止めて、チヨがこちらを見上げてきた。上目遣い(気のせい)。

 俺は頷いて答えた。

「うん、俺が見る限りは」

「……ありがとう」

 チヨは小さくそう答えると、落ち着かなさそうに自分の髪を撫でた。

 ……今、余計なこと言った気がする。上から目線。
 気をつけようとしていたのに。
 しばらく会話が続いてると、気が抜けてしまう。

 気をつけないと。また一人になってしまう。

 エアコンをつける。

 落ち着いた頃、交代でゲームをして遊んだ。某会社の人気キャラクター達が車を猛スピードで運転する。

 チヨは疲れてすぐにソファに横になってしまった。
 聞いてみると、液晶画面を長時間見つめるのが苦手らしい。若者にしては珍しい人種だった。

 部長はめちゃめちゃ強かった。容赦なくバナナの皮を散らしていく。

 ハルくんは器用に交わしていた。

 イチが丁寧にバナナの皮を踏んでいく。

「車がバナナに吸い込まれていく!」

 今日の名言だった。

 時計の針が真上を指したあたりで、全員で揃ってファミレスへ向かった。

「何名様ですか?」

「七名様です」

 ムギちゃんが答えた。

「禁煙席と喫煙席」

「きんえん席で!」

 ムギちゃんが答えた。

 ……店員の声に被せて答えるの、一度やってみたかったらしい。
 ムギちゃんは満足そうな顔をしていた。

 七人でテーブル席に座る。

 ファミレスのテーブル席は大きいものだと思っていたのだが、こうしてみると狭かった。

 適当に注文して、全員分のドリンクバーを頼む。
 部長がドリンクバーの無料券を大量に持っていた。常連らしい。

 俺はカルピスとホワイトソーダを混ぜた。少し薄めくらいの炭酸がちょうどいい。普通の炭酸はキツすぎて飲みにくい。

 ムギちゃんはおぞましい色のジュースを生み出していた。
 ハルくんが飲む事になったらしい。

 イチは、相変わらずいちごオレを選んでいた。

「そんなの、あるの?」

 チヨがウーロン茶を啜りながら尋ねる。

「ホットドリンクのコーナーにあったよ」

「ご飯に合うのかなぁ……?」

 イチは水をとりにいった。

 その後は、追加でカキ氷を三つ注文した以外、ひたすらドリンクバーで粘って、ぐだぐたと中身の無い会話を楽しんでいた。

「セミって、五年くらい、土の中で暮らすんだって!」

 チヨが珍しく胸を張って話していた。
 セミ、好きなのだろうか。

「じゃあ私が中一のときに生まれたセミが今鳴いてる、ってことかぁ」

「じゃあ、私が、えっと……」

「ムギちゃんが三歳のとき?」

「それだ!」

「ハルくん計算早いねー」

 部長は馴染むのが早かった。

 ドリンクをおかわりに立ち上がる。イチも付いてきた。

「トナカイって百回言ってみて!」

「ソリ」

「正解」

 イチは狐に鼻をつままれたような顔をした。

 話し疲れて、なーちゃんがウトウトしはじめた頃、ちょうど部長が「帰らねば」と言ったので、お開きにすることにした。

 チヨが、眠たそうに目をこするなーちゃんと手を繋いで、ハルくんと三人並んで「またね」と手を振った。

 チヨは部長と一緒に帰った。

 ムギちゃんは大きく手を振っていた。

 みんなが帰ると、セミの声だけがやけに大きく響く。
 ムギちゃんと二人、ぽつんと。

「……帰るか」

「うん!」

 麦わら帽子が相変わらず似合っていた。

 夜、久しぶりにユウキ達とLINEをした。

『なんかして遊ぼう』

 相変わらずユウキは何か燻っているようだった。

『なんかって何』

 イケメン君は文字で会話をすると、普段とは打って変わって冷たい印象になる。
 まあ伝わりやすいからいいんだけど。

『キャンプとか』

『虫が来るからやだ』

『じゃあバーベキュー』

 用意するのが大変だろう。

 炭とか、どこで売ってるか見たことないし。ホームセンターとかいけばあるんだろうか。

『いいねバーベキュー』

『炭とかどうすんの?』

『ウチの倉庫に大量にある』

 ユウキの家は何をするところなんだ。

 それとも普通は、炭を常備するものなんだろうか。

『じゃあ、今度空いてる日に集まろう』

 結局、それ以降はなにも会話はなかった。

 予定は未定。バーベキューが実行されるのは、だいぶ先になりそうだった。

つづく。

 ある日、目が覚めると珍しく十時を過ぎていた。今年に入って一番遅いかもしれない。
 基本的に早起きしちゃう体質なんです。

 リビングに降りて、お湯を沸かす。
 軽く顔を洗ってから、少しぬるめのコーヒーを入れた。

 今日はねえちゃんと乙坂父が休みなので、ムギちゃんはウチには来なかった。
 イチや双子達も今日は来ないらしい。

 珍しく一人での時間。いや、この間まではこれが普通だったんだけど。

 いざ誰も来ないとなると、これまでは一人の時に何をしていたのか思い出せなくなる。

 本当に、何をしてたんだろう。

 たぶん、去年の夏休みに女子と会話した回数より、この数日の方が多い気がする。
 天の思し召しか。ありがとうございます。

 庭のひまわりが揺れる。

 ふとスマホの着信に気づいて、ポケットから取り出してみると、ユウキからだった。

 セミの抜け殻の画像が添付されている。

『これなんの種類の抜け殻だと思う?』

 知るか。

 適当に「アブラゼミ」と返信して、スマホを閉じた。

 天気が良かったので、久しぶりに庭に面している縁側に出る。

 陽に当たって暖かくなっていた。
 寝転がってひまわりを眺める。
 セミがどこかで鳴く。

 最近、あまり昼間から一人になることがなかったので、
 何をして時間を潰せばいいのかわからなくなる。

 なんというか、手持ち無沙汰。

 誰か来ないかなぁ、と思ったけど、その日は誰も来なかった。

 夜は早めに寝た。
 

 夏休みといっても、ウチの高校には課外授業と言う名の補習がある。

 俺は呼ばれていた。

 教室にはいつもの半分ほどの人数しかおらず、雰囲気もいつもほど堅苦しいものではなかった。

「一年生の教室はエアコン壊れたらしいよ……よかった二年生の担当で」

 きいちゃんは身震いしながらそう言った。
 たしかに、エアコンでもないと暑くて授業なんてやってられない。

 授業といっても、二時間しかないので、終わるのはいつもの何倍も早い。
 参加していたほとんどの生徒は、すぐに部活や教室の移動で帰ってしまった。

 教室に残ったのはチヨと俺と、それからユウキだった。

 イケメン君は部活を優先したらしい。

 一瞬沈黙が降りるが、話題ならあった。

「なーちゃんとハルくんは?」

「今日は、家でお留守番」

 妹さんはおばあちゃんの家に泊まっているので、多少は騒いでもいいようだ。

 というか、あれくらいの歳なら普通に友達と遊んでいてもおかしくなさそうだけど。
 そう考えてから、自分にそれくらいの頃友達がいたのかどうか不安になってきた。

「誰、それ?」

 ユウキとチヨは一応、顔見知りではあるらしい。
 ただ二人で話しているところはみたことない。友達の友達、という感じだろうか。

「私の弟と妹、双子の」

「へえ、双子か」

「あと、妹も、もうひとりいるよ!」

 チヨは自慢げにそう答えた。

「なんて名前?」

「ヒメ」

「知らないなぁ」

「知ってたらすごいよ……」

 最近、チヨがよく喋る気がする。
 いや、前から無口だったわけではないのだけれど、なんというか。
 自信がついた(?)、というか。
 いい傾向(俺は何様だ)。

「そいつらは例の合宿、いくの?」

「え?」

「え」

 ……そういえば、その発想はなかった。

 なーちゃんとハルくんも合宿に。

 掃除をするなら人手は多いほうがいいし、そっちのほうが賑やかになりそうだ。
 せっかくならムギちゃんも呼んで。

 人数は多いほど楽しい。

「……いいなそれ」

「部長に、聞いてみようかな」

「学校来てんのかな」

 部長を探しに行こうとしたが、チヨが「あ、時間」と呟いて、そそくさと教室を移動した。

 チヨはまだ理数科の方で課外があるらしい。優等生は大変だ。

 荷物を片付けて、ユウキと教室を出る。
 廊下は夏独特の透明感に包まれていた。

 ユウキは用事があるというので、そのまま帰った。

 一人で静かな廊下を歩く。どこからかプレクトラムアンサンブルの音色が聞こえてくる。

 下駄箱を探してみると、部長の靴。学校には来ているらしい。

 三年生って課外授業はあるんだろうか。
 それとも受験に向けて自分で勉強しろ、と言われているのだろうか。むしろその逆で課外授業があるのかもしれないけど。

 三年生のフロアに向かったが、どこも扉が閉まっていて、とても入れる雰囲気ではなかった。
 勢いに任せて扉を開けて、授業なんかしてたら大変だ。

 一斉にこちらを見る先輩達。

 考えただけで眩暈がする。

 とりあえず一息つこうと、渡り廊下に出る。
 狂ったように暑い陽射しが全身を襲う。

「時計の針が、一瞬止まって見えることってありますよねー」

 こなたが手すりに座っていた。

「アレって、なんて呼ばれてる現象かご存知ですかー?」

 こんな気温なのに、汗ひとつかいてない。

「なんて言うの?」

 こなたは手すりから降りないまま答えた。

「クロノスタシスって呼ぶそうです」

「クロノスタシス」

 かっこいい。技名みたいだ。

「人はどんなものにも名前やら理由をつけますからねー」

 真っ直ぐに並ぶ窓の中では、幾つかの教室で授業が行われていた。
 人が授業を受けてるのに、渡り廊下で涼んでそれを眺めている。背徳感。

「お探しの方は部長ですかー? 課長ですかー? それとも係長?」

「部長だね」

「でしたら生徒会室ですねー」
 
 と、こなたは生徒会室の窓を指差した。
 たしかに電気は付いている。中は見えないけど。

「ありがとう」

 お礼を言うと、こなたは「奉りなされ」と戯けて胸を張っていた。

 渡り廊下から校舎に入る。陽が当たらないだけで、ずいぶんと涼しく感じた。

「先輩」

 今日は陽射しが強い。

「暑いですね」

 所変わって、学校前の坂道。

 コヨミちゃんと二人で、長い坂道を歩いていた。

「こんな日も生徒会ってあるんだ」

「文化祭、夏休み明けですからねー」

 道沿いのアジサイは、さすがにもう枯れて、花を落としていた。

 コヨミちゃんが首元の汗をハンカチで拭う。俺もシャツを仰いで風を入れた。
 今日は本当に暑い。

 道の先のアスファルトが、陽炎でゆがんでみえた。上昇気流。光の屈折。

 俺が生徒会室に入った時、ちょうどコヨミちゃんの仕事が終わっていたらしく、部長と会長、あとねえちゃんと駄弁っていたところだった。

 会長は相変わらずだった。
 困ったように笑っている。

 ねえちゃんに今日の夜のことを聞く。
 ファミレスに行くことになった。

 部長にさっきの双子の件について尋ねた。

「いいね! もちろんムギちゃんも?」

 ねえちゃんが首を傾げたので、部長から合宿について説明する。
 ねえちゃんは少し考えてから、いいよ、と頷いた。

「なら、ねえちゃんも来れる?」

「行きたい」

 ねえちゃんも来ることになった。
 部長は素直に嬉しそうだった。

 人数は多いほど楽しい。

 それから、適当に五人でわいわい話して、昼前あたりで、昼ごはんを持ってきていない俺とコヨミちゃんは帰ることにした。

 ねえちゃんと会長はまだやる事があるらしい。生徒会は大変だ。

「先輩、コンビニ寄って行きませんか?」

 飲み物でも買いましょうよ、とコヨミちゃんが笑いかけてくれる。

 ……ボーッとしていた。コヨミちゃんの言う通り、水分が足りないのかもしれない。

 わざわざ気にかけてくれるなんて、いい後輩を持ったものだなぁ。
 先輩らしいことなんて何もしてないのに。

 コヨミちゃんがこうして下校なんかの時にも付き合ってくれるのは、きっと世話焼きだからだ。下の子が二人いるらしいし。

 自惚れるなよ、

 ……と、自分に言い聞かせる。

 自分に自信を持っていいのは、できるだけの努力をして自分から行動できる奴だ。
 もしくは、それをしていると自分で思える人。

 コヨミちゃんはしばらく俺の様子を伺っていたが、すぐに正面に目線を戻した。

 うん。

 コンビニに着くと、コヨミちゃんが、あっ、と声を上げた。

「ちょ、ちょうど、これくらいの時期でしたね!」

 自動ドアのところで立ち止まって、コヨミちゃんがそう言う。

「……なにが?」

 足元にコンビニの冷気を浴びながら、尋ね返す。
 何の話……?

 コヨミちゃんはしばらく落ち着かなさそうに目線を彷徨わせていたが、もういいですっ、と先に店内へと入っていった。

 俺も店員の目線が気になって、早足で奥へと進んだ。


 二人で飲み物と軽い食べ物を選ぶ。
 いちごオレを見つけて、イチならこれ買うな、と思った。思ったより値段が高い。

 レジを済ませて、涼しい店内を後にした。

 暑い住宅街を歩いて、公園に向かう。

 飲み物に口をつけると、身体に水が染み渡っていくような感覚を覚えた。
 気持ち涼しくなる。

「先輩、勉強してますか?」

「いや、してないっす」

 学生としてはこの返事以外は許されないだろう。「勉強してる?」って聞いて「してる」った答えた奴なんて見たことない。

 コヨミちゃんはしてそうだなぁ。
 真面目そうだし。

 サンドイッチを囓って、コヨミちゃんはスカートをぱたぱたと仰いだ。

 女子はスカートだから風通しが良くていいなぁ、と思った。
 別に履きたいとは思わないけど。

 中は、うん、まあ、見てないよ?

 大事な後輩ですし。

 それから、時計の長針が一周するくらいの時間、コンビニのおにぎりをちびちび食べながら、コヨミちゃんとぽつぽつと話を続けた。

 相変わらず太陽は狂ったように照っていて、雲が出てくることはなかった。

「あ、交代の時間……」

 コヨミちゃんの家の手伝いの時間が近づいたので、昼過ぎあたりに公園を後にした。

「楽しかったです、ではまた!」

 コンビニの前でコヨミちゃんと別れる。

 一人になると、腕が日に焼けて赤くなってることに驚いた。

 家に帰ると、当然だけど誰もいなかった。

 ただいま、と一人で呟く。

 軽くシャワーを浴びる。
 うなじの日焼けが痛む。腕はそれほどでもなかった。

 髪を乾かす。
 なんとなく歯を磨く。
 うがいをするついでに何故か顔を洗ってしまう。前髪が濡れる。
 前髪を乾かす。

 ソファに座り込む。

 暇になる。

 もうすぐ合宿だな、と思い出す。

 庭でひまわりが揺れている。

 こういう時、何か趣味があればいいのにな、と思った。

 その夜は珍しく夢を見た。

 寂れた商店街で、俺は一人でガチャガチャ(百円玉入れたらカプセル出てくるアレ)の前に座っている。

 時間は夜で、人の気配は全くしなかった。

 俺の真上にある、点滅しながら光っている蛍光灯が、唯一の灯りだった。

 財布から残り一枚の百円玉を取り出し、レバーを回す。

 がちゃがちゃ、と、中で歯車でも回っているような感触が伝わってくる。

 コトン、と乾いた音がして、薄緑のカプセルが出てくる。

 中にはスーパーの割引券が入っていた。五十円分。

 嬉しくないわけではないけど、百円払って五十円分しかもらっていないので、ものすごく損をした気分になった。

 夢の中の俺は財布を開いた。

 さっきのが最後だったはずなのに、また百円玉を取り出す。

 小銭を入れて、レバーを回す。

 オレンジ色のカプセル。

 中に男用のブラジャーが入っていた。
 なんでだよ。

 どうして一目で男用のモノとわかったのかも謎だった。

「そんな趣味あったんだ」

 隣にチヨが立っている。

「好みは人の自由だけどね」

 チヨは公益社団法人っぽいことを言って立ち去った。
 足音はしなかった。


 財布から百円玉を取り出す。

 どうやらこの財布は無限に百円玉を作り出す何かのようだ。

 レバーを回すと、次に顔を見せたのは藍色のカプセルだった。

 中には傘が入っている。
 夢の中だし、サイズ比なんかは気にしたら負けだ。

「先輩、雨はお好きですか?」

 コヨミちゃんが尋ねてくる。

「私はどちらかというと好きですね」

 コヨミちゃんは俺の後ろでそう呟いていた。

 振り返ると、そこには誰もいなかった。

 目線を元に戻して、また百円玉を取り出す。

 レバーを回すと、今度は赤いカプセルが出てきた。

 中身は空。開けて確かめても、何も入っていなかった。

「それはハズレ?」

 イチが隣に立って訪ねてくる。

 何故か男用のブラジャーをしていた。

 つまり、胸が、その。
 夢にしては、やけに質感がリアルだった。

 いやまあ夢なんだけど。

「触ってもいいけど、いちおくまん円払ってね」

 小学生かお前は。

「そのカプセルは、ハズレ?」

 次の瞬間には、イチは服を着ていた。

 どうせ夢なんだし、いちおくまん円払ってでも触っておけばよかった、と後悔する。

「私にはハズレにみえる」

 イチはレバーを回す。

 赤いカプセルが出てきて、中身はやっぱり空だった。

「一人はきらい」

 そのセリフを、イチが言ったのか、俺が言ったのか、よく聞き取れなかった。

 夢。

 寂れた商店街には、俺とイチ以外、誰もいなかった。

 あるのは乾いた空気と、点滅する蛍光灯だけ。

 そこで夢は終わっていた。

つづく。

 夏の雨は、なんというか、独特の匂いがある。
 アスファルトというか、ほこりというか。

 あんまり好き好んで嗅ぐような匂いでもないけど、嫌いではない。
 ただ体に悪そうな感じはある。

 窓の外を見ると、雨に打たれたひまわりが、心なしか下を向いていた。

「雨、止まないね」

 そして、そんな日にも、愉快な仲間たちはうちに集まっていた。

 イチがだらん、と横になる。

 ムギちゃんがその横に同じような格好で寝転がる。
 なーちゃんはその隣にちょこんと座っていた。

 チヨはソファで眠たそうにウトウトしている。

 ハルくんは部長にゲームの勝負を挑んでいた。

「なんというか」

 テーブルに突っ伏している俺に、リビングを見渡しているナナコが話しかける。

「まるで溜まり場ですね」

 ねえちゃんがコクン、と頷く。

「そう?」

「これが溜まり場じゃなかったら何よ」

「ええ、まさかここまでとは思ってませんでした」

 テーブルの上に置いてあるバナナを一本もぎ取り、皮を剥いて口に運ぶ。
 美味しくも不味くもない。

「ねえちゃん食べる?」

「いらない」

 ねえちゃんはノーと言える日本人。

「ナナコは?」

「いや、いいです」

 ナナコもノーと言える日本人だった。

 今日は店番はないというので、ナナコもうちに遊びに来ていた。


「課題終わった?」

「やってないです」

 定型文での会話。

 「ふぅ」とねえちゃんが息をついたのを最後に、部屋には雨の音以外聞こえなくなった。

 エアコンをつけていないので、室内は随分と湿気ていた。
 扇風機が最大出力で首を振っている。

 喉が渇いた。
 何か飲み物はないかと冷蔵庫を開ける。

 ジュースを切らしていた。

「コンビニ行く人ー」

 誰も手を上げない。

 仕方ないなぁ、とイチがむくりと身体を起こした。

 帰ってからも暑いのは嫌だったので、今日くらいはいいか、とエアコンを付ける。
 ナナコとムギちゃんが歓声を上げた。

 傘をさして玄関を出ると、むわっとした熱気が身体を包んだ。

 イチが横に並ぶ。俺のビニール傘とは違って、少し柄のある傘だった。

 コンビニまで歩いて、ジュースを何本かと、みんなで食べられそうなお菓子を籠に入れる。
 店内は雨の日なのにもかかわらず、人は多かった。昼前だからか。

 レジに並んでいると、店内に入ってきたイケメン君と遭遇した。

「おう」

 暇だったら家に来ないか、と誘ってみる。

「後で行けたら行きたい」

 まだこれから用事があるようだった。
 夏休みまで予定が多いのはちょっと羨ましい。多忙なのがいい、とは限らないけど。

 イケメン君と一言二言話して、店を出る。

「あれ」

 傘立てに置いたはずの傘がない。

 セロテープを巻いて目印にしていたのだが、それが見当たらない。

「あーあ、盗まれちゃった」

 イチのは普通にあった。

 辺りを見ても俺の傘らしきものはない。

 すげえ、本当に傘盗まれることってあるんだ。
 なんともいえない虚無感に苛まれる。なんか虚しい。

「……傘、入る?」

 イチがちょっと遠慮がちにそう言う。

 濡れて帰るのもアレなので、一緒に入れてもらうことにした。

 初めはイチが傘を持っていたが、身長差の問題で俺が腰を曲げなければならなかったので、途中から俺が傘を持った。

 代わりに、イチが荷物を半分持ってくれる。

「雨、久しぶりだね」

 イチは明後日の方を向いてふいと呟く。両手で握った荷物が濡れないように、身体のそばに寄せていた。

「たしかに」

 そう返事をして、俺も荷物が濡れないように、真ん中の方に寄せる。


「…………」

「…………」

 しばらく歩いて、あ、これ相合傘じゃん、と我にかえる。
 イチは水溜りを見ながらとぼとぼと歩いている。

 ……照れる。

 男友達に見られでもしたら、簀巻きにされて海に放り投げられてしまいそうだった。

 二重のヒヤヒヤを胸に抱えながら、歩き慣れた道をイチと二人で歩く。

 一度意識してしまうと仕方がないもので、俺より少し歩幅の小さい脚や、たまに触れては離れる小さな左腕が、俺の想像力をかき乱した。

 ときどき聞こえる、イチの「ん……」が気になってしょうがない。

 女子のそういう声ってなんなんだ。無意識なのか。それとも何か意味があるのか。

 ……なんか、その、焦れったい。

 二人の距離をピンセットで調節したいくらいだった。

 そんな付かず離れずの(?)距離を保ったまま、家までの道を、傘を持って歩いた。

 実際の距離の二倍くらいの長さを歩いた気がする。

 家の前について、どちらからともなく立ち止まる。

「じゃあ、先に出るね」

 傘を持っていないイチが先に軒下に入り、それから俺が傘を閉じた。
 イチが傘を出るとき、ちょっとシャンプーの香りがした。

 ちょっと良い傘だったので、閉じるのがスムーズだった。
 俺も次買うときは良い傘にしよう。

 ーーそのときは思いもしなかったけど、後から考えればコンビニで傘買えばよかったのに、とは思う。
 まあ、それはそれとしておく。

 玄関の扉をイチか開けておいてくれたので、中に入って、ねえちゃんを呼ぶ。

 足元が濡れてしまっていたので、タオルが欲しかった。

「うわ、こんなに肩濡らして」

 呼んだだけなのに、ねえちゃんは気を利かせてタオルを二枚持ってきてくれた。

 イチに片方手渡して、荷物はねえちゃんと、様子を見に来たなーちゃんに任せた。

「雨、止まないな」

「だねー」

 思ったより肩が濡れていた。冷たい。
 イチは細い腕を拭いている。思ったより濡れてないようだった。安心。

 でも、その、なんというか。

 俺の方は、まだちょっと鼓動が早かった。

 ……中学生か、俺は。

 昼前に、ねえちゃんがそうめんを茹でた。

 食器洗い以外でねえちゃんが台所に立つのを見たのは、かれこれ数年ぶりかもしれない。
 突然やりたい、と言い出したものだから驚いたが、やらせてみると案外できないこともなかった。

 まあ、茹でるだけだし。

 俺は隣で卵を焼いて、チヨが家から持ってきたハムを千切りにしていた。
 なんでハムを持ってきていたのかは疑問だ。

 人数があまりにも多かったので、子供三人と俺はリビングのテーブル、女子達はダイニングのテーブルで食事をすることになった。

 こうしてみると状況の特異性に気づく。

 なんでうちに五人も女子がいる。

 ただ、「今日のそうめん柔らかい……」と言いながら箸を運ぶムギちゃんを見て、
 成り行きで考えるとそれほどおかしくもないんだよな、と考える。

 ラジオ体操から、ねえちゃんの従姉妹、なーちゃんとハルくんから、部長に……

 こうして並べてみると、芋づる式にこの状況が浮かび上がる。

 そして、みんな要するに暇なのだ。

 暇な人同士が集まれば、暇ではなくなる。

 そうではない場合もあるけど、暇をつぶすのに一番簡単な方法は、たぶん、それだ。

 それぞれが暇をつぶすのに一番手軽な場所が、この家だった。それだけ。

 なんかちょっと誇らしい。

 暇つぶしに最適な場所。

 ……言葉にしてみるとそうでもなかった。

 昼食が終わって、チヨがウトウトし始めた頃、アイスでも買っておけばよかった、とイチと話している時に、インターホンが鳴った。

 やってきたのはイケメン君だった。
 片手にビニール袋。

「アイス、お土産に」

 見計らったようなタイミング。

 お土産のアイスを食べながら、みんなで人生ゲームをする。

 十人もいたので、自分の番手がまわってくるのがやけに遅かった。

 イケメン君が異常に強い。部長とハルくんが躍起になっていたが、それでも一位はイケメン君だった。

 イチはまた最下位だった。

 人生ゲームが終わると(すごい字面だ)、今度は部長がイケメン君にカーレースの勝負を挑んでいた。もちろんゲームの方。
 ハルくんとムギちゃんも一緒に。

 最下位は待っている人と交代するルールだったらしいが、だいたいムギちゃんとイチが交互にリモコンを握っていた。

「なんでそんなにゲーム強いん?」

「わかんない」

「そんなんじゃー」

 ムギちゃんは細かいことは聞こうとはしなかった。

 なーちゃんは遊び疲れて、チヨの肩に頭を乗せて眠ってしまっている。

 お姉ちゃんですね、とナナコが笑っていたが、次の瞬間には、チヨもなーちゃんの頭に頭を乗せて眠っていた。

 そっくりの二人が似たような格好で寝ている。微笑ましい。

 イケメン君がテーブルにやってきた。
 広いテーブルなので何人でも座れる。

 そういえば、イケメン君って人見知りだったっけ。こんなところに呼んで大丈夫だったかな……と、今更ながら不安になる。

「大丈夫だった?」

「なにが?」

「いや、なんというか。この人数」

「あー」

 イケメン君は首の後ろに手を当てて、リビングを見渡した。

「別に、大人数が嫌いなわけじゃないよ。小さい子供の相手とか、好きだし」

 よかった。それなら安心だ。

 イケメン君はテーブルに座ってアイスを食べていた。

 ナナコとねえちゃんとも普通に話しているのを見て、知り合いだったんだ、と知る。

 意外なところで人は繋がっている。

 ムギちゃんからお呼びがかかって、イケメン君がリビングへ戻っていった。

 入れ替わりでイチがやってくる。

 ぐでん、と体をテーブルに突っ伏す。

「喉乾いた」

「お茶でも飲むか」

 ねえちゃんとナナコとイチ分のお茶を淹れて、ついでに俺のお茶も淹れた。

「ね、夏に飲む熱いお茶も良いでしょう?」

「たしかに」

 四人で熱いお茶を啜りながら、ゆっくり流れる時間を淡々と数えていた。

 時計を見ると、一瞬、針が止まって見えた。クロノスタシス。

 庭のひまわりは雨に打たれている。

 なんというか、その。

 何かしなきゃ、と思う気持ちと、

 今のままでいいや、と思う気持ち。

 でも今はまあ、何もしなくていいかな、と思う。

 その日はみんながいつ頃帰ったかは覚えてないけど、いつの間にか、一人になっていた。

 夜には雨が止んだが、星空が見えることはなかった。
 相変わらずジメジメしていて、エアコンのタイマーをセットしてベットに潜る。

 翌朝は、驚くほど天気が良かった。

つづく。

 合宿の前の日に、部員とねえちゃん、それから子供達(というか、合宿にいくメンバー)で、ショッピングモールで買い出しをした。

 電車でちょっと乗れば着く。
 超便利。

 近くのスーパーでも良くない?

 とも思ったが、折角だし、ということらしい。
 何が折角なのかはわからない。

「えっと、とりあえずインスタントとかの楽に食べられる食べ物と、掃除道具、それからお菓子! 一泊二日だから、それくらいの量で、ね!」

 一泊二日。全員親の許可は取れている。

 子供達は早くもソワソワしていた。

「じゃあ、グループに分かれて買い出ししよう! ジャンケンで! チームはさっき言った三つ!」

 部長のテンションもかなり高かった。

 わざわざグループに分かれる必要もないかと思ったが、大人数で行動して迷惑になってしまわないように、という部長の気遣いだろう。

 俺はチョキを出した。

 出来上がったグループは、
 イチと俺とムギちゃんの三人でお菓子、
 部長とナナコとハルくんの三人で掃除道具、あとの残りのメンバーで食材。
 よくこんなに綺麗に分かれたものだ。

 入り口のところで籠を持って、お菓子コーナーに向かう。

「お菓子って言ってもさ」

 イチが困ったように眉をひそめる。

「そんなにいるかなぁ?」

 そう言いながらも、ムギちゃんと一緒に、おつまみやスナック菓子を籠に入れていく。

「あ、ジュースも!」

 飲み物のコーナーに、三人で向かう。
 ムギちゃんを一人にさせたら、また迷子になりかねない。

 駆け足で隣の陳列棚に移動するムギちゃんの背中を、イチと並んで、歩いて追いかける。

「馴れたよね、あの子」

 モールの店内は冷房が効きすぎて、ちょっと寒い。

「なんというか、ワガママ言えるようになったというか」

 ……初めから言ってたような気がするんだけど。

 けどまあ、言いたいことはなんとなくわかる。
 変なところで我慢しなくなったというか、言いたいことを言うようになった、というか。

「せっかく遊びに来てるんだから、楽しんでもらわないと」

 イチは小さく頷いて、「籠持つの代わる?」とこちらを覗き込んでくる。

 いや、俺が持つよ、と返事をして、ムギちゃんの方を見ると、両脇に二リットルのボトルを抱えて、こちらを眺めていた。

「カップルみたい」

 ……やっぱり、言ってることは初めと変わらないような気がしてきた。

 人はそう簡単に変わるものではない。

 ジュースを何本か選んで、籠に入れる。

 何か他にいるもんあるっけ……?

「花火やりたい!」

「花火、いいね」

 少し移動して、花火が置いてある棚を探す。
 夏休みシーズンだからか、思った以上にたくさんの種類があった。

 ムギちゃんは大量の花火に興奮している。

 イチとムギちゃんがセットの花火を選んでいるのを、後ろから眺める。
 なんか、こうしてみるとイチがだいぶ大人に見える。なんというか、違和感(失礼)。

 ふと横に目をやると、セットではなく、小さめの袋に入って小売にしてある花火があった。
 ねずみ花火とか、ああいうの。

 こういうのも楽しいよな、と思い、いくつか選んで籠に入れておいた。

 会計を済ませた後、モールの広場のようなところのベンチに座って、他のグループの買い物が終わるのを待つ。


 たぶん、あの三つのグループだったら、うちのグループが圧倒的に終わるのが早い。

 だってお菓子だし。
 わざわざグループに分ける必要あったか?

 ムギちゃんが「おもちゃ見たい」と言ったので、ここで待ってるからね、と伝え、目の前の雑貨屋に放流する。

 イチと二人きりになる。

 夏休みに入る前までは別に珍しくなかったが、最近は少なくなっていた気がする。
 いや、別に必要なわけではない……けど。二人きりになったからといって話す内容が変わったりはしない。

 そもそも、清掃部のメンバーは、基本、人見知りだ。

 去年の今頃なんて、部長以外、あまり話した覚えがない。ちょっとした会話くらいはあったけど。

 活動の内容だって、指示さえもらえれば一人でもできる作業だったので、淡々と掃除するだけだったような。

 そう考えると、部長がお喋りだと気づいたのはいつ頃なのか、よくわからなくなる。

 何か劇的な出来事があって話すようになったわけではないし、もしかしたら俺以外のメンバーはそこそこ仲が良かったのかもしれない。

「どうかした?」

 いつも通りのイチの声。

「なんでもない」

 ……でもまあ。

 今は、この雰囲気が好きだ。
 居心地がいい。それでいい。


 案の定、帰りは荷物がすごいことになっていた。
 全員が荷物を持って、ハルくんと俺は、反対側の手で花火の袋も抱えていた。

 電車の中は人が多かったので、子供達をなるべく優先的に座らせる。
 ハルくんはチヨに席を譲った。

 しばらく電車に揺られていると、ムギちゃんとなーちゃんはチヨの肩で眠ってしまった。
 二人に挟まれているチヨも、頭を揺らしながらウトウトしている。

 空いた席に座るようにしていると、自然に、イチと俺で並ぶ座り方になっていた。
 今日はそういう日らしい。

「部長のおばあちゃんの家、どんなところか聞いた?」

 周りの迷惑にならないように、声を潜めてイチが尋ねてくる。

「いや、聞いてない」

「なんか、家のすぐ目の前に海があるらしいよ」

「まじで?」

「うん、泳いでもいいって」

 それは楽しそうだ。

「掃除が終わったら泳がなきゃな」

「ムギちゃん、水着あるのかな?」

「ねえちゃんのお古とか、探せばあると思う」

 どうせ行くなら、掃除だけじゃなくて、しっかり遊ばないと。

 というか、一泊二日しかないんだから、初日のうちに掃除は終わらせて、後は遊ぶくらいの時間割にしたい。
 掃除ばっかりしてても、なんだか勿体無いし。


 一時間弱電車に揺られて、最寄りの駅に降りる。
 チヨとなーちゃんは、まだ眠たそうに目をこすっていた。

 駅から一番近い部長の家に、荷物を一旦預ける。
 明日の朝、また寄って、荷物を持っていく。これに加えて自分たちの着替えなんかもあるから、かなりの大荷物になる。

 運ぶのには一苦労しそうだった。

「がんばろうな」

「うん」

 初めのうちは口数は少なかったが、ハルとも、今は普通に話せる。
 ムギちゃん程ではないけども。

 それでも、みんなだんだん、馴れてきた。

 部長と家の前で別れて、帰りの道を歩く。

 当たり前だけど、みんなそれぞれ家の方向が違うので、次第に人は減っていく。
 家の前まで来ると、隣にいるのは、ねえちゃんとムギちゃんだけになっていた。

 三人で「ただいま」と言い、家に入る。

 晩御飯にはまだ少し早かったが、明日は朝が早い。
 あらかじめ準備しておいたそうめんを、三人でつついた。

「そういえば、海で泳げるらしいよ」

「海?」

 ねえちゃんが反応する。

「泳ぎたい!」

 田舎でも川で遊ぶことはあるそうだが、ムギちゃん曰く、川と海ではいろいろと違うらしい。

「水着とかあれば、持って行った方が楽しいと思う」

「あとで探してみよっか」

「うん!」

 その日は、早めに二人は帰った。

 荷物の確認をして、シャワーを浴びる。

 ぬるい水道水を一口飲んで、それからベッドに倒れ込む。

 その夜は涼しかったが、なかなか眠りにつくことはできなかった。

つづく。

 七時十四分。
 改札をくぐる。大人数なので、それだけの行動にも時間がかかった。

 向かっているのが街中とは反対だったので、大量の荷物が邪魔になる心配は無用だった。

 ガラガラの車内で、荷物と一緒に座る。
 俺たちの他には人はいなかった。

 なーちゃんは珍しく、ムギちゃんと同じくらいはしゃいでいる。
 イチと一緒に窓の外の流れる景色を眺めていた。

 ねえちゃんはナナコと何か話している。盛り上がっている様子だったが、なにを話しているかは聞き取れなかった。

「おばあちゃん、昨日出発したらしいから、行ったらすぐに入れるからね。
 着いたらまずは荷物の整理しよう!」

 部長はそういうと、ストラップのついた鍵をくるくると指で回して見せた。
 チヨが「はーい」と返事をする。

 二時間弱、電車に揺られて、なーちゃんが静かになってきた頃、目的の駅に到着する。

 古びたホームに荷物を降ろして、人数を確認する。
 十人。

「……一人多い」

「数え間違いでしょ」

 イチが素っ気なくそう言うので、もう一度数え直す。

 九人。
 合ってた。今のはなんだったんだろう。


 無人の改札を抜けて、ボロボロのベンチが置いてある待合室を通り、駅の外に出る。
 駅の目の前には海が広がっていた。

 ザ・田舎の駅。

 十秒で探検が済みそうなレベルの広さだった。待合室の隅っこには、虫やら枯葉やらが転がっている。

 全員で分担して荷物を持って、部長を先頭に道を歩く。歩いてすぐ、とのこと。

 海沿いの道は、陽射しが強くて、少し眩しかった。
 右手には海、左手には背の高い草むらや、ツタに覆われた小屋。

 癒される。

 五分ほど歩くと、大きな山荘のような家にたどり着いた。
 ログハウス、って言うんだっけ。

「ここ?」

「うん、おばあちゃんち! 友達に設計してもらったんだってー」

「大きなログハウスですね……」

 外から見る限りでも、ある程度広いのがわかる。
 正面の上の方に、小さなベランダ。
 家の周りにはウッドデッキがあって、奥の庭に降りる階段がある。

 部長が入り口の扉を開ける。

 中は、外見よりもさらに広く見えた。

 リビングの奥にある畳の座敷に、全員分の着替えや荷物を置く。

「普段は使ってない部屋だから、好きにしてくれていいって」

 次に、買い出しで購入した食べ物を、冷蔵庫やテーブルの上のトレイに並べる。

 お湯のポットの位置や、ガスが使えるかどうかも確認しておいた。

 一通りの片付けが終わると、子供達がそわそわし始める。
 さざ波の音が聞こえて、セミがよく鳴いている。

 たしかに落ち着かなくなってくる。
 遊びたい、のはわかるが、

「まだ、掃除が、終わってからね」

 チヨが子供達を諌める。

 やるべきことは、先に終わらせます。

 掃除場所の分担は、公正公平なジャンケンによって決められた。

 俺はチョキを出した。

 急な階段を登る。

 ロフトに顔を覗かせると、むわっとした熱気が頭を包んだ。
 暑い空気は上にたまる。

 壁についているスイッチを押すと、頭の上から風がふく。
 天井についていたファンが回りだした。お金持ちの家についているアレ。

 ロフトには、ソファが一つと、あとは広いスペース。
 一階のリビングが見下ろせる構造になっていた。

 後ろから雑巾を持ったムギちゃんとハルが昇ってくる。

「ベランダ!」

「走ったら落ちるよ」

 ムギちゃんが扉を開けて、ロフトに海風を入れる。後ろからハルも続く。

 ベランダに出てみると、目の前の海が見渡せた。太陽の光が反射して眩しい。

 というかベランダ狭い。
 三人入るのがせいいっぱい。

 セミの声が後ろの山から響いていた。

 うん、いい空気。

 ハルとなーちゃんがベランダで遊んでいるうちに、
 ファンの上と天井付近のホコリを落とす。

 ログハウスなので、板目の間に埃がよく溜まっていた。
 綿棒とティッシュを駆使して細かいところの埃を落とす。

「よし、お前たちにミッションを通告する!」

 ベランダから二人が帰ってくる。

 ちょっと慌てて帰ってくるのが微笑ましい。

 ロフトに落ちた埃を、ホウキとちりとりで集めるよう頼む。
 二人が思っていたよりも真面目にやってくれたので、予想より早く進んだ。

 埃がなくなった箇所から、濡らした布巾で軽く拭いていく。

 これだけでかなり綺麗になった。

 こめかみに汗が伝う。
 やっぱりベランダからの風だけでは足りない。

「終わったら海でもいくか」

「うん」

「行きたい!」

 二人とも、汗で背中が湿っていた。

 部長を呼んで、さっと確認してもらう。

「うん、ばっちり! 仕事早いね!」

 まあ、楽なところではあったし。

 ムギちゃんとハルがそわそわしていたので、なーちゃんも終ったら海に行こう、と伝える。

 二人はなーちゃんを探しにいった。

「いやぁ、やっぱり来てもらってよかった!
 早く終わるし、親戚みたいに、その……気も使わなくていいし」

 部長は少し目を伏せて、すぐにはっと顔を上げる。

「い、いや、特にそんなこともないんだけどね!
 終わったみたいだし、もしアレなら海にでも遊びに行ってみたら?」

 そう言い残すと、部長は早足にどこかへ去っていった。

 なんというか、まあ。

 ふと、ログハウスの裏側がどうなっているのか気になって、家の裏手にまわる。

 相変わらずセミがよく鳴いている。

 日差しが強いかと思ったが、森から木が伸びていて、ほとんどが日陰になっていた。
 廃車になっている軽トラが転がっている。

 窓ガラスが割れていて、狭い運転席はツタで覆われている。
 なんか癒される。

 ふと後ろを振り返ると、ナナコがしゃがみこんで、何かしていた。

「……何してんの?」

「水道のところ、虫の死骸が溜まってまして……」

 覚悟を決めてたところなんです、とナナコは息を飲み込んだ。

 ゴミを取り除かないと、掃除の仕上げができないらしい。

 そういえばナナコ、虫が苦手なんだっけ。

「ちょっと待ってろ」

 颯爽と立ち去る俺。

 しばらく経って、再び帰ってくる。

「待たせたな」

 ねえちゃんを連れてきた。

「……え、なに?」

「虫とって」

 ねえちゃんは微妙な顔をしたが、だいたいの状況は把握してくれたようで、ちりとりを使って虫を除けてくれた。

 ナナコは微妙な顔をしていたが、「ありがとうございます」とは言ってくれた。

 うん、虫は苦手だと本当に触るのキツイもんな。
 わかります。

「何かできないことがあれば、他の人も頼れよ」

 格好良さげを言ってみたのはいいが、横からねえちゃんに小突かれる。

「あんたのセリフじゃない」

 ナナコは笑って、もう一度「ありがとうございます」と言った。

 ねえちゃんの担当は終わっていたので(イチがほとんど終わらせていた)、三人でそこの仕上げをして、部屋に戻る。

 掃除は全て終わっていた。
 だいたい一時間ちょっと。さすが清掃部。

「海いく?」

「行こうよ」

 まだ昼食には早かったので、全員で海に行くことにした。

 よかった、水着持ってきてて。

 ハルを連れて部屋を出ようとすると、子供三人はもう着替えを済ませているようだった。

 ウッドデッキに出て、三人に準備体操をするように伝える。
 が、出たところで、俺が着替える場所がないのに気づく。

 女子が着替え終わるのを待って、出てきたら部屋で着替えよう。

 そう思い振り返ろうとすると、窓のカーテンが開いたままなのが目に入った。
 目を背ける。

「どうかしたの?」

 ムギちゃんが浮き輪を持って尋ねてきた。

「僕も思春期なんです」

 俺は答えた。

 女子勢が部屋から出てきたので、入れ替わりで部屋に向かう。

 扉を開ける。

「えっ、なっ!」

 視界に肌色。

 物凄い速さで扉を閉める。

 ……見てないです。

「まだ着替えてるよ!」

 扉の向こうからイチの焦った声が聞こえてくる。

 振り返ると、女子勢がなんとも言えない表情で俺のことを見つめていた。照れる。

 ハルはため息をついた。

 これは後から聞いた話だけど、イチはこの時水着が鞄の底にあって、探すのに時間がかかっていたらしい。
 そういう事は早く言って欲しかった。

 しばらく待っていると、水着の上からパーカーを着たイチが部屋から出てきた。

「……見た?」

「見る前に閉めました」

 ちょっとだけ背中が見えました。
 ありがとうございます。すみません。

 後ろから若干の視線を感じながら、部屋に入って、サッと着替える。
 男の子の着替えは早い。

 先に向かっているかな、と思い部屋を出ると、案の定ウッドデッキには誰もいなかった。

 先に海に向かったらしい。

 といっても歩いて10秒くらいの距離なんだけど。
 道を挟んで防波堤があって、そこから階段を降りると砂浜がある。

 ウッドデッキに置いてあるサンダルを履いて、軽く体操をしてから、防波堤に向かう。

「置いてくよー」

 イチが防波堤の上から手を振っている。
 ポニーテールが海風に揺れていた。

 なんというか、その。

 仲間外れにされてない、って感じ。

 すぐ行く、と言って走り出す。

 イチはポニーテールを撫でながら、砂浜に続く階段を降りた。

 防波堤の上に立つと、みんな砂浜で待ってくれていた。

 あ、忘れられてたわけじゃないんだ、と思う。
 そう思うと、ちょっと安心した。

 しばらく海で遊んで、全員で海から引き上げる。
 思ったよりも藻が多くてげんなりした。

 が、ムギちゃんにはそんなもの効かなかった。ハルとなーちゃんを引きずり回して楽しそうに遊んでいた。

 部長が庭の裏からホースをもってくる。

 交代で冷たい水を浴びて、塩水を流した。

 なーちゃんが冷たい水を歯を食いしばって耐えている。
 ムギちゃんは逃げるので、ナナコが取り押さえていた。

 女子勢が浴びるときは、先に日焼け止めのパーカーやらライフガードやらを脱いでから浴びていたり、
 水を入れるためにちょっとだけ水着を浮かせたりするので、

 海にいた時より肌の面積が多かった。

「どこいくの?」

「素潜りしてくる」

 さくらんぼ系男子には直視しかねる光景だった。
 でもたぶん、後になって見ときゃよかった、と後悔する。

 浜辺に立って、海を眺めた。

 あ、潮が引いてきてる。

 後から来ると、もっと砂浜が多いかもしれない。
 夕方頃に散歩でもしようかな。

 ログハウスの方からねえちゃんの呼ぶ声が聞こえてくる。
 早足で帰って、シャワーのホースを受け取る。
 足元の地面はもうびしょ濡れだった。

 シャワーを受け取るとき、意外にねえちゃん胸があるんだな、と思う。

「意外に胸あるんだ」

「それ他の人の前で絶対言うなよ」

 よく考えるとセクハラだった。

 親しき中にも礼儀あり。
 いくらねえちゃんでも、これからはそういうことにも気をつけよう。

 鬼のように冷たいシャワーを浴びて、身体を拭く。
 ウッドデッキの陰で、ハルと一緒に着替える(よく考えると見られるような人がいないことに気付いた)。

 服を着て、少し暇な時間ができる。
 女子が着替えるのはもう少し時間がかかりそうなので、ハルと一緒に駅へ続く道を散策する。

 ゆっくり歩いていると、山側に続く細道が意外に多いことに気付いた。
 夜に行けばカブトムシとか取れるかもしれない。

「姉ちゃん、さ」

 ハルがセミの声にかぶせるように、口を開く。

「チヨがどうかした?」

 ハルが言う姉ちゃんとは、チヨのこと。
 ねえちゃんのことは、ねえさんと呼んでいる。

「……いや、姉ちゃんじゃなくて」

 ハルが首を振る。
 しばらく迷った様子を見せて、それから俺に尋ねる。

「女の人が、女の人を好きになること……って、よくある?」

「……ん?」

 ……ん?

「……ごめん、なんでもない」

 少し迷った様子を見せた後、ハルはそう言ってお茶を濁した。
 なんだか歯切れが悪い。

 ハルに何があったんだ。

 でもまあ、言いたくないのなら仕方ない。

 汗をかきそうだったので、暑くなる前に戻る。
 戻ると、ウッドデッキでなーちゃんとムギちゃんが日向ぼっこをしていた。
 ハルは落ち着かなさそうに髪を撫でた。

 時計の針が頂上を過ぎていたので、全員で適当に昼食をとる。
 テーブルは異常に広かったので、座る場所は問題なかった。親戚が来ても対応できるように、らしい。

 午後になると、だんだんとみんな疲れてきた。

 ナナコとねえちゃん、それからイチは座敷で眠ってしまっていた。
 チヨもいつも通り、座ったまま部長の隣でウトウトしている。

 だが、なーちゃんはいつもと違い元気だった。
 海から上がっても依然、ムギちゃんと一緒にテンションが高い。

「散歩行きたい!」

 ムギちゃんが椅子から立ち上がる。

「そういえば、駅の方にちょっと歩けば公園があるよ。暑いから私はいかないけど。
 ……お昼寝でもしようかなぁ」

 部長がそう言ったので、行きたい行きたいと二人が騒ぐ。

 ハルがこちらを見る。

「……よし、行くか」

 チヨがはっ、と目を覚まして、なーちゃんに日焼け止めを塗るように言う。
 ムギちゃんも一緒に塗ってもらっていた。

「二十分くらい歩けば着くと思う」

 部長の言葉を背に、四人でサンダルを履いた。
 ムギちゃんは麦わら帽子を被った。

 昼下がりの暑い道を並んで歩く。

 セミの鳴き声が山から響いていた。
 防波堤を挟んで、さざ波の音が小さく聞こえてくる。

 さっき降りてきた駅の前を通って、さらに十分ちょっと歩くと、長い一本道は背の高い草むらの中に入った。
 ところどころ草が伸びていて、足に草があたる。

 チクチク足にあたって、くすぐったい。
 子供達はたいして気にしていない様子だった。

 草むらの中を少し進むと、部長の言った通り、小さな公園に着いた。

 草は生えているが、小さなベンチがあって、小さな遊具。
 いつもの公園と同じような公園。

「いつもの公園と全然違うねー!」

 ムギちゃんがそう言いながら走りだした。

「そうか?」

「遊具とか、そういうの、かな」

 なーちゃんが首をかしげながら答えた。

 遊具。
 たしかに、俺から見ればただのオブジェだけど、遊ぶとなると、少しの違いが大きく見えるんだろうか。

 なんか歳とったなぁ、と思った。
 まだ十七だけど。


 三人が遊具で遊び始めたので、ボロボロのベンチに座って、あたりを眺める。
 遊具はお世辞にも新しいとは言えなくて、むしろ若干廃墟っぽかった。

 なんかかっこいい。

 ハルの背丈ほどの草むらからは、虫の鳴き声が聞こえていた。
 よく考えてみると、セミ以外の虫の鳴き声って、聞き分けがつかない。

「くっそ暑いですねぇ……」

 こなたが当たり前のようにそう呟く。

「まあ、夏だからな」

 制服のスカートをぱたぱたさせているので、真っ白なふとももが見え隠れする。
 まぶしい。

 あつはなついですね、と、こなたは言って、ベンチの背もたれに腰掛けた。

「こっちの方が涼しいです」

 バランスをとるのが好きなのだろうか。

「そういえば、さっき朝晴さんが何か言おうとしてましたねー」

「ハルが?」

 さっきの女の子がどうこう、ことだろうか。

「なんて言おうとしたんでしょうねー」

「さあ。知ってるの?」

「さあー。どうでしょう」

 こなたは汗ひとつかいていない。
 鬱陶しげに空を仰いで、手のひらで陽射しを遮った。

 相変わらずセミがしゃわしゃわと鳴いている。
 スマホの音量最大の音と、セミの声、どっちが大きいのだろうか。
 それくらいよく聞こえた。

 ぼーっと空を眺めていると、今度はムギちゃんに声をかけられる。

「誰かいた?」

「ううん。どうかしたか?」

「あ、そうだ、なーちゃんのサンダルが壊れちゃった」

 見ると、鼻緒の部分が裏側から壊れてしまっている。
 直せそうにない。

「怪我してない?」

「……うん」

 なーちゃんはしゅんと萎れてしまっていた。

 幸い、怪我はしていないようなので、そのまま帰ることにした。
 ハルが壊れたサンダルを持ってくれたので、なーちゃんをおんぶして歩く。

「重く、ないかな……?」

「軽い軽い」

 こんな歳から気にするようなもんなのか。

 まあ小学生くらいだったら、多少太っていようが、大体の子は背負えるはずです。
 なーちゃんは痩せてる方だし。

 ただ、意識してるつもりはないけど、若干胸、というかブラ(?)が、ちょっと、なんというかその。

 そのへんもチヨに似たんだろうか。

 ……いや、でも小学生だからね?

 セミの鳴く道を歩いていると、なーちゃんがやけに静かなので、寝てしまっているかも思ったが、
 ムギちゃんの言葉に相槌を打つ事はあったので、たぶんずっと起きていた。

 ハルとムギちゃんが少し先を歩いて、俺がそれについていく。
 おんぶをしていると、自然と歩調がゆっくりとなった。

 家に戻ると、リビングには部長とチヨ、それからナナコとイチがいた。

 テーブルにはお菓子が広がっている。

「ねえちゃんは?」

「まだ寝てる」

 イチがお菓子をつまみながら答えた。

 ねえちゃん、やっぱり日頃の疲れがたまっているのだろうか。
 たまにはゆっくりするのも大事だ。

 子供たちを女性陣に任せて、俺も一眠りすることにした。
 なんだか眠たい。

 奥の座敷の扉を開く。

「ねえちゃん、ここにいたんだ」

 返事はなかった。ぐっすり眠っているらしい。

 畳の座敷は、寒いほど冷房が効いていた。

 ねえちゃんは猫のように丸まって寝ている。
 薄いタオルケットを半分ほど余らせていた。

 その隣に転がって、タオルケットの余っている部分を分けてもらう。
 そのまま軽がるとねえちゃんのうなじを見つめる形になってしまうので、背中合わせの形で寝転がる。

 冷房。畳。寝息。
 背中にねえちゃんの気配。

 ちょっと昔を思い出す。

 まだ幼かった頃。
 どちらかの親が帰ってくるのを二人で待っていた頃。
 足りない家族を補い合っていた。

 できる限りの家事を分担してみたり、食事は一緒にとるようにしたり。

 今となっては昔の話。……でもない。
 俺も早く大人にならないといけないのかもしれない。

 大きな窓から裏庭が見える。
 廃トラックの扉が地面に落ちてる。
 ツタがハンドルを握っている。

 鬱蒼とした木漏れ日に、どうしてか背徳感を覚える。

 気が付くと、瞼を閉じていた。

 眠っているのだけど、僅かに意識はある。
 そんなまどろみの中、昼間のハルの発言を思い出す。

 珍しくハルから話を切り出していた。

 ハルは歳の割にはおとなしい。
 いつも遊ぶときも、ムギちゃんやなーちゃんに合わせていたり、周りの流れで遊んでいたり。

 空気を読む。

 おとなしい、と言うよりは、どちらかというと、大人しい方なのだ。

 そんなハルが、自分から何か話そうとした。

 後でもう一回聞いてみよう。
 聞けたら話を聞きたいし、それで言いたくないのならそれでいい。

 そんなことを考えていると、いつの間にか眠りについていた。
 畳は、ベットよりは硬かったけど、その時は不思議と寝心地がとてもよかった。


 目が覚めると、外ではひぐらしが鳴いていた。
 夕方。田舎。

 そして寒い。
 タオルケットが全て隣に巻き取られていた。

「……寒いんですけど」

「私はちょうどいいかな」

 ねえちゃんの声が背中越しに聞こえる。

 身体を起こすと、首元が凝っていて痛いことに気付く。
 隣を見ると、丸まったままこちらを見つめるねえちゃんが見えた。

「……なに?」

「……なんでもない」

 ねえちゃんが表情を変えずに返事をする。
 頭以外は、全身綺麗にタオルケットの中。

「そろそろ、晩ご飯、食べるよ」

 扉越しにチヨの声が聞こえてきた。

 ねえちゃんが布団を剥ぎながらガバッと起き上がる。

「お腹すいた」

 睡眠欲と食欲に忠実なのは健康な証拠。

 立ち上がって、ねえちゃんと肩を並べながら軽く伸びをする。
 ノースリーブだったので、いろいろと見える。
 ふむ。

 でも、ねえちゃんなので問題なかった。


 リビングに行くと、机の上にコップが並んでいた。
 なーちゃんたちが箸を並べている。

「もうちょい待っててねー」

 台所には部長が立っていた。

「焼きそば、作ってるから」

 チヨが隣で調味料やらなんやらの手伝いをしている。

「部長、料理できたんですね」

「えっへっへっ」

 出来上がった焼きそばをお皿にのせて、テーブルに運ぶ。
 九人もいるので、まるで林間合宿のようだった。

 焼きそばの味はまあまあだった。

 全員が食べ終わってから、ねえちゃんと俺で後片付けをする。

「任せちゃっていいんですか?」

 ナナコが台所を覗きにきたけど、「いいっていいって」とねえちゃんが追い返した。

「なら、二人のそれが終わったら花火しましょう」

 そう言って、ナナコはリビングに戻っていった。
 二人、というのは、たぶん、ねえちゃんと俺。

 台所には、かちゃかちゃという食器の音だけが響いていた。


「思ったんだけどさ」

「なに?」

 食器を洗いながら尋ねる。
 人の家の食器なので、割らないようにいつもより気を遣った。

「ねえちゃんって、このメンバーと知り合いだったの?」

 清掃部のメンバー。
 イチ、ナナコ、チヨ、部長。

 あんまり知り合いという印象はない。イチと知り合いだったのも最近知ったし。

「イチゲ以外は、あんたの家で会ったのが初めて」

 俺から食器を受け取って、洗剤を洗い落としながらねえちゃんは答える。

「まあ、今じゃ誰とでも話すけどね」

「そっか」

 ねえちゃんは、昔から人に合わせることがよくあるところがある。

 だから今回も、俺とムギちゃんにわざわざ付いてきてくれたのかな、と少し心配だった。

 けど、最近はナナコと話しているところもよく見かけるし、他の人とも普通に話す。

 合わせているわけではなく、自分がそうしたいから……だと、思う。

「無理してない?」

「むしろ楽しい」

 ねえちゃんは会話の二手三手先を読んだかのような返事を返してきた。

 こういう時は嘘をつかない。
 無理をしてる時は無理をしてると伝える。

 俺とねえちゃんのルールだった。

 ねえちゃんが無理をしてる、と言わないのなら、
 それはねえちゃんの意思で決めていることだろう。

 なら、それが一番。

「それはよかった」

 なに大人ぶってんの、と脇腹を肘で小突かれる。

 ちょっと昔を思い出す。

 二人で声を出さずに笑った。

つづく。

 夜は花火をした。

 買い出しの時に買い込んでおいたやつ。

 普段ならあまり騒がないように気をつけるところだが、今日は周りに人がいないので、騒ぎ放題だった。

 頭の端に、線香花火以外禁止、という会長の言葉がよぎったが、誰も気にしていないので忘れたふりをした。

 部長も気にせず火を準備している。

 イチが大きい花火に火をつけて、ムギちゃんやなーちゃんがきゃっきゃっと騒ぐ。
 チヨが火傷しないように、と子供達を見てわたわたしている。

 ねえちゃんも珍しくはしゃいでいた。

 派手な仕掛や手持ち花火は、始めのうちになくなってしまった。
 ねずみ花火なんかも好評で、あっという間に数を減らす。

 なくなるの早え。

 残りは打ち上げと線香花火。

 打ち上げ花火をしてくる、と部長が砂浜にかけていった。
 みんな、それに付いていく。

 防波堤の上に残ったのは、ちょうど休憩していたチヨと俺だけになった。

 ……ちょうどいい。

 夜、横になっても、なかなか眠りにつくことができなかった。

 ゴロゴロしてても瞼が重くなる気配はなかったので、起き上がって、気分転換にベランダに出てみる。

 縦になっても眠くなることはなかった。

 深夜だったので、波の音がよく聞こえる。

 こなたはベランダの手すりに腰掛けていた。
 俺は背中を手すりに預けて、空を見上げる。

「そんなとこいたら落ちるよ」

「恋に?」

「ベランダの下に」

 嘘みたいに綺麗な星が、少しづつまたたきながら、真っ黒な海で輝いている。

「こういう高いところって、ワクワクしますよねー」

 ベランダの下に広がる海から、やけに鮮明に波の音が聞こえてくる。
 山の方からは虫の鳴き声が聞こえていた。

 二時過ぎ。昼間ではなく深夜。

 良い子は布団に包まって、眠りの底にいる時間だった。

「それにしても、さっきの千陽さんのこと、驚きましたねー」

 そういう割には、こなたは別に驚いている様子はなかった。
 昔読んだ面白い本を読み返した後、みたいな。

「まあ、人の好みは人それぞれだからな」

 個性とも言う。

「せんぱいも、いつ男の人を好きになるかわかりませんからね」

「それはない」

 ……と信じたい。

 でも、なったらなったで、それも楽しいのかもしれない。
 今のところ男に惚れる予定はないけど。

「ところで、千陽さんの好きな人がわかったところで」

 こなたはベランダにすとん、と降りた。

 気のせいかもしれないけど、降りた時に音がしなかった(聞こえなかっただけかもしれない)。

「せんぱいは好きな人、いないんですかー?」

 こなたの口から『好きな人』と聞くのは何故か違和感があった。

 なんか、想い人、とか言いそうな雰囲気なのに。急に若者感。
 まあ若いんだけど。

 黙ってさそり座を探していると、こなたの追撃が横からとんできた。

「ほらぁ、せんぱい、今ならより取り見取りですよー」

「俗な言い方をするんじゃない」

 頭を軽く叩こうとすると、さっと横によけられた。
 避けられたみたいでちょっと凹む。

「だって、千陽さんはまあ、いばらの道ですけど、音絵さんに、暦さん、菜々子さん、部長さんに、それから一夏さん」

「…………」

「あ、もしかして晴和ちゃんたちも射程圏内ですか?」

 それはない。

 ですよねー、とこなたは笑う。

「まあ小学生にドキッとする高校生は、いささか見過ごせませんねー。
 ましてや、その齢の女の子の胸の膨らみを気にするような男性も、ちょっと如何なものかと思いますけど……」

 まあ、せんぱいならその心配はもちろんありませんよね? と、こなたはわざとらしく下から覗き込んできた。

「当たり前じゃないか。俺は身長の問題上、小学生の胸部は視界に入らない」

「それなら安心です」

 安心された。俺も安心。

「で、どなたにされるんですか?」

 振り出しに戻る。

「いや。選ぶとか、その、そう言うのじゃなくない?」

「えー、もったいないですよー。世の中には女性と話す機会すら与えられていない人もいるんですから」

 空には月は浮かんでいなかった。
 おかげで星がよく見える。

「その点、せんぱいは物凄いですからね。毎日のように女性とスキンシップをとっています」

「いや、とってないし」

「え?」

 これでも細心の注意は払っている。

「でもさっき、台所で……」

 ねえちゃんは話が別だった。

「あれは姉弟みたいな」

「都合の良い言い訳ですね」

「てへ」

「きもいです」

 夜遅くだと、口数が増える。
 心なしかこなたもよく喋るし。


「で、どなたなんですか?」

「粘るね、キミ」

「夜は時間が掃いて捨てるほどありますからねー」

 たしかに、夜の五分と朝の五分では、価値が月とスッポンのレベルで違う。
 ……ちょっとニュアンスが違うか? 夜なので頭が回らない。

「正直な話」

 こなたは急に神妙な口調になった。
 神様が妙な顔をする。

「せんぱいは、江戸時代でいう大奥の将軍になりたいと」

 突然古風な言葉を使いやがる。

「もっと簡単に言って」

「ハーレム築きたい」

「いや、それはちょっと語弊がある」

 いろいろと問題がある。

「だって、可能であれば、全員と手を繋いでみたいんですよね?」

「なんて健全な思考の持ち主なんだ俺は」

「その程度しかする度胸がないと貶しているんですー」

 貶されていた。

「そして、仮にせんぱいに度胸があれば、全員と淫猥な関係を持ちたい……と」

「淫猥とか言うんじゃない」

 今日のこなたはテンションが高い。

 夜遅くに気分が盛り上がるのは俺だけではなかったようだ。


「まあ、つまり何が言いたいかと言いますとー」

 俺は黙って、こなたの言葉の続きを待つ。

「そういう場合、全員は選べませんよ」

「…………」

 それはわかってる。

「ハーレムを築ける人なんて、聖徳太子くらいです」

 なんで聖徳太子。

「あの人はすごかったんですからねー。
 まあ、あれほどでもないと、そう言う関係になりたいのなら、一人しか選べませんよーってことです」

 わかってる。
 そもそも、努力をしなければ、一人の人に好かれることすら難しい。

 今だって、部員だから仕方なく関わってくれているだけで、もしかしたら全員が俺のことを嫌っている可能性だってあるのだ。

 ……考えたくはないけど。可能性はゼロではない。

 でも。俺は、できることなら、

「このままの関係がいい」

 こなたは、俺の心の中を読んだかのようなセリフを口にした。

「ですが、それができるのは、せいぜい聖徳太子くらいですよ」

 だからなぜ聖徳太子。


「……俺は、今の雰囲気が好きなんだけど」

「雰囲気だけを求める人は、いつか手元に何も残らなくなります」

 こなたは手すりの上に登った。
 両手を開いて、揺れる身体のバランスをとる。

「同じ雰囲気を求めるのなら、現状維持ではなく、変わることで再び同じ雰囲気を再現することが、最善手だと……」

 こなたがピタッと固まり、夜空を見上げる。
 後ろ髪は、夏休み前からちっとも伸びていなかった。

「……こなたは思いますけどねー」

 こなたの声が頭に響く。

 目を閉じる。

 どうなんだろう、と俺は思った。

 視界から情報が入らなくなると、耳に届く虫の鳴き声が、何重にも重なって聴こえた。

 なんというか、その。

 なんだかなぁ。

 その晩、いつから夢を見ていたのか、よく覚えていない。
 もしかしたら全て夢だったのかもしれない。
 こなたと話したことも、チヨから話を聞いたことも、合宿に呼ばれたことも。


 でも、目が覚めたとき、俺はロフトに敷いた布団の中にいた。合宿に来たのは夢ではないようだ。
 さすがに寝る場所は分けたほうがいい、と言ったのはいいが、寝る場所がなくて、結局ロフトを選んだことは、なんとか思い出せた。

 時間を確かめると、朝の五時。いつもより遅い時間。
 随分と汗をかいていたので、水着に着替えて、早朝の海に飛び込んだ。震えるほど寒かった。

 砂浜に座って、だんだんと高くなっていく朝日を眺める。
 うしろから聞こえてくるセミの声と、砂浜を削りとっていく波の音が、綺麗に揃って聞こえた。

 虹色のような境界の朝空を遠くに見つめていると、この世界には俺一人しかいないんじゃないか、と錯覚しそうになる。

 背徳感。

「なにしてるの?」

 不意に、うしろからかけられた声に振り返る。波の音。

「やは」

 寝巻きのままのイチが、防波堤の階段を降りてきていた。セミの声。

 まだ眠たそうな目をしているイチは、少し離れた俺の隣にきて、大きく伸びをした。珍しく髪をおろしている。

「ちょっと母なる海と対話してた」

「ふうん」

 何をしていたのか、自分でもよくわからない。
 さっき見た夢もふわふわと思い出せなくなっていた。


「イチ」

 突然名前を呼ばれて、隣に座る女の子がこちらを振り返る。

「なに?」

「もしさ」

「うん」

「聖徳太子になれるとする」

「……聖徳太子ね」

 かつての聖人。

「なる?」

「いや、ならなくていい」

 イチは当たり前のように返事をした。

「人の話を十人も同時に聞けるのに?」

「それは確かに便利だけど、聖徳太子は私じゃないし」

「聖徳太子は私じゃない」

 なるほど、と思った。

 確かに、聖徳太子になってしまうと、自分だけでなく、周りの関係まで変わってしまうのかもしれない。
 親も、知り合いも、友人も。

 それは普通に嫌だ。
 
「どうしたの、藪から棒に」

「いや、ちょっとね」

 頭に浮かんだだけです。
 どうしてかはわからない。

「ふうん」

 イチは海に目線を向けた。

 彼女は左手で貝殻を拾って、波の中に投げ込む。
 貝殻は一瞬で見えなくなった。

 でも、潮が引いてきているから、後から探せばまた見つかるかもしれない。
 その必要は、たぶんないけど。

 イチは隣に座っている。

 浜辺には二人だけ。

 もし防波堤と砂浜でこの世界を区切ってしまうなら、ここには俺とイチしかいないことになる。

 イチがここにいるということは、
 たぶん、俺はまだ嫌われてはいない、ということ、だと思う。

「ねえ、イチゲさん」

「なに」

 久しぶりにあだなではなく名前を呼ぶと、なんだかちょっぴり違和感があった。
 いい違和感。言葉にしづらいけど。

「俺って嫌われてると思う?」

 イチは露骨に「はぁ?」という顔をした。

「なんで突然」

「いや、なんとなく。不安になって」

 実は朝起きた時、いつもそれを思って不安になったりしてます。

 俺の父さんは、俺が小学四年生のときにいなくなった。
 朝起きると、車がない。帰ってこない。

 父さんは、俺と母さんよりも、俺の知らない女の人を選んだ。
 俺が嫌われていたから、可愛くなかったから、かもしれない。

「うーん、難しい質問だけど」

 難しい質問らしい。

「少なくとも、私は、嫌いではないよ」

 イチは海に向かってそう言うと、さっきの俺のように、貝殻を投げた。
 泡が立って、貝殻が海に沈んでいく。

 泡沫。

 はかなく消えてしまうものの例え。

 今は嫌われていないということに、少し安心する。
 でも、いつそれが変わってしまうかは、誰にもわからない。

 こう考え始めてしまうと、もうキリがなかった。

 日が高くなってきて、ログハウスの方から話し声が聞こえてくる。
 イチはしばらく落ち着かなさそうに後ろ髪を撫でていたけど、立ち上がって、「もどろっか」と呟いた。

 俺も頷いて、重たい体を砂浜からもちあげる。

「あ、そういえばさ」

 イチが振り返る。

「聖徳太子って、実は架空の人物かもしれないんだって」

「へえ」

 ……案外、そういうものなのかもしれない。

 結局その日は、夕方まで騒いだり笑ったり、喚いたりして過ごして、夕方頃の電車に乗って帰った。

 ゴミはまとめて置いて帰っていいと言われたので、帰りの荷物はかなり少なくなっていた。

 みんなはほとんど眠ってしまっている。

 なーちゃんとムギちゃんがチヨの肩に頭を乗せ、チヨは膝に抱えたバックに顔を埋めて眠っていた。
 後ろ髪がくくってある。

 窓の外には、見たことないような、あるような、田んぼがひたすら並んでいる景色が流れていた。

 ぼーっとそれを眺める。

 ガタンゴトンと揺れる電車の音を聞いていると、たしかに少し瞼が重たくなった。

 合宿が終わった。

 いつの間にか、夏休みが半分も終わってしまっている。
 が、去年とは違って、焦燥感に駆られることはなかった。

 たまに課外にも行ってるし、毎日家にこもっているわけでもない。
 こうして合宿もしてるし、ムギちゃんたちに連れられて外に遊びに出かけることもある。運動にはなっているだろう。

 気がかりなことがあるとすれば、課題くらいか。
 いい加減本気で取り掛からないとまずいのかもしれない。

 でもまあ、最悪、課題は最後にまとめてやればいいか。

 そう思えるだけ、やはり去年とはだいぶ違う過ごし方をしていた。

 去年の今頃だと、課題を終わらせないと、と毎日不安になりながらも、なかなか行動が起こせていない頃だろう。

 そう考えて、去年とは違う環境にいるんだな、と実感する。

 車内を見渡すと、ウトウトとしているイチと目が合う。

 特に意味もなく頷く。イチも頷き返してきた。たぶん意味はない。

 もうすぐ最寄りの駅に着く。

 こんな時間が続けばいいのになぁ、と思う。

 まあもうすぐ電車は停まってしまうのだけど。そうではなくて、こう、ニュアンス的な。

 こういう雰囲気を、保てればなぁ、と。

 最近しばらく思っている。

 安心できる居場所が、やっとできた。
 ねえちゃんと俺だけでは、つくることのできなかった居場所。
 家族……ではないけど、なんというか、こう。

 なんというか。

 言葉にするのは困難を極める。
 それくらい脆いのかもしれない。

「どうかした?」

「……え?」

「難しい顔してる」

 イチが眠たそうな眼でこちらを見ていた。

「そうかな」

 まあ、言葉にできなくても。

「なんでもないならいいや」

「おう」

 今はまだ、このままで。

 まだ夏休みは残っている。

 まだまだやりたいことはあるし、やっていないことがたくさんある。

 自転車で遠くに行ってみたり、ユウキ達とバーベキューをしたり。
 徹夜で何かしてみたり、カブトムシも捕まえたい。
 映画なんかも面白そうなモノをやってるし、そういえば花火大会も、今年はまだ一度も行っていない。

 そう考えると、胸が少し高鳴った。

 夏の日は長い。
 時間はまだある。

つづく。

もうすぐ終わりそうです。

 翌日の課外は午後からだった。

 午前中は雨が降っていたが、昼が近づくと、さっきまでの天気が嘘のように晴れ渡っていた。

 玄関を出ると、蒸し風呂のような熱気と湿気が襲いかかってくる。

「暑い」

 文句を言っても仕方あるまい。
 課外の荷物を持って、学校に向かう。

 通学路で、それほど仲良くないクラスの男子に出会った。

「おう」

「おはようございます」

「なんで敬語なんだよ」

「いや、なんとなく」

 なんとなくです。
 あんまり話さない人と話すときって、どうしたらいいかよくわからない。

「最近なんかあった?」

 そう聞かれて、うまいこと答えられるのはほんの一握りの人間だと思う。

「特に、ないかな」

「へー」

「お前は?」

「実はな……」

 彼は続ける。

「彼女できた」

「マジか」

 微妙な歩幅。
 ゆっくり歩くべきか早く歩くべきか迷う。

「え、誰?」

「えっと、一年生の」

 一年生。
 コヨミちゃんくらいしか知らない。

「…………」
 
 ……コヨミちゃんじゃないよね?

「前川って子。知らない?」

「ごめん、知らない」

 知らない。よかった。

 何故だか、知り合いの女子に彼氏ができるというのは少なからずショックを受ける。
 いや、俺がそんなこと言う立場ではないことはわかってるけど。

 なんというか、ね……?

 結局、そいつの惚気話を聞いている間に、教室についてしまった。
 教室に入ると、どちらからともなく距離を取り、そいつは別の友達と話す。

 が、ユウキもチヨも来ていなかったので、俺は一人で椅子に座っただけだった。

 しばらく待っていると、きいちゃんが教室にやってくる。

「今日も暑いね」

 授業はいつも通りわかりやすかった。

 課外が終わって、まだ帰るのはなぁ、という時間になる。

 チヨは課外の続きへ、ユウキはそもそも来ていなかった。何かあったのだろうか。

 家に帰るのも、この暑さだし、なんだかなぁ、というか。
 どうせ帰っても誰もいない。

 せっかくなので部室に行ってみる。
 鍵が開いてなかった。

 渡り廊下に行ってみる。
 が、今日はこなたはいないようだった。

 スマホが鳴る。ユウキからだ。

『む休外課らかたし坊寝』

 何かの暗号かと思い、しばらく考える。

 が、よく見ると単に反対側から読むだけと気付く。しょうもない。
 そういう手間をかけることを、ユウキは惜しまない。

「生徒会室に行きましょう」

 突然頭に浮かんでくる。天誅?

 そういえば生徒会室にまだ行ってなかった。
 踵を返し、生徒会室に向かう。暑さで頭がどうにかしてしまいそうだった。

「だからなぜ来る……」

 生徒会室の扉を開けると、ねえちゃんが困ったようにため息をついた。
 会長と部長が後ろで笑っている。

「え、来ちゃまずかったですか」

「いやぁ、つい今まで、なんで生徒会の人以外もここに通うようになってんの、ってねえちゃんが言っててさ」

 部長が笑いながらそういう。

 ねえちゃんがため息をつくと、会長とコヨミちゃんが目線を窓の方へ向けた。

「だってここなら、エアコンも効いてるし、いつも誰かいるんだもん」

 部長が俺の方を見る。

「ですよね」

 俺は頷く。

「私たちは一応文化祭やら体育祭やらの準備してるんだけどね?」

「……そうだぞ?」

「会長も一緒になって遊んでるでしょうが」

「へへ」

 会長は誤魔化し笑いが下手だった。

 でもなんとなく憎めない。
 そういう人だった。

 コヨミちゃんが椅子を勧めてくれたので、そこに座る。よく見るとまだ予備があった。
 なんでこんなに椅子があるんだ、この部屋。生徒会は三人しかいないはずなのに。

 会長と久しぶりに話した気がする。
 少し会わない間にずいぶんと髪が伸びたような印象を受けた。が、校則は守ってる。

 でもよく考えたら全然久しぶりでもなかった。
 なんだろう、この感じ。

「そういえば、花火やっちゃいました」

「ん?」

 会長が聞き返してくる。

「線香花火以外のやつです」

「マジか」

「うん、合宿で!」

 部長がそう言うと、会長は「あぁ」と頷いた。

「まあキミたちはあまり騒がないし、近所じゃないなら問題ないね」

 会長はさして気にする様子もなく普通に流した。
 まあ、ルールなんて、多少は破れてもいいようにできているのかもしれない。

 会話はほとんどあってもなくても問題ないようなものばかりだった。
 
 課題をやったとかやってないとか、今年は海に行ったとかまだ行ってないとか、そんな感じの。

 会長にログハウスの目の前に海があったことを話すと、やけに羨ましがっていた。
 あと、ボロボロの小屋があったことや、ツタに覆われた廃車があったこととか。

 もしかしたらそう言う面では気が合うのかもしれない。廃墟とか田舎とか好きそう。

 ふと窓の外を見ると、屋根のない渡り廊下が見えた。手すりの塗装が剥げている。

 なんだかなぁ。

 ずいぶんと話し込んだはずなんだけど、何か物足りない。
 お喋りしたり喚いたりしてるのは楽しいけど、何か、こう、欠けてるような。物寂しい。

 どうしてかは、わからないけど。

 一通り話すことがなくなって、帰ろうか、という頃には、時計の針はすでに左下を指していた。
 
 ムギちゃんはチヨの家で食事を済ませてくる、とのことだったので、ねえちゃんとファミレスに寄っていく。

 なぜか生徒会の二人と部長も付いてきた。
 五人。

 最近大人数で行動することが増えていたが、それでもテーブル席は狭く感じた。

 まあでも、人数は多いほうが楽しい。

 会長が変な色をしたジュースを持ってくる。

「なんですかそれ」

「俺はドリンクバーの魔術師と呼ばれていてな」

「なんですかそれ」

 一口飲ませてもらうと、たしかに美味しかった。なんだあれ。

 同じレシピで俺が混ぜたものは普通にまずかった。なぜだ。

 コヨミちゃんがクスクス笑っている。

 その日はムギちゃんからの連絡を待ってから迎えに行こうと待っていたのだが、
 結局、ムギちゃんはチヨの家に泊まることになったらしい。

 ファミレスを出たのは夜の七時過ぎだった。

 その頃にはみんな話し疲れてヘトヘトで、帰り道はずいぶんとゆっくり歩いていた。ヒグラシが鳴いている。
 一人二人と減っていって、最後は俺とねえちゃんだけで、トボトボと見慣れた道を歩いていた。

 橋の上を通る時、沈みかけの夕陽が川面に反射して、やけに眩しかった。

「そういえばあの子」

「ムギちゃん?」

「うん」

 ねえちゃんは頷く。

「もうすぐ帰る」

「え」

 ……少し考えて、帰る、というのが、
 ねえちゃんの家に、ではなく、ムギちゃんの家に、ということに気付く。

 そういえばムギちゃんは、しばらくの間、お泊りに来ていただけだった。

「……いつごろ?」

 少し寂しさを感じながら、まあ、仕方ないよな、と自分に言い聞かせる。

 ムギちゃんはまだ子供だ。俺たちも。

「花火大会の次の日」

 ということは、今週末……明後日か。

「だいぶ近いな」

「まあ、あの子は宿題持ってきてないし」

 帰ったら宿題地獄だ、とねえちゃんは笑っていた。でもちょっと寂しそうだった。

 それから、二人で黙って家まで歩いた。

 家の前で別れて、一人で「ただいま」と言う。
 もちろん誰も返事をしない。

 シャワーを浴びて、歯を磨く。

 テレビを付けてみたが、面白そうな番組はなかったので、スマホのミュージックを開いて、aikoの花火を聴く。

 なんとなくいい気分になったけど、曲が終わると一気に虚しくなった。

 寝よう。

 その夜はなかなか眠りにつくことができなかった。
 夜中に何度も目が覚めて、水を飲みに下に降りることが何度かあった。

 そういやウォーターサーバー買ってないな。
 まあ、なくてもなんとかなるし、別にいらないか。

 ベットに転がって、天井を眺める。

 今日のことを思い出す。
 たまたま生徒会室が思い浮かんで、そこで会長やコヨミちゃんたちとお喋りして。

 楽しかったはずなんだけど、何か足りてないような。

 なんだろう。よくわからない。

 その夜はずっと悶々としていて、やっと眠りにつけたのは、日付が変わってしばらくしてからだった。

 翌日は、珍しく母が休みだった。

 休みの日は昼過ぎまで寝ているので、夏休みでもないとゆっくり顔をあわせることはない。

 休めるときはしっかり休む。大事なこと。

「おはよう」

「おはよう」

 そう言って顔を合わせたのは、太陽が真上を通り過ぎた後だった。

 二人分のコーヒーを注いで、適当に食パンを焼く。
 ジャムは何種類かあったはずだけど、いつの間にか残りはイチゴだけになっていた。
 また買い足しておかないと。

「いただきます」

 そういえば、中学校にあがったあたりから、俺はあまり母が食事をしているところを見たことがない。
 会わないんだから仕方がないかもしれないけど。

「おいしい」

 まあ、パンをトースターに入れるだけだし。手軽で簡単。
 昼にパンというのもどうかと思ったが、朝食兼昼食と思えば不自然でもない。

「……最近、どう?」

 コーヒーを一口飲んで、母は口を開いた。

「まあ、ぼちぼち」

「洗濯、いつもありがとう」

「俺のもあるし」

「ご飯とかも」

「ねえちゃんもいるしね」

「そうだ、ねえちゃんと仲良くやれてる?」

「うん」

 心配だったことに一つづつチェックマークを付けていくように、母は俺に尋ねる。
 やっぱり、親として不安に思うところはあるんだろう。

「子供はまだ作らないでね?」

「男女の仲ではない!」

 でも基本的に冗談が好きな人だった。

 母は、パンを一口かじりながら、「つくるならせめて高校卒業してから……」と笑った。

「でも、そういう相手はないいの?」

「そういう相手」

「彼女とか」

 ……やっぱり、親として不安に思うところはあるんだろうか。

「聞いたよ? ねえちゃんから……」

 なにを言いやがった、とヒヤヒヤしながら、逃げるようにコーヒーに口をつける。

「ちょっと前に、ちょうど帰ってきたとき、コンビニに出かけようとしていたねえちゃんに出会ってね。少し話したのよ」

 母が帰ってくるのは随分遅いはず。
 そんな時間に出歩いたら危ないだろうに。

「最近、部活の人がよく遊びに来るそうじゃない」

 母は嬉しそうにそう言う。

 部活の人。
 イチ、チヨ、ナナコに部長。
 それからハルとなーちゃん、ムギちゃん。

 そう考えてみると、やっぱり多い。
 こうしてリビングを見ると、やけに広く感じた。もともと無駄に広い家ではあるけど。

「しかもほとんど女の子。やったね、ハーレムじゃん」

 親がそういうこと言うか。

「いや、でも部員の一人に小学生くらいの弟がいて、そいつも来てるから……」

「なに、小学生くらいの男の子なんて女の子みたいなものよ」

「よくわからないです」

 相変わらず母は平常運転だった。安心。


 まだ何か言おうとしていたが、続きが思い浮かばなかったようで、母はトーストに目線を落とした。

 俺もコーヒーを少し啜る。

「仕事、忙しい?」

 そう言いかけて、言葉を飲み込む。

 忙しいのは目に見えてる。なんで質問しようとしたんだろう。

 部屋に、時計の音が流れ込んでくる。

 さっきまで鳴っていることすら気づかなかったのに、静かになってみると聞こえてくる。不思議。

 ーーたまに、思う。

 今でも父がいたら。今ほど母は忙しく働いていなかっただろう。
 今より早い時間に家に帰ってきて。今よりもう少し話す時間があって。

 学校で友達と話したりするとき、「親に怒られるから」と聞くことがある。

 親に怒られる。最後に怒られたのはいつだろう。
 うんざりとした様子で友達は話していたが、そこまで嫌に感じるものなのかな、と思った。

 家に帰ると、必ずそこに人がいて。

 寝るとき、一人しかいない家のリビングの電気を、点けっぱなしにしたり。

 誰よりも早く起きて、せめて、出かけて行く時は見送りをしたり。

 そういうことは、たぶん、ないんだろう。

 少し羨ましくはあった。

 ……だからと言って、母に不満があるわけではない。
 女性が一人で子供を育てる、ということが大変なのは知ってるし、俺は生活面では、何一つ不自由はしていない。

 食べたいときに食べられるし、欲しいものは買えるだけのお金は預かっている。
 それをさせてくれるのは、感謝するべきことだし、立派だと思う。

 だけど、少し、心細く思うことはあった。

「もう高校生も半分終わってるのね」

 沈黙を打ち破るように、母が呟く。

 そうだね。気がついたらもう十七だ。

「進路はどうするの? 大学行きたい?」

「うん、できれば」

 周りは皆そうするだろうし、俺も大学はいってみたい。どんなところかはよくわからないけど。

「無理そうなら、べつに」

「そんなことないよ。好きなようにしなさい」

 最悪、あんた一人くらいなら養ってあげられるから。と、母は冗談っぽく笑った。
 
 そう言えるような大人になりたい、と思った。
 そう、思わせられるということは、やっぱり母は頑張っている。

「……ちゃんと、やれてる?」

 母が尋ねてくる。

「うん、やれてるよ」

 楽しくやってます。毎日のように来てくれる友達もいるし、学校でひとりぼっちになることもない。

「よかった」

 母はそう言うと、残りのコーヒーを飲み干した。
 食器を軽く水で洗う。

 しばらくテレビを見てぼーっといたが、母はすぐに寝室へ戻っていった。
 休みの日は寝溜めしておきたいのかもしれない。

 俺も、まだ半分以上残っていたぬるいコーヒーを飲み干して、自室に戻る。

 課題でも進めておこう。
 早めにやっておくに越したことはない。

つづく。

 八月の半ばごろ、近所の河原で花火大会が開催される。

 広い河原にいくつもの屋台が立ち並び、わりと豪華な花火が何発も打ち上げられる。

 近所の人から、遠方からわざわざ見に来る人まで、たくさんの人が河原やその周辺に溢れかえる。
 浴衣を着ていたり、涼しげな格好をしていたり、かと思えば動きやすそうな服装だったり。

 昔ながらの祭りと花火を楽しむ老人から、親に連れられてきた小さな子供、友達や恋人なんかと遊びに来た若者まで、その見た目は様々だ。

 屋台が立ち並ぶ河原に降りると、焦げたソースの食欲を誘う匂いが、辺りに立ち込めている。
 人々は、カキ氷やらりんご飴やら、普段は食べられないようなものを、異様に高いお金を払って食べる。味は微妙。

 夜の風は涼しい。

 普段は出歩かないような時間に遊べることもあって、あたりの雰囲気は浮き足立ったものになる。

 だが、ここは一応観光地でもある。

 メインの会場である河原の反対岸に行けば、騒がしい人混みは減り、静かな雰囲気で花火を楽しめる。

 石垣の土手の上から桜が並んでいて、夜風に揺れる桜の枝と花火を、同時に見れたり。
 風流。趣深い。

 という旨の紹介を以前したら、ムギちゃんは「行ってみたい!」と目を輝かせていた。

 当日。
 想像通り、ムギちゃん、なーちゃん、ハルの三人は、祭りを楽しみにしていたらしく、わいわいと騒ぎながら歩いていた。

 でも、明日にはムギちゃんが帰ってしまうせいか、いつもよりはしゃぐ声が小さい気がした。

 ねえちゃんとナナコが、橋を渡りながら、あとで桜の下で花火でも見ようか、と話しているのが聞こえる。

 チヨは部長の隣を歩いていた。
 今日も後ろ髪を結んでいる。

 今日はねえちゃんと俺、それからハル以外、全員浴衣を着ていた。

 自分のものを着ている人もいたが、持ってない人は部長の家にあったのを貸してもらったらしい。

 ねえちゃんは「浴衣は脱ぐときがなんか寂しい」と言って着なかった。

 屋台の群れの中に入ると、周りの人が何を言っているのかわからないほどの喧騒に包まれた。
 一人一人は騒いでいるわけではないのに、その人混みの中に入ると、隣の人の声すら聞きづらくなる。

 お互い姿を見失わないように屋台を見て回っていると、予想に反して、ねえちゃんとナナコは随分とはしゃいでいた。
 子供達と一緒になって、屋台を満喫している。

 そのすぐ後ろに、チヨと部長。

 何を話しているかは聞き取れなかった。

 後ろの方は、屋台と喧騒を交互に眺めているイチと、はぐれないようについていく俺、となっていた。

 イチは相変わらずポニーテールだったが、浴衣を着ていたので、だいぶ印象は違った。

「似合う?」

「うん」

 じろじろと眺めるのはなんだか照れくさくて、服装を具体的に褒めることはできなかった。

 でも、屋台に並ぶ豆電球の灯りのせいか、いつもとは、だいぶ違う雰囲気を纏っていた。
 他の人も、だけど。

 人混みの中、ところどころ歩くことすら難しい場所もある。

 はぐれないように気を配っていると、どうしても距離が近くなる。

 それくらい多くの人が来ていた。
 片手に金魚を持っていたり、クレープやら焼きイカなんかを食べていたり。


 途中で射的の屋台があって、ムギちゃんがやりたい、と言ったので、そこで立ち止まる。

 ムギちゃんは一発も当てられなかった。でも楽しそうだった。
 部長とハルはそこそこで、初めの数発は外したものの、半分くらいは的に当たっていた。

 意外なのがなーちゃんだった。

 ほぼ全て命中していた。

 本人は「むずかしい」と言っていたが、かなりの腕だった。
 もしかしたらスナイパーとか向いてるかもしれない。

 その後、スムージーの屋台に女子勢が反応して、しばらく並んで待っていた。

 スムージー。お洒落な響き。……そうでもないかもしれない。

 並んでいる間ははぐれることもないし、待つことは苦ではなかった。

 部長は、あんまりいらないや、と言って、チヨのを少し分けてもらっていた。

 もうすぐ花火が始まる、というアナウンスを聞きながら、人混みをかき分けるように進む。

 歩いてる時、イチが前から歩いてきた人にぶつかって、後ろによろける。
 位置的に、俺が支えるかたちになる。

「……あ、ありがとう」

 思っていたより、細くて軽い身体。

「どういたし、まして」

 シャンプーのいい匂いがした。

 浴衣が想像より硬いせいか、触れてしまった、という感覚はあまりなかった。

 なんだか照れくさくなって、そのまま二人とも無言になって、人混みの中、みんなの後ろを、肩を並べて歩く。

 人が多いから、いつもより、ちょっとだけ近い距離。
 いつかの雨の日を思い出す。

 普段なら、暑苦しいと感じるかもしれないこの距離も、今日は不思議と、そんなこと、全く考えなかった。

 足元には河原特有の大きめの砂利が敷き詰めてあって、まっすぐ歩くのは難しい。ゆっくりと転ばないように歩く。

 少し後ろから、はぐれないように、俺の服の裾が、遠慮がちにつままれていた。

 弱めの力で、でも離れないような、まるで裾に自分の意識が移ってしまったかのように、鮮明に感覚が伝わってきた。

 自分の鼓動が周りに聞こえてないか、不安になる。そんなことはないはず、だけど。

 と、油断していると、足元の石につまづく。

 身体が後ろに傾く。
 イチの右腕に、俺の腕が触れる。

 指が触れそうになって、あわてて手を引っ込めた。
 彼女が驚いて手を丸めたので、一瞬だけ人差し指と人差し指が触れる。

 こんな人混みなのに、イチが短く息を吸ったのが聞こえた。

 なんだ。

 なんというか。

 その。 何をやってるんだ、俺。

 すこし離れたところから、「置いてくよー!」とムギちゃんの声が聞こえる。
 二人であわててかけていく。

 どうしてか、その間、イチの顔を見ることができなかった。

 みんなと合流する。

 ねえちゃんは両手に綿飴の袋とイカ焼きを持っていた。
 ナナコはりんご飴を齧っている。
 部長とチヨがいい感じにまとめてくれていて、子供達がはぐれることはないようだった。

 次はアレ見たい、となーちゃん達がはしゃいでいる。
 はぐれないように、とチヨが慌ててついていく。

 賑やかだった。

 賑やかだったせいか、少しずつ油断してしまう。
 そもそも集団で動くときは、俺はあまり話に入れていない。

 ふと前を向いた時、みんなの背中は見えなくなっていた。

「……あれ」

 迷子だった。

 とりあえず連絡を、と思いスマホを取り出そうとして、家に忘れてしまったことに気付く。

 後ろの方を見ても、見慣れた顔はいない。
 立ち止まっても通行の邪魔だと思い、ひとまず喧騒の中を歩く。

 なんだかなぁ、と思う。

 一人になると、さっきよりも一層、周りの声が大きくなったような気がした。

 ふう、と息を吐く。

 すれ違うカップルが、やたらと目に付いた。

 もうすぐ花火が始まる、というアナウンスが、騒音に混じって、途切れ途切れに聞こえてくる。

 周囲を見渡すように歩いていると、基本的にどの屋台にも、列が並んでいることに気づく。
 列がない屋台は、お面の屋台と、しょぼいクジ引きの屋台くらいだった。

 人が少ない道が、自然とわかってくる。

 気がつくとすごい速さで歩いていた。

 このままじゃいつか転ぶな、と思い、少し歩調を緩める。

 と、後ろから、遠慮がちに肩を叩かれた。

「先輩?」

 振り返ると、かなり近い距離にコヨミちゃんがいた。浴衣。
 あたりに他の一年生は見えない。

 驚く。
 そして知り合いがいたことに少し安堵。

「先輩、一人ですか?」

 コヨミちゃんにしては声が小さく、周りの騒音も手伝って、声が聞き取りづらかった。

「いや。迷子」

 通る人の邪魔にならないように、河原から上がって、土手に登る。

 少し暗くなるが、それでも人は多かった。

「なら、見つかるまで一緒に歩きましょうよ!」

 一人で歩くのはやたらと寂しかったので、その提案に頷く。

 土手の道は明るくなかったので、その時コヨミちゃんがどんな表情だったのかは、わからない。


「先輩、もうすぐ花火、始まりますよ」

「だな」

 そういえば、さっき、ねえちゃんとナナコが、桜の下に行く、と話していた覚えがある。

「コヨミちゃん、向こう岸行ってみよう」

「いいですね、あっちの方が探しやすそうです」

 二人で並んで橋を渡る。
 橋の上は思ったより多くの人がいた。椅子を置いていたり、カメラを構えていたり。

 コヨミちゃんが浴衣を着ていたので、歩きにくいかと思い、少しゆっくり歩く。
 こうしてみると、案外コヨミちゃんは背が低いことに気付く。

 橋を降りて、土手沿いの道を、みんなを探しながら歩く。
 どの桜の木の下にも家族連れ、老夫婦、カップル、と人はいたが、上流の方に歩いていくうちに、次第に人影は減っていった。

 そうこうしていると、下流の河原の方から歓声が聞こえてくる。

 コヨミちゃんにつられて空を見上げると、ちょうど一発目の花火が打ちあがっているところだった。

 眩しいくらいの火花が夜空に散って、
 心臓に響くような爆音が鳴り響く。

 すげえ。

 でかい。

 二発目、三発目、と花火は気前よく夜空に飛んでいく。
 打ち上げ場所から少し距離があったので、光と音のタイミングがずれているのが、なんだか不思議な気分になった。

 秒速三百四十メートル。

「すげえ綺麗」

「ですねー……」

 コヨミちゃんも、広い夜空を見上げて、花火を楽しんでいた。

「よかったら、その辺に座りませんか?」

「うん、そうしよう」

 合流するのは後でも問題ないだろう。

 せっかくの花火を流し見するのはもったいない。

 ーーでも、何か忘れてるような。

 コヨミちゃんと二人で、土手から降りる。

 この辺りは花火から離れているので、人はあまりいなかった。
 やろうと思えば、斜めになっている芝生に寝転がって花火を眺めることもできる。

「寝転がる?」

「寝転がっちゃいますか!」

 コヨミちゃんがクスクス笑いながら、芝生の上に体を預けた。

 黒い髪が芝生の上に広がる。

 ちょっと見とれて、何見てんだ、とすぐに冷静になる。


 俺も同じように体を傾けて、ななめ上を見上げると、綺麗に花火が見えた。

「おお」

 川はゆったりと弧を描く形になっていて、ちょうど真正面あたりに花火が打ちあがっているので、首を曲げる必要がなかった。

 すげえ。

「特等席だな」

「ですね」

 コヨミちゃんも同じように笑っていた。

 思わぬ穴場を発見してしまった。

 一発、また一発と、彩り豊かな火花が、黒い夜空に色を散らして消える。

 まとめて何発か打ち上がる。
 眩しくて少し目を細めてしまった。
 音もすごい。

 去年は、どうやって花火を見ていたっけ。

 少し考えて、
 そういえば去年は家から出なかったんだ、と思い出す。

 なんだか、気分が乗らなくて、確かその日はそうめんを食べて、花火の音を聞く前に寝てしまった。

 一緒に行くような人もいなかったし。

 ユウキはこういう時は弟と行くし。
 イケメン君はその頃話したことなかったし。
 ねえちゃんもなんだかんだで、一緒にそうめん食べてたし。

 一際大きな花火があがる。
 大きな音に、コヨミちゃんが「わっ」と驚いていた。

 よく考えてみると、そもそも今年の夏は、かなりアクティブな方だ。
 合宿にも行ったし、こうして花火大会にも出かけてる。
 一人でいた日よりも、人と会っていた日の方が多い。

 人数は多い方が楽しい。

 どうして今年は、こんなに人と会うことが多いんだろう。

 馴れてきたから、だろうか。
 この環境に。
 俺の周りにいてくれる人に。

 また大きな花火があがる。
 今度はコヨミちゃんは驚かなかった。

 ただ、馴れてきた頃が、一番怖い。

 なくなるのが怖い。
 それが基準になってしまうと、前の生活に戻るのが怖くなってしまう。寂しくなってしまう。

 ……あぁ、そうか。 雰囲気だ。
 一番居心地がよかったときの雰囲気を、同じように求めてしまうんだ。

 でもそれは、夏休みが終わると、どうなるんだろうか。

 体育祭やら、文化祭やら、テストやら、忙しい行事はたくさんある。

 そんな波の中でも、今あるこの雰囲気はなくならないだろうか。変わってしまわないだろうか。無くならないだろうか。

 不安になる。

 まず、間違いなく、明日にはムギちゃんはいなくなる。
 家に帰る。当たり前のことだ。

 そうしてしまうと、ハルとなーちゃんとはどうなのだろうか。それに、チヨも。

 部長はよく子供たちと遊んでくれているが、そうなってしまうと、じゃあどうなるのか。

 そう考えると、無性に不安になる。
 学校が始まれば時間も減るし、当たり前のことなんだけど。
 そもそも夏休みという時間そのものが、特別な雰囲気を持った時間なのだ。

 大きな花火が連続ではじける。
 俺は驚いて、目を細めた。
 少し遅れて、これまでとは比べ物にならない爆音が耳に響いた。

 ーーだから、その日、コヨミちゃんから聴いた言葉は、
 少なからず、俺を動揺させるだけの力はあった。

「あの、先輩」

 ーー言われないと思っていた……とは、言い切れない。

「わたし、その」

 ーーでも、自分に、自惚れるなよ、と言い聞かせてきた。

 コヨミちゃんが、息を吸った音が聴こえる。 震えていた。

「……先輩」

 ーーただ、申し訳ないけど、コヨミちゃんのその言葉を聞いて、
 今の俺は、

「好き、です。」

 ーー嬉しくは、なかった。

 ……夜空は、花火の煙で曇っている。

 こういう時に限って、花火は会話の邪魔をしてはくれない。


「その、もし、よければ、付き合って、くれませんか……?」

 コヨミちゃんの声は、いつもより明らかに小さかった。敬語もちょっとおかしい。
 緊張しているのか、声が震えている。

 俺は、返事を、

「…………」

 返事を、なんと返したらいいのか、わからない。

 何かを言いかけて、口を閉じてしまう。

 コヨミちゃんは下に俯いてしまった。

 花火が鳴る。
 綺麗な火花を散らして消えていく。

 俺は花火を見ていた。

 コヨミちゃんはたぶん、俺の返事を待っている。
 俺は今、返事をしなければいけない。

 けど。 けれど。

 どうしよう。

 付き合ってください、と言われて。

 返事をし辛いのは、返事を悩んでいるのは、きっと、
 俺は自分の答えがわかっているから。

 俺はたぶん、コヨミちゃんのことをそう言う意味で、
 好きなわけでは、ないのだろう。

 ーー嫌いではない。

 話していて楽しいし、数少ない後輩でもある。

 でも、付き合うのは違う。
 逆に、仮に付き合ってしまうと、コヨミちゃんを変に期待させてしまうだけかもしれないし、それはコヨミちゃんにとっても、

 ……いや、これは言い訳だ。

 この後に及んで上からものを考えようとしている自分に、腹が立った。

 また、大きい花火が響く。

 コヨミちゃんは下を見ている。たぶん、花火は視界に入っていない。

 早く返事をしないと。
 時間が経てば経つほど、言いづらくなるし、待っている方も辛い。

 返事を、二択から選べ、と言われると、答えはすぐに出せる。

 はい、か、いいえ、か。

 はい、ではない。
 ということはつまり、いいえ、なのだろうけど。 はっきりとそう言うのは、気がひける。

 どうして断りたいのか。

 ーー考える。

 別に、付き合うくらい問題ないのでは。

 今より一緒にいる時間が増えれば、もしかしたら好きになるのかもしれない。容姿だって悪くない。むしろ可愛いくらいだ。

 じゃあ、なんで。

 何が足りないのか。

 ーー答えは単純だった。

「あのさ」

 ーー嘘はつかない。

「……はい」

 コヨミちゃんが顔を上げる。
 視線は真正面。横顔が見えた。

「俺、好きな人がいる」

 ……かもしれない。
 よくわからない。好きなのかどうか。

 ただ寂しさを紛らわしたいから一緒にいたいのか、
 それとも、好きだから一緒にいたいのか。

「……そう、ですか」

 コヨミちゃんの声は、諦めていたような、でも期待もしていたような、複雑な声色だった。
 息が震えている。

「……うん、ごめん」

「あやまらないでくださいよ」

 コヨミちゃんは笑った。

 無理をしているように見える。

「だったら先輩、その人にフられたら私にも、まだチャンスありますか?」

「いや何言ってんの」

「冗談です」

 コヨミちゃんはいつものような口調に戻った。
 だけど、やっぱり語尾は震えている。

 無理をしてる。

 でも、たぶんそれは、自分を守るために無理をしている、のだと思う。
 だから、俺がそれについて何か言う資格は、今はない。きっと。
 
「なら先輩、私は先輩のこと諦めますから、先輩もその人にしっかり告白してくださいね!」
 
「え、いや、なんで」

 俺の方が戸惑っている。
 コヨミちゃんは、俺が思っていたより、強かったのかもしれない。

 強がっているだけ、かもしれない。

「もし先輩がその人と付き合えたら、私は背中を押せた、ってことで先輩の記憶に残ることができます。
 せっかくフられたんですから、せめていい思い出として残りたいです」

 コヨミちゃんは早口にそう言った。

「いや、俺が告白してもフられる可能性はあるわけで……」

「先輩ならだいじょぶです、私が……惚れたんですから」

 コヨミちゃんはそう言って笑うと、勢いよく立ち上がった。

 まだ花火は上がり続けている。

「じゃあ、私はそろそろ門限なので、帰りますね! 先輩も、その、お気をつけて!」

 送っていこうか、と声をかけようとすると、コヨミちゃんは早足で歩いて行ってしまった。

 あたりは人通りが少ない。

 コヨミちゃんの背中が離れていく。

 少し迷ったが、距離をとって、後ろについていく。どのみち一人でみる花火なんて楽しくない。
 せめて、人の多いところまでは、

 ……明らかに泣いているように見える背中を、一人にするのは不安だった。

 そうさせてしまった自分が、その心配をする資格はないのかもしれないけど。

 でも、せめて、もう少しは。

 人が増えてくる。
 コヨミちゃんが袖で顔を拭って、前髪で顔を隠すように俯いて歩く。

 人混みの中にコヨミちゃんが消えていく。背中が見えなくなる。

 俺はしばらくそこに立っていた。
 コヨミちゃんが消えて行った後を、なにをするでもなく眺める。

 頭がぼーっとして、何も考えられなくなる。

 足は、誰かいるかもしれない家に向かって 歩き始めていた。

 何を選んでも正解ではないことはあるんだなぁ、と、思った。

 その後は、ふわふわとした足取りで、家まで帰った。
 が、家に入る気になれず、玄関先で座り込む。

 どうしても、さっきの横顔が頭から離れない。小さい背中。人混み。
 ……コヨミちゃんを、泣かせてしまった。

 俺が悪いわけではないのかもしれない。
 俺が悪いのかもしれない。どちらかはわからない。

 けど、コヨミちゃんは、俺が選んだ言葉で泣いてしまった。
 もしかしたら、俺がもっと会話の上手い奴だったら、泣かせることなく、上手に断ることもできたのかもしれない。

 罪悪感。後悔。

 済んだことだ、と自分に言い聞かせる。

 でも。

 たぶん、もうこれまで通りのように、コヨミちゃんと話すことはできない。

 耳を澄ますと、遠くの方から祭りの音が聞こえてくる。
 花火はもう終わってしまったようだが、屋台はまだあるようだった。

 そういえば、迷子になったまま、黙って帰ってきてしまった。もしかしたら、みんな探しているかもしれない。それはないかな。

 ねえちゃんには、もしかしたら友達も話しててはぐれることがあるかも、とは伝えてはある。

 順番は逆になってしまったけど。

 でも、どうしてもまたあの人混みに戻る気にはならなかった。
 またコヨミちゃんと顔を合わせてしまうかもしれない、と考えると、気まずすぎる。

 スマホで連絡すればいいか。

 家に入ればスマホはある。

 なぜかそんな単純なことが思い浮かばなかった。頭がこんがらがっているのかもしれない。

 だが、立ち上がって鍵を開けて、部屋に入ってスマホで連絡する、という動作を考えると、なんだか億劫に思えた。

 だめだ。

 とりあえず動かないと。

 そう思いながらも、座り込んだまま、地面に転がっている砂利の数を数えていると、近くで足音がした。

 一人。

 大人数ではない。
 家の前を通り過ぎるのかな、と考えていると、
 目の前で足音が立ち止まる。

「……やは」

 聞き慣れた声に、顔を上げる。

「ここにいたんだ」

 イチだった。
 周りに人がいる様子はない。一人か。

「ちょっと忘れ物しちゃった、って言って抜けてきた」

 みんな心配してたよ? とイチが隣に座り込む。
 落ち着く匂い。

 まじか、ごめん、と返事をする。

「慣れない靴履いてたら、足が痛くなっちゃって」

 イチは苦笑いしながら足をさすっていた。下駄の鼻緒のところをみると、親指の付け根が赤くなっている。

「……とりあえず、家、入るか」

「うん」

 不思議と、さっきまでの気だるさはなくなっていた。
 普通に立ち上がり、普通に鍵を開ける。

「ただいま」

 誰もいない家に向かってそう言う。

 あたりまえだけど、返事は、

「おかえり」

 ……返事が、隣から返ってきた。

 イチも「ただいま」と言ったので、俺も「おかえり」と返した。

 庭に面している大きな窓から月明かりが差し込んでいたので、部屋はだいぶ明るかった。
 と言っても、薄暗い程度だけど。

 さっきまで暗いところにいたし、急に明るくなると目が痛くなるので、電気はつけずにしておいた。

 明かりをつける気分にならない。

「麦茶のむ?」

 冷蔵庫から麦茶と、棚からコップを二つ出す。
 冷蔵庫のライトがまぶしかった。

「いただきます」

 二人でダイニングのテーブルに座って、麦茶を飲んだ。

 さっきまでイチが下駄を履いていたせいか、すこし背が縮んで見えた。
 浴衣を着ているせいで、すこし艶っぽい。

 薄暗い部屋に、イチの衣擦れの音が、やけに大きく聞こえた。

「で、忘れものって?」

「いや、本当に忘れものしてるわけではないよ」

 イチが当たり前のようにそう言うので、あぁそうなのか、と納得してしまった。
 べつに尋ね返すようなことでもない。

 一秒ごとに聞こえるはずの針の音が、やけにゆっくりと聞こえる。テーブルには、特に会話はない。

 時計に目をやる。一瞬止まって見える。クロノスタシス。

「……何か、あったの?」

 ふと、イチに声をかけられて、顔をあげる。

「何かあった……うん、何かあった」

「そっか」

 イチはポニーテールを撫でた。

「それは、言いにくいこと?」

「……うん、言いにくい」

 いや、言いにくい、というわけではないな、と思い、訂正する。

「俺がいられた雰囲気を、一つなくしてしまったのかも、しれない」

「そっか」

「うん、……ごめん、変なこと言った」

「ううん」

 コップの水滴が垂れる。

 遠くから笑い声が聞こえてくる。

「私は、どこにもいかないよ」

「……そっか」

 そう言って、会話は途切れた。

 部屋には、また時計の音だけが響く。

 さっきまで聞こえていた笑い声は遠ざかっていった。今はもう聞こえない。

 イチと目があう。イチが頷く。俺も頷く。たぶん、お互い意味はない。

 気まずいことはない。心地いい雰囲気。

 ……心地いい雰囲気。

 コヨミちゃんの言葉を思い出す。無理していたのかもしれない言葉。

 ーーせめて、いい思い出として残りたい。

 俺は、俺が崩してしまった雰囲気に、せめてもの報いとして、そのお願いは聞かなければならない、と思った。
 ……いい思い出となるかどうかは、まだわからないけど。

「ねえ、イチ」

「ん?」

「……なんでもない」

 でも。

 もうすぐみんな帰ってくる。

 今はまだ、小さく息を吸って、目を閉じた。

つづく。

すみません……
用事があって時間が取れないので、更新はまた明日にします。

 次の日。

 昨日は夜遅くまで遊んでいたというのに、それでも朝早くからみんな集まっていた。

 いつも通りお喋りしたり、ゲームしたり、笑ったり。
 いつも通りだった。

 昼より少し前くらいに、そうめんをさっと茹でた。今日はねえちゃんではなく、俺がやった。
 なぜかチヨはハムを持ってきていた。

 ムギちゃんたちとテーブルを囲む。

「やっぱりお姉ちゃんのよりおいしい」

「そういうことは、黙っておくものだと、思う」

 ムギちゃんとなーちゃんがコソコソと話しているのが聞こえた。
 ハルはそれを聞いて少し笑っていた。

 食べ終わって、ナナコが持ってきたお菓子を全員でつつく。
 今日は風が吹いていたので、窓を開けておくだけで涼しかった。

 庭のひまわりは、まるで俯いているかのように、花を下に向けていた。

 部長が、「夏、終わらないで……」と呟いく。
 ナナコが「あと二週間もすれば涼しくなりますね」と呟く。

 ねえちゃんが、そうだね、と呟いた。

 セミが鳴く。

 昼を少し過ぎた頃、全員で駅に向かう。

 みんなほとんど手ぶらだったが、ムギちゃんだけは、大きな水色のキャリーバッグを運んでいた。

 懐かしい。

 初めは、あれを探して歩き回っていたのだったな、と思い出す。

「もうすぐパパが迎えに来る」

 ムギちゃんが麦わら帽子の向きを整えながら、そう言った。

 昼過ぎ頃、駅前に迎えに行く、と連絡があったらしい。ねえちゃんから聞いた。

 ハルとなーちゃんとムギちゃんの三人は、少し離れたところで何か話している。
 話の内容は聞き取れない。

「ムギちゃん、髪伸びましたね」

「うん、だね」

 ナナコとねえちゃんがそう話していた。

 たしかに、改めて見てみると、出会った時よりも伸びている気がする。
 まあしばらく切ってなかったみたいだし、髪も伸びるはずだ。

 チヨは相変わらず、落ち着かなさそうに髪を撫でている。
 そういえば、チヨも随分と髪が伸びた。前は後ろでくくるような長さはなかったのに。

「前髪、伸びたね」

 そう言われて、自分の視界にも前髪が入ってきていることに気付く。

「イチも」

「うん」

 まあ、髪だけじゃなく、みんな、ちょっとづつ何かは変わってる。

 たかが一ヶ月、といえばそうだけど、夏休みのほとんどを一緒に過ごした。
 気が付かないだけで、もっと変わっていることはあるはず。

 そう考えると、ちょっと怖いような、嬉しいような、足元が覚束ないような感覚になった。

 焦点が定まらない感じ。

 道路の脇に、軽トラが停車した。軽トラなんて、この辺りではあまり見ない。

 ムギちゃんが手を振る。運転席の扉が開いて、人の良さそうなおじさんが出てきた。目元が乙坂父そっくり。

 ねえちゃんが近寄って行って、何か話し始めた。
 おじさんから何か紙袋を受け取っている。たぶん菓子折りか何だろう。

「みんな、ありがとね」

 ムギちゃんの父は、こちらを向くと、軽く頭を下げた。

 突然大人にお礼を言われて、俺たちも戸惑いながら、こちらこそ、と礼を返す。

「じゃあ、行こうか」

 ムギちゃんの父は、キャリーバッグを荷台に乗せると、車の運転席へ戻っていった。

 ふぅ、とムギちゃんが一息ついた。麦わら帽子の角度を整えている。
 
 なんだか寂しくなって、ムギちゃんの頭を麦わら帽子ごとぐりぐりと撫でた。

「また来いよ」

「うん」

 返ってきた返事は、いつも通りのムギちゃんの声だった。

 最後に、なーちゃんが手を引っ張って、ムギちゃんをトラックの後ろの方に呼び止める。

 ハルが少し迷った様子を見せてから、ポケットから小さなメモ用紙を取り出す。

 ムギちゃんはそれを受け取って、しばらく眺めた。
 それから、嬉しそうに笑って、

「……うん!」

 と、大きく頷いた。

 ムギちゃんが助手席に吸い込まれていくと、軽トラはあっという間に発進してしまって、車の波の中に消えていってしまった。

 なーちゃんと部長は、軽トラが見えなくなるまで手を振っていた。

 みんなで、しばらくボーッと立ち尽くす。

 セミの声がどこからか聞こえてくる。

 八月も終わりに近づいてきたとは言え、まだまだ暑さは続いている。
 アスファルトから照り返ってくる陽射しが、肌を焦がすような暑さで俺たちを襲っていた。

「暑いね」

 誰かが呟いた。

 俺は頷いた。

 このままここにいても仕方ないし、と、全員でファミレスに向かった。

 家は帰っても冷房が効いてないし、とりあえず涼しい所に行きたかった。
 ふわふわとした足取りで、歩き慣れた道を歩く。

「何名様ですか?」

「きゅ……八人で」

「喫煙席と禁」

「禁煙席で」

 ムギちゃんがいなかったので、今日は代わりに俺が答えた。
 
 テーブルは相変わらず狭かったけど、いつもよりは少し広く感じた。

 さっき昼ごはんを食べたばかりなので、それほどお腹は空いていなかった。

 全員でドリンクバーと、フライドポテトを一皿注文する。

 そういえば、夏休みに入ってから、例の喫茶店行ってないな、と、ふと思った。
 まあでも、今は、行けないな。顔をあわせるのは、まだ気まずい。

 みんながドリンクバーに行っている間、なんとなく立ち上がる気にならなくて、テーブル席の奥に座っていると、
 なーちゃんがジュースを持ってきてくれた。

 ホワイトソーダの炭酸をカルピスで薄めたやつ。
 なーちゃんもチヨに似て、周りをよく見てるんだな、と思った。

 みんながぞろぞろと戻ってくる。

 ハルが普通の色のジュースを飲んでいるのが、なんだか違和感だった。

 ポテトが運ばれてきて、みんなでちょっとずつつつく。

「フライドポテトってさ」

「はい」

「かつて空を飛んでいたじゃがいも、って意味にもなるよね」

「なりませんよ」

 思ったりより暗い雰囲気ではなくて、いつも通りのテンションで、いつも通り、だらだらと駄弁っていた。

 俺もジュースを啜りながら、中身のない話を聴く。

 隣に座っているイチが、湯気の立っているいちごオレを一口飲んで、

「あちっ」

 とカップを離した。

「氷入れてくれば?」

「そうする」

 不思議と、ムギちゃんが帰ったからといって、穴が空いたように寂しい、ということはなかった。
 いや、寂しくないといえば嘘になるけど、落ち込んで何も手がつけられない、なんてことはない。

 ……ただ、前までとは、少し違う雰囲気ではあった。
 やっぱり、いつまでも同じ雰囲気ではいられないんだな、と、小さく溜息をついた。

 隣にイチが戻ってくる。安心。

「味薄い」

「そうなるのか」

「やっぱ普通が一番だね」

「うん」

 俺は答えた。

 夕方、人が増えてきそうになったので、会計を済ませて、ファミレスを出る。

 昼間よりは暑さは和らいでいたけど、それでも、風はまだ熱を持っていた。
 ヒグラシがどこかで鳴いているのが聞こえる。

 ファミレスの前で、みんなと別れる。

 イチが手を振っていたのが、やけに瞼の裏に残った。

 ねえちゃんと並んで歩く。

 遠くの空に入道雲が見える。その陰影はオレンジ色に染まっていて、まるでイラストのように、現実感を感じさせなかった。

 反対側の空を見ると、水縹の色が、淡いオレンジに吸い込まれようとしていた。

「ムギちゃん、帰ったな」

「そうだね」

 ねえちゃんは俺の少し前を歩いている。

「うるさいのがいなくなって、やっとゆっくり眠れるよ」

 そう言って、ねえちゃんは道端の小石を小さく蹴った。

「そっか」

 俺はそれ以上、何も言わなかった。

 黙ったまま、橋の上を渡る。夕陽が沈みかけていて、川面は煩いほど淡い橙を反射していた。

 頭上では、鳶が大きな弧を描きながら飛んでいる。

「あんたさ」

 ねえちゃんが歩調を緩める。

「なんかあったでしょ」

 心臓が跳ねる。
 思わず歩みを止める。立ち止まってしまう。

「……わかる?」

「当たり前でしょ」

 ねえちゃんはジトッとした目線を俺に向けた。
 しばらくそのままの姿勢で目が合ってて、それからまた前を向く。

「それと、関係あるかわかんないけど、好きな人もいるでしょ」

「……そこまでわかる?」

「私を誰だと思ってるの」

「ねえちゃん」

「正解」

 侮ってはいけなかった。
 ……ある意味、母より鋭い。

 頭上をくるくると飛び回る鳶が、よく響く、細い鳴き声を、辺りに響かせていた。

 まぁ、どうしようとあんたの勝手だけどね、と、ねえちゃんは少し先を歩く。

 俺の勝手、か。

 ねえちゃんの少し後ろを歩きながら、その言葉を頭の中で反芻した。

 頼りない夕陽は、いつの間にか山の向こうに沈みかけていて、川面はだんだんと黒く染まりつつあった。

 翌朝、セミのかすかな鳴き声で目を覚ます。四時過ぎ。いつも通りの起床時間。

 カーテンを開ける。

 この季節は、起きてすぐでも日が昇り始めているので、目覚めがいい。

 朝の、混じりっ気のない、新鮮な空気を、肺いっぱいに吸い込む。身体の中の埃が、綺麗さっぱりなくなったような気分になる。

 ドアを開けると母を起こしてしまうかもしれないので、部屋からは出ずに、
 なにも考えずに、勉強机に腰掛ける。

 しばらく、何をするでもなくぼーっ、と座り込んで、たっぷり五分くらい無駄な時間を過ごしてから、筆箱と教科書を開く。

 大学に行く、という選択肢が貰えているのなら、せめて自分も準備くらいはしておかないと。

 そういえば、読書感想文、まだやってないや。今年こそ早めに終わらせようと思ったのに。

 まあ、そういうものは、どれだけ意識しても変わることはないのかもしれない。
 くだらないことだけど。

 そんなことを考えながらシャーペンを走らせていると、母が起きてきた音がした。
 が、忙しい朝の支度の邪魔になってはいけないので、部屋からは出ない。

 窓から差し込む光が、薄いオレンジから、爽やかな透明に変わりつつあった。

 母が玄関を出て行く音がしてから、やっとシャーペンを机の上に投げ出し、再びベッドに倒れ込む。

 スマホを手にとって、時間を確かめる。

 六時過ぎ。

 耳を澄ませると、閑静な住宅街から、人々の生活音が聞こえてくるような気がする、そんな時間だった。

 日付を確かめる。

 もう夏休みも、後半の後半だ。ほとんど消費してしまった。
 あと残りは、どうやって過ごそうか。どうやって過ごせるだろうか。

 一度瞼を閉じて深呼吸をして、それからまた瞼を開き、俺はベットから立ち上がった。


 顔を洗って、歯を磨いて、また顔を洗う。

 乾燥機の中からタオルを取り出し、顔と前髪を拭く。柔軟剤を使っているので柔らかい。

 リビングに行くと、やけに広く感じて、ぽつんと取り残されたような気分になる。

 なんというか。
 手持ち無沙汰。一人だと、何もすることがない。

 一人でぽつんと、庭のひまわりを眺めた。
 風が涼しい。

 七時過ぎごろ、ねえちゃんとイチがやってきた。

「家の前で出会った」

「そりゃ奇遇だね」

「ほんと」

 二人とも朝から暇なんだろうか。

 まあ俺も暇なんだけど。

 イチはいつも通りの流れで、ここまで歩いてきたらしい。
 唯一の家族のお母さんが、家を出発のと一緒に。

 ねえちゃんは、もう生徒会の用事の方は片付けたらしく、行く必要はないらしい。
 とりあえず今日は、ゆっくりしたい、と。

「お腹すいたな」

 三人で、目玉焼きとトーストを食べた。空から女の子が降ってくるかもしれない。

「半熟作るの上手だよね」

「お褒めにあずかり光栄です」

 味はまあまあ。

 食べ終わってから、しばらく生産性のない会話を繰り広げていると、なーちゃんたちがやってきた。

 チヨは後ろ髪を結んでいる。

 ハルは宿題を持ってきていた。薄くて大きな問題集。

「お、勉強か」

「そろそろやんないとね」

 宿題が溜まっているようだった。

 なーちゃんは、と尋ねてみると、「もうやったんだよ」と嬉しそうな返事が返ってきた。
 夜、チヨが勉強している時に一緒にやっていたらしい。

 流石です。

 ハルは落ち着かなさそうに髪を撫でた。

 俺もハルの隣で参考書を開いて、解いたところで意味があるのかないのかよくわからないような問題を解いていく。

「なあ、ハル」

「ん?」

「わかんない問題は、水に浮かべればいいんだぜ」

「……なんで?」

「とけるから」

「…………」

 ハルはため息をついて、問題集に目を戻した。
 なーちゃんはクスクスと笑っていた。

 セミの鳴き声が二種類に分かれてきたころ、ナナコがやってきた。

「今日も暑いですね」

 歩いてくるとやっぱり暑いらしい。

 扇風機の風を今日にしてナナコに向けると、ありがたそうに髪をなびかせた。

「店番は?」

 ねえちゃんが尋ねる。

「明日からは私です」

 なら、今日まではナナコ弟が店番か。

「弟、何歳だっけ?」

「あー、えっと、中二?」

 とっさに年齢が思い浮かばなかったらしい。ナナコは学年を答えた。
 まあ、たしかに、学生のうちは、年齢より学年の方がわかりやすいのかもしれない。

 そういえば、この夏休みで、ねえちゃんとナナコが随分と仲良くなった気がする。俺から見てると。

 イチはともかく、元は知り合いではなかったのに、今はふと目をやると、一緒に歩いていたり、話していたりすることが多い。

 というかほとんど。
 私服のナナコは、ねえちゃんと一緒にいるイメージしかない。

 なんというか、ちょっと嬉しかった。

 日が昇ってくると、さっきまであった涼しい風が、だんだんと温まってきているような気がしたので、窓を閉めてエアコンにした。
 ハルと俺は勉強してるし。

 ナナコがオセロのアプリで、チヨに勝負を挑む。
 割と接戦だったようだが、最後はチヨに負けていた。

 なーちゃんにも負けていた。
 この姉妹はオセロが得意らしい。

 今度こそは、とナナコがねえちゃんに勝負を申し込んだと同時に、部長がやってきた。

「やっはろー」

 その頃にはハルの宿題もひと段落ついていたので、みんなでゲームをした。
 四つのリモコンを交代で使いながら。

 相変わらず部長は強かった。

 イチはまた最下位だった。

「こんなのやらなくても生きていけるもん!」

 そう言い残すと、彼女はクッションに顔を埋めて倒れこんでしまった。
 なんとも言えない気持ちになる。

 と、スマホの着信音。

「だれの?」

「俺のじゃない」

「私でもないです」

「あ、私だ」

 そう言って、ねえちゃんがポケットからスマホを取り出す。

「あの子からだ」

 ハルとなーちゃんがピクッと反応した。

「でる?」

 ねえちゃんがスマホを差し出すと、二人は嬉しそうに受け取って、廊下に出て行った。

「わざわざ廊下に出なくてもいいのに」

「まあ、聞かれたくない話でもするんじゃない?」

 部長はそう言って、「うふふ」と口に手を当てた。

 チヨが「あら、まあ」と頬を手で包んだ。案外、チヨはノリがいい。

 しばらく全員で耳を澄ませていたが、廊下からは話し声は聞こえてきそうにない。
 することもないので、ゲームを消して、適当な旅行番組をテレビに映した。

 どこか知らない外国の土地を紹介される。

 美味そうなイタリアン風パスタを日本人女性が美味そうに食べていた。

 手が届かない分、ウォーターサーバーよりは気楽に見ることができる。

 と、なーちゃんが静かに戻ってきた。

「あれ? ハルは?」

「まだ、話してる」

 なーちゃんは、廊下にちらりと目線をやった。

 部長がニヤニヤする。

 ねえちゃんが小さく笑ったのが、視界の端で見えた。

 それから五分くらい経って、ハルがスマホ片手に戻ってきた。

 扉を開けると全員が(何人かはニヤつきながら)自分のことを見ていたので、彼は少したじろいでいた。

 落ち着かなさそうに髪を撫でて、ハルはありがとう、とねえちゃんにスマホを返した。

 特に大した用事はなかったらしい。

 ただ話したかっただけ、と。

 このご時世、小六で電話する男女なんて少し珍しいような気がした。
 そんなモノ、なのかもしれないけど。

 時計の針が真上を指す。

 どここらかサイレンの音が聞こえてきた。

「お腹すいたね」

「昨日のでそうめん最後だったよ」

「ファミレスでも、行く?」

「人多くないですか?」

「たまには人多い時にでも行ってみようよ」

 全員で揃って、エアコンの効いた部屋から外に出る。

 外は驚くほど暑かった。遠くのアスファルトが歪んで見える。

 でも、人数が多いおかげか、歩いてる道のりは、長くは感じなかった。

 ファミレスに着くと、案の定、人が多くて、しばらく待つことになった。

「なんかごめん」

 部長は申し訳なさそうに項垂れた。

 けど、テーブルに着こうとソファで待っていようと、だらだら話すことに変わりはない。
 特に待っているという感覚はなかった。

「今日も暑いね」

「そうだな」

 イチは今日もポニーテールだった。

 テーブルに座れたのは、店内から人が減って、落ち着きを取り戻し始めた頃だった。

 ドリンクバーと、適当に昼ご飯になるようなものを頼む。

 もう気になるメニューはほとんど食べてしまった気がする。
 でも気にならない料理を注文して、おいしくなくてもなんかむなしいし。

 結局、いつもと似たようなモノを頼んだ。

 二時間近くドリンクバーで粘って、店を出る頃には、俺たち以外に客はいなかった。

 店員さんには申し訳ないことをした。

 でもまあお金は払ってるし、と自分に言い聞かせる。

 全員でとぼとぼと歩きながら、家に戻る。

 遠くに見える入道雲がやけに立体的で、思わず写真を撮っていた。

 セミがよく鳴いてる。けど、前よりは少し音量が小さくなっているような気がした。
 夏もそろそろ疲れたのかもしれない。

「アイス買って帰ろうよ」

 誰かがそう言ったので、コンビニに寄ってアイスとお菓子を買った。

 軒下のゴミ箱にアイスの袋を捨てて、食べながら帰る。
 暑さですぐに溶けてしまいそうだった。

 家に帰るころには暑さは限界で、部屋に入るなりすぐにエアコンと扇風機をつけた。

 今年の夏は暑い。

 熱中症にならないのが不思議なくらいだった。

 結局その日は、夕方まで騒いだり笑ったりして、家の中でほとんどを過ごした。

 お喋りしたり、ゲームしたり、お喋りしたり。
 何でもないようだけど、普通に楽しかった。

 でも最近、運動をほとんどしてない。せいぜい家からファミレスを往復するくらい。

 軽く伸びをすると、肩が嫌な音を鳴らして痛んだ。
 ……ラジオ体操、また通うか。

 ねえちゃんも帰ってしまったので、一人でぽつんと部屋に残る。

 なんとなく咳をすると、やけに広い部屋に俺の声が響いた。
 咳をしても一人。

 庭のひまわりを見ると、もう力尽きて、下を俯き始めている苗がいくつもあった。
 オレンジ色に染まりつつある夕陽に照らされて、いかにも夏の終わり、という印象を抱いた。

 窓を開けると、ひぐらしが力なく鳴いている。
 なんだか寂しくなって、一人で麦茶を飲んだ。

 氷の入ったコップに麦茶を注ぐと、カラン、と氷の割れる音がした。

 玄関から物音。

 振り返ると同時に、イチの声が聴こえた。

「スマホ忘れちゃってて」

 なんてもんを忘れるんだ。

 リビングのクッションをめくると、たしかにイチのスマホが転がっていた。

「はい」

「ありがと」

 することもなかったので、そこまで送ろう、と二人で家を出た。

 夕陽がアスファルトを照らしている。目に入る全ての影が、長く引き伸ばされていた。

 肩を並べて歩く。

 昼間とは温度がかなり下がっている気がして、別の世界を歩いているようだった。
 歩いていて気持ちいい気温。

「昼間もこれくらいならいいのにね」

「ほんとに」

 イチの声を聞いて、なんとなく落ち着くような、落ち着かないような気分になる。

 なんというか、安心してるんだけど、してないというか、その。

 なんだろう。これ。

 橋の上を渡ると、相変わらず、川面は夕陽を煩いほど反射していた。ここの景色は好きだ。

「公園、寄ってかない?」

 口に出してから、少し驚く。

「うん、いいよ」

 まあ、口に出してしまったものは仕方ない。
 それに、イチといるのは嫌いじゃない。

 公園には、誰もいなかった。

 夕方。赤トンボ。遠くで聞こえるセミの声。

 二人きり。

「ジュースでも飲むか」

 自販機でジュースを買って、いつものベンチに並んで座る。
 イチは相変わらず、いつもと同じものを飲んでいた。

 遊具の方を見ると、錆びた鉄に夕陽が反射して、
 不思議な雰囲気を醸し出していた。

 なんとなく会話がなくなる。
 なんか話さないと。……なんで? 別に黙っていても気まずい仲ではない。

 でも何か話さないといけないことはある。

 それが何か、まあ、わかってはいた。

 イチがジュースを飲んで、喉が滑らかに動く。少し見とれる。

 目が合う。目線をずらす。

 蜻が目に入る。錆びた鉄。伸びる影。

 いつのまにか、頼りない夕陽は、山の向こうに沈もうとしていた。
 頭上の空は、藍色に染まろうと意気込んでいる。

「あー」

 イチが振り返る。

「あのさ」

 言葉に詰まる。

 額が熱くなる。こめかみが激しく脈打っているのが感覚でわかる。

 何を言おうとしたんだ。

 自分に問う。

「自分で、わかってるでしょう」

 誰かが俺の中で答えた。

 たぶん、仲がいい人だ。人の中にいる。

 イチはこちらを向いて、俺の言葉の続きを待っている。

「……ごめん、なんでもない」

と、言おうとして、それを喉の手前で留める。

 それは言っちゃダメだ。

 でもなんて言えばいいかわからない。

 仕方ないんです。変えるのが、変わることが怖いんです。また置いていかれる。

 仕方なくないんですよ。このままだとどのみち変わってしまいます。あなたが一歩踏み出して、それを守るんです。

「イチ、」

 声が震えている。……ような気がして、固まってしまう。

 全身が心臓になってしまったかのように、視界が鼓動に合わせて揺れる。
 視界にはイチが写っている。

 好きな人。

 そう頭の中で言葉にすると、俺の心臓は跳ねるように動いた。肋骨が持ち上がる勢い。

 暖かい風が吹いて、夏休み前と比べてずいぶんと伸びた、彼女の毛先を揺らす。
 その姿が、景色が、雰囲気が、もう、綺麗で、完成されたようにみえて、あぁなんかもう。

 俺はおかしくなったのかもしれない。


「あっ、えっ」

 イチが俺の目を見て、椅子から跳ねるようにして立ち上がる。

 手にはジュースを持ったまま。

「あぁーぅー……」

 よくわからない唸り声のような、不思議な声を出して、イチはまた座り込んだ。

 と思ったら、また立ち上がる。

 キョロキョロと辺りの様子を伺う。
 困ったような、照れているような(気のせいかも)表情。

 その様子を見て、なんだか呆気にとられて、すっ、と喉から息が流れた。
 なんだいまの。

 大きく息を吸って、深呼吸をすると、彼女はさっきと同じように座り込んだ。

「……はい」

 今度こそイチはベンチに座った。さっきより、心なしか距離が近づいてる。

 その事実に気がついて、また心臓が肋骨を持ち上げようと懸命な努力をする。
 頼む。頼むから今はおとなしくしておいてくれ。

「あの、さ」

「……うん」

 まだ何も言ってないのに、イチは小さな声で返事をする。

 頭は身長差のせいで俺より少し下にあって、おまけに俯いているせいで、
 どんな表情が見えない。

 それくらいの距離。

 指が震えている。
 なんだ情けないな、と自分で笑いそうになった。

 でも、夕陽のせいか、イチの耳が、少し赤く染まって見える。
 少し見えるその顔も、夕陽のせいで赤みを帯びている。

 それを見て、また、
 しつこいようだけど、また俺の心臓は激しく鼓動を打つ。

 もう全身が動脈。体のどこかに、静かに血が流れる血管があるなんて嘘だ。
 今の俺は、全身の血管が、全力で脈打っている。

「おれさ、イチのことが、」

 口を閉じる、開ける、閉じる。また開ける。閉じる。

 緊張して言葉が続かない。

 息を吸う。満足に呼吸できない。

 急に酸素が薄くなった。公園から、空気がなくなったような錯覚を覚える。

 でももう言葉は出来てる。

 完璧じゃない。保険もかけてない。そもそも保険のかけようがない。

 諸刃の剣。 剣でもない。

 でも言わないと、ここで止めてしまうと、たぶん、あとかたもなく後悔する。

「好き、」

 喉に息がつまる。

「……だ」

 ……すごく、アホくさくなってしまった。

 でも、言ってしまった、と頭で理解すると、

 風が止む。音が止む。少し耳鳴り。

 時間が止まる。

 隣でイチが息を呑むのが聞こえる。

 ……あれ、時間止まってないや。

 だったら、おれは、本当に言ってしまった、ってことで、

 なら、最後まで、

「付き合って……ください」

 言い切るしかない。

 かたちはどうあれ。

 伝わればいい。

 俺から動くことができればそれでいいんだ。

 イチが、

 深呼吸をしたのを、見て、

 ーーあぁ、逃げられるかな、と思って、

 イチが顔を上げて、

 ーーあぁ、不快にさせたかな、と思って、

 何言ってんだ俺、何やってんだよ俺、いやお前から壊してどうすんだよ。

 そうじゃない。これがあいつの言う、最善手なんだよ。

 なんだよあいつって。それは俺じゃなくて、他の奴が言ったことだろ。

 違う。おれが決めた。おれが言った。
 変えないためにこうしたんだよ。

 ーー思いっきり自信をなくして、

 やべえ、と顔を顰めそうになっていたから、

「……うん」

 そのとき、イチが頷いた意味が、一瞬理解できなかった。

「……え?」

 と、尋ね返してしまってから、

 「うん」という言葉には、否定の意味はないと理解して、
 それはそれで驚いて、

「……や、やっぱり、今の返事は、はい、の方がよかった、かな?」

 そう言って焦ったように、赤く染まった頬を手で隠そうとするイチが、もう、可愛くて可愛くて仕方がなかった。

 あぁ、よかったんだ。

 そう考えると、途端に体の力が抜けて、心臓が激しい運動を緩めた。
 肋骨あたりが筋肉痛のように痛い。

 まだ「あー……もう、えっと……その」と、あたふたしているイチが可笑しくて可愛くて、思わず笑ってしまう。
 
「なんで笑う!」

「いや、可愛くて」

 そう言ってしまって、自分でも恥ずかしくなって、
 イチも恥ずかしそうに顔を俯かせた。

「……もう一回言って」

 イチが小さな声でそう呟いた。

「いや」

「……そこじゃない!」

「可愛い」

 少し恥ずかしいけど、踏み出すような気持ちでそう口にすると、俺の中で何かが溶けるような気分がして、
 イチは「あー」と恥ずかしそうに、嬉しそうに頬をこねくり回した。

 いつの間にか、夕陽は完全に沈んでしまっているけど、イチの顔はまだ真っ赤だった。
 たぶん、俺も。

 一度深呼吸をして、改めて、と言うように口を開く。

「あのさ」

「ん?」

 イチはまだ赤く染まっている頬のまま、俺の方を見上げた。

「さっきの、うん、は、」

 こんなことを聞くのは野暮な気はしたけど、それでも不安な気持ちは拭っておきたかった。

「うん、その、えー……っと、よろしく?」

 いや、ちょっと違う? とイチはまた唸るようにして顔を隠した。

 自然と緩む頬をおさえる。

 なんだ、もう、たぶん、世界で一番可愛いのはこいつだ。
 馬鹿みたいだけど、今は、そうとしか思えなかった。

「なあ、イチ」

「……ん?」

 そう、覗き込むようにして見上げてくるイチが、可愛くて可愛くて仕方なくて、

「ありがとう」

 俺は、なぜかそう言った。

「こっちこそ、ありがとう」

 イチも嬉しそうにそう言った。

 次の日は、驚くほど目覚めが良かった。

 こんなに清々しい朝があるとは思ってもいなかった。

 昨日のことを思い出して、思わずニヤける。
 すぐに頬をおさえる。

 ベットの上を意味もなく転がりまわった。

 あれ、もしかして夢だったのかも、と新たな可能性が俺の中で芽生える。

 不安になって、スマホを手にとる。

 でも、こんな時間から連絡するのはまずいかな、と思いながらホームボタンを押すと、
 画面の時間には、七時十三分、とかいてあった。

 玄関のチャイムが鳴る。

 今日は、ねえちゃんは生徒会の手伝いに行く、と言っていた。

 扉を開けて、急いで玄関に向かう。

 母はもう出かけていた。

 玄関の扉に手をかけて、あ、顔も洗ってないや、と思ったけど、そのころにはもう扉を開けていて、

「やは」

 と、少し照れたようにポニーテールを揺らす彼女をみて、
 昨日のことは夢じゃないな、と確信して、

「おはよう」

 と、俺は答えていた。

 そのあとの夏休みは、あっという間に、と言うほどでもなく、そこそこの早さで、淡々と終わっていった。

 いつも通り、みんなで集まって、だらだらしたり、騒いだり。

 たまにイチと二人きりになることがあったけど、だからと言って何か変わった話をするわけでもないし、何をするわけでもない。

 改めて「付き合ってます」と言うのは気恥ずかしかったので、
 晴れた日の、昼ごはんの時にそれとなく報告したら、みんなそれほど驚きはしなかった。

 なーちゃんは珍しく驚いていたけど。

 一度、観たい映画があったので、夏休みのうちに、二人で出かけたことがあった。

 その時イチが、人がいないところでは手を繋ぎたい、と言ったので、
 俺たちは緊張と恥ずかしさが混ざったような気持ちになりながらも、
 二人で手を繋いで歩いた。

 映画は普通に面白かった。

 いつだか、課外が終わった後、帰りに生徒会室に寄った。

 礼儀として、コヨミちゃんに報告しておく。

 コヨミちゃんは、最後まで話を聞き終わると、「おめでとうございます、私のお陰ですね!」と言って、プリントの印刷をしに事務室に行ってしまった。

 会長と二人になる。

「先越されたなぁ」

 彼は困ったように笑ってたけど、それでも嬉しそうにしていてくれたので、
 俺もこの人がちゃんと部長に想いを伝えられたら、絶対に全力で祝福しようと思った。

 ……チヨのこともあるし、もしその時が来ればどうなるかは、まだわからないけど。

 会長が部長に想いを伝えるのは、また別の話。

 夏休み最後の日、ユウキとイケメン君と予定を合わせて、バーベキューをした。

 三人で朝からスーパーに繰り出して、安い肉を買い漁った。
 調理が面倒くさいので野菜は買わなかった。

 ユウキの家の庭で、バーベキューセットを用意して、炭に火をつける。

 用意した食材を並べると、肉しか買ってないから当たり前なんだけど、肉肉していて身体に悪そうだった。

「ウインナーも食べるし、平気平気」

 イケメン君は野菜が苦手らしい。意外な一面だった。

 でもウインナーと肉は、突き詰めれば両方とも肉だよ。と言うか普通に肉だ。

 何回か焦がしてしまったけど、それでもバーベキューは楽しくて、三人で近所に迷惑にならない程度に騒ぎまくった。

 後半になるとユウキの弟たちも参戦してきて、もうお祭り騒ぎだった。

 今ならいけるか、と思い、二人に

「俺、彼女できた」

 と伝えてみる。

 二人は固まった。

 ユウキの弟がバスタオルを何枚か持ってきて、俺はイケメン君に羽交い締めにされた。

 全身をタオルで包まれた後、丁重な保護のもと俺はタコ殴りにされた。

 それでも俺を含むみんなは大爆笑だったから、あのときのテンションは間違いなく可笑しかった。

 そういえば、ねえちゃんにアイスを買ってもらったりもした。

「いつかの約束」

「覚えてやがったか」

 一番高いものを買ってもらった。

 美味しかった。

 イチと話をするとき、一度、ねえちゃんとの関係について話したことがある。

 慣れているとはいえ、俺とねえちゃんの関係は、たぶん普通ではない。

 そのことについて話してみると、

「別にそのへんは信用してるし、大丈夫」

 と言ってくれた。

 が、ねえちゃんの方は多少気にしているようで、

「掃除は私が自分でする!」

 などと言い払うものだから、風邪を引いたのかと不安になったりもした。

 まあ、それはそれで。

 そのうちなんとかしていく問題。

 学校が始まって、当然部活も始まる。

 と言っても、何をするわけでもないし、何が変わったわけでもない。

 前より少しみんなと仲良くなっただけで、だからと言って部活が忙しくなったり、サボったりするようになったことはない。

 だらだらと過ごして、生徒会からプリントがまわってくれば、きちんと掃除をする。

 これまで通り、いつもの清掃部だった。

 でも、そんな部活動のうち、一日だけ、たぶん一生忘れないだろうな、という日があった。

 晴れた日の、放課後、残暑も消えてきた、秋の夕方だった。

 その日は確実にプリントが回ってこないとわかっていたので、部活に行っても行かなくてもいい日だった。

 それでもなんとなく、部室に行くと、そこにはイチがいた。

「やは」

「おう」

 いつもの席に座る。

 俺の前に、イチ。

 どこかで見覚えがあるな、と思っていると、イチが突然振り返った。

「ねえ、ちゅーしよう」

 いつもの席で、いつもの席に座っているイチが、俺の方を見ながらそう言う。

 部室。夕方。
 夕日は信じられないくらいオレンジ色をしていて、部室はまるで絵画のようにオレンジ一色に染められていた。

 窓の外には鳶が飛んでいる。

 俺はなんと答えたか、まあ、それは話すべきではないだろう。

 いちごオレの味がした。

 それからしばらく経ったある日の放課後、俺は部室に行く前に、渡り廊下に寄った。

 言うまでもなく、こなたがいた。

「やあー」

 と言っても、ここしばらく、探していても会えなかったんだけど。

「最後に話したのは、いつでしたっけー?」

「合宿の時だな」

「そんなに前なんですかー、時が流れるのは早いですねー」

 俺はこなたに会おうと、学校が始まってから、一年生の教室を回った。
 実を言うとコヨミちゃんに尋ねたりもした。

 何人かの生徒に尋ねてみたりもしたが、あまりにも手がかりが少なかった。

 自分のことを、こなた、と呼ぶ。
 髪が短い。語尾を伸ばす。

 ーーどこにでも現れて、なんでも知っている。

 俺は薄っすらと、こいつは人間じゃないのか、とは思っていた。

 どこにでも現れる。

 学校にいても、公園にいても、果ては遠く離れた土地にいても。
 どこにいても、いつの間にかそこに居て、いつの間にか消えている。

 そして、俺が一人のときにしか現れない。

「なあ、こなた」

「はい?」

「お前は、俺なのか」

 そう尋ねると、こなたは意味深に微笑んだ後、

 堪えきれないというように、思いっきり笑った。

「え、え?」

 戸惑う。違ったのか。

「何言ってるんですかー、妄想が激しすぎですよ!」

 こなたがあまりにも可笑しそうに笑うので、なんだか恥ずかしくなって、俺は手すりに寄りかかって、不貞腐れたように口先を尖らせて尋ねた。

「じゃ、じゃあなんだんだよ……」

「少なくとも、あなたではありませんよー。
 あなたの分身とか、ドッペルゲンガーとか、タルパとか、それはまた別のお話ですー」

 こなたは目尻の涙を指で拭って、手すりの上に軽いジャンプで登った。

「せんぱいは、時計を見たときに一瞬針が止まって見える現象を、なんというかご存知ですかー?」

「クロノスタシスだろ。こなたが言ってたじゃん」

「つまりそういうことですよ」

 こなたは手すりの上から、にんまりと俺を見つめている。

 俺が何を言いたいのかさっぱり理解できずにいると、そのままこなたは続けた。

「せんぱいは、こなたが教えて差し上げまで、その単語をご存じなかったんですよねー?」

 そこまで言われて、やっと、こなたの言いたいことに気付く。

「……そっか、俺の知らないことを知ってるはずがないのか」

 こなたは満足そうに頷いた。

「なら、お前は何者なんだ?」

「まあ、少なくとも、人間では、ありませんねー」

 こなたは当たり前のように、重大なことをサラッと言った。
 いや、こなたからすれば当たり前なのか。

「こなたは何にでもなります。
 どこにでもいます。
 悩む人がいれば今のように人の姿をすることもありますし、インスピレーションを与えるそよ風にもなりますし、
 時には重力に従うだけの、赤いリンゴになったりもします」

 変な話だった。変わった話だった。

 でも、俺は自然と、その言葉を素直に飲み込んだ。

「信じようと信じたいと、真実はこの通りですー」

「信じるよ」

 俺がそう返すと、こなたは驚いたように目を丸めた。

「おや、珍しい……あまり人は信じないのですがねー」

「信じた方が、夢があるしね」

 なるほど、とこなたは笑った。

 じゃあ、俺は部室に行くから、「またな」と、こなたに手を振って、渡り廊下を後にした。

 はい、お元気で、とこなたは手を振り返してくれた。
 つかみどころのないふわふわした雰囲気も、今ならなんとなく理解できる。

 でも、それ以降、俺がこなたを見ることはなかった。

 悩む必要がなくなったから、こなたは姿を見せなくなったのだろう。
 俺が、変わることを恐れなくなったから。

 あいつ自身もいなくなる、という変化も、俺は素直に受け止めることができた。

 まあそれはそれとして。

 その日は、たしか、週末明けの、月曜日の放課後だった。

 一昨日と昨日は、いろいろと用事があって、イチと会っていない。

 学校に来ても、文系と理系が違うとなかなか会うことはない。
 昼休みも、イケメン君とユウキに付き合わされて、会いに行く暇はなかった。

 ということで、しばらく顔を見ていなかったその日。

 少し急ぎ足で、俺は部室に向かった。

 連絡をしたわけではないから、どこにいるのかはわからなかったけど、きっと、この時間、イチなら、きっと。

 生徒会室の前を通って、長い廊下を歩く。

 秋の初めの廊下は少し冷えていて、洗練された空気が漂っていた。
 大きく息を吸うと、肺の中が洗われるような気分になる。

 窓の外は、夏の間木陰を作っていた植木たちが、役割を終えたかのように葉を茶色く染めて、その枝を大きく揺らしていた。

 校舎の端っこの、小さな教室に近づく。

 今日も今日とて、俺は相も変わらず、この扉を開く。

 その奥からはあたたかい気配がして、誰かいる、ということが伝わってくる。

 今、会いたい人。

 扉を開けて、俺は言う。

 ーーやっぱり。

 


「ここにいたんだ」


 

おしまい。

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