モバマスのSSです
JKの一ノ瀬志希にスポットを当てているため、志希以外のアイドルは出ないです
地の文多めです
苦手な方はご注意ください
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受験という漠然とした不安が迫りながらも、三年目となる高校生活の変わらない毎日に飽きを隠せなくなっていた頃、彼女は私の前に現れた。
転校生が来る、という話は春休みの終わりには噂になっていた。私のところにも友達づてにその情報が入っていた。連絡網よろしく私は別の友達に転校生の話を渡してやった。友達はあれやこれやと空想を働かせては私に聞かせてきたが、私にはどうでもよかった。
その転校生がどんなやつでどんな事情を持っていても、所詮一年しかない付き合いだし、同じクラスになるかもわからない。仮になったとしても今と同じように、そいつとも適当に付き合うだけだ。
そう思っていた。
私は昔、アイドルになりたかった。
なにも珍しい話じゃない。たぶん、クラスの女子のほとんどは一度はその夢を抱いて、一度はオーディションに書類を送ったことがあるだろう。そして一次選考も通らずに自分を知る。
私たち、普通の女の子が通る道だ。
いまさらなぜそんなことを思い出したのかと言えば、転校生のせいだった。
「一ノ瀬志希です。よろしくねー」
ふわふわの綺麗な長髪をたなびかせ、私の封印した過去を引き連れてそいつはやってきたのだ。整った顔立ちだけど、美人というよりは可愛らしい。そこらのアイドルと並べても、なんら遜色はないだろう。私の人生には、こんな子は存在しなかった。いたとしたら、アイドルになっているから。
テレビで見るアイドルは、ちゃんと普通の女の子に混じって存在しているのだと、私は今更ながらに理解したのだ。
彼女は私の一つ後ろの席に座ることになった。池田望の私は出席番号一番で、彼女が二番だった。
始業式が終わり、放課後になると彼女の周りを女子が囲んだ。色々と質問攻めするのを尻目に、私は教室を後にした。彼女を取り囲む女子を遠巻きに見ている男子も少なくなかった。
だけど、女子と違って男子はそうそう簡単に話しかけられないだろう。そこらに偏在する普通の女の子と彼女は違うのだ。
家に帰ってから、いつもどおりに過ごした。いつもと違うことと言えば、お風呂の鏡で自分の顔を見る時間がすこしだけ長かったことだろうか。
やっぱりそこに映っていたのは、どこにでもいそうな普通の女の子の顔だった。
お風呂から上がると友達から彼女の情報がケータイに回ってきていた。帰国子女だとか、一人暮らしをしているとか、学校帰りに遊びに誘ったが断られたとか、そんなこと。私は義務感からその連絡を何人かの友達に回してあげた。
何人かとメールしながらテレビを見ていると、クイズ番組にアイドルが出ていた。出された問題の回答を一生懸命な顔で書いているが、とんちんかんな答えだった。そんな姿も可愛いと讃えられるのがアイドルだ。実際、彼女は女の私の目から見ても可愛いと思う。
「大したことないな」
昨日までは思いもしなかったことを呟き、私はテレビを消してベッドに入った。テレビに映る彼女は文句なしに可愛いのだが、それが特別なもののように思えなくなっていた。
眠くなるまで友達とメールして、返事が遅くなってきた頃、私は部屋の電気を消した。うつらうつらとする頭の中を回っているのは、直前まで友達と話をしていた転校生のことだ。
帰国子女だから、アイドルじゃないのかな。
一ノ瀬志希と初めて会話したのは翌日の昼休みのことだった。
「ねえ、給食は?」
肩をつんつんと叩かれて振り返ると、小首を傾げながら彼女はそう訊ねてきたのだ。
「ないよ」
「えー、学校って給食出るんじゃないの?」
「ウチは出ないよ。聞いてないの?」
「覚えてないなー。言われたかもしれないし、言われてないかもしれない」
適当な子だなと思った。たぶん、言われたけど聞き流していたか、忘れてしまったのだろう。
ウチの学校には購買もないし、昼休みに学校の外に行くことも許されていない。流石に可哀想なので、私は自分の鞄からコンビニ袋を取り出し、中の一つを彼女に差し出した。今朝、学校に来る前に買ってきた菓子パンだ。
「いいの?」
「うん。明日からは何か用意してきなよ。お母さんに言うとかさ」
「あたし一人暮らしなんだよねー」
そういえばそうだった、と昨日の友達から回ってきた情報を反芻する。親元なら給食の有無くらいは親が確認しているだろうな、と納得した。
「帰国子女なんだっけ」
「そーそー。言ったっけ?」
「言った言った」
彼女は記憶を探るように頭を左右に揺らしたが、どうでもよくなったのかにへらと笑った。そこで会話を切るのもなんか違和感があったので続けて訊ねる。
「親はどうしてるの?」
「アメリカにいるよ。あたしだけ帰ってきちゃった」
菓子パン一つで彼女は色々と教えてくれた。彼女の両親はアメリカの大学で研究をしているらしい。元々は日本で研究していたのだが、彼女が物心つく頃に彼女の父親がアメリカの大学に招かれた。それで家族でアメリカに引っ越したということだ。
彼女は彼女でギフテッドというなんかすごい才能があるらしくて、彼女も大学で研究していたとか。飛び級がどうとか言ってたけど、じゃあなんで今高校生やってるんだろ。
それを彼女に聞くと、笑いながら答えてくれた。
「だって、女子高生だよ? JKだよー?」
「私に言われても意味わかんない」
「それもそっかー。にゃはは」
けらけらと笑ったあと、彼女は菓子パンの空袋を綺麗に折りたたみながら言う。
「でも、あんまりいい匂いしないね」
「匂い?」
「あたし、匂いフェチなんだよね。だから青春真っ盛りのいい匂いがするかと思ったんだ」
すん、と思わず鼻を鳴らしていた。でも、パンのイチゴジャムの甘い匂いしかしなかった。
「なんか淀んでるんだよねー」
私が制服の袖に鼻を近づけると、彼女はくさいってことじゃないよ、と笑っていた。
一ノ瀬志希が本物だとわかったのはゴールデンウィーク前にやった実力試験の結果が帰ってきたときだった。
それまでの授業で、彼女は基本的にノートを取っていなかった。目の前に座る私には知る由もなかったのだけど、彼女の授業態度は不真面目そのものらしかった。ノートは開くだけで、教科書もページをめくらない。というかほぼずっと寝てる。その寝顔が可愛い。とか、そんな話がメールで回ってきた。
私は、彼女が先生に指されて正解を答えているところしか知らなかったので、なんだか意外だった。
試験があるのにこのままでいいのかな、なんて悪口みたいなのと一緒にその話を聞いた私は、一応彼女に試験があることを伝えたりもした。
「そうなんだ」
と彼女は眠たげに言うだけだった。
あまり試験の結果にこだわっていないのかもしれないと思った。クイズ番組に出ているアイドルよろしく可愛ければなんでも許されるというやつなのかもしれない。
私は得意科目も苦手科目もない人間だ。どの教科も平均点よりちょっとだけ上というのがいつものことだった。
ただ、今回は全部の科目が平均点以下だった。そこそこ勉強してるし、一応受験生ということもあって去年よりは勉強時間を増やして、予備校にも通っている。それなのに、全部が平均点以下だというのはさすがに焦りを覚えた。
やばいな、と思ってその不安を解消するために後ろの席に振り返る。人間誰しも自分より下の人間がいると安心するものだ。
「どうだった?」
早々に返ってきたテスト用紙を折りたたんでいる彼女に訊ねる。
「見たい?」
からかうように言うので、これは相当だなと思った。
「見たい見たい」
折りたたまれたテスト用紙を彼女から受け取り開くと、見たこともない数字が書かれていた。
今まで知らなかったけど、テストって本当に百点が満点なんだ。
「カンニング?」
「違うよー」
「あんた頭良かったんだ」
「ギフテッドだからねー」
後から調べたら、ギフテッドというのは神様から与えられたとかそういう意味合いの言葉で、簡単に言うと天才ということだった。大学で研究していた、なんても彼女の冗談かと思っていたけど、どうやら本当らしい。
他のテスト結果を見せてもらってわかったのだけど、いつも平均点よりちょっと上を取る私が、平均点よりちょっと下になったのは、他でもない彼女のせいだった。
どの教科でも全問正解しているせいで、全体の平均点が引き上げられているのだ。
「あんたのせいか」
「ごめんね、にゃはは」
悪びれた様子もなく彼女が笑う。いまさらながら私は一ノ瀬志希が規格外の女の子だと実感していた。なんの取り柄もない私からすれば、神様はなんて残酷なのだろうか。
「ちなみにアメリカではなんの研究してたの?」
「主にケミカル」
ええと、と首を傾げる。なんだっけ、と頭の単語帳をめくるよりも早く彼女が続けていく。
「化学ね。ばけがくの方。いろんなものを混ぜあわせて、新しいものを作ったりしてたよ」
「へえ。なんかすごいじゃん。なんでやめちゃったの?」
「飽きた! 新しいものを作るのは楽しかったけど、だんだんどんなのができるか先にわかるようになって、飽きちゃった」
あっけらかんとして笑う彼女だったが、なんか凄そうなのにやめちゃってよかったのかな、と思った。
一ノ瀬志希は天才だけど、苦手なこともあるようだった。
三年生になってから最初の体育の日だった。
私たち一組の女子は二組に移動して二組の女子と一緒に着替える。新品の体育着に身を包んだ彼女が、すんすんと鼻を鳴らして体育着の匂いを嗅いでいた。
「新品のいい匂いがするー」
「それはわかるかも」
いつも志希の言ういい匂いが、いまいちわからない私でも、新品のいい匂いは共感しやすかった。
着替えたらグラウンドに出る。今日はサッカーの日だった。男子たちがゴールポストを校庭の隅から運んでいる。
「望ちゃんもいい匂い」
ぼんやりと体育の準備をするところを見ていたら、志希に後ろから抱きすくめられた。鼻を鳴らして私の体育着を嗅ぐ。志希のそれとは違い、私のはもう二年も使っているやつだ。かあっと顔が熱くなり、思わず振りほどいてしまう。
「あっ」
それほど力は入っていなかったと思ったけど、振り払われた志希は後ろに二、三歩よろめくとそのまま尻もちをついてしまった。
「ごめん、大丈夫?」
「へーきへーき」
「恥ずかしいから今みたいなの禁止ね」
「にゃはは、ごめん」
私は尻もちをついている志希に手を伸ばした。掴んだ手はとても小さくて、力を込めれば壊れてしまいそうだった。
彼女の手はじんわりと汗で湿っていた。今日は朝から快晴で、夏かと思うほどの日だった。外に出て私も汗をかいているので、匂いを嗅がれるのは余計に恥ずかしかったのだ。
授業が始まって、整列して準備運動が始まる。志希は慣れてないのか、みんなの動きを見ながらワンテンポ遅れて身体を動かしていた。
「大丈夫?」
準備運動が終わると、私は汗だくになっている志希に訊ねた。
「へーき、へーき」
次はグラウンドを三周する。もうみんなわかっているから、先生の掛け声もなくみんながグラウンドを走り始めた。遅れないように私たちも続く。
私は志希と違い、運動は得意な方だった。志希には、歩いてもいいから、と言って自分の走りやすい速度で走ると、あっという間に志希のことを引き離してしまった。すぐに周回遅れの志希に追いつく。
走っているような手の動かし方だけど、足は明らかに上がっていない。歩いているような速度でふらふらしている志希をみんながよけて走っていく。
私は速度を落として志希の隣に並んだ。立ち止まって、志希がふらふらするのに合わせて歩く。
「ちょっと休む?」
「だめかも」
志希はそれだけ言うとぐったりしてしまった。肩を貸して歩いたら、彼女のあまりの軽さに驚いた。木陰に座らせて先生に報告しにいく。
保健委員でもないのに、保健室に連れて行くことになった。志希は立ち上がるのもつらそうだったので、背中におぶって保健室へと向かう。やっぱり志希の身体は軽く、女の私でも簡単に持ち上がるくらいだった。
体育着に着替えたときから思っていたけど、やっぱり結構胸あるな。私よりおっきい。
保険の先生に見せたら、貧血だろうということだった。
ベッドに横にすると、志希が申し訳なさそうにこちらを見ていた。
「ごめんね」
「別にいいけど、病気とかじゃないんだよね」
「うん。ずっとラボで研究しかしてなかったんだから、身体がついていかないんだろうねー」
「サッカーなんてしたら死んじゃうんじゃないの」
「にゃはは……」
タオルで志希の顔を拭いてあげると、くすぐったそうに身をよじった。
志希のことは心配だったが、私はずっとサボっているわけにもいかず、すぐに保健室を後にした。
それからしばらく志希は体育を見学するようになった。
予備校で過ごす夏休みが終わり、受験の足音が大きくなってきた頃だ。
「ねえねえ、望ちゃんって夜更かしする方?」
いつになくテンション高く志希が訊ねてきた。
「あんまりしないかな。遅くても一時とか」
「わあ、いい子!」
「別に……。で、なにかあるの?」
「あの番組見たことあるかなーって」
そう言って志希があげたのは深夜帯の歌番組のタイトルだった。私も何回か見たことがある。若手中心の生放送番組だから、歌詞が飛んだり、音が外れたりで、ゴールデンの録画番組とは別の新鮮さがある、とそれなりに有名な番組だった。
「見ろってこと?」
「ま、そうなるのかにゃー」
「今日、何かあるの?」
「それは見てからのお楽しみー」
その歌番組も深夜とはいえ、そこまで遅くはない。受験勉強が終わった後の息抜きとして見られるような時間だった。
その日の受験勉強はいつもより調子がよかった。いつもは躓くような問題もすらすらと答えが出てくる。ちゃんと覚えられるのかな、と心配になるくらいだった。月に一度くらい、こうして調子のいい日がくる。私は時間じゃなく量を決めて勉強する方だけど、そういう日は早く終わった分追加してしまう。
今日は使わない世界史の参考書を取り出したところで、志希のことを思い出した。時計を見ると、まだ番組の始まる時間ではなかったので、冷蔵庫からアイスを持ってきた。もう日付は変わってしまっているので、家族を起こさないように忍び足だ。
部屋に戻り、テレビをつける。音量を小さくして、チャンネルを合わせた。
画面には前番組のお笑い番組が映されていた。司会の人以外はゴールデンタイムではあまり見ない若手ばかりだ。そのせいかあまり面白くはなかった。ゲストできていたアイドルがくだらないギャグに笑い転げていた姿の方が笑いを誘っていた。
CMを挟んで例の歌番組が始まる。
司会はなぜだか知らないけどお笑い芸人だった。コンビでデビューしたけど、いまは一人での活動の方が多い。その流れで真面目な番組にも出たりする人だ。
何組かが歌い、CMが挟まれる。志希は何を見せたかったんだろう。私が好きなグループが出ていたので、明日はその話をしようかな、なんて考えてながらアイスを食べているとCMがあけた。
司会の人が次の曲の説明をする。アイドルのデビュー曲ということだった。それどころか、今日がテレビに初登場らしい。
「なにも生放送じゃなくてもいいのに」
ただでさえ失敗する生放送の歌番組で、失敗しやすい人間を出さないでもいいのに。と私はそのアイドルに同情した。見ている側は可愛らしいアイドルが失敗しながらも一生懸命に歌う姿を見たいのかもしれないが、晒される方のことを考えると、私は楽しめそうにない。
でも、それは私があまりアイドルを好きじゃないからなのかもしれないな、と思い直す。だって、さっき出ていた私の好きなグループの歌も、CDとは違う歌い方で、そんな感じもいいなと思っていたのだから。
司会者に促され、そのアイドルがステージに姿を見せる。
『はーい、一ノ瀬志希ちゃんでーす』
なんの冗談かと思った。だけど、フリフリの可愛らしい衣装を身にまとった女の子は、確かに私の知っている一ノ瀬志希だった。深夜なのに音量をいつもと同じに戻す。テレビから聞こえてる声は志希のものだ。
驚きすぎて、思考が止まる。現実を否定する思考すら止まってしまったせいで、その光景を簡単に納得してしまった。
あんなに可愛いのだから、アイドルになってもおかしくはない。初めて志希を見たときと同じようなことを思った。
生放送だというのに、志希は物怖じせずに司会と話している。デビュー曲を聞いてほしい、これから応援してほしい、とか。本物のアイドルみたいだった。
簡単なトークが終わると、いよいよ志希の曲が始まる。司会者がタイトルをコールして、舞台袖に退く。
その瞬間、画面が暗転した。
そういう演出だと思ったが、一向に音楽が流れない。ざわざわした声をマイクが拾っている。司会が慣れた口調で機材トラブルだと説明する。チャンネルを変えないで、とおどけた様子で冗談を言ったので、スタッフから笑い声が上がった。
一方で私は笑えなかった。むしろ、何を笑っているのだと怒りすら覚えていた。
だって、志希はただでさえ緊張するステージで、こんなトラブルの後に歌わなければいけないのだ。
アイスを掬ったスプーンを持った手が震えていた。早く灯りがついてほしい。
祈るように画面を見つめていると、その中心に光が灯った。
小さな光が流れるような軌跡を描いていく。
浮かび上がったのは、志希、というサインだった。その光のサインの向こうには暗闇の中でうっすらと志希の顔が映っていた。不敵に笑う彼女は紛うことなきアイドルだった。
「すごい……」
スプーンのアイスが溶けて私の太ももに落ちた。
スタジオが明るくなり、志希の姿が照らしだされる。画面が明るくなっても、光のサインは私の網膜に焼き付けられたままだった。
にこりとカメラに微笑んだ志希は手に持っていたライトをポケットにしまい、マイクを構えた。同時に彼女の曲が流れ始める。
志希が彼女だけの歌を踊って、歌い切る頃には、私が持つアイスはどろどろに溶けてしまっていた。
昨日は興奮して眠れなかったが、朝になると思ったよりすっきりしていた。あの興奮も冷めて、学校に行く頃には夢でも見ていたんじゃないか、と現実感を失っていた。
その日は私よりも先に志希が学校にきていた。夏休み明けにした席替えで、志希は再び私の後ろの席になっていた。
「おはよう」
「おはよー、ふぁ……」
志希が朝眠そうにしているのはいつものことだった。でも、そのいつもの顔を見ていると昨日のことが興奮と一緒に蘇ってくる。
「あんた――」
なんて言葉をかけよう。そんなこと普段は考えもしないのに。
見たって言ってミーハーみたいに騒ぐ? 恥もなにもかもなくしてしまうのなら、それでいいかもしれない。けど、それはなにか違う。私のキャラじゃない。
「歌、上手いんだね」
私がそう言うと志希はぱちぱちと瞬きをして、それから笑みを浮かべた。
「うん」
私が志希のCDを発売当日に買う頃には、志希はたまに学校を休むようになった。アイドルの仕事があるらしい。学校には説明してあるらしいけど、クラスには内緒だった。たぶん、彼女のことだから、誰かに聞かれれば正直に答えるのだろうけど。
その代わり、体育は見学しないようになっていた。普通に準備運動もランニングもこなせるようになっていた。踊りながら歌を歌えるのだから、体育の授業くらいは楽勝だろう。
夏の暑さが陰りを見せてくると、球技大会が行われた。クラスごとに男女別に何チームか出してトーナメントをするというものだ。一年生のときはフットサル、去年はバレーボール、今年はバスケットボールだった。
私は志希と同じチームになった。ふわふわの髪を一つに束ね、体育着の上にゼッケンを重ねると意外とさまになっている。見慣れた体育着とゼッケンなのに、彼女が着るとドラマの衣装のようだった。私のそんな感想もつゆ知らず、志希はくんくん、とゼッケンの匂いを嗅いで身体を震わせていた。
二週間ほど前から体育の授業ではバスケをやっていたが、志希はちょうど忙しくなったみたいで一度も体育に出ていなかった。
運動の苦手な志希らしく、シュートやドリブルどころか、ろくにパスも出せない。聞いてみるとバスケは一度もやったことがないらしい。そのため、私はバスケのルールを説明してやる必要があった。
「頑張ろうねー」
と、志希は張り切っているようだった。普段、おちゃらけてるけど、この子は意外と負けず嫌いっぽいのだ。
最初の試合が始まる前に一時間の練習時間が設けられている。私たちのチームは志希を除いてそこそこ運動神経がいいメンバーだ。私たちのクラスに一人だけいるバスケ部員もいる。このチームで優勝を狙うつもりだった。
最初の試合前に、そのバスケ部員の近藤さんが言った。
「一ノ瀬さんはボールを持ったらすぐ他の人にパスすればいいから」
志希は元から控え扱いだったが、ルールとして一試合に控えを合わせて全員が試合に出なければいけない決まりだ。最初の体育で貧血で倒れ、その後は見学。さっきの練習時間では散々だった志希が期待されないのも仕方のないことだった。
もう志希は準備運動でダウンするような子じゃないと、私はすこしむっとした。
「いいよー」
だが、当の志希はあっけらかんとしていた。
私たちのチームの作戦としては、志希の他にバスケに自信のない鈴木さんを前半に出し、後半で志希に交代という作戦だった。選手交代は怪我以外は前半が終わったときだけだった。運動神経の悪い子を出してすぐに交代、なんてことをさせないためのルールだ。
最初の試合、志希にはほとんどボールが渡らなかった。なんだか一人だけ蚊帳の外にしているみたいで可哀想だった。一度、試合の流れに紛れて志希にパスを出したけど、彼女はパスを受け取り損ねて、ころころ転がるボールをコートの外まで追いかけていった。
彼女の背中で揺れる一束の黒髪を見てると、勝手なことながらも可愛らしいと思ってしまった。
次の試合までの時間はずっとパスの練習をしていた。意外と志希は飲み込みが早く、最初は明後日の方向に飛ばしていたパスも三十分もする内に綺麗に出せるようになっていた。意外と、というとおかしな話かもしれない。志希はギフテッドと呼ばれる天才なのだから。
次の試合で志希からパスを貰ってシュートを決めたときは、思わずガッツポーズをしてしまった。
私たちのチームは危なげなく勝ち上がっていった。志希が足を引っ張ると思われていたのだけど、人並みとはいかないまでも頑張っているので、思ったよりもチームの実力が高かった。
試合の合間、志希は今度はドリブルの練習をしていた。私もバスケ部というわけではないので、特別なアドバイスができるわけじゃない。最初は足に引っ掛けて転がっていくボールを、追いかけていく志希の姿を見て楽しんだ。でも、それは最初だけで、ちょっと練習しただけで人並みにドリブルができるようになった。やっぱり志希は天才なんだ。
そうやって私を感心させた志希だったけど、次の試合でもボールを持ったらすぐ味方にパスするだけだった。ちょっとくらいドリブルしてもいいのに。
その次はシュートの練習だ。パスの要領でやるからか、最初からある程度はボールがまっすぐに飛んだ。シュートのアドバイスは近藤さんに貰った。簡単に話を聞いただけで、シュートの成功率がぐんと上がった志希を見て、近藤さんも驚いていた。私はすこしだけ誇らしい気持ちになった。
「どうしてここから三点入るのに、わざわざ相手を突破して二点のシュートを狙うの?」
スリーポイントラインの話をすると志希が素人らしいこと言った。近藤さんも聞き慣れているのだろう。すこし肩を下げながら、志希に説明する。ただ、近藤さんは勘違いしている。
志希はシュートの難しさをわかっていないからそう言っているわけじゃないのだ。他人には練習してもできないことがあるということがわかっていないだけだ。
試合が進み決勝戦になった。相手はバスケ部のキャプテンの弘美が率いる三組のチームだ。
「あの子と何かあったの?」
整列が終わって試合の準備をしていると志希が訊ねてきた。
「わかるの?」
「匂いでねー」
なんだそれは、と思ったけど、志希なら仕方ないなと思い直した。
「ちょっとね」
一年生の頃は仲良しだったけど、ちょっとしたすれ違いがあって、進級してクラスが別れたせいでそれを解消できなかっただけだ。別に喧嘩しているわけじゃない。
試合が始まると私は徹底的にマークされた。必ず一人は私の側にいて、ボールを持ったときにはそれが二人になる。普通なら近藤さんを重点的にするところだが、そちらは弘美が一人でやっていた。バスケの苦手な鈴木さんはフリーなのだが、そこにパスを出してしまうと簡単にボールを奪われてしまう。
事前に私たちの試合を観察して、勝つための戦略を組んでいるのがよくわかる前半戦だった。
前半戦が終わると、私たちは意気消沈していた。鈴木さんなんて目に涙を浮かべている。これまでの試合、私たちは前半戦で必ずリードを作ってきた。運動の苦手な志希に交代しても勝てるように、という意気込みだった。
それほど点差はついていないものの、前半戦では手も足も出なかった。志希が練習して多少上手くなったと知っている私でも、覆せるようには思えなかった。
「ねーねー、みんなちょっといい?」
輪になったものの言葉がなかった私たちに、志希が深刻さの欠片もないような声で言う。
手で近寄れとジェスチャーするので、みんな志希に顔を寄せる。
彼女は胸元から一本の瓶を取り出す。紫色の香水の瓶だった。
しゅ、しゅ、と甘い香りが私たちの鼻先に漂う。ささくれだった心がほぐれていくようだった。
「いい匂い」
「でしょー? リラックスできる成分を多めにしてあるんだ」
「なんて香水なの?」
「名前はつけてないよ、オリジナルだからね」
「自分で作ったの?」
「そうだよー」
本来なら試合について話すべき時間なのだが、みんな志希が作った香水に興味津々だった。あれやこれやと志希が質問攻めされている。
みんな彼女が胸元から香水を取り出したことについては忘れてしまっているようだ。たぶん、前半中に仕込んだ彼女なりの冗談なのだろうけど。
「一ノ瀬さん」
学級委員長でもある近藤さんが、志希の香水を見て言う。
「香水は校則違反だから」
「にゃはは……」
慌ただしく志希が香水を鞄に隠しに行って、戻ってきたらもう試合開始の時間だった。なんの解決策も見つからなかったけど、私たちの間に漂っていた負けムードは志希の香水で上書きされてしまったようだった。
だからといって簡単に勝てるものではない。相変わらず、私のマークはきついし、近藤さんは弘美に張り付かれている。前半と同じような流れがまた出来上がってしまっていた。
だけど、徐々に点差が縮まっていく。それは三組の交代した選手のせいもあった。明らかに動きが悪い。おそらく、弘美は志希が後半に出ることをわかっていて、前半に上手い人間を入れていたのだろう。
そして、もう一つ前半と違うのは志希の存在だった。鈴木さんはパスを貰ってもそれを上手くつなげることができなかったけど、志希は言われた通りに即座にパスを返すので相手もなかなか奪うことができない。そのパスも志希の観察眼のおかげか、得点に繋がることも少なくなかった。
試合終盤になると相手の動きが悪くなっていた。このまま続けていても勝てるかどうかわからなくなったのだろう。前半の私たちがそうだったから、よくわかる。何か変えないといけないと思っていても解決策は思いつかない。点差はこちらが負けているのに、精神的には優位に立っている気がした。
弘美がシュートを外すと、近藤さんがリバウンドを取った。点差は二点差まで追いついていたが、もう時間に余裕はなかった。コートの中央にいた私にパスが飛んでくる。
同点にできれば、最後はフリースローで勝負を決めることになっている。まだ負けたくない。
だけどドリブルで数歩進めただけで、相手のディフェンスに阻まれる。ボールを叩きながら、二人と睨み合う。ちょっと運動神経がいい程度の私じゃ突破できない。
視界の端にボリュームのあるふわりとした長髪が映る。私は咄嗟にボールを彼女に投げた。
勢いのついていたボールを綺麗に受け止めると志希はドリブルを始める。今日のはじめの頃と違い、その姿はさまになっていた。おぼつかないドリブルなんかじゃない。バスケ部に所属するヒロインそのものだ。
そんな彼女の前に弘美が立ちふさがる。弘美の口元には笑みが浮かんでいる。彼女は私が志希にパスを出すように仕向けていたのだ。志希がちらりと視線をスコアボードにやる。私もそれにつられて、スコアボードの残り時間を見る。もう時間は残されていない。
これが最後のプレーになるだろう。その瞬間に、一番奪いやすい人間にボールがいくようにしたのだ。奪えなかったとしても時間を使い潰せる勝算が最も高い相手を選んだのだ。
志希はドリブルしながら弘美を抜こうとするけど、バスケ部員を簡単に抜けるはずもない。スリーポイントラインから中に入れさせてもらえず、外周をなぞるようにサイドに流れていく。
いつもあんなに飄々としている志希の顔にも焦りが浮かんでいる。珠のような汗がきらきらと輝きながら頬を伝っている。
「志希!」
思わず私は彼女の名前を呼んでいた。それはテレビの画面に映るヒロインを応援するときのものだった。
私は知っている。
準備運動でへろへろになって、軽くランニングしただけで倒れてしまう。そんな志希が難しい曲を踊りながら歌いきれるようになったことを。
どんなピンチにもうろたえずに、それをチャンスに変えてしまう頭脳の持ち主だってことを。
誰よりもきらきらと輝くアイドルなんだってことを、この場の全員に魅せつけてやれ。
私の呼びかけに応えるように、志希が目だけをこちらに向けた。口元にはいつもの不敵な笑みを浮かべている。
くん、と志希の膝が曲がる。一切の淀みもなく、そこから身体が伸び上がる。決して高く跳んだわけではない。だけど、それで充分だった。美しいその流れそのままにボールが放物線を描いていく。反応が一瞬遅れた弘美が飛び上がって手を伸ばすけど、そのボールの軌跡に触れることは叶わない。
枝から離れたリンゴが地面に落ちるような、そんな当たり前のようにボールがゴールネットに吸い込まれる。
体育館の床にボールが落ちた音に、試合終了のブザーが重なる。
得点係が三点の加点をするより早く私は志希に飛びついた。
私よりも僅かに小さい身体が、腕の中にすっぽりと収まる。運動で上気した身体の温もりと、力を込めたら折れてしまいそうな華奢な身体つきが、私の身体に伝わってくる。
「私のこと利用しちゃって!」
「利用じゃないよ、活用だよー」
あの一瞬のためにずっと志希は布石を打っていたのだ。
私が志希のことを呼んだ瞬間、弘美は私にボールを戻すことを警戒したのだ。その一瞬の隙に志希はシュートを決めたのだ。
ここまでの試合でボールが回ってきたらすぐにパスしていたのも、このフェイントのためだった。
最後にドリブルで突破しようとしたのは、タイムアップにシュートを合わせるため。
焦っているような表情も、視線を私に向けたのも弘美を騙すミスリードだったに違いない。
私が感極まって志希の名前を呼んだことすら彼女の手のひらの上だったのではないかと疑ってしまう。
やっぱり志希は最高のアイドルだ。
「望ちゃん、いい匂い~」
私の腕の中で志希がふにゃっと脱力する。それと同時にチームメイトが私たちを囲む。悲鳴のような嬌声を上げながら、みんなが志希のことを讃えてながら抱きしめる。
「いい匂いに囲まれて幸せ~」
志希は整列のときどころか、球技大会の閉会式が終わるまでふにゃふにゃとトリップしたままだった。
高校を卒業してから二年が経った。大学も三年生となると就活の二文字がちらつきはじめて憂鬱になる。
志希は卒業してからはアイドル業に専念していた。大学で勉強をするのに年齢は関係ないという彼女らしい言葉を思い出す。
たまに深夜帯のアイドル専門番組に出ていただけだった彼女は、この二年の間にアイドルの階段を駆け上がっているようだった。退屈を嫌う志希らしいと思う。街なかに彼女の映る広告看板を見つけることも珍しくなくなった。ゴールデンタイムのバラエティに出たり、歌番組にユニットで呼ばれたりしている。クイズ番組には一度きり出ただけだ。正答率が百パーセントでは見ていて面白くないのだろう。
私は志望していた大学に入ることができた。志希と話していると自分も頭がよくなったような気がして、一つランクの上の大学も受けたがそちらは落ちてしまった。世の中はそううまくいかないらしい。
卒業以来、志希とは一度も会っていない。忙しいのだと思う。一度も会おうとは言わなかったが、言ったとしてもおそらく時間が取れなかっただろう。
だけど、メールでの連絡はしていた。基本的には私から送るものばかりだ。志希の出た番組を見たとか、新曲を買ったとか、そんなミーハーなやつ。
それでも志希は必ずメールを返してくれた。一ヶ月や二ヶ月経ってから返事がくるというのもざらだけど、志希はメールの返事を欠かしたことは一度だってない。
ライブにも行きたいのだけど、人気が高まってしまった今では抽選にかすりもしない。でも、私はそれをむしろ誇らしく思っていた。
私はこの先、平凡に生きていくのだろう。普通に大学を卒業して、適当に就職して、それなりな結婚をするのだろう。
あの一ノ瀬志希と友達なんだ、っていうことはそんな私の唯一の自慢だ。
一度だけ、卒業する直前に、志希がライブのチケットをくれたことがあった。彼女にとっての初めてのライブは小さなライブ会場で、お客さんもその小さなライブ会場にすっぽり入ってしまうくらいだった。数合わせのような面もあったのだろう。
簡単なトークと志希の曲を歌うだけのライブだった。でも、小さなステージの上に立っている志希は、私の知っている一ノ瀬志希じゃなく、アイドルの一ノ瀬志希だった。私が触ったり話したりしていたはずの志希が、ステージを隔てただけでまるで別世界の存在のようだった。
あのライブのときの志希は間違いなくアイドルだった。テレビに出ずっぱりのトップアイドルと並べても掛け値なしにアイドルだった。
でも、私がアイドルの志希を思い浮かべるとき、頭に浮かぶのは歌を歌っているときやテレビに映っているときの志希じゃない。
珠のような汗をきらめかせながら、美しいフォームでスリーポイントシュートを決める志希が真っ先に浮かぶのだった。
――了――
以上です
読んでいただきありがとうございました
ああ見えて志希にゃんは、ダンスレッスンでいきなり貧血で倒れるところから、
ライブを踊り切ることができるようになるまで頑張ったんだということを知っていただけたらそれだけで嬉しいです
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