梨子「畜犬談」 (26)
私は、犬については自信がある。
いつの日か、かならず喰いつかれるであろうという自信である。
私は、きっと噛まれるにちがいない。自信があるのである。よくぞ、きょうまで喰いつかれもせず無事に過してきたものだと不思議な気さえしているのである。
梨子「……」
曜 「梨子ちゃん、どうしたの?
早くおいでよ」
梨子「いや、あのね、えーと……何でもないんだけどね。
ただちょっと、犬が」
千歌「ふふふ、だいじょうぶだよ。
しいたけは大人しいから、噛みついたりしないよ!」
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犬は必ず私を噛む。
こんなことを言うと、私の友人の千歌ちゃんと曜ちゃん、ひいては全国の愛犬家の皆さんは、一斉に犬を弁護するだろう。
曰く、「うちの犬は大人しいから、噛みついたりしないよ」と。
しかし、以下の推論を考えてみてほしい。
(1)すべての大人しい犬は人を噛まない
(2)うちの犬は大人しい
――――――――――――――――――
(3)うちの犬は人を噛まない
なるほど、たしかにこの推論は古典的な三段論法の型に則ってはいる。
しかし、前提(1)をよく見てほしい。
大人しい犬は人を噛まない
この前提が真であることを証明するには、全国各地、津々浦々の大人しい犬という犬を調べ上げ、それらの犬が生まれてから死ぬまでの追跡調査を行わねばならぬ。
「お前は忠犬だねえ、生まれてから死ぬまで、一度も私を噛まなかったねえ」/「くうん」という涙の別れを幾千と経なければならぬ。
そんなことをするには、莫大な時間と労力がかかるだろう。
国家的プロジェクトと言ってもよい。
このプロジェクトが完遂されるまでは、私はかの前提を受け入れない。
それゆえ私は、「この犬は人を噛まない」という結論を受け入れないのである。
梨子「……噛むわ」
千歌「梨子ちゃん?」
梨子「私はしいたけに噛まれる……いつかわからないけど、たぶん、絶対」
曜 「あはは、梨子ちゃんは心配性だなあ。
千歌ちゃんも私も、物心ついたころからしいたけと遊んでるけど、噛まれたことなんてないよ?」
梨子「今まで噛まなかったからといって、今後も噛まないという保証はないわ。
今まで大人しかった犬が急に豹変して噛みつくというケースは、きっとたくさんあるはずよ」
千歌「心配しなくても大丈夫。
だってうちのしいたけは、特別だもん」
なるほど、千歌ちゃんによれば、ほかの犬はいざ知らず、しいたけだけは特別らしい。
つまりここで千歌ちゃんは、さきの前提(1)を放棄することによって、推論そのものを放棄してしまったわけだ。
すなわち、千歌ちゃんによれば
しいたけは人を噛まない
という命題が、覆すことのできない不可侵にして不可疑の絶対的真理でありつづけているわけだ。
しかし推論の放棄は知性の放棄であり、思考停止という低級な快楽に身を委ねることである。
それは人間の快楽ではない。畜犬の快楽である。
ゆえに私は、人間であることの誇りを胸に、断固として千歌ちゃんの主張に反対せねばならぬ。
梨子「千歌ちゃん、曜ちゃん、目を覚まして。
しいたけは人を噛む。というか私を噛む。めっちゃ噛む」
曜 「えっ! 梨子ちゃん、しいたけに噛まれたことあるの?」
千歌「こら、しいたけ、梨子ちゃんに何てことを……」
梨子「あ、いえ、ごめんなさい。
まだ噛まれたことはないのよ。
でも、いつか……いつか分からないけど、たぶん、絶対」
曜 「なーんだ、よかった」
千歌「それなら千歌ちゃん、しいたけに触ってごらんよ!
ふかふかですごく気持ちいいから!」
嗚呼、何と恐ろしい提案であろうか。
千歌ちゃんは天使のように無邪気に笑ってはいるが、その実、言っていることは危険きわまりない。
曰く、「しいたけに触ってごらんよ」と。
そんなことをすれば、しいたけは、この場を丸く収めるために悲壮な覚悟で背中を触ろうとする私のほうに向きなおり、
私の手を、雷光一閃、がぶりと噛むに違いないのである。
「うぎゃあああ」という絹を裂くような悲鳴があたりに響き、そこには目を覆わしめんばかりの地獄絵図が繰り広げられることであろう。
それを想像するだけで、私の体は恐怖におののき、私の心は絶望に打ちひしがれるのだ。
では、私はしいたけを触るのをあきらめ、
「駄目ですね、私はこんな畜犬と仲良くしたくはありません。断固拒否です。
君たちは飼い犬に手を噛まれるまで阿呆のように犬畜生を戯れていたまえ、ハハハ」
と言って、この場を去ればよいのだろうか。
嗚呼、しかしこれは何と残酷な対応であろうか。
つまり私は、そんなふうに犬畜生呼ばわりすることによって、今まで人を噛んだことのない善良なる椎茸ちゃんを讒謗するわけである。
いわれのない誹謗中傷は、いつの時代も、言論の自由を脅かしめ、善良なる人および犬の心を傷つける悪行である。
そんな私の冷酷無比なる言葉を聞いた千歌ちゃんと曜ちゃんは滂沱の涙を流し、
「うえええん、梨子ちゃんがしいたけをいぢめた」
と言って悲嘆に暮れること必定である。
三、七、二十一日、泣き暮れるに相違あるまい。
思えば、二人は内浦に越して間もない私にできた大切な友人ではないか。
彼女たちの天使のごとき親切心から出た申し出を無下に断ることなど、私にはできない。
そんなことをすれば、私の心は慚愧の念によって地獄のような苦しみを受けるだろう。
さて、ここで私は進退窮まった。
つまり、今の私がとることのできる選択肢は
(A)しいたけに触る
(B)しいたけに触るのを拒否する
の二つであるが、どちらを採っても地獄絵図である。
(A)を採ればしいたけに噛まれ、(B)を採れば千歌ちゃんと曜ちゃんを悲しませることになるだろう。
ディレンマである。
ディレンマとは一般に、選択肢が二つしかないときに、どちらの選択肢をとっても受け入れがたい帰結が生じるという状況を表す。
嗚呼、しいたけに触っても地獄、しいたけに触らずとも地獄。
かくのごとき窮地に陥ったことを自覚し、私は、ひとり淋しく首肯するばかりである。
かくのごとくディレンマに呻吟する私を心配し、千歌ちゃんと曜ちゃんが私に問いかけてきた。
曜 「梨子ちゃん、どうしたの?」
千歌「何だか難しいことを考えてるようだけど……大丈夫?」
梨子「それでも私は、考えなければならないの。
曜 「どうして?」
梨子「思考停止に身を委ねることは、犬になるも同然のことだから」
千歌「へー。
私、むずかしいことはよくわからないけど……
でもそんなふうに窮屈に自分を押し込めることはないと思うな。
もっと自由に生きようよ!」
曜 「そうそう。
やってみたら、意外とハッピーが見つかるもんだよ」
嗚呼、私の友人たちは無邪気でありながら聡明でもあったのだ。
そうか、先刻まで私が迷い込んでいたディレンマは、頭の中だけのものにすぎなかったのだ。
考える人であることにこだわり続けたがゆえに、私は出口のない迷宮に閉じ込められてしまったのだ。
すると、この迷宮から逃れる方法は、今や明らかではないか。
そう、選択肢はもう一つあったのだ。
相対立する二つの選択肢は第三の選択肢へと止揚(アウフヘーベン)されるのだ。
かくして深遠なる弁証法によって私に与えられた選択肢は、下記のとおりである。
(C)私が犬になる
梨子「わん」
曜 「!」
梨子「くうーん」
千歌「!?」
梨子「ふんふん、はっはっ」
椎茸「!!?」
曜 「梨子ちゃんが犬になっちゃった!」
千歌「いったい、どうしてこんなことに……」
曜 「何かよく分からないけど……
むずかしく考えすぎて変な方向にイってしまったみたいだね」
千歌「どうすればいいのかな」
梨子「くうーん」
曜 「あ、四つん這いになって、こっちに首を傾けてるよ」
千歌「撫でてほしいのかな」
梨子「ふんふん」
曜 「気もちよさそうだね」
千歌「あごの後ろを撫でてもらうのが、特に好きみたいだね」
梨子「くんくん、くうーん」
曜 「ふふふ、可愛い」
千歌「あ、ひっくりかえった」
梨子「わんわん」
曜 「えーと……おなかを撫でてほしいのかな?」
梨子「わん」
千歌「たしかに、大喜びしてるね」
梨子「ふーん、ふーん」
曜 「ようそろ……」
なるほど、千歌ちゃんと曜ちゃんの言うとおりだ。
ワンちゃんプレイを実行することに躊躇がなかったと言えば嘘になるのだが、やってみたら、意外とハッピーが見つかるものだ。
というか、竜宮城でも天国でも、このようなハッピーに与ることはできないだろう。
これが畜犬の快楽だというなら、私は畜犬で構わない。
いかなる高級な快楽も、曜ちゃんと千歌ちゃんに「よしよし、いいこいいこ」してもらう快楽に比すれば取るに足りないものではなかろうか。
では、畜犬の快楽こそが至上の快楽であり、私たちは犬になりきって生活すればよいのだろうか?
私は、以後の生涯を犬として過ごし、ワンちゃんプレイの変態性を高めることに全身全霊を捧げればよいのだろうか?
そこまで考えたところで、突如として私の耳に不可思議な声が聞こえてきた。
椎茸(それは違うよ、梨子ちゃん)
梨子(しいたけ! なぜあなたの声が聞こえるの?)
椎茸(梨子ちゃんが犬になりきったから、犬の気持ちが分かるようになったんだよ)
梨子(それにしたって、言葉が通じるのはおかしくない?)
椎茸(セルフ・バウリンガルというやつだよ)
梨子(なるほど、そういうものなのね)
椎茸(さて、話を戻そうか。
ねえ、梨子ちゃん。君がなぜ変態ワンちゃんプレイに興じることになったのかな。
話の筋を、もう一度よく考えてみるんだ)
梨子(それは……ディレンマを脱するためには、私自身が犬になりきるしかなかったからです)
椎茸(ちょっと論理が飛躍してる気はするけど……まあそれはいいよ。
ねえ、梨子ちゃん。
もう一度、三つの選択肢を挙げてくれるかな?)
梨子(しいたけに触るか/触らないか/しからずんば、私が犬になるか)
椎茸(そして梨子ちゃんは、犬が苦手なんだよね)
梨子(ごめんなさい)
椎茸(謝ることはないよ。
それなら、無理して触ることなんかないんだからさ。
だから採るべきは、二番目の選択肢だよ)
梨子(でもそれじゃあ、千歌ちゃんと曜ちゃんを悲しませることになっちゃうかも)
椎茸(どうして?
梨子ちゃん、犬が苦手だってこと、二人にちゃんと伝えたの?)
梨子(それは……まだだけど)
椎茸(それなら、正直に言ってごらんよ。
難しく考えることなんかない。たったそれだけのことなんだよ)
梨子(ほんとに?)
椎茸(ほんとだよ。
犬にかけて誓うよ)
梨子(ほんとに二人は、私の気持ちを受け入れてくれるの?
その保証はどこにあるの?)
椎茸(二人が梨子ちゃんの友達だからだよ。
保証なんて仰々しいものを求めなくても大丈夫。
友達は、友達の嫌なことを無理強いしたりしないよ)
梨子(……うん、そうだよね。
私はバカだなあ。
理詰めで考えるあまり、そんな簡単なことにも気づかなかったんだね。
しいたけちゃん、ありがとう)
椎茸(礼には及ばないよ。私はただの畜犬だからね)
――――――――――――――――――
千歌「あ、梨子ちゃん、目が覚めた?」
梨子「私、寝てた?」
曜 「うん。寝ころんだまま、しばらく眠ってたよ。
撫でてもらうのが、よっぽど気持ちよかったんだね」
梨子「そっか……じゃあさっきのは、夢か」
千歌「どんな夢?」
梨子「ふふふ、すてきな夢だったわ。
……ねえ千歌ちゃん、曜ちゃん」
曜 「何かな?」
梨子「私、犬が苦手なの。
今まで黙ってて、ごめんね」
千歌「なあんだ、そうだったのか。
謝ることなんかないよ。
こちらこそ、無理に触らせようとしちゃって、ごめんね」
曜 「そうそう。謝らなきゃいけないのはこっちのほうだよ。
ごめんね。しいたけは、梨子ちゃんのほうに近づけないようにするからね」
梨子「ふふふ、ありがとう」
千歌「これで噛まれる心配は絶対にないからね」
梨子「そうね。
もうこれで私は、どんなことがあってもしいたけに噛まれて『ぎゃあああ』などという惨めな叫び声をあげたりせずに済むのね」
曜 「でも残念だな。
しいたけのおなか、ふかふかで気持ちいいのに」
梨子「大丈夫だよ。私は、別のふかふかなものを触らせてもらうから」
千歌「へー、それは何?」
梨子「そりゃもちろん、千歌ちゃんと曜ちゃんのおっぱ……」
私は、犬については自信がある。
いつの日か、かならず喰いつかれるであろうという自信である。
私は、きっと噛まれるにちがいない。自信があるのである。よくぞ、きょうまで喰いつかれもせず無事に過してきたものだと不思議な気さえしているのである。
きょうまで……
梨子「ぎゃあああ!」
おわり
(注)題名と冒頭の数行は、太宰治「畜犬談」から借りてきました。
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