男「愛していたんだっけ?」(120)
「愛していたんだっけ?」
僕がそう言うと、その女性は泣きだしてしまった。
戸惑いもあったが、僕は「やはりな」とも感じていた。
その言葉が彼女を傷つけるという予感があった。
でも、それでも、その言葉が口を突いて出てしまった。
僕は目の前の女性が誰なのか、わからない。
それは、僕がプレイボーイだからではない。
記憶を失ってしまったからだ。
目の前の女性のことも、僕自身のことも、全く覚えていない。
医者に見せられた鏡の中の僕は、しっくりこなかった。
少し癖のある髪も、自信がなさそうな目も、しっくりこなかった。
20歳くらいだろうか。
もう少し歳をとっているだろうか。
それすらも、よくわからなかった。
ただ、僕の意思で鏡の中の「僕」の表情が変わることを、少し気持ち悪く感じた。
手のひらを見ても、体を見下ろしても、しっくりこなかった。
中肉中背。
特徴のない、普通の体だ。
お腹に少し傷痕があるが、医者曰く、やけどの痕のようだ。
昔、やけどをして、皮膚移植をした痕。
もちろん僕には、そんな記憶はない。
傷痕を撫でてみても、まったく感傷はよぎらない。
僕を探しに、病室を訪れた彼女。
彼女が呼ぶ僕自身の名も、しっくりこなかった。
彼女が名乗った名前にも、聞き覚えがなかった。
小さなアパートで一緒に暮らしていたらしいが、まったく覚えがなかった。
ベランダから見る夕陽も、湧いたヤカンも、畳に敷いた布団も、頭に浮かんでこなかった。
ただ、彼女の顔には少しだけ見覚えがあった、気がした。
どこかで見たことがあるような。なんだか懐かしいような。
僅かな感覚。
でも、僕自身に関することよりは、ずっと鮮明だ。
どうして記憶を失ったのか、医者も頭を悩ませているらしい。
新しい大きな外傷はない。
脳のスキャンについては、医者も口を濁した。
両親はいないのか、見舞いにも来ない。
僕はどうしたらいいのだろう。
「愛していたんだっけ?」
僕は、この女性を愛していたのだろうか?
なぜそう思いついたのかも、わからない。
途方に暮れて、泣き続ける彼女を見つめる。
僕のことを知るのは、彼女一人だ。
上手く話をして、僕のことをもっと教えてもらわなければ。
そのためには、まず泣き止んでもらわなければ。
僕は記憶を失ったが、女性が一度泣き出すとなかなか泣き止まないことは覚えていた。
そういえば、名前を聞いた時、僕の名字も、彼女の名字も、彼女は言わなかった。
僕は恐る恐る、彼女に名字を尋ねた。
彼女は泣きながら、一つの名前を告げた。
「それは僕の? 君の?」
その問いに、彼女はかぶりを振りながら、小さな声で言った。
「……どっちも、一緒」
「……どうして?」
「……だって、家族じゃん」
家族。
両親は見舞いに来ないが、彼女は僕の家族だという。
そういえば、見覚えのないこともない顔だと思ったんだっけ。
彼女の顔には、どこかしら懐かしい雰囲気がある。
少し癖のある短い髪。
自信のなさそうな目。
小さく結ばれた口。
ああ、そうか。
彼女の顔は、鏡の中の「僕」に似ていたんだ。
地の文が多いです、すみません
また明日です ノシ
思い立って僕は、携帯で検索をしてみることにした。
同じような症状の人が世の中にいないかどうか。
医者は明言してくれなかったが、未知のウイルスとか、一時的な現実逃避とか、
同じような症状で困っている人がいるかもしれない。
『変な記憶喪失』
とりあえず、そう検索してみる。
膨大な、記憶喪失に関するページがヒットする。
僕にはよくわからない専門用語が羅列されているサイトもある。
記憶喪失をテーマにした小説もたくさん見かけられた。
明らかに創作話と思われるブログもたくさんあった。
「検索条件をもっと絞ってみた方がいいのかな」
今度は『記憶喪失 家族』で検索をしてみた。
これも結果は芳しくなかった。
いずれも「限定的な部分だけ忘れていることがある」「突然記憶が戻ることもある」ということだけはわかった。
生活に必要なことは覚えているのに、知識が抜け落ちているというタイプが多いようだ。
例えば、言葉、服の着方、歩き方、身の回りの物の使い方は覚えている。
だけど、自分が誰で、昨日なにをして、家族がどんな顔かを忘れてしまう。
なんだか難しい言葉で説明されているが、僕はこれと同じタイプなのかな、と思った。
少なくとも言葉や携帯の使い方は覚えている。
喋り方を忘れてしまっていたら、誰とも意思疎通ができず、もっと辛い思いをしていたかもしれない。
「……僕は喋れる、喋れる、喋れる……」
少し不安になって、言葉にしてみる。
誰も聞いていない。
僕だけの言葉。
「……日本語は忘れてない……」
「あいうえお、かきくけこ、さしすせそ……」
「アメンボ赤いなアイウエオ、浮藻に子エビも泳いでる……」
アメンボも小エビも覚えている。
浮藻というのがどんな姿をしているのかはわからないけれど。
たぶんとろろ昆布みたいな藻のことだろう。
それからまた、いろいろなサイトの記事を読んでみた。
明るい携帯画面から飛び出してくる嫌な言葉。
ショック。
フラッシュバック。
心的外傷後ストレス障害
医者は脳のことを詳しく話さなかったが、僕の脳に、もしかしたら深刻な障害があるのかもしれない。
「他の病院にも行った方がいいのかな」
セカンドオピニオン、という言葉を思い出す。
僕はまだ、自分の記憶について深刻に考えていなかったようだ。
もっと向きあった方がいいかもしれない。
彼女のことも、ちゃんと思い出さなければいけないかもしれない。
と、一つのサイトが気になった。
『僕の彼女が、僕のことだけを忘れ去りました』
そんなタイトルの素人のブログ日記だった。
開いてみる。
青空が基調のさわやかなブログの見た目とは裏腹に、淡々と悲しい文章が続いていた。
『ある日彼女に会いに行くと、僕を見ても知らんぷりをしました』
『前日に喧嘩をしていたので謝りに行ったのだけれど、まだ怒っていて聞いてくれないのかと思っていました』
『でも話し続けて、本当に僕のことを忘れていることがわかりました』
『彼女の両親は僕のことを覚えているのに、彼女は僕のことをすっかり忘れていたのです』
そんな内容だった。
僕と同じように、生活面で困ることはなく、過去の記憶が一切ないわけでもなく。
だけど恋人のことだけをすっかり忘れている。
僕に似ている。
そう思った。
僕の場合は、彼女のことだ。
それがすっぽりと記憶から抜け落ちている。
いや、でも、と思う。
僕は僕の名前も忘れていた。
つまり、僕と彼女と、二人分のことを忘れている。
だけどこのブログの中の女の人は、自分のことは覚えていたようだ。
自分の両親のことは忘れていないようだ。
やっぱり関係ないのか。
別に頭を打った訳でもない。
外傷もない。
だけどぽかんと記憶が抜け落ちる。
もしかしてあの女性が、天涯孤独のはずの僕を騙そうとしているのか、とも思った。
だけど現実問題、僕は僕の名前を忘れていた。
彼女の告げた名前と、僕の財布の中の保険証の名前が一致したから、病院は彼女を僕の親族として認めたのだ。
あれ?
そこで僕の思考は一旦停止する。
僕はどうやって、入院したんだ?
外傷もないのに、なぜ病院にいたんだろう。
その辺の経緯を、医者に聞いただろうか。
聞いたような気もするし、聞いていない気もする。
上の空だったのかもしれない。
ちゃんともう一度、病院で、僕が入院した経緯を教えてもらいたい。
明日、昼のうちに、もう一度病院に行こう。
そう考えて、僕はこめかみのあたりをトントン、と二回指で叩いた。
忘れ物をしないようにするときの、僕の癖だった。
「忘れないための癖は覚えているのに、な」
なんだか笑えてきた。
やっぱり変な記憶喪失だ。
その日の夕食は、ご飯にみそ汁、肉じゃがだった。
どれも出来合いの物ではなく、きちんと調理されたものだった。
彼女はわりに料理ができるらしい。
「うん、美味しい」
僕は素直にそう言った。
僕がもし、一人暮らしで、記憶を失っていたとしたら、こんな食事にありつけたとは思えない。
「……一人じゃなくて、よかった」
素直にそう言った。
彼女がそばにいてくれて、本当によかった。
彼女は嬉しそうに、微笑んだだけだった。
「なにか、思い出した?」
「いいや、でも……」
「でも?」
「覚えていることもあるみたいだ、例えば……」
僕は漫画のこと、身の回りのこと、言葉のことをいろいろ、彼女に語った。
病院に入院した経緯を知りたくて、明日もう一度病院に行こうと考えていることも伝えた。
「それなら、明後日行こう」
そう彼女が言い出した。
「明後日なら、仕事が休みだから、一緒に行けるし」
僕としても異存なかったので、OKした。
確かに一人で行って、ここまで一人で帰ってくる自信がなかった。
「き……ね、姉さんは……どういう経緯で病院に来たの?」
「違和感あるわね、その呼び方」
「……仕方ないじゃん……」
「……仕方ないね……ははっ」
そう笑って、彼女は病院に来た時のことを教えてくれた。
職場に病院から電話がかかってきたこと。
どうやら僕が記憶を失っているらしいこと。
身分証明はできても、本人がまったく埒が明かないので来てくれ、という話だったらしい。
「なんの冗談かと思ったわよ」
「ごめん」
「や、謝る必要はないけどね」
でも、なぜ入院に至ったのかは要領を得なかったらしい。
救急の通報をした人曰く、
街中をふらふら歩いていて、突然叫んで、ぶっ倒れたらしい。
僕が。
僕が?
そんな恥ずかしいことがあったの?
「知らないわよ、又聞きの又聞きなんだから」
そりゃそうか。
その時に、なにか大きなショックがあって、記憶がぶっ飛んだのだろうか。
大学のある日だったはずなのに、街中をふらふらしていて、急に、倒れて。
ううむ、その日、その時、僕になにが起こったのだろう?
「ショック」という言葉を聞いて、彼女の顔色がさっと青くなった、気がした。
「なにか思い当たる?」
「う、ううん、なんでもない」
彼女は少し動揺していた。
でも、その時彼女は働いていたはずだから、僕の遭遇した「ショック」のことなんて、知りもしないはずだ。
なにを考えたのだろう?
なんとなく深く聞けず、それ以上その話をするのはやめることにした。
病院に行くのが一日延びたので、またやることがなくなった。
「明日はどうしよっかな」
そう言うと、さらさらと地図を書いてくれた。
「昔よく一緒に行ったお店、明日の昼にでも行ってみたらどう?」
「なんのお店?」
「お好み焼き」
ああ、それはいい。
お好み焼きは好きだ。
なんとなく、好きだった気がする。
明日やることが一つ決まり、少し安心した。
明日はお好み焼き屋の話です ノシ
―――
――――――
―――――――――
また、変な夢をみた。
僕と、彼女が、二人並んでいる。
僕も彼女も、ほとんど裸だった。
その前に、神様が座っている。
昨日よりも、神様の小言が長い気がする。
まくしたてるように苦言を呈している。
やっぱり、なにを言っているのか、よくわからない。
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――――――
―――
そのお好み焼きの店は、電車に乗って二駅ほどのところにあった。
病院よりも近かった。
昔よく行っていたということは、昔住んでいた家もこの近くにあるのだろうか。
一昨日電車に乗った時はなんにも感じなかったのに、そう思いつくと懐かしいような気がしないでもない。
古ぼけた看板、狭い入口、色の薄れたメニュー表、擦り切れたのぼり。
かろうじてなにを食べる店かはわかるが、彼女に薦められでもしなければ、きっと入らないだろう。
小学校が近くにあるらしく、校庭で遊ぶ子どもの声が聞こえてくる。
その声を背に受け、ためらいながら僕はゆっくりと暖簾をくぐった。
「はい、いらっしゃい」
威勢のいいおばちゃんの声が刺さる。
「あら、久しぶり」
ドキッとする。
この人は僕のことを知っている?
「あ、ど、どうも」
言いながら目を伏せる。
僕は覚えてないんです、すみません。
そうは言えない。
「一人? もう大学生だっけね?」
「あ、はい、えっと」
「今日は休みかい?」
「あ、はい、授業がなくて」
僕は一生懸命話を合わせながら嘘をつく。
「なににする?」
カウンター席に付きながら、メニューを見る。
まだなにも懐かしいと感じないが、よく来ていたというのは本当のようだ。
店員さんが僕をこうも覚えているというのは想定外だった。
焦りながらメニューを決める。
「あ、えっと、オムそば……」
僕は無意識に注文していた。
お好み焼き屋なのに、お好み焼きでないものを注文していた。
「あはは、やっぱりね」
店員のおばちゃんは笑って厨房に消えた。
「オムそば、ひとつー!」
『やっぱり』だって?
もしかして、僕はいつもこれを頼んでいたのだろうか。
無意識に、身体が覚えていたのだろうか。
いつものように、さらっと注文したのか?
オムそばの味は、僕を懐かしい気分にさせた。
ソースの味も、卵の柔らかさも、麺の量も。
確かにこれは、過去、食べたことのある味だ。
僕の好きだった味だ。
「懐かしいかい?」
僕の表情を見て、だろう。
おばちゃんがまた話しかけてきた。
オムそばの味を懐かしんでいる顔をしていただろうか。
「ええ、美味しいです」
無難に答えるしかない。
だけど、うまくやれば、少し情報が得られるかもしれない。
「僕が最後に来たの、いつぐらいでしたっけね?」
これは賭けだ。
この間来たじゃないか、なんて言われたら怪しまれる。
だけど彼女の言葉では、「昔よく行っていた店」だから、きっと子どもの頃のことだろう。
「さあてねえ、小学校高学年くらいまでだったかねえ」
「いっつもオムそばだったねえ」
「お姉ちゃんとお母さんと、よく来てたよ」
「あ、ごめんよ、お母さんのことは、ご不幸だったねえ」
……やはり母は亡くなっているようだ。
……事故か、病気か。
でもここで僕がそれを聞くのは怪しい。
「いえ……」
そう言って微笑むだけにした。
「お姉ちゃんは、どうしてるんだい?」
「働いてますよ」
「ああ、そうかい、そんな歳かい」
「花のOLです」
僕は彼女の受け売りでそう言った。
おばちゃんはころころと笑ってくれた。
『懐かしいねえ』と何度も言ってくれた。
「また来ます」
そう言って、店を後にした。
「いつでもおいで!」
おばちゃんは店の外まで見送ってくれた。
気持ちのいい店だった。
また来たい。
そう思った。
懐かしい、という気持ちもないではないが、『この店が気に入った』という気持ちの方が大きかった。
今度は彼女と一緒に来よう。
そう思った。
―――
――――――
―――――――――
「お好み焼き屋のおばちゃん、僕のことを覚えていたよ」
彼女が帰ってくるなりそう言うと、驚いたようだった。
「わ、マジで!? もう10年くらい行ってないのにね」
「うん、小学校高学年くらいが最後かな、っておばちゃんも言ってた」
「どう? 変わってなかった? おばちゃんも味も」
「覚えてないって」
「あ、そっか」
彼女と普通に会話できるようになったが、やはりまだ違和感が大きい。
僕は正座で、彼女は土足で、話をしているような錯覚をする。
もちろんそんな差異を感じさせれば彼女が悲しむだろうから、僕は努めて平穏を演じているけれど。
「なに食べた?」
「……オムそば」
「あー、あー、そうだったそうだった、あんたはいつもそうだった」
「おばちゃんにも、『やっぱり』って言われたよ」
「覚えてたの?」
「無意識に選んでた」
「じゃあ、やっぱり心の奥底に、残ってるのかもね、記憶が」
オムそばは美味しいです
また明日です ノシ
これはやっぱりバッドエンドなんでしょうか
本当は始めの7レスくらいで終わらせるショートショートでしたが、なんやかんやでこういうお話になりました
∧__∧
( ・ω・) ありがとうございました
ハ∨/^ヽ またどこかで
ノ::[三ノ :.、 http://hamham278.blog76.fc2.com/
i)、_;|*く; ノ
|!: ::.".T~
ハ、___|
"""~""""""~"""~"""~"
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