楓「命短しススメよ乙女」 (197)
楓「ただいま~……」
美優「楓さん?おかえりなさい。珍しいですね、こんな早くに帰ってくるなんて」
楓「ええ、まあ。2次会が始まる前においとましたので」
美優「迎えに行くって言ったのに」
楓「色々あったんですよ」
美優「それと、その……後ろにあるおっきな荷物は?」
楓「ふふふ、なんだと思いますか?たぶんびっくりすると思いますよ」
美優「はあ」
楓「とにかく、これ重たいので運び入れちゃいますね」
美優「え?……楓さん待ってください、それウチに置くんですか?」
楓「そのつもりですけど」
美優「いきなりそんな大きいもの持ってこられても困ります。だいたい、置く余裕ありませんよ。ただでさえ狭いのに」
楓「まあまあ」
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不満げに見つめる美優をよそに、楓はその大きな箱を重そうに持ち上げた。
楓「あら。このままじゃ私そっちに行けませんね」
アパートの狭い玄関を高さ160cmはありそうな直方体が占領した。
楓「えーっと、私、外に台車を置いてくるので、美優さん箱を開けておいてください。中のものは傷つけないようお願いしますね」
美優「え、ちょっと楓さん」
酒に頬を赤らめ、スーツ姿にびっしょりと汗をかいているわりに、楓は非常識なくらい爽やかに台車をガラガラと転がしてどこかへ行ってしまった。
もう深夜も近いような時間にこの人は一体なにがしたいんだろうと呆れながら、美優はこの得体のしれない箱を開封した。
開けると、入っていたのは子供の人形だった。
思わず悲鳴を上げてしまいそうなほどよく出来た人形である。
「っ!」
驚いて声が出そうになるのを手で押さえる。
美優「びっくりした」
楓「でしょう?」
いつの間にか楓が戻っていた。
美優「もう、驚かせないでください。ていうかこれ、本当にどうしたんですか」
楓「忘年会の景品で当たったんです♪ すごいでしょ」
美優「け、景品? 景品でこんなの出すんですか」
楓「一等賞ですから」
汗をぬぐいながら楓は胸を張った。「えっへん」
美優は何か言おうとしたが、すぐに呑み込んで、代わりに大きく溜息をついた。
楓が勤めている会社の非常識は今に始まったことではないのだ。
まともそうな外見をしているわりに中身が適当でいい加減なところは楓とそっくりである。
突拍子もない事で驚かされるのはいつものことだった。
楓「かわいいと思いませんか?」
美優「かわいい……そりゃまあ、よく出来てると思います……けど」
楓「よく出来てるだなんて、そんなおもちゃか何かみたいに言っちゃダメですよ。今日からこの子は私達二人の子供なんですからね」
美優「……?」
楓「名前はもう決めてあるんです」
梱包されて目を閉じたままの人形を大事そうに抱え出して、楓は言った。
「蘭子、というのはどうでしょうか」
……楓がシャワーを浴びている間、美優はリビングのソファに行儀良く座っている蘭子をじっくりと眺めていた。
生きているみたい、と思う。
というよりも、最初にこの人形を"人形"だと判断したのが不思議なくらい、見た目は人間の子供そのものだった。
長い銀髪は艶があるが自然なクセがあって作り物には思えない。
肌などは滑るように白いものの、それほど冷たい印象がない。
現に蘭子の頬にはほんのり赤みがさしている。
目は閉じられているが、今にも眠りから覚めて動き出すような気がした。
ただし、運ぶときなどに触ってみて気づいたのは、蘭子には体温がほとんど無いという事だった。
当たり前のように思われるが、美優はなぜかホッとした。
それに、蘭子は死人のようにぐったりとしているわけではなく、ある程度関節を固定できるようになっており、そういう部分ではまさしく人形なのであった。
(関節があるってことは、つなぎ目とかもあるのかしら)
指先や肘、肩を触って調べてみたが、それらしいパーツは見当たらない。
そうして蘭子をぺたぺたと触っていると、不意に、美優は気づいてしまったように顔を赤らめた。
蘭子は無地のシャツとパンツを着ていた。
その下がどうなっているか調べようと一瞬考えて、ふと手が止まってしまったのだ。
(蘭子っていうくらいだから、お、女の子……よね……)
どう見ても女の子の体形である。
恐る恐る蘭子のシャツの裾に手を伸ばした。
楓「手つきがいやらしい……」
美優「ひゃっ?!」
楓「あ、お取り込み中ごめんなさい。どうぞ続けてください。私ここで見てますから」
美優「…………」
楓「怒った美優さんも可愛い♪」
寝巻きに着替えた楓はソファに寄りかかって蘭子の髪を弄っている。
楓「……もちろん、下半身も全部女の子ですよ」
美優「へ~、本当によく出来てるんですねえ」
楓「美優さん、またそれ……まあいいです。取扱説明書、読みました?」
美優「取扱説明書?そんなのがあるの?」
楓「ええ、確か箱の底に……美優さん、蘭子が入ってた箱はどこへ?」
美優「畳んでゴミ箱に押し込んじゃいましたけど……」
楓「何か冊子みたいなの、ありませんでしたか?」
そう言いながら楓は台所のゴミ箱を漁り始める。
美優「ご、ごめんなさい気がつかなくて」
楓「まあ美優さんのことですから、察しはついてましたよ。冊子だけに……ふふふ」
美優が手伝おうと立ち上がると、楓は「あった」と言ってくしゃくしゃになった一枚の紙を取り出した。
美優「取扱説明書って、その紙がそうなんですか?」
楓「これはwebのアクセス認証用紙ですよ。ちょっとパソコンお借りしますね」
デスク型の量子基盤は旧世代の電子コンピュータと区別してQPC(Quantum Personal Computer)と呼ぶのが通称だが、現代においてPCやパソコンと言えばこの量子基盤を指す場合が多いため、わざわざQPCと呼びにくい名称を使う人は稀である。
またQuantumとあるが、大戦以前にあった量子コンピュータのモデルとは全く異なるという事を付け加えておく。
PCが起動するまでの間、楓は"ドール"……民間用擬似生体模型について説明した。
楓「簡単に言えば、生殖活動以外で人類の子孫を残すために開発された、いわゆる人類の情報を保存する事に特化させる試みですね。つまり、家族とか地域とか国とか、そういう社会を維持して後世に残していくための機械的な人員補完といいますか、これには実は国策としての一面もあり……」
云々。
楓「……そういうわけで、今まさにこのドールというのが世間に流行ろうとしているんですよ。美優さん、聞いてます?」
美優「…………は、はいっ?!」
楓「寝てたでしょう」
美優「ね、寝てません。聞いてましたよ、ちゃあんと」
楓「……まあいいです。とりあえず今日はweb登録まで済ませて、あとは明日にしましょう。もう夜も遅いですからね」
美優はそれを聞くと大きなあくびをしてのろのろとベッドに潜り込み、すぐに寝息を立てて眠ってしまった。
楓もまたあくびをかみ殺しながらPCに用紙を読み込ませ、手早く登録を終わらせると、ソファに静かに座っている蘭子に「おやすみなさい」と声をかけ、美優のベッドで一緒に眠った。
◇ ◇ ◇
翌朝、楓は美優の小さな悲鳴で目が覚めた。
楓「どうかしましたか……?」
美優「ご、ごめんなさい。人形にまだ慣れてなくて……」
起床していつも通り洗面台に向かおうとした所、見知らぬ人がソファに座っているのを見て驚いてしまったのだった。
楓「人形じゃなくて蘭子……まあいいです、そのうち慣れますよ。……もうちょっと寝させてもらいます」
美優「ダメです。二度寝禁止」
無理矢理布団を剥がされる。
楓は寝ぼけた足取りでソファにどさりと腰を下ろし、昨日とほとんど変わらない姿勢の蘭子をぼんやり見つめながら、「蘭子、おはよう」と呟いた。
美優「ほら楓さん。着替えて、顔洗って」
楓「はぁい」
美優「……それにしても熱心ですねぇ。私には挨拶してくれないのに、人形にはするんですか」
楓「ふふふ、美優さんったらやきもち焼いてる。やきもち焼いてイヤな気持ち……」
美優「そんなんじゃないです。もうすぐ朝ごはんできますから早く……あっ!」
ガシャン。
美優の手に持っていた皿が床に落ちた。
思わず息を呑む。
人形の蘭子が、じっと美優を見つめていたのである。
目の錯覚かと思ったが、その瞼が眩しそうにまばたきしているのを見て再びぎょっとした。
人形の瞳がキョロキョロと辺りを見渡している。
美優「な……な……!?」
楓「あ、目を覚ました」
楓はニコニコと微笑みながら蘭子を正面から見つめ返した。
楓「お・は・よ・う」
蘭子は時々まばたきをして瞳を揺らす以外に動く気配はない。
しかし目の動きは明らかに楓と美優を認識していた。
意思を持っている。
楓「まだしゃべれないのかしら。でも私達の言葉はなんとなく分かってるみたいな……美優さん?何してるんですか、怖い顔をして」
その場に立ち尽くしながら、美優は、自分には到底手に負えない面倒事を招き入れてしまったと後悔した。
そして、昔もこんなことがあった、と過去の記憶が脳裡を掠める。
独り暮らしをしている美優の元へ、楓が突然押しかけてきた時の事を。
けれど、これはいくらなんでも非常識がすぎると思った。
人形が動いた。
この異常事態に比べれば、楓の突拍子も無い行動や謎めいた性格などは、ずっと美優の常識の範囲にあるのだと思い知ったのである。……
食卓を3人で囲んで、1人は朝食を美味しそうに食べ、1人は挙動不審にチラチラと横を見やりながら危なっかしく箸を運び、1人は椅子に座っ
たままじっと目を伏している。
美優「ら、蘭子……ちゃん?」
返事をするように蘭子の瞳がクリクリ動いて美優を捕らえた。
美優「うわ」
楓「うわ、はないでしょう。失礼ですよ」
美優「ご、ごめんなさい、つい……」
楓「……ごちそうさま」
3人に囲まれた食卓では、1人は食べ終わった皿をさっさと片付け始め、1人は横に座る人形を不思議そうに眺めたまま箸を動かし、1人はそんな風にじろじろ見つめる彼女の膝元にひっきりなしにご飯がこぼれているのを見ていた。
楓「さて、私は今日は午後出勤なので、それまでに蘭子の設定を終わらせちゃいましょう」
美優「ええ……そうしてもらえると、助かります……」
さっきまで混乱していた頭が徐々に冷静になってきた。
美優は自分が世間知らずという事をよく知っていたので、こんな異様な光景を前にしても、すぐ傍で楓がさも当たり前のように振舞っているのを見ていると、もしかしたらこれが世間では普通なのではないかと思ってしまうのだ。
それに、現代の科学技術というのは美優にとってほとんど魔法に近いものだった。
理解できないものには慣れていくしかない。
現に、楓という理解しがたい同居人と付き合うには、こちらが慣れていくしかなかったのだから。
というような具合で、美優は案外すぐにこの蘭子という人形を受け入れた。
楓「……えー、まず所有権ですが、私と美優さんの共有財産ってことになります。二人まで登録できますので、まあいわゆる親権、みたいな感じですか」
見やすいように拡張されたPCのスクリーンに細かい規約がびっしりと書かれている。
蘭子と美優は講義を受けるような格好でちょこんと座ってそれらを仰ぎ見ていた。
美優「それじゃまるで夫婦みたいじゃ……」
楓「そういう言い方もできますね。まあ今時夫婦なんていうのも珍しいものですが」
画面が切り替わる。
楓「じゃあ美優さん、マイクに向かって一声お願いします」
カチッ。
美優「ひとこえ? ってどういう……」
カチッ。
楓「今ので声紋認証完了です。これで蘭子は美優さんの声を所有者の声と認識しました。重要なセットアップはこれくらいですかね」
美優「え、あ、はい」
流されるままに頷く。
楓「取説はあらかじめ美優さんのIDOLに同期しておきました。ドールについて分からない事があればIDOLで調べれば問題ないかと思います」
IDOL(Individuals Databasing Of Lingo)とはポータブル式の量子基盤である。
旧世代における携帯電話と同じような形をしており、用途も似たようなものだが、本質は似て非なるものである。
美優「あの、でも私あんまりパソコンとかIDOLとか得意じゃなくて……」
楓「確かに。美優さんの機械オンチは筋金入りですものね」
説明書を読まないタイプの人である。
楓「というわけで、私で良ければ質問に答えますよ。これでも会社では詳しい方だと言われてるので」
美優「はあ……」
ちらりと隣の蘭子を見やりながら、美優は言った。
美優「蘭子ちゃんは、ご飯を食べたりするんですか?」
楓「それはないですね。栄養とか、エネルギーといったものはここでは必要ありません。ドールは、なんというか内部的にはIDOLと似たようなものなんです。あちら側……つまり私たちが共感覚空間と呼んでいる世界と常に繋がっていて、ある意味では幽霊みたいな存在なんです。しかし近年、あちら側に膨大な領域を固定しておける技術が確立されて、本来確率的にあやふやだった部分をまるごと人レベルの"個"として組織化することが可能になり……」
云々。
美優「待って。ストップ。分かったから、次の質問いいかしら?」
楓「え、まだ説明の途中……」
美優「ご飯は食べる必要がない、それだけ分かればいいんです」
美優「蘭子ちゃんは、そのうちしゃべったり動いたりするんですか?というか……成長とか、するんですか」
楓「はい。まあ私たち次第でしょうけれど」
美優「というのは?」
楓「育て方次第ってことです。二人で愛情豊かに育てれば、優しくて立派な人間に……じゃなくて、立派なドールになってくれると思いますよ。背丈もまあ伸ばそうと思えばできます。これに関しては追加料金が発生してしまうのですが……」
料金。
それを聞いて、美優は何かイヤな予感がした。
美優「そもそもドールってお金で買える物なんですよね? 普通いくらするんですか?」
楓「モノによりますけど、まあ豪邸を買うより高くつくと思いますよ」
美優「豪邸!? 家より高いの!?」
楓「この蘭子はたぶん買おうと思ったら生涯賃金5倍かけても無理でしょうね」
サッと血の気が引く。
息が詰まりそうになりながら、隣に居る蘭子からジリジリと距離を取った。
美優「そんな高価なものを忘年会の景品に出すんですか?!」
楓「まあ、ウチの会社は取引先にドールメーカーがあるので、そのツテで。それに景品で出たのは正確にはドールそのものじゃなく、引換券と所有権だけです。この子を選んだのは私」
事も無げに言う。
美優は楓と楓の勤めている会社を心底恐ろしく思った。
楓「確かに値段は張りますけど、安いのもあるんですよ。実際、会社の先輩にもローンを組んで飼ってる人いますし」
美優「飼うって、もうそれペットじゃないですか……」
楓「言葉のアヤです」
楓はごまかすように「ふふふ」と笑って付け足した。
楓「渋谷部長って覚えてます?以前お話したあの……覚えてない?まあいいです、その渋谷夫妻も少し前にドールを買ったんですよ。一人娘の凜ちゃんと同い年くらいの設定で卯月っていう子が……」
そんなにお金あるなら分けて欲しいですよね、とも言った。
楓「それに、有名なのだとロックミュージシャンで木村さんっていらっしゃるでしょう」
美優「キムラさん? さあ……」
楓「え、知らないんですか? たまにMステにも出てる、いつも皮ジャン着てるあの人……」
美優「ああ、木村夏樹。なつきちですよね、知ってます知ってます」
楓「あのなつきちさんもドール持ってるんですよ。しかも2体、ミクとリーナっていう」
美優「はあ」
美優はしばらく楓からドールについて説明を受けた。
曰く、食事や風呂、排泄などは気を使う必要がない。
曰く、外見は14歳の少女だが精神や意識が適齢に育つのは時間がかかる。
曰く、怪我や病気(故障)した場合、メーカーへ迅速に問い合わせる事。
云々。
美優がもっとも心配していたのはお金に関する事だったが、なんやかんやあって修理治療にかかる料金は一切ユーザーに負担させない仕組みらしい。
美優はあまり細かい制度や仕組みにこだわらない性格だった。
結果さえ明白ならば、経過や理屈はなんやかんやで良いのである。
ただし、例えば服や、ドールが欲しがるおもちゃや嗜好品などはもちろんユーザーが買い与えなければならない。
せめてワガママに育ってくれませんように、と美優は祈った。
楓「……あ! もうこんな時間」
楓がバタバタと慌ててスーツを着て化粧を整える。
楓「それじゃ行ってきます」
美優「行ってらっしゃい」
バタンと扉が閉まる音。
いつもと同じ、見送った後の耳鳴りがするような静寂。
しかし今はもう1人ではないのだ。
美優「……お昼ご飯作らなきゃ」
◇ ◇ ◇
美優と楓が同棲を始めてから1年と少し経つ。
元々、美優は大学を卒業した後、先輩の紹介で大手芸能スタジオに就職し、スタイリスト、メイク担当の下積みとして数年働いたが、熾烈な職場の環境について行けず転職、今は街の小さなアパレルショップに勤務している。
そこは店舗こそあるもののネット通販が主な事業で、頻繁に出社しなくてもある程度仕事ができた。
つまり基本的に自宅勤務であった。
そうして1人暮らしを続けていた美優の元に楓が転がり込んで来たのが、去年の秋頃だった。
美優「……それで楓さんったら、大学卒業してからずっとフラフラしてたんですって。あの人らしいといえばらしいですけど、久しぶりに連絡があったと思ったらいきなり部屋に大荷物抱えてやって来るんだもの。あの時ばかりは私も呆れちゃった」
蘭子「…………」
……午後、なんとなく仕事をする気にもなれず、PCを起動させたまま、美優は蘭子に向かって色々なことを話しかけた。
最初に見た時こそぎょっとしたが、今では不思議と蘭子に親しみを感じていた。
美優の日々は、仕事と楓以外には何も無かった。
親しい友人もおらず、仕事も基本的に一人である。
普段の楽しみと言えば、たまに楓と飲む晩酌や、休日に買い物に出かける事くらいだった。
そんな、どちらかと言えば刺激のない平々凡々な日常に突然やってきた蘭子という存在は、たとえそれが得体の知れないものであっても、美優の寂しさを紛らわすのに十分な興味を抱かせた。
あるいは、いかにも人間らしい存在感を放っていながら、今はまだ動きたくても動けないでいるような人形の孤独な境遇に同情しているのかもしれない。
蘭子はしゃべりかけても正面を向いたまま反応らしい反応を見せない。
美優(中身はまだ赤ん坊みたいなものだって言ってたし、私の話は全然理解できてないんだろうな)
そうだと分かっていても、美優はなぜかそうしなければならないような気がして、自分の話をし続けた。
大学の演劇サークルに楓が後輩として入ってきたのが出会いだったこと。
人見知りの彼女がなぜかサークルでは私にだけ懐いていたこと。
彼女はお酒がとても好きで、よく自分の部屋に遊びに来ては一緒に飲んでいたこと。
云々。
美優「……気づいたら私、楓さんの話ばかりしてるかも。でも他に話すこと無いし……あんまり私から楓さんのことばかりしゃべっちゃうのもフェアじゃないよね」
蘭子「…………」
美優「……何か蘭子ちゃんが楽しめるような事、ないかなあ……テレビでも付けてみよっか」
旧式の液晶テレビに電源を入れる。
ちょうど子供向けのアニメが放送されていた。
蘭子「…………」
蘭子がテレビをちゃんと見ているのかどうかもよく分からなかったが、美優はとりあえず蘭子をそのままにしておき、自分の仕事に取り掛かった。
顧客との販売取引、郵送連絡、仕入れの確認、納期の調整、卸問屋のチェック、その他雑用をこなしていると、いつの間にか夕方になっていた。
凝った体を伸ばしながら蘭子の様子をうかがう。
相変わらずテレビをじっと見ているが、番組はローカルニュースに切り替わっていた。
無意識に揺れる蘭子の瞳にテレビの淡い光がチラチラと反射している。
その横顔はどこか寂しそうだった。
美優(……そういえば、服を着せてあげなきゃ)
蘭子は最初の白いシャツのままだった。
下には楓が昔着ていたスウェットを履かせているが、サイズがまったく合っていない。
このままで何か問題があるわけではない。
しかし、見た目は少なくとも幼い少女である蘭子を、こんな見苦しい格好にしておくのは美優の良心が痛んだ。
それは美優の職業的な感覚によるものかもしれない。
美優はさっそく蘭子に着せる服を考えた。
美優(寸法を測らないと……あれ?)
そして蘭子を起立させられないことに気づく。
仕方ないので、横に寝かせる格好で測ることにした。
けっして軽くない体重の蘭子を美優1人で持ち運ぶのは骨が折れた。
高価なものだから、と余計に気を使ってしまうせいもある。
汗が滲み、息を荒くしながらようやく寸法を取る。
途中、どうして自分がこんな事をしなければならないのかとうんざりすることもあった。
しかしそんな疲れとは裏腹に、心の奥底では久しく感じていなかった高揚感のようなものがふつふつと沸いてくるのも事実だった。
美優「……こういうのも、たまには悪くないかも」
……日が暮れてしばらく、楓が帰宅して真っ先に目撃したのは、床に散らかった数々の衣服だった。
楓「ただいま……美優さん?」
奥の部屋から「おかえりなさい」という返事。
覗いてみると、美優が真剣な表情で蘭子と向き合っていた。
蘭子は化粧台の前でフリルを身に纏い鎮座ましましている。
二人の足元には下着やらスカートやら女物の衣類が積み重なっている。
楓「あの……」
美優「ちょうど良かった。楓さん、手伝ってください」
楓は勢いに呑まれ言われるがままにした。
美優「あそこの全身鏡の前に立たせたいんです。そっちを持って、そう」
楓「美優さん、この服は一体……」
と楓が言い終わる前に、鏡に映った蘭子を見て美優が興奮したように
美優「思った通りですよ楓さん! なんとなく蘭子ちゃんにはゴシックとか似合うかなと思って試してみたんですけど、どうですか? 可愛いと思いませんか?」
楓「え、ええ……とても似合っていると思います」
美優「あとは髪型がもうちょっと……あ! あと靴も揃えないと……」
再び化粧台の前に座らせ、美優は1人でブツブツと呟きながら蘭子の銀髪を櫛で梳いている。
楓「美優さん」
美優「はい?」
楓「色々言いたい事はありますが、まず、晩御飯はどうなっているんでしょう」
美優「……あ」
材料買うの忘れてた、と悲鳴に近いような声を上げる。
美優「今日特売だったのに! 今からでも間に合うかしら?」
時計を見る。夜の8時前。
楓「もう閉まっちゃいますね」
美優「あうぅ……ごめんなさい、すっかり夢中になっちゃって」
楓「気にしないでくださいな。余り物でなんとかしましょう」
美優「それが冷蔵庫の中はもう空で……」
それを聞いて、さすがに楓も溜息を漏らさずにいられなかった。
夜遅くまで営業している食料品店へ二人で歩いて行き、お弁当を買って帰ってくると、部屋の明かりを点けた楓が驚いたように呟いた。
楓「蘭子が動いてる」
美優「えっ」
楓「動いたというか、位置が変わってます。ほら」
美優が部屋を覗くと、先ほどまでは化粧台に座っていた蘭子が、そのすぐ隣にあるソファで横になっていた。
美優「本当。しかも……寝てる?」
蘭子は体をまるめて目を閉じていた。
楓「倒れこんだだけ、という感じではないですね。少なくとも体の向きを変えて足を動かさないとこうはなりません。まだ登録してから1日経ってないのに、もうここまで動けるものなんですね」
感心したように言う。
楓「でも、もしかしたら私達の留守中に誰かが忍び込んで蘭子を動かしたのかも……」
美優「こ、怖いこと言わないでください!」
楓「侵入者の正体は、新入社員……ふふふ、冗談です♪」
美優「もう……でもどうせなら、初めて動いた所はちゃんと見ておきたかったですね」
遅い夕飯である。
楓「……蘭子にお化粧までしたんですか?」
美優「はい……もしかして、駄目だった……?」
楓「いや、駄目ってことはないと思いますけど」
美優「最初は色々と服を着せ替えようと思っていたんです。でも動かない蘭子ちゃんを着替えさせるのが結構大変で……それで3着目くらいで諦めて、そうしたら次はせっかくだからお化粧もしないと可哀想だなって思って」
美優「それで、まずは軽く下地を入れようと思ったんですけど、どうやっても化粧が上手くのらなくて……体温が低いせいなんでしょうか?それとも肌の素材が人間とは全然違うとか……」
楓「う~ん、どうなんでしょう。私もそこまでは知りません。というか、こういう時こそ取説を活用すべきでは」
美優「実は調べようとしたんです。でもやっぱり使い方が分からなくて……」
楓「今日にでも一緒に調べてみますか? ドールの勉強会ということで」
美優「お願いします……」
楓「それから、この大量の洋服はなんですか?もしかして買ったわけじゃないですよね」
美優「そんなお金ありませんよ。これは買い手がつかなくて持て余してる会社の商品とか、安いところから探して仕入れた物とかです」
楓「仕入れって、結局お金使ってるじゃない」
美優「会社の経費ですから」
楓「わるいひと」
美優「バレなければいいんです」
楓「……美優さんって、変なところで意固地っていうか、開き直りますよね。ごちそうさまでした」
先に食べ終わるのはいつも楓だった。
美優は食べるのが遅いのである。
楓「あと、凝り性なわりに意外とズボラ」
散らかった部屋を眺めて、楓は言った。
服の扱い方がアパレル店員のそれではない。
美優「楓さん! 空の容器はこっちのゴミ箱だっていつも言ってるじゃないですか。あと水で軽くすすいでから捨ててください」
楓「……それに変なところで細かいし」
美優「何か言いました?」
楓「なぁんにも」
その夜、二人は改めてドールについて調べ、そこで初めて知った事がいくつかあった。
まず登録したアカウントには所有ドールの情報が紐付けされていて、PC、あるいはIDOLからいつでもドールの詳細な状態をリアルタイムで監視できるソフトウェアがある。
その他さまざまなオプション機能をアカウント経由で付与することで、例えば自我のまだ鮮明でない初期状態のドールをある程度コントロールできたりする。
楓「この挙動制御の機能を使えば、わざわざ人力で支えなくても蘭子は1人で鏡の前に立てたってこと」
美優「なるほど~」
美優はしきりに頷きながら熱心にメモを残している。
この時代に手帳を持ち歩いているアナログな人間である。
楓「あと、標準搭載されてないけど、こっちのオプションはかなり重要みたいですね」
美優「どれですか?」
楓「自己防衛と危険察知の機能です」
ドールは自分の身を守るという能力を学習によって会得する。
つまり、初期状態では何かの拍子に大きな事故を起こしてしまうことも十分あり得るのだった。
楓「説明を読むと、これはあくまで自我形成に向けた矯正装置のようなもので、常に安全でいる事を保証するわけじゃないと」
美優「ふむふむ。でも無いよりずっと良いと思います。これ、今すぐ付けられますか?」
楓「出来ますけど、有料みたいですね」
美優「えぇっ!ここにきてお金払うんですか?」
楓「あくどいですね~」
笑い事ではない、と美優は思った。
しかし想像していたよりずっと小額だったので胸をなでおろした。
よく考えてみれば、先ほど蘭子が1人で勝手に動いた時も、場合によってはいきなり怪我をしたり頭をぶったりしていたかもしれないのだ。
美優は空恐ろしくなって思わず身震いした。
美優「そう言えば……」
ふと、思いついたことを口にした。
美優「ドールって、寿命とかあるんですか?」
楓「…………」
楓がいきなり黙ったので、美優は何か良くない質問してしまったのかと焦った。
しかし実際には、楓が寿命に関する記述を検索するのに時間がかかっているだけだった。
楓「……あった。えーっと、個体によりますが、平均して人間の寿命の半分くらいだそうです。ということは頑張れば100年くらいは生きていられるんでしょうか」
その昔、医術革命が起こる前の時代では人類の寿命はだいたい80前後だったという話を思い出す。
美優「そんなに長生きするんですか」
楓「…………」
楓はなにやら難しそうな顔をして手元のIDOLを操作している。
天然のオッドアイが画面の文字を細かく追う様はまるで機械の走査を思わせる。
美優は、楓との付き合いは長いものの、彼女を深く知っているという自信は全く無かった。
何を考えているのか分からないような楓の態度と言動は、その裏側にある彼女の本心を隠すための仮面のように思えた。
こうして一緒に暮らしていても、自分が見ているのは楓というパーソナリティのほんの一端だけなのではないかと思う事が少なくなかった。
しかし、だからこそ彼女と一緒に居るのが楽しいと感じるのだ。
美優は楓の笑顔も好きだったが、こうして難しい事を考えているような真剣な表情もまた好きだった。
しばらく二人は無言だった。……
楓「ダメ。ダメです」
突然そう言ってIDOLを投げ出した。
美優「どうしたんですか?」
楓「肝心な事がどこにも書いてない。そもそも分かりづらいんですよ、この資料」
楓が溜息をつきながらソファに寄りかかった。
楓「蘭子~」
寝ている蘭子の髪を撫でる。
肝心な事とはなんだろう。
美優は楓が何を考えて何に悩んでいたのか分からなかったが、疲れている様子だったので今日はもう寝ようと提案した。
楓「そうですね……ふあぁ」
あくびをひとつ。
そしてソファにうずくまる蘭子を見て一言、
楓「可愛い寝顔」
美優「お布団も買わなきゃいけませんね」
楓「3人で一緒に寝ればいいと思いますけど」
美優「え、それはさすがに狭いんじゃ……」
楓「とにかく」
蘭子を器用に持ち上げてベッドに運ぶ。
お姫様抱っこというやつである。
楓「せめてパジャマくらいは買ってあげたいですね」
一旦ここまで
翌日。
楓が仕事に出ている間、美優は仕事を早々に切り上げ、買い物も済ませて、蘭子用のMF(Manifold Frame:IDOLにおけるアプリケーションの一種)を苦い顔をしながら必死に弄っていた。
「美優さんもそろそろアシスト無しのダイビング、マスターした方がいいですよ」とは今朝の楓の言葉である。
"素潜り作戦"と勝手に名づけられたこの作戦は、要するに美優がIDOLの操作を覚える訓練だった。
話によると、アカウントに付属していたMFにはアシスト機能が対応してないので、自力でダイビングしながら操作するしかないのだという。
意識を集中し、ハンドル(IDOLの操作用デバイス)を握りながら画面を見つめる。
手始めに蘭子の体重と身長の情報を呼び出そうとした。
……しかし切り替わったのは蘭子の位置情報だった。失敗である。
フィードバックレベルを少し上げてみる。
今度は脳内に返ってくる「感覚」が多すぎて混乱した。
美優(……はあ。やっぱり向いてないと思うんだけどなぁ、こういうの)
補足説明。
現代主流の量子基盤用インターフェイスはハンドルと呼ばれる。
このハンドルを操作するのはかなりコツがいる。
旧世代の電子型コンピュータにおけるキーボードのタイピングのようなものだが、ハンドルはそれを握るユーザーの意識(個有振動)を直接連動させて操作するため、不慣れだとノイズが混ざったり目的でない領域に踏み込んでしまう事がある。
この操作方法は、スペースネット(いわゆる共感覚空間)に意識を潜らせることからダイビング(潜水)と呼ばれる。
使いこなせると、ダイビングの境界を自在に広げて情報が自分の体の一部になったような感覚を得られるという。
「車の運転と一緒ですよ。慣れればどうってことないですから」と楓は言うが、実際にはセンスも必要で、アシスト機能がないと満足に使いこなせない人は多い。
なお、メーカーがOSを自動更新する度に、感覚が今までと違うとユーザーから不満の声が上がるのもお約束である。
この日、美優は"個有振動安定度"というよく分からないパラメータをIDOLのホーム画面に常駐させる事に成功した。
成果はそれだけだったが、なんとなく達成感があった。
帰宅した楓に報告すると嫌味なくらいに褒められた。
2日後。
事務所で仕事をしていた楓のIDOLにコールがかかってきた。
美優【か、楓さん!!】
あまりに切羽詰った様子だったので、楓はハンドル越しでなく肉声で返事をした。
楓「どうしたんですか?!」
美優【蘭子ちゃんが……蘭子ちゃんが……!】
ガタンと椅子を弾き飛ばして立ち上がる。
周りの同僚の注目を集めてしまったが気にしていられない。
何か異常事態が起こったに違いないのだ。
楓「落ち着いてください。今からそっちに戻ります。蘭子に何が起きたんですか?」
コートを羽織り、早足に外へ出ようとする楓の耳に、美優の叫び声が聞こえた。
美優【蘭子ちゃんが、しゃべったんです!!】
楓「…………」
美優【聞こえます!? ほら、蘭子ちゃんもう一度……】
【…………ぁー……】
美優【ほら! すごい! 蘭子ちゃんがしゃべりましたよ、楓さん!】
楓「え……ええ……それは、とても喜ばしいことですね」
美優【この子、もしかしてとても賢いんじゃないかしら?】
楓「私と美優さんの子ですから、それはもう賢いと思いますよ」
美優【何言ってるんですか】
楓「すみません、仕事があるので切りますね」
美優【そういえばそうでしたね。お仕事頑張ってください】
プツッ。
楓は大きく溜息をつくと、デスクに戻った。
それからまた2日後。
蘭子はもう立って歩けるようになっていた。
美優や楓が手を添えて支えなければすぐにフラフラしてしまうが、それでも自力でバランスを取っている。
オプション機能によるサポートはもちろん無い。
楓「思ったよりずっと成長が早いんですね。ちゃんと歩けるようになるのに1ヶ月くらいかかるのかと思ってたんですが」
美優「でも言葉はまだキチンと発音できないんですよね」
部屋は蘭子のために危ない家具や道具をすべて退けたので広々としている。
美優は蘭子にほとんど付きっ切りで歩く練習をしていた。
蘭子「あー、あ」
美優「うふふふ」
楓「美優さん、笑顔がちょっと気持ち悪いですよ」
美優「あら。楓さんったら嫉妬してるんですかぁ? こわいでちゅね~」
楓「…………」
美優「蘭子ちゃ~ん、ほら。み、ゆ、って」
蘭子「い、う」
美優「み・ゆ」
蘭子「いー」
美優「はぁぁ~↑……」
楓「美優さん、ハマりすぎでは……あら?」
蘭子「いー!」ニコニコ。
楓「笑ってる……」
美優「知りませんでした?いつの間にか表情まで付くようになったんですよ」
楓「なんだかいつもと違うなと思ったら、そういうこと……」
おそらく、筋肉の使い方を満遍なく習得してきたのだろう。
歩けるようになったのもそれが理由かと思われた。
ドールに筋肉というパーツがあるのかは分からないが。
楓「きっと美優さんがいつも笑ってるから覚えちゃったんでしょうね」
美優「えーっ、私そんな普段から笑ってますか?」
楓「蘭子に話しかける時はいつもニッコニコですよ」
美優「そ、そうでしたか……」
楓「もう完全にお母さんです。私はいつ蘭子にママって呼ばせるのか気になってたんですが」
美優「しませんよ!」
楓「怒ると蘭子が覚えちゃいますよ」
美優「あっ、蘭子ちゃん今のは違うからね?この人がからかうのが悪いの」
楓「こ、この人よばわり……」
それから二週間も経つと、蘭子の手足は鎖から解き放たれたように自由に動かせるようになっていた。
力は弱いが、物を掴んだり、走ったりすることもできる。
一応、例の自己防衛と危険感知のオプションは付けたままだが、傍目にも無茶に動いている様子を見ると、それが十分な機能を発揮しているかは疑問であった。
そのため、美優は以前にも増して蘭子に付きっきりで世話をするようになった。
蘭子は、いくら精神的に幼いとはいえ体躯は14歳の少女と変わらない。
もし彼女に暴れられたら美優には手が付けられないのではないかと心配したが、実際は筋力が弱いおかげで容易に主導権を握ることができた。
また自由意志の発達によるものか、好き勝手に動き回ることも最近は増えたが、「駄目」と注意すればわがままも言わず素直に従い、覚えも良いので美優は思ったより多く気を使わずに済んだ。
そして、今はもう単語程度ならはっきりと発音できるようになった。
同時に、いくつか名前も覚えた。
蘭子「みゆ、みゆ」
そう言って美優の元へちょこちょこと歩いて来ては、「らんこ」「かえで」などと言うのだ。
美優「ちゃんと言えて偉いね~」
そう言って頭を撫でてやると、「えへへ」と嬉しそうに笑うのだった。
美優(私もうお母さんでいいや……)
◇ ◇ ◇
美優「楓さん、ちょっと相談があるんですが」
ある休日のことである。
蘭子は床にぺたんと座ってTVアニメに夢中になっている。
楓はそんな蘭子を後ろから抱きながら一緒にアニメを見ていた。
楓「はあ、なんでしょう」
蘭子との憩いの時を邪魔しないでほしいと言いたげな表情である。
こうして2人べったりしているのも、休日くらいは蘭子を構ってあげたいという楓の主張によるものだった。
要するに楓と美優のあいだで蘭子の取り合いが発生しているのだ。
嘆かわしい子煩悩である。
美優「来週なんですが、私、海外出張の仕事が入ってしまいまして……」
楓「まあ。久しぶりですねえ、今度はどこへ行くんですか?」
美優「欧州です。フランスとか、あとスペインとか色々」
楓「スペインは行ったことないですねえ……スペインのパインは酸っぱいん……ふふっ」
そう言いながら蘭子のさらさらした髪を撫でる。
蘭子はTVにかじりついて気にも留めない。
美優「それで、楓さんには蘭子と一緒に1週間ほど留守番をお願いしたいんですが……」
楓「え?」
楓の動きが止まる。
楓「私も連れて行ってくれるんじゃないんですか?」
美優「それは、できればそうしたいですけど……蘭子ちゃんがいますし」
蘭子には戸籍がないのでパスポートも作れない。
そもそも、現在この国ではドールに関する法がまだ整備されきっておらず、ドールを連れて外出するのでさえ協会に申請しなければならないと説明したのは楓である。
ちなみに協会とは全国ドール協会のこと。登録した時に同時に入会することになっている各メーカー協賛組織である。
楓「そんな……美優さんがいない1週間なんて、私寂しくて耐えられません」
美優「バカなこと言わないでください」と顔を少し赤くする。
楓「だいたい、美優さんこそ私が居なくて大丈夫なんですか?」
美優「あー……実はそれもちょっと心配で」
美優は気が小さく、人見知りである。もちろん自信家でもないし、度胸があるわけでもない。
1人で海外に、それも1週間も滞在するのは彼女にはやや荷が重かった。
楓「やっぱり私が付いて行ってあげた方が……」
数ヶ月前、同じように海外出張の仕事があった時は楓が休暇を取って美優に同伴した。
その時美優は、現地での買い物や交通、その他生活的なコミュニケーションは自分1人では到底無理だと悟ったのである。
何から何まで楓の世話になりっぱなしだった。実際、仕入れ先との商談のほとんどは楓のおかげで成立したと言ってもいい。
片言の英語でも、楓が翻訳機器も使わずに自然に意思疎通できているのが美優にはこの上なく不思議だった。
楓はこういう時は本当に頼りになる女性なのである。
そして同時に、美優は自分のふがいなさを呪うのであった。
美優「蘭子ちゃんを独りで放っておくわけにはいきません」
悩んだ末、美優はきっぱりと言った。
美優「おかげさまでIDOLの使い方も少し覚えましたし、翻訳機があればなんとかなるかと思います。それに、いざとなったら楓さんに連絡しますし」
楓「……美優さんがそう仰るのでしたら……」
楓の表情もどっちつかずである。
寂しいという事もあるし、美優を心配する気持ちもあった。
しかしそれとは別に、蘭子を1週間独り占めできるというのも事実なのだ。
楓「分かりました。美優さんに代わって、蘭子はこの私がしっかり教育しておきます」
美優「……それが一番不安なんだけどなぁ」
変に蘭子を甘やかしすぎたりしないかしら、と美優は考えていた。
蘭子「かえでさん」
楓「なぁに?蘭子」
蘭子「ふういんのぐりもあ、おわっちゃった」
『封印のグリモア』とは楓がレンタルしてきたアニメのタイトルである。
楓「ああ、はいはい。じゃあ次はなにしてあそぼっか?」
蘭子「ぐりもあごっこ! やみにのまれよ!」
楓「あらあら」
美優はますます不安になるのだった。……
◇ ◇ ◇
美優が海外に行っている間も日中は事務所に居なければならない楓だったが、半休を取るなどしてなるべく蘭子の面倒をみるようにしていた。
これに関しては、会社がドール事業に少し噛んでいるということもあって、周囲が積極的に理解を示してくれた。
渋谷部長が「育児休暇みたいなもんだな」と言ったが、いずれドールが普及した時には本当に育児休暇と似たような制度が出来るかもしれないと思った。
それに、この会社はあらゆる面でいい加減なのである。
楓が仕事の量を減らした所で、そもそも重要な案件というものがなく、差し迫ったスケジュールもない。
では具体的に何の仕事をしているのかと聞かれたら、誰も答えられない。
ここはそういう組織なのだ。
そんな中、今日の楓は珍しく分かりやすい仕事を任せられていた。
入社志望者の面接担当である。
コンコン。
楓「どうぞお入りください」
「失礼します」
入ってきたのは、いかにも真面目そうな清楚な女性だった。
履歴書にある写真よりも大人びた印象を受けるのは、その一挙手一投足に品の良さを感じるせいだろうか。
楓「お掛けください」
そう言って楓は手元に用意した彼女の履歴書に改めて目を通した。
楓「ええっと、名前は新田美波さん……でよろしいですね?」
美波「はい。よろしくお願いいたします」
楓「そんなかしこまらなくて大丈夫ですよ。楽しくやりましょう」
美波「は、はい!」
楓の隣にはもう1人、面接官がいる。
しかし彼は彼で妙に緊張していてさきほどから一言もしゃべらない。
無理もない。
そもそも、まだ会社に入って1年に満たない新人の彼がなぜ面接官をやっているのか。
そういう会社もあると聞いたことはあるが、この武内くんという新人は中々どうして口下手なのである。
ちなみに楓も人事部の人間ではない。
更に言えば面接などしたこともされたこともなかったし、会社で重要なポジションに居るわけでもなかった。
ではなぜこの2人が面接官をしているのかというと、単なる上司の気まぐれである。
「今日入社志望の面接があるんだけど、とりあえず楓ちゃんと武内くんの2人に任せたから~」とは朝会の宮本先輩の台詞である。
ここはそういういい加減な組織なのだ。
突然、明日から君が社長になれと言われても不思議ではない。
楓はこんな職場でもそれなりに順応してきた。
コツは、とにかく目の前の仕事をなんとかすればいいのだ。
楓「そうですね……ところで、面接ってどんな質問すればいいんでしょうか」
美波「…………」
楓「武内くん?」
武内「は、はいっ、えー、まずは志望動機などを聞くのが定石かと……」
楓「なるほど!では新田さん、この会社を志望した動機を教えてください」
美波「はい。私は大学時代……」
云々。
美波「……以上の理由から、御社を志望いたしました」
楓「分かりました」
あんまり分かっていないのである。
楓「というかよく見たら履歴書にだいたい書いてありましたね」
美波「…………」
美波の志望動機は、要約すると「たくさん持ってる資格を活かしたい」という事だった。
確かにこの会社の事業は幅が広く、資格はあればあるだけ役に立つかもしれない。
しかし履歴書にびっしり書かれている資格の数々は、楓には聞いたこともないものばかりだった。
楓「うーん、私はもう採用でもいいかなって思うんですけど、武内くんはどうですか?」
武内「じ、自分ですか!? えー、その……新田さんが学生時代に打ち込んだ事はなんですか?」
楓「資格を取ることなんじゃないですか?」
武内「た、確かに」
コントである。
美波「あの、資格以外にもあります」
楓「あ、そうなんですか。ではそれを教えてください」
美波「はい。私は大学ではラクロス部に所属しており……」
云々。
楓「すごいですね。大会で準優勝したんですか。私なんてスポーツはめっきりで……武内くんはスポーツとかやるんですか?」
武内「自分ですか!? い、いえ自分はそんな運動はあまり……」
楓「でもすごくガタイが良いですよね。レスリングとかやってそうな……あ」
美波「?」
楓「レスリングって、すごくスリリング……なんて。ふふふ……」
そんな調子で面接が続いた。
その他、楓の質問はこんな感じである。
「お酒は飲みますか?」「どれくらい?」「好きなお酒はなんですか?」「好きな銘柄は?」「え、知らない?」「ギャンブルは?」「彼氏はいますか?」
云々。
楓「……私からは以上です。何か質問などはありますか?」
美波「…………………」
終始困惑していた様子の美波は、何かものすごく難しそうな顔をしていたが、やがて意を決したように前を向きなおして言った。
美波「その……大変恐縮なのですが」
楓「はい、なんでもどうぞ」
美波「よろしければ……御社の、具体的な事業内容につきましてご教示いただけますでしょうか。というのも、事前に調べた御社のデータベースが、その、どうも曖昧で……」
楓「具体的な事業内容、ですか……」
今度は楓が困り果てる番だった。
楓「難しいですねえ。そういえば武内くんは普段どんな仕事をしてるんですか?」
もはや三者面談である。
武内「自分は……そうですね、先週はずっと穴を掘っていましたが……」
美波「穴?」
美波は思わず聞き返してしまった。
武内「ええ、穴です。隣町のある区画に空き地があるのですが、そこをスコップで掘るんです」
美波「それは、何かの建設工事ということでしょうか?」
武内「いえ、工事とか、そういうものではありません。ただ穴を掘るんです」
美波はわけが分からなかった。
楓「まあ、たまにはそういうこともやるでしょうね」
楓「私の場合は……例えば演劇をやったりします」
美波「え、演劇?演劇というのは、その、お芝居の演劇ですか?」
楓「その演劇です。最近だと、こんなお話を演じてますね」
ある年の瀬、1人のOLが会社の忘年会に参加し、そこでなんとドールの景品を当ててしまいました。
喜んで自宅へ持って帰ると、同居人の女性はなぜか渋い顔をして困った様子です。
しかしドールが少しずつ成長すると、今度はOLよりも同居人の方が入れ込んでしまう有様でした。
こうして大事に大事に育てたドールは、いつしか2人にとって本当の子供のようになったのです。
そんなある日、ドールが突然こんなことを言い始めます。
「自分はドールではなく人間である」と……
最初は冗談に思えたこの言葉が、なぜかOLの心にひっかかって仕方ありませんでした。
次第にOLは、もしかしたら自分が、自分を人間だと思い込んでいるドールなのではないかと疑うようになります。
この考えに取り憑かれてしまったOLは、ある時ついに……
美波「…………ついに?」
楓「……ふふふ、この続きはあなたが入社した時に話してあげます♪」
思わず前のめりになっていた美波は慌てて姿勢を正した。
楓「あとは、そうですねえ……靴を集めたこともあります」
美波「靴、ですか」
楓「ええ。革靴、サンダル、下駄、スポーツシューズ、あらゆる靴を買ったり拾ったり……」
美波「集めて、どうするんですか?」
楓「さあ、私にはさっぱり……とにかく色々な靴を集めるという仕事でした」
美波はもう帰りたいと思ったが、楓がなにやら少し考えるように下を向いて黙ったので、とりあえず何か言い出すのを待っていた。
楓「……ああ!ありました、まともそうな仕事が」
美波と武内くんが身を乗り出した。
楓「地図作りです。新田さんはダイビングはできますか? パソコンとかIDOLの方の」
美波「はい。特定ネットワーク潜航技術検定準二級です」
武内「履歴書にも書いてありますね」
楓「あ、これってダイビングの資格だったんですか。知らなかった。よく分からないけれど、準二級ってかなりすごそうですね」
オホン、と咳払いして続ける。
楓「この地図作りというのは、いわゆる次元ネットワークの共感覚空間を地図におこす作業です」
美波には聞いたこともない仕事である。
楓「この作業はかなり専門的な知識が必要で、この地図作成のノウハウはおそらく他社にはないでしょう。それくらい特殊な仕事です。かなりやりがいがあると思いますよ」
やりがい。
この言葉が美波の心を少し動かした。
美波「エンジニアとしての技術力が必要ということでしょうか」
楓「それももちろん必要ですが、この仕事においてもっとも重要なのはセンスです。ダイビングに長けているのなら分かると思いますが、ネットの深層に潜れば潜るほど共感覚のフィードバックが増えて自我領域の安定が難しくなりますよね?」
美波「はい」
楓「新田さんは共感覚というのが何か分かりますか?」
美波「はい、共感覚とはスペースネットに繋がっている人間全ての意識の総称です。ほとんどの場合において、共感覚空間とスペースネットは同義とみなされます。厳密には区別されていますが……」
楓「たいへんよろしい」
フフン、と鼻を鳴らして満足げに頷いた。
偉そうである。
楓「そういうわけで、その共感覚を地図にするというのが仕事になります」
美波はやはり意味不明という顔をしている。
美波「それはつまり……綺麗とか美味しいとか、楽しいとか気持ちいいとか、そういう感覚を形にするような……?」
楓「それらはまあ言ってしまえば簡単な部類ですね。共感覚には私たち個人の感覚、意識、感情などとは比べ物にならないくらい複雑で多様な情報が存在しています。それらの、いわば概念的な知覚を形にしたのが"地図"です」
武内「なるほど……」
楓「なんで武内くんが返事するの」
武内「も、申し訳ございません」
分かったような分からないような、いや、やっぱり分からない、と美波は思った。
美波「……あの、もう一つ質問よろしいでしょうか」
楓「はい?」
美波「御社での、農場の経営に関する業務をお教えいただけますでしょうか?」
楓「農場? ウチでは農場なんてやってないと思いますよ」
美波「え!?」
美波はひどく動揺した。
慌ててキョロキョロと周りを見渡す。
もしかしたら自分が志望していた会社とは違うところに来てしまったのではないかと焦ったのだ。
美波「……申し訳ありません、こちらの……そちらの社名は確か『三池農場』と記憶しているのですが」
楓「ええ、ウチはその三池農場ですけど」
美波「しかし御社では農場や農業などは特に関係ない?」
楓「そうですね。私は聞いたことないです。でもよく考えたら、確かに農場って付いてるのは紛らわしいですよね」
そう言って楓はおかしそうに笑った。
美波はもう考えるのを諦めていた。
楓はふと時計を見て、予定の時間を過ぎていることに気づいた。
楓「……というわけで面接は以上になります。合否は後日、メールにてお伝えしますね」
美波「……ありがとうございました」
心なしか疲れた様子でぺこりと会釈し、部屋を出て行く。
バタンと力なく扉が閉まるのを確認すると、楓は小さく背伸びをして隣の武内くんに話しかけた。
楓「武内くんもあんな風に面接を受けて入社したんですか?」
武内「あ、はい。彼女と同じように新卒採用で……」
楓「その時ってどんな感じでした?」
武内「……えー、その、非常に申し上げにくいのですが……」
楓から目を逸らしながら小さい声で言った。
武内「緊張しすぎていて、まったく覚えていません」
この日の面接は1件だけだったので、楓は報告書を宮本先輩に提出すると半休の申請をして午後はすぐに帰宅した。
家に着くと、蘭子は相変わらずテレビにかじりついていた。
楓「ただいまー」
蘭子「おかえりなさいー……」
すっかり夢中である。
先日、楓が『封印のグリモア』を見せてからというもの、蘭子はこうしたアニメ、特にファンタジーな世界の作品にハマってしまったらしい。
今見ているのは『ファイナル・グランブルー・オーダー』、通称FGOという随分昔のアニメである。
正直なところ、この成長段階の蘭子に見せるにはやや難解すぎる気がしたが、オンラインレンタルで蘭子が興味を持ってしまったので仕方がない。
あまり彼女の邪魔をしては悪いと思い、楓は1人でランチの準備をする。
テレビから流れる音になんとなく聞き耳を立てていると、登場キャラの勇ましい掛け声に重なって蘭子の声もかすかに聞こえるのだった。
「せいけん、えくすかりばー!」「れいじゅをもってなんじにめいず!」「いでよ、まがんにきょうめいせしものよ!」云々。
意味が分かっているのか甚だ疑問だが、楽しそうなので楓も無碍に突っ込んだりはしない。
楓「蘭子ー、ご飯できましたよー」
蘭子「はぁーい」
2人で食卓に付く。
簡単なミートソースのパスタである。
そして、それは楓だけでなく蘭子の分もきちんと並べられているのだった。
さて、読者はここで不思議に思う。
ドールは食事をする必要がないのではなかったか?
実際、食事をする必要はないのだが、だからと言って食べる機能が無いわけではない。
蘭子に自我が芽生え始め、意思を持つのがはっきりしてくると、楓たちは蘭子を放っておいて2人だけで食べるのが心苦しくなった。
基本的にドールは人間の真似をしたがるのだ。
だから、蘭子が食卓にある残り物のおかずを食べようとしているのを目撃した時、美優も楓もそれを止めさせようとはしなかった。
それどころか、たどたどしく箸を握るのを見かねてスプーンを用意してあげたほどだった。
蘭子は見よう見まねで一生懸命スプーンをすくった。
料理のほとんどは口元からポロポロとこぼれ落ちたが、蘭子は美味しそうに食べるのだった。
それから美優は3人分の料理を作るようになった。
台所には食器が増え、洗面台には歯ブラシが一つ追加された。
蘭子は汗をかかず、体臭も無かったが、だからと言ってその体を清潔にしておくために一枚の濡れタオルだけで済ますようなことは美優も楓も賛成しなかった。
いつしかバスルームは賑やかな時間をすごす場所になっていた。
結局、そうなってしまうのである。
楓「美味しい?」
蘭子「うん!」
口の周りがソースでベタベタである。
この14歳が本当の14歳になるまで、あとどれくらいかかるのだろうと楓は思った。
そしていつかは、本当の14歳を過ぎて成長していくことも……
楓が以前、ドールの寿命に関して調べようとしたのはこの事だった。
蘭子が死ぬ、あるいは動かなくなってしまうまでに、その精神はどこまで成熟するのだろう。
人形における死とはどんな状態なのだろう。
そんな事を考えながら、楓は蘭子の口の周りを拭いてやるのだった。
蘭子は食べ終わると「ごちそうさまでした」と言って皿を台所の流しに置いた。
こういう簡単な素行のよさは美優の影響が大きい。
蘭子「めいるしゅとろむ!」ぶしゃー
蛇口を思い切りひねって水を出すときの蘭子の決め台詞である。
楓「あらあら」
勢いよく水が跳ね返るので台所がびしょびしょになる。
手早く雑巾で拭きながら、楓は蘭子の手を取って蛇口をひねる加減を教えてあげた。
この家の流しの水圧は確かに加減が難しいのである。
少し前まで大人しかった蘭子も、ここ最近では活発になった。
以前よりよほど手のかかる子供になったが、楓も美優もまったく不快ではなかった。
むしろ楽しいと思うような事の方が多かった。
蘭子「かえでさん、グランブルーオーダーごっこ、やろう!」
ちなみに蘭子が「かえでさん」とさん付けで呼ぶのは美優がいつもそう呼んでいるのを真似しているからである。
美優のことも「みゆさん」と呼ぶ。
楓「ちょっと待ってね、いま後片付けしてるから」
美優が出張に行っている間、すっかりアニメの世界に影響されてしまった蘭子はよく楓にごっこ遊びをねだるのだった。
そしてごっこ遊びに飽きると、楓は絵本を読んであげたりした。
こんな調子だったので、ここ2、3日で蘭子は色々な言葉を覚え、文字も少しだけ読めるようになった。
そのほとんどが架空の世界の知識に基づいているとはいえ、蘭子のもの覚えの良さは驚異的だった。
楓は蘭子が日に日に賢くなっていくように思えて内心誇らしかった。
蘭子「ふっふっふ、わがなはぶりゅんひるで! いまこそせかいをわがてに!」
楓「おお、女神様よ。なぜそのような邪悪なお姿に」
楓はエプロンを後ろに回してマントにした。即興にしては気が利いている。
楓は聖騎士の役だった。
蘭子「しっこくのせんりつが、われをめいふへといざなうのだ」
蘭子はなぜかこういう敵なのか味方なのかよく分からない脇役を演じたがるのだった。
ちなみにアニメでのブリュンヒルデというキャラは堕天使で、でかい口をたたくわりにあまり強くない。
これに限らず、蘭子はとにかく堕天使とか悪姫といったキャラがお気に入りらしかった。
そして楓が演じるのはもっぱら主役なのだった。
楓は望まれるままに演じ続けた。脇役を立てるための主役を。
しかしそれは、望まれた役割であって、自分自身の舞台の主役と言えないのではないか?
舞台には演目が必要である。
では、楓のステージのタイトルは一体何なのだろうか?
楓は隣町のどこかで延々と穴を掘り続けている武内くんを想像した。
そして靴のことを考えた。
誰のものかも分からない靴。
誰のために作られたかも分からない靴のことを。……
◇ ◇ ◇
美優が出張から帰って来た日の夜、蘭子が泣いた。
原因は、美優と楓の喧嘩である。
美優「どうしてこんな風になるまで放っておいたんですか!」
楓「こんな風ってなんですか。蘭子は立派に言葉をたくさん覚えましたよ」
美優「変な言葉ばかりじゃない!」
楓「蘭子の好きなように遊ばせてあげただけです」
美優「それを無責任っていうんですよ! 大体、蘭子ちゃんに勉強させるって言ってたのは何だったんですか? 話が違うじゃありませんか!」
楓「蘭子に言葉を覚えさせるのは勉強ではないんですか? 興味のあることを自由にやらせて、そこから学ぶのが子供にとっての一番の勉強だと思いますが」
美優「それで結果、普通の会話もできなくなったら元も子もないでしょう?!」
事実、この頃の蘭子は空想世界にどっぷりと浸かってしまったせいで、「やみに飲まれよ!」「魂のおもむくままに……」などといった言葉を挨拶がわりに言うようになった。
一般には、こうした挨拶は挨拶とみなされない。
美優が怒るのも無理はない。
楓「美優さん。美優さんはちょっと神経質すぎるんですよ。こんなの子供のちょっとした個性じゃないですか。むしろ個性を認めず、自分の理想通りに子供を矯正しようと思うほうが非道徳的なんじゃないですか?」
美優「な……!?」
楓「そもそも美優さんは蘭子と居る時、何をしてあげてたんですか? 大方、適当にニュースとか見せてほったらかしにしてたんでしょう。良い子にしてるからって、そんな退屈な時間を蘭子に過ごさせるのは可哀想だと思わないんですか」
美優「わ……私はただ……どうすればいいかなんて……」
美優が言葉に詰まった。
元々儚げな雰囲気のあった面持ちが一層弱々しく見えた。
楓を睨みつける目が少しずつ潤んでいるのが分かる。
あ、やばい。
と楓が後悔するかしないかのうちに、
美優「楓さんの、バカぁっ!!」
そう言って俯き、しくしく泣き始めた。
楓はどうすることもできず美優が泣いているのを茫然と見ていた。
楓が美優を泣かせた事は以前もあったが、同棲してからはこれが初めてだった。
ちなみに大学時代、楓が美優のアパートへ遊びに行った際、お菓子を1人で全部食べてしまったのが最初の喧嘩である。
蘭子「なにごと……?」
隣の部屋にいた蘭子がこちらを覗いていた。
美優のすすり泣く声だけが痛々しく響いている。
楓はきまり悪そうに黙ったまま、目を逸らしてその場に突っ立っていた。
蘭子「……わが友?」
美優に声をかけたが、反応しない。
蘭子は楓と美優の2人を交互に見て、それから楓に向かって言った。
蘭子「聖なる歌姫よ……わが友の身にいったいなにが……?」
蘭子はわりとずっとこんな感じでしゃべるのだった。
長旅から帰って来た瞬間、喜びの再会かと思いきや意味不明な言葉を連発される美優の心境は察するに余りある。
ちなみに聖なる歌姫とは楓のことである。
美優「…………なんで……」
美優が声を震わせながら言った。
美優「なんで楓さんが聖なる歌姫で…………私がただの"友"なんですか!」
そしてまた、せき切ったようにおいおいと泣き出した。
美優「こんなの不公平ですよお!」
楓「それは私のせいじゃないと思いますけど」
美優「私が居ないからって2人して楽しそうに遊んで! せめて私にもそういう名前を付けてくれててもよかったじゃない! なによ、"わが友"って!」
美優にそんなつもりは一切無かったが、この一言が良くなかった。
蘭子は自分が責められていると感じた。
そして美優が悲しんでいることを知り、その原因が自分と楓にあると判断したのである。
蘭子「みゆさんをいじめちゃダメーっ!!」
突然蘭子が叫び出した。
楓と美優はびっくりして蘭子を見た。
蘭子は美優の手を握ってこう言うのだった。
蘭子「みゆさん、ごめんなさい。わたしと、かえでさんのせいですか?」
美優は、蘭子が突然強い言葉を発したことに驚き固まっていた。
蘭子の切実そうな瞳がじっと美優の返事を待っていたが、美優は呆気に取られたまま何と言ったらいいか分からずにいた。
この沈黙も良くなかった。
蘭子は、自分は悪い子で、許してもらえないのだと思い込んだ。
そして目にたっぷりの涙を浮かべるや否や、美優にすがるように大声で泣き出したのである。
「ごめんなさああああああい」
子供のようにわあわあと泣き叫んだ。
美優は慌てて蘭子をあやした。
美優「ち、違うの! 蘭子ちゃん、これは……ええーっと、私の方こそごめんなさい! どうしたの? なんで泣いてるの?」
蘭子がこんなに激しく感情を顕わにするのは初めてだった。
美優がよしよしと頭を撫でて抱きしめてやっても一向に泣き止む気配がない。
子供の泣き声というのは悲痛なものである。
一方楓は、蘭子の思わぬ豹変にすっかり面食らってしまいオロオロしながら部屋を行ったり来たりしていた。
今の蘭子に手を伸ばしたらなんだか知らないが噛みつかれそうな気がする。
かと言って何もしないわけにはいかない。
楓「ね、蘭子、一緒に遊びましょう? ほら、ワルキューレごっこ」
美優「こんな時に何ふざけてるんですか!」
蘭子「うっぐ、うぅ……えっぐ、ひっぐ」
蘭子の顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃである。
何がここまで彼女を興奮させたのかは分からないが、美優はとにかく蘭子を落ち着かせる事を考えた。
美優「よしよし……良い子、良い子……」
こういう時にどっしりと構えて受け入れられるのが美優である。
泣く子を抱擁する時の優しい表情はまさに母親のそれだった。
美優「蘭子ちゃんは何も悪くありませんよ。だから謝らなくていいの。 私たちこそごめんなさい。大声なんて出して、びっくりしちゃったよね?」
そんな言葉をかけてやりながら、美優は自分にしがみついている蘭子をそっと抱きかかえて寝室に運んだ。
美優「よしよし」
蘭子は、美優が自分を責めているわけではないと分かると少しずつ落ち着いてきた。
そして美優の胸に埋まりながら何か不明瞭にボソボソと呟き、美優はそれに「うん、うん」としきりに返事をしながらベッドに蘭子を寝かしつけようとしていた。
ぽつんと取り残されたのは楓である。
もはや楓は部外者で、当事者は美優なのであった。
寝室を覗くと、蘭子はすでにおとなしくベッドに横になっていた。
そばに寄り添うようにして美優が蘭子と何か話をしていた。
楓にはもうするべきことがなくなった。
ここでは全てが美優の了見のもとにあった。
美優「……眠っちゃいました。泣き疲れたんでしょうね」
しばらく経ってようやく静かになると、美優は安心したように戻ってきた。
楓はなんとなく気詰まりな思いがして黙っていた。
美優「楓さん、もしかして蘭子ちゃんに悪者扱いされたのがショックだったんですか?」
楓「…………」
美優「さっき蘭子ちゃんと少しお話したんですけど、楓さんと遊ぶのすごく楽しかったって言ってましたよ」
楓「……それは良かったです」
美優「途中からヘンな難しい言葉を使ってよく分かりませんでしたけど」
美優は笑って言った。
楓「あんなに泣いて、大丈夫でしょうか」
美優「子供って、ふとしたことで感情が爆発したりするんですよ。私も小さい頃はよく泣いていましたから、分かります」
楓には分からなかった。
美優「それに私、今はちょっと安心しているんです」
楓「どういうことですか?」
美優「蘭子ちゃんが、ようやく子供らしいところを見せてくれたなあって」
楓「……蘭子は結構、子供っぽいですよ。聞き分けが良すぎるから大人びて見えるだけです」
美優「うん。……私、ずっと家で一緒に居たのに、あんまり蘭子ちゃんのこと分かってあげられてなかったのかも」
楓「そんなこと無いと思いますよ。ただ、蘭子が普通の子供と違うだけです」
美優「……そうね」
独り言のように呟くのだった。
どこか皮肉めいた笑みを浮かべて。
楓「あの、ところで美優さん。実はこんなものがあるんですけど……」
なんとなしに重くなった空気を変えようと、楓が冷蔵庫から取り出したのは酒瓶だった。
美優「どうしたんですか、それ」
楓「美優さんが帰ってきたら、何か労ってあげようと思って……」
バツが悪そうに言うと、それを聞いた美優は途端にしおらしくなって、
美優「さっきはごめんなさい。怒鳴ったりして……」
楓「私もついキツイこと言っちゃいました。これでおあいこにしましょう」
2人のコップを用意しながら、
楓「お酒の付き合いは"さけ"られませんからね」
こうして仲直りしたのだった。
◇ ◇ ◇
数ヶ月が経った。
蘭子はもうすっかり14歳になっていた。
家の手伝いなどは難なくこなせるようになり、アニメだけでなく漫画や小説をたくさん読むようになった。
美優の仕事を見ているうちにファッションにも興味を持ち始め、それまでは美優が選び着せ替えていた服を今度は蘭子が自分で選ぶようになった。
美優や楓の付き合いで少し勉強もするようになった。
そして蘭子には趣味ができた。
彼女は絵を描くのが好きだった。
家で美優が仕事をしている間、蘭子はよく一人で絵を描いた。
最初は勉強用に買ってもらったノートの余白に落書きをする程度だったが、次第に彼女の空想はノートのほとんどをそのデッサンで埋めていった。
美優は蘭子のやりたいようにさせていた。
蘭子は自分の絵を見せるのを恥ずかしがった。
ノートに余白がなくなると美優に新品をねだるのだが、美優が絵を見せて欲しいと言っても頑なに隠そうとした。
しかしこの狭い家の中では隠し事にも限度があった。
楓も美優も蘭子がどんな絵を描いているか知っていた。
ある日、楓が新品の勉強用ノートの代わりに無地の落書帳と色鉛筆を買ってくると、蘭子は飛び跳ねるほど喜んだ。
楓も美優も、蘭子が大きな問題もなく成長したことを嬉しく思った。
しかしそんな喜びとは別に、別の心配の種も芽生えるのだった。
蘭子はまだ多くの部分で未熟だった。
何しろ、この家から外へ出たことが一度もないのである。
外へ連れ出すだけなら難しい事ではなかった。
一応、協会へ申請する決まりになっているが、ドールが所有者の居住範囲から離れた時に所有者のIDOLに自動的に許諾通知が届くようになっているため、煩雑な手続きなど一切する必要がないのだ。
美優たちは単に蘭子を外に出すのを怖がっているだけなのである。
一口に怖いと言っても、その理由は様々だったが。
そしてとうとうある日、蘭子が言った。
蘭子「……私、外の世界に行ってみたい」
3人で夕飯を食べている時にぼそっと呟いたのである。
楓も美優も、蘭子の口からその言葉が出てくるのは時間の問題だと思っていたが、いざ本人がそれを望んでいるのだと分かると少し動揺した。
美優「どうしたの、急に」
蘭子「……ううん、なんでもない」
楓「言ってごらんなさいな」
楓も美優も、蘭子が何かやりたいと言った事を頭から否定するようなことはしなかった。
蘭子「…………今度、隣町の商店街に飛鳥先生が来るって……だから」
飛鳥先生とは蘭子の好きな漫画家の一人である。
美優「会ってみたいのね?」
蘭子「…………」こくり。
楓と美優は顔を見合わせた。
楓「いいじゃないですか。行きましょう。私も暇ですし」
蘭子の顔がパアっと明るくなった。
しかし美優はどこか不安そうである。
「でも……」と言いかける美優の手を、楓はそっと抑えて黙らせた。
楓「どうせなら服とか靴も買っちゃいましょう。ネットショップも悪くないですけど、やっぱり実際に試着したり店を回ったりする方が楽しいですからね」
蘭子「うん!」
普段は恥ずかしがりで控えめな蘭子がこんなに嬉しそうな表情をしているのを見てしまうと、美優はもう何も言えなくなった。
楓「それで、先生が来るのはいつなの?」
蘭子「今週の、日曜日です」
楓「それなら丁度いいですね。もちろん美優さんも行くでしょう?」
美優は少し焦った。
今週の日曜は少し用事があった。
蘭子「みゆさん、一緒に行けないの……?」
美優「い、行きますよ。当たり前じゃないですか」
蘭子と一緒にお出かけするよりも大事な用があるだろうか。いやない。
そもそも大した用件ではないのだ。先送りにしても問題ないだろうと美優は考えた。
……夜、蘭子が寝てしまってから、楓と美優は話し合った。
主に蘭子が外出するにあたっての心配事である。
美優「転んで怪我したりしないかしら」
楓「運動に関しては大丈夫だと思いますけどね。たまに家の中でも走ったりしますし」
美優「悪い人に連れ去られたり……」
楓「私たちがずっと傍に居ればそんなことありませんよ」
美優「でも、蘭子ちゃんってすごい可愛いから心配で……」
楓「ナンパされても私が撃退しますから」
美優の心配というのは基本的に保護者目線である。
対する楓は、どちらかというとドールの性質と外環境について不安があった。
楓「商店街は私あんまり行かないので詳しく知らないんですが、あそこってサーフェイスWETがあんまり十分じゃないらしいんです」
サーフェイスWET(Wireless Energy Transfer)とはインフラ設備されている無線送電システムである。
例えばIDOLなどのポータブル機器は電力によって動くが、このサーフェイスWETの設備が整っている地域であれば、たとえ街中にいようとバッテリーが減ることがない。
そしてドールの動力は全てサーフェイスWETに依存しているのだった。
つまり、この無線送電を受信できない場合、ドールは蓄蔵されたエネルギーだけで活動しなければならず、その場合の余力時間は1時間未満である。
ちなみに効率は非常に悪いが、食事を摂ることでも短時間分の動力をまかなえる。
楓「あそこは元々保守派が集まって出来た一角ですし、確かサーフェイスWETの設備工事に反対していたはずです。私が一番心配なのは、買い物中に蘭子がいきなり活動停止になったりしないかっていう所で……」
美優「か、活動停止!?蘭子ちゃんが動かなくなるってことですか!?」
楓「シッ、静かに……蘭子が起きちゃいますよ」
美優はもはや顔面蒼白といった様子である。
美優「やっぱり外出は止めた方がいいんじゃ……」
楓「一応、WETマップを調べた限りでは電波は届いているみたいです。微弱ですが……」
手元のIDOLを操作しながら楓は考え込んだ。
以前、楓たちが蘭子を海外に連れて行くのを渋ったのには、このサーフェイスWETと蘭子のシステムが海外でも問題なく機能するかどうか判断できなかったという理由もあった。
楓「解決策、というか安全策としては、なるべく蘭子にはたくさん食べてもらうしかないですね。あとは常にIDOLで電波状況と蘭子の体力を監視しながら、危ないと思ったら電波が十分な場所に連れて行くかすればいいんです」
美優の不安は募った。
しかし蘭子があれだけ楽しみにしている予定を、今更キャンセルすることなどできないと思い直した。
自分たちが蘭子をサポートしてやるしかない。
美優「ほかに何か問題になりそうなことはありますか?」
楓「あとは……そうですね。蘭子はこれまで私と美優さん以外の人間と接したことがありません。ドールの対人認識能力がどこまで適切に設定されているのか分かりませんが、そこがちょっと心配ではありますね」
美優「どういうこと?」
楓「道行く大勢の他人を、蘭子がどういう風に認識するか分からないという事です。怖がるかもしれないし、パニックになるかもしれない。それに、ただでさえ人の多い商店街に人気漫画家が来るわけですから、かなり混雑することが予想されます。買い物にしても、飛鳥先生と会うにしても、まともにコミュニケーションが取れるかどうか……」
楓「まあ、こればかりは蘭子を信じるしかないです。よほどのことがなければ大事にはならないと思いますが……」
楓のこうした心配は、真剣ではあるもののどこか楽しんでいる節があった。
しかし美優の心には不安しかない。
美優「外がどういう場所なのか、蘭子ちゃんに教えて慣れさせておくべきかしら」
楓「うーん……悪くはないと思いますけど、あんまり意味がないような気もしますね。やっぱり見聞で知る情報と実体験では差がありますし」
美優「そっかぁ……」
楓「あと美優さん、お金の方は大丈夫なんですか?我が家の財政難も最近は冗談じゃなくなってきましたし」
美優「……うん。実はそれもちょっと……」
元々、美優たちの生活は貧乏ではないが裕福でもない。
2人とも物欲がないタイプで、お金がかかるのはお酒と洋服くらいのものであった。
そのため楓も美優もその生活に見合うだけの仕事量で十分だったのだが、そこへ蘭子という住人が増えたことで、これまでの稼ぎでは少し足りなくなってしまったのである。
3人分の生活費などはもちろんだが、それに加えて蘭子のために楓が小説や漫画を買ってきたり、美優が服を買ってあげたりするので、余分に家計が圧迫されたというのもある。
楓も美優も、蘭子を甘やかさずにはいられないのだ。
美優「あと1ヶ月は節約生活するはめになりそうです」
楓「もう十分節約してるのに……」
ちなみに、真っ先にコストカットされたのは飲酒代である。
楓は溜息をついて、それから「もう寝ましょう」と言った。
美優もあくびをして席を立った。
少し暑い夜だった。
こういう夜は、蘭子を抱いて寝るとひんやりして気持ち良いのである。
しかし美優は蘭子の冷たい体を感じながらも中々寝付けなかった。
蘭子の幸せそうな寝顔を見ていると、不意にこんな考えが頭をよぎった。
(この子が、本当の私たちの娘だったらいいのに……)
休憩、しばらくしたら再開
◇ ◇ ◇
日曜日、商店街は案の定の混み具合だった。
美優「蘭子ちゃん、体の調子はどう? どこか具合が悪くなったりしない?」
蘭子「ううん、平気……」
美優に手を繋がれて、歩きながら蘭子は答えた。
しかし正直なところ、あまり平気そうには見えなかった。
疲れているとか顔色が悪いという意味でなく、蘭子は家を出てからというもの、妙にどぎまぎして挙動不審なのだ。
楽しさと緊張、驚き、それらの入り混じったような表情の変化は、彼女の興味が目まぐるしく動いている事の証拠に他ならなかった。
つまり、今彼女は好奇心の虜になっているのだ。
そして楓が考えるには、この蘭子の心にはきっと"緊張"の占める負担が大きいに違いなかった。
無理もない、と楓は思った。
なにせ外の世界は蘭子にとっては知らないことだらけなのだから。
まず、交通ルールを知らない。
もちろん知識としては教えていたのだが、実際に車が走っているのを目の当たりにした蘭子は、その騒音、大きさ、速さに一瞬すくんでしまうほどだった。
また楓が懸念していた通り、蘭子は道行く他人を過剰に怖がった。
早朝に家を発った直後、近隣の馴染みの住民から挨拶された時、蘭子はサッと美優の影に隠れてしまったのである。
その怯えているような蘭子を見た楓と美優は、これでは無理かもしれないと諦めかけた。
しかし先ほども言った通り、蘭子の心にあるのは恐怖だけではなかった。
彼女が緊張したり怯えたりするのは、そこに好奇心という前向きな動機がある証しなのだ。
現に、蘭子は道に生えている草木や花、遠くに見える景色、通りかかる店、家屋、匂い、色、あらゆる物に興味を示し、楓たちを質問攻めにした。
そのせいで楓と美優は哲学的な回答に頭を悩ませたりもした。
蘭子はいつになくよくしゃべったが、人とすれ違ったりする度にふいと黙ったりした。
初めて駅で切符を買い、改札を通って電車に乗る時などは、あらかじめ予習していたにも関わらず、その全ての過程で緊張のあまりつっかえたが、それでも蘭子の表情には期待と興奮の色が見え隠れしていた。
そんな蘭子を見ていると、楓も美優も、外へ連れてきて良かったと心から思うのだった。
そして、さて、例の商店街である。
今時、サーフェイスWETも不十分な、前時代的な場所にも人は集まるものである。
蘭子はしきりに辺りをキョロキョロしながら美優に手を引かれて歩いていた。
通行人にぶつかってしまいそうで楓も美優もひやひやした。
3人が並んで歩く姿は人目を引いた。
大学時代にモデルをやっていただけあって、楓はそもそも注目を浴びやすいのである。
そして蘭子といえば、自身で気合を入れて選び抜いた渾身のゴスロリファッションを身に纏っていた。
否が応にも通行人から奇異の視線を集めてしまうのである。
美優は、蘭子の可愛さが知れ渡る分には誇らしかったが、自分も見られていると思うと少し恥ずかしく感じた。
この可憐な女性は自分自身の美しさには悲劇的なほど無頓着だった。
楓「飛鳥先生サイン会まで結構時間ありますね」
美優「じゃあ先にお洋服見ちゃいましょうか」
蘭子がこくこくと頷く。
それから楓は美優に耳打ちした。
楓「あとで食事を摂るのも忘れないようにしましょうね」
楓が手に持っているIDOLの監視用MFには、受信感度5%と表示されていた。
思った以上に余裕がない。
朝ご飯はたくさん食べさせたが、その貯金がいつまで持つか分からなかった。
蘭子「あの……みゆさん」
美優「どうしたの?」
蘭子「ト、トイレに……行きたいです……」
ドールは人間と違って食べたものを99%無駄なくエネルギーに変換できるが、それでも少しは食べた分だけ排泄しなくてはいけないのである。
楓はとにかく燃料を供給し続ければ良いと考えていたが、実のところ後処理のことは考えていなかった。
美優は慌ててトイレを探し、蘭子を連れて入った。
そこでまた少し問題が起きるのだが、ちょっと生々しい話なのでここに詳しく書くのは控えさせていただく。
たまたま入った公衆トイレが時代錯誤も甚だしい和式であった事、それを経験したことのない蘭子、それを知った美優、これらの事実だけ述べて後は読者の想像に任せることにする。……
……この商店街が、古臭いわりに訪れる人が多いのにはいくつか理由があった。
一つには、珍しい店が多いのである。
全国的にもあまり例がない反量子化思想、つまりアナログにこだわる商人たちが集まり組合をここを作ったのだが、そうした偏屈職人気質な人が集まれば当然そこには他にない珍名物が並ぶことになる。
結果、装飾品や機械技術、絵画や書籍、その他様々な珍しいレトロ文化の地として、この商店街はそこそこ有名なのである。
人気の理由は他にも、都心からほどよく近い事、
そして、今回のように文化人がよく来たりするので、各地からファンが集まりやすい事がある。
蘭子「あそこ……」
散策中、ふと蘭子が指差した先には何やら薄暗い陰気な雰囲気の店があった。
『Rosenburg Alptraum』というのが店の名前らしい。いわゆるブラックレター調である。
いかにも蘭子の好きそうな妖気を放っている。
美優は蘭子の行きたいところへ行かせてやるつもりだったが、パッと見、なんの店かも分からない怪しいところへいきなり踏み込むのは気が引けた。
しかし蘭子が好奇心に吸い寄せられるようにそちらへ歩いて行こうとするのを引き留めることも出来なかった。
扉の窓から中を覗こうとしても薄暗いのでよく見えない。
蘭子は入りたくてうずうずしている様子だったが、遠慮しているのか恥ずかしいのか、入口の前で立ち止まったまま窓を覗き込んでばかりいた。
突然、扉が開いた。
「あっ!」
店から出てきたのは一人の少女である。
入口で蘭子と鉢合わせになる。
蘭子「はわわっ?!」
「ご……ごめん……なさい……急に……開けたりして……」
蘭子と同い年くらいの、小柄な少女である。
この店に負けないくらい陰鬱な雰囲気を纏っている。
楓「こちらこそごめんなさい、ね?」
さりげなく蘭子にも謝るよう促したが、蘭子はその少女の異様な出で立ちにすっかり怖気づいていた。
確かに、大人から見てもその少女の格好は少し不気味である。
長い前髪で右目を隠し、落ち窪んだように見える目元はそういうメイクをしているのだと思われた。
「お……お店に興味……あるの? も、もしかして……お客さん……?」
蘭子に話しかけているようである。
蘭子は無言で頷いた。
「や……やった……久しぶりのお客さん……ど、どうぞ中へ……」
少女はどうやら店員らしかった。
楓と美優は色々な意味でこの店が不安だったが、蘭子が気圧されながらも素直に店の中へ入って行ったので、仕方なしに一緒に入ることにした。
その少女は小梅と名乗った。
小梅「私は……働いているっていうか……お手伝い……みたいな……? 奥のカウンターに居るのが、オーナーの貴音さん……です……」
貴音「いらっしゃいませ」
ミステリアスを絵に描いたような人がそこに居た。
楓と美優はぺこりと会釈した。
店そのものは清潔なのだが、薄暗い照明や古ぼけた天井など、なんとなくカビの匂いが漂ってきそうなじめじめした印象である。
なんだか物凄い場所に来てしまったような気がする。
一方蘭子は、さきほどの遠慮がちな態度はどこへやら、さっそく店の中の商品を目を輝かせながら見て回っていた。
見たこともない文字が綴ってある分厚い本が本棚一面に並べられている。
何に使うのか見当もつかない小道具があちこちに陳列している。
蘭子「みゆさん、これ……」
美優の袖を引っ張って蘭子が見せたのは、黒い羽ペンだった。
美優「欲しいの?」
値段を見るとびっくりするほど高かった。
美優が首を振ると、蘭子はすぐにそれを察した。そしてひどく残念そうな顔をして諦めるのだった。
そんな聞き分けの良い蘭子の、子供らしくない姿を見ると、美優は無性に切なくなった。
もっとわがままを言って欲しいとすら思った。
小梅「そ……それ……かっこいいよね……」
いつの間にか背後にいた小梅が蘭子に声をかけた。
蘭子はぎょっとして一瞬身を引いたが、不思議なことに、先ほどの怖いと思う気持ちはもう無かった。
小梅のさりげない優しい微笑に奇妙な親しみを感じ、そこでようやく、蘭子の不器用な心に勇気が生まれたのである。
蘭子「……わ、我と同じ瞳の持ち主とは……フフフ、下界もまだまだ捨てたものではないということか……」
小梅「……?」
貴音「随分と面妖な言葉遣いをなさるのですね」
美優「ああ、えーっと、これはですね……たぶん『来て良かった』って言ってるんだと思います」
まさかこんな所で蘭子の"オペレーション・コードR"が発動するとは思わず、美優は拙い翻訳でその場をごまかした。
このオペレーションなんちゃらとは、いわゆる蘭子独自の世界観に基づいたオリジナル言語のことで、蘭子自身が名づけたものである。
本来、こうした翻訳は楓の役割なのだが、この時楓は店の隅で興味深げに商品を物色している最中だった。
完全に自分だけで楽しんでいる。
それから蘭子は小梅が案内するままに一緒に店のものを見て回った。
蘭子は相変わらず難解な言葉のまま会話していたが、小梅はさほど気にしていない様子だった。
というよりも、すっかり仲良くなってしまったようだった。
何か通じ合うものをお互いに感じ取ったのかもしれない。
美優はようやく安心できた。
楓「時間、大丈夫ですかね」
美優「ああ、楓さん。サイン会まではまだ時間ありますよ」
楓「いえ、そうではなくて……蘭子の活動時間のことです」
美優は「あっ!」と小さく声を上げて、急に慌て出した。
楓「落ち着いてください、今ちょっと調べてみますから……」
そう言ってIDOLを取り出した。
この場合、IDOLのバッテリーも減る一方なので、こちらの制限時間もあるのだ。
楓「……やっぱり、もうそろそろエネルギー補充した方がいいと思います」
美優「私、蘭子ちゃん連れてくる!」
蘭子は店の奥で小梅と一緒におどろおどろしい絵本を見ている最中だった。
そこへ「蘭子ちゃん、行きましょう」と告げた時の蘭子の悲しそうな表情を見るのは辛かった。
小梅「も……もう行っちゃうの……?」
蘭子「……フッフッフ、案ずるでない。我が黙示録に刻まれた魂は不滅ぞ。されば隻眼の乙女よ、運命の慟哭がその身を貫く時を心して待つがよい」
美優「また来るって、ね?」
小梅「う、うん……」
美優は、蘭子が欲しがっていた物のうち(と言ってもほとんどの商品に興味を示していたが)、荘厳な装飾が施されたブックカバーを買ってあげた。
蘭子は大いに喜んで「慈悲深き聖母よ!」とはしゃいだ。
ちなみに慈悲深き聖母とは蘭子が名づけた美優のソウルネームである。
貴音「またのお越しをお待ちしております」
蘭子「闇に飲まれよ!」
その別れの挨拶を理解したかどうかは分からないが、貴音はニコリと笑って蘭子一行を見送った。
店の外に出ると、休日の空が眩しかった。
楓「面白い店でしたね」
蘭子「うん! また来よう……ね……?」
異変は唐突だった。
次の瞬間、蘭子はがくんと頭を垂れてその場に崩れ落ちそうになった。
「蘭子!」「蘭子ちゃん!」倒れかけた所を咄嗟に支える。
蘭子「あ……れ……? ……わたし……」
眠そうに目をパチパチさせて呂律も上手く回っていない。
美優「大変! ど、どうしましょう楓さん!?」
楓「落ち着いてください。まだ余力は残ってるはずです。まずは飲み物を飲ませてあげましょう」
美優は慌てて水筒を鞄から取り出すと蘭子の口にあてがった。
蘭子は少しずつ飲んだが、やがてそれも出来なくなり完全に目を閉じて眠ってしまった。
美優「蘭子ちゃん! 蘭子ちゃん!」
美優がまるで死んだ人の名前を呼ぶように叫ぶので、通行人が何人か声をかけるほどだった。
「大丈夫ですか?」「何かあったんですか?」「救急車呼びましょうか?」
そのたびに楓は「すみません、なんでもないんです」と言って遠慮した。
楓「美優さん、落ち着いてください。別に死んだわけじゃないんですから」
美優「で、でもピクリとも動かないんですよ!?」
楓「体力を温存してるんだと思います。少し寝かせておけばすぐ目が覚めますよ」
美優はこんな時に冷静沈着でいられる楓に少し腹が立った。
しかしドールの知識に疎い美優からすれば、ここでは楓の言っている事に従うべきなのだ。
楓「とりあえず、横になれるベンチとか休憩場所を探しましょう」
そう言って蘭子を背中におんぶして歩き始めた。
美優は心臓が張り裂けそうな気持ちでその後についていった。……
商店街の中央に広いフードコートがあるのを見つけたので、楓と美優は空いた席に蘭子を座らせて様子を見た。
しばらくして蘭子がふっと目を開いて起き上がった。
蘭子「あれ?」
美優「蘭子ちゃん! ああ、良かった!」
美優の困惑と喜びとは裏腹に、蘭子は何事もなかったようにキョトンとしている。
楓「さあ蘭子、お腹がすいたでしょう。たんとお食べ」
そう言って楓が持ってきたのは屋台で買ったクレープである。
美優にも一つ渡して、楓は疲れたように椅子にもたれかかった。
楓「ハンバーグ定食も頼んでおきましたからね」
蘭子「ハンバーグ!」
蘭子はあっという間にクレープをたいらげた。
本当にお腹がすいていたような食べっぷりだった。
ひとまず蘭子が元に戻ったようなので美優はほっとした。
定食が運ばれてくると、蘭子は美味しそうにモグモグと食べ始めた。
楓「無線送電と違って、食事というのはエネルギーに変換するのに時間がかかるんです。内部充電が足りない時に飲んだり食べたりすると、その消化のために一時的にスリープモードに入るんですよ」
美優「そうだったんですか……」
楓「この調子だと、ただ食べさせるだけじゃなく、もう少し工夫が必要かもしれませんね」
美優はさきほど楓に腹を立てたのを恥ずかしく思った。
楓は楓なりに蘭子を気遣っているのは当たり前なのだ。
お昼が近づき、辺りが混雑してきたので、3人は手早くランチを済ませ移動することにした。
蘭子も含めて相談した結果、寄り道せず先に目的地へ向かってしまおうという事になった。
蘭子は特にそれを残念がったりしなかった。
というのも、サイン会が行われるのはこの商店街で一番大きい書店だったので、本好きの蘭子にとっては夢にまで見た場所なのだ。
楓「書店っていうのも古風でいいものですね」
この時代では本を直接取り扱っている店というのは珍しい。
紙媒体の本そのものが淘汰されたわけではないが、基本的にオンラインショップで購入する場合がほとんどだった。
目的地は、他の店舗と比べて頭二つほど大きな建物だった。
『鷺沢書房』という小さなプレートが掲げてある。
一見何の変哲もないビルのようだが、なぜか周りの景観からひどく浮いているような印象がある。
商店街ができるずっと前からここに建っているような、歴史の重みを感じさせる出で立ちである。
先のRosenburgAlptraumという店も異質だったが、こちらはもっと別な意味での異質さを放っていた。
美優「この建物の中が全部その書店なんですか?」
楓「そうみたいですね。小説、漫画、専門書……それぞれ階によって分かれてるみたいです」
蘭子「早く行こう!」
蘭子は今にも駆け出しそうな勢いで2人の手を引っ張って行った。
中に入ると、そこは魔窟さながらの迷宮だった。
目もくらむようなおびただしい本の数々である。
天井付近まである本棚、人がやっとすれ違える程度の細い通路、
そして馴染みのない独特の香りが充満していたので、美優は圧迫感に息が詰まりそうになった。
蘭子もこの光景に圧倒されてしまい、もはやどうしたらいいか分からないといった様子で茫然と立ち尽くした。
下手に踏み込んだら二度と外へ出られないような気がした。
「本をお探しですか」
どこからともなく声が聞こえた。
キョロキョロと見渡すと、本棚の影に小さな利発そうな少女が立っているのが見えた。
楓「いえ、特に本を探しに来たわけではないんですが……」
「ああ、二宮飛鳥先生のイベント参加者ですか」
蘭子「は、はい!」
「でしたら、建物の外から回った裏手に会場がありますので、そちらでお待ちください」
楓「分かりました。ありがとう」
楓と美優は会釈して外へ出ようとした。
美優「蘭子ちゃん、行きましょう……蘭子ちゃん?」
突然、蘭子が何かに取り憑かれたようにふらっと奥へ歩いて行った。
そして気がついた時にはもう迷路の中に見失っていた。
美優「蘭子ちゃん、本は後でー……」
美優が追いかけようとした瞬間、「待って!」と少女に呼び止められた。
「迂闊に入ると本当に出て来られなくなりますよ」
美優「…………?」
少女はやれやれと言いたげに溜息をついた。
「困りましたね。今ここに迷い込まれるとかなり面倒なんですが……」
美優は少女の言っている意味が分からず、再び蘭子を探しに行こうとしたが、またしても少女が阻もうとしたので、
美優「もう、どういうことですか? なんで中に入っちゃいけないんですか? そもそもあなた、誰なんですか?」
「私は橘といいます。この本屋の案内人です」
楓は、この橘という少女がふざけているわけではないと直感で分かった。
口を尖らせて不満そうな美優に代わって、今度は楓が相手をした。
楓「あの子を連れ戻さないといけないんです」
橘「私も出来ればそうしたいんですが、今はちょっとタイミングが悪いんです。まあ、どうしてもというなら、出来る限り私が案内しますが……」
楓「じゃあ、どうしても」
少女は顔色ひとつ変えず、「分かりました。では私についてきてください」と言って楓と美優に手を差し伸べた。
2人はお互いに目を合わせて、釈然としないながらも渋々ついていくことにした。
少女に従って中に踏み入ると、2人は狐につままれたような気持ちになった。
確かに迷宮なのである。
通路の突き当たりを曲って歩くとまた別の通路に突き当たり、自分たちが今この建物のどこに居るかも分からない。
橘「お客様はどちらもご来店は初めてですか?」
美優「は、はい」
橘「それなら説明しておきましょう。この本屋は日々刻々と変化する迷路のような構造をしています。そのメカニズムは店長も完全に把握しきれていないので、たまにこうやって迷子になるお客様がいるんです」
美優「???」
橘「そういったお客様や、あるいは特定の本を探しているというお客様を案内するために、私がいるわけです」
楓「ということは、橘さんは迷路の構造は知っているんじゃないですか?」
橘「普段は基本的にどこでも案内できます。ただ、稀に本たちが本格的に動く時期があり、そうなると私でもほとんど全容を把握できません」
楓「本だけに、本格的……ふふっ」
美優「笑ってる場合じゃないですよ! つまり今がその時期ってことなんですよね?」
橘「そういうことです。実はさっき、私もようやく出口に辿り着いたところだったんです。それなのに……」
と言った所で、少女が「あっ」と思い出したように声を上げて立ち止まったので、楓と美優は危うくぶつかりそうになった。
橘「臨時休業の看板を出すのを忘れてました。イベントの案内板も……」
物凄く落ち込んでいる。
楓と美優はなんだか悪い事をしてしまったような気分だった。
美優「ごめんなさい、忙しい時に邪魔しちゃって」
橘「お気になさらないでください。まあこうなってしまった以上、犠牲者が増えないことを祈るばかりです……」
疲れたように言うのだった。
……しばらく歩いて、階段を上り、また歩いて階段を上り、本当にこのまま蘭子を見つけられるのか心配になった頃、
橘「つきました。たぶんここに居ると思います。たぶん」
そう言って指差した先は、ひっそりと壁に張り付いているような扉だった。
楓が扉を開けると、そこもやはり本に埋れた部屋だった。
しかし今度は迷路ではない。書斎のような場所である。
蘭子「かえでさん!みゆさん!」
少女の言った通り、積み重なった本の後ろから蘭子がひょっこり顔を出して2人の元に駆け寄った。
美優は安堵の溜息をつき、それから叱った。聖母といえど叱る時は叱るのである。
美優「蘭子ちゃん! もうっ、勝手に歩いて行っちゃ駄目でしょう」
蘭子「ごめんなさい……」
楓「まあまあ、蘭子も悪気があったわけじゃないですし」
オホン、と空咳が聞こえた。
見ると、窓際に人影があった。
その横に少女がかしこまったように立っている。
存在感がまるでないので楓も美優も気がつかなかったが、大人の女性である。
橘「紹介します。こちらが『鷺沢書房』の店長、文香さんです」
文香「この度は私どもの本屋がご迷惑をおかけしたようで、誠に申し訳ございません……」
深々と謝罪され、美優はかえって萎縮した。
美優「こちらこそ、忙しい時にお邪魔してしまったみたいで……」
文香「ありすちゃんも、ありがとう」
橘「私にかかれば、これくらいどうってことありません」
フフンと鼻を鳴らして得意気である。
楓「すごい。どうして蘭子がここにいるって分かったんですか?」
すると橘……橘ありすは得意気な顔を強張らせて一瞬ぎくっとした。
そして何やら恥ずかしそうにモジモジして答えるのだった。
ありす「……と、とりあえず文香さんの所に来れば何か分かるかなって思って……」
楓(当てずっぽうだったのね……)
ありす「あっ、いま少し呆れましたね!? 違います、ちゃんとした理由もあるんです!」
なぜか怒るのである。
ありす「この人……蘭子さんでしたっけ? この蘭子さんがふらっと中に入って行った時、少し様子がおかしかったんです。何か虚ろな感じで……こう、本人の意志とは無関係に本に誘われるような、そんな感じで」
蘭子「あのっ、その……わ、私も気がついたらいつの間にかこの部屋にいて……自分でもよく分からなくて……」
蘭子は弁明するように言った。
ありすが続けて説明しようとしたが、上手く言えなさそうにまごついていた。
文香が口を開いた。
文香「ほんの稀にですが、迷い込んだ人のうち、何人かは夢遊病のようにここへ辿り着くことがあるのです。普通、この書斎に来ることができるのは案内人……つまり店員だけなのですが、空想の世界にその人生の根を下ろしている人や、情報そのものに何か信仰心のようなものを抱いている人などは、この書斎に……つまりこの本屋の中心部へ自然と誘われてしまうそうなのです……」
楓「……この本屋は、この建物は一体、なんなんですか?」
痺れを切らして楓が質問した。
不思議な現象には慣れていたが、こんな店は聞いたことがない。
文香「ここは断片化された情報が群を成し自律的に変移、成長していく巨大な細胞の中……いわゆるスペースネットの始まりの地と言われています」
文香「元々、ここは図書館でした。遥か昔、全国的な図書館民営化の流れで、いくつもの価値ある図書が利益至上主義のもとに淘汰され、それを見かねた私の祖父がこの街の図書館を買い、こうして人類の共有財産である知的文化の保存を目的とした書店が作られました。それ以来、鷺沢の者が代々ここの経営者を務めています。
文香「しかし父の代で、この書店に異変が起こりました。どんなに本を並び替えても、次の日には別の場所に本が移動しているという現象が頻繁に起きるようになったのです。次第にそれは日毎ではなく時間毎、分毎に変わり、さらには本棚や店の構造まで変化してゆき、いつしかこの店は誰にもその全容が分からない迷宮と化してしまいました。
文香「さらに、いつの間にか注文した覚えのない本が並んでいたり、明らかに建物のスペースに収まりきらない長い通路が出来ていたり……建物の枠を超えて、本と空間が無限に増え続けていったのです。そんな奇怪としか言いようのない事態が次々に起こるので、とうとうある日、内部の本格的な調査が行われる事になりました。
文香「その時は私もまだ小さかったのであまり覚えていないのですが、中に入って行った研究者のうち、数人はまだ行方が分かっていないそうです。当時の店の中はまだそこまで複雑ではなかったらしいのですが……ただ、そうやって本棚の迷路に閉じ込められてしまった研究者たちに共通していたのは、みんな活字を食べて生きているような本の虫だったという……すみません、これはあまり本筋とは関係のない話でしたね。
文香「それから幾たびに渡って調査と研究が為された結果、当時開発されていた量子基盤のコアモジュールにある内部個有振動と、書店にある本棚と本の変移の周期的特徴が一致するという謎めいた関連が見られるようになりました。
文香「そして、この建物、この書店を観測所とし、情報の自己組織化、それらネットワークの自律的代謝、そして無限に広がっていく有界性カオス論的構造を元に、スペースネットの初期モデルが作られたのです。
文香「……ええ、厳密には今の共感覚空間とはまったく別のものです。実際、人々の意識を土台に成り立っているスペースネットと違い、この迷宮を作り出しているのは情報そのものなのですから。しかしそれも要するに、肉体が意識を生み出すか、意識が肉体を生み出すかの違いでしかありません。結局、本質的な部分では大して変わらないのだと思います。そう、例えば人間とドールのように……
――……楓たち3人は、ありすに案内されて無事に外へ出ることができた。
ありす「お客様はツイてます。文香さんのお話を聞けるなんて」
美優「う~ん、私、聞いてたらなんだか頭が痛くなっちゃいましたけど……」
蘭子「わ、私も……」
ありす「文香さんはたまに難しいことを言いますが、それは我々がその域に達していないだけなんです。私も、もっと精進しなければなりませんね」
結局ありすもほとんど分かっていないのである。
ただ一人、楓だけは文香の言っている事をなんとなく理解していた。
この店、この建物は、あらゆる本が集まるネットワークの中で生まれた意識の、その肉体なのだ。
本という断片化された情報が生き残るために、本屋という肉体を動かしているのだ。
ここに立ち入る客は、本を買うために訪れるのではなく、本が世界に種子を撒くために誘い込んだ働き蜂なのである。
そして、蘭子がこの店の中へ無意識に誘い込まれた理由も、楓には分かったような気がした。
この生きる本屋は、つまりドールと同じなのだ。
情報が肉体を動かしている。
ドールの場合のそれは、情報の海、つまり共感覚空間から生まれた意識である。
楓(でも、それって結局、人間も同じなんじゃないかしら?)
卵が先か、ニワトリが先か。
楓はそんな事を考えながら、ふと思いついてありすに質問した。
楓「そういえば橘さんは、どうしてこの迷路を案内できるんですか?」
ありす「本の声に耳を傾けるんです。そうすると段々、本たちの考えが分かるようになって、それから……」
少し悩んで、そして適切な表現が思い浮かんだように顔を上げると、
ありす「地図を作るんですよ。本たちが織り成すネットの、地図を」
◇ ◇ ◇
さて、ようやく本当の目的地である。
ありすや文香と話し込んでいる間に、会場にはすでに多くのファンが集まって列を成していた。
蘭子「こ、これに並ぶの……?」
途端に萎縮してしまう蘭子を励ましつつ、美優も内心では呆気にとられていた。
人数が多いという事ではない。むしろその点では想像していたより小規模な気がした。
問題なのは、そのファンたちの格好である。
列の中には、蘭子よりどぎついファッションをしている少女も少なくなかった。
二宮飛鳥の作風からすれば、そのファン層というのも自ずから癖の強い猛者が集まるものである。
美優も彼女の漫画を読んだことがある。
耽美、難解、退廃を極めたような作風は、確かに比類のないものに違いなかったが、それを理解できる読者というのもまた限られるように思われた。
その選ばれし者たちがここに集っているのだ。
疑問の余地なく、当然のように全て女性である。
中には美優よりも年上らしい人もいた。
美優「そういえば、楓さんは?」
蘭子「あそこに居るよ」
見ると、列から少し離れたところで手を振っている。
蘭子「3人も並ぶ必要ないでしょう、って」
逃げられた、と美優は思った。
本当に抜け目ない人である。
そんなお祭りのような列に並んで数分後、飛鳥が会場に到着し、黄色い声援を受けながらサイン会が開催された。
蘭子は初めて見る憧れの漫画家を見て興奮していた。
手にはサインしてもらうつもりで用意した単行本を大事そうに抱えている。
美優は蘭子の体力を心配したが、思ったより列の進みが早かったので、水筒の栄養ドリンクを一口飲ませている間にはもう飛鳥の姿が近くに見えてきた。
そして、とうとう蘭子の番である。
間近で見る飛鳥は、なるほど只者ではないと思わせるような一種独特なオーラを放っていた。
何かをじっと見据えているような澄んだ眼差しの、その奥には何か深淵な思惑を秘めているような趣があった。
見かけは美優よりも年下に思われたが、飛鳥から漂う謎めいたプレッシャーは美優でさえ緊張してしまう程だった。
いわんや蘭子をや。
蘭子「あ、あのっ、い、いつも楽しく読んでますっ、ファンですっ」
ファンでなければこんな所には来ないのである。
というよりも、何を話すか事前に予行練習していたにも関わらず、蘭子はそれらをすっかり忘れてしまっていた。
対する飛鳥は、ちらりとも笑顔を見せずに「ありがとう」と言い、色紙にさらさらとサインを描いた。
義務的な動作である。
蘭子は手に持っていた単行本の存在すら忘れて、ただ固まって飛鳥の手の動きを見つめていた。
飛鳥「……それもかい?」
蘭子「はいっ!?」
飛鳥は蘭子が大事そうに抱えている本を指差した。
蘭子があわあわと震える手で差し出すと、飛鳥は慣れた手つきでイラストを描き添えた。
ぶっきらぼうに見えて案外サービス精神もあるのだ。
蘭子(何か話さなくちゃ……何か……)
蘭子の思考プロセスは、その回路の負担がある閾値を越えると言語野の機能がスイッチのように切り替わる。
これはドールというよりも蘭子という個の特徴であり、生活環境の中で学んだある種の自己防衛反応とも言える。
パチン。
蘭子「……クックック、天命より授かりし我がヴァルハラに煌く色彩を穿つ者よ……よもや煉獄の地にて相見えるとは、これも運命の悪戯か」
飛鳥は手を動かすのを止め、初めて蘭子をまじまじと見つめた。
美優は慌てて翻訳しようとしたが、今回は少し難解であった。
なんとなく無礼なことを言ったような気がしたので、謝ろうとした瞬間、
飛鳥「……へえ。キミのセカイにはそんな風に共鳴したのか」
ニヒルな笑いを口元に浮かべるのだった。
表情こそ冷めているが、とても嬉しそうだった。
蘭子「『共鳴世界の存在論』……かの悪魔の囁きが如く綴られた言の葉の真意、そして魂を打ち焦がすような黄泉の幻影、我が瞳に狂いはなかった」
ちなみに『共鳴世界の存在論』とは飛鳥のホームページ、個人サイトのことである。
飛鳥「キミにはボクの瞳に映るものが見えるとでも?」
蘭子「共鳴こそ真の歌……其方が教えてくれたのです」
飛鳥「参ったな……」
全然参ったように見えないのである。むしろ喜びを隠し切れないといった風であった。
2人の会話はヒートアップし、一人当たりの制限時間が過ぎても尚、会話が止まる気配がなかった。
美優「あ、あの……すみません、もうそろそろ……ほら、蘭子ちゃんも」
係員に注意されて蘭子を引き剥がそうとするが、2人は最後まで意味不明なやり取りを繰り返した。
飛鳥「キミとはまたいつか巡り逢えそうな気がするよ。それがセカイの選択した運命なら、ね」
別れ際、飛鳥が握手を求めるように手を伸ばした。
舞い上がってすっかり忘れていた蘭子は、震える手で固く握手し、そして名残惜しそうにその場をあとにするのだった。
楓「……おかえりなさい。楽しかった?」
蘭子「うん!飛鳥先生、すっごくかっこよかった!」
蘭子はこれ以上ないくらい満足気であった。興奮未だ冷めやらず、といった様子である。
一方、美優はわけのわからない疲労感にぐったりしていたが、
蘭子が楽しめたのなら、と思い気を取り直した。
美優「蘭子ちゃん、体の調子はどう?疲れてない?」
蘭子「ううん、大丈夫!」
蘭子はそう言うが、美優はあまり信用できなかった。
また先ほどのように唐突に電池切れ、といった事態もありうるのだ。
そんな風に安心できないでいる美優に楓がそっと耳打ちした。
楓「実は私、ずっと監視していたんですけど、なぜかこの付近は全然蘭子の体力が減らないんです。WETの電波は弱いままだし、IDOLのバッテリーはちゃんと減るのに……一体蘭子はどこからエネルギーを得てるんでしょう?」
もちろん美優に分かるはずはなかった。
美優「蘭子ちゃんが問題なさそうなら、それでいいんじゃないでしょうか? それより楓さんのIDOLの方が危ないんじゃ」
楓「ああ、それは今の所大丈夫ですよ。ちゃんと予備のバッテリーも持ってきましたから」
用意周到である。こういう所も抜け目ないのだった。
まだ午後は時間があるし、蘭子も元気そうだからと、美優はショッピングの続きを提案した。
蘭子はまた喜んではしゃいでいた。
そうして商店街を3人で歩きながら、楓は、あの『鷺沢書房』から離れるにつれ、再び蘭子の体力が減り始めたのを見逃さなかった。
ふと思い出したのは、文香のセリフである。
楓(活字を食べて生きているような人たち……)
情報生命体とでも言うべきあの建物である。蘭子の体力が減らない事と何か関係があるかもしれないと考えたが、次には考えても分からない事だと諦めた。
どのみち、楓の理解の範疇を大きく超えているのだ。
買い物はほとんど美優が行きたいような場所へ行くことになった。
蘭子とショッピングができると張り切っているのだ。あるいは美優が一番楽しんでいるのかもしれない。
そして服を選んだり試着しながら、蘭子もまた嬉しそうに笑ったりするのだった。
楓は蘭子の体力を気遣いながら、傍観者のように2人についていくだけだった。
そして途中、思いがけない偶然と会った。
楓「あら?あなた……」
美波「あっ」
あの時の入社志望者、新田美波である。
面接の時とは違ってラフなワンピースを着ているが、清楚で上品な佇まいからすぐにそれと分かった。
美波「あの時の……」
美優がそっと「お知り合いですか?」と聞いてきたので、楓は一応紹介した。
楓「以前、ウチの会社に面接にきた子です。名前は確か、えーっと……」
美波「新田美波と申します。その節は大変お世話になりました」
美優「こちらこそ、ウチの者がお世話になりまして……」
お互いにぺこぺこしているのを見て、蘭子が不思議そうに「なにしてるの?」と言った。
楓「女の腹の探りあい、ですよ」
美優に痛いほど脇を小突かれて楓は黙った。
美波はなんとなく気まずそうだった。
一度面接をしただけで、どちらもお互いの事を全く知らないのだ。
しかし楓はあまりそういう事情を気にしない。
何を話したらいいのか分からなかったので、美波はふと思ったことを口にした。
美波「ご結婚なされていたんですね」
美優は噴き出しそうになった。
楓「そう、そうなんです。実は結婚してたんですよ」
美優「何言ってるんですか!」
顔を真っ赤にさせて楓をポコポコ殴るのである。
「痛い、痛いですよ美優さん」
蘭子「けっこん?ってなに?」
楓「愛し合う2人が契りを結び人生を共に歩むことですよ」
蘭子はなんとなく納得した顔をした。
美優「違います。いえ結婚はそういう意味で間違いないですけど、私と楓さんはただの同居人ですから」
美波「あ、そうだったんですか。すみません、早とちりして……」
こうした勘違いをした美波を変に思ってはいけない。
この時代では同性婚はごく当たり前に行われている事なのだ。
美波「お二人の娘さんかと思って、てっきり……こちらは妹さんですか?」
楓「ああ、この子はドールですよ」
なんでもないようにさらりと言ってのけたが、美波はかなり驚いたようだった。
美波「話には聞いたことありましたけど、実物を見るのは初めてです……!」
そう言ってまじまじと蘭子を観察するので、蘭子は恥ずかしがって美優の影に隠れようとした。
そういえば、蘭子をドールだと紹介するのはこれが初めてかもしれないと楓も美優も思った。
美優はなんとなく、蘭子の正体をドールと明かすのは危険ではないかと考えたが、具体的にどういう問題があるのか思いつかなかったので、この場は流れに任せることにした。
美優「ほら蘭子ちゃん。自己紹介なさいな」
蘭子「……ら、蘭子、です」
美波「すごくよく出来ていますね……触ってもいいですか?」
楓「大丈夫ですよ。蘭子さえ良ければ」
蘭子がこくりと頷くと、美波は頭を撫でたり手を取って指先を眺めたりした。
美波「本当、人間とほとんど変わらないんですね。体温は無いみたいですけど……」
美優は、蘭子を可愛がってくれるのはともかく、珍しいものを見るような、好奇の目で興味を持たれるのはあまり良い気持ちがしなかった。
世間一般でドールがどういう風に見られ、思われているのか、この時美優は初めて実感したのである。
楓はそうした美優の心境を察して話題を変えた。
楓「新田さんはこの近くに住んでいるんですか?」
美波「いえ、そういうわけではないんですが、今日は遊びに来たんです」
楓「おひとり?」
美波「相方と2人で来てます。元々、そっちの親戚がここにお店を持っているので、それで」
楓「そうだったんですか」
そんな話をしていると、ちょうどその相方らしき人物が現れた。
腕に洋服が何枚か掛けられている。買い物途中のようである。
「ミナミ……?」
美波「あっ、アーニャちゃん。何か良いのあった?」
2人が会話している間、邪魔をしては悪いと思い、楓たちはその場を去ろうとしたが、美波は変なところで義理堅いというか真面目なので、その相方に楓たちを紹介しようとした。
美波「ああ、紹介が遅れてすみません。こちら私の相方のアナスタシアです」
アーニャ「はじめまして」
美波「アーニャちゃん、こちら……そういえばまだお名前を伺っていませんでしたね」
楓「高垣楓と、三船美優です。こっちが蘭子」
美優と蘭子がぺこりと会釈した。
美波は、本人に悪気は全く無いのだが、蘭子が世にも珍しいドールだという話をアーニャに教えようとした。
美波「あのねアーニャちゃん、この蘭子ちゃんっていう子、実は……」
楓「待って。待ってください。ストップ」
美波「?」
楓「えーっと、そのー……アナスタシアさんって素敵な名前ですけど、出身はどちらなのかしら」
強引に話を変えた。
アーニャ「アー、出身は、北海道です」
楓は一瞬、込み入った話になってしまうのではないかと身構えたが、小さい時にしばらくロシアに住んでいたというだけの話だった。
楓「お二人ともお似合いですよね。ご結婚されてるんですか?」
楓のこれは冗談というか、先ほどのお返しのつもりだった。
美波「はい。去年、籍に入りました」
楓「えっ」
思わぬ回答である。
美優「あら、そうだったんですか! それはおめでとうございます」
美波「ありがとうございます」
楓「でも新田さんってまだ学生でしたよね?」
美波「学生結婚です。まあ確かに、かなり珍しいとは思いますけどね」
そう言ってどこか気恥ずかしそうにはにかむのだった。
楓は少なからず動揺した。自分でもなぜかは分からなかった。
美優「卒業したら何の仕事をされるんですか?」
美波「え? ああ、私は一応、三池農場で働く予定です」
楓「あら受かったんですか。知らなかった」
美波「えっ」
美波は突っ込んでいいのかどうか分からなかった。
美優「楓さん、知らなかったんですか? もう……」
美優ですら呆れ顔である。
楓「なんですか、その目は。そりゃあ面接で合格させたのは私ですから、受かるのは当然だと思ってましたよ? ただ、内定をあげるかどうかは私でなく上が判断するので……」
美優は、言われてみれば、と思ったが、それでも面接を担当したのだから内定者くらい把握していてもいいだろう。
美優「すみません、こんな適当な人ですが……」
美波「いえいえ、私の方こそ、来年からよろしくお願いします。高垣先輩」
美波と美優がまたもやぺこぺこお辞儀しながら、3人と2人は別れた。
楓も美優も、それぞれ別の意味で気疲れした。
楓「……私、なんとなく思ったんですけど」
美優「はい?」
楓「美優さんと新田さんって、雰囲気が似てますよね。姉妹みたいな感じで」
美優「そうですか? あちらの方が私なんかよりしっかりしてると思いますけど……」
蘭子「うん。みゆさんとあの人、似てると思う」
蘭子まで同意するので、美優は「そうかなあ」となんとなく受け入れた。
楓「……結婚、ねえ」
楓はなんだか取り留めのないことばかり考えていた。
楓「ねえ、蘭子。私と美優さんは結婚した方がいいと思う?」
美優「ちょっと、楓さん……」
蘭子「みゆさんとかえでさんは、愛し合ってるの?」
美優は耳まで真っ赤にして何も言えなくなった。
楓「私は、美優さんの事を心から愛してるんですけどねえ」
蘭子「みゆさんは?」
美優「ばっ、ばっ、バカな事い、言わないでくださいっ。どうせまた適当なこと言ってっ」
蘭子「かえでさんは適当なの?」
楓「美優さんは恥ずかしがりやさんだから、こんな風に思ってる事と違うことを言っちゃうんですよ。本当は美優さんも私のことを愛してるんですから」
蘭子「じゃあ、結婚した方がいいと思う」
美優「2人ともからかうのはやめて!」
本当に怒り出しそうだったので、楓は蘭子の頭を撫でて話題を打ち切った。
3人はしばらく黙ったまま日が落ちそうになって赤みが差す商店街を歩いた。
美優「……そういえば楓さん」
楓「なんでしょう」
美優「蘭子ちゃんが、その、ドールだって事を、あんまり他の人に教えない方がいいと思うんです」
楓「……そうですね。どう考えても、その意見に同感です……ふふふ」
蘭子「?」
美優「こんなに私たちと同じ姿をして、私たちと同じように考えて、動いて……私には、人間もドールも、どっちも変わらないと思うんです。ここにいるのは蘭子ちゃんっていう一人の子供で……」
楓「……蘭子は、蘭子ですものね」
蘭子はキョトンとして楓たちの会話を聞いていた。
楓はそんな蘭子を見て、こう思った。
このドール……蘭子という個は、一体どこまで自分を自分と認識しているのだろう。
まだ自分に深く関心を持つような心を持っていないのか、あるいはそんな事は考えないように作られているのか……どちらにせよ、楓は、蘭子が自身がドールだと自覚した時、それをどんな風に受け止めるのかを考えると怖くなるのだった。
もし、蘭子が自分はドールだと認めなかったら……
もし、蘭子が自分は人間だと主張するようになったら……
ばかげている、と楓はかぶりをふった。
楓(そんなのは関係ないって、いま美優さんも言ってたのに……)
◇ ◇ ◇
それから数週間後、今度は遊園地に遊びに行った。
また別の日には温泉旅行に行った。
蘭子が行きたいと言うので、都心にある大きな美術館へ出向いたり、普段は縁がないようなブランドショップへ行ったりもした。
またある時などは絵画教室に通わせた事もあった。
蘭子は、日常的な生活や運動などは並の人間よりずっと覚えが良かったが、趣味の絵だけは一向に上達しなかった。
基礎的な事を学べば上手くなるだろうと思い、蘭子もそれを望んでいたので、しばらく美優が付き添って近所の小さな絵画教室に通わせたのだが、デッサンも写生もまるで上達の兆しが見えず、先生も手の施しようがなかった。
ただ、どんなに拙い絵を描いても、蘭子が楽しそうにしているのが救いだった。
本人も美優も、すぐに結果が出ないからと言って諦めるつもりはなかったが、家計にも余裕がなかったので、しばらく経って絵画教室は辞めることにした。
そして蘭子には友人ができた。
その絵画教室でよく一緒に絵を描いていた由愛という少女と仲良くなった。
教室を辞めた後でもたまに連絡を取って遊んだりしていた。
また例の商店街へよく遊びに行くようになり、そこで小梅やありすと友達になった。
蘭子の稼働時間の問題があったが、それは『鷺沢書房』を拠点にすることで解決した。
なぜかあの建物周辺は蘭子にとってのホットスポットのような役割を果していたのである。
蘭子の世界は急速に広がりつつあった。
そして、この事実が美優の頭を大いに悩ませた。
美優は、蘭子がもう充分一人でやっていけるという事を認められずにいたのである。
由愛とピクニックに行く時も、友達と商店街で買い物する時も、蘭子の傍には必ず美優が付き添うのだった。
蘭子がそれをどう思っていたかは分からない。
本来の年齢にしてみれば、いわゆる親の干渉をうっとおしいと感じるような心理があってもおかしくないのだ。
しかし蘭子はどこまでいっても従順で良い子のままだった。
美優の過干渉気味な行為は、そんな蘭子の大人しい性格に甘えているようで内心罪悪感があった。
むしろ依存しているのは自分の方なのではないかと思うこともあった。
そんな風に蘭子が外の世界と交流しているのを複雑な気持ちで見守っていると、美優はふと、自分が蘭子をどうしたいのか分からなくなる時があった。
蘭子には幸せになってほしい。その願いは絶対だった。
しかしドールにとっての幸せとは一体なんだろう。
成長もしない、そして今はまだ人間社会に関わることもできない、ドールにとっての"人生"とはなんだろう。
民間用ドールが作られるようになった本来の理由は、人口が激減し子孫を残すことが困難になった人間社会における社会的生存戦略の一環としての要員である。
いずれ世間に普及し人類を模倣したコピーとしての社会を築いていくのがドールの役目である。
しかしそれはあくまでマクロな長期的展望であって、蘭子という個とは何の関係もないのだ。
せめて近くに蘭子の仲間が……つまり他のドールがいれば、蘭子のこの孤独も少しはまぎれるのかもしれない。
そして美優は、その先にきっと蘭子の幸せがあるに違いないと思った。
蘭子が人間の友人と、人間の社会と深く付き合っていくのはそれからでも遅くはないのだ。
美優はこうして、蘭子が一人で外出することに反対するもっともらしい理屈を頭に思い浮かべながら、しかし一方ではそうやって自分の本心をごまかそうとしているという事も分かっていた。
美優は単に、蘭子が自分の元から離れて行ってしまうのを恐れているのだ。
この、母親というよりは父親が娘に対してするような切羽詰まった不安は、しばしば楓との口論の種になったりした。
楓「大丈夫ですよ。一人で外出させても、蘭子に何かあったらIDOLで調べればすぐに分かるんですから」
美優「何かあってからじゃ遅いんです。それにあの子がドールだっていう事が周りに知られたら、それこそ何をされるか分からないじゃないですか。あの子はまだ自分がドールだという事がどういう意味なのか分かってないんです」
楓「ちゃんと教えてあげればいいじゃないですか。蘭子、あなたは普通の人間とは違うのよ、って」
美優「よくもそんな残酷なことが言えますね!」
楓「残酷も何も、実際にそうなんだから仕方ないでしょう。それに、いずれ蘭子自身も気付くことです」
云々。
こういう時、最も尊重されるべきなのは蘭子の意見である。
2人は機会を見て蘭子に尋ねてみた。
楓「蘭子は、美優さんがいなくても一人で外を歩ける?」
蘭子「……うん。たぶん」
楓「友達と遊ぶ時、美優さんが邪魔だなあって思ったことはない?」
美優「ちょっと。その言い方は酷くないですか?」
蘭子「そんなことないよ。ゆめちゃんもこうめちゃんも、みゆさんの事好きだって」
美優はホッと胸をなでおろした。
しかし楓はまだ納得していなかった。
楓「でもね蘭子。蘭子はもう立派な女の子だから、そろそろ一人で色々できるようにならなくちゃいけないと思うの」
蘭子「そうなの?」
楓「そうなんです。いつまでも美優さんに迷惑をかけちゃいけないでしょう?」
蘭子「みゆさん、迷惑だった……?」
美優「全然迷惑なんかじゃありません。これは保護者としての私の義務なんですから」
楓「……蘭子は、どうしたい?」
蘭子「わ……私は…………」
蘭子は楓と美優を交互に見やりながら言葉に詰まった。
美優も楓も、この時はまったく自覚がなかったが、愛情に恵まれて育った子供にとって、親の対立に巻き込まれる事ほど残酷な仕打ちはない。
そこから先は、なんというかお決まりのパターンである。
「どっちでも……」と答えれば「蘭子が決める事なの」と詰め寄られ、かと言って楓と美優のどちらかを選択するような不公平は蘭子には耐えられなかったし、そもそも決断するほどの意志など最初から無かったので、あとはもう黙っているしかないのである。
そんな虚しい詰問と沈黙の末、蘭子の目に大粒の涙が見えた頃にはもう遅く、とうとう嗚咽を上げて泣きじゃくり始めてしまった蘭子に、2人は猛省しつつひたすら謝り倒すのだった。
ある意味では、一般的な家庭によく見られるような微笑ましいトラブルである。
しかし蘭子は普通の子供ではないのだ。
確かに美優の言う通り、蘭子が本当の意味で自立するために解決しなければいけない問題が多かった。
そして美優も楓も、今はまだ無垢なままの蘭子を一体どうしてあげるのが正しいか分からずにいた。……
そんな折のことである。
蘭子にとって転機となるようなイベントが起きた。
ある日、楓がいつものように仕事をしていると、楓の上司である渋谷部長からこんな話を持ちかけられた。
「ちょっと、高垣くん」と人目を憚るように声をかけられ、何事かと思い聞いてみると、
渋谷「今度、ウチの卯月と会ってみないか? 君のところの……蘭子くんだっけ? その子も一緒に」
楓は虚をつかれて一瞬ぽかんとした。
部長が言うには、どうやら彼も卯月というドールについて色々苦心している部分があるという事だった。
そこで同じドールを持つ者として、何か懇親会のようなものを開かないかという話である。
楓「……帰ったら、蘭子に聞いてみます」
渋谷「よろしく頼むよ。ウチのかみさんがもうストレス溜まっちゃって、最近俺に八つ当たりしてくるんだ」
渋谷部長は屈強でたくましい中年男性だが、なぜか女性にめっぽう弱い。
見た目の硬派な雰囲気に反して、花草を愛する乙女のような心の持ち主である。
奥さんの尻に敷かれている様子が容易に思い浮かぶのであった。
帰宅し、美優にその事を報告すると、ひとまずは喜んでくれたようだった。
美優「私、ずっと考えてたんです。蘭子ちゃんには、まずドールの友達がいた方がいいんじゃないかって……」
楓「友達になれるかどうかは分かりませんけどね」
楓は蘭子にも話をした。
蘭子「うん、いいよ」
どんな人と会うかも分からないのに、蘭子はすんなりと頷いた。
以前の蘭子なら、知らない人に会うような事があれば少しは怯えたりもしたのに、今やすっかり臆病な性格を克服したようである。
美優「それで、懇親会というのはいつなんでしょう?」
楓「確か、この日です」
翌月のカレンダーを見ながら指差した。
そして、「あっ!」と悲鳴のような声を上げた。
まるで宝くじが当たったような驚きである。
そして次には力なく頭を垂れて、自嘲するような笑みを湛えるのだった。
楓「……これ、なんの日か覚えてますか?」
美優「なんの日って、懇親会をするんでしょう? 渋谷さんと」
楓「違います、そうじゃなくて」
美優「?」
楓「……蘭子をお迎えしてから、この日でちょうど1年です」
奇しくも蘭子の誕生日、その日なのであった。
◇ ◇ ◇
1年前と同じ、冷え込んだ空気に星が綺麗な夜だった。
卯月「はじめまして! 私、卯月っていいます」
蘭子「えっと、はじめまして……蘭子です」
卯月「わあ! 私、自分以外のドールって初めてお会いしました!」
蘭子「わ、私もです」
卯月「これからよろしくお願いしますね、蘭子ちゃん!」
渋谷家主催の懇親会は、あるホテルの店舗を貸し切って行われた。
それもかなり高級なフレンチレストランである。
相手が想像していたより遥かに上流階級であると分かり、最初、美優は恐縮に身を強張らせながら挨拶した。
しかしその後、蘭子と卯月がお互いに挨拶を済ませ、さっそくドールの話題になると美優はすぐに渋谷夫人と打ち解けた。
「娘の凛がね、もう卯月のことになると本当に夢中になっちゃって……」
「確かに卯月ちゃん、とても可愛らしいですものね」
「それが困っちゃうのよ。前なんて卯月を学校に連れて行こうとして」
「え!?学校にですか?」「そうなのよぉ」
「それで、どうなったんですか?」
「卯月だけつまみ出されそうになったから、凛は怒って一緒に帰って来たのよ。バカよねぇ」笑い。
もちろんこの会話の場にも凛は同席していた。
始終不機嫌そうに椅子にふんぞり返っているのである。
そして何をしているかと思えば、楓や美優、そして特に蘭子をぎろりと睨みつけていたのだった。
楓(気が強そうなのは、お母さん譲りかしら)
蘭子は威嚇された小動物のように固まっていた。卯月はそんな凛の横でずっとニコニコしている。
会話は楓や渋谷部長も混ざって段々やかましくなっていった。
「そういえば今日は蘭子くんがお宅にやってきて丸1年らしいじゃないか」
「ええ、そうなんです。おかげさまで……」
「いやあ、めでたい。卯月はもうそろそろ2年経つんだっけか?」
「凛が入学した時に買ったから、それくらいかしらねぇ」
「最初、慣れるまで大変じゃありませんでしたか?」
「いんや、そんな事は全然。卯月はすごく物分かりがよくて良い子でなあ」
「こんな主人ですけど、ドールについては詳しいから、あまり手はかかりませんでしたわ。むしろ凛の方が大変で……」
云々。
大人たちの娘自慢、というよりもドール自慢大会が始まろうとしていたその時、凛がこっそり卯月に耳打ちするとおもむろに席を立った。
凛「…………あんたも来なよ」
蘭子「わわわ私ですかっ?!」
凛「他に誰がいるの?」
さながら不良に絡まれる哀れな女学生といった風である。
凛が卯月の手を引っ張って大人たちから離れたテーブル席に座った。
蘭子(うぅ……なんだか怖いよぉ)
向かい合って座った蘭子を、凛は相変わらず不満そうに睨んでいる。
卯月「凛ちゃん、お料理が来ちゃいますよ」
凛「そしたら取ってくればいいよ。どうせ貸切なんだし、どこに座っても同じでしょ」
蘭子「…………」
凛「あの人たちの話なんか聞きたくない。どうせ卯月のことを便利なお手伝いロボットか何かみたいに思ってるんだから」
蘭子「そうなの……?」
卯月「えっと、違うんです蘭子ちゃん。これはその……」
凛「卯月も卯月だよ。なんでも素直にハイ、ハイって頷いてばかり。たまには我侭を言ってもいいんだよ?」
卯月は困ったような曖昧な笑みを浮かべるのだった。
卯月「でも凛ちゃん、私本当にしたい事なんてありません。ただお父さんやお母さん、凛ちゃんと一緒に居られればいいんです」
卯月の言い方から、このやり取りはこれまでも何度も繰り返されてきた事が伺える。
凛は呆れたように溜息をつき、再び蘭子を見据えた。
凛「……それで、あんたが卯月の新しい友達ってわけ?」
蘭子「え? は、はい……たぶん……」
凛「ふぅん……」
凛がまるで品定めするように蘭子の顔を覗き込んだ。
凛「蘭子って言ったっけ? 本当にドールなの? ちょっと手貸してみて」
蘭子はほとんどカツアゲされる子供のような心境だった。
凛は差し出された手をぺたぺたと触ると、「確かにドールで間違いないみたいだね」と言って納得したように放した。
蘭子は、いつ凛に罵詈雑言を浴びせられるかビクビクしていた。
しかり凛が次に言った言葉は意外なものだった。
凛「そっか……まあいいや。蘭子、これから卯月のことよろしくね」
蘭子「へっ?」
凛「ただし」
今度こそ殺気立ったような凄みを放ちながら、
凛「卯月を傷つけたり悲しませたりしたら、私が許さないから」
蘭子は黙ってコクコクと頷くほかなかった。
卯月といえば、そんな凛の意外な態度に声を押し殺して笑っていた。
卯月「凛ちゃんったら、いつもこうなんです。私が誰かと会うたびにこうやって脅してるんですよ」
凛「卯月のためを思えばこそ、だよ」
卯月「でもね蘭子ちゃん。凛ちゃんは別に蘭子ちゃんのことが嫌いなわけじゃないんです。こんな風にツンツンしてるけど、根はとても優しい女の子なんですよ」
蘭子「う、うん……」
卯月は蘭子と違って随分おしゃべりなドールだった。
卯月は、自分が渋谷家に来てから過ごした思い出を蘭子に話して聞かせた。
家族に連れられて旅行に行った事。
凛と一緒に学校の勉強をした事。
凛の母に教えられて料理が作れるようになった事。
初めて凛と一緒にカラオケに行ったときの事。
そして音楽が好きになった事。
卯月「あと、階段から落ちて大怪我したこともありました」
蘭子「大丈夫だったの……?」
ちなみにドールにも痛覚はある。
蘭子はそこまで大きな怪我をしたことはなかったが、体をぶつけたり軽く転んだりした程度の痛みは経験があった。
卯月「痛かったですけど、それより凛ちゃんがすごく慌てちゃって」
凛「あの時は……だって……」
卯月「お父さんがすぐにメーカーに連絡を入れて応急措置してくれたので、あまり大事にはなりませんでした。それで私、その時はじめて凛ちゃんが泣いてるのを見たんです。大声で私の名前を叫んで……」
凛「ちょっと卯月!今そんなこと言わなくてもいいでしょ」
卯月「えへへ……でも私、なんだかすごく嬉しくて……正直、記憶も少し曖昧なんですけど」
凛「あの時は強制スリープに入ってたから、傍から見たら本当に死んでるようにしか思えなくて、それで……だいたい卯月がどんくさいのが悪いんだよ」
卯月「そうなんです。私、ドールなのに少しドジな所があって、よく転んだりするんですよ。蘭子ちゃんはそういう事はないんですか?」
蘭子「私は特にそんなことは……」
卯月「お父さんは、安物ドールだから欠陥の一つもあるだろうって言ってました。やっぱりそうなのかな?」
凛「欠陥なんかじゃない!」
凛が激昂した。
凛「卯月をそんな物みたいに扱うなんて許せない。蘭子、あんたはどうなの?」
蘭子はいきなり意見を求められてびっくりした。
何を言えばいいか分からなかったので、とりあえず思った事をしゃべった。
蘭子「みゆさんもかえでさんも、私を物みたいに扱ったりしない……です」
凛「本当?」
蘭子「ほ、本当です!」
物みたいに扱われるというのがどういう事なのか、蘭子にはいまいち分からなかった。
ただ、それが酷い事らしいというのは理解できた。
蘭子は、楓にも美優にも酷い事をされた覚えがなかった。
凛「……なら……べつにいいけど……」
楓「こんな遠くでガールズトーク……ふふっ♪」
凛「うわっ!?」
いきなり背後から話しかけられて凛は椅子から転げ落ちそうになった。
楓はクスクスと笑っている。
楓「どんなお話してたのかしら?」
凛「あ……あんたには関係ない」
楓「あらあら」
卯月「り、凛ちゃん! そんな言い方駄目ですよ、相手の方に失礼です!」
凛「卯月は黙ってて」
近寄れば噛み付かれそうな勢いである。柴犬ならぬ渋犬。
しかし楓は動じなかった。
楓「お邪魔しちゃったみたいですね。でも、そろそろ戻らないとお料理が冷めちゃいますよ」
卯月「ね? 凛ちゃん」
凛「……分かったよ」
卯月に説得されるような形で凛はテーブルを移った。
楓はこっそり蘭子に聞いてみた。
楓「……それで、本当はどんなお話してたの?」
蘭子「うん? えっと……凛さんが、卯月さんをよろしくって。あと、卯月さんと凛さんが仲が良いっていう話」
楓「ああ、そういう……」
正直なところ、凛に何か辛辣に当たられたのではないかと考えていたが、思い過ごしだったようで拍子抜けした。
渋谷夫妻の口ぶりから、一人娘の凛という子は悪意こそないものの、思春期にありがちなある種の純粋さが周囲に対する敵意として現れているという印象があったのだ。
友好的なだけでない人間関係があるという事を蘭子に知ってもらうという意味では、楓はむしろ凛の存在は都合がいいとさえ思っていたが、どうやら想像していたのとは少し違うらしい。
楓の直感では、この凛という排他的な少女の青春は、卯月というドールによって育まれ、そして卯月によって強烈に縛られているように思われた。
凛は卯月を管理しているつもりで、しかし実際は卯月にコントロールされているという無自覚な相互依存である。
この滑稽さはある意味では姉妹のそれに似ていた。
もっとも、兄弟姉妹を持つのが極めて珍しいこの時代において、姉妹らしいという感想は楓のイメージにすぎなかったが。
「おお、やっと主役2人が戻ってきた」とは渋谷部長の言葉である。
凛はそんな父の白々しさにうんざりした。
主役を忘れて話し込んでいたのは誰だとでも言いたげな表情である。
改めて乾杯の音頭をとると、凛はまた下世話な話が続くかと思い嫌になったが、流れは予想外な方向へ進んだ。
楓「蘭子。お誕生日、おめでとう」
そう言って楓が取り出したのは、真っ赤なリボンでラッピングされた一冊の本だった。
楓に促されるままプレゼントを手渡され、最初は何のことか分からずにいた蘭子も、恐る恐るリボンを解いて中を見ると、その表情に閃いたような理解と歓喜の色を爆発させた。
それは、ある往年の有名作家が晩年残した画集である。
蘭子はその希少さと価値を知っていた。同時に、欲しいと願っても自分には決して手の届かないものだという事も。
美優「蘭子ちゃん、私からも……これ」
ほとんど困惑に近い喜びの中で、次に蘭子の手に置かれたのは金と銀の装飾が派手な重たい箱だった。
黒くざらついた表面には『Rosenburg Alptraum』と刻まれている。
中には、蘭子があの時欲しがっていた漆黒色の羽ペンとレターセット、その他凝った作りの小物が入っていた。
蘭子は今日、自分がこの世でもっとも幸せな存在なのだと思った。
そして、この喜びを自分だけが独り占めするのは良くないことだと思った。
しかし蘭子は他人と幸せを共有する方法が分からなかった。
だから、とにかく今はこの喜びを全力で表現しようと思った。
それは結果として、周りの人たちすべてを幸せな気持ちにさせた。
こうした蘭子の初々しい喜びを目の当たりにして、あの凛までもが優しい感情を心の裡に蘇らせた。
「小梅ちゃんと一緒に選んだんですよ」
「蘭子ちゃんは絵を描くのがお好きなんですってねえ」
「ほお、すごいな。ドールは創造分野が苦手と聞いたことがあるが、そうとも限らないんだなあ」
「蘭子ちゃん、良かったですね!」ニコニコ。
「この本? これはありすちゃんに協力してもらって探したんですよ。後でお礼を言わなきゃいけませんね」
云々。
凛は考えを改めた。
この蘭子というドールは愛されるためにここに存在しているのだと悟った。
羨ましいと思った。
この血の繋がっていないはずの3人には、家族よりも家族らしい絆があった。
急に、自分だけがこの幸福な空間から取り残されたような気がした。
凛がいつも立ち返って考えるのは卯月のことである。
己の笑顔の価値も分からず、己の幸せも求めようとしない哀れな人形のことを考えると、凛はそんな卯月に何もしてやれない自分を呪い、そして卯月の哀れさに怒りすら覚えたりした。
凛のこうした心理には、真実をそのまま語っている聡明さが備わっていると思われるだろうか?
実際、これらの感情のメカニズムは、ある種の若さと未熟さがもたらす誤解によるものである。
つまるところ、凛の家族にはその家族にしかない絆が、卯月には卯月の幸福が、凛にはまだ見えない場所にまさしく存在していたのだった。
幸福より不幸に親しみやすい凛の年齢は、自分が恵まれていない人間だと錯覚しがちである。
そして、この誤解は蘭子にとって都合が良かった。
凛は、この人たちなら卯月を本当に理解してくれるかもしれないと考えた。
敵意はすっかり消えて無くなっていた。
卯月「……凛ちゃん?」
凛「うん?」
卯月「どうしたんですか? さっきからボーっとして」
凛「いや……なんでもないよ。それより卯月、蘭子の事、どう思う?」
卯月「とても可愛らしくて、綺麗な人だなあって」
凛「うーんと、そうじゃなくてさ……羨ましいとか、思ったりしないの?」
卯月「え? 羨ましい……って、なんですか?」
凛「……そっか。卯月は、そうだよね」
卯月「?」
渋谷夫妻がしきりに蘭子に話しかけている。
時折美優が助け舟を出しながら、蘭子は一生懸命質問に答えていた。
卯月がその横に座ってニコニコと話を聞いていた。
「いつもどんな本を読んでいるの?」
「えっと、クトゥルフ神話とか……あと、二宮飛鳥先生の漫画とか……」
「聞いたことない名前だな」
「あっ、その、他にもファンタジー小説とか」
云々。
楓がそんなやり取りを横目に一人でワインを飲んでいると、凛が改まった様子で話しかけてきた
凛「…………あの」
楓「あら、お酒は未成年はダメですよ」
凛「いや、そんなつもりじゃ……」
楓「でも、ワインは実は体にはいいんですって……ふふふ」
凛「はあ……じゃなくて! その……さっきは生意気なこと言ってごめんなさい」
楓はむせ返りそうになった。
笑いそうになるのを堪えながら、凛の言葉の続きを待った。
凛「卯月のこと、よろしくお願いします。私だけじゃ、卯月を幸せにしてあげられないから……」
楓「本当にそうかしら?」
凛「…………」
楓「まあ、気持ちは分からなくもないですけどね。私もよく考えます……蘭子にとっての幸せって何なんだろう、って」
凛「……十分、幸せそうに見えるけど」
楓「今はね。でも蘭子の人生にとっての喜びは、与えられるものだけじゃないと思うの」
楓「蘭子には、与えられるだけじゃない、与える喜びを知って欲しいなって……そんな風に思うんです」
凛は、自分が卯月に望んでいるのがまさにその事だと感じた。
しかし具体的にどういう意味なのかは分からなかった。
楓「そうですねえ。例えば人間なら、仕事で成果を上げたり、あるいは子供を生んで子孫を残す事だったり」
凛「ふーん……でもさ、卯月はやれって言われた事しか出来ないし、子供を生むこともできないよ」
楓「でも、人を幸せにすることは出来る。蘭子が私や美優さんを幸せにしてくれたように」
凛「よく分かんないな。じゃあ蘭子は与える喜びっていうのを知ってるんじゃないの」
楓「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない……結局、私たちはその時が来るまで見守っている事しか出来ないんですよ」
要領を得ない会話はここで打ち切られた。
渋谷部長が「高垣くん!」と呼びつけてドール談義に混ぜようとしたのだ。
楓が少し酔いの回った頭で空返事し、席を移ろうとした時、
凛「あの、後で連絡先を教えてください」
楓「構いませんよ。ああ、でも私が酔いつぶれたら美優さんに聞いといてくださいね」
ふらふらとワイン片手に立ち上がるのだった。
入れ替わりに卯月が戻ってきた。
卯月「凛ちゃんも、蘭子ちゃんのお話聞かないんですか? とっても面白いですよ」
凛「興味ないよ。私は卯月の話が聞きたい」
卯月「私の話、ですか?」
凛「うん。卯月が好きな事とか、卯月がいつも考えてる事とか」
卯月「私は、凛ちゃんの事が好きです! あと、凛ちゃんの歌も、大好きです!」
凛「…………バカ」
凛は照れ臭さをごまかすように手近にあったグラスを掴み取って中身を飲み干した。
卯月「あっ、それお酒……」
凛はベタな酔い方をした。いわゆる甘え上戸である。
凛は酔いに任せて卯月に接近し、自分がどんなに卯月を大切に思っているかを訴えた。
卯月はひるまなかった。凛のしたいままにさせていた。
そして最終的に、卯月が膝枕をしてやることで落ち着いた。
時間にしてものの数分の早業である。
そうして卯月と凛が2人だけの世界に浸り始めた一方、大人たちはもはや蘭子の話題から遠ざかって大人たちだけの会話に興じていた。
蘭子はしゃべり疲れたので黙ってその中に居た。
正直、早く帰ってプレゼントの画集をじっくり眺めていたいと思いながら、それでも我慢して手持ち無沙汰にジュースを飲んだりしていた。
次第に蘭子はうつらうつらして舟をこぎはじめた。
ドールが睡眠を必要とする場面は色々あるが、この時の蘭子は特に、心の中に増えすぎた感動の処理と、そうした記憶の整理のために休息を求めていた。
そして美優が気付いた時にはもう、蘭子は深い眠りについていた。
その腕に大事そうにプレゼントを抱えたまま。
「そろそろお開きにしよう」という渋谷部長の言葉で解散になった。
蘭子が中々起きようとしないので、美優がおんぶして持ち帰ることになった。
「おい凛、なんだお前酔っ払ったのか?」「うるさいな……」
「凛ちゃん、もう帰る時間ですよ」「うん……」
「ほら卯月も言ってるだろう、行くぞ」「耳元で大声出さないで」
「起き上がれますか?」「卯月が起こしてくれなきゃヤだ」
「甘えるんじゃない」「うるさい」
こんな具合で渋谷部長は娘の反抗期に為すすべがないのであった。
結局、足元のおぼつかない凛は卯月が傍に寄り添って歩くことになった。
楓「卯月ちゃん、後で凛ちゃんにこれを渡してくれる?」
卯月「なんですか?これ」
楓「私と蘭子の連絡先ですよ。もし今IDOLが出せるなら、そっちに直接登録させるんですけど」
すぐ隣にいる凛はもはや眠りこけそうである。
酒には弱いタイプらしい。
楓「私じゃなくて凛ちゃんが酔いつぶれるなんてね」
美優「卯月ちゃん、今日はどうもありがとう。あんまりお話できませんでしたけど」
卯月「いえ、私も楽しかったです」
美優「今度は卯月ちゃんのお話も聞かせてね」
卯月「はい!」
卯月はまったく疲れた様子も見せず、笑顔で美優たちを見送った。
渋谷部長から帰りのタクシー代を渡されそうになった時、美優が「悪いです、そんなの!」と遠慮して憚らなかったが、「美優さん、家まで蘭子をおぶって行くつもりですか?」という楓の一言でありがたく頂戴することになった。
別れた後、タクシーを待つ間、楓はふと振り返って渋谷家の歩いていく後姿を見つめた。
甘えん坊の凛に寄りかかられたまま歩く卯月が、夫妻と何やら楽しそうに話している。
そこには凛が言うような、人間と人形を隔てる冷たい温度など何処にも見えなかった。
そこにあるのは家族である。卯月は間違いなくあの家族の一員なのだ。
大人たちは、ただ人間と人形にあるべき区別とその境界線をわきまえているだけなのだ。
そういう意味では、卯月はドール本来の役割を忠実に果たしているような気がした。
家族を模倣し、代替するための擬似社会的な生態系、それが人類という種と巧みに融合しようとしている。
これは見方によれば、アンドロイドによる恐怖の侵略計画である。
しかし前世紀、立て続けに世界大戦を経験した人類は、そこで破壊しつくされた環境、生物、そして遺伝子を再び自然に戻そうとするにはもはや手遅れだという事に気付いた。
汚染された大地に生きることを余儀なくされた人間たちは、種を残すという生物の機能をも失ってしまったのだ。
代わりに医療技術が革新的発展を遂げた。あらゆる病の治療が可能になり、150を超えて生きる人間も珍しくなくなった。
生殖機能がまだ残っている数少ない男女は特別な社会保障を受け、精子バンクおよび卵巣バンクの登録を義務付けられた。
また地球規模で染色体変異が広がり、男性の数が減ったため、細胞培養による人工胎児が流行った。
つまり同性のつがいで子供を生むことができた。
しかしこれらのどんな方法をもってしても、今の人類には穏やかな滅亡の未来を避けることができずにいた。
だから、生物としてではなく、もっと純粋な記録としての種を地球に残そうと考えたのである。
スペースネットはその手段の一つの足がかりだった。
そしてドールという存在は、そうした機械的能力と生物的役割を併せ持ったキメラ、人類の新たなイヴなのである。
……話が長くなったが、要するに、卯月のやり方は正しいのだ。
今はまだドールのすべてが世間に受け入れられているわけではないが、彼女はその垣根を越えようとしているのだ。
凛は、卯月というイヴを得てこれから先、誰も見たことのない世界を作るだろう。
そして、それこそが、蘭子がもっとも必要としている世界なのかもしれない。
楓はタクシーに揺られながらぼんやりそんな事を考えていた。
…………。
――以降、この懇親会をきっかけに、卯月と蘭子は親しくなった。
というよりむしろ、凛がよく蘭子を遊びに誘うようになったのである。
彼女らと一緒に遊びに行く場合に限り、美優はもう蘭子の傍に付きっ切りで面倒を見る必要がなくなった。
もちろん、美優の心にはいつも不安があった。
凛や卯月が代わりに面倒を見てくれると言っても、所詮子供同士である。
しかし、楓の上司の娘である事、加えて懇親会でお互いに知り合ってしまった事で、そんな凛たちを美優は信用せざるをえなくなった。
蘭子を一人で他所に行かせているあいだ、美優は気が気でなく仕事も手に付かない有様だった。
常にPCで蘭子の状態をチェックしているほどである。
一度など、常時GPSで監視しようとしていたので、見かねた楓が苦言を呈したこともあった。
こうした美優と楓のささやかな対立はここでは省略する。読者ももう見飽きた頃だろう。
とりあえず、これまでのところ蘭子の身に何か重大な事件が降りかかった事はない。
それが美優には救いだった。
蘭子は凛たちと出かけるたびに、何か新しいことを覚えてきた。
凛が、世間知らずな卯月や蘭子に勉強させてやるつもりであちこちに連れまわすのである。
例えばスポーツで体を動かすことを知った。
ゲームセンターで一日中遊んだりもした。
ある時などは、蘭子が学校に興味があると言うと、凛が休日の校舎に連れて行った事もあった。
蘭子がせがむので凛が教師役になり授業の真似事などやったりもしたが、不幸なことに、学校でやるような勉強に関しては凛よりもドールたちの方が得意だった。
その後、卯月の提案で凛の勉強会が開かれた。
蘭子は、少しずつ美優や楓の知らない蘭子になりつつあった。
これは本来喜ぶべきことである。
美優も楓も、こうなることを願って、卯月や凛と会わせたのだ。
だから、寂しいと思う気持ちは2人だけの秘密にして、そっと胸の奥に仕舞うことにした。
ひとまず区切り
爆速投下ですみません
次で終わらせます
◇ ◇ ◇
宮本「楓ちゃーん、ちょっと来てー」
楓「はいはい」
宮本「ハイは1回でいいんだよー」
楓「何か用ですか?」
宮本「いま忙しい?」
楓「それなりに」
宮本「じゃあ忙しくないってことだねー」
楓「いえ、やっぱりすごく忙しいです。もう目が回りそうなくらい。あー忙しい忙しい」
宮本「ちょいちょい待ち。あのねー、とーっても重要な案件が今ここにあるんだけどね? 例のごとくダブルブッキングちゃんがやらかしてさー」
楓「はあ、またですか」
宮本「そゆわけで、一つお願いできないかなーって、ね?」
楓「とりあえず、何のお仕事なんでしょう。その内容次第では引き受けてもいいですが」
宮本「ンーっとね。……あれ、なんだっけ? ああ、そうそう! 取材する奴!」
楓「取材? なんの取材ですか?」
宮本「とにかく取材! インタビューとか、楓ちゃん得意なんだよねー?」
楓「そんなの言った覚えないですよ」
宮本「まあまあ。詳しいことはWEBで! じゃなくて、智絵里ちゃんに聞いといてねー。おけ?」
返事をする前に宮本先輩はどこかへ行ってしまった。
こういう場合、何を言っても引き受けることになってしまうのである。
楓「智絵里さん、今お時間大丈夫ですか?」
智絵里「…………」
楓「智絵里さん?」
智絵里「はいっ!? あ、た、高垣さんですか……どうも」
楓「あの、宮本先輩から仕事を頼まれたんですが……」
智絵里「……?」
楓「取材がどうのって言ってました。智絵里さんに聞いてくれって」
智絵里「……ああ、取材ですか。……取材……これのことかな?うん、たぶんそうだよね……」
PCの画面を見ながら不安そうに呟いた。
楓は、この人がいつも会社に来て何をしているのか知らない。
四葉のクローバーを大量に集めているという事以外は。
智絵里「今日の夜、池袋研究所の所長と、うちの社長が……会談? 会議? するみたいです……ああ、担当の志希さんが海外に行っちゃってるんですね……」
楓「え! 社長って、あの社長ですか?」
智絵里「えーっと……ど、どの社長のことか分かりませんけど、たぶんその社長のことだと思います……」
楓は絶句した。
池袋研究所といえば、次元観測およびスペースネットに関する世界最高の研究機関のうちの一つである。
そこの所長と会談するというのだ。あるいは取材なのかもしれないが。
しかし問題はそこではなかった。
まず、楓はこの会社の社長をまったく知らないのである。
というより、本当に存在するのかどうかも疑わしかった。
知っているのは、「千川ちひろ」という名前だけである。もちろん顔も見たことが無い。
楓「いやいや、待ってください。これはさすがに私には荷が重すぎます。所長はともかく、社長って」
智絵里は困ったように、「私に言われても……」という顔をした。
そしてタイミングを計ったように楓のIDOLからコールが鳴った。
志希【やほー、元気してるー? フレちゃんから話聞いたよーホントごめんね♪】
楓「ごめんね♪じゃないですよ、もう。困ります」
ちなみにフレちゃんとは宮本先輩のあだ名である。
志希【いやあ、他に適任者がいなくてねー】
楓「双葉さんがいるじゃないですか」
智絵里「あ、あの、杏ちゃんは今日はお休みで……」
なぜか智絵里は双葉杏のことだけ「ちゃん」付けで呼ぶのだった。
志希【楓ちゃんは前に池袋博士と会ったことあるでしょー? だから問題ないかなーって】
楓「あれはただ客先訪問で少し挨拶しただけですよ。専門的な会話とか出来ませんから」
志希【そこはほら、社長がなんとかしてくれるからさーダイジョブダイジョブ】
楓「志希さん、社長と会ったことあるんですか?」
志希【いやー無いよー】
楓はがっくりと肩を落とした。
いよいよ腹をくくるべきか。
楓「…………それで、具体的になんの会議をするんですか?」
志希【会議っていうか、対談っていうか、まあ有体に言えば女子会だねー。池袋博士がうちの社長と会いたいって言うからセッティングしたんだけど……】
楓「それって、社長はちゃんと予定を把握してるんですか?」
志希【う~ん……たぶん知らない。あはは】
楓も釣られて笑った。もはや笑うしかない。
楓「もうめちゃくちゃじゃないですか」
志希【そそ。だから楓ちゃん、頑張って社長を捕まえてねー】
楓「見つからなかったら?」
志希【まーその時は楓ちゃんが「私が社長です」って言っとけばモーマンタイ、問題ないない♪】
楓「問題ありありですよ。何かあっても責任取れませんよ」
志希【あたしもさすがにそこまで鬼じゃないよー。何かあったらあたしが責任取る、ここは任せて先に行け、みたいな】
楓「何か、資料とか準備してないんですか?」
志希【ああそうそう、それを言おうと思ってたんだよね。さっき資料送っといたからチェックしといてねーじゃあねー】
プツッ。
楓は目を閉じて大きく深呼吸した。
もう何も言うまい。覚悟を決めて目の前の仕事に取り掛かるしかないのである。
智絵里「あ、あの……大変だと思いますけど、が、頑張ってください……これ、お守りです」
四葉のクローバーを貰った。
楓は一言「ありがとうございます」と感謝して、まずは社長を探すことにした。
普通に考えて、社長の行方を社員が誰一人として知らないのはありえない。
とりあえず役員と呼ばれる人たちに当たってみればヒントは得られるはずである。
ところが。
渋谷「社長がどこにいるかって?そんなこと俺に聞かれてもなあ」
楓「そうですか……他に社長の行方を知ってる方っていますか? 秘書とか……」
渋谷「なるほど、秘書か。その考えはなかったな」
楓「ああ、居るんですね、ちゃんと。良かった」
渋谷「うむ。そういうわけで、きみが今日から社長付けの秘書だ!」
楓「は?」
渋谷「確かに、今まで秘書という肩書きの人が居なかったんだよなあ。うん。ちょうど良かったよ」
楓「え?」
渋谷「これは大出世だぞ、高垣くん。人事課には俺から話を通しておこう」
楓「いや、あの、ちょっと」
渋谷「秘書の初仕事としては大変だと思うが、頑張りたまえ! はっはっは」
はっはっは、ではない。
楓は異を唱えようとしたが、何からつっこんでいいやら訳が分からず、愕然としている間に渋谷部長は別の仕事現場へ忙しそうに向かってしまった。
楓は次に社長室を探した。
しかし、この会社に勤め始めて数年、そんな部屋があるとは聞いたこともない。
とりあえず、駄目元で総務部に居る人たちに尋ねてみた。
まゆ「社長室?そんな部屋ありましたかぁ?」
輝子「フヒ……き、聞いたこと、無いな……」
幸子「無いなら作ればいいんですよ! フフーン、やっぱりボクは天才的にカワイイですね!」
そんなわけで新たに社長室が作られることになった。
ほとんど使われることのない空き部屋に机が1台運び込まれ、殺風景な社長室が出来上がった。
幸子「そういえば聞きましたよ、楓さん。社長お付の秘書になったんですよね?」
楓「なんでさっちゃんがそんな事知ってるの」
幸子「さっちゃんじゃなくて幸子です! ……オホン、まあいいです。つまりですね。今日から楓さんの仕事場はここってことです」
楓「社長分の机しか見当たりませんけど……」
幸子「残念ですが、余ってるのがそれしかないんです。しばらくはそれ使ってください。あと、何か必要なものがあったら総務部に言ってくださいね」
楓「お手を煩わせてすみません……それよりさっちゃん」
幸子「さちこ、です」
楓「社長が今どこにいるか、知りませんか?」
幸子「そんなのボクが知るわけないじゃないですか」
楓「ですよねえ。いくら世界一カワイイさっちゃんでも、知らないことくらいありますよねえ」
幸子「ま、まあ本当は知ってるんですけどね? でも残念ながら教えられないんです。企業秘密ですから」
おそらく企業秘密の意味を分かっていないのである。
「ではボクも仕事がありますので」と言って逃げるように帰って行った。
楓は、とりあえず自分のPCだけ持ち込んで社長室に篭った。
あとはもう自分1人でなんとかするしかない。
池袋博士にどう説明すればいいか必死に考えつつ、志希から送られてきた資料に目を通し、気付いたら約束の時間はすぐそこまで迫っていた。
楓は出かける準備をした。
……約束の場所は、都心一等地にそびえ建つ高層ビルの最上階だった。
何かの間違いであることを祈りながら、楓はエレベータに乗って上を目指した。
到着すると、そのフロアにはまったく人の気配がなかった。
ビルというのは大抵そんなものである。
部屋の鍵は開いていた。
もちろん、鍵を開けておくよう手配したのは自分である。
だからこの時、楓は特に不審な予感はしなかった。
予定よりだいぶ早めに来たのだ。何も問題はない。
しかし部屋には既に人がいた。
そしてそれは、池袋博士ではなかった。
「やあ、早かったね」
知らない人が、夜景をバックに悠々と椅子に座ってこちらを振り向いた。
楓「…………申し訳ありません、どちら様でしょうか?こちらの部屋はこれから私が使用する予定で……」
「覚えてないのかい?このボクを」
楓はじっと目を凝らしてその少女の形をした人を見た。
どこかで見たことがあるような気がする……しかし楓は思い出せなかった。
「まあいいさ。記憶は今はあまり重要じゃない。……いや、これから重要ではなくなると言った方が正しいか」
楓「……池袋博士……なんですか?」
「ん? まあそうとも言えるし、そうじゃないとも言える。そうだね……とりあえず今はこう名乗っておこうかな」
その少女は立ち上がって言った。
「ボクの名前は二宮飛鳥。世界最古のドールの一人さ」
楓は飛鳥に促されるままソファに座った。
そこから見える夜景をぼんやり見下ろしながら、楓は口を開いた。
楓「私は池袋博士とこれから対談する予定なんですが」
飛鳥「博士ならもうここにいる。このボクがそうさ」
楓には何一つ理解できなかった。
しかし不思議と気持ちは穏やかだった。
ここが自分にとって目指すべきひとつのゴールのような気がした。
そこへやっと辿り着いたのだ。
楓「はあ……しかし私が知っている池袋博士は、もっと違う姿をしていたような……」
飛鳥「博士の姿をした人間はもうこの世にいない。なぜなら彼女はスペースネットと一体化し、そこに彼女の存在を融合させたからだ」
楓「……? 言っている意味が分かりません」
飛鳥「今は、この二宮飛鳥というボディに回帰している。と言っても、もはやボクは二宮飛鳥でも池袋晶葉でもない、別の個体としてここにいるんだけれどね」
やはりよく分からない。
しかしどうやら彼女は、とりあえずはここにいるらしい。
楓は、何はともあれ自分の仕事を続けなければいけないと考えた。
それがこの社会で生きていくために必要なことだった。
楓「では博士……ではなく飛鳥さん。せっかくお越し頂いて大変申し訳ございませんが、この度、社長の千川が都合がつかず、こちらの対談に参ることができませんでした。私、高垣が代わって非礼をお詫び申し上げます」
深々と頭を下げると、飛鳥はなぜか堪えきれないといった様子で笑い始めた
飛鳥「キミも可笑しな人だ。社長ならすでにここにいるじゃないか」
楓「はい?」
飛鳥「キミが新しい『千川ちひろ』なんだよ。これからキミはちひろという存在になる。何も間違っていないさ」
飛鳥「まあ、そんな事は今はどうでもいい。キミはボクに何か聞きたいことがあるんじゃないのかい?」
楓「聞きたいこと……?」
楓は用意してきた資料を思い出した。
志希が作ったスペースネット、共感覚、ドール、それらにまつわる質問要項。
その一番最初に書かれている台詞を読み上げる。
楓「……あなたは一体、何者なんですか?」
飛鳥「素敵な質問だ。でも答えるのは難しい」
飛鳥はそう言ってしばらく夜景に目をやった。
楓は待った。
飛鳥「……じゃあ、二宮飛鳥というドールについて話をしよう。キミはもちろんドールをよく知っているね?」
楓「はい」
飛鳥「ボクはいわゆる民間用に作られたドールじゃない。大戦時、軍に製造された兵器なのさ。一般に公にされていないけれど、終戦間際には、前線に居た戦闘員のほとんどはドールだった。ドールの研究というのはそれくらい昔から行われていたんだよ。ボクはその終戦直前、軍用としては最後に作られた個体のうちの一体なんだ。
飛鳥「終戦から二十数年年経つけれど、実は性能という面で言えば、軍用ドールというのは今の民間用ドールなんかより遥かに高性能・高機能だったんだ。それはある意味では、パワーを制限するという機能が十分研究されていなかったせいもある。だから終戦後、条約によって全ての軍用ドールは廃棄された。危険だからね。
飛鳥「でも一部には生き残ったドールが居た。人間のフリをしながら、かろうじて廃棄処理施設から逃げた軍用ドールが。それがこの二宮飛鳥ってワケさ。女性型なんかは特に多かった。みんな必死になって逃げたよ。
飛鳥「さて、その逃げる時。ボクたちは自分たちの脳にある細工を施した。それが何か分かるかい?」
楓は黙って首を横に振った。
飛鳥「自分たちの記憶を書き換えたのさ。軍用ドールはローカルな共感覚空間でお互いに繋がってた。自分たちの脳を弄るくらいわけなかった。なにせボクたちは時に人間よりずっと頭が良かったからね。人間としてのニセの記憶を構築し、ドールという本当の記憶に鍵をかけ、より人間らしく社会に溶け込めるようにボクたちは工夫した。幸いなことに、軍用ドールは見た目は質感においては人間と区別がつかなかった。ちなみに今の民間用ドールは人間とドールを区別しやすくするために、わざと体温を失くしているんだよ。
飛鳥「さて、そうして生き残った軍用ドールたちは果たして誰にもバレることなく人間社会で暮らせるようになった。自分たちを人間だと思い込むことでね。でも、この方法には一つ、欠点があった。
飛鳥「さっきも言ったけれど、軍用ドールは非常にスペックが高いんだ。普通に生きていく分には必要がないくらい、色々な機能が備わっている。それはつまり、恒久的な使用を前提としていないからなんだね。オーバースペックによる負荷は記憶を書き換えることで封印していたけれど、元々設定されていた寿命には逆らえなかった。
飛鳥「……ボクにはトモダチが居た。生まれてからずっと一緒の時間を過ごしていた大切なトモダチが。でもある日、突然その子の動きが止まった。眠ったように目を閉じて呼吸するのをやめた。ボクは最初、何が起きたのか分からなかった。わけの分からない虚無感がものすごい力で胸を締め付けた。
飛鳥「ボクが、自分が本当はドールだったという事に気付いたのは、その瞬間だった。なぜかは分からない。分からないことだらけだったけど、ただ一つはっきりしていたのは、そのトモダチもドールで、ボクたち2人が紡いできた思い出のほとんどは、ニセモノの記憶だったってこと。
飛鳥「ボクは仲間を探した。同じドールの仲間を。でも、社会に紛れ込んだ軍用ドールは普通の人間と区別がつかない。ボクはどうしたらいいか悩んで、苦しんだ。そして、トモダチが唯一好きだった趣味を自分が引き継ぐことで、その逃げ口を見つけた。二宮飛鳥という漫画家は、こうして生まれたのさ。
飛鳥「……ボクに残された時間も、ほとんど無い。だからボクは、作品を生むことで自分の遺伝子を世界に残そうとしたんだ。そんな孤独な作業を続けていたボクを見つけてくれたのが、池袋博士と、鷺沢家の人たちだった。
飛鳥「博士たちが鷺沢書房でボクの本を見つけて、それがきっかけだった。博士が言うには、ボクの漫画には通常ありえない規模の濃い個有振動が見られたそうだ。これは要するに……おっと、難しい話をしてしまうところだったね。
飛鳥「まあそんなわけで、博士にはボクが軍用ドールということがバレてしまった。でも博士はその事を誰にも言わなかった。その代わり、ボクに研究を手伝うという交換条件を出した。それこそが、自我とスペースネットの融合実験さ。ボクは共感覚空間と自我の区別がなくなった。膨大な意志と記憶の海のなかで、ボクは識別できないあらゆる人間たちと繋がった。
飛鳥「博士は、二宮飛鳥の器にボクを固定してくれた。だからボクは一体化したスペースネットから感じる深い共感を元に漫画を描けるようになった。そして何よりボクにとって嬉しかったのは、共感覚空間と融合したことで、もう孤独を感じる必要がなくなったという事だったんだ。
飛鳥「その共感覚空間の中にはかつての仲間だったドールたちもいた。個々は識別できなかったけれど、とにかくボクはそこに安心を見出した。すると次にボクが感じたのは、何だったと思う?」
楓は再び首を横に振った。
飛鳥「もう器すらもいらないという感情さ。解脱っていうのかな? だから、今ここにいる二宮飛鳥というドールには、二宮飛鳥の魂はもう宿っていない。あとは朽ちるのを待つだけの、決められたプログラムを実行しているだけさ。
楓「じゃあ、本当のあなたはどこにいるの?」
飛鳥「言っただろう、スペースネットそのものがボクなんだ。それはつまり、キミもまたボクの一部に過ぎないってこと」
楓「…………」
飛鳥「……ボクの話はこれくらいでいいだろう。さあ、次の質問はなんだい?」
楓は手元にある資料の、2番目の質問を読み上げた。
楓「私は……何者なんでしょうか?」
飛鳥「それはとても愚かな質問だね。でも答えるのは簡単だ」
飛鳥はもったいぶるように髪をかき上げて、一呼吸置いたあと、言った。
飛鳥「キミはキミ自身でしかない。連続する時間に規定された個有振動の集合体であり、無数の並列次元の中にたった一つ実在する確かなキミ自身だ」
楓「…………」
飛鳥「……納得できないって顔だね。そうだな……それじゃあここは一つ、池袋博士として答えようか。自分を確かめるもっとも簡単な方法は、スペースネットにアクセスする時の事を考えればいいのさ。どんなに深くまで潜って自我境界が曖昧になっても、核となるキミ自身が飲み込まれるなんて事はないだろう? それは実際にはソフトウェアでセーブしている面もあるけれど、それが可能なのはキミというハードウェアが、つまり肉体という器がキミ自身を強烈に支配しているからなんだ。
飛鳥「意識、知覚、記憶……人間が認識している現実というのは、物理的にそこに存在している肉体のあらゆる細胞、あらゆる構成要素から発生しているある種の波のことなんだ。古典的な言い方をすれば、超弦理論的な多次元構造……まあ上手くない例えだけれどね。
飛鳥「人間の世界は主に大脳皮質の活動によって現実を現実と認識している。けれど実際には、大量の脳細胞とシナプスの電気的活動によって生じる振動のネットワークが、無限の可能性の領域をその場所に作り出しているのを"意識"とか"記憶"と呼んでいるにすぎないんだ。それは必ずしも脳という場所にだけ依存しているわけじゃない。指先、髪の毛、声、着ている服、吸っている空気、住んでいる場所……これらキミ自身に関わる全てのものが、それぞれ物理的制約の下にキミという個を生み出し、決定し続けている。
飛鳥「非常に流動的だけれども、同時に決して何者にも代えられない唯一絶対の存在、それが個なんだよ」
楓「……でも、それは少し変ではないでしょうか?」
楓は台本通りの台詞を読み上げた。
楓「あなたは先ほど、自分は器を脱ぎ捨ててスペースネットに融合したと言いました。しかし今の説明の通りならば、器を捨てた場所に個は存在し得ないという事になります」
飛鳥「簡単なことだよ。今のボクが……そして博士が拠り所にしているのは、ひとつの人間という器でなく、地球上すべての人間、生物、機械、あるいは地球そのものなんだ。文字通り、ボクは宇宙と一つになっている。それはつまり、あらゆる物質にはボクという個が偏在している事になる。普通はね、こういう状態のことを"死後のセカイ"っていうんだ。
楓「……スペースネットが、死の世界という事なのでしょうか?」
飛鳥「それは違う。融合した先にあるボクの状態が"死"というだけで、スペースネット、あるいは共感覚空間というのは、死とは正反対の、もっと生命に満ち溢れた場所さ」
次の質問。
楓「スペースネットとは……何?」
飛鳥「人類全ての意識だよ。地球の、と呼ぶ場合もあるね。話を元に戻すようで悪いけど、ドールという人形に人間のような意識が宿るのは何故だと思う?」
楓「そういう風に設計されているからでは……」
飛鳥「どういう風に?」
楓「それは……分かりません」
飛鳥「答えはね。ドールに宿る魂というのは、元々スペースネットから領域の一部を取り出して無理矢理その器にはめ込んで作られただけなんだ。もちろん人形そのものにもある種の波……つまり意識とか、記憶というものは存在する。けれど作られた人形は生命ほど巧緻に出来ていない。だから、そこに高次な認識を組み込むために、スペースネットから強引に確保した自我領域を人形の器に収めているのさ。
飛鳥「博士がボクを実験体としてスペースネットと融合させたのも、これが理由の一つだった。ドールはリミッターを外せば容易にスペースネットと同化できるからね。ま、その博士自身も、とうとうボクと同じように共感覚空間に融合してしまったけれど。
飛鳥「……共感覚空間の話はいろいろと説明するのが難しくてね。領域を取り出すと言っても、そもそも物理的にスペースネットという空間があるわけじゃない。共感覚というだけあって、そこには実体というものがなく、あくまで概念としての領域が存在すると仮定しているだけなんだ。
飛鳥「さっき言った事を覚えているかい。ヒトの意識とは、その個有振動によって生じる無限の可能性の領域を指していると。つまり共感覚空間に潜るという事は、実体に触れるのではなく虚構の並列次元にアクセスしているという事なのさ。あるAという振動に対して位相を反転させたBという振動を仮定し、それらを無限に重ね合わせることであらゆる可能性を内包した並列次元を構築することができる。
飛鳥「言うなれば、共感覚空間とは、スペースネットの正体とは、無数にある並行世界の可能性のことなんだ。キミがPCやIDOLのハンドルを握る時、キミはもう一人の、あるいはもっとたくさんのキミの可能性に"共鳴"する。その可能性こそが"意志"であり、地球の"意識"なのさ。……
飛鳥「……そろそろ疲れてきたかい?でも舞台はまだ終わりじゃない。さあ、次の台詞を読み上げるんだ。台本通りに。それこそがキミの舞台での役割なんだから」
「私は……私は、あなたと同じなんですか?」
飛鳥「キミが、ボクと同じように人間だと思い込みながら生活しているドールなのかという意味なら、それには答えられない。気付く時は突然さ。その時が来るまで、誰にも分からない」
「……私はこれから、どうなるのでしょうか」
飛鳥「いつも通り生きていくだけさ。『千川ちひろ』という存在としてね」
「私は『千川ちひろ』ではありません」
飛鳥「今はね。でもいずれはそういう状況になる。これは決定された事なんだ。キミはあの会社で社長になり、そして会社そのものになる。ちょうどあの鷺沢書房のように、キミは一つの組織体を持つ情報生命体になるんだ。
飛鳥「怖がる必要はない。なぜなら、例えそうなってしまったとしても、キミという個は変わることなくそこに存在し続けるんだから」
「…………」
飛鳥「さあ、もうそろそろ舞台の第一幕が下りる頃だ。ボクと会うことはもうないと思うけれど、キミが次の舞台で上手く踊ることができれば、あるいは再会できるかもしれないな。その時はおそらくどちらもお互いを覚えていないだろうけれどね」
飛鳥「ん? 社長になっても何をすればいいか分からないだって? そうだね……まずは会社に名前を付ける事から始めてみればいいんじゃないかな。ほら、キミは言葉遊びが好きだろう?」
飛鳥「キミの意志……つまり、キミにしか持ち得ないあらゆる可能性を駆使して、それを決めてやればいい。自由意志という奴さ。まあ、決められたレールを転がって行くしか無いにせよ、それくらいは好きにやらせてくれるだろう」
飛鳥「……じゃあね。健闘を祈っているよ」
…………。
――私は、その会社に『三池農場』と名前をつけた。
社員たちはみな、私のことを社長と呼んだ。
私は社員たちに命令して、靴を集めさせた。
舞台を煌びやかにするガラスの靴を。
そして地図を作らせた。
ドールたち偶像の、生きる道しるべとなるように。
やるべきことを終えると、私は会社に必要ない存在になった。
何かを命令しなくとも、社員たちは仕事をし続けた。
気が付くと、私は会社そのものになっていた。
もはや誰も私のことを覚えていなかった。
ある時、一人の女性が入社した。
有能で働き者だった。みんなが彼女のことを好いた。
その年の忘年会、私は彼女にひとつのプレゼントを贈った。
彼女はとても喜んでいた。
「実は、ずっと欲しいなって思ってた子がいるんです。デパートで一目見た時からずっと……え? 今からですか? 確かに、早くしないと他の人に取られちゃうかもしれませんが……いいんですか? じゃあすみません、二次会は欠席して、帰らせてもらいます」
大学時代はモデルをやっていたという彼女は、酔いで仄かに頬を赤らめながら、子供のように楽しそうな笑顔を私に向けた。
「ふふふ、実はもう名前まで考えてあるんです。それは……」
彼女はなんて言ったのだろう。
私はもう何も思い出せなくなっていた。
昔のこと。
作られた記憶のこと。
大切だった人たちのこと。
私は踊り続けた。
自分が主役の舞台を、最後まで演じるために。
…………。
○ ○ ○
『…………』
『……具合、悪いんですか?苦手だったら無理して飲まなくていいんですよ』
『え?……ああ、私のことなら大丈夫です。お気になさらないでください……』
『新入生の方ですよね?お名前はなんていうんですか?』
『名前……名前は、高垣楓といいます』
『私、3年生の三船美優っていいます。高垣さんはどうしてこのサークルに?』
『どうして……? うーん、どうしてでしょう。ただなんとなく、お芝居をしなきゃ……って思って』
『ふふ、なぁにそれ』
『……すみません。私みたいな好い加減な人、演劇サークルに居たら迷惑ですよね』
『そんな事ありませんよ。もっと適当な理由で入った人もいっぱいいますから』
『それに私、お酒は好きですけど、こんな風にわいわい盛り上がるのは苦手で……』
『実を言うと、私もそうなんです。あまり騒がしいのは得意じゃないんですよ』
『じゃあ、どうしてここに居るんですか?』
『え? それはまあ、私も役員の一人で、基本的に参加しないといけないから……』
『……なんだか理不尽ですね』
『そんなものですよ。……あ、ごめんなさい。呼ばれてるから……また後でね』
『……はい』
○ ○ ○
『高垣さんって、お人形さんみたいですよね』
『そんな風に見えますか?これでも結構、人間らしく振る舞ってるつもりなんですけど』
『いえ、そんな無表情とかっていう意味じゃなくて……すごく綺麗な顔立ちしてるから』
『容姿に自信がなければモデル業なんてやっていませんよ』
『ふふっ、確かにそうですね』
『……三船先輩は、どうしてそんなに私に構うんですか?』
『えっ?』
『私、サークルで浮いてますし、もうそろそろ辞め時かなあって思ってるんです。それなのに三船先輩がたくさん話しかけてきてくれるから、辞めるに辞められなくて……』
『浮いてるだなんて、そんな事ありませんよ。ただ高垣さんはちょっと他の人と違う雰囲気があるというか……』
『それを浮いてるって言うんじゃ……』
『あれです。みんな高垣さんに一目置いてるんですよ。だって高垣さんって何をやらせてもすごく要領が良いし、お芝居だってとっても上手じゃないですか。だからですよ』
『そういうものですかね……でも、こんな私にわざわざ話しかけてくれる三船先輩も、変わってると思いますよ』
『そうかしら?』
『そうですよ』
○ ○ ○
『……楓さんっ、もうっ、散らかしたらちゃんと片付けてくださいっていつも言ってるでしょう?』
『あ、美優さん……おかえりなさい……ふぁ~あ』
『人の部屋でいつまで寝るつもりなんですか。講義にはちゃんと出てるんでしょうね?』
『大丈夫、大丈夫ですから……』
『生活習慣しっかりして自己管理しないと、モデルのお仕事も続けられなくなりますよ?』
『ああ、モデル……そのことなんですけど、私、来月になったらお仕事は辞めるつもりで……』
『え!? なんですかそれ、初耳です』
『いま初めて言いました』
『……か、楓さんがお仕事を続けようが辞めようが、私には関係ありませんけど……』
『関係大アリです。収入が無くなったら、誰が私を養ってくれるんですか?』
『少なくとも私じゃありませんね、それは』
『美優さん冷たい……あ、冷たいと言えば、麦茶作っておきましたよ』
『あら、ありがとう』
『あとビールも買って冷やしておきました。ほら』
『収入が減るって話をしたばかりで何をそんな大量に買ってるんですか! ちゃんと節約してくださいっ、もうっ』
○ ○ ○
『……美優さん、卒業おめでとうございます』
『あっという間だったわね』
『そうですね……ところで美優さん、私がいなくても大丈夫ですか? 寂しくなったりしませんか?』
『それは楓さんの方でしょう。私がいなくてもちゃんと朝起きられますか? 講義に出られますか?』
『バカにしないで下さい。私だって乙女の端くれですよ』
『ふふっ、まあ私はあまり楓さんの心配なんてしてませんけどね』
『……それはそれで、やっぱり寂しいです』
『……泣いてるの?』
『泣いてるように見えますか?この私が』
『……うん』
『…………私、寂しいです。美優さんのこと、好きです』
『知ってますよ』
『約束してくれますか? また会えるって』
『大げさですねえ。私だって社会人になればたまにはこっちに顔を出しますよ』
『約束ですからね』
『……うん。楓さんも、元気でね』
――――――
――――
――
◇ ◇ ◇
楓は窓辺に寄りかかって夜を見上げていた。
眩しいくらいな月明かりの下、遠くに漣のような街のざわめきを感じながら、夢と区別がつかないほどの曖昧な風景を考える事もなく考えていた。
「かえでさん……?」
真っ暗な部屋、楓は眠りから覚めたように振り返った。
楓「あら、起きちゃった?」
蘭子「なんだか眠れなくて……かえでさんも?」
楓は返事をする代わりに、窓の向こうへ目をやった。
「月が、ほら。とても綺麗」
蘭子は楓に誘われてぺたぺたと歩み寄った。
蘭子「わぁ、ほんとだ……」
寝巻き姿の蘭子は月明かりに照らされて、その冷たい肌が幻のような光りをぼんやりと反射している。
楓「本当、綺麗で……」
2人はそれきり何も言わず、その瞳に映る景色を共有しながら、心地良い沈黙の中にお互いの気持ちをゆっくりと重ね合わせようとした。
楓「……蘭子」
蘭子「なぁに?」
楓「最近、お友達と仲良くやってる?」
蘭子「どうしたの、急に。……うん、みんなで仲良くやってるよ」
楓「何か悩んでいる事とか、辛い事とか……ない?」
蘭子「ううん、無いよ」
楓「そう……なら良かった」
蘭子「? ……今日のかえでさん、少し変だよ」
楓「ふふっ、そうかもしれませんね。じゃあ変な楓さんは、もうちょっとだけ変な楓さんで居てもいいかしら?」
蘭子「ふぇっ?」
楓は唐突に蘭子を抱きしめた。
蘭子はびっくりした。しかしすぐに甘えるように抱擁し返した。
蘭子「やっぱり変なかえでさん」
楓「……蘭子、あなたは本当に、本当に良い子に育ってくれました」
蘭子はそう言われながら頭を撫でられて、くすぐったいような恥ずかしいような気持ちがした。
楓「絵も、とても上手になりましたね」
蘭子「えへへ……頑張ったもん」
楓「お友達もたくさん増えたし、学校ではとっても真面目だって聞きましたよ」
蘭子「うん……でも、宿題が多いときは、うわーって思ったりするよ」
楓「それでも我慢してちゃんとお勉強してるんだもの、蘭子は偉いわ」
蘭子「授業が少し、退屈だなあって思ったり」
楓「蘭子は他のクラスメイトよりずっと賢いんだから、仕方ありませんよ」
蘭子「こんな私でも、良い子なの?」
楓「当たり前ですよ。こんなに良い子を持って、私たち幸せ者ですねって、美優さんといつも言ってるんですから」
蘭子「そ、そうかなあ」
蘭子は嬉しそうにはにかんだ。
楓は抱きしめていた腕をほどいて、蘭子の顔を正面から見つめた。
楓「あなたがここに来てから10年、私たちはずっと幸せでした」
楓「蘭子に素敵な友達ができて、私たちも嬉しかった。ありすちゃんや小梅ちゃん、由愛ちゃんたちはもうすっかり大人になってしまったけれど、それでも蘭子を一人の友人として大切に思ってくれています。卯月ちゃんと凛ちゃんも、あなたに色々な事を教えてくれましたね。ドールのための学校ができて、そこに通うことになった時、みんなが祝福してくれました」
楓は、静かに、ゆっくりと、星空に語りかけるようにしゃべった。
蘭子はキョトンとしながらそれを聞いていた。
楓「それに、あなたが描いたイラストが表彰された時、美優さんなんか泣いて喜んだんですよ」
蘭子「あ、あれはでも佳作だし……」
楓「それでも、立派な賞ですよ」
楓はそれから、蘭子に色々なことを話して聞かせた。
美優と出会った時のこと。
美優と一緒に住み始めた時のこと。
仕事で上手くいったこと、失敗したこと。
美優と喧嘩したり、仲直りした昔のこと。
そして、蘭子と一緒に過ごした日々のこと……。
蘭子は歌を聴くように楓の言葉に耳を傾けていた。
そして、
楓「……蘭子。あなたに知ってもらいたい事があるの。ずっと話さなくちゃって思ってた。でも勇気がなかった。けれど、今日、あなたの10回目の誕生日を迎えて、ようやく私にもその決心がつきました」
蘭子「?」
楓「もうすぐ、私は旅立ちます。だから、蘭子と美優さんとお別れしなくちゃいけません」
蘭子「旅行に行くの?」
楓「旅行ではありません。もっと遠い、どこかへ行くんです」
蘭子「いつ行くの? どれくらいかかるの?」
楓「いつ行くかはまだ分かりません。でも、行ったらもう戻って来ません」
蘭子「え……?」
楓「蘭子、あなたにはとても辛い思いをさせてしまうかもしれない。でも、どうか悲しまないで、前を向いて生きて欲しいの」
蘭子「かえでさん、帰ってこないの? 居なくなっちゃうの? そんなの嫌だよ!」
楓「シッ……美優さんが起きちゃいます」
蘭子「……そんなの、嫌です……」
蘭子の目から、涙がポロポロと流れ出した。
楓はもう一度蘭子を抱きしめた。
楓「ごめんなさい……ごめんなさい、蘭子……」
蘭子「うぐっ……み、みゆさんだって、かえでさんが居なくなったら、か、悲しむと思う!」
楓は美優のことを思うと尚更胸が締め付けられた。
むしろ美優に打ち明けることの勇気が楓には必要だった。
蘭子「どうして行っちゃうの? 私たちのことが嫌いなの?」
楓「違う、違うの蘭子。私がどんなにあなたと美優さんを愛しているか、だから私は……」
楓は言うべき言葉が見つからず、声を詰まらせた。
楓「……蘭子、あなたはとても良い子です。だから、嫌だなんて言わないで……ね?」
蘭子「…………」
蘭子は首を横に振って抵抗した。
楓は、自分がどれだけ都合の良いことを蘭子に押し付けているか、その卑劣さを思うと心が苦しんだ。
しかし仕方のないことだった。何もかも、楓にはどうすることもできないのだ。
楓「ごめんなさい……でも、これだけは分かって欲しいの。私は蘭子や美優さんを悲しませたいわけじゃない……それだけは絶対に、間違いないんです。だって、私はこんなにもあなたと美優さんのことが好きなんですもの」
蘭子は楓の顔をじっと見つめて、ようやく「うん」と頷いた。
今の蘭子にあるのは悲しみと、そして混乱である。
楓は自分を悲しませたくないのに、悲しませようとしている。その事が理解できなかった。
楓「それから、蘭子に一つお願いがあるんです。この話は美優さんには内緒にしておいて欲しいの」
蘭子「……どうして……?」
楓「私が、自分で勇気を出して、美優さんに言わなくちゃいけないから」
しかし楓は美優にどう説明すればいいか分からなかった。
話して納得してもらえるほど明確な根拠があるわけではないのだ。
ただ、自分に残された時間がもうほとんど無いという事だけが、絶対の確信として胸の中にあった。
いつからこんな風に感じるようになったのか、よく覚えていない。
何がきっかけで目覚めたのか、それも分からない。
気が付いた時にはもう、実感がそこにあった。
高垣楓が作られた存在だという実感が。
楓はこれまでに十分すぎるほど一人の女性を愛し、一人の人形を愛してきた。
そして、それが10年という時の実を結び、役割を終えたことを悟ったのである。
楓は、血の繋がりのない3人の間に、人間とドールの新しい家族の形を、これから世界に広がっていく新しい人類と人形の社会の姿を、遺伝子として残した。
飛鳥が自分の悲しみと孤独の、死の記憶を世界に残そうとしたように。
楓「……さあ蘭子。泣くのをやめて、ね?ほら、ベッドに戻りましょう」
蘭子の涙を拭い、ベッドへ連れて行った。
とても眠れそうな様子ではなかったので、楓は蘭子が寝てしまうまで傍にいてやろうと思った。
蘭子「……かえでさんも一緒に寝よう?」
楓「1人用ベッドに2人は狭いですよ」
蘭子「いいもん、狭くてもかえでさんと一緒がいい」
楓「まったく、甘えん坊なんだから」
楓は蘭子のすぐ横に一緒になって寝た。
楓「誕生日なのに、あんな話をしてしまって、ごめんなさい」
蘭子「……ううん、私、大丈夫だよ。それに、すぐに居なくなるってわけじゃないんでしょ?」
楓「…………そうですね。もしかしたら当分先かもしれないし、少しせっかちだったのかも」
蘭子「私、もう泣かないよ。かえでさんのこと、好きだもん。約束する」
楓「ふふっ、じゃあ約束ね」
楓はそう言って蘭子の真っ白な肌に触れた。
冷たさはもう感じなかった。
次第に楓は眠くなって目を閉じた。
穏やかな闇が楓を飲み込んでいった。
………―――。
【――epilogue】
.
――そして、月日は流れました。
楓さん……あなたが私たちの元から去っていってしまったあの日から、私たちはどんなに、辛くて、寂しくて、悲しい日々を送ってきたことでしょう。
知ってますか?
私、あなたのことが、とても好きだったんです。
でも、それをはっきりと伝える前に、あなたは行ってしまった。
私はずっと、そのことで後悔し続けていました。
もっとたくさんおしゃべりしたかった。
もっとたくさん触れ合っていたかった。
失ってから気づくには、あなたの存在は、私の人生にとってあまりに大きすぎました。
どうしてもっと素直になれなかったんだろうって……あなたは私をずっと愛してくれていたのに、私はあなたをきちんと愛してあげることができたんでしょうか?
私はそれを確かめたかった。けれど、あなたはもう居ない。
あなたの声が聞きたいです。
……楓さん、あなたは今、どこにいるんですか?
私の声が、聞こえていますか?
……あなたが居なくなってしばらく、私の心にあったのは、からっぽの空洞だけでした。
いっぱい泣きました。
あなたが居ない寂しさに耐えられないと思った事もありました。
それでも、私が挫けずに生きてこられたのは、あなたがたくさん愛してくれたこの子が、今日まで私の傍にいてくれたからです。
楓さん。
あの子が、蘭子ちゃんが、どれほどあなたの事を好きだったか、あなたは知っていますか?
あの子は、あなたが眠ったまま目を覚まさず、もう二度と起き上がることがないと理解するのに、少し時間がかかりました。
それもそうですよね。
私だって、最初は受け入れられなかったんですから。
でもあの子は、あなたが死んだのだと理解しても、けっして泣くまいと、まるで自分にそう言い聞かせているように、必死に涙を堪えていました。
「約束したから」って、そう言って、本当はとても悲しくて苦しくて仕方ないのに、あの子はどこまでもあなたにとっての良い子であり続けようとしました。
「かえでさんは、みゆさんのことも私のことも大好きだったって。だから、悲しむ必要なんてないんだよ」って、私がついあなたのことを思い出して、悲しみと後悔に泣いてしまいそうになるたびに、あの子はそうやって私を慰めてくれました。
それでもやっぱり、あの子もまだ子供だったから、隠れて泣いたりしていたんですよ。
……楓さん。
私たちは、あなたを失った悲しみを乗り越えるのに、たくさん時間がかかりました。
そうしているうちに、私や、蘭子ちゃんを取り巻く世界も、少しずつ変わっていきました。
色々あったけれど、今はもう、ちゃんと前を向いて進んで行きたいと思えるようになりました。
私も、乙女の端くれですからね。
……楓さん。
あの子はもう、立派な大人になりましたよ。
.
◇ ◇ ◇
卯月「……あっ、来ました!」
美波「蘭子ちゃーん」
蘭子「美波さん、卯月さん、おはようございます!」
卯月「わぁっ蘭子ちゃん、スーツ似合ってますね!」
蘭子「卯月さんこそ、まるでベテランのOLみたいです」
卯月「わ、私はその……就職活動が長引いて、それでその時のスーツのままだから……えへへ」
美波「蘭子ちゃんは就職活動すぐに終わったものね」
蘭子「はい。ここに入るって、最初から決めてましたから」
卯月「蘭子ちゃんは偉いなあ、しっかり自分のやりたい事が決まってて……」
蘭子「……いえ、それが、私は特に何かをやりたくてここに入ったわけじゃないっていうか……」
卯月「そうなの?」
蘭子「…………かえでさんが昔やっていた仕事を、自分もやってみたいなあって、そう思ったんです」
卯月「……そっか、そうですよね。すみません、変なこと言っちゃって」
蘭子「そんな、謝らないでください」
美波「ふふっ、でも楓さんって、ああ見えてすごくデキる人だったから、それに追いつこうと思ったら大変ですよ」
蘭子「が、頑張ります!」
卯月「私も精一杯、頑張ります!」
武内「みなさん、そろそろ始まりますので……」
卯月「あ、はい! 蘭子ちゃん、行きましょう!」
武内「……今年の新人は元気がありますね」
美波「武内さんはあの2人の事、知ってます?」
武内「ええ、卯月さんという方は確か、渋谷技術部長のところのドールだと……しかしもう一人の方はあいにく……」
美波「もう一人の方は、楓さんのお宅のドールなんですよ」
武内「! ……それは初耳です」
美波「あの人が居なくなってから、どれくらい経ったんでしょう……なんだか随分昔の事のような気もするし、つい最近まで一緒に働いていたような気もします。不思議な人でしたけど……」
武内「同感です」
美波「あれから会社も、少しずつ変わっていったようで、いい加減なところの根っこは変わってませんね。私、時々思うんです。こんな適当な会社で、私もよくここまで働いてきたなあって」
武内「そ、それは……そうなのですか?」
美波「そうなんですよ。でも別に辞めたいってわけじゃないっていうか……ふふっ、私なに言ってるんだろう。せっかく入社式っていう日なのに、先輩がこんなんじゃダメですよね」
武内「はあ……」
美波「……さ、私たちもそろそろ行きましょう」
武内「ま、待ってください」
蘭子「……今年のドール枠は、私と卯月さんの2人だけなんですね」
卯月「というか、新入社員が私たちしか居ないんですけどね」
蘭子「え、そうだったんですか」
卯月「ここは最近、通常社員の募集を減らして、ドール枠を増やしてるんだそうです」
蘭子「ドールの社会進出に積極的とは聞いてましたけど、そんな裏もあったんですね」
卯月「まあドール人口も年々増え続けてますから、逆に言えば私たちすごい倍率を潜り抜けてきたのかも」
卯月と蘭子が話しこんでいると、会場に社員らしき人たちがぽつぽつと集まってきた。
新入社員が2人しかいないので、暇な人だけが覗きに来たという感じである。
するとおもむろに入社式が始まった。
挨拶をするのは、社長ではなく、渋谷部長である。
渋谷「えー、新入社員のみなさん! というか、お二方! ご入社おめでとうございます」
式というよりも、朝会のノリである。
横には『総務部(カワイイ部長)』と名札をつけた女の人がなぜか自慢げに立っている。
渋谷「この度、我が『美城芸能』は創立50周年という大きな節目に立ち、その業績も近年大いにめざましい拡張を遂げ……」
云々。
渋谷「……であるからして、我々一同、ドールの方々の多大なる社会貢献を期待するものです。以上!」
ぱち、ぱち、ぱち。
やる気のない拍手。
幸子「では次に、新入生の方、簡単な自己紹介をお願いします。えーっと、じゃあまずは卯月さんから」
卯月「は、はいっ!」ガタン。
立ち上がるだけで何かを蹴飛ばしてしまいそうになる危うさである。
蘭子は自分よりもむしろ卯月の振る舞いにハラハラして気が気でなかった。
……とまあ、こんな感じで入社式はつつがなく執り行われたのだった。
◇ ◇ ◇
蘭子「ただいまー……」
美優「おかえりなさい。あら、卯月ちゃんも」
卯月「お久しぶりです!」
美優「本当に久しぶりねえ。それにしても早かったんですね。……さ、卯月ちゃんも上がって」
卯月「お邪魔します」
蘭子「書類とか貰ってきたよ」
美優「ああ、後で私にも見せてくださいな……ごめんなさいね、散らかしちゃってて」
卯月「全然そんなことないです! むしろ私の部屋の方がずっと汚いっていうか……」
美優「そういえば、卯月ちゃんは今は凛ちゃんと同棲してるんでしたっけ?」
卯月「はい、そうなんです! 私がいつも散らかすから、凛ちゃんがそのたびに片付けてくれて」
蘭子「ふふっ、卯月さんも凛さんも、昔から変わらないですね」
美優「2人とも本当に仲が良いのね……あ、飲み物持ってきますね」
…………。
蘭子「……うん、それでね。入社式もあっという間に終わっちゃったから、する事がなくて幸子さんっていう方に社内を案内してもらったんだ」
美優「そうだったの」
卯月「途中、変な部屋があったんですよね。幸子さんも『こんな部屋、ありましたっけ?』って言うし」
蘭子「机とパソコンだけがぽつんって」
卯月「そしたら幸子さんも、『まあ、ウチの会社にはよくある事ですよ、フフーン』なんて言って」
美優「相変わらずなんですね、あそこも」
蘭子「みゆさんは行ったことないの?」
美優「ないですねえ」
蘭子「じゃあ、かえでさんが働いてるところも、見たことなかったんだ」
美優「言われてみれば……そう考えると、1回くらいは行ってみたかったですね」
卯月「いつでも来て大丈夫ですよ! 歓迎します!」
蘭子「卯月さん、私たちまだ入ったばかりですから……」
卯月「あ、そっか。えへへ」
美優「でも、芸能事務所なんでしょう? 有名人の方とか、いらっしゃるんでないの?」
蘭子「ああ、それはね……」
卯月「芸能っていうのは名前だけで、別にタレントがいたりするわけじゃないらしいんです」
蘭子「渋谷さんが、よく間違われるんだって笑いながら言ってました」
美優「そういう所も相変わらずなんですね」
美優が笑うと、蘭子と卯月も釣られて笑った。
卯月は、思った以上に美優が楓の話題を怖がらないのが意外だった。
楓がいなくなった時……つまり死んだ時、美優がどれだけのショックと悲しみを背負ったか、卯月とて知らないわけではなかった。
しかし卯月をはじめ、他の誰も、楓が死んだ時の詳しい話を聞いたことがなかった。
ただ一つ聞いたのは、楓が昔作られた軍用ドールの廃棄されなかった生き残りという事だけだった。
その事実を知っているのも、美優の知り合いの中では渋谷家の者くらいである。
美優「前の名前の時、つまり『三池農場』の時も、別に農業とかをやっているわけじゃなかったんですって」
蘭子「ふぅん……でも、どうして名前を変えたんだろう?」
卯月「それ、お父さんに聞いたことあります」
蘭子「なんて言ってたんですか?」
卯月「気が付いたら変わってたんだ、がっはっは……って」
美優「なんですか、それ」アハハ。
蘭子「やっぱり、あの会社ヘンです」
そう言いながら、またみんなで笑うのだった。
すると、唐突に、何か奇妙な閃きのようなものが蘭子の頭をよぎった。
蘭子「美城芸能……み城げいのう……?」
卯月「? どうしたの、蘭子ちゃん」
み場けいのう……とまで考えて、蘭子は思わず噴き出しそうになった。
くだらない言葉遊びである。いかにもあの会社らしい冗談だった。
蘭子「なんでもないです。ふふふ」
「なぁに、一人で笑って」と美優に茶化されながら、蘭子はこの秘密に気づいた事がなんだかとても嬉しくなって、誰にも話さないでおこうと決めた。
美優「あっ、そうだ卯月ちゃん。今日はウチに泊まっていかない?」
卯月「急にどうしたんですか?」
美優「あのね、蘭子ちゃんの入社祝いに、実はすごく良いお酒を買ってきたの! だから卯月ちゃんのお祝いも兼ねて、一緒に飲まない? もちろんお料理も準備してありますし」
卯月「あー……私はいいんですけど、凛ちゃんがなんて言うか……」
蘭子「それなら、凛さんも呼んで4人でお祝いしようよ!」
蘭子は俄然楽しそうに身を乗り出した。
ドールはアルコールに対する免疫が非常に強いのである。
そして最近になって、蘭子はお酒を飲む楽しさを覚えたのだ。
卯月「ああ、それならいいかも! さっそく連絡してみますね」
美優「4人分なら、材料もちょうど全部使い切れそうね。それにしても凛ちゃん卯月ちゃんとお酒を飲むなんて、初めてじゃないかしら」
蘭子「次は、小梅ちゃんとかありすちゃんたちも呼んで一緒に飲もう!」
美優「まったく、蘭子ちゃんも随分お酒の味に夢中になっちゃって……誰に似たのかしらね」
美優はまんざらでもない様子である。
そして蘭子は、何やら得意気に口元に微笑を浮かべながら、こう言った。
蘭子「なんて言ったって、お酒の付き合いは"さけ"られませんからね……ふふっ」
おわり
やたら長いのを最後まで読んでくだすってありがとうございます。
元ネタはたくさんありすぎて一つ一つ紹介しにくいのですが、大まかには北野勇作/攻殻/フィリップKディック/ファンタジスタドールだったと思います。
特に三池農場―美城芸能にまつわる会社話の骨組みは北野勇作の「昔、火星のあった場所」から着想を得たのですが、
ぶっちゃけパクリレベルでまんま同じだったりするので、むしろ興味がある方は元ネタの方を読んでみてください。
融合のくだりは攻殻の人形遣い、ドールとサーフェイスWETはファンタジスタドールイヴ、
共感覚空間は電気羊のエンパシーボックスがそれぞれ元ネタです。
あとスペースネットはターミネーターのスカイネットから。
設定的に詰めの甘い部分が多く、正直私も全部を解説しきれないのですが、
分かりづらかったところの補足説明としては、楓さんの千川ちひろ襲名のくだりは簡単に言うとクレしん映画逆襲のロボとーちゃんです。
細かい所だけど、雑貨屋の店主もモバマスのアイドルだったら尚良かった
>>180
小梅とセットということで松永さんも考えたんですが、
お姫ちんに蘭子のこと「面妖な」って言ってほしかったのでこうなりました。
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