千早「どこにも含まれません」 (16)

千早は私が休んだ次の日には決まって「私と会えなくて寂しかったですか?」と尋ねる。寂しくなかったと答えると殴られる。寂しかったと答えても顔を赤くしてから暫くして殴られる。私は(自分の言ったことが恥ずかしいのに言わずにいられないのだなあ)と思う。

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千早はライブ中は本当に楽しそうに歌うけれど、ライブ終わりの打ち上げでは決まって「ライブなんかしなければよかった」と言う。楽しいことが終わるのは嫌だから、いっそ楽しいことがなければよいと思うらしい。得ることは失うよりも辛く、思い出になる切なさを誰よりも判っているからだ。

千早は弟の墓石に手を合わせる。その背中の薄さにたまに私は(この子はこの世のものではない)と思う。彼女は喜ばずに産まれてきた。笑えば損をするような美しい横顔には涙が似合うのだから、きっとそのように産まれてきたのだ。

千早は春香と話すとき困った顔をして笑う。自分は笑ってもいいのだろうかと逡巡した挙げ句、堪えきれずに笑う。

千早は笑うときに罪悪感を感じる。笑うことは自身の背負うものに対して不謹慎ではないのか、背負うことを厭うことは堕落ではないのか、涙が止まることこそ涙を流すべき理由となるのではないか。そんなことを考えるからだ。

だからそんなことを飛び越えて笑わせてくれる春香のことを好いている。

千早は父親のことを、あまり思い出せない。弟が亡くなった日に涙を流さなかった姿は、自分の世界のどこにもいないような気がするからだった。父も母も好きではなかったが、母とは涙で繋がっているような気がするのだった。

千早は誰にも届けるつもりのない手紙を書くことがあった。それは歌だった。千早は歌うとき大勢の前であってもひとりきりのような気がするのだった。

弟の顔を忘れてしまったとき、千早は本当に悲しんだ。知らないふりをしていたのだ。父と母を責めるくせに、その自分が弟を忘れたことこそが(一番罪深い)と懼れおののくのだ。千早は写真を眺める。弟の顔を思い出すためではない。自分が弟といたときのことを思い出すためだ。

たまに千早は行方不明になる。携帯電話を家に置き忘れたとき、簡単に自分は行方不明になることを知ってからは、気が向くと行方不明になる。翌日事務所で春香から「昨日電話したのに、どこ行ってたの?」と尋ねられたとき、自分が本当に自由になった気がするのだった。

どこか遠くの街。千早は自分以外の誰かについてそんな印象を抱く。自分はそこに住んでいるわけではない。そこに自分はどこにもいない。自分は含まれない。含まれないという形で含まれているから、千早は含まれない自由を味わった。

そして千早は何度も行方不明になるうちに、誰にも気付かれないようになった。存在が希薄になり、その歌は沈黙となった。春香が「そういえば誰か足りない気がしますね」と765プロ全員の集合グラビアを撮る間際に呟いたとき、私は千早のことを覚えている最後の一人になったと知った。

千早が千早であることを忘れたとき、私は本当にひとりきりになった。

あるとき不意に後頭部を誰かに殴られた気がした。私は痛くなかったけれど「いたっ」と呟いて、振り向いた。

もちろん誰もいなかった。

どんとはれ

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