仁奈「人間の気持ちになるですよ」 (165)


初めの異変は『ネコの死体』だった

「……これって」

事務所のすぐわきの路地に、ぽつんと捨てられたネコがいた。
ぐったりと横たわったそれは、生気が感じられなかった。
そのすぐ上には、羽虫が湧いていて、ぷぅんと音を立てていた。

血に塗れた路地裏は、生臭い異臭を放っていた。

もしかすると、それだけなら……まだ良かったのかもしれない。

その死体がおかしさに気づいた時、私は思わず悲鳴を上げた。


――そのネコの死体には、『中身』が全くなかった。



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「美優、どうかしたのか?」

事務所の中でハンカチで口を押えた私を見て、プロデューサーさんは心配そうに声をかけてくれた。
初めは何もないと言い張っていた私だったが、あまりにも様子がおかしいためか何度もプロデューサーさんは理由を尋ねてくれた。
私は顔を青くして、唇を震わせながら、さっき見たことを伝えた。

「私、仕事があるのに……こんな……」

弱音を吐く私は、今にも泣きたくなっていた。
プロデューサーさんは、そんな私を気遣ってか、すぐに飲み物や毛布を持ってきてくれた。

「落ち着くまで、ちょっと休んどくんだ」

そう言うと、慌ただしく机に戻り、すぐに仕事についての変更などを電話で伝えていた。

※ミス


「美優、どうかしたのか?」

ハンカチで口を押えた私を見て、プロデューサーさんは心配そうに声をかけてくれた。
初めは何もないと言い張っていた私だったが、あまりにも様子がおかしいためか何度もプロデューサーさんは理由を尋ねてくれた。
私は顔を青くして、唇を震わせながら、さっき見たことを伝えた。

「私、仕事があるのに……こんな……」

弱音を吐く私は、今にも泣きたくなっていた。
プロデューサーさんは、そんな私を気遣ってか、すぐに飲み物や毛布を持ってきてくれた。

「落ち着くまで、ちょっと休んどくんだ」

そう言うと、慌ただしく机に戻り、すぐに仕事についての変更などを電話で伝えていた。


しばらくして、少し落ち着いたころ、またプロデューサーさんは私に話しかけてきた。

「大丈夫か? 気分、悪くないか?」

「いえ……少し、落ち着きました」

「そうか、良かった」

心底安心したように、プロデューサーさんは胸を撫で下ろしていた。

「俺、まだこの仕事に就いてからあんまり経ってないだろ。だから、担当アイドルの些細なことでもつい気になっちゃうんだ」

コーヒーを片手に啜りながら、そう伝える彼に私は思わず頭を下げる。

「……すいません」

「いや、美優が謝ることじゃない。気づけなくて悪かった」

プロデューサーさんは、私の頭を撫でると「別の仕事があるから行ってくるよ」と一言告げて、事務所を去っていった。
私の頬は、まだ温かかった。


「……」

今日は事務所には誰もいなかった。
シンと静まり返った部屋で、私はまた今朝のことを思い出していた。

「……なんであんなこと」

怒りや悲しみに溢れる心が、ゆらゆらと揺れ動いていた。
フラッシュバックする光景は、まだ私を捕え続ける――。

くり抜かれた中身、ただ皮だけが残る猫の死体。それに群がる蟲の群れ。
およそ普通の日常では見ることのない光景だった。
あれはきっと――誰かが。


「美優おねーさん? どうかしたでごぜーますか?」

そんなとき、一人の女の子が私に話しかけてきた。

「仁奈ちゃん……」

眉を下げて不安そうな表情をする仁奈ちゃんに、私はすぐに笑顔を作る。
仁奈ちゃんは気落ちした私を心配そうな目で見つめていた。

「美優おねーさんが悲しい顔をしてると、仁奈まで悲しくなるでごぜーます」

「……そうね、ごめんなさい」

ぽすりと、かわいい音をたてて仁奈ちゃんは私の横に座る。

「仁奈、美優おねーさんの力になりたいです」

私の袖を小さな手で握りしめながら、そんなことを口走る可愛らしい女の子を私は撫でる。


「仁奈ちゃんが傍にいてくれるだけで……私は嬉しい」

心底気持ちよさそうに仁奈ちゃんは目を細めた。

「ほら……いつもみたいに、私の膝使って?」

ぽんぽんと膝を叩くと、戸惑いながらもすぐに横になった。
小さな子供をあやす様に、私はその小さな頭を撫でる。

仁奈ちゃんはこの前貰った新曲を鼻歌で歌いながら、私の膝に頭を乗せていた。
私もメロディに合わせて、小さな声で歌を歌う。

まるで親子みたい――なんて、そんなことを思いながら。


そんなとき、仁奈ちゃんの着ていた着ぐるみの頭がズレて、その髪の毛が顔を出した。
ふわふわとした髪の毛を見て少しだけ羨ましいなと感じていた私は、くしくしと髪を梳く最中でふとした違和感を覚えた。

「……?」

仁奈ちゃんに聞こえるか聞こえないかの声で、私はその違和感を口に出した。

そう、彼女の頭には――微かな傷跡が残っていた。

傷について、すぐに仁奈ちゃんに聞こうとしてすぐに思いとどまった。
女の子のつけた傷を聞くなんて、ましてやまだ小さな子供の付けた傷だ……きっと、転んで付けたのだろう。

私はズレた着ぐるみの頭を直すと、また彼女に合わせて鼻歌を歌い出した。


「仁奈、美優。もう夕方だぞ」

誰かの声がして、私ははっと意識を取り戻す。
慌ててきょろきょろと周りを見渡すと、すぐ目の前に私と膝の上で眠る仁奈ちゃんを見下ろすプロデューサーさんが立っていた。

「……えっと、夕方……ですか?」

「ああ、二人で眠っていたみたいだな。仁奈も気持ちよさそうにしてる」

そう言われてまじまじと仁奈ちゃんを眺めると、私に抱き付くように涎を垂らしていた。


「本当ですね……どんな夢を見ているんでしょうか……」

「きっと美優と二人でどこかに行ってるんだろう」

二人で笑い声をあげていると、目をごしごしと擦りながら仁奈ちゃんが目を覚ました。

「あれ、仁奈もしかして寝ていましたか?」

「ああ、あんまり気持ちよさそうだったから仁奈の仕事は薫に代わってもらったよ」

「うう……申し訳ねーです」

ぐったりと項垂れる仁奈ちゃんに「明日の仕事は頑張ってもらうからな」と付け加えたプロデューサーさんだったけれど、その気遣いはきっと私のことを思ってのことだったに違いない。


「ありがとうございます」

そう感じ取った私は深々と頭を下げる。

「何のことだ?」

そうとぼけるプロデューサーさんに、私は心の中でもう一度お礼を言った。

「仁奈、今日は俺が送っていくから――ああ、美優も一緒にな」

車のキーをくるくると回しながら、プロデューサーさんは事務所の外へと向かっていった。
……早く出る支度をしないと。

私は仁奈ちゃんと共にソファから腰を上げた。

一旦ここまで。
最後まで考えてるので、ちまちま更新していきます。


――どうして? 
不穏な感情が一瞬、頭をよぎった。
鈍い汗を額に浮かべそうになる私をよそに、仁奈ちゃんは言葉を続ける。

「学校の工作でぬいぐるみを作ったですよ。でも、まだ完成出来てねーです……」

しょんぼりとする仁奈ちゃん。
どうやら……ぬいぐるみを授業中に完成出来なかった彼女は、私と一緒に作ってくれないかと頼んできたようだった。
ただそれだけのことだったのだけど……。



「綿を……詰めればいいのよね?」

仁奈ちゃんはあの日のことを何も知らない。
だから私がネコのぬいぐるみに対して抱く感情も、知らないはずだ。

脳裏にちらつくのは、あのおぞましい光景。
切り裂かれたネコの姿。

「……どうかしましたか?」

こちらを眺める仁奈ちゃんを直視することが出来なかった。


……それがなぜかは分からなかった。





――私が確かに覚えた、微かな違和感。


――それは日を重ねるごとに、色濃く脳を侵食していくようだった。


――まるで、じわり、じわりと見えない何かに追い詰められていくかのように。




また別の日のこと。

「美優おねーさん、絵本を一緒に読んで欲しいでごぜーます」

すっかり私を頼るようになった仁奈ちゃんは、今日も何かを私に頼んできたようだった。

「絵本……?」

「はい、ええと……、これを読みやがってください」

彼女に手渡された本は、黒々と陰鬱な雰囲気が漂う表紙が印象的だった。
二つに服が分かれたような大人が一人真ん中に立ち、右手と左手で二人の子供と手を繋いでいた。
この真ん中にいる大人は……もしかすると、男と女が合わさっているのだろうか?


「……『おぞましい二人』?」

子供が読む本にしては、やけに鬱屈としたタイトルだっただけに眉を顰める。
著者が『エドワード・ゴーリー』ということから、どうやら……海外の本らしいけれど……。

仁奈ちゃんはと言うと、ぽすりと私の膝の上に座ると、そのままぱたぱたと足を上下に揺らしていた。
何一つ変わらないそぶりを見せる彼女を一瞥して、余計に私は混乱した。


「どうかしたでごぜーますか?」

ぐるりと首を上に向けて、私の反応をうかがう仁奈ちゃん。
ふと、絵本を持つ手に力が入る。
大丈夫――そう自分を落ち着かせると、私はページを捲った。




『五歳のとき、ハロルド・スネドリーは病気の小動物を石ころで叩き殺しているところを見つかった。』




そんな書き出しから始まった『おぞましい二人』という絵本は、おおよそ私の危惧した通りの内容だった。


あまりにも”酷い”内容に私は、途中で仁奈ちゃんと共に読むことを止めた。
彼女は、そのおぞましい内容に疑問符を浮かべていた。
恐らく……その本の意図することが分かっていないようだった。

私は生唾を飲み込むと、仁奈ちゃんの方を向いて言葉を投げかける。

「……仁奈ちゃん、どうして……この本を読もうと思ったの?」

客観的に見ても、至極全うな質問だったと思った。

そう――彼女は『何かを間違える』、その直前にいるのではないだろうか。


“人”としての歯車が、少しずつかみ合わなくなっているような――そんな気がしたのだ。

ここまで。まだ、少し続きます。


ぐるぐると思考だけが巡っていた時だった。

「……なんだ、二人ともいたのか」

ふと開かれた事務所の扉の奥から、プロデューサーさんが姿を見せた。

「プロデューサーさん……」

か細い声で私は唇を震わせえた。

「美優、体調の方はもう――」

そんな私を変に思ったのか、すぐに声をかけてくれようとしたプロデューサーさんだったが、その声は途中で途切れた。


その目線の先、そこには仁奈ちゃんがいた。
私の膝の上に座る仁奈ちゃんは、先ほどから声も出さず下を俯いていた。


私の手の中にある『おぞましい二人』になぜか力が入った。


プロデューサーさんは、仁奈ちゃんをじっと眺めた後、ほんの一瞬だけ――そう、私が気づくか気づかないかの間だけ、私の手の中に納まった絵本を見た。

プロデューサーさんはそのことに何も言わずに、「また後で来るよ」と一言残すと、再び事務所の外へと飛び出ていった。

……胸がバクバクと鼓動を立てた。


また別の日のことだ。

その日はあいにくの雨だった。
しとしとと窓を濡らす水滴に、溜息をつきながらも私は事務所へと向かう廊下を歩いていた。
早朝だったためか、特に行き交う人もおらずスタスタと私の歩く音だけが響いていた。

「……だから……そう……なんで……」


……ただ、遠くから聞こえた誰かを除いて。


何故かその声の主に聞き覚えがあった私は、声のする方へと歩みを進める。
足を進めるにしたがって、声はより鮮明に聞こえてきた。
誰も使ってないはずの部屋から発せられた音の正体……それは男の人の声だった。

何の話をしているのだろう、と扉に耳を澄ませようとした矢先。

ガチャリと開かれた扉から現れたのは――仁奈ちゃんだった。

「……」

仁奈ちゃんは私がそこにいたことに驚いたかのように目を見開いたものの、何も言わずに私の横を通り過ぎていった。


そんな彼女を不審に思っていた私の肩に、誰かが手を置いた。


「美優、そんなところで何をしてるんだ?」

「プロデューサー……さん」

扉の向こうから現れたプロデューサーさんは、いつも通りの落ち着いた表情で私に声をかけてきた。
そんな彼に驚きを隠せないまま、私は何とか頭の中の言葉を声にする。

「声が……聞こえてきたので……」

それは偽りのない言葉だった。
「……何か、聞こえたか?」

ちらりと私の目を覗く彼の瞳の奥に、思わず吸い込まれそうになった。
数秒の間、固まっていた私は小さく首を横に振った。


「そうか」

ただそれだけを返すと、プロデューサーさんは「仕事の準備しておくんだぞ」と私の頭に手を置き、事務所の方へと向かっていった。

彼がその場を去ってからしばらくの間、私はその場で立ち尽くしていた。

私は、彼の手が置かれた頭を自らの手で摩った。


「疲れた……」

仕事が終わり自宅へと戻った私は、ぽすりとベッドに体を預けた。
このまま寝てしまおうかとも考えたけれど、帰りに少し雨にうたれたこともあり、シャワーだけでも浴びてしまおうと思い至る。

「……」

シャワーを浴びている最中、私は考え事をしていた。

――今日、あの場所でプロデューサーさんと仁奈ちゃんは何を話していたんだろう。
――そもそも、近頃仁奈ちゃんの様子がおかしいのはなんでなんだろう。
――『おぞましい二人』という絵本、彼女はなんであんな本を読もうと思ったんだろう。
――ネコのぬいぐるみも……、あの一件と被ってしまうところがあるし……。


纏まらない考えに苛立ちを感じながら、ザアッとシャワーの水を鏡にかける。
そこに映っていたのは、私自身だった。

訝しげに顔を歪ませるそれは、アイドルとは思えない表情だった。
「……考えても、無駄かしらね」

明日も仕事がある。
結論に行きつかない問題を考えても、解決しないのは目に見えている。
だったらもう忘れた方が……。


「ふう……さっぱりした」

シャワーから上がった私は、タオルで髪を拭きながらリビングへと戻ってきた。
部屋の明かりをつけようと思っていた時、何かがチカチカと光っていることに気付いた。


「……?」

灯りをつけ、その光源の元へ足を運ぶ――どうやら誰かから連絡が来ていたようだった。

「こんな時間に……誰かしら」

もう時刻は22時を過ぎていた。
窓の外は未だしとしとと小雨が降り注いでいた。

その連絡の差出人は――プロデューサーさんだった。

ここまで。あと三回くらいの更新で終わるはず。


なぜこんな夜遅くに……。
プロデューサーさんからは一通のメールが送られてきていた。
不思議に思った私は、想定できる選択肢を頭に思い浮かべる。

例えば、明日の仕事内容に変更があっただとか、新しい仕事についての連絡であったりだとか、……単に私と連絡を取りたかっただけだったり。

考えられることはたくさんあった。
けれど、そのどれもが間違いであるという可能性もあった。

――仮にこれらが間違いであれば、プロデューサーさんの連絡はきっと……。


私はチカチカと主張を続けるスマホの画面を眺める。
スッと画面を開くと、私は意を決してメール通知に目線を移した。

……そこには件名すらもないメールが一通あった。


『今から事務所に来てくれないか?』


ただ一行だけ綴られた文章に、私は首を傾げる。
もう一度、時計を一瞥する。針は変わらず22時を指していた。


それはあまりにも唐突な呼び出しだった。理由も書かれておらず、何の目的かも定かではなかった。

「……どうしようかしら」

とりあえず連絡を返そうと、私はプロデューサーさんに対して返信を送った。
けれども、10分、20分待っても返信は送られてこなかった。

正直なところ……メールは、仁奈ちゃんに関する内容だと思っていた。
今朝のあの不自然な二人の様子を見た私に何かを言いたかったことがあったのではないかと。
しかしその当てが外れた今、プロデューサーさんが事務所で私のことを待っているかもしれないという事実が迫ってきた。


結局30分ほど待っても連絡が来なかったために、私はメールの言う通り事務所へ向かうことを決めた。

雨は既に上がっていたものの、月夜に照らされた地面はテラテラと濡れていた。
シャワーを浴びたばかりだったためか、雨で冷え切った外の空気は肌に突き刺さるかのように冷たかった。

「……行かなくちゃ」

そう呟くと、私は事務所へ向かう道を歩み出した。
……一歩ずつ、一歩ずつ。


事務所のある高層ビルの前に辿り着いた時、そこに立っていた警備の人が不審げな顔でこちらを覗いてきた。

「あの、私……こういうものです」

346プロダクションに所属していることを明かすと、警備員はやや不満げにビル内に立ち入る理由を尋ねかけてきた。
すぐに事情を打ち明けると、しぶしぶといった様子でビルの中へと入る手続きをさせてもらった。

もしかすると深夜帯の立ち入りは、警備員にも相応の責任が伴うのかもしれない……心で警備員に謝罪の意を込めると、私の体はビルの中へと吸い込まれていった。


ビルの中はいつもの煌びやかな雰囲気はなく、暗がりにシンと静まった空気だけが漂っていた。
私はその空気に耐えられず、思わず身震いをした。

「……早く行かないと」

恐らくプロデューサーさんは、いつも私や仁奈ちゃんがいるあの部屋にいるはずだ。
そう思いながら歩みを進める。
一歩ずつ、足を運ぶたびにコツコツと足音が広い空間に響く。

何故だかそれが嫌に気味が悪く思えた。


「エレベーターは……止まってるみたいね」

上の階層へと向かうためには、どうやら階段を使わなければならないようだった。
疲れた体に鞭を打ち、私はエレベーターの隣にある階段に足をかける。

電気全てが止まっているのだろうか、先ほどから自動で作動するはずの天井の電灯はなりを潜めたままだ。

「暗い……」

目を凝らしながら一歩、一歩、足を踏み外さないように上へ上へと昇っていく。
段差を上がるたびに、どこからかギシリと奇怪な音が鳴り響いた。


真っ暗な空間は、不思議と頭を冴え渡らせるようで、私の頭はまたぐるぐると巡っていた。

ふと、ぼんやりと仁奈ちゃんの顔が浮かび上がってきた。
ぐにゃぐにゃとした彼女の幻影が、私の頭の中でけらけらと笑っていた。

『美優おねーさん』

彼女は嬉しそうに私の名前を呼ぶ。
何の曇りのない瞳で、私の名前を呼ぶ。
何度も、何度も、何度も。


彼女はごそごそと懐から、『ネコのぬいぐるみ』を取り出すと――その背中をブチブチと音を立てて開いた。

『仁奈、ネコの気持ちになるですよ』

気がつけば、彼女は猫の着ぐるみに身を包んでいた。
そのネコは、あの日私が路地裏で見た、血まみれのネコだった。

『……美優おねーさん、仁奈、次は人間の――』



そこまで考えて、私はぶんぶんと首を振った。
バカバカしい――苛立ちを隠せないように、私は階段を上る速度をあげた。

眠気と、疲れが私の意識を混濁させているのかもしれない。
暗闇に少しずつ慣れてきた瞳は、私の生み出した仁奈ちゃんの幻影を消し去った。


事務所へと続く階に差し掛かった時、突如としてポケットの中のスマホが震え出した。

もしかして――と、私はすぐさまポケットを弄るとスマホを取り出した。

「プロデューサーさん……から……」

今回は着信だったようで、『プロデューサーさん』と名前が画面に映し出されていた。
通話ボタンを押すと私はスマホに耳を当てる。

「もしもし……」

恐る恐る、私は声を出す。
しかしプロデューサーさんからの返事はなかった。
向こうからはザーと何かが掠れるような音が響いていた。

電波が悪いのかもしれないと思い、もう一度私は「もしもし……」と声を出した。

ここまで。まだ少し続きそうです。
にんげんっていいな。


「……美優」

ぼそりと声が聞こえた。重く沈み切った空気が耳から伝わってくるかのようだった。
それはいつものプロデューサーの声とはかけ離れていて、思わずぐっと息をのんだ。

「プロデューサーさん……あの……」

私は、いろいろ聞きたかったことを言葉にしようとしどろもどろになりながらスマホを握りしめる。
しかし、私の声を遮るかのようにプロデューサーさんはさきほどより少し大きな声を出した。


「今、どこにいるんだ――?」

「もうすぐ……いつもの部屋に着きます」

そう言った途端、プツッと電話音は途切れた。
スマホの画面を眺めると、既に画面は真っ暗になっていた。

「……?」

明らかにさっきの声は――そう、いつものプロデューサーさんのものとは思えなかった。
何かの衝動に取りつかれているかのような……そんな焦りさえも垣間見えたくらいだ。


引き返そうか、とも考えた。
けれどプロデューサーさんの意図も分からないまま引き返していいのだろうか。

「……話だけでも聞かないと」

結局、私は階段付近で止まっていた足をまた動かし始める。
床を踏みしめる度に、それに呼応するかのように心臓がバクバクと波打った。
それを抑えようと、右手を胸の前にまで持って行く。

「……」

部屋の前にたどり着いた時、突然不安に襲われた。
何が私をそうさせているかもわからない――ただ、握りしめたドアノブをすぐに回すことは出来なかった。


「ふぅ……」

気持ちを落ち着かせようと小さく息を吐く。
暗闇は依然として私の心を不安で埋めようと様子を伺っていた。

ガチャリ、とノブを回す。
キィと金属が擦るような音が聞こえると私は部屋の中へと誘われた。

部屋は今日仕事に来た時のままの状態だった。
キョロキョロと辺りを眺めるが、どうやらプロデューサーさんの姿はないようだ。


「……」

暗闇の中に一人でいるという恐怖は、孤独という寂しさを際立たせるからなのだろうか。
落ち着かない気持ちを和らげようと、私は近くにあった椅子に座った。

この部屋には扉が複数ついているやや大きめの部屋だ。
階段とエレベーター側に近い出入りする扉を使うのは事務所のアイドルが多い一方で、プロデューサーさんは車を使うためか車庫側の階段に近い入り口をよく使う。

プロデューサーさんが来るとしたら、ちょうど私の対角線上に位置する扉だろう。


じっとその扉を眺めていた矢先。
どこからかガタン、ガタンと大きな音が鳴り響いた。
びくりと肩を震わせると、その音がちょうど私が入ってきた扉の向こうから聞こえたこともあり、何が起きたのか確かめようと席を立とうとした――そのときだった。

「……着信?」

またもや私のポケットが震え出した。
すぐに取り出すと、そこには『プロデューサーさん』の文字が。


「はい、もしもし……」

通話ボタンを押した私は、スマホを耳に押し当てる。

「もしもし、美優か」

その声はプロデューサーさんの声だった。
さっきとは違う、いつものプロデューサーさんだった。

「あの、今、私事務所の中にいて……」

「ああ、待たせてすまない。さっきは電波が悪かったみたいだ」

いつもの穏やかな声を聞いて、さっきまでの不安は和らいでいた。


「いえ……あの、プロデューサーさんは今どこに……?」

「もうすぐ俺も事務所に着く。今ドアをあけるから――」

ガチャリ、と向かい側の扉が開く。
そこには携帯電話を手にしたプロデューサーさんの姿があった。

「あっ……」

「待たせて悪かったな、美優」

見える場所にいると言うのに電話はまだ繋がったままだった。
暗がりの中で、私のプロデューサーさんの声は二重に響いていた。


「あの電話がまだ繋がって――」

「こんな夜遅くに大変だったろう? 本当に悪かった」

プロデューサーさんは、私に何度も謝罪の言葉を告げる。
何故か私に話をさせないかのような対応に、困惑の色を隠せなかった。

「あの、プロデューサーさん……?」

「怖かったよな、こんな暗い場所に一人でいたなんてさ」

一歩ずつ、プロデューサーさんはこちらへ歩みよってくる。
コツコツと革靴の音が響く。目の前にいる彼の声は電話を通じて、まるで目と鼻の先にいるかのような錯覚を覚えさせた。


一歩ずつ、プロデューサーさんはこちらへ歩みよってくる。
コツコツと革靴の音が響く。目の前にいる彼の声は電話を通じて、まるで目と鼻の先にいるかのような錯覚を覚えさせた。

「なあ、美優……。お前、最近悩みでも抱えてるんじゃないか?」

まるでひとり言のように、プロデューサーさんはぼそりと呟いた。
彼はもう数メートル先までにじりよって来ていた。



そこまで来て気が付いたことがある――先ほどから、プロデューサーさんは『なぜか』左手を後ろに隠していた。



「悩み……ですか?」

「ああ、例えば――仁奈のこととかさ」

どきり、と心臓が弾けそうになった。
仁奈ちゃんの声が頭の中で聞こえてくる。
彼は表情も崩さずに、淡々とした口調で言葉を吐いた。

段々と、そんなプロデューサーさんの振る舞いが気味悪く見え始めていた。
コツコツと、彼は歩み寄ってくる。
ゆっくりと、踏みしめるかのように。



目の前までプロデューサーさんが来たとき、私は息をのんだ。
その瞳は私の姿を捕えていた。

彼はそこで初めて、にやりと笑みを見せた。



「……お前さ、本当は全部聞いてたんだろ?」



それは一瞬の出来事だった。
私は声にならない悲鳴をあげると同時に、いつの間にかプロデューサーさんのことを突き飛ばしていた。


ドサリ、と彼は後ろに倒れこむ。
それと同時に、カランと『何か』が地面に落ちた。

何が起きたのか、私にも分からなかった。
ただ――落ちた何かの方へ目を向けた私は絶句していた。


「――っ!」


それが刃渡り30cmほどの『ナイフ』だったのだから。

ここまで。思ったよりも長くなりそうです。
出来れば最後までおつきあいください。


ここ曲がって階段を下りれば……。
息を切らしながら走る。もうすぐ、もうすぐで――。

「……え?」

しかし、その希望はすぐに断たれた。

「そんな――どうして……?」

本来ならばあったはずの、階段へ続く道は大きな非常用の扉で閉じられていた。
バンバン、と私は扉を叩く。はっとその扉を目配せる。
どうやら、開くには鍵が必要なようだった。

焦りだけが脳を侵していた。
自分の息遣いだけが良く聞こえる。

やだ、やだ――嫌だ! 誰か助けて!

何度も、私は誰もいない廊下で叫んだ。


私は何かないか、と辺りを見回した。
何か、何でもいい――今の状況をどうにかしてくれれば、何でも……!

そのとき、私のいた扉のすぐ近くにトイレがあることに気が付いた。

「……!」

考えるまでもなく、私はそのトイレに駆けた。
一時しのぎでもいい。身を隠せる場所があれば。


女子トイレは、シンと静まり返っていた。
芳香剤の鼻につく香りをやけにはっきりと感じた。
鏡が私の姿を映す。その顔は恐怖で歪んでいた。

ガチャッ、と遠くで何かが開く音が聞こえた。

――出てきた。

それは私がトイレに入ったのと同時だった。
もしもあのままそこで立ち止まっていたら……。

私は口を手で押さえると、足音を立てないようにゆっくりと中へと進んでいく。

三つある個室の一番奥へと、私は足を踏み入れた。
扉を閉めようとして――すぐにその手を止めた。
扉を閉めてしまっては、ここにいることが一目瞭然だ。

扉を開け放したまま、私はぐっと息をのんだ。


「……」

くらくらと立ち眩みを覚える。
今立っている場所がどこなのかさえもはっきりとしない。
今更になって足ががくがくと震え出した。

私はその場に座る。なるべく音が出ないように、息を吸うことも吐くことも極力抑える。
何も見たくない。私は自らの目を閉じる。

そうしているうちに、さっきまで濁っていた私の頭が徐々に澄み渡っていくように思えた。

事務所で聞いたガタンガタンと言う音――あれは、階段へと続く扉を閉じる音だったのだ。

プロデューサーさんは私を……殺すために、ここへ呼び出した?
あの扉を閉めるためにわざと私より遅れてきたということだったの?
私が階段で鳴らされた電話、あれは私と鉢合わせしないように仕組んでいたの?


でも、どうして――どうしてそんなことを?



少しずつパズルのピースが合わさっていく。

そうだ、さっきプロデューサーさんは何と言っていた? 

『人間を殺すのは初めてだ』

“人間を”、そのフレーズが気になった。
人間以外――そこで私は、はっと息を巻いた。

私があの日、路地裏で見たあのネコの死体――あれはきっと。



「……」

どくん、どくんと心臓が揺れる。
ぽちょんと水滴が落ちる音が聞こえた。
誰もいない、このトイレの中で私だけがそこで息をしていた。

最後に残るのは、私をそこまでして殺してしまいたいと言う動機だけ。
でもそれは私には分かりきれずにいた。
どうして、私を選んだのだろうか……?

どうして――私を殺そうと思ったのだろうか?




そのときだった。

コツコツ、とトイレの中に誰かの足音が響いたのは。

ここまで。

(扉に関しては大きな壁みたいなものを想像してください。分かりづらくてすいません)


指摘されている大きな扉は防火扉だったんですが、完全に鍵の構造を間違えてました…。
本当に申し訳ないんですが、文章を変更させていただきます。


※訂正 >>104

ここ曲がって階段を下りれば……。
息を切らしながら走る。もうすぐ、もうすぐで――。

「……え?」

しかし、その希望はすぐに断たれた。

「そんな――どうして……?」

本来ならばあったはずの、階段へ続く道は大きな非常用の防火扉で閉じられていた。
バンバン、と私は扉を叩く。はっとその扉を目配せる。
扉には本来ならば内側から開けれるはずの鍵がついているはずだ。

しかし――そこには何者かによって叩き壊された鍵の跡があった。
つまり……防火扉は開くことが出来ない壁と化していた。

焦りだけが脳を侵していた。
自分の息遣いだけが良く聞こえる。

やだ、やだ――嫌だ! 誰か助けて!

何度も、私は誰もいない廊下で叫んだ。




ここから>>106へ続きます。

今日中に終わらせたいので頑張ります。


>>110から


私は、音を出さないようにと口を手で塞いだ。
たらり、と汗が額から滲み出してくる。

――入ってきた。

じわりじわりと迫る恐怖。
心臓は、今、私の物ではない。
握りつぶそうと誰かが掴んでいる。

コツコツ、とゆっくりとした足取りで彼はトイレの中を徘徊する。
私は一番奥の個室で息を潜めた。
見つからないようにと、何度も何度も心で祈る。

コツコツ。
コツコツ。

足音だけがトイレの中に響いた。



――こっちに来ないで……!


呼吸が少しずつ早くなる。


段々と音が近づいてくる。


――神様……! お願い……!


暗闇の中で蹲る私は、音が消え去る様にと祈った。



その祈りが通じたのか、彼はこの個室へは訪れることはなかった。

コツコツ……コツコツ……。

足音が少しずつ小さくなる――。

私は胸を撫で下ろした――。



――その瞬間、ブーブー、とポケットの中が震え出した。




ひゅっ、と喉が鳴った。

――なんで、今、ここで……!

私は慌ててポケットの中を弄り、スマホの電源を落とそうと画面を眺めた。

そこには『プロデューサーさん』の文字があった。



「探したぞ、美優」

嬉しそうにプロデューサーさんはトイレの個室の前で笑っていた。
本当に嬉しそうに。笑っていた。


私は反射的にトイレの個室を出ようと立ち上がり、這いつくばる様に外へと駆けた。

しかしプロデューサーさんはぐっと私の腕を掴む。

「また、追いかけっこか?」

「やめて! 離して――ッ!」

ブンブンと私は自分の腕を振り回す。
彼はそんな私を蔑むように、じっとりとした表情を浮かべていた。

殺される。
殺される。
殺される――っ!

私は一心不乱に叫んだ。


「少し黙ってくれないか」

その一言のあと――彼の手に握られたナイフが、私の右肩を切り裂いた。

「――っ!」

痛みを隠せない私は唇を噛んでぐっと声を押し殺した。
肩口には横一線の傷跡がつけられていた。
だらだらと血が流れ出す。
それを抑えるように左手を傷口に当てる。

「いい顔だ、さすがアイドルだな」

トイレの中で、彼の声はやけにはっきりと聞こえた。


「なん、で、こんなこと……」

恐怖で舌が回らない。
頭がおかしくなりそうだった。

「なんでだって?」

握られた私の腕に力が込められる。

「理由なんてないさ」

淡々とした口調で、プロデューサーさんは言葉を紡ぐ。
ギラギラとした瞳が、私を捕える。


「俺も、ハロルドも、同じなんだよ」


理解が追い付かなかった。
彼が何を言っているのか、理解が出来なかった。

「……美優には分からないんだろうな」

私の思考に呼応するかのように彼は言葉を漏らす。

刹那、ぐっと、私は彼の方へ引き寄せられる。



「動物はさ、言葉が話せないんだ」

彼の腕が私の首元を覆うように締め付けられる。

「知ってるか? あいつら、裂かれる前に命乞いするみたいに鳴くんだよ」

苦しい。息、が、しづらくなる。

「……人間は生きたまま裂かれたらどうなるんだろうな」

ゆっくりと、ナイフが私の心臓へと向かっていく。
ゆっくりと、ゆっくりと。


それは、最後の悪あがきだった。

ナイフが私の胸へと届く直前。

私は思い切り、彼の腕を噛んだ。


「――!」

彼は一瞬の間だけ、痛みで腕の力を抜いた。
私はその隙を見逃さなかった。

「……っ!」

腕を振り切ると、私は全速力で駆けだした。
背後から、人間の声とは思えない奇声が聞こえた。


――急げ、急げ……!

トイレの外へと、私は駆けた。


トイレの外へと出たとき、いやに頭は冷静に働いていた。
このままでは――どのみち追い付かれてしまう。
次掴まれば……きっと。

もしかすると、動物の本能なのかもしれない。

気が付けば私は、瞬時にこの場を打開する策を考えていた。

――廊下は一本道だ、全速力で走っても追いつかれてしまう。
――じゃあ、どうする……? 素手で相手に出来るなんて、そんなこと出来るはずもない。
――相手はナイフを持ってる、せめて何か私にも使えるものがあれば……。

「――っ!」

そのとき、私の目にとあるものが止まった。
考える暇もない――私はそれに手を伸ばす。


振り返った先にいたのは、もはや“人間”ではなかった。
あれは……人間の皮を被った別のナニカだ。

おぞましい叫び声が私の耳を劈いた。

「来ないで――!」

数メートル先の化け物に向かって、私は『消火器』を向けた。
その瞬間、ピンクの粉塵が辺りを覆いつくす。

煙の中からは、化け物の呻き声が聞こえた。

どうやら煙を吸い込んだようだったのか、せき込むように私に向けて背中を見せていた。

私は――その化け物の後頭部をめがけて消火器を振り上げた。
ゴッ、という鈍い音が辺りに鳴り響いた。


一度だけではなかった。
何度も、私はその鈍器を振り上げた。
その恐怖を打ち殺すかのように。
何度も。何度も。

「はあっ……はあっ……」

息を切らした私は、消火器を下ろした。
地面に転がった何かはピクリとも動かなかった。

自らを守るような――それは生まれた胎児の姿にも思えた。

同時に、私の全身から力が抜けた。

ぺたり、と尻もちをつく。
足がガクガクと震えていた。


「……」

体全身から熱が消え去ったかのように、私の体は冷たかった。
ガコン、と手のひらから消火器が零れ落ちた。

……いつのまにか目からぽろぽろと涙が溢れ出していた。

初めて、人を殴った。
初めて、この手で人を殴ったのだ。
ピクリとも動かない――もしかすると、彼は死んでしまったのかもしれない。
だとすれば、私は……私は……。

意識がぼんやりと歪んだ。

私は――。

私は……。



――――
――



「ええと、これですかね」

図書館の受付をしていた女性が、私に本を手渡してきた。
そのタイトルを眺め、私は「ええ」と相槌を打った。

書庫からわざわざ取り出してもらうのは気が引けたけれど、どうしても読みたい本だったためか、足早にその場を去った。

「……精神医学、ね」

分厚い本のタイトルを読み上げると私は近くの椅子に座った。


あの日のこと、と言えば、あの夜の『おぞましい』出来事になるのだけれど――正直に言えば、あの日のことを私はあまり覚えていなかった。

覚えていない、というのは語弊を招くかもしれない。
確か……あの後、私は事務所へと戻り――彼が入ってきた裏口から駐車場へと回り、ビルの外へと抜け出したのだ。

そこからの記憶は本当にうろ覚えでしかなかった。

血みどろの私を見て、警備員の男性は本当に驚いていた。
それから何があったのかを聞く警察の人、慌てて駆けつけてくれたちひろさん、346プロの関係者……、目まぐるしく夜は更けていった。

何もかもが、幻のように思えた。

けれど、この腕の痛みはいつでもあの夜のことを私に思い出させてくれた。


「……」

なぜ、今日私が図書館に来たのか。
それは……。

「……反社会性パーソナリティ障害」

私はペラッとめくったページの項目を眺めた。


あの夜、私は彼を殺してしまったと思っていた。
しかし、それは杞憂だった。彼は生きていた。

今は、たしか病院で入院しているとの話をちひろさんから聞いた。
彼のことを、あまり思い出したくはなかったけれど……それでも、どこか心の中で期待している自分もいた。
また元の、あの日々に戻れるんじゃないかって。


そんなことを言った私を気遣ってか、ちひろさんはこんな話をしてくれた。


『警察の人がね、言ってたのよ。知ってる? ……反社会性パーソナリティ障害、ってそんな病気のこと』

あまり聞き覚えのなかった私は首を横に振った。

『私もあんまり詳しいことは知らないんだけどね、んーと……簡単に言えば、精神的な病気みたいね。彼、それが原因かどうかは分からないんだけど、職も転々と移ってたみたいなの』

はあ、と私は声を漏らす。

『子供のころにね、色々とあったみたいなんだけど……そのあたりはあまり知らなくて』

彼の一件で、346プロ全体はその後処理に追われているようだった。
『ごめんね、私もう行かなくちゃ』と一言告げるとちひろさんはどこかへと去っていった。


……。
反社会性パーソナリティ障害。
私は、ぼんやりとしていた頭を開かれた本のページに向ける。

「……法律といった規範や他者の権利や感情を軽視する。人に対しては不誠実で、欺瞞に満ちた言動を行い、暴力を伴いやすい傾向があるパーソナリティ障害である――」

うーん、と私は唸った。
ちひろさんから聞いたこの病気、それは彼の性質からはどこかズレているようにも思えた。

確かに暴力性はあったけれど……でも……。

私は心に出来たシコリを拭いきれないまま、椅子の背もたれに背中を預ける。


サイコパス――。
その項目に目が移る。

「サイコパス……ってどこかで聞いたことがあるような……」

まじまじとそのページを眺める。
ええと――サイコパスとは、感情や衝動などに関する抑制機構が著しく劣っているとされている……。

……続けて、文字を追っていく。

――サイコパスは他者との意思疎通が取れないとされている。また、自分にとって利益となる様に人をコマのように扱い、表面的関係を形成する。


「うーん……」

これもどこかズレているように思えた。
私は視線を上に向ける。


「あんまり……参考にはならなかったわね……」

もしかすると、彼の中に潜む何かが分かるのかもしれないと思っていた。
けれど、それは憶測のまま終わってしまった。

「……」

私はごそごそとカバンから一枚の紙を取り出す。
そこには『辞表』と言う文字が書かれていた。

そう、私はもうアイドルを辞めるつもりでいた。
まだちひろさんにも言ってないけれど……それでも、私はこの紙を出すと決めていた。

あの夜の出来事から、私はアイドルを続けることが出来ないと――そう悟ったからだった。


「……?」

じっとその辞表を眺めていた時、置いていた本のページがぺらりと捲れた。

そして、すぐに私はそのページに目を奪われる。


「――ソシオパス?」

気が付けば、私はその言葉を声に出していた。


――――
――



「……」

私は事務所の扉の前に立ち尽くしていた。
早くこの場から去ってしまいたいとそう思っていた。

……手に握られた辞表が、くしゃりと歪む。

ガチャ、と扉が開かれると――そこに一人の少女の姿があった。

「あ……」

「……美優おねーさん?」

それは、ソファで縮こまった仁奈ちゃんだった。


あの一件から、私は久しぶりに彼女の顔を見た気がした。
……ずっと彼女の姿に怯えていた自分を恥じるかのように、私は彼女に頭を下げる。

「ごめんなさい、仁奈ちゃん……」

「どうかしたでごぜーますか……?」

彼女は心配そうな瞳で私のことを見つめていた。
そんな彼女を抱きしめたくなる衝動に駆られた。

「プロデューサーもいなくなって……仁奈、すごく寂しいでごぜーます……」

しゅん、と彼女は頭を俯かせた。


「仁奈ちゃん、今何かしてたの……?」

ふと、彼女の傍らに何かが置かれているのに気付いた私は彼女にそんなことを尋ねかけた。

「……仁奈、これをずっと読もうと思っていたでごぜーますよ」

彼女が私に見せてきたもの――それはあの『おぞましい二人』という本だった。
私が眉を顰める前に、彼女はこう付け加える。

「プロデューサーにもらった大事な本でごぜーます」

「え……?」

私は、彼女の言った言葉を反芻する。
――プロデューサーさんからもらった?
私は耳を疑った。


「仁奈、この本を読みたくて、プロデューサーにもらって嬉しくて……それで……」

彼女は、ぼそぼそと自らの気持ちを呟いていた。
フラッシュバックするのは、あのときのプロデューサーの言葉だった。

『俺も、ハロルドも、同じなんだよ』

そう、彼はそんなことを言っていた。

私は仁奈ちゃんに断りを入れると、その『おぞましい二人』のページをめくった。


『五歳のとき、ハロルド・スネドリーは病気の小動物を石ころで叩き殺しているところを見つかった』


そうだ――やっとわかった。
彼は……あのとき、この本と自分を重ねていたんだ。


カチリ、とパズルのピースが合わさっていく感覚を味わった。

「仁奈、プロデューサーに美優おねーさんにこの本を貰ったことを言ったのを怒られて……」

一つずつ、パズルを当てはめていく

『……お前さ、本当は聞いてたんだろ?』

――あの日、あの夜、プロデューサーさんが私を殺そうと思った動機。
――それは仁奈ちゃんとプロデューサーさんとの間の関係を感づかれた、と勘違いしたのだ。

『……美優には分からないんだろうな』

――彼が言った、あの言葉。
――“私”には分からない。じゃあ、他に分かる人がいたということなの……?
――それは、きっと……。


『ソシオパス』――最後のピースが、私のパズルを完成させた。

あの日、私は図書館で『ソシオパス』という言葉を初めて知った。
そこにはこんなことが書かれていた。

ソシオパス――それは、サイコパスよりも衝動的で行動に一貫性がない。

――他者と心を通じ合わせるのが困難なのはサイコパスと同じだが、ソシオパスのなかには『同じ考えを持った個人や集団』に愛着を感じる者もいる。

――サイコパスと異なり、長期的な仕事に就くことや、世間から見て普通の家庭生活を営むことができない。


そうだ……彼は、プロデューサーさんは『市原仁奈』という少女に『自分』を重ね合わせ、彼女を自らの手で『教育』しようとしていたんだ。


それはあまりにもおぞましい事実だった。
幼い彼女を自分と同じに染めようと、そう考えていた――そんな現実が。

「……美優おねーさん?」

彼女は様子のおかしい私をうるんだ瞳で見つめていた。

そして――もう一つ、ソシオパスの恐ろしい事実を私はあの日、本で学んでいた。
恐ろしい、そうだ、あまりにも恐ろしいことを。


「……」

――仁奈ちゃんは、いつだって「寂しい」と口を零していた。
――仁奈ちゃんは、あの日、親を頼ることをせず、『ネコのぬいぐるみ』を私に作ってほしいと頼んだ。
――仁奈ちゃんは、見えないような場所で、頭に傷を負っていた。


それは……それはあまりにも悲しい事実だった。


「ねえ、仁奈ちゃんそれ、今日のお昼ご飯……?」

私はテーブルの上に置かれたお弁当を指さした。

「そうでごぜーます。今日は、ちょっとぜーたくして、ハンバーグ弁当にしやがりました!」

コンビニのお弁当を指さして、嬉しそうに彼女は笑った。

「そう……」

私はそんな彼女を見て、ごそごそとカバンを探ると小さなお弁当をテーブルに出した。


「私ね、ちょっとハンバーグ食べたいなって思ってたの……。どう、私のお弁当と交換しないかしら……?」

「ええ……でも、これ美優おねーさんの手作り弁当でごぜーます……」

いいの、と私が言うと仁奈ちゃんは本当に嬉しそうに喜んでいた。
私はそんな彼女を見て、穏やかな気持ちで微笑む。


――それは、心から笑顔になれたはずだった。


くしゃり、と私は一枚の紙切れを捨てた。
もうアイドルは続けない、そう心に誓ったはずだった。

けれど……彼女のことを、仁奈ちゃんのことを放っておけるはずがなかった。
それは当たり前のことだった。


私は冷たいご飯を頬張ると、彼女を見てまた笑みを浮かべた。

そう、私はまだ笑うことが出来る。
彼女の笑顔を見て――笑うことが出来る。


それだけで十分だった。それだけで……十分だった。



ソシオパス:『後天性』のサイコパスという位置づけにされている。おもに幼いころの『生活環境』によるもので、たとえば育った家庭環境が悪く、身体的・精神的虐待を受けていた、幼少期のトラウマなども含まれており……。



おわり


なんとか書ききれました…。
かなり真面目にホラーを書いたのは久しぶりな気がします。
怖い、とすこしでも思ってもらえたなら幸いです。

『過去作』

・モバマス

莉嘉「どうしてカブトムシのこと気持ち悪いって言うの?」

・ホラー系

千早「気が付けば私は、病棟の一室で眠っていた」


などなど書いてます。
興味があれば読んでみてください。

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