武部沙織(36)「未婚」 (30)
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職場に男の子が入ってきた。という言葉にときめかなくなってから何年経つだろう。
がちがちに緊張した新卒生は、一年前にインターンシップで見てあげた子で、久しぶりなんて挨拶をしたけれど、それだけだ。
それだけだと思っていたのだが、OJTを私が担当することになったので、否応なしに関わる時間が増えた。
就活が始まる前にインターンに来ていただけあって、よく質問をするし、一度聞いたことは間違えない。
研修も終わる頃、よく頑張っているので「何かご馳走してあげるよ。食べたいものはある?」と聞いたら、恥ずかしそうにしているので「何でもいいんだよ?」と促したところ「武部さんの手料理が食べたいです」と小さな声で呟いた。
「私の料理なんかでいいの? 高い店だって連れて行ってあげるよ?」
「武部さんのご飯がいいです」
意外とガッツがあるんだ、なんて感心してオーケーしてしまったけれど、よく考えたら男性を部屋に招くのも久しぶりだ。
それなりに小奇麗にしている部屋の、片隅に積まれた雑誌類を仕分けていたら、一枚の写真が出てきた。
「あ、麻子の結婚式……」
三年前に結婚した親友が、幸せそうな笑顔を浮かべている。Ⅳ号戦車の乗員だった「あんこうチーム」の面々による集合写真だ。
あの当時のメンバーで一番恋愛事に興味を持っていなかった冷泉麻子が結婚したのも三年前になる。正月には一歳になる息子の写真が印刷された年賀状を送ってきた。
西住みほと五十鈴華は家格の釣り合う男性と結婚し、秋山優花里は趣味の合うパートナーを見つけている。
「私も結婚したいなぁ」
仕事に打ち込む傍ら料理や裁縫の腕を磨いてきた。戦車道は大学を出てから見る専門だけど、戦車って男のロマンなわけだしドン引かれる趣味でもない、と思う。
合コンや婚活パーティには積極的に参加した。デートにこぎつけた男性もいなかったわけじゃない。でも、未だ独身。
「何で肝心なとこで引いちゃうかな私は」
数多の美容法で磨き上げた体は、二十代の頃と比べても見劣りはしない。
いつそういうことが起きてもいいように、無駄毛の処理を怠ったこともない。
でも、駄目なのだ。
男性が自分を、自分の「女」を欲していると思うと、一歩引いてしまう。
そして、引いた私を追いかけてくれる人はいなかったのだから。
彼を招く日が来た。
元々は仕事の帰りに晩ご飯という予定だったけど、手料理を所望されて有り合わせを出すのはプライドが許さない。
休日のお昼ごはんなら、変な期待をさせることもないだろう。
できる女であることを見せてやろうと、ローストビーフ、真鯛のカルパッチョ、シーザーサラダ、スパゲッティジェノベーゼと、お洒落な料理を用意した。
デザートのタルト・タタンも良い出来だ。
一回りも違う男の子相手に気合を入れて馬鹿みたいだけれど、この子の前では大人の女性、武部沙織でいようと思っただけで、他意はない。
だいたい男を落とすなら肉じゃがと、昔から決めている。
今日はあの子のリクエストに答えてあげただけで、他意はないのだ。
「こんにちは」
「いらっしゃい。さ、上がって上がってー」
「お、お邪魔します」
靴をきちんと揃えて脱ぐのは好印象だ。こわばった表情から見える緊張が微笑ましい。
「手はそっちで洗って。親指までしっかりね」
「子供じゃないんだから、わかってますよ」
子供じゃん、と喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。彼だって大学を出た大人だ。
社会人として一生懸命やっているからこそ、私は招いたんだし、なんて思っていたら「ハンカチ忘れちゃいました」と、濡れ手で出てくるのはやっぱり子供だ。
「やだもー、タオルかかってたでしょう?」
「え、どこですか?」
「ほらここ」と指し示せば「ああ!」と無邪気に目を輝かせる。
料理は作りすぎたかと一抹の不安を覚えていたのだけれど、美味しい美味しいと食べてくれたので胸をなでおろす。
「武部さんは料理がお上手なんですね」
「そう? 口に合ったなら良かった」
「はい、僕大好きです」
どきり、と。一瞬息を飲んだ自分が恥ずかしい。料理のことに決まっている。
大好きと言われただけで頬を染めてもいい年齢はとっくに過ぎているのだから、余裕の笑みを貼り付けた。
だけど、彼が続けて放った言葉を聞いて、私の仮面は剥がれ落ちた。
「武部さんのことが好きです。僕の彼女になってください」
「嫌だなあ。おばさんをからかうもんじゃないってば」
告白をされたことなんて、久しぶりだ。
「武部さんはお若くて綺麗です」
青臭くて、眩しい。
「私の歳知ってて言ってるの?」
私は高収入でアルマーニの似合うイケメンが好き、だったのだろうか。
「知ってます。今年の六月二十二日で三十七歳ですよね」
「そこは36歳って言いなさいよ」と小突いたらごめんなさいと素直に頭を下げるので、毒気を抜かれてしまう。
今すぐには答えられない。そう返すのがやっとだった。
彼を追い出すように最寄り駅まで送っていったあと、山のような疲れを双肩に感じたので、化粧も落とさずにベッドに飛び込んだ。
スマートフォンの画面が明滅するので何かと思えば、「ではいつまでに答えてくれますか?」とメッセージが届いている。
「なによ、教えたことをこんな風に使うんじゃないわよ」
でも「一週間後」なんて返してしまう辺り、ビジネスシーンで使える技術は応用が効くようだ。
会社では努めて何もなかったように振る舞った。
研修も終わったし、彼と話す機会も減ったのがよかった。顔を合わせたら、気まずい雰囲気になってしまったと思うから。
若い男の子は、同じくらいの歳の子と恋愛をして幸せになるべきなのだ。
なのに何で。
何で私は寂しいと思っているのだろう。
「今度はあなたの家でご飯を食べましょう。お米だけ炊いておいて」
そんなメッセージを送ってしまった理由が、わからない。
感情のやり場に困って三十年来の親友に電話をかける。
「沙織か、また彼氏に振られたか」
変わらない、辛辣な言葉が、頭を冷やしていく。
「年下に告白された。十三歳差。お前それは犯罪じゃないか」
「わかってるわよ、そんなこと」
「まあ、十年前なら犯罪だったかもしれないが今は違うだろ。沙織が三十六までふらふらしていたのも、その子と付き合う権利を手に入れるためだったのかもしれないぞ?」
「なによ、ロマンチックなこと言って、らしくもない」
「なに、こんなに嬉しそうな沙織の声を聞くのは久しぶりだからな」
それに、子供に読み聞かせをしていると絵本のような話も悪く無いと思えてきたんだ。と麻子は笑う。
私もそっか、と笑って麻子との通話を切る。
私の歩いた道が私の道になる。答えはもう出ていた。
あまり気合を入れずに薄化粧をして、肉じゃがの粗熱を冷ましてからタッパーに詰めた。
「こんにちは」
「こんにちは、狭いですが、どうぞ上がってください」
お邪魔しますとドアをくぐり、先週の焼き直しみたいだと笑みが溢れる。
「どうかしましたか?」と聞いてくるので「なんでもないよ」と答えた。
「お味噌と、乾燥わかめかなんかある?」
「油揚げと豆腐があります」
「じゃあそれにしよう」
所在なさげにしている彼に、待っていてくれていいよと微笑んで、味噌汁を手早く作ってしまう。
男の子の一人暮らしでも、和風だしの素くらいはあるんだなと感心して、当たり前のことかもしれないと思い直す。
振り返ると行儀よく座った彼がにこにこしているので「どうしたの?」と聞いたら「なんか、嬉しくって」なんて、こっ恥ずかしいことをまじめに言ってくる。
味噌汁ができるのに合わせて、レンジに仕掛けた肉じゃがも温まった。
「いただきます」
「どーぞ、めしあがれ」
今までは落とすのだと、気合を入れてデートに臨んだし、肉じゃがも必殺技のように考えていた。
でも彼から告白されて、麻子と話をして、気負うのも馬鹿らしくなってしまったのだ。
「美味しいです」
「そう? よかった」
「前みたいなお洒落なのもいいですけど、こういう料理は毎日でも食べたくなります」
だって、この子はとても真っ直ぐだから。私だけ仮面を貼り付けているのはきっと、失礼だ。
「ねえ、私たち、付きあおうか」
だから私は、このチャンスを掴むことにした。
その後
「ねえ、お化粧落ちてたりしないよね? ドレスのほつれとか……」
「沙織さんはスッピンでも綺麗ですよ」
「そんなこと言うのあなただけだから、もー!」
お嫁さんになるのが、ずっと夢だった。
「冗談ですよ」
「冗談に聞こえないの!」
いつしか、諦めていた。
「じゃあ、行きましょう」
差し出された腕を取る。諦めなくて、よかった。
「はい、あなた」
私は、お嫁さんになる。
おわりです
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