ダウト(30)


「人生に必要なものって、なんだと思いますか?」

 腕時計の針を見ると、時刻は深夜の一時を回った頃だった。
 国道沿いファミレスは終夜営業。禁煙席は、十二席中三席が埋まっていた。

 古本屋で一冊十円で売っていそうな文庫本を大量に持ち込んでにやにやしながら読んでいるホームレスみたいな風采の爺さんがひとり、
 傷んだ茶髪、浮き出たマリオネットラインの、眉のないすっぴん女と、夏だというのにニット帽を被ったロン毛無精髭の二人組。

 最後の一組は、二十代前半の男の二人組。
 片方はいかにも仕事帰りというピシっとしたスーツ姿で、見てくれは爽やかだが、こんな時間にこんなファミレスに入る程度にはまともじゃない。
 もう片方は見るからに冴えないフリーターという具合。

 このフリーターって奴が、どう贔屓目に見ても金を持ってそうには見えないし、女にモテそうにも見えないし、
 服だってセンスのあるなし以前に選んですらいない感じ、加えていえば人相もよくない。

 表情の動きが鈍くて、端的に言えば目が死んでる。
 そもそも人との交流自体好んでいない感じだが、
 交流が嫌いだから交流しないのか、うまく交流できないから交流が嫌いになったのか、どちらなのかはっきりしたことは分からない。

 ぼさぼさの前髪で目元を隠して、煙草を人差し指と中指の根本で挟み、手のひらで口元を覆うように煙草をくわえているが、
 いかにも洋画のモノマネという感じのその仕草は、ガリガリなそいつの姿には似つかわしくなくて、かえって惨めなほどみっともない。

 そのばかみたいなフリーターが、つまり、俺だ。


 俺は、目の前に座っている、スーツ姿の、自分より年下で、自分より良い車に乗っていて、自分より金を持っていて、自分より綺麗な顔をしていて、
 自分より目がきらきらしていて、俺のことなんか見向きもしなさそうな美人の恋人がいる、
 そんな奴に真顔でむけられた、鼻で笑いたくなる質問に、煙草の煙をゆっくり吐き出してから、答える。

「愛かな」

 真顔で。我ながら笑い出しそうな答えだったけど、スーツの男は少しの沈黙の後、大真面目にうんうんうなずいて、愛っすか、とばかみたいに繰り返した。

「愛だよ愛。結局は」

 自分の発した言葉の空々しさに、今度こそ笑った。
 スーツの男は気にした風でもなく、ついでに言うと俺の話なんか興味もないような顔で、自分の話を始めた。

「俺のなかでは、違うんですよ。愛もたしかにまあ、大事ではあるんですけど」

「愛だけではない?」

「俺のなかには、良い人生の条件って三つあるんです」

「三つ?」


「はい。愛と、あと仕事と……」

「仕事?」

「はい。なんていうか、仕事のやりがいっていうか……」

「それが愛と並ぶの?」

「はい」

「へえ。もうひとつは?」

「あとは金ですね」

 へー、と、俺は煙草をくわえ直した。そうですか、と思った。べつに悪いって言いたいわけじゃない。むしろ羨ましいくらいだ。
 人生には三つの柱が必要です。愛と仕事と金です。なんて、真顔で言える人間に、俺もなってみたいもんだ。

「訊きたいんだけど、おまえにとって愛ってなに?」

「まあ……ほら、彼女とか、ですよね」

 スーツは照れくさそうに笑った。

「なるほどね」


 ようするにこいつにとって、愛っていうのは異性愛、恋愛のことらしい。 
 そりゃあ、愛って言葉がそういう意味なら、金と仕事を並べたくもなるだろう。

 灰皿はもう汚れきっていた。ここに来て数時間、赤マルを一箱吸い尽くして、
 目前の彼が吸ってたクールミックスを分けてくれたけど、やっぱりメンソールは好きじゃなくて、
 そう言ったら「じゃあ買ってきます」って向かいのコンビニまで走ってくれて、そこからまたもう十本は吸った。

 マルボロは燃焼がはやい気がする。吸い方の問題かもしれない。

 喫煙は、緩慢な自殺だ。だから俺は煙草を吸ってる。
 煙草が好きなわけじゃないし、嗜好品として楽しんでいるわけでもない。
 俺にとって煙草を吸うことは、一種の意思表明だった。俺以外の誰にも伝わらないだろうけど。

 またもう一本、煙草がフィルターまで燃え尽きてしまった。溜め息をついてから、俺は目の前にいる男に視線を向ける。

 学生時代の後輩だった。部活が一緒で、仲は悪くもなかったが、特別よかったともいえない。卒業してから数年経つが、これまで一切連絡をとっていなかった。

 どこから聞きつけたかしらないが、俺がバイトをしている店まで直接やってきて、今度飯でもいきましょう、と誘ってきた。
 まあいいよ、と俺は答えて、それから今に至る。

 霊感商法、マルチ、宗教。どれだろう、と最初から思っていて、どれでもいいや、とついてきたけど、どうやらマルチだったみたいだ。

 一緒に仕事しませんか。本当に信用できる相手しか誘ってないんです。やりがいのある仕事なんです。絶対に儲かります。それだけは断言できます。
 いろんな人と交流もできます。たぶん、趣味の合う人とも会えると思います。もし話をきいてくれるなら、俺の直属の上司を紹介します。

 すごい人なんです。考え方が普通と違うっていうか、世界観かわりますよ。
 うちの会社の偉い人たちはみんな、なんていうか、ぱっと見ただけでオーラが違う感じなんです。

 ここに来るのにこいつの車に乗せられたけど、そのときにサプリを勧められた。俺はべつにためらわずに飲んだ。


「先輩は違うんですか?」

「なにが」

「だから、人生に必要なもの」

「だから愛だって」

「いや、でもほら……」

 何か、あるじゃないですか、と物言いたげに。笑える。

「あとは金だな」

「まあ、金は大事ですよね」

「うん。金は大事だ」

 そう、金は大事だ。ないことには生きてはいけない。

 マルチ、と俺は思う。今が午前一時だから、日付は変わってる。今日、こいつの直属の上司に会いにいくことになっている。
 そこで詳しい説明を受けて、実際にやってみるかどうかを決めてくれ、というわけだ。

 マルチ。そうだな、と俺は思う。どうせ俺の人生なんて、もう半分終わってるようなシロモノだ。
 マルチの勧誘に情熱を捧げるというのも、そうだな、別に悪くはない。

 どうせ今だって半分死んでるようなもんなんだ。いざとなったら、首をくくればいい。それで何がいけない?




「なにかほしいものとか、したいこととかないの?」

 たぶん、マルチの勧誘のとき、乗り気の奴には上司をすぐに紹介するようにしてるんだと思う。

 スピーディに追い詰めて、勢いで相手の判断力を奪ってくわけだ。実際、ファミレスで解散したのは四時頃だった。睡眠不足で頭なんて回りゃしない。

 それから翌日の朝にふたたび集合して、昼過ぎまでにマルチの上司が活動してる街に移動。そこで詳しい話をきいて、乗り気なようなら金を払わせるわけだ。

「ほしいもの?」

「そう。やってみたいこととか」

 小綺麗な喫茶店だった。例の後輩に連れてこられた。
 丸テーブルを挟んで俺と向かい合っているのは、いかにも仕事のできそうな、けれど人当たりのよさそうな、柔らかい表情の女の人だった。
 二十代くらいに見えるが、どうやら三十半ばを過ぎているらしい。

 金さえあれば、と俺は思った。老いだってある程度どうにかなる。不安や緊張で顔が歪むこともない。
 笑顔が増えれば表情筋が鍛えられて、顔つきだって変わるかもしれない。金さえあれば。

「……特には、何も」

「そうなの?」

 てっきり困るかと思ってそう言ったんだけど、向こうはあらゆるパターンに既に慣れているらしい。こういうときは同席させた勧誘者に話を振るらしい。


「きみは写真だったよね?」

「そうですね。旅行とかに行って、写真を撮りたいんですよ」

「写真?」

「風景写真です。景色が好きなんですよ」

「へえ。いいね」

「あとは、家具とか、ファッションとか」

 ふうん。たしかにね、と俺は思った。金に余裕がなきゃできないことばかりだ。

「何か趣味とかないの?」

 女は、ふたたび俺に水を向けてきた。

「楽器とか」

「ギターとか?」

「はい」


「バンドとかしないの?」

「はあ。そこまででも……」

「でも、この際だからいろいろやってみたいって思わない? まったく興味が無いわけじゃないんでしょ?」

「はあ」

「一応メンバーの子のなかに、楽器とかバンドとかやってる人もいるし、じっさいに始めたら仲良くなれるかもよ」

 つまりね、わたしたちの仕事っていうのは、みんながしたいことの手助けをする仕事なのね。
 ある会社があって、その会社の商品をいろんな人に広めていって、その会社を口コミで広げていって、自分たちで大きくしていこうっていう仕事なのね。

 一応広告代理業みたいな形になるわけ。友達とかに商品を紹介して、それが売れればそれに応じた収入があって、
 その人達が更に商品を広げれば、その一部も自分に収入として入ってくる。
 最初のうちは大変かもしれないけど、がんばればがんばるほど報われる仕事なの。

「こういう口コミとかで実際に有名になった会社をあげると――」

 と言って、女はいくつか有名な会社の名前をあげた。
「知ってる?」と訊かれたから、俺は「知りません」と答えた。女はこれにはちょっと戸惑ったみたいだった。


 普通の仕事って、拘束時間が長いし残業とかもあって、したくもないことをしなきゃいけないこともあるでしょう。
 それに、がんばればがんばったぶんだけ報われるわけではない。

 そういうのってちょっとおかしくないか? っていうので、うちの偉い人が考えた仕事なんだけど、あ、この人も実際にはじめたらそのうち紹介するね。
 忙しい人だからいつになるかはわからないけど。で、実際もう他の県なんかではもう何度か成功してるんだけど、
 その偉い人が、こういう仕事は今度で最後だって言ってて……この話は今はいいか。

 つまり、最初のうちはちょっと大変かもしれないけど、徐々に収入が増えていくシステムなの。それもがんばったぶんだけ。
 たとえば他の仕事をしながらでもちょっとした時間にできるから、ちょっと収入を増やしたいっていうだけで実際にやってる人もいるし、この仕事でがっつり稼いでる人もいる。

 で、何がいいって、自分のために使える時間が増えるってことね。普通の仕事と違って労働時間が決まってないし、やりようによってはちょっと働くだけで大きな収入になる。
 だから自分のしたいことをできるようになる。

 つまりね、最近の労働環境っておかしいと思わない?
 長時間拘束されて、休みも少なくて残業とかあって、そういうのが悪いとは言わないんだけど、もっと豊かな人生の使い方ってものがあると思わない?
 もっとしたいことをして、人生を楽しめたらって思わない?

 うちの会社はそういう考え方でやってるの。いろんな人と繋がって、その人たちで仲良く遊ぶように仕事できたらって思うのね。

 ああ、そうなんですか、と俺はうなずいた。俺はガラス越しに喫煙席の方をちらりと見た。
 煙草が吸いたかった。




 前向きに考えておきます、とその日は言った。女はその場で答えを欲しがっていたが、俺は鈍感なふりをした。

 帰りの車の中で後輩はいろんな話をした。

 前の彼女の話、セックスフレンドの話、今の彼女の話。俺はそれをただ聞き流していた。

 外では雨が降っていて、俺は昔のことを思い出しそうになった。いろんなものを取り逃してきたような気がした。
 途方もない時間を失ったような感覚。それは錯覚ではなく事実なんだと思った。
 俺はいままで自分の人生というものをないがしろにして生きてきた。そして今人生に復讐されている。そういう実感だ。

「セフレがいたことを今の彼女に言ってないんですよ」と彼は言った。

「ときどき話すべきなんじゃないかって思うんです。それが誠実なんじゃないかって」

 バカかよ、と俺は思った。

「話さないほうがいいんじゃない?」

「どうしてですか?」


「たとえば、じゃあおまえが結婚して子供ができたとするだろ」

「はい」

「その子供に、お父さんにはむかしセフレがいたんだよって話すのが誠実さだと思う?」

「……」

「話さない方がいいことだってあるんじゃない?」

 どうでもいいんだけどな。そう思った。

「聞いて欲しいのはおまえのエゴだろ」

「エゴなんですかね、やっぱり。今の仕事のことも、話してないんですよ」

「マルチのこと?」

「悪質なのはマルチまがい商法だって言っても、やっぱり偏見はあるわけじゃないですか」

 悪質なのはマルチまがい商法。マルチの常套句だ、と思った。

「まあ、タイミングってのもあるんじゃない」

 俺は適当に受け流した。夜の国道の車の流れは他人事めいて綺麗だった。
 前方を走る車のテールランプが雨のしぶきのなかで綺麗だった。どうして俺はこんなところにいるんだろう。
 帰り道の途中でコンビニに寄って煙草を買った。雨の音が心地よかった。




 コンビニでバイトをしていたときの話。

 夕方六時頃、バックルームのゴミ箱に大量に捨てられた廃棄の弁当やらパンやらをゴミ袋ごと外に運び、店の裏手にあるゴミ置き場に捨てに行く。

 本来なら夜勤が朝のうちにやっていることだけど、セールやらがあるときは大量に発注するぶん売れ残りが多く、その影響で昼だけでも大量の廃棄が出る。

 俺が憂鬱を感じるのはこういうときだった。誰かが金を払って買っていき、それを口に含む。
 それとまったく同じものが、金を払って引き取ってもらわないといけないゴミになる。

 中身は同じはずなのに、ゴミ袋に入っているというだけで、弁当もパンもひどく薄汚れて見える。
 たかだか数時間期限が過ぎただけのもの。まだ食べれるはずのもの。

 少なくともこの光景を見た直後は、陳列されている商品も金を払って買う価値のないものに見えてしまう。

 何か途方もない矛盾のようなものを、俺はその光景から受け取る。でも、心のどこかでそういうものだと割りきってもいる。これもまた矛盾だ。

 秋の日暮れは早い。
 夏頃なら六時といえども夕日が明るいくらいだが、十月も半ばを過ぎると五時を過ぎた段階であたりが暗くなる。
 日の短さ、肌寒さ、空の色がなんとなく褪せていく感じ。秋の物寂しさには気分が塞ぐ。

 気分が塞ぐのがきらいだというわけではないけれど。


 ふたつ並んだ物置の片方がゴミ置き場になっていた。

 一見鍵が掛かっているように見えるけど、実は掛かっていない。
 鍵穴はたしかにあるけれど、鍵穴自体が回るようになっていて、それを動かすと扉が開くようになっている。
 俺はゴミ袋を物置の中に投げ込もうとして、そいつに気付いた。

 それはなんていうか、言うなれば飢えた子供の表象だった。心像。イデア。

 そこにたしかにいるはずだから、そう呼ぶのは間違いなんだろうけど、俺にはその子供が『飢えた子供』のイメージそのままに見えた。

 枯れ枝のように細い腕、ボサボサに乱れた髪、落ち窪んだ目元から覗く瞳はドブのように澱んでいる。服は何日も取り替えていないように見える。

 なんでその子供がそこに立っていたのかなんて俺には分からない。
 でもとにかくそいつはそこに立っていて、例のドブみたいな目で俺の姿をじっと見つめていた。


「喰うかい?」

 と俺は聞いて、ゴミ袋の口を広げておにぎりをひとつ取り出してそいつの足元に投げた。
 一瞬、そいつは眉をひそめた。数秒間沈黙があった。そいつは足元に落ちた食べ物をしばらく見つめたあと拾い上げ、俺の方をじっと睨んだ。

 そんな目で見るなよ、と俺は思った。
 べつに俺のせいってわけでもない。
 バカにするつもりだってない。

「もっと要る」

 と子供は言った。

「もっと要る。……もっとたくさん」

 その日から俺は退勤後に廃棄の弁当を外に持ちだして、店の裏で待っているその言葉に食糧を渡すようになった。
 だからどうってわけじゃない。誰が助かるというわけでも何が変わるというわけでもない。そういうことだ。

 廃棄の入った弁当をその子供に手渡したあと、俺は自転車に乗って家への道のりを走った。
 帰り道の途中でふと思い立って鼻歌をうたったりもした。うたうのはどんな曲でもよかった。

 ふと思いついたメロディー。その日はたまたまこんな曲だった。




 くまのこみていた かくれんぼ
 おしりをだしたこ いっとうしょう
 ゆうやけこやけで またあした
 またあした

 いいな いいな にんげんっていいな
 おいしいおやつに ほかほかごはん
 こどものかえりを まってるだろな
 ぼくもかえろ おうちへかえろ
 でん でん でんぐりがえって
 ばい ばい ばい




 店員が一部の客に廃棄を無償で渡しているのを見た、という電話が店にかかってきたのは三ヶ月後だった。
 犯人探しは誰もしなかったが、店員たちが廃棄を持ち帰ることはそれからしばらく制限された。
 
 子供は相変わらず店の裏で待っていた。俺はしかたなく説明した。

 悪いんだけど、もう何も渡せないんだよ。残念だけど、俺の財布からおまえのための食糧を用意する気にはなれないんだ。
 そんなことをしたらはっきりいってきりがない。俺がしていたことは言ってみれば配管工みたいなものだったんだよ。

 詰まっていたパイプをちょっと直して、異常だった流れを少しだけ正しく循環するようにしていただけで、
 そのパイプが駄目になったからってわざわざバケツに水を汲んでやろうとまでは思わないんだ。

 それを俺に求めるのは間違ったことなんだよ。それが俺の限界なんだ。

 悪いんだけど他の店をあたってくれよ。もし俺が大金持ちだったら、きみのために何かしてあげられたんだけどな。

 でも、そうだな、コーヒーを一杯おごってやるよ。それで最後ってことにしないか? 俺にできることなんて、悪いけどそれくらいだよ。

 子供はうなずいた。俺たちはコーヒーを店の軒先で飲んだ。




 十七歳の頃、窓もドアも閉めきった部屋で毛布にくるまって、暗闇の中でぶつぶつとひとりごとを唱えていた。
 寝ても起きてもずっと繰り返していた。毎回違うことを言っていたはずだけど、内容は要約するとこんな感じだった。

 おまえは誰にとっても不必要な人間だ。
 誰もおまえのことなんて必要としていない。
 おまえが今死んだどころで誰も悲しまない。
 おまえのことを知っている人間がおまえの死を知ったところで、誰も悲しまない。
 悲しくないのをごまかすために悲しそうな顔をするだけで、戸惑いこそすれ、おまえの死を哀しみはしない。
 誰もおまえを惜しみはしない。
 おまえはいてもいなくてもどちらでもかまわない存在だ。
 誰にとってもどうでもいい存在だ。
 誰にも必要とされていない人間だ。
 おまえはいらない。
 死んでしまったところで誰も悲しまない。

 おまえは人間じゃない。




 中学のときに付き合っていた女の子がいた。彼女は俺を好きだと言った。俺も彼女のことは嫌いではなかった。だから付き合っていた。
 中三のときのことで、部活はとっくに引退していたから、放課後はふたりで教室に残ったり、駐輪場のそばで白い息を吐きながらくだらない話をしていた。

 話の内容は忘れてしまった。帰り道は手をいつも手を繋いだ。そういう日々が何ヶ月続いた。

 でも、あるとき俺はふと気付いてしまった。俺は彼女といるとき、彼女の期待通りに振る舞おうとしていた。
 彼女が望むようなことを言って、彼女が望むように笑っていた。彼女が望まないことは決して言おうとしなかった。

 不安や不満を口に出したりはしなかった。そんなことを言ったらすぐに見放されそうな気がしたのだ。

 本当の気持ちを言ったら、彼女はすぐにいなくなってしまう。誰も俺の本心なんて必要としていない。

 彼女が望むように振舞っているかぎり、彼女は俺の傍にいてくれる。
 けれどそうだとするなら、彼女が好きだという"俺"とは誰なのだろう?

 俺は本心を包み隠し、彼女に見えないようにした。心の奥にわだかまるドロドロの自分自身が決して外に出てこないように封じ込めた。
 じゃあ俺は誰なんだ?


 俺のことが好きだと彼女は言った。優しいから。欲しい言葉をくれるから。一緒にいると安らぐと言ってくれた。
 でも俺は? 安らいでもいなかったし、安心もできなかった。欲しい言葉なんて誰も言ってはくれなかった。

 好きだと言ってくれる女の子でさえそうなのだ。誰も俺のほしい言葉なんてかけちゃくれないし、そんなことを望めばすぐに見放されてしまう。

 俺は誰にも何も求めない。何かを求めれば、きっとみんな俺から離れていく。
 どうしてあなたの期待に応えなくちゃいけないの、と、彼女は言うだろう。

 でも、じゃあ、俺はどうすればいいんだろう。そんな混乱。

 みんなが離れていくのは嫌だ。だから俺は本心を覆い隠す。
 でも、本心を覆い隠したまま好きになられても、それはつまり、本当の俺を知っている人も、
 本当の俺のことを好きになってくれる人も、この世にはひとりもいないままだってことだ。
 
 本当の俺のことなんて、誰も好きにならない。俺は不必要な人間だ。
 結局追い詰められて、俺は彼女と別れた。

 間違っていたのは明らかに俺だ。彼女は正直に生きていて、俺にはそれができなかった。
 彼女は最後まで俺が本心を隠していたことになんて気付かなかった。
 隠していたんだから気付かれないのは当たり前だ。でも俺は、気付いて欲しかったんだと思う。とても勝手なことに。




「あ、煙草吸ってる」

 たぶん九月のことだ。

 バイトあがりに店の軒先で煙草を吸ってたら、一緒のシフトに入ってた女の子が通りすがりにそう声を掛けてきた。

「やだやだ、煙草吸う男の人って」

 なんてふうにわざとらしくおどけて、彼女は顔の前で手をひらひらと動かした。

「そうですね」と、俺は年下のその子に対して敬語で返事をした。

 俺の鈍い反応に苛立ったみたいに、彼女は言葉を続けた。

「そんなんじゃ女の子にモテませんよ?」


「いいんですよそれで。吸ってなくてもモテませんから」

「ひねくれてますね」

「どうぞ適切な距離をとってください」

 そのときの俺は、そう言って煙草をもっていない方の(利き手が右手だから、たぶん左)腕を伸ばして、肩を中心に周囲に円を描いた。

「このくらいの距離を保ってやってください。あんまり近付きすぎても不愉快でしょうから」

 冗談めかして言ったはずの俺の言葉に、彼女はあからさまにむっとした顔をした。
 それが嬉しかった。そのことをちゃんと覚えている。

 数日後、「煙草、やめた方がいいですよ」とあらたまった調子で彼女は言った。
 そうですか、じゃあやめようかな。そう答えた。

 俺はその日から煙草をやめた。




 他人に何も求めなければ、与えられないことを嘆く必要はない。

 欲望はさもしい。自分は何かを得るにふさわしい人間ではない、と断じてしまえば、むしろ人間は与えられることを拒むようになる。
 卵と鶏のどちらが先なのかは分からない。与えられないから求めることをやめたのか、求めることをやめたから与えられないのか。

 どちらにしても結果は同じだ。求めなければ与えられないことは悲しくない。
 
「ダウト」と彼女は言う。

 カードはスペードの2だ。俺の持ち札は増える。
 
 誰かにとって必要な存在になれなくてもかまわない。誰にとっても不必要な存在でもかまわない。
 せめて、誰にとっても不愉快でない存在になれればいい。

「ダウト」と彼女は言う。

 誰かが俺のことを必要だと言う。誰かが俺のことを好きだと言う。

「ダウト」と俺は言う。ハートのクイーン。俺の持ち札は増えていく。


 テーブルの向かいに座っている女の子の顔を見る。

 けっこう前に、マルチに誘われたんだよ、と話そうかどうか迷っていた。ちょっとその気になってたんだ。
 上手くやれば、上手く騙せれば、俺だってそこそこ稼げるかもしれない。
 そうすればきみに対して、もっと素朴に、素直に、向かっていくことができたかもしれない。金さえあれば。

 でもやめた。そんなことをしたら余計にきみが遠ざかるような気がしたんだ。
 全部口には出さなかった。

 こんなことを考えていると知ったら彼女はどう思うんだろう。この子にいったい、俺はどんなふうに見えているんだろう。わからない。

 ジョハリの窓について教えてくれたのは彼女だった。

 自分から見える自分、他人から見える自分、他人からも自分からも見えない自分。
 よくわからない。自分がどんな人間なのか、他人が自分をどんな人間だと思っているのか、他人が俺に、どんな自分であってほしいと思っているのか。

 ――ときどき話すべきなんじゃないかって思うんです。それが誠実なんじゃないかって。

 誰かにとって望ましい自分であろうとすることは、嘘をつくことで、だとしたら、それは不誠実さなのだろうか。
 本当のことを言っても、誰も喜ばないかもしれないのに。みんな離れていくかもしれないのに。

 それでも話したいと思うのは、本心を知ってほしいと思うのは、子供のワガママのようなエゴじゃないのか。


 それで離れていくような相手なら、その程度の相手だったんだと思え、と誰かが言った。
 でも俺は嫌だ。離れていってほしくない。傍にいてほしい。だから嘘をつく。傍にいてくれればそれで満足なんだ。

 俺のことが好きだと彼女は言う。

「ダウト」と俺は言う。

 いっそこんな気持ちさえ全部話せてしまえればいいのにと思う。

 平気なふりをして笑うのをやめられたらよかったのに。
 寂しくて不安でたまらない夜に、この子の手のひらがそばにあればそれだけで救われるのにと思うことがある。
 電話でもいいから声を聞けたらそれだけで安心できるのにと思うことがある。

 けれど、そんなことを求めてしまえば、彼女は俺に失望して、落胆して、去っていってしまうような気がする。

 俺が彼女に何も求めないでいさえすれば、彼女は俺の傍にいてくれるのだと思う。

「ダウト」と彼女は言う。


 必要なのは愛だけなんだよ、と俺はいつか言った。

「ダウト」と彼女は言う。彼女の持ち札がはじめて増える。

 誰も受け入れようとはしない。子供のような汚濁のような他人の内面なんて誰も知りたがらない。求めていない。
 どうして表面を取り繕うのだけは上手になったんだろう? 
 結局同じことを繰り返しているだけなのかもしれない。

 ちょうどいいところを探すのはもう疲れた。バランス感覚が欠けている。もういっそ諦めてしまいたかった。

 誰も本当の気持ちなんて聞きたがらない。上っ面だけ適当に振る舞っておけばそれで満足で、少しでも俺が何かを求めれば、みんな戸惑った顔をする。驚いて離れていく。
 もう期待することには疲れたんだ。ひょっとしたらどこかに、とか、上手く説明できれば、とか、そういう期待をもう抱きたくはないんだ。

「ダウト」

 いっそみんな俺のことなんて嫌いになればいい。

「ダウト」
 
 俺は居てもいなくてもかまわない存在だ。誰にも必要とされていない。誰にも愛されていない。
 
「ダウト」

 きみのことだって、本当はどうだっていいんだ。





「ダウト」






 その年の冬に、町外れのボロアパートで育児放棄を受けていた子供たちの死体が発見されたとニュースになった。
 母子家庭で、母親はどこかの男の部屋で暮らしていた。

 三人兄弟で、どの子の体も年齢に不相応に痩せ衰えていたとニュースキャスターは言っていた。

 俺はそのニュースについて少しだけ考えたあと、知らんぷりをして、マフラーを巻いて駅へと向かった。

 それを俺に求めるのは間違ったことなんだよ。それが俺の限界なんだ。
 いつかの俺はそう言った。俺が悪いとは思わない。でも、自分の手が汚れていないとも思わない。

 その日はちょうどクリスマスイブで、俺は彼女とイルミネーションを見に行く約束をしていた。

 そんな気持ちについて彼女に話すべきかどうか、少しだけ迷ってから、すべてを話すことはない、と結論を出した。

 ちょっとした弱音や憂鬱を、ぼんやりと吐き出せたら、それだけでかまわない。俺は運が良かった。

 誰かが凍えている夜に、俺はきれいな光を眺めにいく。

 そういうことだ。

おしまい

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