囁かれる名前は (56)


「あのね、由紀……。私……真が好きみたいなんだ…///」

 高校三年生を間近に控えた春の午後、晴菜ちゃんは私の部屋でこう言った。

 照れながら真ちゃんへの想いを語る晴菜ちゃんを見て、私はどんな表情をしていたんだろう。

「――晴菜ちゃん、私、応援するよ。きっと、両想いになれると思う。」

 感情を持つ前の言葉が独りでに口から零れ出てくる。(ここで黙ってしまってはいけない)という思いから反射的に出てきた言葉だった。

 晴菜ちゃんは私の言葉に安心したように微笑んだ。それにつられるように私も微笑む。

 ――嘘を吐いた。とても大きな嘘。

 私の表情は不自然じゃなかったかな?言葉はスラスラと出てきていたのかな……?それすらもわからないくらい動揺している。

 私は晴菜ちゃんの恋愛を応援なんてできなかった。だって、私も真ちゃんの事が……大好きだったからだ。


*****


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性描写のある少女漫画をイメージして書いたオリジナルです。

ジャンル:幼馴染・泥酔姦・純愛

真ちゃんって男?


 私と真ちゃんと晴菜ちゃんは幼馴染だった。

 小学生の頃はどこに行くにも三人一緒。中学生・高校生になっても同じ学校で、頻度は少なくなってしまったけど誰かの部屋に集まったり一緒に出掛けたりして関係は続いていた。

>>3 男です。由紀は幼い頃から真を「ちゃん」付けで呼んでいて、成長してもそのまま呼び続けている設定。


 三人の関係を一口に「幼馴染」と言っても、その付き合いの長さには差がある。

 私と真ちゃんは家が隣同士で家族ぐるみの付き合いがあって、生まれた頃からの幼馴染だった。毎日のように一緒に遊んでいたし、まるで兄妹のように育ってきた。

 晴菜ちゃんとは小学校一年生の頃から関係がスタートした。引っ込み思案でなかなか同じクラスの子に話しかけられない私に最初に話しかけてきてくれたのが晴菜ちゃんだった。私たちはすぐに仲良くなって、私との繋がりから晴菜ちゃんと真ちゃんも仲良くなった。

 晴菜ちゃんは明るくて元気で、ちょっとドジなところもあるけどそんなところも魅力的に映る誰からも好かれるような女の子。
 引っ込み思案で男の人が苦手な私からすると……晴菜ちゃんは親友であると同時に憧れの対象でもあった。


 誰とでも気さくに話す晴菜ちゃんも真ちゃんに対してだけは口が悪い。でもそれは相手が嫌いだから出る言葉ではなくて、相手と親密な関係だからこそ言えるようなからかいの言葉だった。



「――真ってホント彼女できなさそうだよね。なんか子供っぽいもん。」

 中学生時代のある日、放課後に三人で帰る途中、晴菜ちゃんがこんな話を切り出した。

「うるさいなぁ。ほっといてよ。」

 軽くムスッとした表情を作る真ちゃん。表情や言葉とは裏腹に、声色はあまり晴菜ちゃんの発言を気にしてないみたいに聞こえる。

 なんとなく、真ちゃんはあまり恋愛に興味がないように感じられるところがある。

「ねぇ、由紀もそう思うでしょ?」

 晴菜ちゃんが笑いながら私に話を振ってくる。


「う、うん。そうかも……」

「あ、由紀までそんなこと言うんだ……。へこむなぁ……」

 真ちゃんは背中を丸めて肩を落とし、少し大げさにガッカリした態度を取った。

「あ、悪い意味じゃなくて…///」

「だーい丈夫だって真、いざとなったら由紀がお嫁さんになってくれるって言ってたから」

 慌てて否定しようとする私の言葉を遮って、晴菜ちゃんが笑いながら真ちゃんの背中を叩いて勝手なことを言う。

「そうだよね?」と、ニヤニヤとした表情を浮かべてこちらを見る晴菜ちゃん。

「そうなの?」
 真ちゃんが、捨てられた子犬が拾ってくれるのを期待するような表情で私を見つめてくる。

「うぅ…///もう、晴菜ちゃん、勝手に話を作らないで!///」
「ハハッ、ごめんね。だって由紀の反応が面白いんだもん」

「由紀は言葉を正直に受け止めすぎなんだよ」

 真ちゃんも晴菜ちゃんも顔を赤くしている私を見て笑っていた。


 ……私だって、二人の言っている事が冗談だってことくらいわかってる。でも、冗談とはいえ自分の好きな人にこんな事を言われたら、顔が熱くなってしまうのはどうしようもないんじゃないかな……。


 私は自分の気持ちを真ちゃんはもちろん、晴菜ちゃんにも秘密にしていた。晴菜ちゃんに相談すれば応援してくれそうな気もしたけど、なんとなく今の三人の心地よい関係が消えてしまいそうな気がしたから……。

 だからっていつまでも真ちゃんに自分の気持ちを伝えないでいても、真ちゃんの方から私に告白してくれる可能性なんてほとんど無いのもわかってた。

 真ちゃんが恋愛に興味が無さそうだし、それに何よりも、真ちゃんは私をそういう対象として見てくれていない。真ちゃんは勿論私が異性だってわかってるけど、それよりも“幼馴染”という印象の方が圧倒的に強いみたいだった。

 ほとんど家族同然に育ってきた私たち。だからこそ私は恋愛対象として真ちゃんの視界には入れない。いつも一緒にいるからそれが嫌というほど伝わってきてしまう。

 私から気持ちを伝えない限り、真ちゃんと私の関係はずっとこのままのような気がする。……でも、それがわかっていても……私はもう何年も真ちゃんに自分の想いを伝えられていない。

(せめて真ちゃんが恋愛に興味を持つまでは……)と自分に言い訳をしてきたけれど、本当はそんな事はたいした理由じゃなかった。

 ただ私は怖かったんだ。自分の気持ちを伝えて真ちゃんとの関係性が崩れてしまうのが。もし告白しても真ちゃんにはその気がなくて、これまでみたいに隣にいられなくなると思ったら……そんな日常は想像したくもなかった。

 臆病な私にとって、真ちゃんが恋愛に興味が無いのは救いでもあった。真ちゃんに恋人ができなければ私にもまだ可能性があるって、そう思えるから。

 自分から行動しない限り可能性はずっと可能性のままだって知ってるのに、現状維持に縋り付こうとする私はどうしようもない臆病者だった。


 だからさっきの会話でも、晴菜ちゃんの「真には彼女ができなさそう」に対してつい頷いてしまったんだ……。“できなさそう”だと思ったんじゃなくて、“できてほしくない”って強く思ったから……。

 ……そういえば、晴菜ちゃんは真ちゃんをどう思ってるんだろう。もし晴菜ちゃんが真ちゃんを好きなら……ううん、そんなはずないよね。「彼女ができなさそう」って言ってるくらいだし、普段も真ちゃんと口喧嘩してばかりだし……。

 そうだよ、好きなわけがないよ。だって、もしそうだったら私なんて絶対に敵わないんだから……――


*****


 そして中学時代は何事もなく過ぎ、小中に引き続き私たち三人は地元の同じ公立高校に進学した。一年が過ぎ、二年目が終わっても私たちの関係は何も変わらない。もしかしたら、ずっとこのままなんじゃないかな……

 ――そう思っていた矢先の出来事だった。晴菜ちゃんが私に真ちゃんへの想いを伝えてきたのは。



「応援する」

 そう言ってしまった手前、私には二人の成り行きを見守る以外にできる事は何もなかった。

 そして――二人は付き合い始めた。それはあまりにもあっけなかった。私に相談に来て、数日後に告白。その日の夜には告白が成功した事を嬉しそうに報告する晴菜ちゃんの顔を見ていた。

 話の展開の早さに付いていけなくて、私は呆気に取られるばかりで……。私が立ち止まっていた十年近い時間は一体なんだったんだろう。私が手を伸ばすのを恐れて動けないでいる間に、晴菜ちゃんはすぐに行動して真ちゃんを手に入れてしまった。
 
 私が真ちゃんの彼女になれる可能性は、もう無くなってしまったんだ……。


 真ちゃんと晴菜ちゃんは付き合い始めてからも表面上はほとんど変わらないように見えた。私に対する態度も、三人で通学するのも、以前と同じ。晴菜ちゃんが真ちゃんをからかうのも相変わらずだ。

 ただ、それでもやっぱり二人だけで合う時間は増えていて……。そんな時、二人はどんな事をしてるんだろうってつい想像してしまいそうになって、私は慌てて頭からその映像を追い出す。


「私の大好きな二人が付き合ってくれて嬉しいよ」

 二人にはそう言ったし、それは嘘じゃないと思う。でも、本当でもない。



 最近は自分一人だけで部屋にいる時、私の中の醜い感情が囁きかけてくる事がある。

〈ねぇ、本当は思ってるんでしょ?(晴菜ちゃんでよかったなら私でもよかったんじゃないか)って〉

 私は否定する。

「違うよ、晴菜ちゃんが素敵だから付き合えたんだよ……」

〈本当にそうなの?あの真ちゃんだよ?〉

 あぁ、この感情は、嫉妬とか後悔って呼ぶんだろうな……

〈恋愛に全然興味無さそうだったでしょ?だから、告白された嬉しさで深く考えもしないで頷いたんじゃないの?それが仲の良い幼馴染からだったんだから尚更だよ〉

「やめて……聞きたくないよ……」

〈告白さえできれば私でもOKがもらえたんじゃないかって、そう思ってるんでしょ?でも、それはもう確かめられない。だから晴菜ちゃんが魅力的だって事にしたいだけなんでしょう?〉

「……もしそうだとしたら、私にどうしろって言いたいの?」

〈別に、何も。〉
 黒い感情の私が笑う。

〈ただ、面白いんだもの。表では二人を祝福しようとして笑顔を取り繕っているのに、心の奥底では二人がうまくいかない事を期待してしまっている。そして、そんな自分がどうしようもなく嫌いなあなたが〉

 耳障りな嘲笑を残して、黒い私は消え去った。


*****


 ――私の心中なんてお構いなしに月日は流れ続ける。結局、真ちゃんと晴菜ちゃんは良好な関係を保ったまま高校を卒業した。

 小学校からずっと一緒だった私たち。でも、大学への進学で初めて道が分かれた。

 私と真ちゃんは地元からそう離れていない同じ大学だったけれど、晴菜ちゃんは以前から夢だったパティシエの勉強がしたいという事で県外の専門学校に行ってしまった。


 お互いに合えない日が増えても晴菜ちゃんと真ちゃんの付き合いは続いた。

〈遠距離恋愛なら上手くいかないかもって、期待してた?〉

 高校生の時の私だったら胸の中にそんな黒い感情が生まれていたかもしれない。でも、今の私はもうそんな感情に惑わされたりはしない。

 後悔や嫉妬を心の奥底にしまっておくにもエネルギーがいる。そんな感情を抱き続ける事に、私は疲れてしまった。

 後悔や嫉妬はいつしか諦めに変わり、すると肩の荷が降りたみたいにフッと気持ちが軽くなって、私は晴菜ちゃんと真ちゃんが付き合っている現状を素直に受け入れられるようになった。


 真ちゃんが大好きな気持ちには変わりはない。ただ、晴菜ちゃんとの関係にモヤモヤしなくなっただけだ。そもそも、私の大好きな親友の二人が付き合い始めたのは嬉しいことのはずなのに……暗くなっていた私がおかしかったんだ。

 そんな風に真ちゃんへの想いを整理した気になっても、私は他の男の人と付き合おうとは全然思えなかった。男の人への恐怖心は昔よりもだいぶ薄れてきたのに……なんでだろう……。ゼミで同じグループの人に告白されたりもしたけれど、私はそれに良い返事ができなくて……。

 私は……まだ“可能性”に縋っているのかなぁ……そんなもの、もうどこにも残されていないのに……――


*****


 大学生活三年目も半ばを過ぎて、枯れ落ちた紅葉が通学路の石畳を彩る頃、その電話のベルは鳴った。

 時刻は二十三時前。携帯のディスプレイには真ちゃんの名前が表示されている。

 こんな時間に真ちゃんから…?……どうしたんだろう…?

 眉を顰めながらも携帯電話を手に取って通話ボタンを押す。

「もしもし?」

「あ、○○由紀さんですか?」

 聞こえてくる声は真ちゃんとは全く別のものだった。

 続けて聞こえてくる話を聞いていて、その人物は大学の最寄り駅にあるバーの店員さんだと判明する。

 なんでバーの店員さんが真ちゃんの携帯電話を…?

 その疑問はすぐに解消された。話の経緯はどうやらこういう事みたいだ。

 真ちゃんは一人でバーを訪れて泥酔してしまった。店員さんがその様子を確認した時には既に呂律も怪しくなっていて、とてもじゃないけど一人で帰れそうにない。そこで店員さんは真ちゃんに誰か迎えに来てくれる人がいないか尋ねたところ、私の名前が出てきたようだ。電話をかけるところまでは真ちゃんがしたけれども、とても状況説明できる状態じゃないので店員さんが代わりに通話しているらしい。

 幼馴染がお店に迷惑を掛けている状況に、私は呆れるよりも先に心配になった。真ちゃんはお酒に強くない。あまり好んで飲むタイプでもない。ましてや、一人でなんて尚更だ。

 もしかして、お酒を飲まずにはいられないような何か辛い事でもあったのかも……。

 不安に駆られた私は店員さんにお店に行く旨を伝えて、部屋着を着替え家を飛び出した。



*****


 ――バーのカウンター席に突っ伏している真ちゃんは電話で聞いていた通り完全な泥酔状態で、店員さんの手を借りてようやく店外に連れ出せるといった有様だった。

「1杯だけでここまで酔ってしまうとは思わなくて……」

 店員さんの言葉に私は苦笑を返すしかなかった。

 店の前まで出ると、店員さんにお礼と謝罪の言葉を述べてから、私たちはあらかじめ呼んでいたタクシーに乗り込んだ。


 ――居酒屋を出発したタクシーの車内には会話は無く、目的地を目指すタクシーの淡々とした走行音だけがその場を包み込んでいた。

 時折、真ちゃんが不鮮明な唸り声を漏らす。その度に私は背中をさすってあげていた。

「真ちゃん、大丈夫?」

「うーん……」

 目を瞑ったまま苦しそうにそう呟く真ちゃんは、言葉を発するのもやっとみたい。私が店に到着する前にトイレで吐いてるらしいから大丈夫だとは思うけど……。

 せめて、真ちゃんのアパートに着くまでは何も起こりませんように。私は背中をさする手と反対の手を真ちゃんの手に重ねながら、そう願っていた。


 結局その後は何事もなくアパートに到着した。タクシーの料金を払い終えてから隣を見る。真ちゃんは相変わらず目を瞑った苦しげな表情のままだ。

「真ちゃん、着いたよ。降りよう」

 肩を揺すりながらそう言う私に対して、「うん……」と力無く呟く真ちゃん。でも、体を動かそうとする気配は感じられない。

 それでもなんとかして真ちゃんをタクシーから降ろす事に成功する。運転手さんに「ご迷惑をおかけしてすみません」と謝ると、軽い会釈だけを返されてタクシーは去っていった。


 目の前にある二階建てで横に長い作りをしている比較的新しめの建物が、真ちゃんが一人暮らしをしているアパートだ。私たちの家から大学までは最寄り駅から三駅ほどの距離。本来なら電車通学で問題ないはずだけど、真ちゃんは一人暮らしを経験してみたかったみたいで、お母さんから許可を得て大学から徒歩10分のこのアパートに住んでいた。

 真ちゃんはフラフラと体を左右に揺らしながらも、なんとか一人で立つことはできるみたいだった。……かなり危なっかしいけれど。ただ、一人で歩くのは難しそうだったので腰に手を添えて誘導してあげる。

 アパートの外側にある階段を昇ってすぐの所に真ちゃんの部屋がある。私は肩にかけたバッグから合鍵を取り出して、扉を開いた。


 ――この鍵は真ちゃんからもらったものだ。

 真ちゃんは掃除は定期的にするけど整理整頓が苦手みたいで、部屋が服や雑誌なんかで散らかりがちだった。それから食事を適当に済ませるところがあって、栄養バランスなんて全然考えてないみたい。スカスカの冷蔵庫の中身を見たら誰にでも想像はついてしまうだろう。なんとなく心配になった私は、1~2週間に一度のペースで真ちゃんの家に顔を出して、片付けやお夕飯の準備をしてあげていた。お節介なだけかも……と心配していたけれど、真ちゃんは素直に喜んでくれたから内心ホッとしたのを覚えている。

 合鍵を渡されたのは通いだしてからすぐの頃だ。

「由紀も鍵を持ってた方が便利だよね?大学で時間が空いた時に使ってもらっても構わないから」と軽く渡されたから、私は呆気に取られて何も言えないでその鍵を受け取ってしまった。

 家の鍵なんて大事なもの、私が貰ってもいいのかな?いくら幼馴染とはいえ……彼女でもないのに……。

 もしかしたら世間では親しい人に自宅の鍵を渡すのは普通の事なのかもしれない。でも、私にはとっては本当に特別な人にしか渡しちゃいけないもののような気がして、戸惑ってしまった。

 念の為晴菜ちゃんに電話をして、それとなく鍵の話をして様子を伺ってみると、「あはは、それはいいね。私のいない間、真のことよろしくね」と、あっけらかんと返された。

 その返答に胸を撫で下ろすと同時に、複雑な思いが自分の中に渦巻く。

 二人に信用されているのは嬉しい。けど、この二人の反応は、私が真ちゃんと……変な関係を持つなんて微塵も思っていないと断言しているようなもので。たしかに何もしないのだけれど……――


 玄関に入ると真っ暗な部屋が私たちを出迎えてくれた。真ちゃんが靴を脱ぐのに手間取っている間に、手探りで電灯のスイッチを入れる。

 玄関に明かりが灯る。私はまた真ちゃんが歩くのを補助しながらリビングを目指した。

 お手洗いとお風呂が先にある玄関脇の通路を横目に、5メートルほどの廊下をまっすぐ進む。廊下の途中にある台所は、男性の一人暮らしを想定してのものなのかIHヒーターとシンク分のスペースしかない簡素なもので、手の込んだ料理は作りづらい。

 廊下の突き当りにあるドアを開いて、八畳一間のリビングに入る。入ってすぐ左隣にはベッド、真正面にはベランダに繋がる大きな窓、ノートパソコンの置かれたデスク、二人で食事をするのが精一杯な小さな食卓机、服が少し乱雑に詰め込まれているクローゼット……暗闇に包まれ視界が利かないリビングのレイアウトを思い出す。

 玄関から10秒も経たないうちに全てが把握できる1Kは私には少し狭く感じる。けれど、そう話したとき真ちゃんは「これで十分かな。掃除も楽だしね」と、特に不満は無さ気だった。


 真ちゃんを支えている手を自由にするために、とりあえず真ちゃんにはベッドに腰掛けてもらう。

 水を持ってこないと……。その前に、リビングの明かりを……。

 ベッドのすぐ脇にある電灯のスイッチに手を伸ばそうと、真ちゃんに背を向けた――その瞬間


 グイッ

「キャッ……」


 左腕を掴まれて、強引にベッドに引き倒される。私が仰向けに倒れこむと同時に、真ちゃんも体勢を崩したように上から覆いかぶさってきた。

 ――立とうとして私の腕を掴んだけどできなかったのかな……。それよりも……

 顔の距離が近い。私に覆いかぶさるように倒れてきた真ちゃんは、私の左肩に顔を埋める体勢のまま動かない。首筋に直に、間隔の長い熱い吐息が当たる。アルコールのせいなのか呼吸が少し荒い。完全に体重を預けられていて身動きが取れない。

 細めの体型に見えるけれど、ずっと運動部だったからか真ちゃんは結構身体つきがしっかりしている。こんな風に密着しているとそれがよくわかる。

 私とは違う……真ちゃんは男の人だから……。

 意識し出すと急に今の状況が恥ずかしくなってきた。とにかくどいてもらわないと……

 声をかけようと口を開いたと同時に首筋に違和感。素っ頓狂な高い声が漏れる。


 ――何?

 部屋には明かりが灯っていない。唯一の光源である玄関のライトが弱々しく廊下から届いているけれど、壁の陰にあるベッドを照らすには至っていない。薄ぼんやりとした暗闇の中だと、何が起こっているのかよく見えない。

 視覚が役に立たなくても触覚が嫌でも現状を伝えてくる。

 真ちゃんが……私の首筋にキスをしてきていた。間を置かずに何度も、少しずつ場所を変えて。唇が触れるだけの時もあれば、軽く吸い付いてきたり。時折生温かい濡れた舌先が肌に触れると、未知の感覚に我慢できず声が漏れる。

 突然の状況に驚きすぎて何の抵抗も出来ない。頭が働き出すまでしばらく時間がかかった。

 真ちゃんが――なんでこんな事を?


 たしかに、男の人と女の人が同じ部屋に居ればこういう事をする時もあるのかもしれない。でも、それは普通の人達の場合だ。私と真ちゃんは違う。

“男と女”じゃなくて、“幼馴染”が先にある関係だから。

 少なくとも私はそう思っていた。“幼馴染”という関係を時には煩わしく感じるくらいに。

 真ちゃんは違ったのかな?晴菜ちゃんと付き合ううちに考えが変わっちゃったの……?

 !……そうだ、晴菜ちゃん……晴菜ちゃんって恋人がいるのにこんな事しちゃいけないよ……


 グルグル回る頭の中が、小さな違和感を覚えて思考を中断する。直に触れられてる部分にばかりに意識が向いてたから今まで気付かなかった。上着が少しづつ脱がされている。真ちゃんの指が器用に動いて、カーディガンのボタンを一つ、一つと外していく。

「あ、あの……真ちゃん?」

 小さな声で呼びかけてみる。……なんとなく予想していたけど、真ちゃんからの反応は無かった。少し怖い。真ちゃんが何を考えてるのかわからないなんて初めてだった。

 ――他の人の目から見れば、この状況から“逃げる”のが正解なのかもしれない。でも、私にはそんな事よりもこの状況になった“理由”の方が大切だった。いくら酔っているとはいえ、真ちゃんが女の人なら誰にでもこういう事をするなんて思えない。そんな人じゃないって、私は十分に知っているから。


 なんでだろう……なんで、私にこんな……

 考えているうちに、忘れかけていた感覚が心の底から顔を覗かせてきた。晴菜ちゃんが真ちゃんと付き合いだした頃に覚えていた、あの黒い感情がムクムクと胸に湧き上がってくる。


 もしかして、晴菜ちゃんと別れた……?バーで酔ってたのもそれが原因?それで……晴菜ちゃん以外で好意を持っていたのが私で……酔ったせいでこんな事をしてしまってる……?

 ほとんど妄想に近い憶測。自分に都合がいいだけの筋書き。

 ……やっぱり私は変われない。例え真ちゃんに彼女ができても、それが大切な親友でも、“自分”が真ちゃんの“特別”でいたいんだ。私からは何もできないくせにその想いだけが膨れ上がっていく。疲れて諦めた振りをしてもどうしても消えてくれない。

 臆病で我が儘な自分が嫌いで……でも、それ以上に真ちゃんが好きなんだ。


 ボタンは全て外されて、上着が軽くはだけさせられている。剥き出しになった鎖骨に真ちゃんの唇が触れると、むず痒いような奇妙な感覚が頭へと駆け上ってくる。真ちゃんの触れる部分がだんだんと顔に近づいていた。たぶん、このまま何もしなかったら頬や…唇も真ちゃんに好きなようにされてしまう。

 私は……そんなのは嫌だった。付き合えたらいつかこうなりたいとは思っていたけれど、それはこんな…なし崩しな形じゃない。ちゃんと「好き」って言ってもらって、デートをして……。そういう風に少しずつお互いの距離を縮めていくものだと思っていた。少なくとも、お酒の勢いでいきなり最後の段階から始まってしまうような、そんな恋人の関係は私の思い描いていたものとは全然違う。

 今ならまだ間に合う。真ちゃんに声をかけて、止めてもらわなきゃ……。大丈夫、お酒のせいでこんな事をしているだけで、意識がハッキリしたら普段通りの真ちゃんに戻るはず。

 ……と、不意に耳元で真ちゃんが何かボソボソと喋っているのが聞こえた。

 なんだろう?

「……な………る…」

 掠れて不鮮明な声。ただの譫言なのかもしれない。意味のある言葉なのかもわからない。

 ただ、その時の私は何故か耳を澄ませた。


 数秒後、聞き馴染んだ言葉の並びが私の耳に飛び込んできた。

「はる……な」


………………晴菜…ちゃん?


 心臓が強く押されたような衝撃。その後、頭がクリアになるにつれて、最悪の状況に陥った事に気付く。まるで血が凍ってしまったみたいに体が動かない。

 私はバカだ。笑ってしまうくらいに……。真ちゃんも私を好きだった……なんて、あるわけがなかった。(こうだったらいいな)っていう、自分に都合が良いだけの想像だって…わかっててそれを信じ込もうとしていた。

 現実は私の想像とは全然違う。

 真ちゃんはただ、晴菜ちゃんとしてるつもりなんだ…。

 酔って混濁した意識の中で、真ちゃんは晴菜ちゃんの肌にキスをしているんだ……本当に触れている相手は私なのに……。


 声が出ない。ううん……出せない。もう私には真ちゃんの意識をハッキリさせるような行動は何一つできない。

 さっき私が想像してしまった最悪の未来。もし真ちゃんが、今自分がしている相手が私だと気付いたら……たぶん、真ちゃんは酷く罪悪感に苛まれると思う。男の人が苦手だった私をいつも気にかけて、守ってくれた真ちゃん。その自分がこんな事をしたと知ってしまったら……もしかしたら真ちゃんは私から離れてしまうかもしれない。私がいくら「お酒のせいだから」「気にしてないよ」と言っても、真ちゃんはたぶん自分を許せない。そういう融通のきかない真っ直ぐさが真ちゃんにはある。

 全部全部、想像でしかない。他人から見たら滑稽な妄想なのかもしれない。でも、そんな事にはならないはず……と心の奥底では思っていても、「絶対にあり得ない」とも言い切れない自分がいた。

(1%でも可能性があるなら)

 そう思うと、体は凍り付いたように動かない。喉も声の出し方を忘れてしまったかのよう。真ちゃんを突き飛ばして逃げ帰るのが正しい選択だとわかっていても選べない。真ちゃんにこの夜を覚えられるのが怖い。怖くて仕方ない。


 覚えられないためには真ちゃんの動きに身を任せるしかない。それが私の出した結論だった。真ちゃんが晴菜ちゃんとしていると思っているなら、私が晴菜ちゃんの役割を演じるしかない。真ちゃんが覚えていなければそれでいいし、もし微かに覚えていても反抗さえしなければ晴菜ちゃんとしている夢を見たんだと思ってくれるかもしれない……

 ――無理のある理屈に縋り付かなければいけないくらい、この時の私は最悪の未来を怖れていた。

 平穏な日常が壊れそうなら、壊れてしまうまで何もしない。変化を怖れて行動を先延ばしにする。

 晴菜ちゃんが真ちゃんへの想いを打ち明けてくれた時と一緒だ。臆病な高校生だったあの時から何一つ変わってない。真ちゃんを大切に想う気持ちが強まるほど、私は臆病になってゆく。

 ただ、この時は、この夜だけは、私の過剰なまでの臆病さが限りなく近い平行線のような私たちの関係を大きく変える事になると、その時の私はまだ知らなかった。

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