奴隷少女「私を、守って下さい…」執事「それが貴方の願いならば」 (99)

奴隷「はぁ、はぁ……」

この荒れた道を、どれくらい走っただろう。
両の手を戒める鎖が重く、体に負担をかけている。
何物にも保護されていない足裏は擦り傷だらけで、小石を踏む度に痛みがはしる。

それでも奴隷は足を休めない。だって立ち止まれば――


魔物「待てぇーっ!!」


奴隷にとって、地獄に等しい境遇に引きずり込まれるのだから。



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人間と魔物の対立…というのは何百年も昔に収束した。今は両種族は共存し、種族同士のいがみあいもない。
しかし世界が幸せなのかというと、そうでもなかった。

今、世界は飢饉に陥っていた。
作物はろくに実らず、死病が流行していた。
そんな世界に住む者の心は荒み、争い合う国、滅ぶ国、様々だった。

彼女の住む、魔王の国では争いこそ無かったものの、激しい貧困差があった。
彼女はその最下層、奴隷に生まれ、幼い頃より差別を受けて育ってきたのだった。

その奴隷は生まれて初めて自分の運命に逆らい、今まさに逃亡中であった。

奴隷「はぁっ、はふっ……」

奴隷は伸びた草の中に身を潜め、ようやく体を休めることができた。
だが心は今だ休まらない。彼女を追う魔物は、すぐ側にいるのだから。

魔物A「チッ、見失ったか」

魔物B「まだ遠くには逃げていないはずだ! 探せ!」

奴隷「……」

口を抑え息を殺す。
心臓の音が彼らに聞こえないか、そんな心配をする程、心臓は大きく鳴っている。

魔物A「他の奴らと合流するか」

魔物B「あぁ。確か他の班には、足は遅いが鼻のいい奴がいたな」

奴隷(どうしよう……)

いくら気配を殺して身を潜めていても、匂いを消すことはできない。
もう自分はここまでなのか――不安と恐怖で涙が出てくる。

きっと逃亡は無駄なあがき。今の心境はまるで、死刑を待つ囚人。

奴隷(きっと、このまま捕まっちゃうのね……それならいっそ……)

自害でもした方がいいだろうか。
今、自害するとしたら――舌を噛み切るしかできないけど。

奴隷(怖い…けど…っ)

奴隷は上下の歯で舌を噛む。恐怖でなかなか力が入らない。
だけどこれから先に待っていることを想像すると――

奴隷(~っ!)

目をギュッとつぶり、顎に力を入れた。



“――お待ちしておりました”

奴隷「!?」ビクッ

頭の中で響いた男の声に、見つかったと思って悲鳴をあげそうになった。

奴隷「……?」

魔物A「いたか!?」

魔物B「いない…もしかして、ここにはいないのか」


魔物達の声ではないし、彼らに声は聞こえていないようだった。なら、幻聴か……。


“ようやく、貴方を見つけました”

奴隷(えっ)

また声がした。今度は、幻聴じゃない。
周囲をキョロキョロ見るが、追っ手の魔物達の他には誰もいない。

奴隷(だ、誰?)

“私は天界の使いと申します”

奴隷(…っ、私の心を読めるんですか)

“失礼は承知の上です。ですが私は今、貴方から離れた場所に封印されているので、この方法しかなく――無礼をお許し下さい”

声の主は若い男性のようで、口調と声のトーンは紳士的だった。
その為か、心を覗かれても不思議と悪い気はしない…のだが、そんなこと言っている状況でもない。

“大変心苦しいのですが、貴方にひとつお願いが御座います”

奴隷(お願いっていうのは…?)

“はい。私の元に来て、封印を解いて頂きたいのです”

奴隷(無理です)

奴隷は即答した。

奴隷(私は今追われているんです)

この場から動けない現状、何もできるわけがなかった。

“もしかして貴方の側に感じる、2つの魂が追っ手でしょうか?”

奴隷(は、はい。そうだと思います…)

“では、私から提案が御座います”

提案? この状況で何を提案しようと言うのか。
そして天界の使いを名乗る者が提案したのは――

“私が隙を作るので、貴方に私の所まで来て頂きたい。封印を解いて下されば、私は貴方を助けることができます”

奴隷(た…助けてくれるんですか?)

その言葉に一瞬、希望を持ちそうになった。
だけどすぐに考えを改める。その言葉を、そう簡単に信用していいものか。

“誓いましょう。貴方に辛い現状があるのなら、私は貴方を救い出してみせます"

奴隷「……」

その言葉を信じたわけではない。
だけど味方はおらず、このままでは捕まるか自害するかの二択しかない。それなら――

奴隷(…わかりました。ご協力お願いします)

新たな選択肢に賭けてみるしかなかった。

"一瞬、彼らの動きを止めます。その隙に貴方は、そこからまっすぐ右に向かって下さい"

奴隷「右ですね」

"では、参ります――"

その言葉と同時、砂埃が舞い上がった。
目に砂埃が入ったのか、魔物達は「うわっ」と声をあげながら目を押さえた。
だけど不思議なことに、奴隷の目は無事だ。

"今です"

奴隷「は、はい!」

奴隷は立ち上がり、言われた通り右に向かって駆けた。
遅れて、魔物のどちらかが「あっ」と声をあげた。

魔物A「いたぞ、追えーっ!」

後方で声と足音がしたが、奴隷は振り返らずにひたすら走った。
走る先に、本当に救いがあるのかはわからない。だけど多分、捕まるより酷い目に遭うことはきっとないだろうから――

奴隷「~っ!」

足裏を刺す砂利道を駆けた。

奴隷「あっ!?」

そして、駆け抜けた先にあるものを見つけた。

奴隷「これは…祭壇?」

祭壇がぽつんと立っていた。
この人里離れた森の中で訪れる者もいなかったのか、コケがびっしり生えた、荒れた祭壇だった。

魔物A「いたぞ、捕まえろ!」

奴隷「あっ!?」

気付けば魔物達との距離は詰まっていた。

"ここまで来られたのなら、もうご心配はありません"

だが天界の使いを名乗る者の声は落ち着いていた。

"祭壇に刺さっているナイフを抜いて下さい"

奴隷「これ…ですか!?」

すぐにそれらしきものを見つけた。
刺さっているものは荒れた祭壇には不自然な程、綺麗でぴかぴかしていた。

"それです。さぁ早く!"

魔物B「覚悟しろ、この…っ!」

奴隷「えいっ!」

奴隷は躊躇せずに、鎖で繋がれた両手でナイフを引き抜いた。

カッ――

奴隷「!?」

魔物A「な、何だ!?」

ナイフを抜くと同時、祭壇は強い光を発した。
その光は周囲を包む程だった。魔物達は目がくらんだのか、その場に立ち止まった。

あまりにも強い光――そのすぐ側にいるというのに、

奴隷(この光、何だか…)

奴隷は不思議と、安心感を覚えていた。
光に包まれることで、まるで、母の腕に抱かれているような――そんな不思議で、暖かい感覚があった。

「大変、お手数をお掛け致しました」

そして、そんな光の中から姿を現したのは――

天界の使い「後はこの私が貴方をお守り致します、お嬢様」

その華奢で長身な体を黒い執事服で包み、きっちり整えた髪、レトロなデザインの眼鏡――その男の外見は若いが、熟練の執事のような貫禄があった。
この荒れた地にその男が立つだけで、その場は天界の庭園になったかのような――そんな錯覚すら覚える。

天界の使い「お嬢様、ナイフを」

奴隷「は、はい…」

お嬢様とは自分のことか…と、ぽやっと考えながら、奴隷は差し出された手にナイフを渡した。
その直後、目の前でシュッと風が切られた。

奴隷「あ…っ」

奴隷の手から鎖が落ちる。
どうやら天界の使いのナイフが、鎖を切ったようだった。

天界の使い「貴方の小さな手に、その鎖は痛々しい。その様な戒めは解いて、貴方は自由を掴むべきでしょう」

魔物A「何だ、貴様は!」

天界の使い「私は天界の使い。この方を守護し、奉仕する者」

魔物B「よくわからないが、俺らの邪魔をするならブッ殺すぞ!」

魔物達は天界の使いに飛びかかった。

奴隷「危ないっ!!」

天界の使い「おやおや…仕方ありませんね」

天界の使いは奴隷を庇うように前に出て、ナイフを構えた。
そして――

――ザシュッ

魔物A「が…っ!」

魔物B「なん、だと…」

一閃――軽々と、2匹の魔物の喉を切り裂いた。

天界の使い「当然の報いです」

天界の使いが眼鏡を直すと同時、魔物達は倒れ絶命した。

奴隷(この人、強い…)

その一連の流れに理解が追いつかないまま、事は終わっていた。

天界の使い「ご無事で何よりです、お嬢様」

奴隷「あ…っ」

声をかけられてハッとする。

奴隷「たたっ、助けて頂き、ありがとうございました!! 何とお礼を申し上げていいのか…」

天界の使い「そんなに畏まらないで下さい、私の方が恐縮してしまいます」

奴隷「いえっ、貴方は恩人ですから!」ブンブン

天界の使い「当然のことをしたまでですよ」

天界の使いはそう言うと微笑んだ。その表情は大人しくて、優しい。その顔を見て奴隷は、何だかホッとする。

奴隷(紳士的な人なんだなぁ)

執事の格好がそう見せているのもあるだろうが、天界の使いは最初に聞いた時からずっと柔らかい声で話してくれている。
奴隷には、人にこんなに優しく声をかけてもらった記憶はない。

奴隷「何かお礼をしたいのですが…」

だが奴隷として育ち、最低限のものしか与えられず生きてきた彼女は、何も持っていない。

天界の使い「お礼などとんでもない。先ほども申した通り、私は当然のことをしたまでですよ、お嬢様」

奴隷「あのっ」

ところで、奴隷には先ほどから気になっていることがあった。

奴隷「わ、私、お嬢様なんて大層なものじゃ…それに私を守護し奉仕するっていうのは…」

天界の使い「あぁ、説明が遅れておりましたね。度々、申し訳ありません」

奴隷「あ、いえっ。それよりどういうことか…きゃっ」

急に、ふわっと体が浮いた。天界の使いに抱え上げられたのだ。

天界の使い「説明をお急ぎになるお気持ちはわかりますが…まずは御御足の治療を先に致しましょう」

奴隷(あっ)

天界の使いが見ている奴隷の足には、新しく出来た沢山の傷がついていた。
こんなもの、放っておけば治るのだが…。

天界の使い「自然治癒などはお勧めしませんね。菌が入ってはいけませんからね」

奴隷「……」

今まで自然治癒に任せてきた体だから、今更ちょっとの菌なんて、どうってことないのだけれど。

奴隷「はい…」

天界の使いの温和な笑みについ甘えてしまって、断れなかった。

天界の使い「くすぐったくありませんか?」

奴隷「い、いえ。大丈夫です」

奴隷は切り株に座らされ、治療を受けていた。
天界の使いは薬草を採ると、煎じて治療薬を作り、奴隷の足の傷口に塗った。準備の良いことにポケットの中には包帯が入っていて、それを慣れた手つきで巻いてくれた。

奴隷「何から何まで、ありがとうございます」

天界の使い「いえ。私は貴方に奉仕する者ですから…あ、この説明がまだでしたね」

天界の使いはそう言って苦笑した。

奴隷「私に奉仕…って、どういうことですか?」

天界の使い「そうですね、一言で言えば…天命ですね」

奴隷「てん…めい?」

難しい言葉はよくわからないけど、何か大仰な響きに聞こえた。

天界の使い「貴方は私の声を聞き、私を封印から助けて下さった。ですから私は貴方にご奉仕する、そういうことです」

奴隷「でも助けて頂いたのは、私の方もですし…」

天界の使い「それは、私には貴方を守る義務があるからですよ」

奴隷「???」

よくわからない。

天界の使い「難しく考える必要はありません」

天界の使いはニコッと笑うと、跪いて奴隷の手を取った。

天界の使い「これからは…私が貴方に、ご奉仕させて頂きたいのです」

奴隷「私に…貴方が?」

天界の使い「はい。貴方の側に仕え、貴方が笑う時、喜ぶ時、楽しむ時…その時を貴方と共有したいのです」

奴隷「……」

奴隷の頭に今までの思い出がよぎった。

いつの代からかはわからないが…母も、その母も、その母も…彼女の血筋は、代々奴隷だったらしい。
生まれてすぐに母と引き離された彼女には、温かい思い出がない。
幼い時から虐げられ、暴言と暴力に晒され、尊厳を踏みにじられてきた。

だが暴力といっても、彼女は他の奴隷のように傷跡がつく程の暴力には晒されていなかった。

『お前は美形の両親から生まれてきたそうだからな。見目よく育てれば、高く売れる』

主人の言う通り、奴隷は可愛らしく成長した。粗末な服しか与えられず、雰囲気は貧相なものだが、きちんと髪を整えて綺麗な衣装を着せれば、かなり変わるだろうと評判だった。

主人の妻は嫉妬深かった。そのせいで彼女は主人の妻に難癖をつけられたり、ぶたれたりしてきたが、その代わり、妻の嫉妬を恐れていた主人は、彼女に性的な奉仕をさせたことはなかった。
そのお陰で、彼女の体はまだ男を知らない。それが売る時の付加価値になるとは、彼女自身は知らなかったが。

奴隷(そして、ある日――)

その地方を収めていた権力者が、彼女を見初めた。

売買が成立し、権力者に引き取られる日――彼女は逃亡した。
何故ならその権力者が、恐ろしい目的で彼女を見初めたと知ってしまったから。

奴隷(誰も私を助けてくれない。私が何をされたって、誰も心を痛めてもくれない)

そう、思っていた。

奴隷(だけど――)

これはまるで夢。
自分よりいい身なりをした男の人が奴隷の自分なんかに、奉仕させて欲しいと跪いている。

奴隷「……」

奴隷はもう一度、天界の使いの言葉を思い出す。


天界の使い『貴方の側に仕え、貴方が笑う時、喜ぶ時、楽しむ時…その時を貴方と共有したいのです』


笑う、喜ぶ、楽しむ…奴隷にはあまり縁のない感情だった。

奴隷「泣く時は?」

奴隷は疑問を口にした。

奴隷「辛い時、苦しい時は――」

天界の使い「この私が、貴方を泣かせはしません」

天界の使いは奴隷の言葉を遮る。

天界の使い「辛い思いからも苦しい思いからも、私がお守りすると誓いましょう」

奴隷「……」

優しい言葉。それは本当なのかわからない。
わからない、けど――

奴隷(優しくされたい)

例え、嘘だったとしても。

奴隷(騙されてもいい)

差し伸べられる手にすがりたい。強い背中によしかかりたい。
自分は1人で生きていける程、強くはない。
守ってくれる存在があるなら、守られ、頼っていたい。

奴隷「私を、守って下さい…」

天界の使い「それが貴方の願いならば」

天界の使いは、奴隷の手に口付けした。

こうして2人の間に、誓いが立てられた。

今日はここまで。
いい最終回だっry

シルヴィちゃんを知りませんでした(´・ω・`)
さ、差別化できてるといいなぁ。

天界の使い「こちらです」

天界の使いに案内され、森の奥に進むと、平原があった。

天界の使い「今日からこちらが、お嬢様の住まわれる屋敷となります」

奴隷「屋敷…?」

キョロキョロ周囲を見回したり、目を細めてみたが、やはりここは平原。屋敷らしきものは見当たらない。

天界の使い「失礼。このままでは見えませんでしたね」

天界の使いはくるっと指を回し、奴隷に魔法のようなものをかけた。
次の瞬間、奴隷の目に入ったものは――

奴隷「…わぁ」

平原だったはずの場所に大きな屋敷が建っていた。
少し古風だが外観は綺麗なもので、庭園もきちんと手入れされている。

天界の使い「どうぞお入り下さい」

天界の使いに促され、奴隷が屋敷のドアを開けると大きな広間が広がっていた。そこだけで奴隷が主人の下で与えられていた部屋の、何倍もの広さがある。

奴隷「あの、天界の使いさん…」

天界の使い「あぁ。私のことは執事、とお呼び下さい」

奴隷「執事さん?」

執事「敬称は省いても宜しいのですが…お嬢様の性格上、難しいかもしれませんね」

天界の使い、改め執事は穏やかに笑いながら言った。畏まってはいるが、こちらがかえって萎縮しないように気遣ってくれているらしい。

奴隷「えっと執事さん。このお屋敷を、私と執事さんの2人だけで使うんですか?」

執事「いえ。他にも3名、私の使い魔がおります。その者達が使用人の役目を果たします」

そう言うと執事は、広間の中心に向き直った。

執事「只今帰りましたよ。姿を現して下さい」

執事がそう言うと…


「よぉ執事、久しぶり」
「ウキー!何百年ぶりだろうね!」
「執事不在の間も、ちゃーんと屋敷のお手入れしといたわよー」

3人の使い魔らしき者達が出てきた。
彼らは執事との再会を喜ぶ素振りを見せる一方で、後方にいる奴隷を訝しげに見ている。

執事「皆さん、彼女は今日から私どもが仕えるお嬢様です。挨拶して下さい」

犬男「これは失礼した。俺は犬、どうぞ宜しく」

猿少年「猿です、仲良くしてね~♪ ウキー」

雉娘「私は雉でーす。宜しくね、お嬢様」

奴隷「あ、その…。よ、宜しくお願いします、皆さん」

フレンドリーな出迎えに戸惑いながら、奴隷はペコペコ頭を下げた。
これではどちらが使用人だかわかったものではないが、慣れていないものは仕方ない。

執事「雉、お嬢様の湯浴みの世話を頼みましたよ」

奴隷「え、えぇっ!? ゆ、湯浴みの!?」

雉娘「そりゃ女は私だけですしー。ささ、浴室はこっちですよー」

執事「ではお嬢様、後ほど」

奴隷「あ、あのっ!?」

雉娘「さぁお嬢様ぁ、入りましょーかっ!」

奴隷(あわわ…)

奴隷(わぁー、凄いお風呂)

大理石で出来た浴室というだけで豪華に見えるのに、湯船には花が浮かんでいる。その花が浴室一杯に、いい香りを充満させていた。

奴隷(お風呂場全体があったかい)

奴隷がいた所の風呂とは、大きな釜に水を入れただけの粗末なもので、とても気持ちの良いものではなかった。

雉娘「体を洗わせて頂きまーす。痒いところありませんかー?」

奴隷「だだっ、大丈夫ですっ!」

つい力んで答えてしまった。人に体を洗ってもらうなんて、緊張してガチガチになってしまう。

雉娘「そんな緊張しなくていいのにー、お嬢様ったら可愛らしいんだからー」

奴隷「あ、あのっ」

雉娘「? 何ですかー」

奴隷「雉さんは納得されているんですか…わ、私のような、小汚い奴隷に仕えるなんて……」

雉娘「していますよ」

小汚い、という言葉にも、奴隷、という言葉にも否定も反応もせず、雉娘はケロリと答えた。

奴隷「ど、どうしてですか…? 私なんか…こんなことして貰える身分じゃないのに…」

雉娘「んー。確かに私はお嬢様のことよく知りませんよ。でも、私達が仕えるお嬢様だと執事が言っているんだから、それに従うまでです」

奴隷「……」

よくわからない。
他の2人もそうなのか。だとしたら、執事の発言はそこまで彼らの信頼を得ているのか。

奴隷「むふっ」

ザバッと体全体にお湯をかけられて、もやもやしてた思考が止んだ。

雉娘「体洗い終わりましたよー。ささ、湯船に入りますか」

奴隷「あ、は、はいっ!」

奴隷(はふぅ…)

雉娘は「ごゆっくり」と声をかけると、浴室から出て行った。
きっと他にも色々やることがあるのだろう。

奴隷(なんか……)

温かいお湯は気持ちいいけど、どうにも落ち着かない。
それにお湯の温もりを肌で感じて、今までのは夢じゃなかったんだ、って目が覚めたというか。

奴隷(私…本当にここでお世話になっていいのかなぁ……)

雉娘「お嬢様、そろそろ上がらないとお体に悪いですよー」

奴隷「は、はい、すみません!」ザパッ

雉娘「いえいえ、謝ることじゃありませんよー。平気ならもうちょっと入ってても」

奴隷「いえいえ、上がります! お風呂掃除が押しちゃいますものね!」

雉娘「そんなこと気にしなくていいのにー。あと…」フフフ

奴隷「?」

雉娘「いくら女同士でも、前、隠さないと」

奴隷「あ…っ、し、失礼しましたーっ!!」バッ

雉娘「フフ…もうお嬢様ったらー……」

奴隷(ううぅ~、恥ずかしいよぉ…)

雉娘が体を拭こうとしてくれたが、何だか悪い気がして、バスタオルを受け取って自分で拭いた。
そして浴室から出て、早く服を……。

奴隷「…あれっ」

さっき脱いだ服がない。

雉娘「あ、汚れていたので代わりのものをご用意しましたよー。ほら、これ!」

奴隷「…っ、こ、これは…!!」

雉娘が見せてきたのは、ドレスだった。
青地に白いレースが装飾されており、小さめのリボンは控えめな分、上品さを醸し出している。
裾の長さは引きずる程ではないので、着ても動きにくそうではないが…。

奴隷「む、む、無理ですっ! 着れません!!」

雉娘「あらー、お好みじゃありませんでした?」

奴隷「そうじゃなくてっ! ど、ドレスなんて、私には不釣り合いでっ!!」

雉娘「そんなことないですよー? お嬢様のような方にこそ似合うと思います」

奴隷「でも……」

雉娘「執事が悲しみますよー。自分のチョイスが悪かったのか、って」

奴隷「…執事さんが?」

雉娘「そ。このドレス、執事が選んだんですよー」

奴隷「………」

選んでくれた。執事さんが。私の為に。わざわざ。

奴隷「着ますっ!」

雉娘「あらそうですかー、良かった♪」

奴隷「で、でも、着方がわからないので……」

雉娘「はいはーい、お手伝いしますねー」

犬男「夕飯、あとは盛り付けるだけだぜー」

猿少年「ウキー、お嬢様のお口に合うかなぁ」

執事「犬の料理で駄目なら、どうしましょうかね」

雉娘「お嬢様が湯浴みを終えられたよー」

猿少年「おっ」

雉娘「お嬢様、ホラホラ」

奴隷「~っ、やぁ、いやぁ!!」

執事「?」

よく見えないが、どうやら奴隷は雉娘に腕を引っ張られ、抵抗しているようだ。

執事「雉、乱暴はよしなさい。お嬢様、どうなされましたか?」

奴隷「だ、だって…」

雉娘「もーっ。ほら、さっさと姿見せる!」

奴隷「きゃーっ!」

雉娘がドアを全開にしたと同時、奴隷の姿が露わになった。
雉娘の手できちんとドレスを着付けされ、髪の毛はいじられてふわっとなっており、先ほどまでの奴隷とは雰囲気がまるで違う。

犬男「へー、見違えたな」

猿少年「お嬢様、可愛い!」

奴隷「そ、そ、そ」

そんなことない…と言いたかったが、上手く口が回らない。

奴隷(もうやだぁ)

執事「お嬢様」

奴隷「わ、わ、執事さん…」

執事「奥ゆかしいお嬢様は、どのドレスなら着て下さるか悩みましたが…とてもお似合いで、選んだ甲斐がありました」ニコニコ

奴隷(んにゃあああぁぁ!!)

耳をとろけさせるような甘い声に、一瞬で打ちのめされた。
執事の喜ぶ様子を見て、それだけで後悔は消えた。

奴隷「え、選んで下さって…ありがとう、ございます」モジモジ

執事「私の方こそ、お嬢様が私好みのドレスを着て下さったことに感謝を申し上げたい位です」

奴隷(執事さんたら…)

犬男「おーい、飯は食わんのですかー?」

奴隷「は、はひっ! 頂きますっ!」

奴隷「……」モジモジ

犬男「どうしたお嬢様、食わないんすか」

猿少年「だからカレーはやめとけって言ったじゃん」

犬男「何だとー。俺は庶民派なお嬢様のお口に合うメニューを考えてだな」

奴隷「あ、いえ、その。大好きです、カレー…年に一度食べられるかどうかくらいのご馳走ですよね」

猿少年「いや、そんな、たかがカレー…むぐっ」

執事(黙りなさい猿)「何か気になることでもございますか、お嬢様」

猿少年「むぐー、むぐー」

奴隷「そ、その…皆さんは召し上がらないのですか?」

執事「我々は後で頂きますよ」

奴隷「あのぅ、そのぅ」モジモジ

執事「?」

雉娘「あ、わかったー。自分一人だけ食べるのに気が引けてるんでしょー」

奴隷「は、はい」

主人が食べた後に片付けをして、自分は残飯を貰う。それが以前の生活だった。
そりゃ今は自分が主人の立場かもしれないけど、どうも落ち付かないし、何より彼等に申し訳ない。

執事「気になさらないで下さいお嬢様、我々は使用人ですから」

犬男「カーッ。執事は鈍感で駄目だねぇ、ヤレヤレ」

執事「鈍感? 私が?」

犬男「お嬢様はお一人で食べるのが寂しいんだろ」

執事「寂しい? 我々がいるというのに?」

猿少年「見られてたら食べにくいだろ。バカ?」

執事「…そうなのですか、お嬢様」

奴隷「は…はい」

思っていたことは犬男と猿少年が言ってくれた。
一応主人である自分がこんなこと言うのは、おかしいかもしれないが...。

奴隷「皆さんと一緒に食べたいです…駄目ですか?」

執事「ふむ…」

その後執事は「使用人が一緒に食事を摂ってもいいものか」と渋ってはいたが、彼よりは柔軟なほか三名の賛成により、五人一緒に食事を摂ることとなった。

猿少年「サラダをカレーにぶっこみ~♪ ウキキッ」

犬男「あっ猿テメェ! 俺が綺麗に盛り付けたのを一瞬で台無しにしやがって!」

雉娘「トマトきらーい。執事、食べてー」

執事「了解を得る前に私の皿に乗せないで下さい」

食卓はとても賑やかだった。

執事「お嬢様、大変見苦しい所をお見せしてしまい…」

奴隷「ハフッ、ハフッ」モグモグ

雉娘「お嬢様ー、そんなにがっつかなくても大丈夫ですよ」

奴隷「ハッ! た、大変見苦しい所を…」カアァ

早く食べないと主人に怒鳴られる。そんな食生活で習慣となった早食いが、つい出てしまった。
それに、こんなに美味しいカレーは初めてで…何て卑しいのだろうと、奴隷は自分を恥じた。

犬男「ハハッ、美味そうに食べて頂いて、作った側としては嬉しいっすよ!」

猿少年「お嬢様、カレーにはバナナジュースが合いますよー。はい、どうぞ!」

雉娘「お嬢様、お代わりお持ちしましょうかー?」

奴隷(この人達…こんな無作法な私のことを寛容に受け止めてくれている)

彼等は元々仲間同士で、自分は今日初めて来た者だ。だけどそんな自分を、輪の中にすんなり入れてくれた。
こんなに優しくて温かい時間を、自分と一緒に過ごしてくれている。

奴隷「…っ」

執事「お嬢様?」

それが、たまらなく嬉しくて。

奴隷「皆さぁん」ボロボロ

執事「お嬢様!? どうされました、どこか痛むのですか!?」

奴隷「違うんです…」

奴隷の自分に尊厳なんて無かった。
居場所は主人の下だけで、そこでは誰もが冷たく、厳しくて、優しくなんかしてくれなかった。
それが生まれつき定められた自分の価値なのだと半ば諦めてすらいたのに…。

奴隷「私…本当に、ここにいていいんですか…」

執事「…えぇ。勿論ですよ、お嬢様」

執事はハンカチを取り出し、涙を拭いてくれた。その手つきから伝わる優しさが、余計に涙腺を刺激して。

奴隷「グスッ、ごめんなさい、ごめんなさい執事さん」

執事「何を謝ることがあるのですか」

奴隷「だって執事さん、私を泣かせないって誓ってくれたのに…私、バカだから」

執事「本当にこれは予想外ですよ」

執事は苦笑した。

犬男「そんな気に病まないで下さいよお嬢様、今日から俺らがあんたの居場所だ」

猿少年「本当良かったよ、執事の連れてきた人が、あなたのような方で」

雉娘「そーね。お嬢様になら気持ちよく仕えることができそうだわ」

奴隷「ありがとうございます、ありがとうございます…グスッ」

執事「こちらこそ、感謝しているのですよ。お嬢様」

奴隷「わ、私、執事さんの封印を解いたけど...他に何もしてませんし」

執事「いいえ」

執事は首を横に振った。
その目は憂いを秘めており、そして重く静かに、言った。

執事「私とお嬢様が巡り会えた…その運命に、私は心から感謝しているのです」

今日はここまで。
奴隷「えっ今日は全員カレーライス食っていいのか!」
執事「あぁ…おかわりもあるぞ」
なんて不吉なやりとりが頭をよぎったが死亡フラグは回避したぜ!

その日から彼女は屋敷の一員となった。
広い屋敷で、使用人たちを従える女主人…というのは性に合わなくて、掃除や食器洗い等の仕事を引き受けていた。
彼女を働かせることに対し執事は最初は渋っていたが、活き活きと家事に励む彼女を見てからは何も言わなくなった。

猿少年「媛~」

使用人の中で最も幼い猿少年は、彼女のことを媛(ひめ)と呼んでいた。曰く、美しく、奥ゆかしい女性を指す意味らしい。
自分には勿体無い名前だと最初は遠慮したが、奴隷という名よりも遥かに相応しいと使用人達に押し切られ、今では彼女の名前としての役目を果たし ている。

媛「どうしたんですか、猿さん?」

猿少年「庭に花の苗木を植えようと思ってるんだけどさぁ。女の子のセンスを参考にしたくて」

媛「私のセンスで良ければ」

媛の驕らない性格は、使用人達から好感を持たれていた。

犬男「おっ、お嬢様! いいねぇ~、女の子と花の組み合わせは。癒されるなぁ」

雉娘「あんた、私が花飾りしてても何も言わないじゃないのさー」

犬男「そりゃお嬢様と花の組み合わせは可憐だけど、お前はケバ…ゲフォッ!!」

雉娘「ふんだ。お嬢様ー、後で女子会開きましょ♪」

媛(あ、あはは…)

媛の雰囲気がそうさせるのか、執事以外の使用人は割とすぐに敬語を使わなくなった。
そうなった初めの頃は執事から彼ら に叱責があったものの、媛自らが構わないと許しを出した。

媛(皆は使用人っていうより、お友達みたいだからなぁ)

彼らと過ごす時間に、媛は居心地の良さを感じていた。

媛「執事さん、おやつの用意中ですか?」

執事「えぇ。今日は庭で採れたハーブの紅茶と、クッキーをご用意するつもりです」

媛「うわぁ、紅茶とクッキーだなんて貴族みたい!」

執事「お嬢様も、この屋敷の主人なのですから」

今でも奴隷育ちが抜けきっておらず、度々こういった発言をしてしまうのだが、執事は優しくフォローしてくれる。

媛「私もお手伝いします!」

執事「いえ、お嬢様にそんなことさせるわけには…」

媛「いいんですよ。その代わり、執事さんもご一緒して下さいね」

執事「…ふふ。かないませんね、お嬢様には」

こういう風に無理矢理借りを作らないと、執事はなかなか一緒におやつを食べてくれない。
別におやつの時間を共有せずとも、彼と過ごす時間は沢山あるのだけれど。

媛「美味しい~。サクッという食感と共に、口の中でぱらぱら砕けて甘さが広がって。クッキーと出会った時の感動は、今だに忘れません!」

執事「それは焼いた甲斐があるというものです」

媛は美味しいものを食べてる時間が1番好きだった。1番好きな時間だからこそ、執事と共有したかった。

媛「美味しかったぁ。そうだ執事さん、この後時間あります?」

執事「片付けがありますが、その後でしたら時間は作れますよ」

媛 「それじゃあ花を植えたので、庭園を一緒に散歩しませんか!」

執事「えぇ、よろしいですよ。ではすぐに片付けますので、少々お待ち下さい」

庭園に出ると執事は日傘を差してくれた。
花の香りが漂う庭園を、二人肩を並べて歩く。

媛「私の部屋からよく見える位置に、チューリップの花壇を作って頂いたんです」

執事「おや、お嬢様はチューリップがお好きでしたか」

媛「好きというか、名前を知ってる花があまり無くて…」

花を綺麗だと思う気持ちはあるが、花に関しての知識は皆無に等しい。チューリップは、そんな媛でも知っている花だ。
特別好きというわけではないが、好きな花は、と聞かれた時、咄嗟に出てきた名前だ。
それに、チューリップを見て心が洗われているというのも嘘ではない。

執事「チューリップの花言葉は『思いやり』です。お嬢様に相応しい、優しい花ですね」

媛「詳しいんですか? 花言葉」

執事「いえ。私もチューリップが好きなので」

媛「まぁ」

執事の好きなものを見つけ、嬉しくなる。
自分が心ときめかせるチューリップの花壇を、執事も同じ気持ちで見てくれるのだろうか。

執事「また、チューリップは色ごとに分かれた花言葉もあるのですよ」

媛「へえぇ。私はピンクが一番好きですね」

執事「ピンクのチューリップの花言葉は『愛の芽生え』です」

媛「まぁ。チューリップの見た目通りの、可愛らしい花言葉ですね」

ピンク。女の子らしさの代表格である色。
その色が愛の芽生えなんて初々しくて純粋な花言葉を持つなんて、考えただけでニマニマしてしまうではないか。

媛「執事さんの好きな色は?」

執事「私は白ですね。花言葉は不吉なのですが…」

媛「どんな花言葉です?」

執事「『失われた愛』」

媛「まぁ」

純粋無垢な白色が、そんな意味を持つなんて。不吉というより、意外に思う。

執事「花を見る目が変わりましたでしょうか?」

媛「いいえ。花言葉がどうあれ、白のチューリップが可愛らしいことに変わりはありませんもの」

執事「ふふ、そうですか」

花言葉。素敵だと思うけど、深く考える気はない。
いい意味は大事にしておいて、悪い意味は適当に流しておけばいい。媛にとっては、そんなものだ。

媛「ところで、ずっと聞こう聞こうと思っていたのですけど」

執事「どうされましたかな?」

媛「あの。私が初めて来た時、このお屋敷は見えなかったじゃないですか」

執事「あぁ」

最初見た時、ここには平原が広がっていた。
それが執事が何か仕掛けをして、自分にも屋敷が見えるようになったのだ。

執事「この屋敷は私達の魔力によって、入念に隠されているのですよ。平原も森の中から繋がっている異世界に存在していて、普通はこの場所に辿り着くことすらできない」

媛(あぁ、通りで)

森の奥にあるからだと深く考えていなかったが、媛がここに住むようになってから、屋敷に訪問客が訪れてきたことはない。

執事「迷いの魔法と、異世界への扉と、透明化の魔法。三重の仕掛けがされているお陰で、お嬢様も安心して生活できるでしょう」

媛「はい」

きっと彼等はまだ自分を探している。
だから、執事の言う通り、ここにいれば安心なのだけれど…。

媛「あの、何で何も聞かないんですか?」

執事「何も、とは?」

媛「私が追われていた理由です」

他の3名はともかく、執事は媛が穏やかじゃない連中に追われていたのを知っているはずだ。
普通なら、どうして追われていたのか、気になる所ではないか。

媛「気にはならないのですか?」

執事「ならない…と言えば嘘になりますが」

執事は少し考えて、続けた。

執事「私達は、あの世界との関わりが薄いのです。ですからお嬢様が追われていた理由が何であろうと構わない…という所でしょうか」

媛「それは例え、私が罪を犯していたとしても…?」

執事「お嬢様は悪人ではないでしょう」

媛「っ! こ、心を読みました!?」

執事「いえ。何となく、です。それに…」

執事は温和に笑った。

執事「貴方を守る、と約束したではありませんか」

媛「……」

それは出会った日に交わした約束。あの時の口付けは今なお、思い出すだけで手が痺れる程に記憶に残っている。

怖い。語ることで、彼等が自分の元からいなくなってしまうのではないか。

媛「…いつか、話します」

だけど、このまま黙っておくのは心苦しくて。

媛「それまで…私の覚悟ができるまで、待っていて下さい…」

執事「待ちますよ、いつまでも」

執事の迷わない返答は心強くて、だから彼を失いたくない。
いつか、必ずいつか話さないと…臆病な自分の心が強くなれるよう、媛は強く祈った。

媛(愛の芽生え…かぁ)

夕食後、媛は庭に出てチューリップをボーッと眺めていた。
何の花が好きか、と聞かれた時に咄嗟にチューリップの名前が出たのは、果たして偶然か、それとも花言葉の導きか。


『貴方の側に仕え、貴方が笑う時、喜ぶ時、楽しむ時…その時を貴方と共有したいのです』

『この私が、貴方を泣かせはしません。辛い思いからも苦しい思いからも、私がお守りすると誓いましょう』


媛(執事さんは素敵だなぁ)

あの言葉を思い出すだけで胸がきゅんとして、脳に甘い痺れが走る。
あの時の執事の顔も、声色も、一言一句も、決して忘れはしない。何度も何度も頭の中で映像を繰り返して、甘い気持ちに酔って。

もしも、あの時の口付けが手でない箇所に交わされていたら――自分は拒んでいただろうか。

彼の顔が正面にあって、目と目が合って、息が頬を撫でて――そんな妄想に浸って、素直にときめくことができる。

媛(愛の、芽生え…)

自覚していなかったのは、芽生えたばかりだったからか。
だけど今なら、自分の気持ちがはっきりわかる。

媛(私は、執事さんのことを――)

犬男「お嬢様」

媛「は、はい!」

犬男「あ、ごめんな驚かせて。至急知らせなきゃならんことが起こって」

媛「至急? どうしたんですか?」

犬男「誰かがこの屋敷に近付いてきてる。こちらが張り巡らせた仕掛けをかいくぐってな」

媛「!」

執事は言っていた。この屋敷の存在は入念に隠されていて、普通は近付くことすらできないだろうと。

犬男「その内、屋敷にやってくるかもしれねぇ。何があるかわからねぇから、お嬢様は屋内に入ってた方がいいんでないのか」

媛「……」

もし自分を追ってきた者だとしたら――姿を見られてはまずい。

媛「わかりました、部屋に戻ります。…あの、もし私のことを聞かれても、知らないと言って下さいませんか?」

犬男「はいよ。適当に誤魔化しておく」

犬男は理由を追求することなく答えてくれた。
媛もその後を追うように屋敷の中に戻る…が、戻ろうとして、足が震えているのに気付いた。

媛(もし、捕まったら…)

ゾクリと寒気が走る。
捕まれば地獄に等しい境遇に引きずり込まれる。今ある幸せを失ってしまう――それだけは、絶対に嫌だ。

媛(私は、何もできない…だから、皆の足を引っ張っちゃダメ…)

媛は震えを堪えながら、急ぎ足で部屋に戻った。

媛(怖い、怖い、怖い、怖い――)

部屋に鍵をかけ、へたり込んで震えた。
そして何事も起こらないことを、強く祈った。

今日はここまで。
奴隷の代わりとしての名前に1時間くらい悩んだ末に、媛になりました。

執事「…何の御用ですかね?」

しばらくしてやって来た来客を、執事達は無愛想に出迎えた。
訪れたのは魔物2名。この屋敷を見つけたということは、相当の魔法力の持ち主だろう。

術師「失礼。人里から隠れて生活を送る君らにとって、我々は招かれざる客だったな」

猿少年「実際、招いてないからね」

悪魔「悪かったな。けど、こっちも切羽詰まっててな」

犬男「ふぅん。用件は手短に頼むぜ」


媛「……」

媛はドア越しに会話を聞いていた。
彼等が来る前に執事らが香水を振り撒いてくれたので、匂いでバレることはないとは思うが。


術師「我々が探しているのは、逃げた奴隷の小娘だ」

媛(やっぱり、私を探して…)

雉娘「全く心当たりがないわねー」

猿少年「僕らは、この屋敷の者以外とは極力関わりを避けているんだよね」

犬男「逃げた奴隷が、この屋敷を見つけられるわけねーだろ」

使用人らは誤魔化す。その言葉に不自然な点は見当たらない。

術師「…ふむ。知らないのなら仕方ないか」

悪魔「ホントか~? 嘘ついてんじゃねえだろうな」

執事「嘘などつきませんよ」

悪魔「…その奴隷を探してらっしゃるのは、魔王様だぜ」

執事「!」

犬男「はっ?」

猿少年「魔王?」

雉娘「何だって…」


媛「……」

使用人達の顔は見えないが、きっと驚いたことだろう。
魔王は媛のいた国を治める王だ。決して暴君ではないが、その強大な力は人々に恐れられ、魔王に逆らおうという者はいないという。

悪魔「いくらこの屋敷のあるのが魔王様の統治外で、あんたらはこっちの世界と関わりが薄くても、魔王様くらいは知っているだろう」

悪魔の言葉は脅しを含んでいるようだった。
すなわち、下手に逆らえば魔王が動くかもしれない、ということ。

だが。

執事「そうおっしゃられても、私どもにはわかりません」

執事ははっきりと言った。

執事「お帰り下さい。我々はそちらの世界と関わる気は一切ございません」

悪魔「そうか…」

媛「……」

諦めたような声に、媛は少しホッとする。
彼等が諦めずに無理矢理家探しでもされたらどうしようかと思ったが。

術師「そうだ。帰る前に一つ聞いていいか?」

執事「何でしょうか?」

術師「あんたら、天界の住人だよな?」

執事「…そうですが」

媛「…?」

術師「逃げた奴隷はな…天界の住人の血を引いているんだよ」

執事「…そうなのですか」

術師「話はそれだけだ。また来るかもな…ハハハッ!!」

媛「……」

媛にはそのやりとりの意図がわからなかったが、一つだけ察していた。
それは、魔王の使者達からの疑いは、晴れていないということだった。

執事「お嬢様、もう大丈夫ですよ。彼等はこの世界から抜けました」

少しして、執事がドア越しに声をかけてきた。
媛はすぐにドアを開け、彼を迎え入れる。

媛「執事さん…あの人達、また来るでしょうか」

執事「…恐らくは」

媛「……」

執事「ご心配なく。只今、使用人達で隠し部屋を片付けております。向こうが多少強引な手段を使ってきても、お嬢様の姿さえ見つからなければいずれは…」

媛「執事さんは、怖くないんですか?」

執事「はい?」

媛「魔王を敵に回すかもしれないと知って…怖くないんですか?」

執事「そうですね…怖くない、と言えば嘘になりますが」

執事の顔は落ち着いていた。

執事「私が怖いのは魔王そのものではなく、お嬢様の身の安全が脅かされることです」

執事はこんな時も、媛のことを考えてくれていた。

媛「執事さん…私が魔王に追われている理由、気になりませんでしたか?」

執事「…えぇ。気にならないと言えば嘘になりますね」

媛「私、色んな魔物の血を引く混血種なんです」

執事「ほう…」

今はどの種族も共存しているとはいえ、寿命差も身体能力の差もない同種族同士で結ばれるのがごく一般的だった。
媛は珍しいことに両親ともに混血種だったらしく、引いている血はどの種族のものも薄い為、外見に目立った特徴は表れていない。

媛「でも…魔王はそんな私の体に目をつけたんです」

執事「混血種の体に…ですか?」

媛「はい。魔王の子を産ませる為、らしいです」

媛の声は震え始めた。
これは直接聞いたわけではなく、主人が魔王の使者と話していたのを偶然聞いてしまったものだ。

媛「魔王の血筋というのは凄いらしくて…私に混じっている色んな魔物の力を引き出した子供を産ませることができるらしくって」

執事「それで逃げて来られたのですね、お嬢様」

媛「はい。…それで、話には続きがあって」

執事「?」

媛「魔王の子は胎児の頃から既に凄まじい力を秘めているらしく…強靭な肉体を持つ母体でないと、魔王の子は…」

媛はガタガタ震え始めた。
この先の言葉を言うのが恐ろしい。嫌でも自分が魔王の子を孕むことを想像をしてしまう。

執事「思い出しました…聞いたことがございます」

執事が言葉を遮る。その額には珍しく、動揺の汗が浮かんでいた。

そう、魔王の子は産まれる時――

母親の腹を突き破って産まれてくるのだ。

媛「奴隷は最下層の身分…私、自分は永遠に虐げられるものだと諦めていました。でも、そんな惨い死に方だけは嫌ですっ!!」

ぶたれて育ち、痛みに多少慣れていても、腹を破られるのは怖かった。
その話を聞いて、媛は逃げた。逃げ切れなければ舌を噛んで死ぬつもりだった。そっちの方が、遥かにマシだから。
何も持っていない奴隷なら、せめて死に方を選びたかったのだ。

媛「私、怖いんです…もし捕まれば、私は魔王の子を――」

執事「そんなことはさせません」

執事は強い言葉で媛の弱音を遮った。

執事「あの時の口付けに誓って、例え相手が何者であろうと、貴方を渡しはしません」

執事の目の光りは強い。
彼は初めて会った時も自分を守ってくれた。これからも守り続けてくれると約束してくれた。
相手が強大な力を持つ者だと知っても――

媛「…でも、執事さんの身に危険があるのでは。やっぱり、ご迷惑をかけるわけには…」

半分嘘をついてみた。

執事「危険など承知のこと。承知の上で貴方を守ると誓ったのです」

そうすると欲しい言葉を彼はくれる。

執事「私は命に代えても、貴方を守ってみせます」

彼は媛だけのものであると、誓いを持って証明してくれる――

媛「…執事さん」

自分はそんな彼によりかかってしまう。

執事「はい、何でしょう」

媛「今晩は――私の側にいて下さい」

執事「…お嬢様、ご心配されずとも大丈夫ですよ」

言葉の裏に隠された下心に気付いていない様子で、執事はニコリと笑った。

執事「寝込みをいきなり襲われる恐れはありません。この世界に誰かが足を踏み入れた瞬間、我々は察知し――」

媛「それでも…」

――あぁ、私はこんなにも計算高かったのか。

媛「怖いんです…側にいて下さい」

こう言えば、執事が何て言うかわかっている。
彼はきっと、拒まないだろう。

執事「…承知しました」

ほら。

執事「今夜は私が寝ずの番を致しましょう」

媛「ごめんなさい…」

執事「いえ。お嬢様の安眠をお守りするのも、私の務め」

媛(違う、そうじゃないの…)

――私はずるい。こんな状況すら利用して、彼を側に置きたいと思っている。彼に守られている状況に、快感を覚えている。

媛(私は、貴方を――)

だけどそれは越えてはいけないライン。
もし言葉にすれば、彼は離れてしまうような気がして。

媛「…私を、守って下さい」

そんな言葉でしか、側にいたいって気持ちを伝えることができなくて。

執事「それが貴方の願いならば」

――私は彼を騙す。
臆病な気持ちがずるい気持ちを隠して、怯える目で彼にすがって。

今日はここまで。
守られヒロインが好きです。

執事「お嬢様、白湯です」

その夜、執事は眠れずにいる媛に献身的に接してくれた。
媛の気を紛らわそうと物語の読み聞かせをしてくれたり、寝苦しいならと空気の入れ替えを定期的に行ってくれたり。

それが心地よいけど、足りない。
自分はいつから、こんなに贅沢になってしまったのか。

媛「…執事さん」

執事「何でしょう」

横になりながら執事に声をかける。

媛「手を、握って下さいませんか…?」

――眠れないのは胸がドキドキ言っているから。
だけど安心を欲しているのだと、私はまた嘘をつく。

執事「えぇ。…ご安心下さい、お嬢様」

彼の笑顔、暖かい手。罪悪感で心がぎゅっと締め付けられる。
だけど自分は確かに今、幸せだった。この時間を永遠にしたいと思える位に。

その日の夜は短かった。
彼と触れ合っている時間は、いくらあっても足りなくて。

猿少年「ここが隠し部屋だよ、お嬢様」

翌日、媛の生活する部屋は、絵画の裏側にある隠れ部屋に移された。
使用人達の勧めもあったが、何より媛自身も望んでのことだ。

犬男「一応掃除はしたけど、生活するにはやっぱなぁ…」

部屋の温度は丁度いいくらいだが、隠し部屋なだけあって陽の光が射さない部屋だった。
必要な家具は揃えたものの、何だか軟禁部屋に見えなくもない。

媛「いいですね、ここなら安心です」

雉娘「…本当にここでいーの?」

媛「以前いた所より立派なお部屋です!」

犬男「そっか。不便があったら何でも言ってくれ、できる限り叶えるから」

恐怖心が無くなったわけではないが、前よりは軽減された。
1日の多くをこの部屋で過ごしておけば、使用人達の心配も大分無くなるだろう。

執事「お嬢様、これを」スッ

媛「これは…」

執事「勝手ながら、花を生けさせて頂きました」

色とりどりの花。メインを飾るのは、1番好きなピンク色のチューリップ。

執事「これで部屋の景観も良くなるかと思いまして」

媛「…ありがとうございます」

愛の芽生え。そんな意味を持つ花を彼から受け取るのは、何て甘美なことか。
そんなことを密かに思ってにやけていると、猿少年が不思議そうに首を傾げた。

猿少年「あれー? 媛、そんなに花好きだったっけ?」

媛「はい、好きになりました」

彼への想いが込められた花だから。

媛「色々ご迷惑おかけしますが…皆さん、宜しくお願いしますね」

それだけで、とても元気づけられた。

媛は隠し部屋にいて遭遇しなかったが、何度か魔王の使いがやってくることがあった。

1度どうしてもとしつこく食い下がられたこともあったが、屋敷中を探させて証明したそうだ。
それで納得したのかは知らないが、それから使者が来なくなって一週間が経過した。

媛「スリルありますねぇ」

執事「楽しんでる余裕などありませんよ。こちらはヒヤヒヤです」

媛「ふふ、ごめんなさいね」

だけど彼らの対処法が完璧で、緊張感も抜けてくるというものだ。

媛はというと、部屋で過ごす時間を掃除や裁縫に費やしていて、この生活に順応していた。
使用人達が定期的に部屋に来てくれるお陰で、寂しくもなかった。

媛「でもどうしてここが目をつけられているんでしょうね?」

執事「天界の者は仲間意識が強いと言われております。ですから同じ天界人の血を引いているお嬢様を庇っている、と読んでいるのかもしれません」

媛「なら、他にいらっしゃる天界の方々も疑われているのでしょうか」

執事「どうでしょうね。まず天界を離れている天界人自体がそうそうおりません」

媛「そ、そうなんですか」

初めて知った。自分の無知が恥ずかしい。

媛「あ、なら何で執事さんは天界を離れられているんですか?」

執事「貴方に奉仕する為ですよ、お嬢様」

媛「まぁ」

執事の笑みは珍しくイタズラっぽさを含めている。
これは嬉しい冗談だ。

執事「お嬢様は気にはならないのですか。ご自分に混ざっている天界人の血のことが…」

媛「前にも言った通り、私は混血種ですから。天界人の血も、その中の一つですよね」

執事「…そうかもしれませんね」

媛「あ、でも。執事さん達と同じ種族の血が混ざっているのは嬉しいですよ」

執事「……」

媛は気が付かなかった。執事は笑顔の裏で、複雑な思いを抱いていたことに。

執事「…違う。貴方の血は、もっと尊い……」

媛「え?」

執事「いえ。それより紅茶のお代わりはいかがですか?」

媛「頂きますっ」

魔王の使者が来なくなって更に一週間が経過した。
この頃には当初のような緊張感も大分抜けてきていた。

媛(執事さん、お仕事中かなぁ)

媛自身も恐怖心が抜けてきて、執事が会いに来てくれるのを待つばかりだった。
最近は暇つぶしに編み物を始めてみた。そろそろ寒くなる時期だと思うが、この屋敷周辺にも四季はあるのだろうか。

媛「出来た。あったかマフラー!」

グレー地に、白や黒の縞模様を入れたデザインは男物。

媛(執事さん喜んでくれるかなぁ)


~妄想~

執事『ありがとうございます、お嬢様。お嬢様の気持ちがこもっている分、暖かいです』

媛 『喜んでくれて良かったです…へくしゅっ』

執事『お嬢様、まさか冷えましたか? これを』

媛『これは…マフラー恋人巻き!?』

執事『お嬢様の温もりをお守りするのも私の役目…』

媛『執事さん…熱いです』

執事『温もりを共有しましょう、お嬢様…』

~妄想終了~


媛(ってええぇ、私ったらはしたないっ! でも恋人巻き、いいなぁ)

執事「お嬢様」トントン

媛「きゃあぁ!?」

執事「…? 失礼致しました、出直しましょうか」

媛「いえいえっ! 入って下さい!」

執事「では…失礼します」ガチャ

媛「待ってました、執事さん!」

媛は笑顔で執事を出迎えた。

媛「これ、執事さんにプレゼントです!」

執事「マフラー…私にですか?」

執事はキョトンとしていた。

媛「これから寒くなりますから…あっ、気に入らなかったら犬さんか誰かにあげても」

執事「まさか。お嬢様が私の為に編んで下さったものが、嬉しくないわけないでしょう」

執事は温和に微笑んだ。そしてマフラーを首に巻き、嬉しそうに顔を埋める。

執事「暖かいです。これは重宝しますね」

媛(恋人巻き…は、できそうにないなぁ)

でも、執事の反応を見て、作って良かったと思えた。

媛「寒くなったら、花も枯れてしまうのでしょうか」

執事「そうですね。そして雪が降り花壇を埋めてしまいます」

媛「枯れる前にもう一度、庭園を散歩したいですね」

なんて、ワガママだけれど。執事がこうやって来てくれるだけでもありがたいのだから。

執事「そうですね…魔王の使者が来なくなりましたし、そろそろ出ても大丈夫かもしれませんね」

媛「本当ですか?」

執事「万が一やって来たとしても、この世界の入り口から屋敷までそれなりに距離がありますので、お嬢様が隠れる時間は十分にございます。…勿論、用心するに越したことはありませんが」

媛「でも、私も大丈夫だと思います。そろそろ、外に出てみたいです」

執事「では他の者にも伝え、外出準備をして参ります。少々お待ちを」

そう言って執事は部屋から出て行った。
久しぶりの庭園のデート…考えただけで心がウキウキした。

媛「以前より冷えてきましたね」

久しぶりに外の空気に触れ、季節の変わり目を実感する。
とはいえ、まだマフラーには早い時期だが…。

媛「…」

執事「?」

執事はマフラーを巻いてくれていた。こちらに気を使ってか、冷え性なのかはわからない。

媛(執事さんは痩せてるから、寒さに弱いだけよね。まさか私のマフラーをすっごく気に入ってくれたとか、そんな思い上がりはダメダメ)

執事「では少し散歩しましょうか。今、犬がアップルパイを焼いておりますので、散歩後にティータイムでも」

媛「わぁ、いいですね。アップルパイってサクサクした食感がクセになりますよね」

執事「猿は林檎をそのまま食べる方が好きなようで、摘み食いをして犬に叱られていましたね」

媛「あはは、猿さんらしいですね」

そんな他愛ない話をしながら庭園を歩く。
庭園の花は相変わらず美しいが、景色はあまり頭に入ってこない。

執事「そしてですね…」

場所は関係ない。執事と一緒に歩いていることが重要なことなのだから。

媛(手とか繋ぎたいなぁ)

執事は意識してか、媛と並びながらも一定の距離を常に保っている。
近づきすぎては無礼だ、という配慮が身に付いているのは、いかにも執事らしい。

媛(無礼でも構わないんだけどなぁ)

主人と執事――そんな距離感がもどかしく感じる。
彼は自分の執事だから側にいてくれる。側にいてくれる、それだけで幸せなことなのに、もっともっと近づきたいとも思う。

媛(我慢しなきゃ、我慢)

そんな、執事との距離が近づくなんて――

執事「――っ!!」バッ

媛「えっ!?」

急なことで、媛の頭は追いついていなかった。
だが――

媛「し、し、ししし執事さん!?」

執事は媛の体をその胸に抱きしめていた。

執事「クッ、油断しました」

媛「え…?」

だがロマンスとは程遠い、執事の緊迫した雰囲気を察し、その視線の先を見る。

媛「っ!?」

媛と執事が先ほどまで立っていた位置。そこには、何か黒い光の球が浮かんでいた。

「捕獲失敗…」

媛「えっ!?」

声と同時に球が消える。
執事が振り返り、その動作を追って媛も振り返る。

術師「ようやく姿を現したか。全く、ただ潜んでいるのも楽ではなかったぞ」

悪魔「やっぱりテメーら、隠してやがったんだな」

魔王の使者達がいた。

執事「気配を完全に消して屋敷周辺に潜むなど…まさか、地上の方々にそこまでの芸当ができるとは思っておりませんでしたよ」

術師「天界の奴はやっぱ傲慢だな。お前達が見下している、地上に住む者に欺かれる気分はどうだよ?」

執事「えぇ。最悪です」

悪魔「ケッ。見下していることを否定すらしねぇ」

早くも両者の間の空気は最悪だった。
かと言って、こちらが下手に出たところで何とかなる話ではない。

悪魔「その娘を渡して貰おうか」

執事「お断り致します」

術師「痛い目に遭いたいか」

執事「望むところです。お嬢様の居場所が知られた以上、貴方がたには口封じの必要がありますのでね」

執事はそう言うと懐からナイフを取り出した。

執事「お嬢様、屋敷の中へお逃げ下さい。ここは私が…」

術師「させるか!」

媛「っ!」

四方を囲むように、電気の壁が張られた。
先手を打たれた――これでは逃げるのは不可能。

執事「…仕方ありませんね。お嬢様、そこから動かないように」

今日はここまで。
ヒロインと共闘するヒーローもいいですが、ヒロインを守れるくらい強くて頼れるヒーローが好きです。

術師「ハァッ!」

術師の手から大きな炎が放たれ、執事に襲いかかった。

執事「はっ!」

一閃、ナイフで炎を切る。
執事のナイフに何か仕掛けがしてあるのか、それで炎は消えた。

悪魔「さっすが天界人、芸達者だねェ!! そんじゃ、コイツはどーよっ!?」

執事「!」

悪魔は執事との距離を一気に詰め、長い爪で襲いかかってきた。
ナイフと爪での打ち合いにカンカンと高い音が響いているが、媛の目では追えない。

悪魔「そんじゃ、これはどーよっ!?」バサァ

悪魔は翼を広げ、高く飛んだ。そして――

悪魔「オラアアァァ!!」

超スピードで執事めがけて急降下する。

しかし執事は見切っていた。跳躍してかわし、悪魔は地面を大きくえぐった。

だが――

術師「ハアァッ!」

執事「くっ!」

回避と同時、術師が執事に向けて攻撃魔法を放った。
執事はそれをナイフで切って防御――したように見えたが、

執事「…っ」

媛「執事さん!」

タイミングがずれたのか、執事は肩に怪我を負った。

媛(2対1は不利なんじゃ…)

以前執事が助けてくれた時と数は変わらないが、相手は屋敷のセキュリティを欺く技量の持ち主だ。あの時の相手とは、比べ物にならない。

術師「行くぞ悪魔、こいつを倒し魔王様の願いを!」

悪魔「あぁ、こいつに邪魔はさせねぇ!」

執事「くっ」

術師と悪魔、それぞれの攻撃には対処できていた。
しかし2人がかりで来られると対処しきれず、わずかずつだが執事はダメージを受けていた。

そして――

執事「――っあぁ!」

媛「執事さん!!」

隙を突かれた悪魔の体当たりに、執事は体を吹っ飛ばされた。
ダメージが大きかったのか、すぐに起き上がらない。

悪魔「よし。あとは…」

媛「!!」

悪魔がこちらを睨む。
媛は硬直し、そこから動くことができない。

悪魔「手間かけさせやがって…さぁ、国の為に来い」

媛「い、や……」

後ずさりしようにも、後ろは壁。間違いなく、媛は追い詰められていた。

執事「させるか…お嬢様……」

媛「執事さん!」

執事は肩を押さえながらヨロヨロ立ち上がる。
しかし――

術師「お前は寝ていろ!」

執事「――っ!!」

術師の攻撃により、再び地面に身を叩きつけられた。

執事「くっ、お嬢様…」

それでもなお、執事は立ち上がろうとしていた。
いけない。このままでは、また攻撃を喰らってしまう。

媛(私がその身を差し出せば――)

少なくとも、執事の命は助かる。
だけど、踏ん切りがつかない。

媛(捕まってしまえば、私は逃げることも戦うこともできない…)

あまりにも無力すぎる。身を差し出すというのは、腹を破られて死ぬことに直結する。
執事を殺される位なら、命を差し出す方がマシ。なのにその末路を考えるだけで恐ろしくて、その足が前に進まなくて――

媛(執事さんを助けるには…)

媛は後ろを振り返る。あるのは電気の壁。身を投じれば即死は間違いないだろう。

媛(でも)

それは今自分に残された選択肢の中で、最良ではないか――

媛「…執事さん、今までありがとうございました」

執事「お嬢、様?」

媛の意図がわからなかったのか、執事は疑問符を浮かべていた。
だが、媛が後ろを振り返ると同時――その先を察したのか、声を荒げた。

執事「お嬢様! いけません、それは――」

媛「もう他に手段はないんです。執事さんに生きていて欲しいから」

卑しい奴隷である自分を主人として慕ってくれて、受け入れてくれた。楽しい時間をくれた。尊い思い出をくれた。
ほんの少しの期間だったけど、それだけで幸せなことではないか。

術師「自害か!? させるな!」

悪魔「くっ…」

感謝を述べたいのに、その時間すらない。
だけど、この言葉だけは。

媛「執事さん」

初めて会った時から、私は貴方が――

媛「――大好きでした」

執事「――!」

――私はまた、守れないのか

体がついてこず、執事はそれを止めることができなかった。
媛が電気の壁に身を投じる瞬間、執事の頭の中に様々な思い出が駆け巡った。


『執事、貴方がいるだけで心強いわ』

それは、遠い昔の記憶。

『貴方は私の大切な人』

かつて彼にとって大事な存在だった人。

『私を、守って下さい』

それは失われた愛――


また失ってしまう。
大事な人を、主を、守るべき存在を――


――貴方を、また失ってしまう


執事「お嬢様あぁ――っ!!」


執事は初めて取り乱し、叫んだ。

だが媛は吸い込まれるように、壁に身を投げていった――

「させないよ!」

執事「っ!!」

媛が姿を消した。
壁に焼かれたか――いや、違う。

悪魔「上空だ!」

執事は上を見上げた。すると、そこにいたのは――

雉娘「間一髪! あーヒヤヒヤしたー」

媛「雉さん…」

雉娘が媛の体を掴んで羽ばたいていた。
そして高い木から、何者かが壁の中に飛び込んできた。

執事「全く…遅刻は厳禁ですよ」

執事はその姿を認めると、ほっとしたように冗談めかして言った。

猿少年「ウキー、わっり! こいつらの気配は察知してたけど、こいつら、ここまでの道にも罠を仕掛けてやがって!」

飛び込んできた猿少年は執事を助け起こす。
その間に雉娘は、壁の外に媛を下ろした。

犬男「さて、俺をこん中に運ぶ番だぜー」

雉娘「アンタ重いから、イヤー」

犬男「んだとコラ! 俺は飛べねぇし木にも登れねぇから仕方ねぇだろ!」

雉娘「はいはい。高くツケとくよー」

そんなやりとりの後、犬男と雉娘も壁の中に入る。

猿少年「数ならこっちが有利だよ。まだやるつもりか?」

悪魔「数だけ揃えて何になるよ。テメーら、その執事ほど強くねぇだろ!」

雉娘「まぁねー」

術師「大人しく降伏しろ、そうすればお前達の命は…」

犬男「ハァ? 何でお前達みたいな卑しいのに命乞いしなきゃならねぇんだ?」

術師「何だと。死にたいのか」

執事「こちらの台詞です」

そう言った後、犬男、猿少年、雉娘が執事の前に出て、全員で手を重ねた。

犬男「コレも何百年ぶりだろうな。お前ら、やり方忘れてねぇだろうな?」

猿少年「まさかー。『本来の姿』を忘れるわけないじゃん」

雉娘「ここまでしておいて負けないでよ、執事」

執事「お任せ下さい。貴方がたの力は、きちんと受け取ります」

3人の重ねた手から魔力のようなものが溢れる。
何かが起ころうとしているのは、媛の目にも明らかで。

術師「何だかわからんが、させるか!」

術師は攻撃魔法を続けて打ち込んだが、

悪魔「ゲッ。何だと…」

その魔法は、3人の魔力によって打ち消された。


犬男「これぞ俺らの真の姿!」

猿少年「我らは天界の使いを守護する者!」

雉娘「今、擬人化の魔法を一時解除する!」

そして辺り一面は光に包まれ――

媛「何、あれ…」

そこに3人の姿はなく、代わりに執事の手に、荘厳な剣があった。

執事「この剣こそが3人の真の姿…普段は3つの使い魔に姿を変えていますが」

そう言っている間にも撃ち込まれる攻撃魔法を、剣はその光で打ち消していく。

執事「無駄ですよ。この剣は魔法効果を打ち消す盾にもなる」

悪魔「クッソ!」

今度は悪魔が飛び立ち、執事に向かって急降下していく。

悪魔「そんなデケェ剣、テメェの細腕で…」

執事「扱えますよ」

悪魔「っ!」

一瞬にして、剣は悪魔の喉元に突き付けられた。

執事「彼らは私の使い魔。剣となっても、私の手足としての力を発揮してくれるのです」

術師「反則だろ、それは…」

執事「あぁ。地上の方々には反則に感じるのですね」

執事は余裕すら浮かべて嘲るように笑う。
勝ちを確信したんだ――媛は悟った。

執事「終わらせて頂きます」

執事は剣を構え、敵に突っ込んで行った――

だが。

執事「――っ」

剣は途中で止められた。

術師「あ…」

悪魔「っ」

敵も剣に対する対処法がなく、執事の勝利は確定した――そう思えたのだが。

媛「え…っ」

執事は説明しなかったが、その剣は地上において切れぬものは存在しないとも言われていた。

その剣を止められる者がいるとすれば、それは――


魔王「…ふむ、見事な剣だ」


地上において最強に近い存在だけだろう。

今日はここまで。
戦闘シーンは苦手なので長くはしません。

執事「…魔王ですか?」

執事は動揺を見せずに言った。
目の前の相手の正体に気付いたのは、その者の放つ威圧感のせいか。

魔王「いかにも。勝手ながらこちらの世界に入らせて貰ったぞ、天界の者よ」

執事「魔王と言えど、不法侵入は許せませんね」

穏やかな様子の魔王とは対照的に、執事は殺気を隠しもしない。その様子が、2人の余裕の違いを表しているようだった。

魔王「まぁ待て。我は戦いに来たわけではない」

執事「戦わず降伏しろということか。お嬢様を貴様に渡しはしない」

魔王「ふぅ」

まるで聞き分けの悪い子供を相手しているかのように、魔王は困っている様子だ。

魔王「我もその娘を必要としているのだ」

執事「それはお嬢様の意に反します。何より、お嬢様に貴様の子など産ませるものか」

魔王「なら」

魔王は考える間もなく言った。

魔王「子を産ませなければ譲ってくれるか?」

執事「…何だと」

媛「はい…?」

その信じられない言葉を、頭はすぐに理解しなかった。

魔王「もう一度言う。我はその娘に子を産ませるどころか、一切手出しはしない」

執事「…何のつもりだ」

魔王「そもそも、どこからその様な話が出てきたのだ。我は元より、そんなつもりはない」

媛「えっ」

媛は思い返した。確かに直接そう言われたわけではないが…。

媛「ご、ご主人様が話しているのを偶然…」

魔王「なるほど。つまりお主の主人の妄言を真に受けたということか」

媛「妄言…えっ!?」

わけがわからなかった。

魔王「魔王自らが奴隷を見初め、買い取るとなっては、その様な誤解が生まれるものか。心外だな」

執事「だとしたら、貴様はお嬢様に何をするつもりだ?」

魔王「お主、天界を離れているのか?」

執事「…えぇ。天界を離れ300年になる」

魔王「…そうか。お主が、『天女の執事』か」

執事「…」

媛(天女の…?)

初めて聞く名に媛は困惑した。

魔王「300年前――この世界は今以上に荒れ果てていた」

魔王は突然話し出した。
世界の現状。飢饉と死病に侵された時代だというのは、無学の媛でも知っていた。

魔王「そこで天界より、この世界を救済すべく、1人の女が執事を伴って降りてきた。それが、天女だ」

媛「じゃあ、執事さんは…」

執事「…えぇ。天女様に付いて、私はこの地上へ降り立ちました」

今まであまり気にしたことも無かったが、執事がこの世界にいるのには理由があったのか。
だが、同時に疑問が生まれた。確か執事は、この世界に封印されていたはずだが――

魔王「天女の祝福により、作物は実り、死病は鳴りを潜め、世界には祝福がもたらされた」

執事「あの方は、この世界を想っておいででしたからね」

魔王「あぁ。天女がいなければ、世界は滅んでいただろう」

執事「…そんな天女様を」

一旦落ち着いたかに見えた執事の様子がまた変わった。
目は憎しみに染まり、今にでも目の前の魔王に飛びかからんばかりに。

執事「貴様等、地上の者は裏切った! 最悪の形で!!」

魔王「…」

媛「裏切った…?」

魔王「天女は地上の女には持ち得ない神秘性を秘めた、美しい女だったと聞く」

まさか。

魔王「時の権力者達は天女に欲情し――陵辱した」

媛「!!」

正に執事の言う通り、最悪の形の裏切りだった。

執事「天女様は心を壊し、そして亡くなられた」

執事は嘆く。主人を陵辱された彼の心の傷は、今なお癒えていない。

執事「私は天女様を守りきれず、地上の者らによって封印された。だが封印されている間も、貴様等地上の者への憎しみは収まらなかった」

魔王「…天女の祝福を失った世界は、再び荒んでいった」

執事「全て自業自得というものだ」

執事は冷淡に言い放った。
その言葉に、魔王は心を痛めたようにうつむく。

魔王「天女を率先して陵辱したのも、お主を封じるよう部下に命じたのも、我の先祖だ」

そう言えば、執事が封印された場所も魔王の国だった。
と考えた所で、媛の頭をピリッとした痛みがはしった。

媛(あれ…? 私、その話…)

執事「貴様は天女様を汚した者の子孫だ。天女様の次はお嬢様を奪って、何をしようと言うのだ」

魔王「我は、天界に許しを請うた。天界の祝福なくして、この世界はもう存続できぬ」

執事「調子のいい。地上などそのまま滅びてしまえば良いだろう」

魔王「同じことを言われた。だが我は何年もかけて嘆願してきた」

媛(魔王自ら?)

媛は魔王のことをよく知らなかったが、襲撃も裏切りも許さぬ程の力と威圧感を持つ王だと聞いていた。
だから魔王に対して恐ろしいイメージを抱いていだが、まさか魔王自ら天界に許しを請い、嘆願するとは…。

魔王「そして天界の者は、我らを許す条件を提示した」

執事「その条件とは?」

魔王「…この世界にいる、天女の子孫13人を集め、天界に返すことだ」

媛「!!」

確か、自分は天界人の血を引いているとの事だった。
では、魔王が自分を求めていた理由とは――

媛「私が天女の子孫…ということですか?」

魔王は頷いた。

魔王「我が見つけた天女の子孫はお主で6人目だ。なるべく穏便に連れてこいと部下には命じていたのだが…」

術師「申し訳ありません、魔王様」

悪魔「穏便に伝えても渡してくれそうになかったもので」

執事「…あぁ。貴様等は信用ならないのでな」

媛「あ、あのっ」

場違いかと思ったが口を挟む。
魔王の言っていることが本当なのか、執事同様、まだ信じられないのはあるが――

媛「それなら、そうと全世界に通達すれば良いのでは! そっちの方が絶対スムーズに…」

魔王「それこそ悪手だ」

魔王はきっぱり言った。

魔王「一部の権力者には、世界の現状をこのままでと望んでいる者もいる。悪知恵の働く奴なら、天女の子孫を人質に天界に交換取引を持ちかける奴もいるだろう」

媛「えーと…?」

執事「地上の者は救いようのない者ばかりということです」

それは違うのでは、と思うが、地上の者を憎む執事の気持ちを思うと、簡単に否定はできない。

魔王「こちらが勝手なことばかり申しているのはわかっている。だが我はそれでも、この世界を救いたい」

媛「わっ!?」

魔王はついに頭を下げた。
あの、恐怖の魔王が。奴隷の自分なんかに。

魔王「頼む…この世界を救う礎となってくれ」

媛「私…は…」

媛「――」

その時、媛の頭の中に映像が浮かんだ。
それは屋敷でもない、地上でもない、ここではない情景。


『地上の世界を救うべく、参りましょう』

懐かしい声がした。

執事『はい、天女様』

――執事さん?

天女『地上は荒れ果てていると聞きます…ですが必ずや、地上の人々を救ってみせましょう』

この声の持ち主は――

天女『執事、私には貴方だけが頼りです』

――あぁ、思い出した。


天女『私を、守って下さい』

執事『それが貴方の願いならば』

一旦ここまで。残りは今日中に投下します。
どうぞお待ち下さい。

媛「あ、ああぁ…」

執事「お嬢様?」

全て思い出した媛は涙をぽろぽろ流していた。
信じられない話が全て事実だと、ようやく実感した。

媛「執事さん…貴方は前世でも、私を守って下さいましたね」

執事「お嬢様…! 前世の記憶が…」

媛「えぇ、思い出しました。私は地上を救うべく、天界より降り立ったんです」

天界の者達は、できるわけないと笑っていた。
だけどそんな仲間達を振り切り、自分は降り立った。

地上の世界での生活は決して楽ではなかった。
荒んだ心の人々に混じり、痛い目に遭うこともあった。
それでも世界を祝福し、人々に笑顔が戻るまで耐えることができたのも――

媛「私が笑う時、喜ぶ時、楽しい時、泣く時、辛い時、苦しい時――貴方は側にいてくれた」

執事「…貴方の側にいることが、私の幸せでした」

執事は哀しげに笑う。
その目は媛ではなく、天女を見ているのだろうけれど――

執事「私は――貴方を愛していました」

媛が最も欲しかった言葉を彼はくれた。

魔王「そうか、お主は天女の生まれ変わりでもあったか…我の先祖がすまないことをした」

媛「貴方のやったことではありません。気に病む必要はありません」

天女を陵辱した者を憎む気持ちがないと言えば嘘になるが、少なくともこの魔王のことは、許しておくべきだと思った。
そして、決断する。

媛「私が地上に降り立ったのは、地上を救う為――その力を失いはしましたが、礎のひとつとなることはできる」

執事「!」

魔王「では…」

媛「帰ります、天界へ」

執事「お嬢様、お待ち下さい!」

執事は焦った様子で媛を止める。

執事「地上の者はきっとまた天界を裏切る。救いなどくれてやる必要は…」

媛「地上は『私』の生まれた世界です」

執事「ならば尚更。地上の世界はずっとお嬢様を虐げてきたではありませんか。そんな世界でも救うと?」

媛「はい」

媛ははっきりと言った。

媛「私は決して、地上の世界が好きなわけではありません。最下層の奴隷に生まれ理不尽な目に遭って生きてきた。それでも…」

天女と媛。2人分の気持ちがごちゃまぜになって、考えはまだまとまっていないけど――

媛「見てみたいんですよ。救われたこの世界を」

執事「お嬢様…」

まだ地上に来たばかりの頃か。
その頃は、天女の話に耳を傾けず、石を投げてくる者も多かった。
執事は怪我を負った天女に、もう帰ろうと言ったことがある。

天女『いいえ、私は地上を救いに来たのだから』

だけど天女は考えを曲げなかった。

天女『彼らの心が荒んでいるのは、世界が荒んでいるからですよ』

天女『救われればきっと、世界は笑顔で溢れてくれる』

天女『私は、救われたこの世界を見てみたいのです』


生まれ変わっても、天女の魂は消え失せていない。
そればかりか、荒んでいた執事の心に、再び光を与えてくれた。

執事「貴方という方は、本当に――」

――本当に、誰よりも輝いているお方だ。


執事は媛に跪き、手を取った。

執事「天界の者は排他的な所があり、地上の者の血の混ざっていらっしゃるお嬢様を温かく迎えてくれるとは限りません」

天女の子孫を返せ、という要求も、決して彼らを天界の住人として受け入れるということではなく、魔王に対する重圧のつもりだろう。
天界に帰り、どんなことが待っているかは執事にもわからない。だが――

媛「私を、守って下さい」

彼女がそれを望むのなら――

執事「それが貴方の願いならば」

奉仕するのが、自分の役目だから。

それから媛は天界に帰ったが、案の定、天界は彼女を快く出迎えはしなかった。
彼女に与えられたのは天界でも郊外にある地。これは事実上の排他である。

執事はそこに屋敷のある世界への入り口を設け、媛は今まで通り、屋敷で生活することとなった。

猿少年「媛ーっ、おやつだぞー!」

犬男「ティータイムにバナナをそのまま出す馬鹿がいるかーっ!」

雉娘「その馬鹿におやつ係任せたのは誰だよ」

媛「あはは。バナナも好きですよ」

この程度の冷遇、屋敷での生活を満喫している彼らにとっては冷遇の内にも入らない。

執事「只今戻りました」

媛「あ、執事さん。どこ行ってらしたんですか?」

執事「庭園にあるものを倉庫に片付けておりました。雪の季節が近づいていますからね」

媛「寒い中、お疲れ様です。皆さんとお茶を頂こうと思っていたんですが、執事さんもいかがですか?」

執事「では、お言葉に甘えて」

猿少年「ティータイムの時はマフラーとれよー」

執事「あぁ。そうですね、これは汚してはなりませんからね」

媛「ふふっ」

彼らの生活は、以前と何ら変わらなかった。

媛(だけど…)

ひとつ、やり残したことがあった。

執事「ふぅーっ」

これから来る冬に備えて薪を集めていたら、すっかり遅くなってしまった。

媛「お帰りなさい、執事さん」

執事「お嬢様。まだお休みになられていなかったのですか」

媛「えぇ。何だか、眠れなくて」

執事「左様ですか。白湯でも淹れましょうか?」

媛「いえ、遠慮しておきます。それより…」

執事「それより?」

媛「私の側にいて下さいませんか?」

執事「…」

執事はキョトンとした。

執事「お嬢様、もうお嬢様を追う者はいないのですよ。ですから安心して…」

媛「執事さんに、お話があって」

執事「お話…ですか?」

媛「はい」

執事「ここでは出来ぬ話ですか?」

媛「私のお部屋で」

執事「かしこまりました。では、お部屋で」

部屋に入り、2人きりとなった。媛は何だか落ち着かなくてそわそわしているが、そんな様子を見て執事は首を傾げる。

執事「どうなさいました? お嬢様」

媛「あっ、あの……」

呼び出したはいいが何と言っていいのか。

話の切り出し方に迷って…あることを思い出した。

媛「こ、これ! 受け取って下さい!」

執事「これは…生け花ですね」

媛「庭園のお花はもうすぐ枯れてしまいますから…そうなる前に、生けてみたんです」

執事「赤いチューリップ…ありがとうございます。私の好きな花を生けて下さるとは」

媛「花言葉、調べてみたんです」

執事「……」

媛「執事さんなら…赤いチューリップの花言葉、知っていますよね?」

執事「……えぇ」

天界に来てからも、2人の距離感は変わらなかったけれど。

1度互いに言った気がするけど、うやむやになったままだ。

だから、改めて言わねばならない。

執事「『愛の告白』」

花の力を借りて、もう1度言う。

媛「いつからかはわからないけど――」


執事『後はこの私が貴方をお守り致します、お嬢様』


媛「貴方は私を初めて守って下さった方で」


執事『説明をお急ぎになるお気持ちはわかりますが…まずは御御足の治療を先に致しましょう』


媛「私に優しくして下さいました」


執事『貴方の側に仕え、貴方が笑う時、喜ぶ時、楽しむ時…その時を貴方と共有したいのです』

執事『この私が、貴方を泣かせはしません。辛い思いからも苦しい思いからも、私がお守りすると誓いましょう』


媛「貴方から誓いを受けた時、私は既に貴方に心を奪われていました」

目覚めた愛は自覚した後もなお、秘めていた。

だけどもう、想っているだけじゃ我慢できない。側にいるだけじゃ足りない。

媛「私は、執事さんが好きです」

執事「……」

執事「女性の口から言わせてしまうとは、一生の不覚――」

執事は苦笑した。

執事「1つ言い訳をさせて下さい。私は封印されていた時から、貴方が天女様の生まれ変わりであるとわかっておりました」

媛「えぇ」

そのことを今まで執事は語らなかったが、そうだろうと思っていた。

だから初対面の自分をお嬢様と呼び、守ると誓ったのだ。

執事「私はかつて、天女様を愛しておりました――ですが」

執事は真っ直ぐ媛を見据えた。

執事「お嬢様と生活を送る内、貴方は天女様ではない、天女様とは別の、お嬢様という存在であるのだと意識が変わっていきました」

赤いチューリップを媛に差し出す。執事もまた、花の力を借りていた。

執事「私もお嬢様をお慕いしております。主としてだけではなく、1人の女性として――」

媛「執事さん……」

執事「っ」

媛はそっと執事の胸に体を寄せる。

執事は恐る恐るといった様子で、彼女の体を抱きしめた。

媛「もっと強く抱きしめて下さい」

執事「心配なのです…繊細な貴方を壊してしまわないかと」

媛「私は壊れませんよ。貴方が愛して下さる限り」

執事「お嬢様……」

目と目が合う。2人の目は夢を見ているように朧げだが、確かに互いの想い人を見つめていた。

媛「誓って下さいますか、執事さん」

執事「貴方が望むことならば」

媛「私を――永遠に守って下さい」

執事「それが貴方の願いならば――いや、」

執事から媛に口付けを交わす。唇へのキスは愛の誓い。

触れるように優しくて、それでいて情熱を秘めている唇は、しばらくの間離れることはなかった。

情熱がまだ冷めぬ頃、執事の方から唇を離した。言わねばならないことが残っていた。


執事「永遠に貴方を守る――それは、私の願いです」



Fin

ご読了ありがとうございました。また機会があれば執事ものが書きたいです。

過去作も宜しくお願いします
http://ponpon2323gongon.seesaa.net/

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