穂乃果「でも、死ぬような病気じゃないんでしょう？」

真姫「そうだけど。死ななければいいってのは医者として見過ごせる発言ではないわね。医者は患者を健康にする義務があるの」

穂乃果「そうはいってもさぁ。薬飲まないとやってけないし……」

真姫「すぐにやめる必要はないから、少しずつ量を減らしなさい。そうすれば改善されるから」

穂乃果「……頑張っては見るよ」

真姫「そうして頂戴」

真姫「（……まぁ、無理でしょうけど）」

真姫「これから仕事？」

穂乃果「うん。午後から出ないと、仕事山積みだし」

真姫「あまり、根を詰めすぎないようにね。あなた、昔からそういうところあるから」

穂乃果「私が頑張らなくていいなら、こんなに頑張ってないよ」

真姫「……そう」

穂乃果「今日はありがとね。診てくれて」

真姫「医者として当然のことをしたまでよ」

穂乃果が勤めている会社

穂乃果「おはよーございます」

「…………」

穂乃果「……はぁ」

穂乃果「今日も仕事いっぱいだねぇ……」

「…………」

穂乃果「……やんなっちゃう」

穂乃果「（頑張らないなんてできっこない。少なくともこの会社にいる限りでは）」

穂乃果「（この会社にいる殆どの人が、この会社のことなんてどうでもいいのだろう）」

穂乃果「（働いているのは一部の人だけ。そして、その一部の人がこの会社を動かしてる）」

穂乃果「（私たちが頑張らないと、この会社は潰れてしまうだろう）」

穂乃果「（潰れてしまえばいいと言えたなら。どんなに楽だったんだろう）」

「ここね」

　真姫はスマートフォンにメモした住所と、目の前の住居を見比べて呟いた。
　時刻は深夜12時近く。当然のごとく周囲は真っ暗で、手元のスマートフォンだけがぼんやりと光っている。
　高坂、と記されたプレートがつけられた郵便受け。そこにはこれでもかというほど新聞紙が詰められている。一つ引っ張り出してみると、日付は数年前のもの。

「なかなか深刻みたいね」

　穂乃果が真姫の元へ訪れたのは今朝のことである。友人として、ではなく患者として。曰く、母乳が出るようになったと。
　抗うつ剤を原因とした高プロラクチン血症。早い話が穂乃果はうつ病に罹るほど追い詰められているということで。
　友人として見過ごすわけにはいかないのだ。ここ数年はあまり連絡を取っていなかったが、それでも穂乃果は真姫の親友である。

「どうしようかしら」

　少しだけ迷って、インターホンを押す。近所迷惑になるだろうな、というのが頭をよぎる。瑣末ごとだと切って捨てる。
　……返事はない。二度、三度押したところでそれは変わらない。
　まだ帰っていないのか、寝ているのか。それとも反応する気力もないのか。

「……よし」

　そっと玄関のノブに手を伸ばす。ひんやりとした金属のそれを握り、ゆっくりと回して、引っ張る。
　カチャリ、と軽い音を立てて、扉は呆気なく開く。

「……無用心ね」

　私のいえることじゃないけど、と真姫は自嘲し、玄関の中へと足を進める。
　内部は、灯り一つない暗闇だった。